したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

紅海方位で見る人類の移動の歴史

1完全理論武装論者:2004/07/11(日) 20:43
紅海方位の流れの力によってエジプト文明が栄え、ヨーロッパ文明も栄えた。
やがてその流れの力は大西洋をも越えてアメリカ文明の発展へとつながった。

人類の歴史を大きく変えた紅海方位とは何か?
ここにその力の流れを説明しよう。

99韋駄天はふと考えた:2006/12/28(木) 00:18:21
間違い探しシリーズ 邪馬台国編6

この距離が1里の基準だと誰かに教われば、その距離の感覚を頭の中でイメージして記憶するのです。
この方法は現代人でも登山家などの一部の人が同じことをしています。
例えば現代人が富士山の標高が3778mだと誰かに教われば、3778mの高さの富士山の風景を頭の中にイメージして記憶します。
次に箱根山付近の山の標高が1500mくらいだと誰かに教われば、1500mの高さの山の風景を頭の中にイメージして記憶します。

ここでその人の頭の中には、ふたつの山の形だけでなく風景を記憶することで、3778mと1500mの高さを基準としてイメージ
できる能力が備わりました。
その人が標高のわからない山を見て、基準としている3778mと1500mの高さをイメージしている脳の中で比較するだけで、この
山は3778mよりは低いが1500mよりは高い。3778mと1500mの中間ぐらいだから、だいたい標高が2000m〜2100mぐらいだろう。
と、地図も測定器具も使わずに、かなり正確に標高の高さをいい当てることができます。

もっとたくさんの高さの山の標高を記憶して、山の高さを風景としてイメージで比較できるようになれば、その人はどんな知らない
山の標高でもほぼ正確にいい当てることができます。
古代人もこの手法を使って知らない土地での距離を測ったのです。

垂直の高さを水平の長さに置き換えるだけです。
誰かから、ここからここまでの距離が1里の長さだと教わります。教わった人はそこの場所の風景とそこから見える周囲の景色や
山の形や島の形を記憶します。次に別の場所でもここからここまでの距離が1里の長さだと教わります。
そこでもまた、そこの場所の風景とそこから見える周囲の景色や山の形や島の形を記憶します。
こうしてこの古代人の頭の中には、ふたつの風景の中で1里の長さをイメージできる能力を備わりました。

今度は全く知らない場所に行っても、どこからどこまでが1里なのかを周囲の風景や山の形や島の形を、自分の頭の中に記憶させた
基準の1里の周囲の風景や山の形や島の形と比較イメージすることで、ここからここまでが1里だということをいい当てることが
できるようになったのです。

100韋駄天はふと考えた:2006/12/28(木) 00:50:41
間違い探しシリーズ 邪馬台国編7

もしこの人が1里の基準風景をたくさん記憶していて、10里の基準風景もたくさん記憶していれば、全く知らない土地に行っても、
周囲の風景をながめて「さっきまでいた位置から見たあの山の大きさがこれくらいだから、ここまで歩いてきた時に、あの山を
見るとこれくらいの大きさになったから、ちょうどこのあたりが、さっきまでいた場所から100里目の距離になる」とほぼ正確に
いい当てれるようになります。これは「距離勘」という能力になります。

目的地までの方向を見失ない方向探知能力だけでなく、こうした距離を距離勘だけを使って正確に測ることのできる古代人ばかりが、外交使節団
として選ばれて、倭国の各地を旅して回り、国(集落)から国(集落)への距離を、ほぼ正確にいい当てて里数を記憶したり
記録していったのです。

この「距離勘」の能力は生まれ持った才能から達人能力者へと進化させる人もいれば、努力と経験を積んで達人能力者へと進化
させる人もいます。現在においてもこの「距離勘」能力は様々な分野で必要とされています。

しかし、この距離勘能力を持つ古代の達人を持ってしても、ほぼ正確に距離を測れない場所が存在します。
それはどういった場所でしょうか?
1里の基準風景となった場所は、だいたいが集落はずれの場所だったり、田園風景の広がる平坦な場所だったり、道路は整備されて
いて真っ直ぐな道などで、1里の基準が定められています。
ですからこれらと良く似た風景の場所では、脳の中での比較イメージも難しくなく、簡単に距離をいい当てることができます。

しかし、全く見知らぬ土地を旅するのにこんな場所ばかりではありません。
真っ直ぐな道などほとんどなく藪の中を掻き分けながら、獣道のような狭くて曲がりくねった道を探しながら歩かないといけない
場所や、周囲の風景が全く見えない樹木がうっそうと茂った森の中を歩く場合、平坦な場所などなく急な傾斜の山道や谷や川底を
登り降りしながら歩く場所など。

101韋駄天はふと考えた:2006/12/28(木) 01:13:05
間違い探しシリーズ 邪馬台国編8

こうした場所での歩いた距離をほぼ正確にいい当てれるのは、優れた距離勘能力を持つ古代の達人でも困難だったに違いないのです。
したがってこうした所での距離を里歩で表現しても、その距離は実際の直線距離に比較するとずいぶんと長い距離として表現されて
しまいます。

さぁここでやっと原則の登場です。
※原則とは偏りの法則のことで、すべての物質や自然現象は力の弱い方向へと偏る性質がある。
※またすべての物質や自然現象は、原則とは逆に力の強い方向へ偏る場合もあり、この場合は反原則と呼ぶ。
※物質や自然現象が反原則になる場合は、爆発や反発と呼ばれる現象の時に起こり、力の弱い方向へと急激に偏りすぎることで、
原則の偏る力と原則の偏る力との間に衝突しあう強い力が発生して、それが今度は逆方向へ押し出そうとする急激な力となって、
反原則の力が生まれる。(詳しくは原則スレや理法書スレ参照)

人間というのは物質の中に含まれているので、人間の歩く動きや普段の動作にも当然原則の力が作用します。

みなさんもこんな経験はありませんか?
楽な仕事をしている時や、簡単な作業をしている時ほど、時間の経過が早いなと感じた時。
きつい仕事をしている時や、難しい作業をしている時ほど、時間がなかなか経たずに時計ばかりを気にする場合。
そうです。時間というのは感覚においても実際においても伸び縮みするものです。

楽な時や簡単な時ほど、小さい労力を使うだけでよいので力が弱い状態となり、偏りの力が発生して周囲から自分の方へと
力が偏っていきます。つまり自分と周囲とでは時間の流れが違って、自分の時間の流れる速度が速くなり、周囲の時間の流れる
速度は遅くなった状態となります。
またきつい時や難しい時ほど、大きな労力を必要とするので力が強いい状態となり、偏りの力が発生して自分から周囲の方へと
力が偏っていきます。つまり自分と周囲とでは時間の流れが違って、自分の時間の流れる速度が遅くなり、周囲の時間の流れる
速度は速くなった状態となります。

102韋駄天はふと考えた:2006/12/28(木) 01:29:36
間違い探しシリーズ 邪馬台国編9

古代人が、集落はずれの場所、田園風景の広がる平坦な場所、道路は整備されて いて真っ直ぐな道を歩く場合は、歩くのに
楽な時や簡単な時なので、スイスイ歩いてしまい、実際に歩いた距離と比較して時間の流れを速く感じます。

逆に、真っ直ぐな道などほとんどなく藪の中を掻き分けながら、獣道のような狭くて曲がりくねった道を探しながら歩かないと
いけない場所、周囲の風景が全く見えない樹木がうっそうと茂った森の中を歩く場合、平坦な場所などなく急な傾斜の山道や
谷や川底を 登り降りしながら歩く場所では、歩くのにきつい時や難しい時なので、ずいぶんと歩いた感覚なのに、実際に歩いた
距離と比較して時間の流れを遅く感じます。

つまりは、楽で簡単な道を歩いた場合には、実際の距離よりも短く記憶されて記録されて、きつくて苦労する道を歩いた場合には
実際の距離よりも長く記憶されて記録されてしまうのです。
ですから、魏志倭人伝に記録された、この国からあの国までの距離が何理というのは、すべてを同じ距離感覚だと判断するのは
間違いだということです。

ある国とある国との間の地形の険しさや道が整備されていない場合では、きつくて困難な道ばかりを歩かないといけない場合なので、
魏志倭人伝にたとえ1000里の距離と書かれていても、実際の国と国との直線距離は短くなって、500里しかなかった場合やたった
300里の場合もあるのです。
これとは逆に、ある国とある国との間の地形が平坦だったりなだらかで道が整備されている場合では、楽して簡単に歩ける場合なので、
魏志倭人伝にたとえ500里と書かれていても、実際の国と国との直線距離は長くなって、700里ある場合や1000里もある場合もあるのです。

当時の倭国内の状況を地形考えると、整備された道は少なく、日本列島独特の地形の険しさで、実際の国と国との直線距離や移動日数は
魏志倭人伝に書かれている距離や移動日数よりも、かなり短いと判断した方がいいでしょう。

ここでまとめに入ります。
魏志倭人伝に書かれた国と国との距離をそのままうのみにしない。
国と国との距離や日数は、地形や道の政治状況や移動手段によって大きく変わるということ。
まだまだ書きたいことがありますが、今日はここまで。

103韋駄天はふと考えた:2007/01/03(水) 20:45:53
古代における古墳というのは、王族や豪族の墓だけの目的でなく古代の城(砦)として
位置づけられているような気がする。

大和朝廷の中心地だった奈良地域(奈良盆地)や河内地域(藤井寺・堺)に数多くの
古墳が点在するが、いずれの古墳も古代の主要街道の要所に造営されている。

街道を通る人々や外国の使節に、巨大な古墳の造営力を見せて、大和朝廷の権威力を
見せ付ける目的もあるだろうが、いざという時には水豪で囲まれた古墳に立て篭もって
有利に戦える目的もあったはず。

古代の倭人は鳥居がある場所を柵で囲って砦にして、それが後に神社として祭事を行う場所や
村の守り神となったり、いざという時には村人が神社に立て篭もって、戦うための砦代わりに
したのだろう。
今も神社の境内をぐるりと取り囲む石で作られた柵が、昔は砦だった名残りとして残っている。

104韋駄天はふと考えた:2007/01/03(水) 20:56:45
人間は戦いになると山に篭って戦うのが常で、相手より高い位置から攻撃を加えたり、相手より高い位置で守る方が有利である。

しかし村の周囲に小高い山がない場合には、村から山へすぐに逃げ込んで戦うことができなくなる。
鳥居の周辺に環濠を掘り柵で囲って、砦にする習慣がなかった古代の半島渡来人は、
最初は小山のような盛り土で古墳を造営して、いざという時には、その古墳を山に
見立てて小さな砦代わりとして使い、次第に周囲に濠を巡らした巨大な古墳を作るようになった。円形古墳

円形古墳よりは、上部が平たくなっていて砦としての機能が高い方形の古墳も作った。
方形の古墳は平時には、豊作や葬式の祭事を行う場所として使い、有事には砦として立て篭もる場所として使った。
やがて円形古墳と方形古墳がひとつ合体した巨大古墳が主流となってくる。

105韋駄天はふと考えた:2007/01/03(水) 21:07:31
しかし時代が流れて、大陸から仏教が大和朝廷にも入ってくるようになると、巨大古墳が次々に作られる時代は終わりを迎えた。なぜか?

それは巨大古墳を作る目的が王族や豪族の墓のためでなかったからで、古墳を砦としても使っていたために、仏教が入ることによって、今度は仏教寺院の方がより機能的で効果的な砦(城)として使えるようになったので、大和朝廷も各地の豪族も古墳作りをやめて、寺院作りに励んだために、あっという間に古墳文化は姿を消してしまった。
また巨大古墳を見せ付けて王族の権威と技術力を見せ付けるよりも、五重塔や仏像を
拝した、凝った作りの荘厳華麗な寺院を権威と技術力の証として見せ付ける方が主流になった。

もし古墳が王族や豪族の墓のためだけの目的だったら、仏教が入ってきただけで、こうも簡単には古墳文化は廃れなかっただろう。
砦としての意味合いが一番強かったために、古墳と寺院を砦で使うのに比較すれば、寺院を作った方が得策として、寺院作りが流行って古墳作りが寂れていった。

106韋駄天はふと考えた:2007/01/03(水) 21:20:11
周囲を高い塀で囲った寺院が砦(城)として優れていて実用的だったのは、大和朝廷の時代だけでなく、戦国時代に織田信長が本能寺に居住していたことでもわかるはず。

つまり仏教寺院は仏教を信仰する場所だけでなく、権力者が平時や有事の居住場所として使われ、また各地から兵を集めた際の、兵の居住場所としても仏教寺院が最適だったために、大和朝廷以降各地で仏教寺院が、山上や山腹に山裾など、砦(城)として最適な場所に数多く作られていった。

やがて戦国時代になると、平時は自分の屋敷を居住場所として使い、領地内の各地に
数多くの寺院を構えて、領主と兵がどこに行っても野宿せずに寺院に居住できるようにして、さらに有事の際には不便な場所の山上に頑丈な砦(城)を築いて立て篭もって戦った。

今日、集落の近くにたくさんの神社、仏閣(寺院)、古墳、城、があるが、いずれも
その地方を支配した権力者が、居住したり立て篭もって戦うための砦の名残りである。

107韋駄天はふと考えた:2007/01/03(水) 21:35:49
要するに古代大和朝廷時代においても戦国時代においても明治維新においても、神社、仏閣(仏教寺院)、古墳、城は、いずれも砦として使われ、負ければ一族の死と滅亡
なので、戦いの必勝を祈願するために、先祖の霊、仏頼み、神頼みをしながら、戦ったということになる。

これは西洋においても中東においても、教会やモスクを砦代わりにして戦っているのは
昔も今もよく見られる光景である。
要するに古墳、神社、仏教寺院、教会、モスクを砦代わりにして、立て篭もって守る側にしてみれば、先祖の霊や仏や神様を後ろ盾にして戦うので兵の士気が高まり、一方攻める側にしてみれば、古墳、神社、仏教寺院、教会、モスクに立て篭もる兵を攻撃することは、先祖の霊や仏や神様に対して冒涜をしているという気兼ねから士気が落ちる。

こうした守る側の士気が高まり、攻める側の士気が低下する精神世界の心理戦をも、
戦いの中に引きこめれるので、その地域を支配した権力者は攻め滅ぼされにくいように、古墳、神社、仏教寺院、教会、モスクなどを競って建立した。

108韋駄天はふと考えた:2007/01/03(水) 22:02:08
>今日、集落の近くにたくさんの神社、仏閣(寺院)、古墳、城、があるが、いずれも
>その地方を支配した権力者が、居住したり立て篭もって戦うための砦の名残りである。

仏教寺院や神社の境内が広く取られているのは、そこで兵が集団になって軍事訓練をするためと、長期間の戦闘に備えて馬や兵糧を置いたりすめためである。

また仏教寺院や神社の建物が大きいのは、何百何千人の兵が集団で寝泊りできるようにするためと、屋根の上に上がって見張りが周囲の状況を把握するためである。
寺院に作られる三重塔や五重塔も見張りが遠くまで見渡せるための目的が主である。

こうして仏教寺院は、巨大古墳よりも優れた砦としての効果が認められて、古墳に変わって各地で次々に建立されることとなった。

よって古代に建立された古墳や仏教寺院の数を把握することで、その地方は半島渡来人の勢力が強い地域であり、半島渡来人の権力者や豪族の勢力がわかる。
さらに、その地域の古墳や仏教寺院の数が少ないと平和な地域であり、古墳や仏教寺院の数が多いと、戦乱の多い地域だと把握できる。

また神社は倭人の砦であったために、古代において神社の多い地域は倭人が数多く住んでいた場所であり、神社の少ない地域は倭人が少ししかいなかったということになる。

さらに古代において神社と古墳と仏教寺院が混在している地域は、倭人と半島渡来人の混血か、ふたつの民族が交じり合って暮らしていた地域となる。

大和朝廷において半島渡来人である天皇が、日本列島の西半分を征服して実権を握った後に、このふたつの民族の対立を減らして支配するために、倭人の宗教文化である八百神、鳥居、神社の様式を、半島渡来人の習慣の中に組み入れて、新しい神道様式として半島渡来人天皇の祭事に取り入れたことで、倭朝鮮混在の文化が生まれた。

109韋駄天はふと考えた:2007/01/04(木) 20:56:51
古代の人にとって戦争より怖いのが、先祖の霊や神様仏様を粗末に扱うことで発生する、
災い、祟り、災難、呪い、怨念、天罰、といった目に見えない力が働いて、自らや一族に
災難が降りかかることでした。

科学の発達した現在においても、こうした先祖の霊や神様仏様を粗末に扱うことで発生する、
災い、祟り、災難、呪い、怨念、天罰、を恐れる人が多く、アメリカ軍でさえイスラム教徒との
戦いで、モスクに立て篭もった反政府組織をモスクごと空爆できませんでしたし、
第二次世界大戦においても、神社仏閣古墳の集中した京都や奈良には焼夷弾は落としませんでした。

このように戦争になると、先祖の霊や神様仏様を祭った古墳や神社に仏教寺院に立て篭もることで、
攻める側は災い、祟り、災難、呪い、怨念、天罰、といった目に見えない力を恐れて攻撃しにくくなります。

戦国時代においても織田信長が、寺に立て篭もって戦う敵を寺ごと焼き討ちにするたびに、全国の信徒や
信心深い仏教徒が結集して、織田信長と対立するほどです。
そして信長が本能寺の変で死ぬと、仏様の天罰が下ったと当然のように言われる有様。

また戦国時代においても大名は、焼き討ちした神社や仏教寺院の祟りや災いを恐れて、戦いの
後はすぐに、神社や仏教寺院の復興建立に多額の財力と労力を投じます。
攻め滅ぼして戦いに勝ってもこうした有様ですから、復興建立に多額の財力と労力を投じる
力のない勢力では、古墳や神社に仏教寺院に立て篭もった勢力を攻め滅ぼすのは無理になります。

戦争というのは武力対武力の争いだけでなく、先祖の霊や神様仏様を祭った古墳や神社に仏教寺院を
数多く建立すればするほど、戦いに有利に持ちこめれるのです。
ですから、頑丈な砦を大変な労力をかけて山の頂上に作るよりも、少ない労力で集落の近くに古墳や
神社に仏教寺院をたくさん作った方が、頑丈な砦よりも高い防御力を発揮するわけです。

110韋駄天はふと考えた:2007/01/04(木) 21:19:24
ある勢力が奈良盆地に攻め入ったとします。
守る側はたくさん作った古墳に分散して立て篭もります。

攻める側は古墳に立て篭もった勢力を、ひとつづつ攻め滅ぼしていかないと
奈良盆地全体を征服できません。

古墳に立て篭もる勢力をひとつ滅ぼすたびに、古墳は破壊されるので、滅ぼした側の
兵士は祟りや災いを恐れながら、別の古墳に立て篭もった勢力と戦うことになります。

こうした戦いが続けば、攻める側の兵士から何人かの病人が出れば、たちまち
「これは古墳に祭られている先祖の祟りや呪い」による病気だと、兵士達は恐れおののいて
戦意を消失します。
他にも、戦いの最中に雨ばかり降り続いても、「祟りだ」「呪いだ」と攻める側の兵士に恐怖が蔓延します。
さらに、戦いが少し不利になったり、指揮官が戦いで怪我をしただけでも、
「祟りだ」「呪いだ」と攻める側の兵士は騒いで恐怖が蔓延します。

こうなると攻め込んだ側は、戦うことを諦めて勝手に退却していき、守る側は
何もしなくても、戦いに勝つことができます。

古代や近代の戦争において武力の力よりも、こうした目に見えない力の方が、
戦局の行方に大きく左右するのです。

111韋駄天はふと考えた:2007/06/06(水) 20:28:29
京都市山科区(教徒氏邪馬支那区)

京都とは、奈良朝廷が京の都に遷都する以前から教徒と呼ばれ、教徒すなわち宗教関係者が数多く住み
着いた集落として栄えたのが始まりである。
現在でも京都には神社仏閣が数多く点在し、京都市の人口120万人ののうち、約1/5の25万人が何らかの
宗教に関わった人々である。

こうした宗教関係者が数多く集まってできた教徒集落(古代の京都市内)には、他の地域からたくさんの
信徒が巡礼に訪れるようになり、いつしか教徒集落(古代の京都市内)には、これらの巡礼に訪れる巡礼
信徒達が寝泊りするための施設や、食事を配給する施設に、巡礼の思い出の記念として教徒集落の土産物
を持ち帰る巡礼信徒達が増加した。

これらの巡礼信徒達がほしがる土産物を作ったり売ったりする、農民と職人と商人までもが教徒集落
(古代の京都市内)に住み着いて、農作物に織物製品や皮革製品に、様々な金属加工工業製品を作る産業と
売り買いする商業が、教徒集落(古代の京都市内)で発展していった。

こうして教徒集落(古代の京都市内)には、宗教関係者、信徒巡礼者、食事販売商人、寝宿提供商人、
土産物販売商人、織物職人、皮革職人、金属加工職人、木工職人、農民、建築職人(大工、左官)、
金貸し商人など、多種多様の住民が集まった事で、盗賊や強盗などの犯罪も増加して、住民同士の金銭争いや
縄張り争いによるトラブルも数多く発生するようになった。

112韋駄天はふと考えた:2007/06/06(水) 20:29:01
京都市山科区(教徒氏邪馬支那区)

こうした様々なトラブルを解決するためと、教徒集落に集まる盗賊や強盗の取り締まりに、朝廷から役人と軍人
(半島系騎馬民族、隼人族)が教徒集落に常駐したが、それだけで治安は守られないので、宗教関係者に大商人が
個別に雇い入れる渡来系武人(傭兵)も増えていった。

こうなると、もはや教徒集落(古代の京都市内)とは呼べない人口規模となり、教徒集落(古代の京都市内)から
10万人以上が暮らす教徒の都(キョウトノミヤコ)にまで発展していった。

当時の大和朝廷の首都であった奈良の都(古代の奈良市内)よりも、人口が増えて大都市として発展していく、
教徒の都(古代の京都市内)を新たな大和朝廷の都として、奈良地方から都を移して(遷都)、名前も新しく
教徒の都から京都(キョウトノミヤコ→キョウノミヤコ)に改めることで、教徒の宗教関係者が数多く住む都の
イメージから、国家を支配する朝廷(天皇)の住む都へとイメージを変えることに成功した。

113韋駄天はふと考えた:2007/06/06(水) 20:29:39
京都市山科区(教徒氏邪馬支那区)

朝廷が都を移す平安時代以前の、教徒集落(古代の京都市内)の治安を守ったのが、大陸渡来系武人(傭兵)で、
日本に住む当時の倭人達と半島系渡来人は、支那大陸からの渡来人をふたつの呼び名で区別していた。

大陸北部(黄河流域)と大陸中部(揚子江北部)に住む漢民族を支那人と呼び、大陸南部(揚子江南部)に住む
倭人の組成であり、日本の倭人と同じ民族を邪馬支那人と呼んだ。

邪馬支那人とは、支那大陸の邪馬地域(軍馬も入れない山深い地域)に住む人々の事で、揚子江南部から南シナ海
に至る、その当時は広大な山々の中に深い森がうっそうと生い茂っている地域。

大陸中部(揚子江北部)に住む漢民族が揚子江を渡って、武力で揚子江南側流域を占領支配しだしたので、揚子江
南側流域で生活していた倭人の祖先は、漢民族との戦いに敗れ揚子江河口から小船で日本に逃れたり、揚子江を
上流へと逃げていって未開の山奥地域へ逃れたりした。(揚子江を上流へと逃げた中にはネパールまで達した倭人の祖先もいた。)

しかし大半の倭人の祖先は、揚子江南部の深い森がうっそうと生い茂る山岳地帯に逃げ込んで、漢民族との戦争を数百年間に渡ってくり返した。
こうした揚子江南部の山岳地帯に逃げ込んで住み着いた、倭人の祖先の事を邪馬支那人と呼んだ。
(支那大陸で漢民族の軍馬も入れない山岳地域に住む人々の事を、邪馬支那人と漢字に置き換えた。)

114韋駄天はふと考えた:2007/06/06(水) 20:30:59
京都市山科区(教徒氏邪馬支那区)

何百年にも渡る、漢民族の南下支配戦争で土地を奪われないために戦う邪馬支那人との戦いは、漢民族の方が組織力においても、
使用する武器においても、兵士数においても圧倒的に優勢だった。
一方、土地を守るために防戦一方の邪馬支那人は、団結力に弱く集落単位や部族単位の小国で戦うばかりとなり、各地で邪馬支那人の
小国は滅ぼされていった。

滅ぼされた小国で軍人として戦った武人とその家族は、漢民族支配からの虐殺と迫害を逃れて、はるか昔に日本へ移住していった
同族の縁故を頼って、次々に日本へと亡命していった。
これらの亡命邪馬支那人らは、元々が漢民族と長年戦い続けた生粋の武人であるので、流れ着いた日本の教徒集落(古代の京都市内)
の、宗教関係者や大商人から、警護や罪人の取り締まりをする傭兵として雇われた。

邪馬支那武人は、生まれ育った土地が日本ではなく、日本の土地風土のしがらみに縛られる事がない。
同郷出身の罪人に情けをかけて悪事を見逃がしたり、同郷出身の盗賊や強盗に協力して極秘情報を教える事がなかった。

そのため金で雇われた雇い主を裏切る事が少なかったので、邪馬支那武人は安心して使える傭兵として重宝される。
傭兵として成功した邪馬支那武人は、大陸で迫害されている一族を呼び寄せて、大陸から続々と邪馬支那人が移住してきた。

115韋駄天はふと考えた:2007/06/06(水) 20:32:11
京都市山科区(教徒氏邪馬支那区)

大陸から渡ってきた邪馬支那武人の多くは、祖国で地位の高い武人として働いていた者が多く、漢民族の南下支配戦争に
敗れて祖国を追われた武人が、捕まって家族皆殺しの処刑から逃れるため、追っ手がやってこない、はるか遠い日本に
家族ごと逃れて来たケースが多かった。
そして支那大陸に残った親類縁者も敗北者や反乱者としてのレッテルを貼られて、漢民族の権力者から様々な迫害を受けていた。
こうした敗残者の一族は成功するあてのない支那大陸を捨てて、傭兵として親類が成功した日本へと、一族ごと積極的に移住していった。

これらの邪馬支那武人の傭兵と家族、そして移住してきた邪馬支那武人の一族を住まわすために、教徒集落(古代の京都市内)
から東に山ひとつ隔てた、東から教徒集落へ向かう交通の要所である地区に住まわせるようになった。

邪馬支那人の集落となったその地区は、邪馬支那(ヤマシナ)と呼ばれるようになり、
いつしか、邪馬支那(ヤマシナ)地区は、漢民族拡大国家政策により周辺国への支配地域拡大侵略戦争に敗れて
大陸から逃げ渡ってきた渡来人を住まわせる地区となり、大陸の邪馬支那地方(揚子江南部全域)の渡来倭人だけでなく、
大陸の北方系渡来人(モンゴル系渡来人、満州系渡来人)までもが漢民族との戦いに敗れて、日本に逃げ渡って住み着くようになった。

その後、朝廷が首都を奈良の都から教徒集落に移して平安時代の幕開けとなる。
その際に、邪馬支那(ヤマシナ)から山科(ヤマシナ)と名前を変えられて、今日までこの漢字と呼び名が使われている。

116韋駄天はふと考えた:2007/06/06(水) 20:53:00
京都市山科区(教徒氏邪馬支那区)

邪馬台国とは、正式には邪馬大国と呼び、この呼び名の意味は、軍馬が使えない山々に囲まれたたくさんの小国が、
互いに連合して大国となり、漢民族国家の南下戦争に対抗して祖国を守るために生まれた集合大国家である。

邪馬大国が生まれるまでの邪馬支那人達の戦いは、小国の部族単位や集落単位でしか漢民族軍と戦わなかったので、
各地の小国が滅ぼされて漢民族国家の支配下となっていった。

そんな戦いが数百年間続いて、ようやく邪馬支那人達も団結しなければ、漢民族軍には勝てない事に気づいて、
小国同士が集まっての初の集合国家が誕生した。
この集合国家には、遠く離れた九州の同族の邪馬支那倭人の小国らも多数参加している。

集合大国家として誕生し、邪馬大国の中心的役割を果たす女王が住む代表小国を、すなわち邪馬台国と呼ぶようになった。
邪馬台国とは、集合国家邪馬大国の中心的役割を果たす女王の住む集落小国で、邪馬台国の名前の通りに、漢民族の
軍馬も入れない山岳地域の中でも、さらに高台に位置する場所に女王卑弥呼の住む集落小国があった。

女王卑弥呼は宗教的儀式をとり行う巫女であり、集落の近くの神が祭ってある山の頂上に上っては、戦いに勝つための
占いに神事や、豊作祈願の神事をとり行っていた。

女王卑弥呼の占いと神事によって戦いは勝利しまくって、卑弥呼の呪いで運の落ちた漢民族軍は次々に破れてはいったが、
女王卑弥呼が死去して、男の王が邪馬大国の中心的役割を果たすと、侵攻してくる漢民族軍の前に次々に敗れては、
邪馬大国の団結がなくなり、漢民族軍に寝返る小国や、邪馬大国内で内戦を起こす小国まで現れた。

男の王が失脚して、次の女王が立ったものの、数十年後に死去すると、再び侵攻してくる漢民族軍の前に次々に小国が
敗れていき、ついに邪馬大国は消滅。部族単位や集落単位の小国で戦う事になった邪馬支那人国家は、次々に漢民族軍
に征服されて、漢民族軍に抵抗する邪馬支那人国家はいなくなり、邪馬大国は歴史から消滅させられた。

117韋駄天はふと考えた:2007/06/06(水) 20:54:26
蝦夷(エミシ)

現在のロシア極東のウラジオストック付近から日本海を渡って秋田地方に渡って来た
コーカソイド系とモンゴル系の混血種(混血白人)の渡来人。

渡来してきた目的は、ロシア極東地域で移民のコーカソイド系住民が先住民である
モンゴル系住民を、軍事力で支配しようと権力争いが発生したが、人口数に劣る
コーカソイド系住民が敗れて虐殺された。

この争いによって、コーカソイド系とモンゴル系の混血種(混血白人)住民にも迫害の
手が延びてきたので、極東沿岸の海岸付近に住むコーカソイド系とモンゴル系の混血種
(混血白人)住民は、虐殺から逃れるために百人単位の集落規模で船に乗って日本海を
渡って、日本の東北地方の秋田付近にたどり着いた。(大和朝廷時代ごろか?)

その後、東北地方に住み着いていた先住民のアイヌ人を支配して同化(アイヌ人との混血化)
していくことで秋田地方から東北地方に広く分布するようになる。

蝦夷(エミシ)とアイヌ系先住民とでは微妙に違い、蝦夷(エミシ)はコーカソイド系白人に
近い肌色と目鼻立ちをしている。

118韋駄天はふと考えた:2007/06/06(水) 20:56:04
蝦夷(エミシ)

現在のロシア極東のウラジオストック付近から日本海を渡って秋田地方に渡って来た
コーカソイド系とモンゴル系の混血種(混血白人)の渡来人。

渡来してきた目的は、ロシア極東地域で移民のコーカソイド系住民が先住民である
モンゴル系住民を、軍事力で支配しようと権力争いが発生したが、人口数に劣る
コーカソイド系住民が敗れて虐殺された。

この争いによって、コーカソイド系とモンゴル系の混血種(混血白人)住民にも迫害の
手が延びてきたので、極東沿岸の海岸付近に住むコーカソイド系とモンゴル系の混血種
(混血白人)住民は、虐殺から逃れるために百人単位の集落規模で船に乗って日本海を
渡って、日本の東北地方の秋田付近にたどり着いた。(大和朝廷時代ごろか?)

その後、東北地方に住み着いていた先住民のアイヌ人を支配して同化(アイヌ人との混血化)
していくことで秋田地方から東北地方に広く分布するようになる。

蝦夷(エミシ)とアイヌ系先住民とでは微妙に違い、蝦夷(エミシ)はコーカソイド系白人に
近い肌色と目鼻立ちをしている。

119韋駄天はふと考えた:2007/06/06(水) 20:57:34
蝦夷(エミシ)

東北地方全域で、アイヌ系先住民人との間で混血化が進み、さらに東北地方が軍事力で平定された
平安時代以降、東北地方に移住してきた半島系渡来人(弥生人)、支那系渡来人、倭人(支那系
渡来人と縄文先住民との混血)らとの混血化が進んで、コーカソイド系白人特有の面影は消えていった。

しかし一番最初に渡来した秋田地方では、コーカソイド系白人の血を濃く持つ住民の子孫が数多く残った。

このコーカソイド系とモンゴル系の混血種(混血白人)住民の事を、平安時代に東北地方を平定する
以前の朝廷は蝦夷(エミシ)と名づけて、縄文先住倭人や渡来系倭人と区別した。

東北地方を支配していたアテルイや配下の部下達は、あまり混血化が進んでおらず、白人特有の肌が白く、
鼻が高い目鼻立ちのくっきりした外人顔をしていた。


東北地方に広く分布する蝦夷(エミシ)の子孫の特徴

九州地方の倭人の子孫が九州男児と呼ばれることがあるが、東北地方の蝦夷(エミシ)の子孫が東北男児と
呼ばれることはない。
九州地方の倭人の子孫は、単純明快な性格で、忠義に厚く、勇猛果敢で卑怯な事を嫌うので、そうした
性格の九州出身の男性の事を、九州男児と褒め称えるのに使われる。

120韋駄天はふと考えた:2007/06/06(水) 21:38:40
邪馬台国=馬が邪魔になる国=邪馬という国名が使われている国全部

この国に行くには、未開の山々の中を森がうっそうと生い茂っていて、
狭くて曲がりくねった急な山道ばかりで、連れて行った馬が邪魔になることから。


投馬国=馬を海に投げ捨てる国=周囲を海に囲まれた小さい島の国=琉球諸島のどこかの島

この国に行くには、シケで大荒れの海に、重たい馬を投げ捨てなれば船が沈んでしまうことから。

121韋駄天はふと考えた:2007/06/06(水) 23:34:54
京都市山科区(教徒氏邪馬支那区・キョウトシヤマシナク)

「平安京」と朝廷が名づけた新しい首都の名前は、「平安京」ができる以前の、古くから住んでいる京都の
住民に全く根付かなかった。

大和朝廷は、飛鳥地方から奈良地方に首都を遷都した際に、大陸の大国家である漢民族国家の首都をマネ
して、新しい首都の名前を、「平城京」と名づけて、南北に整然と区分けされた大通りと町並みも、
漢民族国家の首都をそっくりマネした。

しかし、奈良地域に古くから住む先住豪族や先住農民に、朝廷が決めた新しい名前の「平城京」を
使う事はなく、奈良のままで現代にまで至っている。なぜか?
奈良地域に古くから住む先住豪族や先住農民の大部分は、血筋で見ると縄文系先住民か大陸渡来系倭人か、
縄文人と大陸渡来系倭人の混血も数多くいた。

しかし、飛鳥朝廷時代から奈良盆地を支配している大和朝廷は、弥生系半島渡来人と漢民族系大陸渡来人で
構成されていた。
縄文系先住民にとって、侵略者であり征服者である弥生系半島渡来人の決めた「平城京」なんて名前を
使うのは屈辱以外の何者でもない。

また大陸渡来系倭人にとって、揚子江流域の大陸を追われた理由が、漢民族による南下征服のせいで日本に
逃れてきたのに、日本においても、漢民族系大陸渡来人の首都をマネた「平城京」なんて名前を使うのは
屈辱以外の何者でもない。

こうした経緯もあり、朝廷がどれだけ新しい首都「平城京」を使わせようとしても、古くから住む先住豪族や
先住農民には、昔から呼び慣れた「奈良」という地名を決して捨てなかった。
結局、朝廷の目論見は大失敗に終わり、「平城京」の名前はいつしか時代と共に忘れ去られていった。

現代の奈良市に住む住民も、自分の住む町が「平城京」であったなんて、どうでもいい事になっている。

122韋駄天はふと考えた:2007/06/06(水) 23:37:25
京都市山科区(教徒氏邪馬支那区・キョウトシヤマシナク)

「平城京」の地名も住民に使われずに、奈良の町の発展が停滞している頃、奈良より少し北の盆地で宗教関係者が
集まってできた教徒(キョウト)の集落が、「平城京」のある奈良の町より大発展を遂げてきた。
日本最大の都として、大きく発展しつつある教徒(キョウト)の集落に目をつけた朝廷は、ここに朝廷の首都を
遷都する事に決定した。

新しい首都の名前は「平安京」と名づけられて、南北に整然と区分けされた大通りと町並みも、漢民族国家の
首都を再びそっくりマネした。

しかし、ここでもまた古くから教徒(キョウト)の集落に住み続けている、先住宗教家や先住商人に、
先住豪族や先住農民に、新しい首都の名前「平安京」は全く受け入れられずに、教徒(キョウト)と
呼び続けていた。またしても朝廷の権威と威厳は地に落ちた。

どれだけ朝廷や役人が「平安京」と呼ばせるようにしても、住民は昔から呼び慣れている教徒(キョウト)
の地名を捨てることはなく、「平安京」なんて地名は誰もが無視している有様だった。
朝廷は、教徒(キョウト)の都に住む先住民に「平安京」と呼ばせる事をしぶしぶあきらめた。

そこで朝廷は、「平安京」の代わりに、教徒(キョウト)の都の地名と漢字を少し変えるだけにした。
それが、教徒の都(キョウトノミヤコ)から京の都(キョウノミヤコ)であった。
この地名ならば、住民も受け入れてくれるだろうと朝廷は考えた。

この新しい呼び名の京の都(キョウノミヤコ)という地名を受け入れてくれる住民もかなりあったが、昔からの
呼び名の教徒(キョウト)にこだわり続ける住民も大勢いた。
しかし数年すれば、京の都(キョウノミヤコ)という呼び名も誰も使わなくなり、教徒(キョウト)という
呼びやすい地名で呼ぶ住民だらけになった。

123韋駄天はふと考えた:2007/06/06(水) 23:48:28
京都市山科区(教徒氏邪馬支那区・キョウトシヤマシナク)

ここでも、朝廷の権威と威厳は地に落ちた。
武力では征服できても、住民の生活までは征服はできなかったのだ。

弥生系半島渡来人と漢民族系大陸渡来人で固める征服側の朝廷と、縄文系先住民か大陸渡来系倭人か双方の
混血かで固める征服された側の住民との間には大きな温度差があった。

結局、朝廷は教徒(キョウト)の住民に完全屈服した。
教徒の呼び名を地名として正式に認める代わりに、教徒(キョウト)を京都(キョウト)と、
漢字だけを変更して、宗教都市をイメージさせる教徒の漢字を使わないようにさせて、天皇が住む首都として
の京都という漢字にすることで、朝廷の権威と威厳の面目をかろうじて保った。

奈良時代や平安時代初期でさえ、天皇や朝廷の威厳と権威はこの程度にまで低かったのだから、時代が移り
変わって、平安時代末期、鎌倉時代、室町時代、江戸時代には、天皇や朝廷の威厳と権威は形だけの物となった。

天皇や朝廷(宮内庁)の権威と威厳が最高点に達したのは、明治維新が起きて明治時代に入ってからだった。
そして大正時代から昭和20年まで天皇や朝廷(宮内庁)の権威と威厳が続いたが、第二次世界大戦後の
現在には、天皇や朝廷(宮内庁)の権威と威厳は地にまでは落ちていない程度まで下がった。

結局、天皇や朝廷(宮内庁)の権威と威厳にしがみつく連中は、弥生系半島渡来人の子孫と漢民族系大陸渡来人の
子孫ばかりで、縄文系先住民の子孫か大陸渡来系倭人の子孫か双方の混血の子孫の間では、奈良時代や平安時代の
住民のような感覚で、征服者の権威と威厳などどうでもいいとしか思っていない。

124韋駄天はふと考えた:2007/09/03(月) 03:24:08
朝鮮半島本家の百済国王が、九州に侵攻して勢力を伸ばした分家の天皇家に命令

百済国王「大隈国(大隈半島)にそちの領地を与える。」(後に大隈半島に小さい天皇陵を建設)
百済分家の天皇「ははーっ。我が一族ありがたき幸せに存知まする。」

百済国王「そちの征服の活躍は見事である。日向国にそちの領地を与える。」(後に日向国に少し大きい天皇陵を建設)
百済分家の天皇「ははーっ。我が一族ありがたき幸せに存知まする。」

百済国王「奴国(福岡市付近の国)が、百済に対して反乱を起こした。」
「ただちに兵を率いて日向国から討伐に向かえよ。」(騎馬兵を中心とした三千人余りの兵士)
百済分家の天皇「ははーっ。ただちに討伐に向かいまする。」

百済国王「まずい。奴国(福岡市付近の国)の反乱勢力に熊襲国が加わった。」
「ただちに兵を引き返して熊襲国の討伐に向かえよ。」(騎馬兵を中心とした三千人余りの兵士が肥後山中で戦うも惨敗)
百済分家の天皇「ははーっ。ただちに熊襲の討伐に向かいまする。」

百済国王「これはまずい。我が精鋭軍が奴国(福岡市付近の国)と熊襲国の連合軍に敗れたわい。」
「我が軍は奴国討伐を放棄して百済に戻る。そちは戦うか降伏するか勝手にせい。」(奴国金印を志賀島に埋めて、百済軍は船で半島の百済本国に帰国)
百済分家の天皇「しょんなー。我らを見捨てるおつもりですか?」

奴国と熊襲国の連合軍が日向国に攻め入って、百済分家の天皇も滅亡

百済分家の天皇軍の残った残存兵力五百人余りは、日向の海岸伝いに船で北上して豊後から豊前(宇佐地方)へと逃げ延びる。

奴国と熊襲国の連合軍の追っ手が豊前にも迫ってきて、百済分家の天皇軍の残った残存兵力五百人余りは、
瀬戸内海を東へと逃れていって、河内(堺付近)の海岸にたどり着く。

さらに追っ手から逃れるために、船を捨てて陸路を東へと逃げ延びて、奈良の飛鳥地方に住み着く。

125韋駄天はふと考えた:2007/09/03(月) 03:39:30
生粋の日本人なら、お盆に故郷に里帰りして先祖のお墓を供養するのは、大切な行事
でも成りすまし日本人には故郷もなくお盆に里帰りする風習もない

お盆に里帰りをしない人達の一覧
創価学会や統一教会の信者
在日北朝鮮人の子孫
在日韓国人の子孫
在日部落民
在日百済人の天皇家

先祖代々のお墓が日本国内になくお盆に里帰りできないのに、
日本人に成りすます半島移民の子孫は哀れでつね

126韋駄天はふと考えた:2007/09/03(月) 03:40:22
朝鮮人の特徴→半島渡来民なので日本国内に古くからの先祖様のお墓と故郷がないから、お盆に里帰りもしない

部落民の特徴→半島渡来民なので日本国内に古くからの先祖様のお墓と故郷がないから、お盆に里帰りもしない

百済人天皇家の特徴→半島渡来民なので日本国内に古くからの先祖様のお墓と故郷がないから、お盆に里帰りもしない

127韋駄天はふと考えた:2007/09/03(月) 03:41:47
アメリカの歴史に例えるのなら
朝廷・皇室はネイティブインディアンの土地に侵略したヨーロッパ系白人

アメリカの歴史に例えるのなら
朝廷・皇室はネイティブインディアンの土地に侵略して征服したヨーロッパ系白人
天皇・皇室を崇拝する右翼は、アメリカで例えるなら、征服者の子孫、白人大統領を崇拝するのと同じ

純粋日本人はネイティブインディアンと同じだから、征服者の子孫、白人大統領を崇拝はしない
よって天皇・皇室を崇拝する馬鹿右翼は、全員半島移民の子孫ということになる

128韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 00:27:15
日本の教科書には絶対に載らない正しい歴史(たぶん)

江戸時代末期の幕末の動乱期に、長州人や薩摩人の士族の中に百済民の子孫と百済様式崇拝者が多数いたために、ペリー来航による幕末の動乱を利用して、百済王族の血を引く天皇家の権威復興を目的として、クーデター(明治維新)を成功させた。(大政奉還)
革命に成功して日本を乗っ取った百済民の子孫と百済様式崇拝者達は、さっそく百済王族の血を引く天皇家の完全復興のために、天皇をこの世で唯一絶対の神として位置づけて、仏教教育を廃止して、天皇と神道を結びつけた神道教育を新たに作り、神道教育の徹底化を図るために、靖国神社を本殿として日本各地や海外の植民地までにも、護国神社を建設しまくった。

そして軍隊教育や学校教育に、神道教育を通じて天皇と皇室を神とあがめて、崇拝するようにとの洗脳教育を徹底させた。
天皇陛下という神の住まわる神の国ならば、邪教を崇拝する諸外国に対して、大日本帝国の皇軍は連戦連勝であるとの妄言を信じて、明治以降ひたすら軍備拡張と侵略戦争の道に突き進んだ。

特に百済本国があった朝鮮半島での覇権争いに関しては、執念の感情で突き進んでは、清王朝やロシア帝国との間で多大なる日本人の犠牲を出しながらも、朝鮮半島の覇権に執着心を見せて朝鮮半島全域の占領に成功した。
また、朝鮮半島全域を完全支配するやいなや、百済王家の血を引く天皇を崇拝する百済民の子孫と百済様式崇拝者達は、かっての百済国を侵略して滅ぼした、憎っくき高句麗人や韓人に対して、徹底的な民族差別を行って弾圧による圧政を朝鮮半島で続けた。
さらには、百済国を滅ぼした高句麗人や韓人を支援した満州人に対しても、憎しみを高めて、皇軍を満州へと侵略させて満州全域の植民地化に成功した。
そして満州においても、百済王家の血を引く天皇を崇拝する百済民の子孫と百済様式崇拝者達は、満州人に対して徹底的な民族差別を行い、弾圧政治でもって満州国を支配した。

百済王家の血を引く天皇を崇拝する百済民の子孫と百済様式崇拝者達の傍若無人ぶりは、これだけでは済まなかった。
さらに長年朝鮮半島を属国化し続けて、百済国が滅亡後も、朝鮮半島でひそかに暮らす百済系住民らを差別して支配した漢人に対しても、百済王家の血を引く天皇を崇拝する百済民の子孫と百済様式崇拝者達は憎しみの憎悪をたぎらせて、皇軍を日中戦争へと駆り立てた。
そして中国大陸で、皇軍の突き進む所すべてに漢人の血と死体があふれ返る惨状となった。

だが、百済王家の血を引く天皇を崇拝する百済民の子孫と百済様式崇拝者達が率いる、皇軍の傍若無人で残虐な快進撃はここまでだった。
天皇陛下という神の住まわる神の国ならば、大日本帝国の皇軍は連戦連勝であるとの妄言を信じた馬鹿右翼の暴走は、キリスト教徒の国々にも向けられて第二次世界大戦に参加することとなる。
そして大日本帝国の皇軍は太平洋の島々で、アメリカ軍の怒涛の進撃の前に完膚なきまで叩き潰されて、皇軍は玉砕と特攻で壊滅する。

1945年、破壊信仰であるキリスト教徒のアメリカ軍に原爆を2発も落とされて、アメリカと連合国の前に敗戦して終戦を迎える。
だがしかし、アメリカ進駐軍の日本占領政策の方針によって、天皇と天皇一族は戦争犯罪の処罰を逃れて、皇室は潰されることなく生き延びることができた。

天皇と皇室が現代においても生き延びた以上、百済民の子孫と百済様式崇拝者の馬鹿右翼達は、再び、百済王族の血を引く天皇家の権威復興を目的として、今日でも、なお根深い洗脳教育活動をし続けている。

129韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 00:30:27
百済人の天皇を崇拝する、百済移民の子孫である馬鹿右翼達が、自分達の百済様式の価値観を、先住民族である純粋日本人らに、明治から現代までずっと押し付けてるのかよ

百済移民の子孫や百済様式の崇拝者である馬鹿右翼達が、百済人王族の末裔である天皇をどれだけ崇拝しようが、日本列島の先住民族である純粋日本人には関係のないことなんだよ

馬鹿右翼の百済民の子孫と百済様式崇拝者は、百済国を侵略して滅ぼした高句麗人や韓人と、朝鮮半島の覇権争いで永久に争っていろよ

130韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 00:48:12
天皇と神道を結びつけて新しく作られた神道教徒は破壊信徒である。

スターリンとロシア白人を崇拝する馬鹿な共産主義者達も、馬鹿右翼の百済民の子孫と百済様式崇拝者達と同類の破壊信徒である。

また十字架にかけられて処刑されたイエスキリストの死体を崇拝する、キリスト教徒もまた同類の破壊信徒であり、聖戦と名乗っては異教徒に戦いを挑み続けるイスラム教徒もまた同類の破壊信徒である。

さらには、報復と名乗っては異教徒に攻撃と破壊を仕掛けるユダヤ教徒もまた同類の破壊信徒である。


これらの破壊信徒に共通するのは、異教徒に対して徹底的な弾圧と破壊と殺戮を行う集団であり、また同じ教徒であっても宗派が違うというだけで、異教徒と同じように徹底的な弾圧と破壊と殺戮を行う。

131韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 01:52:47
天皇が偉いとか、天皇が神とか言われた時代は明治から昭和20年までの
たかだか70数年で日本は戦争ばかりしてた

江戸時代は250年間も天皇は偉くもなく神でもなかったから
日本はずっと平和だった


天皇が偉くなり神になると戦争の人災が増える

132韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 07:16:44
日本人は礼儀・礼節をどうも勘違いしてます。
だから明治から戦前に至るまでは布切れである国旗や、権威しかない天皇ばかりを礼節・礼儀を尽くして大切に扱い、
国民や他民族の命には、礼節・礼儀を尽くすことなく、布切れのように粗末に扱ってきたのですよ。


礼儀・礼節とは、人の命や生き物の命を粗末に扱わずに、礼を持って尽くしなさいという意味です。
国家・国旗や国王・元首に礼を持って尽くすの礼儀・礼節ではないのですよ。わかりますか?

>格言:衣食足りて礼節を知る
この言葉の意味は、着る物も食べる物にも困らなければ。無駄な殺生がなくなり、人の命や生き物の命を
粗末に扱わずに、礼を持って尽くせるという意味です。

着る物がなければ、他人が着る物を命を殺してでも奪い、食べる物がなければ他人が
食べる物を命を殺してでも奪う。
欲を満たすためには必要以上の命を粗末に扱ってしまうから、衣食足りなければ人は礼節をわきまえずに、無礼な野蛮行為をしてしまう。


食べる魚を浴すれば、たとえ簡単に捕らえる事ができても、生きるのに必要な命だけを奪い、食べきれない命までは奪わずに水の中に戻してあげる。
これが本来の正しい礼儀・礼節です。

戦いで奪う人の命があれば、たとえ簡単に殺す事ができても、戦いに勝つだけの必要な人の命だけを奪い、勝利した後の必要のない人の命までは奪わずに住んでいた土地に帰してあげる。
これが本来の正しい礼儀・礼節です。

処刑で奪う人の命があれば、たとえ残酷無比に殺す事ができても、確実に処刑できる方法だけを使い、残酷無比な手段で充分に苦しめることなく安らかな死を与える。
これが本来の正しい礼儀・礼節です。

133韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 07:44:28
天皇や国旗に対して礼儀・礼節を尽くせ。と
ほざくバカ右翼やバカ軍人ほど、国民の生活と国民の命や、他民族の生活や他民族の命に対して、
礼儀・礼節を尽くさずに赤紙ひとつで徴兵しては、兵士を粗末に扱い、「戦って死ね。死ね。」「戦って殺せ。殺せ。」と
命令しては敵味方を殺しまくる。

134韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 07:55:57
人殺しマシーンの軍人の分際で礼儀とか礼節とか、ちゃんちゃらおかしいのう。

どこぞの軍人・ヤクザに礼儀・礼節をわきまえる奴がおるんじゃい。
そんな事したら人殺しもようできん兵隊しかおらんようになるわ。

おまえら軍人は礼儀・礼節をわきまえない野蛮行為ばかりを訓練したから、人をバンバン殺すことができるんだろが。
ちったあ、己を知れ!

135韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 09:12:30
元自衛官の大馬鹿は、軍人や兵士が礼儀・礼節を重んじるほど、戦争に負ける事を、全然理解していないようだな。
こんなのが自衛隊員の幹部ばかりで国防を任されているのだから始末に負えん。

戦国時代でも、近年の戦争も、軍人や兵士が礼儀・礼節を重んじるほど戦いで不利になっていく。

たとえば、ある部隊が攻撃してくる敵に対して反撃を仕掛ける前に、司令本部へ報告するような礼儀・礼節があるとする。
またある部隊が目の前の敵に攻撃したくても、司令本部から攻撃命令が出るまで攻撃できない礼儀・礼節があるとする。

しかし通信手段が途絶えている状況では、司令本部へ報告できないし、指令本部からの攻撃命令も届かない。

そこの部隊の指揮官が礼儀・礼節を重んじるような人物であれば、反撃に必要な時でさえ反撃命令を出さずに自分の部隊を壊滅させる。
そこの部隊の指揮官が礼儀・礼節を重んじるような人物であれば、攻撃命令が出なければ、ずっと待機したままで絶好の攻撃チャンスを逃してしまう。

もしそこの部隊の指揮官が礼儀・礼節を無視する人物であれば、反撃に必要な時は、司令本部に指示を仰がずに独断ですかさず反撃命令を出しては、自分の部隊の壊滅危機を救う。
もしそこの部隊の指揮官が礼儀・礼節を無視する人物であれば、司令本部からの攻撃命令が出なくても、独断で部隊に攻撃命令をすかさず出して、絶好の攻撃チャンスを生かして勝利できる。

136韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 09:13:21
この元自衛官の大馬鹿は、軍人が礼儀・礼節を重んじるから、太平洋戦争に負けた事を、全然理解していないようだな。
こんなのが自衛隊員の幹部ばかりだから始末に負えん。

「上官の命令は天皇陛下の命令である。」と叩き込まれては、戦場で臨機応変に戦うことすらできずに各地で皇軍は敗れ去った。

東京の大本営が決定した作戦命令と占領期日命令を忠実に守り、戦場の状況に合わせて臨機応変に作戦を変更しないばかりか、占領期日の変更も臨機応変にしなかったせいで、強引で無理な作戦命令を実行し続けては、無駄な兵士の命ばかりが失われた。

137韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 09:16:16
元自衛官の大馬鹿は、軍人が礼儀・礼節を重んじるから、太平洋戦争に負けた事を、全然理解していないようだな。

国旗ひとつ取り戻すために、無謀な作戦をくり返しては敗北を重ねて。
皇室の祭事の期日に合わせるために、無謀な作戦をくり返しては敗北を重ねていき。
天皇の占領地ひとつ取り戻すために、無謀な作戦をくり返しては敗北を重ねていった。

元自衛官の大馬鹿は、戦場で国旗ひとつを守り通すために、どれだけの兵士の命が無駄になったか知らないようだ。
元自衛官の大馬鹿は、戦場で菊の御紋ひとつを守り通すために、どれだけの兵士の命が無駄になったか知らないようだ。

138韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 09:31:07
規律・規則・礼儀・礼節・作法
すべて同じなんだよ。

事前にあらかじめ決められている手順の事を、規律・規則・礼儀・礼節・作法と呼ぶ。

上官に対して礼をする時には、どういう場合で角度が何度と事前に決められている。
事前に決められている事を忠実に実行することで、規律・規則・礼儀・礼節・作法のいずれかを重んじたことになる。


元自衛官のような軍人は、あらかじめ決められていた事を、部下に忠実に守らせるだけの大馬鹿ばかりだから、いざ本当の戦いには勝てないで負けてばかりとなる。
戦場はめまぐるしく変わる生き物。
戦争において、あらかじめ決められていた事を、忠実に守るだけで戦いに勝てると教える教官も馬鹿だが、教えられた事に何の疑問すら持たない兵士も馬鹿すぎる。

ちったあ、過去の戦訓を教訓にするなり分析するなりして、研究しろよな。日本の国防を任されている大馬鹿軍人どもめ。

139韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 09:48:31
戦いに負ける側は、いつも規律・規則・礼儀・礼節・作法を重んじる人物

硫黄島の戦いで日本軍がアメリカ軍上陸部隊に勝ったのなら、栗林中将の礼儀正しさを評価してやるが、結果は敗軍の将なんだから評価にもならんよ。
「軍人は勝ってなんぼの世界」
負け戦なのに礼儀が正しかったからどうとか、最大級に評価するのは勝った側の司令官と大将だけ。

たいがい負けた側の司令官や大将は礼儀正しい人物が多いもんなんだよ。
豊臣秀吉に負けた明智光秀もそうだし。
徳川家康に負けた石田光成にしてもそうだし。

戦争に勝つ側にとって、礼儀正しい軍人がたくさんいる敵ほど、楽に潰せる相手はいないよ。
何しろ敵の戦い方が、規律・規則・礼儀・礼節・作法で、あらかじめ事前に決められていて、手の内が読めるのだから楽すぎるよ。

140韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 10:11:14
>日本人は礼儀・礼節において世界NO.1だったからだよ。
>礼儀・礼節は最大の武器であり、戦略なんだよ。

礼儀・礼節を重んじた結果、礼儀知らずの戦争大国アメリカの、忠犬にポチ公に、日本が成り下がった分際で何の説得力にもならん。

教科書でも、明智光秀よりも豊臣秀吉が評価されて、石田光成よりも徳川家康が評価されているようでは、礼儀・礼節を重んじることがいかに馬鹿馬鹿しい事かわかるだろ。

カタギに対して無礼極まるヤクザが成金になり、犯罪者相手にすら礼儀・礼節を重んじた庶民が貧乏人になるご時世に、なにをいわんかや。

141韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 10:33:39
礼儀・礼節知らずでアメリカ大陸に移住してきて、アメリカインディアンをだましては皆殺しにしまくった、キリスト教徒のアメリカ白人国家が、
世界一の経済大国と世界一の軍事大国になり、礼儀・礼節を重んじてアメリカとの戦争に負けた日本人らが、そんな無礼で礼儀知らずのアメリカを尊敬してあこがれを抱いている現実を、おまえらは無視するなよ。

142韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 10:39:05
つまりは尊王派の言いたい事は、

日本国民は全員、天皇陛下を崇拝し、礼儀・礼節を尊重して、
無礼で礼儀知らずのアメリカ様の犬となり、キリスト教徒らによる世界完全征服の野望に、天皇を崇拝する日本人は礼儀・礼節を持って手を貸しなさいと。

143韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 10:43:24
所詮は、何事も欧米の真似事をせよと言いたいだけか?
大臣の任命式なんぞ、ネクタイ締めて欧米様式の正装に身を包んで、欧米の真似事をそっくりそのまま日本人にやらせているだけだろ。
そっくりそのまま欧米の真似事をすることが、礼儀礼節を守ったことになり正しい行動規範と言いたいのか?

それって、ただのキリスト教徒崇拝じゃねえか。

144韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 10:54:01
ここからのコピペ

【論説】国旗素通り、天皇陛下より早く頭上げる…新閣僚は大臣たるべき礼節を知れ★5
ttp://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1188822934/

446 :名無しさん@八周年:2007/09/04(火) 10:52:02 ID:4B6weskB0
日本古来の伝統文化を捨ててネクタイ締めて燕尾服に身をまとい、欧米様式の大臣任命式に参加して、
礼儀・礼節を持って日本古来の神道と天皇を崇拝して、アメリカ様の政策に「ハイハイ」と忠実に守り、
何かとキリスト教徒国家の欧米を先進国に見立てて、文化から教育に至るまで何もかも欧米の後ろをついて歩き、
天皇と靖国だけは日本独自の文化をかたくなに守ろうとするのが尊王派の考え。

145韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 11:05:01
武士道精神と尊皇精神は両立しないんだけど。

明治維新後に日本の誇る武士道精神を捨てさせて、武士道精神の誇りの場所であった日本全国の城郭を取り壊して、欧米の文化を取り入れて欧米の真似事ばかりしたのが、天皇を神とあがめる尊皇精神の人達なんだけど。

146韋駄天はふと考えた:2007/09/04(火) 11:17:05
日本全国の城や武家屋敷を片っ端から破壊しまくった、無礼で礼儀知らずの、天皇を崇拝する尊王派に日本の伝統文化を守れとか、礼儀・礼節を尽くせとか、どうのこうの言われたくはないな。

なにしろ尊王派は太平洋戦争で、アメリカ相手に無謀な戦争を仕掛けて、アメリカ軍の空爆を受けて日本全土を焦土にさせやがった。
日本の貴重な城下町がことごとく焼失したのも天皇を崇拝する尊王派のせい。

天皇を崇拝する尊王派は、日本が数百年もかけて築き上げてきた国宝級の城と武家屋敷と城下町を全部返せよ!

おまえら天皇を崇拝する尊王派のせいで、どれだけの日本文化が欧米様式文化に変えられて、どれだけの国宝級の城や武家屋敷が取り壊されて、
どれだけの世界遺産となる古き良き日本の城下町が、空襲とともに焼失していったと思っているんだよ。

それなのに日本文化の破壊を反省するどころか、再び天皇を崇拝する尊王派の台頭を期待するとは。

147韋駄天はふと考えた:2008/04/17(木) 23:26:50
百済人=朝鮮半島の先住民族であったが、高句麗人と漢人の半島侵略によって滅ぼされて
虐殺を逃れて難民化した百済人の数万人〜数十万人が日本各地へ逃げ延びる
その百済難民を保護して経済力と軍事力を急速に高めていったのが、かって百済王家の分家だった天皇家

一方で半島に残った百済人は、韓人から徹底的に身分差別されて現在に至る


韓国人=高句麗人(満州人)と漢人(シナ人)の混血で、自分達の事を
漢人のあて字で韓人と呼ぶ

シナ大陸からの漢人の半島侵略移住で、百済人を半島から追い出した高句麗人との間で多数の混血を生み
それが後に韓国人と呼ばれる祖先となる

北朝鮮人=高句麗人と満州人の混血で、満州からの南下侵略で朝鮮半島北部に住み着く


韓国人がもし歴史ある百済人であれば、今でも自分達の事を百済人と呼ぶはず

148韋駄天はふと考えた:2008/04/17(木) 23:29:26
天皇家=百済王家の分家であり 当時日本の中心地であった 邪馬台国とは一切の関わりがない

百済本家が滅亡後に 本格的に天皇家を名乗って
天皇家の歴史を改ざんして 日本書紀などに記録させる


百済を滅ぼして
朝鮮半島の先住民族である
百済民を日本に追放した

満州地流れの高句麗人(北朝人)と
漢人の混血児(韓人)の末裔がいまさら何を自慢する

おまえら韓人(韓国人)と百済人とでは血筋がつながっていないんだよ


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板