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勉強会構想

1くどう:2002/03/03(日) 00:32
今日、今夏(?)にサッセンの The Global City を
読もう、という話になったので、それまでにできれば
これは読んでおいて欲しい、という本を挙げるスレッドを
作ってみました。こういう形で準備をするのははじめてだと
思うので、実験的にやってみたらどうかな、と。

まずはサッセンの

『グローバリゼーションの時代』平凡社新書

は読んでおいた方がよいでしょう。そんなに大部ではないけれど
かなり内容は詰まっている本です。悩んでいるのは、ここに
バトラーの本なんかを挙げた方がいいのかどうか、ということ。
参加予定の方のご意見をお待ちしております。

2いしかわ:2002/03/08(金) 17:51
私との、あの数分の会話で決定してしまったんですね!

それでは、私は実直に行きます。

森田桐郎『世界経済論の構図』(有斐閣)。

森田氏死後に、生前の執筆プランに基づき、既刊論文とメモを
集成して成ったという、マルクス=エンゲルスなみの書。
ご存知、リカードの比較優位論に基づく国際分業を、文字道理
労働力の国際的再編成と捉えるべきことを主張し、「国民経
済」から「世界経済」へとの枠組みを主張した森田氏の業績を、
総覧できる書物です。森田氏の著作は「編著」が多いので、こ
れを読めば、手っ取り早く流し読めます。
もちろん、80年代に(90年代初頭?)サッセンの監訳をしてい
たという、目配りも持っていた人です。ちなみに東大経済学部
教授でしたが、宇野派ではなかったところ(京大の松井清門下
)も、面白いところです。

3くどう:2002/03/08(金) 18:06
>いしかわくん
決定というのはああいうものではないかと(笑)。

サッセンの邦訳ですが、現在品切れ中です。私は
去年、東京堂で買いましたが。原書は2版になっている
ことだし、新しい訳書が出るといいんですが。
その本のワープロ清書をやったのが、足立眞理子であって、
森田氏の遺志は彼女に受け継がれているのだと、思います。
足立氏の著作はまだないのですが、いくつか論文があるので
それを読んでおくのもいいかもしれませんね。

4くどう:2002/03/08(金) 19:48
>いしかわくん
ただ、足立氏はマルクスを通してサッセンを読む、という
姿勢をとっているのですが、そこをどうするか、という
問題はあるかもしれませんね。The Global City の参考
文献を見るとそうは見えないわけですが、『資本と労働の
国際移動』の参考文献を見れば明らかなように、彼女の
研究は、アミンやエマニュエルといったひとびとの著作を
読むことでできあがっており、ウォーラスティンの本も
そこには挙がっている。だからこそ、足立氏はサッセン本人が
言及することのない、ミースやヴェールホフとサッセンの仕事
との関係を言うのでしょう。さらに言えば、サッセン自身は
マッキノンの著作などを挙げているのに対して、足立氏はそれを
バトラーと結びつけようとしている。「戦場としての身体」を
考えようとしている。

そこで相談なのですが、たとえばアミンの『不均等発展』
(スピヴァクは自分の学生に読むようにすすめるそうです)
などは読んでおいた方がよいと思いますか?サッセンの研究が
そうしたものを消化していることを理解したうえで、今回は
敢えて読まない、という選択もありうると思うのですが。

5いしかわ:2002/03/08(金) 22:22
本日、東大正門前の古本屋で、そのサッセンの翻訳を発見しました!
(やけにエクスクラメーションマークが多い)

ところで、上のレスに対する質問と応答があります。
①マッキノンとは誰ですか。finacial repression→liberarization
で万事OKのあの経済学者じゃないですよね(これで何人がわかるのか)
②『不均等発展』は、西川先生のように、マルクス主義文献として読まな
い、つまり読むという選択もあると思います。個人的感想では、レギュラ
シオン理論家(唐突ですいません)は、マルクス主義に片足突っ込んでい
るということを、アイロニカルに自慢するような気がしますが、やめたほ
うが面白い、つまりマルクス主義なんて関係ないと言ってしまった方が、
面白くなるような気がします。それと同様に、アミンも図式確認で読むの
でない方法ならば、読む必要があると思います。(思いっきり舌足らず。
今度説明します)

6いしかわ:2002/03/08(金) 22:26
思い出したのですが、森田『世界経済論の構図』の後書きに、
編者が足立氏の名前を挙げています(索引・原稿捜索に関して)

(ほとんど、くどうさんと私の往復書簡ですね。。。。)

7くどう:2002/03/08(金) 23:17
>いしかわくん
①キャサリン・マッキノンというフェミニズム研究者です。
邦訳も何冊かあるはず。ポルノグラフィー反対の運動で
知られています。

②これについてはここよりもメールでやりとりした方が
いいのかもしれませんね。よかったらメールください。
折り返し返信しますので。

8くどう:2002/03/10(日) 00:10
>いしかわくん
ここでできる相談をしましょう。たとえば、翻訳するという
話が出ていたわけですが、The Global City の前に、
Toward a Feminist Analytics of the Global Economy を
訳しませんか?伊豫谷氏の邦訳もあるわけですが、訳注などを
つけつつ訳してみるのもいい論文かな、と思ったりもしますので。
ただ、これは現在のサッセンの問題意識を表す論文であるという
性格がある以上に、私の問題意識が露骨に出ている論文選択である
ことは否めないので、他の論文がいい、ということであれば、
それでも構いません。

9くどう:2002/03/10(日) 20:34
以前から気にはなっていて、書店に行く度に置いてあれば、
手にとって眺めてはいた『世界経済論の構図』を、いしかわくんの
おすすめもあったことだし、購入しました。パラパラとめくっていると、
239ページにサッセンの名前とともに、K.ギブソンとJ.グレアムという
名前がありました。近日中に私の手元に届くはずの、索引にサッセンと
バトラーの名前をともに見つけることのできる、The End of Capitalism の
著者で、森田氏は彼女たちの実証研究論文を参照するように、そこで
もとめているのです。まずは、自分の奇妙な「正しさ」に、われながら
感動し(笑)、今日、小論文のコメントのネタのために購入した大航海の、
東浩紀と斎藤環の対談を読みながら、Beyond Accomodation to Com-
modification という言葉を思い浮かべました。商品化に対する適応を超えて。
しかし、掲示板というのは、長話をするのに向きませんね(笑)。ということで、
詳細は後日。

10くどう:2002/03/12(火) 15:15
訂正:Accomodation → Accommodation

11くどう:2002/03/15(金) 00:31
『世界経済論の構図』251ページまで読了。ある種の懐かしさを覚える。
読書日記(仮)スレに書くか、こっちに書くか迷ったが、こちらにする。

1988年の夏、西川ゼミ3年次の夏合宿で、僕はウォーラスティンの
世界システム論における「半周辺」概念についてのレポートをした。
そのとき僕は、「半周辺」を栗本慎一郎が『意味と生命』でマイケル・
ポランニーの暗黙知理論を解釈し、市川浩の『精神としての身体』、
『身の構造』などにふれつつ展開していた、言語の発生機序についての
図式、精神と身体の境界という言語の認識論的、存在論的な位置、と
いう説明と「平行」関係にあるものとして、「半周辺」概念を提示した。

当時はまだあずかり知らぬことだが、そこには世界システム論と接合理論との
対立という問題が関わっていて、僕の選択は、両者は対立しているのではなく、
相互に包摂される、というものだったのだ、と、今、思う。つまり、「半周辺」
概念は「接合」概念なしには把握できず、そしてその「半周辺」概念なしには
世界システム論は成立しない。それは現在ならば、マリア・ミース、クラウディア・
フォン・ヴェールホフ、ヴェロニカ・ベンホルト・トムゼンが精力的に展開する
世界システム論とマルクス主義フェミニズムとの理論的統合という形で、目に
見えるものとなっている。

ところで栗本を用いたのは、その前に丸山圭三郎のソシュール研究に出会っており
文化を言語による「分接」の問題として扱う、という視点をもっており、後年、
非意味的カオスへと還元されていくその文化理論への疑問が「領域性」の問題と
してあったためだと、考えられる。始源や終焉よりもその「あいだ」にしか関心が
なかった。したがって、先述のレポート発表のすぐあとに、僕は、丸山、栗本両者の
認識論と存在論との齟齬のなさに疑問をもち、柄谷行人を読むことになるのだが、
それはここでは触れておくだけにする。

今、気がつくのは世界経済論における「接合」と言語文化論における「分接」とが
同じひとつの語、 articulation 、であった、という、単純な事実だ。経済的な
「接合」がどのような文化的「分接」をつくりだすか、そしてそのようにつくり
だされた文化的「分接」がどのような経済的「接合」をつくりだすか。両者は
継起的にではなく、「平行」しかつ「同時」に現象する。

それを思考するための概念群が、coder,decoder,surcoder (アクサン省略)と
territorialiser,deterritorialiser,reterritorialiser (アクサン省略)なのだろう。
そしてそれは、マルクスVSウェーバーではなく、マルクス「と」ウェーバーと
いうことでもある。 The Global City第2版における、サスキア・サッセンの
マニュエル・カステルへの接近は、それが都市論であるがゆえに参照されたという
だけでなく、経済学と社会学の「接合」、ウェーバーの主著『経済と社会』を思わせる、
その遭遇という出来事なのかもしれない。それをさらにマルクスの『資本論』と
「接合」するのが、カステルと並んでサッセンが挙げた、デヴィッド・ハーヴェイの
諸著作、なかでも参考文献には挙がっていない The Limits to Capital (邦題忘れた)
だろう。そして、目次、参考文献、索引から推察するにそれらの問題意識を共有しつつ
実証研究もふまえて展開されているであろうと期待されるのが、J.K.ギブソン・
グレアムの、 The End of Capitalism 、確実にダブル・ミーニングになっているこの
タイトルの書物だろう。

ドゥルーズ=ガタリの『資本主義と分裂病』シリーズを反復するための準備は、
こうして、整いつつあるのかもしれない。早過ぎる追憶とともに、懐かしさとともに、
今、そう思う。

12くどう:2002/03/15(金) 01:11
The Global City と平行して読むのは、Didi-Huberman の L'IMAGE
SURVIVANTE - HISTOIRE DE L'ART ET TEMPS DES FANTOMES
SELON ABY WARBURG になりそう。。。。。。。

サッセンと平行して、岡崎、田中、ディディでヴァールブルク研究会
やったら・・・・・・・死ぬな、確実に・・・・・・・

でもちょっとやってみたいかも(笑)。ね、いしかわくん^^?

13くどう:2002/03/16(土) 15:40
現在、使っている英和辞典の territory の次の項目は、terror だと
いうことにふと気づく。語源的には無関係な2つの語が、並んでいることに
奇妙な感動を覚えつつ、 globe と terra の差異について考え、
geo- という接頭辞について考える。

14くどう:2002/03/16(土) 16:39
『世界経済論の構図』読了。

相対的過剰人口と産業予備軍の差異という問題は、ミース=ヴェール
ホフや西川潤のサブシステンス・エコノミーの回復という解の
問題点と結びついており、 unfree labour の reassignation のひとつの
形態として考える必要がある可能性を、示唆している。「自立」させられて
いるのではないか、という問いを、立ててみる必要があるのではないか。
彼、彼女らの「幸福」が新たな「不均等発展」の産物である可能性を。

15くどう:2002/03/16(土) 20:53
認識と存在の一致を真・善・美の基準とする、という西洋形而上学に
もとづいて、認識と存在の一致を理由に自らの身振りを「倫理的」だと
主張する言説が最近多いように思う。たぶん「自立」だの「自己組織性」
だの「オートポイエーシス」だのといった語は、そうした言説と結び
ついた標語で、認識と存在の乖離への拘泥を倫理とする誤謬よりは
はるかにマシなのかもしれないとしても、NAM、内発的発展、サブ
システンス・エコノミーの回復という三者が共通して前提とするであろう
「自己組織的な市場像」に対しては、やはり疑問がある。

たとえば、「自由であれ」と命令を下しているのは誰なのだろう?

それと関連して、イラン革命におけるフーコーの認識論的な発言を
自由の存在論へと転換する身振りは、政治の美学化、に他ならない
のではないだろうか、とも思う。なぜ、フーコーは、On se souleve
(アクサン省略)のあとに、すぐさま、 C'est un fait と言ったのか。
それは、事実と当為を取り違え、言表が存在論的な命令となること、
「蜂起する」が「蜂起しなければならない」となる危険を知っていたから
ではないか。

認識と存在がつねにすでに一致しているかのような言説は、教条的になり、
党派や学派を形成させる。確かにそれは「自己組織」ではあるのかもしれない。
何者にも支配されない私。私を支配する私。だが、私が私ととり結ぶ関係は
「支配する」という動詞のみに還元されはしないし、他者は私を支配しようと
するだけの存在ではないはずだ。 exclusive ではない不安定な私たちから
なる社会。いまだ、具体性を欠いたヴィジョンではあるけれど、グローバル・
シティの真っ只中で、孤独な夢が生まれている。

16くどう:2002/03/17(日) 08:00
西部忠にしても、ミース、ヴェールホフ、ベンホルト・トムゼンにしても、
資本主義世界システムを甘くみているわけではないのは確かなのだが、
前者はLETS論で、LETS商品の「悪用」について語り、後者は、
どうやって「よい」サブシステンスと「悪い」サブシステンスを見分けるか、と
いう問題構成を立て、苦慮している。「悪い」サブシステンスというのは、
ヴェールホフがかつて、イリイチのシャドー・ワーク概念を批判したとき
以来からの問題であって、この「よい」「悪い」という二分法を超えるには、
足立眞理子の言うように、「移動」と「サーヴィス」を理論的に考慮する
必要がある。「資本制市場」=「悪」では、やはりナイーヴではないか。

17くどう:2002/03/17(日) 08:57
とすると、これは、カール・ポランニーの「ガン」という隠喩を
引用し、「対抗ガン」という隠喩で自己を規定していることの、
問題点でもあるということになる。そこに「善悪の彼岸」での
力のせめぎ合いを見ているのかもしれないが、ならば、ただ、
「力」と言えばいいし、ドゥルーズのニーチェ解釈に従えば、その
場合も力はひとつであって、それ自体で悪い力やよい力がある
わけではない。「対抗」や「抵抗」がよい力の行使である、と
考え、主張する根拠が、その力によってもたらされるであろう
結果、可能性としての「善」に存する、というのは、宗教的な
あまりにも宗教的な、論理であり、おそらくその論理のゆえに、
結果にいたるまでのプロセスにおいてふるわれるであろう「暴力」に
対して、盲目になる。あるいは、その「暴力」に関しては「委員会」に
よる「管理」をもって対応しようとする。そのうち何を「暴力」と
みなすか、が「委員会」によってのみ決定される、ということが
起こる。これはどこかで見た光景だ。決して未知の光景ではないはずだ。
非資本制市場を「非暴力」空間だと考えることも、やはりナイーヴであり、
そこにどのような「法」が必要となるのか、資本制市場を律する「法」と
それはどのように違うのか、それを考える必要がある。

18くどう:2002/03/17(日) 11:52
サッセンの『グローバリゼーションの時代−国家主権のゆくえ』
(原題 Losing Control?:Sovereignty in an Age of Globalization )の
邦訳46ページに、次のような文章がある。

 このことは、移民政策形成の事実上の越国家化を宣言することによって、
 移民過程にはたす「国家」の役割そのものを脱構築することが必要で
 あることをも示しているのである。

原文を参照してはいないので確実ではないが、「脱構築」という言葉は
ここでたんなる標語や意匠として用いられているわけではない。彼女が
「主権と排他的領土」を問題にすることも、たとえば、彼女が参考文献に
挙げることはなくても、フーコーやドゥルーズ=ガタリの諸著作と
結びつけて読み、考えることができるように、彼女の議論をデリダと
関連づけることもまた、可能だ。彼女はANY会議へも参加している
わけで、国内および国際的な経済政策を、そして国際的人権レジームや
経済的市民権といった法的な制度の整備を、「体制内フェミニスト」として、
行なっているという点では、大沢真理と共通しており、参考文献における
キャサリン・マッキノンという選択はそのことと関係があるのかもしれない。

19いしかわ:2002/03/19(火) 23:04
暫く見ないうちの、くどうさんの書き込み。。。
膨大すぎて、応答し切れませんね。

だから、一言二言。詳細は直接。
私は体制派になるつもりです。なりたくてなれるものではないかも
しれませんが。
ワールブルク研究会と同時並行。やりましょう。極めて密接に関わ
っていますから。けれど、フランス語はちょっときついかも(もち
ろんドイツ語も)。こういうときに、生産的な共同研究ができるの
ではないでしょうかね、みなさん?共同研究『低開発とイコノロジ
ー』、『新国際分業下におけるジェンダーと記憶の図像学』(うわ
、うさんくさい)。

20くどう:2002/03/19(火) 23:48
>いしかわくん
実はまだ田中純の本、買っておりません。買うのは6月頃になるかと。
ディディは届いたようなので、明日にでも引き取りに行く予定です。
批評空間第3期第3号、岡崎さん躁状態です。でもあの明晰さは
何か不吉な感じがします。

共同研究、『分業と想起』でどうでしょう。やることは「移動と記憶」ですが。
ナンシー・フレイザーにならって、「再分配と承認」でもいいです(笑)。

21くどう:2002/03/21(木) 01:31
ディディの本の参考文献に、KIMURA.Bという名前を発見。
L'entre 1988ということなので、たぶん弘文堂の『あいだ』だと思われる。
仏訳されてるのか、と思わず感慨にふける。

22くどう:2002/03/26(火) 21:24
「情況」での岩田弘、伊藤真、侘美光彦の鼎談を読むと
その話の順序に疑問を覚える。4つのパートに分かれて
おり、今回はそのうち2つについて討議しているのだが、
要するに、何故戦後経済において恐慌は起きなかったのか、
現在恐慌が起きる可能性はあるか、を順に検討したあと、
最後に方法論について反省する、といった順序で、宇野派の
理論フェティシズムが何を見失っているか、を考えさせられる。
広瀬くんの壮行会と『言葉と物』勉強会で「労働する身体」と
いう言葉を口にし、そのタイトルの書評も書いたあとで、
ギブソン=グレアム他編集の Class and Its Others の編者の
序を見るとそこに、 the laboring body という言葉を見つける。
laboring という言葉に賭けられたものと先の鼎談との「横断」の
可能性について考える。

23くどう:2002/03/31(日) 14:57
ただいま、紀伊国屋書店新宿南口店6階洋書売り場で、
サッセンの The Global City 平積みです。ちなみに
都市論の棚。社会学の右側です。経済学のところには
置かれていませんので、ご注意を。

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25くどう:2002/06/03(月) 21:57
現代思想の6月号に続いて、思想の6月号でも、サッセンの文章が
翻訳されています。昨年、来日した際の講演のようです。そこで、
彼女の研究遍歴について語っており、フランスで哲学を学んだことが
あるとのこと。挙がっている名前は、ドゥルーズ、ガタリ、フーコー、
ハイデガーです。やはり、という感じでしょうか。ミニ・サッセン・
ブームといった感もありますが、来年の岩波に先だって、平凡社からも
特別編集された論文集も出るようですし、勉強会を後押ししてくれる
環境は整っているようです。

26いしかわ:2002/09/02(月) 13:57
くどうさん、ならびにサッセン勉強会参加に前向きな皆様へ。

 私としては9月中に絶対開始させたいと思っています。そこで、伊豫谷氏
の新刊(たしか平凡社新書)を読んで来てもらってイントロダクションとし、
その後入りやすい Globalization and its Discontents から入ることに
しませんか? Global City は、ちょっと重いかもしれない、あるいは、専
門的すぎるかもしれないと思い始めました(現物を見て)。前者なら、アマゾ
ンで2000円弱で手に入ります。また、一部日本語訳があります。
 私は9月第4週から始めたいと思っております。皆様の予定はいかがでしょ
うか?

27いしかわ:2002/09/02(月) 13:58
(続き)
よかったら、上記メアドに都合のレスください。

28くどう:2002/09/04(水) 00:44
伊豫谷氏の新書、今日買って読みました。入門書、啓蒙書としては悪くないの
ではないでしょうか。ただ、彼には文化と経済の関わりを扱うことは荷が重過ぎる。
素直に文化については禁欲し、森田氏のように経済のみに話を絞ってもらいたい。
サッセンですらあの禁欲ぶりなのだから。サッセン−パレーニャス−バトラーと
いうラインは、ド・マンを経て、宮川淳や岡崎乾二郎を巻きこみつつ、蓮實のいう
「リシャール殺人事件」「メッツ殺人事件」にも関わるもので、グローバリゼー
ションを正当化するイデオロギーとしてのハリウッド映画、ということだけで、
「文化」と言われても、アドルノ−ホルクハイマー以前としか言いようがない。
「文化」は足立眞理子や長原豊にまかせておけばいいんじゃないだろうか、
意外なところでは、水村美苗とか。


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