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東日本大震災
1
:
NONAME
:2011/03/17(木) 20:10:10
生存あきらめた家族と再会 「おっとうのホッペつねってくれ」
2011.3.17 11:04
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110317/dst11031711060029-n1.htm
避難所の志津川小学校体育館で、壁に張られた伝言メモなどから知人の名前を探す藤島博之さん=16日午後、宮城県南三陸町(高久清史撮影)
約8千人の安否不明者が出ている宮城県南三陸町。避難所の志津川小学校体育館で、同町の調理師、藤島博之さん(53)は壁に張られた避難者の名簿に見入った。高橋修、篤子、陽一、和也…親友一家の名前はない。「高橋修さんはいますか」と叫んだが、人々は首を横に振った。
高橋さんの自宅は跡形もない。だが「必ず会える」とあきらめない。自分も離ればなれになった家族と再会できたからだ。
107
:
NONAME
:2012/03/12(月) 23:07:07
復興庁発足、専任・平野復興相に辞令交付
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866918/news/20120210-OYT1T00558.htm
東日本大震災からの復興施策を統括する復興庁が、2012年2月10日発足し、本格的に業務をスタートさせた。
野田首相は同日午前、国会内で、平野達男復興相を専任の復興相とする辞令を交付した。首相は同日昼に東京・赤坂の復興庁本庁で平野氏とともに看板掛けを行い、「被災地の期待に応えなければならないという責任の重さをずっしりと感じた」と述べた。
復興庁は、震災から10年後の2021年3月末までの時限組織となる。各府省より一段高い位置づけとなり、復興に必要な政策を企画・立案し、復興事業の進み具合を管理する。復興予算を束ねる復興特別会計を所管し、市町村に復興交付金を配分するほか、復興特別区域(復興特区)の認定も行い、資金面でも施策面でも政府の「司令塔」となる。岩手、宮城、福島の被災3県の県庁所在地に復興局、3県の沿岸部に計6か所の支所、隣接の青森、茨城両県には事務所を置く。
(2012年2月10日13時35分 読売新聞)
こんな復興庁はいらない
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20111013/223167/?P=3&ST=rebuild
108
:
NONAME
:2012/03/14(水) 01:30:27
大津波15メートル、屋上の明暗 九死に一生 宮城・南三陸町長が語る
2011.3.15 05:41 (1/2ページ)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110315/dst11031505490009-n1.htm
屋上に上がったのは避難ではなく、津波の様子を見るためだった。宮城県南三陸町。3階建ての防災対策庁舎を濁流が襲ったとき、町幹部と職員約30人が屋上にいた。第1波で約20人がさらわれた。残った10人はさらに押し寄せた7回の波に耐え、生き残った。
いまだに1万人の町民の行方が分からない。街路樹には地上から約15メートルの部分に漂流物がからみつき、3階建ての町営住宅の屋根には乗用車が乗っている。
11日午後。最初の揺れは佐藤仁町長が9日に起きた地震の話を挙げて町議会の閉会あいさつをしているときに起きた。横揺れに立っていられず、議場にいた約40人は机の下に身をかわした。
海辺の「南三陸ホテル観洋」のパート従業員、菅原つるよさん(65)は揺れがやんだ10分ほど後に海面が黒いことに気づいた。「養殖のワカメかと思ったら違った。水が引き、海底の黒い岩肌が見えていた」
引いた水が戻ってきたときの恐怖の光景を、生き延びた住民は「波が入り江で高さ20〜30メートルの高さになった」「黄色い煙が上がり、壁のような黒い波が迫ってきた」と語る。海抜15メートルの場所にあった実家がのまれたカメラマン、三浦健太郎さん(33)のデジカメには午後3時26分撮影の記録が残る。
佐藤町長は約30人の職員と庁舎屋上に上がり、300メートルほど離れた高さ7メートル以上の水門を波が越えるのを見た。「尋常じゃない」と思えた波は屋上を洗い、全員に襲いかかった。
「10人が丈夫な手すりに引っ掛かった。残る人はネットフェンスの方に流され、しがみついたフェンスと一緒に、波が引いたら消えていた」と佐藤町長。10人は高さ5メートルの2本のアンテナによじ登った。「無理やりぶら下がった。おれたちだけでも助かるぞ、と職員を鼓舞した」。ずぶぬれの10人の下を波が何度も何度も過ぎていく。近くに住む町職員の自宅2階から、この職員の妻が流されていくのを「10人とも、この目で見てしまった」。
2011.3.15 05:41 (2/2ページ)
波がおさまり、3階に戻った10人はネクタイを燃やして暖を取った。「夢だよな…」と誰かがもらした。佐藤町長は、夜が明けるのが半分うれしく、半分怖かった、と振り返る。「助けが来るかも、との期待と、現実を直視しなければいけないという恐怖だった」
1960年に起きたチリ地震大津波で家を流された佐藤いち子さん(78)は、高台に建て直した家をまた失った。水はチリ地震の時よりも2キロも奥地に入り込んだ。だれも、ここまで来るとは夢にも思わなかったところまで。
109
:
NONAME
:2012/03/14(水) 01:49:31
写真家・畠山直哉さん 被災した故郷 撮り続け
2012.3.8 07:35 (1/5ページ)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120308/art12030807390002-n1.htm
「2012年1月28日、陸前高田市竹駒町」。気仙川にかかる大船渡線の鉄橋跡
「アートは、人を治したり、社会を良くしたりするものじゃない」。震災による津波で母を亡くした写真家、畠山直哉さん(53)は壊滅的打撃を受けた故郷の岩手県陸前高田市を撮り続けている。フォトジャーナリズムではない。ヒューマニズムを訴えるつもりもない。アーティストとして、故郷の風景に向き合っている。まもなく1年が巡ってくるのを前に、その撮影に同行した。(篠原知存)
海辺の町は、雪景色だった。ガレキが取り除かれた広大な土地に、ほとんど人影はない。復旧した国道を大型車両が行き交うが、ほかの街路はすべて真っ白で、足跡ひとつ残っていない。放置された建物の残骸のあいだを、冷たい風が吹き抜ける。
「景色は去年の夏ぐらいからあまり変わっていない。でも、いろいろと忘れていく。濃淡を持ちながら、細部が薄れていく。あの日の震えていた気分は続いていない。変わったことといえば、それかな」
月に1、2度のペースで帰郷するたび、町のあちこちを歩き、スナップ的に撮っているという。この日は実家のあった市内の気仙町を案内してもらえることに。気仙川沿いにあった生家は、土台しか残らなかった。
「母は、ここから公民館に逃げたんだけど…」。一緒に山側へ道をたどる。避難場所は高台というほどの土地ではなかった。堤防が目線とほとんど変わらない高さに見える。公民館も、辺りの家もすべて流されていた。「水というより、家が押し寄せてきた感じだったらしいですね」
110
:
NONAME
:2012/03/14(水) 01:51:04
がんの産科医 子供が戻ってきた南相馬を楽園にしたい。それが最後の仕事だ。
2012.3.13 21:01 (1/3ページ)[喪失]
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120313/dst12031321040010-n1.htm
「見てきた赤ちゃんはどの子もかわいかったが、震災後に生まれた子供は格別だ」。高橋亨平院長はほおを緩めた=福島県南相馬市(早坂洋祐撮影)
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少し年季が入った病院の2階。新生児室に1台だけ置かれたベッドには、白い産着に包まれた生後2日目の女の子が穏やかな表情で眠っていた。小さな口を開いたり、首を軽く動かしたり…。「よく生まれてきてくれた。ありがとう」
福島県南相馬市の市街地に立つ産婦人科医院の高橋亨平院長(73)は刻まれた目尻のしわを、さらに深めた。
東日本大震災後、東京電力福島第1原発事故への不安から分娩数が激減した。数少ない分娩可能な病院の院長として、市内で生まれた子供の多くを取り上げてきた。この1年で42人。
しかし、子供たちの成長を楽しめる時間は、もうそれほど長くないという。
昨年5月に大腸がんに侵されていることが判明した。肝臓と肺にも転移していた。
「何もしなければ余命半年。ちゃんと治療を行えば1年は持つかな」。自ら見切った。
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