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『偶』掲載書評補遺

1くどう:2002/11/13(水) 22:18
文字通り、『偶』に投稿、掲載された書評の補遺のスレッドです。
書こうとしたが書き切れなかったことや、あとから気がついたこと
など、書きこみましょう。論文の自註をつける練習にもなるのでは
ないか、と思います。書きこむ際には掲載された書評の、年、号、
本のタイトルを明示し、具体的な指定箇所があるときは段落、行数
なども挙げましょう。

2くどう:2002/11/13(水) 23:10
2002年11月号綾辻行人『最後の記憶』

小林秀雄のモーツァルトやランボーの書き出しのような、安易なメロドラマは
避けたいと思いつつも、やはりそうしたことは起こりもするのだと、今更ながら
思ったのだが、少なくともこの書評に関しては明示したものだけでも、順に挙げ
れば、蓮實重彦『「知」的放蕩論序説』、ミシェル・フーコー他『フローベール
の仕事』、ミシェル・フーコー「幻想の図書館」、フローベール『感情教育』、
綾辻行人『眼球綺譚』、水村美苗『本格小説』、大江健三郎『万延元年のフット
ボール』、綾辻行人『十角館の殺人』、とこれだけの著作のタイトルが挙がって
いて、それらを結びつけたものが、ひとつの単語の読み違いであるということは
まぎれもない事実でありながら、その証言可能性を奪われてもいるのであって、
今、目の前にある日付けの入った書店のレシートにしても、証拠能力には乏しく、
もはや真実とも嘘とも判断がつかない。

申し添えることがあるとすれば、この書評は今月掲載された2つの書評と結び
ついており、また明示されなかったいくつかの書物や書簡とも結びついている。
いや、それだけではない。これまで誰かと交わした言葉や、小論文添削の生徒の
答案の文章、それに対するコメントといったものや、現在行なっている学習相談
での言葉のやりとりやその際に記し生徒に渡すメモにいたるまでの、さまざまな
言葉とこの書評は結びつき、そして、切り離されている。他の者はどうだか知ら
ないが、少なくとも私に関しては、やはり、ひとりで文章を書く、ということは
ないようで、にもかかわらず、それが筆名であれ書評の側に添えられるときに、
何かにあるいは誰かに突き放されたような、そんな感じを覚える。

そうして突き放されることで、たとえば、『本格小説』について「上に上って
電球を取り換える男」の描写をとりあげ、「電球と脚立」という批評を書いて
みたい、と思ったりするが、そのためには「電球」について、松下電気関係の
書物を読まなければ、そして、「脚立」については何を読めばよいのやら、と
思うと、やはり後回しになってしまい、結局、蓮實の『大江健三郎論』を読み
返し、あまりにも複雑になり何から手をつけてよいかわからなくなる「問題」を
とりあえず、これを読み終えてから、再び考えてみようと思い始める。

3くどう:2002/11/13(水) 23:13
1冊忘れた・・・・・・ロブ=グリエの『迷路のなかで』を。徴候的と
いえば、徴候的かも。

4くどう:2002/11/17(日) 12:28
そういえば、corps も c だった。それに corpus も。

5くどう:2002/11/18(月) 21:51
2002年10月号水村美苗『本格小説』

新潮社のサイトで水村氏が自著について語っているのを聞く。
「奇跡」という言葉を使って、この作品について語っているのを
聞きながら、やはりそうだったか、との思いを新たにする。

6くどう:2002/11/30(土) 15:14
2002年10月号水村美苗『本格小説』

今年もそろそろ終わりなのだが、本当に21世紀なのだろうか、と
思うほど充実した小説が出版され、また個人的にもひさびさに小説に
読み耽るという日々を過ごし、思わず「小説の時代」などと口にしたく
なったりもする。『神聖喜劇』が東堂太郎で『本格小説』が東太郎、などと
いう類似に気づくのも楽しい。『神聖喜劇』を読みながら、ある小説が
「古典」となる条件について考える。引用が関わることはわかるのだが、
たとえば、おそらく『本格小説』は「古典」となるだろうが、『噂の娘』や
目白物は「古典」にならないと思う。それは「モード」、「流行」を
作品中にどう配置するか、ということに関わっている。『本格小説』では
三枝姉妹が作り上げる「プリマヴェーラ」というブランドは虚構として
水村氏によって構築されたものであるのに対し、金井美恵子の小説に現れる
「モード」は物語の状況設定された時代に実在したものの引用で、その
あたりを浅田彰に「田舎物」と言われてしまうのかもしれない。『柔らかい土を
ふんで、』のサマードレスのことなども考えてみる必要はあるのだろうけれど。

7くどう:2002/12/08(日) 09:52
12月号用の原稿を書いてて思ったのは、ネットの掲示板のおかげで
受容理論的な研究、作品の読者創出機能の面に関する研究は、新局面を
迎え、ヤウスのいう「挑発としての文学史」が重要になってくる、と
いうことだ。よかれ悪しかれ、「民主主義的な」発言の場が与えられ、
口頭では口にすることができないようなことも、書いてしまう。その
文章は、ある作品の受容と切り離せないものであり、文芸批評のみ
ならず芸術批評が、そうした作品に触発された匿名の受容者の書いた
ものを考慮に入れることが今までよりもより可能となると同時に必要
ともなり、作家もまたそうした分析をすることが要求される。これまで
カルスタ、ポスコロ路線で「国民」創出という観点からのみとらえられ、
フーコーの権力論などと結びつけられていた退屈な批評が、「国民」以外の
受容者を創出するという観点にもとづきドゥルーズ=ガタリの「民衆」を創出
するという局面へ転換する。ランシエールの批評がつまらないのは、19世紀
文学を論じても、ゴダールの映画を論じても、「民衆」が欠けている、としか
言わないからだ。そして、バフチンやヌーヴォー・ロマンの現代性があると
すれば、そうした「民衆」の創出が可能な形式を模索しているというところ
だろう。そこには確かに、スターリニズムやファシズムに似る危険がある。
だが、その危険と無縁の芸術などありはしないし、その危険と無縁の芸術
批評も存在しない。


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