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美童残酷物語 [菊華の契り]「夜伽」少年花嫁―小姓その夜と昼
1
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 11:24:50
NHKの「大河ドラマ」はじめ、今テレビの時代劇には不可欠な小姓が出てくるのを見たこともない。出てきてもとうのたった侮男だったりひどいのは女だったりする。
殿様が両脇に小姓も据えないで家来の前にでてくることは決してない。いいかげんだ。
同時に小姓は、僧院での稚児や、少年売春での「陰間」など元服前の前髪の美童を愛する「男色」(美童愛)の世界で、
以前は、それこそはっとするような12,3の前髪姿の、えもいえぬ凛々しい美童だったもの。
武家の時代は男の時代だ、小姓さえ出てこない、時代考証もでたらめで、NHK大河ドラマなど、でたらめな女中心の時代ドラマなど全然面白くないし、見たくもない。
まだ声変わりもしない美童。殿様や将軍には必ず小姓がついていたが、小姓は一人とかではなく小姓組みと言うのが会って、30人くらいいておどりとかの練習もしていたようだ。殿様が座る所は、一段高いところで、そこには家老といえども上がれない。殿様以外そこに上れるのはほんの12、3の子ども・まだ毛も生えもしない「小姓」だけ。
小姓には、家老も触れられない、手も握れない、もちろん欲望を感じても愛することもできない。それほど小姓と言うのは特権でもある。小姓から重職になったものは多い。小姓は誰も入れない寝屋・(性行為をする)閨房に入り、しかも同じ布団に寝て、身体のすべてを捧げ、(肛門まで捧げる)小姓・寵童の特権。
江戸時代は日本で衆道文化が最高潮に達した時代。その幕府を開いた徳川家康が、衆道に赴きを持つお方だったから、流行るのも不自然ではない。織田信長には森蘭丸。武田信玄には高坂弾正。上杉謙信には直江山城守。徳川家康には井伊直正(いずれも成人後の名)・・といった具合に「夜伽」の相手がいたのである。
若衆道(衆道・男色)とは、年上の者(兄貴分・念者)が若衆(弟分・美童)を愛することで、殿様以外にも行われ、「契り」が大切で甘えを許されず潔さが求められた道である。
「契り」では、念者と若衆、小姓では主従(殿様と小姓)が結び合う。殿様(正式には神君家康)が精を濡らす事を『御座を直す』と言う。殿様の小姓になるという事は、主君の寵愛を受ける(寵童)ことは小姓の一族郎党の名誉。「お座直し」になるとは、その閨房に侍すことを許され、夜伽をして体を一つにして、その精を受けるということ。
三代将軍家光は、五代将軍綱吉と並ぶ、またはそれ以上の美童狂いで有名。特別男色・美童愛が好きで女色を省みず周囲が世継ぎを心配したという。柳沢出羽守吉保は五代将軍綱吉の小姓として少年時代を過ごした。
7才の時、お目通りし、12歳のとき召し出されお側に仕えることになった、このとき綱吉24歳、すぐ「お座直し」となる。お座直しとは、寵童として寝所に侍り「夜伽」をすること。いわば、少年花嫁としてからだを捧げることである。
2
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 11:31:58
堀田正盛は、少年時代3代将軍家光の「小姓」として仕えた。数え13歳と言うから満11歳で「お座直し」となる。この時、家光は四歳年上の17歳。丁度、今の6年生とか中一と、中学3年生か高一の年頃の二人の男色関係だ。
南條範夫「五代将軍」にも出てくるが、夜伽中抱き寄せられた美童は、愛撫を受けるため帯を解かれる、今と同じで体中に口付けもする、「一節切り」(ひとよぎり、フェラ)もどんな愛撫でも勿論逆らうことはできない。そして肛門で「契り」あう。
このため各藩から藩一の美童の名だたる12、3の少年が献上されたりして、殿様は「小姓組み」を組織し沢山の「美童」を抱えていた。美童は最大の「賄賂」のようなものだったようだ。
役割は殿様の男色の相手として、「夜伽」といって、殿様の閨房に付し愛撫を受ける「寵童」いわば少年花嫁といったところ。
男色の二大秘儀は「一節切」と『義兄弟の契り』、「一節切」とは尺八が間に二節の竹笛であるのに対し、間に一節の一回り小さい笛、まだ一回り小さく柔らかい美童のそれが、それでも、
お口の中で、せいいっぱい膨らみ竹笛のように固くなったものをぴちゃぴちゃ音を立てて口淫愛撫されているさま。
『義兄弟の契り』は、[菊華の契り]ともといって、念友・念者は美童の菊座・菊門をもって固く契り会う。
いずれも今でいえば児童虐待。男女と同じ48手あったという。
男の子のからだのすべてを捧げるまさしく少年花嫁みたいなもの。女色と同じように、美童は[生童」(きわらべ〕・・女色にいう処女・・でなければならない。
男色(少年愛・美童愛)は「小姓」だけでなく、広く武家社会で行われたが、格式の高いもので、美童(若衆)は、誰の手にも染まらず、誰の手垢もつかない、誰の愛撫も
受けていない、もちろん菊座・菊門のほうもだが。生童でなければならない。
殿様・将軍ともなれば、「御座直し」となる美童には、どうするのだろうか。何かあらかじめ心構えとか交悦作法とかの教育をするのだろうか?。誰か前もって、心構えとかと言って味見するのだろうか。そうなると本当は生童でなくなってしまう。そういう場合は生童を装うための作法とかあったのか・?。
殿様・将軍ともなれば、「御座直し」となって「夜伽」する美童(寵童)には夜着を趣好を凝らして選ぶほどのいれよう。
薫り立つ当代随一の美童の侍る初めての「閨房」で、これから思う存分愛撫しつくし凌辱しつくし、自分のものにし宇楠性の行為をするための美童のか細い肉体を包む夜着をすぐ脱がすことは多分無いと想われる。たっぷり美童の美しさ・容色に溺れるのだろう。
多分、これから存分に可愛がる美童だ、その美童が今ここにいるのだ。
そのまだ細いしなやかな柳腰、温〜ずっと柔らかい体、愛撫するときの白雪のような白い肌、細い腰を堅く抱きしめて、夜着の上から撫でさすったり、髪の薫り、肌から匂いたつ美童の薫りを存分に味わい尽くすのだろう。
そして、帯をつけたままの美童の夜着の裾を開き、手を入れるのだろうか。
3
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 11:38:03
そしてすべすべした腿に手を這わすだろう。美童は、恥ずかしさに、あるいは教えられたように(生童を装うため〕、思わず腿を合わすだろう。殿様はそんな恥じらいに愛しくなって、合わせた間にも手を伸ばすだろう、もう殿様のものは木の枝のようになってるだろう、これからすることを予告するかのように、そして心の準備をさせるかのように。そして手は上に行って、下帯の上から・・。
美童の帯に手がかかるのは多分それからだろう。ようやく待ちきれなくなった後、夜着の帯に手が伸びる。そして結び目を解く。そしてどっちが先かは知れぬが、下帯にも手が伸びて解いてしまう!!。
そして、やさしく、夜着の肩をはずしていき、素肌の上から唇を這わせ・・そして夜着をはいでいく・・・・!!。
南條範夫「五代将軍」には、ふとしたことで「小姓」から、金で買われる「蔭間」へと身を落とし、波乱の少年時代をすごす美童のエロスが描かれていて貴重。
「伊丹弥之介、召しつれましてございます。」
[近こう・固くなるには及ばぬ」
備後の守成定貞が、声を掛けたとき、成貞のそばに居流れた人々がふうっとほのかな吐息を漏らした。
弥之介はやさしい衣擦れの音をさせて膝行し。改めて一礼してから顔を上げた。・・
「心憎いまでに美しいの」成貞は満足して呻いた。
[何歳に相成る」
[十四歳になりまする」
微風に鳴る鈴よりも涼しい声で答えると、稚無さを残した小さな唇の間に白い歯が星のように光った。
[喜作、よいか。今宵から」
成貞が、眦を笑わせて言うと、喜作は「もとより」
と頭を下げ、「いかがいたしましょうか。色は」と露骨なことを口にした。
[薄紫はどうじゃな」
「御意、手前もさようにぞんじてました。」大丈夫、生童で通る・と喜作は安堵した。
夜の勤めは、それ自体では関白家におけるものと本質的には違いはなかった。
ただ違ったところは、成貞の愛撫が近衛基照のそれに比べて、著しく執拗でその上、強烈に嫉妬を伴ったことである。
嫉妬を享楽してるようであった。
「余の他の男に許すな」としつこく念を押し誓約を繰り返す。
青山の下屋敷で能楽の会を催した夜、弥之介はまったく無実の罪で、手ひどく苛められた。・・
4
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 11:46:17
床の中で、弥之介を引き寄せた成貞が呼吸を荒らげて言ったのだ。
「弥之、余を裏切り居ったな」弥之介はあきれ。成貞の目つきの鋭さに怯えた。
「殿様、私は決してそんなこと致しませぬ。」
「言うな、覚えがあろう。菊之めと余の目を盗んでいたずらをしおったであろう。」
菊之という侍女が下屋敷に居ることは知っていた、いやその日に知ったのである。下屋敷で一番美しい娘だとうわさしている。・・・
「偽りを申すな「、そちは菊之の肩を抱いて、口を寄せておった、そうであろう。
「とんでもないことでございます。初めてすれ違った女子に何とてそのようなみだらなことを」
成貞はや弥之介の腕(かいな)をつかんだ。「お許しくださいませ、殿様、私は夢サラ覚えのないことでございます。
「まことに覚えはないか」「はい」
「神名に誓うか」「これこのように、菊之めに肌を引き寄せられたことは無いか」
「はい」
「このように、この美しい唇を吸わせたことは無いか」
「決して」
「えい!、まことのことを言え、これこのように菊之めにこの帯を解かせたことはないか」
「まことのことを正直に申せば許す、えい、言え、このようなことを菊之といたしたであろうが」と
行為の一つ一つに、それを菊之と二人で経験したではないかと攻め立て、瑕のつくほど強く掴み、つねり睨んだ。
愛の行為が終わったとき。成貞の異常な興奮は納まった。
「弥之、ゆめゆめ女子と交わってはならぬぞ、いかに内緒にしたとて一度でも女子(おなご)と交わればすぐわかる。女子の匂いは消えついて消えぬものじゃ」
「殿様、私は殿様のお情けを受け、それを命の頼りにして生きております身、そのようなお疑いを受けては、悲しゅうございます。」
5
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 11:52:13
くたくたになった弥之介がそういうと、成貞はようやく満足したらしく、優しく弥之介を引き寄せ、「女子ばかりではない。男も同じじゃ、構えて余の他の男と契るなよ」と呻き、
「弥之、痛かったか。許せ、おお。汗ばんでおるの、よい、余が拭ってつかわそう」と体を起こした。
男色ってすごいこと。また、まず「契り」は最重要なことで、初夜と同じで最初の夜からすぐに行う。この記述はは「契り」をしてるとこだろうか。契りは絶対他の男もちろん女としてはいけないご法度だったのは確か!!。
次は、小姓から「蔭間」に身を落とした弥之介・・水弥・・の話を上記「五代将軍」から・・今までと違って殿様から独占的に愛されるのでなく、金で買われ強姦される、それも昔の下僕に・・
「あ!」振り向いた男の顔を見て、頬から血が引き裾を押さえて、ニ三尺離れようとするのを、相手はしかと弥之介の手首を掴んで引き寄せた・。
「水弥!」と低く太い声で言ったのは神奈川の宿で弥之介の脚の甲に口付けし綿をけられて姿を消した近衛家の下僕重助だった。
「重助」と唇が震えた。
「わしは重助ではない、倉橋屋の重衛門じゃ。お前も伊丹弥之介ではな居。わしに買われ他尾上水弥じゃ。」
「あでやかな色子になったのう!。なぜさっきのように優しく、わしの肩に手を触れぬ。なぜ、衣の裾をそのようにあわせる。」
「私は帰ります・」
「ならぬ1わしはお前の今宵の代価として三両支払った。金剛にも一朱の付けをやってある・むざとはは返さぬ・」
「私は・・」
「お前は色を売る蔭間じゃ、ここでは昔の身分なんて塵ほどの値打ちも無い。銭がものを言うのだ、わしは金を払う客だ。お前の体は存分にする。」
弥之介を引瑕って、足先でふすまを開き、奥の間の床の上につれてった。
「着替えをするがいい」
重助の動作にも生々しい欲情と鬱積した憎悪が感じられた。・・
弥之介の帯を解き放つと、「水弥!、以前わしは、この白い脚に口ずけを許されれば満足するつもりであった。
だが、今はそれでは満足せぬ。お前の体中に口ずけしてやろう。そして、お前にもそのとおりさせてやろう。わしは、お前に
優しい言葉のひとつも掛けてもらえば、肝のつぶれるほど悦んだ。だが、今はお前のからだを思ううさま弄んでやらねば気が済まぬ。
声は荒々しく、動作は益々あらくなった。・・
6
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 12:04:58
[あの美童を探し出せ]屋敷に戻った氏郷は老臣蒲生源佐衛門に厳命をくだした。
数日後、山三郎は、改めて氏郷にお目見え下。-いつぞやの美童、今日殿ニお目見えじゃ。
氏郷は、思わず低く唸った。
[美しいのー、女子(おなご)のようにと言いたいが、女子にもこれほどあでやかなのは居らぬ。源佐どうじゃ?]
「まことに、広き京にも、またとあるまじき。やさしき姿にござります。」、源佐衛門も、心から賛同した。
「山三、今宵から余の伽をせい・」氏郷は、露骨な欲情を口にした。
「薄紫ーーじゃな」閨中に侍らす美童には、その姿態に応じて、薄紫、濃紫、純白、萌黄(萌黄),淡青などの寝衣を着用させたのである。
山三の美しさには紫が似合うと氏郷は感じたのだ、それも薄紫だ。この清潔の中にほのか艶っぽさを秘めた若々しい侍童に最もしあうのは。(同「戦国若衆」徳間文庫)
初めて会った「美童」に惚れ惚れして、家来に命じて探させる。ちょうど神木君みたいな年頃の「美童」と思えば良い。そして会うとすぐに、寵童としての勤め(伽)をさせる。
それも[今宵から]、そして夜着の色まで決める。夜着・・それは女色も同じ・結婚式の夜着と同じで、脱がすのだが、床に入るための物、そこで脱がすためのもの、もう女の子も同じ。多分侍童は、男色の対手として身を捧げる。知って知らずか、床に入るにあたって、花嫁のように跪いて挨拶するのだろう。若い美童好きの殿は、どういう興奮で待ち、迎えるのだろうか?、おお来たか、苦しゅうない入れといって花嫁を迎えるように迎えるのだろうか。
そして、ひとつ床に入る、殿様は美童を自由にする。これから思う存分、体中愛撫することになる美童が側には入ってくる。夜中、時間をかけて目的を達するだろう、少年の芳しい薫りのする美童が傍らに。多分抱きしめ芳しい前髪の辺りから、存分に顔をつけて・・口を合わせ、、そして初夜の花嫁のように、あちこち撫でさすり・・そしてようやく、うすむらさきの夜着の帯に手を掛ける・・・。
南條範夫は、非常にこの分野(美童)の第一人者で、彼の小説には、・・薄紫、濃紫、純白、萌黄(萌黄),淡青などの寝衣の色がでてくる。
初夜の花嫁の夜着よりずっと豪華だが、脱がすために着る、素っ裸にするために着るのは初夜の花嫁と・・そんなことが寵童としての小姓にもいえたのだ。初めて夜伽を命じられた美童のされることを想うと・・!!。いくら、何色を着せられたとしても、その帯に手がかかると、愛撫の手が下のほうに下がってきてまた上がって、その後、下帯にも手が行って、やがて初夜の花嫁みたいにすべての肌を晒して・・喘ぎながら愛撫に身を任せるのは花嫁と同じ。
3代将軍家光は、5代将軍綱吉と並ぶ、またはそれ以上の美童狂いで有名。特別男色・美童愛が好きで女色を省みず周囲が世継ぎを心配したという。柳沢出羽守吉保は5代将軍綱吉の小姓として少年時代を過ごした。
7才の時、お目通りし、12歳のとき召し出されお側に仕えることになった、このとき綱吉24歳、すぐ「お座直し」となる。お座直しとは、寵童として寝所に侍り「夜伽」をすること。いわば、花嫁としてからだを捧げることである。
堀田正盛は、少年時代3代将軍家光の[小姓]として仕えた。数え13歳と言うから満11歳で「お座直し」となる。この時、家光は四歳年上の17歳。丁度、今の6年生と中学3年生か高一の年頃。
7
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 12:17:42
南條範夫「五代将軍」にも出てくるが、夜伽中抱き寄せられた美童は、愛撫を受けるため帯を解かれる、今と同じで体中に口付けもする、「一節切り」もどんな愛撫でも勿論逆らうことはできない。そして[契り]あう。
若衆道(衆道・男色)とは、年上の者(兄貴分・念者)が若衆(弟分・美童)を愛することで、殿様以外にも行われ、「契り」が大切で甘えを許されず潔さが求められた道である。
「契り」では、念者と若衆、小姓では主従(殿様と小姓)が結び合う。殿様(正式には神君家康)が精を濡らす事を『御座を直す』と言う。殿様の小姓になるという事は、主君の寵愛を受ける(寵童)ことは小姓の一族郎党の名誉。「お座直し」になるとは、その閨房に侍すことを許され、夜伽をして体を一つにして、その精を受けるということ
NHK「篤姫」なんか、どこにでもいそうな女に、ただ華麗な衣装を着せこんだだけ、着せ替え人形みたいで、ぜんぜん教養と知性の溢れた「おくゆかしさ」や、「美とエロチシズム」「利発さ・知性」というも感じとれない。
30年代の12,3の惚れ惚れするような、利発で凛々しい少年美・美童(歌舞伎役者の子弟なんかだったと思う)の「小姓」のほうがずっとそれらが見る人を圧倒するように漲っていたものだ。
桐の間御番の御小姓の多くが、綱吉の閨房に侍したことは明白である。元禄4年、綱吉は珍妙な計画を立てた。
桐の間御番の美童のうち、衆童の契りを結んだ一括して収容する寄宿舎を作ってこれを一般の目から隔絶しよう
とかんがえたのである。
桐御殿、とその宿舎の名をつけたが、この御殿は、ほかならぬ柳沢吉保の邸内に置かれたのだ。
桐御殿は、その一ツ橋御門内の新邸の中に設けられたのである。
桐御殿に入るのを「御座直し」という。元禄四年から十年にいたる間に、御座直しとなったもの、数十名、その中には、大名の若君、公卿の子も交わってる。
いつ将軍からお召しがあるかわからぬので、夕方になると美しく化粧して待機している。そのさま、まったく将軍の愛寵を受ける大奥の女と変わらぬ状態だった。(「五代将軍」)
8
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 12:23:30
「男色」(美童愛)の二大秘儀、それは【菊華の契り】と、【一節切(ひとよぎり)】。
9
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 12:33:03
徳川時代で有名なのは徳川家光と堀田正盛(家光の死後、殉死)や阿部重次(同じく家光に殉死)等である。
堀田正盛は少年時代に三代将軍家光の小姓になり、数え13歳で「お座直し」となる。「お座直し」とは寵童として寝所に侍り「夜伽」をすることである。いわば花嫁同然に毎夜求められれば身体を捧げるのだ。このとき家光は17歳で丁度旧制中学1年生と5年生の年頃に当たる。
下って、五代将軍綱吉のとき、かの柳沢出羽守吉保は小姓として少年時代を過ごした。7才でお目通りし12歳のときからお側に
仕えた。このとき綱吉は24歳で直ぐに「お座直し」となる。
「お座直し」になった美童の小姓は夜伽中‥将軍に抱き抱えられ、愛撫を受けるために帯も下帯も解かれる。今と同じで体中に口付けもするし、一節切り(ひとよぎり:フェラチオ)もどんな愛撫でも勿論逆らうことはできない。そして菊門に将軍の肉茎を受け入れ、将軍が達して放つ精を菊門深く受け止めて契り合うのである。
以前、カラーテレビ放送初期の頃、昭和30年代頃、テレビや映画の時代劇では、殿様が出てくる場面には必ず、殿様の刀を捧げ持つ小姓が左右に二人いる。
美しく着飾った小学六年生から中学一、二年生位の利発そうな声変りもしない膚も綺麗な美しい前髪の美童である。これが小姓である。
夜は殿様の男色(美童愛)の「伽」をするのです。
殿様、将軍には12,3〜4の柳腰の美童からなる「小姓組」といってたくさんの美童がいて、殿様の夜伽の奉仕や踊りを受け持つ。
現在殆ど出てこない、出てきても20代くらいのでかい髭が生えてるような侮男である。
女であったりもする。
「ホモと」いうのは戦後の風俗で、戦国時代から明治時代くらいまで、みな『少年愛』(男色)(=『美童愛』)だったんですね。同性愛というのではなく、ごく普通のことだったようです。今テレビの時代劇を見ておかしく感ずるんだけど、昭和30年代後半位のNHK[大河ドラマ]の時代劇で、殿様の刀をささげ持つ「小姓」は、必ず前髪姿のそれは凛々しく美しい、12,3の男の子(美童)だったもの。「小姓」は、元服前の美童でなければならず、男になる前、もちろん声変わり前です。最近のドラマを見ると、いかつい『男』がやってますが、『男の子』でなければなりません。
もちろん『女』・・以前こんなのもよくありましたが・・ではない。戦国時代から江戸時代まで武家は皆ホモというより必ず「少年愛」で、鴎外の「イタセクスアリス」にでてくる『賎(しず)のおだまき』にあるように、少年の方もそれを求められた。
殿様の刀を捧げもつ小姓・・は殿様の「寵愛」を受けています。「小姓」は柳腰の「美童」でなければなりません。男・・成人じゃないんです。昭和30年代くらいのテレビ・映画の時代劇をみればわかります
10
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 12:40:11
武家社会では、大人になる儀式・「元服」というのがあって、15歳。勿論“数え”ですから、「満」でいえば、13,4歳でしょうか。元服は前髪を剃ります。元服前の男の子・・これを『若衆(わかしゅ)』・・現在良く祭りなんかで「若衆」(わかしゅ“う”)といって、20代前後の若者を言うことがあるが、これはもっと若く「ローテイーン」です。・・・この『若衆』つまり、まだ元服前のローテイーンの美童を愛する{性愛の形}を『衆道』といいます。
普通の武士間の男色(衆道)については,「賎(しず)のおだまき」といって、森鴎外の「イタセクスアリス」にちょっとでてくるんですが、末端にいたるまで激しかったことがわる‥後で触れたいと思います!。
これとは違って、「小姓」というのは、「殿様」や「将軍」職専用の、(身の回りの世話とかも兼ねた)男色の相手として「寵愛」される「美童」のこと。
「小姓」というのは、雲の上の殿様その上の将軍専用の「寵童」でもあったわけで、「小姓」も雲の上です。手を付けたりは勿論言葉を交わすこともかなわなかったでしょう。
藩とか、将軍となると全国の中から、それは選りすぐりの美童が集められたのでしょう。「賄賂」に美童を献上したりすることもあったようです・・でも遊びたい盛り10や12,3で、親元から離され献上されるのもかわいそう!。
このように、『小姓』というのは、たいへんなものです。よく昔はテレビでも良く出てきました。あの一段高い場所、あそこに座れるのは殿様と、殿様・将軍に選ばれた12,3の二人の小姓だけです。
一人で、しかも名も知らないような、むくつけき、大の大人・・しかも前髪(若衆髷)でもない(野郎頭)・がやってます・・もっとも将軍自体迫力ないけど,少なくとも子役でなければならないもの。
昔の映画や、カラーテレビが普及しだした昭和30年代終わり頃の『NHK大河ドラマ』には,それは惚れ惚れするような,賢そうで、凛々しい美童の小姓が着飾ってでていました。小学6年生とか、中学1,2年位か、確か歌舞伎役者の家柄の子供もやっていたりしたようです。
北大路欣也(1943生まれ)は、歌舞伎役者・市川歌右衛門を父に持つ役者の家にうまれたのですが、昭和30年代初め、中学生のとき雑誌『少年』(1957)の表紙を飾っていたほどの美童でした。そして映画『富士に立つ影』(1957)や「父子鷹」(1956)に出演。『富士に立つ影』では、小姓・玉置左之助を演じていました。
同じ頃1957年の東宝映画『危し、伊達六十二万石』のビデオを見ても、小姓は本当に小さいです。昔の映画やテレビは、そういう意味で手抜きが無いといえます。今や時代劇には、「プロ」としての「不勉強」や「手抜き」は目に余るものがありまが、その点今の大河ドラマなどは、『小姓』を見ても、いかに手抜きがまかり通っているといえるのではないでしょうか。
女の人の風俗・美とされてるものの中には、男の子の美・男色から来てるのがたくさんあります。『柳腰』の他、「振袖」もそのひとつ。柳腰とは男色において、12,3の少年の細くしなやかな腰(尻)つきをいったもの。
「振袖小姓」とか言われるように、昔小姓とか陰間とかが着ていたもの。小姓も踊りや、普段でも着ていた。陰間は振袖・・あれは女装してるんじゃなくて、もともと男の子のそうした衣装。振袖火事(明暦の大火)というのは、二つあって、明暦の大火と、そのすぐ後の八百屋お七の火事、いずれも振袖と関係あって、それは寺小姓の振袖。現在、七五三の男の子の袖が長いのは、こうしたもともと男の子の衣装だったという由来による。
振袖は江戸初期(400年前)の芸能人、特に踊り子の風俗より生じたと考えられますが、それを娘達が真似をして大流行し、やがて振袖といえば娘を意味するようになったのですが、当時は元服前の少年で男になりきらない、若衆や小姓、陰間達も振袖姿で中性的な装いをするのが習慣となっていました。現在七五三の男の子の袖が長くなっているのも、当時のなごりです。
11
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 12:45:38
以前は、それこそはっとするような12,3の前髪姿の、小学六年生とか中一位のえもいえぬ凛々しい美童だったもの。
武家の時代は男の時代だ、「小姓」さえ出てこない、時代考証もでたらめで、NHK大河ドラマなど、でたらめな女中心の時代ドラマなど全然面白くないし、見たくもない。
勿論、男色「(美童愛)」の中心で、「小姓」とは元服前のまだ声変わりもしない肌も女以上にきめ細かく綺麗な、綺麗な美童、若い殿様の寵愛を受け「夜伽」といって殿様と一緒に一つ布団で夜の白むまで「菊華の契り」や「一節切り」など、
腰も細くすんなりして、そのぴちぴちした薫り立つ「美童」の体の全てを捧げて愛撫を受けることはいうまでもない。
12
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 16:02:52
医学部の強い大学などでは、検査の周りに女子などの医学生が何人も見学していたと言う話もある。
身体検査科目に「性病等の伝染性疾患・・・についての医師による検査」とあれば M検,すなわち全裸になっての金玉検査があります。自衛隊とか防衛大等も数年前までは,身体検査科目に「伝染性疾患」と書いてあったので,当然やっているはず
です。昔は衛生状態が悪かったので,大学でも伝染性の性病をおそれ,金玉検査をやっていたと先輩の医師に聞いたととがあります。だから,受けるほうも身長,体重とかレントゲン検査,血圧や眼科,歯科などを受けるのと同じ感覚で当然と
思って,受けたそうで「性器を晒すことが死ぬほど恥ずかしい」なんていう感覚はなかったみたいです。ちなみに,M検とは,医師の前でパンツも脱ぎ マッパで医師の前に立つと,医師が金玉を軽く握り,グリグリとやってから包皮を棹の根元まで目一杯剥き,亀頭とか亀頭後ろの溝におできができていないか調べ,そのあと棹の付け根の尿道の下に右の人差し指をあてて
棹の先に向かって尿道をかなりの力でしごくんだそうです。それを5〜6 回やって膿が出てこなければ病気ではなく合格だそうだ。
昔は衛生状態が悪かったので,大学でも伝染性の性病をおそれ,金玉検査をやっていたと先輩の医師に聞いたととがあります。だから,受けるほうも身長,>ちなみに,M検とは,医師の前でパンツも脱ぎ, マッパで医師の前に立つと,医師が金玉を軽く握り,グリグリとやってから恥ずかしいよね!!
慶応では,学科試験の後,「明日は身体検査を行います。全てを検査します、清潔にしてきてください。」といわれる。当日,20人一組としパンツ一つで並ぶ,。
まず最初の者がモデルになって型を説明,。終わるとすぐ恥ずかしいから穿いているもの、パンツを取り去り本当の検査を受ける。人前でパンツを脱ぐなど死ぬ ほど恥ずかしいおぼっちゃんでも順番が来たら直ちに脱ぎ去って、ありのまま、男の子であることを晒して 前に立つ。
浪人のオスじみたものと違って、現役生のまだ綺麗な一糸纏わずの少年の肌、少年の裸身、露わになった、これから起こることに、羞恥に震える、露わになったそのきれいな下腹の平原にはまだ中学生と変わらぬ少年のすんなりしたアクセントが羞恥に震えている、これから残酷な検査を受ける性器が突き出ていて確かに少年であることを示す、そこだけ黒いものが。
まだ女を知らない、勉強とオナニーしか知らない、穢れを知らない朝顔のつぼみのような剥き出しになった少年のそれは初めて他人の指で剥きあげられる・・あっ!と身を引く
生まれて初めて男になったピンク色のそこにはいけない行為にふけった証拠の白い恥垢がいっぱい
終わると、すぐ全裸のまま肛門検査のため手脚を拡げて、四つん這いの姿勢をとる、ひざは曲げないで伸ばしたままである。
シミ一つない綺麗なピチピチした少年のお尻、肢体、そのぴちぴちの尻タブを両方の掌でもってぐいと拡げ菊門を拡げて中を検査を行う。
M検で不合格になった者として,痔婁(千葉大),副睾丸炎(神戸大)その他がある。徴兵検査の型を踏襲し、包皮は環状溝が出るまでばっちり剥き上げられる。
13
:
名無しさん
:2019/06/21(金) 16:04:23
>>12
まちがいですまちがいです
14
:
名無しさん
:2019/06/22(土) 08:41:13
いつの世にも、まだ声変わりもしない13歳の少年、その穢れをしらないしなやかな肢体、裸身、細い腰、白桃のような柔らかいお尻
無毛の綺麗なわずかに膨らんだ女の子より綺麗な少年の下腹の平原に、少しばかり大きくなった肉の袋とアクセント、
その付け根に萌芽の兆しもあるか無きか、だらり垂れ下がるまだ肌色の穢れを知らない6,7センチの、
大きくもなく、小さくもない
それはこの世のものとは思えない、
儚い短い少年期の男の子だけが持つヒミツの儚い芸術作品。
15
:
名無しさん
:2019/06/22(土) 08:48:07
柴山肇「江戸男色考」(悪所篇、若衆篇、色道篇) 批評社1993に詳しい。
花咲一夫「江戸の蔭間茶屋] 三樹書房1982
平塚良宣「日本における男色の研究」 人間の科学社1987
樋口清之「史実 江戸」 芳賀書店 1967
稲垣足穂 「少年愛の美学」河出文庫 河出書房新社1991
南條範男「五代将軍」(双葉文庫 な04ー2、) 双葉社
16
:
名無しさん
:2019/06/22(土) 08:56:49
賤のおだまき 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
ttp://kindai.ndl.go.jp/index.html
こちらから見れます。
1. 賤のおだまき / 著者不詳,市村丁四郎, 明18.8
2. 賤のおだまき / 著者不詳,野村福太郎, 明18.10
3. 賤のおだまき / 著者不詳,精文堂, 明20.8
17
:
名無しさん
:2019/06/23(日) 19:54:08
郷中(ごちゅう)制度が、明治に入ってどうなったか関心がありますが、司馬遼太郎によると、郷中(ごちゅう)制度は、明治に入って、西郷隆盛が明治7年に作った「私学校」に引き継がれたのだという。
つまり、「私学校」という郷中制度(若衆宿)を復活させた、それが西南戦争のきっかけとなったといいます。
幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この「郷中制度」を中心に「男色】(美童愛・稚児愛)が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された一方で、硬い関係で結ばれていたといいます。
司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べています。薩摩士族の若衆宿が「郷中」と呼ばれるもので、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で深く結ばれていたのだという。
18
:
名無しさん
:2019/06/23(日) 19:57:02
「私学校」は士族の子弟の教育を目的としたもので、生徒は800人いたそうだ。この学校の分校は市内に10校、県下に136校あったといい、これが、西南の役(明治10年)における主な薩摩軍の戦士は、私学校生徒だっとという。
「田原坂の美少年」の像があるように、今の中学生くらいの少年(稚児)がたくさんいたようだ。ただ、私学校は4年間程度だったので、その後どうなっていったかです。
なお、明治維新後、薩摩人が持ち込んだと思われる「男色」は広く学生間や巷でも行われたという。生方は『明治大正見聞史』の中で、明治期の薩摩の学生の男色の結び付きたる【鶏姦」が広まっていたという。
明治5年には、それを取り締まる「鶏姦律条例」ができたことはかなり行われ社会問題であったことがわかる。「鶏姦」とは少年相手の契りで、肉体関係のことだが、これは明治13年に廃止された。
19
:
名無しさん
:2019/06/23(日) 20:00:42
薩摩の「郷中」では、「男色」として普通に、12,3〜4の「稚児」さんに対して15歳以上20代の年長の「二才」(にせ)が、この肉体の絆で深く結び合っていたのだろう。
今は変わったようだが、かって鹿児島には東大合格全国一として当時有名だったラ・○ールという「全寮制男子中高一貫教育校」のミッションスクールが在りました。
昭和40年代の朝日新聞連載【今、学校で・・高校生】によると、そこで「郷中制度」に倣って、【御中制度】というのをスタートさせたという。上級生が、下級生と一緒になって指導する制度だという。
全国から「東大合格」を目指して秀才の、「中学生」になったばかりの一年生が親元を離れてくる。でもまだ12,3、夜消灯するとホームシックに布団の中からはあちこちで啜り泣きの声が漏れ、枕を濡らすという。
20
:
名無しさん
:2019/06/23(日) 20:04:08
寮には寮生が通称『小姓制度』と呼ぶ風習があると言う。 夜,消灯すると、中学生と、高校生との交流がはじまるという。 .記事によると、高校生はそんなひげも生え揃わない中学生の傍らに寝るとそっと抱きしめ、涙を拭いてやさしく慰めてあげるのだそうだ。
そして、可愛い「稚児」さんの写真をいつも大切にしまってみていると言う高校生の生徒のことを紹介している・・。昔の全寮制旧制中学(男子・五年制)では、こんなことがあたりまえだったのだろう。
(参 考)
司馬遼太郎「南方古俗と西郷の乱」日本書籍株式会社1979
司馬 遼太郎「古住今来」(中公文庫)1996
尾崎士郎 「私学校蜂起」[河出文庫)
池辺正太郎「西郷隆盛」 (角川文庫)
生方敏郎 「明治大正見聞史」(中公文庫M81)1978、1995(原本は1926)
氏家幹人『武士道とエロス』(講談社新書)
礫川全次編「男色の民俗学」(歴史民俗学資料叢書 第二期 第三巻)批評社2003
五代夏夫 「薩摩秘話」南方新社(鹿児島)2002
21
:
名無しさん
:2019/06/23(日) 20:13:38
平田三五郎の墓(三五郎塚)
平田三五郎は実在の人物で、墓は今でも子孫が墓参りしているそうです。財部町の史跡に指定されている。平田三五郎の墓が鹿児島県曽於市財部町北俣の古井荷込坂の上に在って、[三五郎塚]と云う。
財部町の観光課によると、財部駅からタクシーで10分だそうです。(古井・こい)
JR日豊本線財部駅から、財部南郵便局がある馬立を目指す。馬立の理髪店の角から古井へ向かって1.5キロ、橋を渡って、次の小川を渡った左前方、先の古井十字路まで行かない坂を手前で左にはいる。(東九州自動車道では 末吉財部IC)
h ttp://www.mapion.co.jp/phonebook/M16006/46217/L0804350/
拡大とドラッグして動かせる。
22
:
名無しさん
:2019/07/11(木) 23:12:04
綱吉はその生涯で、名前が知られているだけで36人の美童を寵愛したそうですが、その多くの美童の中で特別な寵愛を受けたのが柳沢吉保です。
彼は綱吉に寵愛されることで、一介の小姓から将軍の側用人に取り立てられ、綱吉の側近として幕府内で権勢を振るい、晩年は甲府15万石を領し、松平姓を許される老臣の地位まで登り詰めたのです。
吉保は15歳(数え)のとき、館林藩主であった綱吉に初めてお目見えします。
綱吉は一回り上の27歳で、当時、房安(ふさやす)と名乗っていたこの少年の美貌に一目惚れし、直ぐに小姓として召し抱えます。
小姓となった房安は、まもなく「お座直し」になります。
お座直しというのは小姓や側室が主君の夜伽の相手を務めるようになることを意味します。
通常、小姓が主君の夜伽の相手をするのは元服前の前髪姿の頃で、前髪を落として元服すると「御褥(おしとね)御免」になり、閨房の務めから解放されます。
当時の男色というのはオトナの男が年下の少年を愛するのが基本で、少年が前髪を落として元服して一人前の男となると最早、性の対象とはみなされなかったのです。
しかし、房安の場合は17歳のときに前髪を切って元服し、家督を継いで保明(やすあき)と改名したのちも綱吉の枕席に侍ったそうで、それだけ綱吉の寵愛が深かったことが窺われます。
綱吉はまた愛妾のお伝の方と愛童であった房安を自分の左右に寝かせて同衾したといわれています。
3Pという奴ですね。
寵童である房安の見ている前で愛妾のお伝の方を抱き、房安が快感によがり泣くお伝の方の狂態を眺めて興奮する様を楽しみ、お伝の方を抱いたあと、
興奮のあまりフンドシの前を突っ張らせている房安を抱き、先走りで濡れているビンビンにおっ勃った房安のイチモツをしごきながら、その菊門を犯して愉しむ。
そして房安が堪え切れずに上げる苦痛と快感の入り混じったあえぎ声をお伝の方に聞かせ、お伝の方が興奮してしとどに濡れる頃を見計らってまた彼女を抱く。
あるいはお伝の方と房安に命じて自分の見ている前で交わらせ、最初は恥ずかしがっていた二人が次第に快感に我を忘れて行為に没頭していく様を見て愉しみ、
お伝の方と交合している房安の背後に回って彼の菊門を指で弄び、菊門がほぐれたところでおのれの陽物でその菊門を差し貫き、
お伝の方と綱吉のサンドイッチの具状態になった房安を犯しながら、房安が苦痛と喜悦にあえぐのを見て愉しむ。
等々、痴態の限りを尽くしたものと思われます。
23
:
名無しさん
:2019/07/11(木) 23:17:10
その後、第四代将軍家綱が没し、世継ぎがなかったことから、家綱の弟である綱吉が第五代将軍に就くのですが、
将軍になってからも綱吉の男色趣味は下火になるどころか、ますます勢いを増していきます。
綱吉は能楽を好み、能役者や狂言師を数多く京から呼び寄せたのですが、能役者の中の容貌美麗な者は、綱吉に「芸よりも尻にてご奉公」するようになります。
しまいには能役者だけでは足らなくなって、旗本御家人の子弟の中から美童の噂高い者を召し出して、能楽、小鼓、太鼓、笛などを教え込んだといいます。
これらの美童たちは「桐の間御番」と呼ばれたそうですが、綱吉は、元禄4年に桐の間御番の美童の中、お手付きの少年だけを集めて別の宿舎に収容します。
この宿舎は「桐御殿」と呼ばれたそうですが、なんとこの桐御殿はかっての寵童、柳沢保明の屋敷内に置かれたそうです。
このとき柳沢保明は33歳、当然のことながら、とっくの昔におしとね御免になっていますが、綱吉の寵愛は変わらず、綱吉が将軍になってからは、禄高三万二千石を賜り、お側御用人に取り立てられています。
この桐御殿には数十人の美童が収容されたそうですが、彼らは柳沢家士の厳重な監視の下に置かれ、夕方になると美しく化粧して、いつ綱吉のお召しがあってもいいように待機していたといいます。
つまり桐御殿は綱吉のための美少年のハーレムだったわけですが、このハーレムをかっての寵童、柳沢保明に監督させたのは、やはり蛇の道は蛇、というか、
綱吉の男色に関する趣味嗜好を知り尽くしている保明に預けるのが一番相応しいと考えたのでしょう。
この頃、保明自身、大名として小姓を抱える身分になっていたのですが、その小姓の中からも何人かの美少年がこの桐御殿に入ったといいます。
この時代、家臣のお手付きの美童を将軍に献上するのは将軍に対して失礼にあたるということでタブーだったそうですが、綱吉は保明の寵童だった少年と契ることに抵抗がなかったといいます。
かって自分の寵童だった保明が寵愛した美童を自分もまた寵愛することで、保明に対する変わらぬ愛を確かめていたのかもしれません。
将軍綱吉は寵臣である柳沢保明と美童だけでなく、女性も共有していたという噂があります。
江戸中期の実録体小説「護国女太平記」によると、保明の側室の染子は綱吉のお手付きの女性で、綱吉によって保明に下賜されたそうで、
保明の側室になったあとも綱吉と関係を持ち続け、染子の生んだ保明の嫡男、吉里の本当の父親は将軍綱吉だったということになっています。
これはあくまでも俗説であって、史実とは異なるそうですが、そのような噂が出るほど、綱吉と保明の中が親密であったということでしょう。
中国の史家、司馬遷は、容色が優れているという理由だけで、能力のない人間を高官に引き立てて、国政に関与させることの弊害を説いていますが、
柳沢保明の場合、非常に有能なテクノクラートで、頭の切れる人物であったといわれています。
ただ彼はその頭の良さを天下国家のために使わず、ひたすら綱吉へのゴマすりとみずからの私利私欲のために用いたのです。
たとえば、綱吉が天下の悪法、生類憐みの令を発令したときには、忠臣としてその愚挙を諌めるどころか、唯々諾々としてそれに従っています。
生類憐みの令が出されるようになったそもそもの原因は綱吉の側室、お伝の方が生んだ世継ぎの男児、徳松が4歳で早世し、その後、中々、世継ぎが生まれなかったことにあります。
このことを心配した綱吉の生母、桂昌院は隆光という僧侶に頼んで世継ぎ誕生の祈祷をさせたのですがいっこうに効果が現れません。
するとこのインチキ坊主は自分の法力の無さをごまかすために、
「綱吉公に世継ぎが生まれないのは前世で多くの殺生をなした報いである。そのため世継ぎを得るためには生き物を愛護し、殺生を禁じなければならない。綱吉公は戌年生まれなので、特に犬を大切にする必要がある」
と進言したのです。
24
:
名無しさん
:2019/07/11(木) 23:23:05
偶然にも保明もまた綱吉より一まわり下の戌年でした。
この「生類憐みの令」は何度も発令されたのですが、その度に内容が厳しくなり、しまいには鳥を撃っただけで切腹を命じられたり、犬を斬っただけで打ち首になったり、猫を傷つけただけで流罪になるなどしたそうです。
この愚劣な法令は綱吉が死ぬまで22年間も続いたそうですが、綱吉を継いで次期将軍となった家宣は将軍職に就くと同時にこの悪法を廃止し、
それによりこの法令に違反して牢に入れられていた者6737人、遠島追放禁極の刑に服していた者8634人が赦免されたといわれています。
保明はまた綱吉の生母、桂昌院が朝廷から女性最高位の従一位の官位を賜るように自分の側室である公家の娘、町子を通して朝廷に働きかけ、それに成功したといわれています。
桂昌院というのは元はといえば京の八百屋の娘だったそうで、そういう下賤の出身にありがちな名誉欲の強い人間だったみたいです。
そのため、それまでの徳川家の女性としては最高位の従一位に叙せられたことを非常に喜んだといいますが、
この功績により保明は本来ならば徳川一族の人間にしか許されない松平の姓を名乗ることを許され、名前も綱吉の「吉」の字を取って吉保と改名します。
この頃が柳沢吉保の全盛期で、幕閣の実力者として大老格の権限を振るう彼に楯突くことができる者は一人もいなかったそうですが、
元禄14年に起こった赤穂藩主、浅野内匠頭の殿中刃傷事件では、事件の内容を十分に吟味することなく浅野内匠頭に即日、切腹を命じる一方で、
他方の当事者、吉良上野介にはお咎めなしの片手落ちの処分を行ったことで批判され、忠臣蔵の芝居や映画では悪役にされています。
綱吉に世継ぎの男子が生まれる気配がないことから、そのまま行くと次期将軍は水戸光圀公が強力に推していた三代将軍家光の孫で綱吉の甥にあたる甲府藩主、松平綱豊が就任する可能性が強かったのですが、
お伝の方は自分が生んだ綱吉の唯一の実子である鶴姫の婿である紀州藩主、徳川綱教を次期将軍にすることを望み、綱吉もそれに賛成します。
柳沢吉保は、お伝の方と綱吉の意を汲んで綱教を次期将軍にするための工作を開始するのですが、鶴姫と婿の綱教が流行り病に罹って呆気なく死んでしまったことからこの計画はとん挫してしまいます。
綱教が死んだことから、綱吉は結局、松平綱豊を後継者に指名せざるを得なくなり、綱豊は江戸城西の丸に移り、徳川家宣と改名します。
そして柳沢吉保は綱豊が次期将軍となることで藩主が不在になった甲府藩の新しい藩主に封じられ、15万石を賜るのです。
甲府藩主に徳川一族以外の人間が封じられた前例はなく、この人事は極めて異例のことだったそうですが、綱吉としてはそのような形で寵臣吉保の長年の忠誠に報いたかったのでしょう。
徳川家宣が次期将軍に決定したあとは、吉保は早速、家宣にゴマをすりはじめるのですが、
家宣は吉保が家宣のライバルであった綱教を将軍にするために様々な工作を行ったことを知っていて、綱吉の死後、将軍職に就くと直ちに吉保にお役御免を申し渡します。
その結果、吉保は家督を嫡男の吉里に譲って引退、5年後にひっそりと亡くなりますが、嫡男の吉里が吉保から受け継いだ領地を召し上げられることもなく、
甲府藩主として無事に一生を終えることができたのは、吉里=綱吉のご落胤説が流布していたことと無関係ではないでしょう。
25
:
名無しさん
:2019/07/14(日) 20:29:12
・徳川時代で有名なのは 徳川家光と堀田正盛(家光の死後、殉死)や阿部重次(同じく家光に殉死)等である。
・堀田正盛は 少年時代に3代将軍家光の小姓になり、数え13歳で「お座直し」となる。「お座直し」とは寵童として寝所に侍り 「夜伽」をすることである。いわば花嫁同然に 毎夜求められれば身体を捧げるのだ。このとき家光は17歳で 丁度旧制中学1年生と5年生の年頃に当たる。
・下って 5代将軍綱吉のとき、かの柳沢出羽守吉保は 小姓として少年時代を過ごした。7才でお目通りし 12歳のときからお側に仕えた。このとき綱吉は24歳で 直ぐに「お座直し」となる。「お座直し」になった美童の小姓は 夜伽中‥将軍に抱き抱えられ、愛撫を受けるために 帯も下帯も解かれる。今と同じで 体中に口付けもするし、一節切り(ひとよぎり:フェラチオ)もどんな愛撫でも 勿論逆らうことはできない。そして菊門に 将軍の肉茎を受け入れ、将軍が達して放つ精を 菊門深く受け止めて契り合うのである。
26
:
名無しさん
:2019/07/20(土) 07:49:20
「小姓」といって映画で殿様の側で刀をささげ持つ前髪の少年、今では薹のたった男だったり、ひどいのは女がやっていたり、たいてい前髪でも無いが、昭和40年代位 までのテレビでは、12、3のそれはほれぼれするくらい美しく凛々しい中学1年か小学6年生位 の少年(「美童」という)の前髪姿だった。これも「男色」といって少年性愛の形で少なくとも肛門性交は欠かせない。このため各藩から藩一の美童の名だたる12、3の少年が献上されたりして、殿様は小姓組みを組織し沢山の美童を抱ていた。美童は最大の賄賂のようなものだったようだ。役割は殿様の男色の相手として、「夜伽」といって、殿様の閨房に付し愛撫を受ける「寵童」いわば少年花嫁といったところ。 男の子のからだを捧げるまさしく花嫁みたいなもの。
3代家光、5代綱吉などは特別男色・美童愛が好きで女色を省みず周囲が世継ぎを心配したという。柳沢出羽守吉保は5代将軍綱吉の小姓として少年時代を過ごした。
7才の時、お目通りし、12歳のとき召し出されお側に仕えることになった、このとき綱吉24歳、すぐ「お座直し」となる。お座直しとは、寵童として寝所に侍り「夜伽」をすること。いわば、花嫁としてからだを捧げることである。堀田正盛は、少年時代3代将軍家光の小姓、数え13歳でお座直しとなる。この時、家光17歳。丁度、旧制中学1年生と5年生の年頃。5代将軍にも出てくるが、夜伽中抱き寄せられた美童は、愛撫を受けるため帯を解かれる、今と同じで体中に口付けもする、一節切りもどんな愛撫でも勿論逆らうことはできない。そして契りあう。
27
:
名無しさん
:2019/07/20(土) 07:55:31
柴山肇「江戸男色考」(悪所篇、若衆篇、色道篇) 批評社1993に詳しい。
花咲一夫「江戸の蔭間茶屋] 三樹書房1982
平塚良宣「日本における男色の研究」 人間の科学社1987
樋口清之「史実 江戸」 芳賀書店 1967
稲垣足穂 「少年愛の美学」河出文庫 河出書房新社1991
南條範男「五代将軍」(双葉文庫 な04ー2、) 双葉社
28
:
名無しさん
:2020/11/04(水) 08:27:42
賎のおだまき考 : 少年13歳・少年美と少年愛の系譜
図書 木谷俊男 編著. [木谷俊男], 1998.10 <EF91-G289>
29
:
名無しさん
:2020/11/04(水) 09:13:46
賎のおだまき考 : 少年13歳・少年美と少年愛の系譜
図書 木谷俊男 編著. [木谷俊男], 1998.10 <EF91-G289>
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