したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | メール | |

ウイグル民族浄化を考える

1777:2009/07/20(月) 12:18:57

中国が、ウイグルで民族浄化作戦を展開している。

民族浄化には、一定の民族を「絶滅させる」ために直接、市民を大量虐殺する方法と、その民族独自の宗教・習慣・文化・言語を「取り上げ」、一定の文化そのものを破壊し、存在させなくさせる方法がある。

後者は日本人に対し、日本語の使用を全面的に禁止し、寿司・刺身・和食を食べる事を違法行為・犯罪とし、コメの生産を犯罪行為として禁止する等の事態に該当する。

 現在、中国政府は7歳〜14歳までのウイグル人の子供をウイグル地域から「強制連行」し、漢民族の居住地域で生活させ、教育を受けさせている。つまり中国語を使う教育を強制し、ウイグル語を地球上から消滅させようとしている。そして中国文化の中で育て、ウイグル文化に「一切触れさせない」ようにし、ウイグルの文化の継承者が居ない状況を作り、その文化を破壊している。

これは民族虐殺に等しく、文字通り、民族浄化である。

中国政府の政策は、ナチスの行ったユダヤ人虐殺と同等であり、本来、多様な文化・言語が地球上に多数、存在する事によって、相互に影響を与え合い、新しい別の文化・文明が次々と作り出されてきた人類の歴史に対する「虐殺行為」である。中国政府の政策は全人類への「冒涜」「犯罪」である。

 また中国政府は、若いウイグル人女性を40万人、漢民族の済む天津、青島へ「強制移住」させ、ウイグル人同士の結婚を「事実上」禁止し、ウイグル人と漢民族の結婚・混血を強制している。これはウイグル人を「地球上から絶滅させる」ウイグル人絶滅政策であり、ナチスのユダヤ人虐殺と同一の政策である。

これは仮に、日本政府が、日本人同士の結婚を禁止するため、若い日本人女性を全員アメリカへ強制移住させ、事実上、日本人女性にアメリカ人との結婚しか「認めない」政策を取る事と同じである。

 しかも、強制移住させられたウイグル人女性は、安い賃金で一日12時間も労働を強制され、宿泊施設は衛生環境の悪い汚れきった部屋に閉じ込められ、刑務所での生活のような人生で「若い時代を浪費」させられている。

これは中国人によるウイグル人の事実上の奴隷化である。

 またウイグルの宗教はイスラムであるが、中国政府は18歳以下のウイグルの若者達にイスラムのモスク(寺院)への出入りを法律で禁止している。そして、イスラムの習慣である「ラマダン=断食」の時期に、ウイグルで食糧の配布を意図的に行っている。これ等は明らかなウイグルの宗教・文化に対する破壊工作であり、極めて悪質な「民族浄化・虐殺」である。

これが中国を「表に立てて行う、ロスチャイルドの世界帝国の支配原理」である。

ウイグルは、明日の日本の姿である。
http://alternativereport1.seesaa.net/article/123821982.html

90NONAME:2009/08/13(木) 16:36:09

38 :名刺は切らしておりまして :2009/08/13(木) 16:14:06 ID:+82MdHAG

前に職場で「中国では女の手足を切って『人豚』にするらしいよ」と話してたら
向こうのデスクで働いてた中国人が急に立ち上がって
「今は違うヨ!!!」
と叫んだのでみんな固まった。

91これが正しい民族浄化の方法:2009/08/13(木) 18:54:52

ハクジンの作り方

ヨーロッパ政府の先住民政策のことを少しでも知っている人ならすぐにわかると思うが、そう、これは、イギリス政府 (後にはオーストラリア政府)の先住民同化政策のひとつで、アボリジニー女性から生まれた赤ちゃんを出産後 母乳をやるのも許さず、すぐ取り上げ、ハクジン夫婦のもとで育てさせる。というもの。こうすることにより、アボリジニーのこども達は、親から文化を継承せず、イギリス人化する と考えたのだ。
私は知識としては知っていたけれど、まさか、こんな若い人がまだ、その政策の当事者として存在していることが、驚きだった。
私の勉強不足のせい、なのですが、ただ、この事実を豪州政府は公にはしない。
事実をしるためには、アボリジニーから聞いた話をドキュメンタリーにした本やビデオしかないのだ。

彼女曰く、この政策は、1980年まで続いた。だから今26歳以上のアボリジニ−は、みんな親を知らないで育った。「そんな最近まで!!」私には衝撃だった。
自分のこどもが、政府によって取り上げられ、2度と会えないのだ。親は子供の写真を見ることも、消息を知らされることも この制度が廃止されるまではなかったという。
たとえ、海外に行っても、死亡しても、知らされなかったのだ、と言う。

これだけでも、悲しいのに、彼女の話は終らない。
この制度は、ただアボリジニーを先祖から引き離し、イギリス人文化に馴染ませるためだけのものではなく、アボリジニーを抹殺するかわりに、彼らの肌を白くする政策でもあったのだ。
アボリジニーをひきとる親のほとんどは、女児を好む。
女児なら大きくなれば強姦し放題だからだ。そして妊娠させる。そしてその赤ちゃんの肌は母親より少し白くなる。だから、政府はそれをよしとしたのだ。
強姦したいハクジンの父親は、早ければ8歳くらいには、強姦すると言う。
彼女の周りでも、たくさんのアボリジニー女性がまだ幼い頃に強姦され、12、13歳で妊娠した人がいっぱいいたはずだ、と言う。もちろん 強姦された挙句生んだ赤ちゃんは、すぐ政府によって取り上げられるのだ。そしてその子も女児なら、運が良くなければ、強姦される運命だ。

男児はどうなるのか。地方や役人によっては、男児は、何の役にも立たないので、(アボリジニー女性は、ハクジン男性の性の遊びの役に立つが、アボリジニー男性がハクジン女性とセックスするのは、許されないし、アボリジニー女性と性交渉をすると、二人の赤ちゃんの肌の色は白くならない) 不必要として、生まれた直後 近くの壁にたたきつけて殺したのだ と言う。
私には、言葉も出なかった。

92これが正しい民族浄化の方法:2009/08/13(木) 19:00:01

彼女は自分の父親が誰だか知らないという。あるとき、病気で医者に行った時、医者から、両親にその病気をしたことがあるか、聞いていらっしゃい、それが予防に役立つと言われ、母親に父親の所在を聞いた。母親が インド人の男性だ、と教えてもらい、会いに行く直前、母親から止められて、何事かと思ったら、よく考えたら違うと言う。笑いながら、インド人だったら、あなたの肌はこんなに白くないわよね、と娘の肌をさすりながら言った と言う。で、父親は、アイルランド人、ハクジンだと言って、でも死んだのだ、と。
彼女は 父親に会うのはあきらめた、と言った。母親が話したがらないから。と。
考えてみればこのお母さんも 親から引き離されて、ハクジンの親の元、苦労して育ったわけだから、何があったかは、想像にかたくない。

彼女は、自分の肌をさすりながら、豪州政府はこの肌でもまだ白さが足りない、と言うわ。といった。肌の白さ、をこれほどまでに気にしながら生きていかなければならのは、信じられないほど理不尽だと思った。

彼女は言う。過去も悲しいけれど、今も悲しい。なぜかと言うと、時折話す、オーストラリア人(ハクジンだと思うけれど)は、総じてこの話を信じないと言う。政府がそんなことするはずない、と。彼女は、じゃあ、なぜ多くのアボリジニーがこんな都市に住んでいるの?各地にあった、トライブにいないの?なぜアボリジニーの言葉が話せないの?と聞くのだそう。
私には、ハクジンオーストラリア人が政府の行ったこの蛮行をしらないのはありえるとして、その本人からこういうことをされた、と言われて、政府がするわけない、と否定するその気持ちがよくわからない。
それほどまでに、政府を信じきっている気持ちが。いや、政府というか、ハクジンがそんな残酷なことをするわけない、とおもっているのかもしれない。
イギリス政府が行った数々の蛮行、植民地支配も何もかも習わず、海賊も彼らの誇り、アメリカ大陸の”発見”と勉強するし、あの土地の近代化をひたすら美化し、第一次大戦も、その後のすべての戦争も (ベトナム戦争、湾岸、今の戦争も)ひたすら、正義の戦いとして教わってきているからね。彼らは。ベトナムは、やるべきでなかった、とはいうけれど、政府には、ちょっと批判的でも、自国の兵士への同情だけ(ベトナムへはなし、)。

反省の”は”の字もない。

ここまで、国際社会の中で(おそらく、対非ハクジン国、民族にかぎって)イギリス系の自分達が間違っているわけない、という、強い信仰があるのだろうな。
一般の日本人が、沖縄の人から、占領された後、こういうひどいことを日本政府から、組織的にされた、と言われたら、頭から否定するかな。特に、強姦とか、殺人とか、そういうものは、抑圧につきものだし、あるかも、と思うのが、普通だと考えてしまう。

まあ、それはともかく、私はこの話をきいて、この国にいまでもひたすら起こりつづけている、先住民女児への、先住民男性からの強姦、性暴力事件の深層が、こういうところにあるのではないかと感じました。(下の方に投稿してあります。)
また、アボリジニー女性が強姦された事件で、容疑者がハクジン男性、アボリジニー男性にかかわらず、裁判員に女性が複数いても(ハクジンのみ裁判員)、裁判で有罪にならず、釈放されてくる事実を見て、アボリジニー女性らが、「私達が強姦されても、とにかく、ハクジン達は、彼らが女性であるか、男性であるかにかかわらず、同情はけっしてされない。どういうわけか、私達は、強姦されてもいい生き物と思われている」、と言った言葉の裏の意味が、今少し理解できる。

93これが正しい民族浄化の方法:2009/08/13(木) 19:05:11

さらに、大学時代、クラスで見た(女性学の授業、フェミニスト系の女性教授の中には、アボリジニーのことを理解しようとする人はいる)まだ、上陸したばかりのイギリス軍がアボリジニ−を虐殺する物語のビデオですが、クライマックスは、偶然に森に入っていた9歳くらいの少女は殺されるのをまぬがれ、じっと木の陰から、自分の親、兄弟、姉妹を含む、部族全員がイギリス軍の手によって銃殺されるのを目撃する というような話だったのですが、悲しすぎて、涙がとまらなかった。明かりがついて、60人くらいの生徒の誰ひとり(私以外全員ハクジン女性(一応見た目ですが)、涙ひとつ、うるうるした様子ひとつないのには、映画の内容以上に驚いたことを覚えています。が今、その理由がわかります。

ついでに書きますが、こちらでは、もちろん、ハクジンが全員ひどいのではありません。何とかしようとするハクジンだっているのです。
最近こういう不満がハクジンから出され、報道されました。
今では、アボリジニーの赤ちゃんが母親から強制的に奪われることはなくなりましたが、アボリジニー家庭はすさみ、アルコール中毒やら暴力やらで、親としてきちんと子育てできない家庭が多く、中には、ハクジン夫婦が 好意で親が落ち着くまで預かる制度があります。(これは、ある程度管理されていて、強姦などはできないようですが)
そのハクジンの親で、それは 自分の子供のように一生懸命面倒見る人もいるわけです。
その中で、学校にきちんと行かせ、宿題をさせ、ドラッグをすわないように ある意味愛情こめてしつけている親がいました。政府はその親に対し、こういう”質のいい”子育てをするのは、契約違反だから、すぐ止めないと、告訴する、というのです。
腹を立てた親が、テレビ局に話して公になったわけです。
政府いわく、先住民のこどもはいずれ、ドラッグを吸い、しつけもろくにできない親元に返るのだから、かけ離れたことをするのは だめ。ということです。
ハクジン親は、親がたとえ吸っても、あなたは自分の身体のため、やめなさい。と教えて何が悪い、また、勉強に興味を持ち、学校に行く習慣ができれば、その子の将来の利益になる、と主張しました。
また、別の アボリジニーの子供をあずかった親からも こんな政府への不満がテレビ局にとどきました。
このこどもが自分のこどものように可愛く、将来は頑張って欲しいから、その子と別れる時、将来大学に行きたくなったら私に連絡しなさい。援助してあげる、と言ったそうです。それを知った政府にそんなことはするなと言われた、と。不公平だと。
あづかった親は、言う。政府は他の子に対し不公平だというが、本当の理由は違う。
彼らは、アボリジニーに、その地位を向上してほしくないのだ。

話をもとのもどすと、そのアボリジニー女性に、私は ここはあなたの土地よ。と言ってしまった。
むなしいだけなのに。
マオリの人に、私たちは、同じ先住民でもアボリジニーよりずっとましなんだ。といっていたことが胸にしみた。
どうなったら、彼らの幸せはやってくるのでしょうか。

http://www.asyura2.com/0601/social3/msg/428.html

94NONAME:2009/08/13(木) 19:16:01
白人に対しての美に対する基準は、大航海以後のことで
それ以前は、例えばモスクワ大公国なんかの歴史見てみればモンゴル人のマネ
ばっかしてんだ。ようするに力がすべてだった時代に、世界的な美の基準が
存在するはずがねえんだ。民族、人種ごとに美の基準が違うの当たりまえで
例を挙げると、対照的な黒人の中にアルビノの子が生まれるとその子どもは
悪霊の化身として忌み嫌われたんだ。ありえないだろう 真っ白な皮膚に
睫まで白、縮れた毛まで白なんざ ビックリもんだょ、
ブラック・アフリカで白子は、部族長を長とする階級社会では、最下層に
なるんだ。 白人に対してのそれ以外の人種は大航海時代ぐらい辺りから
出来上がったもんなんだ。産業革命以降それが鮮明になった、それはやはり
力の思想だよ、最初に美の基準があったんじゃなくて、支配した人種・民族に
支配された他の民族が焦がれるところから出来上がるんだ。
ちなみに、白人が発生したのは、紫外線の少ない、多いじゃ説明できないとこ
あんだよ、 アルビノ いわゆる色素遺伝子異常と白人人種の関連性は大に
ありそうなんだが、どうもその辺のとこが人種学で一種のタブーらしいんだ。
今の美の基準は、ヨーロッパ経由でアメリカ発 ハリウッド版基準ってのだが
これも、怪しいどうしてか、日本のウィキではアメリカ人スターがハーフ混血やクオター
であること、まず書いてねえけど、アメリカ版では実に多くのスターが血が
混じりあったもんだかわかるぜ。インディアンの血なんかほとんどハリウッド
の方へ流れたんじゃねえかって、アメリカ版ウィキイでハリウッドスターの経歴
見てみろ、雑種のオンパレードだよ。

95731:2009/08/14(金) 01:53:43
>82. 777さんへ。

・・・そうやって、お茶を濁している間に。現在の日本の政治家たちが全員
寿命で死んでくれればいいと、私は思う。

96NONAME:2009/08/14(金) 02:55:19
「白人」=西洋人=ヨーロッパ人種が "容貌" ( 顔や形や肌色や髪色 )にこだ
わって来たのは。おそらく彼らの文明が『都市国家』だったことに関係がある
と思う。つまり、少なくとも200年前まではイギリスの "ロンドン " "リバ
プール" "マンチェスター" や。イタリアの "ミラノ" "ナポリ" "ベニス" や
フランスの "パリ" "ベルサイユ" "プロヴァンス" や。ドイツの "プロイセン
" "ミュンヘン" "バイエルン" などなど・・は、それぞれの王様がいる『別の
国家』だった。 ( ←まー、キミが「世界サッカー」に少しでも興味があった
          ら。そのあたりの事情が分かるだろう。例えば同じイギ
          リスチームなのに、なぜスコットランドチームとかイン
          グランドチームとかウェールズチームなんて言ってるの
          だろう? とかね )

それは、「東京」と「名古屋」と「大阪」とを呼び違えた・・・なんて程度の
モノじゃない。

例えば、それは。ガイジンが「ワタシ、ニッポンダイスキデス。ニーハオ!」
とか「ニッポン、シッテマス。首都はシャンハイ、大統領はガンジーです」
とか言ってるようなものだ。

つまり、彼らは『隣人との違い』を常に強調して来たし。これからも、そう
し続けて行くだろう・・・いわゆる "民族アイデンティティー" ってヤツだ

:やあ、日本人諸君。アンニョンハセヨ!みんな黄色い肌、黒い髪の毛。
 何が違うの?

    p.s「違う」とイイのか悪いのか?「同じ」だとイイのか悪いのか?
      私は知らないが。

97777:2009/08/14(金) 08:12:16

白人は大昔から略奪で食ってますからね.

他民族を征服した場合はいい女だけ残して他は全員殺す.

魔女狩りでもいい女を残してブスは全員殺す.


これを日常的に繰り返して今の金髪碧眼の白人ができたんですね.

98777:2009/08/14(金) 08:17:40

アングロサクソン社会は当初から資本主義社会であり、それと同時に反産業主義であった

彼らにとっては戦争が生業であり、平和な時は酒を飲んで賭け事に夢中になっていた。勤勉に働くという事は彼らの文化には無い。


アングロサクソン文明とアングロサクソン以外の欧州(以下、欧州とします)文明は、なぜ近くにあって大きく違うのでしょうか。また、それぞれどのような文明なのでしょうか。
アングロサクソンはゲルマン民族の伝統をほば変わらず持ち続け、他方、欧州(のゲルマン諸族)はローマ化してゲルマンの伝統をほぼ失ってしまった人々であり、また(大雑把に言って)アングロサクソン文明はゲルマン由来の「個人の自由の尊重」(=個人主義)を中心的価値とする文明であり、欧州はローマ由来の「宗教(中世まで)や一般意思(近代以降)の優越する」文明(=全体主義的)、ということのようです。

では具体的に、ゲルマン民族の価値観や文化とはどういうもので、どのように形成され、なぜブリテン島のアングロサクソンにだけ受け継がれたのでしょうか。

「タキトゥスの「ゲルマーニア」(岩波文庫1979年4月。原著は97-98年(1世紀))は、ローマ時代のゲルマン人について記述した有名な書物ですが、以下のような記述があります。
 「人あって、もし彼ら(筆者注:ゲルマン人のこと)に地を耕し、年々の収穫を期待することを説くなら、これ却って、・・戦争と[他境の]劫掠<によって>・・敵に挑んで、[栄誉の]負傷を蒙ることを勧めるほど容易ではないことを、ただちに悟るであろう。まことに、血をもって購いうるものを、あえて額に汗して獲得するのは欄惰であり、無能であるとさえ、彼らは考えているのである。」(77頁)
 これは、ゲルマン人の生業が戦争であることを物語っています。つまり、戦争における掠奪(捕獲)品が彼らの主要な(或いは本来の)生計の資であったということです。
 こういうゲルマン人がやがてローマ帝国に侵攻し、これを滅ぼしてしまうのですが、欧州大陸のゲルマン人はやがてローマ化していまい、戦争が生業ではなくなっていきます。
 ところが、ローマが自分でイングランドから撤退した後、文明のレベルが違いすぎてローマ文明を受け継ぐことのできなかった原住民のブリトン人(ケルト系)を、スコットランドやウェールズといった辺境に駆逐する形でイングランドを占拠したアングロサクソン人(ゲルマン人の支族たるアングル、サクソン、ジュート人がイングランド侵攻後、混血したもの)は、ゲルマン「精神」の純粋性を保ち続けます。
だから、アングロサクソンにとっては、戦争は生業であり続けたのでした。

「では、そのゲルマン人とは、どのような人々だったのでしょうか。
 私はかつて(コラム#41で)、タキトゥスの「ゲルマーニア」(岩波文庫)の中の以下のようなくだり・・(略)(77頁)・・を引用して、「これは、ゲルマン人の生業が戦争であることを物語っています。つまり、戦争における掠奪(捕獲)品が彼らの主要な(或いは本来の)生計の資であったということです。」と指摘したことがあります(注8)。

 (注8)戦争にでかけていない時、つまり平時においては、男性は「家庭、
    家事、田畑、一切の世話を、その家の女たち、老人たち、その他す
    べてのるい弱なものに打ち任せて、みずからはただ懶惰にのみ打ち
    暮らす。」(79頁)というメリハリのきかせ方だった。

 ゲルマーニアには、「彼らは、公事と私事とを問わず、なにごとも、武装してでなければ行なわない。」(70頁)というくだりも出てきます。
 つまり、ゲルマン人の成人男性は全員プロの戦士であったわけです。
 しかも、以下のくだりからも分かるように、ゲルマン人の女性もまた、その意識においては男性と全く同じでした。
 「妻・・らはまた、・・戦場に戦うものたち(夫や子息たち)に、繰りかえし食糧を運び鼓舞・激励をあたえさえする・・。」(53頁)

戦争が生業であったということは、ゲルマン人はハイリスク・ハイリターンを求める人々(リスク・テーカー=ギャンブラー)であったということです(注9)。

 (注9)「彼らは・・賭博を・・あたかも真摯な仕事であるかのように行な
    い、しかも・・最終最後の一擲に、みずからの自由、みずからの身
    柄を賭けても争う・・。」(112頁)

99777:2009/08/14(金) 08:48:27

注意すべきは、ハイリスクであるとはいえ、戦争は、それが生業である以上、合理的な経済計算に基づき、物的コストや自らの人的被害が最小になるような形で実行されたであろう、ということです。」(コラム#852(*2)より抜粋)

 以上のように、ゲルマン民族は一人一人が戦士であり、戦争を生業とする人々であったようです。額に汗して働くことよりも、自分が負傷したり命を落とすリスクがあっても、戦争によって掠奪品を得るほうが、はるかに効率がよく得るものも大きいと、当然のように考えている人々だったのです。
 そして戦争遂行という最優先事項のためには、部族の全員が一丸となって協力し、また戦争をする上では、合理的な計算に基づいて、可能な限りコストや被害を少なくして、いかに効率よく戦争を遂行できるかということを追求した形で、実行されていたのです。

ゲルマンの成人男子は一人一人がプロの戦士で、部族全体が戦争という生業のために一致協力していた、ということは分かりました。では、その戦闘民族的な側面以外に、ゲルマン特有のユニークな点はあるのでしょうか。

 「ここで、女性も戦場に赴いた、という点はともかくとして、このようなゲルマン人と似た特徴を持った民族なら、例えば、モンゴル等の遊牧民を始めとしていくらでもある、という反論が出てきそうですね。
 それはそうなのですが、ゲルマン人がユニークだった点が二つあります。
 その個人主義と民主主義です。
 「彼らはその住居がたがいに密接していることには、堪えることができない・・それぞれ家のまわりに空地をめぐらす。」(81〜82頁)、「蛮族中、一妻をもって甘んじているのは、ほとんど彼らにかぎられる・・。・・持参品は・・夫が妻に贈る・・。妻はそれに対して、またみずから、武器・・一つを夫に齎す。」(89〜90頁)が個人主義を彷彿とさせる箇所です。
 また、「小事には首長たちが、大事には・・[部族の]<成人男子たる>部民全体が審議に掌わる。・・最も名誉ある賛成の仕方は、武器をもって称賛することである。・・会議においては訴訟を起こすことも・・できる。・・これらの集会においては、また郷や村に法を行なう長老(首長)たちの選立も行なわれ・・る。」(65〜69頁)のですから、古典ギリシャのポリスのそれ並に完成度の高い直接民主制であったと言えるでしょう。
 以上をまとめると、ゲルマン人は、個人主義者であり、民主主義の下で、集団による戦争(掠奪)を主、家族単位による農耕(家畜飼育を含む)を従とする生活を送っており、合理的計算を忘れぬギャンブラーであった、というわけです。」(コラム#852より抜粋)


「まず、押さえておくべきは、プロの戦士であったアングロサクソンにとって経済活動は、食い扶持を確保した上で、更に戦士としての実益の追求を兼ねた趣味ないし暇つぶしに過ぎない、ということです。
 ここで実益の追求とは、個人的戦費及び集団的戦費(税金)を確保することであり、かかる実益の追求を兼ねた趣味ないし暇つぶしを、彼らはいかに楽に行うかに腐心しました(注13)。

 (注13)ちなみにアングロサクソンは、「戦士としての実益の追求を兼
    ね」ない趣味ないし暇つぶしの多彩さでも知られている。彼らが後
    に、読書・科学研究・スポーツ・レジャー・観劇・旅行、等に狂奔
    したことが、近代文学・近代科学・近代スポーツ・近代レジャー・
    近代演劇・パック旅行、等を生み出すことになった(コラム#27)。

 タキトゥスの叙述からもお分かりのように、彼らは、その生業としての戦争に従事している間、生死をかけること等に伴うストレスにさられただけでなく、集団行動に伴うストレスにも(個人主義者なるがゆえに)さらされたことから、平時においては、各自がばらばらにリラックスをして過ごすことによって、精神的バランスを回復する必要がありました。
 しかも彼らにはその「自由の意気と精神」から支配者がおらず、またその「戦争における無類の強さ」に恐れをなして彼らを掠奪の対象とするような者もほとんどいなかった上に、彼らにとって戦争が経済計算に立脚した合理的営みである以上、戦費は巨額なものにはなりえませんでした。ですから彼らは、支配者に貢ぐために、あるいは外敵によって掠奪されることを見越して、あるいはまた巨額の戦費を捻出するために、ひたすら額に汗して働かなければならない、という状況にはなかったわけです。
 そういうわけで彼らが経済活動にあたって考えることといえば、目標とした一定の収益を、いかに最低限の労力やコストの投入によって確保するかだけでした(注14)。」(コラム#857(*3)より抜粋)

100777:2009/08/14(金) 08:58:42

自由の意気と精神、つまりは戦士たる己の力(能力)のみを頼りとして支配されることを由としないということ、それぞれが戦士として自立していること、戦時以外の自由を尊重すること、これらのことから、ゲルマン人にはごく自然なこととして個人主義が定着していたと思われます。
 部族内においては、戦時以外では自分も他人も自由が侵されず、制度的なしがらみもない。ゲルマン人は戦争を生業とする戦士であったことで、かなりの程度、個人主義、自由主義が文化として浸透していたようです。また(義務を果たしている人々である)戦士による直接的な民主主義も行われていました。一見、個人主義や民主主義というと、古代ギリシャ等、文化的に高いレベルにあって初めて実現すると思い勝ちかもしれませんが、なるほど、武の伝統から生まれることもある、というところはユニークで面白いですね。

では、このようなゲルマンの伝統が、いかにしてブリテン島に伝播し、維持されていったのでしょうか。アングロサクソンの起源を確認しておきましょう。

 「今まで随時、アングロサクソン論を展開してきましたが、このあたりでアングロサクソンとは何かを振り返っておきましょう。
5世紀に、スカンディナビア及び北ドイツから様々なゲルマン支族がイギリスに渡ってきて、ケルト系先住民のブリトン人(=ローマ文明を継承できていなかった)を辺境に駆逐した上で定住し、相互に通婚してアングロサクソンとなります。(8世紀にベード(Bede)は、アングル支族、サクソン支族、ジュート支族の三支族が渡ってきたと記しましたが、これは単純化しすぎだと言われています。)(Historical Atlas of Britain, Kingfisher Books, 1987 PP30)
 このアングロサクソンは、7世紀末までにキリスト教化します(前掲Historical Atlas of Britain PP32)。アングロサクソンの部分的ローマ化、欧州化です。
しかし、9-10世紀には、アングロサクソンは、まだキリスト教化していない、デンマーク(一部ノルウェー)のバイキング(デーン人)の侵入、定住化を経験します。(前掲 PP38)(なお、11世紀初頭には、アングロサクソンは、後にデンマーク王とノルウェー王を兼ねることになる、デーン人(その頃には既にキリスト教化していた)の王族カヌートに一時征服されます。(前掲 PP52))
 更に1066年には、アングロサクソンは、フランス北部に侵入、定住したバイキング(ノルマン人)の子孫である、ノルマンディーの領主ウィリアム公に征服されます。(前掲 PP55-57)
 このように、アングロサクソンは、もともとゲルマン人としての純粋性を維持していた上に、キリスト教化した後も、累次にわたってかつての同胞であるバイキング・・キリスト教化していなかった者も少なくなく、しかも、極めて能動的(=悪く言えば、好戦的で侵略的)でした・・の侵入、定住化、征服を受け、その都度、ゲルマン精神を「再注入」させられ、「純化」させられたのです。そのおかげで、アングロサクソンは、精神のローマ化・欧州化を基本的に免れることができたのです


「また、メイトランドが、アングロサクソン文明と欧州文明の最初の岐路について、イギリスではアングロサクソンが侵攻した時にローマ文明が拭い去られた(swept away)のに対し、欧州(フランス・イタリア・スペイン)ではゴート族やブルグンド族は侵攻先のローマ=ガリアの人々の中の圧倒的少数派に過ぎず、しかも彼らが(征服者ではなく)ローマ皇帝の家来ないし同盟者に他ならなかったことからローマ文明の法・宗教・言語が生き残った(注4)ことを挙げている(PP77)ことも知りました。」(コラム#1397(*5)より抜粋)

 以上のとおり、ガリアのゲルマン諸族はローマ化した結果、ゲルマンの伝統を失うことになり、海を渡ってブリテン島に渡来して現地民と同化したアングロサクソンには純粋な形で残ることとなりました。さて、そんなゲルマンの伝統をほぼ純粋に受け継いだアングロサクソンの国、英国とはどのような社会になったのでしょうか。(ちなみに最新の研究によるとアングロサクソンの起源はバスク系の人々とベルガエというゲルマン系の人々がかなり関係しているようです。詳しくはコラム#1687(*6)を参照してください。)

(*4)コラム#74<アングロサクソンと北欧神話(アングロサクソン論3)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955759.html
(*5)コラム#1397<マクファーレン・メイトランド・福澤諭吉(その1)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954436.html
(*6)コラム#1687<アングロサクソンの起源>
http://blog.ohtan.net/archives/50954197.html

101777:2009/08/14(金) 09:05:53

イギリスはその歴史始まって以来、(すべての成人が、生産財、消費財のいかんを問わず、自由に財産を処分できるという意味で)資本主義社会であり、産業革命前に既にその「反産業主義的」資本主義は、高度に成熟した段階に達していました。
 そして、(これについてもいずれ詳細にご説明するつもりですが、)イギリスは反産業主義(反勤勉主義)であったからこそ、(機械化によって楽をしようとして)産業革命を世界で初めてなしとげます。そして、イギリスは良かれ悪しかれ、反産業主義のまま現在に至っているのです。(「産業精神」参照)」(コラム#81(*11)より抜粋)

 「また、古典ギリシャ社会においても古ゲルマン社会においても、労働には低い社会的評価しか与えられていませんでした。アテネ等のポリスでは、奴隷が労働に従事し、市民はもっぱら政治と軍事に精を出したものですし、ゲルマン民族の男達は、「戦争に出ないときにはいつも、幾分は狩猟に、より多くは睡眠と飲食に耽りつつ、無為に日をすごす・・家庭、家事、田畑、一切の世話を・・女たち、老人たち<など>・・に打ち任せて・・懶惰にのみ打ちすごす」(タキトゥス「ゲルマーニア」(岩波文庫版)78〜79頁)のを常としました。
 ですから、貧しかった時代ならいざ知らず、豊かになった現在の西欧諸国において労働時間が著しく減ってきたのもむべなるかなとお思いになるでしょう。

アングロサクソンは世界でほぼ唯一生き延びた純粋なゲルマン人であり、ゲルマン人の生業(本来の労働)は戦争(=略奪行為)だったことを思い出してください(上記引用参照)。これは戦争以外の時間はゲルマン=アングロサクソンにとっては来るべき戦争に備えて鋭気を養う余暇だったということを意味します。だから農耕・牧畜(=食糧確保)に比べて狩猟(=食糧確保+戦争準備)をより好んだとはいえ、これら「労働」も「無為・懶惰に過ごす」こととともに余暇の一環であり、「労働」を減らす、制限するという観念は、元来彼らにはなじまないのです。
 そして、キリスト教の聖書を世界で初めてに民衆が読める自国語に翻訳して大量に普及させたアングロサクソンは、ゲルマン人としての彼らのもともとの好き嫌いを踏まえ、農耕・牧畜等の「懲罰」としての「額に汗」する「労働」(labour。「陣痛」という意味もある。同義語はtask)と狩猟等のそれ以外の「労働」(work。同義語はbusiness)とを明確に区別し、hard work を厭わず(?!)labourを減らすことに腐心してきました。その最大の成果の一つがイギリスを起源とする18世紀のいわゆる産業革命です(コラム#81参照)。
 これに対し、西欧ではこの二種類の「労働」を区別することなく、どちらも忌むべきものとして削減することに努めてきた、と私は考えています。」(コラム#125(*12)より抜粋)

 アングロサクソン社会は当初から資本主義社会であり、それと同時に反産業主義であったというのは面白いですね。楽をしたいからhard workを厭わないというのも、とても面白いと思います。英国が様々な創意工夫をして近代的な発明を数多く生み出したのも、よく分かる気がします。

102777:2009/08/14(金) 13:03:41

白人が美しいというのは民族的偏見じゃないんです.

白人は遊牧・牧畜民で遺伝子操作のプロですからね.
劣った遺伝子はすべて淘汰する. これが白人の考え方.


白人が他民族を征服した場合はいい女だけ残して他は全員殺す.

魔女狩りでもいい女を残してブスは全員殺す.


これを日常的に繰り返して今の金髪碧眼の美しい白人ができたんですね.


農耕民のアジア人やアフリカ人には遺伝子操作ができないから不細工な人間も淘汰されないで生き延びてきたんです.

白人が美しいというのは真実.

103777:2009/08/14(金) 14:52:46

白人の潜在意識では「黒人≒類人猿」であることが判明(米研究)

>サブリミナル実験から、アジア人はどう見られている?「黄色人種≒   」。

非常にショッキングな内容の研究レポートがアメリカ心理学会の月刊誌に発表されていた。

「この研究は、今まで手掛けたものの中でも最も気の滅入るものの一つです」
「ゾッとしてしまいました。研究をしていく中で、疑念というか直感がわくものですが、
黒人を類人猿と結びつける傾向がこんなにも強いということは受けとめ難いことでした」

サブリミナル実験から、白人の潜在意識では「黒人≒類人猿」であることが判明(米研究)
http://omoroid.blog103.fc2.com/blog-entry-177.html
男性100人に1人、女性300人に1人はサイコパス(精神病質者 反社会性人格障害者)
http://omoroid.blog103.fc2.com/blog-entry-173.html

104NONAME:2009/08/15(土) 11:31:05
白人は、近代に文明の利器あってこそ、その生活領域を広げられたと思ってるんでね。
それほど、生物学的に見れば優れてるとは思えない。
近代以前のオーストラリアロイドは黒人に外見こそ近いが、モンゴロイドに属する
外見上ネグロイドと考えるなら、オーストラリアまで、北限領域では、ヨーロッパフィン人 アイスランドの先住民
広い太平洋に点在している島々に生活しているは、元は東南アジア脱出組のサモアン、太平洋を
航海しているうちに、短期間で体がでかくなった、のんびり太平洋航海とはいかなかった、その
航海中に体を巨大化させた、寒さから身を守るため元は小さかった東南アジア系の人間が巨人伝説
の元ネタになるほど外見を変化させた、南北アメリカ ネイティブ・アメリカンはモンゴロイドのみ
居住し、バイキングの白人が行ったかも知れないが、集団を作るまでにはならなかったろう。後からのエスキモー
まですべてモンゴロイド、 アフリカのマダガスカルまで航海したのは現代のインドネシア人の先祖。
地球居住範囲、人が住める環境 特にしんどい温度差に適応できたのはモンゴロイドだけだろう。
極限の寒さから極限の暑さまで。 生物種としての適応能力はモンゴロイドが
上だ。  ローマ人が高きローマ人はいつか猛き野蛮人ゲルマン人に征服されるだろうと予感し、そのとおりに、なったのには同意だ。

105777:2009/08/16(日) 10:26:06
<白人は、近代に文明の利器あってこそ、その生活領域を広げられたと思ってるんでね。>

アーリア人は鉄器を世界で最初に作ったヒッタイトの事ですね.

ヒッタイトが滅びた後でペルシャ,インド,ギリシャ,ゲルマン方向に分裂して各地を征服した.

3000年前から白人というかコーカソイドは向かう所敵無しでしたけどね.

106NONAME:2009/08/16(日) 13:19:25
インダスインドの最初の文明築いたドラビィタは白人じゃねえんだ。色が黒い小さな人による文明、もっとも古い型のモンゴロイドだ。
容姿はネグロイドに近い、おそらく彼らが、世界の他の文明に影響を与えたんだ。
中国文明には、今黄河文明より長江文明に注目が集まっていて独自にこれは発達したんだろう
っていわれている。 なにせ、中国は昔から河川の氾濫が多くて、昔からの古代遺物が残りずらいんだ。
お前のいうヒッタイト謎の民族でイラン系じゃねえかっていわれてる。
このイラン系は、なかなか凄くて数々の王国、強国を築いている。そのこと言ってんだろう。
こいつらは、すごい、今はパッとしないが。 イラン人はコーカソイドだ。
そんで、話だがコーカソイドの生活領域とモンゴロイドの生活領域を近代以前の時代で比べたらってことよ。
コーカソイド せいぜい北アフリカから中近東、ヨーロッパまで
モンゴロイド わざわざ寒い北ヨーロッパまで行っちまった変わり者のモンゴロイドからアフリカの島まで
航海した奴ら、草原の道を騎馬で縦横無人に荒らし廻ってた者たち、そいつら
から万里の長城を2000年以上なんだか無駄みたいな気がするが膨大な費用と人力を掛けて築いた者
それ以前ずっと昔に新大陸に歩みを進めた彫りの深いモンゴロイド
太平洋を星と魚の群れの動き、そして海流の流れを観てイースター島までついちまったやつら。
俺はどっちの人種が環境適応能力があるかってこと言ったんだろうが。
だした結論はモンゴロイド なんにも矛盾してねえだろうが。
地球儀引っ張りだして、見てみろや、 どっちの人種が広範囲に渡って生活圏を維持してたのか、
肉体に適応能力が無いと無理だろうが。 よってモンゴロイドには環境適応能力がコーカソイドのそれより優れてるってののどこが、違うのよ 答えてみな。

107NONAME:2009/08/16(日) 13:32:10
それからよ ニーダムの本でも見てみろ、日本ではあまり聞かれない名の学者
だが、中国文明がヨーロッパの文明にどれだけ影響与えたか、わかるぜ。探してみな。
四大発明だけじゃねえんだぞ、 中国がヨーロッパに与えた影響。 探すの無理なら
アメリカ版ウィキの中国の発明のとこ見てみな、どんだけ西洋文明に先んじて
いろんな文物発明したかわかるぜ。 日本のウィキにはねえからな。英語で読みな。

108777:2009/08/16(日) 14:54:56
<中国文明がヨーロッパの文明にどれだけ影響与えたか、わかるぜ。探してみな。
四大発明だけじゃねえんだぞ、 中国がヨーロッパに与えた影響。>

中国の支配層がモンゴロイドになったのは元以降ですけどね:

古代中国人は白人だった


臨シLinziの住民の遺伝学的研究

 2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝 WANG Liらは、約2500年前の春秋時代、2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨、及び現代の臨シ住民から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果を発表した。それによると、三つの時代の臨シ人類集団が異なる遺伝的構成を持つことが明らかになった。

約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と、

約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近く、

現代の臨シ住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらないものであった。

 この研究により、2500年前にユーラシア大陸の東端に現代ヨーロッパ人類集団と遺伝的に近縁な人類集団が存在していたことが明らかになった。

また、2500年前から2000年前の500年間に臨シ集団に大きな遺伝的変化が生じたことから、過去に人類集団の大規模な移動があったことを示唆している。

中国当局は、遺伝子検査の結果を受け入れて、中国のタリム盆地で1980年代に発見された、4000年前の貴婦人のミイラと3000年前のミイラをコーカソイド(白人)と認めた。この地域やってきた人類はこの白人が最初で、東アジア人より1000年も前のことであった。

中国当局は当初この結果を認めるのを躊躇していた。その理由は政治的なもので、新疆ウイグル自治区の最初の人類は白人ということになると、イスラム分離派に理論的根拠を与えるというものだ。

ミイラと関わってきた西欧の科学者Victor Mairは、「現代のDNAと古代のDNAのテストの結果、ウイグル、カザフスタン人、キルギス人などの中央アジアの人々は、東アジア人とコーカソイドの混血である」という。

中国から出た最初のコーカソイドのミイラは、Yingpan Manという2000年前のもので、東京江戸博物館に展示されたという。
http://icke.seesaa.net/article/3245364.html


現在の中国語には、互いに外国語であるかのような種々の方言が存在し、北方方言と南方方言に二大別される。この南方方言の分布域が、黄河文明と対峙する長江文明の栄えた領域と大まかに重なり合っている。しかも、伝説上の南方の支配者蚩尤の統治領域ともほぼ重なる。そして歴史時代における中国文化は黄河文明を源流とするものであり、史書もまたはっきりとそのように記している。一方、ミトコンドリアDNAの研究が示しているのはユーラシア西部に起源を持つ人々が黄河文明の南端付近にいたがその後現代のような「黄色人種」である漢民族に徐々に置き換わっていったという事実である。これらの諸事実を統一的に説明する仮説は以下のようになろう。

「長江流域にモンゴロイドが稲作を基礎とする文明を築いていた。一方、西から移動してきた麦作と牧畜を基礎とした文化を携えたコーカソイドが黄河流域に定住した。武力に勝る北方黄河文明の支配者は、人口においては優勢な長江文明の人々と戦い勝利した。人口に勝るモンゴロイドは政治的軍事的文化的には敗者であったが、遺伝子的には黄河文明の人々をしのいで現代漢民族は『黄色』になった。」

 さらに追加するならば、戦士である長江文明の男たちの多くは殺されたが、残った女たちのミトコンドリア遺伝子が引き継がれていったことも大いに寄与したと思われる。また、中国の南方では長江文明を担った人々の言語の影響を未だに受けているのである。
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-61.htm

109777:2009/08/16(日) 15:07:02
<インダスインドの最初の文明築いたドラビィタは白人じゃねえんだ。色が黒い小さな人による文明、もっとも古い型のモンゴロイドだ。
容姿はネグロイドに近い、おそらく彼らが、世界の他の文明に影響を与えたんだ。>

インダス文明はメソポタミアに木材を輸出する為に作られた植民都市ですから,支配者は地中海人種で,モンゴロイドではないですね:

49 :23,40:02/09/10 18:31 ID:pYEZOI1R

インドや東南アジアにはもともとアボリジニーに似た人たちが住んでいたと思いますね。
ただ、交渉はあまりなかったので近い親戚というわけではなかったでしょうが、寒冷適応してなかったという点で似てたんじゃないでしょうか。
「ドラビダ人」ですが、ドラビダ語自体はイラン方面起源。今のドラビダ人はコーカソイドとインド原住民の混血でしょう。

インダス文明はメソポタミア文明の進化版

ドラヴィダ人が、自力でインダス文明を造ったとは限らない。インダス文明の都市は、排水路が完備した計画都市で、道幅やレンガの規格が統一されている。しかしそれ以前に先史農耕文化があったとはいえ、都市を建設するまでの試行錯誤の跡がなく、あたかも高度に洗練された人工都市が突如として出現したかのようで、自力で造ったにしては不自然である。
 インダス文明の都市設計に関与したのは、イランに存在したトランス・エラム文明である。
リンク
 
 インダス文明の担い手はドラヴィダ人だと言われているが、実際は民族系統不明の、現在のイランに住んだエラム人主導のようだ。エラム人はトランス・エラム文明を興したが、これはメソポタミア文明とは相互補完するような関係だったようだ。彼らはメソポタミア文明との交易を続けながらも、新たな穀物の輸入先を求め、インダス川流域に、第二のメソポタミア文明(農耕重視)をドラヴィダ人に作らせたのが現実のようだ。
 つまり、インダスは独立文明ではなく、かといってメソポタミア文明に従属していたわけでもない。インダス文明は、後発ゆえに、エラム・メソポタミアの都市建設・都市問題の知識を学んで、理想的な計画都市を造ることができた。メソポタミア文明の進化版とでも言うべきものであろう。
http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&amp;c=400&amp;m=136726

110NONAME:2009/08/17(月) 19:21:27
アンダーソンの意見の受け売りだったのか、ミイラがコーカソイドなんて、テレビ
でもやってたんで知ってた、他の新石器文化について何かコーカソイドの影響はあんの
彭頭山文化 見つかった米の遺跡残りが、自然米よりでかくて人の手による作物として
考えてもいいようだ。 否定する材料としては稲作道具の発見がないようだが
これもコーカソイド由来か そうじゃねえだろう。
春秋戦国時代に、西に方から逃げてきた集団があったという事実と、この集団がいかなる
戦法で、多数の土着のモンゴロイドをやっつけたってのとは意味合いが違う何か特殊な武器か何か発見されたのか
仮説では、いくらでも言えるぞ。 多数の地の利がある土着民を破る方法とその証拠はあんのか 例えば騎馬軍団
だったとか、そういう具体的なやつだよ。

111NONAME:2009/08/17(月) 19:48:28
元以降の王朝がモンゴロイド系って、それ新説か珍説か 誰がどの人類学者が
いってんのか、大体中国でその学説の受け入れられてんのか 証拠は ?
全然、ピントこないんだが。 世界の中国研究学者の見解はどうよ そこんとこ。

112NONAME:2009/08/17(月) 20:04:42
続きだが、2ちゃんによく載ってる やつが元か どうよそこんとこ
詳しい説明キボンヌ。

113NONAME:2009/08/17(月) 20:21:46
2ちゃんの意見でよ こんなのがあったよ
 
山東省にヨーロッパ人集団に近い遺伝子をした集団がいたという説明がされている
だけで、別に「古代中国人が白人であったと言う証拠である」、誰も言っていないろう
勝手に曲解・歪曲して・・・・ と後は略するがこれらが元ネタかい ?

114777:2009/08/17(月) 21:50:12

とりあえず,黄河文明に小麦をもたらしたのはコーカソイドに間違いないですからね.

唐の王族はトルコ人でコーカソイドですし,

秦の始皇帝も金髪青眼ですからね.


中国のモンゴロイドは長江の稲作民が源流でしょうね.
コーカソイドが米を作る訳もないし.

115777:2009/08/18(火) 22:07:14

唐の時代、安史の乱(この反乱が原因にて玄宗皇帝と楊貴妃の悲劇がおこり・楊貴妃は皇帝により殺害される)にて有名な安禄山・史思明両人も、またトルコ系・ウズベキスタン系のコーカソイド(白人種)であったといわれ、唐軍を破り、一時は双方とも自ら大燕皇帝を名のり権勢をふるいます。史思明と同族の唐代初期の武将(高官)史道路は遺体より彼がコーカソイドであったことが立証されており、政治中枢にまで人種関係なく(貴族政治への反発・脱却など諸因はありますが)有能な人材が登用されていたことがうかがえます。


また、学校の教科書で一度は拝見したでしょう、だれもが知っている紀元前221年に中国最初の統一王朝秦初代皇帝となった、始皇帝 政、彼もまた胡人(イラン系白人種)であったとの伝説があり、一説には金髪碧眼であったとも、赤い髪・青い目・高い鼻と白人種の特徴が顕著であったとも謂われています。


始皇帝が実施したその政策は、アケメネス朝ペルシャ(秦の中国統一の少し前に滅亡)の制度とよくにており、その関連性は否定できず、中国歴史家のなかでも秦帝国の存在は後の王朝と区別されて考えられるべきとの見解を有している方も多数おられます。
http://www.xinhua-real.net/history.html

116777:2009/08/18(火) 22:12:16
中国古代遺跡で発掘された「青い目の女神像」

中国東北部に位置する遼寧省で、5500年前の紅山文化に属する遺跡から、青い目をした女神像が発掘されています。

モンゴロイド系人種の容貌なのに、青い目をしているのは何でだろう?
このことについて、『古代中国と倭族』(鳥越憲三郎著)に、その謎が解説されています。

1985年、紅山文化に属する遼寧省西部の凌源・建平の県境にある牛河梁(ぎゅうかりょう)遺跡で、紅焼土に埋まった堆積層から、珍しい「女神廟」と積石墓群が発見された。今から5575±110年前の数価を持ち、問題の女神廟は遺跡の最も高い場所にあり、数多の泥質彩塑女神像や動物塑像のほか、この地独特の彩陶の祭器や建築材なども見つかっている。
それらの中でも特に注目されるのは、廟の円形主室の西側で発見された一体の彩塑女神の尊像である。総体的に見ると、方円形の平たい顔で、頬骨が突起し、目は斜めに吊り上り、目のくぼみは浅く、鼻すじは低くて短く、鼻先と鼻翼はは円頭状で低平であり、鼻孔はやや上に反っている。
以上の容貌から明らかなように、モンゴロイド系人種に属するものと判断されている。ところが女神像の目は驚くことに青い玉がはめ込まれているのである。そのことをどう理解したらよいのであろうか。

少なくとも女神像の目が青いのは、中央アジアの人種の血をうけていることを示している。しかし、容貌は明らかにモンゴロイド人種である。そのことは、混血の女性をモデルにしたといえるが、当時の社会に混血の女性が多く、違和感がなかったからであろう。それだけに混血に時期は遠く遡るものとみてよかろう。

中国東北部の女神像の分布からみて、その信仰は広域にわたっていたといえる。しかも地母神としての女神像の信仰が新石器時代早期から見られるので、そのことから中央アジアからこの地への渡来、その時代まで遡らせる可能性もあるであろう。というのは、女神信仰がメソポタミアに起源し、それが中央アジアに広く波及したからで、アナウ文化に女神像を部屋に祀る習俗がみられるのもそのためである。そこで、コーカソイド種族がこの信仰をもたらしたと考えることもできるであろう。
http://www.jinruisi.net/blog/2006/11/000060.html

117NONAME:2009/08/18(火) 22:28:48
だからさ、2ちゃんでオメー 電波系てされてた奴と同じこと言ってんだって。
珍説 見っけては、自分の都合のいい説、言ってるだけで歴史の定説じゃねえだろうが。
オメー論文にして歴史学会にでも発表しろ、そのトンデモ学説。

118NONAME:2009/08/18(火) 22:36:56
秦の時代の墓だったか、コーカソイドの首ぶったぎった人骨出たんだそうだが
当時、蛮族狩りがあたりまえに行われててその戦争捕虜だったんだってよ。
いっぺん、2ちゃんの歴史版 行って来い。

119777:2009/08/18(火) 23:11:17

まあ,アジアでパンと羊の肉を食べていたのは古代中国の黄河文明位ですからね.

120777:2009/08/18(火) 23:40:09
甘粛省に古代ローマ人の村■

−−2000年前、中国に帰順か−−

7月31日付の南京の夕刊紙、揚子晩報によると、中国西部の辺境地帯に位置する甘粛省金昌市郊外、

永昌県者来塞村の村民約百人が高い身長と鼻、くぼんだ目、ウエーブした頭髪、ブロンドの髭といった

欧州人の風貌をしている事が最近、考古学者たちにより確認された。古代ローマの遠征軍の末孫との見解

が有力になっている。

古代ローマ資料によると、ローマ共和制末期の執政官クラッススが紀元前53年、5万人の軍を率いて

中央アジアのパルティア(中国名:安息)を攻略して戦死。6千人の兵士が包囲を突破したものの、行方

を絶っている。

これと対応するように、中国側の「漢書陳湯伝」は、紀元前36年に、前漢王朝の国境警備軍がローマ軍の装備をした部隊と遭遇、

この部隊は漢に帰順し、豊かな土地を与えられて国境防衛任務に就いてと記している。その後に書かれた漢の地図により、国境地帯

に新たな行政区画が設けられた事が確認されている。

考古学者らによると、者来塞村の位置はこの古地図上の行政区画とほぼ重なり、古代のとりで跡も見つかった。
http://www.cosmos.ne.jp/~aika/JCSAhome/joho.html

121777:2009/08/18(火) 23:45:14

受け継がれるローマ人の習慣

歴史学者の研究によると、紀元前53年のカルラエの戦いの後、行方不明になったローマ軍の兵士が東に向かう途中で匈奴に助けられた。その後、漢と匈奴との戦いで漢軍の捕虜になり、最終的には前漢政府が置いた驪靬城に暮らすようになったという。現在その末裔だと考えられている人たちは、古代ローマ人の習慣を多く留めている。者来村の村人は、春節になると小麦粉で作った生地を発酵させ、「牛の鼻」と呼ばれる蒸しパンを作って祭祀に用いている。また放牧の時、雄牛を集めて戦わせるのは古代ローマ人の闘牛の名残だ。葬儀も他の場所とは違い、死者を葬る時は地形に関わらず頭を西に向ける。

村の中心には、崩れた驪靬古城の跡があった。長さ10メートル、高さ1メートルほどのS字をした土の城壁で、南の壁は城門のようである。多くの専門家はこの土塀が驪靬城跡だと考え、行方不明になった古代ローマ軍の兵士が中国に移り住んだという有力な証拠の1つだと考えている。

永昌県の賈笑天書記によると、数年前、ローマ人の末裔と考えられている羅英という人のDNA鑑定を北京中国科学院遺伝研究所行い、その結果、彼がヨーロッパ人と血のつながりがあることが分かった。
http://www.rmhb.com.cn/chpic/htdocs/japan/200706/news/9-1.htm

122777:2009/08/19(水) 21:27:52

 中国西部の甘粛省永昌県郊外に、くぼんだ目に高い鼻、赤みがかった肌をもつ人々が暮らしている。およそ2000年前、中央アジアに遠征したローマ軍兵士たちの子孫とされる。彼らは今、「ローマ人村」として観光業に力を入れるなど、“村おこし”に躍起になっている。(中国甘粛省永昌県 矢板明)

 甘粛省の省都、蘭州から北へ自動車で5時間のところに、永昌県はある。人口約25万人のこの町の中心部に、古代ローマ人と古代中国人の石像が立つ。

 「ローマ人がこの地にやって来たことを記念するために1994年に建てたもので、今では永昌県のシンボルとなっている」と現地の観光ガイドは誇らしげに説明する。中国人像も一緒に建てられたのは「他民族の軍人も受け入れ、一緒に生活する中華民族の包容力を世界中のみなさんに知ってもらいたいからだ」という。

 石像のある広場から北の郊外へ、舗装されていない砂道を走ること30分。前漢王朝がローマ人に与えた「驪●城」の遺跡にたどりついた。城壁の一部が残るだけだが、1989年に蘭州大学の陳正義教授らの研究グループにより発見されたという。

 城名の「驪●」は中国古代の史料にたびたび登場する言葉で、古代ローマの別名とされる。中国語で「リーチエン」と発音し、ローマ軍団を意味するラテン語の「legion」が語源であることが、その後の研究で明らかになった。



 ■傭兵として帰順

 古代ローマの史料などによると、紀元前53年、ローマの執政官クラッススが、約4万人の軍を率いて中央アジアのパルティア(現在のイラン周辺)に遠征し戦死。その部下約6000人が敵軍の包囲を突破して東へ逃れ、消息を絶った。

 中国の「漢書陳湯伝」によると、それから17年後の紀元前36年、前漢王朝の国境警備軍が少数民族を討伐する途中、ローマ軍の部隊と遭遇している。驪●城の遺跡を発見した陳教授らは、中国側とローマ側の史料を突き合わせ、逃れたローマ軍団が中国に住み着いたとの学説を発表した。部隊は漢に帰順し、傭兵(ようへい)部隊として国境防衛の任務に就き、居住地として驪●城を与えられたのだという。

 当初、中国の考古学者の間では、この学説に否定的な見解が多かったが、2003年、驪●城の遺跡付近で前漢時代の古墳群が発見されて流れが変わった。身長が180センチ前後あったとみられる、欧州人に似た骨格をした遺骨など約100体が確認されたのだ。

 ■青い目の子供

 陳教授の学説を証明するもう一つの有力証拠は現地人の顔立ちだ。驪●城の遺跡に近い、者来塞(しゃらいさい)村にはローマ人の子孫が最も集中しているといわれる。約300人が住んでいるが、欧州人の顔立ちの住民が多い。両親はともにアジア人の顔をしているのに、青い目をした子供が生まれるケースもあるという。

 生活習慣面でも周辺の村との違いがいくつかある。死者を埋葬する際、周りの村は頭部を北の方角に向けるのに対し、この村だけは西に向ける。欧州への「望郷の念」からきた習慣ではないかと推測する人もいる。パンの上に野菜などをのせたピザのような物を正月に食べる習慣もあり、イタリア料理を想起させる。

 最近、国内外のメディアの報道で村の知名度が上がり、住民たちは「ローマ人村」を売りに、村おこしに懸命だ。村の中心部に古代ローマ宮殿を模した建物を作り、観光客やメディアが取材に訪れると、村の男性たちがローマ軍団の衣装を着て、宮殿の前で写真を撮らせるサービスも始めている。

http://d.hatena.ne.jp/Sventovit/20090330/p9

123777:2009/08/23(日) 14:56:32

中国の主な歴史。(「あんた何様?日記」12.14付より)


1949年   中国がウイグルを侵略

1950年〜  文化大革命・中国国内外で以降粛清・民族浄化及び餓死で3000万人以上が死亡

1950年   中国が朝鮮戦争に参戦

1951年   中国がチベットに侵略し現地民数百万人を虐殺

1959年   中国がインドと国境紛争、カシミール地方の占領

1969年   珍宝島で中国軍がソビエト軍が衝突

1972年   日中国交樹立

1973年   中国軍艦が佐渡島に接近、ミサイル試射

1978年   米中国交樹立

1979年   中国がベトナムを武力侵略。中国が懲罰戦争と表明

1989年   中国天安門にて発生した学生による民主化運動を軍隊で強行鎮圧し死者300人以上

1992年   中国が領海法制定により南沙諸島と西沙諸島の領有を宣言

1995年   中国が歴史的にフィリピンが領有してきたミスチーフ環礁を占領

1996年   中国が台湾海峡でミサイル発射し台湾を恫喝

1997年   中国がフィリピンが歴史的に領有してきたスカーボロ環礁に領有権を主張

同年    中国が日本が固有の領土として主張してきた尖閣諸島の領有を主張

2000年   中国の軍艦が日本列島を一周。中国が尖閣諸島付近で日本の領海内の海底油田調査を敢行

2004年   中国が沖ノ鳥島は岩であり日本の領海とは認めないと主張

同年    中国の潜水艦が石垣島の日本の領海を侵犯

2005年   中国が反分裂国家法を制定し台湾に対して武力行使を明言

同年    台湾問題に介入するなら核攻撃を行うとアメリカを恫喝

同年    アメリカが中国の巨大軍事国家化を指摘

同年    中国が沖縄の日本帰属に疑問を示し沖縄は歴史的に中国のものと主張

同年    中国海軍が春暁ガス田付近に軍艦派遣で示威行動

http://d.hatena.ne.jp/drmccoy/20051227/p1

124777:2009/12/15(火) 21:22:04

中国で起きていること 人類最悪の権力犯罪 まるで731部隊だ!

 【【大紀元日本12月15日】中国の監禁施設で生きた法輪功学習者を対象に臓器摘出・売買をしているという2006年に告発された事件に関して、最近、目撃者の新たな証言が、国際的な人権擁護組織である「法輪功迫害追跡調査国際組織」(WOIPFG、米国本部)から発表された。 証言は、同組織の調査員が中国遼寧省の元警察(匿名)を取材して得たもの。遼寧省公安庁に勤めていた2002年に、瀋陽市軍部病院で一人の女性法輪功学習者から生きたままで臓器を摘出したのを目撃したという内容である。証人の同意に基づき、同組織は最近、30分ほどの取材録音の一部を公開した。】

 【証人:手術ナイフで、彼女の胸のところを切り開いたらすぐ、血が噴き出してしまい、血が噴き出したのであって…
調査員:男性でしたか、それとも女性でしたか。証人:女性、女性でした。

調査員:若い女性ですか。証人:30代だったでしょう。

調査員:胸が切り開かれた時にも、彼女はなお「法輪大法は素晴らしい」と叫んでいたのですか。証人:叫んでいました。

調査員:彼女は当時どのように叫んでいたのですか。証人:当時、彼女は、1週間ほど尋問と凄まじい拷問を受けていたので、体には数え切れないほどの傷がありました。しかも電気ショックを受けていて、意識朦朧となっていました。物を食べるのを断ったため、私たちは強引に牛乳を彼女の胃に注ぎ入れました。非常につらい体験でした。彼女の鼻を摘まんで注入しました。こうして生命を維持させていました。1週間経って、彼女の体重は約7キロ減りました。当時、あのようなことが発生するなど、予想もしませんでした。
 それで、遼寧省警察庁のどの部署からかは分かりませんが、いずれにしても特殊な極秘部門から2人の軍医が派遣されてきました。1人は、解放軍瀋陽陸軍総医院の軍医で、もう1人は解放軍第二軍医大学を卒業した軍医でした。具体的には、1人がやや年配で、もう1人は若者でした。彼女をある場所、すなわち精神病院の手術室に入れ、それからあることを一通りやりました。麻酔など一切使わずに、手術ナイフで胸のところを切り開いていく。彼らの手はまったく震えることはありませんでした。わたしなら、きっと震えてたまらなかったでしょうが。わたしは武装警察を務め、銃を持って実弾で演習したこともあるし、多くの死体を見たこともありましたが、私なら振るえるはずです。しかし、軍医の彼らを見て、私は本当に驚きました。彼らの手はちっとも振るえず、マスクをしたままで胸のところを切り開いて行きました。当時、私たちはみな銃を手にして、傍で警備を担っていました。切り開かれた瞬間、彼女は突如凄まじい声で叫びました。「法輪大法は素晴らしい」と。

調査員:胸が切り開かれた時に、彼女が「法輪大法は素晴らしい」と叫んだのですか。証人:突然凄まじい声で、「法輪大法は素晴らしい」と叫びました。彼女は大体、次のようなことを言いました。あなた達はわたし1人を殺すことができても、信仰のためにあなた達の迫害を受けている何億の人々をみな殺すことができますか、と。この言葉を聞いて、その軍医は一瞬、躊躇し、目を私と私の上司の方にちらりと向けました。私の上司が頷いたので、彼は続けて血管を…まずは心臓、それから腎臓を摘出し出しました。心臓の血管を切断した際に、彼女は痙攣しはじめました。非常に恐かったです。うまくいかないと思いますが、彼女の声をちょっと真似てみます。それは引き裂かれたようもので、アー、アーと口をずっと大きく開いて、目も大きく見開いていました。まあ、私はこのような光景を語りたくありませんが… …証人:当時、彼女は教員でした。先生、中学校の先生でした。彼女の息子は約12歳でした。彼女の旦那さんは、権力のない人で一般の労働者のようです。それまで、彼女が受けてきた侮辱のほうが、より酷かったと思います。
 われわれ警察の中に変態者は少なくありません。彼女を、カンシや内視鏡などの器具でやっていました。彼らは一体どこからこのような器具を持ってきたのかは分かりませんが、いずれにして、やったことは全部目撃しました。悔しいことに、彼女に対する猥褻な行為を写真に撮ることができませんでした。彼女は美人の方なので、乱暴されることなどが、実に多かったのです…

125777:2009/12/15(火) 21:22:43

調査員:この事は、あなたが勤務していた警察局で目撃したのですか。証人:いや、当時は警察局内ではなく、私たちはある教育センターでやりました。それはあるホテルの裏にあり、10数の部屋を賃貸して使っていました。つまり、一軒の別荘の上の方でやったのです。

調査員:そこは、闇の監獄というようなところでしたね。証人:まあ、そんなものでした。

調査員:そこに監禁されたのは、法輪功学習者だけでしたか。証人:そうです。

調査員:つまり、判決を言い渡されない前からそこに入れられたというわけですね。証人:いずれにしても、われわれは随時に場所を移動することができました。

調査員:事件発生の具体的な時間を教えていただけますか。証人:2002年4月9日でした。

調査員:4月9日でしたね。証人:そうです。4月9日午後5時から摘出しはじめ、3時間かかりました。 その後、1ヶ月ほど続きました。

調査員:「1ヶ月ほど続いた」というのは? 証人:続けて(他の学習者に対して)1ヶ月ほど拷問などを行っていました

調査員:法輪功学習者たちへの拷問は、一度だけやったのですか、それとも数回やったのですか。証人:多くやりました。当時、王立軍、現在重慶市公安庁長は、「殺し尽くさなければならない」と厳令を下しましたから。】

126シンガポールも中国人に乗っ取られた:2010/01/23(土) 22:13:53

シンガポールは かつては、マレー系住民が大半を占める人口約1000人の一漁村があるにすぎなかった島

現在のシンガポールの人口は約300万人(シンガポール国籍保有者および永住権保有者)で、その民族構成は、華人系77.3%、マレー系14.1%、インド系7.3%、その他1.3%。

周辺を敵国(マレーシア,インドネシア,ブルネイ,タイ,ベトナム)に囲まれて、国内は主要民族(華人)が少子化で、マレー人に対抗するため華人の人数増やすべく中国本国から嫁や移民を引き入れている.


シンガポールは多民族国家と言っても華僑主体なので中国の海外領土みたいなもの。おまけに中国系シンガポール人は超親中。

また李光耀は「2世代後には中国語が母国語になる」と言っていた。


マレー人の海にぬけぬけと居座る中国人の島

独立後のマレーシアは英国人の手先になってマレー人を搾取してきた華僑との共生を嫌い、彼らを現在のシンガポール島へ追い出した。

だから建国の祖が英国人トーマス・ラッフルズにされた。公用語は英語、国歌歌詞はマレー語、文化はごちゃまぜ国籍不明状態。「マレー人の海に浮かぶ中国人の島」という負のイメージをごまかすため。

侵略者の手先をヒーローに祭り上げる感覚も日本人にはよう解らんが、植民地時代自らイギリスの手先になってマレー人を搾取していた華僑の国のシンボルとしてふさわしい。
http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB

128NONAME:2010/10/26(火) 01:09:59
当方「ブログ荒らし苦情」をOCN に入れたところ、返事が来ましたよ。
>お客様 >この度はお問い合わせをいただき、ありがとうございます。
>OCNインターネットセキュリティ担当 島貫と申します。

>ご連絡の件につきまして、弊社にて該当IPアドレス使用者様に対して、何らかの対処をさせていただくことはできません。
>誠に恐縮ではございますが、お客様のサイト側で対策をお取りいただけますようお願いいたします。
>今回のお問い合わせではお力になれず、誠に申し訳ございません。 よろしくお願い申し上げます。

なるほど。  OCNユーザーが迷惑掛けても、何の対処もしないのですね。では、インターネット上にて、OCN様が対処を怠っている事実を
証拠付きで今後どんどん広告していきますので、よろしくお願い致します。 下記の禁止事項とやらは、「嘘」だったのですね。

> OCNをご利用いただく際の禁止事項について http://www.ocn.ne.jp/info/rules/rule/
>
> 禁止事項に該当する行為が行われたことを確認した場合、その行為を行ったお客さまには、「警告」、「OCNのご利用の停止」、
> 「OCNのご契約の解除」、「その行為に使用したOCN契約以外にそのお客さまが保有するすべてのご契約を含めた
> ご利用の停止・ご契約の解除」といった対処をとらせていただきますので
> あらかじめご了承ください。 また、その後のOCNサービスの新規お申し込みをお断りする場合もございます。

こりゃあ、OCNさんを通報処分だね。www
OCN 苦情 OCN 苦情 OCN 苦情 OCN 苦情 OCN 苦情 OCN 苦情 OCN 苦情 OCN 苦情 OCN 苦情 OCN 苦情

187NONAME:2021/11/24(水) 14:29:57
日本人は馬鹿なので どうせ対岸の火事だと思っているでしょう

つうか対岸には事の張本人、中国共産党が居ますけどwダイジョブですか?ダイジョブじゃないですね

188NONAME:2021/11/24(水) 14:36:42
中国人が悪いのではなく 中国共産党が悪い
というか、共産思想は理想ではあるが実態は真逆のただの独裁 なんでもやる利己的精神

189NONAME:2024/11/20(水) 13:42:27
ドイツはユダヤ人虐殺した、かどうかは分からないが、色々と反省しているようだ、

しかし、中国共産党による少数民族浄化(虐殺や奴隷化)に対して何をしている? 何もしていない。

反省が聞いて呆れる。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板