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創価(ソンテヂャク経営保険金殺人裏社会)学会・崩壊促進スレッド

366mifune:2014/03/10(月) 06:22:56 ID:7TQf1UGk0

 五十四、五年頃だから、まだ城久君は二十代半ばだったろう。池田は私たち幹部に向かって次男への「世襲」を匂わせ始めていたのである。
「城久を衆議院へ出して公明党委員長にしたい。どうだ、みんな応援するか」
 それがやがて「城久は学会の後継者だ」という形で風向きが変わり、池田は次男への政権委譲に着々と手を打った。まず創価大学、創価学園出身者から息子と同世代の優秀な人材を選び「二十七人会」を結成。この集団は学会内部で「ご学友グループ」の異名で呼ばれ、城久君本人も次期後継者の意欲を強めていた矢先であった。
 創価学会は「世襲」を禁じた宗教団体である。ところが、池田は用意周到な根回しによって、創価学会は池田家のものであり、池田城久はその池田家の二代目、将来の会長だという既定路線を作り上げ、学会内で暗黙の了解事項となっていたのである。
 要するに息子への「会長世襲」は、池田が長年に亘って画策してきた学会私物化の総仕上げであった。学会内に池田崇拝の空気を行き渡らせ、創価学園、創価大学という私兵養成学校で池田家の親衛隊を育て、その現体制の延長線上に城久崇拝をおく。これが密かな池田大作の野心であった。城久君の死という不測の事態が起きなければ、池田の目論見は十中八九実現しただろう。……
……池田の息子が死んで助かった、やっと気が楽になった。これまでずっと我慢してきたけど本当に辛かった。お前の子供が死んだのは信心を怠けた証拠だと顔を見る度に池田から説教されたり、皮肉られたり、怒られたりした。それが息子の死で嫌味を言われなくなったというのである。私自身、その現場に居合わせたこともあるが、子を死なせ、病気で苦しむ学会員の不幸を池田は笑いさえした。
(池田大作の素顔:藤原行正:講談社:1989:p264-6 )


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