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『偶』感想スレッド

1くどう:2002/07/17(水) 18:29
とりあえず作ってみました。
書評・その他の評論を読んだ感想を書き込みましょう。

2くどう:2002/07/17(水) 18:42
感想 2002年7月号「<デュシャン以後>という閉域」

「このように戦略多く、明晰にして閉塞する書である。」という結論は
きわめて正しい。ただし、同時代的にこの書物を読んでいたひとりの
者として、証言させてもらうならば(まだ、おぼつかないフランス語の
語学力で苦労して読んだのだけれど)、この書物はハーバーマスと
ボードリヤール、あるいは、ハーバーマスとリオタールの対立が「にせの
問題」であることを明確に示し、そうした対立に関わらずに、 N'importe
quoi 好きなことを為せ、何でもいいからやれ、と言ってくれた点で、
役に立った。原書の刊行は1989年だから、もっと早く訳されるべき
本だったと思う。そして、N'importe quoi という言葉をどう受けとめるかは、
「創造性」という言葉と同様に、この本を読む者の問題だろう。

3くどう:2002/09/09(月) 08:37
>Hさま
懐かしい書名が出てきて驚いています。パスの『マルセル・デュシャン論』とは。
翻訳者の組み合わせも不思議なこの1冊は、たとえば松浦・岡崎の『絵画の準備を!』に
とっても欠くことのできないレフェランスだったはずですし、何よりも、宮川淳の
美術批評におけるクリティカル・ポイントを形成するものであって、前から書評しようと
思いながら、先延ばしになっていたものです。そのうち、書ければいいのですが。

4petro:2002/09/19(木) 00:39
八月号 ウ゛ェイユ『カイエ』について
初めて投稿いたします。書評は内容には踏み込まないのですか。
ウ゛ェイユの『根こぎ/根をもつこと』はけっこうな国家指向が散見しますが、彼女のそうした点については、いったいどのように考えればいいのでしょうか。近年のウ゛ェイユばやりにおいて、彼女はあまりに「聖女」あつかいされすぎていて、たまにあきれてしまいます。「戦争してもいい」と言い切ってしまうところとか、どういうふうに克服して読み続ければいいのかと悩んでしまいます、実は大好きなのですが、好きなだけに。。。ウ゛ェイユをしっかり読みこなしている著作、評論、あったら、どうぞ教えて下さい。

5F.B.K.:2002/09/19(木) 02:40
>petroさん
どうもはじめまして、F.B.K.です。書評は内容に踏み込むことも、踏み
込まないこともある、と私は考えます。おっしゃるような問題を扱いながら
書くと、1200字程度ではおさまらないでしょう。それで、今回はそうした
問題を『カイエ』を読みながら、いっしょに考えましょう、という、呼びかけの
かたちで書評を書いたわけです。おっしゃるような問題は、書評に名を挙げた
ブランショやバタイユ、ベンヤミンやド・マンといったひとびとの文章を読む
ときにもつきまとうのですが、国家志向という点だけを取り出して、それを
悪しき部分、克服すべき部分、として扱うことはできないのではないか、と
思います。散文におけるフィクションの位置というものを考えながら、原文を
動詞の叙法や時制に留意しつつ読む必要があるのかもしれません。

ヴェイユ関連の著作、評論については、申し訳ありませんが、紹介できる
ほど存じあげてはおりません。ただ、『カイエ』の邦訳第1巻の月報の
酒井健氏の文章は、私にとっては示唆的でした。また、著作、評論では
ないのですが、ゴダールの『愛の世紀』は彼女を「聖女」扱いすることから
限りなく遠いものだと思います。

6petro:2002/09/19(木) 21:25
迅速なレス、どうもありがとうございました。ブランショ、バタイユは読んだことがありませんが、ベンヤミン、ド・マンは好きで読んでいます。アレントにしても同様ですね、私はどうしてもそこで躓いてしまいます。しかしそうなると、旧約聖書などは死んでも読めないことになってしまいますね。(私はクリスチャン)。。。
思想の骨格となる部分をどうやって掬いとっていけばいいのか。。。。いろいろ考えてしまいます。
しかし、そういう意味では、たとえばフェミニストのアーレント解釈などはとても成功した例ではあっても、ムーウ゛メントとして出来上がり過ぎてしまって、逆に危機を感じざるをえません。恣意的な読みのその恣意性が方向付けられ、定式化してしまっているように思えると言うか、決定不可能性いいのかーというか。。。
なんか話がずれてしまいました、どうもすみません。
話ずれついでにいうと、田崎さんも岩波で引用されている十字架の聖ヨハネ、聖人あつかいしないでかっこよく読めたら、とてもかっこいいと思うので、誰か試みてほしいものだと思う。

7F.B.K.:2002/10/08(火) 07:36
『偶』2002年10月号書評追記

いくつかの出来事について。昨日の発売の「新潮」で高橋源一郎による
水村美苗インタビュー掲載。リアリズム、幸福について語っている。
高橋が高村薫の5年ぶりの新作『晴子情歌』との類似のうちに、同時代性を
指摘しているのが興味深い。知人でbk1で書評を書いている高沢賢治の個人
メルマガ「アルカリ」でも、出てすぐに高村氏の本はとりあげられていたが、
まだ未読。

その「新潮」11月号のインタビューを昨日仕事の合間に読んでいると、
古文のフェローのところに男子生徒が1名質問にやってきた。どうやら
『大鏡』についての質問らしい。聞くとはなしに聞いていると、どこまでが
誰の語りであり、どこが地の文であるのか、ということが問題となっている。
それでふと思ったのだが、周知のように、『大鏡』は大宅世継と夏森繁樹という
推定150歳ほどの2人の老人が若侍に向かって昔語りをするのに居合わせた者が
書き取ったものを、さらに誰かが書いたものである、という構成になっている。
そうした語りの複雑な重層構造とそれが「歴史」書であるということは、おそらく
結びついており、事実とフィクションをめぐる最近の議論に何らかの寄与を
行ないうるものではないか、と思われる。事実をフィクションとして提示したり、
フィクションを事実として提示したり、さらには、それを連続して行ない両者を
識別不可能なものとして提示したり、また、事実にせよ、フィクションにせよ、
それに対する解釈を複数述べたり、といったことが、体制を批判したり、支配的な
言説に批判的介入を行なうために、創出され、選び取られたものであることは、
いうまでもない。おそらく、日本でこうした問題について考え、書く機会の
ある者のほとんどが高校の古文の授業で習い、大学受験で難儀した『大鏡』の
ことを、忘れてしまっているのは、なぜなのだろう、と自戒も含めて思う。

それと同時に、そうした古典にこだわっていた2人の作家、谷崎潤一郎と
中上健次のことを思い出す。水村氏は『本格小説』を書くにあたって、谷崎の
『細雪』を読み返したとのこと。そこからさらに金井美恵子の『恋愛太平記』
へとつながるわけだが、それはまた後日。『大鏡』に話を戻すと、無論、そこ
には近代小説に見られる「描写」はなく、すべては語られる。「描写」と
「風景」の差異、ちなみに水村氏は日本語は風景描写に向いているという、
について考える必要がありそう。

書評で書けなかったことのうち、機会があったら書いてみたいのは、
物語の終わらせ方についてだ。『本格小説』はその点でもみごとなのだが、
そこから社会科学が学ぶことは多くあるように思う。スナック・グゥでも
書いた、正義と言説との関係にもそれは関わっている。あるいは、フーコーが
『外の思考』で述べたフィクションについての記述を思い出すべきかもしれない。

8くどう:2002/10/08(火) 08:08
2002年10月号 柄谷行人『日本精神分析』

白井氏の言うことはよくわかる。しかし、「心情的ナショナリズム」が
「敵」であるかどうか、そこについては疑問が残る。氏が「心情的ナショ
ナリズム」という言葉でどういうものを考えているのかは「我々の心の
故郷としてある田園風景・自然」「今日の平和の礎となった名もなき戦没者
達」という語句で示されているのだが、香山リカが近著でいうような「ぷち
ナショナリズム」、それは水村氏が作中で登場人物のひとりに、今の日本人は
軽薄なのではなく、希薄だ、と口にさせ、高橋氏がその水村氏に、近代文学の
記憶の消滅とともに、これから「本格小説」は書くことが困難になっていくので
あり、水村氏の小説が「最初で最後の本格小説」となるのではないか、と言って
いることとむすびついている、その「ぷちナショナリズム」に対して、水村氏が
共同戦線を張ろうとしたのは、そして現在の右傾化を誰も批判しないことに
苛立ち、エンターテイメント作家としての自分を捨てて『晴子情歌』を書いて
いる高村氏もまたおそらく共同戦線を張ろうとしているのは、白井氏のいう
「心情的ナショナリズム」なのではないか、と私は思う。彼女たちが考えて
いるのは、味方とした「心情的ナショナリズム」をいつどこで殺すか、という
ことであり、それは彼女たちが物語をどう終わらせるか、という身振りに表れて
いるのではないか。それはまた、彼女たちの小説に描かれる「家族」にも関わる
問題なのだが、それはまた後日何らかのかたちで書きたいと思う。ただ、ひとつ
だけ指摘しておくならば、白井氏が挙げた語句はどちらも「家族」の記憶と
ともにある。「家族」の現在、それは精神分析の現在であると同時に、資本論の
現在でもある、そうした「家族」の現在と柄谷氏はどうからむのか、それは
氏のフーリエへの言及がどうなるか、ということだと私見では思われるのだが、
それが今後の柄谷氏の論考での注目点ではなかろうか。『倫理21』での
「親子」への言及ではない、「家族」についての思考が柄谷氏にはもとめられて
いるように思う。

9くどう:2002/10/09(水) 13:01
>白井くん
たとえば、以下のようなものは「心情的ナショナリズム」に相当するので
しょうか?

http://news2.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1034133575/

10くどう:2002/10/10(木) 14:17
えーっと、上のリンクニュース速報板だったので、すでにスレッドが
消えててdat落ちしてるようなので、説明すると、福岡の公立小学校で
「愛国心」を通知表で3段階評価する、というニュースが出ていたものです。
たぶん世界に例を見ない世紀の愚行であり、ナショナリストとしても最低でしょう。
せめて福田和也の客観評価による作品批評くらいには、と思うのですが。
石原慎太郎に90点台つけるとかね(笑)

11白井:2002/10/12(土) 01:14
福岡は野蛮な土地ですね・・・・

 それはさておき、心情的ナショナリズムの問題なのですが、おそらく
僕が書評の中で挙げたようなナショナリズム的諸表象は、もはやあまりに
古典的に過ぎ、現在の「プチナショナリズム」の時代においてはほとんど
全く通用しないものなのではないかとさえ思われます。こういった状況から、
「〈本格〉(?)ナショナリズム」と共同戦線を張って、「希薄な」時代に
抵抗しようという発想が水村氏にはあるのかもしれない。氏の『私小説』
からもそれは伺えるように思われます。
 こういう発想を僕は確かに理解はできるのですが、それでもやはり違和感
があります。おそらくそれは世代の問題だと思いますが。自分自身の属する
世代が水村氏などの属する世代に比して、「教養」や「大きな物語に対する
感性」などの点においてはるかに貧しいということ、そして僕らよりも若い
世代さらに貧しいということ、この事実は乗り越えられない事実だと思うの
です。
 現時点では、この問題について僕は大したことは言えませんが、今述べた
事実から出発するより他に道は無いと思ううのです。

12くどう:2002/10/12(土) 12:14
おっしゃることはわかるのですが、問題はそこでその「希薄さ」が別に
今になって現れたわけではない、ということなのではないか、と、ふと
したことから藤原書店の『三島由紀夫VS東大全共闘1969〜2000』を読み、
さらに『三島由紀夫VS東大全共闘』を読み返しつつ、昨日読書人で終了した
蓮實インタビューで蓮實が語っていた、反復によるオリジナルの価値低下に
20世紀の知性は耐えられなかった、ベンヤミンでさえ映画を前に逡巡する
ことがなかった、という言葉を目にした者としては、思うのです。

そのときに問題になるのは、白井氏があたかも「心情的ナショナリズム」が
古典的な諸表象のままに存在しているかのように、文章を書くことそれ自体で
あって、それは別に白井氏のみの問題ではないし、それを世代の問題に還元
することもできないだろうと思う。白井氏よりは「教養」もあり「大きな物語に
対する感性」もあるであろう、スガ氏にしてもそういうところはあるわけだから。
そうしたフィクションを批評が利用するときに「希薄さ」を隠蔽してしまう危険と
いうのは、ある種の批評的言説の宿痾であって、おそらく生活習慣病や慢性病
なのであろうその病と、ともに生き延びることを考えるしかない「男」たちこそが
「心情的ナショナリズム」の諸表象を必要としているというのは世代にかかわらず
そうなのではないでしょうか。

そして、白井氏は「教養」と「大きな物語に対する感性」とを「や」で並列する
けれど、前者における貧しさと、後者における貧しさは違うんじゃないか。
20世紀に何か積極的な意味を認めるとすれば、「教養」なしに「大きな物語に
対する感性」が働くという出来事がいくつかの著作のかたちで残されていること
ではないか、と思うからです。読んだこともなければ、知りもしないものを
我知らず、批判することが可能である、ということ。そして、感性は読むことを
通じて鍛えうるものではないでしょうか。教養としての読書ではなく、ただ
読むことを通じて。僕にとって、それはバルトから教えられたことなのだけれど。

13くどう:2002/10/12(土) 12:19
そうそう、『三島由紀夫VS東大全共闘1969〜2000』(藤原書店)と
『三島由紀夫VS東大全共闘』(現在は角川文庫)をもし未読ならば、
お読みになってみてください。

14くどう:2002/10/12(土) 15:00
あと、水村氏のインタビューでの以下の発言は、僕には非常に納得できました。

水村 批評家みんながそうだということではないんですけど、やはり批評家に
   なるような人って、自分が何を言えるかというのが先に立ってしまって、
   本当の意味で文学の面白さがわかってないんじゃないかって思うのね。
   大きくなってから小説を読み始めた人とか、文学について書かれている
   もののほうが、文学そのものよりも好きな人とか、そういう人たちが
   多いんじゃないかと思う。私は昔アメリカではね、小説家よりよほど
   才能のある批評家のもとで教育を受けたので、もっと批評家全体を
   買いかぶっていたんです。今はね、幼いころから本が好きで、こんな
   面白いものが世の中にあるのかっていう感じで無我夢中で小説を
   読んできた人たち――そんな人たちに向けて書きたいという気持だけ
   です。だから批評家には期待はしない。
高橋 期待はしない、それは嫌いというよりきついよ(笑)。でも、水村
   さんの小説は、批評家が食いつきやすい形をしてるよね。
水村 でも、あんまり食いついてくれてない。
高橋 怖がっているのかな。
水村 いえ、怖がっているというよりも、批評家って圧倒的に男の人でしょう。
   幸か不幸か(笑)。男の人ってやはり女の人の作品にはそんなに興味を
   もってくれないようですね。(後略)

あと、第1回小林秀雄賞が発表されましたね。斎藤美奈子と橋本治。
一部には、意外、との声もあるようですが、両者に共通するマッチョ
文体は、小林と合っているかも(笑)。橋本氏には次はぜひとも『大鏡』に
挑戦してもらいたい、と思ってはいるのですが。

15くどう:2003/01/21(火) 02:50
『偶』2003年1月号 評者:H

「情報都市」と記憶の再編

西垣氏に限らず「情報都市」論を読んでいて思うのは、
清水徹=宮川淳の『どこにもない都市 どこにもない書物』に
ある「不可能性」に対する感性が、そうした議論には欠如
している、ということだ。潜在的なものを顕在化しようとして
いること、してしまったこと、しそこなったことに対する逡巡や
戸惑いなしに、都市を建設することも書物を著わすことも
ないはずだが、コントロール可能なものとしてのみ「潜在的なもの」を
考えるその姿勢が「潜在的なもの」によって復讐されているのだと
いうことだろう。ただし、それは磯崎新のように「大文字の建築」を
考えるかどうかとは別なのだけれど。

16くどう:2003/01/21(火) 04:28
昨日、フランス図書にレイモン・ベルールの L'entre-images を
引き取りに行き、彼がブロンテ姉妹の研究者であり、エミリーの
『嵐が丘』の仏訳者であることを知る。アンドレ・テシネの『嵐が丘』で
バルトが出演しているのは周知の通りだが、これで、水村美苗の
『本格小説』、ロラン・バルトの講義録、ベルールのイマージュ論の
3つが『嵐が丘』と結びついたことになる。さらに、ベルールによる
仏訳がポーヴェールから出たのは、1972年、つまり、『本格小説』
から遡ること30年前だったということだ。同時に購入したのは、
エルヴェ・カスタネットの La manipulation des images と題され、
副題を「クロソフスキーと絵画」とするクロソフスキー論なのだが、
このシリーズの最初はフーコーの『幻想の図書館』であったりする。
そうした繋がりに刺し貫かれながら生きることができることの
歓びを、もっと増殖させたい、と思う。

17くどう:2003/01/24(金) 00:19
訂正

上記テシネの映画のタイトルは『嵐が丘』じゃなくて
『ブロンテ姉妹』だった。考えてみれば、バルトは
サッカレー役なんだから、『嵐が丘』なわけがない。

18くどう:2003/02/17(月) 04:42
今回はちょっと反省をば。

予定していた「小説論」が書けなかったのは、ひとえに準備不足による
もの。とりあげようと思っていた小説のストーリーとテーマに
由来する困難をどう処理したものか、と悩んでいるうちに時間切れに。

次に思想時評として書こうとしていた、La melancolie revolutionnaire は
バートンの『憂鬱の解剖』(!)やベンヤミンの『パサージュ論』まで
射程に入れようとしたために破綻。素直にフロイトの「悲哀とメランコリー」と
バトラーの『ジェンダー・トラブル』、シェレール=オッカンゲムの
『原子状の魂』で書いておけばよかったと、あとから反省。基本的モチーフと
しては、ロメールの『グレースと公爵』におけるグレース・エリオットの
メランコリーをとりあげながら、それを『偶発性、ヘゲモニー、普遍性』に
おいてバトラーが、ヘーゲルの『精神現象学』の例の「あっさりした死」に
言及しながら行なった、普遍と個別の関係をグローバル化および労働力商品化の
無理と結びつける、というもので「キャベツの頭」と「コップ一杯の水」の
差異について述べるはずだった。今回の「呪いに立ち向かう」はその姉妹編の
ようなもの。それに関連して、遅まきながら竹村和子の『愛について』の書評も
書くつもりだった。

さらに、最近連続的に出たデリダの邦訳、『有限責任会社』『来たるべき
世界のために』『フィシュ』『友愛のポリティックス』も書評したかった
のだけれど、そこまで手が回らず。

手を広げ過ぎて収拾がつかなくなっているので、ちょっと軌道修正する
必要あり、なのかも。と、言いつつ、『アンチ・オイディプス』を
読み返しはじめてしまっていたり。いずれにしても、日頃から少しずつ
書いておけばいい、ということか……。

19くどう:2003/02/17(月) 04:44
ところで、誰か『帝国』の書評書きません?
私が書物のかたちで『帝国』を所有したくなるような
書評を希望します。


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