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夏コミ関連スレ(暫定)

525プリ屋巽:2013/05/25(土) 02:51:21
>30年ほど前まで、あそこは陸の孤島と言ってよい場所だったのです。

我らが庄内も、羽越本線で繋がっているとはいえ、
内陸(山形=置賜)とは交通、文化圏的に隔絶された
こちらも「陸の孤島」と呼ばれていました。
国道が整備されて、庄内と内陸(置賜)が全線道路で繋がったのも
そう過去のことではなく、私が生まれてから=30年程度前のことのようです。

>邪推ですが、明治維新の際会津藩が、反官軍の頭目のような立ち位置だったので
>その影響がずっと続いていたせいだろうと愚考しています。

それはあるでしょうね。

明治維新から60年後、昭和3年に松平容保の子孫の松平勢津子
(容保の六男・恒雄の長女)が秩父宮雍仁親王に嫁ぐまで、
そういう扱いは続いたのだと思います。

我らが庄内藩は、西郷さんのお陰でお家存続、厚遇されていますが、
その西郷さんも最後は・・・となってしまいますからね。

>それでも会津よりの視点から語られる明治維新は、左幕派贔屓すぎないか、と思うことしばしばでした。

庄内藩士的には全然OK
というか、歴史を紐解けば、会津藩は復興していなかったことがバレてしまうという
悲劇的泉・・・

>本当は明治新政府を理解していても、佐幕派に加担せねばならなかった藩も沢山あったでしょう。

この点はどうも、東北の軍事力のある藩(仙台藩、米沢藩)に、力で追従させられていたようです。

>その野盗の親玉にあたる西郷や大久保…大村益次郎も加えていいかもしれませんが…達が
ああいう末路を辿ったことも忘れるべきではないと思うのです

まぁ確かにね・・・

というか西郷さんは、軍人ではあっても政治家ではなかったのかもしれませんね。
でないと晩年のあれとかあれの説明がつかない。

そもそも会津藩が佐幕派の幹部と認定されたのも、京都守護職時代に
やり過ぎたからでしょう?
やっぱり因果応報、流血は流血しか生まないことは、現代の歴史も
証明していますしね。

そこであれですよ、戦わずして勝つ、孫子の兵法が(以下略


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