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東日本大震災

1NONAME:2011/03/17(木) 20:10:10
生存あきらめた家族と再会 「おっとうのホッペつねってくれ」
2011.3.17 11:04   http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110317/dst11031711060029-n1.htm

避難所の志津川小学校体育館で、壁に張られた伝言メモなどから知人の名前を探す藤島博之さん=16日午後、宮城県南三陸町(高久清史撮影)

約8千人の安否不明者が出ている宮城県南三陸町。避難所の志津川小学校体育館で、同町の調理師、藤島博之さん(53)は壁に張られた避難者の名簿に見入った。高橋修、篤子、陽一、和也…親友一家の名前はない。「高橋修さんはいますか」と叫んだが、人々は首を横に振った。

高橋さんの自宅は跡形もない。だが「必ず会える」とあきらめない。自分も離ればなれになった家族と再会できたからだ。

68NONAME:2011/04/19(火) 20:38:24
アグネスの行動はいつも偽善行動だろ、ソマリア快適旅行か いつもだぜあれは
女性自身あたりが持ち上げたがる 野田聖子は白人の卵 騒動か 笑わせてもらった、この大震災で
孤児がたくさん出て金銭的にもだが精神的にもトラウマかかえてるって震災孤児
でも面倒みればいいのによ。日本ユニセフ ネットで騒動にならなかったら
知らん振りしてんだろうぜ。

69NONAME:2011/04/20(水) 13:36:46
アグネスの霊感商法トラブルは「反アグネス派の陰謀」!?
http://news.livedoor.com/article/detail/4989891/

アグネス・チャン(55)が、自身の事務所が運営している商品販売サイト「Chan's」の一部商品について、早稲田大学名誉教授の大槻義彦氏から「霊感商法同然」「薬事法に抵触する恐れもある」と指摘を受けた。

 指摘を受けたのは「さまざまな病気を予防する効果がある」とうたった健康食品『五色霊芝』と、風水の効果で運気が上昇するという『パワーストーン』。パワーストーンは3,780円、五色霊芝は1カ月分が約2万円で売られており、アグネスが顔写真入りで商品の利用を勧めていた。

 アグネスは自身のブログで「霊感商法は大嫌いです。絶対にやりたくないです。薬事法抵触の事も全く知らなかった」「私は有害なオカルトは反対。クリスチャンなので、オカルト関連の活動など全くしていません」と弁明。さらに「アグネスから皆様へ」と題したエントリで「お騒がせしている事を心からおわび申し上げます」と全面的に謝罪した。

 だが、大槻教授は「『誤解を与えた』などということは大嘘。霊感商法は彼女が確信してやってきたこと」と再び批判し、ネット上でも「霊感商法が嫌いとかは問題じゃなく、実際に自分がやってことが批判されてるんだろ」「クリスチャンだからってのは関係ない」などと厳しい声が挙がっている。

 この一連の騒動をスポーツ紙が一面で報じたが、アグネスの夫で所属事務所の代表でもある金子力氏が、同紙の取材に対し「児童ポルノ法改正に反対している人たちに、大槻教授が乗せられてしまったのでは」などと発言したことから、再び騒動に火が点いた。

 アグネスといえば、日本ユニセフ協会の大使として児童ポルノ根絶に尽力しているが、実際に被害者のいない二次元の児童ポルノ表現にまで規制を広げようと法改正を主張し、規制反対派から批判を受けている。

 規制反対派によるアグネス潰しの陰謀とでも言いたげな金子氏の発言に、ネット上では「何でもかんでもロリコンのせいにするな!」「誰が炊きつけたとか関係なく、自分が悪い事したんだから謝罪すべきなのに」などと、以前にも増してアグネス側への批判が集中。

 実際、アグネスを快く思っていない人物が大槻教授に"タレコミ"をしたようだが、だからといって霊感商法まがいの行為が許される理由にはならない。

 ネット上ではアグネスに対する批判が高まる一方となっているが、大槻教授は自身のブログで、一部の反アグネス派の過激な発言にも警鐘を鳴らした。

「私どもの批判に対して、様々な意見がWEB上を飛び交っている。それだけ反響が大きかったと言えるのだが、その中で見逃せない文章が多数見られる。それは、アグネス批判をするあまり、民族差別・女性差別的な言葉である。この成熟した社会だからこそ、この種の霊感商法批判も自由にできるのだが、それを逆用して差別的言動をするのは許せない」

 一部の心無いネットユーザーが、アグネスに対して「中国へ帰れ」中国人が日本人に指図するな」などと本題と離れた勝手な発言をしており、それを憂いているようだ。

 霊感商法にしても表現規制にしても、どちらもヒステリックになりがちな問題だけに、無用な差別発言を生まないような冷静な態度が求められる。アグネスの今回の騒動は十分にイメージダウンとなったが、ネット上の過激な発言を一般人が目にすれば、規制反対派の人格が疑われる。もどかしさのあまり感情に任せて相手を傷付けても、何の解決にもならないということを忘れるべきではないだろう。
(文=ローリングクレイドル)

70NONAME:2011/04/21(木) 04:00:37
氷室京介、初の全曲BOΦWYライブ開催 復興支援で23年ぶり楽曲披露 http://www.oricon.co.jp/news/music/86737/full/

 ロック歌手・氷室京介が東日本大震災の被災者支援のため、全曲BOΦWYの楽曲で構成するチャリティーライブを東京ドームで行うことが17日、わかった。1988年のバンド解散以降、全てBOΦWYの楽曲でライブを行うのは今回が初めて。23年間歌うことのなかった楽曲も披露する予定となっており、収益の全額を復興義援金として寄付する。

 当初、氷室の50歳のアニバーサリー公演を予定していたが、震災が起こったため公演内容を変更。復興支援ライブ『KYOSUKE HIMURO GIG at TOKYO DOME “We Are Down But Never Give Up!!”』として6月11日に開催することが決定した。一世を風靡し、未だ多くの支持を得ているBOΦWYの楽曲を、ボーカルの氷室が今歌うことで多くの人のエネルギーになれば、と企画された。東京ドームでの公演は電力消費の問題などもあるが、可能な限り節電に配慮し、最小限の電力と機材で行う。

 ソロ23年、バンド時代6年の約30年の氷室のキャリアの中で、岩手県、宮城県、福島県は幾度となく全国ツアーやライブイベントで訪れた、縁の深い地のひとつ。今年1月にも盛岡、仙台、郡山にツアーで訪れたばかりとあって、被災地の映像を見て愕然としたという。

 氷室は「互いの気持ちと力を合わせて支え合う運命の時 微力ではあるけれど俺なりに 過酷な状況下でいまも闘っている皆さんを応援したいと思います We are down but never give up!」とコメントを寄せている。

 BOΦWYは氷室(Vo)、布袋寅泰(G)、高橋まこと(Dr)、松井常松(B)によるロックバンド。1981年に結成し、翌年アルバム『moral』でメジャーデビュー。アルバム『BOΦWY』(1985年)から次第に確固たるバンドのサウンドを打ち出し、代表作は「Marionette」「B・BLUE」「わがままジュリエット」など。1988年、ファンに惜しまれながら東京ドーム公演を最後に解散した。

71NONAME:2011/04/21(木) 04:19:00
韓国の義捐金 20%を被災地に、70%を“独島守護活動”に
2011.04.20 07:00  http://www.news-postseven.com/archives/20110420_17938.html

近年の韓流ブームやアイドルグループの日本進出により、犬猿の仲といわれた日韓のわだかまりはすっかり解消されたかのようだ。

 そして東日本大震災の発生後、世界の主要国と同様に、韓国もいち早く日本支援に動いてくれた。震災翌日の12日には救助隊を派遣し、韓国の赤十字社には1日1億円以上の寄付が集まった。韓国ではARSという電話での募金システムが普及しており、1回の電話で2000ウォン(約150円)の募金をしようと多くの人々が日本のために受話器をとったという。

 ソウル・衿川区の職員たちも当初は、被災した日本人を思いやってくれる善意の人たちだった。衿川区は人口60万人で、日本人も63人が在住している。約1000人の区職員たちはお金を出し合い、1200万ウォン(約920万円)もの浄財が集まった。

 本来ならばそのまま何事もなく日本に全額送金されたことだろう。しかし、3月末、日韓双方が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)問題が、日本の中学教科書の検定結果が明らかになったことで再び注目を集める事態になってしまった。

 衿川区の広報課長、シン・ジョンイル氏が語る。

「独島を自国領土と捏造した内容をすべての中学校教科書に採択するような敵対的な態度を見せる日本に義捐金を送る必要などないという意見が多数出てきたため、3月31日と4月1日の2日間、職員を対象に『日本の地震被害支援募金の使用方法について』のアンケートを実施しました。330人から回答が集まり、『主旨通りに使う』が20%、『独島の守護活動を支援する』が70%、その他が10%という結果になりました」

 衿川区長チャ・ソンス氏は4月5日、アンケート結果を尊重して、募金のうち20%を日本へ送り、70%を独島守護活動団体に、10%をなぜか戦争性被害者(元従軍慰安婦)の団体に寄付することを発表した。

※週刊ポスト2011年4月29日号

72NONAME:2011/04/21(木) 04:31:00
陸自ヘリ隊員「米軍は独自判断OK。ウチは上の判断が絶対」
2011.04.20 07:00  http://www.news-postseven.com/archives/20110420_17883.html

米軍の活躍が“割り増し報道”される一方、10万人が動員された自衛隊の活動は、ともすれば見過ごされてはいまいか。震災発生から約30日間、救援物資の運搬や不明者捜索で被災地を飛び回った関東地方の陸上自衛隊ヘリ部隊の隊員が、その実情を明かした。

 * * *
 私の任務は急患、怪我人、住民の救出と搬送。それから、孤立地域へ食料や水を運ぶことでした。初動に関しては、自衛隊は満点をつけて良いぐらいの出来だったと思います。 問題がなかったわけではありません。たとえば、司令部から下りてくる情報の正確性です。着陸予定の学校名の漢字の読み方が間違っていたりしたため、数機のヘリが上空で待機せざるを得ませんでした。
 
 災害派遣のヘリは、1人でも多くの被災者を乗せることが最優先なので、機体が重くならないように、燃料の搭載を少なくします。効率的に離着陸ができなかったのは残念でした。
 
 それ以上に悔しい思いをしたのは救援物資の運搬です。一部の報道で「米軍はどんどん物資を投下しているのに、自衛隊はやっていない」と批判されました。意見が分かれるところかもしれませんが、米軍の場合は各機が独自に判断して行動できるのに対して、自衛隊は司令部の判断が絶対です。
 
 実際には、米軍の投下した場所は孤立集落ではなかったり、すでに食料や水が届けられていたりしたケースも多かった。特に物資が限られていた初動時には、やみくもな投下が正しいわけではなかったと思います。
 
 米軍ヘリは着陸の判断も自由にできる。彼らは瓦礫で埋め尽くされているところであっても、隊員がパラシュートで降下し、瓦礫を除去してヘリを着陸させる。一方、自衛隊は救援される側と連絡を取り、安全を確保してから着陸しなくてはならない。われわれも米軍と同様の降下、着陸技術は持っていますが、それをできないのは歯痒く、米軍を羨ましくも感じました。

※週刊ポスト2011年4月29日号

73NONAME:2011/04/21(木) 04:31:58
米放射能等対処専門部隊「CBIRF」 福島へは行っていない
2011.04.18 16:00  http://www.news-postseven.com/archives/20110418_17827.html

日本を襲った大災害に、米国から約2万人の“トモダチ”が、113機の航空機、艦船12隻を引き連れて駆けつけた。こうした支援は親米メディアの間で大絶賛され、「日米同盟の重要性が再認識された」と盛り上がっている。

颯爽と登場したのが、海兵隊の放射能等対処専門部隊「CBIRF」(シーバーフ)だった。同部隊は4月上旬に約150名が来日、9日には横田基地での訓練を報道陣に公開した。その模様は新聞やテレビで「核戦争を想定した訓練を積んだ特殊部隊」と報じられたため、“原発事故を収束させる救世主”のような印象を抱いた国民も多かったのではないか。

ところが違うのである。初動対応部隊を率いるクルスマン大尉は、「日本政府から要請があれば直ちに出動する」といった後に、「我々が行なうのは人命救助だ」と釘を刺した。

クルスマン大尉の説明通り、同部隊の任務は原発の事故処理ではなく、放射能の除染や治療。したがって、福島第一原発の20km圏内から住民が退避する際、自衛隊が行なった作業と変わらないのである。そもそも、米国防総省は最初から米軍に原発半径50海里(約93km)区域への立ち入りを禁じているため、CBIRFは「福島には行かない」のだ。

防衛省幹部が複雑な表情で語る。

「CBIRFの派遣は米政府からの強い要請で、日本が受け入れた形。活動する予定もないのに訓練風景を公開したのも解せない。福島で防護服を着て事故処理に協力している陸自部隊が頼りないような印象さえ持たれてしまった」

※週刊ポスト2011年4月29日号

74NONAME:2011/04/21(木) 14:44:39
自衛隊員 被災者に暖かい食事配り自分は冷えたレトルト飲む
2011.04.21 07:00  http://www.news-postseven.com/archives/20110421_18110.html

「人員10万6250名、航空機497機、艦船49隻が活動中」。23万人の全自衛官の半数近くが、来る日も来る日も被災地に投入されている(※4月12日時点)。かつての災害時には「自衛隊外し」すらあったことを思えば隔世の感があるが、それでもその活動が詳しく報じられることは少ない。彼らは今どんな思いで救助・支援活動をしているのか。震災直後から各地の派遣部隊に同行取材した、フォトジャーナリストの菊池雅之氏が被災地の自衛隊員の素顔をレポートする。
 
 * * *
 生き延びた被災者への支援も自衛隊の重要な任務だ。各所で風呂を開設したり炊き出しを行なったりといった活動をしている。
 
 宮城県石巻市で捜索活動を実施している第44普通科連隊を取材した翌日、航空自衛隊の給養小隊が石巻市の沖合に浮かぶ網地島へ給食支援を行なうというので同行させてもらった。網地島は、地震発生直後より定期船がすべて運休しており、孤立している島の一つだ。

 支援に使用するのは空自の双発ヘリコプターCH-47JA。同機は航空自衛隊の松島基地に待機していた。この松島基地も津波によって甚大な被害を受けた。隊員も1名亡くなっている。日本が誇る最新鋭戦闘機F-2Bは、18機すべてが津波に流された。

 この日、私を案内してくれたのは、航空自衛隊のアクロバットチーム「ブルーインパルス」の編隊長、安田勉3佐だった。ブルーインパルスも松島基地所属だ。しかし、たまたま震災翌日に九州新幹線開業式典でデモフライトが予定されていたため、最寄りの芦屋基地で待機しており、被災を免れたのだった。

 ヘリコプターは松島基地を離陸してから15分程度で網地島に到着した。機体後部のキャビンドアが開かれると、隊員たちは炊きたてのご飯や調理道具を降ろした。

 保温容器に入れられた炊きたてのお米が島の女性たちの手でおにぎりになっていく。隊員も一緒に握る。みな笑顔で冗談も飛び出る。被災地でこうした笑顔を見たのは久しぶりだ。安田3佐が言う。

「今回の目的は炊き出しですが、ただお腹を満たすだけでなく、心も満たすことを目的にしています」

 パイプ椅子に事務机という殺風景な青空食堂での実に質素な食事ではあったが、みな大きな口でおにぎりを頬張る。

「すいません、おにぎりもう1個もらえますか」と恥ずかしそうに申し出るお爺さんに、「どうぞ、どうぞ、何個でも食べてください。なんなら全部(笑)」と冗談を言う隊員。私も前日までの遺体捜索の取材で笑顔を忘れていたが、この時は自然に頬が緩んだ。

 現地へと派遣された自衛官たち自身は、「天幕」と呼ばれる濃緑色のテントで生活を送っている。ストーブはあるが、朝晩の寒さはまだまだ厳しい。温かい食事はすべて被災者たちに配るため、隊員たちは冷えた缶詰などを食べている。

 現地で、変わった食べ方をする隊員を見た。レトルトカレーを温めずに封を切り、まるでジュースのように直接飲み込む。それに続けて、レトルトのご飯を口の中に放り込んでいた。その様子をじっと見ていた私に気づいた隊員が笑いながら言う。

「馴れれば、これはこれで美味しいですよ」

 もちろん、風呂も被災者が優先だ。隊員たちは3日に1回入れればいい方だが、「被災者の苦労に比べれば……」と屈託がない。

 朝になれば、再び隊員たちは遺体捜索や各種支援活動へと出かける。毎日、何体もの遺体に対峙する隊員たちの身体的精神的苦労は並大抵のものではないだろう。それでも、「誰かがやらなければ」と歯を食いしばり、被災者には笑顔で接する自衛隊員たちが、今日も東北各地での任務を続けている。

※SAPIO2011年5月4日・11日号

75NONAME:2011/04/21(木) 15:52:02
救出任務の自衛官 親族が行方不明でも避難所掲示板を素通り
2011.03.22 16:00  http://www.news-postseven.com/archives/20110322_15643.html

被災地の最前線で、まさに体を張って救助にあたっているのが、自衛隊員たちだ。政府は3月16日、制度発足後初めて、予備自衛官らの招集を決定した。

予備自衛官は、平時は民間で働き、招集があれば駐屯地警備などの後方支援を行なう。退職した自衛官で構成され、有事の際には常備自衛官と同じ任務にあたる即応予備自衛官もいる。

「私は普段は建設業をしています。会社員から農家まで、即応予備自衛官の職業はさまざま。訓練出頭もあり、正社員として採用してくれる事業者が少ないため、失業状態の者もいて、仲間うちでは『即応貧乏』などと軽口も叩きます。しかし、士気は高く、誇りもある」

こういって、30代の即応予備自衛官・Dさんは胸を張った。

「中隊から所在確認と出頭の意思の確認があったので、“ぜひ出させてほしい”とお願いしました。自分たちは国の危機のために存在しているわけだし、日頃の訓練もそのために行なってきたわけです。仕事はクビになるかもしれませんが、覚悟はしています」(Dさん)

彼を駆り立てるのは、1日3時間程度の休憩しか取らずに救出と復興作業に当たっている現場の自衛官たちの姿だ。岩手県・釜石市内で被災した主婦のEさん(50歳)は、そんな自衛官に救出されたひとり。

「被災地であの迷彩服、ヘルメット姿を見たとき、“助かった”と感じました。被災者にとって、自衛隊の姿は頼もしいもの。統制がとれ、テキパキとした姿は本当に素晴らしいです」

地元で救出活動を行なうある隊員は、親族が行方不明にもかかわらず、避難所の掲示板を素通りしたという。被災者たちに不安を与えないようにするためだ。

※週刊ポスト2011年4月1日号

76NONAME:2011/04/21(木) 17:24:48
昔からの日本人の自己犠牲の精神を体現してる 日本人 ここにありだよ。
いつも思うが被災者の方々の災害時での冷静さと忍耐と団結心 見事だよな。
これでリーダー連中、民主党の連中が有能なら 世界に対しての風評被害
がここまでならなかったのにな、返す返すも民主はまったくの期待はずれだった。
まったくを何十回 くっつけてもタリネエくらい アホだったよ あいつらはよ。

77NONAME:2011/04/22(金) 22:48:48
「社長もここに住んでみろ」謝罪に避難者怒声
読売新聞 4月22日(金)20時59分配信  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110422-00000938-yom-soci

 「いつ戻れるのか」「社長もここに住んでみろ」。

 福島県内の避難所を謝罪のために訪れた東京電力の清水正孝社長は22日、避難者から厳しい言葉を浴びせられた。避難所の訪問は、福島第一原発の事故後、初めて。清水社長は終始うつむき、目を伏せたままだった。

 同県富岡町と川内村の両役場が置かれ、約2000人が生活する「ビッグパレットふくしま」(郡山市)。清水社長が「一日も早く古里へ戻れるよう全力を尽くしたい」と述べると、遠藤勝也・富岡町長は「住民は避難生活に疲れ、気力も体力もなくしている」と窮状を語り、遠藤雄幸・川内村長も「住む人の将来や運命、地域の有り様まで変わってしまった。長期化すれば地域が崩壊する」と訴えた。 .最終更新:4月22日(金)20時59分

78NONAME:2011/04/23(土) 23:00:49
全部で5千万円以上?避難所で現金配る2人組
読売新聞 4月23日(土)20時44分配信  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110423-00000651-yom-soci

 東日本大震災で被災した宮城県石巻市の避難所に「西日本有志の会」「西日本小売業協会」などと名乗る男性2人組が現れ、避難住民に直接現金を配ったことが23日、わかった。

 市が同日、災害対策本部会議で明らかにした。

 市によると、2人組は21、22の両日、市内の避難所計6か所で3万円ずつ茶封筒に入れた現金を避難住民に配ったほか、市牡鹿総合支所で、職員に3万円の茶封筒約170通、計約500万円を渡していった。総額は5000万円以上とみられる。避難所の職員が「やめてください」と言って断っても配り続け、その後立ち去ったという。

 話を聞きつけたほかの被災者からは「不公平だ」と訴える電話が市に寄せられており、市は「志はありがたいが、被災者に公平に配れる義援金として送ってほしい」と呼びかけている。 .最終更新:4月23日(土)20時44分

79NONAME:2011/04/24(日) 23:25:03
東日本大震災:いま、あなたの宝物は何ですか? http://mainichi.jp/select/jiken/graph/takaramono/17.html

80NONAME:2011/05/02(月) 13:10:32
http://plaza.rakuten.co.jp/kayocodj002/diary/201104220001

あるお寺での事。 その時、そのお寺では葬儀が行われており…
ただ、参列者の雰囲気がちょっと異様で。
どう違うか…その場でしか感じることのない、参列者の重くやりきれないと言った思いが痛いほど伝わる雰囲気なのです。

その理由は後から分かることになるのですが…

この日、このお寺で行われた葬儀は午前も午後も、“自ら命を絶った方”の葬儀。
あの津波で、命が助かったにも関わらず…生かされた命に関わらず…
生きていくことに絶望を感じ死を選んだ方々。

実は今、気仙沼では自ら命を絶つ人が後を絶ちません。毎日のように、自分で人生を終わらせてしまった方の葬儀があるそう。
悲痛な表情でそう語るお寺の奥様。
その避難所は、命からがら逃げてきた方達の避難所にもなっているんです。

助かって良かったと身を寄せ合う方達の、襖を挟んですぐ脇で執り行われるその葬儀…。
正直やりきれない…と。

住む家を奪われ、
家族を奪われ、
仕事を奪われ…
生きていく希望さえ奪われてしまった。なぜ自分だけ助かってしまったんだろうって…、

そんな事、せっかく助かった方に思わせないで下さい。
長期的な復興計画ももちろん大事。
でも今の今、明日も生きようと思わせる支援が必要なのでは?

いつ、どうやって入ってくるか分からないまとまったお金より、今、手に握りしめられる千円札の方がもしかしたら大きいのかも…
助かってよかったと全員が思える支援、未来像を描ける政策を。

正直、私、復興計画のプロジェクトって、震災の二日後くらいから、救援救助の対策室と同時に裏で走り出してるものだと思ってました。
救助がめどが立ったらすぐに切り替われるように。

でも日本は違っていましたね。
この間の復興計画の会議に有識者が集まったと言うシーンを見て「ホントに今からかい!」って思った人は多いはず。
遅くないですか?
もっとスピードを上げて!

それに復興プロジェクトは東京じゃなくて現地でやればいいじゃない!
せめて現地に近い仙台市内や盛岡、福島市で!現地を観てもない人にあーでもないこうでもないって言われたくないですし…

ちょっと無知なくせに感情的になってしまいましたが、
きっと、私が言いたいことは明日の11:00〜のFMの番組で社長が吠えてくれるはず。

せっかく生かされた命。私たちは何があっても生きましょうね。

81NONAME:2011/05/05(木) 00:23:37
菅首相の「謝意」各国の新聞に掲載 100億義援金の台湾除いた理由
2011/4/12 20:24  http://www.j-cast.com/2011/04/12092867.html

東日本大震災で、日本に対する海外からの支援に対して菅直人首相からの「謝意」が、海外主要紙に掲載された。英語やフランス語、中国語など5つの言語に訳されている。

日本向けに多額の義援金を集めた台湾の新聞は入っていなかったが、「別の形」で感謝を表した。だがそこには、中国への配慮も見え隠れする。

「義援金の金額で広告掲載決めたわけではない」
震災から1か月の2011年4月11日、各国の主要紙には菅首相のメッセージ広告が掲載された。外務省によると、国際英字紙「インターナショナル・ヘラルドトリビューン」をはじめ米紙ウォールストリートジャーナル、英紙フィナンシャル・タイムズ、韓国の朝鮮日報、中国共産党機関紙の人民日報など7紙。有料広告の扱いだが、その後シンガポールやベトナム、ミャンマーから「無料でも掲載したい」との申し出があったという。

いずれも「絆に感謝します(Thank you for the Kizuna.)と英文のタイトルが付けられ、各国の言語で謝意が続く。地震と津波で甚大な損害を被った地域で「海外の皆さんの助けが私たちを勇気づけてくれました」と感謝。日本に来て災害援助活動に携わった人々にも「一杯のスープが、一杯の毛布が、冷えた心と体を温めてくれました」と称え、「私は復興へ全力を尽くしてまいります」と決意を示して締めくくっている。最後は首相直筆の署名が入り、その下には「まさかの友は真の友」と添えられた。

外務省に聞くと、広告を載せた7紙を選ぶにあたっては「その国の規模や、近隣地域の影響を考えた」という。「広告効果」を最大限高めることをねらったのだろうか。

中国や韓国といった東アジアの主要紙が選ばれるなか、台湾の新聞は「対象外」となった。日本と台湾は、1972年の日中国交正常化以降、正式な外交関係をもたない。それでも今回の震災で、台湾による日本支援の動きは活発だ。台湾の「駐日大使館」の機能を果たしている「台北駐日経済文化代表処」によると、4月8日までに台湾の民間団体が集めた日本への義援金の合計は約101億1000万円に上っている。12日までには130億円に達したとの報道もある。各国の義援金を見ると、3月末の時点で赤十字を中心に米国は約90億円、韓国は約16億円、中国は約3億4000万円との話もある。どこまで正確な数字かは微妙だが、これを見る限りでは台湾の義援金の額がいかに大きいかが分かる。このことを外務省にぶつけてみたが、「義援金の金額で(首相メッセージの)広告を掲載する新聞を決めたわけではありません」とそっけなかった。

(続く)

82NONAME:2011/05/05(木) 00:24:12
中国大使館のサイトでは支援内容を具体的に挙げる
だが台湾では、別の形で菅首相からの謝意が届けられたようだ。日本政府の窓口機関として台北に設置されている「交流協会」は4月11日、現地で記者会見を開き、今井正代表が「台湾の皆さまから温かい支援を得て、私たち日本人は団結して、復興に向け全力を尽くします」と述べた。

さらに台湾政府が運営する「中央放送局」によると、菅首相の「絆」のメッセージが、今井代表から台湾政府トップの馬英九総統に送られたという。同じ内容が交流協会のウェブサイトでも配信されている。内容は海外紙に掲載した広告とほぼ同じだが、よく見ると、

「台湾からは、地震発生直後から、28名からなる救援隊の派遣、総量約400トンの支援物資の提供、多額の義捐金の申し出などのご支援、また数多くの方々から励ましのメッセージをいただきました。台湾の皆様から示されたこのような心と心の絆に深く感謝申し上げます」
と、台湾に向けた「特別メッセージ」のような内容が入っていた。

首相の新聞広告を見ると、英語版には特定の国を挙げて感謝を示した記述はなく、中国の人民日報に載った広告も同様に、中国だけにあてた記述はない。

実はこのメッセージは、一部の国の在外公館ウェブサイトでも閲覧できる。駐米日本大使館のサイトを見ると、ページ上部に「米国の皆さまのご協力とご支援に感謝します」と掲げられているが、「絆」メッセージの中身には米国の具体的な支援内容は見当たらない。

ところが在中国大使館のページは違った。「中国には、地震発生直後の3月13日に救援チームを派遣していただいた」「3000万人民元相当の物資、ガソリンやデイーゼルオイル1万トンずつを緊急援助として被災地にお送りくださった」と支援内容を具体的に挙げ、胡錦涛国家主席が天皇陛下に、地震の犠牲者に対する哀悼の意を表すメッセージを送ったことにも触れた。

中国との関係を考えて、感謝のコメントにも「特別の配慮」を見せたのかもしれない。

83NONAME:2011/05/14(土) 23:31:49
別荘、自宅提供します 那須で申し出90件
2011年3月28日 http://www.tokyo-np.co.jp/article/feature/nucerror/list/CK2011032802100004.html

避暑地で別荘が多い栃木県那須町で、福島第一原発事故に伴い福島県からきた避難者に、別荘や自宅の一部を提供しようという申し出が相次いでいる。提供者らは「大変な思いをしている被災者を一世帯でも助けられれば」と話している。

 申し出は、約二百六十人が身を寄せる同町内の避難所と、道の駅「那須高原友愛の森」にある県避難者総合相談窓口の掲示板に手書きで張り出されている。無料のケースが多く、乳幼児や妊婦を優先したものや外国人を対象としたものも。避難者は提供者と個別に連絡を取り合う。

 町役場に先週末までに寄せられた貸し出し申し出は約九十件で、このうち十九件の入居が決まった。

 那須町湯本の主婦(63)は町役場を通じ、自宅敷地内の木造平屋の別棟の無償提供を申し出た。十九日から、ここに入居している福島県いわき市の女性会社員(41)は一〜四歳の子ども三人と身を寄せた。

 女性の自宅は原発から二十〜三十キロの屋内退避の対象圏内。停電や断水に加え、食料やガソリンの販売もなくなり、避難してきたという。女性は「小さい子どもと一緒なので原発事故の影響は不安だった。ここは風呂もトイレもあり、本当に助かる」と話す。別棟を提供した主婦は「避難所生活は小さい子には大変。少しでも役立ちたかった」と話した。

84NONAME:2011/05/21(土) 22:42:44
「災難の中で得た友情は大切で貴重」 温首相、中国人実習生救助に謝意
2011.5.21 19:22  http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110521/dst11052119240017-n1.htm

中国人実習生を避難させた後に津波の犠牲となった佐藤充さんに謝意を表明する中国の温家宝首相=21日午後、宮城県名取市
 中国の温家宝首相は21日、宮城県女川町で中国人実習生20人を避難させた後、津波に巻き込まれて犠牲となった水産加工会社「佐藤水産」専務、佐藤充さん(55)について「国籍にかかわらずに救助した。そうした行為を高く評価している」と述べ、謝意を表明した。視察先の名取市で記者団に話した。

 「救出劇」は中国や香港などで大きく報道されており、温首相も注視していたことを明らかにした。「災難の中で得た友情はとても大切で貴重。中日関係のさらなる改善を願う」と話した。

 震災の日、佐藤さんは工場の寮にいた中国人実習生を近くの高台に逃がした。その後、佐藤さんは行方不明となり、遺体で見つかった。女川町には十数の水産加工会社に計約160人の中国人がいたが、全員無事だった。

85NONAME:2011/05/21(土) 22:44:31
「また日本に」「ありがとう」「元気で」帰国の中国実習生、涙の別れ
2011.3.17 20:45  http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110317/dst11031720500116-n1.htm

帰国のため出発する中国人実習生との別れを惜しむ伊藤あつ子さん(左)=17日、宮城県気仙沼市
 宮城県気仙沼市役所前では17日、水産加工場で働いていた約50人の中国人女性たちが帰国するため、バスで新潟市の中国領事館に向け出発した。「ありがとう」「元気でね」。同じ工場で働いていた地元の人々と涙の別れをした。

 地元業者によると、気仙沼市には外国人研修・技能実習制度を利用した中国人200〜300人が滞在していた。津波で工場が壊れて稼働できず、多くが帰国することになった。

 マグロ加工場に勤務した遼寧省出身の李怡さん(28)は「落ち着いたらまた日本に来たい」と涙。避難所でも一緒に過ごした同僚の伊藤あつ子さん(59)と抱き合った。

 バスの窓際で泣いている李さんを見て「泣かないの。頑張るのよー」と叫びながら大きく手を振った伊藤さんの頬にも、涙が流れていた。

86NONAME:2011/06/15(水) 13:39:59
米「タイム」が指摘 日本の支援は途上国以下!
日本の救援体制は開発途上国以下――。
22日、米誌「タイム」(電子版)がこんな批判的な記事を掲載した。 http://m555.karada-navi.net/?eid=746

「官僚機構が救援を遅らせているのか?」というテーマで、「日本よりはるかにインフラ整備が遅れている開発途上国でさえ、災害発生から4日もたてば援助物資が被災民の手に届く。だが東北では10万人の自衛隊が救援活動を行っているにもかかわらず、援助物資が届くのに恐ろしいほど時間がかかっている」と指摘した。

同誌は日本の入り組んだ官僚機構に問題があり、規制好きな国民性が“合法的な壁”として立ちふさがっているとして、以下の実話を挙げている。
日本の船会社が湾岸地域に救援に向かうコンテナ船をヘリの着陸用に提供すると申し出たが、政府は船会社に正式な資格がないことからこの提案を断った。

来日した外国人医師団が患者の診察を申し出ても、日本の医師免許がないという理由で門前払い。医師らは医療行為ともいえない最小限の援助活動をするしかなかった。
政府は地震から6日後の17日になって外国人医師の医療行為を認める方針を打ち出したが、遅きに失したといわざるを得ない。

また、海外から高齢の被災者のために薬品が寄付されたが、日本の行政当局が承認していないという理由で現地に届けることができなかった。

輸送業者は許認可特権を持つ官僚ににらまれるのを恐れて表立っては口にしないが、不満タラタラで物資を運ぶ許可を待っている。
寄付された物資は地震と津波の数時間後には東京に届いたのに、いまも倉庫に眠っているというからバカげた話だ。

もちろん、政治家がその気になれば、こうした規制を取っ払うことができる。
官僚機構と政治の怠慢が被災者を見殺しにした といえそうだ。

87NONAME:2011/06/15(水) 13:40:43
米「タイム」が指摘 日本の支援は途上国以下
【政治・経済】2011年3月24日 掲載 http://gendai.net/articles/view/syakai/129570

来日した外国人医師は診療できず…
 日本の救援体制は開発途上国以下――。22日、米誌「タイム」(電子版)がこんな批判的な記事を掲載した。
「官僚機構が救援を遅らせているのか?」というテーマで、「日本よりはるかにインフラ整備が遅れている開発途上国でさえ、災害発生から4日もたてば援助物資が被災民の手に届く。だが東北では10万人の自衛隊が救援活動を行っているにもかかわらず、援助物資が届くのに恐ろしいほど時間がかかっている」と指摘した。
 同誌は日本の入り組んだ官僚機構に問題があり、規制好きな国民性が“合法的な壁”として立ちふさがっているとして、以下の実話を挙げている。
 日本の船会社が湾岸地域に救援に向かうコンテナ船をヘリの着陸用に提供すると申し出たが、政府は船会社に正式な資格がないことからこの提案を断った。
 来日した外国人医師団が患者の診察を申し出ても、日本の医師免許がないという理由で門前払い。医師らは医療行為ともいえない最小限の援助活動をするしかなかった。政府は地震から6日後の17日になって外国人医師の医療行為を認める方針を打ち出したが、遅きに失したといわざるを得ない。
 また、海外から高齢の被災者のために薬品が寄付されたが、日本の行政当局が承認していないという理由で現地に届けることができなかった。
 輸送業者は許認可特権を持つ官僚ににらまれるのを恐れて表立っては口にしないが、不満タラタラで物資を運ぶ許可を待っている。寄付された物資は地震と津波の数時間後には東京に届いたのに、いまも倉庫に眠っているというからバカげた話だ。
 もちろん、政治家がその気になれば、こうした規制を取っ払うことができる。官僚機構と政治の怠慢が被災者を見殺しにしたといえそうだ。

88NONAME:2011/06/17(金) 07:06:38
仙谷氏 被災地訪問で「ひなびた温泉用意しろ」指示との証言
2011.06.14 16:00 http://www.news-postseven.com/archives/20110614_23026.html

本誌は前号で、仙谷由人・官房副長官が「被災地視察」と称して長野県栄村を訪れた際、前日に被災地を素通りして近くの温泉宿に泊まり、同級生の内閣参与や元部下の知事らと温泉に浸かって宴会に興じていたことを報じた(関連記事参照)。もちろん税金で、である。

 未曽有の大災害を前に、被災者に尻を向けて遊び呆ける「棄民政治」そのもので、経緯を知った地元政界から怒りの声が上がった。

 現内閣で農水副大臣を務める篠原孝・代議士が、5月末に仙谷氏に宛てて厳重抗議する書簡を送っていたのである。そこには、こんな内容が書かれていた。

●仙谷氏が知事に「記者をゾロゾロ引き連れて栄村に行ってやるから、ひなびた温泉を用意しておけ」と指示したと聞いている。

●長野県連幹事長が同行する予定だったが、物見遊山には付き合えないと拒否。

●視察前日には閣僚からも「仙谷を長野駅で出迎え、記者団の前で『物見遊山には付き合えない』といってやれ」といわれた。

●避難所を通り越して温泉宿に泊まり、知事と一杯やるとは不謹慎極まりない。

 ――至極もっともな怒りである。被災者、国民の「世論」はまさにこの通りだろう。篠原氏は書簡について、「お答えできない」としたが、“大副長官”にはっきり物をいった勇気は大したものである。裏を返せば、仙谷氏の党内求心力など幻影にすぎないということだ。

 また、仙谷氏1は複数のダミー政治団体で政治資金を集め、そのカネで自分の息子の家賃を負担していたことが問題になった。 同じことをもし小沢一郎氏がしたら、マスコミから「議員辞職が当然だ」と袋叩きにあう“重罪”である。

 そういえば「自衛隊は暴力装置」なんて舌禍もあった。口が軽いのもこの人の特徴である。

※週刊ポスト2011年6月24日号

89NONAME:2011/06/24(金) 00:02:17
元従軍慰安婦も日本国民に配慮、16年ぶりに水曜集会を中止―韓国
2011/03/15(火) 11:38  http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2011&d=0315&f=politics_0315_006.shtml

韓国の元従軍慰安婦らで構成される韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)は16日、駐韓日本大使館前で開かれる予定だった「水曜集会」を、日本の東北地震被害者への黙とうと追悼の席にすることを明らかにした。1992年に始まったこの集会の中止は、1995年の日本の阪神大震災以来16年ぶりとなる。

挺対協は日本軍の慰安婦問題を解決するために結成された韓国の団体。「水曜集会」は、日本軍従軍慰安婦被害者らが毎週水曜日にソウル市内の日本大使館前で行っている集会。

韓国メディアは、植民地支配の日本の蛮行を批判し、被害補償などを要求してきた市民団体も、地震で苦しむ日本の人々と痛みを共にしていると報じている。

同団体のユン・ミヒャン代表は14日、「日本政府は慰安婦被害者問題に不誠実に対応しているが、日本国民が何万人も被害にあった状況で、スローガンを叫ぶことは礼儀に反する。今度の水曜日にも人々は集まるが、可能な限り多くの命が存続することを祈り、黙とうをして終了する」と述べている。

またほかにも、独島守護隊、太平洋戦争被害者補償推進協議会、アジアの平和と歴史教育連帯など韓国内の18の市民団体も14日に「国境や民族を超えて、この惨事を東アジアの痛みとして認識し、すべてが立ち上がらなくてはならないときだと共同声明を発表した。歴史問題と関連した韓国の市民団体も「日本のすべての方々がこの巨大な惨事を乗り越えて立ち上がるのに役立つため努力する」と明らかにした。(編集担当:李信恵・山口幸治)

90NONAME:2011/07/02(土) 22:59:35
東日本大震災:答え出ない「てんでんこ」…自主防災と矛盾
http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110703k0000m040026000c.html

 国道45号を挟んで、海岸から山手にかけて民家が建ち並ぶ岩手県釜石市嬉石(うれいし)地区。寝たきりの高齢者を助けようとした男性8人が津波にのまれ、その高齢者を含む4人が死亡・行方不明となった。「津波てんでんこ」の教訓を知っていながら救助に向かった生還者は「『てんでんこ』はやっぱりできない。ならばどうすれば良かったのか」と自問を続けている。【黒田阿紗子】

91NONAME:2011/07/13(水) 05:46:19
米赤十字が99億円の義援金「日本人は忍耐で立ち向かう」
2011.3.30 10:09  http://sankei.jp.msn.com/world/news/110330/amr11033010100003-n1.htm

 米国赤十字社のボニー・マッケルビーンハンター理事長は29日、東日本大震災を受けた義援金が総額で1億2千万ドル(約98億9千万円)超に上り、近く5千万ドルを日本赤十字社に送ると明らかにした。藤崎一郎駐米大使との会談に先立ち、ワシントンの在米日本大使館で記者団に語った。

 義援金は震災直後から集まり始め、既に1千万ドルが日本赤十字社に渡っている。総額の大部分が日本赤十字社に送られるが、一部は国連機関や日本に滞在する米国民の避難費用に回るという。

 理事長は「日本人は忍耐力や自己犠牲の精神でこの困難に立ち向かうだろう。あなた方は独りぼっちでないと伝えたい」と述べ、全面支援を約束した。(共同)

米を上回る 台湾の義援金100億円突破 親日ぶり示す
2011.4.1 22:05  http://sankei.jp.msn.com/world/news/110401/chn11040122060003-n1.htm

 台湾外交部(外務省)は1日、東日本大震災の被災者への義援金が官民合わせて37億3833万台湾元(約106億9千万円)に上ったと発表した。うち9割以上が民間からという。

 米国赤十字社が3月29日に発表した義援金1億2千万ドル(約98億9千万円)超を上回っており、人口が10分の1以下の台湾で米国以上の義援金が集まったことは、その親日ぶりを示している。

 台湾では3月18日に馬英九総統らが参加したチャリティーイベントで、日本円換算で20億円以上の義援金が集まったほか、台湾の運輸大手、長栄グループの張栄発総裁が23日、個人で10億円の義援金を日本赤十字社を通じて拠出すると発表した。(共同)

義援金は200億円 「お返し」の意味も、訪米中の台湾新聞局長
2011.7.12 12:53  http://sankei.jp.msn.com/world/news/110712/chn11071212550000-n1.htm

 訪米中の楊永明・台湾行政院新聞局長(46)=閣僚=は11日、ニューヨーク市内で共同通信と会見し、東日本大震災の被災者に対する台湾の義援金が約200億円に達したことを明らかにするとともに、馬英九政権(国民党)が「対日特別パートナーシップ」路線を重視していると述べた。

 楊局長によると、支援額は「世界一」で、1999年の台湾中部大地震で日本がいち早く支援をしたことに対する「お返し」の意味もあるという。

 局長はまた、原発廃止が台湾の目標であるとしながらも、電力の約20%を供給している3カ所の原発が2025年までに稼働を中止するため、建設中の第4原発を稼働させて補うことが必要との考えを示し、安全性の確保を強調した。(共同)

92NONAME:2011/08/02(火) 11:34:57
東日本大震災:「顔が水より冷たく…」 被災児童が日記
http://mainichi.jp/select/weathernews/20110311/archive/news/2011/04/25/20110425k0000e040028000c.html?inb=yt

◇3月11日
 卒業式の歌の練習をしていました。とてもゆれの大きい地震が来ました。最初は単なる地震だと思っていました。大津波警報が出ても、どうせこないと思っていました。来たとしても10センチメートル程度の津波だと思っていました。全然違いました。ぼくが見たのは、国道45号線を水とがれきが流れているところです。お母さんとお父さんが津波が来る前に大沢小に来ているところは見ました。だけどその後、お父さんが軽トラでもどっていった姿を見ました。お父さんのことが不安でした。車を運転しながら津波にのみ込まれませんように。そう祈っていました。

93NONAME:2011/08/08(月) 16:13:43
平泉はがれきで送り火…「しっかり供養する」
読売新聞 8月8日(月)14時33分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110808-00000612-yom-soci

 「平泉の文化遺産」が世界遺産に登録された岩手県平泉町で16日夜、東日本大震災の津波で甚大な被害を受けた同県と宮城県の沿岸計14市町村から集めたがれきを「平泉大文字送り火」で燃やし、犠牲者を供養する。

 6日には、町立平泉中学の生徒や有志ら約100人が同町北東部の駒形山(430メートル)中腹まで登り、約3200本のまきを組んで64基の火床を作り、住宅廃材などのがれきを入れて準備した。

 平泉大文字送り火は1965年、中尊寺金色堂の新覆堂(おおいどう)の完成記念と太平洋戦争の戦没者慰霊のために始まり、今年で47回目。中尊寺近くにある毛越寺(もうつうじ)の檀家(だんか)が「震災犠牲者の慰霊のため、今年はがれきを使ったら」と提案し、平泉観光協会関係者らが7月中旬、がれきの使用を正式に決めた。同協会関係者ら3人が同月下旬、岩手県陸前高田市や釜石市、宮城県気仙沼市、南三陸町など両県の計14市町村を回り、がれきとなった住宅建材や漁具などを回収した。津波で伯母を亡くし、6日、駒形山に登った平泉中の2年生(14)は「沿岸の住民が復興に前向きになれるよう、真剣に火床を作りました」と、額に汗を浮かべながら話した。

 送り火は16日午後8時に点火。京都で行われる「京都五山送り火」では、陸前高田市の松で作ったまきの使用が断念されたが、平泉観光協会の小野寺邦夫会長は「こちらではがれきを使用してしっかり供養し、被災した沿岸市町村と平泉の絆を深めたい」と話している。 .最終更新:8月8日(月)14時33分

94NONAME:2011/08/17(水) 00:22:32
地震直後、4割がすぐ避難せず=家族探し逃げ遅れ―6割弱が車使用・政府調査
時事通信 8月16日(火)22時24分配信  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110816-00000106-jij-soci

 東日本大震災で津波被害を受けた岩手、宮城、福島3県の被災者870人を対象にした内閣府などの面接調査で、地震の発生直後に42%の人が帰宅や家族を探すために直ちに避難せず、11%の人が何らかの行動の最中に津波が迫ってきて避難する「切迫避難」だったことが、16日分かった。
 国は、混乱や渋滞を避けるため、徒歩による避難を呼び掛けてきたが、車を使った人も57%に達し、このうち34%が渋滞に巻き込まれた。報告を受けた中央防災会議専門調査会の河田恵昭座長(関西大教授)は、「車を使う人が多かった事実を受け止め、何らかのルール作りが必要」との認識を示した。
 面接調査は、3県の仮設住宅や避難所で実施された。調査結果によると、地震直後に避難した人は57%。残る1%は、高台などにいて、避難の必要がなかった。直後に避難した人のうち、津波に巻き込まれた人は5%だったのに、切迫避難では49%の人が津波に流されたり、体がぬれたりした。

95NONAME:2011/08/17(水) 00:29:47
家族を捜して逃げず 震災直後の避難「わずか57%」政府面接調査
産経新聞 8月16日(火)22時31分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110816-00000559-san-soci

 政府が岩手、宮城、福島3県で避難している東日本大震災の被災者870人を対象に実施した面接調査で、震災の発生直後に避難した人は57%にとどまり、42%の人は家族を捜したり自宅に戻ったりして、すぐに避難していなかったことが16日、分かった。大津波警報を見聞きしなかったと回答した人も58%に上った。内閣府は「家族を捜すといった行動が迅速な避難行動を妨げる要因になっている」と強調。津波警報を確実に伝達する必要があるとして、震災発生時の避難対策の見直しを検討する。

 調査は内閣府と消防庁、気象庁が7月、3県の沿岸地域にある仮設住宅や避難所で実施。16日の中央防災会議専門調査会で示した。

 調査によると、地震直後に避難した人のうち、津波に巻き込まれたのは5%にとどまったが、津波が来るまで避難しなかった人は49%が流されたり、体がぬれるなどしていた。

 すぐに避難しなかった人に理由を尋ねると、自宅に戻った(22%)▽家族を捜した(21%)▽過去の地震でも津波が来なかった(11%)−などの回答が上位。津波警報を見聞きした人の約8割が「避難しようと思った」と答えており、確実な警報伝達の必要性が浮き彫りになった。

96NONAME:2011/08/17(水) 00:38:35
「被災松燃やしてあげたかった」護摩木、大文字の火床へ
産経新聞 8月16日(火)22時6分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110816-00000557-san-soci

 岩手県陸前高田市の被災松使用をめぐって二転三転し16日、本番を迎えた京都の「五山送り火」。2度にわたる被災松の使用中止の批判や抗議の影響が続く中で行われた伝統の宗教行事だが、保存会関係者や東日本大震災の被災地の出身者は「被災松を燃やしてあげたかった」「残念な思いを引きずりそう」と複雑な思いをのぞかせながら送り火を見届けた。

 「陸前高田の人たちのためにも立派に火をつけ、気持ちを込めて送りたい」。大文字保存会の松原公太郎理事長は東山如意ケ嶽(にょいがたけ)の「大」の字の中央部分にくべられた護摩(ごま)木を前にこう話した。

 「大文字」では陸前高田市の被災者の祈りの言葉が書き写された護摩木を75カ所の火床すべてに添えた。「涙が出る思い。被災松を燃やしてあげたかったとも思うが、これからどうするかが一番大事。被災者の方の気持ちを大切にしたい」と松原理事長。近日中にも厄除けなどの御利益があるとされる送り火の消し炭を持って陸前高田市を訪れたいとも語り、炎に向かって静かに手を合わせた。

 被災者や市民も思いは複雑だ。岩手県山田町から京都市内の親類宅に避難している木下一郎さん(80)は「どこかに残念な気持ちを引きずってしまう。市や保存会にしっかり対応してもらいたかった」。同市北区の主婦(67)は「もっと対応を考えるべきだったと思う。市は今後、被災地支援をさらに積極的に行い信頼を取り戻してほしい」。一方、宮城県石巻市で被災した介護職員、鈴木孝悦さん(31)は「メッセージが書き込まれた京都産の護摩木などが燃やされたことだけは救いを感じた」と話した。

 五山送り火で被災松の受け入れは異例だったが、鎮魂の在り方を見直すきっかけともなった。来年以降の受け入れについて、市は「今は考える余裕がない」と話すにとどめたが、京都五山送り火連合会の田中博至会長は「今回はよかれと思ったことが裏目に出たが、あくまで霊を見送る行事。今後もいろんな所から護摩木などを燃やす話が出たら、その都度状況を判断し、私個人としては使って差し上げたい」と静かに話した。

98NONAME:2011/08/30(火) 21:19:58
ペットは家族 震災で命の尊さ浮き彫り 坂本龍一
2011.7.23 07:00 (1/3ページ) http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/110723/ent11072307000000-n1.htm

 18、19日、ぼくは東日本大震災以降、初めて被災地に行ってきました。
 ぼくが主宰する森林保全団体のモア・トゥリーズが、岩手県住田町にある被災者向けの木造仮設住宅約100棟の建設を支援しているため、その視察が目的です。

 ここでの様子はまた別の機会に書きますが、特徴の1つはペットが飼えるようになっていることです。
 ぼくも子供のころネコと暮らしていたのでわかりますが、飼っている人にとってペットは家族だと思います。家族と離れて生活しなくてはいけないという理不尽に、ぼくは耐えられるかどうかわからない。だから視察の時、仮設住宅のなかでイヌと過ごしている被災者の方を見たときは、ほっとしました。

 ただ、東京電力福島第1原発から半径20キロ圏内に設定された警戒区域内では、ペットや家畜が取り残されたと聞いています。なぜ同じ命なのに、人間と動物で優劣をつけるのか分からない。人間の傲慢としか思えません。

 家畜に関しても本来は同じように扱うべきだが、彼らは震災前も後も「資源」として扱われています。逆に人間が「資源」として扱われたら、あなたはどう思うだろうか。

 震災では、動物に対する考え方や問題が浮き彫りになったと思います。
 そもそも、これまで日本はペットを簡単に「処理」してきました。保健所(動物愛護センター)では、イヌやネコが年間20万匹以上も殺処分されています。

99NONAME:2011/09/05(月) 11:46:51
<東日本大震災>被災3県 入院機能2066床喪失
2011/09/05 02:31:00 配信  http://www.t-com.ne.jp/article/social/20110905k0000m040122000c.html?topnews=001

東日本大震災で被災した岩手、宮城、福島の3県(原発事故の警戒区域を除く)の病院で、計2066床の入院機能が失われていることが毎日新聞のまとめで分かった。震災から間もなく半年を迎えるが、大きな痛手を負った地域医療の回復への道のりは遠く、医師流出への対策も難題となっている。

 3県の病院について、震災前と8月末時点で受け入れ可能な病床数がどう変化したかなどを調べた。震災前より減少したのは19病院(公立11、民間8)。うち13病院は建物が使えなくなるなどし、病床ゼロとなっている。

 宮城県では、7病院の計812床が使えない。震災前には206床あった石巻市立病院は、使われていなかった旧市役所に仮設診療所を開いたが、病床復活の見通しは立っていない。医師は震災前の26人から8人に減り、10月からはさらに2人減って6人になる。

 常勤医ゼロの気仙沼市立本吉病院では、他県から派遣された医師らのチーム(医療救護班)が外来患者の対応に当たる。通常の保険診療ではなく、災害救助法に基づく救護所の位置づけだ。10月にようやく常勤医1人を確保し、保険診療を開始できる見通し。宮城県にはピーク時で120の医療救護班が入っていたが、7月で8チームに減り、9月末までに全て撤退する見通しとなっている。

 岩手県では計312床が利用不能となっている。津波で使えなくなった山田(山田町)、大槌(大槌町)、高田(陸前高田市)の県立3病院は6月末〜7月にそれぞれ仮設診療所を開設したが、入院機能はない。夜間の救急対応も含め、県立大船渡病院(大船渡市、489床)など周囲の病院がカバーする状況が続いている。

 東京電力福島第1原発から20キロ以遠で指定されている緊急時避難準備区域で診療している5病院では、計826床の減少。指定が解除されれば住民が戻って入院の需要が増える。福島県では、立ち入り禁止の警戒区域(原発20キロ圏内)にも7病院があり、県から許可を受けている病床数は計1132床に上る。【加藤隆寛、川名壮志】

100NONAME:2011/09/20(火) 13:18:03
津波気づかず、道で話し合う人  http://news.livedoor.com/article/detail/5874939/

一体でも多くの遺体を家族のもとへお返ししたい――。巨大津波の上空を飛んだ警察官の絶望と絶えぬ執念
――宮城県警航空隊の成田聡・機長、平仁・操縦士のケース

カメラでズームアップすると、波のスピードが非常に早く、水圧が相当強いことがわかった。波のそばを車で走る人は、それがわかっていないように見えたという。「車の中からは波が平面に見えるため、あの勢いに気がつかないのではないか。上空から見ると、運転手は海が穏やかなときの波と同じ程度に感じているようだった」

「あの天候で低空飛行をするのは危険だった。だが、私たちなりの使命感があった。下には波に気がついていない人がいた。道で話し合っている人もいた。ゆっくりと走る車もあった。避難を呼びかけるパトカーや消防車も見えた。『このままではひどいことになる』と思った」

住民らはヘリコプターには気がつく。だがすぐには避難しない。その後も道で話し合っている人がいた。成田氏はうつむき加減に話す。 「私たちの気持ちはわかってくれたのかもしれない。でも、逃げようとしない姿を見ると無力感はあった」。 津波は地域一帯を飲み込み、仙台東部道路のほうにさらに向かう。ヘリコプターは道路の向こうの町の上空に先回りし、2人は避難を呼びかけた。平氏は、「あの波は道路を越えるような勢いだった。海が溢れ返っていた」と説明する。

道路を隔てた町の小学校の校庭では、先生と子どもたちが集まっていた。これは“地震の避難”であり、津波のそれではない。2人は、声をそろえる。 「もどかしかった。道路の反対の荒浜地区などでは、大きな被害が出ていた。その波がすごい勢いで迫っている。多くの人が、それに気がついていなかった」

波は、海岸線から2キロほどの仙台東部道路にまでたどり着いた。そこで一旦は止まった。道路が堤防の働きをしたためだ。 道路を管理するNEXCO東日本(東京都)によると、地震発生から12日未明までに、仙台若林ジャンクション(仙台市若林区)−名取インターチェンジ(名取市)間で、約230人が道路によじ登って命を取りとめたという(毎日新聞4月8日)。

「道路を隔てた町に住む人たちの多くは、海岸沿いの町で何が起きているのかを把握できていなかった可能性がある。停電が復旧した後、テレビでその様子を見て、『こんなにひどかったのか』と驚く人もいた」 成田氏は、多くの人の避難が遅れた理由の1つに、大規模な停電があったことを指摘した。 「テレビはもちろん、携帯電話もつながらない。ラジオは聞くことができたが、情報が足りなかった」

震災から数日後、成田氏は近所に住む警官が津波に襲われ、亡くなったことを聞かされた。 「2日ほど前に、警察学校でその警官から研修を受けた。講義の最後に握手をした。ショックだった。大事な人を失った……」 震災で避難誘導などに当たり、殉職した宮城県警の警察官は14人に上った。あの日から半年が経つが、宮城県警による遺体の捜索は続いている。この時期になると遺体は腐敗が進み、発見することが難しくなっているという。だが、海では海上保安庁、さらには漁師が船で操業中に見つけるときもある。 私が取材で訪れた日の午前中も、2人は海の上を飛んでいたという。西風が強かったようだ。成田氏は言う。 「宮城県民の多くは、自らの家族、友人、知人を震災で亡くしている。この人たちは今も遺体を待っている。それを思うたびに、『よし、見つけるぞ』と自分を奮い立たせている」

2人が「もどかしかった」と繰り返したのは、津波の横を車でゆっくりと走る人や、そのすぐ近くの道で話し合っている人たちが多かったことだ。  「荒浜地区の田園地帯では、津波の到達直前まで、多くの人が農道で海のほうを眺めていた。その後、津波が押し寄せた。

私は警察官らによる震災当日の勇気ある行動、そしてその後の執念とも言える遺体捜索への熱意を、読者に知って欲しかった。新聞やテレビで活躍する有識者は、警察を批判することはあっても、称えようとしない。彼らの多くは、実は警察を取材していない可能性がある。 防災に強い社会を作るためには、私たちが警察官を支えることも必要なのだ。今回の震災で殉職した警察官に感謝の念を伝え、ご冥福を祈りたい。

101NONAME:2011/09/20(火) 17:17:04
<花火大会>福島産打ち上げ中止 愛知・日進市に抗議殺到
毎日新聞 9月20日(火)12時53分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110920-00000047-mai-soci

 愛知県日進市で18日にあった花火大会で、実行委員会が福島県産の花火の打ち上げを中止したことに対し、実行委事務局を務める同市に「なぜ中止にしたのか」という抗議電話やメールが殺到している。19日から20日にかけて電話約100件、メール約200件が寄せられ、ほとんどが批判という。実行委は、打ち上げなかった福島産の花火を来年の同じ花火大会で打ち上げる方向で検討を始めた。

 実行委は「打ち上げで放射性物質が拡散するのでは」などと心配する市民の電話約20件があったため、福島産花火を別の花火に差し替えた。市によると、批判は「20件だけの意見にもかかわらず中止にして、より広い影響を与えたのは判断の誤りだ」「過敏に反応する人に配慮するのはいいが、差し替えの必要はない」などの内容が多いという。

 担当の市産業振興課は「福島の花火を中止したのは、放射線量の確認が間に合わなかったためで、危険だからではない。だが、そういう受け止め方が広まってしまっており、中止は失敗だった」と話している。【岡村恵子】

102NONAME:2011/09/20(火) 17:18:03
東日本大震災:愛知の花火大会、福島製打ち上げ中止 「支援」名目でも苦情相次ぐ
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110920ddm041040039000c.html?inb=yt

 愛知県日進市で18日夜にあった花火大会で、放射性物質の拡散を心配する声が市に寄せられたことを受け、市などでつくる実行委員会が、福島県の業者製造の花火の打ち上げを中止していたことが分かった。

 大会は「にっしん夢まつり・夢花火」。東日本大震災の復興支援を掲げ岩手、宮城、福島県の花火各80発を打ち上げる予定だった。

 市によると、16〜17日に市へ「放射性物質をばらまくのか」などの苦情や問い合わせが電話やメールで約20件寄せられたため、実行委が対応を協議。福島県の花火を作った同県川俣町の菅野煙火店が計画的避難区域の外にあることなどから当初は予定通り行う意向だったが、17日になって取りやめを決定。福島県の花火に代えて愛知県の業者の花火を使った。宮城県と岩手県の花火は打ち上げた。

 実行委事務局の市産業振興課は「放射線量の確認が間に合わなかった。安全を示す確実なデータがなかった」と中止理由を説明。萩野幸三市長は「打ち上げられない結果に至ったことは残念で、関係者に深くおわびしたい」とコメントした。

 打ち上げ中止について、菅野煙火店の菅野忠夫社長(77)は「風評被害だ。花火を見てもらえないのは悔しい」と話した。【稲垣衆史】

毎日新聞 2011年9月20日 東京朝刊

103NONAME:2011/12/13(火) 14:56:10
韓国の義捐金 20%を被災地に、70%を“独島守護活動”に
2011.04.20 07:00  http://www.news-postseven.com/archives/20110420_17938.html

近年の韓流ブームやアイドルグループの日本進出により、犬猿の仲といわれた日韓のわだかまりはすっかり解消されたかのようだ。

 そして東日本大震災の発生後、世界の主要国と同様に、韓国もいち早く日本支援に動いてくれた。震災翌日の12日には救助隊を派遣し、韓国の赤十字社には1日1億円以上の寄付が集まった。韓国ではARSという電話での募金システムが普及しており、1回の電話で2000ウォン(約150円)の募金をしようと多くの人々が日本のために受話器をとったという。

 ソウル・衿川区の職員たちも当初は、被災した日本人を思いやってくれる善意の人たちだった。衿川区は人口60万人で、日本人も63人が在住している。約1000人の区職員たちはお金を出し合い、1200万ウォン(約920万円)もの浄財が集まった。

 本来ならばそのまま何事もなく日本に全額送金されたことだろう。しかし、3月末、日韓双方が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)問題が、日本の中学教科書の検定結果が明らかになったことで再び注目を集める事態になってしまった。

 衿川区の広報課長、シン・ジョンイル氏が語る。

「独島を自国領土と捏造した内容をすべての中学校教科書に採択するような敵対的な態度を見せる日本に義捐金を送る必要などないという意見が多数出てきたため、3月31日と4月1日の2日間、職員を対象に『日本の地震被害支援募金の使用方法について』のアンケートを実施しました。330人から回答が集まり、『主旨通りに使う』が20%、『独島の守護活動を支援する』が70%、その他が10%という結果になりました」

 衿川区長チャ・ソンス氏は4月5日、アンケート結果を尊重して、募金のうち20%を日本へ送り、70%を独島守護活動団体に、10%をなぜか戦争性被害者(元従軍慰安婦)の団体に寄付することを発表した。

※週刊ポスト2011年4月29日号

104NONAME:2012/01/11(水) 02:22:28
希望新聞:東日本大震災 震災に耐えたカキ、出荷−−宮城・石巻の長面浦

 深刻な津波被害を受けた宮城県石巻市の長面(ながつら)浦で、震災を生き延びたカキの出荷が始まった。加工場を失ったため殻つきのみの販売だが、長面浦に面した尾崎(おのさき)地区の漁師、坂下健さん(72)は「自然豊かな長面浦のカキの味は格別」と地域復興への思いをカキに託している。

 長面浦は北上川河口近くの内湾。北上川を駆け上がった津波と追波湾からの津波に挟み撃ちにされ、長面地区約160戸はほぼ全戸流失した。尾崎地区57戸は背後まで迫った山に守られ、建物は何とか残った。

 坂下さん宅と妻・清子さん(65)が営む農家民宿「のんびり村」は、1階天井まで水につかった。被災後、坂下さんはいち早く尾崎に戻ることを決意。電気も水道もない中で復旧作業に励む。

 長面浦は淡水と海水が混在した汽水域に属し、通常育つのに2〜3年かかるカキが、10カ月で大きくなる。約100台のカキ棚の7割が被災したが、残るカキは立派に育った。坂下さんは「豊富な沢水や水底に茂るアマモのおかげで長面のカキは大きく味が濃い。ぜひ味わって」と話す。問い合わせはみやぎグリーンツーリズム推進協議会事務局(info@gtmiyagi.com)。詳細はhttp://www.gtmiyagi.com/11fs.html【中島みゆき】

http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20120106ddm012040031000c.html

106NONAME:2012/02/28(火) 16:32:38
震災11か月後でやっと「復興庁」発足 関東大震災時は26日後
2012.02.28 16:01
http://www.news-postseven.com/archives/20120228_90874.html

復興の司令塔の役目を担う「復興庁」が、大震災から11か月も経ってようやく発足した。つまり、この1年間は復興予算が膨らんだだけで、復興は全く進んでいないということなのである。大前研一氏が、その問題点を指摘する。

 * * *
 東日本大震災から1年近くが過ぎ、3つの問題が顕在化している。1つ目の問題は、1995年の阪神・淡路大震災や1960年に三陸を襲ったチリ地震津波といった過去の日本の災害復興に比べると、著しくペースが遅いことだ。
 
 その象徴が、復興の司令塔の役目を担う「復興庁」である。大震災から11か月も経ってようやく発足とは、呆れて開いた口がふさがらない。1923年の関東大震災の時に「帝都復興院」が設立されたのは26日後だ。つまり、今回は政府が全く機能していないのである。

 鈍重な民主党政権は瓦礫を片付ける以外の具体的な復興策は何も打ち出すことができず、昨年7月に決定した復興予算は、なんと合計23兆円に達した。しかも財務省が、消費税は社会保障以外には使わないという方針なので、2015年までに必要とされる19兆円のうち10.5兆円は、所得税額の2.1%上乗せを25年間、住民税の年1000円上乗せを10年間続け、法人税の減税を3年間凍結して捻出することになった。

 政府は最も少ない費用で最も大きな効果を狙わなければならないのに、この1年間は復興予算が膨らんだだけで、復興は全く進んでいないのである。非常時にこれほど悠長で無能な政府を私は寡聞にして知らない。

※週刊ポスト2012年3月9日号

107NONAME:2012/03/12(月) 23:07:07
復興庁発足、専任・平野復興相に辞令交付
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866918/news/20120210-OYT1T00558.htm

東日本大震災からの復興施策を統括する復興庁が、2012年2月10日発足し、本格的に業務をスタートさせた。

 野田首相は同日午前、国会内で、平野達男復興相を専任の復興相とする辞令を交付した。首相は同日昼に東京・赤坂の復興庁本庁で平野氏とともに看板掛けを行い、「被災地の期待に応えなければならないという責任の重さをずっしりと感じた」と述べた。

 復興庁は、震災から10年後の2021年3月末までの時限組織となる。各府省より一段高い位置づけとなり、復興に必要な政策を企画・立案し、復興事業の進み具合を管理する。復興予算を束ねる復興特別会計を所管し、市町村に復興交付金を配分するほか、復興特別区域(復興特区)の認定も行い、資金面でも施策面でも政府の「司令塔」となる。岩手、宮城、福島の被災3県の県庁所在地に復興局、3県の沿岸部に計6か所の支所、隣接の青森、茨城両県には事務所を置く。

(2012年2月10日13時35分 読売新聞)

こんな復興庁はいらない
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20111013/223167/?P=3&amp;ST=rebuild

108NONAME:2012/03/14(水) 01:30:27
大津波15メートル、屋上の明暗 九死に一生 宮城・南三陸町長が語る
2011.3.15 05:41 (1/2ページ)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110315/dst11031505490009-n1.htm

 屋上に上がったのは避難ではなく、津波の様子を見るためだった。宮城県南三陸町。3階建ての防災対策庁舎を濁流が襲ったとき、町幹部と職員約30人が屋上にいた。第1波で約20人がさらわれた。残った10人はさらに押し寄せた7回の波に耐え、生き残った。

 いまだに1万人の町民の行方が分からない。街路樹には地上から約15メートルの部分に漂流物がからみつき、3階建ての町営住宅の屋根には乗用車が乗っている。

 11日午後。最初の揺れは佐藤仁町長が9日に起きた地震の話を挙げて町議会の閉会あいさつをしているときに起きた。横揺れに立っていられず、議場にいた約40人は机の下に身をかわした。

 海辺の「南三陸ホテル観洋」のパート従業員、菅原つるよさん(65)は揺れがやんだ10分ほど後に海面が黒いことに気づいた。「養殖のワカメかと思ったら違った。水が引き、海底の黒い岩肌が見えていた」

 引いた水が戻ってきたときの恐怖の光景を、生き延びた住民は「波が入り江で高さ20〜30メートルの高さになった」「黄色い煙が上がり、壁のような黒い波が迫ってきた」と語る。海抜15メートルの場所にあった実家がのまれたカメラマン、三浦健太郎さん(33)のデジカメには午後3時26分撮影の記録が残る。

 佐藤町長は約30人の職員と庁舎屋上に上がり、300メートルほど離れた高さ7メートル以上の水門を波が越えるのを見た。「尋常じゃない」と思えた波は屋上を洗い、全員に襲いかかった。

 「10人が丈夫な手すりに引っ掛かった。残る人はネットフェンスの方に流され、しがみついたフェンスと一緒に、波が引いたら消えていた」と佐藤町長。10人は高さ5メートルの2本のアンテナによじ登った。「無理やりぶら下がった。おれたちだけでも助かるぞ、と職員を鼓舞した」。ずぶぬれの10人の下を波が何度も何度も過ぎていく。近くに住む町職員の自宅2階から、この職員の妻が流されていくのを「10人とも、この目で見てしまった」。

2011.3.15 05:41 (2/2ページ)
 波がおさまり、3階に戻った10人はネクタイを燃やして暖を取った。「夢だよな…」と誰かがもらした。佐藤町長は、夜が明けるのが半分うれしく、半分怖かった、と振り返る。「助けが来るかも、との期待と、現実を直視しなければいけないという恐怖だった」

 1960年に起きたチリ地震大津波で家を流された佐藤いち子さん(78)は、高台に建て直した家をまた失った。水はチリ地震の時よりも2キロも奥地に入り込んだ。だれも、ここまで来るとは夢にも思わなかったところまで。

109NONAME:2012/03/14(水) 01:49:31
写真家・畠山直哉さん 被災した故郷 撮り続け
2012.3.8 07:35 (1/5ページ)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120308/art12030807390002-n1.htm

「2012年1月28日、陸前高田市竹駒町」。気仙川にかかる大船渡線の鉄橋跡
 「アートは、人を治したり、社会を良くしたりするものじゃない」。震災による津波で母を亡くした写真家、畠山直哉さん(53)は壊滅的打撃を受けた故郷の岩手県陸前高田市を撮り続けている。フォトジャーナリズムではない。ヒューマニズムを訴えるつもりもない。アーティストとして、故郷の風景に向き合っている。まもなく1年が巡ってくるのを前に、その撮影に同行した。(篠原知存)

 海辺の町は、雪景色だった。ガレキが取り除かれた広大な土地に、ほとんど人影はない。復旧した国道を大型車両が行き交うが、ほかの街路はすべて真っ白で、足跡ひとつ残っていない。放置された建物の残骸のあいだを、冷たい風が吹き抜ける。

 「景色は去年の夏ぐらいからあまり変わっていない。でも、いろいろと忘れていく。濃淡を持ちながら、細部が薄れていく。あの日の震えていた気分は続いていない。変わったことといえば、それかな」

 月に1、2度のペースで帰郷するたび、町のあちこちを歩き、スナップ的に撮っているという。この日は実家のあった市内の気仙町を案内してもらえることに。気仙川沿いにあった生家は、土台しか残らなかった。

 「母は、ここから公民館に逃げたんだけど…」。一緒に山側へ道をたどる。避難場所は高台というほどの土地ではなかった。堤防が目線とほとんど変わらない高さに見える。公民館も、辺りの家もすべて流されていた。「水というより、家が押し寄せてきた感じだったらしいですね」

110NONAME:2012/03/14(水) 01:51:04
がんの産科医 子供が戻ってきた南相馬を楽園にしたい。それが最後の仕事だ。
2012.3.13 21:01 (1/3ページ)[喪失]
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120313/dst12031321040010-n1.htm

「見てきた赤ちゃんはどの子もかわいかったが、震災後に生まれた子供は格別だ」。高橋亨平院長はほおを緩めた=福島県南相馬市(早坂洋祐撮影)
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 少し年季が入った病院の2階。新生児室に1台だけ置かれたベッドには、白い産着に包まれた生後2日目の女の子が穏やかな表情で眠っていた。小さな口を開いたり、首を軽く動かしたり…。「よく生まれてきてくれた。ありがとう」

 福島県南相馬市の市街地に立つ産婦人科医院の高橋亨平院長(73)は刻まれた目尻のしわを、さらに深めた。

 東日本大震災後、東京電力福島第1原発事故への不安から分娩数が激減した。数少ない分娩可能な病院の院長として、市内で生まれた子供の多くを取り上げてきた。この1年で42人。

 しかし、子供たちの成長を楽しめる時間は、もうそれほど長くないという。

 昨年5月に大腸がんに侵されていることが判明した。肝臓と肺にも転移していた。

 「何もしなければ余命半年。ちゃんと治療を行えば1年は持つかな」。自ら見切った。

117NONAME:2025/08/13(水) 23:03:47
なんで みんな人工地震の可能性を調べないのかな

もし人工地震だったら嫌だから?www


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