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「法律や政策は、単なる決め事である。いつでも変えられる」第1部
482
:
正樹
◆6z10n91cnw
:2008/09/15(月) 20:46:57
『天木直人のブログ』
http://www.amakiblog.com/
2008年09月13日講和条約締結を前にしてなぜ吉田茂は不機嫌だったのか
読売新聞が毎週土曜日に連載している堤清二(辻井喬)の回顧録には、
時として興味深い歴史の断片が語られることがある。
9月13日のそれにも、つぎのような興味あるくだりがあった。
・・・吉田茂は講和条約締結の一週間ほど前からひどく不機嫌になった
ということなど、いつも興味のつきない話が、主に吉田健一(吉田茂の長男、
英文学者)から出されるのであった・・・
これを読んだ時、私はすぐに、豊下楢彦著「安保条約の成立ー吉田外交と天皇外交」
(岩波新書)を思い出した。
いわゆるサンフランシスコ講和条約は日本にとって極めて寛大な条約だった。
その条約を吉田茂は高く評価していたはずだ。それなのに
なぜ吉田茂は首席全権代表を強く拒んだのか。
この疑問に豊下教授はその著書で見事な推論をしてみせる。
それは一学者の推論であるが、膨大な資料に基づいた限りなく真実に近い推論である。
講和条約に署名したくなかったのではない。その直後に控えていた
日米安保条約に署名する事が嫌だったのだ、と。
そして、豊下教授は、少しでも対等な条約をと、粘り強い交渉を
重ねた吉田茂に対し、天皇の戦争責任をせまるロシアの影響を恐れた
昭和天皇が、日米安保条約の早期締結を命じ、出席を渋る吉田茂に、
はやく出席し、署名するように、と迫ったからだ、と推論する。
だからこそ吉田茂は、日本国民や国会はもとより、全権代表団にさえ
安保条約の実態を知らせることなく、責任をみずから一人に負わせる形で、
サンフランシスコ郊外の米軍兵舎に一人赴いて署名したのである。
今日に至る戦後63年の日本を規定してきた日米安全保障体制は、
昭和天皇と米国の利害が見事に一致して作られたのだ。
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