>いしかわくん
ここでできる相談をしましょう。たとえば、翻訳するという
話が出ていたわけですが、The Global City の前に、
Toward a Feminist Analytics of the Global Economy を
訳しませんか?伊豫谷氏の邦訳もあるわけですが、訳注などを
つけつつ訳してみるのもいい論文かな、と思ったりもしますので。
ただ、これは現在のサッセンの問題意識を表す論文であるという
性格がある以上に、私の問題意識が露骨に出ている論文選択である
ことは否めないので、他の論文がいい、ということであれば、
それでも構いません。
それを思考するための概念群が、coder,decoder,surcoder (アクサン省略)と
territorialiser,deterritorialiser,reterritorialiser (アクサン省略)なのだろう。
そしてそれは、マルクスVSウェーバーではなく、マルクス「と」ウェーバーと
いうことでもある。 The Global City第2版における、サスキア・サッセンの
マニュエル・カステルへの接近は、それが都市論であるがゆえに参照されたという
だけでなく、経済学と社会学の「接合」、ウェーバーの主著『経済と社会』を思わせる、
その遭遇という出来事なのかもしれない。それをさらにマルクスの『資本論』と
「接合」するのが、カステルと並んでサッセンが挙げた、デヴィッド・ハーヴェイの
諸著作、なかでも参考文献には挙がっていない The Limits to Capital (邦題忘れた)
だろう。そして、目次、参考文献、索引から推察するにそれらの問題意識を共有しつつ
実証研究もふまえて展開されているであろうと期待されるのが、J.K.ギブソン・
グレアムの、 The End of Capitalism 、確実にダブル・ミーニングになっているこの
タイトルの書物だろう。
それと関連して、イラン革命におけるフーコーの認識論的な発言を
自由の存在論へと転換する身振りは、政治の美学化、に他ならない
のではないだろうか、とも思う。なぜ、フーコーは、On se souleve
(アクサン省略)のあとに、すぐさま、 C'est un fait と言ったのか。
それは、事実と当為を取り違え、言表が存在論的な命令となること、
「蜂起する」が「蜂起しなければならない」となる危険を知っていたから
ではないか。
「情況」での岩田弘、伊藤真、侘美光彦の鼎談を読むと
その話の順序に疑問を覚える。4つのパートに分かれて
おり、今回はそのうち2つについて討議しているのだが、
要するに、何故戦後経済において恐慌は起きなかったのか、
現在恐慌が起きる可能性はあるか、を順に検討したあと、
最後に方法論について反省する、といった順序で、宇野派の
理論フェティシズムが何を見失っているか、を考えさせられる。
広瀬くんの壮行会と『言葉と物』勉強会で「労働する身体」と
いう言葉を口にし、そのタイトルの書評も書いたあとで、
ギブソン=グレアム他編集の Class and Its Others の編者の
序を見るとそこに、 the laboring body という言葉を見つける。
laboring という言葉に賭けられたものと先の鼎談との「横断」の
可能性について考える。
私としては9月中に絶対開始させたいと思っています。そこで、伊豫谷氏
の新刊(たしか平凡社新書)を読んで来てもらってイントロダクションとし、
その後入りやすい Globalization and its Discontents から入ることに
しませんか? Global City は、ちょっと重いかもしれない、あるいは、専
門的すぎるかもしれないと思い始めました(現物を見て)。前者なら、アマゾ
ンで2000円弱で手に入ります。また、一部日本語訳があります。
私は9月第4週から始めたいと思っております。皆様の予定はいかがでしょ
うか?