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ウイグル民族浄化を考える

100777:2009/08/14(金) 08:58:42

自由の意気と精神、つまりは戦士たる己の力(能力)のみを頼りとして支配されることを由としないということ、それぞれが戦士として自立していること、戦時以外の自由を尊重すること、これらのことから、ゲルマン人にはごく自然なこととして個人主義が定着していたと思われます。
 部族内においては、戦時以外では自分も他人も自由が侵されず、制度的なしがらみもない。ゲルマン人は戦争を生業とする戦士であったことで、かなりの程度、個人主義、自由主義が文化として浸透していたようです。また(義務を果たしている人々である)戦士による直接的な民主主義も行われていました。一見、個人主義や民主主義というと、古代ギリシャ等、文化的に高いレベルにあって初めて実現すると思い勝ちかもしれませんが、なるほど、武の伝統から生まれることもある、というところはユニークで面白いですね。

では、このようなゲルマンの伝統が、いかにしてブリテン島に伝播し、維持されていったのでしょうか。アングロサクソンの起源を確認しておきましょう。

 「今まで随時、アングロサクソン論を展開してきましたが、このあたりでアングロサクソンとは何かを振り返っておきましょう。
5世紀に、スカンディナビア及び北ドイツから様々なゲルマン支族がイギリスに渡ってきて、ケルト系先住民のブリトン人(=ローマ文明を継承できていなかった)を辺境に駆逐した上で定住し、相互に通婚してアングロサクソンとなります。(8世紀にベード(Bede)は、アングル支族、サクソン支族、ジュート支族の三支族が渡ってきたと記しましたが、これは単純化しすぎだと言われています。)(Historical Atlas of Britain, Kingfisher Books, 1987 PP30)
 このアングロサクソンは、7世紀末までにキリスト教化します(前掲Historical Atlas of Britain PP32)。アングロサクソンの部分的ローマ化、欧州化です。
しかし、9-10世紀には、アングロサクソンは、まだキリスト教化していない、デンマーク(一部ノルウェー)のバイキング(デーン人)の侵入、定住化を経験します。(前掲 PP38)(なお、11世紀初頭には、アングロサクソンは、後にデンマーク王とノルウェー王を兼ねることになる、デーン人(その頃には既にキリスト教化していた)の王族カヌートに一時征服されます。(前掲 PP52))
 更に1066年には、アングロサクソンは、フランス北部に侵入、定住したバイキング(ノルマン人)の子孫である、ノルマンディーの領主ウィリアム公に征服されます。(前掲 PP55-57)
 このように、アングロサクソンは、もともとゲルマン人としての純粋性を維持していた上に、キリスト教化した後も、累次にわたってかつての同胞であるバイキング・・キリスト教化していなかった者も少なくなく、しかも、極めて能動的(=悪く言えば、好戦的で侵略的)でした・・の侵入、定住化、征服を受け、その都度、ゲルマン精神を「再注入」させられ、「純化」させられたのです。そのおかげで、アングロサクソンは、精神のローマ化・欧州化を基本的に免れることができたのです


「また、メイトランドが、アングロサクソン文明と欧州文明の最初の岐路について、イギリスではアングロサクソンが侵攻した時にローマ文明が拭い去られた(swept away)のに対し、欧州(フランス・イタリア・スペイン)ではゴート族やブルグンド族は侵攻先のローマ=ガリアの人々の中の圧倒的少数派に過ぎず、しかも彼らが(征服者ではなく)ローマ皇帝の家来ないし同盟者に他ならなかったことからローマ文明の法・宗教・言語が生き残った(注4)ことを挙げている(PP77)ことも知りました。」(コラム#1397(*5)より抜粋)

 以上のとおり、ガリアのゲルマン諸族はローマ化した結果、ゲルマンの伝統を失うことになり、海を渡ってブリテン島に渡来して現地民と同化したアングロサクソンには純粋な形で残ることとなりました。さて、そんなゲルマンの伝統をほぼ純粋に受け継いだアングロサクソンの国、英国とはどのような社会になったのでしょうか。(ちなみに最新の研究によるとアングロサクソンの起源はバスク系の人々とベルガエというゲルマン系の人々がかなり関係しているようです。詳しくはコラム#1687(*6)を参照してください。)

(*4)コラム#74<アングロサクソンと北欧神話(アングロサクソン論3)>
http://blog.ohtan.net/archives/50955759.html
(*5)コラム#1397<マクファーレン・メイトランド・福澤諭吉(その1)>
http://blog.ohtan.net/archives/50954436.html
(*6)コラム#1687<アングロサクソンの起源>
http://blog.ohtan.net/archives/50954197.html

101777:2009/08/14(金) 09:05:53

イギリスはその歴史始まって以来、(すべての成人が、生産財、消費財のいかんを問わず、自由に財産を処分できるという意味で)資本主義社会であり、産業革命前に既にその「反産業主義的」資本主義は、高度に成熟した段階に達していました。
 そして、(これについてもいずれ詳細にご説明するつもりですが、)イギリスは反産業主義(反勤勉主義)であったからこそ、(機械化によって楽をしようとして)産業革命を世界で初めてなしとげます。そして、イギリスは良かれ悪しかれ、反産業主義のまま現在に至っているのです。(「産業精神」参照)」(コラム#81(*11)より抜粋)

 「また、古典ギリシャ社会においても古ゲルマン社会においても、労働には低い社会的評価しか与えられていませんでした。アテネ等のポリスでは、奴隷が労働に従事し、市民はもっぱら政治と軍事に精を出したものですし、ゲルマン民族の男達は、「戦争に出ないときにはいつも、幾分は狩猟に、より多くは睡眠と飲食に耽りつつ、無為に日をすごす・・家庭、家事、田畑、一切の世話を・・女たち、老人たち<など>・・に打ち任せて・・懶惰にのみ打ちすごす」(タキトゥス「ゲルマーニア」(岩波文庫版)78〜79頁)のを常としました。
 ですから、貧しかった時代ならいざ知らず、豊かになった現在の西欧諸国において労働時間が著しく減ってきたのもむべなるかなとお思いになるでしょう。

アングロサクソンは世界でほぼ唯一生き延びた純粋なゲルマン人であり、ゲルマン人の生業(本来の労働)は戦争(=略奪行為)だったことを思い出してください(上記引用参照)。これは戦争以外の時間はゲルマン=アングロサクソンにとっては来るべき戦争に備えて鋭気を養う余暇だったということを意味します。だから農耕・牧畜(=食糧確保)に比べて狩猟(=食糧確保+戦争準備)をより好んだとはいえ、これら「労働」も「無為・懶惰に過ごす」こととともに余暇の一環であり、「労働」を減らす、制限するという観念は、元来彼らにはなじまないのです。
 そして、キリスト教の聖書を世界で初めてに民衆が読める自国語に翻訳して大量に普及させたアングロサクソンは、ゲルマン人としての彼らのもともとの好き嫌いを踏まえ、農耕・牧畜等の「懲罰」としての「額に汗」する「労働」(labour。「陣痛」という意味もある。同義語はtask)と狩猟等のそれ以外の「労働」(work。同義語はbusiness)とを明確に区別し、hard work を厭わず(?!)labourを減らすことに腐心してきました。その最大の成果の一つがイギリスを起源とする18世紀のいわゆる産業革命です(コラム#81参照)。
 これに対し、西欧ではこの二種類の「労働」を区別することなく、どちらも忌むべきものとして削減することに努めてきた、と私は考えています。」(コラム#125(*12)より抜粋)

 アングロサクソン社会は当初から資本主義社会であり、それと同時に反産業主義であったというのは面白いですね。楽をしたいからhard workを厭わないというのも、とても面白いと思います。英国が様々な創意工夫をして近代的な発明を数多く生み出したのも、よく分かる気がします。

102777:2009/08/14(金) 13:03:41

白人が美しいというのは民族的偏見じゃないんです.

白人は遊牧・牧畜民で遺伝子操作のプロですからね.
劣った遺伝子はすべて淘汰する. これが白人の考え方.


白人が他民族を征服した場合はいい女だけ残して他は全員殺す.

魔女狩りでもいい女を残してブスは全員殺す.


これを日常的に繰り返して今の金髪碧眼の美しい白人ができたんですね.


農耕民のアジア人やアフリカ人には遺伝子操作ができないから不細工な人間も淘汰されないで生き延びてきたんです.

白人が美しいというのは真実.

103777:2009/08/14(金) 14:52:46

白人の潜在意識では「黒人≒類人猿」であることが判明(米研究)

>サブリミナル実験から、アジア人はどう見られている?「黄色人種≒   」。

非常にショッキングな内容の研究レポートがアメリカ心理学会の月刊誌に発表されていた。

「この研究は、今まで手掛けたものの中でも最も気の滅入るものの一つです」
「ゾッとしてしまいました。研究をしていく中で、疑念というか直感がわくものですが、
黒人を類人猿と結びつける傾向がこんなにも強いということは受けとめ難いことでした」

サブリミナル実験から、白人の潜在意識では「黒人≒類人猿」であることが判明(米研究)
http://omoroid.blog103.fc2.com/blog-entry-177.html
男性100人に1人、女性300人に1人はサイコパス(精神病質者 反社会性人格障害者)
http://omoroid.blog103.fc2.com/blog-entry-173.html

104NONAME:2009/08/15(土) 11:31:05
白人は、近代に文明の利器あってこそ、その生活領域を広げられたと思ってるんでね。
それほど、生物学的に見れば優れてるとは思えない。
近代以前のオーストラリアロイドは黒人に外見こそ近いが、モンゴロイドに属する
外見上ネグロイドと考えるなら、オーストラリアまで、北限領域では、ヨーロッパフィン人 アイスランドの先住民
広い太平洋に点在している島々に生活しているは、元は東南アジア脱出組のサモアン、太平洋を
航海しているうちに、短期間で体がでかくなった、のんびり太平洋航海とはいかなかった、その
航海中に体を巨大化させた、寒さから身を守るため元は小さかった東南アジア系の人間が巨人伝説
の元ネタになるほど外見を変化させた、南北アメリカ ネイティブ・アメリカンはモンゴロイドのみ
居住し、バイキングの白人が行ったかも知れないが、集団を作るまでにはならなかったろう。後からのエスキモー
まですべてモンゴロイド、 アフリカのマダガスカルまで航海したのは現代のインドネシア人の先祖。
地球居住範囲、人が住める環境 特にしんどい温度差に適応できたのはモンゴロイドだけだろう。
極限の寒さから極限の暑さまで。 生物種としての適応能力はモンゴロイドが
上だ。  ローマ人が高きローマ人はいつか猛き野蛮人ゲルマン人に征服されるだろうと予感し、そのとおりに、なったのには同意だ。

105777:2009/08/16(日) 10:26:06
<白人は、近代に文明の利器あってこそ、その生活領域を広げられたと思ってるんでね。>

アーリア人は鉄器を世界で最初に作ったヒッタイトの事ですね.

ヒッタイトが滅びた後でペルシャ,インド,ギリシャ,ゲルマン方向に分裂して各地を征服した.

3000年前から白人というかコーカソイドは向かう所敵無しでしたけどね.

106NONAME:2009/08/16(日) 13:19:25
インダスインドの最初の文明築いたドラビィタは白人じゃねえんだ。色が黒い小さな人による文明、もっとも古い型のモンゴロイドだ。
容姿はネグロイドに近い、おそらく彼らが、世界の他の文明に影響を与えたんだ。
中国文明には、今黄河文明より長江文明に注目が集まっていて独自にこれは発達したんだろう
っていわれている。 なにせ、中国は昔から河川の氾濫が多くて、昔からの古代遺物が残りずらいんだ。
お前のいうヒッタイト謎の民族でイラン系じゃねえかっていわれてる。
このイラン系は、なかなか凄くて数々の王国、強国を築いている。そのこと言ってんだろう。
こいつらは、すごい、今はパッとしないが。 イラン人はコーカソイドだ。
そんで、話だがコーカソイドの生活領域とモンゴロイドの生活領域を近代以前の時代で比べたらってことよ。
コーカソイド せいぜい北アフリカから中近東、ヨーロッパまで
モンゴロイド わざわざ寒い北ヨーロッパまで行っちまった変わり者のモンゴロイドからアフリカの島まで
航海した奴ら、草原の道を騎馬で縦横無人に荒らし廻ってた者たち、そいつら
から万里の長城を2000年以上なんだか無駄みたいな気がするが膨大な費用と人力を掛けて築いた者
それ以前ずっと昔に新大陸に歩みを進めた彫りの深いモンゴロイド
太平洋を星と魚の群れの動き、そして海流の流れを観てイースター島までついちまったやつら。
俺はどっちの人種が環境適応能力があるかってこと言ったんだろうが。
だした結論はモンゴロイド なんにも矛盾してねえだろうが。
地球儀引っ張りだして、見てみろや、 どっちの人種が広範囲に渡って生活圏を維持してたのか、
肉体に適応能力が無いと無理だろうが。 よってモンゴロイドには環境適応能力がコーカソイドのそれより優れてるってののどこが、違うのよ 答えてみな。

107NONAME:2009/08/16(日) 13:32:10
それからよ ニーダムの本でも見てみろ、日本ではあまり聞かれない名の学者
だが、中国文明がヨーロッパの文明にどれだけ影響与えたか、わかるぜ。探してみな。
四大発明だけじゃねえんだぞ、 中国がヨーロッパに与えた影響。 探すの無理なら
アメリカ版ウィキの中国の発明のとこ見てみな、どんだけ西洋文明に先んじて
いろんな文物発明したかわかるぜ。 日本のウィキにはねえからな。英語で読みな。

108777:2009/08/16(日) 14:54:56
<中国文明がヨーロッパの文明にどれだけ影響与えたか、わかるぜ。探してみな。
四大発明だけじゃねえんだぞ、 中国がヨーロッパに与えた影響。>

中国の支配層がモンゴロイドになったのは元以降ですけどね:

古代中国人は白人だった


臨シLinziの住民の遺伝学的研究

 2000年、東京大学の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝 WANG Liらは、約2500年前の春秋時代、2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨、及び現代の臨シ住民から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果を発表した。それによると、三つの時代の臨シ人類集団が異なる遺伝的構成を持つことが明らかになった。

約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は現代ヨーロッパ人の遺伝子と、

約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は現代の中央アジアの人々の遺伝子と非常に近く、

現代の臨シ住民の遺伝子は、現代東アジア人の遺伝子と変わらないものであった。

 この研究により、2500年前にユーラシア大陸の東端に現代ヨーロッパ人類集団と遺伝的に近縁な人類集団が存在していたことが明らかになった。

また、2500年前から2000年前の500年間に臨シ集団に大きな遺伝的変化が生じたことから、過去に人類集団の大規模な移動があったことを示唆している。

中国当局は、遺伝子検査の結果を受け入れて、中国のタリム盆地で1980年代に発見された、4000年前の貴婦人のミイラと3000年前のミイラをコーカソイド(白人)と認めた。この地域やってきた人類はこの白人が最初で、東アジア人より1000年も前のことであった。

中国当局は当初この結果を認めるのを躊躇していた。その理由は政治的なもので、新疆ウイグル自治区の最初の人類は白人ということになると、イスラム分離派に理論的根拠を与えるというものだ。

ミイラと関わってきた西欧の科学者Victor Mairは、「現代のDNAと古代のDNAのテストの結果、ウイグル、カザフスタン人、キルギス人などの中央アジアの人々は、東アジア人とコーカソイドの混血である」という。

中国から出た最初のコーカソイドのミイラは、Yingpan Manという2000年前のもので、東京江戸博物館に展示されたという。
http://icke.seesaa.net/article/3245364.html


現在の中国語には、互いに外国語であるかのような種々の方言が存在し、北方方言と南方方言に二大別される。この南方方言の分布域が、黄河文明と対峙する長江文明の栄えた領域と大まかに重なり合っている。しかも、伝説上の南方の支配者蚩尤の統治領域ともほぼ重なる。そして歴史時代における中国文化は黄河文明を源流とするものであり、史書もまたはっきりとそのように記している。一方、ミトコンドリアDNAの研究が示しているのはユーラシア西部に起源を持つ人々が黄河文明の南端付近にいたがその後現代のような「黄色人種」である漢民族に徐々に置き換わっていったという事実である。これらの諸事実を統一的に説明する仮説は以下のようになろう。

「長江流域にモンゴロイドが稲作を基礎とする文明を築いていた。一方、西から移動してきた麦作と牧畜を基礎とした文化を携えたコーカソイドが黄河流域に定住した。武力に勝る北方黄河文明の支配者は、人口においては優勢な長江文明の人々と戦い勝利した。人口に勝るモンゴロイドは政治的軍事的文化的には敗者であったが、遺伝子的には黄河文明の人々をしのいで現代漢民族は『黄色』になった。」

 さらに追加するならば、戦士である長江文明の男たちの多くは殺されたが、残った女たちのミトコンドリア遺伝子が引き継がれていったことも大いに寄与したと思われる。また、中国の南方では長江文明を担った人々の言語の影響を未だに受けているのである。
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-61.htm

109777:2009/08/16(日) 15:07:02
<インダスインドの最初の文明築いたドラビィタは白人じゃねえんだ。色が黒い小さな人による文明、もっとも古い型のモンゴロイドだ。
容姿はネグロイドに近い、おそらく彼らが、世界の他の文明に影響を与えたんだ。>

インダス文明はメソポタミアに木材を輸出する為に作られた植民都市ですから,支配者は地中海人種で,モンゴロイドではないですね:

49 :23,40:02/09/10 18:31 ID:pYEZOI1R

インドや東南アジアにはもともとアボリジニーに似た人たちが住んでいたと思いますね。
ただ、交渉はあまりなかったので近い親戚というわけではなかったでしょうが、寒冷適応してなかったという点で似てたんじゃないでしょうか。
「ドラビダ人」ですが、ドラビダ語自体はイラン方面起源。今のドラビダ人はコーカソイドとインド原住民の混血でしょう。

インダス文明はメソポタミア文明の進化版

ドラヴィダ人が、自力でインダス文明を造ったとは限らない。インダス文明の都市は、排水路が完備した計画都市で、道幅やレンガの規格が統一されている。しかしそれ以前に先史農耕文化があったとはいえ、都市を建設するまでの試行錯誤の跡がなく、あたかも高度に洗練された人工都市が突如として出現したかのようで、自力で造ったにしては不自然である。
 インダス文明の都市設計に関与したのは、イランに存在したトランス・エラム文明である。
リンク
 
 インダス文明の担い手はドラヴィダ人だと言われているが、実際は民族系統不明の、現在のイランに住んだエラム人主導のようだ。エラム人はトランス・エラム文明を興したが、これはメソポタミア文明とは相互補完するような関係だったようだ。彼らはメソポタミア文明との交易を続けながらも、新たな穀物の輸入先を求め、インダス川流域に、第二のメソポタミア文明(農耕重視)をドラヴィダ人に作らせたのが現実のようだ。
 つまり、インダスは独立文明ではなく、かといってメソポタミア文明に従属していたわけでもない。インダス文明は、後発ゆえに、エラム・メソポタミアの都市建設・都市問題の知識を学んで、理想的な計画都市を造ることができた。メソポタミア文明の進化版とでも言うべきものであろう。
http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&amp;c=400&amp;m=136726

110NONAME:2009/08/17(月) 19:21:27
アンダーソンの意見の受け売りだったのか、ミイラがコーカソイドなんて、テレビ
でもやってたんで知ってた、他の新石器文化について何かコーカソイドの影響はあんの
彭頭山文化 見つかった米の遺跡残りが、自然米よりでかくて人の手による作物として
考えてもいいようだ。 否定する材料としては稲作道具の発見がないようだが
これもコーカソイド由来か そうじゃねえだろう。
春秋戦国時代に、西に方から逃げてきた集団があったという事実と、この集団がいかなる
戦法で、多数の土着のモンゴロイドをやっつけたってのとは意味合いが違う何か特殊な武器か何か発見されたのか
仮説では、いくらでも言えるぞ。 多数の地の利がある土着民を破る方法とその証拠はあんのか 例えば騎馬軍団
だったとか、そういう具体的なやつだよ。

111NONAME:2009/08/17(月) 19:48:28
元以降の王朝がモンゴロイド系って、それ新説か珍説か 誰がどの人類学者が
いってんのか、大体中国でその学説の受け入れられてんのか 証拠は ?
全然、ピントこないんだが。 世界の中国研究学者の見解はどうよ そこんとこ。

112NONAME:2009/08/17(月) 20:04:42
続きだが、2ちゃんによく載ってる やつが元か どうよそこんとこ
詳しい説明キボンヌ。

113NONAME:2009/08/17(月) 20:21:46
2ちゃんの意見でよ こんなのがあったよ
 
山東省にヨーロッパ人集団に近い遺伝子をした集団がいたという説明がされている
だけで、別に「古代中国人が白人であったと言う証拠である」、誰も言っていないろう
勝手に曲解・歪曲して・・・・ と後は略するがこれらが元ネタかい ?

114777:2009/08/17(月) 21:50:12

とりあえず,黄河文明に小麦をもたらしたのはコーカソイドに間違いないですからね.

唐の王族はトルコ人でコーカソイドですし,

秦の始皇帝も金髪青眼ですからね.


中国のモンゴロイドは長江の稲作民が源流でしょうね.
コーカソイドが米を作る訳もないし.

115777:2009/08/18(火) 22:07:14

唐の時代、安史の乱(この反乱が原因にて玄宗皇帝と楊貴妃の悲劇がおこり・楊貴妃は皇帝により殺害される)にて有名な安禄山・史思明両人も、またトルコ系・ウズベキスタン系のコーカソイド(白人種)であったといわれ、唐軍を破り、一時は双方とも自ら大燕皇帝を名のり権勢をふるいます。史思明と同族の唐代初期の武将(高官)史道路は遺体より彼がコーカソイドであったことが立証されており、政治中枢にまで人種関係なく(貴族政治への反発・脱却など諸因はありますが)有能な人材が登用されていたことがうかがえます。


また、学校の教科書で一度は拝見したでしょう、だれもが知っている紀元前221年に中国最初の統一王朝秦初代皇帝となった、始皇帝 政、彼もまた胡人(イラン系白人種)であったとの伝説があり、一説には金髪碧眼であったとも、赤い髪・青い目・高い鼻と白人種の特徴が顕著であったとも謂われています。


始皇帝が実施したその政策は、アケメネス朝ペルシャ(秦の中国統一の少し前に滅亡)の制度とよくにており、その関連性は否定できず、中国歴史家のなかでも秦帝国の存在は後の王朝と区別されて考えられるべきとの見解を有している方も多数おられます。
http://www.xinhua-real.net/history.html

116777:2009/08/18(火) 22:12:16
中国古代遺跡で発掘された「青い目の女神像」

中国東北部に位置する遼寧省で、5500年前の紅山文化に属する遺跡から、青い目をした女神像が発掘されています。

モンゴロイド系人種の容貌なのに、青い目をしているのは何でだろう?
このことについて、『古代中国と倭族』(鳥越憲三郎著)に、その謎が解説されています。

1985年、紅山文化に属する遼寧省西部の凌源・建平の県境にある牛河梁(ぎゅうかりょう)遺跡で、紅焼土に埋まった堆積層から、珍しい「女神廟」と積石墓群が発見された。今から5575±110年前の数価を持ち、問題の女神廟は遺跡の最も高い場所にあり、数多の泥質彩塑女神像や動物塑像のほか、この地独特の彩陶の祭器や建築材なども見つかっている。
それらの中でも特に注目されるのは、廟の円形主室の西側で発見された一体の彩塑女神の尊像である。総体的に見ると、方円形の平たい顔で、頬骨が突起し、目は斜めに吊り上り、目のくぼみは浅く、鼻すじは低くて短く、鼻先と鼻翼はは円頭状で低平であり、鼻孔はやや上に反っている。
以上の容貌から明らかなように、モンゴロイド系人種に属するものと判断されている。ところが女神像の目は驚くことに青い玉がはめ込まれているのである。そのことをどう理解したらよいのであろうか。

少なくとも女神像の目が青いのは、中央アジアの人種の血をうけていることを示している。しかし、容貌は明らかにモンゴロイド人種である。そのことは、混血の女性をモデルにしたといえるが、当時の社会に混血の女性が多く、違和感がなかったからであろう。それだけに混血に時期は遠く遡るものとみてよかろう。

中国東北部の女神像の分布からみて、その信仰は広域にわたっていたといえる。しかも地母神としての女神像の信仰が新石器時代早期から見られるので、そのことから中央アジアからこの地への渡来、その時代まで遡らせる可能性もあるであろう。というのは、女神信仰がメソポタミアに起源し、それが中央アジアに広く波及したからで、アナウ文化に女神像を部屋に祀る習俗がみられるのもそのためである。そこで、コーカソイド種族がこの信仰をもたらしたと考えることもできるであろう。
http://www.jinruisi.net/blog/2006/11/000060.html

117NONAME:2009/08/18(火) 22:28:48
だからさ、2ちゃんでオメー 電波系てされてた奴と同じこと言ってんだって。
珍説 見っけては、自分の都合のいい説、言ってるだけで歴史の定説じゃねえだろうが。
オメー論文にして歴史学会にでも発表しろ、そのトンデモ学説。

118NONAME:2009/08/18(火) 22:36:56
秦の時代の墓だったか、コーカソイドの首ぶったぎった人骨出たんだそうだが
当時、蛮族狩りがあたりまえに行われててその戦争捕虜だったんだってよ。
いっぺん、2ちゃんの歴史版 行って来い。

119777:2009/08/18(火) 23:11:17

まあ,アジアでパンと羊の肉を食べていたのは古代中国の黄河文明位ですからね.

120777:2009/08/18(火) 23:40:09
甘粛省に古代ローマ人の村■

−−2000年前、中国に帰順か−−

7月31日付の南京の夕刊紙、揚子晩報によると、中国西部の辺境地帯に位置する甘粛省金昌市郊外、

永昌県者来塞村の村民約百人が高い身長と鼻、くぼんだ目、ウエーブした頭髪、ブロンドの髭といった

欧州人の風貌をしている事が最近、考古学者たちにより確認された。古代ローマの遠征軍の末孫との見解

が有力になっている。

古代ローマ資料によると、ローマ共和制末期の執政官クラッススが紀元前53年、5万人の軍を率いて

中央アジアのパルティア(中国名:安息)を攻略して戦死。6千人の兵士が包囲を突破したものの、行方

を絶っている。

これと対応するように、中国側の「漢書陳湯伝」は、紀元前36年に、前漢王朝の国境警備軍がローマ軍の装備をした部隊と遭遇、

この部隊は漢に帰順し、豊かな土地を与えられて国境防衛任務に就いてと記している。その後に書かれた漢の地図により、国境地帯

に新たな行政区画が設けられた事が確認されている。

考古学者らによると、者来塞村の位置はこの古地図上の行政区画とほぼ重なり、古代のとりで跡も見つかった。
http://www.cosmos.ne.jp/~aika/JCSAhome/joho.html

121777:2009/08/18(火) 23:45:14

受け継がれるローマ人の習慣

歴史学者の研究によると、紀元前53年のカルラエの戦いの後、行方不明になったローマ軍の兵士が東に向かう途中で匈奴に助けられた。その後、漢と匈奴との戦いで漢軍の捕虜になり、最終的には前漢政府が置いた驪靬城に暮らすようになったという。現在その末裔だと考えられている人たちは、古代ローマ人の習慣を多く留めている。者来村の村人は、春節になると小麦粉で作った生地を発酵させ、「牛の鼻」と呼ばれる蒸しパンを作って祭祀に用いている。また放牧の時、雄牛を集めて戦わせるのは古代ローマ人の闘牛の名残だ。葬儀も他の場所とは違い、死者を葬る時は地形に関わらず頭を西に向ける。

村の中心には、崩れた驪靬古城の跡があった。長さ10メートル、高さ1メートルほどのS字をした土の城壁で、南の壁は城門のようである。多くの専門家はこの土塀が驪靬城跡だと考え、行方不明になった古代ローマ軍の兵士が中国に移り住んだという有力な証拠の1つだと考えている。

永昌県の賈笑天書記によると、数年前、ローマ人の末裔と考えられている羅英という人のDNA鑑定を北京中国科学院遺伝研究所行い、その結果、彼がヨーロッパ人と血のつながりがあることが分かった。
http://www.rmhb.com.cn/chpic/htdocs/japan/200706/news/9-1.htm

122777:2009/08/19(水) 21:27:52

 中国西部の甘粛省永昌県郊外に、くぼんだ目に高い鼻、赤みがかった肌をもつ人々が暮らしている。およそ2000年前、中央アジアに遠征したローマ軍兵士たちの子孫とされる。彼らは今、「ローマ人村」として観光業に力を入れるなど、“村おこし”に躍起になっている。(中国甘粛省永昌県 矢板明)

 甘粛省の省都、蘭州から北へ自動車で5時間のところに、永昌県はある。人口約25万人のこの町の中心部に、古代ローマ人と古代中国人の石像が立つ。

 「ローマ人がこの地にやって来たことを記念するために1994年に建てたもので、今では永昌県のシンボルとなっている」と現地の観光ガイドは誇らしげに説明する。中国人像も一緒に建てられたのは「他民族の軍人も受け入れ、一緒に生活する中華民族の包容力を世界中のみなさんに知ってもらいたいからだ」という。

 石像のある広場から北の郊外へ、舗装されていない砂道を走ること30分。前漢王朝がローマ人に与えた「驪●城」の遺跡にたどりついた。城壁の一部が残るだけだが、1989年に蘭州大学の陳正義教授らの研究グループにより発見されたという。

 城名の「驪●」は中国古代の史料にたびたび登場する言葉で、古代ローマの別名とされる。中国語で「リーチエン」と発音し、ローマ軍団を意味するラテン語の「legion」が語源であることが、その後の研究で明らかになった。



 ■傭兵として帰順

 古代ローマの史料などによると、紀元前53年、ローマの執政官クラッススが、約4万人の軍を率いて中央アジアのパルティア(現在のイラン周辺)に遠征し戦死。その部下約6000人が敵軍の包囲を突破して東へ逃れ、消息を絶った。

 中国の「漢書陳湯伝」によると、それから17年後の紀元前36年、前漢王朝の国境警備軍が少数民族を討伐する途中、ローマ軍の部隊と遭遇している。驪●城の遺跡を発見した陳教授らは、中国側とローマ側の史料を突き合わせ、逃れたローマ軍団が中国に住み着いたとの学説を発表した。部隊は漢に帰順し、傭兵(ようへい)部隊として国境防衛の任務に就き、居住地として驪●城を与えられたのだという。

 当初、中国の考古学者の間では、この学説に否定的な見解が多かったが、2003年、驪●城の遺跡付近で前漢時代の古墳群が発見されて流れが変わった。身長が180センチ前後あったとみられる、欧州人に似た骨格をした遺骨など約100体が確認されたのだ。

 ■青い目の子供

 陳教授の学説を証明するもう一つの有力証拠は現地人の顔立ちだ。驪●城の遺跡に近い、者来塞(しゃらいさい)村にはローマ人の子孫が最も集中しているといわれる。約300人が住んでいるが、欧州人の顔立ちの住民が多い。両親はともにアジア人の顔をしているのに、青い目をした子供が生まれるケースもあるという。

 生活習慣面でも周辺の村との違いがいくつかある。死者を埋葬する際、周りの村は頭部を北の方角に向けるのに対し、この村だけは西に向ける。欧州への「望郷の念」からきた習慣ではないかと推測する人もいる。パンの上に野菜などをのせたピザのような物を正月に食べる習慣もあり、イタリア料理を想起させる。

 最近、国内外のメディアの報道で村の知名度が上がり、住民たちは「ローマ人村」を売りに、村おこしに懸命だ。村の中心部に古代ローマ宮殿を模した建物を作り、観光客やメディアが取材に訪れると、村の男性たちがローマ軍団の衣装を着て、宮殿の前で写真を撮らせるサービスも始めている。

http://d.hatena.ne.jp/Sventovit/20090330/p9

123777:2009/08/23(日) 14:56:32

中国の主な歴史。(「あんた何様?日記」12.14付より)


1949年   中国がウイグルを侵略

1950年〜  文化大革命・中国国内外で以降粛清・民族浄化及び餓死で3000万人以上が死亡

1950年   中国が朝鮮戦争に参戦

1951年   中国がチベットに侵略し現地民数百万人を虐殺

1959年   中国がインドと国境紛争、カシミール地方の占領

1969年   珍宝島で中国軍がソビエト軍が衝突

1972年   日中国交樹立

1973年   中国軍艦が佐渡島に接近、ミサイル試射

1978年   米中国交樹立

1979年   中国がベトナムを武力侵略。中国が懲罰戦争と表明

1989年   中国天安門にて発生した学生による民主化運動を軍隊で強行鎮圧し死者300人以上

1992年   中国が領海法制定により南沙諸島と西沙諸島の領有を宣言

1995年   中国が歴史的にフィリピンが領有してきたミスチーフ環礁を占領

1996年   中国が台湾海峡でミサイル発射し台湾を恫喝

1997年   中国がフィリピンが歴史的に領有してきたスカーボロ環礁に領有権を主張

同年    中国が日本が固有の領土として主張してきた尖閣諸島の領有を主張

2000年   中国の軍艦が日本列島を一周。中国が尖閣諸島付近で日本の領海内の海底油田調査を敢行

2004年   中国が沖ノ鳥島は岩であり日本の領海とは認めないと主張

同年    中国の潜水艦が石垣島の日本の領海を侵犯

2005年   中国が反分裂国家法を制定し台湾に対して武力行使を明言

同年    台湾問題に介入するなら核攻撃を行うとアメリカを恫喝

同年    アメリカが中国の巨大軍事国家化を指摘

同年    中国が沖縄の日本帰属に疑問を示し沖縄は歴史的に中国のものと主張

同年    中国海軍が春暁ガス田付近に軍艦派遣で示威行動

http://d.hatena.ne.jp/drmccoy/20051227/p1

124777:2009/12/15(火) 21:22:04

中国で起きていること 人類最悪の権力犯罪 まるで731部隊だ!

 【【大紀元日本12月15日】中国の監禁施設で生きた法輪功学習者を対象に臓器摘出・売買をしているという2006年に告発された事件に関して、最近、目撃者の新たな証言が、国際的な人権擁護組織である「法輪功迫害追跡調査国際組織」(WOIPFG、米国本部)から発表された。 証言は、同組織の調査員が中国遼寧省の元警察(匿名)を取材して得たもの。遼寧省公安庁に勤めていた2002年に、瀋陽市軍部病院で一人の女性法輪功学習者から生きたままで臓器を摘出したのを目撃したという内容である。証人の同意に基づき、同組織は最近、30分ほどの取材録音の一部を公開した。】

 【証人:手術ナイフで、彼女の胸のところを切り開いたらすぐ、血が噴き出してしまい、血が噴き出したのであって…
調査員:男性でしたか、それとも女性でしたか。証人:女性、女性でした。

調査員:若い女性ですか。証人:30代だったでしょう。

調査員:胸が切り開かれた時にも、彼女はなお「法輪大法は素晴らしい」と叫んでいたのですか。証人:叫んでいました。

調査員:彼女は当時どのように叫んでいたのですか。証人:当時、彼女は、1週間ほど尋問と凄まじい拷問を受けていたので、体には数え切れないほどの傷がありました。しかも電気ショックを受けていて、意識朦朧となっていました。物を食べるのを断ったため、私たちは強引に牛乳を彼女の胃に注ぎ入れました。非常につらい体験でした。彼女の鼻を摘まんで注入しました。こうして生命を維持させていました。1週間経って、彼女の体重は約7キロ減りました。当時、あのようなことが発生するなど、予想もしませんでした。
 それで、遼寧省警察庁のどの部署からかは分かりませんが、いずれにしても特殊な極秘部門から2人の軍医が派遣されてきました。1人は、解放軍瀋陽陸軍総医院の軍医で、もう1人は解放軍第二軍医大学を卒業した軍医でした。具体的には、1人がやや年配で、もう1人は若者でした。彼女をある場所、すなわち精神病院の手術室に入れ、それからあることを一通りやりました。麻酔など一切使わずに、手術ナイフで胸のところを切り開いていく。彼らの手はまったく震えることはありませんでした。わたしなら、きっと震えてたまらなかったでしょうが。わたしは武装警察を務め、銃を持って実弾で演習したこともあるし、多くの死体を見たこともありましたが、私なら振るえるはずです。しかし、軍医の彼らを見て、私は本当に驚きました。彼らの手はちっとも振るえず、マスクをしたままで胸のところを切り開いて行きました。当時、私たちはみな銃を手にして、傍で警備を担っていました。切り開かれた瞬間、彼女は突如凄まじい声で叫びました。「法輪大法は素晴らしい」と。

調査員:胸が切り開かれた時に、彼女が「法輪大法は素晴らしい」と叫んだのですか。証人:突然凄まじい声で、「法輪大法は素晴らしい」と叫びました。彼女は大体、次のようなことを言いました。あなた達はわたし1人を殺すことができても、信仰のためにあなた達の迫害を受けている何億の人々をみな殺すことができますか、と。この言葉を聞いて、その軍医は一瞬、躊躇し、目を私と私の上司の方にちらりと向けました。私の上司が頷いたので、彼は続けて血管を…まずは心臓、それから腎臓を摘出し出しました。心臓の血管を切断した際に、彼女は痙攣しはじめました。非常に恐かったです。うまくいかないと思いますが、彼女の声をちょっと真似てみます。それは引き裂かれたようもので、アー、アーと口をずっと大きく開いて、目も大きく見開いていました。まあ、私はこのような光景を語りたくありませんが… …証人:当時、彼女は教員でした。先生、中学校の先生でした。彼女の息子は約12歳でした。彼女の旦那さんは、権力のない人で一般の労働者のようです。それまで、彼女が受けてきた侮辱のほうが、より酷かったと思います。
 われわれ警察の中に変態者は少なくありません。彼女を、カンシや内視鏡などの器具でやっていました。彼らは一体どこからこのような器具を持ってきたのかは分かりませんが、いずれにして、やったことは全部目撃しました。悔しいことに、彼女に対する猥褻な行為を写真に撮ることができませんでした。彼女は美人の方なので、乱暴されることなどが、実に多かったのです…

125777:2009/12/15(火) 21:22:43

調査員:この事は、あなたが勤務していた警察局で目撃したのですか。証人:いや、当時は警察局内ではなく、私たちはある教育センターでやりました。それはあるホテルの裏にあり、10数の部屋を賃貸して使っていました。つまり、一軒の別荘の上の方でやったのです。

調査員:そこは、闇の監獄というようなところでしたね。証人:まあ、そんなものでした。

調査員:そこに監禁されたのは、法輪功学習者だけでしたか。証人:そうです。

調査員:つまり、判決を言い渡されない前からそこに入れられたというわけですね。証人:いずれにしても、われわれは随時に場所を移動することができました。

調査員:事件発生の具体的な時間を教えていただけますか。証人:2002年4月9日でした。

調査員:4月9日でしたね。証人:そうです。4月9日午後5時から摘出しはじめ、3時間かかりました。 その後、1ヶ月ほど続きました。

調査員:「1ヶ月ほど続いた」というのは? 証人:続けて(他の学習者に対して)1ヶ月ほど拷問などを行っていました

調査員:法輪功学習者たちへの拷問は、一度だけやったのですか、それとも数回やったのですか。証人:多くやりました。当時、王立軍、現在重慶市公安庁長は、「殺し尽くさなければならない」と厳令を下しましたから。】

126シンガポールも中国人に乗っ取られた:2010/01/23(土) 22:13:53

シンガポールは かつては、マレー系住民が大半を占める人口約1000人の一漁村があるにすぎなかった島

現在のシンガポールの人口は約300万人(シンガポール国籍保有者および永住権保有者)で、その民族構成は、華人系77.3%、マレー系14.1%、インド系7.3%、その他1.3%。

周辺を敵国(マレーシア,インドネシア,ブルネイ,タイ,ベトナム)に囲まれて、国内は主要民族(華人)が少子化で、マレー人に対抗するため華人の人数増やすべく中国本国から嫁や移民を引き入れている.


シンガポールは多民族国家と言っても華僑主体なので中国の海外領土みたいなもの。おまけに中国系シンガポール人は超親中。

また李光耀は「2世代後には中国語が母国語になる」と言っていた。


マレー人の海にぬけぬけと居座る中国人の島

独立後のマレーシアは英国人の手先になってマレー人を搾取してきた華僑との共生を嫌い、彼らを現在のシンガポール島へ追い出した。

だから建国の祖が英国人トーマス・ラッフルズにされた。公用語は英語、国歌歌詞はマレー語、文化はごちゃまぜ国籍不明状態。「マレー人の海に浮かぶ中国人の島」という負のイメージをごまかすため。

侵略者の手先をヒーローに祭り上げる感覚も日本人にはよう解らんが、植民地時代自らイギリスの手先になってマレー人を搾取していた華僑の国のシンボルとしてふさわしい。
http://wiki.chakuriki.net/index.php/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB

128NONAME:2010/10/26(火) 01:09:59
当方「ブログ荒らし苦情」をOCN に入れたところ、返事が来ましたよ。
>お客様 >この度はお問い合わせをいただき、ありがとうございます。
>OCNインターネットセキュリティ担当 島貫と申します。

>ご連絡の件につきまして、弊社にて該当IPアドレス使用者様に対して、何らかの対処をさせていただくことはできません。
>誠に恐縮ではございますが、お客様のサイト側で対策をお取りいただけますようお願いいたします。
>今回のお問い合わせではお力になれず、誠に申し訳ございません。 よろしくお願い申し上げます。

なるほど。  OCNユーザーが迷惑掛けても、何の対処もしないのですね。では、インターネット上にて、OCN様が対処を怠っている事実を
証拠付きで今後どんどん広告していきますので、よろしくお願い致します。 下記の禁止事項とやらは、「嘘」だったのですね。

> OCNをご利用いただく際の禁止事項について http://www.ocn.ne.jp/info/rules/rule/
>
> 禁止事項に該当する行為が行われたことを確認した場合、その行為を行ったお客さまには、「警告」、「OCNのご利用の停止」、
> 「OCNのご契約の解除」、「その行為に使用したOCN契約以外にそのお客さまが保有するすべてのご契約を含めた
> ご利用の停止・ご契約の解除」といった対処をとらせていただきますので
> あらかじめご了承ください。 また、その後のOCNサービスの新規お申し込みをお断りする場合もございます。

こりゃあ、OCNさんを通報処分だね。www
OCN 苦情 OCN 苦情 OCN 苦情 OCN 苦情 OCN 苦情 OCN 苦情 OCN 苦情 OCN 苦情 OCN 苦情 OCN 苦情

187NONAME:2021/11/24(水) 14:29:57
日本人は馬鹿なので どうせ対岸の火事だと思っているでしょう

つうか対岸には事の張本人、中国共産党が居ますけどwダイジョブですか?ダイジョブじゃないですね

188NONAME:2021/11/24(水) 14:36:42
中国人が悪いのではなく 中国共産党が悪い
というか、共産思想は理想ではあるが実態は真逆のただの独裁 なんでもやる利己的精神

189NONAME:2024/11/20(水) 13:42:27
ドイツはユダヤ人虐殺した、かどうかは分からないが、色々と反省しているようだ、

しかし、中国共産党による少数民族浄化(虐殺や奴隷化)に対して何をしている? 何もしていない。

反省が聞いて呆れる。


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