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文章鍛錬企画【同一プロット競作】5/15〜

22セタンタ:2004/06/02(水) 21:58
 沖揚げを終えた誠吾は、親方に呼び止められた。番屋の陰に連れて行かれ、声をひそめて囁かれた。「おめ、トミを覚えってっか?」誠吾の返事も待たずに、親方は早口で続けた。「あの淫売が戻ってきとる。昨日、ウチのおっかぁが見かけたんじゃが、たいそう垢抜けていて、ちっと見にはわがんねがったそうだ。だども、間違いなくトミだと、言っとる。何しに戻ってきたんだが。だがな、誠吾、会っても手ぇ、出すな。わがったな」
 誠吾は目の前が暗くなる思いがした。この十年間忘れようとも忘れる事の出来ない女の名だった。親方に釘を刺されたが、実際に会ってみたら何をしでかすか、自分にもわからなかった。親方が肩を叩いて立ち去った後も、誠吾は両脇に垂らした拳を握り締めたまま、そこに立ちつくしていた。

 翌朝、夜明け前に誠吾は弁天岩の突端に向かった。まだ、ほの暗かったが、通い慣れた道なので目を瞑っても歩く事ができた。朝露に濡れた草を踏みしめて行くと、松の幹にもたれかかって誰かがいた。誠吾は踵を返そうとし、落ちていた枝を踏んだ。パキッと音がして、先に来ていた人物が振り返った。
 頭は丸髷に結ってはいたが、洋装をした女だった。誠吾が立ち去ろうとすると、「もし!」と女が声をかけ、近づいてきた。色白で細面の、どこか寂しげな美しい女だった。
「あなたは、上田正造先生の息子さん?」細い声だった。村の女たちの浜言葉しか聞いた事のない誠吾には、硝子の風鈴のように聞こえた。誠吾は黙ったまま頷いた。
「やっぱり……。上田先生にそっくりだったから、もしや、と思ったのですが」
「親父を知っとるんですか?」誠吾はぼそっと聞いた。聞いてから、顔がさっと青ざめた。
「堪忍してくださいっ!」
 突然、女が誠吾の前に土下座した。額を地面にこすりつけるようにして、堪忍してください、の言葉を泣きながら繰り返した。誠吾は胸糞が悪くなり、吐き出すように怒鳴った。
「今さら、どのツラ下げて、そんな事が言えるんだよっ! てめぇ一人だけ生き残りやがって、てめぇのような淫売に親父はたぶらかされて、」
言葉が続かなくなり、誠吾はトミの体を蹴った。何度も何度も蹴りつけた。静寂の中、誠吾の蹴る音と、トミの「堪忍してください」の悲鳴のような声が響いた。
 ふいに、空気が震えた。
 下から、打ちつける波の音が聞こえた。獣の咆哮のような轟きに誠吾は我に返った。見下ろすと、トミは体を蹲ったまま泣いていた。誠吾の頬にも涙が伝っていた。
 いつの間にか、空は薄青に色を変えていた。昇りつつある陽に照らされ、遥かな海は、穏やかにその波を輝かせていた。浜から太鼓の打ち鳴らす音が聞こえた。もうじき漁が始まる。誠吾は拳で頬をこすると、浜へ向かって駆けていった。

       <了>


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