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フェミニズムの現在

1くどう:2002/03/02(土) 09:36
やはり作ってしまったこのスレッド・・・・・・。
「現在」となっていますが、「過去」「未来」その他なんでも
結構です。何を「フェミニズム」と考えるかは、みなさんに
おまかせします。ちなみに私は、諸学問領域の横断を可能に
するもののひとつとして「フェミニズム」を考えております。
現在のところ。

2いかみ:2002/03/11(月) 00:12
さて、何を書こう・・・・と迷っている内に
スレが下がってきてしまったので、
とりあえず上げさせていただきます。m(._.)m

3くどう:2002/03/11(月) 00:53
現在、明日の会議用の原稿を作成中です。周囲にいろいろとあって、
気分的にも物理的にも余裕がなく、締め切りぎりぎりになってしまいました。

にもかかわらず、書きこみをしているのは、下の、「商品化に対する適応」の
話とも無関係ではないのですが、最近読んでいるバトラーについて、少し書き
たくなったからです。正確には、バトラー=フレイザー論争の争点のひとつだと
僕が考えるものについて。

バトラーや竹村和子は、agency 行為体を論じるときに、ブルデューの
ハビトゥス概念を重視し、援用します。前者の Excitable Speech 、
後者の『フェミニズム』において、それは確認されるのですが、そのことは
あるひとつの理論的困難の原因となっている。ブルデューの社会学とは、
批評空間のサイトで王寺氏が書いているように、社会現象を社会学的分業
概念で説明しようとするものであり、その分業体制の変容の可能性を担うのが、
ハビトゥス概念です。その概念なしでは、ブルデューの社会学は status
quo になってしまう。所与の分業体制を describe するだけに終わって
しまう。

しかし、経済学において分業は、資本と労働の mobility の問題と切り離す
ことはできない概念で、分業の変容を考える、ということは経済理論を考慮
する必要があるのです。ブルデューはフランスにおける現実の分業体制を
変容させることはできなかった。そして、1998年に彼はホームレスを
率いてエコール・ノルマルを占拠する、といった行動を起こすわけです。

おそらく、 agency 行為体をハビトゥス概念によって論じるときに
生じるのは、それを経済の問題と結びつけることの困難ではないでしょうか。
その困難を承認と再分配の問題として、解決しようとしているのが、
フレイザー論文であり、彼女においても、mobility の問題は考慮されては
いません。いや、「移動」を「移民」の問題としてしか扱ってこなかった
国際労働力移動論においてさえ、mobility について考えることは、これからの
課題なのであって、そこにフェミニズムの「未来」が結びついている、そう
僕は思うのです。

4くどう:2002/03/11(月) 10:44
おはようございます。結局、あれからひとつ作ればいいはずの
解答例案を3つも作ってしまい、それでもなおかつ睡眠をとり、
起きるととある小者政治屋の証人喚問がはじまっていました。

昨日「大航海」の最新号を購入したわけですが、それは仕事に
使えそうだったからで、内容に何か期待したわけではありません
でした。しかし、次号予告が「漂流するジェンダー」であることと
今回のおそらく売りのひとつであろう、斎藤環×東浩紀の「工学化
する社会/動物化する人間」という対話は、関係があるのでは、
ないか、対話の当事者たちにとって言葉の正確な意味で、客観的な
関係があるのではないか、そう思いました。そこで、長くなるのを
覚悟しつつ、少し書いてみます。

対話においてとりあげられるのは、東氏の『動物化するポストモダン』の
所説です。先に断っておけば、僕はこの新書を1回立ち読みしただけで
買ってさえおりません。したがって、引用は対話の両者の発言に限定され
ます。ある本の著者が自らの著作を自己解説している場合、それがもっとも
正しい解釈であるとは言い切れない場合もあるわけですが、もし、この
本をお手元にお持ちで読んだ方がいらっしゃったら、何かご意見を願えればと
思います。

ここで疑問を持たれる方もいらっしゃるかもしれません。ならばこの
スレッドではなく、たとえば「『動物化するポストモダン』を読む」と
いった新スレッドを立てた方がよいのではないか、と。他の方がそうする
というのなら、僕はそれを止めたりはしませんが、その本を買ってさえ
いない僕がそういうスレッドを立てるのは妥当ではないと思いますし、
にもかかわらず、僕がそれについて限定をつけながら何か言うのは、
僕の考える「フェミニズムの現在」と関わりのあることなので、この
スレッドに書くことにしたのです。

以下の文章においては、したがってひとつの形式が選択されます。
まず対話の原文を煩雑さを避けるために、誤読の危険を冒しながらも、
省略しつつ引用し、そうした危険をいささかなりとも軽減するために
引用した対話の置かれたセクション名を明記する。また、引用は必ず
しも対話がなされた順ではなく、僕が関連していると思われたものは
その順序を変更して並べられる。そして、そうした対話の引用の直後に
それに対する疑問という形で、そして冗長になることを避けるため、
疑問を投げ出すという無責任な形で、コメントを加えるといった形式を
とります。あらかじめ言っておけば、それらの文章はそこで言及されて
いる著作の題名である2つの言葉、「動物化」と「ポストモダン」に
ついて、対話の当事者両者が前提としていることへの素朴な疑義へと
つながるものです。

5くどう:2002/03/11(月) 11:22
続きは、本日の仕事が終わってからということにします。

6くどう:2002/03/11(月) 20:58
53ページ〜:動物化とは何か

東 単純に言うと、動物化されたサブカルチャーにおいては、虚構=
物語ではなくて、身体的快楽が優位なんですね。より正確に言えば、
記号化された身体的快楽。意味や感情が自分の中ではなく、外から
与えられるものに変わってきている。感情を記号によって処理する
ことに慣れてしまっているんです。(後略)
(中略)
東 (前略)。たとえば携帯メール。単文登録して、ジョグダイヤルを
回して適当なメッセージを選択してメールをうつ。この登録された単文
こそが、「外在化した感情」と僕が呼びたいものです。自分が外側に対して
表現する感情が、あらかじめ選択肢になって携帯電話の中に入っている。
RPGみたいなものですね。そしてそこからいくつかを組み合わせて、
現在の感情を相手に伝える。そうすると、相手からも何らかの組み合わせが
返ってくる。(中略)。そこで交わされているのは、極端に記号化され
定型化された信号なんです。これが、人間的感情の動物的かつ機械的処理と
『動物化するポストモダン』で言った現象です。
(中略)
東 いや、待って下さいよ。動物は記号のやりとりをしていないのではない。
むしろ、世界とのあいだに秩序だった記号的関係を作っている存在でしょう。
斎藤 それはわかります。ミツバチのダンスとか、トゲウオの交尾行動とか、
言葉と違って「誤配」の余地のない、正確な記号伝達によるコミュニケーション
ですね。
東 その記号は、確かにハイデガー=ラカン的には「人間的記号」ではない。
つまりシニフィアンではない。しかし、シニフィアンではないにせよ、動物とは
きわめて記号的な生物ではないですか。僕はそういう意味で「動物」という言葉を
使っているのだけど。

55ページ〜:動物化の根源にあるもの

東 (前略)。たとえば、秋葉原の専門店にズラリと並ぶイラスト群。そのなかで
これは好みだけどこれは違う、と選別するとき、そこにモル的な主体なんて介在
していない。必要なのは、身体レベルで組織される視覚の訓練であり、オタクたちの
いう「脊髄反射」的な感覚です。つまり、身体を、モル的な主体から解放し、ただ
単純に記号のセリーに委ねることが必要とされる。確かに昔からオタクはこういう
ことが好きだった。とはいえ、昔のオタクたちは、そういう行為が無意味とわかって
いて、現実世界から逃げて別の価値基準を作るためにやっていた。ところがいまの
オタクたちは、その記号的な選別と自らの生をかなりストレートに結びつけ始めている。
斎藤 セクシャリティにおいてですか。
東 セクシャリティだけじゃない。性ではなく「生」です。
(中略)
東 パブロフの犬みたいなもんですよ。
(後略)

66ページ〜:鏡像の背後のデータベース

東 無意味なシニフィアンのやりとりが実は超越的シニフィアンの先送りによって
支えられている、というのはまさに否定神学的な説明ですよね。「盗まれた手紙」の
モデルでしょう。それは一見正しいように聞こえるけど、でも、たとえば犬との
コミュニケーションはどうなんですか。そこでも飼い主は無意味な言葉を発しますね。
斎藤 それは感情移入でしょう。
東 犬とコミュニケーションしているときは犬の側には何も媒介はない。
斎藤 犬の場合にはね。
(後略)

72ページ〜:欲望の無際限性

東 (前略)。うまいものを食べたら、新しくリストに加わっていくじゃないですか。
斎藤 人間はね。
東 動物だって同じでしょう。動物だって毎日まずいドッグフードは食べませんよ。
うちで飼ってた犬はそうでしたよ。
斎藤 犬がいつも味方に付いているなあ(笑)。(後略)

疑問群A

なぜ「動物化」を説明するにあたって用いられる事例は、観察実験の対象となる動物であるのか、
なかでも「範例」となるのは犬、しかも、飼い犬であるのはどうしてか。「飼い犬」が
飼い馴らされた犬のことであるとすれば、「動物化」しているオタクは飼い馴らされた何なの
か。そして、「飼い馴らされる」ということが、何らかのプロセスを通じてのある環境への適
応を意味するとすれば、オタクが適応している環境とはどのようなものか。

7くどう:2002/03/11(月) 22:01
注:ページ数は「大航海」ゲーム特集号のもの

53ページ〜:動物化とは何か

東 (前略)ぼくはそれを「物語消費」「データベース消費」という言葉で分析しました。
たとえば八〇年代のガンダムの消費(物語消費)は、ある意味で従来の文学の延長線上にある。
物語を追って、登場人物に同一化して、キャラクターの作品世界内の動きをトレースする
ことによって感動する。つまりアイデンティフィケーションの回路です。しかし、九〇年代の
データベース消費の局面では様子が違ってくる。ぼくが『動物化するポストモダン』で例に
挙げたのは、ギャルゲーの世界です。少なからぬオタクたちが、ギャルゲーの平板な物語に
泣いている。しかし、その物語をどう分析しても、従来のようなアイデンティフィケーション
の回路が働いているように思えない。むしろ、感情を定型的な記号によって処理することに
違和感を覚えない、そういう身体反応でつぎつぎと文化消費が駆動されているように見える。
(後略)。

62ページ〜:現実と虚構の間

東 いまお話に出た「小さい物語」というのは、ぼくの言葉で言うと「スペクタクルとしての
物語」「シミュラークルとしての物語」ですね。一方では大きな物語が消滅したというのに、
他方では、シミュラークルとして大量に物語が消費されている。そしてそのレベルでは、
現実と虚構はますます混同されていく。それは例の9・11のテロにも関わってくる問題だと
思います。(後略)

83ページ〜:スペクタクル化する社会

東 それはそうなんですけどね。しかし、今回ぼくは、あらためてボードリヤールの重要性を
再確認してしまった(笑)。『湾岸戦争は起こらなかった』の件で彼は大変な非難を受けたわけ
だけど、実際、9・11と反テロ戦争の報道、それにアルカイダをめぐる「スパイ大作戦」の
ようなイメージを眺めていると、湾岸戦争が私たちのシミュラークルの閉域に何も風穴を開け
なかったことは確かのように思える。
斎藤 ということは、それを批判したサイードの「それならボードリヤールは湾岸に送られる
べきだ、歯ブラシと、エヴィアンか何かの飲みものをもって」というのは、やはり古い話に
なるわけだ。
東 いや、そうは思いませんよ。(後略)

72ページ〜:欲望の無際限性

斎藤 ただ、欲望が絡むレベルは、シニフィアンの支配下にあると思いますね。
東 だから、欲望の時代はもう終わったんですって(笑)。
斎藤 いやいや。そこがね。
東 いや、冗談です。斎藤さんがおっしゃりたい問題はわかります。セクシャリティですね。
斎藤 そうです。
東 それはそのうちぼくも考えますよ(笑)。
斎藤 いま考えてくれないかなあ(笑)。(後略)

87ページ〜:人間のいない学問は可能か?

東 (前略)。むしろぼくの問題は、「心理」をやらないと宣言したことで、斎藤さんが
繰り返し指摘するようにセクシュアリティの問題が抜けたことですよ。それがこの新書に
関するもっとも痛い批評なんです。

疑問群P

ボードリヤール=大塚英志が援用する「消費」概念を用いることと、セクシュアリティの問題
が抜けてしまうこととのあいだに関係はないか。その関係について考えるにあたっては、その
「消費」概念以外、たとえばバタイユ、クロソフスキー、ドゥルーズ=ガタリの用いる「消費」
概念との差異を考慮する必要はないか。シミュラークルという概念についても、同様の問題は
ないか。

8くどう:2002/03/12(火) 14:08
55ページ〜:動物化の根源にあるもの

東 『動物化するポストモダン』にはドゥルーズ/ガタリの影響もある。モル的な主体とは
別に、分子的記号のセリーが身体を貫いているという発想ですね。人間的で精神分析的な
意味賦与とはまったく別に、つまり「私」「あなた」という主体のコミュニケーションの
レベルとはまったく別に、記号の流れが多様に身体を貫いている。これはとても動物的な
発想だと思う。この発想をそのままサブカルチャー分析に応用してみた。すると、おいおい、
なんだ、ドゥルーズ/ガタリの言ってることそのままじゃん、ってな感じなわけですよ(笑)。
(後略)

64ページ〜:工学的媒介の発想

東 (前略)。むしろいま問題なのは、ドゥルーズ/ガタリの区別で言えば、集団=モルの
管理ではなくて、分子ひとつひとつの管理ですよ。象徴的媒介とは、ひとびとを集団=
モルにまとめて管理する技術です。マーケティングもそうですね。しかしITの発達に
よって、電子商取引サイトの顧客情報データベースからエシュロンにいたるまで、分子
ひとりひとりをダイレクトに管理する技術が急速に整備されつつある。裏返せば、分子
的な個人がいきなり現実界=世界全体と向き合ってしまうようなラジカルな政治、ガタリの
「分子革命」のような可能性が現れている。テクノロジーは諸刃の剣ですが、いまはその
両方の可能性がともに鋭敏に出てきている。それは新しいタイプの媒介が出てきているから
です。

58ページ〜:作家性と固有名

東 (前略)。言い換えれば、柄谷さんや浅田さんにはオーラがある。それがかつて「作家性」
と呼ばれていたものでしょう。けれども冷戦後ではそういうオーラが必要とされなくなった。
これは日本だけの現象ではない。昨年の『現代思想』十一月臨時増刊「これは戦争か(ママ)」
を見て思ったのは、ウォーラーステイン、ジジェク、デリダ、ソンタグ、サイードといった
名前の並びが、十年前、ぼくが大学に入ったころとほとんど変わっていないということ。
(後略)

疑問群M

今、ガタリの「分子革命」のような可能性が現れているとすれば、戦争機械は誰なのか
その問いに答えるにあたって、国家の捕獲装置について考える必要はないか。その際に
coder ,decoder,surcoder (アクサン省略)の概念群だけでなく、territorialiser,de-
territorialiser,reterritorialiser の概念群、および両概念群の関係についても考える必要は
ないか。また、『ミル・プラトー』の「国家の捕獲装置」のプラトーにおいて、サミール・
アミン、アルギリ・エマニュエル、ベルナール・シュミットといった経済学者の著作への
参照があることをどう考えるか。「これは戦争か?」にサスキア・サッセンの名があることを
それとの関係でどう考えるか。これらの問いは、疑問群Aの問い、「適応」をめぐる問いと、
疑問群Pの問い、「消費」、「シミュラークル」という概念をめぐる問いとどのような関係に
あるか。

9くどう:2002/03/12(火) 15:14
64ページ〜:工学的媒介の発想

東 他方「データベース」の話で言えば、ぼくはそういう「シミュラークルとしての物語」を
支えるデータベースの層があると考えている。(中略)。ではその深層に何があるのかといえば、
それは、「自由」やら「民主主義」やらの理念ではなく、グローバル化しヴァーチャル化した
マネー・ゲーム、つまりは数字の戯れでしかない。どこかでだれかが何桁かの数字を動かす
ことで、アジア全体の景気が左右され、一国の通貨が切り下がり、何百万人もの労働者が失業
する。一方には経済的な条件を規定する無意味なゲームがあり、他方には、そのゲームのうえ
で紡がれる無数の「小さな物語」がある。そういう乖離の状況はだれもが感じている。あとは、
そのギャップをいかに埋めるのか、あるいは埋めないでいいのか、そこらへんが思想的課題に
なるんじゃないですかね。(後略)。

疑問群K

「層」という語、「うえで」という語は妥当か。乖離はどこでどのように起きており、
ギャップはどこにあるのか。これらの問いは、先に挙げた疑問群とどのような関係に
あるのか。


以上のような疑問群を産出させる言説を、僕は domestic modern と名付け、それを
さらに dom mod と記号化することによって、dom.: domain;domestic;dominion
および mod.: moderate;moderato;modern の意味論的戯れに委ねつつ、その言説の
機能を、 accommodation to commodification と結びつけたい誘惑にかられます。
というのは、dom mod は1500円を出せば手に入る「大航海」のように、それなりに
現代思想についての教養をもった者ならば誰でも口にできる商品であるからです。
それにいくつかの固有名がフォントを変えてくっついていることに、いささか疑問を
感じないわけではありませんが、ブランド名だと思えばいいのでしょう。

どこかしら dom mod は飼い馴らされた犬のように陰鬱で、そのことは、ドゥルーズが
陰鬱な動物として、犬と人間、を挙げていたことを思い出させます。それをテリトリーと
結びつけて語っていたことも。もしかしたら、 dom mod は飼い馴らされた人間のように
陰鬱なのかもしれません。でも、だとしたら、modern は? modern はどんな動物なので
しょう?ヴァールブルクを思わせる身振りで『映画史』を撮り、おそらくフォシヨンの
身振りを反復しているのであろうまだ観ぬ『愛のうた』が観れる日を待ち望みつつ、
ふと、ベンヤミンとともにその問いに答えてみたい、そう思い始めています。

そして、この dom mod は「フェミニズムは終わったか?」「フェミニズムは終わらない」と
いう言説と無関係ではないのではないか、僕はそう思います。だからこそ、僕たちはまだ、
バトラーやサッセンを読むのでしょう。きっと、たぶん。

10くどう:2002/03/12(火) 15:22
訂正:反復しているのであろうまだ観ぬ→反復しているのであろうゴダールの、まだ観ぬ

11くどう:2002/03/12(火) 17:22
そういえば、ジョイスによれば、dog はさかさまになった god なのでしたね。
『ユリシーズ』の第何章だかの視点人物は犬だ、とか、あるいは、小津のロー・
アングルのこととか、いろいろ考えているうちに、ロッセリーニの『ドイツ
零年』のラスト・シーンを思い出しました。

12なかやま:2002/03/12(火) 20:34
動物化するポストモダンといいますが、東の「動物化」という言葉は本当に
説明になっているのかという疑問が浮かびます。動物化の例として飼い犬
を出しますが、飼い犬は飼う前に買うということを忘れているのでしょうか。
飼い犬は飼う前には立派な商品だったのですから。私としては商品として
まったく役に立たなくなり、捨てられて野良犬になった、もしくは保健所
行きになるという、いずれにしてもそのすぐ先に死が待ち受けているそうした犬
のことなら、動物化といわれて、なんとか納得しますが。

13くどう:2002/03/12(火) 23:50
う〜む、やっぱ別スレ作った方がいいのかしらん・・・・・・
「動物化」について考える、とか。コジェーヴなんかも
からむ話だし、今のところ個別のトピックスレって、
ないし。誰か作りません?それから東氏の新書、誰か書評
書いてみたいとか、ないですかね。

14くどう:2002/03/19(火) 18:26
ちょっとスレの趣旨からズレてきているので、軌道修正。

マルフェミの文献を読み直すにあたって、男女雇用機会均等法や
男女共同参画社会基本法の検討を通じて行なうことが、必要だと
最近思う。経済や政治は法治国家である以上、法と無関係には
行なわれないのだし、たとえアイデンティティの政治であっても
それは同じなのだから。国家フェミニズムの問題点を指摘するに
しても、具体的な法の言説を検討しつつ、その言説を批評するなり、
無視するなり、しなければならないのではないだろうか。批判法学と
いうものがあるわけだが、それよりももしかすると、法の条文に対する
批評といったものが必要で、それを政策決定プロセスへの介入と
結びつけていくことを、考えてみたい、と思ったりする。

考えてみれば、ようやく制度化を問題とすることができるところまで、
フェミニズムはこぎつけた、ということであり、それが第2波フェミ
ニズムという言葉として現れつつ、第3波は始まっているのか、という
問いへと接続されているのだろう。

先の法律に加えて、ストーカー規制法やDV防止法、あるいは、青少年
保護条例や個人情報保護法案なども、ジェンダーの観点から検討する
必要があるのではないか。理論の物質化のプロセスを多様化するためにも。
マルクス主義とフェミニズムという評判の悪い2つを看板に背負った、
マルフェミの再検討は、今や、既存の出版メディアでは困難であり、
それとは異なる批判・検討の場、メディアを要するだろう。

15くどう:2002/03/28(木) 23:58
青少年有害社会環境対策基本法の問題は、ジェンダーやセクシュアリティ
研究とも無関係ではない。

そこには「母親」の役割やアイデンティティといった問題が見え隠れ
しているし、正しいヘテロセクシュアルな性のみが性規範として
再生産される一方で、それ以外のものを「有害」とするステレオタイプ
であるがゆえに執拗な偏見やそれにもとづくさまざまな差別を誘発する
可能性がある。フェミニズムの方からの問題へのアプローチも考えて
みる必要がありそうだ。

16いかみ:2002/03/29(金) 06:47
私が出入りしている、女性(二十〜三十代)ばかりのBBSでは、
「青環対法に賛成するのは、母親としての責任を放棄している」という論調が多いです。
要するに、子供にとって何が「有害」であるかを判断するのは「母親」の役目なのに、
それを国に任せてしまうのは「母親」として無責任だという話です。
もっと分かりやすくいえば、ドリフが下品で「有害」だと思うなら、
「母親」がテレビのチャンネルを変えればいいだけであって、
番組そのものを国家に規制してもらう必要はないだろうと。
それでも子供は隠れて観るかもしれないけれど、「母親」がしつこく怒り続けていれば、
少なくとも「これは何だかマズいらしい」ということは分かる訳です。
まあ、ドリフというのは例が古いかもしれませんが、
そういう些末なことの積み重ねこそが「躾け」なのに…という話ですね。

今回のような法案が出てきてしまうことの一端には、
いわゆる少年犯罪が深刻化する中で、現在「母親」と呼ばれている人達の一部が
「自分は子育てに失敗するのでは?」という不安を抱えていて、
なおかつ、失敗した時に自分達だけで責任を取りたくないと考えている、
という側面もあるのではないかと思います。
一方で「子供の犯罪は何処まで『母親』の責任か?」という問題もある訳で、
それも踏まえて考えてみると、くどうさんの仰るとおり、
今回の一件で「母親」の役割が問われているのは確かだと思います。

17いかみ:2002/03/29(金) 07:15
しかしながら、私個人は、「母親」と言う言葉には括弧をつけずにいられません。
同年代の友人達が家庭を築いていく♪というミスチル的(笑)な状況の中、
自分もまた、遠くない将来に母親になってしまう可能性がある訳ですが、
その場合、私一人で「躾け」をするという事態は、考えただけでもウンザリです。
私のような怠け者でも、一応、それなりに働こうという意思があるのですが、
どれぐらいの時間と労力を子供に取られてしまうのだろうと思うと、
現状においては「子供?イラネーヨ」という結論しか出てこないのです。
これは、多分、同年代の男性達とは意見が違うだろうと思います。
なぜなら、「父親」の役割が「外」で働くことである以上、
男性にとっては、子供を「育てる」ことが仕事の妨げにはならないからです。

18くどう:2002/03/29(金) 11:30
>いかみさん
昨年の現代思想5月号「フェミニズムは終わらない」特集における、江原由美子、
松原洋子、足立眞理子の鼎談を読んでいただけるとわかると思うのですが、これは
江原氏の書でいえば『自己決定権とジェンダー』(岩波セミナーブックス)に
関わる問題であって、そこに松原氏の問題視する新・優生学がからみ、さらに
足立氏はそれを経済のグローバリゼーションと切り離して考えてはならない、と
主張します。

そこには、バトラー−フレイザー論争も関係があります。浅田彰の選択により
批評空間第2期23号に翻訳の載ったこの論争がほとんどフェミニズム業界
以外では話題とならないことが、問題だと僕は思っています。

19くどう:2002/03/29(金) 11:31
女性の「自己決定権」という概念は家父長制に抵抗するための概念だった。
レヴィ=ストロースが明らかにしたような「女の交換」によって構築される
文化のもとで、自分の身体に強制的な力を行使しようとする制度に対する
抵抗のための。だから、その権利はたとえば、「子育て」の責任が母親に
押しつけられることの不当さ、という社会的な文脈で、フェミニズムに
おいて議論されてきた。しかし、ネオリベラリズムにおいて「自己決定権」は
「身体の自己所有権」として扱われ、子供の品質管理を、「妊娠」「出産」
「子育て」の各プロセスにおいて、子宮を有する女性が「自己責任」として
負わされるようになった。

そのなかで不妊治療の技術が高度化し、表向きは国策という形ではなく、
女性の側からのサーヴィス消費という形で、遺伝子操作にもとづいて
「優秀な」子供をもちたい、という切実な欲望に支えられた新・優生学が
問題となる。

20くどう:2002/03/29(金) 11:31
しかし、自己選択か強制か、という問いの立てかたこそ、グローバリゼー
ションの最新局面によって周到に準備された「問い」に他ならず、そこでは
拘束の構造・集合性・集団性が問題とされなければならない。フレイザーの
いう否認・承認・誤認はそのための概念である。女性は自分のことを自分で
決定されることをずっと否認されてきた。だから自らをまるごと承認させる
という闘いを行なってきた。しかも、「わかってもらおうはこじきのこころ」
だと、ある意味で承認を期待することなくまるごとの承認をもとめて。しかし、
それが誤認され、認めてやったんだから責任を果たせ、と、子供を産む性と
しての責任を果たせ、と言われている。そして、それはグローバリゼーションが
必要としている casualization of the labor market 、派遣労働やパート
労働の増大、労働力の女性化と切り離せない。一方で、途上国の女性は、不妊
治療技術の実験場として消費される。そして、女性たちは「北」と「南」に
分断され、リプロダクティヴ・ヘルス/ライツといった問題を背負わされる。

〈ひとりの女のからだ〉を「自然」としてではなく「資源」として扱う
資本の継続的本源的蓄積プロセスの新たな展開による新たな収奪の政治。

21くどう:2002/03/29(金) 11:32
僕もリンク先のリンク先、さらにそのリンク先を見て、法律の賛成派と
反対派が共通して「子育て」は親の責任、とりわけ「母親」の責任である、と
言っていることに苛立ちを覚えました。賛成派はだからこそみなさんで一緒に
頑張りましょう、と「母親」に呼びかけ、反対派はだからこそおまえがしっかり
すりゃいいんじゃねーか、と「母親」を責める。反対派の中には、社会や構造と
いった視点をもっているひとはいないわけではないけれど、この「母親」を
めぐる問題に対しては、それがあるとは思えない。そうした状況で、小泉流の
「構造改革」が行なわれ、「自己責任」を要求される「母親」の立場からすれば
「子育て」のコストを削減することは、経済的合理人として当然のことであり、
「権利」である、ということになる。ここに困難がある。唐突にいえば、
功一郎がマルクス論を書きながら、バルトとフーリエ、そしてクロソフスキーに
もとづいて plaisir et loisir つまり、快楽と余暇、について考えている
こともそうした困難と関わっている。ミエヴィルのまだ見ぬ新作『そして愛に
至る』で俳優として登場し、クロソフスキー夫妻のパロディを演じていると
いうゴダールが、おそらく考えている、モノガミーとポリガミーの問題とも。

そうしたことを考える一方で、すでに成立している男女共同参画社会基本法に
もとづいて何かできないか、つまり、ここでも闘いは同時に複数で行われなけ
ればならないのだと、僕は思います。

22くどう:2002/03/29(金) 13:11
興味深いのは、浅田彰が金井美恵子の『噂の娘』とゴダールの『愛の世紀』、
ミエヴィルの『そして愛に至る』をそれぞれ失敗作として評価していることです。
『噂の娘』は父親の急の病で両親と離れ、よその家に預けられることになった
姉弟の物語であり、そこには「子育て」のあり方を考えさせられる何かがあり
ます。ベンヤミンやフーリエの方向で「家族」や「子供」を考えてみるきっかけが。
もちろんそこには「有害」社会環境も描かれているのです。1950年代とはいえ。

それはまた『市場像の系譜学』でカール・ポランニーが互酬、再分配、交換以外に
「家政」を経済の統合形態として挙げていることを指摘しながらもそれを「市場像」
に取り込むことのできない西部忠や、『ルネサンス経験の条件』で「グラッソ物語」に
おけるグラッソの錯誤が「家族」なしには成立しないことを見過ごす岡崎乾二郎にも
共通している何か、 household への無関心、とでもいうべきものなのかもしれません。

独身者浅田においては household への無関心はきわめて一貫した態度で
あり、それはそれでいい。でも、今の僕にとって大切なのは、フェミニスト
政治経済学が、その household を問題にしようとしていることであり、
まだ未見のナンシー・フォルブレの Who paid for the child? をやはり
読まなければ、と思いました。

23くどう:2002/03/29(金) 14:40
また、タイトル間違えた^^;
Who pays for the kids? が正しいタイトルです。

24TAMA:2002/03/30(土) 09:29
どうもお久しぶりです。ヴェイユではありませんが重力によってここに着地しました。某雑誌紙上(私はまだ見ていない)でローマ字表記によって名前が流通し始めているのでハンドルネームもこんなかたちで。
翻訳の問題も含めていろいろとあるのですが、ネット上で日本語で読めるものとして以下のものを上げておきます。リベの記事でJLGが自分に子供がいないことを言っていたのも会ったような気がしたのですが。
ちなみに、JLGの傍らにいつもいるフレディ・ビュアシュが私はcritiqueではなくブランショのようなessaiを書いているのだよ、と私に言うのですがはてはてそれはどんなことやら。バルテュスの絵が大好きだがこれもどこで両立するのか。しかし彼をスイスの淀川長治とすればそれは正しいのか・・・。
http://www.netlaputa.ne.jp/~kagumi/0105-5.html
http://homepage2.nifty.com/yoshi-yatabe/eigamemo/godard.htm
http://www.criticalspace.org/

25くどう:2002/04/01(月) 01:36
>TAMAさま
遠くからご苦労様です。重力です(笑)。というのは冗談。

たとえば、今、僕が考えたり、言ったりしていることは、
丹生谷貴志の『女と男と帝国』にすでに書かれていると
言えます。クロソフスキーの『生きた貨幣』への手紙に
対してフーコーが用いた言葉を使えば、「非常な高みから」。
ブランショやクロソフスキー、あるいは、バルト、丹生谷の
文章は直接に、経済や政治、法律といった社会科学の領域に
関する文章ではないけれど、そうした領域の<外>として、
彼らの文章はある。 critique が社会科学とその<外>との
境界での営みだとすれば、essai というのは、critique を
社会科学の領域の方へ近づける営みであると同時に、critique と
その<外>(それは社会科学及び社会科学の<外>の meme (アクサン省略)
かもしれない)との境界での営みだ、と言えるのではないか。
今はそんな風に思ったりします。

エル・ジャポン読んだけど、見事に「編集」されてましたね……。
ああいうのを「大衆誌」向けと言うのか……。
何はともあれ、ご苦労様、そして、おめでとう。

26くどう:2002/04/01(月) 01:53
(つづき)

丹生谷の本の書き下ろしの部分は、ハート=ネグリの『帝国』の
話で始まり、直接言及はしていないものの、バトラー、ラクラウ、
ジジェクの『偶然性、ヘゲモニー、普遍性』を明らかに参照している。
その本の副題が「グローバリゼーション下の哲学・芸術」となっている
ことからわかるように、たぶんサッセンや足立眞理子の文章も丹生谷は
読んでいる。そのうえで、彼は自分に可能なことをやっている。
何かとともに読まれようとして、文章を書いている。それはそれでいいのだと
思う。彼はその「貧しさ」を引きうけるということを、自らの「正しさ」に
すりかえるさもしさをもってはいないのだから。自らが自らに課す「倫理」を
性急に普遍化し、他人に要請したりもしないのだから。彼がやっているのは
勧誘であって、自分の言葉が存在論的な命題=命令になることをかろうじて
回避しながら文章を書いている。そう思う。

27くどう:2002/04/01(月) 02:30
(さらにつづき)

蓮實がブランショを批判するのは、ブランショにとって小説を書くことは、
obligation sans loi であって、つまり、 essai と critique の
さらに「あいだ」=<外>(フーコーが<外>の思考と言うときの)を
狙って文章を書こうとしつつ、自己抑制が普遍的な命令となることを
「法無き義務」という撞着語法を用いることで、回避することを回避
するから、であって、それと丹生谷の「自己抑制」としての断章形式と
フーコーの「自己への配慮」との差異を考える必要はあるかもしれない。
そういえば、蓮實は丹生谷の文章については、あまり言及することがない。
どう思っているのだろう。

28くどう:2002/05/17(金) 22:24
なかやまくんにコピーしてもらった長原豊の Un/Le pas encore ― de la Marx は
まだ試論ではあるし、相変わらずの晦渋さで何度も読まなければ主語と述語の対応すら
よくわからない文章なのだが、やっぱりね、という記述もいくつも見られる。
とくに注において、竹村和子の「『資本主義社会はもはや異性愛主義を必要と
していない』のか」への批判的言及や、足立眞理子の励ましがなければこの
論文を書くことができなかったことや、彼女が上野千鶴子との対談への
解説で述べたことへの共感的言及などが見られ、バトラー・フレイザー論争を
めぐる竹村、足立、長原の鼎談がますます期待される。W・ブラウンを
きちんと読む必要がありそうだ。

29くどう:2002/05/17(金) 22:47
正確なタイトルは、Un / Le Pas Encore ――― de la Marx でした。
de と Marx 以外は斜体なのだけど、ここではタグ使わないと表示できないのかな?

30<削除>:<削除>
<削除>

31くどう:2002/05/26(日) 02:12
長原豊の論文のタイトルに関する注に唆されて、エレーヌ・シクスーと
ジャック・デリダの共著、 Voiles 、を読む。

Pas は、Step,Pace,Footprint,Trace,Dance,Threshold...などの
一連の名詞と、副詞の No,Not,Not Any、の両義性において、
副詞の Encore は、Yet,Still,As Yet,Anew,Again,Once More,
Furthermore,Even,Only...、などの多義性において、それぞれ
捉えられており、論文のタイトルのマルクスは、これらの両義性と
多義性との組合せのすべてに拘束されている、と注で説明したあとに、
長原は、そうした点に関わっては、上述の美しい一書を参照せよ、と
読み手を唆す。

その書物は、シクスーの Savoir という文章と、それに触れようとする
デリダの Un ver a soie (アクサン省略)という2つの文章からなる。
それぞれ訳せば、「知る」、「蚕」となるタイトルは、もちろん
Sa voir,S'avoir,avoir,voir...、vers soi,a soi...といった
戯れのうちにあるのだが、たまたま読んでいた『資本論』と、それらは
さらに結びつく。

マルクスの書物には、「変態」「蛹」「繭」といったメタファーが
現れることに、今更ながらに気がつく。おぼろげながらに、ひとつの
思考が到来しそうな、そんな気がする。

32くどう:2002/05/30(木) 07:55
千野さんに続いて、映画研究者の石原郁子さんが48歳の若さで
乳がんで亡くなりました。いずれもある研究領域にジェンダーの
観点をもちこもうとしたひとたちで、どれだけの苦労があったかは、
推して知るべしだと思います。彼女たちが夭折したことは、アカハラや
テクハラとも無縁ではないのではないか、との思いを抱くと同じに、
また大きな負債を負ってしまった、とも思います。

石原さんとの出会いは、JUNEで中島梓(栗本薫)がやっていた
小説道場でした。彼女はその道場の初期の頃から投稿していた
ひとたちのひとりで、有段者でした。まだ「やおい」などという
言葉がなかった頃の話です。後に彼女のアントニオーニ論がリュミ
エール叢書から出たときに、ああ、あの小説はこういうふうに
映画を観るひとが書いたものだったのか、と思い、クロード・
エドモンド・マニーの本を読みながら「小説と映画」の関わりを
考えたりしたこともありました。

雑誌國文学が蓮實重彦特集を組んだ折に、蓮實の要望で蓮實論を
書くことになった女性の中にも、石原さんはいました。今、その
蓮實論で彼女が何を書いていたのか、よく覚えてはいません。
それもまた負債を感じさせる出来事のひとつです。

男子同性愛小説、映画、批評、という、僕にとって、否応なしに、
現在の自分を形づくっている何かに、僕とは違う形で関わっていた
石原さんの本を、いつか、書評でとりあげたいと今は思っています。

33petro:2002/09/19(木) 21:34
私は千野の弟子でした。大学院ではいろいろもらったものも多いけど、”決定不可能性”というものをを身をもって体験しました。

34くどう:2003/01/03(金) 23:12
雑誌現代思想の2003年1月号の特集は「トランスナショナル・フェミニズム
――女性の再配置」で、特集の冒頭には足立眞理子による竹村和子インタビュー
(事実上、2人の対談)が掲載されています。他にも、おそらく現在における
最良の書き手たちによる論考が収められており、「フェミニズムの現在」を
知るのに役に立つ1冊です。『愛について』には収められなかった竹村氏の
バトラー―フレイザー論争をめぐる論考と、足立氏により予告されている
同論争をめぐる論考が、どこでどう切り結ぶのか、特集の冒頭インタビューは
穏やかではありますがスリリングで、読んでいても緊張感が伝わり、ドキドキ、
ハラハラします。最初の足立氏の質問の直後に竹村氏が「単刀直入」という
言葉を使っているところが、これが2人の「真剣勝負」である事実を、あたかも
告げているかのようです。

気になるのは、男性の書き手がひとりもいないことなのですが、これは
この特集の企画責任者の意図によるものなのか、それとも、結果的に
こうなっただけなのか、それはわかりません。

個人的には足立眞理子の論考の参考文献に、サッセンの『グローバリゼーションと
その不満』『グローバリゼーションの時代』やパレーニャスの『グローバリゼー
ションの使用人』があるのは当然ながら、その他に、このスレッドで昨年、僕が
名前を挙げたギブソン−グレアム編集の『階級とその他者たち』や、長原
豊の「Un/Le Pas Encore ―― de la Marx 」が挙がっているだけでなく、
石川くんが以前掲示板で触れた故橋本寿朗の遺作となった『デフレの進行を
どう読むか』も挙げられているのが興味深かったです。足立眞理子は実は
『偶』読者だったりするのではないか(笑)、と思ってしまいました。まあ、
ギブソン−グレアムは読んでいて当然だし、長原、橋本は直接的な知り合いで
「論敵」である/だったのでしょう。

35いしかわ:2003/01/06(月) 22:55
 『現代思想』買いました。本特集は、昨年の9月に本郷で行なわれ、私が行きそびれてしまったシンポジウムを核としたもののようですね。でも、シンポジウムでは、正直、なにが議論されたかわからなくなるのもので、こうして文面で見たほうがわかりやすいような気がしますが。
 足立氏の橋本氏への言及は、まさに批判的であって、彼が「システム」を論じその他を「私的」なものとして示唆するに留めるのならば、私は「私的」な部分の構造的分析を行なう、そしてそれこそが新しい政治経済学なのだ、というようなマニフェストともとれる論文でした。
 なぜかくどうさんと買う本が重なってしまう。『アンティゴネーの主張』も、夜中(24時間営業書店)に本屋で見つけ、思わず叫び声をあげてしまいました。恥ずかしい。

36くどう:2003/01/07(火) 00:24
>いしかわくん
シンポジウムの特集は、なんか中途半端でしたね。上野千鶴子の質問に
対する回答なり、そのあとの討議なりは掲載されていないし。僕としては
竹村氏のインタビュアーとしての足立氏の、長原豊のあの晦渋な文章を
暴力的に単純化した手並みに、畏れ入りました、というところでしょうか。

僕の場合は、トランスナショナル・フェミニズムに関心をもってしまうのは、
文化と経済の連接が労働力の再生産というところにあるからなのでしょうね、
きっと。ただ、コーネルによって何かを言うひとの「退屈な正義」には、
あまり関心がないです。足立氏にしても、「フェミニズムの正義」ということを
口にするわけですが、それがフィクションとして、語り手が殉じることに
よってしか終われないものとなる危険は、あるだろうと思っています。
言説の責任を身体で取る、というやり方だけが、言説の責任の取り方では
ない、そう思うのです。

37くどう:2003/01/07(火) 01:21
「正義」を論じることには、あらかじめ自らの行為を正当化したいという
欲望がつきまとう。亡霊のように。そしてそこには手段としての暴力を
どうするか、という問題が生じる。その問題を回避したところに政治はない、と
いうのは「正しい」けれど、まずはそのあらかじめ自らの行為を正当化
したい、という欲望が問題ではないか、と僕は思います。

その点で、今日非売品の見本を池袋リブロで見たネグリとハートの『帝国』にも
僕は関心がない。「帝国」というのは自らを「抵抗者」としてアイデンティファイ
したい者が必要とする拙劣なフィクションにすぎない。「帝国」という言葉は
「資本主義」の、「マルチチュード」という言葉は「プロレタリアート」の比喩に
すぎない。つまり、「知識人」による自らの正当化および「抵抗者」への支配力の
行使という政治の問題でしかない。僕の父や母のようなひとびとを手段化しようと
するそういう論理には、無根拠に、「それは醜い」、と言っておきます。

38くどう:2003/01/08(水) 09:34
上の竹村インタビューで足立氏が最初に問いかけているのは、閉じた円環の
論理体系としての純粋資本主義論に当たる資本主義認識をフェミニズムは
「承認」するのか、そして、最初の資本の「流通過程」、第一循環においては
そこに最初に性的差異を置かなければならないということはないのではないか、
閉じた円環として論理化するその繋ぎ目のあり方が性的差異として現れざるを
得ないとしても、という2つの問いだ。

それに対して、竹村氏は、第一段階という概念を立てること自体がトリッキーで
あり、ある意味で、それは資本の歴史的継起性を、それがもつ攪乱性を封じ
込めるために、予定調和的に整序させていく「物語」「神話」ではないか、と
答え、したがって、資本主義の純粋構造のなかに性の因子はないという『神話』の
捏造は、ジェンダー配備そのものなのではないか、と切り返す。

39くどう:2003/01/08(水) 09:49
一見対立しているように見える、2人の議論は、バトラーによるラカン(ジジェク)
批判というところでつながっている。足立氏は、最初から構造そのものが成立する
時、その基盤としての排除に性的差異を入れられたのでは、フェミニズムは
ファロクラシー批判にはならない、と言い、それに応じて竹村氏が、ファロ
クラシーは(ヘテロ)セクシズムであり、にもかかわらず、ファルスの形式性を
標榜して、あたかも中立的な切断線であるように錯覚させたのがラカンだ、と
述べ、さらにそれを受けて足立氏が、それをきれいにそのまま継承しながら、
資本主義分析を二つの局面に割ったのがジジェクだ、と続ける。

足立氏は上のやりとりよりも前の箇所で、第一循環に性的差異を入れることの
問題性を、逆立したかたちで、『神話』を受け入れているという抑圧に気づけ
ないままに、第一循環からいわゆる「性的差異」をはずすということにも
なりかねない、と指摘してもいるのだが、この展開で想起されるべきなのは、
1月11日青土社から発売される予定の東浩紀編『網状言論F改』でも
見られるであろう、斎藤環と東浩紀の「動物化」におけるセクシュアリティを
めぐる対立であるのは言うまでもない。斎藤が純粋資本主義を認めるラカンの
立場にあり、東が自らが純粋資本主義を認めていることに気づけないまま、
いわゆる「性的差異」を第一循環からはずすボードリヤールの立場にある。

40くどう:2003/01/08(水) 10:14
たとえば、携帯の出会い系サイトの募集でひっかかった援交オヤジを
脅迫し消費者金融のATMから金を借りさせ、その金で遊ぶという、
「世間体」を「せけんたい」としか読めない女子中学生や、彼女たちを
使って美人局をしている10代、20代の青年たちの「援交オヤジ狩り」
という行為に対して、「動物化」、と言いたければ言うことは不可能ではない。
しかし、そんなことはどうでもいい。

「援交オヤジ狩り」を、純粋資本主義とヘテロセクシュアリティ強制の
共謀関係と結びつけつつ、サッセンのグローバリゼーションのフェミニスト
分析にもとづいて、考えること。そして、その一方で、身体の「所有権」を
めぐるクロソフスキーの思考および「どっちつかず」をめぐるバルトの思考と、
それを結びつけること。今の僕の問題関心はそこにある。

41くどう:2003/01/17(金) 16:08
3月予定でフェミニズム読書会を開催したいと思います。
今のところレジュメを切るのではなく、参加者は書物なり
論文なりを事前に読んでいることを前提として、それぞれに
問題としたい箇所を数ヶ所引用し、問いを提出、それについて
話し合うという形式を考えています。

素材としては、最初にバトラーとフレイザーの論争、ついで
『偶発性・ヘゲモニー・普遍性』、以降は『ジェンダー・トラブル』を
はじめとするバトラーの著作や、コーネルの著作などを考えて
いますが、リクエストがあればそれも考慮します。

42くどう:2004/05/27(木) 19:10
ほぼ一年半ぶりに書きこみ。

本日発売の現代思想6月号特集「フェミニズムの最前線
―――――女性の動員と主体化」はフェミニズムのみならず、
現在の思想および対抗政治を考えるうえで、重要であると
思います。上野千鶴子は連合赤軍事件によってトラウマ化した
自らの「革命兵士」としての過去と向かい合いながら、日本の
男性左翼知識人のうちに共有されている「対抗暴力としての
テロの正当化」を、「女も兵士になるべきか?」「女は兵士に
なれるか?」「女も革命兵士になるべきか?」「女は革命兵士に
なれるか?」といった4つの問いを重ね合わせながら、批判的に
論じていく。

43くどう:2004/05/27(木) 19:40
後藤浩子の「闇への跳躍 プライベートなものの生成について」は、
次のように問う。「(前略)ケア労働の国際的供給に関しては、
既にバレーニャスやサッセンが移民労働力の女性化とそれら労働力の
都市の低賃金サービス労働への編入(とりわけ家政婦や子守など、
非フォーマル部門への配置)として問題化し、日本においても、
足立眞理子や徳永理彩が論考を重ねている。しかし、本稿で再考したいのは、
この問題が「グローバリゼーション」の項目のもとに、それに随伴する
不公平な分配と配置の問題としてのみ語られるべきものであるのかどうかと
いう点だ」。

ここで名前の挙がった足立眞理子はアソシエ13号で「グローバル資本主義
=グローバリゼーションへのフェミニスト政治経済分析」という論文を
発表し、後藤がいうような道を突き進む一方で、4月に出た現代思想の
増刊「マルクス」において「クレオンの相貌 『アンティゴネー』と
退蔵貨幣」を、そして、今回の現代思想の特集ではそれと合わせて
読まれるべき「二重のヴェールを剥ぐ アンティゴネーと非連続なる
資本」を発表し、バトラーによる複数化の戦略を過渡的かつ不十分な
ものとみなし批判するといった展開を見せています。

足立眞理子の論考はいつもながら無駄がなく、暴力的なまでに
論理的に正しく、一読では理解しがたいほどに明晰です。でも、
彼女がバトラーにふれながら「流通過程における『磨耗』の
程度」に言い及ぶとき、ささやかだが明確な違和が生まれる。
それはたとえばペドロ・コスタの『ヴァンダの部屋』の
登場人物たちのように、経済的に困窮しながら毎日麻薬に
明け暮れ、明日なき者として今日を生き延びている、そうした
者たちを、そしてトランスセクシュアル、トランスジェンダーで
自らの性同一性の不安定性に悩み、時には自殺にまで至る
自己否定を繰り返す者たちを、かつてラカンが述べたような
カントの真実としてのサドの真実のうちへと生きながらにして
葬り去ってしまってはいないか、という疑問です。なるほど、
ラカン派の議論のうえに、ジジェクと同じ土俵に乗れば、
バトラーと違って足立眞理子はジジェクに勝てるかもしれない。
しかし、それによって彼女はなにかを捨ててしまってはいないか?
僕がパラフレーズした後藤の問いは、それです。

44くどう:2004/05/27(木) 19:54
後藤は自らの論考においてきわめて正当に2つの名前を召喚します。
「マゾッホ」と「クロソフスキー」。彼女は「流通過程において磨耗した」者、
「死んだ貨幣」が「生きた貨幣」となる可能性のみならず、それがアクチュアルな
ものとして、「行為」「パフォーマティヴィティ」としてあることを、
いう。マルクスの『資本論』読解において流通過程に置かれた労働力として
のみ「身体」を見てしまうことで、日々繰り返されている、明日なき者の
生き延びが、足立眞理子はそれを見つめようとしているはずなのに、
見落とされてしまう。クレオンを批判する足立眞理子がさながらクレオンの
行為を反復して、「明日なき者たち」をアンティゴネーのように生きながらに
して葬り去ってしまう。バトラーやサッセンの著作には名前は挙がることは
ないけれど、フーコーやドゥルーズ=ガタリを通して彼女たちへと
流れこんだクロソフスキーの「生きた貨幣」を彼女たちの思考に
つなげてみることが、必要だと思われます。


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