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規制推進派とオタクとの関係性について

1松代:2002/11/12(火) 00:36
一部の規制推進派と同様に一部のオタクもまた「法的に認められた愛しあう二人の生殖目的のセックス」を頂点とするセクシュアリティのカースト制を自明としています。

また、一部のオタクと一部の規制推進派はセクシュアリティのカースト制によって「萌え」ますが、セクシュアリティのカースト制に対するオタクと規制推進派の関係は全く正反対のものです。具体的に説明すると、オタクは自らがロリとかペドとか二次コンとかいう「下位カーストにあること」を自覚することで萌え、対する規制推進派は自らが正当な「上位カーストにあること」を自覚することで萌えます。

セクシュアリティのカーストは相対的な概念なので、どっちか一方だけでは萌えません。

オタクは自分のカーストをレベルアップするよう上位カーストへ挑戦し、そして「敗北することで自分のカーストを確認」し、萌えます。

規制推進派は下位カーストからの挑戦をあえて受け、そして「勝利することで自分のカーストを確認」し、萌えます。

規制推進派とオタクは、セクシュアリティのカーストを共有しているばかりでなく、自分達が萌えるために「互いを必要としている」と言えます。

オタクが表現の自由にこだわり、また規制推進派がやたらとその部分を刺激したがるのは、セクシュアリティのカーストを確認するためです。また、彼らの勝負は出来レースであり、結果は決まっています。

そればかりか、規制推進派とオタクはセクシュアリティのカースト維持という点で利害が一致しているため、セクシュアリティのカースト制を否定するような動きに対しては「双方が感情的に」反撃するでしょう。

セクシュアリティのカーストを自明としている一部の規制推進派と一部オタクの議論は、議論のようにみえて議論ではありません。議論によって結論を見いだすつもりは全くなく、議論を「継続することが目的」なのですから、迂闊に結論を出さないよう「わざと難解で穴の多い論理を展開」することも多々あります。

一部の規制推進派と一部のオタクは「共依存関係」にあり、彼らの議論は「痴話げんか」と言えます。

101悟空:2003/12/09(火) 09:29
>100
目的が一致するなら共闘しちゃまずいのかな。
社民や層化やキョーサンとでも共闘するんだから、石原やコバと一緒に戦ってもいいんじゃない?

102悟空:2003/12/09(火) 17:35
今気づきましたが、sage忘れすみません。

103松代:2003/12/11(木) 10:59
自分は共産党との共闘には反対しつづけていたし、今でも反対ですよ。
また、社民党についても「人を選ぶべき」と考えていたし、選挙の時だって「執行部主流派」はパスしてるんだね。
なんちゅうか、いくら目的が同じだからって、誰でもいいっていうわけじゃないでしょ。

でまぁ、現在の政治情況から考えて、もはや公明党以外に「実効性のある反対活動のパートナーとして」頼れる政治勢力は存在しないワケで、以前にも書いたけど「創価学会が大嫌いなオタクさんを山ほど抱えている」規制反対派は、この先どうなっていくのかが非常に興味ぶかいところです。

石原や小林との共闘したら、公明党との共闘関係は構築できないし、反対に公明党と共闘していたら石原や小林は共闘どころじゃないでしょう。それどころか、石原や小林がオタクを真面目な政治勢力としえ扱うのかという、極めて根本的なところさえも疑問ですよね。最低でも、社民や公明の一部議員は、オタクを「真面目な政治勢力」として認識し、話を聞いたりしたけど、石原はどうなのかな?
小林にしてもそうなんじゃない?

一方的な片思いで、石原や小林と肩を並べて「共闘したつもりになってる」なんてことになったら、
目も当てられないだろうね〜

それにしても、目的のためならカルトとでも共闘するAPPと、目的のためなら極右とでも共闘するオタクって、やっぱり似てるよ。

創価学会が大嫌いってのも、規制推進派とおんなじだね。
おもしろいね〜

104K・MURASAME:2003/12/15(月) 20:57
>>103
>松代さん
積極的に共闘するかどうかの違いはあるにしろ、とりあえず敵ではない相手と
潰し合っても仕方がないでしょう。
ただ私にとって共産はまだ距離が近く、石原氏や小林氏は遠い。

なお、小林氏はかつて(1995年ころ)同人参加者をアマチュア、プロじゃないとの
理由で罵倒しています。
しかし、岡田斗司夫氏との対談では適当に話を合わせていました。

創価学会(含む公明党)には、盗聴法以来さんざん痛い目に遭っており、
しかも気にくわない雑誌を図書館から閉め出そうと働きかける、個人情報保護法案
で自らのスキャンダルを守ろうとするなど個人的に極めて問題が多い。また、
自民党との相互依存を深めているように思えるのも減点材料。
敵に回すべきではないのは確かですが………。

105松代:2003/12/16(火) 11:12
>>104
>K・MURASAMEさん
確かに、現状では敵とはいえない相手とつぶしあったり、自分とは異なる意見を持つ存在をむやみに敵視するのは馬鹿げています。しかし、同時にあまりにも価値判断の隔たりが大きい相手とは共闘できないというのも、また真実なのではないでしょうか?
少なくとも辻本議員をはじめとする「フェミニズム原理主義者」とでもいいたくなるような社民党一部議員の政治姿勢は、自分及びグリーントライアングル参加者の価値観とは全く相容れないものがありましたし、その後のスキャンダルや疑惑への対応という部分については、全くお話にならないほどに幼稚でお粗末なものだったといえます。とはいえ、社民党全体としては敵といえないどころか、共闘できる部分が多々あったので、総選挙ではごらんのような対応となりました。
これは民主党においても同様で、党内には「明確に敵視すべき対象」が存在していたにもかかわらず、全体として「まだましな選択肢のひとつ」であることはまちがいなかったため、とりあえず「消極的推薦」という対応をさせていただきました。
では、共産党と社民党や民主党との相違点はどこにあったのかというと、最大の相違点は「排外主義に染まっているか否か」であり、少なくとも自分は「排外主義」に傾斜している団体と共闘する考えを持ったことがありません。また、これからも持たないでしょう。さらに付け加えるならば、日本共産党は非常に「農本主義」的な団体でもあり、その意味からも全く相容れない存在です。
外国を始めとする「異なる価値観を持つ人々を排除する」という点で、共産党は石原や小林を始めとする極右とほとんど同じです。以前、米不足から外米を緊急輸入した際に、共産党は赤旗紙上で「外米排除キャンペーン」を展開し、中には「完全なでっち上げ記事」も含まれていたと指摘されています。さらに、日本共産党は結党時に「党員資格として日本国籍を要求」し、最も有力な活動勢力であり死の弾圧に耐えぬいた「朝鮮半島出身者を意図的に排除」したという過去もあります。
公明党については、浜四津氏の党内発言力が低下しつつあるように見えるなど、 K・MURASAMEさんが指摘した点以外にも危険要素を数多くはらんでいますが、支持母体との関係から「国際協調主義の看板を下ろすことはありえない」と判断しており、その意味では「共産党よりもはるかにましな選択肢」であると判断しています(排外主義に傾斜しつつある現在の民主党よりもマシといえます)。
続く

106松代:2003/12/16(火) 11:14
続きというか、擦れの主旨に戻すためのネタフリ
自分及びグリーントライアングル参加者の最大公約数的意見として、排外主義に傾斜した勢力とは「全く共闘できない」し、それどころか「敵対関係に陥る可能性が極めて高い」という認識が有ります。自分がオタクを揶揄しつづけ、また「オタクと極右はおんなじ」と皮肉るのも、両者が排外主義という価値観を共有しているためです。

岡田斗司夫の名前が出たのに引っかけて指摘するなら、いわゆる「マンガ系オタク」のアメコミ蔑視には度を越したところが有り、表現規制関連の活動では必ずといって出る「50年代のアメコミ規制」についても、アメコミの流通事情を全く考慮しない馬鹿げた「常識とされる妄言」がまかり通っています。岡田斗司夫をはじめとする排外主義オタクは、90年代以降に爆発的な発展を遂げたアメコミの作品性を故意に無視することが多く、また日本の多様性を失った日本のマンガが作品力を失いつつある点からも目をそらしつづけています。

繰り返しますが、オタクも極右及び極左規制推進派も、排外主義という価値観を共有しており、アメコミ蔑視や流通という側面を故意に無視するのはその表れと観ています(排外主義に染まっていると、価値観の多様性を前提とする流通業界の事情が理解できない)。

ついでに指摘しておくと、他団体の掲示板で意味不明のやり取りが延々続いていますが、これはオタクさんが「被承認欲求を満たすために掲示板で発言することを自明にしている」うえ、さらに「こどもの自主性を全く認めず、親や社会の保護下に置くことを自明にしている」ため、あんな意味不明の電波発言を繰り返す迷惑人物ひとりいなすことができないと観ています。

これは「被承認欲求を満たすために社会に発言することを自明にしている」うえ、さらに「こどもの自主性を全く認めず、親や社会の保護下に置くことを自明にしている」と言い換えるなら、規制推進派と価値観を共有している訳で、個人的な見解ですが「オタクがオタクでありつづけるかぎり」あのような意味不明のやり取りは続くと考えます。

なんだか、擦れの主旨からハズレた政治話の方が長くなっちゃいましたけど、これは擦れのお約束なので、うっとおしかったら適当に無視してください。

107松代:2003/12/17(水) 16:44
気になることもあったので、いろいろ嗅ぎ回った結果、12月に入ってから掲示板が荒れたのは、エロが嫌いなオタクさんが暴れているのだろうと考えるようになりました。根拠を示すと、他団体の人に怒られるから、ココではいいません。

エロ嫌オタクにしても、規制反対オタクにしても、煮たもの同士だから面白いね。

そもそも、行政が「なんの根拠もなく民間の企業活動を規制できるのか?」とか、あるいは行政が「民間の企業活動を規制する際に、根拠を市民に開示しなくてもいいのか?」といった、極めて基本的な事項でさえ、エロ嫌オタクと規制反対オタクの間で認識の相違があるのに、両方とも自分の考えを相手も共有してると勝手に思いこんでるから、変な意味で話が噛み合ってる。

もちろん、行政が民間の企業活動を規制するためには一定の根拠が必要だし、行政が根拠とする理由を市民に公開しなければならない。だからわざわざ審議会を開き、その様子を市民に公開しているワケだが、そういう観点から突っ込む人はいなくて、憲法の条文を素人が解釈するという愉快だけど下手くそな知的サーカスを全世界にさらけ出してるんだね。

また、審議の過程でも包括指定は実効性に乏しく、既に導入している東京以外の自治体では効果があがっていないと、行政の側も認めていることが明らかとなっているのに、何故かそのことを持ち出す人がいない。

どうやら、エロ嫌オタクにしても、規制反対オタクにしても、包括指定が大好きで、効果があることにしておきたいらしい。

それにしても、署名活動に人手が足りないだの、女性作家に署名協力を呼びかけたらサイトを閲覧して「ひかれちゃった」だの、きな臭い話がぷんぷん漂っているというのに、みんなひまなのかね?
それとも、エロ嫌オタクにしても、規制反対オタクにしても、卯月妙子もびっくりのWEB依存症だったのか?

やおい系作家さん達が署名サイトを閲覧した時の反応が爆笑モノなのだが、ここでそのことを言うと某氏に怒られるからいいません。

まぁ、みんなでなかよく頑張っておくれ。

108御津麻呂:2003/12/19(金) 00:22
>女性作家に署名協力を呼びかけたらサイトを閲覧して「ひかれちゃった」
>やおい系作家さん達が署名サイトを閲覧した時の反応が爆笑モノ
それは私のバナーの所為なのでしょうかね?

109松代:2003/12/19(金) 11:10
>>108
女性作家が引いちゃった件は、紹介した時の具体的な情況が不明なので、何ともいえません。
たぶん違うと思いますし、自分も違っていたらいいなと願っています。

やおい系作家さんの爆笑反応については、明確にバナーが原因ではありません。

ちょこっとだけお話しすると、小説は大丈夫だから安心とか、そもそもヤオイはコンビニにおいてないから関係ないとか、わかってるんだかわかってないのかよくわかんないような反応をした末、取り敢えず「ゲイ関係が安全なら、おとなむけ檄エロ18禁は安心」という正しいのか正しくないのかよくわからない理解に到達したという感じです。

また、複数のやおいおねぇさんが「自転車のかごにポスティングするというアイディアに激怒」していたことも爆笑事項のひとつです。ただ、この件については「方法を提示したまでで具体的な活動手法は個々の参加者の判断に委ねられる」という、自称関係者なる人物のコメントが公式見解として流通しているそうで、自分も問題の掲示板発言をチェックしているため、もはや「何を言ってもムダ」と判断しています。

御津麻呂さんがバナーの件を気にしていたから、バナーが原因では無いことを立証する材料のひとつとして提示したにすぎず、その他の意図は全く有りません。

110松代:2003/12/19(金) 11:21
そういやぁ、オタクと規制推進派には以下の共通点があったねぇ〜

★論理の矛盾や破綻を指摘され、第三者的視点からは「論破された」ような情況に陥っても、そのことに気がつかず、同じ主張を繰り返して議論をループさせる。

111СТАЛКЕР:2003/12/19(金) 12:15
>>108
 本人ではありませんがそれは絶対にないと思います。

>>109
>「ゲイ関係が安全なら、おとなむけ檄エロ18禁は安心」という正しいのか正しくないのかよくわからない理解に到達したという感じです。
 ああ、よく分からない反応です。
 なんだかなもう。

112御津麻呂:2003/12/19(金) 17:27
>>109>>111
ありがとうございます、安心しました。
ヤオイ系のサイト様ですが、私の知る限りでは協力頂いているのは
一箇所のみですね。
日頃の交流が無い分なかなか辛いです。
>「ゲイ関係が安全なら、おとなむけ檄エロ18禁は安心」
本当に難解ですね。。。

113СТАЛКЕР:2003/12/20(土) 14:01
>>112
やおい系だけど告知してるよ。
801板の該当スレはなんか全然建設的でないがあそこのことだろうか。

114СТАЛКЕР:2003/12/21(日) 23:24
>>100
>そしてSM表現を「直接的に危害を〜〜する表現」に加えようとしていることでしょうか。


この話は事実でしょうか?
現在ヨーロッパではSM的な表現は表現の自由の範囲に入るとして許されてますよね?

115松代:2003/12/23(火) 17:40
>>114

ご質問の意図がよくわからないので、要領を得ない答えになっているかもしれませんが、簡潔に情報を提供させていただきます。
Q1
>この話は事実でしょうか?

A1
事実です。
北京の女性会議においても地味に取りざたされていたようですが、今度は「極右封じ込めの一環」として再浮上してきたようです。日本においても、水島広子議員などがSM表現への規制を訴えかけていますが、国際的な流れに乗ったものといえましょう。

Q2
>現在ヨーロッパではSM的な表現は表現の自由の範囲に入るとして許されてますよね?

A2
SM的な表現だからといって規制されることはなくなりましたが、芸術性が認められないSM表現は「日本でいうところの猥褻表現」とみなされ、ゾーニング規制の対象となっているとみてまちがいないでしょう。ただ、欧州各国間で統一された基準が存在するワケでもないので、個々の国別に異なった対応がなされています。結論からいえば、SM表現が表現の自由文脈において、無条件に流通を許されている訳ではありません。

補足
アート文脈において、SM表現が主要な存在とみなされているか否かという点においても、かなりの部分で疑問が残るといわざるをえません。日本ではメイプルソープやスチュアートの人気が高く、また「イイザワコウタロウ」を始めとする一部の写真評論家がやたらとSM表現を持ち上げた結果、SM表現がモダンアートの中核に確固たる地位を築いたかのように錯覚している人が少なく有りません。しかし、21世紀のヨーロッパにおいてもSM表現はまだまだメインストリームとは言いがたい存在で、それどころか「サブカルのさらに傍流の支流」みたいなもんだと切って捨てる保守的な美術評論家が力を持っているというのが現状でしょう。
アートマーケットにおいても、SM表現には熱心で資金力のあるコレクターがいるため、ややもするとびっくりするほど値上がりすることがありますが、権威のある公共施設における買い上げ実績となると、実ははまだまだ承認を得たとは言いがたい情況に有ります。
結論からいえば、非常に熱心だが小数のファン、あるいは評論家によって支えられているものの、多数派の支持を得たとは言いがたいのがSM表現を取り巻く情況でしょう。そして、この事実は作品に対する芸術性の高低を判断し、司法の取り締まりを逃れるか否かという点において、非常に重要な基準となります。

116114:2003/12/23(火) 19:14
>>115
情報ありがとうございます。
SM的な表現規制の推進派に関しては児童ポルノ法の創作物規制とはまた違った団体・人間が多そうですね。
ただ反対に加わるのも実写系の方々を含め多いのではと思います。

>北京の女性会議においても地味に取りざたされていたようですが、今度は「極右封じ込めの一環」として再浮上してきたようです。

この「浮上」というのは具体的にどこかの会議でしょうか?

>SM的な表現だからといって規制されることはなくなりましたが、芸術性が認められないSM表現は「日本でいうところの猥褻表現」とみなされ、ゾーニング規制の対象となっているとみてまちがいないでしょう。

つまり発禁処分のようなものは受けていないということですよね?
あとアメリカに関しても州によってSM表現の扱い方は違いそうですね。

117114:2003/12/23(火) 19:53
ヨーロッパではすでにヘイトスピーチは規制対象になってますね。
http://www.wired.com/news/business/0,1367,56294,00.html
(昔からヘイトスピーチや歴史修正主義の規制をしていたドイツやフランスの状況を見ますと、ヘイトスピーチへの規制が極右の封じ込めになるとも思えませんが。)

ただSM的な表現はこの規制対象に入っておらず、
松代さんのいうところの「ヘイトスピーチと同時にSM的な表現への規制をしようとする動きがある」というのはいまいち理解できません。
もし目的が極右封じ込めであるならば別にSM的な表現を規制する必要はないし、
ヨーロッパにおいてもヘイトスピーチとSM表現は峻別されてるからです。

たとえばサドの小説などはフランスにおいて合法的な扱いをされているし、
ドイツはとてもSMのサイトやビデオが多い事で有名です。

118松代:2003/12/23(火) 19:58
>>116

>この「浮上」というのは具体的にどこかの会議でしょうか?
オフレコ情報を含んでいるため、これ以上の情報は勘弁してください。hotwiredあたりでナチスグッズかなにかで検索していただければ、周辺情報は入手できると思います。後は、そこからご自身でたぐって欲しいところですが、ドイツ語での検索を覚悟してください。

>つまり発禁処分のようなものは受けていないということですよね?
不存在の証明を要求するのは勘弁してください。恐らく、ここ数年というスパンでも、発禁処分になった作品を見いだすことは可能と思います。しかし、それがどのような文脈で発禁処分となったかについては、また別問題であることも申し添えておきます。

119松代@追加:2003/12/23(火) 20:04
日本語では、水島広子議員の発言などから規制文脈の流れが追跡可能です。
何故か、水島議員はWEBでの広報活動に不熱心なので、具体的なソースを探るためには、オフラインでの接触を覚悟してください。

なぜ、ヘイトスピーチとSMがごっちゃにされはじめたのかについては、女性という集団的人権の定義を打ち出した一部フェミニストの活動や、また北京会議に出席した人々の「その後」を追跡すれば、なんとなくわかると思いますが、納得はできないでしょう(自分自身、全然納得していません)。

120114:2003/12/23(火) 23:48
>>118、119
>オフレコ情報を含んでいるため、これ以上の情報は勘弁してください。hotwiredあたりでナチスグッズかなにかで検索していただければ、周辺情報は入手できると思います。後は、そこからご自身でたぐって欲しいところですが、ドイツ語での検索を覚悟してください。

残念です。
規制反対運動にとってかなり重要な動きだと思うので、できれば詳しい情報が知りたいですね。
そもそも国際的な取り決めとはなんであるかとか、いったいどこの国を中心にそういう動きが起こっているのかとか。

ナチスグッズで検索したところで下のような記事しか出てきません。
http://www.hotwired.co.jp/news/news/culture/story/20001218205.html
http://www.hotwired.co.jp/news/news/culture/story/20021113208.html
ちなみに私はこの事に関してはアメリカの判断が正しいと思います。


>恐らく、ここ数年というスパンでも、発禁処分になった作品を見いだすことは可能と思います。

というよりフランスやドイツなどでSM的な性表現を発禁にする法律はあるのでしょうか?


>日本語では、水島広子議員の発言などから規制文脈の流れが追跡可能です。

水島議員は規制反対派の一部と接触があるようなので、
SM表現が男性だけでなく女性にも楽しんでる人が大勢いることなどを踏まえて説得したほうがいいですね。

121松代:2003/12/24(水) 00:37
>>120
いささか認識にズレがあるようですね。
まず、ジェンダースタディ、あるいは女性学という文脈において、SM表現は「女性に対する冒涜」であり、また「男性という支配的ジェンダーを固定化するための方便」ととらえられてきた過去が有ります。最近では、フェミニストの間でもこのような認識は見直されつつあり、女性学者の中にもSM表現を肯定的に捉える向きが有りますが、まだまだ主流とは言いがたい情況に有ります。
確かに、SM表現に対してヨーロッパ諸国は北米諸国よりもはるかに寛容ですが、ジェンダースタディ、あるいは女性学という文脈からSM表現に否定的な人権活動者が多数存在していることを忘れてはなりません。

次に、極右封じ込めからSM表現規制という流れですが、極右団体が音楽や演説CDを含むナチスグッズを資金源としており、物販規制の目的は資金源を絶つこととされている点と、欧州以外、特に「日本とアメリカにおけるSM表現」の関係性に注目しなければならないでしょう。

====ココからはマツシロ個人の想像(妄想)です====

水島議員が代表格ですが、日本各地の男女共同参画推進事業において、SM表現の規制が何回か取りざたされています。9・11テロという大事件があったので、偶然という可能性も高いのですが、それでもなおヨーロッパにおける規制論議と、日本における規制論議がシンクロしているかのようにみえる点は気がかりです。

特に日本のSM愛好者はナチスグッズを好む傾向が強いうえ、SM愛好者に民族右翼や右翼趣味者が多数含まれている点から、事情を知らない外部の人間に対して「SM愛好者は極右である」という誤解(いや、理解なのかもしれませんが)をもたらすことは容易でしょう。

ジポ法の経験から、日本の規制推進派がマッチポンプ的に「外圧」を利用した可能性を捨て去る事が出来ず、現在は地味に確認を取っているところです。微妙なネタなので、詳細が判明するまでは開示可能な情報が制限されますが、義理界のほどよろしくお願いいたします。

>というよりフランスやドイツなどでSM的な性表現を発禁にする法律はあるのでしょうか?
海外の法律について語るに足る専門知識を持ち合わせていませんが、いわゆるSMマニアから日本式の緊縛表現が流通可能なのはオランダだけという話を聞いたことがあります。これは、レイプ表現を規制する目的から、女性を「縄で拘束して性交する」描写が禁じられているそうで、その他にも「拘束されている人間とのインターコース」を全面禁止している国は少なくないそうです。いわゆるSM表現が官憲にやられる時は、たいてい「暴力表現規制」や「レイプ」容疑で捕まっているそうなのです。SM的な性表現を禁止する法律の有無については知りませんが、レイプ容疑で発禁になった事例はあるそうです。

122114:2003/12/24(水) 01:03
>>121
>まず、ジェンダースタディ、あるいは女性学という文脈において、SM表現は「女性に対する冒涜」であり、また「男性という支配的ジェンダーを固定化するための方便」ととらえられてきた過去が有ります。

それは知っています。
SM的な表現を含めて性表現を擁護しようとしているフェミニストも最近は増えているようなので、
その辺の論理も使って規制派を説得する必要がありそうですね。
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/omth2/biblio/gender-sexuality.htm
マッキノンやドウォーキンに激しく対立するフェミニストとしては、もうひとり、パット・カリフィアを挙げておかなければならない。
『パブリック・セックス−−挑発するラディカルな性』(東玲子訳、青土社、1998年)である。
カリフィアは、ポルノを擁護し、セックスワーカーとともに闘うレズビアンSMフェミニスト。


>いわゆるSMマニアから日本式の緊縛表現が流通可能なのはオランダだけという話を聞いたことがあります。これは、レイプ表現を規制する目的から、女性を「縄で拘束して性交する」描写が禁じられているそうで、その他にも「拘束されている人間とのインターコース」を全面禁止している国は少なくないそうです。
>これは、レイプ表現を規制する目的から、女性を「縄で拘束して性交する」描写が禁じられているそうで、その他にも「拘束されている人間とのインターコース」を全面禁止している国は少なくないそうです。


少なくともネット上においてはオランダ以外のヨーロッパの国で日本の緊縛画像を扱っているサイトはいっぱいありますよ。
また手錠などを使ったSM画像も大量にあります。
それとレイプ映像に関しても規制する法律があるというのはあまり聞きません。
カンヌ映画祭ではかなり過激なレイプシーンがある映画が放映されました。
http://www.sponichi.co.jp/entertainment/cannes/2002/25.html

どこの国かわかりませんが、そのレイプ容疑で発禁になったというのは演技ではなく本当にレイプをした映像であるからではないですか?

123114:2003/12/24(水) 01:12
海外の表現規制関連の情報は本当に入ってきにくいですね。
ネット規制関連の情報は比較的入ってきやすいのですが・・・
世界的な表現規制反対団体のネットワークができるのが理想ですね。

124松代@擦れの流れに戻すためのネタフリ:2003/12/24(水) 01:55
ジポ法や青少年有害環境なんちゃら基本法の時にも経験したのだけど、規制話が出た時の反応が既視感に満ちあふれていたので、擦れの流れを戻すためにもネタにさせていただきます。

マンガ&アニメ&ゲームファンの皆さんもそうだったんだけど、自分の好きなメディアが規制の対象になると聞いた時、やたらとそのメディアの「芸術性が高い事」や「多くの人々から支持されている事」を強調するんだね。確かに、芸術的価値が定着していれば司法判断に影響するけど、規制推進派の連中はそんな事全然おかまいなしだし、多くの人々から支持されていようがいまいが、司法判断にはこれっぽっちぐらいしか影響しない。まして、規制推進派の連中にしてみれば、人気があるからこそ規制するってぐらいのもんだ。

でまぁ、規制対象となったメディアが本当に芸術的で、多くの人々から支持されているかとなると、ぶっ茶けた話、疑問なのですよ。

ジポ法や青少年有害環境なんちゃら基本法の時には、もっぱらエロマンガやエロゲーが槍玉にあがったんだけど、マンガやゲーム全体からしてみれば、小さなサブカテゴリーに過ぎないことはファンの人々がいちばんよくご存じのことと思う。

ところが、規制推進派はそのサブカテゴリーが「あたかもジャンル全体を代表しているかのように」騒ぎたて、不健全な問題表現が「ものすごい人気を獲得しているかのように」煽って、また一般とはかけ離れた感覚を持つ「芸術家連中が問題表現を承認しちゃったかのように」誤解して、いますぐにでも規制しないと大変なことになるというワケだな。

つまり、規制推進派にとっても規制対象となるメディアが「芸術的で人気を集めているほうが好都合」といえるのだね。

実際、芸術的でもなければ人気も集めていない、ごく一部のマニアむけメディアということになれば、わざわざ規制しなくてもいいという話になり、行政が規制を発動する大義名分を失うわけだね。

ところが、規制反対活動に関わる人々の中には被承認欲求ではちきれそうになってる人がたくさんいるから、自分の愛好するメディアを「芸術的でもなければ人気も集めていない、ごく一部のマニアむけメディア」などと、口が裂けても言わないワケよ。それどころか、規制されそうになればなるほど、声高に「メディアの芸術性や人気を主張する」ものだから、変な意味で規制推進派と話が噛み合っちゃうんだな。

個人的には、これまでの規制でSM表現が槍玉に上がらなかった理由のひとつとして、SMは「ごく一部のマニアむけメディア」という認識があったのだろうと思う。もし、自分の推測が当たっていて、今回の規制論議が日本人によるマッチポンプだったとするならば、SMの芸術性や人気を集めている点を主張するのは逆効果じゃないかとも思う。

実際、ホンマもんの大変な表現(例えばタイ直輸入のおもしろ写真満載週刊誌)はフリーパスに近い情況なんだが、それらは芸術的でもなければ人気も集めていない、ごく一部のマニアむけメディアだからじゃないかと思うんだけどね。

いずれにしても、規制推進派もオタクも、規制対象となるメディアが「芸術的で人気を集めていることにして欲しい」という点で共通してるんだよ。

皮肉な言い方をすると、規制推進派は規制対象となるメディアを「規制しなければならないと思うほどに承認している」わけだな。

良かったね、承認されたよ。

125松代:2003/12/24(水) 02:23
>>123
ご指摘の点については、法律を専門的に学んでいないため、なんともお答えしかねるというのが正直なところです。
アメリカのポルノ・コード(業者の自主規制みたいなもの)では、生中出しを禁じているはずなのに、最近では生中だしと称する作品がぽつぽつ入ってきてます。法規制と自主規制を混同する事は非常に多いので、ポルノ団体に自主規制が、SM系のWEBサイトには適応されないだけなのか、あるいは「日本で制作された緊縛画像」だから問題ないのか、その辺については何ともいえません。
もちろん、情報源そのものが間違っている可能性もあります。

ベーゼ・モアの時も感じたのですが、表現規制の線引きというのは各国共にあいまいなようで、本当にわかりづらいところが有りますね。また、最近の映画界では輸出先の相手国ごとに細部の異なるバージョンを作成するのが常識となっているうえ、興行成績によってはディレクターズカットバージョンが後から公開されたりすることもままあるため、オリジナルバージョンとはなんなのかという論議にもなっているようです。
本当に規制されたのかどうかは不明ですし、SM表現とも無関係なのですが、マレーナは性的表現を押さえたバージョンを公開した後に、監督の意図に沿った「ディレクターズカット」をリリースしたと「配給元が宣伝」しています。同様のバージョン違いはベーゼ・モアにも存在しますし、ご紹介された映画にも存在するでしょう。

レイプがらみの発禁に関してですが、本当にやっちゃったから発禁になった可能性は非常に高いと思います。日本では滅多に無いのですが、欧米ではモデルとの権利関係がこじれた末、発売停止の仮処分申請がなされる事例が少なくないし、本当にやっちゃったのであれば当然発禁でしょうから、情況をよく見極めないとなかなかコメントも出来ませんね。

とはいえ、モデルの権利意識が高く、またモデルの権利を保護しようという認識が高いのは歓迎すべきことであり、日本の情況がおかしいのはまちがいないので、この点を問題視することはできませんなぁ。

126114:2003/12/24(水) 03:16
>>124
私は別にSM表現が芸術だから規制するなとは主張してないのですが・・・
合意の上のSM表現であれば何者の人権も侵害しないゆえに規制をすべきではないということです。

SM表現やヘイトスピーチの規制の国際的な取り決めの噂に関しての情報については、
何か重要な情報が入り次第教えてもらえると嬉しいです。

>>125
アメリカあたりだと州によって表現規制の法律が違いますね。
外国の法律を学ぶ必要性を最近痛切に感じます。

>モデルの権利意識が高く、またモデルの権利を保護しようという認識が高いのは歓迎すべきことであり

これはその通りですね。
過去撮った写真を無断で売られたりする事は、あってはならないと思います。

127松代:2003/12/24(水) 13:16
>>126
まぁ、スレッドの主旨からかなりはみ出してしまったので、軌道修正というワケです。
そこんとこ、理解していただけるとすごく助かります。

モデルの権利にも関わるのですが、松代個人としては「日本におけるSM表現の制作情況」にはかなりの問題を感じています。流石に商業メディアではかなり少なくなってきたのですが、モデルの意向や、場合によっては身体の安全さえを全く無視した制作行為がいまでも「根絶されたわけではない」し、モデルとの事前打ち合わせをやらない現場は今でもざらに有ります。
一般のSMマニアともなれば、もはや個々人の関係性に委ねるほかないのですが、一部にはいわゆる「主従プレイ」という名目で虐待同然の行為がまかり通っているという現状もあります。
だからといって表現を規制するのは「明らかに筋違い」で、まずは「モデルの権利確立」が優先されるべきなのですが、規制推進派の方々はその辺のことに全く頓着されないようですね。
ジポ法にしてもSM表現規制を提唱する「日本国内の人権活動者」にしても、被害の実体をろくに調査しようともせず、また被害者の声に耳を傾けることなく、自分達のかってな思いこみだけで「まず表現を規制しようとする」のは共通していますね。
率直にいって、そんなことをしても「誰一人救済されない」し、それどころか「新たな人権侵害を生み出す」危険性が高いなど、非常に迷惑なことなのはまちがいないです。

128鳥山仁:2003/12/25(木) 11:41
松代さん、114さん>
ヨーロッパのアブノーマルな性嗜好に関する規制は、
1:行為そのものを禁止
2:表現行為を禁止
3:製作を禁止
の3種類がごっちゃになっているので非常に判りづらいです。

たとえば、ドイツでは過激な性行為を表現することに対して、
厳しい規制が課せられていますが、
実際のプレイとしてやっちゃあかんということは無いのに対して、
イギリスなんかはその逆で、演技ならオッケーだけどガチンコは原則アウトです。

また、自国で製作したり実行したりするのはアウトだけど、
輸入品なら目を瞑るという国もあって、訳がわかりません。
だから、同じ写真がネット上でアップされていても、
それを「ガチンコ」として掲載しているのか、
「演技」として掲載しているのかをいちいちチェックする必要があります。

このような混乱は児童ポルノが世界的に流通する原因にもなっており、
なかなかに頭の痛い問題ではありますね。

129СТАЛКЕР:2003/12/26(金) 16:08
京都府が「京都府男女共同参画推進条例(仮称)案」の意見募集
http://www.pref.kyoto.jp/comment/fuminrodo/danjo/index.html (詳細)
期間は平成16年1月18日(日)まで。

骨子には罰則付きがどうか不明ですが表現規制条項があります。
http://www.pref.kyoto.jp/comment/fuminrodo/danjo/danjo2.html
>15 情報に関する留意事項
>何人も、公衆に表示する情報において、男女間における暴力的行為等を助長し、
>又は連想させる表現及び過度の性的な表現を行わないよう努めなければならない。

130СТАЛКЕР:2003/12/26(金) 16:09
北の系2003:資料 各自治体男女共同参画条例 性差別助長表現自粛義務
http://zirr.hp.infoseek.co.jp/020352.html

131鳥山仁:2003/12/27(土) 03:23
129さん、130さん>
相変わらず、男女共同参画の面子の中には電波がいるようですね。
女性向けのポルノ、いわゆるレディコミ系列に、
レイプがテーマの作品が多々ある事が理解できないんでしょう。

こうした作品の読者は、「自分からしたいと言えないし、
自分のせいだと責任を被せられるのもいやだけれど、
セックスはしたい」と妄想している女性が大半を占めており、
暴力的な性描写を禁じると、女性向けポルノに甚大な被害が及ぶのは確実です。

もっとも、「恋人同士がセックスするのは当たり前」とか
「夫婦間ではセックスするのは当たり前」とか言ってる電波野郎を見ると、
「お前らは夫婦間でもレイプが発生しうることが理解できんのか」と、
思わず規制したくなる気持も解らない訳じゃないんですけどね。

前から言ってることですけど、馬鹿同士で対消滅してくんないかなあ。
やっぱり、こういうのはマニュアルを作らないとダメなんですかね?

132松代:2004/01/20(火) 13:16
左派系オタクが過剰なまでに「責任の所在を不明確にしたがる」のは、やはり権力の分散を「至上の価値観」とする左翼思想に端を発すると考えてよさそうです。
それも、クロポトキンの無政府主義ではなく、ゴーリキーのナロード観や建神主義、ブハーリンの社会主義ヒューマニズムに依拠する、全ての権力を人民(ナロード)へ式の巨大な無責任社会を目指しているのではないでしょうか?

一方、保守派が性的モラルの締めつけを画策している背景には、1930年代後半にスターリンが権力を掌握してから、ソビエト社会の性的モラルが保守化した(ブルジョア化した)歴史的事実と、何か共通するものがあるように思えてなりません。
実は、保守派もまた「権力の拡散」を至上の価値観としており、全国民が「自発的に無限の責任を受け入れる社会」を建設しようとしているのではないでしょうか?

つまり、左派系オタクと、保守派の連中は、文字通りの表裏一体であり、同床異夢の関係であるといえそうです。

133СТАЛКЕР:2004/05/13(木) 23:26
松代さんへ。
自民党と、その舎弟達が目指しているのは、『責任無き絶対王制』です。
だから皆、自民党総裁の椅子を目指して自ら頑張ったり、協力した事に対する見返り
を目論んで金や人員を提供するんですよ。
あの守権奴共が『権力の拡散』なんて考える筈が有りません。
ついでに言えば、自民党一派にとっての理想の社会ってのは、『全国民が「自発的に
無限の責任を受け入れる社会」』では無く、『自民党一派以外の全国民が「自発的に
無限の権利を投げ捨てた上で、無限の責任を受け入れる社会」』です。
あと、日本の政界には『保守政治屋』と『保守AGE厨』は居ても、『保守派』はい
ません。

134133:2004/05/13(木) 23:39
ゲッ!!ここAMIじゃねぇ!!
スレ直リンだからわからなかった!
管理人さ〜〜〜〜〜ん、このレス、板のルールに合ってますかぁ〜〜〜〜〜?

135松代@管理:2004/05/14(金) 12:08
>>134

別段、キにすることはないですよ。
問題に感じてもいません。
また、どこぞの板と違って、名無しがこてハンを袋だたきにしたり、管理人が名無しにこてハン使用を求めるようなこともありません。

管理人として、発言者のIPはきっちりチェックしていますから、その点は理解しておいてください。
その他、名無しであることを自分の言葉で語らないコピペ厨にはかなりうるさい板であること、また「自分の過去発言を棚上げしてその時々で都合の良いことばかり投稿する人」は、基本的に無視される傾向にあることを申し添えておきます。

136133:2004/05/14(金) 23:45
はい、わかりました。
実名批判だったので板のルールとしてどうなのかなぁ、と思いまして。

137熱心な投稿者:2004/05/15(土) 00:16
>また「自分の過去発言を棚上げしてその時々で都合の良いことばかり投稿する人」は、
>基本的に無視される傾向にあることを申し添えておきます。
それは、自分に都合の悪い発言も無視しうる、というふうに捕らえられかねられませんので、
気をつけたほうがよろしいでしょう。

140松代@管理:2004/05/18(火) 11:57
発言138-139は、投稿者の要請に応じて削除しました。

141松代:2004/05/18(火) 12:01
>>133
歴史的に観て、日本では絶対王制が成立したことがないこと、現在の権力構造に対しても、封建的痴呆(誤変換だけど、面白いから放置)有力者による権力分散が行過ぎていて、モザイク状に絡み合っているとする見方が支配的であることを指摘しておきます。また、昨今のいわゆる「自己決定論」の背景にあるものはなにかという点についても、考えをめぐらせてみては良いかと思います。

142СТАЛКЕР:2004/06/10(木) 00:04
『有害図書撲滅の日記
「みんなの力で、コンビニから「有害図書」を一掃しましょう」
http://plaza.rakuten.co.jp/yuugaitosyo/diary/

また変な規制派の登場です。
ただかなりの行動派なのです(神奈川県の青少年課に乗り込んだり等)
しかし一見ただの一般人にみせかけて変な宗教団体の自作自演の可能性もあるので
注意した方がいいかもしれません。

143松代:2004/06/10(木) 00:46
>>142
まぁ、変な人ですね。
こういう、妙な行動力を持っている人が、いちばん厄介ですよね。ただし、ご本人は承認欲求を原動力にして活動を進めているように見受けるので、あまりいじるとかえって逆効果じゃないかなとは思います。

上手くのせて、致命的なぼろを出すよう仕向けられればよいのですが、どうなることやら…

問題は、現在の政治システムが「平日昼間に政治とアクセスすること」を前提としている点で、議会関係者と面談しているのは引退した老人か専業主婦、あるいは組織的背景を持つプロシミンばかりということです。カンのいい人は既におわかりかと思いますが、引退した老人に専業主婦、あるいは組織的背景を持つプロシミンってぇのは、要するに規制推進派かその予備軍に過ぎないワケで、ロビイングひとつとっても規制反対活動は非常に不利な立場に立たされているのです。
そして、こういう「被承認欲求に突き動かされたデムパ」をのさばらせている限り、規制推進派は好きなように政治を動かすことができるのですが、この問題を解決する方法はなかなか見当たりません。

あえて言うならば、平日昼間に時間のある学生諸君の奮起に期待するぐらいですが、学生が政治に関ることを極端に嫌う人もいるし、関りを持とうしても、今度は以下のようなデムパ活動に絡みとられてしまうという問題を抱えています。

困ったものですね。

「輸入盤CD規制に反対する6・13デモ」主催者「有象無象」:広報担当「昼間たかし」
http://www.geocities.jp/daihanran/yotei.htm

注:この「デモ」については、既に輸入権問題の公式取りまとめページでも無視、削除など、適切な対応がなされています。安心してネタを楽しんでください。

144鳥山仁:2004/06/10(木) 06:00
142さん>
 142さんの推測は可能性が高いのでは? セブン・イレブンファンの娘がいながら、彼女に指摘されるまで有害図書に気づかない親というのは変な存在です。設定に相当の無理がありますね。

松代さん>
 勘弁してください。どういうわけか知りませんが、私が『昼間たかしバッシング』に参加しているという話が独り歩きしてるんです。デモはやりたい人が自由にやればよいと思います。ただし、資本家を無条件で敵認定する思想には全く賛同できません。別途でも書きましたが、これは人種差別の変形で、KKKの「黒人、ユダヤ人を吊し上げろ」と一緒です。実際にマルクス系共産主義者はユダヤ人と資本家を混同する傾向があります。だから、イラク戦争の時に石油会社(ユダヤ系資本が多い)が反戦平和左翼の攻撃対象になったんです。
 日本では、反ユダヤ主義を広瀬隆らが煽ってますが、今回のデモの賛同者も彼と似たような思想信条の持ち主でしょう。どちらにせよ、私は人種差別主義者と関係を持ちたくありません。KKKもアメリカではレッドネックによって構成されています。要するに田舎の無知な白人が主流で、大卒の肩書きを持っているだけで尊敬の対象となります。そして、何かある度に「やっちまえ!」と叫ぶわけです。こういう人間と、何か話し合いが成立すると思う方がどうかしているんです。日本でも同様でしょう。

145松代:2004/06/10(木) 12:12
>>144
>とりやまさん
勘弁ならん〜

というのは冗談で、自分も『昼間たかしバッシング』につきあうつもりはありませんが、そうはいいつつも「やたらと人脈が錯綜している」ために、機会を捉えて「立場表明」せざるをえないという「お家の事情」があります。これは、鳥山さんも別擦れで指摘しているように、ジポ法周辺のみならずいわゆる「シミン活動」方面でサヨクがごちゃごちゃと入り乱れている事が原因です。

本当に勘弁して欲しいのは、政治に疎かった人がなにかの問題意識にめざめ、社会に向けて問題意識を公表したとたん、糞に群がる銀バエよろしく「サヨクがぶんぶん集まりはじめる」という事です。

やりきれないとはこのことですよ。

146熱心な投稿者:2004/06/12(土) 03:14
それは民主主義の否定と捉えていいのかな?いいのかな?

147松代:2004/07/01(木) 01:03
これから投稿するテキストは、今から6年ほど前に立案した単行本企画に添付していたものです。今から考えると当然のことですが、自分の単行本企画には商売にならないという判断が下され、中に浮いた添付テキストは別媒体で発表する事となりました。ただ、媒体の特性に合致しなかったり、文章的に荒い部分も多々あったため、別な人が大幅にリライトしています。ところが、情況の変化によって、別媒体で発表される目処も立たなくなったため、リライトしていただいた人の許可を得て、こちらに掲載することとしました。
また、このテキストは複数の書き手による共同執筆であるため、松代名義ではなく、別ハンドルで投稿することとします。

148Щ854:2004/07/01(木) 01:04
「オタクはフツーの人だよ論」

 私の街で最も老舗の本屋は、三階建てになっている。1階が雑誌とか小説とかの一般人向け、2階が学習参考書とかの子供向け、3階が様々な専門書で、その道の玄人向けの区画となっていた。私はずーっと以前よりこの本屋の常連であったが、学生の頃、この本屋の漫画本区画というのは、2階の学習参考図書コーナーの一隅にあるのみであった。私は漫画本なんぞは基本的に立ち読みで済ませる性分であり、学習参考書なんぞは立ち読みもしたくなかったから、大概の場合2階は素通りして、3階の専門書コーナーへと足を運び「世界残酷物語」とか、「生命の七つの海」とか、「メタマジックゲーム」とかの奇書怪書の類に眼を通すのが常であった。
 それで、何故か2階漫画本コーナーはその後どんどん拡大を続けた。学習参考書区画をあっという間に圧倒し、少年マンガ、少女マンガ、青年マンガ、という具合の一般的なカテゴライズのみでなく、人気作家専用コーナーとかも設けられたりした。そのうちにマンガだけではなく、テーブルトークRPGとやらで使うという20面体ダイスとかなんだとかの珍妙なアイテムも並ぶようになった。私は、こんなサイコロで如何なる博打をやるのかと、しげしげと眺めたものである。
 ある日、いつものように老舗の本屋に出かけると、なんだか2階がアザラシの繁殖場のようになっていた。瓶底メガネをかけた肥満体の男共の一団に、フロアが占拠されていたのである。その後、こうしたステレオタイプな「オタク」像はうんざりするほどメディアに登場する事になるんだが、当時の私は別になんとも思わなかった。大体、ああもマンガチックなオタクが大集合したのは、後にも先にもこれっきりである。何が原因かは、さっぱり解らない。ただしあの時、通常体型の少年少女達もマンガを買いに来ていたのだが、彼らが妙に居心地の悪そうな顔をしていたのは、今でも印象に残っている。
 2階マンガコーナーは更に拡大を続け、ついに収容不能になったらしい。老舗の本屋は隣接する小さな古ビルを買い取り、ここをマンガ類専門書店として改装オープンした。マンガは無論、アニメビデオにテーブルRPG用のアイテムに、フィギュアに、同人誌製作用のケント紙とスクリーントーンまで商う店であった。漫画家の先生達によるサイン色紙だの生原稿だのが、壁に何枚も飾られていた。私の友人の幾人かも、この新書店に足繁く通うようになり、彼らは「オタク」と呼ばれるようになった。別に、当の本人達が望んでいる名称ではなかったらしいが。一方の私は、相変わらず旧書店の3階に通い、「木炭自動車の原理と制作」なんぞという、およそ絶対に役に立たないような本を読んでおり、単なる奇人変人と称されている。

149Щ854:2004/07/01(木) 01:05
 さて、ただの奇人変人である私にとって、なんとも羨ましい現象が起こり始めた。評論家の偉ーい先生方が、「オタク文化」だとか、「高等遊民」だとか言うキーワードで、矢鱈とオタクを持ち上げだしたのである。ただし、オタクであり、おそらく最も初期にテープルRPGにのめり込んでいた友人なんかは、そうヨイショされても、なんだか当惑しているようであった。実際、オタクは別段アザラシみたいな体型ばかりではないし、文化の担い手だなんて、そんな大層な意識も無いし、もちろん「高等遊民」なんてレッテルを貼られるほど社会から浮いた存在でもない。その辺の兄ちゃん姉ちゃんと大して変らない、そこそこの社会性をもった、そしてある意味とても泥臭い人間、それが「オタク」なのではないかと、私には思える。
 ただ、確かに彼らオタクの中には、
 「自分は他人と違う、何か、を持った人間なんだ」
 なんていう案配の、妙な選民意識がある場合もあったりするし、何かにつけてオタクと一般人の違いを強調する人もいたりする。
 しかし、その同じオタクの中には、同時に「普通の人間として認めて欲しい」という、奇妙な帰属意識も混在しているように思えてならない。大体「オタクがオタクらしくオタクとして振る舞える」事が可能な場所なんて、イベント会場やオタク向けショップの店内と、まあスクリーントーンの切れ端とかで小汚くなった自室内部とかで、ほとんど全部なのではないか。一寸視点を変えると、多くのオタクは、なんとかして普通の人になろうと、この「普通の人」という奴以外を認めようとしない日本社会に溶け込もうと、日夜必至に努力しているようにも見えてしまう。
 だから、オタクの方々が何かにつけて徒党を組んで、仲間内でべたべたの付き合いをしたり、一度敵と思い込むとあきれるほど攻撃的になったり、そうかと思うと自分の「オタク性」を徹底的に否定したり、はたまたくどいほど強調したりと、一種分裂的な行動を起こしてしまうのではないか、という気もするんである。
 逆に言うと、イベントやサークル等で形成されるオタク社会とは、結局日本社会の縮図になってしまうのである。根回しと水面下の交渉、奇妙な仲間意識の押しつけに外への敵愾心、嫌な本家本元意識や囲いこみ競争、実は封建社会なところ等々、数え上げれば切りがない。
 それでは、何故メディアはオタクを特別視するのかって、当然のようにそんな疑問が沸いてくる。単にメディア側の都合で、媒体にオタクを登場させると売れると思い込んでいるから、なんて事を言い出すと身も蓋もなくなるのだが。まあ、確かにそういう側面もあるとは思う。
 ただ、私個人として、実はオタクが日本社会を映す「鏡」になっているのでは、という気もしているのである。だからこそ、このオタクの言動が世間の注目を集めているんじゃないか……なんて思うのである。

150Щ854:2004/07/01(木) 01:06
・疎外と帰属

 今までオタクを説明する際に語られていた「疎外と帰属」理論には、何か違和感を感じていた。
 今までの説明だと……マンガやアニメ、テレビゲーム等といったモノは社会的に「あまり価値が無い」とされていたため、成長してもそれらに興味を持ち続ける人々は、一般社会から疎外されていた。しかし、何かのきっかけで、同じ趣味を持つ人々やグループとめぐりうことができた場合、疎外の裏返しとしてその人々やグループに強力な帰属意識を持ち、社会より仲間内の常識に従うことになる。だかオタクは仲間内で固まってばかりいて、社会性がなくなってしまう……という事になる。
 確かに、ある程度はあたっていなくもないかな、なんて思ってしまう側面もあるが、やはり違和感が残る。
 なにしろ、今ではコミケが割と真面目なイベントとしてメディアに取り上げられたり、女性タレントがアメコミフィギュアのコレクションを蘊蓄交えて自慢したりしていても、違和感なくすんなり受け入れられてしまうような状況なのである。
 マンガやアニメのことを子供だましとか、レベルが低いとか言ってる方が「わかってないおっさん」とかいう事になってしまうし、ゲームに至ってはもうなにも語る必要はないだろう。
 今のオタク達、それもマンガやアニメ、ゲームのオタクばかりではなく、マニアックに趣味的な何かを追及する人々という意味でのオタクのほとんどにとって、現代社会はかなり生きやすい世の中になったのではないかと思う。少なくとも、オタク=社会不適応者なんて単純素朴な図式でしかオタクという存在を捕らえていない人は、相当減少した。
 例えば「もう中学(高校)生になったんだから、アニメは卒業でしょ」なんて小言、親に言われたことないだろうか?
 もちろん、小言の種はゲームでもマンガでも、なんでも良いのである。要は勉強やスポーツ以外の趣味的な「なにか」だったら、それは親にとって「卒業しなければならない子供のお遊び」だったという事だ。まあ、人によっては音楽や所謂「名作映画」なんかはOKだったかもしれないが、基本は変らない。
 少し前までは、親は本当にそういう小言を子供に向かってだらだら垂れていたし、躾という名目で子供を自分の思う通りの人間に仕立てあげることが出来ると信じていた。ところが皆さん御存知のように、家庭という名の建て前はもうすっかり崩壊したし、学校もその役目を肩代わりできなかった。まさか、地域社会なんて過去の遺物が機能している筈もない。
 結局、もう大人は子供に自分の価値観を一方的に押しつける事は不可能となったのだ。だから、子供同士の(つまり自分の)人間関係が良好に機能している限り、子供でもオタクがオタクとして生きやすくなった。
 ところが、世の中には未だに、アザラシ式のステレオタイプなオタク像を振り回し、一方的に他人を「まともな社会生活ができない」なんて決めつけを言う輩もいる。ネットとかでは特に目立つ。
 実の所、そういう人々の多くは、本人がオタクだったりする。つまり、オタクが自分のオタク性を正当化するために、世間に迎合したいオタクが他のだらしないオタクを攻撃するための方便として、そういう単純な図式を持ち出しているようなのである。
 要は、社会的圧力が減少したので、今度はオタク同士の内輪もめが始まったという事である。
 尤も、そういう単純な図式を持ち出した本人にも、その単純な図式は丸ごと当て嵌まる。即ち、これは一種の自爆ネタなのだが、当の本人はそれにすら気付けない頭の持ち主だったりするから、一層始末が悪い。
 さて、ようやくこの論の主題に入ってきた。
 つまりは、オタクを疎外している主役が、一般社会からオタクそれ自体へと変化し始めている、という事なのである。
 では、一体何を間違えばこんな事態になるのかと言うと、理由が3つほどあると私は思っている。

151Щ854:2004/07/01(木) 01:08
・勝ち負けが全て

 まず第一に、人間という生き物には、どうしても自分がされたように人と接してしまう、という特性がある。即ち、これまで他の人の(特に目上の人の)価値観を押しつけられ続けてきた人は、つい目下の人間に対して自分の価値観を押しつけてしまいがちなのである。
 実際、オタクの世界に限らず、ビギナーを露骨にバカにしたり、矢鱈と自分の流儀を押しつけたりする人が後を絶たない。おまけに、嫌なマニアは往々にして、上級者とかプロ、評論家にとことん弱く、下手をすると完全にその人の言いなりなってしまう。そして、オタク達の集まりが、ひとつの世界としてある程度は成立し始めたので、言わば業界人を頂点とした階層社会が形成されてしまったりして、その手の「嫌な個性」の持ち主たちが、自分より立場の弱い人間をひどく疎外するようになっていったのである。
 例示すると、会話に専門用語を大量使用して、自分だけ理解している様な態度をとるオタク、という事になるだろうか。なにしろ、この種のオタク達は何かにつけて、「なんだ、知らないのか」とか「違うな」とか言って、とにかく自分の知識や技能をひけらかそうとする。この他に「まだまだ甘いよ」というのもお気に入りの言葉らしいが。とにかく人を小馬鹿にした態度をとるのが特徴で、うっかり彼らに初心者、もしくは「自分より劣る人間」なんて思われたら最後、相当不愉快な経験をするのは確実である。
 彼らが受け入れるのは、あくまでも彼らの価値観で自分より上だと思った人間だけであり、それも影で何を言われているか判った物ではない。とにかく、この種のオタクは人間関係を全部「勝ち負け」で判断しているから、その関係は対等では有り得ない。おまけに、一度負けてしまうと完全に屈伏しなければならないと思い込んでいるらしく(少なくとも、彼らに「負けて」しまうと屈伏させられる)、その為どんな手段を使ってでも勝とうとするのである。
 冒頭に話したような、ただ純粋に好きなマンガを買いたくて本屋にやってきた幼気な少年少女達にも、もしくはそれに近い経歴の人にも、こんな態度で接するのが当然だと考えていたりする。
 これでは、周囲の人間が疎外感を感じるのも無理はない。
 人間、辛い経験を持つ人は自分のされたようなことは他人にしないだろうと思いがちだが、された分は利子を付けてやり返さないと気が済まない人もたくさんいる、という事なのかも知れない。ちと悲しいが。

152Щ854:2004/07/01(木) 01:08
・役に立たなければクズである

 第二に、なんだかんだと言ってもオタクのほとんどは世間からの承認を求めている、という事がある。
 確かに、ある程度キャリアの長いオタクなら、誰でも一度は所謂一般人にひどく疎外された経験を持っていたりする。時々、そうした経験を経ているからこそ、社会の多数派の価値観とは異なる自分の価値観をはぐくんでいるんだ、と言う人いるが、オタクがみんなそうだとは限らない。とにかく多数派の価値観に擦り寄って、なんとかして自分の存在を世間に認めさせようとするオタクも大勢いるのである。
 アニメ系やマンガ系のオタクで例示すれば、とにかく作品の芸術性やメッセージ性、テーマ性を取り上げ、下手すると情操教育なんて使い慣れない言葉まで持ち出して、矢鱈滅法社会に役に立っているという事を強調する類のオタクである。もっと直接的に言うと、「こう言った新しい文化(といったら語弊があるかも)が社会に認められるためには、ある意味で社会的なメリットや、プラスになることが突出していなければならないのですよ」なんて事を本気で(しかも大声で)言ってくるようなオタクである。
 根本がこういう類の人間だから、何かのきっかけでマスメディアに取り上げられたり、作家や作品が知識人の話題になったりすると、もう大変。そこら中に喧伝して回ったりする。ましてや、何か権威のある賞でもとってしまったら、もうしばらくその話しかできなかったりする。
 確かに、オタクといえども社会の中で共存する必要がある以上、ある程度は多数派の価値観と摺り合わせをする必要があるし、社会的メリットがあることは決して悪いことではない。が、これは何だかどこかで聞いたような話だ。と言うか、これは要するに、前に話した旧来のオタク観の裏返しに過ぎないのである。
 「もう中学(高校)生になったんだから、アニメは卒業でしょ」(=アニメはお遊びで何の役にも立たないから)。
 世間の役に立たないから疎外される、疎外されたくないなら世間の役に立たなければならない。
 これで、疎外されっぱなしだったら、それこそいままでのオタクと同じなんである。しかし、最近結構受け入れられてしまったりしているから大変だ。東大の講師やってる太めの人なんて、その好例である。何か世間的にまずいことがあると、「それは、真のオタクではない」なんて具合に、もうあっさり切り捨ててしまう。「一番偉いオタクがクリエーター」なんて権威主義もどきの言説も似たような物である。しかし、趣味の世界でこんな主張が支配的になったら、えらく息苦しくなるような気もするんだが。
 問題はそれだけでは無い。大概の場合、彼らは自身の趣味が「役に立つ」事を世間に認めさせるのと同程度に、もしくはそれ以上の情熱を傾けて、役に立たない部分を切り捨てようとするのである。それも、役に立つ、立たないは結局「多数派の価値観」で判断してしまう。もしくは、どうにかして自分の価値観を「多数派の価値観」であるかのように見せかけようとしたりする。実際、会話中に異様なほど「普通は」とか、「常識だろ」とか、「みんなそう言ってる」とかいう語を混ぜるタイプのオタクがいる。とにかく自分の価値観を大きく見せようとするのである。
 所詮少数派であるオタクが、かかる態度を取るなんて、自滅行為なんだが。
 たまたま偶然、多数派の価値観がオタク方向に擦り寄ってきたから良いのであって、もしそうではなかったら一体どうするつもりだったのだ。下手をすると、生涯自身を落伍者だと思い込んで人生送っていた羽目になったかも知れないのに。第一、「多数派マンセー」なんて態度を取るなら、オタクなどやめて普通に、大勢いる一般人として生きれば良いのではないか。
 私は前述の通り、木炭自動車などという「何の役にも立たない」知識が好きだ。が、上述のようなオタク達にとって、私、もしくは私のような人間がどうなろうが、知った事ではないのである。
 これでは、周囲の人間が疎外感を感じるのも無理は無い。
 メディアに登場する評論家がアニメを浮世絵に例えるのは、世間受けという観点からは良い方便かも知れない。しかし、エヴァンゲリオンのような、偉い評論家先生が騒ぐようなアニメばかりがアニメではあるまい。一方で、小さな子供向けのエンターテイメント作品は、ほぼまるっきり無視されたりする。こいつはかなり権威主義的な態度である。
 多数派と距離を保って生きているような人でも、何かのきっかけで多数派に受け入れられたら最後、自分を殺してでも多数派にべったり擦り寄る人が大勢いる、という事なのである。なにやらちと悲しいが。

153Щ854:2004/07/01(木) 01:10
・萌え萌え

 最後は、一度帰属する場所を見つけたが最後、その居心地の良さを徹底的に追及するという事である。
 一度何らかの形で自分を受け入れてくれる仲間を持ってしまうと、即ち帰属する場所を確保すると、後はぬくぬくと暮らしていけるのである。となると、当然他の場所には出かけなくなる。「帰属する場所」に行けば受け入れてくれるのだから、リスクを侵してまで他の場所を探すのは、かなり酔狂な部類であろう。おまけに、ある程度メンバーが固まってしまうと、その場でだけ通じるネタというか、話題が生じるのも自然な現象である。こうなると、ますます帰属意識は高まるし、既にいるメンバーにとっては居心地が更に良くなる。特にオタク仲間ともなると、好きなジャンルに関しては当然ごっそり知識を蓄えているので、例え禅問答のような会話であっても、と言うか、なぞ掛けのレベルが高いほど、内輪的ぬるま湯感覚が増すのである。
 断っておくが、私はこのようなコミュニティーを全否定するつもりはない。好きな仲間と好きな会話が出来る、全く結構。居心地が良いのは当然だ。
 ところが、当然全人類が特定のオタク仲間に「帰属」しているのではない。疎外されたくないからと集まった仲間でありながら、外部の人間(この表現自体が既に疎外をうんでいるのですよ)にとってみれば、そういう内輪で固まったグループというのが気持ち悪くて仕方が無いのである。皮肉な現象と一言で片付ける事も出来るが、イベントか何かの拍子に、その間に紛れ込んでしまったが最後、どうしようもない疎外感を味わう羽目に陥る。
 パソコン通信なんて、全てがそういうぬるま湯的帰属空間で構成されている考えても良いだろう。なにしろ、わざわざネット空間で会話している人となると、その会議室なりホームページのテーマが好きな人、というのが大前提なのだから、事の始めから内輪で固まっているのである。当然ぬるま湯加減も急速に高まる。
 おまけに、ネットの世界(特にいわゆるパソコン通信)ではあんまり長大な文章の使用は困難なので、どうしても細かいニュアンスが欠落しがちとなり、必然的に解る人にだけ解る文章が多くなる。更に、技術的制約から独特の常識が発達してしまったため、文章の作法だけでなく、改行や引用のやり方についてまでネット以外の世界とは異なるマナーが必要とされる。その凄まじさと来たら、改行を打つ打たないや表現のマナー等で会員同士がもめた挙げ句、他の会員に対する苦情は私を窓口にしてくれと、管理者が小言を言った古株の会員に釘を刺さしたら、今度は管理者が横暴だと言って古参会員達がごっそり抜けてしまう、なんて事態が、それこそざらに発生しているのである。

154Щ854:2004/07/01(木) 01:11
 おまけに、ネットの中、もしくはオタク仲間内部だけで通用する表現も多く、知らない人間にはえらく敷居の高い世界である。
 オタク定番用語に「萌える」というのがあるんだが、一応説明しておくと、可愛いキャラクター(だいたい美少女関係)に対する特別なファン感情を表す言葉、ぐらいに理解しておけば良いだろう。細かいニュアンスは違うかも知れないんだが、はっきり言って私の文章力ではその辺まで表現不能である。
 まあ、ネットでの使用例を挙げてみよう。

 A:○○タン萌え萌え〜
 B:漏れも萌え萌え〜〜
 A:前は××萌えだったけど、俺いま○○萌え。
 C:萌え〜萌え萌え〜〜〜

 ○○や××のところには、適当なコミックキャラ、アニキャラ、ゲーキャラの名前を入れて解釈して欲しい。後は、字面から読み取って頂きたい。ここで私が言いたい事は、彼らのキャラに対する思い入れを通訳する事ではない。彼らの世界が如何に閉ざされているかという事を示す事なのだから。
 まあ、全部が全部ではないが、一度内輪の方向へ転んだネット空間というのは、大凡こんな感じである。
 繰り返すが、そりゃ当人たちは気持ちが良いだろう。人目に付かない所ででやっている限りは、なんら問題ないだろう。だが、所謂オタクには、他者の気持ちあまり考慮しないという悪癖がある。それに、自分の楽しいことは他人も楽しいというか、とにかく自分が楽しくなると、視野がえらく狭くなる。
 ちと真面目に表現すれば、オタクはすぐに「自我を拡大」して「他人を同一視」すると言う事になるのだが、なんにしてもこの二つが結びついちゃうと、もう始末に終えない状況となってしまうのである。特に、一見近い趣味を持つ人達が集まる即売会イベントや、ネット内が細分化されている大規模ネットのオフ会、商業イベントに「濃い」ファンが押しかけた時なんてのは、もうどうしようもないほど「周囲が」息苦しくなる。ただ一人で木炭自動車に「萌え萌え〜」な私は、木炭自動車の素晴らしさをいきなりその辺の一般人に熱弁して回ろう、などと思った経験はない。大体仲間なんていないから、帰属する場所がない。しかし、帰属する場所、居心地の良い場所を見つけたオタクには、そうした感覚が驚くほど希薄なのである。
 オフ会に限らず、仲間と集まって騒ぐのは楽しい。たが、あんた達ばかりがそこにいるのではない。たまたま趣味が似ているだけで、いきなり萌え萌えとかなんだとかの、不可解な楽屋用語を使われても、周囲は当惑するのみなのである。
 これでは、周囲の人間が疎外感を感じるのも無理は無い。
 普段、人の目ばかり気にしてびくびく生きているようなオタクでも、イベントになると他人を押しのけて自分の楽しみばかり追及していたりする。中間はないのかと言いたくもなるが、それができるような人間なら、とっくにオタク辞めているという事でもあるのだろう。ちと悲しいが。

155Щ854:2004/07/01(木) 01:12
・オタクはどこにでもいる

 上述三要素は非常に密接に絡み合っているので、人によっては全て全部統合してしまうかも知れない。それとは逆に、もっと細分化する人もいるかも知れない。だが、とりあえず私としては、この三つ程度が適切ではないかと思う。
 実際、ほとんどのオタクは2つ以上の要素を兼ね備えているし、オタクが最大級に問題になるのは3つの要素が全て揃った時なのである。
 ただし、オタクというか、オタク的嫌な奴ってというのは、それこそどこにでもいるのである。例えば、今まで読んだ文章の「オタク」という箇所を、おじさんとかおばさん、若者に差し替えて、もう一度読み返してみて頂きたい。すると、結構意味が通じる部分も発見できる。
 要するに、オタクなんてどこにでもいる、ただの嫌な奴の事なのである。逆に言うと、人に嫌われる奴は大概オタク的いやらしさを持っているという事になるかもしれない。
 まあ、敢えてオタクをオタクとして特別に取り上げる意味があるとするなら、新しい日本の「嫌な人間」を真っ先に体現した、という意味で特別視するべきなのだろう。そして、その意味では確かにオタクは時代の先端を行っていたし、新しい時代を切り開いたと言えるのかもである。
 だが、私個人はそんな時代の到来なんて望んではいなかったのだが。
 結局、話の中心は、彼ら(何もオタクに限ったことではない)が他人を他人として認識し、存在を認めていないという事である。他人を自分の「敵」か「味方」としか考えられなかったり、自分の理想を語る「迷える子羊」にしてしまうか逆に「導師」として頼ったり、もっと単純にとにかく何もかもが「自分と同じ」なんて無邪気に思い込んだりしている。
 これでは、子供と変わらない。
 そして、こうした子供と変らない大人達が街には山ほど彷徨いている、という事にそろそろ大勢の人達が気付き始めているのだろう。

156СТАЛКЕР:2004/07/07(水) 11:03
 いくつか実感したことがあるなあ。

> 彼らが受け入れるのは、あくまでも彼らの価値観で自分より上だと思った

 と学会、山本弘氏のサイト掲示板に柳田理科雄関連でちょっとだけ参加したことがある。
 なんというかあそこは山本氏を権威の頂点とするヒエラルヒーみたいなものがあって、柳田氏擁護の立場で書き込んだら、こちらの指摘が正しい(と思われる)場合は完全無視され、こっちが迂闊なことを書くと、怒濤の攻撃にあったもんで這々の体で逃げ出したことがある。
 おれもオタクとしてはまだまだだな(w

157松代[TRACKBACK]:2004/07/07(水) 23:45
序論

漫画作家カマヤンの作品を検討するにあたり、作家自身が作品と同等、あるいはそれ以上の精力を傾けて言論活動を展開しているWEB掲示板と、漫画作品との関連性について、あらかじめ一定の整理を行う必要があった。だが、結論からいえば、漫画作家カマヤンの作品を検討するうえにおいて、WEB掲示板における発言内容を考慮するのはほとんど無意味であり、作家自身の主張は作品からのみ読み取り可能であることが判明した。

まず、漫画作家カマヤン自身が、筆者との直接対話において、以下のように語っていたという事実が存在している。

「俺は掲示板で思想や主張を展開しているワケじゃなく、目についた情報を拾い集めているだけだ。」

また、漫画作家カマヤンのWEB掲示板における言動そのものも、作家自身の発言内容を裏づけるものであり、例えば以下の発言などはその典型である。その他、WEB上で収集した情報を、引用者の解説を加えることなく、ただコピーして貼り付ける場合が極端に多いことも、作家自身の発言を裏づけている。

http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/study/1274/1080501170/44
>>43
>>そもそも、カマヤンさんがこのスレを立てたのはどういう意図ですか?
>この板はだいぶ前からメモ帳として使ってます。

さらに、漫画作家カマヤンは、WEB掲示板において、その時々の考えを「場当たり的に述べる」傾向が強く、発言内容が作家自身の中核的な思想を正確に反映しているかどうかは、非常に疑問とせざるをえない。例えば、以下の発言は発言1と2ならびに3が相互に矛盾しているが、作家自身はそのことを全く問題視していない。

発言1
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/news/410/1030033355/r4
>ちょっと連想したことを、ダラダラ書いてみるけど…
>自己肯定は、一人だけではムリで、他者からの承認によって、得るものである。
後略

発言2
http://jbbs.shitaraba.com/news/410/storage/1043181168.html
前略
>「大勢に流されない勇気」が、直感を大切にするとき、最も必要とされる。
>自分を実際以上に賢そうに見せようとする虚栄心は、「直感」を狂わせる。
>「思い込み」の強すぎる人は、この「直感」をしばしば狂わせがちだ。
>「偽りのリアリティ」「誤った問題設定」は、各人の「思い込み」を扇動するからだ。
後略

発言3
http://jbbs.shitaraba.com/bbs/read.cgi/news/410/1041345270/r5
>■「自己決定権・拒否権」での「ムラ社会」作法と「非ムラ社会」作法
>1
>ムラ社会は、自己決定権・拒否権を、否定する。
>自己決定権・拒否権の発動は、トラブルの元だからだ。
>日本のムラ社会では、大勢に従う、というかたちで自己保身を担保するよう求められる。
>「大勢に従う」ことをムラ社会では「民主主義」としばしば誤って呼称するが、自己決定権・拒否権が許されない「民主主義」など、ありえない[2]。
後略

158松代:2004/07/07(水) 23:46
漫画作家カマヤンにとって、自己肯定や自己承認という概念と、自己決定権という概念が全く異質なものである可能性も残されているものの、基本的に自己肯定や自己承認と自己決定権はセットの概念である。具体的には、他者による承認を「自己承認の主流」と規定している個人は、基本的に「自己の内面を省みることなく」また同時に「極めて権威主義的」であると言え、自己決定権という概念とは決定的に対立する。

そのため、漫画作家カマヤンにとって、自己肯定や自己承認という概念と、自己決定権という概念が全く異質なものだったとしても、あるいは発言を投稿するまでに間に、作家本人の著しい心境変化があったにせよ、このような矛盾を「清算することなく放置」していることは、すなわち作家自身がWEB掲示板で「自らの中核的な思想」を述べていないことをうかがわせる要素となっている。
そして、これらの事例からも、漫画作家カマヤンは自らの発言通り、WEB掲示板を単なるメモ帳や情報置き場としてつかっていることが明らかと言えよう。

ただし、例外的に【「わかりやすさ」その他】スレッドにおける漫画作家カマヤンの発言は、作家自身の制作における方向性を示しているような内容であり、実際に作品へ反映されている度合が大きいように思える。しかしながら、問題のスレッドを立てたきっかけについて、作家自身が以下のように発言しており、スレッドにおける立論過程を追跡した結果としても、他人の問題指摘をまとめなおしたものであることが明らかである。

http://jbbs.shitaraba.com/news/410/storage/1043181168.html
>以上、>>1-5
>松代さんによる整理を、カマヤンが代筆しました。

そのため、WEB掲示板における漫画作家カマヤンの発言は、基本的には無責任かつ未確定なものか、あるいは他人の問題指摘を借り受けたものであり、後からいくらでも好きなように意味づけしたり、あるいは無視することさえ可能なものと考えるほかなく、作品検討の際には度外視せざるをえない。

159松代:2004/07/07(水) 23:48
漫画作家カマヤンの漫画観

作品そのものを検討する前に、まずWEB掲示板における作家自身の発言を、少なくとも主要な検討項目から排除せざるをえない理由を説明した。だが、一方で作品そのものを検討するうえで、どうしても参照しなければならない作品以外の要素が存在する。
というのも、漫画作家カマヤンの漫画観は非常に独特のものであり、作品を検討するうえでも避けて通る事ができないと同時に、作家自身が漫画という表現手段を選択するに至った理由も、彼の漫画観によって説明可能となるためだ。
漫画作家カマヤンの漫画観とは、簡単に説明すると以下の2項目に集約可能だ。

1:漫画はフィクションである
2:描写されているキャラクターの記号化度は、漫画作品の非現実性と比例する

まず、最初の「漫画はフィクションである」との認識だが、単に現実をモデルとしていない漫画作品を指し、概括的にフィクションと定義しているのではなく、いわゆる漫画という表現技法を使用している「表現全体」に対して、漫画作家カマヤンは「フィクション」と定義している。また、いわゆる漫画という表現技法を用いた作品には、現実をモデルにしたものも数多く存在している。だが、漫画作家カマヤンは、現実を作家自身が咀嚼して「実写によらない手法で表現したもの」は、すべからく「作者の意識が反映されたもの」であり、フィクションと定義づけている。
もちろん、イラストやCG、アニメーション等についても、漫画作家カマヤンは、漫画と同様にフィクションと認識している。
他方、漫画作家カマヤンにとって、実写とは「現実世界を機械的に複写したもの」で、そこには「制作者の自意識はほとんど反映されない」とされる。また、カマヤンにとってドキュメンタリーとは、実写で表現されたもののみとなる。
この認識は根本的な部分での誤解に基づくものであり、作品における現実世界との結びつきを無視して、表現技法のみによって作品と現実世界との結びつき、もしくはフィクション性やドキュメンタリー性(あるいはノンフィクション性)を判別すること自体が、非常に危険かつ無意味であるとの批判も十分に想定可能である。しかし、作品検証において重要なのは、あくまでも「作家自身の自意識」であり、その正統性は問題にならない。

次に「描写されているキャラクターの記号化度は、漫画作品の非現実性と比例する」との認識だが、これは「モデルとなった対象物との形状類似性」に関するもので、きわめて大雑把に言ってしまうと、見た目が似ていなければ現実との関連性は薄い、あるいは関連性が存在しないという認識である。
例えば、政治解説漫画などで人型の枠内に「総理大臣○○」と記された「記号」が使用されていたとしても、それはあくまでも「記号」であって現実の総理大臣とは見た目の類似性を全く備えていないものであるから、カマヤンの認識においては現実との関連性を持たないということになる。逆に、実写のコラージュもしくは「実写をトレース」した作品となると、それがどれほど非現実的な内容であったとしても、現実と密接に結びついているという認識となるのは、改めて指摘するまでもないほどに極めて当然のことであろう。

参考:実写コラージュおよび実写トレース作品
http://homepage.ntlworld.com/davepalmer/cutandpaste/heartfield.html
http://www.momat.go.jp/FC/2001/soviet.html
http://www.ucatv.ne.jp/~kajisin/haikyo-miman/builpho/teien-news(p2)-7.html
http://www.ucatv.ne.jp/~kajisin/haikyo-miman/builpho/teien-news(p2)-6.html

160松代:2004/07/07(水) 23:49
このような認識に対し、ある種の批判がなされるのは当然のことであろう。だが、美術においても様式(芸術作品のモティーフなど一見してわかる形式的要素にとどまらず、「暖かい」「冷たい」調子のように芸術作品の形式上に醸し出される感情や品質等を包含する概念:http://www.dnp.co.jp/artscape/reference/artwords/k_t/style.html)と主題を切り離して議論する事が在り、あたかも「写実的な作品は様式を持たない」かのように扱われることもある。最近でも、韓国の美術評論家が「写真家は単に美しい風景を発見するだけであり、芸術家というよりも【発見家】である」等と発言して物議を醸したが、作家の内面と作品との結びつきを極端に重視する立場からすれば、漫画作家カマヤンの漫画認識も、あながち的外れとは言いがたいのだ。

つまり、漫画作家カマヤンにとっての漫画とは、現実世界に拘束されることなく、作家自身の主観世界、あるいは主観そのものを表現するための手段と言えよう。そのため、漫画作家カマヤンが描く世界においては、例え現実世界における事件などを取り扱っているかのようにみえても、それらは極端なまでに様式化、あるいは記号化されており、現実世界との結びつきを持たないものとして描かれているのだ。これは、現実世界を舞台上へ移植しようとしたスタニスラフスキーの演劇に対して、あくまでも戯作者と演出家の内面世界を舞台上で表現しようと試みたメイエルホリドの演劇が、極端なまでに様式化、そして抽象化されていたことと、非常に近い関係にあるといえよう。

漫画作家カマヤンの「漫画はフィクションである」とか、あるいは「描写されているキャラクターの記号化度は、漫画作品の非現実性と比例する」という認識を否定する立場においても、現実世界の事件などを様式化して描くということは、その表現手段によって作家自身が持つ現実世界の内面的意義を表明し、また隠れた特質を再現することを意図していると受け取るのが自然だ。そして、その場合は作品のテーマも現実世界には存在せず、作家自身の内面世界にのみ存在するのだ。

例えば、漫画作家カマヤンの最新作である「なんちゃって街宣活動」においても、そこに描かれているのは、作家自身が2ちゃんねるをどう位置付けているのかと、特定少数者が2ちゃんねるをどう見ているかの主観のズレなどを整理した結果と言えよう。つまり、漫画作家カマヤンが作品を通じて述べているのは、現実世界における2ちゃんねるの様相ではなく、あくまでも作家自身の主観世界における2ちゃんねるの姿であり、作家自身の主観そのものである。
作品において描かれる2ちゃんねるの姿が、現実世界と乖離しようが、あるいは矛盾しようが、漫画作家カマヤンが「漫画という表現手法を用いて制作した作品」であるかぎり、全く問題は無いのだ。

では、その作品において表現されている漫画作家カマヤンの主観とは、いかなるものであろうか?

具体的に作品を検討しつつ、分析を進めていこう。

161松代:2004/07/17(土) 12:07
まず、漫画作家カマヤンがこれまで10年近くに及ぶ作家生活において、発表した作品は極めて少なく、商業と同人、漫画作品と文章作品の全てを合計してもなお、恐らくは40点に満たないと推測される。また、商業出版された漫画作家カマヤンの単行本は、以下の2点のみである。

1997年5月発売・小さな玩具〜ちいさないきもの〜(オークラ出版)
2000年6月発売・新世紀鳥獣戯画アニマル・ファーム(コアマガジン)

本来、形式主義的立場から作品を検討するのであれば、作家年譜を基礎資料とすべきであり、この程度の作品数であればなおのことだが、今回は時間的、労力的制約から、作品そのものの検討に主眼をおき、なおかつ検討する作品も作家自身の最も新しい制作傾向に因るもののみとした。
まず、漫画作家カマヤンの最も新しい制作傾向を表した作品は、以下の2作品と最新の同人誌に限られる。

「マンガ版 児童ポルノ法案を考える」
「偽善者」
なんちゃって街宣活動(同人誌)

そのため、作品を検討するにあたっては、これらの2作品とほぼ同時期に制作された「制服考」の都合3作品に、最新の同人誌からピックアップした作品を基礎資料とする。漫画作家鎌やんは1999年に他の作品も手がけているが、この「制服考」はわずか8ページの作品で、現在「進歩と改革」に連載中の「なんちゃって街宣活動」や「マンガ版 児童ポルノ法案を考える」に近い長さの作品であることから、作風の変化を比較するために検討の対象とした。
まず、単行本「新世紀鳥獣戯画アニマル・ファーム」収録の「マンガ版 児童ポルノ法案を考える」だが、ほぼ同時期に制作された「制服考」と比較して、以下のような要素を共有しているものの、作風に極めて顕著な相違点もいくつか認められる。

共通点
1:背景の遠近感が皆無に等しく、世界が書き割りのように表現されている
2:ほとんどの作品において、作者自身を動物、あるいはタコのような宇宙人に戯画化して登場させている
3:色彩感覚及び質感表現に乏しい
4:作品世界の広がりに乏しい
5:キャラクターの内面世界を緻密に描写している
6:人物を描写する際、複雑な構図を多用する場合と、平板な構図を多用する場合との差が極端
7:キャリアの割には作品数が極端に少なく、仕事を遅らせる性癖がある

相違点
1:いわゆる2頭身キャラを多用している
2:ネームが極端に多く、コマによっては面積の大部分をネームが占めている
3:背景が皆無に等しい

162松代:2004/07/17(土) 12:09
漫画作家カマヤンの漫画観においても述べたことだが、基本的に漫画作家カマヤンが作品で表現しているのは現実世界の様相ではなく、あくまでも作家自身の主観世界の様相であり、作家自身の主観そのものである。作家自身が読み取った現実世界の内面的意義を再構成し、作品という形式で再現することを意図している。もちろん、作品のテーマも現実世界には存在せず、作家自身の内面世界にのみ存在する。
先に述べた「マンガ版 児童ポルノ法案を考える」と「制服考」の共通点は、基本的に作品が作家自身の内面世界をしている事を強調するための演出であり、表現技法と言えるのだが、それらの技法をさらに押し進めた作品が「マンガ版 児童ポルノ法案を考える」である。そして、これら2作品の相違点には、作品と現実世界との乖離がより深く進行していったことが、非常にはっきりと現れているのだ。
例えば、共通点として指摘した「背景の遠近感が皆無に等しく、世界が書き割りのように表現されている」点や「作品世界の広がりに乏しい」点については、作品の主題が漫画作家カマヤンの内面世界にのみ存在することの現れであり、もちろん「キャラクターの内面世界を緻密に描写している」点とは表裏一体の関係にある。また「色彩感覚及び質感表現に乏しい」点も同様で、いずれも作品の主題である内面世界と外的世界を対比的に描き、内面世界の魅力を強調する事を目的とした演出技法である。
そして「マンガ版 児童ポルノ法案を考える」においては、これらの技法に加えて「いわゆる2頭身キャラを多用している」のだが、これもまた作品の主題である内面世界と外的世界を対比的に描き、内面世界の魅力を強調する事を目的とした演出技法である。例えば「マンガ版 児童ポルノ法案を考える」においては、作者自身の分身であるゴリラを含めて、登場キャラクターの大半がいわゆる2頭身キャラか、それに近い極端なデフォルメ処理を施されているにもかかわらず、キツネ耳&うさ耳の少女キャラと枝野議員、そして宮台真司氏は比較的頭身の高いキャラクターとして描かれている。これは、締めのセリフを吐く時のゴリラも比較的頭身の高いキャラクターとして描いている点と合せ、キツネ耳&うさ耳の少女キャラと枝野議員、そして宮台真司氏のセリフを「真実の言葉」として強調し、極端にネームの多い漫画の中で「重要なキーワード」を自然に目立たせるための演出技法である。
この「いわゆる2頭身キャラを多用」する技法は、新旧の技法が混在している「偽善者」にも使用されているが、この作品におけるネームの量は平均より少し多い程度である。ただ「偽善者」は政治活動にしぶしぶ参加させられる作家自身と、みいちゃんとの逢瀬を重ねる作家自身の姿が並行して描写されており、いわゆる2頭身キャラとして描かれているのは政治活動に登場するキャラである。この「偽善者」において2頭身と多頭身のキャラが書き分けられているのは、特定のキーワードを強調するためではなく、漫画作家カマヤンにとっての主題を強調するための演出といえよう。
つまり、漫画作家カマヤンが「偽善者」において主題としているのは「政治活動」ではなく、あくまでも「みいちゃんとの逢瀬」と「政治活動の空虚さ」であり、みいちゃんとの逢瀬を「真実の世界であり真実の愛」として描くことなのだ。漫画作家カマヤンがこの作品を「偽善者」と命名したのは、単に児童ポルノ反対活動に参加している作家自身がみいちゃんとの逢瀬を重ねていることを示しているのみではなく、政治活動を「空虚で虚構」と感じる反面、みいちゃんとの逢瀬に「真実の愛を見いだしている」ことも示しているといえるのだ。
全くの余談だが、この「偽善者」が同人誌で最初に発表された当時、作品の内容が「事実に反する」とクレームをつけた人物がいた。現実と虚構の区別がつかないとは、まさにこのことで、作家自身もひどく困惑していたことを鮮明に記憶している。
ただ、この「偽善者」はあくまでも過渡期の作品であり、漫画作家カマヤンの作品傾向は「マンガ版 児童ポルノ法案を考える」に現れたような、文章と漫画の融合とでもいうべき、既存のマンガ論では定義しにくい表現方法へ傾斜していく。

163松代:2004/07/17(土) 12:10
例えば、先に述べたような「ネームが極端に多く、コマによっては面積の大部分をネームが占めている」とか「背景が皆無に等しい」といった特徴は、最新作である「なんちゃって政治活動」に引き継がれているばかりか、技法としてよりいっそう強化されている。
事実、既に「なんちゃって街宣活動」では、ほとんどのコマは大半がネームでうめつくされており、まだ「マンガ版 児童ポルノ法案を考える」においてはわずかに残存していた背景さえ、ほとんど消滅しているのだ。また「なんちゃって街宣活動」においては、キャラクターさえネームに追いやられており、いわば「コマで分割された文章の片隅に、アイキャッチがあしらってある」ような状態となっているのだ。
これほど前衛的な表現技法を大胆に活用している作品を、いわゆる漫画というカテゴリーに収めること自体の適当性はさておき(ただし、漫画作家カマヤンの特異な漫画観という問題があり、作品が漫画の範疇に入るか否かは重要な論点である)、この演出技法によって漫画作家カマヤンが作品の主題としている内容は明らかにされる。
というのも、既に検討した「制服考」や「マンガ版 児童ポルノ法案を考える」に「偽善者」と異なり、この「なんちゃって街宣活動」は漫画作家カマヤンが自らの独特な漫画観を確立した後で描かれた作品であり、明らかに漫画はフィクションであるという前提の下に制作されているのだ。
そして、この「なんちゃって街宣活動」においては、登場するキャラクターの大半がいわゆる2頭身キャラであり、漫画という表現方法に加えてキャラクターの描写という観点からも、作品が「現実との接点を全く持たない」ことは明らかである。たとえ作品中に実在の個人や団体、地名などと一致する名称が存在していたとしても、作品そのものはあくまでも漫画であり「フィクション」なのだから、それは偶然の一致に過ぎないのである。そのため、このような表現手法を適応している「なんちゃって街宣活動」に込められた漫画作家カマヤンの主題を、現実とは関係の無い作家自身の内面世界に求めることは必然的とさえ言えよう。
結論から言ってしまうと、この「なんちゃって街宣活動」における主題とは、取りも直さず漫画作家カマヤンの内面世界を提示することであり、また現実世界の断片を再構成した「漫画作家カマヤンにとっての現実」を「読者と共有すること」である。
先に述べたように、漫画作家カマヤンにとっての漫画とは「あくまでもフィクション」であり、現実世界とは無関係でなければならない。しかし、この「なんちゃって街宣活動」には、実在の個人や団体、地名などと同じ名称が頻出する。一見すると、これは漫画作家カマヤンの漫画観と真っ向から対立するかのように思えるが、現実を作家自身が咀嚼して「実写によらない手法で表現したもの」は、すべからく「作者の意識が反映されたもの」であり、フィクションと定義づけていることを考えれば、自ずと答えは導き出される。
つまり、漫画作家カマヤンが「なんちゃって街宣活動」において描くのは、作家自身が現実をどう位置付けているのかと、作家自身にとっての特定少数者が現実をどう見ているかの相違点を作品化したもので、作品を通じて述べているのは現実世界の様相ではなく、あくまでも作家自身の主観世界における現実の姿であり、作家自身の主観そのものである。
作品において描かれる現実の姿が、現実世界と乖離しようが、あるいは矛盾しようが、漫画作家カマヤンが「漫画という表現手法を用いて制作した作品」であるかぎり、全く問題は無い。それどころか、作家自身にとっては「漫画に描かれ内容こそが真実(現実ではない)」なのである。
作家自身の漫画観を踏まえつつ、漫画作家カマヤンの作品を検討した結果、作品において使用される表現技法などからも、作品の主題はあくまでも作家自身の内面世界にあり、現実世界とは全く接点を持たないことが明らかとなった。しかし、漫画はフィクションであると断言する漫画作家カマヤンが、なぜ「現実世界の断片を作品にちりばめる」のかについては、形式主義的立場から検討を加えても解明できない。
フロイト流心理学的アプローチを試みれば、漫画作家カマヤン自身が抱える自己内面への否定的評価を現実世界の権威で埋め合わせているなど、また別の結果が得られるかもしれないが、それは読者自身の検討課題としたい。

164カマヤン:2004/09/30(木) 01:34
>>159
>他方、漫画作家カマヤンにとって、実写とは「現実世界を機械的に複写したもの」で、そこには
>「制作者の自意識はほとんど反映されない」とされる。また、カマヤンにとってドキュメンタリーとは、
>実写で表現されたもののみとなる。

ちょっと質問なんですが、

>カマヤンにとってドキュメンタリーとは、実写で表現されたもののみとなる。

そうなの? 私の中の言葉の定義とずいぶん違うんだけど。

私はドキュメンタリー、そんなに数多くはないけど、描いているよ。

A;「具体な現実の事件を具体に素材にし、あまり調味料(演出)を加えない」のがドキュメンタリ

B;「現実の自然人を(比喩的にではなく物理的に)素材にする」
ことを適切に呼称する言葉がなくて、それについては私はあまり発言してないはずだが。
松代さんは「カマヤンはこれを〈実写〉と呼称しているはずだ」とお考えのようだが、なぜそう考えたのかのお?

C;フィクションは「抽象レベルで加工した」もの。
平たく言うと「願望やあり得ないことがらを記述したもの」

というのが自己内定義ですが。

「実写」という言葉は松代さんにはずいぶんコダワリがあるようなので、私自身はあまり素で使った
記憶がないのだが。
「ドキュメンタリー」という言葉も文脈上誤解を招くから児ポ法議論の文脈では私は使ってないはずだが。

165カマヤン:2004/09/30(木) 01:46
追伸
以前から気になる記述は以下

>つまり、漫画作家カマヤンが「なんちゃって街宣活動」において描くのは、作家自身が現実を
>どう位置付けているのかと、作家自身にとっての特定少数者が現実をどう見ているかの相違点を
>作品化したもので、作品を通じて述べているのは現実世界の様相ではなく、あくまでも作家自身の
>主観世界における現実の姿であり、作家自身の主観そのものである。

この部分の主張から筆者が何を言いたいのが私には巧く読み取れないのですが、

まず一読めには、「はあ? それ以外に現実を描く方法なんてあるんですか?」と思ったのだが、

どうも松代さんの主観では「カマヤンは自分が描いているものをフィクションだと思い込んでいるし、
そう主張している」ことになっているっぽいと気づいたのですが、
そこんとこどうなんでしょ?

『なんちゃって街宣活動』収録作品はジャンル区分するのはムリだとは思うけど、ドキュメンタリだと
呼称してもOKだとは思いますよ。回によるけど。

で、ですね。「カマヤンは自分が描いているものをフィクションだと思い込んでいるし、そう主張している」
と、松代さんは思っているし主張しているんでしょうか? 別なことを主張されているんでしょうか?

166カマヤン:2004/09/30(木) 03:08
若干訂正

>「実写」という言葉は松代さんにはずいぶんコダワリがあるようなので、私自身はあまり素で使った
>記憶がないのだが。

   ↓

「実写」という言葉は松代さんにはずいぶんコダワリがあるようなので、それを配慮して、
私自身はあまり素で使った記憶がないのだが。

167松代:2004/10/01(金) 11:45
>カマヤンさん
作品検討に対して、有益なご指摘と助言をいただき、心から感謝しております。
作者本人が作品検討の問題点を指摘することによって、検討の質が大幅に高まります。
カマヤンさんのご指摘を踏まえつつ、新たにより詳細かつ具体的な作品検討に取り掛かろうと思います。

>>164
>>カマヤンにとってドキュメンタリーとは、実写で表現されたもののみとなる。
>そうなの? 私の中の言葉の定義とずいぶん違うんだけど。

ご指摘の文章ですが、元テキストが「また」という並列的接続詞で分をつないでいることが問題で、本来は「よって」でつながなければならないという指摘ならば、確かにその通りだと思います。しかし、カマヤンさんはかねてより実写(カマヤンさんの言葉づかいによれば「カメラ撮影」ですか?)とは「現実世界を機械的に複写したもの」で、そこには「制作者の自意識はほとんど反映されない」と定義しておられ、またドキュメンタリーとは「制作者の自意識を交えずに現実世界を記録したもの」と定義しておられました。
他方、カマヤンさんは現実を作家自身が咀嚼して「実写によらない手法で表現したもの」は、すべからく「作者の意識が反映されたもの」であり、フィクションと定義づけておられました。

そこで、自分は両方の定義からカマヤンさんにとってのドキュメンタリーとは、実写のみであるとの結論を導き出しました。また、マンガの全てがフィクションであるとの認識を積極的に肯定しておられた態度から、対象物としての実写についても、やはり同様の一面的な認識をお持ちであろうと判断させていただきました。ただし、後述するようにカマヤンさんは「実写」という言葉を意図的に避けており、作家の内面世界を表現するうえで、極めて適切性を欠いていたという点は、率直に反省させていただくところです。

カマヤンさんが以下に示された定義は、過去にうなぎさんが示されたものと類似しているようにお見受けします。うなぎさんの定義を取り入れたとは申しませんが、うなぎさんとの交流によってなんらかの変化が生じていたのではないでしょうか?
少なくとも、自分はカマヤンさんが言うところの定義Aと定義Cに関する発言のみを記憶しており、またあくまでも参考としてですが、念のため掲示板などにおける発言をチェックした時も、定義Bに関する発言は見つけられませんでした。
もちろん、自分の知りえない範囲でカマヤンさんが定義Bに関する発言をされていたり、あるいはカマヤンさんがドキュメンタリーに対する認識を変化させていたならば、いずれにしてもそれは自分の調査不足であり、その点については真摯に反省するとともに、今後の教訓とさせていただきます。

>A;「具体な現実の事件を具体に素材にし、あまり調味料(演出)を加えない」のがドキュメンタリ
>B;「現実の自然人を(比喩的にではなく物理的に)素材にする」
>ことを適切に呼称する言葉がなくて、それについては私はあまり発言してないはずだが。
松代さんは「カマヤンはこれを〈実写〉と呼称しているはずだ」とお考えのようだが、なぜそう考えたのかのお?
>C;フィクションは「抽象レベルで加工した」もの。
>平たく言うと「願望やあり得ないことがらを記述したもの」

168松代:2004/10/01(金) 11:46
>>165
>で、ですね。「カマヤンは自分が描いているものをフィクションだと思い込んでいるし、そう主張している」と、松代さんは思っているし主張しているんでしょうか? 別なことを主張されているんでしょうか?

この点は全く異なります。
以下の文章を読んでいただければわかりますが、カマヤンさんが「現実世界の断片を作品にちりばめた」ご自身の近作をどう捉えているかは、最終的に「未解明」であると明言しています。要するに、自分はわかりません。

>作家自身の漫画観を踏まえつつ、漫画作家カマヤンの作品を検討した結果、作品において使用される表現技法などからも、作品の主題はあくまでも作家自身の内面世界にあり、現実世界とは全く接点を持たないことが明らかとなった。しかし、漫画はフィクションであると断言する漫画作家カマヤンが、なぜ「現実世界の断片を作品にちりばめる」のかについては、形式主義的立場から検討を加えても解明できない。

もし、カマヤンさんがご自身の作品を「ドキュメンタリー」だと主張されるのであれば、その作品は「少なくともマンガではないなにか」であって、カマヤンさん以外の人間にはジャンル区分できない作品といえましょう。

ただ、以下の発言から、カマヤンさんはご自身の内的世界における主観的事実と、客観的な現実あるいは検証可能な事実関係とを、全く別けていないことが判明しました。
しかし、作者にとっての主観だけが現実世界の全てであり、作者のとっての主観を描くことがドキュメンタリーであると、カマヤンさんが認識しておられることが判明した以上、カマヤンさんの作品に対する自分の認識は根底から崩れ去りました。というのも、自分はカマヤンさんが主観と客観を区別している、言い換えるなら「虚構と現実を区別してる」という前提に立ち、先のテキストをまとめたからです。

>>つまり、漫画作家カマヤンが「なんちゃって街宣活動」において描くのは、作家自身が現実をどう位置付けているのかと、作家自身にとっての特定少数者が現実をどう見ているかの相違点を作品化したもので、作品を通じて述べているのは現実世界の様相ではなく、あくまでも作家自身の主観世界における現実の姿であり、作家自身の主観そのものである。

>この部分の主張から筆者が何を言いたいのが私には巧く読み取れないのですが、
>まず一読めには、「はあ? それ以外に現実を描く方法なんてあるんですか?」と思ったのだが、

また、ご自身でドキュメンタリーを以下のように定義しておきながら、少なくとも自分にはかなりの演出要素が加わっていると思われる『なんちゃって街宣活動』を、ドキュメンタリーとみなしても問題ないと発言しておられる点についても、認識の差があまりにも著しいため、カマヤンさんのドキュメンタリー意識についての根本から再検討するつもりです。

>A;「具体な現実の事件を具体に素材にし、あまり調味料(演出)を加えない」のがドキュメンタリ

>『なんちゃって街宣活動』収録作品はジャンル区分するのはムリだとは思うけど、ドキュメンタリだと呼称してもOKだとは思いますよ。回によるけど。

169松代:2004/10/01(金) 11:47
>>166
>「実写」という言葉は松代さんにはずいぶんコダワリがあるようなので、それを配慮して、私自身はあまり素で使った記憶がないのだが。

まず、作品から作家の意図をくみ取るという論考の主旨に照らし、作家があまり使用していない言葉を使うのは問題であるという指摘について、一考の余地があると受け止めさせていただきます。

自分は基本的に撮影から現像あるいは1次データ処理、編集などの段階を経た、最終完成作品に対してスチル、ムービーの両方を差す「実写」という言葉をつかっていましたが、カマヤンさんはなぜか「撮影段階にのみ着目」して、自分が「実写」という言葉を使う度に「カメラなどの撮影」と言い換えたり、あるいは「写真」という言葉を用いたりしていました。

そのため、問題となった文章をカマヤンさんが用いていた言葉を重視して、より適切に表現するならば、以下のようになります。

他方、漫画作家カマヤンにとって、ドキュメンタリーとは「現実世界を機械的に複写したもの」で、そこには「制作者の自意識はほとんど反映されない」とされる。よって、カマヤンにとってのドキュメンタリーとは、カメラなどの光学機器で撮影されたもののみとなる。

これら、自身のカマヤンさんの主観世界に対する認識が甘かった点について、いずれも今後の反省とさせていただきます。
また、最初に述べたように、作者自身が作品検討の問題点を指摘することは、作品検討の質を高めるうえで極めて有益なことです。
今後も、問題点などがございましたら、えんりょなく指摘して下さるよう、心からお願い申し上げます。

170松代:2004/10/01(金) 11:48
>カマヤンさん

最後に、単純素朴な質問ですが、例えば「雑誌ムーの記事」や「MMR」のような存在は、カマヤンさんにとってフィクションですか?
それともドキュメンタリーでしょうか?

171カマヤン:2004/10/04(月) 04:08
「言葉の攪乱」が派生するのが判っているのに「ドキュメンタリ」なんて不用意な発言を
児ポ法の、マンガの文脈でいうのはアホのすることだと私は思っているから、

>>167
>カマヤンさんが以下に示された定義は、過去にうなぎさんが示されたものと類似しているように
>お見受けします。うなぎさんの定義を取り入れたとは申しませんが、うなぎさんとの交流によって
>なんらかの変化が生じていたのではないでしょうか?

これ、全く当たってない。なぜうなぎさんが「ドキュメンタリ」なんていう「不用意」な発言を
児ポ法の文脈の中でしつっこくしたのか私には全く理解不能だったし、今も理解不能。

>>169
>カマヤンさんはなぜか「撮影段階にのみ着目」して

児ポ法の文脈じゃ、対象として自然人を使うかどうかが分水嶺だから、私的には「撮影段階にのみ着目」
するのは当然なのだが、つまり何を松代さんはおっしゃっているの?

>>168
>カマヤンさんのドキュメンタリー意識についての根本から再検討するつもりです。

とおっしゃってるわりには

>>169
>他方、漫画作家カマヤンにとって、ドキュメンタリーとは「現実世界を機械的に複写したもの」で、
>そこには「制作者の自意識はほとんど反映されない」とされる。よって、カマヤンにとっての
>ドキュメンタリーとは、カメラなどの光学機器で撮影されたもののみとなる。

再検討の後が私の目には全く見えませんが。

172СТАЛКЕР:2004/10/04(月) 07:12
「マンガ・アニメ・ゲーム・小説」が全くのフィクションだ、なんぞと一般常識とかけ離れた主張をぶち上げるのもアホのすることにしか見えないが。

一握りの人間にしかわからない高度な哲学がバックにあるらしいが、通じなきゃ意味ないだろ。

173うなぎ:2004/10/04(月) 16:51
>>171 カマヤンさん
横レスですが、自分の名前がでたのでご容赦下さい。

>これ、全く当たってない。なぜうなぎさんが「ドキュメンタリ」なんていう「不用意」な発言を
>児ポ法の文脈の中でしつっこくしたのか私には全く理解不能だったし、今も理解不能。

カマヤンさんも、一連の発言で『なんちゃって街宣活動』収録作品の一部が「ドキュメンタリだと呼称してもOK」と述べていますが、AMIの「児童買春児童ポルノ禁止法」改正への要望書の中において

>「マンガ・アニメ・ゲーム・小説」は、全くのフィクションです。
という、誤った主張がなされていたので、間違っている事を説明する為に「ノンフィクション」と言う言葉は多く使いました。しかし、「ドキュメンタリ」に関する発言はあまりしていなかった(確か1、2度補足的に使ったくらいでしょうか?)と記憶しています。

「ノンフィクション」や「ドキュメンタリ」という発言をする事は、さほど問題であると自分には思えないのですが、長く児ポ法反対活動に関わっているカマヤンさんが、「不用意な発言だ」と感じていらっしゃったのなら、(その時に)その旨を伝えていただければ有難かったです。

174カマヤン:2004/10/05(火) 02:55
規制派のロジックは以下の用に展開されると予測される。
http://jbbs.livedoor.jp/study/bbs/read.cgi?BBS=1274&KEY=1025577785&START=100&END=102
 「児童ポルノ」は、「ポルノ」に着目するべきである。
 「児童ポルノ」は、あり得べき社会の秩序への挑戦だからである。
 エロマンガもまた、ポルノとして同罪である。社会法益を彼らは侵害しているからである。

さて、児ポ法では「児童」+「ポルノ」という、抽象水準の異なる概念が組み合わさり、それにより
「児童ポルノ」という言葉の解釈の幅が必然的に広くなる。

「児童」という語を「自然人」に解釈するのが妥当であるが、「児童」を抽象概念だと仮定すると
規制派を利することになる。
「ポルノ」という語は、「猥褻であるかどうか」であり、自然人であるかどうかを本質として問わない。
したがって「ポルノ」に力点を置くと、保護対象が不明瞭化し法益が不明瞭化する。

したがって、戦略として「児童」とは「自然人である」ことをしつっこく言う必要はある。
指し示す「児童」が「自然人」かどうかが問われ、そこが分水嶺となる。

「マンガはフィクションである」という言葉をいったいどうGT&ROSF&うなぎ氏が解釈しているのか
私には全く理解不能だが(マトモに説明されたためしがない)、「マンガはフィクションである」とは、
「マンガのキャラは自然人じゃない」という意味だ。

君ら他にどういう読みかたしてんねん。

オマケに「マンガはフィクションである」と宣言したのはオレじゃないし、ロビーでは別にそんなこと
全く話題にもしてないのだが、君らの脳内だとどういう「物語」ができあがってんねん。
で、その「物語」の作者は誰だあねん。

175カマヤン:2004/10/05(火) 02:56
通じるか通じないか判らんし、たぶん通じないだろうが、
規制派は「林檎はウサギである。なぜならウサギは赤い目と耳を持っていて、林檎は赤いからだ」と
主張しているようなものだ。
これへ対する妥当な主張は「林檎は林檎だし、ウサギはウサギだ」と主張することだ。

「ノンフィクション」とか「ドキュメンタリ」とかいう言説は、「林檎の中にはたしかにウサギの部分も
あるが」という意味不明な議論へ持っていく。アホか。
んなのはマンガ文化論とかマンガ批評とか、児ポ法とは切り離された別なとこで存分にやれっての。
たとえば梶原一騎の「実録」マンガがドキュメンタリなのかノンフィクションなのかフィクションなのかなんて
誰がどう定義付けすんねん。仮に定義づけしたとして、なんか政治的に有効か? 

マンガ論でない範囲で「フィクション」論するなら好きなように勝手にやればいいが、
「林檎は林檎だし、ウサギはウサギだ」という主張に対して、なんで横からしつこく
「『林檎は林檎だし、ウサギはウサギだ』なんてのは全く間違いで、ともに有機物だというのに、
中学校レベルの理科の知識もないのだろうか」
とか
「ウサギには林檎の本質がないと主張するカマヤンは『赤』という色が見えないらしいから、色盲だと
いうことが判った」
とかそんな話になってんねん。

ところで君らの定義する「ノンフィクション」とか「ドキュメンタリ」だと、この比喩は「フィクション」なんか
「ノンフィクション」なんか「ドキュメンタリ」なんか。
私の一貫した態度は、
「ノンフィクション」「ドキュメンタリ」といった言葉を使いたいのなら、そうとう限定的に定義づけして使え。
一般的合意形成はほとんどムリで、ロビー的には混乱を招くだけで百害あって一利もないから。
だ。

しつっこく言うが、私はロビーで「マンガはフィクションだ」論を展開したことはない。
ロビーの時間にマンガ論展開しても意味ないから。松代氏にしろ鳥山氏にしろ、私とロビー行った
経験あるのに、いったい松代氏にしろその周辺にしろ、脳内でどういう「物語」になってんねん。

176カマヤン:2004/10/05(火) 03:05
>>173
>誤った主張がなされていたので

うなぎさんの脳内では何がどう誤ってんねん。

>「ノンフィクション」や「ドキュメンタリ」という発言をする事は、さほど問題であると自分には思えないの
>ですが、長く児ポ法反対活動に関わっているカマヤンさんが、「不用意な発言だ」と感じていらっしゃった
>のなら、(その時に)その旨を伝えていただければ有難かったです。

わたしゃAMI−MEMBERS−BBS内で、2003/06/29(日) 21:06 2003/06/30(月) 03:43 ごろに
>>174-175とほぼ同じ内容で別表現で、混乱するからやめてくれ言うてますよ。

177うなぎ:2004/10/05(火) 03:42
>>176 カマヤンさん
>>174-175とほぼ同じ内容で別表現で、混乱するからやめてくれ言うてますよ。
「混乱するからやめてくれ」が「不用意な発言だから止めてくれ」と言う意味とは、受け取っていませんでした。出来れば、もう少し分かりやすい表現で語っていただけるとありがたいです。

>うなぎさんの脳内では何がどう誤ってんねん。

以前から言っている通り、全くのフィクションとは言えない「マンガ・アニメ・ゲーム・小説」もあると考えているので、件のAMIの主張は誤っていると考えています。カマヤンさんは>>174で『「マンガはフィクションである」とは、「マンガのキャラは自然人じゃない」という意味だ。』と、仰っていますが、

『「マンガ・アニメ・ゲーム・小説」は、全くのフィクションです。』
『「マンガのキャラは自然人じゃない」』

この二つの文章は、全く意味が異なります。
一般の方の誤解を避けるためにも『「マンガのキャラは自然人じゃない」』と、述べたいならば、『「マンガのキャラは自然人じゃない」』と、述べるべきで、『「マンガ・アニメ・ゲーム・小説」は、全くのフィクションです。』と、述べるべきではないと考えます。

さておき、これ以上お話しても平行線のような気も致しますし、そもそも横レスでもありましたので、今回の件に関してはこの発言を最後にします。カマヤンさんには要らないお手数を掛けてしまったようで、本当に申し訳ありません。

178松代:2004/10/05(火) 12:35
>>171
>カマヤンさん
再度の問題点指摘に感謝します。
ただし、いくつかの問題点においてカマヤンさんの意識に混濁がみられるようにお見受けしたので、回答と派生した質問を箇条書きして返答させていただきます。
また、質問については回答を強制するものではなく、回答するか否かはあくまでもカマヤンさんの自由意志に委ねられます。
ただし、当然ながら再度質問するか否かは松代の自由意志によりますし、回答がいただけなかった場合は、松代に大きな解釈の余地が与えられたと理解します。

>これ、全く当たってない。なぜうなぎさんが「ドキュメンタリ」なんていう「不用意」な発言を児ポ法の文脈の中でしつっこくしたのか私には全く理解不能だったし、今も理解不能。

*回答
うなぎさんとの交流や影響は否定されつつ、カマヤンさんが示されたドキュメンタリー定義の根拠や由来については、回答を拒否されたと理解しました。

*派生質問
作品検討の中でも指摘させていただきましたが、作品検討の対象とした作品やカマヤンさんの過去の発言、ならびに発言>>171において撮影段階に注目したる部分などからも、カマヤンさんにとってのフィクション定義は現在も「現実を作家自身が咀嚼して【現実世界の機械的複写によらない手法で表現した】もの【全て】であり、つまり【作者の意識が反映されたもの全て】である」ようにお見受けします。
過去、あるいは現在カマヤンさんが述べられているフィクションの定義と、以下の定義は矛盾、あるいは変化しているように思えます。その点について、カマヤンさんのご意見をいただけば嬉しく思います。

>A;「具体な現実の事件を具体に素材にし、あまり調味料(演出)を加えない」のがドキュメンタリ
>B;「現実の自然人を(比喩的にではなく物理的に)素材にする」
>ことを適切に呼称する言葉がなくて、それについては私はあまり発言してないはずだが。
松代さんは「カマヤンはこれを〈実写〉と呼称しているはずだ」とお考えのようだが、なぜそう考えたのかのお?
>C;フィクションは「抽象レベルで加工した」もの。
>平たく言うと「願望やあり得ないことがらを記述したもの」

>児ポ法の文脈じゃ、対象として自然人を使うかどうかが分水嶺だから、私的には「撮影段階にのみ着目」するのは当然なのだが、つまり何を松代さんはおっしゃっているの?

*回答
自分はカマヤンさんの作品を検討させていただいているので、ジポ法の文脈と作品検討は無関係です。

*派生質問1
カマヤンさんにとって、フィクション定義とジポ法文脈、あるいはご自身の作品とジポ法文脈は不可分な存在なのでしょうか?

*派生質問2
フィクションか否かを判断する際、カマヤンさんは「撮影段階にのみ着目するのは当然」だと考えておられるようですが、それならば「現実世界を機械的に複写し無い場合」として、マンガやアニメ、ゲームなどにおいても、その「描画段階にのみ着目」して、描画対象として自然人が存在するか否かという観点から論じないのは、いかなる理由によるものでしょうか?

補足しておきますが、光学記録機器などでの撮影段階に「自然人(人間のみならず、いわゆる自然に存在する事象も含め)が存在しない場合」は、それほど特殊な事例でもありません。
同時に、マンガやアニメ原画、CGなどの描画段階において「自然人が描画現場に存在する(ようはモデルをスケッチしている)場合」も、それほど特殊な事例とは思えません。

179松代:2004/10/05(火) 12:36
>>171
>再検討の後が私の目には全く見えませんが。

*回答
学究の徒を自認されるカマヤンさんは、当然十分にご承知しておられる内容ですが、当Зона板は様々な人が閲覧していただいているので、念のため補足説明させていただきます。
作品検討とは作家の作品を多面的な角度から検討し、その結果を理論的にまとめる作業であり、当然ながら一朝一夕にできあがるものではありません。これは、史学における資料検討と同様で、いかなる天才であっても一定の時間と手間(短くても数ヶ月から、場合によっては数年かそれ以上)が絶対的に必要とされるものです。そのため、例えば極短期間に検討が終了したと主張するなら、その一点をもって検討の正当性が疑われたとしても、それは当然のことといえましょう。
今回は作家自身より問題点を指摘していただいたので、より深い段階での検討が可能となりました。しかし、あまりにも根本的な内容を含んでいるため、検討には短くても2〜3ヶ月は必要になるでしょうし、その間にもカマヤンさんが新刊同人誌を発表されるでしょうから、どう考えても年内に検討結果を出すことは不可能です。

*派生質問
カマヤンさんは学究の徒を自認されておりますが、史学を学ばれた際に資料検討実習はきちんと履修なされましたか?

>カマヤンさん

最後に、再び単純素朴な質問をさせていただきます。
例えば「雑誌ムーの記事」や「MMR」のような存在は、カマヤンさんにとってフィクションですか?
それともドキュメンタリーでしょうか?

180カマヤン:2004/10/06(水) 01:55
>>165
>で、ですね。「カマヤンは自分が描いているものをフィクションだと思い込んでいるし、そう主張している」
>と、松代さんは思っているし主張しているんでしょうか? 別なことを主張されているんでしょうか?

これへの回答は

>>168
>要するに、自分はわかりません。

ここでいう「自分」てのはカマヤンのことを指すの? 松代のことを指すの?

>>179
>例えば「雑誌ムーの記事」や「MMR」のような存在は、カマヤンさんにとってフィクションですか?
>それともドキュメンタリーでしょうか?

妄想者とエンターテーメントの合体をフィクションと呼ぶのかドキュメンタリと呼ぶのかなんて
わしゃしらんわ。主観によるんじゃないの? エセドキュメンタリをドキュメンタリと呼ぶかどうかなんて知らんわ。

念を押しておくが、
1;「フィクション」という語は私は積極的に使ってはいない。
2;松代氏周辺の人間は「フィクション」という語に独特な定義づけをしているようだが、
その内容を私は説明されていない。
3;「ドキュメンタリ」や「「ノンフィクション」という語にこだわって積極的に使っているのは、
鳥山・松代周辺人物であり、どういう文脈でどうこだわっているのかについて説得的な説明はない。

ついでに書くが、
「ポルノ」は文脈に依存する。
から、私は「児ポ法」関連で動いている時は、自分という「文脈」には過度に気を遣っていた。
鳥山氏あたりからどう扱われているのか考え出すとバカバカしくなったから、「文脈」に気を遣うのは
そろそろやめる。

181カマヤン:2004/10/06(水) 02:05
>>179
>学究の徒を自認されるカマヤンさんは、

いつ私がそんな自認したかいの?

まあ人間の自己イメージなんてころっころ変わるものだしね。
批評家なら作者の自己イメージの変遷はきっと作者以上にクリアに見えていることでしょう。
筆者にとってピント外れにしか見えない批評も、見る人が見れば説得的なんでしょう。

松代さんがバードウォッチャーで私が鳥なのは一向構いませんが、松代さんはバードウォッチャーで
主観的にいいの? 主観的にはアクティビストのはずじゃなかった? まあアクションにも色んな
やりようはあるから、私がどうこういうアレでもないが。

182СТАЛКЕР:2004/10/06(水) 09:44
「フィクション」という語に独特な定義づけをしているのはAMI幹部の人たちでしょ。
要望書は無記名だし、幹部の総意と見做さざるを得ないのでは?

183松代:2004/10/07(木) 11:35
>>180
>カマヤンさん

本来ならジポ法とカマヤンの作品検討は無関係なのに、マンガフィクション論否定のために「このタイミングでジポ法問題にまで言及」していただいたことを、心から感謝いたします。
マンガフィクション論を提唱したのは八的暁氏であり、またマンガフィクション論を最も強硬に擁護し続けたのは山田一人氏で、むしろカマヤンさんは団体の主張が「フィクション」という語を対象化し検証するという作業を欠いている事に対し、懸念を表明されていましたね。
今回、カマヤンさんの発言によって、マンガフィクション論は団体の共通見解では無く、一部のロリペドが暴走したと言うことが明らかになりました。
まず、ここで感謝の意を述べさせていただきます。

>ここでいう「自分」てのはカマヤンのことを指すの? 松代のことを指すの?

意図的か否かは不明ですが、なぜかカマヤンさんは最後の部分のみに着目しているため、質問の意図がくみ取れません。なぜなら、質問に対する回答として「自分は」という単語を用いた場合、指し示す対象は明らかだと判断されるからです。
また、ご質問の部分は作品検討の結論に深く関わっており、作品検討にも回答は含まれています。
ここで不用意に回答してしまうと、松代がカマヤンの指摘に応じて作品検討の結論を書き換えたという批判を招く危険性があります。無用の批判を回避するため、発言内容を転載することで回答とさせていただきます。

以下、発言>>168の部分転載。

以下の文章を読んでいただければわかりますが、カマヤンさんが「現実世界の断片を作品にちりばめた」ご自身の近作をどう捉えているかは、最終的に「未解明」であると明言しています。要するに、自分はわかりません。

>作家自身の漫画観を踏まえつつ、漫画作家カマヤンの作品を検討した結果、作品において使用される表現技法などからも、作品の主題はあくまでも作家自身の内面世界にあり、現実世界とは全く接点を持たないことが明らかとなった。しかし、漫画はフィクションであると断言する漫画作家カマヤンが、なぜ「現実世界の断片を作品にちりばめる」のかについては、形式主義的立場から検討を加えても解明できない。

もし、カマヤンさんがご自身の作品を「ドキュメンタリー」だと主張されるのであれば、その作品は「少なくともマンガではないなにか」であって、カマヤンさん以外の人間にはジャンル区分できない作品といえましょう。

転載終了

184松代:2004/10/07(木) 11:36
>>180
>カマヤンさん

>妄想者とエンターテーメントの合体をフィクションと呼ぶのかドキュメンタリと呼ぶのかなんてわしゃしらんわ。主観によるんじゃないの?

松代が問うているのは、正に「カマヤンさんの主観」です。
質問内容も「雑誌ムーの記事」や「MMR」のような存在は、カマヤンさんにとってフィクションですか?
と記しておきました。

カマヤンさんにとって、つまりカマヤンさんの主観ではどのような位置づけになるかを、質問させていただきました。

問題になっているのはあくまでも「カマヤンさんの主観」であり、また「カマヤンさんの自意識」です。

松代や鳥山さんの主観や言葉の定義、自意識などは全く関係ありません。また、他者の文脈なども関係ありません。

カマヤンさんの自意識を偽ることなく、ご自身の主観を率直にお答えいただければ嬉しく思います。
ただ、WEB上で返答するのは問題があるとお考えならば、そちらまで出向いて聞き取り調査を行う用意もあります。
時間等については可能な限りカマヤンさんのご都合に合せますので、協力を検討していただければ嬉しく思います。

とりわけで、再び単純素朴な質問をさせていただきます。
例えば「雑誌ムーの記事」や「MMR」のような存在は、カマヤンさんにとってフィクションですか?
それともドキュメンタリーでしょうか?

185カマヤン:2004/10/14(木) 13:05
>松代が問うているのは、正に「カマヤンさんの主観」です。
>質問内容も「雑誌ムーの記事」や「MMR」のような存在は、カマヤンさんにとってフィクションですか?
>と記しておきました。

私は「フィクション」という言葉にコダワリがないから、どっちだろうが構わない。

松代さんの「フィクション」と「ノンフィクション」の定義は?

186カマヤン:2004/10/14(木) 13:12
>意図的か否かは不明ですが、なぜかカマヤンさんは最後の部分のみに着目しているため、質問の意図がくみ取れません。なぜなら、質問に対する回答として「自分は」という単語を用いた場合、指し示す対象は明らかだと判断されるからです。

どうも松代さんは激しく勘違いしているが、松代さんの文が悪文だと私は言っているわけだが。
だからごくふつうに、指す対象がどれなのか読み取れない。
松代さんの意図通りに読み取られているかどうか、アンケートとってみそ。

187松代:2004/10/15(金) 00:06
>>185-186
>カマヤンさん
>私は「フィクション」という言葉にコダワリがないから、どっちだろうが構わない。

ご自身の意識下で「どっちだろうがかまわない」という存在であるなら、言葉の定義や使われ方にこだわる理由がわかりません。

>どうも松代さんは激しく勘違いしているが、松代さんの文が悪文だと私は言っているわけだが。

自分は、カマヤンさんとのやり取りから、カマヤンさんは話が煮詰まってくると「そういう言い方ではわからない」とか「悪文だから理解できない」といい始め、自分が話の流れを把握しそこねている原因を相手に転嫁するクセがあると判断しています。
また、カマヤンさんとのやり取りから、カマヤンさんは話が煮詰まってくると「他者の態度を推し量り、自分がもっともよい立場を得るような論点」を探るクセがあるとも判断しています。
その他、カマヤンさんとのやり取りから、カマヤンさんは話が煮詰まってくると、自分の意思をわざと明確にせず、投げやりにふてくされるクセがあると判断しています。

色々と困難な情況であり、精神的な疲労が蓄積しているものと思われますので、精神的な余裕が生まれるまで、回答を留保していただいても問題ありません。

とりあえず、今回のお答えは「なかったこと」として、次の機会をまたせていただきます。

188カマヤン:2004/10/16(土) 22:13
>>187
>ご自身の意識下で「どっちだろうがかまわない」という存在であるなら、言葉の定義や使われ方にこだわる理由がわかりません。
>話が煮詰まってくると

私は「ノンフィクション」だの「ドキュメンタリ」だのといった言葉は、
「児ポ法をめぐる議論を不毛に攪乱させるから懸命ではない」と
一貫して主張しているつもりなのだが、松代さんは私の主張をどう理解しているのだ?

そりゃ、こっちも腹が立ってくるさ。煮詰まりもするさ。質問に対して松代氏は延々質問で返すだけだ。
松代氏の不誠実さに腹も立つさ。

松代さんが「マンガはフィクションだ」というスローガンについて何を言いたかったのか、
ずっと当方には意味不明だったが、やっと少しだけ判った。
「マンガはフィクションだ」というスローガンは「マンガのキャラは自然人じゃない」という意味で
流通しているが、松代さんと鳥山さんの脳内では「マンガはフィクションだ」は
「マンガのキャラは自然人じゃない」という意味では理解していない、ということだ。

そう理解しろとは当方は主張しないが、せめて「自分たちの脳内ではいる解釈している」とか
「『マンガのキャラは自然人じゃない』という表現の方が妥当だ」とか主張すればええやん。

その上で「《松代の》フィクションという言葉の定義に当てはめるなら、カマヤンの作品は…」と
批評するのが筋っちゅうもんだと私は思うが。
私がイライラしているのは「松代脳内松代定義《きっとカマヤンの脳内ではこういう定義になっている
に違いない》」という、自家中毒的言語感覚で「カマヤンは『フィクション/ノンフィクション/ドキュメンタリ』
はこう定義している」と論を展開しているそのこと自体が、私の危惧していた「ノンフィクションだの
ドキュメンタリだのといった言葉を使用することによってほぼ必然的に発生する《不毛》」
そのものだから、私は情けないやら悲しいやら腹が立つやら。

189カマヤン:2004/10/16(土) 22:15
訂正
「自分たちの脳内ではいる解釈している」→「自分たちの脳内ではこう解釈している」

190СТАЛКЕР:2004/10/16(土) 23:16
>カマヤンさん

>「マンガはフィクションだ」というスローガンは「マンガのキャラは自然人じゃない」

『ゴー宣言』で名誉毀損裁判が起きた事は御存知の事と思いますけれども、
このような事例があるために、「マンガのキャラは自然人じゃない」と言われても正直ピンときません。
もし宜しければ説明していただけませんか?

>しぜん-じん 2 【自然人】
>(1)社会や文化に束縛されることなく、あるがままに生きる人間。
>(2)〔法〕 出生から死亡まで等しく完全な権利能力を認められている個人。法人に対する個人。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=自然人&kind=jn

191カマヤン:2004/10/17(日) 00:13
>>190
「マンガのキャラは自然人じゃない」だとピンと来ない人が多いから、
より多くの人に浸透する「マンガはフィクションだ」のほうが
スローガンとしては相対的に妥当だ。

このスレの参加者には「マンガのキャラは自然人じゃない」で通じた
人が複数いるようだから、それらの人から説明聞いて下さい。

192カマヤン:2004/10/17(日) 00:15
>>188
訂正
「児ポ法をめぐる議論を不毛に攪乱させるから懸命ではない」
   ↓
「児ポ法をめぐる議論を不毛に攪乱させるから賢明ではない」

193СТАЛКЕР:2004/10/17(日) 01:01
〜〜カマヤンの特徴〜〜
・ 語尾に「でつ」「まつ」は必至。
・ 一人称に「漏れ」を使う。
・ 顔文字、半角仮名を多用。特に「。・゚・(ノД`)・゚・。 」などの泣きAA、「(´・ω・`)」「_| ̄|○」などの同情を誘うようなAAを好き好んで使う。
・ 「○○なのは私(漏れ)だけ?」なんて感じの同意の求め方をする。
・ 荒らしを無視できない。
・ 「あっそ。ふ〜ん」などと余裕・無関心を装うが、内心イライラしてるのがまるわかり。
・ 好きなものは激しく庇い、嫌いなものはちょっとでも関係するものまで叩く。
・ 語尾に「〜なんでしょ?」「〜ば?」などの威圧的な言葉を良く使う。
・ 「〜だが。」「〜知らんぞ」「〜じゃね?」と漫画のような男言葉(男キャラ言葉)を使う。
・ もう廃れ気味の2ちゃん用語を嬉々として使う。
・ やたらスレの「空気」にこだわり、「あなた空気読めてませんよw」「空気嫁!」と他者を攻撃する。同時に、自分は空気が読めてる=自分はスレの主流であることを暗に主張する。
・ プライドの高さからか、自分の間違いを認めれない。
・ 根拠もないのに、他人を荒らし扱い。自分達は正しい、間違いなんてないと思い込んでる。

194СТАЛКЕР:2004/10/17(日) 01:03
・ 些細なことでも揚げ足をとる。優越感に浸るのが好き。
・ 持論に反論され、更に脊髄再反論を試みる時の第一声は 「モチツケ」
  自分達が一番落ち着いてない。
・ 問題点を指摘されると、「じゃあ、あなたが活動したら?」
・ 自分に反論するものに名称を付けて、レッテルを貼りをし排除しようとする。
・ 自分がスレの趣旨から脱線しても全く気に止めないが、他人が脱線すると切れる
・ 顔文字とひらがな炸裂。
・ 自分を棚にあげる。
・ 自演を決め付けるのも大好き。意見する相手はすべて自演扱いで必死 。
・ スレの決まりをものすごく大事にする。
・ 自分たちに気に入らない事を言うやつを排除しようと言う、排他的意識まるだし。
・ 何で文句を言われるのかの自覚がない。

195СТАЛКЕР:2004/10/17(日) 01:04
 ・聞かれてもいないのに自分語りをし始める
 ・聞かれてもいないのに彼女語りをし始める
 ・コピペやURLは自分の意見を書き込まないで貼り付ける
 ・ことあるごとに必ず「マターリしようよ」的なことを連発する
 ・自作自演や自作自演決めつけをこよなく愛する
 ・スレの流れを心配した発言などに対し「なんか感じ悪い・・・」とレスをつける
 ・スレの意義より馴れ合いを優先する。文字通りスレを腐らせる
 ・すぐにヲチしたがる 
 ・たとえ正論であっても煽り口調で書かれていたら、煽り返さずにはいられない
 ・発言を煽られたり馬鹿にされたりすると言いたいことグチグチ言う
 ・自分の事を批判されるとすぐに感情的になって根拠も無く批判返し
 ・内容ではなく「〜なんだあー。へぇー」など言葉尻で嫌味っぽさを表す
 ・言葉遣いの間違いとか言葉尻をとらえて本題以外のことでしつこく相手を叩いたり煽ったりする
 ・すぐケンカ腰になるか、すぐスレタイと異なる馴れ合いを繰り広げる
 ・絶対に負けを認めず、最後に自分が捨て台詞を吐いてから話を終わらせないと気が済まない
 ・空気も過去ログも読まないでわめき散らす
 ・スレの題材をけなされたり、批判されたりすると煽りっぽいものにも黙っていられなかったり 
 ・結構まっとうなものでも「スルー汁」とまともに受けて立とうとしなかったり
 ・どっちにしろ半端に相手してしまう

196СТАЛКЕР:2004/10/17(日) 08:01
>>191

これでは全く説明になってないと思われ。

>このスレの参加者には「マンガのキャラは自然人じゃない」で通じた
>人が複数いるようだから、それらの人から説明聞いて下さい。

質問されて、答えをはぐらかしてるのはカマヤンの方では?

197СТАЛКЕР:2004/10/17(日) 23:14
>カマヤンさん

カマヤンさんの説明を拝読いたしました。
下記のような理解で宜しいでしょうか?

『ゴー宣』の名誉毀損裁判のような事例があるために、「マンガのキャラは自然人じゃない」と言われてもピンと来ない人が多い。

したがって、同じ意味であり、且つより多くの人に浸透する「マンガはフィクションだ」のほうがスローガンとしては相対的に妥当である。


当スレッドで自然人に言及されているカマヤンさん以外の方々はカマヤンさんとかなり異なる考えたをされているようなので、できればカマヤンさんに答えていただきたく思います。

198松代:2004/10/18(月) 23:37
>>188
>カマヤンさん

投稿していただき、感謝します。
これまで、カマヤンさんから投稿していただいた中でも、もっとも本音の部分が率直に語られた内容であり、非常に嬉しく思います。

>私は「ノンフィクション」だの「ドキュメンタリ」だのといった言葉は、「児ポ法をめぐる議論を不毛に攪乱させるから懸命ではない」と一貫して主張しているつもりなのだが、松代さんは私の主張をどう理解しているのだ?

松代は、カマヤンさんの作品を検討するに際して、ジポ法とはほとんど関連づけておりませんが、カマヤンさんはご自身の全作品は「いずれもジポ法との関りから解釈されるべきである」と考えておられるのでしょうか?
松代は「ノンフィクション」だの「ドキュメンタリ」だのといった言葉について、必ずしもジポ法をめぐる論議においてのみ使用されるものではないと考えており、ある程度まで普遍的に使用されているとも考えます。松代は「ノンフィクション」だの「ドキュメンタリ」だのといった言葉を使う際に、常にジポ法における論議を念頭において使わなければならないとは考えておりません。

松代は、ジポ法における論議とは無関係に、カマヤンさんがご自身の意識下において「ノンフィクション」だの「ドキュメンタリ」だのといった言葉をどのようにとらえ、またどのようにつかっておられるのかに関心を向けております。もしも、カマヤンさんが「ノンフィクション」だの「ドキュメンタリ」だのといった言葉は、ジポ法との関連以外では使用しないとおっしゃられるのであれば、カマヤンさんの意識において「ノンフィクション」だの「ドキュメンタリ」だのといった言葉に相当する言葉を提示していただければ嬉しく思います。

199松代:2004/10/18(月) 23:38
>>188

>そりゃ、こっちも腹が立ってくるさ。煮詰まりもするさ。質問に対して松代氏は延々質問で返すだけだ。
>松代氏の不誠実さに腹も立つさ。

念のため、今までの流れを整理しておきましょう。

>>157-164 松代がカマヤンの作品検討を投稿
>>165-166 カマヤンがドキュメンタリという言葉の定義について質問
>>167-169 松代がカマヤンさんの疑問に回答
>>170 松代がカマヤンさんに質問
>>171 カマヤンさんが>>167-169で投稿した松代の回答に異を唱える
>>172-173 第三者の投稿
>>174-175 カマヤンさんが想定したジポ法における規制推進派のロジックを解説
>>176 カマヤンさんが第三者の発言を訂正
>>177 第三者の投稿
>>178-179 松代が>>171でカマヤンさんが示した異見に答えつつ、派生質問を投稿
>>180-181 カマヤンさんが松代に質問
>>182 第三者の投稿
>>183-184 松代がカマヤンさんの質問に回答しつつ、松代が>>170で問いかけた内容を明確にする
>>185-186 カマヤンさんが松代の質問に回答
>>187 松代が>>185-186で投稿されたカマヤンさんの回答に疑問を感じた旨を表明

松代はカマヤンさんの疑問に回答しつつ、派生した内容を質問させていただいておりますが、派生質問にたいするカマヤンさんからの回答はいただいておりません。
質問に質問で返しているのはどちらか、もう一度整理されることをお薦めします。また、松代はカマヤンさんの質問に対して、できうるかぎり誠実にお答え申し上げているつもりです。
松代は、カマヤンさんご自身の意識や主観について、何度も質問させていただきました。
ところが、カマヤンさんは直接的に回答することなく、いずれも間接的な回答に留まっているか、もしくは回答せずに松代や鳥山氏の意識を尋ねています。しかし、カマヤンさんご自身の意識や主観と、松代や鳥山さんの意識や主観がなぜ関連するのか、松代にはわかりません。

カマヤンさんは、なぜご自身の意識や主観に対する質問に答えようとなされないのでしょう?
カマヤンさんご自身の意識や主観については、カマヤンさん自身が最もよく把握されているはずです。
他者による定義づけに異を唱えるのであれば、素直にご自身の意識や主観を語ればよろしいかと思います。

200カマヤン:2004/10/21(木) 04:59
2002年の春の統一地方選の頃から松代さんの態度は酷く変になったけど、
松代さんはその頃以来、誰から何を吹き込まれたの?

可能性としては

1;元ロリショップ店長で住吉会と関係しているとか自称しているらしい、只野。
2;創価学会
3;ビデ倫

あたりが考えられるのだが。それ以外の誰かによるのかな?

あと、結局のとこ、鳥山氏は何を目的として児ポ法に絡んだりAMI叩いたり
しつこくこの板に書き込んだりしているの?

「ムー」が「ドキュメンタリ」なのかどうか松代さんが私にしつっこく訊いているのは、
私が中学生の頃「ムー」の愛読者だったことがある、と、松代さんに最後に言ったことを
受けてのことだろうが、
私の思考にエラーがあるとしたら、私は社会を過度に合理的に解釈しようとし、
実際にはただの偶然に過ぎないことの裏側の意味を、「小説の伏線を読むように」
読もうとする点だろう。
で、石井こうき殺害事件を調べているうちに、それまでの私の社会観とは全然違う
アウトロー世界の情報を蓄積したのと、
松代氏が異常な行動をしだしたこととの、
「合理的」関連を想像しはじめたら、凄く嫌な想像が脳内に沸いてしまったわけだが。

それでも松代さんは2002年当時から、それまでの態度を一変させ、私から見ると
異様な態度をとっていることに関して、松代さんの側からの説得力ある説明は
今に至るもなされいないし、今後もたぶんなされないんでしょうね。
松代さんの中ではどういう「物語」になっているのか判らないけど。


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