したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

『ぎん千代姫の一生』

3韋駄天はふと考えた:2008/05/14(水) 05:10:19
立花道雪の旧名は戸次鑑連(べつきあきつら)であり、主君(しゅくん)の大友宗麟から筑前国最重要拠点の立花山城の城主として任命されると、大友一門の名門の家系であった立花家の家名を継ぎ、立花道雪と名を改めた(あらためた)。

ぎん千代姫の父が、九州屈指の猛将と恐れられた立花道雪ならば、ぎん千代姫の夫は、千の兵を万の兵に変える名将と全国に名を轟かせた(とどろかせた)、後の江戸幕府の下で筑後柳川藩(ちくごやながわはん)12万石大名となった立花宗茂(たちばなむねしげ)である。

立花宗茂の改名前の名は高橋統虎(たかはしむねとら)。

そして立花宗茂の実の父が、九州で猛威(もうい)を振るった大友家臣団の中、勇猛(ゆうもう)さと実直(じっちょく)さでは立花道雪と双璧(そうへき)をなすと謳われた(うたわれた)高橋紹運(たかはししょううん)。

高橋紹運の子は二人兄弟で、長男が高橋統虎(後の柳川藩12万石藩主の立花宗茂)で、次男が高橋統増(たかはしむねます=後の立花直次で三池藩1万石藩主)。

その高橋紹運は後に、わずか763名の部下と共に岩屋城に立てこもり、筑前国を制圧しようと猛進撃してくる島津軍2万余騎〜5万余騎の大軍勢を前に一歩も退かずに(しりぞかずに)、二週間の激戦の果てに高橋紹運以下全員が玉砕(ぎょくさい)で散った。(岩屋城の激戦)


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板