[
板情報
|
R18ランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
| |
羞恥のM検場 「捲れてないと合格しないのでしょうか?」
1
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 15:32:46
昭和20年まで、日本男児と生まれたからにはM検といって性器・肛門検査を受けた。日本男児とM検は切っても切れない関係で、徴兵検査から解放された戦後も、大学入試ではM検が課されていた。
M検は12〜20歳の一番恥ずかしい年頃にM検が集中していた。最年少は逓信省航空乗員養成所の12歳である。陸軍幼年学校、陸軍士官学校、海軍兵学校、予科練、陸軍少年兵、海軍特年兵、満蒙開拓少年義勇兵、国民徴用令、徴兵検査、さらに軍需工場の少年工採用まで、実にさまざまなところで行なわれていた。
パンツ一枚なんて小学校、中学校では当たり前、大学。専門学校、軍関係学校の入試ではパンツ一枚すらも許されず、全部脱いでしまわねばならないのが当たり前だった頃、中学生ともなればどの進路をとるにしてもM検の関門があった。旧制中学校’(五年制)には軍人が派遣され時々、校庭の隅でパンツもつけない素っ裸で整列させられḾ検が行われていた。
軍関係の学校だけでなく、高校・大学入試もそうだし、上級生になると国民体力検査があった。
結局たいていの者が少なくとも年1回はM検を受けざるをえなかった。
軍関係の学校は将来のエリートを約束されていたものだが、身体検査は少年といえども手ごころを加えることなかった。陸士、海兵などはすべての検査で初めからフリチンのブラブラにさせられ、「日本男児だ、堂々と歩け」とやられ、手で隠すことも禁じられたそうである。
当時は人権など顧みられなかった時代である。褌であれパンツであれ、脱げと言われれば脱がなければならなかったのである。
少年兵は高等小学校を出た14歳の少年が志願するのだが、彼らには羞恥拷問とも思える厳しい運命が待ち受けていたのである
戦後、日本は兵役がなくなって、「徴兵検査」から解放された後も、男子大学受験生には性器・肛門検査・M検の羞恥が課されていた。
戦後、高橋鉄著「人性記」(林書店1968)という投稿をあつめた本があった。この中に、旧制高校(今の大学)入試の後、その時の「M検」の夢を見て漏らしてしまったと(夢精)いうのがあった。国会図書館等にある。
M検とは、なまやさしいものではなく、夢に出て漏らしてしまうほどのものであったのだ。
2
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 15:39:23
京都府立医科大学、松山商大などでは昭和40年代でもM検が課されていた。
40年代の「平凡パンチ」によると、京都府立医科大学では入学時と卒業時にM検を行う。
受験生だか一年生だかのM検では、包茎を捲り挙げると亀頭に恥垢がいっぱいで、しかも黴が生えていたそうだ。
まだ中学生とかわらぬ包茎が殆ど、包茎は環状溝が露出するまで剥きあげられる。 環状溝が露出するまでとは、捲れてるものも、もう一段剥きあげられるということだ。
一度も捲れたことが無い、しかも孤独な慰めに慰めの結果溜まったものが露わになる瞬間。
昭和30年代半ば位前までは、たとえどんなにいい成績をとっても、どんなに恥ずかしくとも、男子は総てこの検査を受けないと合格できなかった。
検査のやり方はそれぞれ異なり、東大は今武道館になっている七徳堂にて、集百人もがパンツを取り最初から素っ裸で7列に並んで検査の順番を待つ。
慶應は、20人くらいがパンツ一枚で一室に入れられ、最初に手足を動かし運動して、関節などの検査を行う。
それが終わると最初のものがパンツ一枚で前に出さされて、性器・肛門検査の見本となる。
一通り説明が終わると、みんなの見ている前で、パンツはすぐ脱ぐ、すっ裸になって、検査官の前に立ち、性器やワンワンスタイルでの肛門検査。それが済むと次のものが前に出されてパンツを脱いで。
後ろのものは、前のものが素っ裸にされて恥ずかしい検査をされるのを見ながら順番を待つ。
剥くたびにツンとする恥垢の匂いや男の匂い・・自分ももうすぐあのようにされる・・なんて思うとたまらなくなってくるはず。
可哀そうに人前でパンツを脱ぐなんで、ちんぽこ出すなんて死ぬほど恥ずかしいおぼっちゃんでも、たとえ膨らんでしまっても順番が来たら容赦なく一人の例外なしに全員受ける。
どの大学でもだいたいおなじだろう。
「蛍雪時代」などの受験雑誌にはMケンを含む受験記事があって、毎号かならずM検の相談があったのだ。
「めくれていないと合格しないのでしょうか」とか「僕は3分の一くらいしか捲れていません。受験してもいいでしょうか」とか
京都府立医科大学、松山商大などでは昭和40年代でもM検が課されていた。
40年代の「平凡パンチ」によると、京都府立医科大学では入学時と卒業時にM検を行う。
受験生だか一年生だかのM検では、包茎を捲り挙げると亀頭に恥垢がいっぱいで、しかも
黴が生えていたそうだ。
3
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 15:43:31
まだ12,3の中学生とかわらぬ包茎が殆ど、包茎は環状溝が露出するまで剥きあげられる。
一度も捲れたことが無い、しかも孤独な慰めに慰めの結果溜まったものが露わになる瞬間。
昭和30年代半ば位前までは、男子は総てこの伝統的検査を受けないと、たとえどんなにいい成績をとっても合格できなかった。
検査のやり方はそれぞれ異なり、東大は今武道館になっている七徳堂にて、集百人もがパンツを取り最初から素っ裸で7列に並んで検査の順番を待つ。
慶應は、20人くらいがパンツ一枚で一室に入れられ、最初に手足を動かし運動して、関節などの検査を行う。
それが終わると最初のものがパンツ一枚で前に出さされて、性器・肛門検査の見本となる。一通り説明が終わると
パンツはすぐ脱いでしまいすっ裸になって、検査官の前に立ち、性器やワンワンスタイルでの肛門検査。それが済むと次のものが
前に出されてパンツを脱いで。
後ろのものは、前のものが素っ裸にされて恥ずかしい検査をされるのを見ながら順番を待つ。
剥かれるたびにツンとする恥垢の匂いや男の匂い・・人前でワンワンスタイルで肛門検査を待つ姿、それはまもなくくる次の自分の羞恥の姿だ、自分ももうすぐあのように・・ なんて思うとたまらなくなってくるはず・・
でも、 一人二人と減ってだんだん自分の順番が近ずく・・
慶応といえば個室を与えられ・・良家のお坊ちゃん育ち、可哀そうに人前でパンツを脱ぐなんて、人前で剥き出しのお尻を、ちんぽこ出すなんて死ぬほど恥ずかしいおぼっちゃんでも、たとえ耐えられず膨らんでしまっても順番が来たら容赦なく一人の例外なしにパンツに手をかけ脱いでしまい検査官の前に進むことに。
どの大学でもだいたいおなじだろう。
「蛍雪時代」などの受験雑誌には毎号かならずM検の相談があったのだ。
「めくれていないと合格しないのでしょうか」とか「僕は3分の一くらいしか捲れていません。受験してもいいでしょうか」とか
大学入試身体検査で、昭和30年代くらいまでは、パンツまで脱ぐのが、あたりまえだった。
高校進学率は昭和34年が55.4%,38年が66.8%,42年が74.7%だった。
ちなみに、大学進学率は、34年が16.9%、38年が20.9%,42年が 23.7%だそうです。大雑把に言って、昭和30年代の大学進学率は20% ぐらい、進学者数は約20万人ぐらいのようです。全部の大学ではないにしても大多数の大学が入試でM検をやっていた、8割としても18才の高卒の15〜6万人が全裸にされ、剥かれて、しごかれていたことになりますね。
現在、売春防止法というのがあって、売春は犯罪です。
しかし昔は売春は犯罪では無かったのです。そして若い男たちは売春宿にかよった。
昭和24年まで、義務教育は小学校までで、向学心のあるものは高等小学校と言って、小学校を卒業後2年間(12,3)過ごして、丁稚奉公とか就職とかいくしかなかった。そのころ就職したりした先輩は後輩が14,5になると、「筆おろし」と称して、売春宿に連れて行かれ初体験をさせられるのだるなど、若者は自由に女とやった。
若者の花柳病(性病)というのも無視できなかった一方、売春が人身売買であることも問題になった。
4
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 15:48:29
そのころ、日本は国連加盟が悲願となっていた、しかしソ連は何度も拒否権を使っていた。
昭和31年日ソ共同宣言ができて、自本は国連に加盟することになるが、売春を廃止することが約束された。
そして昭和33年4月1日、午前零時を持って売春防止法ができた。売春防止法が成立したことで、M検は殆んどの大学で廃止となった。
東大でも昭和32年度(33年冬)、33年4月1日で廃止となり、実際33年の入試でオシマイとなった。
でも、かわいそうに昭和33年に受験した秀才たちは、寒い中、だだっ広い「七徳堂で」ソックス一枚まで身につけているもの総て脱いで、素っ裸のフリチンのブラブラで、性器・肛門の検査を受けるため、大勢のM検の列に並んで最後の順番を待ったのだ。
昭和30年代ずっと高校生の体格は低く、今の中学生くらいだった。身長も160センチ位だった。
でも、高校生で、一クラスには大学生のような逞しい生徒がいる一方、小柄で中学生みたいに可愛い生徒もいた。
受験生には三浪とかの20歳を超える受験生もいる。浪人の中には女を知っているものもいただろうが、女も知らない、勉強とオナニーしか知らないまじめな現役の受験生がほとんどだったろう。
東大のM検場では、20歳を越えた髭もじゃの受験生がいる一方、まだ中学生みたいな肌も綺麗な現役受験生もいたことだろう。
すでに女を知っている、毛深い赤?れの男のもの、毛も薄く中学生のような汚れない朝顔の蕾・・そんな様々な受験生が、周り総て丸裸の中、人糸も纏うことを許されない霰もない総てを晒して、検査の順番を待つ、それはザンコクなものだったろう。
旺文社「蛍雪時代」 昭和33年4月号には、今年昭和33年度から変わったこととしてM検が廃止されたとある。勿論33年度とは33年4月からで、その原稿を書いた33年3月にはまだ32年度で、容赦無く裸にしてM検は実施されたと思われる。
多分、昭和15年生まれはM検を受けたはずである。
もう少し、遅れたら私も・・ああ!。
「M検では亀頭部が露出してないと合格しないのでしょうか?、僕は絶対性病ではないと思いますが」「包皮が三分の一程度めくれてますが大丈夫でしょうか?」
「包皮に粟粒ができ巻いたが、進行する様子もありません。入試に影響しますか?」「無毛といってよいほどである上に、局部が
非常に小さいのです、来年入試を受けてよいのでしょうか?」・・
今ならパンツの中のことは関係ないが、当時の受験生はそうは言っていられなかった。
まだ、中学生みたいに朝顔の蕾もいれば、ずる剥け、先っちょがちょっと見えるものなどさまざまなその秘密の部分を
検査ではすっかり露になる。
5
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 15:55:04
身体検査のM検場で゙、パンツ一枚で、そのパンツを脱ぐ順番を一人二人と近ずく中どういう心境だろう。
東京大学に限らず、大学入学では学科試験に合格したあと身体検査がある。
東京大学では通称「M検」を行うことは受験雑誌「蛍雪時代」などの受験情報で知っていた。3月になって暖かくなった頃、本郷の七徳堂 (武道場) で受検した。受検者は一人づつテントの中に入って医師の検査を受け、衆人環視ということはなかった。
東大入試にM検が課されていた頃・・
平成5年(1993年)5月1日読売新聞夕刊1面下段《よみうり寸評》
「昭和31年まで,全国の国公私立大では,入試合格者に対して,”エム検”が 実施された。エムとは往年の俗語で,
男性自身のこと。たとえば,東大では広大な七徳堂(旧武道場)がエム検会場だった。横に並んだ7,8組の医師・
看護婦チームの前に,一糸まとわぬ若者数百人が行列したのは壮観だった。」
(注)昭和31年は、昭和33年、つまり昭和32年度の間違い記事。
毎年繰り広げられるM検場の羞恥、素っ裸の順番を待つ男子受験生が数百人。検査を待つ受験生の数百本の剥き出しのペニス。なんともすごい光景である。
こういう時にかぎって意志とは裏腹に勃ってしまう男の器官、焦れば焦るほど反りかえるが検査は刻一刻と近ずく。・・まさに夜毎納品受験勉強につかれて、勉強部屋にカギをかけていけないことに耽る、そんな閻魔大王の前に引き出される罪人のような受験生はまだ女を知らない。硬く包まれていて捲ればその証拠がいっぱい、それももうすぐ露わにされるのだ。
昭和33年以降も、一部大学では行われていて、包皮をめくると黴がいっぱいだったとか、された人ありませんか?。
昔は、大学入試でも行われていた。どんなにいい成績をとっても、この検査を受けなければ合格は無かった。経験者教えて!?。
人前で性器を晒すことが死ぬほど恥ずかしい受験生でも、順番が来たら・・。
大学受験の競争、受験勉強の厳しさは今以上だった。残酷なことは、勉強とアレしか知らないまじめな受験生。。深夜の受験勉強で勉強に疲れてすることは皆同じ・・
そのまだ今の中学生くらいの体格の受験生(たぶん学校では優等生!)がパンツまで脱ぎすべてを晒して、いつも勉強部屋に鍵をかけてヒミツの快楽に耽ってる敏感なところを自由にされ、環状溝まで向き上げられ、いつものいやらしい行為でたまった恥垢などというものまで晒して・・
M検
東京大学に限らず、大学入学では学科試験に合格したあと身体検査がある。東京大学では通称「M検」を行うことは受験雑誌「蛍雪時代」 などの受験情報で知っていた。3月になって暖かくなった頃、本郷の七徳堂 (武道場) で受検した。
「蛍雪時代」に「東大ではM検があるそうですが、女子も対象でしょうか」と心配する投書があり、大学当局から「女子にはM検は行いません」 との回答が掲載されていた。
数年前、約20年後輩の男性に尋ねたら、そんな検査はありません、との返事でこの間に廃止されたらしい。
どういう目的で検査していたのか不明であるが、第ニ次大戦前に若者が受ける徴兵検査ではM検があり、
その残存であろう。陸海軍の学校はもちろん、
大学や高校 (旧制高校) への入学時には必ず行われたそうである。当時他の大学でやっていたかどうか
尋ねてないが、慶應大学漕艇部のページを見ると、大先輩の回顧談の中にM検が定番として出て来るそうである
6
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 16:12:18
医学部の強い大学などでは、検査の周りに女子などの医学生が何人も見学していたと言う話もある。
身体検査科目に「性病等の伝染性疾患・・・についての医師による検査」とあれば M検,すなわち全裸になっての金玉検査があります。自衛隊とか防衛大等も数年前までは,身体検査科目に「伝染性疾患」と書いてあったので,当然やっているはず
です。昔は衛生状態が悪かったので,大学でも伝染性の性病をおそれ,金玉検査をやっていたと先輩の医師に聞いたととがあります。だから,受けるほうも身長,体重とかレントゲン検査,血圧や眼科,歯科などを受けるのと同じ感覚で当然と
思って,受けたそうで「性器を晒すことが死ぬほど恥ずかしい」なんていう感覚はなかったみたいです。ちなみに,M検とは,医師の前でパンツも脱ぎ マッパで医師の前に立つと,医師が金玉を軽く握り,グリグリとやってから包皮を棹の根元まで目一杯剥き,亀頭とか亀頭後ろの溝におできができていないか調べ,そのあと棹の付け根の尿道の下に右の人差し指をあてて
棹の先に向かって尿道をかなりの力でしごくんだそうです。それを5〜6 回やって膿が出てこなければ病気ではなく合格だそうだ。
昔は衛生状態が悪かったので,大学でも伝染性の性病をおそれ,金玉検査をやっていたと先輩の医師に聞いたととがあります。だから,受けるほうも身長,>ちなみに,M検とは,医師の前でパンツも脱ぎ, マッパで医師の前に立つと,医師が金玉を軽く握り,グリグリとやってから恥ずかしいよね!!
慶応では,学科試験の後,「明日は身体検査を行います。全てを検査します、清潔にしてきてください。」といわれる。当日,20人一組としパンツ一つで並ぶ,。
まず最初の者がモデルになって型を説明,。終わるとすぐ恥ずかしいから穿いているもの、パンツを取り去り本当の検査を受ける。人前でパンツを脱ぐなど死ぬ ほど恥ずかしいおぼっちゃんでも順番が来たら直ちに脱ぎ去って、ありのまま、男の子であることを晒して 前に立つ。
浪人のオスじみたものと違って、現役生のまだ綺麗な一糸纏わずの少年の肌、少年の裸身、露わになった、これから起こることに、羞恥に震える、露わになったそのきれいな下腹の平原にはまだ中学生と変わらぬ少年のすんなりしたアクセントが羞恥に震えている、これから残酷な検査を受ける性器が突き出ていて確かに少年であることを示す、そこだけ黒いものが。
7
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 16:17:39
まだ女を知らない、勉強とオナニーしか知らない、穢れを知らない朝顔のつぼみのような剥き出しになった少年のそれは初めて他人の指で剥きあげられる・・あっ!と身を引く
生まれて初めて男になったピンク色のそこにはいけない行為にふけった証拠の白い恥垢がいっぱい
終わると、すぐ全裸のまま肛門検査のため手脚を拡げて、四つん這いの姿勢をとる、ひざは曲げないで伸ばしたままである。
シミ一つない綺麗なピチピチしたまだ少年のお尻、肢体、そのぴちぴちの尻タブを両方の掌でもってぐいと拡げ菊門を拡げて中を検査を行う。
M検で不合格になった者として,痔婁(千葉大),副睾丸炎(神戸大)その他がある。徴兵検査の型を踏襲し、包皮は環状溝が出るまでばっちり剥き上げられる。
当時18歳の平均身長は160センチ,今の中学生位。当時大学に進学するのは,今よりずっと少ない。
中には例外もいたことだろうが、勉強(とオナニー)しか知らない受験生を素っ裸にして性器から肛門まで男の全てを検査したのだ。受験が迫り,孤独な深夜の受験勉強に疲れすることは皆同じ、嫌な事で進まないと手は内股に向かうだろう。
そして引っ張り出し…・・そして、もう絶対しないぞと心に誓いつつ,またしてしまう。
一夜に何回も何回もしてしまう、それが受験勉強だ。受験生にとって,M検とは,その恥ずかしい秘密を明かす場でもある。 毎日一人嫌らしくいじめているところを晒すのだ。
包皮に包まれている者は,精液が恥垢となってたまっている。M検で包茎をめくったら,亀頭にいっぱい黴が生えていたという。環状溝が出るまでばっちり剥き上げられるそうだから,たとえずる剥けでも、もう一段剥き上げられるのだ。包茎の者にはたまらないだろう。そんなことを慶応でさえ,大勢の前でしたという。
8
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 16:24:03
M検を受けなかったら,
どんなに良い成績を取っても合格はない。順番が来たら,どんなに恥ずかしくともパンツを取り去り生まれたままの裸で進み出る。肛門検査も手足をピンと伸ばして股を広げ,手形足型に合わせ検査官の前に尻を晒す。どうしても手足が曲がってしまうらしいが、ピンとなるまで検査をしない。次の順番を待つ者も次は自分があのようにと思うと他人事ではない。
M検場は次々に剥き上げられる受験生の恥部から発する恥垢の匂い、クーパー氏腺の匂いなど男の匂いが漂う。
大学入試でM検は当たり前だった50年前、戦後でもまだ(新制)高校進学者は少なかった。大学進学者は同世代の10%くらいだった。日本はまだ貧しい時代だった。
(戦前ともなると、中学進学者も10%くらいだったようだ。)50年前の男子の体格はいまよりずっと小さかった。身長で10センチくらい低いとおもっていいだろう。
17歳の男子の身長は160センチ代、今の中学2年生くらいか。
入試M検でも本当に「環状溝」 まで剥くんですね!。中には、朝顔の蕾もたくさんいるわけですから・・。昭和40年代までM検をしていた京都府立の医大のM検で、剥いたら亀頭に恥垢がいっぱいで、カビが生えていたという話が40年代の「平凡パンチ」にありました。
昔の受験雑誌に欧文社(旺文社)の「受験旬報」・・「蛍雪時代」の前、昭和17年に蛍雪時代となった・・他ありますが、M検について何か記述があったら教えてください。
9
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 16:33:01
「受験と学生」(研究社)
「受験戦線」(受験戦線社)
「受験研究」(研究週報社)
「入試と受験」(入試受験研究会)
「受験旬報」は、九段下靖国神社前の「昭和館」図書室にもある。
戦前は、旧制中学からうけられるのは、旧制高校(現在の大学)や専門学校、軍関係学校などだが、昭和14年の「受験旬報」に、昭和14年度上級学校の『体格検査』には専門学校等の入試体格検査をまとめてあるが、ほとんどM検が行われてる。本当に男子は上級学校に進むためには入試でM検を受けねばならなかったことがわかる。
戦前旧制高校や専門学校等、戦後の大学、ちょうどこれからの真冬の季節に実施されたわけだが、
寒いさなか素っ裸になるんだから、さぞ寒かったろうな!、ちじまってるんじゃないかな?。いわば残酷物語。
受験特集が「蛍雪時代」にあり、M検のことは当時の受験雑誌『蛍雪時代』の相談欄にしばしばとりあげられてたことです。
包茎などは合否と関係ないが、受験生にとっては大変なことだったようです。いずれにしても、パンツの中のことは
今ならどうでも良いが、当時は大問題だった。
大学の図書館で,旺文社発行の「昭和30年版全国大学大観」という厚さ3cmぐらいのハードカバーの本を見つけた。全国というだけあって,北から南まで全部の大学,短大、専門学校まで紹介している。編集方針で決まっているらしく各大学とも順序は同じ。所在地,概観,沿革,職員,付属機関,学制,募集要項,学生生活(クラブ活動,学費と奨学制度,学寮)卒業生就職状況等々にまとめらrている。
俺の関心事は,もちろん「募集要項」の中の[身体検査]。大学によって「未定」と書いている大学と詳細に書いている大学とあった。この欄に出てくる東大とか慶大てかは「未定」と書いているが,実はバッチリやっていたようなので,「未定」はM検あり
なんだろう。
しかし,たとえば,千葉大学は,「聴力,内診,M検(陰部),レントゲンの検査を実施する。」し,ほかの大学もほとんど同じで,「M検(陰部)を行う。」と書いた大学が7〜8割はある。ずっと,通して見ると,医科大学と医学部けいの大学はほとんど
「M検(陰部)を行う。」し,特に詳しいのはやはり全寮制の大学で,たとえば神戸商船大学は,「身長,体重,胸囲,視力,色盲,トラコーマ,聴力,内診,M検(陰部), レントゲンについて行う。合否に影響のあるものは,身長,体重,胸囲,肺結核,
心臓弁膜症,色盲,難聴,強度の近視,トラコーマ,畸型,M検である。」と明記している。
10
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 16:39:45
だから,私みたいに部活で先輩に聞かなくても,身体検査の中の
「M検(陰部)」身体検査が何であるか,みんな知って,恥ずかしい けど,希望の大学にはいるためにはしようがないと思って受けたはずです。
「蛍雪時代」の記事から
[M検とは、陰茎、睾丸、肛門、等について、結核や性病があるかを調べるのが主な目的です。
性病とは、梅毒、淋病、軟性下疳、鼠頚りんぱ肉芽腫のことで、そういう状態すらわからない人なら性病の経験がないに違いありません。
したがってM検で不合格になりはしないかなどは杞憂というものです。」・・これは、
「M検とは何の目的で行われるのでしょうか。また性病とはどういう状態を言うのでしょうか。
以上のことが全然わからず不安でなりません」(長崎UK生)という「蛍雪時代」(昭和32年5月号)
読者相談室の相談に対する回答です。実際このようなことが行われていたのです。陰茎、睾丸、肛門といった一番恥ずかしく
人に晒せない部分だけ、パンツの中だけの部分を集中的に、検査それも集団で容赦なく行う検査があって、男子受験生は
必ず受けなければならなかったのです。それも戦後も10年以上たっても、そして受験生は、たとえ、女を知らない、性病なんて
縁もない、勉強とアレしか知らなくとも、まだ12,3の中学生みたいな朝顔の蕾でも、半剥けでも、大きくとも小さくても、毛深くとも、パイパンでも、閻魔大王の前に引き出される犯罪人のようにこともあろうに陰茎、睾丸、肛門といった一人の男子として一番恥ずかしく人に晒せないヒミツの部分・男子たる象徴・性の象徴・肉欲の象徴をその肉欲行為の結果とともに晒し自由にされる、その順番を待ったのです。・・
いわば一人の男子の全てを、恥ずかしいから穿いてるものもすっかり脱ぎ捨て、検査のため全てを晒して、羞恥も認められず、それこそ尻たぶ、肛門まで拡げられ、 包皮の中まで、たとえ一度も捲れたことのないものでも、肛門の中、包皮の中(亀頭部)まで、男子の全てを検査されたはず。昭和10年代半ば生まれまでは全部受けてるはず・・。
M検を待つ受験生、みんなどんな心配をもってるんでしょうか。・・・
「小生ふとしたことから手淫を覚え、悪いこととは知りつつ行ってきました。
私の陰茎は短小で風呂のも行けません。来年の入試身体検査には差し支えないのでしょうか。」(北海道U生)
「高校三年ですが、陰茎が相当小さいのですが、勉強に差し支えるのですか。M検ではサイズは影響しますか。」(山梨HY生)
M検では当然陰茎も検査します。大きくとも小さくとも・・でもいつも手淫をしてるところを検査されるわけだから残酷です。
慶応なんかでも、20人くらい集まってから、パンツ一枚で集団で体操、その後M検に入るのだが、最初の一人がパンツのまま見本、次に脱いで本番、終わると次々に脱いで、つまり他のものの見てる前で・・。最初がいいか?、最後がいいか?。真ん中がいいか?。 最初にみんなの見ている前でパンツを脱いでしまうのも恥ずかしいが、前のもののとても正視できない検査光景を見せつけられて、立ち上がってしまってテントを張ってしまって元に戻らず、いざ脱いでそれを晒すのとどちらが恥ずかしいか。
11
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 16:44:11
1932年生まれ85歳のじいさんです。昭和26年慶応大受験。一次試験合格後、身体検査のときにM検されました。パンツいっちょでカーテンで囲んである場所の前に並び順番を待ちました。越中ふんどしの人も結構いたように思います。俺はM検があることをよく知らなかったのでなんとなく雰囲気を感じて不安な気持ちで待ちました。俺の番が来てカーテンの中に入ると中年の医者二人と記録を取る若い助手が何人かいました。そこで椅子に座ったか立ったままだったかはよく覚えていませんが、玉を触られ、ずるむけの竿を握られ皮を根元の方までめくられせんずりのように何回か擦られました。ちょっと気持ちがよかったけれど立ちませんでした。
けつの穴の検査は別の医者がしたように記憶しています。四つん這いになって穴を広げられたと思います。その後パンツをはいてカーテンから出て完了だったと思います。この時点で日大の工学部合格してたので、理系志望が強かった俺は二次の面接は振り、電気工学科に入り技術者になりました。因みに日大はM検はありませんでした。
12
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 16:51:20
昭和30年代、ツベルクリン反応というのが会って、陽転すると保健所で再検査があった。まだ結核が不治の病だった。
当時の蛍雪時代の相談に「僕は、結核性副睾丸炎のため両方の睾丸を抜きました。募集要項には「男女」とありますが、両方の睾丸を抜いても受験できますか?。」というのもあった。
それでも検査にの臨まねばならなかった。
昔話1 船の学校の二次試験 ・・東京商船大学
h ttp://wine.air-nifty.com/book/2005/05/post_17ca.html
随分、昔のこと
ここは、女子禁制の学校
一次試験の合格者が、体育館に集められた。
募集要項に、「健康な日本国男子に限る」と書かれているため、体力検査などがあるのだ。 反復飛び、背筋力、肺活量などは普通の検査。
面白い検査が一つ、上から直径5cmほどのロープが下がっている。
これに、何秒掴まっていられるか?
本当は、片手で10秒掴まってられなければならないのだが、受験勉強でなまった体には非常にキツイ。
せいぜい5秒ですが、1秒と保たないヤツがいる。
当然、2次試験に落ちるはずなのだが、、、大目に見てもらってるようだ。
そして、健康診断の最後が「M検」。
カーテンの向こうで、パンツを脱いで、医者の検査を受ける。
恥ずかしいやら、寒いやら、、、反対側を向いてお辞儀をすると、お医者さんの目の前には、、、、、、
「パシッ」
お尻をちょっと叩かれて検査は終了。
今でも、あの検査の目的がよくわからない。
まさか、女性が入り込むのを防止するため?
13
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 16:57:14
農上輝樹著『続・薔薇の告白』第二書房1971 100〜102頁には、1970年代に入っても、
松山大学でM検があったことが書かれています。
海老坂武、『〈戦後〉が若かった頃』岩波書店2002、77頁には、
1954年東大で入学後の身体検査でもM検があったことが書いかれています。
やっぱ,大学入試で大抵の大学でM検やっていたっていうの本当なんだね。
は読売新聞の記事なんだから,そのとおりなんだろうけど, 武道場がどの位広いか分からないけど,数百人の受験生が一糸まとわぬ全裸で7,8列に並んで検査されたなんて想像すらできない。広いといったって、7,8列ともなれば列と列の間隔は3mかせいぜい5m位か。
どこか別室で来ているものをソックスまで取ってしまって、検査票だけもって広いM検場に入ってゆくことに。
前の奴のケツをみるより隣の列の先頭が剥かれてしごかれるの丸見えだったんだろうなー。 詰めてと言われるんだおが、あまり詰めると、自分の性器が前の受験生の裸の尻タブにあたってしまう。立ってしまったらどうするんだろう。
行列していれば,前の奴との間隔は50センチもないだろう。そいつが目の前でパンツを脱いで検査されるんだから,
前の奴の体温や匂いまで肌で感じるし,直近で医者の手つきを見ていれば,今井社が何をしているか,逐一わかるだろうな。 お
そして一人二人と減って次第に前のほうに進む‥。前のほうに行くとツーンとくるあの男の匂いが漂うのだろう。
その裸の男の匂いや、裸の少年の薫りを嗅ぎながら最後の時をまつ受験生は哀れ。
昭和30年には,九州大学では受験の際予め提出する身体検査票に新たに性器・肛門も追加された事が蛍雪時代に乗っている。願書に添付する身体検査票に普通 の身体検査が従来からあったのだが,新たに大学病院で性器・肛門についても泌尿器科で検査を受け提出とある。つまり二重に厳重に検査されるとるのか、実習台にされるのだ。
大学病院の検査となると普通 、普通の病院の外来のようなところではないのが普通。学問研究や医学生やインターンの修習・実習のためで、インターンや看護婦が何人も見学し,受験生一人に対し,教授が検査のあと、何人ものインターンが一人ずつ交替で触って検査し、検査実習をするのかも。
受験生となれば,拒否すれば願書提出できないのだ。
パンツをとらせ、Mケンのついでに、学生による性器、肛門の講義生見本や、学生によるM検の実習、拒否出来ない受験生にインターンの目の前での普段取れないデータ採り、自慰行為をさせ、平常時と勃起時のサイズや角度、硬さ、採取した精液の量 、…・睾丸のサイズなど、ついでになかとれないどんな検査実習や、「受験生」という名の病人ではない青春盛りの貴重なデータでも取ることでもできる。1000人いれば貴重なデータとなる!?。
徴兵検査の場合は、日本国籍を有する20歳以上のすべての男子だが、当時の受験生はごく一部で、受験勉強に励む。それこそ一人性欲と闘うだけで、性病にかかる暇もないまじめな受験生で、まだ女も知らず朝顔の蕾まで開いて・・
14
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 17:02:13
K大 入試にM検があった頃・・
h ttp://www.choshinet.or.jp/~hiro/mitakai/j-boat.htm
私は国立大学も受けたのですが,学科試験で落ちたので,国立大のM検は受けていません。身体検査は学科試験で合格した人だけ受けました。国立大(といっても商船大学)に受かった友人の話によると、かなり丁寧に(!)やられたようです。
私は,私立のそれもミッション系なので,ソフトというか,上品と いうか,身体検査をする人も受ける人も,流れ作業のように表面的 には皆淡々としていました。でも,私は田舎育ちで高校を出るまで医者にも誰にも全裸を見せたり,いわんや金玉を握られた経験などないのですから,私は内心は不安と羞恥心で一杯でした。
当日は,受験生は定刻に受験生は体育館に隣接する体育会の部室棟の集会室に集合ました。2回に分けましたけれど,それでも200人くらいはいたでしょうか。ここで,検査の用紙を配られ,一通りの説明を聞きました。身体検査は上半身は裸,下はパンツ一枚の格好で受けること,身長,体重,胸囲から矢印に従って時計周りと反対方向に グルッと一周すると身体検査は終わること,検査は全部体育館の中でやるので,終わったらこの集会室に戻って服を着て待つようになど。募集要項に出ていたM検の話は全くありませんでした。また, 誰も質問もしませんでした。
それから、検査用紙に,氏名,生年月日,志望学部,学科などを記入した後,受験生はパンツ1枚の裸になり,受験番号順に体育館に向かいました。
言われたとおり,身長体重から順に眼科やレントゲン検査を受け,血液を取られたりして,内科に行きました。内科では医者の前の椅子に坐って聴診器で胸の検査を受けるのですが,驚きました。検査を受ける受験生の後ろに立ったまま並んで,見るともなく廻りを見ると,医者の背中の後ろが白地の薄いカーテンで仕切ってあって,「皮膚科」 と張り紙がしてあります。そこまでいっても,鈍感な私は,「何故, 皮膚科だけカーテンが張ってあるのかな。」としか思いませんでした。
ところが,並んでカーテンをみていると,カーテンの向こう側にも 受験生が列を作って並び,その行列の向こう側が大きな窓で,そこから明るい日が差し込んで,受験生がパンツを脱いでM検をやられている様子が,顔こそ分かりませんが,シルエットではっきり見えるのです。皮膚科が,先輩に聞いていたM検の場所と分かり,私の心臓はここでバクバクになりました。私の番になり,医者の前の椅子に腰をかけ,内科の医者に聴診器をあて検査されましたが,医者には私が動揺していることははっきり分かったはずです。
私は内科が終わって,いよいよ」最後の皮膚科でカーテンの向こう側 にはいって皮膚科の行列の最後尾につきました。
前を見ると,白衣を着た若い医者が1人と隣にもう少し若い男性の助手が1人。このひとも白衣を着て,医者が何か言うたびにペンで書き込みをしています。順番がきた先頭の受験生は,検査用紙を助手に渡し,両手を真横に上げ,胸,腹,脇の下を見られ,それから廻れ右をして背中,腿,足の皮膚を見られ,また回れ右をして医者の方を向いてパンツを脱いで,医者の前に立ちます。医者は股間に手をやって急所をまさぐっています(なお,当然のことでしょうが,女子受験生の身体検査は別の日でした。)。
検査が終わると,受験生は1,2歩左横に移動してパンツをはき行列にそってさっき入ってきた入口まで戻り,元の集会室の方に出ていきますが,終わった人は恥ずかしそうにして,並んでいる我々に目をあわさないようにして,出口に向かいます。私は並んでいるうちに自分の順番が近づき,それに従って,M検を受ける奴の全裸の後姿を次々にケツまで全部見ることになりました。正面は見えませんが, 高校の先輩が言ったことと,さっきシルエットで見た医者の手つきで, 自分がこれからやられることが分かり,周りの奴に聞こえるんじゃないかと思う程心臓がどきどきし鼓動が早くなりました。そして,ついに 列の先頭に立ちました。私の前の奴は回れ右したときに私と目があいましたけど,見たところ全く平然としており,ちゅうちょする様子もなく,正面を向くとすぐパンツを脱いで検査を受けました。
そしていよいよ私の番です。
15
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 17:10:17
私は昭和32年に,東京のミッション系の某私大に入学しました。うちの大学では,広い体育館の中でカーテンの囲いの中で検査されました。ただ,個室ではなく,身長体重やレントゲンなどの他の科とは区切ってあったというだけで,カーテンの外に「皮膚科」と書いてあり,カーテンの内側では,受験生が20人ぐらいパンツ1枚で並んでいて,先頭で順番がくれば医者の前で両手を真横に上げ,医者が正面の皮膚を上から下までザッと見ると180度回れ右して後ろの背中,足の皮膚を見,それからまた前を向いてパンツを脱いで全裸になりM検をやられました。
やり方は皆さん書いているとおり,金玉を軽く握り,包茎を「冠状溝」 まで剥いて,尿道多少しごかれました。徴兵検査の体験談にあるような,力を入れてしごくことはなく,アッサリしたものでした。ケツ検はありませんでした。
,
昭和10年代半ば生まれまでは、M検世代といえる。このうち、大正生まれまでは、徴兵検査世代だ。
この世代で、身体検査といえば、パンツまで脱ぎ全裸になるのが当たり前。入試などではM検が課されてた。
外村繁「澪標」(昭和35年)「膳所中学を卒業し,京都の第三高等学校(旧制) を受験する。身体検査の時,私は初めて性器の検査を受ける。私は,カーテンの中に入り,医者の前に立つと,予め命じられたとおり,ズボンを下げ,性器を出す。腹の皮まで赤くなる思いがする。
医者は私の陰茎をつまみ,包皮を剥く。強い痛みを覚える。が,医者は,すぐ包皮を返し私の顔を見ていう。
「マスをやるな。」
・
・
私は,12月生まれであるから,数え年22才で徴兵検査を受ける。
前に小布をあてただけの,全裸に近い格好でで全身を検査される。性器の検査の次は,肛門の検査である。床板の上に手足を置く位置が示されている。それ に従って,甚だしく屈辱的な姿勢を取らなければならない。しかし,相手は国歌権力である。拒むことはできない。私は思い切り脚を開いて,四つん這いになる。
「もっとケツを上げる。」
途端に私の性欲は昂進する。が,自分の力でどうすることもできない。
しかし,私の股間には睾丸が垂れているので,辛うじて検査官に見つかることはなかった。
後日,私はあの無残な自分んの姿を思い出すだけで,私の性欲は昂進することを知った。
慶応大が陸軍幼年学校と同じ検査したとは思えないけど,慶応大が昭和20年代、30年代に,入試でM検をやっていたことは事実なので,20人単位で みんなの前で全裸になり,握られ,剥かれ,しごかれたんでしょうか?
みんなの見てる前で、手形足形に合わせて犬のようになって肛門検査もあったそう。
ヒザはまっすぐに伸ばす、つまり脚はまっすぐ伸ばす。これはなかなかできない、できるまではじめない。
脚も開くので、またの間からは肉の袋がのぞく・・
戦後の大学入試M検でも、徴兵検査のこの方式がほぼ踏襲されていた・・
大学受験雑誌の大学ごとの案内の身体検査のところに、「M検」となってるところ、「陰部」となってるところ、「未定」となってるところすべて確実にこのような検査が待っている。
性器。肛門の検査という点では基本的にやり方は同じだったと思うが、その他場所とかレイアウトとか、ひろい意味での検査のやり方進め方、待たせ方・・などはさまざまで、なかには恥ずかしくてたまらないものもあったろう。
やり方はさまざまだったろう。そうしたところはされた人しかわからないので、経験者はぜひ告白してください。
16
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 17:14:44
M検は男子のみに課せられた検査です。一部には募集要綱で「男子のみ性器検査あり」としたところもあるようです。
「全国大学大観」によると,大抵の大学は「身体検査科目」の欄に「M検」とか「M検(陰部)」を行なうと書いていますが,福島県立医科大学」は,「M検(男子のみ)」とわざわざことわっています。
当然ですよね。女の性病検査については,この本からは全く分かりません。
(東京女子医大の身体検査科目には,もちろんM検なんて書いてないし,はかにもそれらしい言葉はありません。)
余談ですが,キリス教系のいわゆるミッションスクールがM検をやるのは分かるのですが,この本をみると,私立の仏教大学とか大谷大学とか立正大学など仏教系の宗教の大学も,「M検(陰部)についての検査を行う。」
と明記しているのですから驚きます。坊さんたちもやられたんですね。
環状溝が出るまで剥きあげたそうです、ずる剥けでももう一段剥きあげられるわけだから、中学生みたいに朝顔のつぼみみたいなのもたくさんいただろうけど、もう恐怖でしょうね。何回もしごいたかは知らないが、昔入試でも生易しいものではなかったのでしょう。
戦後昭和40年代になって、「平凡パンチ」に出てたんですが、京都府立医大でも、まだやってて完全に剥きあげたそうです。
一度も捲れたことのない完全に包まれたものをめくると、恥垢がいっぱいで、かびがはえていたといいます。
17
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 17:50:19
大学入試の「M検」は、明治の初期の旧制高校(現、大学)の時代からM検としてあったものである。
それは殆ど徴兵検査のM検と同じものだった。戦後、日本男児から「徴兵検査」の羞恥が解放された後も、
昭和30年代半ば頃まで、旧制高校や徴兵検査のM検の伝統と形式が継承され同じ形式で行われていたのだった。
一部の大学はさらに40年代まで実施されていたのだった。
包皮は環状溝が露出するまで捲りあげられる。たとえ捲れていても、もう一段剥き上げる。朝顔の蕾でもだ。
肛門検査は四つん這いで行う。こういうことが戦後もあちこちで行われていたのだ。
徴兵検査もそうだが、大学入試は多数で集団検査だ。東大のように千人を超える受験生、てきぱきとこなすには、
その検査のやりかた、番の待ち方、パンツを取るタイミングなどは、大学に依りそれぞれいろいろあったようだ。
①M検場では多数が最初から素っ裸で待つもの。
東大では現在武道場になっている「七徳堂」がM検場になっていて、ここでは全部すっかり脱いでしまう。文字通り一糸纏わずで7列になって並び検査を受ける。
千人近くの受験生の性器を検査するわけだから、もじもじしていたら検査が進まない、最初からパンツまですっかり脱いでしまって、、すぐ検査できなければならない。
②10数人がパンツ一枚でグループで検査場に入る。
KOでは、10数人ずつがパンツ一枚でグループで検査場に入る。
そこで、検査官の前で集団で手を動かしたり跳ねたり運動をして運動機能の検査を受ける、
その後、最初の一人がパンツ一枚で前に出さされて検査の受け方の見本として説明がある。
説明が終わると、最初の一人がみんなのみている前で、パンツを取ってしまい性器・肛門検査を
受ける。
③十人くらいグループで検査場に入って横一列に整列する。検査官が端から一人ずずつ
性器検査を行う。順番が着が来て検査官が前に来ると、受験生はすぐパンツに手をかけて引き下ろし性器を出す。
④カーテンとか衝立の蔭で順番に一人ずつ検査を受けるもの・。など・・
あなたはどれがいいですか?。どれだったら困りますか?。
昭和30年代半ばごろまで、男子はこうしたM検場に並ぶのがあたりまえだったのだ。どんなに成績がよくてもM権を受けなければ会合格はない。
ものすごい
大学も、試験が迫ると受験場とともにM検場を含む検査場の準備に忙しかったろう。
激しい深夜に及ぶ受験勉強に耐えて受験に臨む受験生。
18
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 17:59:13
受験勉強と言えば、青春期の男子なら誰でも経験があるはずだが、
深夜に及ぶ受験勉強の疲れと焦燥に疲れた受験生がすることは皆同じ。男子の場合性欲との戦いなのだ。どうしてもどんなに秀才でも、というか秀才ほど、こんなとき手は内股に
行ってしまうのだ。そして勉強部屋に鍵を掛けると、ボタンを外し・・一晩に何回も何回もしてしまう。
もう絶対しないぞ、とその時は心に誓ってもしばらくするとまた・・。こんなことをしているのはじぶんだけだろうか・・と。
こうした青春期。オオナニー盛りの受験生には残酷な検査場。人前でパンツを脱ぐなど、人前で性器を出すなんて死ぬほど恥ずかしい
お坊ちゃんでも。検査場とならば出さないわけにはいかない、いくらいい成績をとっても、これを受けなと合格しない。
半剥れのもの。中学生と同じ、中学生も変わりない朝顔の蕾のもの。色白のもの、色黒のもの・・毛の薄いもの、ジャングルのもの・・。
皆、夜毎激しくいじめていたところをすっかり露わにするのだ。捲りあげるたびにあの強烈な恥垢の香り漂う検査場でだんだん順番が近ずくのに意志に反して膨んでいく・・
東大などではM検は昭和32年度(33年春)まであった。その後少なくとも昭和40年代もあったところもある。
京都府立医大、松山商大などである。
東大では、勉強一本の秀才たちが七徳堂で容赦なく、パンツ、靴下まで許されない生れたままの裸体を晒して順番をまったのだろう。
京都府立医大のM検については、昭和40年代の「平凡パンチ」にルポされていた。
入試と卒業時にM検を行うことになっていて、入試M検で、包皮を捲り挙げたら、亀頭に恥垢がいっぱいでしかも黴が生えていたとある。
他の大学でも包皮は環状溝が露出するまで捲り挙げられるので、同じようなことだったろう。
初めて亀頭が強制露出するものも殆どだったろうから、夜毎のイケナイ行為で溜まり溜まった者が、その強烈な臭いと共に
露わになるわけだから、順番を待つものもたまらないだろう。
19
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 18:08:49
蛍雪時代昭和33年4月号(たぶん受験最中の2月ごろ発売されるのでしょう)には、東大入試で変わったこととして、「今年度M検がなくなった。」とはっきりかいてあります。33年4月1日午前0時をもって、売春防止法が施行された。
そして、同時刻から赤線・青線が消えたといいます。それまで売春は犯罪ではなかった。
赤線(公娼地帯・公認売春地帯)・青線(私娼地帯)では、売春が行なわれ、そこで自由に性欲を満たすことができた。
国連は売春否定であった、売春防止法は、反対が強く難産だったが、国連加盟の前提条件でもあった。ところが、ソ連が何回も拒否権を行使し、日本の国連加盟は簡単ではなかった。
昭和31年日ソ共同宣言が結ばれ、12月に国連加盟が実現。売春防止法は同31年5月に成立し、33年4月施行となった。施行5年くらい後の「高校コース」だかの相談欄に、「大学入試では、裸になるのでしょうか」というのがあった。
多分夜毎みんなするようないけないことにふけってるだろうし・・そうだったら・・ということだろう。
もしまだ売春防止法が成立してなかったら、日ソ共同宣言が結ばれてなかったら・・本当に裸・・全裸にならねばならなかったろう。なお、33年1-2月ごろ東大でも最後のM検が容赦無く行なわれていたろう。
東大はどうか知らないけど,おれに教えてくれた先輩の話では,売春防止法 ができても,性病がすぐになくなったわけではないので,東京オリンピック ごろまでは,結構多くの大学ではM検をやっていたみたいだよ。
防衛大,商船大,多くの医大など最近までやっていたらしい。
京都府立医科大学、松山商大などでは昭和40年代でもM検が課されていた。
40年代の「平凡パンチ」によると、京都府立医科大学では入学時と卒業時にM検を行う。
受験生だか一年生だかのM検では、包茎を捲り挙げると亀頭に恥垢がいっぱいで、しかも
黴が生えていたそうだ。
まだ中学生とかわらぬ包茎が殆ど、包茎は環状溝が露出するまで剥きあげられる。
一度も捲れたことが無い、しかも孤独な慰めに慰めの結果溜まったものが露わになる瞬間。
昭和30年代半ば位前までは、男子は総てこの検査を受けないと、たとえどんなにいい成績をとっても合格
できなかった。
20
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 18:15:01
検査のやり方はそれぞれ異なり、東大は今武道館になっている七徳堂にて、集百人もがパンツを取り最初から素っ裸で7列に並んで検査の順番を待つ。
慶應は、20人くらいがパンツ一枚で一室に入れられ、最初に手足を動かし運動して、関節などの検査を行う
。それが終わると最初のものがパンツ一枚で前に出さされて、性器・肛門検査の見本となる。一通り説明が終わると
パンツはすぐ脱いでしまいすっ裸になって、検査官の前に立ち、性器やワンワンスタイルでの肛門検査。それが済むと次のものが
前に出されてパンツを脱いで。
後ろのものは、前のものが素っ裸にされて恥ずかしい検査をされるのを見ながら順番を待つ。
剥くたびにツンとする恥垢の匂いや男の匂い・・自分ももうすぐあのように・・。
なんてて思うとたまらないはず。
可哀そうに人前でパンツを脱ぐなんで、ちんぽこ出すなんて死ぬほど恥ずかしいおぼっちゃんでも、
たとえ膨らんでしまっても順番が来たら容赦なく一人の例外なしに全員受ける。
どの大学でもだいたいおなじだろう。
「蛍雪時代」などの受験雑誌には毎号かならずM検の相談があったのだ。
「めくれていないと合格しないのでしょうか」とか「僕は3分の一くらいしか捲れていません。受験してもいいでしょうか」とか
21
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 18:19:23
「自衛隊 入隊前検査 M検」というブログ。
その6番目に「海上自衛官採用検査の実施要領について(通達)」という海幕衛第777号という公式通達が全文のっている。(最近では平成19年10月に改定されている。)別表の検査項目の表をみると,「泌尿生殖器」と「直腸肛門」は(入隊前の)選考時と入隊時の両方で検査することに指示されている。(陸上自衛隊も同じ)。M検はばっちりだな。
私は、元自衛官なのですが、入隊直後(確か二十二才の時)に受けた身体検査の事を書きます。身体検査は三人一組で検査室に入れられました。そこで着ている服を全部脱いで全裸になるように言われました。さらに髪の長い娘はゴムを渡され、髪を後ろで束ねるように言われます。そして全裸のまま、直立不動の姿勢で医務!官(男性)の前に立たされ、体を見られました。その時、私は恥ずかしさで膝が震え、後ろにいた医務官(こっちも男性)にきちんと背筋を伸ばすように注意されました。こうして体の傷跡や欠損の有無を確認されると、身体検査に移ります。
この後の検査は全て全裸で受けました。この部屋では身長、体重、視聴力、採血、レントゲン、心電図と進み、内科検診はカーテン に区切られた場所に移って実施されました。
皆さん、ご想像の通り、自衛隊では男女を問わず、全員が性病検査と称して局部を検査されます。女性は産婦人科の診察台に上がって、女の部分を全部調べられますね。断言できませんが、性病の検査だけでなく、性交渉の有無や発育状況までも調べられているはずです。男子の方は入隊後に女友達伝いに聞いた話ですので実際はわからないのですが、指で局部を触られるばかりでなく、包茎の人はきちんと皮が剥けるか、包皮を剥かれたりするそうです。
また、尿検査の尿は自分でコップに採ってくるのではなく、診察台に乗せられている時に導尿されて取られました。男性の方はどう だったのかしら、と思いながらこの文章を打っています。 なお、余談ですが、身体検査のときに恥ずかしさのあまり、泣き出したり、グズグズしていた女の子は、その日の夜、女性管理官に集められて説教と懲罰が与えられました。泣いた事で支障をきたし、全体に迷惑を掛けたという理由でした。その時、私は自衛隊員としての厳しさを知りました。個人のプライバシーよりも全体の規律を重んじ 、自己を捨てて国家に仕える意思を持たねばならないのです。他人に見られたくない局所までも調べられる事で、それらを思い知らせる意味合いもあるのでしょう。
22
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 18:22:10
おれは地方の国立大学の学生ですが、図書館で見つけた旺文社発行の「全国大学大観」には、おれがいる大学も、昔は入試の身体検査で、「M検(陰部)の検査」 をやってたんですね。正直うらやましい。でも、10人も20人も行列してして前後の奴と30㎝か50センチしか離れていないところで、マッパになって、急所を握って剥いてしごかれたら勃っちゃうだろうな。クラブの忘年会のときでも、当時の先輩に聞いてみようかな。
昔は大学入試の身体検査でM検やられたことは本当なんだね。それも国立大学は 100%、私立大学でも90%か95%はやられたみたいだから、そのころは 体育会の部室で新人をマッパにすることなど当然だったろうし、やられる新人もそれ程恥ずかしがらなかったんだろうな。その伝統が続いていると思えば、入試 のM検廃止が残念だとは思っても、体育会のマッパは最初は恥ずかしくても、先輩も全員通ってきた道とおもえば、勃起も射精もなんでもないんだろうな。 うらやましい。
23
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 18:56:17
おれは地方の国立大学の学生ですが、図書館で見つけた旺文社発行の「全国大学大観」には、おれがいる大学も、昔は入試の身体検査で、「M検(陰部)の検査」 をやってたんですね。正直うらやましい。でも、10人も20人も行列してして前後の奴と30㎝か50センチしか離れていないところで、マッパになって、急所を握って剥いてしごかれたら勃っちゃうだろうな。クラブの忘年会のときでも、当時の先輩に聞いてみようかな。
昔は大学入試の身体検査でM検やられたことは本当なんだね。それも国立大学は 100%、私立大学でも90%か95%はやられたみたいだから、そのころは 体育会の部室で新人をマッパにすることなど当然だったろうし、やられる新人もそれ程恥ずかしがらなかったんだろうな。その伝統が続いていると思えば、入試 のM検廃止が残念だとは思っても、体育会のマッパは最初は恥ずかしくても、先輩も全員通ってきた道とおもえば、勃起も射精もなんでもないんだろうな。 うらやましい。
24
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 19:02:22
徴兵検査だけでなく、昔は少年兵、陸軍幼年学校他の軍関係の学校は将来のエリートを約束されていたものだが、身体検査は少年といえども手ごころを加えることなかった。陸士、海兵などはすべての検査で初めからフリチンのブラブラにさせられ、「日本男児だ、堂々と歩け」とやられ、手で隠すことも禁じられたそうである。
当時は人権など顧みられなかった時代である。褌であれパンツであれ、脱げと言われれば脱がなければならなかったのである。
少年兵は高等小学校を出た14歳の少年が志願するのだが、彼らには羞恥拷問とも思える厳しい運命が待ち受けていたのである
それはまず、採用時の身体検査に始まる。14歳の一番恥じらう年ごろの少年がすっ裸にされて徴兵検査と同じ厳しい生殖器検査を受けるのだ。徴兵検査を受ける20歳の壮丁でさえ羞恥で顔がほてるという性器を握られるM検を思春期の少年が受けるのである。当時の14歳は全般に発育が遅く、陰毛もようやく生えてきたか言う年頃である。また陰茎も包茎から露茎になる者が出始める頃である。硬く包まれたものを無理矢理、冠状溝までめくり上げられ、しごかれ、肛門まで押し広げて覗かれるである。陰毛が発毛し、性器の形状が包茎から露茎に大きく変化する、他人の性器との差異が気になる年代なのである。それだけに衆人監視のもと、全裸での性器検査は耐えられないほど恥ずかしかったであろう。しかしそれは避けられない通過儀式であった。
さらに入隊してからも羞恥の儀式は続き、夜になると先輩達から採用時の身体検査以上に厳しく、かつ性的いたずらの性器検査をされるという。
「海軍特別年少兵」という映画を見たことがある。14歳で志願した少年兵の物語である。男はみんな20歳になれば兵隊になるのだから、いまのうち兵隊になり、少しでも位が上になり親のめんどうもみたいと少年兵に志願したのだ。厳しい身体検査をされる場面もあった。M検を想像させる場面もあったが勿論、性器が映ることはなかった。
そして入隊。日中は過酷な訓練があり、夜は兵舎の中で検査や教育訓練がある。しかし彼は要領が悪くヘマばかりやってしまう。そのたびに連帯責任で班全員がビンタとか制裁を受ける。ある日は彼の班だけ食事を許されず、それどころか、食卓を全員で頭の上まで持ち上げていなければならなかった。彼はそのたびに班全員から責められる。
映画にはなかったが、もし銃の点検があればおそらく砲身磨きをさせられる班だ。そして彼は責任をとって一番最後まで砲身磨きを続けるのであろう。
厳しい訓練が終わり、軍艦に乗っても尻を精神注入捧で殴られる毎日である。夜には上級兵の性の慰みものにされるのである。愛撫させられる位ならいいが女の代用として肛門に太いものを押し込まれたりする。涙をこらえて耐えるしかないと言う。
このようなことは陸軍の少年兵も同じことである。軍隊は男だけの世界のである。上官には絶対服従である。これが少年兵に行われる男色の要因ともなった。少しでも早く出世するためにと、羞恥の儀式を耐えて少年兵になったのであるが、入隊後には更に過酷な体験が待っていたというわけである。
25
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 19:08:07
なお、陸軍のエリートコースとしては陸軍幼年学校というのがあり、中学1年生または2年生が受験する。陸軍幼年学校に入ったという事は、その中学の大変な名誉だったそうで、成績の良い子は先生から受験するよう言われ、よくわからいまま願書を出す。
しかし、軍関係の学校は例外なく身体検査時にM検がある。願書を出すと中学1年生でM検を受けることになる。落ちると、中2でもうl度受験する。
軍関係の生殖器検査は徴兵検査と同じやり方で厳密に行われたから、思春期の敏感な性器には大変な刺激である。包皮を剥きあげ、まだ敏感な亀頭粘膜を強く握り擦られるのだから多数の者が検査中に勃起した。耐えられず射精してしまう者も10%位いたそうで、検査場には雑巾が用意されており、床をよごした者は自分で掃除させられるという。
なお、昭和17年に石井磨という人が、旧制中学生(5年制)を中心とする3500人に性器調査の為のM検を行っている。その調査では発毛平均年齢は14.4歳であった。
14歳の少年兵受験者はまさに生えはじめの年ごろだったわけで、ジャングルもいれば発毛の兆しもない者もいたはずで、それは恥ずかしかったことだろう。
最近では、岐阜県の岩〇高校で医師が春の健診の時パンツまで脱がせ、性器を検査して調べたと問題になったことがある。5人一組ではいり、一人ずつ皆の前でパンツを脱ぎ検査を受けたというが、先にやられる者も、順番を待つ者もたまらなかったことだろう。
男は大きい小さいだの、長い短いだの、皮がどうの、それになにより困るのは意志に反して勃起する恐れがあり、恥ずかしかった事であろう。しかし、これらはかつてM検に臨んだ多くの日本男児も耐え忍んだことなのだ。
26
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 19:16:18
陸軍幼年学校のM検に立ち合った人の手記には次の様な状況が書かれている。
性器検査では常に4,5人の受験者が順番に並び全裸のまま直立して前の者の検査を見せられる。時間内に素早く検査を終了させるためである。
中1、2年で恥ずかしくてたまらない年ごろだ。検査を見せることで性器をいじられる覚悟をさせるのである。
性器のあとは肛門検査だ。床に手形と足形が書いてあり、形に合わせて脚をピンと伸ばして股を広げ四つんばいになり、検査官の鼻先まで高く尻
を突き出す。尻の割れ目から会陰、肛門から陰嚢の裏まですべてを露わにさらけだすと、検査官が肛門をグッと広げて検査する。
無理矢理亀頭を剥き上げる陰茎検査、キンタマを握る陰嚢検査、尻タブを拡げ菊門を拡げて肛門検査。並んで順番を待ちながら、前の者が受けている検査のすべてを見せつけられる。見られる方はもちろん、次の者も「もうすぐ自分もあのように握られるのか」と思うとたまらない事だろう。なかには見ているうちに陰茎が勃起してしまう者もある。勃起状態でいじくり廻されて、奇妙な快感に耐えられず漏らしてしまう者もあったという。
以上書いたように、かつての日本男児と「M検」は切っても切れない関係にあり、男と生まれたからには身体検査で性器の検査を受けることが常識だったのである。これは戦前に限った話ではなく、戦後数年たってからも警察や一部の会社の養成工採用試験では徴兵検査を引き継ぐM検が行われていたようである。
「陰部ノ検査ハ受検者ヲシテ脱褌セシメ両脚ヲ開キ検者ニ正面シテ立タシメ鼠蹊部、陰茎、陰嚢、精系、睾丸及ビ副睾丸
ノ異常ノ有無ヲ検査シ排尿ノ難易、遺尿ノ有無ヲ問ヒ次テ手指ヲ以テ尿道球部ヨリ口部ニ向ヒ尿道ヲ按圧シテ排膿硬結ノ
有無ヲ検シ必要アルトキハ排尿セシメテ尿ノ性状ヲ検査ス」
「肛門及ヒ会陰ヲ検査スルニハ受検者ヲシテ体ヲ前屈シ両手ヲ床上ニ支ヘ臀部ヲ挙上セシメ検査ハ両手ヲ以テ肛門部を排
開シ痔核、痔瘻、脱肛其ノ他肛囲ニ於ケル病変ノ有無必要アルトキハ摂護腺ノ状況ヲ検査ス」 (陸軍身体検査規則)
27
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 19:20:34
尻を突き出す。尻の割れ目から会陰、肛門から陰嚢の裏まですべてを露わにさらけだすと、検査官が肛門をグッと広げて検査する。
無理矢理亀頭を剥き上げる陰茎検査、キンタマを握る陰嚢検査、太い肛門鏡を挿入される肛門検査。並んで順番を待ちながら、前の者が受けている検査のすべてを見せつけられる。見られる方はもちろん、次の者も「もうすぐ自分もあのように握られるのか」と思うとたまらない事だろう。なかには見ているうちに陰茎が勃起してしまう者もある。勃起状態でいじくり廻されて、奇妙な快感に耐えられず漏らしてしまう者もあったという。
以上書いたように、かつての日本男児と「M検」は切っても切れない関係にあり、男と生まれたからには身体検査で性器の検査を受けることが常識だったのである。これは戦前に限った話ではなく、戦後数年たってからも警察や一部の会社の養成工採用試験では徴兵検査式のM検が行われていたようである。
28
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 21:20:01
徴兵検査は婦人会が見学に来たそうで、羞恥にからだがほてるという。また地方によっては、最初から最後まで、身長も体重もすべてフリチンのブラブラで行なったということであり、『絵とき日本陸軍』(三恵書房)には、広い講堂の中で全裸で体重測定を受ける者や、次の順番を待つ者など、羞恥の検査場風景の絵も出ている。なお岩波文庫50『戦争と日本人』が復刻された。この中に徴兵検査の写真があり、全裸で並んだ壮丁の一人だけ前向きで、性器まで見えるということで、知る人ぞ知る伝説的な貴重な写真であるので、ぜひ見られたい。
とにかく丸裸にされた壮丁は、自分のからだが自分のものでないことを知ることになる。そこにぶら下がっているモノでさえ「男子のシンボル」、つまりお国のものであって、婦人会の前でも隠せないということになる。
日本男児と生まれたからには、何人もこの検査場に臨み、しゃばっけを抜かれたうえ兵営に入ったのだ。」
29
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 21:24:29
訂正 日本男児のシンボル
30
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 21:27:52
岩波写真文庫50『戦争と日本人』
31
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 21:50:03
徴兵検査は出身地の和歌山県の小学校講堂で受けた。強制的に性器を人前に曝し、いじくられるという恥ずかしく、惨めで、切ない体験を今は懐かしく思い出すのである。
徴兵検査会場には徴兵医官だけでなく、看護婦、軍人、市役所兵事掛の役人、さらには国防婦人会も手伝いに来ており大勢の人がいた。
私が受けた和歌山の会場では越中褌着用であったが、地方によっては最初から最後まで、身長も体重もすべて全裸で行う場合もあったようで、東京の検査場で受けた同僚によると、集合するとすぐに全裸にされたそうである。褌も取り上げられた壮丁達は大勢の軍人や主婦たちまでもが見守る中で終日、全裸のまま検査を受けたと聞いた。
《ここで注意を要するのは こう云う〝男が全裸になる〟徴兵検査の場に、国防婦人会‥と云うような 年配の婦人会の連中が、お手伝いと称して 一日中‥検査場をウロウロしていたことである。当時‥壮丁の男が兵役に取られた銃後を 在郷軍人と婦人会で守ろう‥と云うのが大義名分であった。婦人会には 白い割烹着に名襷を斜めに掛けた国防婦人会と、草色の上っ張りに同じく名襷を掛けた愛国婦人会があり、おかみさん気質の国防婦人会と 奥様風の愛国婦人会が勢力争いをしていた。》
丸裸になった壮丁は、自分の体が自分のものでないことを知ることになる。そこにぶら下がっている性器でさえ”男子のシンボル”でなく”日本国男児のシンボル”、つまりお国のものであって、大勢の国防婦人会の主婦たちの前でも性器を隠さず堂々とさらけ出して、規律正しく迅速な軍隊行動をすることを要求される。
日本男児と生まれたからには、だれもがこの生殖器検査を受け、性器を恥ずかしがるなどと言う感情は許されなかった。
当時、男は徴兵検査を受けて一人前になると言われていた。それは徴兵検査が疾病検査とは異なり病気の検査だけでなく、生殖器としての機能も調べるからである。
32
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 22:00:01
徴兵検査を受ける事で男性生殖器である睾丸や陰茎を握られ、亀頭溝まで完全に皮をめくって生殖機能を触診検査をされる。陰茎が異常に小さかったり、大きすぎる場合は勃起させて奇形かどうかを詳しく調べられた。睾丸機能も同じで正常範囲を超えるほど大きかったり小さかったりすると、射精検査を行った。
当時の日本は人口が即、国力と考える「産めよ、増やせよ」の時代であった。兵隊の年代こそ子育ての世代であったため、徴兵されて入営した後も、結婚していて子供のいない兵隊には種付けと育児のために「種付け帰郷」として1年ほど除隊させた。子供がある程度育つとまた入営するのである。
しかし、独身者と、徴兵検査時に生殖能力に異常が発見されたものにはこの特典はなかったという。このように徴兵検査を受けることでようやく奇形も病気もない、男性生殖器を使ってもよい健全な男であると証明されたのである。
さて、私が受けた徴兵検査である。その日、小学校は休日だった。受付をすませ廊下で越中褌一枚の裸体となり徴兵検査場である講堂へ入る。正面の壇上には50代くらいのカイゼル髭の立派な徴兵検査官が座って全体を見渡していた。
入り口から運動能力検査、体力検査、身長・体重・胸囲・座高・視力というように、順序よくその場が設定されており、最後の場所に「M検場」があった。そこはかつて私が小学生の時覗き見した場所だった。
私ははじめの方だったから順調にゆけば早く終わるはずだったが、視力検査で引っ掛かり最後まで待たされたので「M検場」に到達した時は、すでに陽は西へ傾き、M検を受ける壮丁だけが残っていた。「M検場」は他の受検者から見えないように衝立で囲み隔離され窓は暗幕で隠されていた。工場で性器触診を受けた時は丸見えだったが、ここでは中が見えないので救われた気持ちになったが、一人づつ壮丁が衝立の中へ消えてゆき、順番が繰り上がってゆく間、衝立の中で何が行われているかを色々と想像させて、逆に見えないことに不安を感じ切なかった。
33
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 22:04:59
どんな格好で剥かれるのだろう? 工場の時と同じなのだろうか? 勃起してきたらどうしよう? 検査医官はどんな人なのだろう? などと衝立の中の妄想に胸は高鳴り、褌の中では陰茎が疼きに悲鳴をあげて何度も勃起を繰り返した。
いよいよ私の番がやって来た。早鐘のように心音がドクッドクッと打つのが聞こえる。そっと褌の上から陰茎に触れてみる。どうやら膨れてはいるが勃ってはいない事に安心する。その時、慌ただしく衝立の中から医官と看護婦が壮丁を中に残したまま出て来ると講堂の外へ消えた。前の壮丁の淋病が露顕したようであった。
しばらくして医官が帰って来て「中へ入れ」と私を呼んだ。看護婦は前の壮丁の淋病処置に手を取られているのだろう、中にはいなかった。医官は書類を一覧すると椅子に股を拡げて座った。髭を生やした威厳のある老医であった。
私は指定された床の足型の位置に立った。足型の幅は50センチほど開いていた。
「褌の前を外せ!」の声に越中褌の前垂れを尻の方へ引き抜いた。
「両手を後ろに組んで、腰を前に突き出す。もっと……もっと……。」促されるままに徐々に腰を医官の鼻先へ突き出すと医官は左手で陰嚢を握り包み、右手で陰茎を握り包皮を剥いて完全に亀頭を露出させると強く握り直し、陰茎全体を亀頭の方へ皮が突っ張るほどもみ上げた。
陰茎がちぎれるほど強く引っ張るのでかなり痛い。生温い掌が陰茎を締めて亀頭の方へ絞ってゆく。この動作を三度繰り返され、カリ首を強く締め付けられると、陰茎は敏感に反応を示し、奥底から感応してはならない疼きが沸き出し、半勃起の弾力ある状態になってしまった。勃起しては困ると他のことを懸命に考える。
しかし医官の掌は容赦なく前より一層強く握り締めて極めてゆっくり亀頭の方へ数回絞りあげる。痛いほどの快感がビンビンと頭に伝わってきてどんなことも考えられない。
じっと切なく、残酷なしごきに耐えた。医官は尿道口の膿の有無を見定めようと亀頭をひねると親指と人差し指で鈴口を開いた。その瞬間、先走り液がプクッと飛び出した。待機中でも幾度となく出そうで危惧していた事が医官の前で起こった。
34
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 22:14:01
陰茎が固くなってゆくのを感じた。もう、どうしようもない。医官が鼠蹊部軽侮の辺りを圧するために両手を離すと陰茎は意思とは関係なくズキン、ズキンと大きく波打ちながら急速に天に向かって勃起していった。恥ずかしさに生きている心地がしなかった。
医官は見馴れた様子で別に気にとめる風もなく、陰茎を腹の方へ押しつけ睾丸を片方づつ丁寧に握り固さを検査している。私は放心したように彼の掌の動きを無感覚に見詰めていた。それほど陰茎勃起はショックだったのである。
「後ろを向いて……床に掌をついて……」四つん這いになり医官の眼前に尻を高く差し上げた。「もっと高く……」両手で強く肛門を開き、金属棒のようなものを押し込んでぐっと拡げたような感じがした。
冷やりとして痛かったが、同時に快感とも違う痺れるような妙な感覚が陰茎を走った。ふと、自分の股間を見ると先走り液が粘い糸を引いて垂れ下がっていた。
陰茎は完全勃起に近いくらい大きく膨らんでいた。顔が真っ赤に火照っているのが分かった。「竿も睾丸もよく発育している。よい道具である。大事にせい。」と言って尻を叩かれた。 向き直ると医官は、天を突いて勃ちきっている陰茎を引き下げ、握手でもするように握って前後に動かした。恥ずかしさと照れくささに私は頭を掻いた。まさしくその姿は小学校六年生の時、盗み見したこの場所で頭を掻いていたあの筋肉隆々たる壮丁の姿と同じであった。逃げるようにして出口に向かい急いで越中褌の前垂れで隠したが、興奮した陰茎は怒張したまま収縮せず前垂れを突き上げていた。
横から越中褌の中が丸見えで、衝立の外へ出ようにも出られず困ってしまった。すでに次の壮丁が入って来て医官の前に立っている。困っている私に気が付いた医官が側に寄って来て褌の前を外し、いきなり睾丸をピシリとはじいた。
屈み込むほどの激痛だったが、その瞬間陰茎は力を失っていた。心得た処置であった。出口で次の壮丁の陰部を見ると、すでに包茎の陰茎が水平近くまで持ち上がっていた。包皮が半剥けになり虚空に息づいていた。直立不動の姿勢で、間近で腰掛けている医官に陰茎を突きつけ、恥ずかしい扱きが始まるのを待っていた。◇
35
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 22:20:02
徴兵検査と婦人会 投稿者:Mkn
「徴兵検査の想い出」 昭和12年6月15日
老兵(自分の‥の意味)の徴兵検査の日でした。
神戸連隊区司令官《少将》をお迎えして、小学校の講堂で施行されました。
丸坊主丸裸、僅か20センチ角の綿布に紐をつけて腰に結び付けて前を隠しただけで、いろいろの動作をするのです。
大日本帝国国防婦人会と称する団体から大勢の見学者がきておりました。
初めのうちは恥ずかしくて身の竦む思いでしたが、すぐになれました。
年配の女性もいましたが大半は若い女性でした。
老兵の受験番号は15番でした。各種検査が終わり最後に、司令官の前に進み出て、各自の番号と名前を大声で名乗るのです。
これに対して司令官は、甲種合格から、第1乙種、第二乙種、第三乙種、丙種、戊種の六段階の成績を言い渡されるわけです。老兵までの14人中には一人も甲種合格者は居りませんでした。老生が進み出て《15番 田邊○》と大きな声で名乗ると、司令官も大きな声で、《田邊○甲種合格》といってくださいました。すると見学の婦人団体の中から、ホーッというどよめきの声が上がりました。どうゆう意味のどよめきかいまだにわかりません。其の時の老兵の心境は面はゆい誇らしい、何か一言では言えない複雑な気持ちでした。
当時の老生の体格は身長 162.5センチ、体重 52.5kgでした。半年後の入隊時には163 センチ 53kgでした。
36
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 22:41:03
当時20歳壮丁の平均身長は150センチだから今の小学生位、6割は包茎あったというのもわかる。
日本国籍を持つ男子は満0歳を迎える年のある日、徴兵検査場に決められた時間に出頭。
そこで、最初にすることは来ているものをすべて脱ぎ捨て持ってきた風呂敷に包み預けてしまって、
検査場に出てゆく。そこには大勢の婦人会や処女会の若い女たちが見ている。
そこで婿探しをするのだ。
いろいろ検査をしてついに性器肛門検査の列に並ぶ。
そこで、つかんだりしごいたり剥いたりされる。
お前・・だなとか大声で言われる。
意地悪な検査官にあたると火が出るような辱めに逢う。
みんな捲りあげるのだが、まだ中学生みたいに固く包まれているものは
むんずとつかむと、一気に捲らないで、その代わり、敏感な先端の皮を撫でたりさすったり、婦人会、処女会の女の取り囲む中、見ている前で・・
そして「まだまだだめだ、まだ先が出てこんではないか・・」とはずかしめられる・・
硬く石に反して上を向いてきてもまだ先は固く包まれたまま・・
後の同じようななる壮丁も、もうすぐ自分もあんな風にされるのかと思うとたいたたまれなくなる・・
37
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 22:46:06
少年自衛官
昭和30年に「少年自衛官制度(自衛隊生徒)が発足した、これは15歳〜17歳までの男子で、中学三年生が受験する。ここでは性器・肛門検査(M検]が課されていた。本当に脱いでしまわないといけない。
ある本に昭和37年の「少年自
衛官の身体検査」の写真があった。何の検査だか部屋の前で
白いパンツ一枚の受験生が並んでいる。
それを全部脱いだ全裸の受験生の姿を想い描いた。
また40年代の「アサヒジャーナル」には、少年自衛官が手足を伸ばして4つんばい姿で肛門検査を受けているところを衝立の陰から移したカラー写真がのっていた。
38
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 22:48:31
肛門検査は、両足をピンと伸ばさないといけない、脚を伸ばすよう直されている。
39
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 23:09:58
少年自衛官
昭和30年に「少年自衛官制度(自衛隊生徒)が発足した、これは15歳〜217歳までの男子で、中学三年生が受験する。ここでは性器・肛門検査(M検]が課されていた。本当に脱いでしまわないといけない。
ある本に昭和37年の「少年自
衛官の身体検査」の写真があった。何の検査だか部屋の前で
白いパンツ一枚の受験生が並んでいる。
それを全部脱いだ全裸の受験生の姿を想い描いた。
また40年代の「アサヒジャーナル」には、少年自衛官が手足を伸ばして4つんばい姿で肛門検査を受けているところを衝立の陰から移したカラー写真がのっていた。
【2009/10/02 21:30】 URL | k #- [ 編集]
国民体力検査は4月から7月までの間に実施。
だから15歳といっても実施時には14歳と何カ月。昭和17年に石井磨というひとが中学生7000人について仔細に検査したところ、発毛は平均14歳4ヶ月という。つまり生えるか生えないか、発毛の兆しがあるか無きかから発育の進んだものまで一緒に検査する。
当時は、幼年学校入試とか14歳の少年兵の試験までM検が課されていた。
自分は昭和30年代半ばごろ中学生で、三年生の時、春の身体検査の時、パンツ一枚で順番を待っている時、先に終わったヤツが出てきて、「チョーヘイケンサンサしるからパンツ脱げってゾ」と言われた。エエッと思ったが、本当だと困ったなとおもって、こころもとなかった。
チョーヘイケンサの意味はわからなかったが、このときは、もう生えていてひとりいじめていてすぐおおきくなるのでいやだなとおもったが、なにもなく担がれただけだった。
パンツ一枚なのに、それも脱げという考えられないことで困った恥ずかしいのにと思った。後で損の意味が分かった。
そのご、この検査で同じ中学三年生で本当にパンツまで本当に
脱がねばならない、そんな検査場に立ったそのころの同じ年頃の中学生の気持ちはよくわかる、やっと終わって、また来年も、さらに再来年も発育していくそれを強制的に検査され、その後徴兵検査に臨む、当時の青少年のことを思うと手はどうしてもそこにいってしまうのです。
40
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 23:14:10
国民体力検査
徴兵検査に怯える間でもなく、昭和16年に15歳つまり、思春期まただなかの中学三年生出会ったもの、昭和最初の昭和2年生れの男子は、徴兵検査間で毎年国民体力検査という予備徴兵検査で、M
検を受けることになる。人前で性器を晒すことが死ぬほど恥ずかしいお坊ちゃんでも、順番が来たら一気にパンツ間で脱いじゃって・・めくり上げられるのだ。
昭和17年から予備徴兵検査というべき国民体力検査というのがスタート。その年11月までに17歳になる男子は徴兵検査
間で毎年、M検を含む身体検査と体力検査を受けることに。翌昭和16年から15歳以上、つまり中学生は3年になると、性器・肛門まで晒す。
41
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 23:19:20
少年設けた国民徴用検査
強制的に体をとられるのは昭和14年から「徴兵」のほかに「徴用」ができた。これを刻印徴用という。
徴兵は20歳なのに対し、国民徴用は職業能力を申告し、そのなかから徴用検査して軍需工場や炭鉱に徴用したもの。国民徴用は、昭和14年には男子16歳から50歳まで。身体検査は、徴兵より一般にひどかったよう。「写真昭和30年史」にでてくる。
どこか小学校の教室痛いなところで、机はどかされ、窓は開け放たれ、二十人くらいの男が一糸まとわずの男子は記お付けの姿勢で整列。前には検査官がたち何か訓示、前にはすでに後年の素裸の男が出ていて、そばには消毒液の入った洗面器が。
年齢には幅がある。左手前の男子はあきらかに少年体位で肌も細くすべすべし、お尻も
ぴちぴちぽっちやりしている、16歳ですぐ徴用されるのだろう。ほかの男は50歳くらいのようだ。
「写真 昭和30年史」毎日新聞社1961.3
42
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 23:23:19
続き
前から見たら、まだ生え揃は無い朝顔の蕾から、もう妻帯で赤むくれ・・これから検査がはじまるのだろうか。徴兵検査は21歳ではなく、ここでは強制的に16歳から実質行われた
のだ。
昭和19年2月からは、徴用の耐えの職業能力深刻年齢を、12歳以上60歳以下に改正され、すぐにその徴用が行われたヽ。中学校2年生で放校(退学9になった中学生はすぐ徴用され、筑豊炭鉱に贈られたそうだ。贈られた後尾刻印体力検査は受けただろう。。
国民徴用身体検査は、どんなものだったろう。16歳以下でこうした検査場に送られたものも少なくないだろう。
ずるむけでも完全に剥きあげる、おちろん朝顔の蕾でも容赦なく、それは少年兵やせ戦後の大学入試でもそうだったようだ。
徴用は遊んでいるものということで厳しい。放校になった中学生は、わずか13,4で下着も許されない素裸で検査場に送られ厳しい全裸身体検査を受ける。
素裸の身体検査は少年でもたくさんあった。
43
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 23:31:11
国民体力検査
少年が怯えたM検ということであれば、徴兵検査もさることながら、もうひとつ実際に中学生からあった『国民体力検査』があると思います。
おく民体力検査は予備徴兵検査とも言うべきもので、昭和15年9月から17歳以上徴兵検査前までの男子たるもの翌昭和16年4月からは15歳以上(その年11月30日で)、つまり、中学三年生以上。体力検査は疾病検査、身体測定、体力検査(体力章検定)殻なり疾病検査にはM検を含む予備徴検査というべきもの。
自分は、戦後十数年立った昭和30年代半ばごろだったが、中学三年生の春の身体検査
のとき、パンツ一枚でしんたいけんさを受け、順番に並んで順番を待つのだが、もう少しで
自分の番がチ被いた頃、先に終わって出てきたヤツガ「チョウヘイエンサするあらパンツ脱げってゾ』といったのだ。。
ええっと思った、それは困るよ嫌だよ、そう思ったものだ。。だがだんだんちかずいてくるのだ、、結果的にソレハウソだった、かつがれたのだ。その頃毛が生え、ヒミツの行為に耽って、自分だけ女いやらしい行為をしているのだろうかと思っていた。敏感な包皮をも魅し抱き何回も難解もして非常に敏感になっていた
昭和17年、中学生に実施した性器検査では発毛の平均年齢は14歳だっとという
そんな恥ずかしい年頃に変わりない中学生が、本当に恥ずかしいから履いているパンツ二手を変えて脱いでしまう、それははずあしかったことでしょう、それも『体力手帳』を渡され徴兵検査まで毎年受け泣けれならなかったという。。
,
思春期丸出しの毛の生えかけの中学生で毎年全裸にさせられて ーーというのです。
その恥ずかしさはよくわかるのです
昭和19年2月からは、徴用の耐えの職業能力深刻年齢を、12歳以上60歳以下に改正され、すぐにその徴用が行われたヽ。中学校2年生で放校(退学9になった中学生はすぐ徴用され、筑豊炭鉱に贈られたそうだ。贈られた後尾刻印体力検査は受けただろう。。
徴用徴用身体検査は、どんなものだったろう。16歳以下でこうした検査場に送られたものも少なくないだろう。
ずるむけでも完全に剥きあげる、おちろん朝顔の蕾でも容赦なく、それは少年兵やせ戦後の大学入試でもそうだったようだ。
徴用は遊んでいるものということで厳しい。放校になった中学生は、わずか13,4で下着も許されない巣裸で検査場に贈られ奇異しい身体検査を受ける。
素裸の身体検査は少年でもたくさんあった。
44
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 23:59:01
以前、毎年、一般総合病院の内科のほか、泌尿器科、外科があって,M検のある普通の一泊二日の人間ドッグにかかっていた。一日目は一般内科検査、二日目は男女に別れ、男子は泌尿器科、女子は婦人科検査。膝上位の短い検査着、下はパンツ一枚だけで、泌尿器科前の廊下で待つ、隣は『膀胱鏡検査室』と表示の部屋がある。
精密検査は、ここの検査台にパンツもつけず股を拡げられて固定されて、膀胱鏡というのを挿入されて行う。
三人だけがドアの中に入り、ドアを開けるとカーテンがあって、前の椅子に腰かけて順番を待つ、呼ばれたら一人ずつカーテンの中に入り検査を受ける。中の声が丸聞こえ、ああ自分ももうすぐ、次にはと思うとたまらなくなる、M検に臨んで順番を待つ受験生の気持ちがわかる・・。
いよいよ、名前が呼ばれてカーテンの中に入る。
まずベッドでパンツを膝までおろして自分で膝を抱える体位で肛門内触診、看護師が傍で介助する、肛門が上を向くくらいになり、もちろんお稲荷さんやチンポも丸出し。
終わると、性器検査。医師の前で立ち、短い検査着をはだけ、パンツを下ろして下腹部から性器・陰部を丸出しにして触診を待つ。まず立ったままチンポをつままれ、捲りあげられて亀頭を検査し、見られ、陰嚢睾丸をグリグリ触診される。僕の場合、中学生のような包皮に包まれてたが、完全に捲りあげられた・・。
こんなことをされたのかと思いながら指の感触を思い出しながら後で自慰をした。なお、泌尿器科にかかると、尿検査や問診とともに、まず最初にこれをされるのだそうだよ。
入院して、け画や手術でベッドで寝たきり状態が続くと、陰部の洗浄というのをされる、たとえ中学生でも環状溝ガ剥き出しになるまで捲られて恥垢を綺麗にされる。
今はないが、あの羞恥のM検を受けてみたいものだ。
45
:
名無しさん
:2019/06/22(土) 00:03:32
「M検(陰部)」身体検査が何であるか,みんな知って,恥ずかしい けど,希望の大学にはいるためにはしようがないと思って受けたはずです。
「蛍雪時代」の記事から
[M検とは、陰茎、睾丸、肛門、等について、結核や性病があるかを調べるのが主な目的です。
性病とは、梅毒、淋病、軟性下疳、鼠頚りんぱ肉芽腫のことで、そういう状態すらわからない人なら性病の経験がないに違いありません。
したがってM検で不合格になりはしないかなどは杞憂というものです。」・・これは、
「M検とは何の目的で行われるのでしょうか。また性病とはどういう状態を言うのでしょうか。
以上のことが全然わからず不安でなりません」(長崎UK生)という「蛍雪時代」(昭和32年5月号)
読者相談室の相談に対する回答です。実際このようなことが行われていたのです。陰茎、睾丸、肛門といった一番恥ずかしく
人に晒せない部分だけ、パンツの中だけの部分を集中的に、検査それも集団で容赦なく行う検査があって、男子受験生は
必ず受けなければならなかったのです。それも戦後も10年以上たっても、そして受験生は、たとえ、女を知らない、性病なんて
縁もない、勉強とアレしか知らなくとも、まだ12,3の中学生みたいな朝顔の蕾でも、半剥けでも、大きくとも小さくても、毛深くとも、パイパンでも、閻魔大王の前に引き出される犯罪人のようにこともあろうに陰茎、睾丸、肛門といった一人の男子として一番恥ずかしく人に晒せないヒミツの部分・男子たる象徴・性の象徴・肉欲の象徴をその肉欲行為の結果とともに晒し自由にされる、その順番を待ったのです。・・
いわば一人の男子の全てを、恥ずかしいから穿いてるものもすっかり脱ぎ捨て、検査のため全てを晒して、羞恥も認められず、それこそ尻たぶ、肛門まで拡げられ、 包皮の中まで、たとえ一度も捲れたことのないものでも、肛門の中、包皮の中(亀頭部)まで、男子の全てを検査されたはず。昭和10年代半ば生まれまでは全部受けてるはず・・。
M検を待つ受験生、みんなどんな心配をもってるんでしょうか。・・・
「小生ふとしたことから手淫を覚え、悪いこととは知りつつ行ってきました。
私の陰茎は短小で風呂のも行けません。来年の入試身体検査には差し支えないのでしょうか。」(北海道U生)
「高校三年ですが、陰茎が相当小さいのですが、勉強に差し支えるのですか。M検ではサイズは影響しますか。」(山梨HY生)
M検では当然陰茎も検査します。大きくとも小さくとも・・でもいつも手淫をしてるところを検査されるわけだから残酷です。
慶応なんかでも、20人くらい集まってから、パンツ一枚で集団で体操、その後M検に入るのだが、最初の一人がパンツのまま見本、次に脱いで本番、終わると次々に脱いで、つまり他のものの見てる前で・・。最初がいいか?、最後がいいか?。真ん中がいいか?。 最初にみんなの見ている前でパンツを脱いでしまうのも恥ずかしいが、前のもののとても正視できない検査光景を見せつけられて、立ち上がってしまってテントを張ってしまって元に戻らず、いざ脱いでそれを晒すのとどちらが恥ずかしいか。
46
:
名無しさん
:2019/07/23(火) 11:57:35
「兵隊になる最初の徴兵検査は単なる肉体検査というだけではなく、兵隊(兵隊は自分の意志で動いてはならない)となるための儀式でもあり、「しゃばっけ」を抜き、兵隊であることを肉体に叩き込む場でもあったという。
毎日新聞社刊『写真昭和三十年史』には、大勢のそれこそ一糸まとわぬ壮丁が一列に並ばされている後ろ姿の写真がある。並んだ裸の尻は壮観である。
「しゃばっけ」とは、羞恥心に代表される。二十歳といえば、まだ隠したい最中である。命令一下、さまざまなポーズをとらされる壮丁の羞恥は、M検において最高潮に達する。
なにしろ親にも見せないところを何の容赦もなくむんずとつかまれて、数回しぼるようにしごかれたあげく、むきあげられるのだという。
露出している者もさらに冠状溝までむきあげられるというから、包茎の者には大変なことだろう。ちなみに徴兵検査では六割がまだ包茎だったという。少年のように堅く包まれていて、日本男児のシンボルたるそれを羞恥に縮ませている者には、「活を入れる」と称し、意地悪な検査官なら、むかないかわりに、先端の敏感な部分を刺激して、「ホラ、ホラ、まだだめだ。まだ先が出てこんぞ!」とやる。意志に反して立つと「勘違いしていい気になるな!」と、なぐられる。
そんな羞恥に、あとの者は「もうすぐ自分もあのようにされるのか」と思うと、気が気ではないという。
なお、徴兵検査は婦人会が見学に来たそうで、羞恥にからだがほてるという。また地方によっては、最初から最後まで、身長も体重もすべてフリチンのブラブラで行なったということであり、『絵とき日本陸軍』(三恵書房)には、広い講堂の中で全裸で体重測定を受ける者や、次の順番を待つ者など、羞恥の検査場風景の絵も出ている。なお岩波文庫50『戦争と日本人』が復刻された。この中に徴兵検査の写真があり、全裸で並んだ壮丁の一人だけ前向きで、性器まで見えるということで、知る人ぞ知る伝説的な貴重な写真であるので、ぜひ見られたい。
とにかく丸裸にされた壮丁は、自分のからだが自分のものでないことを知ることになる。そこにぶら下がっているモノでさえ「男子のシンボル」、つまりお国のものであって、婦人会の前でも隠せないということになる。
日本男児と生まれたからには、何人もこの検査場に臨み、しゃばっけを抜かれたうえ兵営に入ったのだ。」
宮崎清隆著「青春監獄―初年兵日記」(東京ライフ社1955)
日華事変当時、軍都長岡における徴兵検査風景・・
渋谷知美著「立身出世と下半身」(洛北出版)では、M検について120ページにわたって、調査した内容を論考しています。また、薔薇族に掲載された笹岡作治の文章も引用されています。ご存じだと思いますが、コメントさせていただきました。
47
:
名無しさん
:2020/01/06(月) 13:26:04
>>46
少年も受けた国民徴用検査
昭和14年 16歳ー50歳 男子
昭和19年 12歳ー60歳 男子
毎日新聞社「写真 昭和30年史」1956.3に、昭和14年の国民徴用身体検査の写真が載っている。
広いどこかの小学校ので広い教室か講堂で、開け放たれた窓、褌一枚すら許されない生まれたまま素っ裸のフリチン
について姿の気をつけてください若者20人くらいが整列に検査官のこれから行う厳しい検査について訓示を受けているところ。検査官の前にはこれから容赦なくM検で剥き上げ、肛門を開いた指を消毒する洗面器が置かれ
これから行われるM検という厳しい身体検査をうかがわせる。
徴兵検査と違って10代から40代まで。
・・40代の男たちの中で、右端のは16、17歳くらいの
ほんの少年。綺麗で細い少年体形、姿態、瑞々しいお尻・・まだ硬く包まれているのだろう・
小沢真人・NHK取材班「NHKスペシャル 赤紙 男たちはこうして戦場へ送られた」創元社1997.7
にも同じ写真が小さいが載っている。
48
:
名無しさん
:2020/01/25(土) 12:44:21
恥ずかしい検査が常識の世界
h ttps://jbbs.shitaraba.net/otaku/16648/
49
:
名無しさん
:2020/07/24(金) 22:57:48
徴兵検査
「風俗奇譚」 昭和37.年8月号「読者サロン」より
大勢の一糸まとわぬ壮丁が整列して、検査官の号令一下行動する検査場のながめは、すばらしいものでした。
徴兵検査でかかせないのはM検で、当時の青年たちの恐怖のまとでした。徴兵検査では、これが公衆の面前で、何の遠慮容赦もなく行われ、軍医の手でつかまれたり、周りで見学している婦人会の人の視線がそこに集まるのを感じて、全身が厚くなる思いでした。当時は、性器の検査は、入試の身体検査や国民体力検査でも行われ、
何度か経験がありましたが、女性を交えてた大勢の前で検査されたのは初めてであり、そのときの光景を思い浮かべ、そのことだけで、徴兵検査が再開され羞恥と屈辱の検査風景画実現してほしいものです。検査が済むと入営です。
入営時の身体検査は体重とM検だけで性器の検査が以下に重視されてたかがわかります。・・
入営後、古兵によって加えられるヤキ入れなど、私刑が皆初年兵を裸体にし、時には褌まで取らせて行われたのは全国同じだったでしょう。・・
h ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/otaku/33/1054372095/
50
:
名無しさん
:2020/08/18(火) 11:15:54
陸軍身体検査規則 徴兵と志願、12歳のM検
[書誌情報]
責任表示:
木谷俊男 編著
出版者:
[木谷俊男]
出版年月日:
2003.2
請求記号:
AZ-666-H3
書誌ID:
000004023794
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板