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このままでいいの?【日本の教育】いいんだ!

1迷彩スネーク:2003/08/03(日) 14:53 ID:ATdYX.j2
ゆとり教育・性交人形・いじめetc・・・とやばすぎる(orこれでいいんだ)と考える皆様、ご意見をお聞かせ下さい。

2迷彩スネーク:2003/08/03(日) 22:43 ID:ATdYX.j2
過熱する性教育

http://www.worldtimes.co.jp/wtop/education/030727/030727.html

ご覧下さい

3主宰@ryu:2003/08/03(日) 23:04 ID:hfGvtphQ
この人形前に授業参観で使っていた学校がTVで放映されてたことを数年前偶然見ておりました。
現代ではマツキヨなんかに行けば簡単にコンドームが手に入りますし、性の低年齢化、
特に小学生の初体験が増えておりますが、私としては小学生からの性教育には賛成です。
しかし、きちんとした教育、面白可笑しく教えるのでは無く、コンドームを
しなければならない理由、または性交の乱発のデメリット、ただ快楽を
求めすぎたツケなどをきちんと享受すべきです。
問題の画像の人形ですが使い方によりますね。
子供はどうやって出来るのかという事はきちんと教えるべきだと思います。

4山田:2003/08/03(日) 23:11 ID:hz4ny5E6
今の子供がどんな性教育を受けているのか、子供のいない私にはわからないが、現実の性行為がかなりオープンになってきているのは確かだ。
ただ、若い人に避妊やエイズ予防に対する知識が全然なく、中にはピルさ知らない人もいる。
私は中学一年のとき、スエーデンの学者の書いた「ちびっ子猛語録」という実用本をクラスで読みまわしして、議論なんかもしたが、とても勉強になった記憶がある。
なにごとも、「頭ばっかりでも、体ばっかりでもダメ」なのだが、どうも最近は体だけの捨て身の性行動が目立つ。
これも、ゆとり教育の賜物なんだろうか?

5主宰@ryu:2003/08/03(日) 23:23 ID:hfGvtphQ
逆にピルを過信し過ぎる少女もおりましてピル飲んだから何でもOK!と
思っている輩も多いです。
去年、足にイボが出来てしまい皮膚科に行った事があったのですがそこは泌尿器科も
含んだ病院でして、受付に若い男性が「すいませーん!性病にかかったっぽいんでーす。
まあ大した事無いと思いますけどー」と大勢の人の前で堂々と言ってのけた
事をよく覚えています。
羞恥心が無いと言えばそれまでですけれども性病に対する危機感が足りなさすぎると思いました。

6山田:2003/08/03(日) 23:49 ID:hz4ny5E6
確かにピルの副作用は未解明な部分が多いのかもしれませんね。
コンドームだって、破れることもあるし。
古い考えかもしれませんが、女の人は、男性に比べて、セックスのリスクが高いことをよく意識して、自分を大切にすべきだと思いますね。

7国益:2003/08/04(月) 00:06 ID:rPiRF.LI
歪んだ性教育を行った責任者を処罰してほしいです。
性に対して正しく向き合わなくては駄目ですよね。ともかく出会い系サイト、迷惑メール、漫画、週刊誌等で一方的で歪んだ性情報を中高生でも簡単に手にはいるような状況は阻止すべきです。

8ナゾの男:2003/08/05(火) 01:58 ID:L8TdmTMM
3ー>ryuさん
 てか、マツモトキヨシ行かなくてもファミリーマートにもあります。無印良品の。
いや・・・ダイソーにも売ってます。


 ところで思うんですけど学校での安易なインターネットの使用を何とかして欲しいです。
インターネットは小学生のうちに使うべきじゃありません。

 検索エンジンでは勝手に有害サイトが引っかかるし、誹謗中傷はたまにあるし
、掲示板では喧嘩屋がうろついてる事があるし・・・。

 私の弟が調べ学習としてインターネット使ったんですけど、グーグルでぱっとモニターにでてくる
インターネットで調べ学習とは・・・。

 もう少し大きくなってからネット上にころがる情報のことをしっかり教えてから使わせるべきでしょう。

9平山薫:2003/08/08(金) 01:58 ID:8EmrmanQ
親・教師・地域社会とも、教育に対して無責任な人が多い。
今と昔と状況が変わらなくても、与える影響が違う。
学歴や社会的な地位の影響が薄くなってきている。
マスコミが興味本位で余りにも細かく不要な報道をしてしまう。知らなくて良い知恵を付けさせてしまう。

子供に〜をさせる、子供から〜を禁止させる、法律によって〜を規制する。そんなことは大して意味はない。むしろ、大人達がもっと慎重に勇気を持って子供達と接する必要がある。

10主宰@ryu:2003/08/08(金) 08:46 ID:hfGvtphQ
そもそもゆとり教育という題名から意味不明。
土曜日を休業日にする=ゆとりになるとはあり得ない。
暇になるだけ。
2年前まで高校生でしたが土曜日が完全休業日になった頃で、とある高校では土曜日の
授業のしわ寄せが平日にのし掛かり7時間目まで授業がある学校があり、
そこの生徒はかなりキツイと言っていました。
結局カリキュラムの都合上、土曜日を休みにしたらその負担が他の曜日にのし
かかり、生徒の疲労感・集中力増大を助長するだけなのです。

後は今時の学生は本当に学校に全幅の信頼を置いて勉強しているとは到底思えません。
塾に通う必要は無いと豪語する私立進学校でも大半が予備校・塾に通っております。
私は学校よりも塾中心でしたね@大学受験
この教師と生徒の差も激しい。

11主宰@ryu:2003/08/08(金) 08:59 ID:hfGvtphQ
集中力増大→集中力欠如の増大

12国益:2003/08/08(金) 19:57 ID:8dirvjcI
ゆとり教育で僕が一番危惧しているのは、私立との差がより一層広がるのではないかということです。ゆとりとは裏腹に近年中学受験が過熱してきています
平等という名の下、行われたゆとり教育がさらなる格差を意図的に広めようとしている。
まさにブラックユーモアです。このままでは日本の階層化が進んでいくのではないでしょうか

13迷彩スネーク:2003/08/08(金) 21:32 ID:ATdYX.j2
我国の性教育は性交時にはコンドームをつけましょうやピルを飲めば子供が出来ません、といった実用的な性教育ばかりです。まるで小学生や中学生に妊娠したり性病にかからなければヤリまくっていいですよ、という教育のように思えます。だからこそ性教育の乏しかった時代よりも未成年の堕胎、性病の蔓延が激しいのだと思います。その理由が性交に対する無知だからといって過激な性教育をするとまた増える。同じ保健体育で喫煙の害についても説明されますが若年者の喫煙率が減るどころか増えていることを考えると、子供達は小難しいことは聞かないと思われます。また性の情報を手に入れるのは少なくとも学校外です。少なくとも児童達がそれを面白いこととして認識している以上、学校のこのような態度の性教育は性交の低年齢化にに拍車をかけているだけに過ぎないと思います。
従って自由に性交してもいいのだから性交して金儲けが出来たらいいなと考える(実際にいる)児童も現れると思います。そうなると最近制定された児童ポルノ禁止法や児童買春を規制するための自治体の育成条例の有名無実化が進むでしょう。つまり児童の性行為が大人を欲情させる可能性を考えておくべきです。児童が性行為をしておいて、それで欲情する大人だけに責任を持たせるのは矛盾でしょう。ロリコン趣味を悪いと言うのは一理ですがその蔓延には性行為の低年齢化によりロリコン市場に商品が供給されていることにも問題があるのです。よって性教協が主張するように自分の体だから自由にしてよい、児童の頃からセーファーセックスならヤリまくっても良いという姿勢は児童ポルノ反対と矛盾するものと考えられます。

14主宰@ryu:2003/08/08(金) 22:13 ID:hfGvtphQ
>国益君

私学では既に土曜日は休業日にせず文部省に反旗を翻している進学校が多いです。
ただ先程も述べた通り、本当に学校に信頼している人は極一部。
たとえ公立であれ私立でもです。
頑張る人はどこででも頑張ります。
学校だけでは士気が落ちるでしょうから学習塾や予備校に通う。
無駄金使いたくないから公立に行くのも良いことだと思いますよ。
私もそうすれば良かったと後悔している一人です。

15平山薫:2003/08/08(金) 22:14 ID:60AY1qRw
迷彩スネークさん

じゃぁ、児童がセーファーセックスをしてはいけない理由は何ですか?説明してください。大人達のセックスは何故良くて子供は何故いけないんですか?

つまり、大人達も、暗黙の了解でなんとなく言っているだけで、その事を説得力のある言葉で伝えることは出来ていないんですよ。

「綺麗事」という日本語は凄い言葉ですよね。それが正しいと言うことを認めてそれを理論として了解した上で全てを根本から否定する事の出来る言葉です。自分がそこで論破されたことを了解してもなおそれを何の根拠もなく否定出来る魔法の言葉です。

ここから議論を始めないと何も始まらない気はします。
もう少し待ってください。性問題のトピを立ち上げます。

16憂島生:2003/09/03(水) 01:41 ID:NKDnGA0M
小中の音楽の新しい指導要綱で、邦楽を見直すというものがあった。
和楽器等をやれということだ。とても良いことだ。しかし予算はない。
現場はかなり困惑した。戦後50数年拒絶したものを一気に取り戻せ。
金はない。そんな甘い話があるか。教師は地域に協力を要請する。
「子供たちも興味を持っている。」 そんなことは解っている。
気安く言うな!和楽器は高いんじゃ、命の次に大事にしてるんじゃ、
簡単に学校教育だからといって貸さんぞ。勉強不足だ、教師・国。

17憂島生:2003/09/17(水) 01:00 ID:NKDnGA0M
地方新聞に載っていた川柳。

 「大学」は性悪説を育てしか

たしかに、そうかも。情けない、今日この頃。

18国益:2003/09/17(水) 11:56 ID:Gpx6whbM
こと性教育に関しては歪んだ性善説を訴えていますが(w

19迷彩スネーク:2003/09/17(水) 13:49 ID:fUkWBRaE
私の現実世界の知り合いの大学生、モラルもなければ程度も低い(人間として)、おまけに勉強できない、じゃあてめーら何できんだよ、と言ったら遊ぶしか能がない。はっきりいって高卒で工員やってるやつのほうがモラルも程度も高い。中学高校で大学に入ってからならなにやってもいいんだよ、と言うイメージつけすぎたのが原因のひとつでしょうね。

20山田:2003/09/17(水) 23:33 ID:yCo90DhQ
我々の親の世代にしてからが、邦楽に理解がなく洋楽ばかりに興味がいくのが多い。こうした傾向は教育により作られたもので、それは戦前からの傾向だ。
美術教育にしたって油絵はやるけど日本画はやらない。顔料が高いというなら、白描画や水墨ならできるだろうに。もっとも、私の弟が美大の日本画だが、やっているのを見てたら、日本画の材料で洋画を描いてるようにしか見えなかった(別にそれが悪いとは言わないが)。膠で描くだけなら、西洋にもデトランペという膠絵があるのだ。漫画やアニメのほうが、遥かに正当な、”日本画”の後継者であろう。

今はどうなっているのか知らないが、我々の頃は、微積分をやる前にニュートン力学を教えるのだ。こんな非合理で馬鹿な教育はない。微積分は基本的にニュートンが発明したが、それは自らの力学に必須の道具だからだ。数学ではなく、物理の一部として教えるべきものなのだ。そうでないと力学だってちゃんと理解できない。こうしたやりかたは全く理解に苦しむ。

21憂島生:2003/09/18(木) 01:26 ID:NKDnGA0M
最近、保育園・幼稚園で和太鼓を導入する所が多くなった。しかし、その
取り組みは、音源(CD、テープ、またはキーボードの演奏)に合わせた
演奏形態が多い。これは、お遊戯と同じ。もっと言えば、西洋的発想のまま
での楽器のすり替えである。日本人の「音」に対する感性を無視した取り組みは
やらないほうがまし。めんどくさがりな安易な教育は最悪である。
「所作」「精神」においてめんどくさがらない姿勢、あえて合理的でない
日本人の歴史的感性を正しく継承させることが教育者の使命である。
すぐに、洋楽器とのアンサンブルなどをやることが、最悪の感性であると思う。

22迷彩スネーク:2003/09/18(木) 01:31 ID:fUkWBRaE
山田様
美術に関してですが最近の中学高校ではその傾向がますます強まっていると思います。私は生まれてこの方デッサンというもののやり方を人に教わったことがありません。というのはなぜかというと美術の先生がみんな個性的(キチガイ)すぎて前衛芸術しか教わっていないのです。邦楽(伝統)を無視して洋楽(前衛)をやる。教師にとっては楽で楽しいでしょう。しかしどんなモダンな試みも自分を規定するものが確立したうえで成り立つものであるはずです。教師は、どうせこいつら学校でしかやらないのだから適当にやってりゃいいやと思っているのかもしれませんが、これではNHK教育の工作する番組と大差ないと思います。

23山田:2003/09/19(金) 08:13 ID:yCo90DhQ
昔、江戸時代の狩野派という日本最大の絵師のグループは、弟子達に写生や自由作品を行うことをいっさい許さず、先達の作品の模写のみを徹底してやらせることで、その型を引き継がせる教育を行っていました。それが近代以降の美術教育において、模写の占めるウェイトが、だんだん少なくなっていきました。とりわけ、近代以後に導入された西洋画は、その技術の習得が、専門家の間でも明らかに不十分であったため、技術的に難しい古典画の模写よりも、写生や作品作りにウェイトを置く教育にならざるを得なかったのだと思います(また、洋画の古典作品が日本にほとんどなかったことも、その理由のひとつでしょう)。恐らく、今日においては、この動向がますます加速され、美術教育における模写はおろか、古典的な方法に基づくデッサンも放棄されたのかもしれません。
岡本太郎などがテレビで、幼児の絵はすばらしいのに、成長して常識に染まってしまった子供の絵はつまらない、と言うとき、私もそのように感じることがあります。でも、それはしかたのないことなのです。脳のスレで述べたように、幼児期に皆が持っていた特異な才能を、あえて間引くことで、普通の人間としての最小限の機能を体得できるのですから、これをやらなければ、その後の発展に支障をきたすようになってしまうでしょう。私の乏しい経験でも、写生と模写は相互に補い合う機能といった感じがします(あるいはどちらが欠けてもだめなのです)。そして、それを行うためには、ある程度古典的な技術(スタンダードな描き方やものの捕らえ方)を知らなくてはできません。この両方を基礎教育の段階で放棄してしまうのは、多くの学生に基本的な道具を与えるのを放棄する、教育者の怠慢だと思います。ピカソその他の、個性的な天才と呼ばれる人達が、幼少期からいかに厳しい専門教育を受けてきたかは周知の事実ですし、その過程を通してつちかわれたデッサン力や、模写による他の画家の作風の吸収なくしては、いかに個性的な才能があっても彼等は存在しないのです。個性のみを尊重された教育からは、大多数の標準的能力を持つ者はおろか、少数の天才すら生まれないでしょう。生まれるのは、基礎力のない中途半端な「個性があるつもり」の人間達であり、これでは文化的にも実用的にも、ほとんど役に立ちません。

24迷彩スネーク:2003/09/19(金) 23:20 ID:fUkWBRaE
山田様
私もそう思います。子供には無限の才能がある訳ですが、それは鍛えた場合に限るものだと思います。世間に蔓延る馬鹿の壁も、もともと馬鹿の壁だったのではなく小中高大、さらには家庭教育やマスコミの報道鍛えられて立派な馬鹿の壁へと成長したわけです。例えばいくら幼児が発想が優れるからといって大江や川端のような作品が作れるかといえば無理なことです。文学の基本的な表現方法さえ知っていないのだから足元にも及ばないのは当然です。これは芸術関係のみではなくすべての教育にいえることだと思います。芸術作品にしろ科学的な研究にしろ先人の積み上げたものを吸収した上でそれを元に新しい試みを行うのですから、いきなり何か作れというのは無謀なことです。あくまで子供たちの能力を調べるための試みならばともかくこれで終わりにしてしまう。本来子供は無知である以上「個性的」なのですがそれは無知からくるものであり、天才の持つ付加価値としての個性とは別のものであると思います。無知であるが故の奇行が子供の個性の本質であると思います。子供は先入観がないから突飛な物を作り出し、先入観の塊の大人はそれに目新しさを感じるのは当然のことでしょう。しかし大人が突飛な事をやれば天才となる場合もありますがほとんどの場合常識のないキチガイとなってしまいます。現在の教育は子供を鍛える事を忘れていると思います。個性教育はその怠慢を隠す隠れ蓑としか思えません。そうしてつくられた廃品が学級崩壊でありいじめでありひきこもりではないかと思っております。

25憂島生:2003/09/19(金) 23:45 ID:NKDnGA0M
「個性」「オリジナリティー」ばかりが、さも高レベルのもののように
言われ、伝統の継承(模倣、保存、死守)に眼をむけない。頑丈な基礎の
上に立つ革新が意味があるのであって、本質的意味を知らずに、偶然に
出来るものを個性と呼ぶのは、まさに無知。みなさんの仰るとおり。
天才は、クラシック(古典)を人並みはずれた才能でこなし、さらに
先を追及する。伝統がどれほど重いものかは、そこを垣間見たものだけが知る。
残り続けてきた訳があるのだ、そこには。

26平山薫:2003/09/20(土) 03:05 ID:WUwGb3qc
じゃぁ、大人達の側から見てみよう。まず、模倣とか古典とか誰が教えるのか?大人達か?

教えているのか?

例えば、企業を見てみても、基本的な技術を教えないですまそうとしている。「即戦力」といえば聞こえはよい。しかし、その「戦力」にする部分の穴埋めは誰かがしなければいけない。でも、誰もしようとはしない。

例えば、職人の世界だけでなく、製造であっても総務であっても人事であっても、その分野の基本的な考え方というのはあるし、優先順位という物も、発想というものもある。業界が変われば常識も変わるし思考方法も変わる。

昔ほど真似しろと言われなくなってきた。「感じろ」「察しろ」「頭を使え」という。それは大人達の逃げじゃないのか?教える自信がないから。
そんなことは不要だ。お前の過去の経歴に興味はない。まず真似して精神をしみ付けてこの業界にふさわしい人間になれ。一人前になってから物を語れ。そこがスタートラインだ。石の上にも3年。

過去の経験の上に積み重ねた物は過去の経験に引きずられる。過去の価値観に引きずられる。そうじゃない。そんなものではなく、もっと基本から仕込まないといけない。過去の経験に引きずられて、未完成な自分の頭で考えた物が本当に素晴らしい物なのか?

基本を省みずに単なる偶然の産物に頼ったり、素人の論理でころころ変えたりするのではない真の教育こそが必要。

徹底的に基本をたたき込むことが重要。上司の感性に小手先で合わせることではない基本がそこになければならない。

芸術の世界はまだ良い。実害はないから。
しかし、実業の世界では困ったものである・

27憂島生:2003/09/21(日) 19:07 ID:NKDnGA0M
私の経験では、美術担当(あるいは各芸術担当)の教師は一人だった。
その教師の方針がある程度色濃く出るのは仕方ない。
私の場合は、模写・写生は多く習った。

28憂島生:2003/10/10(金) 00:42 ID:NKDnGA0M
福岡の教師が児童をいじめ、停職6ヶ月の処分。

その内容が、唖然!児童の先祖に外国人がいるということを理由にしての
人種差別虐待。公務員であり教育の現場にこのような者がいたとは。
国の恥。懲戒免職で無いのがびっくり。

29ISAME:2003/10/10(金) 01:31 ID:Gy1eIC8g
理系の話になりますが、数学を暗記教科と教えるようでは日本も先が思いやられます。
もともと,思考することを楽しむ学問なのに。
最近の学校では、一つの例題に一つの解き方しか教えてくれません。

30山田:2003/10/10(金) 06:32 ID:yCo90DhQ
昔は、数学にせよ、国語の文章解釈にせよ、日本の教育は生徒の独自の思考を許さずに、パターン認識を強要する傾向が異常に強かった。
例えば、数学は、問題によって、もっともすばやく解けるパターンがあり、それを暗記して、あとは計算の速さと正確さだけで勝負することを強いられた。しかし、実際には、数学は、あえて問題をとくにあたって、迂回路を選択することで、思考の幅が広がり、問題の奥にあるものの理解が深まる。そうした、本来の数学の”思考”が、受験体制にそぐわないものとして、忌避されていた。とにかく、数学の先生くらい、権威主義で、ものを考えるのを嫌う傾向を持った人種はいないのではないか、と思われるほどであった。
国語の文章解釈にいたっては、何をか言わんやであった。ある文章について、それを使った入試問題を作った先生達は、このような解釈をする傾向にあるのだから、それを暗記せよと言うのだ。欧米であれば、解釈は自由。ただし、何故そのような解釈になるのかを、きちんと説明しなくてはいけない。日本の場合、「何故〜」と、仮に問われると、教師までもが、偉い先生がそう言ったから、という馬鹿な答えを平然とし、それを生徒に強要していたように思う。いかにも、日本的だ。

31国益:2003/10/10(金) 08:37 ID:VqA9zotA
山田さん

貴方は大学で物理を専攻されたそうですね。
数学は論理であり、論理的思考を身につけための学問だと
言われている、が実際のところはどうなのでしょうか。
創造力や論理的思考などは抽象的で目に見えないものですよね。
私のような文系から見ると尚更です。数学力とはなんなのでしょうか
それによって何が得られるのだろうか。

32迷彩スネーク:2003/10/10(金) 08:54 ID:lyxcZT1M
「受験は要領」などで言われている暗記数学ですね。日本史の用語を念仏のように唱えて歴史の流れも覚えずに覚えるのも暗記ですが、事件が起こったきっかけや背景、どのように事件が経過してどのように落ち着き後の世にどのような影響を与えたかまでを理解したうえで記憶にとどめることも暗記です(和田秀樹なんかが言う暗記ね)。考えのプロセスまで理解して(理解しなきゃ意味ないんだよね)覚えること(必要なときに思い出せるってことだよ)は必要だし、(受験としても学問としても)思考を楽しむにもそういった知識のストックがないと思考できないでしょう。どんな道でも最低限の暗記は必要です。はっきり言ってほとんどの高校生がそのレベルを超えてないんです(私も人の事言えるほど出来ませんでしたが)。例えば小学生が九九も知らないのに掛け算を文章題を解こうとするは無謀だと思うでしょう。数学を知的な遊戯として楽しみたいなら高校教科書は一通り知識として知らないと出来ないのです。ただ例題ひとつに解き方ひとつはよくありませんね。これでは受験的にも学問的にも?です。

33ISAME:2003/10/10(金) 16:04 ID:Gy1eIC8g
思考を楽しむためのツールやルールとして公式などを暗記することは悪いことではないと思います。
ただ、プロセスまで理解したうえでの暗記をする人はなかなかいませんし、暗記したら終わりなんです。
教師も機械的に問題を解け、と指導しています。
与えられた問題に答えるだけならばそれでもかまいません。
しかし、数学や物理は「問う」学問ではないでしょうか。

34迷彩スネーク:2003/10/10(金) 18:56 ID:lyxcZT1M
学問として思考を楽しむのに必要最低限のツールやルールが教科書レベルの例題なんです。プロセスを理解したうえで覚えないから(先生もこういうとこ強調して欲しい)暗記しても発展性がないのです。こういうことを多くの高校生が出来ていないから数学や物理の役に立つ人材が少ないのです。確かに数学や物理は「問う」学問です(尤もお勉強でなければ全部そうだけど)。与えられた問題に答えるときもどのようなアプローチをするか試行錯誤を繰り返して正解にたどり着きますよね。そのアプローチするための最低限の定石(教科書の例題)を知らないとまだ楽しむ領域ではないと言っているのです。だからそれを理解して暗記することは(受験と言う意味でも学問と言う意味でも)必要なのです。例えば将棋の名人は定石をほぼすべて覚えているでしょうが、相手の出方は(相手の)レベルや戦局により異なります。相手がいつも定石を使える状態になるように打ってきてくれるとは限りません。だったら今まで覚えてきた定石は無駄かと言うとそうではありません。状況を見て何が使えそうか考えて一手を打ちます。今まで溜め込んだパターンを時と場合に応じて当てはめようと試みているのです。入試問題(学問もそうだしなんでもそうだと思います)も同じです。暗記だけでは(たとえ理解していても)それそのものしか(数字変えられた程度)出来ないのなら受験としても学問としても無意味です。未知の物として戦うツールとしての理解したうえでの暗記が必要だと言うことが言いたかったのです。

余談ですが日本の学校だと数学物理は修士課程ぐらいまでは高校と変わらないお勉強だと言うことです。先人が歩き尽くしたものを吸収するのも大変だと思います。

35山田:2003/10/10(金) 21:18 ID:yCo90DhQ
少し詳しく言うと、数学的思考が文系より理系に近いというのも、一つの錯覚かもしれない。我々物理科その他の科学系は、数学科の連中を、理学部の文学科と呼んでいた。物理学は数学を道具として扱っているのであって、あくまでも主眼は自然のシステムの解明や表現にある。また、科学的理論がいくら整合性を持っていても、実験により実証されなければ、それは形而上学であって、地に足のついた科学ではない(というか、あくまでも仮説として理解すべきものであって、現実ではない)。また、物理学者の数学の取り扱いが、ときにぶっ飛んだものになり、数学者を不愉快がらせることもある(例えば、デルタ関数をディラックという物理学者が導入したとき、数学者は認めなかった。それが数学的にきちんと定義されたのは、遥か後のことである)。これらのことは、科学者が数学を、基本的には道具と考えていることからくる、数学者との立場の違いである(もっとも、ニュートンもディラックも、神が数学に基づいて宇宙を建設したと信じているのだから、決して数学や数学者を馬鹿にしているのではない)。
数学とは、現実には脳の中の学問である。数学を実験で実証することはないが、数学を自然現象と絡めた形で、実証可能な理論を作ることはできる。ただ、それが自然の記述に有利だということだけで、数学が科学に絶対に必要かどうかは、わからない。初期の電気力学の論文で、数学を全く使わずに書かれたものもあるという。これは、私の個人的な見方になってしまうかもしれないが、人間に数学的思考能力があるから、論理的にものごとを考えられるわけではないと思う。むしろ、数学とは、人間の論理的思考と呼ばれているものの一部分を、一般化し、抽象化することで、厳密にした一つの思考様式だろう。そうした意味では、言葉の代わりになることもあり、場合によっては、言葉より便利な記述の手段になることもある、というだけだ。
迷彩スネークさんのご指摘通の通り、ある分野における最低レベルの知識が無ければ、その分野における思考もできない。そして、知識とは、細かい部分は別にして、大枠のところは記憶に頼っているというのも、人間の現実だ(記憶とは何か?というのは、様々な議論があるが)。ただ、私が問題だと思ったのは(というか、個人的に不愉快だったのは)、大学のテキストを読めば、すっきり理解できるような、基礎的な理論の土台を示さずに、習うより慣れろを徹底して強調した、思考や疑問符を抑圧的なまでに封鎖してしまうような、教育方針だった。
ともあれ、教育とは社会のニーズに答えるだけの機関と考えれば、そのほうが上手くいったのかもしれない。日本の近代以来の教育は、いかに労働者としての高品質を保たせながら、よけいなことを考えない人間達を量産するかに、主眼を置いてきたのだから、独自の思考よりもパターン認識に基づく群性(悪く言えば権威主義)を求められるのは当然のことだ。

36山田:2003/10/10(金) 21:29 ID:yCo90DhQ
また、日本の大学で物理が修士までは「お勉強」に過ぎないというのも、一つの現実かもしれないが、そのお勉強のやりかたの違いを問題にしているのです。

37山田:2003/10/10(金) 22:23 ID:yCo90DhQ
また、数学が、”論理的思考と呼ばれているものの一部分を、一般化し、抽象化することで、厳密にした一つの思考様式”である以上、ある種の約束事だけで成り立った、具象性を持たない”体系”なのですから、その体系の枠組みや、多少抽象的でも基礎的なルールとしての出発点だけでも理解させておく必要が在ると思います。それをせずに、漠然と「こういうものだから・・・」で、あとは計算では、本当の応用力も育たないし、基本的な理解さえできない人が、数学科に入ってきたりする。そのような人が教師になれば、生徒の基本的な疑問にすら答えられないことになる訳です。
さらに言えば、力学を教えるときに、微積分をやらないのであれば、愚の骨頂であり、そうした物理数学は、たんなる道具として、科学とともに教えるべきものです。

38迷彩スネーク:2003/10/10(金) 23:40 ID:lyxcZT1M
仰る事御尤もです。
私の場合慣れた後に習ったような気がします。微積分で単位面積という考え方はどこから来たのだろうと言う問いが生まれたのは教科書がある程度進んでからでした。そういうことを思い出すとそういった分野の前提を誰かが教えてくれればよかったと思います(私は教師がとても嫌いで聞く気にはなれませんでした)。少なくとも疑問や独自の思考を認めない体質はよくないと思います。しかし私は疑問や生徒の思考を認めるならば、教師が生徒から体系や基本ルールにかかわる質問を受けてもしっかりと答えられるのならば、枠組みや基礎的ルールを全国一律で教えなくても問題はないと思います(中等教育では)。抽象的ゆえに理解不能な生徒も相当数にのぼると思われますし(向上心のない生徒はたくさんいます)、理解可能な生徒は自力でそのような疑問にぶち当たると思います。疑問にぶち当たったときフォローできれば問題ないように思います。誰にでも分かりやる気をそがない教材(アメリカ式は分かりやすいだろうけどあの分厚さで日本の生徒はやる気をそがれると思います、というより大多数には読む根性がないでしょう)が作られればよいのですが(無理ですね)、誰にでもわからせようと徹底して糞も味噌も混ぜてしまうとアリバイ的なものになってしますと思います。中等教育レベルでは生徒の質と言う観点から習熟度別でそれなりに優秀な生徒に教えるのがよいと思います。この点現在の習熟度別授業は受験対策の域を出ないので、入学時から生徒本人の能力?(根性?希望)に応じて編成して教え込むのがよいと思います。勿論、高等教育では学生の質がどうであろうとそのようなところもやるべきだと思います。

39国益:2003/10/10(金) 23:42 ID:beWOnACk
山田さん

私は私立文系のため数3はおろか数2もやってはいません。よって数学の話しに全くついていけないのです。
微積は非常に難しいと聞きますが実際のところどうなんでしょうか。
微積の中にも基礎、応用があるのですよね。
数学に詳しい方がいたら数学力ゼロの私に教えてください

40山田:2003/10/11(土) 20:25 ID:yCo90DhQ
微分積分を本格的に数学としてやるのであれば、難しいというか、一般の人には、めんどくさいかもしれません。まず、実数という数の集合の連続性(微分可能性の前提条件)から入らねばならず、これは応用面とは一応関係ありません(デテキントの「連続」の定義は、概念的には判りやすいと思いますが・・・興味があれば解説書は判りやすいものも出ていると思います)。

応用としてやる分には、そんなことはすっ飛ばして、関数の性質やその表現のヴァリエーション(特に級数展開)などの、実用的な部分を中心にしてやってけばよいと思います。この場合、物理でも経済でもいいから、何かに応用しながらその学問の一部として考え、数学のくそ難しい本は参考までに見るのが適当でしょう。

よほど頭のいい人は別にして、我々凡人は、純粋数学として、趣味的に楽しみながらやるか、実用編と割り切って道具とみなして吸収するか、いずれかの立場をはっきりさせて勉強したほうがよいと思います。ただし、後者の場合は数学というより、ほかの学問の一部のつもりで(数学を学ぶときにも)それを意識してやったほがいいと思います。複素数まで含めた函数論は別にして、微積分は、圧倒的に後者の色合いが濃い分野です(特に微分方程式は実用の最右翼でしょう)。したがって、使いながら学ぶのが適当だと思います(あるいは使用実例を見ながら学ぶ)。

41山田:2003/10/11(土) 20:41 ID:yCo90DhQ
数学そのものについては、理学部の文学科だと思って、文学や美術や音楽のように、情操のために?学ぶのだと割り切ったほうがよいと思います。実際、数学とは「美しい」ものです。私が嫌だと言ったのは、この「美」を数学教師たちが受験技術のために意識的に殺してしまい、それでいて物理に微分積分も使わせないような、非実用的なカリキュラムを組んでいる、トンチンカンで杓子定規な性格なのです。


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