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大奥の奥は御釜の素

1初島:2003/07/16(水) 03:25
瀧山はたしか四谷に住む鉄砲百人組の伊賀組与力で八十石高という微禄の下級武士・大岡権左右衛門の長女。本名は多喜(たき)。家が貧しいので幼少の頃から手内職をしていたそうです。したがって本来なれば「お目見え以下」の低い身分だったのですが、叔母の染嶋が大奥女中をしていた縁故で数え年16歳の時に世子・家定(まだ幼名・政之助と呼ばれていた頃)の居る西の丸で奥勤めをはじめ、以来江戸城明け渡しにいたるまでの47年間を大奥女中として過ごした女性です。つまり維新の時には62歳になっていたわけですね。家慶・家定・家茂・慶喜の四代にわたる大樹に仕えて、御錠口番から御客会釈をへて御年寄にまで異数の累進を遂げて、弟の大岡忠右衛門を禄高五百石の御小納戸役という将軍近侍の役職にまで引き立てています。
家定の将軍襲職に従って本丸へ移り、本丸大奥の御年寄となって大老の井伊直弼と組み、慶喜擁立の為に島津家から輿入れして来た御台所・敬子(篤姫)を上手く感化して、家茂を将軍継嗣にせんとする紀伊派に転向させた話は有名ですよね。
とはいえ家茂が14代になると、その生母・実成院と対立するようになり、派手好きで酒浸りの実成院のはしたない振る舞いを使いの者を通して忠告したところ、これを根にもたれて、毒入りの鯉こくを飲まされたり部屋に放火されたりという目にあったとか。
ともあれ彼女は最後まで大奥御年寄として千代田の城にあって諸事を取り仕切り、出たり入ったりといったことはしていないようです。幕府瓦解後は叔母の染嶋と共に今日の川口へ移り住み明治9年に71歳で没しています。その墓は現在も川口市の寺にあり、何年か前に埼玉県の広報誌に写真入りで掲載されているのを知人に見せてもらったことがあります。


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