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立川談志 掲示板

27立川談志 掲示板:2011/11/29(火) 17:35:01
立川談志さん死去で4つの“ナゾ”と“伝説”
ttp://www.zakzak.co.jp/entertainment/ent-news/news/20111125/enn1111251243011-n1.htm

 落語界の異端児として縦横無尽に駆け抜け、75歳でこの世を去った立川談志さん。その死にも、さまざまなナゾ、伝説を残すことになりそうだ。 

■(1)なぜ密葬だったのか?

 立川談志さんは生前、落語の枕の中で有名な先達の例を引き合いに出し、「落語家が普通の葬儀やってちゃダメ。もっとバカ騒ぎをしないと」と苦言を呈したことがある。なのに、21日に喉頭がんのために都内の病院で亡くなった事実は23日まで弟子にも知らされず、家族のみでひっそり荼毘(だび)にふされた。

 ニッポン放送「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」に24日、生出演した立川志らく(48)が言った。

 「家元(談志さん)は『墓も、お経もいらねぇ。戒名も戒名代がもったいないから自分で決める、できれば病名は“ふとした病”がいいな』なんて言ってましたよ」

 芸を極めた自身は恬淡(てんたん)とした境地だったのか。談志さんに近い落語関係者が語る。

 「昨年11月にがんが再発。今年3月に気管を切開してからは、みるみる痩せていたようだ。弟子やファンの持つダンディーなイメージを損ないたくなかったのでしょう」

■(2)「談志」は誰が継ぐのか?

 立川談志さんが「立川流の傑作ですよ」と惜しみなく称えたのが人気者、立川志の輔(57)だ。

 「変な言い方だけど、自分だってそろそろ天狗になってもいい頃だと、そう思わないわけじゃないけど、やっぱり師匠がいるから、そうなれないんですよ」

 今年1月、志の輔がそう漏らしたことがある。談志さんの伝統とたたかう姿勢、落語に苦悩する姿は、売れっ子の弟子にさえ近寄りがたい神々しさだった。

 一門には、移籍して立川流の総領弟子(筆頭)となった桂文字助(65)がいる。さらには立川談春(45)、志らくという売れっ子もいる。

 一門の弟子たちは23日夜、会合を開いて談志さんが切り拓いた家元制度や真打ち認定の基準などについて、これまで通り継承することを話し合ったという。ゆくゆくは、弟子の誰かが“談志”を継ぐのだろうか。

 「談志さんは、桂三枝が“文枝襲名”の相談に来たときも、『三枝という名前は大きいんだから、やめろ』と反対したほどで、自身の名前も一代限りと思っていたのではないか。売れっ子の弟子たちもそれぞれの看板で大きくなった。名跡は談志さんの長男が預かる形になるのでは」(一門の事情に詳しいジャーナリスト)

■(3)密葬で流れた曲の意味

 家族が会見で明かしたところによると、密葬で流した曲は、「ザッツ・ア・プレンティ」。立川談志さんが大好きだったデキシーランドジャズのスタンダードナンバー。2009年8月に収録したNHKラジオ「新・話の泉」の中で、談志さんは「自分の葬儀で流してほしい曲」として、この曲を挙げていた。

 タイトルは“これで満足”。デキシーランドジャズのすばらしさを歌ったジャズの命とも言える曲。立川談志さんのライバルだった古今亭志ん朝は同じジャズでもモダンジャズを好んだ。談志さんが持つ“華”を象徴するようでもあった。

■(4)政界進出と失言、辞任

 立川談志さんは1971年に参院選に立候補し、全国区50人中50番目の最下位で初当選。「真打ちは最後に上がるもんだ」とオチを付けた。

 また、75年の参院議員時代、沖縄開発庁政務次官に就任。二日酔いで視察に出かけ地元メディアに「あなたは公務と酒とどちらが大切なんだ」と問われ「酒に決まってんだろ」と失言、議員を辞した。

 当時から親交のある、元衆院議員の戸塚進也氏(71)は、「本当に大事にしてもらった。思い出を言えばきりがない。同じ1年生議員として非常に仲良くさせてもらった」と語る。

 辞任劇では、「自分のやったことに責任を持ってスッパリとお辞めになってすごいと思った」。

 2005年に戸塚氏が掛川市長選に出馬したときには、選挙応援の口上を録音したテープをもらうなど、「ずっと応援してくれた」。

 最後に会ったのは昨年3月のパーティーの席上。「『どんな苦労があっても人間は一生自分の道を極めていかなければいけない』という言葉を頂いた。談志さんの遺言として受け止めています」


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