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((舞))((ダンス))((踊))

14ジョージ:2003/12/05(金) 13:53
■『デザイン空間の発生〜建築・ダンス・情報・デザイン』■
〜荒川修作+マドリン・ギンズ『奈義の龍安寺・心』にそって〜

<3>ダンスの死から「スペースダンス=空間の舞踏」へ


 私はこんな空間が出現するのを待っていたのだ。私は舞踏家として、劇場の外側に立った身体が社会的仕事をはじめるために、身体と一体的な環境を形成する空間の側の「パートナー」を捜していた。その時、この空間に出会ったことになる。最初に『奈義の龍安寺・心』に入った時に、これが通常の感覚の撹乱装置とは違い、身体の未知な種類の秩序化を求めてくることを感じたので、たしかにこれは人間が空間に新しく住むためのタイムトンネルのようなものに違いないと思った。この脈略から、荒川の「劇場、画廊、美術館の時代は終わる」という言葉にも、思い当るものがあった。私は日本と海外を往復する活動のなかで、日本の舞踏の限界と残された可能性を考えていくうちに、ダンスに対しては「ダンスの後に、ダンスを構成する世界として関係した要素が実在の世界として登場してこないかぎり、ダンスは無力であり、ダンスをとりまく社会的環境も成熟していない」と考えるようになっていた。芸術はすでに、モノの生産に関係するという芸術本来の原点にかえるべき時代に入っており、既成の劇場空間では本質的コミュニケーションが失われつつあるという事実もまた、自明なものになってきた。ダンスとはもはや、劇場の幸福な平面上での、優等生的な「私という自己」の表現ではありえない。この関係を脱出できない20世紀のダンスは死んでいくしかないのである。

 私がここに導入したい「スペースダンス=空間の舞踏」もまた、単に「空間のなかでバランスをとり、空間のなかの価値を発見する動作が結果として形=フォルムとして現われる」という種類のもので、この意味で誰にとっても容易なものである。ここには、通常のダンスのように、表現すべき「物語」も、類型的な身体テクニックも存在しない。「スペースダンス」のなかでは、私が踊るのではなく、私は身体から空間に退避し、身体は空間のなかのモノと一体系をつくり、空間が踊るのである。私は空間のなかに偏在し、ただ身体の体験を集めて編集するだけでいい。ダンスを見る人びとも、私をみるのではなく、踊る空間を見ている。これが、新しい時代の「空間の舞踏」である。同様に、空間もまた、当然のことに以上のような私の動きに対応するものであって欲しい。私の住みかは、身体ではなく、空間なのだ。私もまた、身体こそ私の住所という幻想から脱出したいが、空間もまた、自分の場所をあけ渡さずに私を身体におし込めるやり方を中断して欲しい。空間とは本来、このように私の言い分と不可分の存在であった。空間が以上のような身体との交通を拒否するところで私だけが努力しても、徒労だけが残ることになる。現代ではこの徒労感が、劇場空間だけではなく、なによりも建築と都市の全体にまで広がっているのだ。


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