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東日本大震災

100NONAME:2011/09/20(火) 13:18:03
津波気づかず、道で話し合う人  http://news.livedoor.com/article/detail/5874939/

一体でも多くの遺体を家族のもとへお返ししたい――。巨大津波の上空を飛んだ警察官の絶望と絶えぬ執念
――宮城県警航空隊の成田聡・機長、平仁・操縦士のケース

カメラでズームアップすると、波のスピードが非常に早く、水圧が相当強いことがわかった。波のそばを車で走る人は、それがわかっていないように見えたという。「車の中からは波が平面に見えるため、あの勢いに気がつかないのではないか。上空から見ると、運転手は海が穏やかなときの波と同じ程度に感じているようだった」

「あの天候で低空飛行をするのは危険だった。だが、私たちなりの使命感があった。下には波に気がついていない人がいた。道で話し合っている人もいた。ゆっくりと走る車もあった。避難を呼びかけるパトカーや消防車も見えた。『このままではひどいことになる』と思った」

住民らはヘリコプターには気がつく。だがすぐには避難しない。その後も道で話し合っている人がいた。成田氏はうつむき加減に話す。 「私たちの気持ちはわかってくれたのかもしれない。でも、逃げようとしない姿を見ると無力感はあった」。 津波は地域一帯を飲み込み、仙台東部道路のほうにさらに向かう。ヘリコプターは道路の向こうの町の上空に先回りし、2人は避難を呼びかけた。平氏は、「あの波は道路を越えるような勢いだった。海が溢れ返っていた」と説明する。

道路を隔てた町の小学校の校庭では、先生と子どもたちが集まっていた。これは“地震の避難”であり、津波のそれではない。2人は、声をそろえる。 「もどかしかった。道路の反対の荒浜地区などでは、大きな被害が出ていた。その波がすごい勢いで迫っている。多くの人が、それに気がついていなかった」

波は、海岸線から2キロほどの仙台東部道路にまでたどり着いた。そこで一旦は止まった。道路が堤防の働きをしたためだ。 道路を管理するNEXCO東日本(東京都)によると、地震発生から12日未明までに、仙台若林ジャンクション(仙台市若林区)−名取インターチェンジ(名取市)間で、約230人が道路によじ登って命を取りとめたという(毎日新聞4月8日)。

「道路を隔てた町に住む人たちの多くは、海岸沿いの町で何が起きているのかを把握できていなかった可能性がある。停電が復旧した後、テレビでその様子を見て、『こんなにひどかったのか』と驚く人もいた」 成田氏は、多くの人の避難が遅れた理由の1つに、大規模な停電があったことを指摘した。 「テレビはもちろん、携帯電話もつながらない。ラジオは聞くことができたが、情報が足りなかった」

震災から数日後、成田氏は近所に住む警官が津波に襲われ、亡くなったことを聞かされた。 「2日ほど前に、警察学校でその警官から研修を受けた。講義の最後に握手をした。ショックだった。大事な人を失った……」 震災で避難誘導などに当たり、殉職した宮城県警の警察官は14人に上った。あの日から半年が経つが、宮城県警による遺体の捜索は続いている。この時期になると遺体は腐敗が進み、発見することが難しくなっているという。だが、海では海上保安庁、さらには漁師が船で操業中に見つけるときもある。 私が取材で訪れた日の午前中も、2人は海の上を飛んでいたという。西風が強かったようだ。成田氏は言う。 「宮城県民の多くは、自らの家族、友人、知人を震災で亡くしている。この人たちは今も遺体を待っている。それを思うたびに、『よし、見つけるぞ』と自分を奮い立たせている」

2人が「もどかしかった」と繰り返したのは、津波の横を車でゆっくりと走る人や、そのすぐ近くの道で話し合っている人たちが多かったことだ。  「荒浜地区の田園地帯では、津波の到達直前まで、多くの人が農道で海のほうを眺めていた。その後、津波が押し寄せた。

私は警察官らによる震災当日の勇気ある行動、そしてその後の執念とも言える遺体捜索への熱意を、読者に知って欲しかった。新聞やテレビで活躍する有識者は、警察を批判することはあっても、称えようとしない。彼らの多くは、実は警察を取材していない可能性がある。 防災に強い社会を作るためには、私たちが警察官を支えることも必要なのだ。今回の震災で殉職した警察官に感謝の念を伝え、ご冥福を祈りたい。

101NONAME:2011/09/20(火) 17:17:04
<花火大会>福島産打ち上げ中止 愛知・日進市に抗議殺到
毎日新聞 9月20日(火)12時53分配信 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110920-00000047-mai-soci

 愛知県日進市で18日にあった花火大会で、実行委員会が福島県産の花火の打ち上げを中止したことに対し、実行委事務局を務める同市に「なぜ中止にしたのか」という抗議電話やメールが殺到している。19日から20日にかけて電話約100件、メール約200件が寄せられ、ほとんどが批判という。実行委は、打ち上げなかった福島産の花火を来年の同じ花火大会で打ち上げる方向で検討を始めた。

 実行委は「打ち上げで放射性物質が拡散するのでは」などと心配する市民の電話約20件があったため、福島産花火を別の花火に差し替えた。市によると、批判は「20件だけの意見にもかかわらず中止にして、より広い影響を与えたのは判断の誤りだ」「過敏に反応する人に配慮するのはいいが、差し替えの必要はない」などの内容が多いという。

 担当の市産業振興課は「福島の花火を中止したのは、放射線量の確認が間に合わなかったためで、危険だからではない。だが、そういう受け止め方が広まってしまっており、中止は失敗だった」と話している。【岡村恵子】

102NONAME:2011/09/20(火) 17:18:03
東日本大震災:愛知の花火大会、福島製打ち上げ中止 「支援」名目でも苦情相次ぐ
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20110920ddm041040039000c.html?inb=yt

 愛知県日進市で18日夜にあった花火大会で、放射性物質の拡散を心配する声が市に寄せられたことを受け、市などでつくる実行委員会が、福島県の業者製造の花火の打ち上げを中止していたことが分かった。

 大会は「にっしん夢まつり・夢花火」。東日本大震災の復興支援を掲げ岩手、宮城、福島県の花火各80発を打ち上げる予定だった。

 市によると、16〜17日に市へ「放射性物質をばらまくのか」などの苦情や問い合わせが電話やメールで約20件寄せられたため、実行委が対応を協議。福島県の花火を作った同県川俣町の菅野煙火店が計画的避難区域の外にあることなどから当初は予定通り行う意向だったが、17日になって取りやめを決定。福島県の花火に代えて愛知県の業者の花火を使った。宮城県と岩手県の花火は打ち上げた。

 実行委事務局の市産業振興課は「放射線量の確認が間に合わなかった。安全を示す確実なデータがなかった」と中止理由を説明。萩野幸三市長は「打ち上げられない結果に至ったことは残念で、関係者に深くおわびしたい」とコメントした。

 打ち上げ中止について、菅野煙火店の菅野忠夫社長(77)は「風評被害だ。花火を見てもらえないのは悔しい」と話した。【稲垣衆史】

毎日新聞 2011年9月20日 東京朝刊

103NONAME:2011/12/13(火) 14:56:10
韓国の義捐金 20%を被災地に、70%を“独島守護活動”に
2011.04.20 07:00  http://www.news-postseven.com/archives/20110420_17938.html

近年の韓流ブームやアイドルグループの日本進出により、犬猿の仲といわれた日韓のわだかまりはすっかり解消されたかのようだ。

 そして東日本大震災の発生後、世界の主要国と同様に、韓国もいち早く日本支援に動いてくれた。震災翌日の12日には救助隊を派遣し、韓国の赤十字社には1日1億円以上の寄付が集まった。韓国ではARSという電話での募金システムが普及しており、1回の電話で2000ウォン(約150円)の募金をしようと多くの人々が日本のために受話器をとったという。

 ソウル・衿川区の職員たちも当初は、被災した日本人を思いやってくれる善意の人たちだった。衿川区は人口60万人で、日本人も63人が在住している。約1000人の区職員たちはお金を出し合い、1200万ウォン(約920万円)もの浄財が集まった。

 本来ならばそのまま何事もなく日本に全額送金されたことだろう。しかし、3月末、日韓双方が領有権を主張する竹島(韓国名・独島)問題が、日本の中学教科書の検定結果が明らかになったことで再び注目を集める事態になってしまった。

 衿川区の広報課長、シン・ジョンイル氏が語る。

「独島を自国領土と捏造した内容をすべての中学校教科書に採択するような敵対的な態度を見せる日本に義捐金を送る必要などないという意見が多数出てきたため、3月31日と4月1日の2日間、職員を対象に『日本の地震被害支援募金の使用方法について』のアンケートを実施しました。330人から回答が集まり、『主旨通りに使う』が20%、『独島の守護活動を支援する』が70%、その他が10%という結果になりました」

 衿川区長チャ・ソンス氏は4月5日、アンケート結果を尊重して、募金のうち20%を日本へ送り、70%を独島守護活動団体に、10%をなぜか戦争性被害者(元従軍慰安婦)の団体に寄付することを発表した。

※週刊ポスト2011年4月29日号

104NONAME:2012/01/11(水) 02:22:28
希望新聞:東日本大震災 震災に耐えたカキ、出荷−−宮城・石巻の長面浦

 深刻な津波被害を受けた宮城県石巻市の長面(ながつら)浦で、震災を生き延びたカキの出荷が始まった。加工場を失ったため殻つきのみの販売だが、長面浦に面した尾崎(おのさき)地区の漁師、坂下健さん(72)は「自然豊かな長面浦のカキの味は格別」と地域復興への思いをカキに託している。

 長面浦は北上川河口近くの内湾。北上川を駆け上がった津波と追波湾からの津波に挟み撃ちにされ、長面地区約160戸はほぼ全戸流失した。尾崎地区57戸は背後まで迫った山に守られ、建物は何とか残った。

 坂下さん宅と妻・清子さん(65)が営む農家民宿「のんびり村」は、1階天井まで水につかった。被災後、坂下さんはいち早く尾崎に戻ることを決意。電気も水道もない中で復旧作業に励む。

 長面浦は淡水と海水が混在した汽水域に属し、通常育つのに2〜3年かかるカキが、10カ月で大きくなる。約100台のカキ棚の7割が被災したが、残るカキは立派に育った。坂下さんは「豊富な沢水や水底に茂るアマモのおかげで長面のカキは大きく味が濃い。ぜひ味わって」と話す。問い合わせはみやぎグリーンツーリズム推進協議会事務局(info@gtmiyagi.com)。詳細はhttp://www.gtmiyagi.com/11fs.html【中島みゆき】

http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20120106ddm012040031000c.html

106NONAME:2012/02/28(火) 16:32:38
震災11か月後でやっと「復興庁」発足 関東大震災時は26日後
2012.02.28 16:01
http://www.news-postseven.com/archives/20120228_90874.html

復興の司令塔の役目を担う「復興庁」が、大震災から11か月も経ってようやく発足した。つまり、この1年間は復興予算が膨らんだだけで、復興は全く進んでいないということなのである。大前研一氏が、その問題点を指摘する。

 * * *
 東日本大震災から1年近くが過ぎ、3つの問題が顕在化している。1つ目の問題は、1995年の阪神・淡路大震災や1960年に三陸を襲ったチリ地震津波といった過去の日本の災害復興に比べると、著しくペースが遅いことだ。
 
 その象徴が、復興の司令塔の役目を担う「復興庁」である。大震災から11か月も経ってようやく発足とは、呆れて開いた口がふさがらない。1923年の関東大震災の時に「帝都復興院」が設立されたのは26日後だ。つまり、今回は政府が全く機能していないのである。

 鈍重な民主党政権は瓦礫を片付ける以外の具体的な復興策は何も打ち出すことができず、昨年7月に決定した復興予算は、なんと合計23兆円に達した。しかも財務省が、消費税は社会保障以外には使わないという方針なので、2015年までに必要とされる19兆円のうち10.5兆円は、所得税額の2.1%上乗せを25年間、住民税の年1000円上乗せを10年間続け、法人税の減税を3年間凍結して捻出することになった。

 政府は最も少ない費用で最も大きな効果を狙わなければならないのに、この1年間は復興予算が膨らんだだけで、復興は全く進んでいないのである。非常時にこれほど悠長で無能な政府を私は寡聞にして知らない。

※週刊ポスト2012年3月9日号

107NONAME:2012/03/12(月) 23:07:07
復興庁発足、専任・平野復興相に辞令交付
http://www.yomiuri.co.jp/feature/20110316-866918/news/20120210-OYT1T00558.htm

東日本大震災からの復興施策を統括する復興庁が、2012年2月10日発足し、本格的に業務をスタートさせた。

 野田首相は同日午前、国会内で、平野達男復興相を専任の復興相とする辞令を交付した。首相は同日昼に東京・赤坂の復興庁本庁で平野氏とともに看板掛けを行い、「被災地の期待に応えなければならないという責任の重さをずっしりと感じた」と述べた。

 復興庁は、震災から10年後の2021年3月末までの時限組織となる。各府省より一段高い位置づけとなり、復興に必要な政策を企画・立案し、復興事業の進み具合を管理する。復興予算を束ねる復興特別会計を所管し、市町村に復興交付金を配分するほか、復興特別区域(復興特区)の認定も行い、資金面でも施策面でも政府の「司令塔」となる。岩手、宮城、福島の被災3県の県庁所在地に復興局、3県の沿岸部に計6か所の支所、隣接の青森、茨城両県には事務所を置く。

(2012年2月10日13時35分 読売新聞)

こんな復興庁はいらない
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20111013/223167/?P=3&ST=rebuild

108NONAME:2012/03/14(水) 01:30:27
大津波15メートル、屋上の明暗 九死に一生 宮城・南三陸町長が語る
2011.3.15 05:41 (1/2ページ)
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/110315/dst11031505490009-n1.htm

 屋上に上がったのは避難ではなく、津波の様子を見るためだった。宮城県南三陸町。3階建ての防災対策庁舎を濁流が襲ったとき、町幹部と職員約30人が屋上にいた。第1波で約20人がさらわれた。残った10人はさらに押し寄せた7回の波に耐え、生き残った。

 いまだに1万人の町民の行方が分からない。街路樹には地上から約15メートルの部分に漂流物がからみつき、3階建ての町営住宅の屋根には乗用車が乗っている。

 11日午後。最初の揺れは佐藤仁町長が9日に起きた地震の話を挙げて町議会の閉会あいさつをしているときに起きた。横揺れに立っていられず、議場にいた約40人は机の下に身をかわした。

 海辺の「南三陸ホテル観洋」のパート従業員、菅原つるよさん(65)は揺れがやんだ10分ほど後に海面が黒いことに気づいた。「養殖のワカメかと思ったら違った。水が引き、海底の黒い岩肌が見えていた」

 引いた水が戻ってきたときの恐怖の光景を、生き延びた住民は「波が入り江で高さ20〜30メートルの高さになった」「黄色い煙が上がり、壁のような黒い波が迫ってきた」と語る。海抜15メートルの場所にあった実家がのまれたカメラマン、三浦健太郎さん(33)のデジカメには午後3時26分撮影の記録が残る。

 佐藤町長は約30人の職員と庁舎屋上に上がり、300メートルほど離れた高さ7メートル以上の水門を波が越えるのを見た。「尋常じゃない」と思えた波は屋上を洗い、全員に襲いかかった。

 「10人が丈夫な手すりに引っ掛かった。残る人はネットフェンスの方に流され、しがみついたフェンスと一緒に、波が引いたら消えていた」と佐藤町長。10人は高さ5メートルの2本のアンテナによじ登った。「無理やりぶら下がった。おれたちだけでも助かるぞ、と職員を鼓舞した」。ずぶぬれの10人の下を波が何度も何度も過ぎていく。近くに住む町職員の自宅2階から、この職員の妻が流されていくのを「10人とも、この目で見てしまった」。

2011.3.15 05:41 (2/2ページ)
 波がおさまり、3階に戻った10人はネクタイを燃やして暖を取った。「夢だよな…」と誰かがもらした。佐藤町長は、夜が明けるのが半分うれしく、半分怖かった、と振り返る。「助けが来るかも、との期待と、現実を直視しなければいけないという恐怖だった」

 1960年に起きたチリ地震大津波で家を流された佐藤いち子さん(78)は、高台に建て直した家をまた失った。水はチリ地震の時よりも2キロも奥地に入り込んだ。だれも、ここまで来るとは夢にも思わなかったところまで。

109NONAME:2012/03/14(水) 01:49:31
写真家・畠山直哉さん 被災した故郷 撮り続け
2012.3.8 07:35 (1/5ページ)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/120308/art12030807390002-n1.htm

「2012年1月28日、陸前高田市竹駒町」。気仙川にかかる大船渡線の鉄橋跡
 「アートは、人を治したり、社会を良くしたりするものじゃない」。震災による津波で母を亡くした写真家、畠山直哉さん(53)は壊滅的打撃を受けた故郷の岩手県陸前高田市を撮り続けている。フォトジャーナリズムではない。ヒューマニズムを訴えるつもりもない。アーティストとして、故郷の風景に向き合っている。まもなく1年が巡ってくるのを前に、その撮影に同行した。(篠原知存)

 海辺の町は、雪景色だった。ガレキが取り除かれた広大な土地に、ほとんど人影はない。復旧した国道を大型車両が行き交うが、ほかの街路はすべて真っ白で、足跡ひとつ残っていない。放置された建物の残骸のあいだを、冷たい風が吹き抜ける。

 「景色は去年の夏ぐらいからあまり変わっていない。でも、いろいろと忘れていく。濃淡を持ちながら、細部が薄れていく。あの日の震えていた気分は続いていない。変わったことといえば、それかな」

 月に1、2度のペースで帰郷するたび、町のあちこちを歩き、スナップ的に撮っているという。この日は実家のあった市内の気仙町を案内してもらえることに。気仙川沿いにあった生家は、土台しか残らなかった。

 「母は、ここから公民館に逃げたんだけど…」。一緒に山側へ道をたどる。避難場所は高台というほどの土地ではなかった。堤防が目線とほとんど変わらない高さに見える。公民館も、辺りの家もすべて流されていた。「水というより、家が押し寄せてきた感じだったらしいですね」

110NONAME:2012/03/14(水) 01:51:04
がんの産科医 子供が戻ってきた南相馬を楽園にしたい。それが最後の仕事だ。
2012.3.13 21:01 (1/3ページ)[喪失]
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/120313/dst12031321040010-n1.htm

「見てきた赤ちゃんはどの子もかわいかったが、震災後に生まれた子供は格別だ」。高橋亨平院長はほおを緩めた=福島県南相馬市(早坂洋祐撮影)
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 少し年季が入った病院の2階。新生児室に1台だけ置かれたベッドには、白い産着に包まれた生後2日目の女の子が穏やかな表情で眠っていた。小さな口を開いたり、首を軽く動かしたり…。「よく生まれてきてくれた。ありがとう」

 福島県南相馬市の市街地に立つ産婦人科医院の高橋亨平院長(73)は刻まれた目尻のしわを、さらに深めた。

 東日本大震災後、東京電力福島第1原発事故への不安から分娩数が激減した。数少ない分娩可能な病院の院長として、市内で生まれた子供の多くを取り上げてきた。この1年で42人。

 しかし、子供たちの成長を楽しめる時間は、もうそれほど長くないという。

 昨年5月に大腸がんに侵されていることが判明した。肝臓と肺にも転移していた。

 「何もしなければ余命半年。ちゃんと治療を行えば1年は持つかな」。自ら見切った。

117NONAME:2025/08/13(水) 23:03:47
なんで みんな人工地震の可能性を調べないのかな

もし人工地震だったら嫌だから?www


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