以上のような疑問群を産出させる言説を、僕は domestic modern と名付け、それを
さらに dom mod と記号化することによって、dom.: domain;domestic;dominion
および mod.: moderate;moderato;modern の意味論的戯れに委ねつつ、その言説の
機能を、 accommodation to commodification と結びつけたい誘惑にかられます。
というのは、dom mod は1500円を出せば手に入る「大航海」のように、それなりに
現代思想についての教養をもった者ならば誰でも口にできる商品であるからです。
それにいくつかの固有名がフォントを変えてくっついていることに、いささか疑問を
感じないわけではありませんが、ブランド名だと思えばいいのでしょう。
どこかしら dom mod は飼い馴らされた犬のように陰鬱で、そのことは、ドゥルーズが
陰鬱な動物として、犬と人間、を挙げていたことを思い出させます。それをテリトリーと
結びつけて語っていたことも。もしかしたら、 dom mod は飼い馴らされた人間のように
陰鬱なのかもしれません。でも、だとしたら、modern は? modern はどんな動物なので
しょう?ヴァールブルクを思わせる身振りで『映画史』を撮り、おそらくフォシヨンの
身振りを反復しているのであろうまだ観ぬ『愛のうた』が観れる日を待ち望みつつ、
ふと、ベンヤミンとともにその問いに答えてみたい、そう思い始めています。
そして、この dom mod は「フェミニズムは終わったか?」「フェミニズムは終わらない」と
いう言説と無関係ではないのではないか、僕はそう思います。だからこそ、僕たちはまだ、
バトラーやサッセンを読むのでしょう。きっと、たぶん。
独身者浅田においては household への無関心はきわめて一貫した態度で
あり、それはそれでいい。でも、今の僕にとって大切なのは、フェミニスト
政治経済学が、その household を問題にしようとしていることであり、
まだ未見のナンシー・フォルブレの Who paid for the child? をやはり
読まなければ、と思いました。
なかやまくんにコピーしてもらった長原豊の Un/Le pas encore ― de la Marx は
まだ試論ではあるし、相変わらずの晦渋さで何度も読まなければ主語と述語の対応すら
よくわからない文章なのだが、やっぱりね、という記述もいくつも見られる。
とくに注において、竹村和子の「『資本主義社会はもはや異性愛主義を必要と
していない』のか」への批判的言及や、足立眞理子の励ましがなければこの
論文を書くことができなかったことや、彼女が上野千鶴子との対談への
解説で述べたことへの共感的言及などが見られ、バトラー・フレイザー論争を
めぐる竹村、足立、長原の鼎談がますます期待される。W・ブラウンを
きちんと読む必要がありそうだ。
Pas は、Step,Pace,Footprint,Trace,Dance,Threshold...などの
一連の名詞と、副詞の No,Not,Not Any、の両義性において、
副詞の Encore は、Yet,Still,As Yet,Anew,Again,Once More,
Furthermore,Even,Only...、などの多義性において、それぞれ
捉えられており、論文のタイトルのマルクスは、これらの両義性と
多義性との組合せのすべてに拘束されている、と注で説明したあとに、
長原は、そうした点に関わっては、上述の美しい一書を参照せよ、と
読み手を唆す。
その書物は、シクスーの Savoir という文章と、それに触れようとする
デリダの Un ver a soie (アクサン省略)という2つの文章からなる。
それぞれ訳せば、「知る」、「蚕」となるタイトルは、もちろん
Sa voir,S'avoir,avoir,voir...、vers soi,a soi...といった
戯れのうちにあるのだが、たまたま読んでいた『資本論』と、それらは
さらに結びつく。
個人的には足立眞理子の論考の参考文献に、サッセンの『グローバリゼーションと
その不満』『グローバリゼーションの時代』やパレーニャスの『グローバリゼー
ションの使用人』があるのは当然ながら、その他に、このスレッドで昨年、僕が
名前を挙げたギブソン−グレアム編集の『階級とその他者たち』や、長原
豊の「Un/Le Pas Encore ―― de la Marx 」が挙がっているだけでなく、
石川くんが以前掲示板で触れた故橋本寿朗の遺作となった『デフレの進行を
どう読むか』も挙げられているのが興味深かったです。足立眞理子は実は
『偶』読者だったりするのではないか(笑)、と思ってしまいました。まあ、
ギブソン−グレアムは読んでいて当然だし、長原、橋本は直接的な知り合いで
「論敵」である/だったのでしょう。