したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

賎のおだまき・武家の時代の男色

117名無しさん:2011/07/17(日) 09:11:43
「賤のおだまき」というのは「容色無双」と呼ばれた美少年の平田三五郎宗次と
文武両道に秀でた吉田大蔵清家の男色の契りの物語だ。この物語はほぼ史実に基づいており、三五郎も清家も実在の人物である。
数えだが、13歳の藩一の美童・稚児である平田三五郎と、10歳年上、23歳の「二才」(にせ)大蔵との男色関係の話です。「二才」という言葉もでてくる。
13歳といえば、今では6年生から中1くらいでしょうか。

関ヶ原の戦い前頃の物語で、薩摩に実在した無双の美童・平田三五郎と吉田大蔵清家が「義兄弟の契り」を結び、生死をともにする内容。平田三五郎は、庄内合戦(1599)の折、財部で十六歳の若さで戦死したことになっており、実際に曽於郡財部町(現在は市町村合併で曽於市となりまた)には、お墓が残っています。
森鴎外「ヰタ・セクスアリス」では、学生の間でお稚児趣味があったのは普通であったことが、触れられているではないか。

薩摩藩の「郷中教育」は男だけの閉鎖社会ですから、こうした美しい稚児への憧憬が衆道とある程度重なってくるのは致し方ないですし、二才と稚児では年齢差もあって、往々にしてそのような関係が生じてもおかしくない。
郷中の二才と稚児は男色関係で結ばれている。

幕末まで薩摩では、尚武の気風を重んずる薩藩士道に基づき、この「郷中制度」を中心に「男色】(美童愛・稚児愛)が盛んに称揚され、女との交際や関係は卑しく汚らわしいものとして嫌悪ないし忌避された一方で、硬い関係で結ばれていたといいます。

司馬は薩摩私学校の実態を「士族若衆組」であったと述べています。薩摩士族の若衆宿が「郷中」と呼ばれるもので、年少のメンバーを稚児、年長のメンバーを二才(にせ)と呼び、稚児と二才は男色関係で深く結ばれていたのだという。

薩摩の「郷中」では、「男色」として普通に、12,3〜4の「稚児」さんに対して15歳以上20代の年長の「二才」(にせ)が、男色という肉体の絆(義兄弟の契り)で深く結び合っていたのだろう。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板