したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

死の淵に漂うブルース

2 ◆NH012PSOJc:2010/12/13(月) 04:15:50

「……ぁ……か…………」
 男の口元が震えた。黒い狼はわずかに驚いた。もはや意識は失っていると思われたが、そうではなかったらし
い。男は何事かを呟いた。それは途切れ途切れで、聞き取るには細心の注意が必要だった。
「…………? …………」
 どうやら彼は、眼前の獣に問いかけているようだった。人ではない生き物に話しかける。普通ならあり得ない
そんな奇行も、これが死の間際の錯乱から来るものだと思えば、さほど不思議ではないだろう。
 しかし、哀れにもこの男は、今にも人生の幕を下ろしつつある不幸なこの男は、時として自分の言葉が異形の
存在にも通じることを知っていた。そしてそのせいで、絶望の淵へと引き込まれた。
 男は、確固たる意志をもって獣に問うたのだ。「妖怪か?」と。
「…………」
 獣は答えない。不動のまま、じっと男を見下ろしている。男は口端を歪めた。沈黙は肯定と解し、笑ったのだ。
 汚らしい笑みだった。
「妖怪なら…………頼み……を……。……く、く……頼みを聞いてくれる……ような……相手なら……いいんだ
が…………」
 半ば獣へ、半ば自分へ語り聞かせるような内容。自嘲する。満身の力を込めて右腕を動かしはじめる。身じろ
ぎにも似たその動作は、確実に男の死期を早めていた。構いやしない。彼は右手を自分の顔に近づけると、右目
に指を突っ込んだ。
 血の飛沫が袋小路に舞う。飛沫はやがて、雨に流されていった。
 男は眼球を抉り出していた。
「……受け取ってくれ……。……これで……捜してほしい人がいる……」
 目玉は男の掌の中、獣は興味があるのかないのか、さっきから彼の自傷行為を見つめている。男はまたも笑っ
た。獣の沈黙をどう解釈したのだろう。最初から期待していないとでもいった風に、またも薄く笑ったのだ。
「息子を……」
 笑いつつも、獣への嘆願は忘れない。祈りと呪いがブレンドされたような声色に、路地裏の空気がわななく。
 掌から、眼球がこぼれ落ちた。残された左目だけでは上手く世界を捉えられない。雨に追い打ちをかけられ、
何もかもがぼやけて見える。ゆっくりと瞼を閉じていく。
「私の息子を……殺してくれ……」
 その言葉を最後に、男は完全に息絶えた。ダンボールの山と残飯の海に囲まれながら、コンクリートに横たわ
り、二度と目を覚ましはしなかった。
 ここは横浜中華街。獣は、男が落とした眼球へと目を向けた。それはいつしか、一個の小さなフィルムに変化
していた。
 夜明け前から降り続けた雨は、一日じゅう止むことはなかった。


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板