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だるまワールド

1石のだるま:2004/06/24(木) 19:02 ID:G0/0/Lu.
・・・教室・・・
先生 「今日は地球が120回、太陽の周りを回ったら、人間が死ぬ話をしましょう。これは宿題にもなっていましたね。調べてきましたか?なぜ人間は地球が120回、太陽の周りを回ったら死ぬのでしょうか。分かる人は手を挙げて」

きよし「はい、先生、父ちゃんに聞いたら、人間は120歳になる前に死ぬんだと言ってました。でも死ぬということの意味が、まだ良くわかんないんです」

先生 「誰か、死ぬということの意味が分かる人は?」

ひろこ「はい先生、死ぬということは、この世からいなくなることです」

先生 「確かにそうですね。他に意見のある人は?」

ひでこ「はい、私は校庭で飼っている兎が死ぬのを見ました。それと同じだと思います」

先生 「それも正しいですね。他には?」

ひろし「時々街で、お爺さんや、お婆さんを見かけます。あの人達もやがて死ぬんでしょうか」

先生 「そうですね、いつ死ぬかということは先生にも分かりませんが、いつか死ぬということだけは確かですね」

せつこ「先生、私、お婆さんになって死ぬのって嫌だ」

ゆずる「だって、みんなが同じように、お爺さんや、お婆さんになって死ぬんだよ。仕方ないじゃないか」

せつこ「だって、お婆さんになって死ぬのって、あまり綺麗じゃないんだもん。同じ死ぬのなら、もっと綺麗な形で死にたいと思うわ」

先生 「表面上だけを言えば、綺麗に死ねる方法はあるでしょうね。今は見かけ上は整形したり、お化粧したり、かつらを使ったりして、外見上は老人なのか、若い人なのかは分からない部分がありますね。でも、死ぬという現実には変わりありませんね」

21石のだるま:2004/09/09(木) 17:03 ID:G0/0/Lu.
・・・ヒーロー その2・・・
地球誕生以来、生命が発生して以来、延々と世代交代をしながらも人間は歴史なるものを作ってきた。

人が人を平気で傷つけ殺すという戦国の歴史、強欲の歴史だったかもしれないが、内容はどうあれ時代と歴史を創ってきたし、今この瞬間にも創られている。

自分が今の時代に実在するということは世代交代が地球での生命発生以来、途切れることなく続いてきたということである。江戸時代、鎌倉時代、平安の時代、さらには縄文の時代やその前であっても、私達の先祖は間違いなく生活していたということだ。

当たり前の話ではあるが、それはある意味で奇跡的なことではないのだろうか。

これからどんな社会と歴史、その中での生活をあなたが創ろうとしているのかは知らないが、安全にして安心できる、さらに余裕のある社会と歴史を是非とも創ってもらいたいと念願するものである。

それにはあなた自身が生きている必要が生まれる。あなたのいない未来は意味がない。あなたにとっても意味がない。むろん私にとっても意味がない。誰もが生きているという事実を実感できてこそ未来は輝くものとなる。時代と歴史もまた輝くであろう。

だからその可能性と事実を証明してくれたまえ。たとえ私ができなかったとしても、あなたが代わって証明してくれるなら、あなたは正真正銘のヒーロー。これまでの歴史の中で誰も成しえることの無かった歴史的意味での証言者、成功者となる。

22石のだるま:2004/09/11(土) 15:58 ID:G0/0/Lu.
・・・ヒーロー その3・・・
人間の歴史はあまりにも多くの血を流し過ぎた。今も多くの血を流している。その理由はいくらでも考えることはできるだろうが、血をいたずらに流す時代と歴史は終りにしたいものである。

信仰者は自分の命を守るのは当然として、他人の命もまた守らねばならない。自分の命も守れない人間に人の命は守れないし守れる筈がない。それは弱虫の証であり偽善の証ともなる。

自分だけがわずかばかりの富と時間を生きた所で偉い筈もない。ただ強欲に生きただけのことである。人の不幸を省みることなく自分勝手に生きただけのことである。それは仏の生き方ではない。猿に近い人間の生き方である。

真に富める人とは人の不幸を考え、さらには解決しながら生きる人である。人の不幸を考えるだけなら菩薩のレベルである。仏のレベルとは事実としての解決のレベルでなければならない。60や70で爺さんや婆さんになって、どうして不幸を解決したと言えるであろうか。無知や怠惰を表現しただけではないのだろうか。

信仰を持つ者は自分の心の中にある疑問との対決を避けてはならない。極限での思考を止めてはならない。極限での思考と解決を求めないでどうして仏になど成れようか。考えるに充分な頭を持ちながら、どうして考えずにいられようか。あなた自身が確かに仏というレベルはこの世に実在すると実感する時、あなたの心には満足と喜びがやってくる。

それは大変な思いをして山の頂上に立った時のようなすがすがしい感覚である。仏に成ろうと成るまいと確かにその人の勝手ではある。あなたが何もしない、何も語らないからといって別に批判はしないし、結果はその人の所に帰っていくだけのことである。損も得もその人のものである。

人間世界には矛盾があるがゆえに努力が必要となる。夢や理想が必要となる。現代は夢も希望も語れないような状況ではあるが、それもまた人間達が作ってきた現実である。人としての集合がそんな変ちくりんで妙ちくりんな現実なるものを作ってきたに過ぎない。実に強欲にして身勝手な社会を人は作った。しかしながらまったく夢も希望も失ってしまったわけではない。必要にして必要な人の所にお金が確実に動いていくなら、まだ希望を失わないで済む。信仰者ならそこの所を責任を持って考え抜き実行しなければならない。さもなくばあなたの言う信仰とはただの遊びとなる。理解することのない経典を少しばかり読んで満足しているに過ぎない。永遠に結果の出ない道を歩いているだけである。

23石のだるま:2004/09/13(月) 11:56 ID:G0/0/Lu.
・・・ヒーロー その4・・・
仏の教えは極限の世界を説いているものであるからこそ誰もが極限の思考を求められる。極限の世界に進むがゆえに可能性もまた生まれる。

現実は今も権力者が好き勝手に湯水のように金を使い、事件を作り上げてはマスコミを騒がせている。昔から権力者がやってきたことは変わらない。

他人をたくさん働かせて自分だけは安楽な生活、華美な生活をしようとする。その本当の金の流れを秘密にしようとする。その現実をただ見ているだけの信仰者がいる。いったい何を信仰していると言うのだろうか?

人の不幸を言わず語らず、ただ見ているだけの人間に信仰などという高級な精神など本当はあろう筈がない。仮に猿が何かに向かって手を合わせていたら、あなたはそれを信仰と呼ぶだろうか?心や思考の伴わない行為や行動は充分な信仰たりえない。

自分は不幸に直面していないし、不幸とも思ってもいないから他人の不幸に対しても平気になってしまっている。何も感じられなくなっている。神経回路の未発達、麻痺状態が進行している。不幸を不幸として感じる感性がまったく発達していない。

マスコミ受けする特別な人の不幸は国も人もここぞとばかりに助けようとするが、一般の人の不幸にはそっぽを向いている。信仰者もそっぽを向いている。名ばかりの信仰があるだけである。それでも良いと思っている。

そんな名ばかりの信仰で何が生まれるというのだろうか。目の前に多くの人の死が横たわっているだけではないのだろうか。自分の寿命があと20年とか30年あるからとか言って安心はしていられない。20年や30年はあっという間に過ぎ去るから。人は死んでいく所に悲しみもあるが良さもある。

強欲なだけの人間は死んでくれないと未来の人が困る。長寿を達成しながらも宇宙に出ていかないと地球に人間が溢れてしまう。宇宙への進出、海洋への進出、砂漠の緑化、食料の増産、それらはすべて文明としての力である。仏はこの時を待っていた。長い間待っていた。人を救い寿命を与えるために。健康な命なくして救いもまたあり得ない。健康な命を持っていること自体が幸福であり救いである。

24石のだるま:2004/09/17(金) 19:07 ID:G0/0/Lu.
・・・ヒーロー 5・・・
誰も仏に成れない宗教と信仰ならそれは始めから意味のない宗教であり、お釈迦様も歴代の宗祖もまったくの嘘を語ったということだ。もし嘘でないのなら怠惰な人間が存在しただけ、しているだけである。

それなら葬式仏教でも充分ではないかという議論になる。思想や哲学の対象としての死は充分に重みのある存在である。これほど人を悩ませ考えさせる対象はない。誰もが死ぬ運命にあるからこそ考え抜かねばならない。何をどうすべきかを語らねばならない。信仰者は誇りと自信と責任を持って語らねばならない。

人に何も語れないのならそれは自信のない信仰であり、意味のない信仰である。信仰という言葉を使うも恥ずかしい内容の信仰である。

信仰者は心の中に疑問を残してはならない。疑問は退治しなければならない。だからと言って問題意識を持たないようにすればいいということでもない。やっかいなエゴイズムではあるが、そのエゴを越えないと悟りもまたないと心得なければならない。

人としての悩みや苦しみを理解することは大切なことである。他人の生活を無視し、自分だけの利益に傲慢な顔をしながら生きてどうして悟りがあり得ようか。疑問を持つことを恐れずに考え抜くこと。それもまた信仰である。

信仰者にとって沈黙は敗北に等しい。沈黙は自分への誇りを捨てたに等しい。もちろんヒーローにも成れない。仏と言っても絵に描いた餅に過ぎない。自分に体験や自信がなければ語れないという現実はあるにしても、信という文字を使用する以上、自分に自信があるかないかも含めてそれはそれで立派な信仰である。

語る自信がないということは、信じて仰ぐべきものを何も完成することが出来なかったという結果でしかない。信仰者は何が真実であるかを語れなければならないし、語らなければならない。人に語れないというのは自分にも自信がないし、正しいと信じていないからでもある。人がこれまでに語ってきた言葉を他人事のように利用しているだけである。たとえ他人の書いた昔の人の言葉であっても自分の言葉として語れなければ価値がない。

25石のだるま:2004/09/19(日) 22:22 ID:G0/0/Lu.
・・・ヒーロー 6・・・
教団であれ個人であれ人に向かって何かを正しいと言い、あるいは何かを間違っていると言った以上は、その結果を自分の身をもって保証しなければならない。たとえそのために歴史的な時間が必要であったとしても。

真実を歴史が証明し、また証明できるものでなければ、それは誰にとっても正しい信仰とは言えない。証明できないからこそ信仰であるなどと言っていたら、それは始めからまったく価値がないものである。考える必要のないものである。

仏は成っても成らなくても同じと言えるほど価値のないものではない。あまりにも仏に成る価値を知らなさすぎる人と現実。人は生きていてこそ価値があるということ。どんな有名人も死ねば死体になるだけだということであり、生きていた時の仕事や生活が後世に伝えられていくに過ぎない。

大部分の人間は時代から忘れ去られる存在である。人間という動物の精神的半面は強欲や怠惰といったマイナスの側面を持って生きている。ほとんどの人はそれを普通と考えているからその点が問題意識に上ってくることはあまりない。

なぜ仏が仏の教えを説いたのか、説くことができたのか、そのことを真剣に考える人は今の所は少ない。

人は死にゆくものという哲学。その中にある人間賛歌。一人残らず平等に要求される努力、自分の死の解決。やらねば自分の死が確実に待っている。

法華経は仏の実在とその価値を扱った経である。仏に成るための苦労や喜びを書いてある経である。法華経は仏とその結果を誉める言葉ばかりが多くて、具体的な修行という面ではあまり書いてはいない。

歴史的に誰が書いたものかは問題ではないが、たぶん個人ではなく複数の人が関わって作られているとは思う。早い話がここでは結果だけを示しておくから具体的に何を学び、どうやるかは自分で考えなさいと言っているようにも見える。また自分の頭で考えるということはとても大切なことであるのも確かである。考えることもなく学ぶこともなくして理解に達するということはない。ただ手を合わせるだけで仏に成れるのなら事は簡単だが、それは永久にあり得ない話である。
・・・終了・・・

26石のだるま:2004/09/23(木) 10:29 ID:G0/0/Lu.
・・・思想の完成・・・
信仰者は自分の思想を完成させなければならない。人との関わり、社会との関わり、時代との関わり、歴史との関わり。政治や経済との関わり、学問との関わり、技術との関わり・・・。

仏教徒はそれぞれが仏に成るということで思想の完成を目指すことになる。それは教団や寺と関わるか否かとは関係なく実行されなければならない。

それには自分の心の中に少しの疑問も残さないことである。別に仏に成ったからといって、その先の目標がなくなるということではない。

仏に成るというのは人間がこれからも普通に生きていく上での基本でしかない。自分が自然の中に生きている。時代や歴史の中で生きている。その現実を達成することでしかない。

別に課長や部長、社長でなくてもいいし、大臣でなくてもいい。オリンピックでメダルを取らなくてもいい。普通の優しい人間であればそれで充分である。普通の人間として自分の理想、社会の理想、国の理想、時代のあり方や未来を考える人間であればいい。

それには現代の異常とも言える精神性に気がつかねばならない。現代人は決して理想に生きている訳ではないことを理解しなければならない。血を流しながらも短命にして生活している事実は異常なことなのだと気がつかねばならない。

身の周りには危険も不安も不公平も無知もまだまだたくさんある。信仰者として、それらに目や耳を閉ざしてしまうことは恥であると認識しなければならない。

27石のだるま:2004/09/27(月) 20:20 ID:G0/0/Lu.
・・・思想の完成 2・・・
大切なことは権力者の意のままにならないことである。不正は不正として、異常は異常として、強欲は強欲として正確に理解し、改善すべきは改善に向けて変えていかねばならない。

消極的に題目を唱えているだけの人間であってはならない。それだけで確かな信仰であると思ってはならない。人に隷属しているだけの人間では仏に成れないとまで言っていい。

仏というのは精神的に独立した人間であって人に依存して生きる存在ではない。自分で考える人間であり、考えられる人間である。我慢しながら生きる存在ではない。疑問を持って生きる存在でもない。

もちろん全ての知識を持ち合わせているわけではないから、仏と成ってもそれ以降の学びは必要である。

信仰者は自分が生きているという事実を持って、自分の信仰の完成を世に示さなければならない。どんな世界も楽をして完成に至るということはない。

仏道もまた自分の精神的苦しみを越えたところにその完成の域はある。苦しむことなくして喜びもまたないことも事実である。価値を生み出すための汗は誰もが流さねばならない。その完成のための汗を先に流した者こそ勝利者である。

そもそも歴史の発展、技術の発展というものは人間の幸福のためにある。宗教もまた人間の幸福のためにある。そこの所を勘違いして生きている人間が多いから間違いも起こるし不幸も発生する。

文化や文明というものは始めから人間の幸福を目的として興るものであり、発生するものだと言っていい。貧困や強欲、人口の増加といった問題が常にあるから、時として戦争にもなるのだが、時代は戦争を許さない状況にある。人の不幸も許されない状況にある。自負心のある信仰者なら、これらの現実を許してはならない。すべてはあなた自身がどう理解し、どう考えたかにある。長い時間や歴史を経過しないと解決できない問題もあるということ。それが命の問題でもあり仏の問題でもある。

28石のだるま:2004/10/01(金) 21:05 ID:G0/0/Lu.
・・・思想の完成 3・・・
今は人口増加の問題も大きく地球文明としてどうなるのか、どうするのかが問われている。日本の少子高齢化だけでなく、世界的に増大する人口を大きな戦争もなく安定的に養っていけるのかどうかという岐路に立たされている。

人間の本能と技術の発達、資源の限界といったものとの戦いであるとも言える。その中にあって自分やあなた自身が生き残っていけるのかどうか。近未来における人間の実存が問われている。

この世においての実在が自分自身において確認できなければ生まれてきた甲斐がないとまで言っていいであろう。それが信仰の力であり思想の完成となる。

法華経に説かれる更賜寿命の現実化。これを現実化できなければ中途半端で片輪の信仰でしかなかったと言われても仕方あるまい。事故であれ災害であれ環境の不備であれ、理由を問わず結果としてあなたや自分の実存が確認できなければ、それは敗北の信仰である。

時代は常に変化する。人の心の中も外も変わらぬものは何もない。いつまでも昭和ではないし、いつまでも平成ではない。この世で最も大切な自分の健康も守れぬ人間に何を語る資格があるのだろうか。何を語れるのだろうか。

人間の命、今を生きているというその現実こそ、この世で最も大切なものであると教えているのが仏教でもあり法華経でもある。あなたのいない未来は意味がないのは当然の結果。自分のいない歴史がこれから何億年続いたとしても、それが何だというのであろうか。

時代や歴史と関わりがあっての意味ある人生なのではないだろうか。

自分の思想、自分の価値観を人に表明できずして信仰があったとは言えない。軍事優先から経済優先の時代、さらには人道優先の時代を是非とも作っていってもらいたいもの。特定教団の利益ではなく、万人の利益のために発言し行動してもらいたいものである。

29石のだるま:2004/10/06(水) 17:08 ID:G0/0/Lu.
・・・思想の完成 4・・・
この肉体をもって120年の限界を越えることが可能であることを各自が発言し実証でき得た時、それは個人の思想の完成となり時代の完成へと近づいていく。歴史的とも言える書物の時代を超えた実践物語となる。

真実は人を裏切らない。法則も人を裏切らない。裏切らないからこそ法則であり真実ともなる。誰にも同じように作用するからこそ法則として万人が認めることができる。

私は同じようなことを何度も書いているが、法華経に説かれる法則というのは理屈としては複雑なものではない。「更賜寿命」を実証できるかどうかというだけの話である。万人が更賜寿命を現実のものにするなら、これほど確かな法則はない。

120年限界説は嘘であり、実在しない法則であったというだけの話である。これが法則として実在したのなら、なぜ今まで実現しなかったのか?もっと早く実現していても良いではないかという理屈もなくはない。これは文化、文明の問題であり、歴史の発達や技術の問題、人間の意識、地球の容量、人口の増加など複雑な問題がからんでいる。

だからこそ仏が理想とした法則ではあったけれども実現がなされなかったという訳である。早い話が技術の発達が遅かったというべきか。それとも人間の働きが悪かったからというべきか。もっと天才が多く現れて歴史の進展が早かったなら、あるいは人口の増加がもっと早いペースで進んだならと仮定だけの話ならいくらでもできるのかもしれない。

人間の歴史がなぜ我々の知っているような歴史でなければならないのか、あまりにも強欲で野蛮ではないのかとも思うが、私には答が出せない。私は経を読んでいて、昔の人々、我等のご先祖様達はとてつもない理想を考えていたんだと思う。もし自分だけの力で考えろと言われても想像すらできない内容を含んでいる。確かに「更賜寿命」を現実のものにするのは誰にとっても困難な部分を含んではいる。逆にだからこそ価値があるとも言える。

これが金の力で買えるような法則と現実なら何も価値は生まれなかったであろう。人間はただ野蛮な歴史しか知らないで死んでいくことになる。昔の殿様がそうであったように。

30石のだるま:2004/10/10(日) 17:14 ID:G0/0/Lu.
・・・思想の完成 5・・・
法則は巨万の富を積んでも買うことはできない。金で買える命などあろう筈がない。金のために動物や人の命を奪う人、奪われる人は今も多いが、倒錯した精神というものは残念、無念というしかない。

宇宙時代に向けて仏寿の長遠が確かなものとなるなら、労働者万歳と言いたいね。大変な中での人間の学問や労働なしには完成することのなかった法則であり理想であるから。

思想の完成、法則の完成は必ずしも人の了解を必要としない。もちろん多くの人の納得と理解は最終的には必要なものではあるのだが、それはそれとして自分が納得し自分が実証すれば良いだけの話でもある。

時代として可能か否かの差はあるのかもしれないが、昔の人もこの可能性に対しては自信を持って言葉を発したのではなかろうかと今は考えている。自信というものは不思議なもので、どこからやってくるのかは自分にも分からないものがあるが、これだけのことを書いていて自分にもその自信がどこから湧いてくるのか不思議な気がするのである。

前はこんな事を書いて本当に良いのだろうかと思った時もあったが、今は書いて良かったと心から思っている。昔の人の未来予測というのはたいしたものだと感心するばかりであるが、人間は徹底して考え抜いていくと、自然はそれなりの答を用意しておいてくれるものである。だから人間は自分の心の中に疑問を残しておいてはいけないと思うのである。

120年限界説を信じることは今の時代にあって天動説を信じるようなものである。精神の倒錯以外のなにものでもない。自然淘汰の原則は人間にも適用される。人は死にゆく存在であるがゆえにふるいにかけられる。法則を完全に身に着けた者のみがこの困難を越えることが可能である。信仰者は時代の流れに鈍感であってはならない。
・・・終了・・・

31石のだるま:2004/10/18(月) 17:04 ID:G0/0/Lu.
・・・何々だから・・・
何々だからと言う拭いされない感情と意識が人間の中にはある。大臣だから、医者だから、弁護士だから、社長だから、幹部だから、売れっ子だから、普通の人だから、頭がいいからなど。

それで許されるもの、許されないもの。許す人に許さない人。自分にもレッテルを貼るし、人にも貼ろうとする。

自分は何々だからと言う意識はその人の人格にも現れるし自信にも通じている。逆に劣等感にも通じている感情と意識である。だから人に何か言われると、そんなことはできないとか、あれは駄目、不可能だとか、そんな仕事はできないといった感情が心の中に無理なく生まれてきてしまう。

またこの意識と感情はあらゆる階層にわたっての差別意識ともなっている。人間は分別することを可能にしているから差別意識というものは自然に生まれてきてしまう。差別というのは悪い意味で使われることが多いが、自分を比較の上で人より上に見る、あるいは下に見るというのは人間の特性のひとつでもある。そこに優越感や劣等感を感じるのが人間という動物であり、人間が他の動物と違う所でもある。智慧のある証拠とも言えようか。そこでは実力ではなく、たぶんに慢心が働いている。

猿にも差別意識はあり、ボス猿などは体力勝負で優劣を決しようとする。昔の人間もたぶんそうだったし今もその傾向は変わっている訳ではない。だいぶ智慧の力で優劣を決しようという傾向には変わってはきたが、それでも大きい、小さい、強い、弱い、また集団や国家、個人による違いにより差別や格差は今も続いている。その原始的とも言える感情と意識を人間という動物は今もって拭いされないでいるし、コントロールできないでいる。

32石のだるま:2004/10/22(金) 18:18 ID:G0/0/Lu.
・・・何々だから 2・・・
人間の歴史は差別化への歴史。どんな平凡な人間の心の中にもある差別意識。逆にこの差別意識をうまく利用して生きている人間も少なくない。差別意識に押しつぶされそうになっている人や、現実に押しつぶされている人も少なくないであろう。

差別意識とその実行は人間の心の弱さからもやってくる。心が弱いと差別意識があっても普通と思ってしまうし平気にもなってしまう。

社会の中に虐待があっても不公平があっても心が動かなくなってしまう。無理が通れば道理引っ込むというやつである。現代の何々だからの論法や論理にはかなりの無理が含まれている。

あれは違う、これは違うと思う人の心。地位や収入、仕事の内容による差別。インドのカースト制度などはこの差別化が徹底したものだと思うが、これが人間の思想、感情からくるものであることを考えればかなり怖い部分を持っている。日本の企業が外国で物を生産しようとする時に、この差別意識に悩まされたと聞くが、日本人だってこの制度を笑えないような野蛮な封建制度を意識と現実の上ではまだ引きずっている。

こういう制度を作り許してしまうのも、権力者の心の中にいろんな理屈をつけては自分達の優位性や利益を保とうとする心があるからでもある。

表向きは無いかのようにマスコミも含めて振舞ってはいるが、人格者、学者と呼ばれる人の中にもある差別意識。むしろ平凡な人よりも強いかもしれない差別意識。それを便利で良しとする心。あったほうが生活する上で都合がよいと判断する身勝手な心。心とは良くも悪くも同じように自分にのみ都合が良い方向に動こうとするからやっかいである。

33石のだるま:2004/11/01(月) 17:30 ID:G0/0/Lu.
・・・何々だから 3・・・
仏にあって人間にはないもの。それは健康と寿命だけ。これまで仏はいないもの、無意味なものと思われてきた。そう思う理由は数々あるのだろうが、人は人であるがゆえにこの意識をなかなか外すことができないでいる。

意識の中にいる人間はそのままでは意識の外に出ることはできない。長い間悪臭の中で生活している人間が悪臭の外に出て生活しなければ臭い匂いの中で生活していたことに気がつかないのと同じである。人間の意識には怖いまでに慣れというものがある。

人間が人間以上の存在にならなければ暴力と破壊の嵐は止まらないであろうし、そんな生活からは抜け出すことができないであろう。

暴力や破壊の嵐は人間の身勝手が原因となってやってくる嵐でもあるから、人間が変わらない限りいつまでたっても消えることはない。貧困や混乱、失業といったものがある限り人間の憎悪や破壊への衝動もまた消えてはなくならない。これは人間が人間であることからやってくるマイナスの側面である。マイナスの側面を放置している限り犯罪や混乱は止まることなくやってくる。

これはわずかばかりの社会への奉仕や反発で消えるような小さなものではない。個人にあってはやがては死に至る心の病とも言えるし、大きく言えば社会や文明そのものの崩壊にも繋がりかねない心の病でもある。

34石のだるま:2004/11/07(日) 23:05 ID:G0/0/Lu.
・・・何々だから 4・・・
犯罪には生活ができないから犯罪に走る場合と金はあるのにさらに強欲という感情を抑えきれないために起こる犯罪の両方がある。

少なくとも仕事を与え政治や意識の上で生活ができるようにしてやるならば、このタイプの犯罪は起こらなくて済む犯罪であるし、関係ない人が巻き込まれることも少なくなる犯罪である。

それが現実だということは現代人がいかに無慈悲にして身勝手な生活をしているかという証ともなる。人間は何々だからと言いながらも仕事をして歴史なるものを創っている。毎日休むことなく時代と歴史を創っている。苦痛の時代と歴史となるのか、喜びの時代となるのか。誰もが強欲と身勝手に身をまかせているだけなら間違いなくこの文明は滅びるのかもしれない。

その時は全部ではないにしても個人としての生活もまた滅びる。誰から、どこから亀裂が始まるのかまでは分からないが、一番弱い所から始まるのは間違いない。それが人間の歴史と文明というものなのかもしれない。

35石のだるま:2004/11/12(金) 16:37 ID:G0/0/Lu.
・・・何々だから 5・・・
あなたは確実にやってくるであろう宇宙時代にあっても80年社会は理想で正しいと思うのであろうか?それとも100年社会であるべきだと思うのだろうか?さらにもっと進むべきだと思うのだろうか?それは何年先の話だと予測するのであろうか。あなたはその時実在しているのか、いないのか?実在していなくても良しと判断するのか?

ただ子供達の時代だけだと思うのか。すべての責任と結果を子孫だけに押し付けるのか。私はまったくのアンバランスだと思うのだが、はたして心の発達、精神の発達、より高度な認識と言うものはあるのかないのか。経典が昔の人の智慧だとすれば、それは現代に意味があったのかなかったのか。これまでの文明にどれだけの変革をもたらすものなのか。

今のままでは猿に近い人間の文明でしかないと思うのだ。だからやたらに犯罪が横行する。犯罪はそれを直接的に実行する人間だけが悪い訳ではない。そんな環境を作り許している人間にも程度の差はあれ責任はある。もし実行しなければ死ぬという環境に置かれたら、私だって何をするか予測がつかない。

今は不信の時代でもある。政治家はもちろんのこと、先生も、警察も、弁護士も、役人も、宗教家も心から信頼を寄せる存在ではなくなっている。誰をどこまで信じていいのか分からない時代である。庶民の間にだってどれだけの信用と信頼があるかは分からない。たぶん今の権力者や役人というのは庶民が何を考えようと何を訴えようとあまり聞く耳は持っていないであろう。あるのは我利我利の精神だけだろうから。

マスコミが動けば少しは動くのかもしれないが、多くのマスコミが庶民の感覚を持って発言するとは限らない。政治的にも経済的にも思想的にも地球環境の維持からもみんなの心がひとつになっていかねば危険が待っている時代である。人口の増加は待ったなしでやってくる。老化現象も待ったなしでやってくる。今のように不正を許し身勝手を許し犯罪が横行し止まらない現実では人の世はますます混乱するだけだろう。
・・・終了・・・

36石のだるま:2004/11/23(火) 20:47 ID:G0/0/Lu.
・・・人間革命・・・
人間革命という言葉はたぶんほとんどの人が良く知っているであろう教団が積極的に使い始めた言葉である。言葉そのものはかなり前からあったのであろうが、同じ言葉を使っていたとしてもその意味するところはかなり違うようである。

この言葉はもちろん現実に生きる人間が仏に成るという意味で使用されている訳だが、そこの所が充分に理解されていないためにかなりの誤解があるのではないかとも考えている。私がそう言うと某教団の回し者に見られるかもしれないが、可能な限り客観的に書いているつもりであるので誤解しないでいただきたい。

仏の教えは釈尊の時代より普通の人間が仏に成る、成れるということを問題にしてきたし、理想としてきた。これを否定してしまったらすでに仏教でも何でもなくなる。ただ仏に成ると言ってもどうしたら成れるのか、どういう結果になるのかということが分からないために身勝手な議論だけがまかり通っている。これは会社で課長や部長、はたまた社長に出世したからすでに悟りました、人間革命しました、もう何も問題ありませんと言える程単純な話や問題ではない。

人間が仏に成る必要のないものをお釈迦様が説いたとするなら、それは始めから歴史が間違っていたということになる。時代を越えて伝える意味がなくなってしまう。

世の中に金持ちと呼ばれる人はたくさんいるが、現実の社会は今もたくさんの問題を抱えている。いろんな問題がいつも発生するのは社会に矛盾や不公平、身勝手や無関心などが存在するからでもあるが、これを積極的に解決しようとしている人は少ない。特に金持ちほど関心が低いのではなかろうか。

犯罪が起こるのは現実に生活するためには奇麗事だけを言っていられない、やってられないという事実がある。少なくとも生活できるだけの確実な収入があったなら、ほとんどの人はわざわざ犯罪に走るような危険な事はしないし、そのために危険に巻き込まれることもなかっただろう。毎日の生活を最低限でもしていくためにはそれなりの生活費が必要である。あえて警察に追われるような危険なことをする人はよくよくの人であろうか。貧富の拡大があったとし

37石のだるま:2004/11/28(日) 17:36 ID:G0/0/Lu.
・・・人間革命 2・・・
貧富の拡大があったとしても、それでも生活していけるなら人は我慢しながらも犯罪に向かうことを良しとはしないだろう。

金があってもさらに犯罪に向かう人と、まったく無いから犯罪に向かう人とでは事情がまったく違う。今は犯罪者が増えて刑務所が足りないとも聞くが、結果だけを見れば政府は犯罪者養成機関にでもなったのかと言いたくなる。役人の犯罪、ごまかし、身勝手な金の流れは後をたたない。それをチェックできないシステム、民衆の弱さや団結力の無さ、権力の傲慢さや勝手という現実はあるにせよ、不幸を作り出しているのはむしろ権力者の側であり、金持ちの倫理、論理の問題、心の問題でもある。

しかしながらここでいくら困っている人を助けようとしない政治家や金持ちを悪く言ったところで人の心の中がすぐに変わるわけでもない。そんな人にただ人間革命しましょうと言った所で、そうですねとすぐに応じて納得する人はいないであろう。

私は自分の生活には困っていないから人間革命なんて面倒なことは嫌ですと言われるのではないだろうか。人間とはそういう動物であり善にも悪にも怠惰にも動く動物である限り今までの論理や価値観では何も解決しない。

ただし人間には最大の弱点がある。それは人間が簡単に死んでしまうという非常に寿命が短い動物であるという事実である。人はそのことを必ずしも弱点だとは思っていないようであるが、人間の理想と可能性は何かということを考えるなら、これは完全にして立派な弱点である。その弱点を始めから指摘しているのが仏である。あなただって簡単に死んでしまう人間でありたくはないだろう。人は簡単に死ぬのは嫌だからこそ医者にも行くし、犯罪を実行してでも生き延びようとする。それは人間の持つ本能でもある。ただ健康管理が良いとか悪いといった簡単な問題ではない。

人間は他人との比較の上であらゆる事を考える動物であるから、自分が平均以上の生活だと思えばそれ以上の問題意識は持たなくなる。そこでは他人が不幸だろうが生活ができない現実であろうと平気になってしまう。この平気になってしまうという感性が人間の心の怖い所でもある。いわゆる慣れというやつである。

神(自然)は人間の心が善悪のどちらにも自由に動いて、しかも罪悪感も持たないような心なるものを始めから与えてしまった。いつも天国と地獄の中間に実在してふらついているのが人間である。ほとんどの人はそれでもその現実を特に不幸と思うことなく普通であると錯覚している。この普通と思ってしまう心の怖さ。

38石のだるま:2004/12/05(日) 20:04 ID:G0/0/Lu.
・・・人間革命 3・・・
人間革命の基準とは何なのか。ただ仕事で成功すればいいのか。悩んでいる病気が治ればそれで良いのか。勝手に私は人間革命しましたと言っていればいいのか。勝手に自分は仏に成りましたと言って、60歳や70歳で死んでいけばいいのか。人はそれで納得するのか。

私ならそんな事で納得はしない。そんなあいまいな幸福論なら多くの人は背を向けるであろう。いったい何人の人が人間革命できると主張し、誰が完成したと主張するのか。それはいつになったら完成するのかと問うのである。革命という言葉を使用する限り、それは現在の人間とは大きく違うものでなければならない。少しばかり金が儲かった、病気が治ったぐらいで人間革命などという言葉を使用されたら、人間革命も泣くし仏だって笑い転げるであろう。

これまでも何回となく書いてきたが、仏の世界とは長寿社会そのものである。仏はそのことを経典の中に書き記してきた。誰も信じることなく、誰も考えることもなく歴史は変化してきたが、これを問題にした人は歴史の中でもほんの少しの人達でしかない。今もほとんどの人は知らんふりをしている。70歳や80歳で死んでいく生活のどこが理想なのか?どこが幸福なのか?

これほどまでに人間は働いて宇宙時代を目の前にしながらも少しも幸福にして平和や平等と言えるものは無いではないか。あるのは人間の野蛮や不安定な生活だけではないのか。野蛮な人間に長寿を達成する力はない。そんな力が自然や仏によって与えられることは間違ってもない。野蛮人に自由な未来は与えられない。もちろん科学によっても与えられない。医学は最大限の努力はするだろうが、それでも120年の限界を越えることはないであろう。

医学そのものが今も限界と考えているのであるから、限界と考えているその同じ人間が限界を越えられる訳がない。120年の限界を越えるのは哲学の力と思想そして認識である。仏としての結果と力である。さもなくば人間革命といい、悟りだ、仏教だと言っても糞の役にも立たないものとなる。多くの人は訳の分からない文字を語り、並べて喜んでいるに過ぎない。信仰を口にする人は多いが、その中の誰が自分は仏教を理解していると自信を持って語るのか。

39石のだるま:2004/12/10(金) 19:25 ID:G0/0/Lu.
・・・人間革命 4・・・
語るもよし、沈黙もよし、全ては個人の責任と判断である。自分がもし嘘を言ったというのであれば、その時はどうなっても構わない。しかしもしあなたが真実を語らない時、語ろうともしないで真実を妨害した時には仏の罰を恐れるべきである。それは短命という結果で償わなければならない。

命の法則、短い命、長い命、命とは不思議なものである。命の法則とは何かを知らないから盲ヘビに怖じずといった所であろうが、たとえ一日という短い時間であっても、それは価値のある一日である。だから無駄な時間を過ごしてはならないと思うのである。

これまでも人間は進化してきたが、それでもまだ人間は野蛮にして短命である生活からさらに進化するように運命づけられている。

長寿社会の実現に生きるのも命、否定し反対するのも命。邪魔するのも命。沈黙もまた同じ命である。あなたは自分のどんな命に生きるのであろうか?自分だけが生き長らえるために仏に命乞いをするのであろうか。仏はそれを許すであろうか。私はあなたが仏の味方なのか敵なのかは知らないが、少なくとも自分は仏の敵になろうとは思わない。沈黙は決して仏の味方ではない。その沈黙の結果もまた誰にも予測できないであろう。

人がいつ死ぬかなんて予測できる人はいないし分かる人もいない。分かっていることは仏に成ることも120年を越えることも、とてつもなく難しく厳しい現実に直面するという事。だからこそ必死に努力する価値が生まれるという事だけである。人はそこで必死の意味を体験的に知るだろう。必死に生きるとはいかに大変かということ。大変だからこそ大きく変わることができるということ。それは全て私が勝手に言ったというよりとっくの昔に経の中に書いてあることである。あとは理解と解釈の違いである。

あなたはどう理解し、どう解釈したのであろうか?自分という存在が死んでしまってからでも遅くはないと判断したのであろうか。私にはそんな怖い判断はできないけれど、もし信仰者としての自覚や自負があるのなら、あなたがこれまでに考えて実行した真実と結果を語らねばならない。何が正しいのか、何が価値なのかを語らねばならない。何も語れないのなら、それはまったく意味も価値もない信仰であったと言わねばなるまい。ただ時間だけが事件も事故も自覚もないままに過ぎていったに過ぎない。これは無信仰も含まれる。無責任な信仰が多い中では無信仰も意味はあるが、決して高度な信仰とは言えないのが無信仰である。

40石のだるま:2004/12/14(火) 17:08 ID:G0/0/Lu.
一部重複した部分もありますが、ここでも書いていますので、よろしく。

http://groups.msn.com/8rnv263oj85qsidhtenn0l1pr1/homepage

・・・人間革命 5・・・
スポーツマンは日々新しい自己を作り出して記録に挑戦する。信仰者もまた毎日の生活の中で新しい自分を発見しなければならない。常に新鮮な疑問と格闘しなければならない。格闘のない信仰は信仰ではない。形ばかりの手を合わせているに過ぎない。神経回路が働いていないのに悟りなどというものが百年たとうが千年たとうが達成できる筈もない。

人は自分達が創った時代や社会と無縁に生きることはできない。野蛮な社会や時代を創れば、その結果としての危険もまた引き受ける責任が生まれる。

国の命令であり許可であったとしても殺人は殺人である。国であっても人を殺す権利はない。それでも戦争だからという理由で人殺しを正当化してきた。これが人間の歴史である。人間は優しくも智慧ある動物として作られているが、同時に野蛮にして醜悪な存在としても作られている。国家が犯罪を犯している場合、その犯罪は誰が裁くのか?誰に裁く権利があるのか。

限界説を越えたら仏、越えられなかったら無知にして弱くも野蛮なる人間。これ程分かりやすい基準はない。仏に成るには希望の哲学が必要である。あなたの未来に希望があるのかないのかは知らない。どっちにしても人間は生か死のいずれかの道を選び歩まねばならない。多くの人間がこれからも宿命にまかせて死んでいくのかもしれないが、世界の人口増加を考えるならやむを得ない部分もある。

どんなペースで人口の増加と長寿が進んでいくのかは結果が出て見ないと誰にも分からないが、何もしないでいたら今のままでは地球がパンクするのは目に見えている。地球を強欲にして怠け者の人間だらけにする訳にはいかないだろう。農地もいるし、生活や仕事、遊びのための空間や自然がいる。この健康と長寿、さらに安心と安全を達成するためには人間の宇宙への進出は絶対条件である。

今はまだ多くの危険と困難があるが、人類の祖先が海から陸へ向かったと同じくらいに今は大変な時代なのかもしれない。それらは全て、人が生きてるのか死んでいるのかで決まってしまう。すでに死んでしまった人間にとっては人の生活や未来がどうなろうと知ったことではなかろう。宇宙産業はもっと活発になってもいい。仕事も増える事だしね。資本家はもっと宇宙開発に金を注いでもらいたいものである。

41石のだるま:2004/12/23(木) 19:23 ID:G0/0/Lu.
・・・人間革命 6・・・
自分が生きているのか、死んでいるのかの差は大きい。死人に口なし、少なくとも死んでいる間は希望もまた存在しない。死体が夢や希望を持っていたら変なものだろう。時代への貢献というのは生きた証として永遠に歴史に刻まれていくであろうし重要なものであろうが、歴史が経過して見ないとその本当の価値は分からない。

経に説かれている「更賜寿命」が証明されないと、自分がやってきたことは無意味になるし書いたことはまったくの無駄になる。失敗を恐れない訳ではないが、何もしない何も書かない自分もまた恐れの対象となる。平凡は罪ではないが真の満足とは対極にある遠い精神である。

どの教団が良いとか悪いとか言っている団体戦は終わり、自分自身が悟っているか理解しているか、病魔や老神、死神を相手にしての個人戦に移ろうとしている。どの教団を良しとするかは個人の問題であって、ここでは問題にしない。

教団に頼るも良し距離を置くも良しである。あなたや私が正確に仏教を理解して実行しているか否か。未来に向かって安心立命の位置にいるかいないか、今はそれだけを問題にしたい。仏道修行がただ経を読めばいいだけのものなら小学生でもできるだろう。金を手にすればいいだけなら暴力団の方が上である。人の不幸などものともせずに生きている人々。その結果がどこに表れるのか。

発達するのは武器や恨みの心、憎しみの心、怠惰やごまかしの心といったものだけなのか。そんな人間を一人残らず死神はあの世に送り込もうとする。命尽きればあの世行きの世界。これは単純と言えば単純かもしれぬ。

死神は本物の信仰者と偽の信仰者とを正確に見分けて、あの世に送り込むであろう。人間が自分勝手に本物か否かを決めることはできない。完全なる理解、完全なる悟りを達成した者のみがこの危険を回避できる。これまでは勝手な人間が勝手に全てを決めてきたから今の社会は混乱している。善と悪の基準がなくなっているし危険も大きくなっている。被害者は常に弱い民衆である。

42石のだるま:2004/12/30(木) 21:11 ID:G0/0/Lu.
・・・人間革命 7・・・
口では命は大切と子供達に教えながらも現実には決して命を大切に扱ってはいない大人と呼ばれる人々。仏に成るか成らないか、成ろうとするかしないかはあなた自身であり、私自身でもある。教団でもなければどこかの幹部でもない。何らかの手助けだけなら程度の差はあれできるかもしれないが、無責任な幹部、怠惰な幹部ならいてもいなくても同じである。何も真実を語らぬ人、語れぬ人なら安っぽい自己満足で人生を終わってしまうだろう。

初めて仏寿の長遠を語ることは私にとっても厳しかったし怖い部分もあったが、今は語って良かったと思っている。人の労働や技術を見ても、夢のある確かな未来に部分的には向かっているという気がしている。自分も“生きて”宇宙時代というものを実感したいものである。

誰もがただのんびりしていたら地球の許容量を“限界という名の悪魔”が超えてしまうだろう。予測される未来と現実。老いたる者の運命。仏を信じる限りは達成しなければ意味がない。達成もしないし、できないのは仏の言葉を心から信じていないからである。

これは本当の革命なるが故に昔や前と同じ生活であってはならない。昨日と同じであってはならない。宿命に泣く人であってはならない。仕事があるから収入があるからというだけでは安心や安全と言えないのが現実である。仏とは希望や哲学に生きる人である。人の幸福に生きる人である。

怠惰で強欲なだけの人はたとえ何かの信仰を持っていたとしても、仏に成れないとまで言って過言ではあるまい。人は何故こうまで残酷にして無関心、無感動になれるのか。理想や希望がなくても平気なのか。短命な人生であっても平気なのか。生きられる可能性がありながら見捨ててしまうのか。逆に殺してしまうのか。ただ黙して見ているだけなのか。

これが人間の野蛮さであることを見せつけるかのような精神構造がある。猿は自分のことを野蛮だとは思わない。ただ本能のままに生活するだけである。人間も自分は野蛮で不完全だと思って生活している人はいないか少ないだろう。ほとんどの人は健康と長寿を除くなら、良くやっていると思っているのではないだろうか。健康と長寿、安心や安全は昔から言葉としてはあっても現実には充分に達成していない。

43石のだるま:2005/01/07(金) 21:35 ID:G0/0/Lu.
あけましておめでとうございます。
管理人さんをはじめ、
みなさん今年もよろしくお願い致します。
・・・人間革命 8・・・
人は何故今のままでも良いと思うのか?私はちっとも良いとは思わないのだが。価値がなければ語る意味がない。語れないのは自分に自信がないからだとも言えるが、自信があるかないかというのは、それもまたその人の信仰そのものである。一部の仲間内だけでしか通用しない話で満足しているのでは充分とは言えない。

法則とか悟りというものは万人に通用する話でなければならない。金や地位に頼ろうとしている限りは万人に通用するものとはならない。一部の人の自己満足で終わってしまうだけだろう。現代人は毎日遅くまで働きながら経済戦争に生きている。その結果は貧富の差が拡大するだけの話である。このままさらに一方的に拡大するとその結果がどうなるのか?さらに必要以上に犯罪が増えるのか?

もっと罰金を重くして刑務所の数を増やせばいいと思うのか?他にももっと問題が大きくなっていくのか?さらなる発達のためには経済は欠かせないし労働も欠かせない。しかし今の労働環境も生活環境も決して充分なものとなっていないのは誰が悪いのか。危険を避けるためには利益の一部を社会へ(弱い人へ)還元することは大事なことではないかと考える。蒸発した水が山野に降るように。それもすべて税金という形だけではなく。国際間での労働環境が今よりもっと平均化し、安心で安全、余裕のあるものになることを望むのは私だけではあるまい。

今必要なのは国家間でのバリアフリーかもしれない。どこの国に行っても同じように働けて生活レベルが同じである社会。個人による弱いもの苛めから国による弱いもの苛めまで、今は競争に名を借りて弱いものを助けるどころかさらに苛めている時代である。余裕を徹底して奪えと言いながら、それを善とし効率化であると喜んでいる時代である。進歩のための効率を否定するつもりはないが、本当にそれで喜んでいるのは一部の人でしかない。

いくら武器の性能が向上し軍隊が大きくなっても、それだけで安全がやってくると思うのは大きな勘違いである。心の中に悪魔が潜み危険が潜んでいる限り、人間の世界に本当の安心や安全がやってくることはない。その証拠に人間は今も短命にして死んでいってるではないか。

非常識を常識と思い込んでいるから危険がいつまでも続く。人間が人間である限り危険からは逃げられない。人間とは仏から見ると未熟な実在である。直接の犯罪者だけが悪いと思っている間は何も変わらない。人間という動物は生活のためには犯罪も辞さない存在だから。生活費のない人間はいくらでも強盗やひったくりなどに向かうだろう。自然災害も含めて危険に出会わないという保証は何もない。題目だけをいくら唱えても災害はやってくるし災難もやってくる。

44石のだるま:2005/01/14(金) 18:34 ID:G0/0/Lu.
・・・人間革命 9・・・
本当に安心や安全であるためには、災難や災害がやってきても人として助け合える環境を先に作り出すことでしかない。保険があるというだけでなくね。その連帯は仏に成ることでしか生まれない。人間の連帯はどう頑張っても限界がある。猜疑心もあるし根底において相手を信用できないでいる。さらには自分の利益だけを優先させようとも考えている。

災害があればあったで災害を利用して儲けようとする人、人が死ねばその死や不幸を利用して儲けようと考えている人々の多さ。全てが自己中心、利益中心でしか考えられなくなっているのが現代。心の問題はあまりにも大きいし大きすぎる。だがしかしその心の中が変わらねば何も解決しないのも確かである。私にとっても、たぶんあなたにとっても。

どうして人はこんなやっかいな心を持たされて生まれてくる必要があったのか。

苦しむ心なんてなければ人間の世界がどんなに残虐であったとしても苦しむこともないし、悲しむこともない、悩むこともなかったであろうにと思う。しかしそんな心があるからこそ人は仏(より進化した存在)に成ろうと試みる。このままでは人間があまりにも哀れにして傲慢、愚かな動物に見えるから。あまりにも簡単に死んでしまうから。また死なせてしまうから。

子供が先に死んで喜ぶ親はいない。たとえ先に親が死んだとしても喜ぶ子供はいない。平気にも成れない。それが普通の人間の心であり仏の心でもある。神の心はいざ知らず。私がもし間違ったことを書いてきたとすれば、それは私の愚かさであるから生きている資格もないと言っていいかもしれない。それでも生きていたいと私は図々しく言うかもしれないがね。たとえ誰がどんな生活をこれまでしてきたにせよ、現在と未来を生きてさえいるならそれだけで良しにしようと思うのだ。

昔の人も現代の人もいい仕事をしてきた。だからこれまでの歴史と現実がある。過去から現在までのすべての歴史を肯定しようとさえ思うし肯定せざるを得ない。歴史上身勝手で残酷な部分は多々あったかもしれないが、多少の早い遅いの違いはあれ結果として死んでしまったのだから許してやれるのではないかとさえ思う。自分がそんな時代に生きていたとしたら、やはり彼等のように生き、彼等のように死んだのかもしれないと思うのだ。

45ケメ吉:2005/01/16(日) 23:09 ID:dVDmcA.k
だるまさん。コンスタントに書き込み、有難うね。

46石のだるま:2005/01/17(月) 19:50 ID:G0/0/Lu.
ケメ吉さん どういたしまして 
有難うと言われるとここでの市民権を得たようで
また書きたくなりますね。他でも書いてますが
掲示板といってもいろいろあるんですよね。
・・・人間革命 10・・・
無信仰が良いとする人から見れば信仰に生きる人は無責任でインチキな世界という思いが強い。現実世界からのドロップアウトと考える人も多いだろう。

宗教の世界が無責任と思われているのはたぶんにこれまでの宗教家達の責任でもあろうが、人間の未来を考えると無責任と断定して後は知らんふりとばかりにはいかない。これは人間精神のフロンティアの世界であると私は考える。心の世界が乱れ身勝手が横行し、犯罪も決して少なくない現実。それを普通のように放送するマスコミの世界。

現代の野蛮や不幸から抜けるには人間がさらに進化するしかない。人間がこれまでの常識だけで生活する人間である限りは解決しない問題だけが多く残されている。とかく死んだら仏という認識だけがつきまとい、それで良しとする人が信仰者の中でも多い気がするが、とんでもない認識不足ではある。これは坊主達の過去の無責任な言動からやってきたものとも思うが、正しいものを正しいものとして伝えるのは難しいことだとは言える。

こんなにも乱れた形に宗教界や人間界がなってしまうのも仏教が想像以上に高度な認識を必要としているからだとも言えるのである。分かってもいないのに分かっているかのようなふりをする人が多いから普通の人がそれに振り回されてしまってもいる。充分な自分の意見や理解を持たないままにいろんな組織に参加しては満足?している現実がある。リーダーにも身勝手があるし、参加する側にも身勝手がある。

47石のだるま:2005/01/23(日) 09:43 ID:G0/0/Lu.
・・・人間革命 11・・・
不幸の実在を普通と考えている限りは誰かがその不幸に巻き込まれていく。不幸は自然や神が勝手に作っているのではなく、そのほとんどは人間自身が作っているものである。政治家、役人、学者、経済人、普通の人、そこに人間の欲望や常識が作用しながら。人に助け合う心が本当にあるなら解決するものは少なくない。人という動物と世界にはそれが充分にないから混乱している。

まったくない訳ではないが力としては余りにも弱い。とかく不幸と認識しても相手が自然であったり、強い権力者であるときなどは諦める傾向にある。しかしそれだといつまでたっても問題が解決しないことにもなる。いかなる権力も法則には敵わない。人は死ぬという絶対とも言える命の法則に勝てる身勝手な人間はいない。

金で解決できるものとできないもの。精神的努力と忍耐でしか解決できないもの。それが悟りであり仏の世界である。結果として実証できるものであり、できるものでなければ誰も信用はしないだろう。それも多くの人間が自然に主張できるようでなければならない。歴史ドラマ、ドラマの中のドラマ。私の願いは誰もが長寿にして宇宙時代に生きてもらいたいと思うだけ。親と子のドラマを創りながら、そのために勝利してもらいたいと思うだけ。教団のためでなく、ただ自分自身のために。

特定教団がもし精神世界をすべて支配し、ただ幹部の言う通りに動けとするならば、それは決して理想ではない。ただ身勝手が続き、別な支配にとって代わるだけのことである。人は楽しいとか価値があると思えなければ頑張れないもの。一途になれないもの。分からないから沈黙?無責任だから沈黙?不幸が横行する中にあって沈黙は罪でもある。それは泥棒が侵入しようとしているのに沈黙し、川で人が溺れているのにただ見ている態度に等しい。

生活できない人が世界にはわんさといるのにそれをただ見ているだけなら仏の敵であり、野蛮の味方となって生きる人である。そんな人にはどんな信仰を持とうが大きな意味はない。ただ心の中の無知や悪、傲慢に導かれるだけだろう。誰でもいいから120年限界説を粉砕してもらいたいと思う。その人こそが本当の意味での勝利者である。普通の人間では今の所まだ粉砕することのできない常識と法である。

今はまだ理想のない貧しい時代である。苦しきことのみ多かりき時代と人である。語らないではいられない時代である。ロボットの性能は日々向上していくが、人間の性能は日々衰えていくばかり。この現実を幸福と呼ぶ人間の心は今も私には分からないままである。ここにこそ革命の必要性、必然性が生まれると思うのである。

48石のだるま:2005/01/27(木) 19:10:59 ID:G0/0/Lu.
・・・人間革命 12・・・
断定したものの言い方をしてしまうと後で失敗と分かれば引くに引けなくなる。だから言葉選びは慎重にしなければならないが、延長論を語れるか否かの差は大きい。

失敗したら無論のこと何も残らないマイナスの結果に終わるが、成功すれば未来を切り開くことになる。これが歴史的にも正しいとなるためには最低でも一万人ぐらいの証言者は必要になると思うが、そのためにも信仰者は積極的に真実を語ってもらいたいと思う。時代と社会の牽引車であってもらいたいと思う。

自分では何も語れないのに人の悪口だけを語っても何にもならない。そんなのはただのアホである。失敗を恐れてしまうと何もできなくなるが成功すると大きいので、その点をよく考えてもらいたいと思う。人には夢を現実にしてもらいたいと常に念願するのである。

時代はまったく新しい局面に入っている。これまでの常識では通用しなくなっている。全てのチェックを怠りなく抜かりなく進んでもらいたいと思う。それぞれ自分のために。特定の人のためだけではなく。

・・・終了・・・

49石のだるま:2005/02/01(火) 20:43:14 ID:G0/0/Lu.
・・・正しいと思うなら・・・
正しいと思うなら、また思えるなら、それは人に向かって語れるものでなければならない。人に分けてやれるだけの内容を持たねばならない。自分の心の中だけで自分だけ分かっていれば良いというものではない。人に語れないのは知識や認識が充分ではないからであり自信がないからでもあるが、人に向かって語れない信仰、語るべきものを持たない信仰や信念なら、それは何年あるいは何十年やっても意味のない信仰であり、無駄な時を過ごしただけと言うべきである。

今の時代は政治家と称する人間が企業や団体から何千万、あるいは億という単位の金を貰っても知らんふりをする時代であり、それができる時代でもある。それを普通としている人と時代。政治家だけでなく企業もどれだけ金を集めたかを競っている時代。そこに幸福を見出そうとしている時代。もしこの地球環境が壊れるとしたら当然それは人間の身勝手が原因になるであろう。

簡単に壊れてしまうような地球環境は誰も望まないとは思うが、今のようにバラバラの国家が乱立している状況では未来もどうなるかは分からない。誰も責任は持てないであろうし持とうとはしないだろう。とりあえず自分、そして所属する会社や国家が安定でさえあれば良いと思うのか。

今は犯罪も災害も国境を越えて移動する時代である。自分の国家だけの繁栄などというものはあり得ない時代である。何もしないでいたら人口増加や食料難、環境汚染などで確実に自滅の道をたどる。仕事だってあるかないか分からない。仕事の有るなしを調整する機関もないし国もない。システムもない。労働環境だって充分ではない。年金だってどうなるか分からない。一部の官僚だけが勝手にしようとしているに過ぎない。官僚のやっていることを民衆が監視するシステムはこの国には充分にない。だから勝手に何でも決められてしまう。混乱している今こそ平和と幸福が求められている時代はないとも思えるが、その兆しはまだ見えていない。

貧困は犯罪の温床ともなる。時には自殺の原因ともなる。今も自殺は決して少なくないが、それは国家も時代もまだ未熟な状態にあることを示している。国の安定と繁栄を心から考えるなら貧困は何が何でも解決しなければならない。貧困は地球環境を滅ぼす原因にもなりかねない大きな問題である。ただ教団に属して題目だけを唱えていれば解決する問題ではない。

50石のだるま:2005/02/07(月) 17:04:49 ID:G0/0/Lu.
・・・正しいと思うなら 2・・・
人の貧困を見て見ぬふりをしていることが犯罪に拍車を駆ける結果となっていく。信仰者は自分が生き延びる事を願い実行する中でこの問題解決の先頭を走らねばならない。自分の命を大切に扱うということは他人の命をも大切に扱うということである。さもなくばあなたの言う信仰とは形ばかりで心の中は非情の人となるであろう。人間性のかけらもなかったことになる。いったいあなたの信念のかけらはどこにあるのか、どこにあったのか。

運命だとか宿命とか、災害だから仕方がない、常識だから、時代だから、今も昔もそうだったからとか、勝手な言葉ですべてを納得し解決への道を探そうとはしない人々の多さ。そんな人々が不幸を容認し平気で自分のことだけを考えているものである。実際は野蛮なのに善人の仮面をつけて生活しているから実に始末が悪い。

悟りを目指すことは失敗という危険も伴うものであるから慎重であることは当然としても、死んでしまったら何の意味もないことであるから、その一方では勇気を出し情熱を持って事に当たって欲しいとも思う。自分の理想と言えるものに全身全霊を持ってぶち当たってもらいたいと思う。またぶち当たることがなければ、それは充分に実りある形のあるものとはならないであろう。平凡という名の実りが育つだけのことでしかない。

何も語れない信仰者は惨めである。それは敗北の信仰と言っていい。他人に分け与える何ものもない信仰となる。何が正しいのかも言えない信仰は、ただ弱いだけの信仰であり無責任、無関心なだけの信である。何も価値を生み出すことのできなかった信仰である。自分も人も死神に向かって歩き続けるだけの信である。それともわずかばかりのボランティアで充分だとでも言うのだろうか。言われた仕事だけで充分だと言うのか。

仏は全責任を持って仏の教えを説いた。それが嘘だと言うのならその嘘を暴かねばならない。真実だと思うなら真実を証明しなければならない。仏の教えの中では中途半端な信仰などはあり得ないし意味のない信仰である。中途半端な信仰、あいまいな信仰は全て自分の死に直結している。

51石のだるま:2005/02/14(月) 17:47:42 ID:G0/0/Lu.
・・・正しいと思うなら 3・・・
無信仰も含めてそれらはとてつもなく危険な信仰と言える。死の行進を続ける人々、その運命は目の前にある。誰の運命も自分で考えて自分で答を探し行動するしかない。たとえ人が何かの答えを出したにせよ、その結果は自分で判断しなければならない。最後は自分で判断しなければならなくなるのは当然である。

信仰の世界と言えども他人が100%助けてくれるものではない。仏であったとしても人の寿命を勝手に変えられるだけの力はない。仏は人に対してただ生きられるという可能性を説くだけである。仏がいつの時代にあっても勝手に人の寿命を変えられるものなら歴史は変なものになるだろう。それでは人の努力も必要なくなってしまう。変えるのはその人の努力と信仰であり価値観でしかない。時代認識、歴史認識と言っていい。

人の命とは健康にして生きているだけで充分に美しく素晴らしいものである。仏の世界とは生きていること、それ自体を幸福と考え感じられる世界である。それを感じるために、感じさせるために短命な時代から歴史はスタートした。歴史の始めから人が無条件に長寿であったなら人間はその幸福を感じ取ることはできなかったであろう。食べられない不幸を経験するからこそ人は食べられる幸福を感じるのである。人は相対的な関係と環境の中でしかものごとを実感することはできないように作られている。人は出来すぎと言うのなら不幸といったマイナスの感情を持っていることを含めて出来すぎと言うべきであろうか。

寿命は宇宙時代を生きるための精神的な原動力である。寿命のない宇宙時代なんて考えられないし意味の乏しい時代である。あと100年もしないうちに本格的な宇宙時代はやってくるであろう。科学技術はより具体的に現実化していく筈である。

平均寿命が70年や80年しかないのに、どうやって隣の惑星に飛んでいくのか、行けるのか?ロケットの中だけで子供を産み世代交代しようとするのか。そんな馬鹿な生活は考えられるものではないし、そんな生活は意味がない。また生活とも言えない。ひとつ隣の一番近い星ですら4光年以上もある。秒速30kmなら4万年もかかってしまう距離、それも片道の話。今の人間ではとてつもない距離である。

もっともSFの世界では世代宇宙船というものを考えだし、ロケットの中だけで生活が可能な宇宙船で他の宇宙へ何世代にも渡って時間をかけて飛び出し生活可能な惑星を探す話があるらしいが、それはそれで目的意識の喪失もあるし生活面でも問題が多い。とりあえずは想像だけだから何とでも書けるのだが。医学は確実に進歩しているのに人間の平均寿命が何も変わらないとしたら、それは結果的には医学が進歩しなかったに等しい。

52石のだるま:2005/02/18(金) 16:44:03 ID:G0/0/Lu.
・・・正しいと思うなら 4・・・
私が人に向かって言えるのは長寿社会の実現であり、寿命の延長論と呼ぶべき法則は確かに存在するという事だけである。それを確かめるのは私自身であるとともにあなた自身でもある。面倒だから嫌だと言うのなら、このまま今までのように死神の法則に従ってあの世に旅立っていけば良いだけの話である。

無責任な怠け者に実証してもらう必要は何もない。それぞれが実証するかしないかだけの話である。もう歳だからいつ死んでもいいと健康な時ほど口では簡単に言いながらも現実には簡単に死のうとはしない多くの人間がいる。それが普通の人の心理と言えばそれまでの話なのだが。

「所願満足」であるかないかは自分の心の中だけの問題であり他人にとやかく言われるようなものではない。自分が頑張るか否かであり達成するかしないかだけである。死神の出題するテストは厳しくも難解である。何を見てもいいし誰に答を聞いてもいいが最後の答だけは自分で出さねばならない。

人の話をいくら聞いても自分で納得し理解できなければ意味はない。合格通知は早い者勝ちである。合格通知が郵便で送られてくる訳ではないが、自分の心の中に自然な形で満足の心だけは生じるであろう。いつのまにか勝利の予感といったものが出てきて感じられるから本当に心とは不思議な世界である。合格したという自信のない人は何もしてこなかった人である。実証できなかった人である。自信という信仰があるかないか、喜びという結果があるかないか、ただそれだけの差と違いである。他には何もない。それが私の体験と結果である。

信仰者は人に言われて動くだけのロボット人間、組織にただ隷属するだけの人間であってはならない。自分の個性と能力を見極めて動く人でなければならない。地球文明から太陽系内文明の構築と移行。宇宙時代の始まり。それが仏の教えの結果である。

平社員であるか部長であるか社長であるかはたいした問題ではないし、信仰したらみんなが社長になる訳ではない。社会システムをどうするかであり、近未来を元気で生きているかどうかが問題なのである。

53石のだるま:2005/02/25(金) 23:20:13 ID:G0/0/Lu.
・・・正しいと思うなら 5・・・
信仰者は最大限の仕事をしなければならない。自分の名誉をかけて仕事をし発言しなければならない。真実とはゆるがないもの、沈黙できないもの、そして絶対的基準となる。余りにも真実が巨大過ぎて、その実像が見えない者、思考が及ばない者。生と死の分かれ目がどこにあるのか。

無知とはそら恐ろしいもののひとつである。今回のスマトラ沖地震と津波もそうだったが真実に対して無知であることが災害を拡げてしまう。私もそうだが穏やかな海しか知らない人は多いであろう。死は必ずしも前触れなく待ったなしでやってくる。危険予知がどれだけ確かなものであるのか、今一度あらゆる点でやっておく必要はあるのではなかろうか。精神的にも社会システムにおいても。

正しいことを正しいと言うことは良いことである。間違っていることを間違っていると言うことも良いことである。正しいことを間違っていると言ったら悪いことであり、間違っていることを正しいと言ったら詐欺であり嘘つきである。詐欺や嘘つきの罪とはどれだけのものであろうか。

正しい者を間違いとして否定し罵声を浴びせたらどうなるか。日本での信仰は他人の悪口を言うのは単純に良くないとして批判されることも少なくないが、とりあえず争わないようにするのは良い事であるとの常識も一方ではある。一般には善悪や正邪の世界には分け入らないようにしようと考えている人が意外と多い。

確かに先祖代々やってきた信仰を否定されるのは我慢できないという心理は誰にでもあろう。自分はこれまで特別の不幸もなく生活できているから何も問題はないと考えている人も多いだろう。しかしその結果として不幸な人に対して見殺しの罪を犯している人も多いような気もしている。人は仕事もなく食物もなければ簡単に死んでいく存在である。これは人であっても仏であっても同じ。仏だから霞を食べて生きるという訳にはいかない。

信仰者は自分の正邪、自分の信念、自分の思想や理想を語ってこそ信仰である。何も語るものがなければそれは信仰とは言えない。信仰というとよく知りもしない神や仏から一方的に何かを与えられる事だけを期待し自分からは積極的に考えないし行動しない人も多い。それを普通の信仰と考えているし思ってもいる。人の割合からすればこのタイプの人間が断然多いと思われる。議論したくないし面倒だから善悪や正邪の話はしたくないという人は今も多かろう。何と言っても収入、収入、また収入である。それが全てという価値観は完全に浸透している。出世競争に負けるなという発想である。

でも出世という言葉はもともと世間の常識から出て仏に成るという意味であることを知っている人はどれだけいるのだろうか。初めから信仰の世界は無責任なものであり多くを望むほうが間違いであるとの認識は今も強い。簡単に飛びついて間違っては損であるとの認識がそこにはある。確かに無責任な信仰が昔も今も横行しているのは確かである。だから無神論が一番いいとの発想も生まれる。私から見れば余りにも信仰の世界を知らなすぎるというのが偽りのない感想である。罪の意識が欠落しているから犯罪もまた多い。罪の自覚がたとえあっても人に見つからねばいいとの発想も同じく強い。

54石のだるま:2005/03/03(木) 19:21:18 ID:G0/0/Lu.
・・・正しいと思うなら 6・・・
権力者から万民に至るまで人の精神構造はそんなに変わらない。昔も今も変わらない。人は大衆に似た政府を造ると言うが、まったくその通りである。苦しんだ経験のない人ほど他人の苦しみには平気であり屁とも思ってはいない。常識や時代がこれを普通としてしまう所に人間の弱さと悲劇がある。触らぬ神に祟りなしと言いながらも完全には宗教から脱している訳ではないし葬式から離れられないだけでも人間は宗教的な存在であると言えよう。

人への思いもなく死後の世界がまったくないとするならば葬式などというものはまったく意味のない儀式でしかない。葬式もまた金儲けの手段でしかないと考える人も少なくはないだろう。正月に寺や神社に行ってわずかの金を捧げ手を合わせて帰ってくる現実。それだけで満足する現実。満足できる現実。触らぬ神と言いながらも死神は触らなくてもやってくる。望みもしないのにこれほど無理やりにしかも確実に人間に関与してくる神はいない。

猿が何かに手を合わせたらそれは信仰だろうか?宗教だろうか?猿だって訓練すれば賽銭を投げて手を合わせるぐらいはやってのけるだろう。人間はそれを見ても信仰とは呼ばずにポーズでしかないと判断するのだろうが、反省猿が世間を喜ばせた事を思えば今時これくらいの猿が現れても良いのではないだろうか。同じことをしながらも猿は信仰のないポーズであって人間の場合はポーズではないという根拠がどこにあるのだろうか。実際に願い事をしたかしないかの差であると言うのだろうか。猿は願い事をしないからと言うのだろうか。そこには精神性が何もないと言うのだろうか。私はその程度の信仰なら現実にはたいして違いはないと思うのである。

今はコンピューターの世界に生きる人がそのパソコンを持って神社でお払いを受けるような時代である。最も神からは遠い存在とも思い感情の入らない世界だと思うのに事故などがあると車や機械までもがお払いの対象になる。人の作る機械にどんな責任と感情があると言うのか。そこに安全の神や無事故の神が必要だというのは不思議の国と考えるべきか。それで良いと思う感情の流れ。

日本人に限らず多くの人が持っている信仰は銭信仰である。金が最大価値と思っているから人を殺してでも奪ったほうが勝ちという信仰が一部の人(多くの人)にはある。役人にも暴力団にも流れている信仰であり、会社だって悪ければ例外ではない。それも人間らしい信仰であり猿なら絶対にこんな価値観は持たないであろうと思うのに悪知恵がある人間だからこそ可能な芸当である。

普通の人間なら罪の意識が働いてこんなことはできはしない。そしてその金は理由がない限り社会には出ていかない金である。拡がることを普通としているのだから貧富の差が拡がるのも無理はない。偽金が簡単にパソコンで印刷され世の中に出回る世の中。貧富の差が拡がるとどんな危険が待っているかも充分に予測はされていない。腐った人間達とも思い、サリンでも撒いてやろうとする人間がまた現れないとも限らない。無頓着、無関心、無責任と実に危険な世の中を人間達は作った。

55石のだるま:2005/03/09(水) 20:03:46 ID:G0/0/Lu.
・・・正しいと思うなら 7・・・
戦争にでもなって自分の財が減るのは困るから軍事競争にはこれでもかとばかりに金を注ぎ、それによって傷つく人も世界には決して少なくない。その現実を何も言わずに見ている人も多い。少しのボランティアでもやれば罪は消えて何もないとでも思うのだろうか。自分の信念を語ることのない沈黙は決して小さな罪ではないと私は考える。

もちろん正しいと言えるだけの自信がなければ語れないことでもあるし失敗でもしたら何のために語るのか分からなくなる。語る以上は成功しなければならない。負ける戦いなら始めからやらないほうがいいに決まっている。

信仰とは思想の世界における戦いである。戦いであるが故に生と死がある。人から言われるままに手を合わせた所でそれを信仰と呼ぶにはほど遠いものである。最低レベルの信仰と言ってもいい。

もし私の書いたものが嘘なら私はこれから嘘つきの罪を背負って生きることになる。嘘つきダルマになってしまう。もしあなたがそうなら同じように嘘つきの罪を背負って生きねばならない。何もしなかった人なら何もしなかった罪を背負うことになる。

困っている人を助けなかった罪、見殺しの罪、自分だけの欲望に生きた罪、沈黙に生きた者の罪、現実の法律にはなくとも言葉だけならいろんな罪が考えられる。

もっとも守らねばならない筈の自分の命、その自分の死を容認した罪とはあるのかないのか。人々に大きな嘘を説いた者の罪とは?嘘を実行した者の罪とは?警察に捕まらなくても嘘は嘘、罪は罪である。

いったい神は罪人をどうやって裁くつもりなのであろうか?人は生きてきたようにしか死ねない動物。人間の終末とはそれはそれで神の審判のひとつなのかもしれないと思わなくもない。

毎日のように善意も罪も人の心の中には刻まれていくのかもしれない。私は死神の力を恐れる。今はまだ真実が遠くにあり、その真実を実感することはできないかもしれない。しかし真実は真実であるが故に、その真実は確実に近づいてくるし誰にも止められない。

昇る太陽がその輝きを増すように嫌でもやってくる。その時に嘘つきは誰であるのか、何もしなかったのは誰かがはっきりする。反逆者も同じ。歴史があいまいで終わることはない。人はその真実や事実を嫌でも引き受けなければならない。

56石のだるま:2005/03/14(月) 17:32:52 ID:G0/0/Lu.
・・・正しいと思うなら 8・・・
歴史には勝利者の歴史と敗者の歴史とがある。残忍な歴史もあるし美しい歴史もまたある。

今までは精神の暗黒時代と言っていい。闇にまぎれて悪いことを実行する人間が余りにも多かった。分からないだろうと思うが故に、構わないだろうと考えるが故に人の不幸はそっちのけで生きてきた。自分の幸福だけを考えて生きてきた。

自分の幸福を考えない人は私も含めていないとは思うけれども。大変な道は大きく変わる道であるからこそ進むのが大変である。選択を伴う道である。スポーツマンは日々肉体を鍛え競争がある中で大変な道を歩いている。そして記録なるものを作る。思想の世界、信仰の道も同じく大変な道。人にとって自分の心の中にある疑問や迷いを解決する、払拭するというのはこれまた大変である。決して題目を唱えるだけでは解決しない現実である。

仏に成れ、成れると説いて誰も成れなかったら、これは立派な詐欺である。人は刑務所には必ずしも入っていないにしても死神によって全て死刑を宣告されている。その死刑執行がいつになるかは誰にも分からない。その後は脳も意識もないような世界があるだけ。残るは物体と化した少しの骨のみ。これ程の不可思議な世界はまたとない。生きるも不思議、死ぬも不思議。昔の人が妙と言ったのも分からなくはない。

20年も30年も信仰してくれば、どんな信仰であっても何かが変わって当然である。何も変わらないというのは何も変える努力をしてこなかったからかもしれない。人は自分から変えようとか変わろうとしない限り変わらない動物であるとも言える。

思考力や想像力といった精神力、認識力を働かせてこなかったからと言えなくはない。潜在力はありながらも脳力(能力)は余り多く使ってこなかったに違いない。ほとんどの人の信仰は確信まで届かないで、あいまいなまま終わってしまう。安易な道では何も生まれないとしても仕方のない所ではある。

肉体の変化は確かにあるが、それだって個人差のある世界である。ここ最近の寿命の変化を見ても、やはり人間の変わろう、そして変えようとする精神と努力があったからではないかと思うのである。より理想に向かおうとする良い意味での願望や信仰がそこにはある。

女の人がひたすらより美しくあろうとする努力は悪いことではない。たとえ人工的な美であっても良いと思うのである。100歳のしわくちゃ婆さんがたとえ表面上であれ、突然に40歳とか50歳ぐらいの美を取り戻したらびっくりはするだろうが、それも悪くはなかろうと思うのである。

ただ人の悪口を言い他人をなじってみても、それだけで自分の株が上がる訳ではない。信仰者ならやはりそれなりの何らかの結果を世に示さなければならない。サラリーマンは会社での評価、信仰者は社会での評価が基となる。

57石のだるま:2005/03/21(月) 07:45:28 ID:G0/0/Lu.
・・・正しいと思うなら 9・・・
何十年も信仰してきましたと言っても、それが地蔵さんの頭を撫でているだけのものだったり、機械的に題目を唱えるだけだったとしたら、口から声を出しただけであり脳力としては何も使ってこなかったと言えるのである。そんな信仰ならこれから何百年やっても同じだろうと思うし、ただの自己満足でしかないとも思う。万人に通用するものは何も生まれないであろう。

仏は地蔵さんの頭を撫でていなさいとか、何かを供えなさいとか、題目だけをただ機械的に多く唱えなさいとは言っていないし書いてもいない。ほとんどの信仰者は身勝手に理解し実行しているに過ぎない。そしてそのことを人から否定されれば反射的に口汚くののしるだけの言葉が冷静な理解も判断もなく出てくる。あるいは沈黙してしまう。

人はそのような精神構造を持って生活している。歴史の始めからそのような脳へのすり込みがあるから、そんな現実であっても疑問に思うことがない。昔の人が戦争をし他人の土地を奪っても、それを勝利者の権利、論理としたのも精神構造的には変わらない。今でこそ悪とされているが少し前までは日本人だって例外ではなかったのである。

法則は一部の組織や一部の人間だけが利を得るようなものではないし、そんなものは法則とは呼べない。法則や悟りは万人に通用しない限り法則でもないし悟りでもない。だから一人だけの悟りというものはあり得ないことになる。権力への願望や出世に対する願望は普通の人間なら誰でもあるものだが、人間が作り出す宗教の世界もこの願望や欲望と無縁ではない。

そもそもの仏教の始まりは生と死をからめた人間の幸福という壮大なテーマがあった訳で、これをどう見たか考え結論づけたかの差でいろんな宗派が生まれていった。ただ分からないとか難しいとか言っているだけでなく自分の力で答を出すことが求められる。腐れ爺さんや婆さんになってから後悔しても遅い訳で、早いうちに危険予知がなされるにこしたことはない。

120年限界説は人間にとってはとっても重いものであって、理屈としては存在しないと言っても現実に生まれてきた人間にとっては必ずこの限界にぶつかる訳であり簡単なことではクリアーしない。たぶんこの困難さは永遠に続くもののひとつであろう。

人間にとっての訓練という点から見ると最適の教育プログラムと言える。いい加減な知識や態度ではクリアーできないしカンニングもあり得ない。合格か否かは自分の死によって決まる。これ程厳しくも公平なテストは他にはありはしない。人間が勝手に作り勝手に合格を決める訳ではないからこそ逆に安心もしていられる。

人間はとかく自分の都合の良いほうに傾きがちである。完全に公平に動くことはないといっていい。他人の意見を簡単に受け入れて失敗するようならとんでもない事になる。違った意見がもしあるとしたらどっちかが完全に間違っているのであり、両方間違っていることがあるにしても両方正しいということはあり得ない。あなたが正しいと信じていることがあるとすれば、どうやってそれを証明するのか?証明できなければ信仰もまた簡単に崩れてしまう。

失敗したくないから簡単に信じるようなことはしないというのは当然の理である。誰しも無駄なエネルギーは使いたくない。しかしながら簡単には信じたくないと言いながらもこれと言った理由もなしに120年限界説だけは固くしかも簡単に信じている。

固く信じるからこそ精神も肉体もその信念に従う。天動説に負けず劣らず、これはかなり強い信仰である。これは自己矛盾ではないのか?夢や希望、理想に反し何も生み出せないでいる信仰である。実に哀れで貧弱な信仰である。

58石のだるま:2005/04/01(金) 18:17:48 ID:G0/0/Lu.
・・・正しいと思うなら 10・・・
思想の世界とは思いや想うことを形に表現し文字として表現してこそ思想である。文字として表現するものを持たずに何を信仰してきたと言うのであろうか。何かを信仰してきたと言うのならその何かの結果を示すべきであり残せる筈である。それが何もないのならそれは信仰でも何でもなかったのであり信仰と呼ぶべきではないとまで言えるのである。

信仰と言っても内容のあるものから何もないものまで千差万別である。地蔵さんの頭を撫でているだけの信仰だってあるだろう。それこそ鰯の頭を拝む信仰だってないとは言えない。あなたはその中のどれを選んだのか?

信仰は自己の精神に極限の選択をせまろうとするものである。当然のように結果を求める。仕事で社長に成ればいいという教えではないし、そんなことを説く仏は過去にも未来にも絶対にいない。

全員が社長になったら物を造る人がいなくなってしまうし、そんな時代はこれからも存在しない。仏は命の大切さをいつの時代にも説くのであり、その価値はどれだけの金を積もうとまだ高いと説くのが仏である。命の大切さを追求するとどうなるのか?諦めることもなく希望や理想を失うこともなく進むとどうなるのか?あなたは本当に心から考えたことはあるのだろうか?

人を救うとはいかなることなのか?それを知りそれを可能にするために人間は短命で猿のような文明から出発した。仏は無知とも言える人間に知識と智慧を与えた。仏は人間に簡単に死ぬな、死んではいけないと教える。生きていることそれ自体に価値があると教えるのである。

たとえ運命や宿命を前にしてもそれで諦めてはならないと説く。人間にとっての寿命の壁はとてつもなく高い。しかしまったく突破できない壁ではないと説くのである。不可能を可能にするだけの力と智慧が人間には始めから与えられているではないかとそのように優しく教え諭すのである。

同じ人間でありながら、その同じ人間である人の精神的奴隷、肉体的奴隷になんかなるなと合わせて説きながら。それは人間が身勝手という意識に支配されており、それを普通と思うからに他ならない。庶民の立場に立つならそのマイナスの感情や意識にすでに負けているのである。

夢や理想を持てなくなっているし感じなくなってもいる。特に中年と呼ばれるようになってくるとそうなる傾向が高い。お金がない訳ではないからそれで満足してしまう。怠惰な信仰には怠惰な生活と結果が示される。

神も仏も簡単にお金をばらまくような真似はしない。それではただ怠け者の人間にしかならないから。人としての充分な智慧があるのだから、それを使って生きよというだけである。常識に問題があるのなら常識を壊すしかない。時代精神に問題があるのならそれを壊さねばならない。宇宙時代にふさわしい精神と肉体そしてあるべき社会を作らねばならない。

59石のだるま:2005/04/07(木) 19:25:11 ID:G0/0/Lu.
・・・正しいと思うなら 11・・・
信仰を追及していくと必ず精神の限界、肉体の限界にぶちあたる。これは当然の成り行きである。その時にどうするかでその人の信仰が問われることになる。仕事も生活もそこそこで良いという話ではない。今は文明としての限界も問われているし個人としての限界も問われている時である。地球だって限界に達しようとしている。

これからも人の生活を確保しながらさらに安全に安定的に物を供給するのは決して簡単なことではない。逃げるも人生、ぶち当たって砕けるも人生、何も語れない信仰というのはあり得ない。またそれを信仰とは呼べない。人に言われてただ形ばかりのものを繰り返していてもそれは実りあるものとはならない。

21世紀という時代の中で自分の心の中に自信や結果を打ち立てることができるか否か。多くの人が立派な仕事をしてきた。延長論はその集大成と言っていい。信仰の世界も何かの行為をする限り、それに見合った見返りは必要である。単なる精神論だけで終わらせてはならない。

社会のどこに風穴を開けて突破口を切り開くのか。大変だけれどやりがいのある仕事ではある。人間の歴史は後戻りすることができない。人生もまた同じである。ただ前に進むだけ。無駄な信仰であったか価値のある信仰であったかは自分で決定しなければならない。

その結果を受け取るのは自分自身である。自業自得の世界であり、死ぬのも自業自得なら生き延びるのも自業自得である。

苦しんで見るというのは仏道にあっては大切なことである。ただ平凡な目、普通の目で見ていても本当の所は分からない。救いという目的を持ち苦しんで見てこそ真実が分かるのである。

スポーツの世界でもスランプに陥り苦しんで脱出する話は良く聞く話であるが、限界にぶつかるからこそ苦しむし、心が苦しむからこそ真剣に悩むし考えもする。そこに道が開けていくというのは信仰の世界も同じである。だからと言って明日からさっそく苦しんで見ますという訳にはいかないと思うが、普通の努力や忍耐が限界に達してこそ、その先を考える人間にのみこの苦しみというものがやってくる。

これは消極的にやってくるのではなく積極的に生きてこそやってくるものである。決して受身で考えるのではないし、いじけて苦しむのでもない。求めるものがあるからこそ苦しむという求道者だけが持つことが可能な苦しみである。産みの苦しみと言ってもいい。

これがないと何年信仰を続けてきましたと言っても何も生み出せない結果に終わってしまう。苦しんで見て考える機会はそうはないであろうし程度の差もあるが、大切にしなければならない機会であることは確かなようである。

60石のだるま:2005/04/18(月) 18:45:25 ID:G0/0/Lu.
・・・正しいと思うなら 12・・・
今の宗教界は乱世であって、これといった結果を出せないままいろんなインチキが流行している。基準もあいまいだし、いたずらに言葉のみが氾濫している。相手を罵っているだけの人もいる。どんな信仰に満足するかは教団だけの責任と判断ではない。自分の責任だと言える。結局の所自分が解決しない限り、人も教団も答を提示しないし、できないと言える。

現実に仏寿の長遠が正しいとするなら、仏の教えとは真に評価できる宗教であり、すばらしい思想である。そこには全力を尽くす価値が確かにある。中途半端な心で達成するものではないけれど世界宗教と成りえる要因は否定できない。怠け者は何十年信仰しても目的を達成することなく死んでしまうしかないとも思うが、自然の力とシステムは確かにすごいものだと感心してしまう。

宇宙時代にふさわしい信仰とも言える。これだけ多くの人間を生み出してしまう自然の力とはいったい何かを改めて考えてみたいものである。歴史の結果と幸福を知り抜いた上で神は人間をこの地上に呼び出し進化させたのであろうか。そうだとしたら実に危うい話である。神の力、自然の力を信じなさいとでも言うのであろうか。

進化論は否定しないまでも、やはり人間は偶然にこの世に登場したのではないと思えるのである。人は生まれ人は死ぬというとてつもないシステム。時代、歴史、宇宙が存在するというシステム。物と命との関係。謎は深まるばかりである。

物があって命が生まれたのか、命があって物が生まれたのか。どちらが先かという議論ではなく、私は物と命が同時に生まれたという説を取りたい。今はエネルギーと物質の等価が計算される時代だが、生命エネルギーもまた宇宙空間というとてつもない空間を生み出す源になるのではないかとさえ考えている。ある意味で夢の世界であると。夢の現実化と言えば良いのだろうか。

それを理解し現実化していくだけの力と智慧が人間には託されているように思える。悟りとは決して全ての謎を解決しろというものではないし、何でも分かってしまうというものではないが、安楽な生活をしているだけでは得られないものがこの世には確かにある。

宗教そのものは決して無責任でもいい加減でもない。気の持ちようだけでもない。人間にそのように思われているのは、そのように思う人や扱う人が多いからであり、普通の人もまたその現実に振り回されてしまっているからである。本気になって考えないと分からない世界であり、理想を持ち、疑問を持ち、好きでないと進むこともできない世界である。野蛮や不幸を普通と考えている人間には遠い世界であり真実に到達することを許されない世界である。

結果を伴わない口先だけ人間が多いから人々も混乱に導かれているが、真実の世界はあいまいなものでも簡単なものでもない。限界まで考え抜いた人だけが真実や悟りに到達できる世界なのである。自分の死と本気で格闘した人だけが経に書かれている理想と現実に直面するのである。分からない世界であるからこそ疑問もあるし、ためらいもある。危険な匂いだってないとは言えない。結局は自分の死をどう見て考えるか、扱うかで決まってしまう問題だと思うのである。危険と思うのなら確実に老化し死ぬと分かっている現実に身を任せるほうがより危険だと思うのである。
・・・終了・・・

61石のだるま:2005/05/07(土) 16:23:30 ID:G0/0/Lu.
・・・不信の罪、沈黙の罪・・・
信じないことが何故に罪になるのかと普通の人は疑問に思うかもしれないね。
不信は仏に向かってあなたは嘘つきだと言っているのと同じである。仏に向かって矢を放つ行為にも似ている。精神的には嘘つきだから死んでしまえと言っているのとあまり変わらない。

もし仏が真実を語っているとしたら、その真実と対立することは罪であり悪となる。地動説を真実としたのに対し今も天動説が正しいと言っているようなものである。
科学の世界での法則は知らないからといって普通の人が特に不利益になることはないが、命に関わる世界と法則では真実を知らないと損をすることにもなりかねない。

早い話が病気の世界を知らなければ人は病気で簡単に死んでしまうことになるし寿命の問題が分からなければ寿命の問題で死んでいくことにもなる。
法華経の中に14の誹謗の罪が書かれているが、その中にこの不信の罪がある。すべて仏教は正しいという前提に立っての話であるから間違っていると思う人には何を言っても無駄であろう。

62石のだるま:2005/05/19(木) 16:58:52 ID:G0/0/Lu.
・・・不信の罪、沈黙の罪 2・・・
沈黙の罪も分からないからこそ沈黙せざるを得ない部分は確かにあるが、信仰者にとって分からないという答は答ではない。

答は真実なのか嘘なのかを見極める所まで進んでこそ答である。中途半端はあり得ないし意味もない。沈黙もまた無責任であるという点では不信ほど積極的ではないにせよ、まったく罪がないとは言えない。

不信の罪も沈黙の罪も仏に対しては決して軽くて小さな罪ではない。理解していないし評価もしていないという点では大同小異となる。それは人を救うことを念願し助けてやろうとしている人に対する反逆行為となり、溺れている人に対しても見て見ぬふりをするようなものである。

すなわち見殺しの罪に等しいとまで言っていい。個人であっても国家であっても困っている人がいたら助けることを普通としてもらいたいものである。普通の人は損得に生きているからなかなかできないとは思うが。

沈黙はまた戦場に出かけた兵士が死ぬことを恐れて戦うことをやめ防空壕の中に隠れている弱い態度に似ている。信仰者にとっては真実を語ることが全てと言ってもいい言論戦なのであるから、何も語ろうとしないのは戦わない兵隊と同じである。

63石のだるま:2005/05/28(土) 20:13:22 ID:G0/0/Lu.
・・・不信の罪、沈黙の罪 3・・・
少し考えたけど分かりませんでしたでは考えたことにはならない。答を出すまで考えてこそ思考であり責任である。相対的に見て人より自分の収入が多いからそれで良しとしてはならない。それで幸福と思ってはならない。自分より不幸な人がいるからそれを見て自分は今のままで我慢しようと思ってもならない。

だからこそ何が何でも答を出さねばならない。答のない信仰はあり得ない。答のないのは何もしなかった、何もできなかったことに対する結果でしかない。信仰者は良い仕事をすること。何が正しいかを示すこと。正しいと思ったらその拡大を図ること。それ以外にはあり得ない。しかも言ったことへの責任と結果まで示さなければならない。

人はどんな世界に生きようと常に理想を持ち、その理想と思うものがなければ前進できないし何も変わらない。それが持てなくなったとき人は精神的にも肉体的にも老人への道を歩み始める。

正しいものや正しい人に対して積極的に攻撃をしかけ罵声を浴びせる事は当然罪であるが、さらには正しいものや正しい人を無視して評価を与えないという消極的な態度や対応にも罪があるという発想が仏教にはある。早い話が正しいと思うなら積極的に評価し沈黙してはならないという事だ。

沈黙は少なくとも正しいとは考えていないことの表明である。仏教的にはこれは立派な罪である。正しいと考えているなら正しいと言える筈であるし、言わなければ他人には通じない。

64石のだるま:2005/06/12(日) 21:11:59 ID:G0/0/Lu.
・・・不信の罪、沈黙の罪 4・・・
信じられないと言うのなら何故信じられないのかを明確にする必要があるし、分からないと言うのなら何故分からないのか、どこが分からないのかを明確にしなければならない。

そうは言っても共に精神的なエネルギーのいることだから簡単ではないが、だからと言って放置すればいいほど簡単な問題でもない。疑問を疑問として明確にした上での不信なら本人だって納得できよう。

分からないけど何となく不信というのはただの無責任である。人間のすべきことは生活もあり仕事もあるから思想や哲学、信仰のことだけを考えるという訳にはいかないのが普通である。

でも少しでも大切と思う心があるのなら考え続けねばならない。結果については本人の問題であるから無理にとは言わないが、いずれにせよ思考力や判断力の限界を求められているのは確かである。

一般の世界でも思考力や判断力は限界を求められているし信仰の世界も例外ではない。

寿命の延長論が真実ならばそれは歴史的快挙となる。誰にとっても素晴らしい結果となる。

何もなく失敗に終わるならば当然の結果としてみんな短命な時代の中に死んでいくしかないが、それではただの怠け者にして愚か者のレッテルを貼られることとなる。
何も答を出さなかった、出せなかった者の結果でしかない。

65石のだるま:2005/07/13(水) 18:11:56 ID:G0/0/Lu.
・・・不信の罪、沈黙の罪 5・・・
自分の意志で答を探し見つけるのが一番である。それなら誰にも責任を転嫁しないで済む。必死で考えた者だけが勝利を得るであろう。

形ばかりの信仰者は何も得られないままに死んでいく。どんなに長寿社会がやってきても医学が不要になることはない。

むしろますます重要になるし長寿社会建設にはなくてはならない存在である。

信仰で病気が治るなら医者はいらなくなるという話をする人もいるが、確かに全ての病気がそうならそういう変な結果になるが、歴史が続く限りそういうことにはならない。

長寿社会とは病気がない、病気にならないという社会ではない。現在だって昔から見れば少しは長寿社会にはなっているが、決して病気がなくなっている訳ではない。

66石のだるま:2005/08/03(水) 21:01:35 ID:G0/0/Lu.
・・・不信の罪、沈黙の罪 6・・・
人が120年以上も生きたらお金が足りなくなると質問してくる人間もいるが、単純に現在あって流通しているお金だけを分けたらそういう事にもなるが、お金は印刷すれば増えるものだし通貨の変更もある。

何より江戸の昔から人間も増え寿命も増えお金も増えたが絶対的に生活できないという現実には至っていない。それは生産量とのバランスであり通貨を含む流通とのバランスである。生産から時空まで含めたバランスさえ取れていれば人間はいくら増えても問題は起こらない。

問題はむしろそのバランスを崩そうとする人間の身勝手な意識のほうである。

私は怖いとも思えることを書いているしその自覚もあるが、結果は全て歴史にゆだね神の審判にまかせるしかない。死神さんの言う通り、やる通りにするだけである。

仏も偉大だが死神の力とは絶大である。誰にも文句は付けられない。人間は結局の所自然や時代の中に生かしてもらっている存在に過ぎない。理屈はどうあれ宇宙を作り出しているそれと同じ力が人間には流れ込んでいるし、まだ多くの力が眠っている。

信仰はその力を引き出すための戦いと言ってよい。そのためには理想を信じ、夢を信じ、幸福を信じなければならない。信仰とは不幸を撲滅させるための戦いである。罪を憎んで人を憎まずの世界である。

67石のだるま:2005/08/28(日) 12:22:49 ID:G0/0/Lu.
・・・不信の罪、沈黙の罪 7・・・
今回のスマトラ沖地震と津波でも有無を言わせずに全てを押し流してしまった。
危険予知が不十分であったとは言えるにしても国際社会での助け合いが今こそ大切な時はない。
その国に金がないから安全対策はしなくて良いという時代でもない。軍事よりもより直接的な貧困対策、安全対策にお金を費やしてもらいたいものである。

銀行の金庫の中だけにいくらあっても何の役にもたたない。多くの金が使われないままにたくさんの人間が死んだ、地球が滅んだとなればその責任と愚かさは誰にあるのか。使うこともなく死んでいった人にあるのか。
集まったお金が本当に被災者のために使われるのか疑問がない訳ではないが、困っている人のために涙を流し行動する人がいるというのは心強いことではある。

死神は人が持っているものの全てを押し流してしまう力を持っている。全てをご破算にしてしまう。寿命の謎を解くことでその法則が明確になる。

信仰者としての自負心ある者は自己の信仰を完成に導かねばならない。さもなくば何のための信仰か分からなくなるだろう。無駄な時を過ごしただけになる。
いくら経の中に「更賜寿命」の文字があっても現実が伴わなければ理想が理想でなくなり何の意味もない言葉になってしまう。昔の人が考えて書く必要は何もなかったことになるし大切に伝える意味もなくなる。

68石のだるま:2005/09/27(火) 17:17:01 ID:G0/0/Lu.
・・・不信の罪、沈黙の罪 8・・・
仮にこれが真実であるとしたら、現代人は夢も知性も理想も持てないし理解もできないような貧弱な精神の国民になってしまう。

人口増加と長寿社会、それを支えるシステム。人の労働の結果。予測する100歳の自分は一方では怖くもあり、一方では楽しみでもある。その時にどんな時代になっているのかも含めて。

信仰者であってもなくても自分の意志や思いをきちんと人に伝えることは大切なことである。死生学はまだ始まったばかりと言っていい。

人に言われて経や題目を唱えているだけの信仰は半人前の形ばかりの信仰である。

ロケット技術はこれからも進むだろうが、寿命のない人間ではこの確実にやってくるであろう宇宙時代に対応することはとてもできない。

何が正しいかも語れぬような信仰とは意味も価値もないものである。寿命の延長論はそれぞれの生活を賭けた戦いとなる。賭けに破れた者は何も得られないまま平凡に死んでいくしかない。

戦いとはいつの時代も自分の生活を賭けてやるものである。二度も三度もできるものではないが、人生に一度ぐらいは戦いに賭けることがあってもいい。それはこの世で何を発言したか、何を作り出したかで決まってしまう。

競争原理が働かない組織や体制ではどうしても思考が甘くなるのは避けられない。自負心がある信仰者なら語らねばならない。何も語れない信仰ならそれは信仰があるとは言えない。何も考えてこなかったことの証と言っていいかもしれない。同じ事を繰り返し言って申し訳ないけれども。

69石のだるま:2005/12/02(金) 18:40:13 ID:G0/0/Lu.
・・・不信の罪、沈黙の罪 9・・・
事故や災害で人が死なないと改善されない部分。変わらない認識がある。

人と仏とは精神的にも肉体的にもそんなにかけ離れている訳ではない。

仏だから不節制しても健康が守られるということではない。ほとんどは同じといっていい。

だからこそ忍耐や努力さえあれば人は仏に成ることができる。これまで不可能と思われてきた理想を達成するだけでいいのだ。

これほど金のかからない理想は他にありはしない。強制はしないし強制できるものでもないけれど、夢とか理想とかいうものは自分で作り出すものである。

信仰もそうだが他人から一方的に与えられるものではないし与えることはできない。怠け者はどこまで行っても怠け者である。

70石のだるま:2006/03/19(日) 14:54:41 ID:v7qwfR9o
・・・不信の罪、沈黙の罪 10・・・
うまくいくかどうか分からないものをやるのは勇気がいるし不安も働く。
それは分からない話ではないし誰でもそうだといっていい。

現実を矛盾の世界、問題のある世界と見るか否かで対応は違ってくる。
その現実が心の許容範囲であるならば多くの人は問題にはしないだろう。

仏教は形の上では花盛りのようでもあるが現実に仏が何を説いたのか、何を問題にしたのかをきちんと説明できる人はいないか存在したとしても少ないものである。

たいていの人はあいまいなままで毎日の生活を過ごしている。
なるようになる、なるようになればいいと考えてもいる。

人が死ぬのは自然で当然だから気にしないという発想と感性がそこには大きく作用している。
たとえ人を殺しても罪悪感すら感じないという人まで中にはいる。合理性が感性というものを摩滅させてしまったのではないかとさえ思える。

たくさん人を働かせておけばいい、働いてさえいれば良いという時代精神とも言える。
自分の死を問題にしない人が他人の死を問題にする筈もないし、できる筈もない。もちろん人の不幸も問題にはしない。

いつの時代もそうだが災害が起きて人が多く死んで始めて社会の不備、設備の不備、技術の不備、心の不備が問われる始末である。
現実がその人にとって我慢できる許容範囲であり普通と思っている限りは問題意識は生まれないし行動もまた生まれない。


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