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文章鍛錬企画【コラボ即興文】4/22〜

32せたんた:2004/05/11(火) 23:11
       『突風』

 判で押した毎日ってのは僕のためにあるような言葉だ。毎日午前七時三十二分発の電車に押し込められ、車内は中年オヤジの加齢臭、OLの過剰なフレグランス、ファンデーションの匂いが充満している。朝食をとらない僕はその匂いを嗅ぐだけで胃がキリキリと痛む。
 もう駄目だ、我慢できない。
 電車の扉が開いた途端、僕らは、ドア近くにいる人々を押しのけて外へ出た。ベンチにへたり込み、両膝の間に顔をうずめる様にして俯いた。頭の上を人の通り過ぎる音や話し声が行き交う。電車の発車の合図の電子音と「白線の内側までお下がりください」のアナウンスが繰り返された。
 どれくらいそうしていたのだろう。僕が頭を上げた時、構内は閑散としていた。朝のラッシュは終わったらしい。時計を見上げると九時を過ぎていた。今から行っても予備校は遅刻。言い訳を考えるのも面倒だ。第一、僕が遅刻しようが欠席しようが、誰も気にしない。むしろ、一人でも多く脱落していくのを願っているだけだろう。
「このままサボって、どこかに行こうか」隣に座っているリンに声をかける。
「出来もしないくせに」リンが笑いを含んだ声で返事する。
 さわさわと、リンの髪が僕の頬にかかる。電車の中でOLの髪が顔にかかるのは鬱陶しいけれど、リンの髪は気にならない。リンの髪は細い繭糸のようで、静かな感触はいつも僕を慰めてくれた。
 僕は膝の間に両手を組み、真っ直ぐに前を見ていた。プラットホームの先のコンクリートの壁には、個人病院や英会話学校のポスターが貼られていた。どうでもいいような名前や住所を目で追っていく。一字一字、そうやって文字を刻み付けてないと、僕は自分を律している最後の枷を毀してしまいそうだった。
 リンがその小さな頭を僕の肩に預けた。多分目を閉じているのだろう。リンの顔は見えないけれど、柔らかにカーブした瞼には細い血管が浮き出、睫の濃さが際立っている筈だ。すっと通った鼻筋にはそばかすがぱらつき、頬骨が少し高い。綺麗な形の唇はいつも甘い香りがする。見慣れているけれど、決して見飽きないリンの顔。
 リンが小さな声で口ずさむ。
 グリーンスリーブス。リンの好きな歌だ。
 僕はいつまでも聴いていたかった。だけど、「いつまでも」という言葉は、ないのと同じだという事に気付く方が早かった。そうさ、ただ、それだけの事だったんだ。
 急行電車が前の駅を出発した、というアナウンスが入った。僕はツツジ祭りの広告を見ながら、はっきりと言った。
「さっき、出来もしないくせに、って言ったけど、出来るよ」
 リンが歌うのを止めた。
「出来る。リンと一緒なら、ずっとサボったって構わない」
 僕は一気に言った。ずっと言いたかった言葉だった。言ってしまえば何の事はない、簡単な言葉だった。
 肩が軽くなる。リンが頭を上げたのだろう。
 リンは戸惑っているだろうか、微笑んでいるだろうか、どちらであっても、僕の決意は変わらない。今、決めたことじゃないからだ。ずっとずっと、言葉の形にしていなかっただけで、僕の中に巣食っていた事だった。
 パァーッ。
 僕らの間にある緊張を切り裂くように、警笛が鳴った。左手の暗闇に電車のライトが光る。線路のカーブに合わせ、ゆるやかに弧を描くようにして電車が近付いてきた。空気が小さく振動する。
「間もなく急行電車が通過いたします」アナウンスが流れた。
 目の前には誰も並んでいない。白線の内側にいるのは僕とリンだけだ。僕は顔を横に向け、隣にいるリンを見た。リンは怒っていた。
「そんな事、言ってほしくなかった」
 リンは大きな瞳を見開き、悔しそうな表情を浮かべる。
「そんなつもりで側にいたんじゃない」
 リンの瞳から大粒の涙が零れ落ちた。リンは拭おうともしない。次から次へと涙が零れ落ち、僕は何も言えなかった。リンが震える唇を開いた。
 突風のように電車が通り過ぎ、僕は思わず目を閉じてしまった。
 目を開けた時、リンの姿は消えていた。


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