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BBS『アレクセイの花園』 - アマチュア評論家 アレクセイ(田中幸一)の掲示板です。主に「文学や映画」あるいは近年では「キリスト教」を研究しつつ論じています。

1園主:2005/02/13(日) 18:44:56
追伸
なお、お書き込みいただきました際は、念のためログを取り、併せて投稿日時も記録しておいていただけますと、大変ありがたく存じます。お手数ではございますが、なにとぞご協力のほど、お願い申し上げます。

2966:2022/01/01(土) 00:11:09
さて、どんな1年になりますことやら。( ̄▽ ̄)


        ☆ ★ ☆ 謹賀新年 ☆ ★ ☆


みなさま、あけましておめでとうございます。
おかげさまで当掲示板「アレクセイの花園」も、つつがなく21周年22年目を迎えることが出来ました。

ホランドくんも書いているとおり、昨年最大の事件は「Amazonカスタマーレビューの全削除」と、それに先立って開始されいた、Amazonレビューの「note」への引っ越しだったと存じます。

オロカメンさまへのレスにも書きましたが、今年は、この引っ越し作業を完了させ、「note」記事のリンクを整理完備した上で、さらにAmazonには載せられなかった、昔の論文を、発掘できたものから随時「note」へアップしていきたいと考えております。

例えば、「創元推理」評論賞の応募作「地獄は地獄で洗え 一一笠井潔批判」とか、『ぼくらの』論とかでございます。
検索を駆使すれば、すっかり忘れていた論文なんかも出てくるのではないかと、我がことながら楽しみにしているところでございます。

なお、今年の抱負は、再来年の定年退職に向け、健康で大過なく、これまでどおりに楽しく過ごすこと。これだけでございますね。大病を患って、すっかり衰えたアントニオ猪木ではございませんが、すべては元気があってこそですから。


★ 伊殻木祝詞さま

ハッピーニューイヤー!

昨年、下のように書かれておりましたので、つい(笑)。

>  おめでたくも何ともないので、おめでとうございますとは言いません。
>  この期に及んで「ハッピーニューイヤー!」とか言うアホは片っ端から射殺してしまうかもしれん。

ともあれ、私は伊殻木さまのご健康を祈っておりますから、そう悲観的にならず、愚痴を全開にして、今年もコロナ禍を乗り切って下さいまし。


★ オロカメンさま

本年が、オロカメンさまにとって充実した一年であることをお祈りいたします。
どうぞ、本年もよろしくお願いいたします。



それではみなさま、本年も「アレクセイの花園」を、どうか宜しくお願い致します。
.

https://note.com/nenkandokusyojin/

2967オロカメン:2022/01/21(金) 07:03:03
あけましておめでとうございます!
 アレクセイさん、
 ホランドさん、

 あけまして、おっめでとーございま〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っす!!!:;。+゚+。ヽ(´▽`)ノ。+.。゚:;。+

 オロカメンでございます☆(´ω`)

 旧年中もたいへんお世話になりました! 昨年もいろいろと学ばせて頂きまして、今年もぜひ仲良くして頂けましたら幸いですm(_ _)m

 これからもどうぞ末永くご健全にこの「花園」を続けて頂ければと思いますよ♪

 さて、ぼくの新年のご挨拶の恒例となってきましたが、去年2021年に読んだ本の読書記録をご紹介したいと思います☆彡

 ――――――――――――――――――――――――――――――
  ・2021年に読了した本の冊数(漫画を除く)……100冊
  ・小説の冊数…………………………………………………29冊
  ・小説以外の冊数……………………………………………71冊
 ――――――――――――――――――――――――――――――

 2019年の読書数は138冊、2020年は105冊読んでいたので、少しずつ読書量が減って行っているような気がしないでもない……(^^;)

 しかし、小説と小説以外の本の冊数の割合は昨年とほぼ変わっていない感じです。

 最近はどうも、あまり小説を読む事に若い頃ほどの価値を感じなくなってきているのか、特に昨年の前半あたりなんかは「まったく小説を読む気がしない」という感じでした。

 小説ならば1日以内に読み終わる事のほうが多いので、小説ばかり読めば1年の「数量」的な読書量は確実に増えるんですけども、「数量」自体に最近あまり意味を感じなくなったってのが大きいでしょうか。

 ぼくの中では、最近はやはり「読書量」よりも、「読書の中身」のほうを大事に思う傾向が強くなってきましたんで、その質をどう上げるかというほうに気をかけてる感じです。

 例えば、小説でしたら「どんな内容だったのか忘れてしまった」というのでしたら、再読して改めて楽しむというのも悪くないでしょうが、学術書だったり論文だったりを時間かけて苦労して読んだのに「何が書かれていたか内容を忘れてしまった」っていうのは、さすがに時間がもったいないなァと思うようになったのもあります。

 そのために、本を読んだ後には必ず自分の言葉でその本の内容を要約してしっかりと総括して評価するほうに力を入れるようになりました。
 これによって「読んで終わり」ではなく、読んだ後に自分の言葉で本の内容を振り返って読んだ内容を自分の中に定着させ、更には後日、細かい内容を忘れてしまっても自分の書いた要約を読む事によって記憶を呼び覚ます事ができる……という効果を狙っています。

 まあしかし、昨年はその「内容の要約」の作業がけっこう骨の折れるという事に気づきまして、このプロセスを毎回行う事で、「読む時間」のほうが侵食されていってしまっているんじゃなかろうか……って所が、いまの悩ましい所ですねぇ(^^;)

 で、今年の読書目標ですが、昨年も書いたようにまだ漠然としか決まっていないんですが、やはりソシュールの『一般言語学講義』は読みたいし、『フーコー・コレクション』も読みたい。……が、やっぱり時間がかかりそうだなぁとは思っている所です。

 昨年アレクセイさんにご指摘頂いた「むしろ大切なのは、その「哲学者を理解する」ことではなく、その哲学者が書いていることと「対決する」ことではないでしょうか」というのは、ぼくもまったく同感なんですよね。
 しかし、 最近は哲学に関しては「読むからには、中途半端な付き合い方にはしたくないな!」って所にこだわってしまうんですよねぇ。
 出来ればその思想家が、いったいどういう人生を送って、何に影響を受けて、どういう性格で、どういう仕事をしてきた人で、どんな生活をしていて……といった「人」としての思想家のイメージを持っておきたい。そこから最終的に、その人の思想の本丸となる主著を読んで決着をつけたい、というのがあります。
 「けっきょく分かんないや」って感じで終わらせたくないので、毎回入門書やら解説書やらを大量に読んでるわけです。

 あと、ぼくが誤読するときは、もう全く愚にもつかないアサッテの方向に誤解しているんじゃないかと不安になる事も多いので(自分の「読み」に自信がないんでしょうねぇ(^^;) )まずは、学者の間で共通見解になってる所は何なんだろう?という「普通の読み方」的なものを理解しておかないと、何だか自分の中で安心してその思想に向き合えないというのもあるんじゃないかとも思っています。
 スタンダードな読み方(っていうのは無いんでしょうが)との差がどれくらい開いているかというのがわかると、やっと安心して「いや、自分なりの解釈では、こうだと思います」と言えるようになる、と。
 何しろぼくは学生時代に友達に勧められた古谷実のギャグマンガ『僕といっしょ』と『グリーンヒル』を読んで、全く笑えず、笑うどころか主人公に共感しすぎて「とっても泣けるマンガだった」と完全に「悲劇」としての感想を熱心に述べたら、友人全員から「お前は、ヘンだ。こんなに笑えるギャグマンガなのに」と笑われて「あれ〜?」となった経験もあるので、どうしても気になっちゃうんでしょうね(^^;)

 あと、最近は『美学』という分野に興味を持ってまして、できれば古典のA・G・バウムガルデン『美学』(講談社学術文庫)を読んでおきたいと思っているんですが、これが文庫本で800頁以上もある「辞書サイズ」の学術書で、けっこう難しい。
 しかし、冒頭を読む限りでは書き方が滅茶苦茶ロジカルで面白い。読みたいんですが、これまた時間がかかりそうで悩ましい所です(^^;)

 ……ということで、いつも拙い内容ではありますが、今年も読書感想文や、本やマンガの紹介、映画のレビューなんかを投稿させて頂ければと思いますm(_ _)m
 あと、ホランドさんからお願い頂いたんで、これは本以外の話題なんかも投稿しなきゃならないなぁ、なんて思ってます☆( ´艸`)

 今年は、出来ればもうちょっとこちらに顔を出す機会を増やしたいと思いますよ!

 アレクセイさんも、本年が素敵な一年となりますようお祈り申し上げます。

 どうぞ本年も、よろしくお願いいたします☆彡

2968:2022/01/03(月) 19:39:25
今年は年男で、誕生日が来れば目出度く〈還暦〉!
.

タイトルに記しましたとおり、私も今年で「還暦=60歳」でございます。
昔は「笠井(潔)さんも、60歳かあ〜。デビュー当時の写真のイメージが強いんだけどなあ」とか、一時期、実物に毎年のようにお会いしていた竹本健治さんにしても「竹本さんも還暦かあ。二十歳で作家デビューした『タバコを吸う少年』だったのに、それから40数年とはなあ」なんて思っていましたが、そんな私も「還暦」でございます。いやはや…。

とか申しておりますが、実際のところ、歳をとったことは、それほど嫌ではございません。
もともと、若さを誇るべき、美貌も体力も知能もございませんでしたから、若い頃に夢見たような何者かにはなれなかったものの、本だけは倦まず弛まず読んできましたので、それなりに「ものを考えられる人間」にはなれたと、自分なりに満足はしているからでございます。
つまり、いつまでも、何の取り柄もない若者であるよりは、歳相応の知恵だけはついた現状に、それなりに満足しており、この先、何者にならなくても、本を読みながら好き勝手なことを書きつつ、自宅で孤独死できればいいと思っているのでございます。

無神論者である私の場合、死んだ後のことを心配する必要はなく、孤独死が恥ずかしいという感覚もございません。したがって「終活」なんてものは、生きて動ける時間の無駄遣いでしかなく、商業宣伝に踊らされているだけとしか思えません。人は死んだら、意識は失われ、あとはゴミになるだけ。そして、ゴミが腐敗するのは当たり前のことでしかございません。
無論、腐乱死体の後片付けをしてもらうためのお金くらいは残しておこうと思っておりますが、それも実際のところ、なるようにしかならないでしょう。
ともあれ、少々の蓄えと、図書館並みに溜め込んだ蔵書を売り食いしながら、働かないで何とか10年くらいは「楽隠居」したいなどと、反時代的なことを考えております。

無論、売る本も無くなりお金も無くなれば、「生活保護費をよこせ! 税金をどれだけ払ってきたと思っているんだ、ばっきゃろー!」という勢いで、生活保護を受給するつもりでございます。
と申しますか、生活保護を受給する経験も、一度くらいはしたいと思っているのでございますね。何でも経験してみて悪いことはございませんし、どうせ老い先も短いのなら、そのくらいのことは、まったく、どうってことないからでございます。

ちなみに、この機会に、久しぶりの説明をしておきますと、この掲示板のトップに掲げさせていただいております「画像」は、ショタコンマンガ家の星崎龍さんに描いていただいた線画に、私がお粗末な着色をさせていただいたものでございます。
で、なぜトップに、このような「カワイイ絵」を掲げているのかと申しますと、当初、この「アレクセイに花園」は、園主である私・アレクセイと、二人の美少年助手であるナイルズとホランドの三人の管理による、「耽美系」掲示板、という設定だったからでございます。

しかしながら、いつまでも設定に沿ったことばかり書いているのは窮屈で、半年と保たずに地金が出てしまい、議論をするか、評論を書くか、喧嘩をしているかという、私らしい掲示板になってしまったのでございます。
ですが、せっかく星崎さんに描いていただいたものを、むざむざ下ろすに忍びず、直接言われたことは無いものの、「内容にそぐわない」という真っ当な批判もございましょうが、意地でもトップイラストとして掲げ続けてきた、というわけでございます。

で、このイラストに描かれているのは、中央の「黒衣の美青年」が、当然のことながら私で、両脇がナイルズとホランドの両君でございます。
私に愛想を尽かしてずいぶん昔にこの花園を去ったままのナイルズくんも、よもや、あの「園主様」が、今や還暦とは、という感じでしょう。ですが、まあ、私も昔は、トップイラストのごとき「美青年」だったということで、ご了解いただければと存じます(笑)。


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★ オロカメンさま
> あけましておめでとうございます!

年末に続いて、早速のご挨拶をいただき、誠にありがとうございます。

>  旧年中もたいへんお世話になりました! 昨年もいろいろと学ばせて頂きまして、今年もぜひ仲良くして頂けましたら幸いですm(_ _)m

こちらこそ、どうぞよろしく。

>  これからもどうぞ末永くご健全にこの「花園」を続けて頂ければと思いますよ♪

まあ、20年の継続というのは、なかなかなものだと自負してはおりますが、切りの良いところで50年を目指すというのは、さすがに無理なので、最低でもあと10年。できれば、あと20年を目指して「まだ続いていた電子掲示板」として、ネット史に名を残してから、きっぱりと終わりたいものでございます。

>  さて、ぼくの新年のご挨拶の恒例となってきましたが、去年2021年に読んだ本の読書記録をご紹介したいと思います☆彡

>  ――――――――――――――――――――――――――――――
>   ・2021年に読了した本の冊数(漫画を除く)……100冊
>   ・小説の冊数…………………………………………………29冊
>   ・小説以外の冊数……………………………………………71冊
>  ――――――――――――――――――――――――――――――

>  2019年の読書数は138冊、2020年は105冊読んでいたので、少しずつ読書量が減って行っているような気がしないでもない……(^^;)

>  しかし、小説と小説以外の本の冊数の割合は昨年とほぼ変わっていない感じです。

>  最近はどうも、あまり小説を読む事に若い頃ほどの価値を感じなくなってきているのか、特に昨年の前半あたりなんかは「まったく小説を読む気がしない」という感じでした。

哲学書を読んでいるのですから、冊数が減るのは仕方ございませんよ。
ただ、歳をとって、小説が読めなくなるというのは、ひとつの「老化」ではございますから、お気をつけくださいまし(笑)。

若い時分というのは、小説の「世界」にどっぷりと浸りこむことができるのですが、歳をとってくると、それができなくなってしまいます。ちょうど「年寄りは、眠りが浅い」というのと似ているかもしれませんが、ともあれ「小説読みの快楽」が薄れるというのは間違いございません。そのせいでしょう、「没入」の必要がない「知的」な読み物の方に、どうしても興味が移っていきがちなのでございますが、しかし「文学」というものは、「没入的快楽」だけが目的ではなく、むしろしばしば「知的」な読み方が求められるものですし、そうでなければ味わえない作品というのもございます。ですから、歳をとってからは、そうした「含蓄の深い小説」を読めば良いのだと存じます。
また、そうした「文学」作品は、決して「哲学書」より、易しくも浅くもございません。だからこそ、哲学者は「古典文学」を好んで分析対象にするのでございましょう。本当の意味で「小説をナメてはいかんぜよ」ということなのでございます(古)。

>  小説ならば1日以内に読み終わる事のほうが多いので、小説ばかり読めば1年の「数量」的な読書量は確実に増えるんですけども、「数量」自体に最近あまり意味を感じなくなったってのが大きいでしょうか。

>  ぼくの中では、最近はやはり「読書量」よりも、「読書の中身」のほうを大事に思う傾向が強くなってきましたんで、その質をどう上げるかというほうに気をかけてる感じです。

たしかに「冊数のための読書」では、中身が薄くなってしまいますよね。
それに、その人の読書速度というのは、だいたい決まっていて、早く読もうとして読めるものでも、早く読めるようになるわけでもないようでございますから、あくまでも自分のペースで、良い本を読むことが重要かと存じます。

>  例えば、小説でしたら「どんな内容だったのか忘れてしまった」というのでしたら、再読して改めて楽しむというのも悪くないでしょうが、学術書だったり論文だったりを時間かけて苦労して読んだのに「何が書かれていたか内容を忘れてしまった」っていうのは、さすがに時間がもったいないなァと思うようになったのもあります。

なるほど。
しかし、私の場合は、どんな内容であれ「記憶しようとする」読書は諦めました。もともと記憶力が弱いからでございますが、単なる「暗記」に終わっては意味がない、と考えるからでもございます。

つまり、内容を理解していれば、「そのまま暗記」してはいずとも、「理路」として脳に刻まれており、必要な時に「自分の言葉として」自然にアウトプットできるものでございましょう。したがって、それで読んだ価値はある。
ですから、所謂「思い出せない」といったことは気にせず、理解できたところは残り、そうでないところは自然に消えていくということで構わないのだと考えております。

Amazonレビューなどでも、しばしば「よく読んで、よく暗記しており、それをそのまま書いて、説明できる」人というのがいますが、こういう人の書くものは、たいがい「つまらない」。
そんなことは「Wikipedia」などにだいたい書いてあることであって、その人がわざわざ、大差のないことを暗記して、中途半端な説明文を書く必要などない、と思うのでございます。当たり前の説明的理解なら、今や「ネット上の集合知のハードディスク」に外化されれば、それでいい。

したがって、人間がすべきこと(クリエイティブな行い)として大切なのは、自分なりに理解して、自分なりの思考を深めることであり、不出来なハードディスクになることではない。
思い出せないことは、無理に思い出す必要はなく、そんなことは気にせずに、再読でもいいし、次の本でもいいから、どんどん読めばそれでいいと存じます。
無論、これは「読書ノート」を否定するものではございません。それも、自分を耕すための一つの手法であるからで、ただ「暗記」のためのものではないと考えるからでございます。

>  そのために、本を読んだ後には必ず自分の言葉でその本の内容を要約してしっかりと総括して評価するほうに力を入れるようになりました。
>  これによって「読んで終わり」ではなく、読んだ後に自分の言葉で本の内容を振り返って読んだ内容を自分の中に定着させ、更には後日、細かい内容を忘れてしまっても自分の書いた要約を読む事によって記憶を呼び覚ます事ができる……という効果を狙っています。

ですから、「ノート」を書くというのは「復習」であり、「記憶を定着させる」というのは、実際のところは「十分には理解していなかった部分の理解を補いつつ深める」ということなのだと存じます。
そもそも、あらかじめ頭に入っていないものは「ノート」に書くことはできませんし、記憶していないものは「ノート」を読み返しても「想起」できません。頭のどこかに収まっているからこそ、「ノート」に書かれた部分に刺激されて、記憶が蘇るのでございます。

したがって、オロカメンさまの場合、「記憶」ということを、すべて「短期記憶」的なものとして理解なさっており、「深層記憶」的な「長期記憶」の重要さに、十分気づいておられないのではないかと思われます。

人間にとって大切なのは、インプットしたものを「そのまま」アウトプットすることではございません。それでは、そこに何の価値も発生しておらず、単なる時間と労力の無駄でございましょう。
つまり、人が「学び」において重視すべきなのは「暗記」ではなく「理解」であり、それは「他人のものを、自分のものにしてしまう」ということなのでございます。
そして、それができたのであれば、他人の言葉をそのまま暗記しておくというのは「二度手間」でしかないということになるのでございますね。

>  まあしかし、昨年はその「内容の要約」の作業がけっこう骨の折れるという事に気づきまして、このプロセスを毎回行う事で、「読む時間」のほうが侵食されていってしまっているんじゃなかろうか……って所が、いまの悩ましい所ですねぇ(^^;)

確かにそうでございますねえ。私も、レビュー書きが習慣になっており、それに相当の時間を取られ、その分、読める冊数は減っております。しかし、だからと言って「書くこと」が無駄だとは思っておりません。書くことは「再読以上の再読」だと思っているからでございます。

ともあれ、再読を含めて、1冊1冊に時間をかけるか、それともどんどんと次のものを読んでいくかは、所詮は「好み」の問題であって、どちらが正しいということではないように存じます。
無論、両方できるのが理想ですが、それは物理的に無理でございますから、結局は、自分に合ったやり方を選ぶしかないのだと存じます。

>  昨年アレクセイさんにご指摘頂いた「むしろ大切なのは、その「哲学者を理解する」ことではなく、その哲学者が書いていることと「対決する」ことではないでしょうか」というのは、ぼくもまったく同感なんですよね。
>  しかし、 最近は哲学に関しては「読むからには、中途半端な付き合い方にはしたくないな!」って所にこだわってしまうんですよねぇ。
>  出来ればその思想家が、いったいどういう人生を送って、何に影響を受けて、どういう性格で、どういう仕事をしてきた人で、どんな生活をしていて……といった「人」としての思想家のイメージを持っておきたい。そこから最終的に、その人の思想の本丸となる主著を読んで決着をつけたい、というのがあります。
>  「けっきょく分かんないや」って感じで終わらせたくないので、毎回入門書やら解説書やらを大量に読んでるわけです。

それぞれの対象を「軽くひと撫で」するだけでは納得できないので、もっと「総合的に把握したい」というのは、とてもよくわかります。
しかしながら、結局のところ、それをするには、100冊読めば良いのか、1000冊は読まなくてはいけないのか、1000冊どころか、そもそも本を読むだけではダメなのか、といったことになり、どこまで行っても「完全な理解」というのは不可能、ということになりましょう。
ということは、元から「完全な理解はない」ということを大前提として、どういうところをどの程度学びたいのかということにしか、原理的には、なり得ないのではないかと存じます。

例えば、研究対象に生涯を賭けた専門家や研究者という人たちがいますが、その人が書いたものでも、人それぞれなのは、誰もが「自分の視点」から研究対象を「切り取っているから」であり、その意味で、どこまで行っても「一面的」なものであり、「完全」ではあり得ません。

また、その研究者が、研究20年目に書いたものと、研究50年目に書いたものがあった場合、20年目に書いた「旧著」は、無価値なのかといえば、そんなことはございません。これが意味するのは「知識が増えれば、理解が深まる」というわけではない、ということを意味します。
また同様に、昔の研究者の著書と、今の研究者の著書では、今の研究者の著書の方が自明に価値があるとは言えないのも、「知識の蓄積」と「理解の深まり」は、必ずしも合致しないからでございましょう。

このように考えていきますと、物事を「正しく理解する」ためには「より多くの情報を得る」と同時に「より深く吟味する(思考する)」ということの両方が必要なのですが、人間には時間に限りがございますから、どっちを優先するかは、その人の個性や好みの問題、あるいは、おかれた状況に帰するしかございませんでしょう。
つまり、考えるのが得意な人は、少ない資料を深く読み込みことで真相に至ろうとする、一点突破の「哲学者」タイプ。また、それが苦手で、物量作戦が得意なら、とにかく「知識」をたくさん集めて、そこで勝負する「研究者」タイプ、ということになりましょう。そして、すべての人は、この両方の性格を兼ね備えており、その中で、その兼ね合いを考えながら、結局は自分に合ったアプローチをするしかないのであり、決まった「正解」はないのだと存じます。

>  あと、ぼくが誤読するときは、もう全く愚にもつかないアサッテの方向に誤解しているんじゃないかと不安になる事も多いので(自分の「読み」に自信がないんでしょうねぇ(^^;) )まずは、学者の間で共通見解になってる所は何なんだろう?という「普通の読み方」的なものを理解しておかないと、何だか自分の中で安心してその思想に向き合えないというのもあるんじゃないかとも思っています。
>  スタンダードな読み方(っていうのは無いんでしょうが)との差がどれくらい開いているかというのがわかると、やっと安心して「いや、自分なりの解釈では、こうだと思います」と言えるようになる、と。
>  何しろぼくは学生時代に友達に勧められた古谷実のギャグマンガ『僕といっしょ』と『グリーンヒル』を読んで、全く笑えず、笑うどころか主人公に共感しすぎて「とっても泣けるマンガだった」と完全に「悲劇」としての感想を熱心に述べたら、友人全員から「お前は、ヘンだ。こんなに笑えるギャグマンガなのに」と笑われて「あれ〜?」となった経験もあるので、どうしても気になっちゃうんでしょうね(^^;)

ここは、非常に重要なところでございます。

何が重要かと申しますと「人とは違う感想を持ってしまう」というのは「才能」だということでございます。
言い換えれば、教科書どおりの「正解」しか思い浮かばないような人は、そもそも「存在価値が無い」に等しいとも申せましょう。
そこで、問題なのは、オロカメンさまの場合、みんなと違っていることに「自信が持てない」というところなのでございます。

もちろん、単純な「誤読」というのはございます。肝心な部分を読み飛ばしていたために解釈を誤ったとか、そういう場合でございますね。
しかし、ほかの人と同程度に、同じように読んだはずなのに「解釈が違う」というのであれば、それはオロカメンさまの中の「解釈格子」が独特だからであり、これは他人には決して真似のできない「才能」なんだと申せましょう。

しかし、せっかくそんな「才能」を持っていても、みんなと違っていると気づいた途端に「私が間違っていた」と引っ込めてしまえば、それは「間違い」ということで、おしまいになってしまいます。

ですが、「普通じゃない解釈」にも、それなりの「理路」というのは、必ずございます。例えば、狂人には「狂人の論理」がありますように、統合失調症には統合失調症の論理があり、夢には夢の論理がある。つまり、どんなに「奇妙な解釈」にも、それなりの「ユニークな理路」というのは、確実に存在しているのでございます。

ですから、その「ユニークな理路」を、上手に「常識的理路」に翻訳することができれば、それは「あっと驚く、ユニークな解釈」となって、その「非凡」さが際立ち、高く評価されもするのでございます。

ところが、「普通じゃない解釈」を「ありきたりで平凡な解釈」と比べて「間違っていた」と決めつけ、そこでその解釈を捨ててしまえば、その人の目指す解釈は、当然のことながら「ありきたりで平凡な解釈」以外にはあり得ないということになってしまいます。

ですから、オロカメンさまの場合、ご自分の「解釈」が「普通とは違う」と思うのであれば、それは「才能」なのですから、むしろ喜ばなければなりませんし、それがなぜそうなのかを追求して、それを「説明」できるようにならなければ、勿体ないのでございます。

芸術家や哲学者というのは、自分の「感覚」が「普通ではない」と気づけば、大概の場合、喜ぶのではないかと存じます。なぜなら「他の人には見えていないものが、自分には見えている蓋然性が高い」からでございます。
無論、他の人が見えないものが自分には見えている反面、他の人が当たり前に見えているものが見えていない蓋然性も高うはございますが、非凡でなければ「存在価値」がない、芸術家や哲学者は、「当たり前の欠点」よりも「非凡な長所」を求めるのは、むしろ当然のことでございましょう。

例えば「デッサン力はあるけれど、平凡な絵しか描けない」のと「デッサンは歪んでいるけれど、不思議に惹きつけられる絵が描ける」のとでは、後者に価値があるのは言うまでもございません。
また、哲学者にしても、「とても人柄の良い、誰からも愛される常識人だけれど、言うことは陳腐」な人と「人格的に問題はあっても、ときどき常識に縛られない、ユニークな発想を示してみせる」人とでは、どっちが哲学者向きかは、言うまでもありません。

このようなわけで、オロカメンさまが、本当に「普通からズレている」部分をお持ちなのであれば、そこを引っ込めることは、単に「角を矯めて牛を殺す」ことにしかなりません。
だからそうではなく、「どうして自分は、人とは違った、物の見方をしてしまうんだろう」というところを追求すべきで、そこに「正解」を見出した時、初めてオロカメンさまは、欠点も含めて「非凡」になりうるのでございます。

「哲学」を学ぶというのは、そもそも単に「知識をつける」のが目的ではなく、人並み以上に「深く考えられるようになる」ことが目的でしょうから、だとすれば、「人並み」に合わせていてはいけない。
むしろ、人が見向きもしない「変」なものを見つけた時がチャンスであり、そこを深掘りしてこそ「人並みではない」ものが得られ、「人並みでない」ないものになれるのでございます。

ですから、是非とも、その「普通ではない感性」を大事にし、それを研ぎ澄ませて、誰もがその「稀少価値」に気づくように、手を掛けて仕上げてくださいまし。「哲学」の知識というのも、そうしたことのためにあるのでございますから。

>  あと、最近は『美学』という分野に興味を持ってまして、できれば古典のA・G・バウムガルデン『美学』(講談社学術文庫)を読んでおきたいと思っているんですが、これが文庫本で800頁以上もある「辞書サイズ」の学術書で、けっこう難しい。
>  しかし、冒頭を読む限りでは書き方が滅茶苦茶ロジカルで面白い。読みたいんですが、これまた時間がかかりそうで悩ましい所です(^^;)

ああ、それも買ってありますが、すでに積ん読の山に埋もれてしまい、行方不明でござますねえ。
さて、死ぬまでの読む機会があるのやら…。

>  ……ということで、いつも拙い内容ではありますが、今年も読書感想文や、本やマンガの紹介、映画のレビューなんかを投稿させて頂ければと思いますm(_ _)m
>  あと、ホランドさんからお願い頂いたんで、これは本以外の話題なんかも投稿しなきゃならないなぁ、なんて思ってます☆( ´艸`)

期待しておりますので、是非ともよろしくお願いいたします。

>   今年は、出来ればもうちょっとこちらに顔を出す機会を増やしたいと思いますよ!

この「出来れば」と「思います」が、いかにも弱うございますね。
「今年は、もうちょっとこちらに顔を出す機会を増やしますよ!」でお願いいたします(笑)。

>  アレクセイさんも、本年が素敵な一年となりますようお祈り申し上げます。

>  どうぞ本年も、よろしくお願いいたします☆彡

ありがとうございます。
こちらこそ、本年もどうぞよろしくお願いいたします。( ̄▽ ̄)




https://note.com/nenkandokusyojin/

2969:2022/01/12(水) 21:38:50
小松左京〈利権〉を確保せよ!一一書評:『現代思想 2021年10月臨時増刊号 総特集◎小松左京 生誕九〇年/没後一〇年』
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 小松左京〈利権〉を確保せよ!

 書評:『現代思想 2021年10月臨時増刊号 総特集◎小松左京 生誕九〇年/没後一〇年』(青土社)

 初出:2021年12月4日「note記事」

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『(※ 小松左京の自伝的エッセイ集『やぶれかぶれ青春期・大阪万博奮闘記』の)「ニッポン・ 七〇年代前後」(一九七一)(※ の章)では、小松が大阪万博にどのようにして参画することになったか、万博や未来学会にどういう形でかかわっていたかの様子が詳細に描かれる。オリンピックに対する批判的目線を持ちつつ、万博の課題や意義について考えていた姿勢もうかがえ、その冷静な立場のとり方には感服させられる。「お国のため」ではなく「人類のため」に仕事を引き受けたというセリフは、なかなか簡単には言えないものだろう。』(P289、宮本道人「小松左京ブックガイド 最初にして最大のSFプロトタイパー」より)


もしもあなたが、色々と問題(弊害)のあることを知っているオリンピックや万博について、政府から「有識者会議」に参加して「色々、ご意見をいただけませんか、先生」などと言われたら、どうするだろうか?

当然のこと、たんまりと謝礼ももらえれば、肩書き的にも「箔が付く」(その後の人生で、何かとお得)というのがわかっているわけだが、その場合、あなたも『「お国のため」ではなく「人類のため」に仕事を引き受けた』い、くらいのことは、平気で言えるのではないだろうか?

私は、そんな「白々しいこと」は到底言えない(宮武外骨的に)残念な性格なのだが、多くの人は「カネと名誉」のためなら、それくらいのことは平気で言えるだろう。そうではないだろうか?

それなのに、これを『なかなか簡単には言えないものだろう。』などと言って、殊更に小松を持ち上げてみせる「SFプロトタイパー」の宮本道人は、きっと、こういう白々しいセリフを平気で吐ける人なのだろうし、政府からのお誘いには「待ってました!」とばかりにホイホイと応じて、その不相応な謝礼が「国民の血税」から支払われることにも、何の疑問も痛痒も感じない人に違いない。
ちょうど、オリンピック代表選手が、コロナウィルスで何人の(無名の)死者が出ようと、オリンピックは開催してほしいと言って憚らなかったのと同じで、要は、これすべて「利権」やら「既得権益」やらの話なのである。

 ○ ○ ○

本特集号の執筆者を大雑把に分ければ、故・小松左京の「擁護派」と「批判派」に区分できる。

「擁護派」とは、要は、小松左京の「功績」を強調する人たちであり、多くは「日本のSF界」周辺で禄を食んでいる著述家である。その典型が、前記の宮本道人や、SF小説家で「SFプロトタイパー」の一人と言ってよい樋口恭介、あるいは「フェミニズムSF評論家」の小谷真理などである。
一方「批判派」の方は、社会学者や科学史家といった学者で、小松左京を批判しても、仕事上の差し障りなどない人たち。例えば、酒井隆史や塚原東吾などがその代表である。

もちろん、本誌『現代思想』の基本的な立ち位置は、「擁護派」に近い。だが、「擁護」が目的ではなく、小松左京は「(金儲けの)ネタになる」という意味で、「肯定派」と言うべきかもしれない。

周知のとおり『現代思想』誌は「現代思想における知の対象たるテーマや人物」を採り上げて特集を組む評論誌だが、「テーマ」については「批判的特集」を組むことはあっても、「人物」については、おおむね「人気者」を採り上げており、「人物」に関する「批判的な特集」というのは、ほぼ見当たらない。

無論これは、営業上の問題で、例えば「ドナルド・トランプ特集」をやらなかったのは、他誌との差別化のためであって、「ドナルド・トランプ(現象)が、現代思想における、知の検討には値しない」という理由からではないはずである。トランプ元米国大統領についても、考えるべきこと、検討すべきことはあるし、そのテーマで、それなりに読むに値する原稿も集まるだろうけれども、そんな「俗っぽい」特集をやっても、「知のエリート」を自負する読者には「ウケない」と分かっているから、『現代思想』誌は、「知の最前線(流行)」か「文化の最前線(流行)」に関わる、「人気者(流行)」の特集をするのである。

今回の「総特集◎小松左京 生誕九〇年/没後一〇年」も、小松左京の没後10年ということで、代表作『日本沈没』のドラマ化や小松の著作の再刊フェアなどが行われて、出版業界的に話題が盛り上げられるのは既定路線であるから、それに翼賛的に参加したということである。
言うまでもなく、没後10年だからといって、にわかに小松左京の「新たな価値」が見出されるわけもないのだ。

したがって、出版業界、特に小松左京の所属した「SF業界」に属する者は、小松が開拓した「市場」をしぼませることのないように、小松の仕事の価値を称揚し、さらにその「今日的な価値」を語って、その「市場」を受け継ごうとするだろう。SF業界関係者が、小松左京を持ち上げるのは、そういう「打算」があるからで、単純な「ファン」意識や「後輩」意識や「党派」意識などではない。

殊に宮本道人にように、自身の肩書きである「SFプロトタイパー」を、偉大な先達に冠して見せるというのは、要は自身の肩書きに対する「箔付け」に他ならない。
「自分のやっているSFプロトタイピングという仕事は、小松左京が先駆的にやっていたことの今日的な形である」だから「小松が偉大なら、SFプロトタイパーである我々の仕事も偉大である」ということであり、要は、自分たちも小松左京のように、「「政府」や「経済界」筋からお座敷がかかるような有名人になりたい(高い所に登りたい)、ということなのだ。それで、テレビ番組のレギュラーコメンテーターにでもなれれば、なんてことだって頭の片隅にくらいはあるだろう。

だから、宮本道人や、そのお仲間の樋口恭介などは、ことあるごとに「SFプロトタイピングが流行している」とアピールするが、これは「我々は流行の最先端にいる」という、臆面もない「自家宣伝」でしかない(「流行っている」と連呼すると、それに食いついてくる、無定見な馬鹿は少なくないからだ)。
「SFプロトタイピング」というのは、「SF的発想術を援用した、ビジネスにおけるイノベーションの惹起法」であり、要は「ビジネスコンサルティング」の一種で、まんま彼らの「商売=稼業」なのである。

そして、そんな「今を生きる」彼らにとって、小松左京も今や「活用すべき資源」であって、素朴に「尊敬する作家」だとか「先輩」だとかいった話ではない。
星新一や半村良や眉村卓や光瀬龍や筒井康隆なんかがいくら好きで、そうしたSF作家をいくら持ち上げたところで、「没後何十年」かの特集号でも出れば、それに原稿料十数万円くらいの原稿を書かせてもらえることはあっても、「政財界」からお呼びがかかって、たんまり謝礼がもらえることなど、絶対に無い。
その点において「小松左京」は、どんな「日本のSF作家」とも違って、そうした意味での「別格」的資源なのである。

本号の内容を知りたければ、私がここに挙げた5人、小松左京「擁護派」の宮本道人、樋口恭介、小谷真理の3人と、「批判派」である酒井隆史や塚原東吾の文章を読めばいい。
私がここで書いたことが、身も蓋もない「業界的現実」であることを、多くの読者は(嫌でも)認めざるを得ないだろう。

要は、「小松左京ヨイショ派(擁護派=SF的新自由主義者)」と「小松左京がナンボのもんじゃ派(批判派=アナクロ庶民派)」の攻防が、「現代思想」編集部の「両論併記」の中立性アピールとして並んでいるのが、本号なのである。

一一まったく、ウンザリだ。


(2021年12月4日)

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2970:2022/01/12(水) 21:41:33
人恋うる〈小さきもの〉への愛:安野モヨコと庵野秀明 一一書評:安野モヨコ『監督不行届』『オチビサン』
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 人恋うる〈小さきもの〉への愛:安野モヨコと庵野秀明

 書評:安野モヨコ『監督不行届』(祥伝社)『オチビサン』(朝日新聞出版)

 初出:2021年12月6日「note記事」

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言わずと知れた庵野秀明との出会いは、『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビシリーズであった。
当時すでに私は、テレビアニメとも距離を取っていたから、本放映でちゃんと視たわけではない。テレビを点けた時にたまたまやっていた回を、2、3回視ただけだったと思う。
私は、当時すでに読みきれないほど所蔵していた未読の活字本を読むために、シリーズ物のテレビ番組は、ドラマ無論、大好きだったアニメさえ、自主規制して視なかったのだ(だから、劇場用アニメだけは視ていた)。

私がテレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』を通してみたのは、友人から揃いで貸し与えられた「録画ビデオ」によってである。その当時すでに『エヴァ』はブームになっており、再放送くらいはされていたのかもしれない。

当時の私は、「新本格ミステリ」ブーム下、同人誌に評論を書いていた。関東に手塚隆幸という同人誌作りに熱心な男がいて、評論の書けそうな全国のミステリマニアに声をかけて、月に1冊くらいかも知れないほどのハイペースで、『綾辻行人研究』や『竹本健治研究』『清涼院流水研究』『天城一研究』といった「ミステリ作家研究本」、あるいは『御手洗潔研究』『牧場智久研究』『鬼貫警部研究』といった「名探偵研究本」を次から次へと企画し、そのたびに「書いてくれ」「書けないか」と手紙が届いたのである。

しかし、手塚はそれに飽き足らず、アニメや特撮番組なども好きだったせいで、ミステリとは関係のない、そういったジャンルの「研究本」同人誌も企画刊行した。私が協力したものとしては『仮面の忍者赤影研究』などがあったが、そうした企画の一つとして『新世紀エヴァンゲリオン研究』への原稿執筆依頼が来たのである。

だが、その当時の私は、『エヴァ』を通しで視てはいなかったし、まだ「レンタルビデオ」も出ていなかったくらい時期だったので、その旨を記して「書けない」と返事を送ったところ、手塚から「録画ビデオを送るから、それを視て原稿を書いてくれ」という返事が来たので、私もそこまでしてくれるのなら、気になっている作品ではあったし、この機会に視てもいいかと思い、原稿執筆依頼に応諾したのである。

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その当時すでに、庵野秀明は、一部マニアの間では、『王立地球軍 オネアミスの翼』(作画監督)や『ふしぎの海のナディア』(総監督)などの作品で注目された存在であった。

一方、私の方はもともとプラモ趣味もあったから、庵野がアニメ監督としてデビューするずっと前に、大阪・桃谷にあった、ガレージキットやオリジナル工具などを製造販売していた「ゼネラルプロダクツ」(「ガイナックス」の前身)で行われた、自主制作作品「ダイコンフィルム」『八岐之大蛇の逆襲』『愛國戰隊大日本』『快傑のーてんき』、そして、若き庵野秀明が主演した『帰ってきたウルトラマン』などの上映会に足を運んでおり、それが庵野を庵野と意識せずに見た、庵野との「すれ違い」だった。ちなみに、庵野秀明は、私の二つ年上である。

つまり、私はかなり早い時期に庵野秀明の関わった作品に接してはいたのだが、作品名こそ知ってはいても、まだ庵野秀明個人については全く意識しておらず、アニメ雑誌などで『王立地球軍 オネアミスの翼』が大きく取り上げられた頃にも、そのキャラクターデザイン(『エヴァ』の貞本義行)が「いまいち垢抜けしない」という理由で興味を示さなかった。

そもそも『王立地球軍 オネアミスの翼』にしろ『ふしぎの海のナディア』にしろ、その「ウケ方」が、いかにも「オタク」的だったので、私はそこに嫌悪感を感じていた。
そうした作品の評判とは、曰く「この作品は、あれやこれを押さえた作品だ」「あれこれのパロディーだ」といったもので、そんな「マニアックかつ瑣末主義的な知ったかぶり」が大嫌いだったのだ。だから、よけいに作品の方も、食べず嫌いならぬ「見ず嫌い」だったのである。

アニメファンとしての当時の私の自己認識は「ハードな人間ドラマ派」とでも呼べるものだった。
私が一番好きだったアニメ演出家は出崎統であり、アニメーターは杉野昭夫だった。つまり、「虫プロ」出身で「東京ムービー新社」を経て「あんなぷる」を設立した、かの黄金コンビ「出崎統・杉野昭夫ペア」の熱心なファンであり、『あしたのジョー』『あしたのジョー2』『エースをねらえ!』『宝島』『家なき子』といった二人の作品と、杉野がキャラクターデザインと作画監督をつとめた『マルコ・ポーロの冒険』や『ユニコ』『坊ちゃん』といった作品に惚れ込んでいたのだ(ちなみに、私は当時、杉野昭夫のファンクラブ「杉の子会」にも入会していた)。
そして、そんな私だから、「マニアックな瑣末主義的知ったかぶり」が大嫌いだった。私は今も昔も、「力石徹」のストイックさに惚れ込むタイプの人間なのである。

私は今でも、アニメやマンガやプラモが好きだから、世間的には「オタク」ということになるのだろうが、厳密に言えば、私は「オタク」(や「マニア」)ではなく「熱心なファン」であって、瑣末な情報蒐めなどには興味がなかった。情報とは、あくまでも作品をより深く理解するためのものであって、それ自体が目的ではない。無駄に情報を山ほど集めても、そんなものはゴミでしかなく、そんな知識をひけらかすような奴ら(オタク)はバカだと思っていた。また、今も、こうした思いに大差はない(だから「現代思想」オタクなどにも嫌悪感を感じる)。

当時の私の思いを代弁するようなマンガがあった。かの「スタジオぬえ」に属していた頃の、若き細野不二彦が描いた『あどりぶシネ倶楽部』(1986年)という1巻本の作品で、映画作りを志す、大学の映画研究会メンバーの活躍を描いた青春マンガである。
学祭用にクラブでSF映画を撮ることは決まり、主人公が監督に選ばれる。ところが、個性派の揃った部員たちを、うまく束ねることができない。中でも、抜群に絵の上手い男性部員がいて、彼は宇宙空間や惑星など、宇宙船の模型による特撮シーンの背景画を担当したのだが、もともと実写映画のファンではなくアニメオタクだったから、リアルな宇宙空間を描こうとせず、趣味に走ってアニメ的な背景画を描いてしまう。そうしたことに、監督である主人公は頭を悩まされるのだが、そんなある日、その美術担当の部員が自作の背景画の片隅に「バルキリー」描いて、その「遊び心」を自慢をしている。無論、映画本編とは全く関係のない「お遊び」である。主人公側の先輩が、こうした制作に取り組む真摯さに欠けた態度に切れて、このあまり協力的ではなく、自分勝手な男性部員とぶつかってしまう。一一といったような展開だったと記憶している。

細かいところは記憶違いもあるかも知れないが、この自分勝手な男性部員が「関西弁」だったのは、いかにもなことなのでハッキリと記憶しているが、いずれにしろ、私は主人公の方に、完全に感情移入していた。
と言うのも、私が高校2年で漫画部の副部長をしていた頃、部で「文化祭」用に「スライドストーリー」を作ろうと決まったのだが、絵の上手い後輩にかぎって、自分の好きなところだけに好きにこだわって時間をかけ、全然、全体のスケジュールも何にも配慮しない、自分勝手な手合いだったのである。そのため、監督ならずとも実質的なまとめ役兼進行係をだった私は、絵も人一倍枚数をこなせば、ドラマ音声の録音や編集、効果音やBGMとのミキシングなども一手に引き受けなければならず、大変な苦労を強いられる経験をしていたのだ(このへんで『映像研には手を出すな!』には懐かしさを感じる)。

そんなわけで、私は『あどりぶシネ倶楽部』の主人公に感情移入したし、この作品も、主人公の肩を持つ内容となっており、自分勝手な「オタク」は、最後は皆と協力するようになるものの、いったんはギャフンと言わされる、明らかな憎まれ役だった。

そして、私の「一般的なオタク」のイメージも、おおむねこうしたものだった。要は「知識や技量は豊富に持っているが、基本的に視野が狭く、独りよがり」というものだったのである。
そして、そうした「オタク」観を持っていたから、『王立地球軍 オネアミスの翼』や『ふしぎの海のナディア』の盛り上がりについては、実に冷ややかに距離をおいていたその結果、庵野秀明との本格的な出会いは、『新世紀エヴァンゲリオン』にまで持ち越されることになったのである。

もっとも、こんな私であったからこそ、のちに『新世紀エヴァンゲリオン研究』に書いた原稿は、「問題の最終2話」を肯定するものだった。

それまでの「マニアックなドラマ展開」で、『エヴァ』の評判はうなぎ上りに高まっていた。ところが、庵野監督は、そのドラマをぶち投げるような「メタ的オチ」を付けて、ファンの期待を大きく裏切り、その結果、熱心な「オタク的ファン」たちから、可愛さ余って憎さ百倍の、激しいバッシングを受けていたのだ。

一方、「オタク嫌い」で「メタ好き」「批評性好き」の私は、「あのぶち投げ方は痛快だ」と感じていたので、オタクどもがが腹を立ててキレれば切れるほど「ざまあみろ」という感じしかなかったし、庵野がインタビューなどで漏らした「オタクの閉鎖性への嫌悪」には、まったく同感した。

その当時、そもそも自身が「オタク」であったはずの庵野秀明が、どうして「オタク」を嫌悪するようになったのか、などといったことまでは詮索する気もなかったが、私はテレビシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』の最終2話によって、庵野秀明と本格的に出会ったのである。

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したがって、その後の劇場版には「気長に」付き合った。
そして、劇場版が公開されるたびに観ては「たしかに映像的には凄いけれども、作品としては、何かが足りない」という印象が付きまとい、とうてい満点を与える気にはならなかった。最初の劇場版シリーズである『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』全4作については、気に入ったのは、一番最後の、アスカ・ラングレーの「気持ち悪い」だけであった。

だから、劇場版の第2シリーズ全4作には、さほど期待もせず付き合い続け、これも最後の『シン・エヴァンゲリオン劇場版:?』で、この意外にも「ぽかぽかして、収まるところに手堅く収まったような終わり方」だけを評価した。
偉大な作品の最後にしては、ややまとまりすぎの印象もあったが、だが、少なくとも「同じことの繰り返し」を脱して、一つの結末に達したという感じはあったので、「これはこれでよかったのだろう」と納得したのである。

そして、今回だけは、私と世間の評価もおおむね一致したようであった。
たぶん、もう「オタク」的な評価の仕方は、良くも悪くも主流ではなくなっていたのだと思う。庵野秀明が変わったように、すでに、時代の方も変わっていたのであろう。

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そんなわけで、刊行後16年にして、やっと、安野モヨコの『監督不行届』を読む気にもなった。
これまで読まなかったのは、こういう「楽屋裏もの」は、あまり好きではないからである。

しかし、『シン・エヴァンゲリオン劇場版:?』で、庵野が変わったことを確認し、そこに興味を惹かれて、NHKで放送されたドキュメンタリー「さようなら全てのエヴァンゲリオン〜庵野秀明の1214日〜」を視るに及んで、この機会に『監督不行届』も読もうと思ったのだ。

で、『監督不行届』はどうであったか。
感想としては「さもありなん」「なるほど、そんな感じだろうね」という感じで、マンガ本編からは、特に強い印象を受けなかったのだが、印象に残ったのは、本書の「解説」に当たるのだろう、巻末に収録されたインタビュー「庵野監督 カントクくんを語る」での、妻・安野モヨコへの率直な評価と愛情の吐露であった。

『 嫁さんはただのオノロケマンガにならないよう、読者サービスを主体にいつも真摯に考えていましたね。読者が面白いと感じてくれそうな逸話だけ厳選してマンガにしてます。自分もそれにできるだけ協力していた感じです。

 嫁さんは自分を美化できないんですよ。自分達をすごくストイックに描いている。これがいいとこでもあるんですが、弱点でもあるんです。登場人物があまり自己陶酔の世界に行かないと、読者のナルシスな部分を触発しないので、そこのところで本来の面白さが伝わらず、誤解されてしまう感がありますから。』(P141)


『 嫁さんのマンガのすごいところはマンガを現実から避難場所にしていないとこなんですよ。今のマンガは、読者を現実から逃避させて、そこで満足させちゃう装置でしかないものが大半なんです。マニアな人ほど、そっちに入り込みすぎて一体化してしまい、それ以外のものを認めなくなってしまう。嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガなんですね。読んでくれた人が内側にこもるんじゃなくて、外側に出て行動したくなる、そういった力が湧いて来るマンガなんですよ。現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガなんです。嫁さんが本人がそういう生き方をしてるから描けるんでしょうね。『エヴァ』(※ 2005年時点。テレビシリーズと劇場版の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』全4作)で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていたんです。ホント、衝撃でした。
 流行りものをすぐに取り入れる安直なマンガが多い中で、自分のスタイルやオリジナルにこだわって、一人頑張って描き続けている。そんな奥さんはすごいと思います。自分よりも才能があると思うし、物書きとしても尊敬できるからこうして一緒にいられるんだと思います。

 『エヴァ』以降の一時期、脱オタクを意識したことがあります。アニメマンガファンや業界のあまりの閉塞感に嫌気が差してた時です。当時はものすごい自己嫌悪にも包まれましたね。自暴自棄的でした。
 結婚してもそんな自分はもう変わらないだろうと思っていました。けど、最近は少し変化していると感じます。脱オタクとしてそのコアな部分が薄れていくのではなく、非オタク的な要素がプラスされていった感じです。オタクであってオタクではない。今までの自分にはなかった新たな感覚ですね。いや、面白い世界です。
 これはもう、全て嫁さんのおかげですね。
 ありがたいです。

 嫁さんは巷ではすごく気丈な女性というイメージが大きいと思いますが、本当のウチの嫁さんは、ものすごく繊細で脆く弱い女性なんですよ。つらい過去の呪縛と常に向き合わなきゃいけないし、家族を養わなきゃいけない現実から逃げ出す事も出来なかった。ゆえに「強さ」という鎧を心の表層にまとめなければならなかっただけなんです。心の中心では、孤独感や疎外感と戦いながら、毎日ギリギリのところで精神のバランスを取っていると感じます。だからこそ、自分の持てる仕事以外の時間は全て嫁さんに費やしたい。そのために結婚もしたし、全力で守りたいですね、この先ずっとです。』(P142〜143)


あの庵野秀明にここまで言わせるというのは、相当なものなのだが、それでも『監督不行届』だけ読んだ印象では、安野モヨコがそこまで凄い作家という印象もない。内容が内容だけに表現が抑制されているとしても、庵野がここまで言うほどのものとは思わなかったのだが、しかし、私は安野モヨコの作品をろくに読んでいないから、そのあたりで安野モヨコの凄さがわかっていないだけかもしれない、とここまで考えたときに、そう言えば、昔、好きで安野モヨコの『オチビサン』を読んでいたというのを思い出した。
たしか、当時の既刊は全部読んで、年1冊の新刊待ちしている間に遠ざかってしまった作品だ。今でも、かなり気に入っていた「可愛いマンガ」という印象だけはあり、まただからこそ、それ以外の「女性向けマンガ」作品には見向きもしなかったのだが、私は『オチビサン』のどこに、あれほど惹かれていたのだろうと思い、この機会に再読しようと、ひとまず第3巻までを入手したのである。

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『オチビサン』は『『朝日新聞』に2007年4月から2014年3月まで連載され、2014年4月から2019年12月まで『AERA』(朝日新聞出版)に移籍して連載された。単行本は全10巻。』(Wikipedia「オチビサン」)の、カラー1ページもののマンガである。

登場人物は、主人公の「オチビサン」は、「鎌倉のどこかにある豆粒町」で一人暮らししている(たぶん)少年。いつも、赤白の横縞のシャツに黒パンツ、白いぼんぼんのついた赤白横縞のニット帽をかぶっている。
主な登場人物(?)は、同じ町内に住む、黒犬の「ナゼニ」。彼は、物事に興味を持って、それを本で律儀に調べるのが趣味の、本好きの真面目な犬。
もう一人(?)は、茶色のモフモフ犬「パンくい」。名前のとおり、パンが大好物で、いつも食べ物のことばかり考えている、マイペースの犬である。

この3人を中心に、四季折々の生活を面白おかしく描いたのが『オチビサン』という作品だと、いちおうはそう説明できるだろう。
しかし、この作品は決して「楽しい」だけの作品ではない。この作品に通奏低音として流れるのは「人恋しさ」だということを、私は今回の再読で確認することができた。そして、ここに、庵野秀明の言う、

『 嫁さんは巷ではすごく気丈な女性というイメージが大きいと思いますが、本当のウチの嫁さんは、ものすごく繊細で脆く弱い女性なんですよ。つらい過去の呪縛と常に向き合わなきゃいけないし、家族を養わなきゃいけない現実から逃げ出す事も出来なかった。ゆえに「強さ」という鎧を心の表層にまとめなければならなかっただけなんです。心の中心では、孤独感や疎外感と戦いながら、毎日ギリギリのところで精神のバランスを取っていると感じます。』

が、ハッキリと表れていた。

言うなれば、主人公「オチビサン」は、安野モヨコの内面の投影されたキャラクターであり、真面目な「ナゼニ」も、安野モヨコの性格を反映したキャラクターだろう。
一方、マイペースな「パンくい」は、この作品が、庵野秀明との結婚(2002年)後の2007年に始まった作品であることを知るなら、「好きなことしか考えていない」、ある意味傍若無人な「オタク」である庵野秀明を反映したキャラクターだと見ることも、十分に可能だろう。
そして、「オチビサン」と「ナゼニ」だけでは、その「孤独癖」から、ややもすると「しんみり」とした感じになるストーリーに、「パンくい」の、春のお日様のような温かさと陽気さが加わって、救いをもたらすことになるのである。

だから、『オチビサン』を読み返してみて思ったのは「庵野秀明と安野モヨコは、お互いに最高のパートナーを見つけたんだな」ということである。

『オチビサン』を読んでいてわかるのは、「オチビサン」や「ナゼニ」は、お互いに仲の良い友達がいるのに、いつもどこかで「人恋しさ」を抱えて生きている。しかし、それは単なる「寂しさ」ではない。単に、友達を大勢つくって、にぎやかな生活ができれば、それで満足できるようなものではない。

むしろ、「オチビサン」にしろ「ナゼニ」にしろ、「人恋しさ」を感じながらも、「一人でいることの静けさ」の中に、何か「大切なもの」を感じ、それが「大切なもの」だと理解して、そうした「寂しさ」を大事にしているし、「好き」だとまで言っている。

それは、まるで、人は「一人で生まれてきて、一人で死んでいくもの」だということをいつも実感しながら、しかしまた、それは単に「悲しむべきこと」ではなく、人間の生とは、死んでいくことも含めて素晴らしいものだと感じるからこそ、今この瞬間を大切にして、その時その時を精一杯に味わわなければならないのだと考える、そんな「人生観」や「生命観」の反映であり、その実感的基礎のようでもあった。
だから、オチビサンは、一人でいると「人恋しさ」を感じつつも「でも、これも生きているからこその、大切な実感なんだ」とでも思っているようであり、そんなあまりにも真面目で繊細な「生の肯定性」を、彼は生きていたのである。

そして、そんな繊細で真面目な人柄を、安野モヨコという女性に見ているからこそ、庵野秀明は「俺が守ってやりたい」と思ったのであろう。それほど、安野モヨコの中の「オチビサン」は、健気で愛おしい存在だったのである。

一般には、庵野の『自分の持てる仕事以外の時間は全て嫁さんに費やしたい。そのために結婚もしたし、全力で守りたいですね、この先ずっとです。』というキッパリとした宣言は、少々嘘っぽく感じられるかもしれない。しかし、私には、この感情が、とてもよくわかる。
と言うのも、嫌悪すべき対象に向かっては、すべてを振り捨ててでもその嫌悪を示してしまうような、それを隠せないような「過剰な人間」というのは、その「攻撃性」の裏返しとして、自分こそが「守るべき存在」、自分にしか守れないと思える「弱いけれど、純粋で美しい存在」を求めているところがあって、少なくともそのあたりは、私は庵野秀明と似ていると思うからだ(庵野秀明の「師匠」の一人である宮崎駿にも、そうしたところがある)。

だから、私は、そんな庵野秀明は、安野モヨコと結ばれて、本当に幸せになったのだと思うし、その意味で、非常に羨ましい。
一方、「私は一人でも生きていける」と考えるようなタイプの安野モヨコが、庵野秀明という「パンくい」みたいな、ずうずうしい伴侶を得たことは、とても幸福なことだったはずである。安野モヨコのような繊細で遠慮がちな人間には、どんどん愛情を押し付けてくるくらいの存在が必要だったのだろう。だが、そんな人との出会いは、そうそうあるものではないからだ。

安野モヨコと庵野秀明は、良い意味で「巨大な、割れ鍋に綴じ蓋」だった。私は心から、そう羨ましく思うのである。


(2021年12月6日)

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2971:2022/01/12(水) 21:43:01
「小林秀雄の伝統主義」を解説する〈伝統主義者〉一一書評:浜崎洋介『小林秀雄の「人生」論』
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 「小林秀雄の伝統主義」を解説する〈伝統主義者〉

 書評:浜崎洋介『小林秀雄の「人生」論』(NHK出版新書)

 初出:2021年12月9日「note記事」

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「権威者」の解説者には、よくよく注意しなければならない。なぜならそれは、客観的解説のふりをして、じつは自身の考えを権威づけようとするものでしかないことが、少なくないからだ。

そうした場合の「着眼点」としては、どれだけ解説者(論者)の個性が、そこに「正直」に表現されているからである。つまり、一見したところ「公正中立」的に「謙虚」に論じているかのような「体裁」のものは、かえって「怪しい」と考えるべきで、おおよそ「詐欺」の類いとは、そういうものなのである。

実際、本書で論じられている「小林秀雄」という批評家は、きわめて「個性的」な書き手であったというのは、彼の支持者であれ批判者であれ、一致した評価であったし、それは本書の著書とて同じである。
なのに、そんな「小林秀雄」を肯定的に論じている解説者自身が、自分の「個性」を隠して、読者受けの良い「公正中立」的に「謙虚」な姿勢を採っているとしたら、それこそ、その点を怪しんでしかるべきだというのは、理の当然であろう。

だが、多くの読者は、「わかりやすい(「そうそう、そうだ」と感じる)」という点で「自分の考え」が追認されていると感じられるものを、飛びつくようにして是認してしまいがちである。そこでは、「正しい説明だ」というのと「同意見だ」というのが、簡単に同一視されてしまっているのだ。

「大筋においては同意見だったとしても、論者の語り方には、何か引っかかるところがある」といった、文学的「直観」を働かせるような読者は、ほとんどいない。また、だからこそ、多くの「通俗解説者」は、いかにも「公正中立」的かつ「謙虚」に、「わかりやすい」解説をして見せるのである。

だが、この「わかりやすさ」にこそ罠があると、「文学」読者は、そう考える「感性=直観」を持っていなければならない。「文学作品を読む」とは、「パズルを解く」のとは違うのだということを、「文学」作品に向き合うことの中で感じ取るべきなのだ。

以前、現代思想家・國分功一郎の著書『はじめてのスピノザ 自由へのエチカ』を論じて、私は同趣旨の書評「「わかりやすい」という〈陥穽〉」を書いた。
この本のAmazonレビューを読んでもらえば明らかだが、レビュアーの多くが、國分書を高く評価するポイントは「わかりやすい」ということである。つまり、レビュアー自身の思考努力はほとんど必要なく、この本を読めば、スピノザの思想の基本的な部分が「わかった」ように思えるという点において、同書をほとんど手放しに、高く評価しているのである。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n8705e4eb8fd0

そして、こうした点において、浜崎洋介に手になる本書『小林秀雄の「人生」論』の評価も、まったく同じなのだ(同じ肯定的レビュアーもいる)。

本書もまた、小林秀雄の「考え方」をわかりやすく解説するものとして、高く評価することができる良書である。ただし、ここで語られていることが、本当に「小林秀雄の考え方」であるという保証などはない。事実、本書の中で著者の浜崎は「批評対象を通して、自分を語ることが、批評の真髄である」という趣旨の「小林秀雄の考え方」を、肯定的に紹介しているのだ。

だが、そんな「小林秀雄の中に自身を見出す」ことのできる浜崎自身の書き方は、前記のとおり、小林秀雄的ではなく、「公正中立」的に「謙虚」に論じているかのような「体裁」のものなのだ。
だから、私は、本書における「小林秀雄論」を、その大筋において「的確な読解力」だと認めつつも、その「小林秀雄論」を「梃子」にして語られた、見えにくい浜崎自身の考え方のほうは、きわめて怪しいと考えるのである。

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その「怪しい」部分とは、端的に言って、文学、あるいは思考における「伝統」の重要性の強調である。
つまり、小林秀雄の、そして浜崎洋介の「伝統主義」だ。

もっとも、老獪な「伝統主義者」である浜崎は、単純に「小林秀雄が伝統の重要性を語っているから、伝統は重要だ」などというような、幼稚な説明はしない。

小林は「伝統」の重要性を語ったけれども、それは「イデオロギー=様々なる意匠」の一つとしての「伝統主義」ではない。無根拠な「私(主体)」を根底で支えている「選択不可能な事実としての伝統」だ、という具合に語って、マルクス主義をはじめとした、外来の「近代主義」のいろいろを「イデオロギー=様々なる意匠」だとして、日本人には否定しがたい「日本の伝統」である「日本語」を差異化し、それこそが「伝統」であると定立して見せるのである。

これは、いかにも巧みで説得的な論法であり、こうしたことは、メディアにしばしば登場するような、頭の悪い「棒読み伝統主義者」には真似のできないことだ。だが、だからこそ危険であるし、取り扱いに注意すべきものであり、その点で「文学」的に読まれなければならない。「1+1=2」的な読みでは、その「レトリック」によって、簡単に「洗脳」されてしまわざるを得ないだろう、ということなのである。

考えても見て欲しい。本書を読んで、一般的な読者が最終的に「得るもの」、あるいは「与えられるもの」とは何であろう。一一それは、われわれは日本の「伝統」を学び、その「根底」に支えられて「思考」すべきである、といったようなことであろう。
言い換えれば、そこでは、すでに私たちの血肉になって久しい「西欧」や「近代主義」との真剣な対決が、免除免責されている。それは、すでにペンディング(保留・先送り)ですらなく、私たち日本人は、「西欧」や「近代主義」との対決を、実質的に免除されてしまっているのである。だから「楽」なのだ。

だがこれは、小林秀雄の正宗白鳥との「論争」と、その後の小林の正宗白鳥再評価を通して、浜崎自身も否定していることなのだ。
「近代主義=人間主義」を正直に輸入して受け入れた「自然主義文学」者たちは、「舶来好き」の安易な「主義者」だと理解して否定すればよいといった、そんな単純な存在ではない。彼らは、拒絶し得ない「時代の波」としての「西欧」や「近代主義」を、その身をもって受け止め、対決した人々だと評価することもできるからである。
そして、このことは、小林が対決し続けた「マルクス主義」についても言えることなのだ。

したがって、本書の難しいところは「小林秀雄」の解説として語られている「小林秀雄の考え方」と、著者である浜崎洋介の考え方が、必ずしも同一ではないという点であり、それがわかりやすく、正直に表明されていない(隠されている)点であると言えるだろう。

ところが、多くの読者は、そこまで本書を読み込もうとはせず、ただ「字面を追って満足する」に止まっている。
それが著者の狙い(読者コントロール)であったとしても、しかし喩えて言うなら「物語の筋しか追えず、そこに秘められた思想に無頓着な読者」というのは、決して「読める読者」とは呼べないだろう。

言うまでもなく、「文学」というのは、「筋」を追うだけでは、まったく不十分なのだ。
娯楽小説(エンターティンメント)なら、それで良いのかもしれないが、そうした読み方は「文学」的ではない、ということを、私たちは、小林秀雄をはじめとした、優れた批評家に学ぶべきだろう。
テキストに「筋以上のものを読み込む」彼らは、間違いなく「個性的」だし、その個性を隠そうともしない。なぜならば、彼らの「個性」は、「筋以上のもの」としての「真理」に通づるための「鍵=個性」だからである。

そして、私のこの主張(読解)は、決して本書の主張と、矛盾してはいないはずである。

(2021年12月8日)

 ○ ○ ○

https://note.com/nenkandokusyojin/

2972:2022/01/12(水) 21:44:21
「SFマガジン〈幻の絶版本〉特集」中止問題について
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 「SFマガジン〈幻の絶版本〉特集」中止問題について

 初出:2021年12月10日「note記事」

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「殴ったね。(中略)親父にも打たれたことないのに!」
 (矢立肇・富野由悠季『機動戦士ガンダム』より)

「?虚無?へ捧ぐる供物にと/美酒すこし/海に流しぬ/いとすこしを」
 (P・ヴェレリィ、中井英夫『虚無への供物』より)

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「読みたくても高騰していてなかなか読めない幻の絶版本を、読んだことのない人が、タイトルとあらすじと、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集」

これが、SF作家でSFプロトタイパーの樋口恭介が、「SFマガジン」編集部に提案した、特集企画である。

これを読んで、「こんなことをしても問題ないの?」と感じる人は多いだろう。それがまともな感覚だ。
しかし、こんなことを提案した「ビジネス・コンサルタント」でもある樋口自身は無論、樋口に近い作家たちや、「SFマガジン」の編集長らは、この企画案がツイッター上に公開にされて、外部からの批判が巻き起こるまで、これが「非常識」なものだということがわからなかったらしい。
要は、小説家だ、編集者だ、といっても「そのレベルの人間が、大勢いる」ということだ。
ここでも、私がよく引用する、SF作家シオドア・スタージョンの言葉、

『SFの90パーセントはクズである。──ただし、あらゆるものの90パーセントはクズである』

は、当を得ていたと言えるのではないだろうか。

この企画は、「SFマガジン」側からの依頼を受けて、樋口が案出したもののようだ。
「SFマガジン」側が、どうして樋口に、特集アイデアの提案を依頼したのかと言えば、それは樋口の持ち込み企画として実現した「異常論文」特集が当たり、特集号(2021年6月号)が売れただけではなく、それに書き下ろし作品を増補して文庫化した『異常論文』(2021年10月刊)が、短期間で増刷を重ねるヒット商品となったからである。

つまり、「SFマガジン」(早川書房)としては、樋口の「ビジネス・コンサルタント」としてのアイデアマンぶりを高く評価して、「柳の下の2匹目のドジョウ」を狙ったわけなのだが、それが今回は「大炎上」してしまったのである。

 ○ ○ ○

「SFマガジン」が、この企画を中止した、というネットニュースが、本年(2021年)12月6日に流れた。
私も、その2日後の同月8日に、この報道で、今回のトラブルを知ったのだが、ツイッター上での樋口恭介による「企画案の公開」から、それへの「批判」、そして「中止決定」まで経過は、同年12月2日の、その日うちの短時間でのことであったようだ。

「絶版本の中身を勝手に空想 「作品への冒涜」SFマガジン企画に批判、編集部が中止決定」
(2021年12月06日20時08分「J-CASTニュース」)
https://www.j-cast.com/2021/12/06426469.html?p=all

「異常論文」の企画が進められた際もそうであったらしいが、樋口は自身のツイッターアカウントに、こうした自分のアイデアをアップし、友人である作家たち(つまり、将来、その企画に参加して執筆者になるであろう人たち)の意見や提案を受けながら企画を練り上げ、それを執筆予定メンバーまで含めて、かなり具体的な提案として、「SFマガジン」側に示すかたちを採っていたようだ。

これは、樋口恭介自身、自著の『未来は予測するものではなく創造するものである ―― 考える自由を取り戻すための〈SF思考〉』などでも書いていることだが、要は、「小説書き」のように、一人ですべてを作り上げる孤独な作業よりも、仲間とワイワイ言いながら作り上げていく集団作業の方が好きだ、ということもあったようだ。

だが、このように、複数のメンバーが参加していても、その内部からは「今回の企画は不見識だ」というような意見は出なかったようである。
それは無論、『異常論文』がヒットしたので、メンバーたちも「柳の下の2匹目のドジョウ」を狙って盛り上がっていたからだろうし、人というのは(大西巨人が『迷宮』で書いていたとおり)「成功者」には媚びる(し、落ち目になれば、去っていく)ものだからである。
つまり、少々疑問に思っても「樋口恭介が面白いと言っているんだから、何とかなるんだろう。ここで、真面目くさった後ろ向きの意見を言って嫌われても、損だ」という「打算」も働いたのではないだろうか。

しかし、こうした「やりとり」が、樋口を起点とした、ツイッターの個人アカウントによって「公開」で行われたため、樋口恭介の取巻きや信者ではない者からは「それはマズイだろう」という意見が、当然のごとく出たようだ(「出たようだ」というのは、私自身はツイッターアカウントを凍結されており、この半年ほどツイッターを使用していないので、そのあたりの事情は、あまり詳しくないからである)。

だが、こうした「批判的な意見」に対し、当初の樋口の対応は「真摯」とは言いがたいものだったようである。
と言うのも、樋口はこれまで、ツイッター上では「ケンカ(炎上)上等」のスタンスを採っており、自覚的に「焼け太り」を狙っていた、という見方もあったからである。

つまり、批判されたからと言って、そこで「いったん立ち止まって、考えてみる」という「旧来の良識的」姿勢ではなかったようなのだ。
だからこそ、今回のように、本人の予想を超える「炎上」となってしまい、「SFマガジン=早川書房」が「企画を中止した」だけではなく、「謝罪」しなければならないところまで、火の手が広がってしまった。

樋口個人やその仲間が、ネット上で「バトル」を繰り広げるだけなら、それも「話題作りの一環」であり得るくらいのことは、当節の「ビジネス・コンサルタント」である樋口恭介なら、当然、意識してやっていたはずだ。
あまり上品なやり方ではないとは言え、「目立ってナンボ」「儲けてナンボ」の、シビアな「ビジネスの世界」で生きてきた樋口としては、そのくらいの「演出」は当然のことであって、「物書きの品格」の問題だとは考えなかったはずである。
なぜなら、こうした傾向は、樋口個人に止まるものではなく、今や、一種の「成功事例」として、ビジネスモデル化されてすらいるからだ。

例えば、評論家の真鍋厚は「活況を呈するオンラインサロンは新時代の「宗教」になれるか」(『宗教問題』2021年秋季号所掲)で、「オンラインサロン」を次のように紹介している。

『「オンラインサロン」の歴史は浅い。ここ10年ほどで急速に普及してきたインターネットを介した月額制のコミュニティサービスだ。ジャンルは、ビジネスや起業、スキルアップ、美容、ファッション、恋愛など多岐にわたる。代表的なオンラインサロンとしては、西野亮廣エンタメ研究所、PROGRESS(中田敦彦 onlain community)、HIU(堀江貴文イノベーション大学校)などがある。
 オンラインサロンの利用者数は堅調に増加しており、ICT総研によれば、日本国内におけるオンラインサロン利用者の総数は2019年末で25万人、20年末で53万人と1年で倍増しており、今後も成長を続けるとの見方である。利用者数は21年末で74万人、25年末には145万人に達すると予測している。年間の利用総額(会費の年間合計)は20年で74億円、21年で98億円、25年には183億円に達する見込みだ。(「2021年オンラインサロン費用に関する調査)。
 オンラインサロンのプラットフォームを含めて、その市場動向が世間の耳目を集める一方で、コミュニティサービスという形態に特有のトラブルも多い。』(『宗教問題』2021年秋季号、P28〜29)

ビジネスコンサルタントである樋口恭介ならば、この辺りの事情については、当然承知しているだろう。

『 筆者は以前、オンラインサロンが人々を訴求する要素は、主に「コミュニティ」「物語性」「自己啓発」の3つのキーワードに求められると分析した(「オンラインサロンに金を払う人が満たす心の奥底」2020年9月3日付、東洋経済オンライン)。具体的に説明すると、「?選民感?をくすぐる集団への帰属」「魅力的な物語への持続的な参加と貢献」「成長や成功が期待できる役割と任務」と表現できるだろう。』(前同P29)

樋口恭介との関連で、ここで注目すべきは「コミュニティ」と「物語性」という要素であり、それに対応する「選民感」と「魅力的な物語」への「参加と貢献」であろう。

言うまでもなく「SF作家」である樋口恭介は、「ユートピア」や「ディストピア」といった両極のイメージを含めて、「魅力的な(未来の)物語」を提供することを生業としている。
ただし、「SFプロトタイピング」という手法をひっさげた「ビジネスコンサルタント」であり「SFプロトタイパー」を自称する樋口は、単に「小説」を書くだけではなく、「魅力的な物語」というイメージやアイデアを「商品」として売る「コンサルタント業者」でもあり、「SFマガジン」誌への「異常論文」特集という「企画」も、今回「炎上」した「読みたくても高騰していてなかなか読めない幻の絶版本を、読んだことのない人が、タイトルとあらすじと、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集」という「企画」も、この延長線上にある「商品」と見て良いだろう。

そして、こうした流行りの「オンラインコミュニティ」の「選民感」に関わる部分として、真鍋は次のような指摘をしている。

『 現在流行っているいくつかのオンラインサロンに共通する傾向として興味深いのは、実践主義的な色彩を強く打ち出しながらも、リーダーのキャラクターとその「物語性」を重視しているところだ。
 世間との軋轢を抱えるカリスマ的な人物が、新規事業を起こしたり、芸術作品をつくるといった困難な課題に挑戦し、人々は自己の資源を投入して下支えするとともに、コミュニティの一員としてその物語を生きることができる。ここにおいてとりわけ注目すべきなのは、オンラインサロンの主催者に立ちはだかる「外敵の存在」だ。
 これも新宗教の教団にありがちな試練とそっくりである。マスコミだけでなく、ソーシャルメディアでたたかれることが多いカリスマ的な人物は、むしろその苛烈な攻撃が教えの正しさを証明しているように思われるがゆえに、支持者の忠誠心はより強固なものとなり自分たちの正当性を確かなものにする。これはイエス・キリストの時代から連綿と続くお馴染みの構図である。
 毀誉褒貶の激しいオンラインサロンの主催者は、時に勃興期の新教団を率いる若き教祖のように振る舞ったりもするが、そのことに驚くほど無自覚であったりする。彼らは古の伝道という文脈ではなく、双方向性によって評価が常に可視化され、収益に直結するエンターテインメントの観点から理解を深めているのであり、洗練されたビジネスモデルに仕立て上げようとしている。例えば西野亮廣は、オンラインサロンの将来像をどう考えるかと聞かれて、次のように答えている。
「これまでは世間的に知られている人の声が大きかったですが、今後はファンを持っている人が強くなると思います。自分のファンをいかにつくるかという点で、大事なのは物語です。僕のオンラインサロンでも、うまくいこうが失敗しようが、挑戦しているときに会員が増えます。漫画やドラマと一緒で、1回上がって、ピンチや失敗があって下がって、そこから再起する。このN字形を自分の人生でもやらないといけません。完璧な事業計画書を作っても、あまりファンは生まれません。あえて負けやピンチを作ることも大切なんです」(「西野亮廣、知名度よりファン大切 オンラインサロンの秘訣を語る」2019年8月17日付、福井新聞オンライン)
 ここで言及されている「あえて負けや失敗をつくること」は、自作自演でも構わないことを示唆している。リアリティ番組がやらせに満ち満ちていても、少しも人気が衰えないことからもその威力は立証されている。10分ごとにクリフハンガー(盛り上がるシーン)を組み込む海外ドラマのように、真に重要なことは「物語を興ざめさせないこと」なのだ。負けやピンチが計画されたものか判別できないほどの迫真性を持ち、危機感を共有するメンバーが進んで出費や奉仕に努めること、それがエンターテインメントとしての圧倒的な強度を生み出すのである。』(前同P31〜32)

無論、今回の「幻の絶版本」企画の中止が、「やらせ」でないことは明らかだ。
そもそも、西野亮廣の言う『ピンチや失敗』は、西野のように、それに耐え売る「体力」をつけてから、相応に「起こす」べきものであって、それに潰されてしまったのでは、お話にならないからである。
したがって、今回の樋口恭介の失敗は、明らかに樋口の「想定外」あるいは「想定以上」の『ピンチや失敗』だったはずなのだ。

ともあれ、「ビジネス・コンサルタント」である樋口恭介は、ビジネスにおける「成功例」としての西野亮廣パターンに倣い、『たたかれる』教祖を演じるために、自覚的に「迫害してくる外敵」に「応戦」して、「煽って」見せていたのであろう。世間から無視されるよりは、派手に叩かれる方が、目立つことができるからだ。

ただ、そのツイートからも伺えるとおり、見かけによらず、負けん気の強い樋口は、「バトル」においても、あえて「負ける」つもりはなかったのではないだろうか。
別に、ことさら負けなくても、「教祖」が迫害されるだけで「信者」たちは、その逆境にある「選民感(のヒロイズム)」によって結束を強めるだろうし、論戦に勝ったかのような体裁を整えられれば、これまたこれで「信者」たちは、「さすがは、わが教祖」と、誇りに思うことだろう。
そして、事実としてこうした共感的な「ファン」を、ツイッター上での「半自作自演の物語」において生み出し得たからこそ、樋口の「企画」した『異常論文』などという、普通なら、なかなか売れない「前衛文学形式」のアンソロジーが、瞬く間に「3刷」もしてしまったのではないだろうか(昨日時点の、書店頭での確認)。

しかしながら、やはり樋口恭介の場合は、必要な「慎重さ」を欠いていたと言えよう。
樋口は、若くして作家デビューして注目されただけではなく、『異常論文』所収の短編「SF作家の倒し方」で、小川哲が書いていたように、「わが世の春」を誇る「SF界」の、現在の主流たる「大森望グループ」に食い込めたことで、一定の「お座敷」を確保することにも成功していたからである。
つまり、平たく言えば、これまでは「とんとん拍子にうまくいっていたので、つい調子に乗ってしまった」ため、「慎重さ」を欠いてしまったということだ。
またそのために、樋口の目には、西野亮廣のような「成功事例」しか見えていなかったのではないか。

お笑いコンビ「キングコング」のツッコミ役漫才師でもある西野亮廣は、逆に、世間から叩かれながらも『映画 えんとつ町のプペル』という劇場用長編アニメを製作して一定の評価を得るとともに、それ以上に「支持者」を増やすことができた(これは、作品の出来は違っても、片渕須直の監督作品『この世界の片隅に』を、クラウドファンディングを含め、手弁当で支えた多くのファンの心理に近いように思われる)わけだが、同様に、小説家であるはずの樋口恭介は、「異常論文」という「企画」において、規模は小さくても、同様の成功を収めたと言えるのではないだろうか。

だからこそ、あまり好きではないと言う「一人で小説を書くこと」よりも、周囲を巻き込んだ「物語性のあるビジネス」にこそ、魅力と大いなる可能性を見出したというのは、想像に難くないだけではなく、今時の若者の「起業ブーム」を勘案すれば、ごく凡庸な選択だとさえ言える。そもそも、出版社に依存する小説家の稼ぎなど、たかが知れているのだ。

しかし、前述のとおり、樋口恭介は「大きな可能性」に目が眩んで、同時に伏在しているはずの「大きな危険性」に対する配慮が足りなかった。
「大きなビジネス」におけるリスクヘッジの意識が不十分であったために、今回のような「企画中止」だけではなく、「世間的イメージの悪化」、(本人がnoteに、恨み言を書いた)「仲間からの敬遠」、「早川書房からの評価下落」などを、多かれ少なかれを招くことになったのだ。

 ○ ○ ○

樋口亮介が、自らの「ビジネス」において、リスクヘッジの観点から、配慮していてしかるべきこととは、どのようなことだったのか。
端的に言えばそれは、「東京オリンピック2020の開幕式」の演出における、各種のトラブル事例であったろう。

つまり、樋口の「読みたくても高騰していてなかなか読めない幻の絶版本を、読んだことのない人が、タイトルとあらすじと、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集」という「企画」は、自身の著作が不本意にも「絶版」になっている作家や、同様の出版関係者への「当然の配慮」を欠き、その神経を逆撫でしたことにおいて、タレントの渡辺直美に「ブタの仮装をさせる」という「演出」を「面白い」と思って提案した、「東京五輪・パラリンピック開閉会式の演出の統括役」で、この件で辞任に追い込まれた「佐々木宏」と同質なものだと言えるからである。

そして、「絶版本」の著者とその関係者を「愚弄した」に等しい、樋口恭介のこの企画は、ある意味では「敗者(弱者)へのイジメ(追い打ち)」という側面もあるから、その意味では、同じく「東京五輪・パラリンピック開閉会式担当」で、過去の「ユダヤ人大量惨殺ごっこ」漫才問題で解任になった「小林賢太郎」や、同じく過去の「イジメ自慢」で「開幕式の音楽演出担当」を外された「小山田圭吾」などとも、同質だと言えるだろう。
その「違い」と言えば、「SF雑誌の特集」と「オリンピックの開幕式」という、「イベント規模の違い」だけなのである。

今回の「批判」を受けて、樋口恭介は、いったんは次のようなコメントを公表して謝罪をした。

『『SFマガジン』「読みたくても高騰していてなかなか読めない幻の絶版本を、読んだことのない人が、タイトルとあらすじと、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集」ですが、複数の方から不快感を示されています。真摯に受け止めさせていただきます。』(午後0:00 ? 2021年12月2日?Twitter Web App)

『特に、当事者である絶版本の著者の方からの言葉は重く受け止めました。私は加害性に対して無自覚でした。これはひとえに私の未熟さ・認識不足に起因するものです。実在する具体的な個人としての被害者の方への配慮、その存在、その感情に対する想像力が足りておりませんでした。申し訳ありません。』(午後0:00 ? 2021年12月2日?Twitter Web App)

そして、この企画の担当編集者であった、早川書房の塩澤快浩とも相談した上で、「企画の中止」がすぐに決まったので、塩澤も即座に、

『SFマガジンで予定しておりました「読みたくても高騰していてなかなか読めない幻の絶版本を、読んだことのない人が、タイトルとあらすじと、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集」は、企画者の樋口恭介氏とも相談の上、中止を決定いたしました。』(午後0:16 ? 2021年12月2日?Twitter Web App)

『絶版の書籍が生まれている状況に対して、あまりにも無自覚で、配慮が足りませんでした。出版社の人間として、ご不快に思われた方々に深くお詫び申し上げます。大変申し訳ありませんでした。すでに依頼させていただいた作家の方々にもお詫び申し上げます。』(午後0:24 ? 2021年12月2日?Twitter Web App)

と謝罪した。

しかし、この段階で樋口恭介は、自らの企画への「批判」も、「中止」の決定についても、完全には納得はしておらず、かなり不満を持っていたようで、この「謝罪」の後にも続いた自身への「批判」に対し、4日後の12月6日に『謝罪して中止・撤回されたものをいつまでもネチネチと叩くな』と、自らの「note」アカウントに書いて「炎上」に油を注ぎ、その樋口のコメントを受けて、早川書房が再度「謝罪」した上で、樋口との距離を明確にしたことで、結局は、樋口も再度「謝罪」するという、醜態を晒すことになる。


「絶版本企画への批判に「いつまでもネチネチ叩くな」 SF作家「逆ギレnote」に波紋も...版元苦言で結局謝罪」
(2021年12月08日18時27分「J-CASTニュース」)
https://www.j-cast.com/2021/12/08426652.html?p=all


『 SFマガジン「幻の絶版本」特集の中止について (2021/12/07)

 SFマガジンでは、今年6月号の「異常論文特集」の発売後に、前編集長の塩澤快浩から作家の樋口恭介氏に第2弾の特集企画を依頼しました。それに対して樋口氏から、「読みたくても高騰していてなかなか読めない幻の絶版本を、読んだことのない人が、タイトルとあらすじと、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集」という企画案が寄せられ、既存の書籍タイトルから内容を想像する短篇という切り口の面白さから、当特集の内容を塩澤が承認しました。

 12月2日、当特集を予定していることを樋口氏が自身のツイッターアカウントで告知したところ、絶版書籍の著者や読者の方などから不快感が示されました。絶版の書籍が生まれている状況に対して、出版社としてあまりにも無自覚で、配慮が足りなかったと判断、樋口氏と相談のうえ、企画の中止を塩澤の個人アカウントで発表、謝罪いたしました。

 12月7日朝、樋口氏が、弊社の見解とは異なる内容のnoteを、こちらへの事前通告なく公開しました。すぐに塩澤から、特定の方々への加害になりかねない内容の不適当さを指摘した上で、いったん取り下げられないか申し入れましたが、樋口氏には聞き入れられず現在に至っております。(12月8日追記:7日夜に同noteは削除され、樋口氏による謝罪が表明されました)

 今回の特集企画に関して、ご不快に思われたすべての方々に謝罪した弊社の姿勢は、まったく変わっておりません。樋口氏のnoteでの見解はあくまで樋口氏個人のものですが、今回の事態の責任は、ひとえに樋口氏に特集企画を依頼した弊社にあります。note内で樋口氏の批判を受けた大野典宏氏、北村紗衣氏、そして読者の皆様に、深くお詫び申し上げます。大変申し訳ありませんでした。

 早川書房 SFマガジン編集部』
https://www.hayakawa-online.co.jp/new/2021-12-07-180928.html

上の「12月8日追記」の中で補足言及されているのが、樋口恭介による、下の「謝罪」ツイートである。


『頭に血が上っていたこと、ずっと炎上状態で精神的に緊張状態にあったことから、視野狭窄になっていました。少し頭を冷やして考えて直しました。樋口の一連の投稿は、拙速な言動でした。不快に思われた方々、申し訳ありませんでした。謝罪します。もう、いかなるかたちでも言い返すこともしません。』(午後7:30 ? 2021年12月7日?Twitter Web App)

『昨夜は眠れず、一晩深く考え、自分の言動や行動の不適切さについて反芻しておりました。あらためて、今回傷つけてしまった方々、ご迷惑をおかけした方々、不快に思われたすべての方々に対して深くお詫び申し上げます。今回の過ちは、今後の仕事で挽回していくしかないと思いますので、精進いたします』(午前8:29 ? 2021年12月8日?Twitter Web App)

 ○ ○ ○

話は簡単である。
樋口としては、「絶版本の内容を、勝手に想像して語る」という「企画」は、一種の「メタ・フィクション的なお遊び」であり、目くじら立てて批判するようなことではない、と感じられていたのだ。
それに「この企画が成功して、『異常論文』のように話題になれば、そこで扱った絶版本にも光が当たって再刊されるかもしれず、そうなれば誰も損はしないじゃないか。むしろ、感謝してほしいほどだ」くらいのことを考えていたのかもしれない。

しかし、樋口のこの「感覚」は、ほとんど「同人誌」の「ノリ」である。
実際、同人誌でこの企画をやったなら「勝手なことやってるなあ(笑)」という程度で大目にも見られたであろうし、「面白い企画だ」と積極的に評価した(鈍感な)人も、より多くいたことだろう。

だが、言うまでもなく、『SFマガジン』は、同人誌ではない。
同誌は「公刊文芸誌」であり、社会性を持ち、社会的責任を負った「公器」の一つである。

そのことに、「調子に乗った青二才」であった樋口恭介は、まったく気づけなかったのだ。
「オリンピック」と「SFマガジン」では、たしかに規模は違っても、「社会的責任を負う」という点では、まったく同じだということを、完全に忘れてしまっていたのである。

 ○ ○ ○

しかしながら、樋口恭介の「社会意識の希薄さ」は、当然のことながら、今回のトラブルだけに限られた話ではない。

そもそも、最初の謝罪(2021年12月2日)における『真摯に受け止めさせていただきます。』という「定型句」には、「文筆家」としての誠実さが、まったく感じられない。

前記の謝罪ツイートに続く、

『私は私の企画によって誰かを傷つけたいわけではありません。また、その気持ちは本企画に賛同していただいた執筆者や編集者も同様だと思います。本企画が、具体的な個人、実在する固有の人間に対する加害性を帯びているとわかった以上、執筆者や編集者の方々も巻き込むわけにはいかないと考えます。』(午後0:01 ? 2021年12月2日?Twitter Web App)

というツイートに滲んでいるのは、要は「自分の周囲の者には、迷惑をかけられない」から、不本意ながら「謝罪」するのだ、という意識である。

今回の「絶版本を、読みもせずに勝手に語る」といったような、フザケた「企画」が、当該書の著者や関係者を「不快にさせるかもしれない」といったことくらい、小説家や評論家でなくても、他人の指摘や批判を待つまでもなく、普通に気づくことである。

しかし、それが気づけないほど、樋口恭介という男には、そもそも「他人の気持ちに対する想像力」が欠如していた。
また、だからこそ、その点を指摘されても、その「批判」に関して「配慮すべき対象」として想起されるのは、その敵対的な「批判者」と、迷惑をかけてはいけない「自分個人の利害関係者」でしかなく、肝心の「当該書の著者や関係者」ではなかったのだ。

換言すれば、樋口恭介の頭の中にある、ここでの葛藤とは「他者への配慮」という「人倫の問題」ではなく、「ビジネスにおける成功と失敗」であり、所詮は「利害の問題」でしかないのだと言えよう。

だからこそ、出版界における、自身の現在最大の勧進元と言ってよい「早川書房」が、「企画を中止する」と言えば、それに無抵抗で従い、早川書房が「謝罪」すれば、嫌々ながら自分も謝罪をする。
つまりこれは、「傷つけた相手」に謝罪しているのではなく、自身の「勧進元」である早川書房から見放されないよう、打算的に、早川書房の方を向いて「謝罪した」ということに過ぎないのである。

 ○ ○ ○

樋口恭介の言葉で、もう一つ注目すべきは『私は加害性に対して無自覚でした。』という「反省の弁」における、「加害性」である。

樋口は、自らの「加害性」について『無自覚でした。』と言うけれども、これも『真摯に受け止めさせていただきます。』と同様、所詮は、無難にやり過ごすための「定型句」でしかなく、端的に言えば「嘘」である。
なぜならば、自らの好んで「ネットバトル」を繰り広げていたような人物が、自らの「加害性(とその効果)」に、無自覚なはずなどないからである。

実際、私自身も、何十年もネトウヨとバトルを繰り返してきたけれど、自身の「加害性」については、当然意識してきた。と言うか、「加害」するためにネトウヨを批判しているのだから、意識していないはずもなく、事実として私は、何度か「筆で殺す気で書いている。私に批判されたことで、相手が傷ついて自殺しても、それは、望ましいことではなくとも、結局は仕方がないことであり、あらかじめ織り込み済みの、残念な事態でしかない。私は、あとで言い訳がましく、そんなつもりではなかった、みたいな、みっともないことを言うつもりはない」という趣旨のことを書いている。

そんなわけで、当然、「心神喪失」や「心神耗弱」の状態で「バトル」をしているわけではない、『異常論文』を企画できた「正常人」であるはずの樋口恭介が、自らの「加害性」にまったく「無自覚」であったはずもなく、実際に「無自覚」にそんなことをするような人間なのだとしたら、彼には「公的な発言」を辞めてもらうべきであろう。つまり、作家など辞めるべきだ。


このように、私の場合は、当然のことながら、樋口恭介への「加害性」を意識して書いている。
無論、今回だけではない。これまで書いた樋口恭介に関わる幾つかのレビューも(中には褒めたものもあるけれども、批判したものについては)、樋口の「肺腑をえぐる」つもりで書いており、「樋口くんが、これで反省してくれることを信じる」みたいな、甘いことを考えて書いていたわけではない。
「反省すれば良し。しなければしないなりに、痛い目を見させてやる」と、自身の「加害性」を自覚しながら、それでも「批判」をした。なぜなら、それが「物書きの責任の取り方」だからである。

 ○ ○ ○

実際、樋口恭介は、「敗者」や「弱者」に関して、本質的に鈍感であり、「上ばかり見ている」ヒラメ人間なのではないかと思う。
それは、樋口の『未来は予測するものではなく創造するものである ―― 考える自由を取り戻すための〈SF思考〉』についての私のレビュー「コンサルタント〈口調〉が、鼻につく。」(https://note.com/nenkandokusyojin/n/n5ea3a241b04c)で、次のように論じたとおりである。


『さらに言うと、本書の本質的な問題は、本書はビジネスコンサルタントによる「ビジネス書」であって、そこには「文学」性など無いに等しい点だ。
その「語り口」は、いかにも「お客様に成功の夢を売るためのもの」であって、「人間の現実と深く格闘するもの」ではないのだ。

樋口は、本書の中で、「明るい未来を信じている」という趣旨のことを繰り返し語っているが、それは、そういう「タテマエ」に立たないことには、そもそも「ビジネスにおけるイノベーション」の探求なんてことに、限定的な興味を持ち続けることなどできないからだろう。
つまり、「現在の悲惨な現実」については、無視しないまでも、ひとまず脇に置いておいて、ともかく「われわれ」は、そうしたものが無くなる「希望ある未来」を構想しましょうよ、という提案しかなされていないのだ。

そしてそれは、樋口が本書において、すでに伝説的な立志伝中の「起業家」と呼んで良いピーター・ティール(決済サービスを提供するアメリカの巨大企業「PayPal」の創業者)を絶賛しているところにも、よく表れている。

たしかにティールは、偉大な起業家であり、人類の未来を開くための一翼を担っている「成功者」だと言えよう。だが、その影に「多くの犠牲者」が確実に存在する、という事実を忘れてはならない。
そうした犠牲が「人類の未来」のためには「必要だ」と考えるのであれば、犠牲者の存在を無視するのも、それはそれで合理的ではあるけれど、そうした「ホンネ」を隠した上で語られる「キレイゴトのご託宣」には、心底うんざりなのである。』

また、樋口のこの「敗者や弱者への鈍感さ」に発する「加害性」についても、私は、樋口の編んだアンソロジー『異常論文』のレビュー「真説・異常論文」(https://note.com/nenkandokusyojin/n/n31bcee486a23)で、

『本書『異常論文』における、異常なほどに節操のない「馴れ合い」と「身内ぼめ」を、自覚的に破る作品とは、本書の掉尾を飾る、伴名練の短編「解説 一一最後のレナディアン語通訳」と、その後にくる神林長平の本書解説「なぜいま私は解説(これ)を書いているのか」の2本だ。』

として、「読者不在(=読者に対する、客観的な説明責任の放棄)」の、身内同士の「馴れ合い」と「身内ぼめ」を批判した。

その上で、伴名練の短編「解説 一一最後のレナディアン語通訳」の中で批判的に描かれる(作中の)『榊美澄というSF作家は、本アンソロジーの編者である樋口恭介同様に、悪い意味で「レトリック巧者」だったのではないだろうか。』と、少女に対する監禁虐待者である「榊美澄」が、「弱者に対する鈍感さ」において「樋口恭介の似姿」であると婉曲に指摘し、さらに神林長平の解説文の趣旨を敷衍して、次のように書いておいた。

『私の言葉に言い換えれば、小説は「自他に誠実な嘘」でなければならない、「真実を描くための嘘」でなければならない。
自己を偽り、他者を侮って、その小器用な三百代言的口八丁で、読者をたらし込めれば「こちらの勝ちだ」というような「ペテン師的な不誠実さ」では、レトリックに幻惑された「被催眠状態の読者」を生むことはできても、時を経て残るような「優れた小説」は遺し得ない。』

つまり、前記のビジネス書『未来は予測するものではなく創造するものである』や、アンソロジー『異常論文』での樋口の「巻頭言」は、『その小器用な三百代言的口八丁で、読者をたらし込めれば「こちらの勝ちだ」というような「ペテン師的な不誠実さ」』による「悪しきレトリック」に過ぎない、と厳しく批判しておいたのである。

 ○ ○ ○

私の、この批判論文を読めば、樋口はきっと、腹の中で『謝罪して中止・撤回されたものをいつまでもネチネチと叩くな』と思うことだろう。
性格というものは、そう簡単に変わるものではないし、変に「お勉強」ができて頭の良い、そのぶん自尊心の強い人間は、そう簡単に「反省」などできるものではないのである。
まして、樋口は「真摯に受け止める」などと、「心にもないことを、平気で口にできる」人間なのだから、反省などしているはずもないのだ。

だが、私にすれば、この程度(二、三度程度)の批判で、「ネチネチ」などとは言われたくない。
私は、かつて「笠井潔葬送派」を名乗って、笠井を10年以上にも渡って、徹底的かつ執拗に批判してきた人間だからで、そのことは、かつてミステリ界にも関わった大森望だって知っているくらい、斯界では有名な話なのだ。

したがって私は、樋口恭介の今後を見守り、「反省」して「何がどう、どの程度、変わったのか」をチャックするだろう。つまり、口先だけの「反省」では「済まさせない」ということだ。
と言うのも、私は、樋口の、

『今回の過ちは、今後の仕事で挽回していくしかないと思いますので、精進いたします』

という言葉にも、うそ寒さしか感じられず、まるで信用していないからだ。

これではまるで、不祥事を起こして「反省の弁」を述べながら、しかし臆面もなくその「利権的な地位」にしがみつく、最近の例で言えば「東京都議会・木下富美子元議員(無免許ひき逃げ→書類送検→議会欠席→都議会の辞職勧告→都知事による批判的圧力コメント→やっと辞職)」などの、厚顔無恥な「政治家」たちと、まったく同じではないか。

なにが『今回の過ちは、今後の仕事で挽回していくしかないと思いますので、精進いたします』だ。

そんな「不祥事政治家」並みの「紋切り型のニセ謝罪」など、そもそも「物書き」として恥ずかしいと思ってしかるべきであり、仮に「嘘」をつくにしても、作家なら作家らしく、もう少し「曲のある嘘」をつけ、とさえ言いたいほどである。

 ○ ○ ○

ともあれ、この程度の「薄っぺらな人間」の書いたものが、その表面的な華やかさ(レトリック)だけにおいて持て囃されるのが、今の「日本のSF界」の現状だと、そう「真摯にうけとめて」おくべきであろう。
いくら樋口個人に問題があったとは言え、それを見抜く力も、指摘する力も、正す力も無かったのが、作家、編集者、読者を含めた、今の「日本のSF界」だというのも、また事実だからである。

前記の樋口書『未来は予測するものではなく創造するものである』の帯には、

『「ここではないどこか」への想像力を解放せよ。』

との、いかにも「SF」らしい「煽り文句」が刷られている。
無論これは、間違った言葉ではないのだが、SF作家や読者に、是非とも押さえておいていただきたいのは、『「ここではないどこか」への想像力を解放』する前に、「当たり前に、他人の痛みを想像できる人間になれ。」ということである。

樋口も参加した「大森望グループ」の「ネット会議」を書籍化した『世界SF会議』についてのレビューを、私は「SF作家だからといって、何も〈特別〉ではないのだから、もう少し頑張ってほしい。」(https://note.com/nenkandokusyojin/n/n59413a3486b3)と題したが、これは「SF作家だからといって、ことさらに優れた未来ビジョンが示せるみたいなハッタリをかますのなら、そのハッタリに多少は見合った中身を提供しろ」という意味であった。

もちろん、エンタメ作家は「夢を売る」のが「商売」だから、時には「大ボラを吹く」ことも許されるだろう。だが、それは「一人の人間としての、最低限のモラル」は押さえた上でのものでなくてはならない。自分が、外れても責任を問われない「大ボラを吹くことを許された、エリートだ」などという思い違いをしてはならないのだ。

そして、それでも、「人気者」になって「高いところに登った」結果、調子に乗って思い上がった「勘違い」人間になると、今回の樋口恭介のような失敗をしてしまうのである。樋口恭介のような人間を生んでしまうのだ。

人々に向けて撒き散らされ、そして一部の人が染まってしまった「幻想」を打ち砕くには、「調子に乗って思い上がった青二才」あるいは「人の痛みへの想像力を欠いた、〈SFプロトタイパー〉の想像力」などの「皮肉」では、きっとまだまだ足りないであろう。それは、これまで「宗教批判=盲信批判」を行ってきた私の、否応なく理解させられた現実だからだ。

しかし、それでも「宗教批判」は、なされなければならない。
それを「商売」とし「生活の糧」としている人が、現にいるとしても、度を越して、社会に害悪を垂れ流すようなものを黙認してはならない。それが「オリンピック」であれ、たかが「SF」であれだ。


これからも、樋口恭介は批判されるだろう。書くものが変わらなければ、そんなものは「作家の反省」にはならないからだ。
したがって、樋口恭介の書くものが、上っ面の綺麗事ではなく、心の底から出た「弱者への思いやり」を感じさせるものになるまで、下の企画は続くことになるだろう。

「読みたくもないけれど話題沸騰のSFプロトタイパーでSF作家の樋口恭介を、読んだことのない人が、Amazonに出ている著作の内容紹介と、それから読んだことのある人からのぼんやりとした噂話だけで想像しながら書いてみた特集」

もちろん、「反省自戒」を込めて、樋口恭介自身がこの企画を「SFマガジン」に持ち込んでも、当方はパクリだなどと苦情を言い立てることはしないから、安心してほしい。

私が望んでいるのは、「真っ当な作家が、真っ当に評価される読書界」。ただそれだけなのである。


(2021年12月10日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

2973:2022/01/12(水) 21:45:26
本当は、この世界に〈意味〉は存在しない。一一書評:前野隆司『霊魂や脳科学から解明する 人はなぜ「死ぬのが怖い」のか』
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 本当は、この世界に〈意味〉は存在しない。

 書評:前野隆司『霊魂や脳科学から解明する 人はなぜ「死ぬのが怖い」のか』(講談社+α文庫)

 初出:2021年12月13日「note記事」

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少々うさん臭さの漂うタイトルだし、著者の経歴も微妙なので、もしかすると(選書に)失敗かなと思いながら読み始めたのだが、かなり面白かった。

本書巻末の著者紹介は、こんな感じである。

『まえの・たかしー1962年、山口県生まれ。東京工業大学卒。同大学大学院修士課程修了。キャノン株式会社入社。カリフォルニア大学バークレー校客員研究員、ハーバード大学客員教授、慶應義塾大学理工学部教授などを歴任。現在、慶應義塾大学院システムデザイン・マネジメント研究科委員長・教授。博士(工学)。ロボットや脳科学の研究を経て、「人間にかかわるシステムならばすべて対象」「人類にとって必要なものを創造的にデザインする」という方針のもと、理工学から心理学、社会学、哲学まで、分野を横断して研究。幸福学の日本での第一人者として、個人や企業、地域と各フェーズで活躍。著書には、『脳はなぜ「心」を作ったのか 私の謎を解く受動意識仮説』(ちくま文庫)、『幸せのメカニズム 実践・幸福学入門』(講談社現代新書)、『実践 ポジティブ心理学 幸せのサイエンス』(PHP新書)ほか多数。』(※ 本書刊行の2017年現在)

私と同い年である。経歴的には申し分なく立派な人で、高卒の私とは月とスッポンだ。
それでも『人間にかかわるシステムならばすべて対象』というのは私と同じで『理工学から心理学、社会学、哲学まで、分野を横断して研究』というのも、専門性のレベルは違うものの、傾向としてはとても似ている。

しかし『人類にとって必要なものを創造的にデザインする』とか『幸福学』といったところには、私は、どうにもうさん臭さを感じてしまう。
私の場合は「徹底して現実を直視すれば、選ぶべき道は自ずと明らかになる」と考えるので、ことさらに「幸福」になる方法、などといったことは考えない。そういうのは、「宗教」臭くて、いかにもうさん臭いと感じるからだ。

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だが、読み始めてみると、著者の「人間」の捉え方は、徹底して「科学的」であり、その点で、とても共感できたし、学ぶところが多かった。

ことに、「心」に関する著者の捉え方は、徹底的に科学的な見地からする「心とは、幻想(錯覚)である」というもので、その理論の中核をなすのは、人間が「心=魂=私」と考えているものは「進化的に脳が獲得した、効率的記憶装置としてのクオリア(https://ja.wikipedia.org/wiki/クオリア)による、認知情報の編集構成作品としての現実、という幻想を受けたかたちでの、二次的な錯覚だ」というもので、これには、これまであれこれ考えながらも、うまく言語化できなかった部分を補ってもらえたという感動があった。

で、著者のこの理論を正しく理解したい向きには、本書を読んでいただくしかないのだが、ここでは便宜的に、この理論を、不正確ではあれ、ごくごく簡便に説明をしてみよう。

まず、私たちが「現実」と思っている「認識の外部にあるもの(と思っているもの)」は、人間の感覚器官を通して得られた情報を、脳で「クオリア」として構成したものだ。
つまり「赤いもの」の「赤」色とは、それが実際に「赤い」のかどうかは別にして、脳の中で「赤」とされた「色」として「映像化」されて認識される。この時、認識されている「赤い色」が「クオリア」である。
「クオリア」には「色」だけではなく「味」や「音」や「感触」など色々あるが、これらはすべて、脳で構成されて、初めて存在するものであり、いわば脳の中にしか存在しないから「幻想」なのである。「脳の外」にある「それ」とは、違ったものだからだ。

で、こうした「クオリア」は、程度の差はあれ、他の生物にもおおよそあるのだけれど、同じようにあるわけではない。脳の機能が低ければ、「クオリア」の質も低下して、限定的で単純なものにならざるを得ないからだ。
で、問題は、人間の脳が発達して「クオリア」が高度化すると、どうなるかというと、それが精緻な「記憶」として保存され、行動が精緻化されるのである。

ところが、この「クオリア」によって精緻化された「記憶」とは、所詮「認知」や「行動」の後(や先)に構成された「幻想」でしかないのだが、人間はそれを「同時的に作動している意識=心」だと、受動的に錯覚している(幻想としての判断主体)。なぜそのようなことが起きるのかといえば、そのように「誤認」する方が、システムとしては効率的かつ安定的だからである(例えば、人間の視覚には、構造的な盲点があるのに、脳がその部分の情報を補うことで、盲点を消しているのと同じようなことだと言えよう。本来は存在しない情報を、在ると錯覚しているのである)。

つまり、下等生物から人間にいたるまで、「刺激」に反応して、生存のための行動をする、というのは、まったく同じなのだが、人間の場合は、その機能を、進化的に高度化した結果、高度な「記憶」装置を持つようになった。
だが、他の動物にも程度の差こそあれ存在している「記憶」システムを、それが高度であるがゆえに「心=意識」だと効率的に誤認している、というのが、人間の人間たるところで、それこそが本書著者の言う「受動意識仮説」なのだと、そう大筋で考えてもらえばいい。
きっと、著者からすれば「そこは違う」といったところがあるはずだが、私が理解しえたところでは、だいたいこんな感じだったと思っていただければよいだろう。

で、私が面白いと思ったのは、著者の「受動意識仮説」によれば、人間は、「意識=心=私」を持った「特別な生物」ではなく、あくまでも「生物の一種」であり、さらに言えば「よく出来たシステム」の一つであって、要は「ロボット」とも、本質的な違いはない、ということなのである。
言い換えれば、ロボットが、十分に複雑・高性能化すれば、「自意識という幻想」を持つようになるはずだ、と考えることが(論理的には)正しい(つまり、無機物と有機物に、本質的な断絶はない)、と考える点で、私は深く共感したのだ。

 ○ ○ ○

ところが、本書終盤の「幸福学」の部分に入ってくると、やっぱり、基本的に納得できない。

著者は「人間の、生物としての現実を正しく知るならば、死を恐れる必要などなくなり、おのずと死を恐れなくなるはずだ」と主張し、本書の趣旨もそこにある。

著者が延々と「人間は機械である」「意識は幻想である」みたいな科学的説明を行うのも、それは「だから、この世界における生死とは、本当は連続的なサイクルのようなものであり、その意味で、死は特別なものでも終わりでもないのだから、恐れる必要はないのだ」ということを教え、納得してもらいたいからで、ここまでは私も納得できる。
しかし、著者が、そんな「生死観」に立った上での「幸福学」の見地から、(禅に代表される)仏教のような哲学的「宗教」の効能を語り始めると、そこからはまったく納得がいかず、むしろ、それは「主張に一貫性のない、誤魔化しだ」としか思えないのだ。

無論、著者は、宗教の「教義」を信じているわけではなく、「宗教」を「(誤った)こだわりなく生きるテクニック」としてなら利用可能であり、科学的認識とも共存可能だ、と考えているようなのだが、私は、そうは思わない。

所詮「宗教は、フィクションであることを否定するフィクション(幻想でしかない「意味」の存在を認めるフィクション)」でしかないのだから、私の場合は「フィクションと自覚できる、個人的なフィクションに生きよ(無い「意味」を、あるかのように生きよ)」と考えるのだ。
つまり、「宗教」のように「他(自分の外部)に権威を求める」ことをしないで、ただ、自分だけに有効な「(個人的な)フィクション」を、「フィクション(個人的なものであり、普遍的な実在ではない)」と自覚しつつ「自己コントロールのための、自覚的な道具的イメージ(虚構)」として活用せよ、と言いたいのだ。

そして、私の考える「自己コントロールのための、自覚的な道具的イメージ(虚構)」とは、例えば「理想」的な「観念」「信念」「生き方」「偉人的人物(イメージ)」「キャラクター」などといったことになる。
例えば、「人のために汗を流す人間になりたい」とか「仮面ライダーのように生きたい」といったことだ。

「人のために汗を流す人間になりたい」というのは、その人個人の「理想」としての「観念」や「信念」であり「イメージ」であって、それを実行できるか否かは、その人個人に全てがかかっていて、他の誰も保証してくれるものではない。また「仮面ライダーのように生きたい」という「理想」は、「仮面ライダーは実在しない」という前提的認識があった上で「それでも私は、そのように生きたいのだ」という「個人」の意志がすべてであって、他の誰も、その生き方の「成功」を保証してなどくれないものなのだ。しかし、そんなものでも「無いよりはマシ」なのである。

ところが「宗教」というのは、いくら「仏教は、宗教ではなく、哲学である」などと言っても、やはり「既成の権威」として、どこかで「保証」を与えている部分があり、そこが結局は、自らが否定したはずの「虚構=フィクション」でしかないと私は考えるので、本書著者の「科学的ニヒリズム(本当は、善も悪もない。意味もない)」という立場からしても、矛盾していると思えるのである。

つまり、簡単に言えば「死は幻想であるから、恐れる必要はない」と言うのであれば「幸不幸も幻想であるから、恐れる必要なない」というところまでいかなければ、論理的には「矛盾」であり、実のところは「実用的妥協による不徹底」なのだ。

だから、私は「本当は、生死もないし、幸不幸もない。だから、自己責任において、なるべく、美しいと感じられる、生と幸福を虚構して、それを生きるべきだ」と主張するのである。
したがって私は、本書著者の言う、一般性はあっても画一的でしかない「幸福学」もまた、妥協の産物的「無自覚な幻想」だとしか評価できない。

そして、著者と私のこうした「違い」は、たぶん、本書著者には「文学」がなく、私にはそれがあった、ということなのではないかと考えている。


(2021年12月13日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

2974:2022/01/12(水) 21:46:27
〈読書〉は、娯楽か? 一一書評:アラン・ベネット『やんごとなき読者』(白水Uブックス)
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 〈読書〉は、娯楽か?

 書評:アラン・ベネット『やんごとなき読者』(白水Uブックス)

 初出:2021年12月16日「note記事」

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「読書は、娯楽なのか?」という問いに対して、「娯楽である」とか「娯楽ではない」といった回答は、無意味である。なぜなら、「読書には、娯楽の側面もあるが、それがすべてではない」というのが、明らかな事実だからである。

「読書は、娯楽なのか?」という問いを示された時、多くの人は、その「読書」の対象として「小説」を思い浮かべるだろう。なぜなら「小説」には、「娯楽」提供の意図がハッキリと込められているからだ。

しかし「娯楽」と言っても、ピンからキリまであるのは言うまでもない。
つまり、私が言うところの「(娯楽でしかない)駄菓子のような小説」もあれば、読むのに苦労し、理解するのに苦労するけれども、そこに秘められたものを読み取れた時には、目の前でパーッと新しい世界が開けるような「文学作品」もある、ということだ。

そして、「読書」と言えば、何も「小説」だけを指すわけではなく、「哲学」「思想」「歴史」などの人文系、「物理学」「数学」「天文学」といった理数系など、各種の「学術書」や「専門書」がある。
これらは一般に、「娯楽」として読む本ではないけれども、しかし、好きな人なら、これらの本を「娯楽」としても読むし、事実「小説本などとは到底代えがたい魅力的な書物」として楽しむことができる。そして、そんな読者も、一定数は確実に存在する。

だが、「純文学」を含めた各種「専門書」と「娯楽書」との間には、確実に「違い」がある。それは、読者の側に、相応の「能力」が求められるのか否か、だと言えるだろう。

駄菓子なら、誰でも、それなりに美味しく食べられるように作られているけれど、私などのように「舌の訓練」が出来ていない(子供舌の)人間には、その「(複雑微妙で深い)味がわからない」上質な料理というものも確実に在って、その事実は否定できないし、否定する必要もない。人間は万能ではないし、「能力差」というものは厳然として存在するからである。

「読書」でも「食道楽」でもそうだが、人間には「能力差」というものがある。
人間としての「権利」は「平等」でも、「能力」というのは「平等」ではないのだ。

もちろん、「能力」には「先天的なもの」と「後天的なもの」があって、人の努力とは、もっぱら「後天的なもの」についてということになるわけだが、いくら「先天的なもの」を持って生まれてきても、まったく努力しなければ「能力」は伸びず、結果として、何者にもなれない。

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本作『やんごとなき読者』は、エリザベス女王が「読書にハマったら、こうなったかも」というお話である。

日本でもそうだが、世間の注目を浴びながら、しかし、どの方面にも角が立たない存在であることが求められる「ロイヤル・ファミリー」は、あまり「才気煥発」であったり「個性的」であったりしては、政府が困る。「個性的な人」「才気煥発な人」「自己主張をする人」を嫌う国民は、少なくないからだ。
ましてや、「思想」を持ったり「忌憚のない意見表明」などされては困る。こうした人たちは「すべての国民」から愛されるような、「無難な存在」でなければならないのだ。だからこそ、日本だと、天皇や皇位継承者が、大学まで行って研究しているのは、「草花」とか「古典文学」とかいった、「党派性」などないに等しい「無難な研究対象」になってしまう。そうせざるを得ないのである。

本作の中でのエリザベス女王も、当初はそういう「無趣味」な人であった。それは彼女が「女王」として、公務に専念しなければならない人だったからであり、それを宿命づけられた人間だったからである。

しかし、そんな彼女が、ひょんなことから「娯楽としての読書」にとり憑かれてしまう。そして、それまでの「単調で広がりのない生活」に疑問を持つようになる。

無論、だからと言って、女王を辞めてしまうわけにはいかないのだけれど、ただ公務を果たし、責任を果たすだけの生活の中で見てきた「世界」は、あまりにも広がりや深みの欠けたものであったことを、書物は彼女に教えてくれた。
実体験は貴重だが、あまりにも多くの制約がある。だが、読書による頭の中での体験は、自分という一個の人間という小さな枠を軽々と超えて、より広い世界を教えてくれる。そのことを、彼女は知ったのだ。

しかし、周囲は、そんな彼女の「変化」を喜ばない。自分たちの「政治的思惑」の中で無難に動いてくれる「女王様」であることを期待するからだが、一度、読書の喜びを知ってしまった彼女は、もはや元の「ロボット」に戻るわけにはいかなくなり、彼女なりの抵抗を始め、内面の自由を取り戻そうとする「普通の人間」へと、成長していく。

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と言っても、本書は決して堅苦しい作品ではない。

むしろ、読書家の「あるある」が散りばめられており、クスクス笑いながら読める作品である。
例えば、それまでは(日本で言う)「園遊会」などで、そこに集まった「選ばれた人たち」に声をかけるのも「どちらから、いらしたの?」というのが、決まり文句だった。なぜなら、それは誰に対しても使えるし、いちばん無難な話題だからだ。
ところが、本にとり憑かれるようになった女王は、そんな「中身のない会話」が嫌になってきて、「今、どんな本を読んでらっしゃるの?」などと質問しては相手を困惑させたり、周囲の宮殿職員にも同様の質問をして、はかばかしい返事が返ってこないと、オススメ本を貸し与え、さらには数日後に「読んだ?」「どうだった?」などと質問しては、相手を困らせるなんてことを始めたのだ。

けれども、女王は馬鹿ではないから、やがて、そうしたことの無理や限界を理解して、そうしたことはしなくなる。
しかしその一方、彼女は単に「好きな作家の小説」を読むだけではなく、その小説家についての「評伝」や「作家論」も読み、それからそれへと読書の幅を広げ、読書家としての「能力」と「喜び」を深めていく。
最初は、かったるくて仕方がなく、読みながら、つい「さっさと先に進みなさいよ」などとつぶやいてしまった、ヘンリー・ジェイムス晩年の小説についても、その「味」を堪能できる「読み巧者」にまで成長していく。そして、そうした中で、「人間」に対する理解を深め、自立した人間として、成長していくのである。


『「今日は何のご用?」
 サー・クロードが用件を思い出そうとしているあいだに、女王は彼のコートの襟の下にふけが薄く積もり、ネクタイには卵のしみがつき、垂れた大きな耳の穴には垢が溜まっているのに気づいた。昔だったらこのような欠点には気づかなかったはずだが、なぜかいまは目に飛びこんできて、心が揺さぶられ、胸の痛みさえおぼえた。かわいそうに。第二次世界大戦中は激戦地のトブルクでも戦った人なのに。書いておかなければ。
「読書ですよ」
「何ですって」
「陛下は読書を始められたそうで」
「違うわ、サー・クロード。前から読んではいたの。ただ最近になって読む量が増えたのよ」
 いまや女王には彼が来た理由とそれを仕組んだ者の正体が見えてきた。彼女の半生に立ち会ってきたこの老人は、ひたすら気の毒な存在から彼女を迫害する側の一員になった。同情は吹き飛び、女王は落ちつきを取り戻した。
「本を読むのは何も悪いことではありません」
「それを聞いてほっとしたわ」
「やり過ぎが問題なんです。そうすると困ったことになる」
「読書を控えめにした方がいいということ?」
「陛下は実に模範的な生活を送ってこられました。たまたま読書がお気に召しただけでしょう。なんであれ同じように熱中すれば、顰蹙を買うことになったはずです」
「そうかもしれないわね。でも私はこれまで人の顰蹙を買うことなく生きてきたのよ。それはたいして自慢できることでもないような気が時々するの」』(P117~119)


『「私はこれまでに大勢の国家元首に会い、さらには彼らをもてなしてきましたが、中にはとんでもないいかさま師や悪党もいて、夫人も似たようなものでした」少なくともこれには何人かが浮かぬ顔でうなずいた。
「白い手袋をはめた私の手を、血塗られた手に与えたこともあれば、みずから子どもたちを殺戮した男たちと礼儀正しく話を交わしたこともあります。私は汚物と血糊のなかをくぐりぬけてきました。女王に必要不可欠な装備は、腿まである長靴なのではないかとよく思ったものです。
「私はよく常識に富んでいると言われますけど、裏を返せば、それ以外のものはたいして持っていないということで、そのせいでしょうか、歴代の政府の要請に応じて、無分別な、往々にして恥ずべき決定に、消極的ながら関わらざるをえなかったのものです。時おり、自分が体制の香りづけのために、あるいは政策の臭いを飛ばすために送りこまれた香りつきの蝋燭のような気がしたものです一一近頃の君主制は政府支給の脱臭剤にすぎないのではないかしら。
「私は女王であり、イギリス連邦の元首ですが、この五十年のあいだには、そのことに誇りよりも恥を感じざるをえないような出来事が数多くありました。でも」
一一と言って立ち上がる一一「優先順位を忘れてはいけないわね。なにしろ今日はパーティーですから、話を続ける前にまずシャンパンを飲みましょうか。』(P147〜148)


女王は「読書」を通して「私には声がない」(P127)ということに気づいた。

無論、それまでも、彼女には彼女なりの考えがあり、女王論があって、彼女なりに女王の務めを立派に果たし、その中で必要な「声」を発してきた。しかし、その「声」は、彼女の声ではなかった。

彼女は「読書」を通して、いかにそれまでの自分が、何も知らず、何も考えていなかった、空っぽな人間であったかに気付かされたのだ。彼女は、空っぽだからこそ、無理なく「役割としての女王」の「声」を、台本に書かれたセリフのように発してこれたのだ。そして、それを自分の声だと思い違えていたのである。

どうして、多くの人の「声」は、「紋切り型(ありきたり)」であり「無難」なのだろうか。
エリザベス女王の場合は、女王というその「特別な立場」のせいであったと言えようが、しかし、そんな重大な「しばり」など与えられていないはずの「一般大衆」の声だって、実に「紋切り型」に「無難」で「似たり寄ったりの正論」を出るものではないのは、どうしたことか。

ことに、右見て左見て、空気を読んで、それに感染してから、やっと自信を得て発言するといった気味のある日本人(マスクが「顔パンツ」にすらなりかけている日本人)は、それが顕著なのではないだろうか。

例えば、アメリカ人やフランス人のように「俺は俺」「みんながどう言おうと、俺はこう考える」と平気で自己主張することが、なぜ日本人にはできないのだろうか。

また、そんな日本の国民性だからこそ、現在ベストセラーとなっている、鈴木忠平の『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』で描かれた落合博満は、その「オレ流」ゆえに、多くの国民から嫌われたのではなかったか。
同様、戦時中に「戦争反対」「人殺しはしない」と主張した者は、「赤」だ「非国民」だと排斥されたのではなかったか。袋叩きにされ、村八分にされたのではなかったか。

本作の中で女王は、「読書」を通して「自身を耕し、自分を成長させる」ことで「自分の声」を、初めて手にした。これこそが、「単なる娯楽」ではない、「読書」の効用である。

この作品を「読書小説」として「楽しく読む」だけでは、十分な「読書」ではない。
本作には、「痛み」を伴いながらも、しかし「人を開かせる」力が秘められている。一一そこまで読んでこそ、この作品を「読んだ」と言えるだろう。
だが、そんな読者は、決して多くはないはずである。

イエス・キリストは言った。

『求めよ、さらば与えられん。 尋ねよ、さらば見出さん。 門を叩け、さらば開かれん。 すべて求むる者は得、尋ぬる者は見出し、門を叩く者は開かるるなり。』(マタイによる福音書)

一一しかし、人々は、すぐに「娯楽」の中に眠り込んでしまうのである。


(2021年12月16日)

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2975:2022/01/12(水) 21:48:29
セピア色の写真と〈失われしもの〉一一書評:野呂邦暢(著)、岡崎武志ほか(編)『野呂邦暢 古本写真集』
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 セピア色の写真と〈失われしもの〉

 書評:野呂邦暢(著)、岡崎武志、古本屋ツアー・イン・ジャパン(編)『野呂邦暢 古本屋写真集』(ちくま文庫)

 初出:2021年12月19日「note記事」

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野呂邦暢は、1945年に長崎市に生まれた。今では珍しくはないが、作家になったのちも上京することなく、同じく長崎県の諫早市を拠点に活動した地方在住の小説家で、1974年(昭和49年)に、自らの自衛隊経験を基にした作品『草のつるぎ』で芥川賞を受賞している。
野呂は古本屋が好きで、後年には『愛についてのデッサン 佐古啓介の旅』という、ミステリ要素のある『古書店を舞台に人間模様を描く「古本青春小説」』も刊行している。

今回、刊行された『野呂邦暢 古本屋写真集』は、2015年に刊行された単行本の文庫化だが、この元版が500部限定、定価2500円の売り切りであったため、刊行即完売となり、一時は古書価が1万円近くにまで高騰したそうだ。
内容は、野呂の没後に見つかった「古本屋を撮った写真」をメインに、野呂の古本がらみのエッセイを収録し、それに編者らの対談や解説を付したものである。

やはり、本書の圧巻は「古本屋を写した写真」の数々。撮影されたのは1970年代で、野呂が仕事で上京した際、神保町を中心とした東京の古本屋を撮ったものが多い。
編者らも語っているとおり、古本屋好きは多くとも、古本屋の写真を撮っていた古本屋好きというのは、ほとんど聞いたこともないくらい珍しいため、今となっては、野呂の写真は大変に貴重な資料だと言えるだろう。

なにしろ1970年代と言えば、スマホ以前の携帯電話は無論、使い捨ての簡易カメラすらなかった時代(富士フイルムが発売した、レンズ付きフィルム「写ルンです」は、1986年(昭和61年)の販売開始)で、写真を撮るためには、かさ張り、持ち重りのする写真機を持ち歩き、安くはないフィルムを装填して撮影しなければならず、撮ったフィルムも、カメラ屋に現像に出し、印画紙に焼き付けをしてもらわなければならないという面倒な時代だった。
今のように小さなスマホで、何枚でも好きなだけ撮影し、それをモニター上で見て、不必要なものは消去すれば良い、という便利さしか知らない世代には、この説明でも、きっとピンと来ないのではないだろうか。
ともあれ、写真というのは、よほどのマニアでないかぎりはやらない、手間とお金のかかマニアックな趣味だったのである。

しかし、そんなマニアックな人達の多くが撮ったのは、やはり風景と人物であり、後に鉄道列車などを撮る、今で言う「撮り鉄」なんかも出てきたとは言え、趣味で、古本屋の写真を撮る人など、およそいないと言っても過言ではなかったのだ。

だが、そうした希少性やマニアックさを抜きにしても、本書に収録された「古本屋写真」はとても魅力的だ。
「芸術写真」的に素晴らしいということではなく、その色褪せ具合や素人くさいピンぼけ具合まで含めて、あの時代の空気を見事に写し取っている。いや、封じ込めていたのである。

同じ時代の、同じような街頭風景写真でも、それはそれなりにノスタルジックな作品になっていただろうが、普通は誰も撮らない古本屋を撮っている点で、野呂の「古本屋写真」には独特の魅力がある。

無論、それは「古本屋好き」には、特に強く働きかけてくる魔力なのだろうが、「古本屋写真」の独特の魅力とは、古本屋というものが、言うなれば「小さなバベルの図書館」であるという特異性に発するものなのではないだろうか。つまり、写真の中の古本屋は、ただ「本を売っている店」ではないのだ。
そもそも「本」自体が「小宇宙」と呼ぶべきものだが、古本屋の場合、店ごとに品揃えが違い、その棚にはその独自の品揃えで「当時の古本」がずらりと並べられ、共鳴しあっている「階層宇宙」なのである。

したがって、「古本屋」の写真は、おのずとその店内の様子を想像させずにはおかず、その棚を、棚に並んだ本を、想像させずにはおかない。
そして、そのちょっと薄暗い店内の棚の片隅には、今では考えられないような稀覯本が、当たり前のように挿されていたりする。……なんて妄想を、ついついたくましくしてしまうのだ。
つまり「古本屋写真」は、そこには写っていない「奥の奥」までをも、強く想像させるのである。

実のところ、1970年代では、私もまだ子供だったので、古本屋に興味はなかった。むしろ、幼い頃の記憶にあるのは、近所の小さな「貸本屋」の方で、私が古本屋巡りを始めたのは、社会人になってからの1980年代も後半のことでしかない。
そんなわけで、1970年代の古本屋の写真を見て「懐かしい」と感じても、それは実際にそれを知っているから「懐かしい」というわけではないのだろう。たぶん、子供の頃に見た貸本屋と、後年に見た古本屋の記憶を無意識に合成し、それを過去に投影して、一種の既視感にとらわれている、といったことなのではないだろうか。

例えば、野呂の写真を見ていて「この頃の古本屋は、木枠ガラス引き戸の店構えで、中には土間の店もあった」ような気がするのは、昔見た貸本屋や駄菓子屋などの記憶が渾然一体となって、記憶のごときイメージを形成し、それを「懐かしい」と感じているのであろう。実際には見ていない、景色風景としての古本屋であり、そして古本屋の棚である。

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編者二人による対談では「古本屋の時代的な変化」が語られている。

『岡崎 あとは怖い店主のイメージもあるね。昔は通路に本が積んであるお店が多くて、それを触ると「触るな!」と怒られる。店の中にある本を触って怒られるって(笑)。「これ商品じゃないの?」となる。
小山 まだ値がついていない未整理の本ってことですね。独特のルールで一見してわからない。「触っちゃっいけない」「丁寧に扱わないといけない」、だから、普通の商店とちょっと店内のルールが違っている。古本屋の店主は王様、一国の主だった。
岡崎 売れるまでは自分のもの、ということだな。だから昔の古本屋は客をよく怒ったね、買わへんなら帰ってくれと。京都の古本屋で怒られている客を何度も見た。そんなことも知らんのかと説教されて。おいおい、そこまで言うかって。
小山 逆に、最初は怖そうに見えて、本の話をすると店主が乗ってきて、私なんか帰してもらえないをお店もあった(笑)。そういう状況が変わってきて、近年のニューウェーブ系の古本屋が出てきて、いわゆる「ふつう」の商店として機能するようになってきたから、女性の進出も始まるということですね。』(P191〜192)


『岡崎 (略)かつての古本屋とふつうの小売業との間には独自性があった。ブックオフはそれを解放し取り込んだ。
小山 特殊性に馴染めない人の支持を得ましたね。スーパーで「ものを買う」のと同じ。家族でも楽しめる。悪口を言う人も多いけど、ブックオフが果たした功績も大いにあると思います。
岡崎 ただ、ブックオフやファミレスなんかの大型チェーン店が、客を持ち上げ過ぎた気はしている。すべて客の言いなりで受け身でしょう。もし、今の古本屋が客に怒ったら、びっくりするだろうね。物を買ってるのに怒られるって。でも、それも楽しいかもしれない。怒られたこともよく覚えているし、なぜ怒られたのか考える。一軒一軒、その店主の個性と棚、並べ方、売り方が違う。それは図書館や新刊書店ともまた違うんですよ。さっき言った、同じものが店によって違うという値段のゲームもある。だからぼくは古本屋でいろんなことを知ったな。たくさんのことを勉強させてもらった。これまで古本を買って、ほとんどのものは後悔したことはないし、一冊一冊しっかり思い出がある。』(P194〜195)

私も最初は「未整理本」に触るなと注意されたけれど、それでもそれ以降も店主の目を盗んでのチェックはしたし、欲しい本があれば、無理を承知で交渉もした。たいがいは売ってくれないのだが、後日「おたくには、これこれという本はありませんか?」などと素知らぬ顔で電話して、うまくいけば購入することもできた。このあたりが「駆け引き」であり、勉強なのだ。

そもそも、古本屋で怒られる人というのは、本の扱いを知らない、日頃あまり「まともな本」を読まない人が多かったはずだ。
例えば、本の扱いがぞんざいだとか、抜いた本を元の場所に戻さないとか、やたらと棚から本を抜き差しするだけで買わないとか、立ち読みするとか、値引き交渉をする、とかいった人である。

例えば、最後の「値引き交渉」の問題だと、外国ではよく「値引き交渉は当たり前」だというので、その真似をしたがる人が多い。しかし、それは文化の違いを無視した、短絡的模倣でしかない。
特に古本屋の場合、「値付け」は店主の見識を示すものであり、相場より高くつけていれば、それはその本にはそれだけの価値があると、店主が考えているからなのだ。つまり、店主の価値観や思想の反映だと言っても良いだろう。
それを高々数百円くらいのために、ケチな交渉を仕掛けてくるんだから「お前には、この本を買う資格などない。帰れ」となるのは当然なのである。
また逆に言えば、その本に不相応な値段をつけていれば、客の方が心の中で「この店主は、この本の値打ちがわかってないな」と馬鹿にして、安ければ買い、高ければ「いつまでも売れないだろうよ。値下げしたら買ってやるから、せいぜい頑張ってね」と、買わなければいいだけの話なのである。

要は、本の値打ちのわからない素人が、単純に「値段」だけで本を買おうとすることに、古本屋の主人は抵抗していたのである。
そもそも、古本屋というのは「古いから安く売る」という単純な価値観では成立していない業種だったから、「本の中身」や「その本の来歴」といった「中身」には興味がなく、ただただ「商品」として本を見るような客を、古風な古本屋の主人は嫌い、その悪しき「資本主義経済的あるいは新自由主義的な価値観」に抵抗していたとも言えるだろう。

そんなわけで、私には、古本屋の店主に「怒られた」という経験が、ほとんどない。少なくとも、記憶にはまったく無い。
むしろ「話し相手(聞き役)をさせられて、ウンザリした」経験の方が、山ほどあるくらいで、どちらかと言えば、古本屋の主人には可愛がられた方だと思う。

例えば、神戸の元町商店街には「黒木書店」という有名な古本屋があったが、私はそこが有名だとは知らないで、しばしば立ち寄っていた。

『古い話になるが、日本古書通信1990年6月号の「往信 返信」欄に背広・ネクタイ姿の神戸黒木書店 黒木正男氏とラフな格好の東京石神井書林内堀宏氏の御両名が写真入りで登場している。
小生の大学時代の昭和40年代前半には、神戸元町の「黒木書店」には時にお邪魔していたが、10坪もない広さの店に少し気難しい印象を受ける黒木さんが座っていたように記憶している。

  黒木書店が「近代文学」に関する品揃えでは第一級の店であったと知ったのはかなり後の、谷沢永一氏の文等を通じてであり、当時、本に関する基礎知識のない20歳前後の小生(今も知らないことばかりだが)には、同店の凄さは分からなかった。また、もともと小遣いの少ない学生のことで購入できる本もしれてはいたが、時に詩集などを同店で購入していたように思う。
(中略)
この古書通信での対談で両氏の古書店経営に対する真摯で厳しい態度には、古本屋一年生の小生としては、若干の違和感の残る部分もあるが、見習わねばと思う。』(ブログ「古本屋的日常」、2005年8月5日付「神戸元町 黒木書店のことなど」より)(https://furusino.exblog.jp/405826/

たしか、この黒木書店で、客が叱られている現場を見たことがあったと記憶する。怖い店主が多かったとは言っても、客を叱りつけたり説教したりするような豪の者は、そんなに多くはないから、記憶に残っているのだろう。

その時のことだったかどうか、記憶は定かでないが、黒木書店の主人から「本の値打ちが分からない奴には売りたくない」とか「本を買うのにケチってはいけない。自分の頭にはカネをかけるべきだ」といった趣旨の話を聞かせてもらった記憶がある。
「主人の話がとにかく長くて困り、捕まらないようにこっそりと棚をチェックして、逃げるようにして帰った古本屋」というのは、大阪市旭区の千林にあった(今もあるかどうかは知らない)某古書店の若い主人だったから、黒木書店の主人の話が長かったという記憶はなく、ただ頑固なまでに古風な古本屋なのだと、今もどちらかと言えば好意を持って記憶している。

そんなわけで、岡崎武志の語る『ブックオフやファミレスなんかの大型チェーン店が、客を持ち上げすぎた気はしている。すべて客の言いなりで受け身でしょう。』というのは、とてもよくわかる話だ。そんな事情だからこそ今は、「お客様は神様」であると思い込んでいる、「甘やかされた客」が多いのである。

だが、物の売り買いというのは、本来は売り手の買い手の「対等取引」であって、アプリオリに「客が偉い」などということはない。
ただ、客を「おだてて」持ち上げたほうが「売りやすい」ということでしかないのだが、それが分からない、頭の悪い人たちが「買ってやるんだから、客の方が偉いに決まっているだろう」などという、浅はかな「勘違い」をするのである。
売買交渉は「売ってやる人」と「買ってやる人」の交渉。あるいは「売ってくれる人」と「買ってくれる人」の対等取引。また、だからこそ、その駆け引きの中で「学ぶこと」も少なくなかったのである。

話は変わるが、先日の「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」の問題も、言わばこれと同じで、「本を売る」「本を紹介する」というのは、「売れれば良い」というだけのことではない。だからこそ、古風な豊崎は、つい「怒った」のだろうが、今の「客」たちには、そんな説教は通じなかった。

「けんごの紹介から入って、本を読むようになる人も少なくないのだから、頭ごなしに否定すべきではない」といった「今風に物分かりのよい意見」が大勢を占めるが、そんなところから入った読者の多くは、そんなところ止まりになるのが関の山、とまでは言わないが、そうなる蓋然性の方が、はるかに高いだろう。むしろ「その程度で満足するな。おまえなんて、本のことを何も知らないんだから」と言ってくれる「頑固な古本屋の主人」のような言葉を耳にして、自分の立ち位置について「考えた」人の方が、深く「書物の世界」に踏み入っていくのではないだろうか。
例えば「TikTokerけんご」が、この先「売れにくい専門書」を紹介するようなことのできるレベルに成長するだろうか、という話である(ましてや、そのファンが)。

ともあれ、古本屋が変わったように、読書の世界も変わっていくのは必然で、おのずと、その「波に乗り遅れまい」とする者が大半だという現実は、今も昔も変わらないだろう。

そして、そうした中で、若者が「新しいもの」に目を奪われるのは仕方がないし、年寄りが「失われゆく古いもの」を惜しむのも仕方がない傾向だ。
だが、それを「老害」などという「年齢差別」で排除し続けていれば、年寄りの「経験」は活用されることもなく廃棄され、ただ「消費者である若者」に媚びる者だけが、搾取されている当の若者から「感じの良い人」として活躍することになるだろう。

『筆取られぬ老残の身となるとも、口だけは減らないから、ますます悪しくなり行く世の中に、死ぬまでいやなことをいって、くたばるつもりなり』
(1985年10月15日付け日記より・『成城だより3』)

私がしばしば引用する、大岡昇平の言葉だが、ここでのポイントは『いやなこと』を言う、というところだろう。今は、こうした言葉が「商品にならない」からと忌避される時代なのである。

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ともあれ、昔には昔の「美点と難点」があり、今には今の「美点と難点」があるというのは間違いなく、昔をむやみに持ち上げるのも正しくない、というのは確かである。

ただ、セピア色に変色した「昔の写真」のようになった過去は、その難点を洗い落として懐かしまれるその一方で、もう決して取り戻すことはできないのである。


(2021年12月19日)


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2976:2022/01/12(水) 21:52:30
愛嬌のある〈ホラ吹き怪獣〉:R・A・ラファティについて 一一書評:牧眞司編『町かどの穴』『ファニー・フィンガーズ』
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 愛嬌のある〈ホラ吹き怪獣〉:R・A・ラファティについて

 書評:R・A・ラファティ著、牧眞司編「ラファティ・ベスト・コレクション」全2巻:1巻『町かどの穴』、2巻『ファニー・フィンガーズ』(ハヤカワ文庫SF)

 初出:2021年12月20日「note記事」

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初めてラファティを読んだ。もともと、小説はミステリを中心に読んでいたから、読みたいという思いはあっても、SFはあまり読んでいない。内外ともに、個人的な好みに合致するSF作家については集中的に読んでもいるが、SF史的に「当然読んでおくべき作家」の多くについては、まだまだ読めていないのだ。

いくつか読んだ上で「この人は、まったく合わない」とわかって読まないのはいいのだが、試しに読んでみたいと思いながら、その試しがなかなか読めないというのは、「宿題」を抱えているようで、どうにもスッキリしない。
だから、定年の近づいた年齢になって、いろんなジャンルの読み残し作家を読んでいるわけだが、昔ほどではないにしろ、新人の新作だって気にはなるので、なかなか昔の作家の昔の作品は、思うほどには読めないのが実情である。

さて、今回ラファティを読めたのは、ひとえにこの「ベスト・コレクション」のおかげと言えよう。
飛び抜けた代表作がある場合は別にして、まったく読んだことのない作家については、どの本から読み始めるかが重要かつ難しいところだからなのだが、「ベスト・コレクション」なら「ひとまず、これを読んでおけば安心だ」と考えたのである。

ちなみに、なぜこれまでラファティを読まなかったのかと言えば、それは、以前にハヤカワ文庫刊行されていた『九百人のお祖母さん』などの表紙画が、マンガっぽいタッチのものであり、いかにも「ユーモアもの」だという印象を与えたからである。
別に、ユーモアものが悪いわけではないし、気難しい小難しい小説が偉いと思っているわけでないのだが、私の好みは「硬派」な「男性的」作品ということになるので、どうしても「ユーモアもの」は敬遠していたのだ。無限に時間があるのならばともかく、読みたい本の方が無限にあるのだから、原則として、軽いノリのものや女性作家のものは、どうしても後回しにせざるを得なかったのである。
ちなみに、ミステリを読んでいた頃もそうで、私は女性作家のものをほとんど読んでいなかったのだが、例外的に、ほとんど唯一好きになった女性作家は、デビュー当時、その重厚な作風で男性作家と間違えられることの多かった、高村薫だった。

ともあれ、ラファティの場合は、日本語版著書の表紙画から推して、作風が「軽いのではないか」と思えたから、これまでは後回しにしてきたのだが、そのラファティを、なぜ今頃になって読むのかと言えば、それは30年も前、古本友達だった、今はミステリやSFなんかの評論を書いている友人がまだアマチュアだった時代に、ラファティを熱心に読んでいたという記憶があったからだ。
「何を読んでるの?」「ラファティです」「それ面白い?」「ラファティはすごい作家ですよ」といった程度の会話だったが、彼はとにかくたくさん小説を読んでいて、一家言ある人だったから、私も「読まずに、ラファティを軽んじてはいけないな」と、ずっと気になっていたのである。

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さて、今回刊行された「ベストセレクション」2冊に収められた短編39作を読んでの感想だが、牧眞司による解説に、あえて付け加えるほどの、独創的な見解は示せそうにない。まったく「あ〜あ、やんなっちゃった」という感じだが、私の感じたところを率直に書いておこう。

まず、ラファティは、いわゆる普通の「SF作家」ではない。SF的な舞台設定やアイデアが使われる作品が多いとは言え、「科学的」というわけでもなければ、「思弁的」というわけでもない。
いわゆる、物事を「哲学的」に考えるタイプでもなければ、ましてや「リアリスト」などでもなく、「神話的」な世界に魅せられていて、それを表現することのできる「変な」作家であり、言ってしまえば、「この世界」よりは「あちら側の世界」に惹かれ、その間にあって「あちら側の世界」を引っ張ってくる「霊媒」的な作家、とでも言えるかもしれない。

その表現は、深刻さを避けて、あえて陽気な「ホラ吹きぶり」を見せる点で、「ユーモア」作家という印象を読者に与えるのだが、しかし彼は、本当に「陽気な作家」なのだろうか?

私は「違う」と思う。
彼の「陽気さ」には、本来自分のいるべき故郷から流刑にあった人の「寂しさ」が、にじんでいるように思う。彼の小説における、にぎやかさやユーモアの陰には、「こちら側の世界」に順応しきれない者が、酒で酔っ払って、ことさらにぎやかに騒いで見せているような感じが、どことなくするのだ。

もしかすると、彼は「あちら側の世界」に帰りたいのではないだろうか。
だが、帰れないことを知っているからこそ、せめて陽気に騒いで「この世の憂さ」を晴らそうとするし、「ホラ話」めかして「あちら側の世界」って語って見せるのではないだろうか。

だからこそ、彼の作品には、牧眞司も指摘するように、「二重性」があり「可愛らしさ」があり、この二つが重なるところでの「悲劇性」もある。

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ちょっと、突拍子もない喩えになるだろうが、ラファティの作風とは、特撮ドラマ『ウルトラマン』(初代)の第35話「怪獣墓場」(監督:実相寺昭雄、脚本:佐々木守)に登場した、亡霊怪獣シーボーズみたいなところがある。

この回を視たことがある方ならご承知のとおり、シーボーズは「亡霊怪獣」と言われるだけあって、骸骨がむき出しになった、「グロテスク」と評してよい外見を持つ怪獣だ。
しかし、シーボーズは決して、人類に仇なすために地上に現れたのではない。人類が宇宙に向けて発射したロケットが、「怪獣墓場」に漂っていたシーボーズを、誤って連れ帰っただけなのだ。

この「怪獣墓場」の回では、どこへ行っても嫌われ者でしかない怪獣たちの、最後の「安息の場所」が怪獣墓場ではなかったかと語られ、事実、シーボーズも怪獣墓場に帰りたいのだろう、空を見上げては、悲しげに吠えるのである。

このように、シーボーズは外見こそグロテスクなものの、その行動所作は、作中でも語られているとおりで「宇宙の孤児」とも呼ぶべき、寄る辺なく哀れな、まるで「迷子」のような怪獣で、シーボーズが寂しそうにうなだれて歩く姿や、石ころ(?)を蹴ろうとして空振りをし、ひっくり返るというその様子は、明らかに「子供」を意識した「カワイイ」ものだった。

だから、シーボーズが、「怪獣墓場」から心ならずも「地上」につれ来られた「グロテスクだけれども、カワイイ怪獣」であるのと同じように、ラファティの描くキャラクター(のいくつか)も、そしてラファティその人も、「あちら側の世界から、こちら側の世界に、心ならずもつれ来られて怪獣」だと言えるのではないだろうか。

無論、ラファティは「大人」の外見を持っており、だから「酔っ払いのホラ吹きオヤジ」という、あまり一般には歓迎されない外見(イメージ)をまとってはいるが、彼の中にいるのは「一匹のシーボーズ」なのかもしれないと、私はそんな風に感じたのである。


(2021年12月20日)


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2977:2022/01/12(水) 21:55:05
嘘つきによる嘘つき批判を〈偽善〉と言う。 書評:池上彰・佐藤優『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1970』
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 嘘つきによる嘘つき批判を〈偽善〉と言う。

 書評:池上彰・佐藤優『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』(講談社現代新書)

 初出:2021年12月22日「note記事」

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『 被害額285億円で確定 昨年の特殊詐欺、警察庁調べ

警察庁は24日、昨年1年間の特殊詐欺統計の確定値を発表した。被害額は2月公表の暫定値より7億4千万円多い285億2千万円、認知件数は24件多い1万3550件だった。被害額は6年連続で減少した。

摘発件数は51件多い7424件で過去最多となり、摘発者数は37人少ない2621人で確定。警察庁の担当者は「高齢者を中心に被害が多く依然深刻な状況だ。注意喚起を進めるとともに、取り締まりを徹底する」としている。』
(2021年5月24日 20:38、『日本経済新聞』nikkei.com)https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUE248DP0U1A520C2000000/


昔から、ずっとウンザリさせられてきたのは、特殊詐欺の被害者(あるいは、飲酒運転など)がいっこうに減らないという現実が象徴する「愚かな人ほど自信過剰(自分を知らない)」という事実だ。

高齢者が特殊詐欺の被害に遭ってカネを騙しとられたという話を耳にすると、若い人はもとより、すでに高齢に達している人ですら「歳をとって呆けたからだろう」とか「欲の皮を突っ張らせた年寄りが多いんだろう」などと考えがちであり、これはあながち間違いではないと、私も思う。

しかし、呆けていたり、欲の皮を突っ張らせているのは、何も高齢者だけではない。
若くても「呆けた」人などいくらでもいるし、欲の皮を突っ張らせてない人間の方が、むしろ珍しいだろう。

実際、各種のコマーシャル・メッセージによってでっち上げられた「流行」に、手もなく踊らされるような人間が、どうして「呆けていない」などと言えようか。
コロナ禍の最中に、莫大な予算を投入してまで強行された「国際大運動会」に熱中したような愚民が、どうして「呆けていない」などと言えようか。愚民でなくて、どうして、ひとつ間違えれば、自分の親や子供が入院もできないまま死んでいたかも知れない状況に置かれながら、それでも、やれ「卓球だ」、やれ「スケボーだ」、やれ「金メダルがいくつ」だとかいった、持て囃される当事者以外は、何の「儲け」にもならないことに熱中できたのか(愛国心? 笑わせるな)。

一一それは無論、その人が「呆けて」いるからである。きっと、生まれてからこれまで、ずーっと呆けていたのであろう。

したがって、本書によって、まんまと騙される読者が大勢いたとしても、なんの不思議もないことだ。
きっと、その読者は、この程度の本を読んでいる自身を、「思想」なり「歴史」なりに一家言のある「市井の知識人」だとでも勘違いしているのだろう。こういう人たちが大勢いるからこそ、特殊詐欺の被害者も、後から後から供給されて、詐欺犯たちが「カモ」の減少を憂慮する必要もないのだろう。

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『 前著の『真説 日本左翼史 戦後左翼の源流 1945-1960』では、太平洋戦争後の左翼の歴史を扱うのに独特の枠組みを据えた。それは日本社会党と日本共産党の対立と競争を軸に据え、社会党という傘の下で新左翼諸党派が発展してきたという枠組みだ。この枠組みについては、日本共産党を宗教的に信奉する一部の読者を除いて、好意的に受け止められた。』(P3)

これは、佐藤優による本巻「はじめに」の冒頭部分だが、ここで引っかからない読者は「呆けている」と言っても過言ではない。

なぜなら、佐藤はここで『日本共産党を宗教的に信奉する一部』の人たちを「盲信者」として見下しているが、その本人が正真正銘の「キリスト教信者(プロテスタント・カルヴァン派)」なのだから、「目糞鼻糞を笑うなのに、よくも臆面もなく言うよな」と思うのが、まともな(=論理的な)読者だからである。

もちろん、佐藤優が「キリスト教信者(プロテスタント・カルヴァン派)」であることを知らないとか、「キリスト教」のことや、ましてや「プロテスタント」や「カルヴァン派」のことなど、まったく知らない「ウブな読者」だったら、その「無知」の故に、佐藤を「盲信」しても、あるいは仕方がないのかも知れない。
そういう人は、自分が「無知」であることにすら、気づかないほど「呆けた」人だからで、将来の特殊詐欺被害者候補なのである(いや、すでに被害に遭ったことがあるかも知れないし、そのことに気づいていないだけかも知れない。なにしろ、呆けているのだから)。

しかし、佐藤が「キリスト教信者(プロテスタント・カルヴァン派)」であり、元「ロシア担当の外交官」で「インテリジェンス(情報活動)」にたずさわっていた人であると知っていながら、それでも佐藤が『日本共産党を宗教的に信奉する一部』の人たちを「盲信者」呼ばわりすることに、何の引っかかりを覚えない人というのは、「呆ける」以前に、そもそも「知性を欠いている」のであろう。平たく言えば、単なる「馬鹿」なのである。

さらに言えば、佐藤優は「キリスト教信者(プロテスタント・カルヴァン派)」でありながら、「創価学会・公明党」の絶賛提灯本を書いて、印税をがっぽり稼いでいるような、極めて「いい加減で無節操な人間」だし、評論家の佐高信(社民党支持者)が指摘したとおり『2016年3月2日付け『東奥日報』の電気事業連合会の『全面広告』に出て、『エネルギー安全保証の観点から原子力発電の必要性を強調』している。』ような人間である。
一一これはどういうことを意味するのか。

無論、佐藤優は「与党(自民党・公明党)」の側の人間であり、だからこそ、その「原発行政」も応援するし、そのおかげで、がっぽり稼いでいるような人間だ、ということである。
当然「共産党」敵視も、この文脈上のものであり、現在の「自公政権」にとって、馴れ合えないが故に最も面倒な「敵」とは、「共産党」なのだ。

佐藤優とは、要は「節操のない、私利私欲に生きる、権力の幇間(たいこもち)」だということである。

実際、佐藤自身も「歳を取ってきたし、そろそろ保身に走っても悪くはない」という趣旨の本音を漏らしてもいる。

『 50代からは消極的に生きろ 佐藤優さん「人生は逆算」
                  (聞き手・岡崎明子)

 今年、還暦を迎えた作家の佐藤優さん(60)は、50代からは残り時間を逆算し、安易に新しいことには挑戦しない「消極主義」を主張する。人生100年時代。国は「いくつになっても新しいことにチャレンジできる社会を」と、一億総活躍を掲げてきたが、なぜ積極的に動いてはいけないのか。今年、50歳になった記者が聞いた。

新規プロジェクトは片道切符?(※ 見出し)

 一一後半人生を豊かなものにするためにも、様々なことにチャレンジすべきだと思っていたのですが……。

 「50代以降や定年後の生活に向けたメッセージの多くは、『まだ若いんだ、頑張れ』という方向のものです。でも頑張ると、無駄なところへのエネルギーの投入が過剰にされてしまうんですね。これは非常にまずいと思います。今は、頑張れと言われなくても頑張らざるを得ない。体がきく限り、働き続けなければならない状況だと、みなわかっています。そういう状況の中で、現実に近づくためには消極主義が必要なんです」

 一一具体的にはどういうことですか。

 「たとえば、会社などで、これまで全く関わったことがない分野のプロジェクトを任されそうになったら、うまく逃げることです」

  一一抜擢(ばってき)されて、任されたのではないのですか。

 「自分に合っている分野で、業績も伸びているなら別です。でも全く新しいプロジェクトって、会社も成功すると思っていないんです。うまくいかなかった時の責任を取らせる要員として、送られる可能性もありますからね。組織というのは狡猾(こうかつ)です。生き残った人だけを登用し、後は整理すればいいわけで、討ち死にする消耗品として使われる可能性もある。そういうところに自分が送られて、喜ぶな、ということです」

 一一でも断ったら、もっと条件の悪いところに飛ばされるのでは、と考えてしまうのがサラリーマンの性です。

 「自分の力がある程度あれば、適性から著しく乖離(かいり)したところには行かないでしょう。日本の組織というのはピラミッド構造なので、代表取締役や事務次官など、基本的に1人しか幸せにならないつくりになっています。椅子取りゲームから降りざるを得なくなったときに何が起きるかというと、心理学でいう『合理化』、つまりイソップ物語の『酸っぱいブドウ』です。自分はこの物語のキツネのようになっていると、突き放して見ればいいんです」

 一一人間関係はどう考えればいいですか。

 「選択と集中で、仕事関係の人脈は仕事において役立つか、役立たないかで割り切る。有益な人に絞り込むことです」 』
(2020年12月17日 18時00分、朝日新聞デジタル)https://www.asahi.com/articles/ASNDG5DVBNDGULBJ00T.html


佐藤がここで何を言っているのか、お分かりだろうか?

要は「背伸びして無理なんかするな」「直接的な利益をもたらしてくれるやつとだけ付き合って、自分を守れ。何も恥じることはない」という、「保守のススメ」である。

つまり、佐藤は「50歳にもなれば、もう自分の力量はだいたい分かっているはずだから、無理に頑張って今の立場を危うくするようなことをしてはいけない」と、「他人に助言する」風に見せかけて、じつは「守り」に入り始めた自分、これまでの「ご立派な意見」を捨てようとしている自分を、「自己正当化」するための「アリバイ作り」をしているだけなのだ。

だからこそ、これまでは「左右両派」に良い顔をしてきたけれど、これからは無理に「左」につきあう必要はないと考えている。
例えば、沖縄出身者として「普天間基地反対(辺野古沖埋立反対)」を口で唱えるだけならするけれども、「行動」で示して見せろなどと要求してくるような、面倒な「左翼」とつきあわなくてもいい。「昔は昔、今は今」で、若い頃の自身の「放言」になど、いちいち責任など取らなくていいと、そう言いたいのである。

だからこそ、佐藤としては「創価学会・公明党」の絶賛提灯本を書き、印税をがっぽり稼いで「何が悪い」。『電気事業連合会の『全面広告』に出て、『エネルギー安全保証の観点から原子力発電の必要性を強調』して』、がっぽりとカネをもらって「何が悪い」となる。

また、そうした「不都合な事実」をバラした佐高信に対し、言論人として「反論」するのではなく、「名誉毀損罪(事実の告示でも成立)」で「スラップ裁判」を起こして「口封じ」することの「どこが悪い」と、そう言いたいのである。

そもそも、そうした「背教者」でなければ、「キリスト教信者(プロテスタント・カルヴァン派)」たる佐藤が、創価学会の「池田大作SGI会長」を「再偶像化」するための提灯本を、いまさら書いたりなどしないだろう。
旧約聖書に描かれた「モーセの十戒」にある「偶像=偽の神」崇拝の禁止では、自分がそうした「偶像」を崇拝することだけではなく、他人に「偶像」を与えることだって、「罪」になるのは言うまでもないことなのだ。

だが、佐藤のやっていることは「池田大作の再偶像化」なのである。
当然、カルヴァン神学からすれば、こんなことをする佐藤優は、最初から天国へ入れないことが「予定」されていた、ということになるだろう。
佐藤自身も、もはや「神の国」入りを諦めているはずだ。だからこそ、「この世」での安寧に、しがみつくのである。

したがって、ここまで「証拠の揃ったペテン師」である佐藤を、それでも、その「有名性」や「物知りぶり」に感心して「信じてしまう」というのは、その人(読者)が相当「呆けている」からに他ならず、最早そこでは、年齢などは関係はない。その人はきっと、生まれてからずーっと「呆けた人」だったのだ。

 ○ ○ ○

無論、本書で語られている「左翼の歴史」が「事実無根のでっち上げ」だということではない。
「巧妙な嘘」というものは「99パーセントの真実と、1パーセントの嘘」によって出来ているからで、だからこそ、多くの人を騙すこともできるのだ。

だから、「ほとんど真実」を語っていても、それで人を騙すことは容易にできるし、詐欺師はみんな、そうしたことを当たり前にやっている。人を「騙す」のに、「嘘」は少ないに越したことはない。その方が「ボロ=破綻」が出にくいからだ。
そして多くの人は、99パーセントに惑わされ、99パーセントに紛れた「1%の嘘」を、見抜く力など持っていないのである。

例えば「こんな素晴らしい事業があって、目端の利く人はすでに投資をして儲けている。今がその最後のチャンスだ」という投資話があったとして、この投資話が「すべて真実」だとしても、その話を持ち込んできた人が、その事業の関係者を装ったペテン師であったなら、結局のところそれは「詐欺」でしかなくなるのと同じことなのだ。

また、芥川龍之介が「藪の中」で描いたように、「事実」というものは「語り手」の「視点」によって、如何様にも変形するものであり、ある人にとっては「イエス・キリストは神である」のと同様、ある人には「池田(大作)先生は日蓮大聖人の生まれ変わりであり、本仏だ」ということになるし、それぞれの信者たちにとっては、それが「当たり前の真理であり現実」だということになってしまう。

したがって、佐藤優という、明らかに「偏った人」による「偏った左翼史観」も、その信者には「現実」として、「盲信」的にありがたがられることにもなるのだし、「理想主義的で理論的だったはずの左翼が、いつの間にかテロリズムに転じてしまうのは、彼らが、人間とは理屈では割り切れない部分を抱えた存在だという事実を、理解していなかったからだ」(P209)などという「常識的議論」にまで、いまさら感心してしまうのである。

本書が「佐藤優による意図的なバイアス」のかかった、党派的な「左翼」観である、と分かって読むのなら良い。
そして、佐藤の「左翼」理解と対立する、別の立場の「左翼」理解の書を、読み較べるくらいのことをする人なら良いのだが、「呆けた」人たちというのは、そこまで「反省的」ではなく、目の前にぶら下げられた「エサ」に食いついてしまうような、カエル脳しか持っていないというのが、残念ながらおおかたの事実なのだ。

例えば、本書の前巻について、Amazonのカスタマーレビューには、現時点で「222」の評価が与えられいるが、この222人の評価者から「日本共産党の支持者」を除いた、残りの大半の人々の中で、「宮本顕治」や「不破哲三」の著作を読んだことのある者が、いったい何人いるだろうか。

たぶん、一人もいないのではないかと私は思う。

例えば、私自身が創価学会員だった昔、敵視していた「日本共産党」側の本を読んでいる人は、皆無だった。創価学会員は、「宮本顕治」や「不破哲三」の本を読んでいる暇があれば、池田(大作)先生の本を読むのが当然だし、他宗派の「教学書」を読んだことがなくても、創価学会が刊行していた『折伏経典』だけを頼りに「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」などと決めつけて批判することに、何の疑問も持たなかった。
そしてこうした「盲信」による知的怠惰は、創価学会員や共産党員だけではなく、キリスト教徒や、佐藤優信者とて、まったく同様なのだ。

したがって、本書の内容を「鵜呑み」にするような人は、「思想」や「政治」というものを全く理解していない、きわめて「ナイーブ」な人である、と言えるだろう。平たく言えば、「馬鹿」であり、「呆けている」人なのである。

そんなわけで、警察だって『私は詐欺に引っかからない! そんな確証バイアスが最も危険!』(https://moc.style/world/keishicho-yokushi-01/)なんていうメッセージを、長らく繰り返して発し続けているが、それでも「カモ」は、後から後から、引きも切らせず生まれてくる。

こんな、わかりやすく胡散くさい「著者」によって書かれた本の内容を、それでも著者の「有名性」において「鵜呑み」にするような読者は、詐欺被害者の予備軍に違いない。
よって今後も、おまわりさん達にはご苦労をかけるが、頑張ってもらうしかない。

最後に、ついでながら書き添えておくと、佐藤優の「役に立つ友人」である池上彰も、本質的には信用ならない人物と考えるべきだ。「わかりやすければいい」というものではないのである。


(2021年12月22日)

 ○ ○ ○

https://note.com/nenkandokusyojin/

2978:2022/01/12(水) 22:18:41
〈2.0〉は転けたらしい『サルまん』ラシュディ 一一書評:相原コージ、竹熊健太郎『サルでも描けるまんが教室』
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 〈2.0〉は転けたらしい『サルまん』ラシュディ

 書評:相原コージ、竹熊健太郎『サルでも描けるまんが教室』全3巻 (Big spirits comics)

 初出:2021年12月23日「note記事」

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1990年代前半に大ヒットした名作マンガ、通称『サルまん』こと『サルでも描けるまんが教室』である。

なんで今ごろ、こんな「古典的名作」を読んだのかと言えば、(一一最近よく書いていることなのだが)定年間近になったので、新作を読む数を減らして、読み残した名作を少しずつ片付けているためである。

では、なぜ大ヒット当時に本作を読まなかったのかと言えば、当時すでに私は「活字派」になっており、意識的にマンガは読まないようにしていたのと、当時は「新本格ミステリ」の勃興期で、そっちにのめり込んでいたため、マンガにはあまり興味がなかったせいだ。

それでも、アニメの方は見ていたし、「活字」本として、アニメ評論やサブカルチャー論なども読んでいたから、その中で何度も名作『サルまん』の名を目にはしていた。
しかしまた、それでも読む気にならなかったのは、私はマンガであれアニメであれ、小説であれ映画であれ、基本的には「ギャグもの」「喜劇」「お笑い」「ユーモアもの」の類いを、積極的に鑑賞する気がなかったからである。端的に言って私の好みは、「硬派」な「男性的」作品だったのだ。

その上、『サルまん』の場合は、どうにもその「絵柄」が好きではなかった。
幼い頃から絵を描くのが好きで、中学では美術部、高校ではあった漫画部員だった私は、マンガやアニメに関しては「シャープでスッキリした、しかし柔らかさと強さを兼ね備えた描線による、流麗な絵柄」を理想としているから、「デッサンが狂っている(デッサン力がない)」とか「描線にシャープさがなく、線が整理されていない、暑苦しいだけの絵柄」というのが大嫌いなのである(したがって「ヘタウマ」系マンガや、泥臭い「劇画」も、絵柄的には好きではない)。

そうなると、『サルまん』の表紙絵や、作中の「劇画調」の絵柄は、最悪に私の「嫌いなパターン」だった。
まして「下ネタギャグ」など論外で、私は、少年マンガをかたっぱしから読んでいた子供の頃でも、『がきデカ』派ではなく、『マカロニほうれん荘』派であり『ストップ!! ひばりくん!』派だったのである。

そんなわけで、長らく気にはなりながらも、ブックオフで手に取っては、表紙を見て「やっぱり無理だ」と棚に返すということを繰り返してきた『サルまん』だったのだが、歳をとった今なら、「絵柄」には目をつむって読むこともできるのではないかという気になってきたので、今頃になってチャレンジし、なんとか読了することができたという次第である。
(とは言え、本当は、第1巻を読み終えた段階で「この調子で続くんなら、もう止めようかな」と、いったんは考えた。だが、すでに買ってあった第2巻をめくってみると、第1巻ような露骨に「マンガ批評ギャグ漫画」ではなく、いちおうは「ストーリー漫画」的な形式に軌道修正(?)したようだから、これなら読めそうだと思い、読み続けることにしたのだ)

 ○ ○ ○

前述のとおり、第1巻は、第1章の「まんがの描き方(テクニック)」検討から始まり、第2章以降は「各種ジャンルまんがの描き方」を紹介したもので、要は、ジャンルまんがのジャンル的特徴を剔抉し、その独特の「癖」を誇張して際立たせ、ギャグに仕立てる、というのが『サルまん』という批評マンガであった。

だが、こういう「メタフィション形式の批評」作品というのは、当時こそ斬新であったからウケたのだろうが、いま読むと「こんなに同じパターンを延々とやるなよ」と言いたくなってしまう。端的に言えば、飽きるのだ。
ギャグ漫画とはそういうものなのかも知れないが、私はもともとギャグものは好きではなく、また「批評」として読めば、この繰り返しは、冗漫以外のなにものでもなかったのである。

それに第1巻で、鼻についたのは、この『サルまん』(第1巻)がどのように「批評」されるかまで事前予想し、『サルまん』書評をタイプ別に実例を書いて示していた点だ。
それらは『サルまん』批評としてあながち間違いではないものであって、「メタ批評」作品としては「そこまでやる」ところが大したものだとは思う一方、ある意味では、これは「先回りの予防線」だとも感じられたので、この「批評」を寄せつけまいとでもしているかのような態度には、あまり好感は持てなかったのである。

ただ、第1巻とは違って、第2巻、第3巻は、第1巻の内容を「作中の、相原コージと竹熊健太郎」が描いていた作品と明確に位置付け、作中の彼らが、その後、本格的に作家デビューして、こうした「批評マンガ」ではなく、実際に「ウケるマンガ」を目指して連載を始めるという「実践編」的な展開になる。つまり「作中作」の部分が、連載マンガの体をなすようにように描いた上で、その連載作品を描いている「作中の、相原コージと竹熊健太郎」の作家的苦労が「裏話」風のマンガとして、批評的に描かれるのである。

前述のとおり、第1巻では既成のマンガのパターンを誇張してギャグにし、それを高みから批評しているようなマンガだと感じられる部分があったけれど、第2巻以降は、「リアルの相原コージと竹熊健太郎」が、自分たちで実際にストーリーマンガとして連載まんがを描きつつ、それをネタにしてギャグ漫画を描くという困難な「二重性」を、全面的に引き受けることになったのだ。

これは、傍目にも極めて困難な作業であるというのが窺われ、第1巻のスタンスがあまり好きではなかった私でも、第2巻以降の「セルフ・ツッコミ」的なパターンには好感が持てた。作者たちが、本当の意味でのマンガ創作の苦労を引き受けているのがわかったからこそ、その「実験性」や「新しさ」よりも、その当たり前の「創作の苦労」に共感したのである。

 ○ ○ ○

ただ、全体として言えば、もともとギャグ漫画は好きではないので、マンガ作品として十全に「楽しめた」とは言い難いし、さらに批評作品としては、マンガの形式を採ったがために、(その範囲内でよく頑張ったとは言え)特別に感心もしなかった。

私の「好み」が、本書作者たちのそれと相反するものではなく、その上でさらに、本作を連載当時に読んでいたら、もっと楽しめたのかも知れない、とは思う。

しかし、「私が別人だったら、もっと楽しめたかも知れない」といった想定は、批評においては意味を持たない。そんなことを言ったら、どんな作品だった「傑作」だと考える人はいて、その人なら傑作だと評価するだろう、といった話になってしまうからである。

たしかに当時においては「マンガ批評のギャグ漫画」というのは、「新しい」し「刺激的」でもあったろう。何よりも、世間も「バブル経済の末期」で、まだ元気な頃だったから、こうした作品で大笑いする余裕もあったのであろう。
だが、2010年代も後半になってから『サルまん 2.0』が描かれても、それはウケなくて当然だったと思うし、私も今更、そこまでお付き合いする気にはなれない。

と言うのも、仮に『サルまん 2.0』が、同時代のマンガを的確に批評したマンガ作品であったとしても、しかし、その『サルまん 2.0』が、同時代の若い読者にはウケないということを、あらかじめ見抜けなかったところに、作者の「マンガ批評」の限界があったのではないかと、そう考えざるを得ないからである。


(※ 「まんが」「マンガ」「漫画」の表記は、あえて統一しなかった)



(2021年12月23日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

2979:2022/01/12(水) 22:21:22
〈宗教〉の問題は、人間の諸事万般に通ず。一一書評:『宗教問題 2021年秋季号 大特集 ネットが宗教を食荒らす!』
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 〈宗教〉の問題は、人間の諸事万般に通ず。

 書評:『宗教問題 Vol.36 2021年秋季号 大特集 ネットが宗教を食い荒らす!』

 初出:2021年12月24日「note記事」

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誌名どおり「宗教問題」を扱った雑誌だが、表紙タイトルの上に『宗教の視点から社会をえぐるノンフィクション・マガジン』とあるとおりで、「学術誌」ではなく、「ノンフィクション誌」である。
したがって、個々の宗教宗派についての「教義教学的な検討」といったものはほとんどなく、ごく常識的に「言ってることとやっていることが、バラバラじゃないか」という社会的常識レベルで「実際問題」に対する検討と追求のなされている記事が多い。

私は、興味のある特集の号だけを買っており、前回買ったのは「創価学会と選挙」を扱った号だったと思うが、今回は「ネット」ということで購入した。バックナンバーを見てみると二つ前の34号の特集が「神社本庁が溶ける!」となっているので、これも読んでみてもいいなと思っている。
150ページほどで定価も900円と、『ユリイカ』や『現代思想』のように、やたら分厚かったりしないのも、気楽に読めて助かるところだ。個々の記事が短めで、その点はやや物足りないものの、広く新しい話題に触れられるのが便利な雑誌と言えるだろう。

さて、今号の「大特集 ネットが宗教を食い荒らす!」だが、インターネットの出現によって、各宗教宗派が大きな影響を受けているというのは想像に難くない。宗教宗派においても、時代に取り残されるか、逆に時代の波の乗れるかは、今やネットを使いこなせるか否にかかったいると言っても、あながち過言ではないだろう。
だが、具体的なことは、当事者ではないので、いまいちピンと来ない。それで今号を手に取ってみたのだが、色々と興味深い事実を知ることができたし、さすがに「ネット」特集というだけあって、これまでに著作を読んだことのある執筆者が何人も登場していた。

例えば、「幸福の科学」大川隆法総裁の長男でありながら、「幸福の科学」を離れてYouTuberに転身し、その後「幸福の科学」の内幕を描いた『幸福の科学との訣別 私の父は大川隆法だった』(文藝春秋)を刊行して注目された、「宏洋」のインタビュー記事が載っている。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n46f3473f4d16

また、宗教系YouTuberとして著名な「えらてん(えらいてんちょう)」こと「矢内東紀」へのインタビューも掲載されている。
ほぼYouTubeを見ない私が、たまたま矢内の「宗教系リポート」を視て感心し、その後に刊行された著作『「NHKから国民を守る党」の研究』(ベストセラーズ)も読んだ。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n49e0500f64a0

この他に見知った名前としては、たまたま今回は最終回だったのだが、連載記事「日本のカトリックに未来はあるか」を書いている「広野真嗣」の「独占直撃! 高見三明大司教」も、攻めた記事で面白かった。
私は、広野の著書で「小学館ノンフィクション大賞受賞作」の『消された信仰 「最後のかくれキリシタン」--長崎・生月島の人々』(小学館)を読んでいる。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n1c1e49c21bfe

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しかし、こうした言わば「人気者」の記事だけが面白い、というのわけではない。
むしろ、大した稼ぎにはならないであろう「宗教ネタ」を、使命感を持って地道に追いかけているノンフィクション・ライターたちの文章は、短いながらも熱のこもった充実した内容で、それぞれに面白く読むことができた。

個人的に、いちばん興味深かった記事は、真鍋厚の「オンラインサロンは新時代の宗教か」で、昨今流行の「オンラインサロン」が、「非宗教」ではあっても、「新宗教」的な色彩の極めて濃いものである点を、鋭く指摘している。
私も、「SFプロトタイピング」という手法を売り物にしている「ビジネス・コンサルタント」で、SF作家でもある「樋口恭介」を批判する書評の中で、真鍋文の次の部分を引用している。


『 筆者は以前、オンラインサロンが人々を訴求する要素は、主に「コミュニティ」「物語性」「自己啓発」の3つのキーワードに求められると分析した(「オンラインサロンに金を払う人が満たす心の奥底」2020年9月3日付、東洋経済オンライン)。具体的に説明すると、「?選民感?をくすぐる集団への帰属」「魅力的な物語への持続的な参加と貢献」「成長や成功が期待できる役割と任務」と表現できるだろう。』
(前同P29)


『 現在流行っているいくつかのオンラインサロンに共通する傾向として興味深いのは、実践主義的な色彩を強く打ち出しながらも、リーダーのキャラクターとその「物語性」を重視しているところだ。
 世間との軋轢を抱えるカリスマ的な人物が、新規事業を起こしたり、芸術作品をつくるといった困難な課題に挑戦し、人々は自己の資源を投入して下支えするとともに、コミュニティの一員としてその物語を生きることができる。ここにおいてとりわけ注目すべきなのは、オンラインサロンの主催者に立ちはだかる「外敵の存在」だ。
 これも新宗教の教団にありがちな試練とそっくりである。マスコミだけでなく、ソーシャルメディアでたたかれることが多いカリスマ的な人物は、むしろその苛烈な攻撃が教えの正しさを証明しているように思われるがゆえに、支持者の忠誠心はより強固なものとなり自分たちの正当性を確かなものにする。これはイエス・キリストの時代から連綿と続くお馴染みの構図である。
 毀誉褒貶の激しいオンラインサロンの主催者は、時に勃興期の新教団を率いる若き教祖のように振る舞ったりもするが、そのことに驚くほど無自覚であったりする。彼らは古の伝道という文脈ではなく、双方向性によって評価が常に可視化され、収益に直結するエンターテインメントの観点から理解を深めているのであり、洗練されたビジネスモデルに仕立て上げようとしている。例えば西野亮廣は、オンラインサロンの将来像をどう考えるかと聞かれて、次のように答えている。
「これまでは世間的に知られている人の声が大きかったですが、今後はファンを持っている人が強くなると思います。自分のファンをいかにつくるかという点で、大事なのは物語です。僕のオンラインサロンでも、うまくいこうが失敗しようが、挑戦しているときに会員が増えます。漫画やドラマと一緒で、1回上がって、ピンチや失敗があって下がって、そこから再起する。このN字形を自分の人生でもやらないといけません。完璧な事業計画書を作っても、あまりファンは生まれません。あえて負けやピンチを作ることも大切なんです」(「西野亮廣、知名度よりファン大切 オンラインサロンの秘訣を語る」2019年8月17日付、福井新聞オンライン)
 ここで言及されている「あえて負けや失敗をつくること」は、自作自演でも構わないことを示唆している。リアリティ番組がやらせに満ち満ちていても、少しも人気が衰えないことからもその威力は立証されている。10分ごとにクリフハンガー(盛り上がるシーン)を組み込む海外ドラマのように、真に重要なことは「物語を興ざめさせないこと」なのだ。負けやピンチが計画されたものか判別できないほどの迫真性を持ち、危機感を共有するメンバーが進んで出費や奉仕に努めること、それがエンターテインメントとしての圧倒的な強度を生み出すのである。』
(前同P31〜32)

つまり、「ビジネス」の世界に、「オンラインサロン」という新たな形で、「宗教的なもの」が蔓延り始めているという話なのだが、これは本来の意味での純粋な「ビジネス」の世界には止まらない新事態だ。

例えば、保守派評論家の古谷経衡がその小説『愛国奴』(文庫版では『愛国商売』と改題)で描いた「保守業界」においても、「オンラインサロン」による「信者的ファンの囲い込み」が見られ、「保守思想」と「宗教」の親近性が、わかりやすく窺われる。

また、前述の通り、およそ「宗教」とは真逆であることを売りにしている「SF小説」の世界ですら、同様のかたちで「顧客の囲い込み」を考える者が出てきているという事実を、樋口恭介らによる「SFプロトタイピング」という「商品展開」の事例などが示しているとも言えよう(「SF的発想は、SF小説にとどまらず、未来を拓くその発想において、ビジネスにも役立つ」といった感じで宣伝をされるビジネスモデル)。
(※ ちなみに「SF」とは、一般には「サイエンス・フィクション」の略称と理解されているが、SFマニアの世界では「スペキュレイティブ・フィクション(思弁小説)」の略称という意味も付与されている。つまり、自分たちの「SF」は、科学的かつ思弁的である、という「選民感」の色濃い自称である)

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n08813591d380

このように、「宗教」とは、一見したところ真逆だと考えられ、当事者もそのように自負し喧伝しているジャンルにおいてすら、「宗教性」というのは、その自覚を欠いたまま蔓延るものであり、だからこそ、そこに危険性もあると言えよう。

もちろん「宗教はアヘンである」としたマルクスの思想でさえ、結果としては「アヘン」として働いた部分があったのだから、人間の「思想」的な産物は、ひとつ「宗教」に止まることなく、その多くが、知性を眠らせる「アヘン」として働くことがあっても、なんら不思議な話ではないだろう。

極論すれば、「正義」も「理想」も「夢」も「希望」も、実体を持たないにも関わらず、強く人を惹きつけて、その「ヴィジョン」において、人をひきづり回す力を持つという点では、「宗教」の一種と言えないこともない。
だから要は、それが「実体のない」虚構・幻想・観念の類いなのだという認識を持った上で、その「実態なきもの」を、自覚的に「道具」として利用できるかどうかが、「(無自覚な)アヘン濫用」となるか「(自覚ある)道具的観念の利用」となるかの分かれ目になるのである。

したがって、私に言わせれば、「理想の宗教」とは「実体としての宗教を解体して、実効性のある理想を構築するところに存在する」と言えよう。「理想の宗教」とも呼ぶべき「理想」や「信念」を持つからこそ、「現実逃避としての宗教」を批判し、その解体を目指すと同時に、それに替わるものの提示提供を目指すのである。

無論、これは言うほど簡単なことではないのだが、基本的な方向性としては、こうしたものでなければならないと考えている。

 ○ ○ ○

さて、この他にも、今号では、いま流行りの「簡素型葬儀」を商品とする葬儀業者の「商業主義的実態と問題点」が、業者名を示しての具体的なトラブル事例として紹介されており、たいへん参考になる。
彼らにとっては「葬儀の簡素化傾向」も「ビジネス・チャンス」に過ぎず、前述のように「ビジネスが宗教化する」一方で「宗教行為がビジネス化する」という方向性もあるのだ。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/nf3d141ac9d2c


大浦春堂の紹介する「ネット上での御朱印高額転売」問題などは、ゲーム機やマスクの転売問題で耳新しいところであり、「転売問題」が「宗教」の世界をも侵食している現実を示す。

特集記事ではないが、「「ソニー神社」と出雲大社教の内情」(本郷四朗)などは、斎藤貴男の古典的ノンフィクション『カルト資本主義』で提示された問題が、いまだに尾を引いている現実を示して興味深い。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n45a9eea90595

さらには「特別読み物」の「公明党議員の違法融資斡旋疑惑「私は遠山清彦議員と金の話をした」」(中山雄二)という記事も、公明党に限らない「政治とカネ」の問題だとは言え、結局は「宗教」が、汚職に対する「ブレーキ」にはなり得ていない現実を伝えている。
公明党が「政権のブレーキ」になれないのも当然なのだ。「人間の欲望は、宗教より強い」からである。

そもそも、人間が「宗教」を求めること自体が「欲望」に発するのだから、「宗教」よりも「欲望」の方が「本源的」であるというのは、当然と言えば当然なのである。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n156081141d6f

一方、鈴木貫太郎のレポート「クラスターを出したブラジル系宗教」は、タイトルから連想される「ありがちな偏見」を排して、マイノリティの心の支えとなっている弱小教団への温かい視線が印象的であった。



(2021年12月24日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

2980:2022/01/12(水) 22:22:40
〈承認と否認〉をめぐる葛藤の果てに… 一一書評:施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』第6巻
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 〈承認と否認〉をめぐる葛藤の果てに…

 書評:施川ユウキ『バーナード嬢曰く。』第6巻(REX COMICS・一迅社)

 初出:2021年12月25日「note記事」

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施川ユウキの作品はほとんど読んでいるはずだが、その作品傾向を大別すると、内面性を強く反映した「叙情的な作品」と、生活的リアリズムをベースにした「自虐的ギャグ作品」の二つに分けられるように思う。
前者の代表作が『サナギさん』『ヨルとネル』『銀河の死なない子供たちへ』といった作品だとすれば、後者は『鬱ごはん』『がんばれ酢めし疑獄!!』そして、本作『バーナード嬢曰く。』もそうだろう。

もちろん、完全に二分されるというわけではなく、それぞれの作品が、どちらの性格を基調にしているかということであって、その割合こそ違っているものの、どちらの要素も含まれるのは、同じ作者の作品として、むしろ当然である。

例えば、本作『バーナード嬢曰く。』は「読書好きの、あるあるギャグ漫画」というのが基本ラインだが、その中で、バーナード嬢こと町田さわ子と、読書友だちである神林しおりとの「友情物語」という側面もあり、日頃は大ボケのさわ子は、時に、極めて繊細な心遣いと洞察によって、その「優しさ」を示し、神林の「孤独」を癒しもする。

このギャップが「グッとくる」ところでもあれば、「百合」だなどと言われたりもする部分なのだが、施川作品の通奏低音として流れるのは「孤独」であると考える私は、施川ユウキの描く「友情物語」に「恋愛」的な要素はほとんどなく、それはもっと根源的な「人間の本質的孤独からの救済願望」とでも呼ぶべきものの、洗練されたかたちなのではないかと考える。
だからこそ、神林を思いやる時のさわ子は、日頃のボケっぷりが演技なのかと思えるほどの「女神」のごとき「優しさ」で、神林を救うのだ。

そして本巻では、そうした側面がかなり強く出ているように思う。
これが何を意味するのか、無論、正確なところはわからないのだが、施川が「あとがき」で、次のように「コロナ禍」に言及しているところを見ると、その影響ということも考えられよう。

『 (※ 前巻)第5巻のあとがきを今読み返すと、切迫感あふれる筆致で新型コロナの話を綴っている。コロナ禍で一番混乱していた時期のようだ。一年半前、ずいぶん昔のような気もするし、つい最近のような気もする。』(P157)

つまり、前巻が刊行された頃は『コロナ禍で一番混乱していた時期』で、その切迫感に支配されていたが、コロナ禍の長期化で、その切迫感がだんだんと薄れていった時期に描かれたのが、この第6巻所収の作品で、徐々に緊張感が薄れきた時期だからこそ、それまでリアルな困難において押さえ込まれていた「人恋しさ」が、意識の表面に浮上してきたのではないか、という推測である。

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本巻で、私が特に面白く感じたエピソード、二つについて書いておこう。神林との「友情物語」の部分ではない。

一つは、第98話(98冊目)「山月記」の回。テーマは「自意識」である。

さわ子と神林は、読んだ本に「点数をつける」という行為について、次のような議論を交わす。

さわ子「ふーっ なかなか面白かったよ」
神林 「そっか 貸してよかった」
さわ子「星3.8」(きっぱりと)
    (それを聞いた神林は、少し退いた感じ)
   「あれ低かった?」
神林 「というか 点数つけるなよ」
さわ子「神林は つけない派かー」
神林 「いやまぁ 読んだ人間の自由だからいいけど」
   「作品の良し悪しを数値化するなんて 自分にはできないな」
   「そもそも 未熟な私がプロの作品を採点するとか… 傲慢じゃないか」
   (そう言った、神林の肩を、さわ子はポンと軽く叩いて、諭すように言う)
さわ子「神林 未熟な私たちには 傲慢になるチャンスが与えられている…!」
   「若さ故の万能感から 傲慢に振る舞い やがて己の未熟さに気づいて自己嫌悪に陥る」
   「それが青春!」
   「傲慢を恐れていたら 成長するきっかけすら失っちゃうよ!」
神林 「屁理屈にしか聞こえないが 堂々と言われると一理ある気がしてきた…」

中島敦の名作短編「山月記」が、言わば「潔癖な自意識過剰」を描いているという点で、ここでは神林の「潔癖な自意識過剰」と対応している。
そして、「山月記」の語り手主人公が、その「潔癖な自意識過剰」の故に「虎(人外)」となってしまう不幸に対し、神林の場合は、その「潔癖な自意識過剰」を、日頃いい加減なさわ子が相対化し「中和」して、結果として神林を救済することになる。要は「人間、失敗してナンボだから、気にするな」という楽天主義である。

さわ子の楽天主義的な意見に、神林は完全に納得したわけではない。当然である。
さわ子は「間違った評価表明は、人を傷つける」という側面を見落としており、あくまでも「自分」の問題としか考えていないからだ。

しかし、問題は、神林が感じているような「間違ったことを言ってはいけない」「それで他人を傷つけてはいけない」というのは、「原則」として正しい「人間倫理」だとは言えるのだけれど、しかし「現実」としては、人間は神様ではなく「完璧」ではあり得ないから、必ず「間違い」をしでかす存在なのだ。
言い換えれば、さわ子も言うとおり、人間は最初から「完璧なかたちで生まれてくる」のではなく、未熟不完全なかたちで生まれてきたものが「試行錯誤の経験」を重ねることで、徐々に「完成」を目指していく存在である(でしかない)というのが「事実」。
したがって、この場合、さわ子と神林の、どちらか一方が「完全に正しい」ということではなく、正解は、その「兼ね合い」の中にしかない、ということなのである。

だから、あえて「正解」風にまとめてみるならば「人は生涯、成熟を目指して、できるかぎりの最善を尽くしつつ、しかし失敗を恐れることなく、経験を積み重ねていくべきものである」ということにでもなろう。

そんなわけで、厳密に言うならば、人は「傲慢であって良い」のではなく「傲慢に見えるくらいで、ちょうど良い」ということになる。
と言うのも、本当に「傲慢」な場合は、自身の「未熟性」に無自覚なのであり、そのために「失敗を失敗と認めない」から、それが成長の妨げになってしまう。
しかし人間が成長するためには、失敗の経験が是非とも必要であり、同時に、その失敗を失敗だと認め得る「謙虚さ」も必要となって、ここで初めて、神林の意識する「謙虚さ」が重要となってくるのだ。

つまり、「謙虚さ」というものは、「保身」のためにあるのではない、ということである。
そうではなく、「謙虚さ」とは、自分が「未熟」であることを認めて、「成長のための努力」の必要性を認めるためのものでなくてはいけない。

ところが、神林の「謙虚さ」は「潔癖な自意識過剰」に由来するものであり、「潔癖な自意識過剰」というのは、言うなれば「自分は完璧であり得る」と考える、ある種の「傲慢」でもあって、その「過剰な自意識」を傷つけないための「防衛意識」でもあるのだ。だからこそ、神林は、しばしばそんな自分に気づいて「顔を赤らめる」て恥じるし、自己嫌悪にもなる。
言い換えれば、無意識的にではあるが、すでに「完璧な自分」に、少しでも傷がつかないようにと、ビクビクしているというのが、神林の「謙虚さ」における「過剰さ」の正体なのである。

したがって、さわ子の「抜けっぷり」が、神林に示すのは「私たちは未熟だし、もともと傷(欠点)だらけの未完成品なんだよ」ということであり「だから、他人との接触の中で、切磋琢磨して、自分を磨かなきゃならないんだ」ということなのである。そしてこれを言い換えるならば「摩擦を恐れるな」ということであり、声高に「傷つけられた」とアピールしたがる人の目立つ昨今の日本人には、殊のほか重要な認識なのだと言えるだろう。

さて、次の興味深かったエピソードは、第101話(101冊目)の「レコメンド」。
「レコメンド」とは、要は「おすすめ」のことであり、例えば「おすすめ本」なんかもそうである。

この話題で思い出すのは、またしても先日の「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」である。
けんごは、豊崎由美に「まともな書評が書けるのか」と言われて、

『書けません。僕はただの読書好きです。

書けないですが、多くの方にこの素敵な一冊を知ってもらいたいという気持ちは誰にも負けないくらい強いです。

読書をしたことがない方が僕の紹介を観て「この作品、最高でした」「小説って面白いですね」と言ってくれることがどれだけ幸せなことか知ってますか?』

と、このように、読解力のない一般読者向けの「泣き落とし」を綴っているが、本の「おすすめ」をして喜ばれた時の喜びなど、読書家なら誰でも知っているに決まっている。なぜなら、それは「相手を喜ばせる」のと同時に「自分の価値観が追認される」ことでもあるからだ。

平たく言えば、「共感」されて「幸せ」な気分にならない人間など存在せず、それは豊崎由美でも私でも当然同じであり、『どれだけ幸せなことか知ってますか?』なんて問いは、「愚問」である以上に「自分だけは、よく知っている」という「傲慢(エリート意識)」の証でしかないのである。

まあ、このような「読み」は、それなりの「文学読み」には容易なことでしかないが、けんごの上のツイートの、「成心」丸出しの露骨な「お涙頂戴の意図」すら読み取れないような未熟な読者が、けんごのリコメンドを喜ぶのは「身の丈にあった選択」として、仕方のないことなのではあろう。

しかし、第98話(98冊目)「山月記」の回の感想として書いたように、「自分の未熟さを反省できない」人間は、成長できない。
未熟さを、未熟だと指摘されて、それをいつまでも認められないような人間は、いくら歳をとっても未熟なままで終わるのだ。決して「時間の経過とともに、自然に成長」したりはしない。
某氏が『認めたくないものだな……自分自身の、若さ故の過ちというものを』と語って、「反省」の必要性を認めていたとおりで、人間は「反省」が無いままでも、歳をとれば、おのずと相応に「読解力」がつく、なんてことはないのである。

したがって、私としては、町田さわ子が語ったように、けんごとそのファンには、「若さ故の万能感から 傲慢に振る舞い やがて己の未熟さに気づいて自己嫌悪に陥る」という「反省経験」を、いつかはして欲しいと願わずにはいられない。しかし、そのためには「失敗を失敗、未熟を未熟だと教えてくれる、大人の存在」が、是非とも必要なのである。

ともあれ、この第101話(101冊目)「レコメンド」は、単純に「とにかく承認されれば良い」という内容ではないことを、多くの読者に読み取ってもらいたいところである。

若者よ、承認コジキにだけはなるな。
未熟だが、成長を目指し続ける者こそが、そのままで、真に素晴らしい人間なのだから。



(2021年12月25日)


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https://note.com/nenkandokusyojin/

2981:2022/01/12(水) 22:25:12
〈自己権威化〉の神学 一一書評:若松英輔・山本芳久『危機の神学 「無関心というパンデミック」を超えて』
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 〈自己権威化〉の神学:通俗カトリックとしての、若松英輔と山本芳久

 書評:若松英輔・山本芳久『危機の神学 「無関心というパンデミック」を超えて』(文春新書)

 初出:2021年12月26日「note記事」

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『そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」』(「ルカによる福音書」より)

人はしばしば、自分が何をしているのか、どんな言葉を口にしているのかに、まったく無自覚なことがある。
ましてや、自分が「主流派」で「大勢の側」であってみれば、自信満々に「自己肯定的な言葉=他者否定的な言葉」を口にするのだが、それが、遠く離れた「第三者」から見れば、いかにも傲慢で愚かなものにしか映らないということに、まったく気づかない。

例えば、磔刑にされた十字架上のイエスを馬鹿にし、からかった人たちなどがそうだ。
彼らはその当時、自分が「主流派」で「大勢の側」であると確信して、自信満々に「自己肯定的な言葉=他者であるイエスを誹謗する言葉」を口にした。しかし今日では、それがいかに愚かなことであったかが、明白になった。

何もこれは、キリスト教や宗教の話ばかりではない。
ナチス政権下における「ユダヤ人迫害」に加担したドイツの一般市民、現人神天皇を担ぐ軍国日本において、反戦主義者や社会主義者や「天皇は人間である」とした学者などを迫害した人々も、その当時は「主流派」で「大勢の側」であってみれば、自信満々に「自己肯定的な言葉=他者否定的な言葉」を発したのだ。

『 本当にその通りで、引用をしませんでしたが、教皇フランシスコ自身、(※ 聖書の「善きサマリア人」の話における、強盗に襲われて道端に倒れている人の傍を)最初に取り過ぎた二人が、両方とも祭司とレビ人という神に仕える人だった点が非常に重要だと言うわけです。一見神に仕えているように見える人が本当に神に仕えているとは限らない。そうでないような人こそ神に本当に仕えていることはある、という言い方で、狭い意味でのキリスト教という枠を超えて、根源的なものとつながる生き方を説き直している。』(P273、山本芳久の発言)

少し解説しておこう。「善きサマリア人」の話とは、新約聖書に描かれたイエス・キリストの譬え話の中でも、最も有名なものの一つである。

ここに登場する『祭司とレビ人』は、キリスト教徒ではなく、ユダヤ教徒で、イエスの生前には、まだキリスト教は存在してはいないのだから、この話をしているイエス自身も、そのユダヤ教徒であることを忘れてはならない。
つまり、『祭司とレビ人という神に仕える人』というのは、ユダヤ教における「(旧約)聖書」の教えを厳格に守る、最も「正しい人=義なる人」だったのだ。
一方、サマリア人というのは、ほとんど同様の信仰を持ちながらも、教義上の微妙な違いなどもあって、信仰的に差別され、見下されていた少数派だった。

そして「善きサマリア人」の話とは、強盗に襲われ血まみれになって道端に倒れている人を見て、『祭司とレビ人という神に仕える人』たちは、その教義に従って「血穢」を怖れて、けが人を避けて通ったのだが、後で通りがかったサマリア人は、そんなことなど意に介さず、けが人を助けた、というお話である。
イエスは、彼が「正しい信仰」を持っているかどうかを試しに来た人たちに、この譬え話をして「どちらが(神の前において)正しい行いか」と問うたのだ。

同様に「教義や神学に精通して、立派な説教のできる、地位も立派な(祭司とレビ)人」であっても、本当のところ「信仰を誤っている」場合というのは、イエスの時代からすでに珍しいものではなく、むしろ「正統な信仰者ではなかった」人の方が、その自然な人間的善意において「神の意に沿う行動をし得た」という、これはそういうお話なのである。

そして、ここで何より皮肉なのは、この教皇フランシスコによる説教を紹介して『一見神に仕えているように見える人が本当に神に仕えているとは限らない。』などと言っている、カトリック神学者の山本芳久自身が、実は『一見神に仕えているように見える人が本当に神に仕えているとは限らない。』人である、という事実なのだ。

 ○ ○ ○

私は、本書の対談者である、カトリックの一般信徒(平信者)である若松英輔と、カトリックの神学者である山本芳久の著作を、これまでに何冊かずつ読んでおり、それぞれに、すでに批判を加えている。

また、そんな両者の、前の対談本である『キリスト教講義』(文藝春秋・2018年)についても、刊行当時に批判的なレビューを書いている。
だから、今回、本書を読むにあたっても、内容的に期待するところはなかったが、3年ぶりの対談で、二人の関係がどのようになっているかに興味があったので、読んでみることにしたのだ。

前記レビューを読んでいただければ、そこに詳述しているのだが、ここでも簡単に説明しておくと、前対談本『キリスト教講義』は、個人の「霊性」を強調する「霊性主義者(スピリチュアリスト)」である若松が、カトリック教会最大の「正統」神学者であるトマス・アクィナスの研究家である、カトリック保守派の神学者(神学研究者)の山本に対し、「教会の権威よりも、個人の霊性の重要さ」を訴え、一方、山本の方は、世俗的な人気知識人である若松の主張を、表面上はウンウンと物分りよく肯定しながら、教会の側に取り込もうとする、そんな両者の思惑が隠微に交錯する著作であった。

もともと、「文学」畑の人間である若松は、よく本を読んでいるし、評論家として「筆も立てば、弁も立つ」からこそ、人気評論家になり得た人物なので、世俗的な人気や説得力という点では、山本が若松に遠く及ばないのは明らかだ。
しかし、何と言っても、カトリックの信仰においては、山本は「正統」であり、若松の「個人主義的な霊性主義」というのは、世間的には人気はあっても、カトリック的には、きわめて「異端」に近いものでしかない。

したがって、山本が、カトリック的に、若松の「霊性主義」を批判することは、さほど難しいことではないなのだが、しかし「今は、そんな時代ではない」。つまり、今は「世俗」が力を持つ「世俗主義の時代=近代以降」であるからこそ、キリスト教信仰は「ジリ貧」の危機に見舞われている。

だから、内心では若松の信仰を「それは異端だよ」と思っていても、それで斬り捨てて済む問題ではない。
そうではなく、なんとか、この「世俗の人気者」を「教会」の側に取り込んで、利用しようというのが、山本の立場なのである。
つまり、本心は別にして、本書でも山本は、たいへん物分りが良く、一見したところ「リベラル」であり「庶民主義」的であり「フランシスコ支持派」のように振舞っているのだが、本音はそうではないのだ。

本書でも、若松英輔は、怪獣博士による『怪獣図鑑』ごとく、これでもかという調子で「いろんな著名人(権威者)」を次々と引き合いに出して、ペダンティックにその博識ぶりを開陳してみせる。無論このあたりは、とうてい山本の及ぶところではない。

しかし、若松の「北斗百烈拳」的な「手数」勝負のそれは、教養コンプレックスのある読者には通用しても、「教会正統の権威」の光背を背負っている山本には、本音のところでは、まったく効果のないものでしかない。
しかし、山本は、それが「世俗的には効果がある」と知っているから、「鋭い指摘です」とか「神学にも通じるところです」といったように、さも感心したかのごとく褒めて見せるのである。

私は、以前に書いた、若松に関するレビューで、若松の特徴を次のように紹介した。

『若松英輔の「霊性の哲学」とは、一種のシンクレティズムだと言ってよいだろう。
普通、シンクレティズムと言うと『相異なる信仰や一見相矛盾する信仰を結合・混合すること、あるいはさまざまな学派・流派の実践・慣習を混合することである。』(Wikipediaより)というようなことになるが、若松の独自性は、優れた個人(主に故人)を習合して、一種のマンダラに仕立てあげている点で、それは本質的に宗教的であると同時に、雑誌編集的であるとも言えよう。

若松の博捜によって呼び出された、聖人たちの居並ぶ姿は、白亜の神殿に勢ぞろいしたオリュンポスの神々にも似て豪華絢爛であり、それでいて親しみやすい。』
(若松英輔『霊性の哲学』についてのレビュー、「スピリチュアルな時代の「教祖の文学」」より)


今回の対談でも、二人がやっているのは「若松英輔が横に展開し、山本芳久が縦に権威づける」ということである。

前回は、若松の方に、暗に「教会権威主義ではなく、個人の霊性重視を」という「教会批判」の側面が隠されていたが、今回の対談では、そうした「教会権威主義批判」は完全に影を潜め、逆に、若松の方が「教会権威」へと、すり寄っている。

若松は、前回の対談では「霊性主義者」を「個人主義者」として称揚したのに対し、今回は「霊性主義者は教会主義者である」という方向へと、ご都合主義的に「合理化」しているのだ。

例えば、フランシスコの時代になって「復権」した神学者ロマーノ・グァルディーニが、保守派神学者であり保守派教皇として知られた、前教皇ベネディクト16世と親しかったかのように書いているが、これはその実際を意図的に隠蔽し、ごまかした説明だ。

グァルディーニが、フランシスコになってから「復権」したと言うのなら、それは、その前のベネディクト16世や、ベネディクト16世に保守路線を引き継いだ前々教皇ヨハネ=パウロ2世の時代には、冷や飯を食わされていた、ということに他ならない。

では、そんなグァルディーニが、ベネディクト16世と「親しかった」とは、どういうことか?
それは、のちにベネディクト16世になる、保守派神学者である、ヨーゼフ・ラッツィンガーが、1981年11月に教皇ヨハネ・パウロ2世により、教理省の長官に任命された「カトリック神学者のトップ」だったからである。

ラッツェンガーは『教皇位を受けるまでその地位にあった。教理省はかつて検邪聖省といわれていたもので、古くは異端審問を担当した組織である。』(Wikipedia「ベネディクト16世」)

これが意味するのは、ラッツェンガーに睨まれた「リベラル神学者」は、冷や飯を食わされ、下手をすれば「異端」認定されて、カトリック教会に居場所を失うことになる、ということである。

そして、事実、そういう神学者は、少なからずいた。

例えば、戦中ナチスドイツと協定を結んでいたバチカンが、敗戦後に大きくリベラルな方向に舵を切ったことで知られる「第二バチカン公会議」を主導した、若手リベラル神学者の一人であったハンス・キュンク(https://ja.wikipedia.org/wiki/ハンス・キュング)は、この公会議では同じ「若きリベラル神学者」であったラッツェンガーが、保守派に転向した後、徹底的に嫌がらせ(辱しめ)を受けることになる。

そして、そうした歴史的事実は、ラッツェンガーの側から書かれた、「ベネディクトゥス一六世=ベネディクト16世」の評伝である、今野元『教皇ベネディクトゥス一六世 「キリスト教的ヨーロッパ」の逆襲』(東京大学出版会)にすら書かれている事実で、リベラルなキュンクは、教会が急激なリベラル化の後の反動で保守化した(ヨハネ=パウロ2世やベネディクト16世の時代を含む)長い時期には、カトリック教会の「外」で、「第2バチカン公会議」の掲げた理想たる「教会の一致(エキュメニズム)」の運動を進めざる得なかったである。

つまり、グァルディーニがいかにリベラルな神学者であったとしても、キュンクのような迫害に堪える強靭な精神の持ち主でないかぎりは、現代の「異端審問所のトップ」であったラッツェンガー教理省長官であり、のちの教皇ベネディクト16世と対立することなど、およそ不可能であり、少なくとも「表面上は仲良く」していなければならなかったのである。

そして、ラッツェンガー教理省長官、のちの教皇ベネディクト16世の「リアルな人間性」がどのようなものであったかは、彼を恐れないで済む立場の有識者には、明らかなものだった。

例えば、「ガリカニスム」の伝統により、バチカンの統制に抵抗できたフランスカトリック教会の神父で、多くの国民から「アベ・ピエール(ピエール神父)」の名で親しまれた、本名「アンリ・アントワーヌ・グルエ」は、教皇になったばかりのラッツェンガー(ベネディクト16世)について、忌憚なく次のように語っている。

『『 ヨハネ・パウロ二世の後、次の教皇がいったいだれになるのか、明らかに人々の関心は高まりました。そのなかで人々がたった一つ心配していたことがあります。ヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿が教皇に選ばれることです。彼は以前の「教理省」(※ 引用者註・かつて異端審問を担当した、元「異端審判所」であり、元の「検邪聖省」)にあたる、信仰の教義を考える部門のトップでした。
 私はこの良識ある指摘を最初にした一人だと思っています。私たちはよく社会のいたるところで、大きな責任のある立場に就く人がそれに見あった人になっていくのを目にします。責任ある立場に就いた人がかえって威圧的にふるまうこともありますが、多くの場合は余裕ができ、温和になり、自分を律していくものです。つまり一度頂点をきわめると人は今までよりも寛容になり、開かれた人になっていくものです。
 ラッツィンガー枢機卿もベネディクト一六世となり、やはりこのように変わっていくでしょう。教皇選出当夜、彼のまなざしはすでに幸せそうで、穏やかでした。そして教皇として最初に述べた言葉は、他のキリスト教宗派(プロテスタント、英国国教会、東方正教会)や他宗教との開かれた対話を示唆するものでした。今後の彼の行動を待ちましょう。すでに変化の兆しが見られるのですから。

 ラッツィンガー枢機卿が、有利な材料ではない七八歳という高齢にもかかわらず教皇に選ばれたことはとりたてて驚くにはあたりません。枢機卿たちは実はお互いにほとんど知らないのです。ところがそんな枢機卿のだれもがラッツィンガーのことはよく知っていたのでした。さらに言うならば、枢機卿たちの最大の関心事は安定です。波風を立てる必要はなく、冒険もいりません。ラッツィンガーを教皇に選ぶことでヨハネ・パウロ二世の方針を継続していくことができるのです。ラッツィンガーが高齢のためにそう長くは教皇を務められないことも彼らはもちろんわかっています。これは都合のよいことであり、枢機卿どうしがお互いをよく理解しあい、次の次の教皇にはだれがもっともふさわしい人物かを落ち着いてじっくり考えることができるわけです。それが今回ラッツィンガー枢機卿が教皇に選出された大きな流れなのです。

 ベネディクト一六世が在位中に、リベラルと思える二つの方策をとったとしても私は驚きません。一つは再婚した人々に聖体拝領を認めることであり、もう一つはすでに子育てを終えた既婚の、つまり「年配の」男性の叙階を可能にしていくことです。これが聖パウロが言うあの「既婚聖職者」です。一方、女性が叙階され司祭職に就くことや同性愛の糾弾について、彼が立場を変えることはないと思います。』
 (アベ・ピエール『神に異をとなえる者』P36〜39「ベネディクト一六世の即位」全文)』

https://note.com/nenkandokusyojin/n/nec31535ab056


あるいは、長年ドイツを率いてきた「キリスト教民主同盟(CDU)」のアンゲラ・メルケルは、プロテスタントではあれ、初めてドイツ出身のローマ教皇となったベネディクト16世とも面識はあったものの、心から親愛の情を覚えたのは、その次の南米出身の教皇フランシスコだった、ということが、メルケルの著書『わたしの信仰 キリスト者として行動する』(新教出版社)の原書の編者であるフォルカー・レージングが、「編者解説」で次のように紹介している。


『(※メルケルは)ヨハネ・パウロ二世の後継者であるベネディクト十六世とは、彼がまだ枢機卿だった時代にすでに知り合っている。彼の知性に強い印象を受けたとメルケルは親しい人々にくりかえし語っているが、ドイツ出身の教皇とドイツの女性首相とのあいだには個人的な親近感は生まれなかった。
 現教皇のフランシスコに対しては、メルケルは珍しく心を動かされたようだ。二人はこれまで何度もバチカンで面談している。難民危機が二人を精神レベルで兄妹にしたように見えるかもしれない。(中略)
 メルケルにとっては、フランシスコは神学者としてよりも、外側からヨーロッパを見ているアルゼンチン出身の教皇として興味を抱かせる対象である。』(P17〜18)

https://note.com/nenkandokusyojin/n/ncccf0dd5642f


以上のようなことは、ベネディクト16世の時代に「神学者」になった保守派の山本芳久は無論、いくら若松英輔が「教会」について無知だったとは言え、おおよそのことは知っていたはずだし、教会「正統」権威にすり寄り始めた今なら、すでにはっきりと知っているはずだ。

だが、そんな若松は、本書において、グァルディーニとベネディクト16世を結びつけ、リベラルなフランシスコとベネディクト16世を結びつけて、世間では「リベラルと保守」という図式で見がちだが、カトリック教会の現実はそんなに単縦なものではなく、「神学的」に深いところでは、両者は継続しており、一つなのだ、などという「権威主義的レトリック」で、部外者を煙に巻こうとするのである。

したがって、「カトリック教会の歴史的現実」に無知な(カトリック信者を含む)読者は、若松英輔と山本芳久の「かけあい漫才」に乗せられて、すっかり騙されてしまう。

臆面もなく、両者がお互いに褒めあうことで、お互いの「権威」を保証しあうという、見え透いた手口でしかないのだが、「現実」を知らない読者は「きっとすごいのだろう」ということで、「すごい」と思わされてしまうのである。

しかし、本書で、若松英輔の「聖性(スピリチュアリティー)」という言葉が後退して、カトリック教会の「神学」という言葉が前面に出てくるのは、若松の立場が、「個人の神=イエス・キリスト」ではなく、「神の身体としての正統教会」に移動した、何よりの証拠でしかない。

そして、なぜそうなったのかと言えば、それは普通に考えて、若松英輔の「霊性主義」は、東日本大震災後の一時期を除けば、「オウム真理教事件」を経験した現代日本においては、どうしたって、その「うさん臭さ」は拭いきれなかったからである。

例えば、SF系の文芸評論家である岡和田晃は、小説家・倉数茂との対談「新自由主義社会下における〈文学〉の役割とは」(https://shimirubon.jp/columns/1696859)で、次のように語っている。


『私がしばしば、批評を表現として認めろと言っているのは、別に批評に権威を回復しろという意味じゃなくて、そもそも例えば小説を書いたりゲームを作ったりするのと同じような表現の一角としての批評的な知性というのが存在して、それによってしか得られない世界の輪郭の可視化の方法というのがきっとあるはずだということのつもりなのですね。
?そのため『反ヘイト』の冒頭に今の批評の三類型っていう非常に辛辣な文章を入れてるんですね。一つは極右(ネトウヨ)批評で、もう一つはオタク(サブカル)批評で、もう一つはスピリチュアルな批評っていう。なぜこういうのを思いついたかっていうと、文芸批評やってる時に、編集者と打ち合わせをしていて気づいたんですね、あ、状況として、そうなっているなと。
?ただ具体的な固有名を出して批判すると「岡和田は浜崎洋介を嫌いなのか」みたいな党派的な受け止められ方をすることが多いのですが、そういうレベルではなくて、もう完全に売れ線の批評というものが三つに分類されるような状況というのがあって、それはスピリチュアルな商品として流通するようなレベルのものからハイレベルと思われているような文芸評論までけっこう幅広くその分野に当てはまってしまう側面があると思うんですよ。』


『司会女性  他にご質問ある方はいますか? はい、そこの方、ありがとうございます。

参加者B(著名な作家・評論家) 極右の批評と、オタクの批評っていわれるとだいたい顔が浮かぶんですけど、スピリチュアル批評って僕はあんまりよくピンとこないんですけど具体的にはどんな人の――。

岡和田  具体的に?!(笑)

参加者B 名前言えないの――。

岡和田  いや、言えなくないですよ。若松英輔さんですね。だめですか?

参加者B いやいやいや(笑)。

岡和田  あのね、もうちょっと具体的に言いますと、若松さんの仕事にも、僕はいい文章たくさんあると思うんですよ。パスカル・キニャールの本の解説でご一緒したこともあります。
?若松さんは、たくさん批評の本を書かれているのですけど、やっぱりちょっと超越性に逃げるところがあるなぁと思っていて。
?あのね、具体例を一つだけ出すと、3.11の後に石巻市ではたくさんのタクシーの運ちゃんが幽霊を見つけたっていう社会学的な研究があるんです。幽霊を乗せちゃうんですよ。
?それを学生が実際に調査したっていう本が社会学と称してベストセラーになって(『呼び覚まされる 霊性の震災学』)。ゼミの先生が学生に聞き取り調査をさせたんですが、明らかにいろんな別々な運ちゃんが幽霊を乗っけてるんですね。乗っけて途中で消えるんですよ。
?それはやっぱり3.11の後の集合的なトラウマがあるっていうのが一つの解釈だと思うんですけれども、その研究書の目玉論文では、ある種のスピリチュアル批評を元にして、まぁ霊界的なものが存在するんじゃないかという結論になってたんです。
?つまり現世の後にスピリチュアルな世界というのが前提になっているような論文っていうのはけっこうあって、典拠として示された一番文学的に高度なものの一つが若松英輔さんの本なのです(『霊性の哲学』)。
?この件に限らず、より低レベルなものだと本棚のスピリチュアルコーナーにあるようなものもスピリチュアルな批評だと言えるように思うんです。
?それらの問題点はやはり、社会問題の一番重要な部分というのを「霊界」や「癒し」で逃げているという部分にあると思うんですね。そことは戦っていきたい……というのはお答えになってますか?

参加者B  それ今まで批評と思ってなかった(笑)。

岡和田  いやあのね、若松さんのお書きになる批評にはいい批評もありますよ。面識こそありませんが、ご本人のお人柄もいい人ではないかと思いますし、そういう意味では喧嘩をしたくないんですね。罵倒のやりあいみたいに彼となってもしょうがないんです。そのため、彼については『反ヘイト』では名指しをしていません。
?ただ実際にある種の霊的空間が存在してそこでタクシーの運転手がいろいろ幽霊を見ているみたいな言説の前提になっちゃってるという事実があるので、やっぱり、社会学が踏み越えてはいけない一線を踏み越えてるわけですよ。そういった言説の基盤の一つが、スピリチュアル批評が担保してると思うんですね。スピリチュアルな部分の支持基盤を崩したいと。構造を変化させたいんです。

参加者B  ありがとうございます。』


見てのとおり、岡和田晃は、若松英輔の批評が「スピリチュアル批評」であり「問題がある」と思いながらも、同業者から質問されなければ、その「本音」を口にするのを避けていた。これが「出版業界の現実」なのだ。

若松英輔を「うさん臭い」と思っている業界人や評論家は大勢いるのだが、なにしろ若松は「売れっ子」だから、それを批判して「損」をしたくない。
言わば、カトリック教会において『現代の「異端審問所のトップ」であった、ラッツェンガー教理省長官であり、のちの教皇ベネディクト16世と対立することなど、およそ不可能』だったほどではないにしても、やはり「売れっ子」は敵に回したくない。

私はなにも、『喧嘩』をしろとか『罵倒のやりあい』をしろ、などと言っているのではない。
文芸評論家として、普通に、「おかしいものはおかしい」という「評価を語れ」と言っているだけなのだが、若松英輔との接点がさほど多いわけでもない、SF系の評論家である岡和田にして「コレ」なのだから、若松に近い位置にいる小説家や出版業界人が、表立って若松を批判することなど、考えられなかったのである。

しかし、近年の若松は「霊性主義(スピリチュアリズム)」を強調しすぎていたし、またその「反・教会主義」「反権威主義」を、世俗的「人気」を後ろ盾にして強調しすぎた。
つまり、最初は若松の「霊性主義」と言う言葉の目新しさに惹かれた(カトリックの無知な一般信者を含む)一般人も、そればかり聞かされると飽きが来るし、だんだんと「ちょっと、うさん臭いんじゃなの?」と思えてくる。

実際、国分太一・美輪明宏・江原啓之が出演して、2005年から2009年までテレビ放映された人気番組『オーラの泉』の頃は、「スピリチュアリズム」が一大ブームを巻き起こしたが、その後は相応な落ち着きを見せている。
もちろん、このブームによって「スピリチュアリズム」が一般化し浸透したので、ブームは落ち着いた、とも言えるのだが、しかし、ブームが過ぎた後にも、同じ調子でやっていれば「ちょっとこの人、おかしいんじゃないの?」となるのは、「流行」現象の常なのである。

したがって、「文学」の世界において「霊性主義(スピリチュアリズム)」を主導した若松英輔も、そんなものばかり書いておれば、やがて岡和田晃のように「うさん臭い」と感じる人たちが出てくるというのは必然であり、そうなると、カトリック信仰の場においても、若松英輔の「後ろ盾」だった「世間の支持」が弱まったことになり、若松の立場そのものも弱まることになる。
そこで若松英輔は、従来の「反・教会権威」的な立場から「教会権威」の方へすり寄り始めた、というのが今回の対談『危機の神学』であり、前回の対談『キリスト教講義』との根本的な違いなのである。

 ○ ○ ○

じっさい、若松英輔という人は、その人当たりの良さそうな感じからは窺いにくい「強かな現実主義者」の側面を持っている。
つまり、いつまでも「反・教会」的な「霊性主義(スピリチュアリズム)」者であるのは「得策ではない」と判断し、手のひらを返して利口に立ち回るくらいの「要領の良い厚顔さ」は、持ち合わせているのである。

若松英輔は、2007年に「求道の文学――越知保夫とその時代」で第14回三田文学新人賞を評論部門で受賞して、「文学」の世界に足がかりを得るが、本格的に売り出すのは、2011年に『井筒俊彦 叡知の哲学』を刊行して話題となり、その直後から「東日本大震災」に関わる「霊性主義(スピリチュアリズム)」的な著作である、『神秘の夜の旅』(2021)、『魂にふれる 大震災と、生きている死者』(2021)、『死者との対話』(2012)などの刊行によってである。
そのあたりから著述家として売れ始め、2016年に『叡知の詩学 小林秀雄と井筒俊彦』で第2回西脇順三郎賞を受賞して、「評論家」としての立場を確立したと言えよう。(※ Wikipedia「若松英輔」)

若松は、まだ無名だった2007年に『ミッチェル・メイ・モデル 「スピリチュアリティ」と「ビジネス」を高い次元で融合した男。』という、米国の有名なヒーラー(霊的な力で病いを癒す人)であるミッチェル・メイの書いた「ビジネス書」を翻訳刊行し、同書にメイを絶賛する文章を寄せている。
つまり、この頃の若松英輔は、とうていカトリックとは思えないほど、「霊性主義(スピリチュアリズム)」者どころか、ほとんど「神秘主義者(オカルティスト)」だったのである。

ところが、出版業界で「売れっ子」になった後は、この種の「超能力」的なものからは徐々に距離をおいて、あくまでも「精神的」なものとしての「霊性主義(スピリチュアリズム)」者であることを強調するようになる。端的に言えば、ミッチェル・メイのような「超能力者」については、言及しなくなるのである。
そして、このあたりに、若松英輔という人の「世俗的な立ち回りのうまさ」が、すでに窺えたのだ。

若松が著述家として「売れっ子」になる以前から、「ミッチェル・メイ・モデル」的なビジネスにおいて付き合いのあった大瀧純子は、若松英輔の公式ホームページ「読むと書く」(https://www.yomutokaku.jp/diary.html)に次のような文章を寄せている

『2020-09-25??ミッチェル・メイが与えてくれたもの

 あるマンションの小さな一室で、「読むと書く」の講座をほそぼそと始めた6年前、私たちの本業は米国のシナジーカンパニーが製造しているオーガニック・ハーブサプリメントを輸入し、販売することでした。
 52種類のハーブをブレンドした「ピュアシナジー」という製品が一番人気で、それなしに今の私たちは存在しないといっても過言ではないほど、多くの方に支持され、ご愛用頂いてきました。

 そのことと「読むと書く」の講座や若松さんの活躍はまた別のもののように感じてきたのですが、先日、そうではないことに気がつきました。なぜ、今までそこに思い至らなかったのか不思議なくらいです。

 「ピュアシナジー」の生みの親はミッチェル・メイ。60代のユダヤ系アメリカ人です。特別な才能を与えられ、ヒーラーとしての活躍ののち、今から30年ほど前に会社を創業しました。
 彼と若松さんとの出会いは今から20年以上前になります。その不思議な出会いのお話しはまた別の機会に、と思いますが、先日、久しぶりに彼と電話で話しをしました。

 若松さん、ダニエル(現CEO)も参加して、フランクな雰囲気のなか、互いの近況報告をするなかで、「読むと書く」の事業の話になりました。内容について詳しく話したのははじめてです。
 たどたどしい説明で、理解して貰えただろうかと不安を感じるなかで、自分でも思ってもみなかった言葉が口をついて出ました。

「私たちが今やっていることは自分たちの手でピュアシナジーを作って、人々に届けることなんです」
「植物のかわりにコトバを集めて・・・。こころやたましいを深いところから支えられるコトバを」と。
本当にそうだ、やっとそれに気がついた、という驚きと同時に、安堵の気持ちになっていました。

 しばしの沈黙が流れ、何かを深く考えているときの、瞑想中のような、静かなミッチェルの顔が画面に映っています。彼らしい、強さと威厳のある表情でもあります。
  数秒のことが永遠にも感じられるほど、濃密な時間でした。やがて彼はやわらかな笑顔を見せて、ゆっくりと口を開きました。
「あなたたちを心から誇りに思うよ。ほんとうにありがとう」。
気づけば涙が頬をつたい、エイスケも涙をこらえていました。

 続きは次回に・・・

※18年間にわたりシナジーカンパニー製品を販売させて頂きました。2019年、日本での輸入・販売は終了しています。』


『2020-10-30??信じること・・・若松さんとの出会い

 もうだいぶ前になりますが『女、今日も仕事する』(ミシマ社)という本をださせて頂きました。そのなかにも一部書かせて頂いたと思いますが、若松さんとは20年近く前にはじめて会いました。ナチュラルハウスというオーガニック関連商品を扱う会社の商談室で、若松さんは商品を売り込みに来たいわゆる「業者さん」、私は新米バイヤーでした。まだ二人とも30代前半で、息子は小学2年生でした。

 実際に顔を合わせたのはそれが初めてだったのですが、それ以前に、互いの会社が開発した商品(ハーブサプリメントのシリーズ商品)は知っていました。若松さんの方が先に販売していましたが、私はその半年ほどあとに商品を完成させ、アロマセラピーサロンや小売店などに卸し始めていました。その商品を見つけて、誰が開発したのだろう?とずっと興味をもっていたと若松さんはその時話してくれました。その少し前に当時の薬事法が改正され、メイドインジャパンのハーブサプリメントが製造・販売できるようになってすぐのことです。

  当時の若松さんは、とにかく早口で弁が立ち、エネルギッシュ。押しも強めで営業マンらしい印象でした。今も変わらないのは知識が豊富で行動力があるところ。まずは良い印象を持ちましたが、あるとき、仕事の打ち合わせを喫茶店で、という約束をしたさい、2時間も連絡なしに待たされたのは今も忘れられません(笑)。その後、一緒に仕事をすることになるのですが、ほんとうにいろんなことがありました。良いことばかりではありません。会社は何度も危機を迎えましたし、もうこの人とはやっていけないと不信感に陥ることもありました。若松さんも、そして私も、人間としても仕事人としても「未熟だった」のだと思います。

  けれどもここまで一緒にやってこられたのは、互いの可能性を信じられたからではないか、と思っています。まだ本も出されていませんし、仕事も会社も綱渡りで危なっかしかった若松さんでしたが、私にはないものを彼は持っていたし、逆もそうだったと思います。結果的に、会社の代表は私にかわり、同時期から若松さんは(今では多くの)著書を出すようになり、世に認められはじめ、「読むと書く」などの講師、そして大学の教授にもなりました。

  若松さんが言ってくれた今も覚えている言葉があります。「僕は会社をうまくやっていく能力は足りなかったけれど、大瀧さんを見つけてきたことが僕の最大の功績だよ」と。 私から言葉を贈るとしたら、「言葉そしてコトバの力を教えてくれてありがとう。今、この読むと書くの現場にともにいられることが本当に幸せで、誇り高いです。これからもよろしく」と言うかしら。面と向かっては照れくさくて言えないかも知れませんけれど。 そして、信じることで互いの能力を開花させることができる、その経験の重みと素晴らしさを今あらためて実感しています。』


つまり、大瀧と若松は、ミッチェル・メイの会社が販売していた「オーガニック・ハーブサプリメント」の輸入代理店をやっていたというわけである。
そして、その流れで、前記の『ミッチェル・メイ・モデル 「スピリチュアリティ」と「ビジネス」を高い次元で融合した男。』を刊行したのだ。
ミッチェル・メイが、どれだけすごい人物かを、日本人に知らせないことには、肝心の「オーガニック・ハーブサプリメント」も売れないからである。

ともあれ、旧友である大瀧純子の文章で注目すべきは、私たちの持つ「若松英輔のイメージ」とはちょっと違った、次のような部分である。

『  当時の若松さんは、とにかく早口で弁が立ち、エネルギッシュ。押しも強めで営業マンらしい印象でした。今も変わらないのは知識が豊富で行動力があるところ。まずは良い印象を持ちましたが、あるとき、仕事の打ち合わせを喫茶店で、という約束をしたさい、2時間も連絡なしに待たされたのは今も忘れられません(笑)。その後、一緒に仕事をすることになるのですが、ほんとうにいろんなことがありました。良いことばかりではありません。会社は何度も危機を迎えましたし、もうこの人とはやっていけないと不信感に陥ることもありました。若松さんも、そして私も、人間としても仕事人としても「未熟だった」のだと思います。』

つまり、かつての若松英輔は「やり手の営業マン」そのものだったのである。無論「機を見るに敏」な人であったことは間違いないだろうし、それが後に「出版業界」でも役に立ったというのも、想像に難くない。

そして、そうした「機を見るに敏」さというのは、当然のこと、カトリック教会との関係においても発揮されたであろう。それが『従来の「反・教会権威」的な立場から「教会権威」の方へすり寄り』なのではないかという「読み」は、ごくごく常識的なものだと思うのだが、いかがだろうか?

 ○ ○ ○

このようなわけで、本書『危機の神学』は、平たく言ってしまえば「無内容」である。

現教皇であるフランシスコを持ち上げて「弱者の側にあること」を強調して見せるわりには、では「これまでの自分たちはどうであったか」とか「これから自分たちは、具体的に何をなすつもりか」といった話は、完全に全く出てこない。

本書で語られているのは、「フランシスコは素晴らしい」「神学的思考は、深く本質的であり重要だ」「カトリック教会は、歴代教皇において一貫しており、保守だのリベラルだのといったことを超越している」といった、具体性のカケラもない話ばかりで、最後まで「自画自賛」に終始しているのである。

私にこの評価が、嘘だと思うのなら、本書を読んで、是非ともその目でお確かめいただきたい。

イエスの口真似ではないが『はっきり言っておく』(新共同訳)と、本書のような「無内容で口先だけの、権威主義的空言の書」をありがたがるのは、「現実逃避」したいだけの「権威主義者」だけであって、本書のようなものに最も嫌悪を示すのは、私ではなく、教皇フランシスコその人であろう。



(2021年12月26日)

 ○ ○ ○

https://note.com/nenkandokusyojin/

2982:2022/01/12(水) 22:27:00
〈ムラ宇宙〉からの脱出速度は? 一一書評:飛浩隆『SFにさよならをいう方法 飛浩隆評論随筆集』
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 〈ムラ宇宙〉からの脱出速度は?

 書評:飛浩隆『SFにさよならをいう方法 飛浩隆評論随筆集』(河出文庫)

 初出:2021年12月27日「note記事」

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飛浩隆は、若くして作家デビューしたものの、自身の個性を踏まえて、専業作家にはならず、勤め人をしながら、その傍らマイペースで作品を執筆発表してきた「日曜作家」である。しかしその彼も、一昨年の定年退職で、晴れて「専業作家」となった。
年齢のこともあるので、急に執筆ペースが上がるということもないだろうが、今後の一層の活躍が期待されるところであるから、私は期待している。している(繰り返し)。

なお、飛が定年退職した「職業」とは、本書所収のエッセイ「マザーボードへの手紙」に『私はこの三十年のあいだ、小説を書くかたわら、貧困や障がい福祉、精神保健の分野に携わる仕事をしてもきました。』(P294)とあるとおりであった。

さて、本書は、2018年に刊行された『ポリフォニック・イリュージョン 初期作品+批評集成』のうち、非フィクションの第二部と第三部をベースに、親本にはなかった文章を加えた、オリジナル文庫版である。

したがって、本書のタイトル『SFにさよならをいう方法』というのは、今回新たにつけたれたものであり、同タイトルの収録作があるというわけではなく、著者も「あとがき」にあたる「ノート」の冒頭で、

『いきなりお詫びをしますが、本書のどこを読んでも「SFにさよならをいう方法」は書いていないと思う。ですからそこを知りたくてこの本を手に取った方は、お手数だがどこか他所を当たっていただきたい。誠に申し訳ないです。』(P308)

と、少々おどけ気味に書いているとおりだ。

しかし、当然のことながら、作者のこのような言葉を真に受けるようでは、読書家を名乗る資格はないだろう。
作者が『SFにさよならをいう方法』などという、いささか挑発的なタイトルを、あえてつけた以上、当然そこには、明確か否かは別にして、何らかの「意図」はあったに違いない。

だから、作者がその意図を明確に「語れない」あるいは「語ろうとしない」のであれば、それを読み解くことこそが、作者から読者に与えられて「使命」でもあれば、「挑戦状」だとも言えるだろう。

作者から手袋を投げつけられながら、それに気づかないというのでは、あまりにも間抜けではないか。
当然、目の開いた読者であれば、この挑戦を堂々と受けて立ち、むしろ返り討ちにすべきであろう。SFファンの多くは「開きメクラ」なのだと作者が舐めていようと、「俺は、そんな奴らとは一味違うぜ」というところを見せるのが、「読める読者」の矜持というものなのだ。

しかしまた、その「読み」とは、単に「作者が、読者の目を惹くために、あえて挑発的に逆説的なタイトルを考案したのだろう」なんていった「マーケティング」レベルの回答では、つまらない。
飛浩隆の読者なのであれば、「作中人物」として恥じない「読み」の世界を開くべきなのだ。仮に、作者が「マーケティング」レベルのことしか考えていなかったとしても、私たちは、そんな作者の無意識にまでサイコ・ダイブして、その無自覚な欲望とその意志を、無理やりにでもサルベージして見せるべきなのである。

よって、このレビューは、飛浩隆自身が自覚しないところまで読み解くものとなり、場合によっては、飛にとって不本意な「読み」となるかもしれないが、そこは進んで「テキスト」を公開し、まな板の上に乗った魚として、覚悟していただくしかないだろう。私は、飛浩隆の中に秘められた「SFにさよならをいう方法」を、出刃包丁を使ってでもサルベージ(腑分け)するのである。したがって、これは「でっち上げ」などではない。

 ○ ○ ○

さて、脅しはこれくらいにして「読み」に移ろう。

本書には、心から共感できる意見を、いくつも見いだすことができる。
それは、飛浩隆という作家の個性や思考形式が、基本的に私の趣味と合致しているからで、その「小説作法」において同じような「文学観」を持つのも、ごく自然なことだと思う。

しかしながら、私は「小説」が書けない人間だし、本書は「評論随筆集」ということなので、ここでは「批評家としての飛浩隆」について考えてみたい。

まず、飛浩隆という人は、じつに真っ当な「大人」である。ダテに、世間に揉まれながら「職業人」として定年まで勤め上げたわけではないようだ。
飛の言葉は、きわめて率直でまっすぐなものが多く、つまらない「職業作家的レトリック」に逃げるようなことはしていないようである(樋口くん、読んでるか?)。


(1)『 いったいいつの間にここまで成り下がったのか。つい昨日も国民総がかりで、とあるお笑いの人に頭を下げさせていたが、貧すりゃ鈍すとはこういうことかとしみじみ理解した。しかしこういう世の中をつくる素因はつねにわれわれの裡にあった。とうとう日本は「風刺文学」が必須な一一それなしでは正常な精神さえ維持できない状況に追い込まれちまったようだ。
(中略)
 なにより怖いのは、俺たちの知力はとっくに「減退」しているんじゃないかということだ。小利口になればなるほど大事なところが抜けてきていたら? いつか破綻の日が来ても俺たちは「えーなんでだろう、こんなに正しくやってきたのに!」と思うだけなのだ。
「第六ポンプ」は救いのない苦いお話だ。だがわれわれは鼻をつまんでこの薬を呑み下さなければならない。
 少しでも馬鹿になる日を遅らすために。
 風刺小説は溜飲を下げるためにだけあるのではない。その刃が自分に向いているのだと想像する力をやしなうためにもある。』
(P88〜89 「いつかみんなが愚かになる日のために 一一パオロ・バチガルビ『第六ポンプ』」より)

いきなり、本質的な問題に踏み込んできたが、この文章は「2012年」発表のものである。

「バブル崩壊」後の長い長いデフレが続く中で、私たちはその出口に到達できるという希望を見出せないまま、経済的な「中流」の没落によって、一部の金持ちと多くの貧乏人に二分される格差社会の到来に直面し、おのずと「憤り」や「妬み」を抱え込むことになった。
飛がここで言及しているのは、人気お笑い芸人の親が「生活保護」を受けていたということに対して、経済的に親の面倒を見ていなかった、息子であるお笑い芸人が、世間からの手酷いバッシングを受けたという事件である。

言うまでもないことだが、親から独立して別世帯を持った子供が、親の経済的面倒を見なければならない「義務」などない。親は親、成人した子供は子供でなのである。
無論、お互いに助け合うことが望ましいのは言うまでもないことだが、「望ましい」こととは、すなわち「理想」であって、「義務」ではない。見知らぬ「あかの他人」でも、困っている人がいれば助けてあげるのが「望ましい」のは言うまでもないが、それは「義務」ではないので、多くの人は、そこまではしないだろう。私だってしない。そんなことを個人的にしていたらきりがないので、どこで線引きするかは、個々が個人的な事情を自分なりに勘案して、自分で決めるしかないことであり、何の責任も負う気のない「あかの他人」が、とやかく言うことではないのである。

したがって、このお笑い芸人の件だって、同じなのだ。
この芸人さんを責めた人たちが、では、この芸人さんに代わって、その「可哀想な親」の面倒を見てやるのかといえば、無論そんなことは考えてもみなかったはずだ。要は、その程度の人たちなのである。

それに、私たちは、ダテに「税金」を払っているわけではない。いろんな理由で食い詰めれば、最後は「国」が国民を救うと言うのは、それこそ「義務」であり「使命」なのだ。つまり「生活保護」は、「国」の義務なのであって、それが出来ていないのなら、責められるべきは、子供である芸人さんではなく、「保護責任者」である「国」の方なのである。

だが、なぜ「国」ではなく、「息子であるお笑い芸人」が責められたのかと言えば、「彼が、人気芸人であり、金儲けをしているだろう」ということで「妬まれた」からだ。想像力貧困な人には、到底「国」は「妬み」の対象にはならないのだ。

つまり、彼の芸人さんを「責めた」人たちは、「親孝行的な人間倫理」において彼を責めたつもりなのだろうが、じつのところそれは、貧乏人の「妬み」でしかなかったのである。だから、飛浩隆はここで『貧すりゃ鈍すとはこういうことかとしみじみ理解した。』と書いていたのだ。

そんなわけで「金持ち」や「有名人」というのは、庶民から妬まれがちだ。
しかし、それは彼らが、その「カネ」や「有名性」を得るに値する「仕事=社会貢献」をしていない、と思われているからでもあろう。相応の努力が認められているのであれば、妬まれることもないだろうからである。

無論、その無知ゆえに、他人の「努力」を知らず、盲滅法に「妬む」ような馬鹿も多いが、そういう馬鹿は適切に反批判されて泣きを見させるべきであり、ここではそういう低レベルの人間は問題にしない。
問題なのは、批判されてしかるべき「汚い金持ち」や「汚い有名人」の方であり、私たちは、そういう輩を適切に「批判」しなければならない。批判するべき相手を間違えることによって、「批判すること」それ自体が間違いだと勘違いされるような状況を惹起すべきではないのである。

しかし、適切な「批評」「批判」というものは、そう簡単なものではない。
具体的に言えば、「批評」「批判」に当たっての「最低限のマナー」とは、反論に対する応答責任を果たすという「フェアプレイ精神」で、これがなくては話にならない。「斬れば、斬り返される。その覚悟で斬れ」ということだ。

だから、「匿名の陰に隠れて」批判したり、「公場対決」を挑まれた途端に逃げ出すとか、「そんなつもりはなかった」などという泣き言を言うような輩は許してはならない。そういう輩こそ、「見せしめ」にでも、斬り殺さなければならないのである。


(2)『 すると判断の分かれ目になるのは、この作品(※ 荒巻義雄『もはや宇宙は迷宮の鏡のように』)に徹頭徹尾「作者」しか登場しないことを是とするかどうかだ。私はSFに「他者との激突が起こる場」であることを期待し、あるいは「だれも見たことのない他者を生みだす場」であってほしいと願う。あらゆる細部が作者の掌中にあることに安住した、あるいはカバーデザインが象徴するようにすべてが作者の脳の遍歴として収束してゆく本作を、私は大賞にふさわしいと確信できなかった。』
(P112「第38回日本SF大賞選評」)

全く同感である。
「世界は、私の頭の中にしかない」というのは、一面の「科学的事実」ではあるのだが、それは「一面の事実」でしかない。例えば、私が飛浩隆をいきなり殴って「これは、あなたの頭の中でのことだ。したがって、殴られたと思っているのは、あなたの主観であって、私には関係のない話だ」では済まない。「済ませられるものなら、済ませてみろ」って、わけだ。
私は、荒巻義雄の「時計台ギャラリー」で絵を買ったこともあるけれど、これも「脳内現象」ではなく、代金は、ちゃんと荒巻さんのところにも入ったはずである。
ことほど左様に、私は、わかりやすく親切な「他者」なのであるから、感謝して欲しいくらいなのだ。


(3)『すこしだけ憂慮しておきたい。ジャンルの規矩の中で書きつづけると、なんというのかな、とても自由に書いているはずがおのずと「許される範疇」「需要に応えること」におさまってしまう、ということが起こるのです。無限に高い天井の下で書いても、それはやはり天井の下なんですよね。もちろんSFにも一一つまり俺にも同じような限界がつきまとう。産みの苦しみ
ではなく「倦み」の苦しみ(笑)。「あまりにもSFである」ことの倦怠が。』
(P145「第3回ゲンロンSF新人賞講評(抄)」より、琴柱遥「父たちの荒野」講評部分)

そうなのだ。
残念ながら、人間というものは、すぐに「ムラの論理」に染まってしまうもので、それが当たり前になって「ムラの論理」が見えなくなってしまう。それが、自身の可能性を限界づける「柵」になっていても、そこまで行ったら、無意識に「回れ右をして帰ってくる」自分を、まったく認識できないようになってしまうのである。

だから、私たちは意識して「ムラの境界」を侵犯し、大いに顰蹙を買いつつ、ムラに貢献しなければならない。
いとうせいこうの『解体屋外伝』風に言えば「アンジノソトニデロ…オレタチニハミライガアル」というわけで、私は「デプログラマー(解錠屋)」なのである。


(4)『飛 (※ 飛の作品『グラン・ヴァカンス』の、ある部分が)残酷だ残酷だ、っていう感想がウェブでたくさんあった。もちろんそう読まれるように書いてある。その残酷さっていうのはゲストに担保されているわけで、当然読めばゲストは読者であるという図式が見える。
巽 人間であり、ね。
飛 読んでいて登場人物がひどい目にあっているというのは、それはあなたたちが読んでいるからで、その痛みは、誰にどの責任があるのでもないですけどね、読者もまた担うべきことなのかなあ、と。
巽 読者もまた加害者だ、というヴィジョンですよね。読むのをやめれば誰も死なないという、あたりまえのことではあるんですが。
飛 あなたたちもその残酷さを楽しんで読んでいるんでしょう、という。』
(P218〜219「レムなき世紀の超越」)

私はよく「厳しい批判論文」を書くから、昔は「そんな言い方をしなくても」とか「もっと穏便に書けないか」というような助言をしてくれる人もいた。しかし、その人は、まったく分かっていない。

要は「あんたみたいな鈍感な人が多いから、ここまで書かなければならないのだ。ここまで書いても、まだあんたは、この批判が、あなた自身のことだと分かっていないようだが」ということなのである。


(5)『 私たちの世代は、公正で賢明な社会をあなたたちに受け渡すことに失敗した。この十年というもの公共の言説はけがされ、高官の嘘は糊塗さえされないまま、いまこのときも大手を振って罷り通っています。』
(P299〜300「若い友人への手紙」)


まったく、同感である。
だから、私は子供を作らなかった。結婚はしなくても、子供なら欲しいような気もするが、この先の世界を考えれば、無責任に子供など作れるものではない。
世間では、まともに子供を育てられない馬鹿夫婦が、セックスばかりしては、子供をポコポコ作っていたりするが、子供にとっては良い迷惑。「親ガチャ」という言葉が流行るのも当然である。
私に言わせれば「ボーッと子供を作ってんじゃねえよ!」ってことになるが、それでも作ってしまったのであれば、せめて自分個人の生活努力とともに、今の日本の政治について、さらには地球の未来についても、責任を持って行動する義務があると思う。なにより自分の子供の未来のためにだ。


(6)『 記憶しておこう。なによりじぶんの愚かしい失敗や、心境や見解の変化を一一変節を。いまあなたの手にあるこの本も、たぶんそうした「手紙」の一通である。

 2021年11月
                     飛 浩隆』(P311「ノート」)

これは、要は「未来の自分への手紙」ということであろう。しかし、問題はそんなことではない。
なぜなら、飛浩隆はすでに「変節」しているからで、それを「今」問わずして、「未来」に先送りしているのでは、そんなものはクソの役にも立たない、保身のための「アリバイ工作」にしかないからである。

例えば、こないだ私がぶっ叩いた、樋口恭介の『異常論文』の問題であるとか、「SFマガジン〈幻の絶版本〉特集中止問題」なんかも、飛浩隆は、比較的、樋口に近い「大森望グループ」の一人(みたいなもん)なんだから、公に一言あっても良いのではないか?
身近な問題になると、いきなり口を噤むというのであれば、批評なんか辞めちまえ、ということにしかならない。

無論、実際問題として色々あるだろうが、作家というのは、書いてナンボなのだ。

どうせ「SFにさよなら」する気などないのだから、せめて、どうなったら嫌でも「SFにさよなら」しなければならないのか、その時にはどうするのか、そのくらいのことを「書いておく」べきではないか。そしてそれこそが「SFにさよならをいう方法」なのだ。SFという「見えない柵」を乗り越えていく方法なのである。

本書の「解説」で、東浩紀が、次のように書いている。


『小説家も批評家もじつはとても似た作業している。けれども目的がちがう。小説家は創作=分析で世界を完結させようとする。対して批評家は創作=分析で世界を開こうとする。』
(P313、東浩紀「解説」)

まさに、そのとおり。
「批評家」は、柵をぶち壊して(いや、可能なら解錠しよう)、世界を開くのが、その使命なのである。

そんなわけで、最後に、茨木のり子の有名な詩「自分の感受性ぐらい」からの引用を、期待すべき「専業作家」である飛浩隆に贈りたいと思う。


 初心消えかかるのを
 暮らしのせいにはするな
 そもそもが ひよわな志にすぎなかった

 駄目なことの一切を
 時代のせいにはするな
 わずかに光る尊厳の放棄

 自分の感受性ぐらい
 自分で守れ
 ばかものよ




(2021年12月26日)

 ○ ○ ○

https://note.com/nenkandokusyojin/

2983:2022/01/12(水) 22:28:02
ゴーリー・まどか・フィオリーナ 一一書評:三堂マツリ『ブラッディ・シュガーは夜わらう』第1、2巻
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 ゴーリー・まどか・フィオリーナ

 書評:三堂マツリ『ブラッディ・シュガーは夜わらう』第1、2巻(コアコミックス)

 初出:2021年12月29日「note記事」

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意外なほどに、安心して楽しめる、心優しいマンガである。

絵柄的には「カラフルでスタイリッシュな、エドワード・ゴーリー」という感じだし、その世界観も、小道具的なもののビジュアルも、一世を風靡したテレビアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』を思わせるので、一見「これはどう見ても、ダークな話だろう」と思ってしまう。また、タイトルに「夜わらう」とあるとおりで、夜のシーンが多い。

しかしながら、実際に読んでみると、特殊なサイコ・セラピーを行う兄弟医師が、孤児院から引き取った「感情を持たない少女」バジルの感情を取り戻そうとして奮闘する、とてもわかりやすい「妹愛」の物語である。

チャーチとジェドのグリズリー兄弟は、慎重で冷静な兄とお調子者の弟という、好対照にわかりやすい兄弟医師だが、彼らの医術は、「サイコ・ダイブ」とか「サイコ・ディテクティブ」と呼ばれる種類のもので、要は「患者の心の中に入っていって、その深層に巣食う病巣を退治することで、患者を救う」といった「超能力」的なものだ。
これは、夢枕獏の伝奇SF『魔獣狩り』に始まる「サイコ・ダイバー」シリーズが最も有名なところだろうが、日本で最初にそうした手法を描いたのは、小松左京の『ゴルギアスの結び目』の「サイコ・ディテクティブ」あたりらしい(ちなみに、宗教学者の中沢新一は、土地の歴史的深層に潜る、自らの技法を「アース・ダイブ」と名付けている)。

「サイコ・ダイブ」は「心理分析のビジュアル版」みたいなものなので、「不思議で不気味な世界」を描くのにもってこいのSF的な設定であり、有名なところでは他にも、萩尾望都の『バルバラ異界』だとか、筒井康隆の『パプリカ』といった傑作がある。

で、本作の場合、サイコ・ダイブして患者を癒すのだが、グレゴリー兄弟の目的は、単に患者を癒すことではない。
グリズリー兄弟が専門とするのは「ネガ」と呼ばれる病で、これは通常の精神病のように、心が何らかのストレス的なものによって「内発的に病む」というのではなく、(とうてい生物的なものとは思えないのだが)病原体的に一種の物理的「実体」を持つものとしての「ネガ」が、人の弱った心に「とり憑く」ことで発症するものだ。つまり「ネガ」とは、「病名」でもあれば「病原体」をも指してもいるのである。

この「ネガ」には多種多様な種類があり、「個性」といって良いほどの個別的な特性と様々(に不気味)な象徴的形態を持っており、これ退治すると、「ネガ」は実体としての「死骸」を残すのだが、この「ネガの死体」の中に、バジルの「感情を回復する成分」を含んだ、未知の「個体」あるいは「種類」が存在する、とされている。

つまりグリズリー兄弟は、「ネガ」患者を治療しては、各話の最後では「ネガの死骸」を調理してバジルに食べさせて「どうだ?」と訊ねるのだが、バジルは「美味しかったよ。でも、これじゃないみたい」などと答えて、「感情」を取り戻すにはいたらず、兄弟は次の「ネガの死体」を求めて患者を探すという、本作はそんな物語なのである。

すでにお気付きの方もあろうが、これは手塚治虫の『どろろ』のパターンだと言えるかもしれない。要は、「失われた、人としての完全性」を取り戻すために、毎回、化け物を退治していく、という物語である。

このように本作は、お話自体としては、それほど目新しいところはなく、見かけによらないグレゴリー兄弟の「妹」への溺愛ぶりと、「感情」を表さないけれども、その飾らない言動が可愛く愛おしいバジルに存在によって、普通に楽しく読める作品になっている。

だが、それでもこの作品のユニークさは、やはりその「ダークな絵柄や世界観」と「心優しく可愛い物語」の「ギャップ」にあると言って良いだろう。
「この絵柄、この世界観で、これをやるか」と思わないではないけれど、逆にどちらかだけでは、よほど突き抜けたものにしないと、ヒット作にはならなかったのかもしれない。

以上、ここまで読んでくださった方は、薄々感じておられるだろうが、この作品は、いわゆる「傑作」といったものではない。ことさらに「すごい」と言うような作品ではないのだが、しかし、グレゴリー兄弟にとってのバジルがそうであるように、本作が「可愛く愛おしい作品」であるというのは間違いない。もちろん、趣味ではないという人もいるだろうが、この作品は、悪意評価の集まりにくい、独特の魅力を持った佳作なのである。


ちなみに、本稿のタイトルを「ゴーリー・まどか・フィオリーナ」としたが、無論、「ゴーリー」はエドワード・ゴーリー、「まどか」は『魔法少女まどか☆マギカ』なのだが、最後の「フィオリーナ」は、ちょっとマニアックに方向性が違う。「フィオリーナ」とは、高畑勲監督作品のテレビアニメ『母をたずねて三千里』のヒロインの名前である。

『母をたずねて三千里』は、イタリアのジェノバから南米アルゼンチンに出稼ぎに出た母に会うために、少年マルコがはるばると旅をする物語だが、この作品の準レビュラー的な存在として、旅芸人のペッピーノ一座(父と三姉妹)が登場し、このペッピーノの次女で、操り人形を芸を見せる「無口な少女」がフィオリーナである。

アニメのヒロインというのは、おおむね明るいものである。もちろん、おとなしかったり、オツに澄ましていたりする「優等生キャラ」とか、ギャグ要素のある作品なら、殊更な「陰キャラ」というのもあるだろう。だが、それらはいずれにしろ「誇張された性格」設定の「異色キャラ」なのだが、リアリズムの演出家である高畑勲の描いたフィオリーナは、「オーソドックスな明るいキャラの裏返しとしての、暗いキャラ」ではなく、自然に無口でおとなしく、しかし、心の中に優しさと強さを秘めたキャラクターとして、見事に造形されていた。一一私は、このフィオリーナが大好きだったのである。

で、ここで私が言いたいのは、無論、バジルがフィオリーナに似ている、ということだ。
バジルは「感情がない」とされているが、決してロボットのような「硬い」少女ではなく、その「感情」が外からは見えにくいだけ、にしか見えない。
そもそも、なぜバジルに「感情がない」のか、今のところその説明が、作中ではなされておらず、「バジルには感情がない」ということを大前提として、グレゴリー兄弟がバジルのために奔走する物語が描かれているのだ。

だから、これはもしかすると、いや、私の「読み」では、バジルに「感情がない」というのは、単なる誤認なのではないだろうか。実際、バジルは今のままでも、人に優しく、周囲を癒す存在であるのに、彼女に「感情がない」などということが、あり得るだろうか。

となると、この作品の最後に明示される主題とは、「人間的な感情」とは何か、ということなのではないだろうか。
ことさらに、泣いたり笑ったり怒ったり、あるいは、人に優しくしたり冷たくしたりするのが「物語的な感情」表現の常なのだが、それは所詮「作劇」上の必要性から求められる「見えやすい感情」なのであって、人間の「本当の感情=深い感情」というのは、そんなものではないのではないか。

だとすると「実体を持って見える心の病」としての「ネガ」と、「見えない感情」の持ち主であるバジルとは、真逆に対応していると言えるのかもしれない。
こう考えれば、バジルには「心がある」と、「ネガ」は存在しない、という対応で、この物語は締めくくられるのではないかと、私は今から、この物語をラストを、あれこれ想像して楽しんでいる。

少なくとも、最終回で、ついにバジルの感情を取り戻すための「ネガの死体」が手に入り、バジルが「感情」を取り戻して「普通の少女」になって「めでたしめでたし」といったような、陳腐な物語にはならないと、私はそう確信しているのである。



(2021年12月29日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

2984:2022/01/12(水) 22:29:47
一億総〈ぴえん〉化した日本 一一書評:佐々木チワワ『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』
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 一億総〈ぴえん〉化した日本

 書評:佐々木チワワ『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』(扶桑社新書)

 初出:2021年12月31日「note記事」

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「ぴえん」という言葉が目を惹いた。見たことも聞いたこともない言葉だが、どうやら例によって、流行中の「若者言葉」らしい。で「ちょっと勉強に読んでみるか」と読んだところ、抜群に面白かった。

しかし、これは誰が読んでも面白いという話ではない。私が昨今、引っかかっていたこと、それに発する問題意識にピタリとハマった内容だったため、「目から鱗」の面白さだったのである。

どういうことかというと、例えば、今年「note」を始めてから何度か言及していることなのだが、「note」に「投げ銭」みたいなシステムがあったり、ど素人の文章に「課金」が設定されていたりといった、私に言わせれば「プロのライターごっこ」みたいなもの、あるいは「フォローをお願いします」みたいな「パトロン乞食」みたいなことを恥じない様子が、私にはじつに気持ち悪かった。

カネももらうのなら、プロになってからしろよ、というのが私の感覚だし、そもそもカネをもらうのなら、もらうに値する「中身のある文章」を書けよ(書けるように努力しろよ)と思うのだが、どうも「note」利用者の少なからぬ人が、そこに何の疑問も感じずに「どこかで聞いたような話(無料記事)の二番煎じ」を垂れ流していること、その域を出ていないことに、自覚もないから抵抗もないらしい。私は、そんなところに「違和感」を感じ続けていたのである。

じつは先日、フォロワーなのかそうでないのかも知らない方から、サポートとして500円を送ってもらったのだが、私はそもそも「サポート」というものがよくわかっていなかったし、ネットにアップした文章でお金をもらおうなんて思ったことがなかったので、その方へはお礼を述べた上で「でも、知らない方からお金をいただくのは落ち着かないので遠慮したいのだが、どうしたらいいのかな?」というようなレスポンスをお送りした。そしてあれこれ検索して、サポートを非設定に切り替えたのだが、はたしてこれは相手の方にも伝わっているのだろうか。
ともあれ、デフォルトでこんな設定になっていることすら私は知らなかったし、そもそも興味がなかったのである。

私はこれまでに何度か、文庫本の解説文など原稿料が発生する文章を書いたことがある。これは出版業界の友人が「これ、書いてみない」と、私好みの話を持ってきてくれたので引き受けたのだが、私はあくまでもアマチュアなので「原稿料はいらないけど、そのかわり好きに書かせてください」という条件で引き受けた。私にとっては、1回きりの数万円のカネよりも、自分の納得できる文章を書き、それを広く公けにすることの方が重要なので、そういう条件をつけたのである。要は、カネで買われて文章を書いたわけではない、ということだ。

それでも、原稿料をくれたところもあったし、あまり儲けが出そうにない本の場合は、原稿料の代わりにその本を10冊とかもらうことにした。そうすることで、少しでも売り上げに貢献できたようなかたちになるからだ。そもそも、売れてほしいと思わないような書籍に文章を書く気などないから、これは当然である。
「note」を始めた頃に、自己紹介がわりの文章として「私自身などどうでもいいんだけれど、書いたものは読んで欲しいので、自己紹介します。」というタイトルの記事をアップしたけれど、これは今も昔も変わらない、私の気持ちであり本音である。

とにかく、書いたからには、多くの人に読まれたい。これは「支持されたい」とか「褒められたい」とかいうことではない。「支持もされるし、反発もされる」で良いのだ。とにかく、多くの人に読まれ、多くの人の心に爪痕を残して、影響を与えたい、そのことで少しでも世の中を変えたい、というのが、私が文章を公けにする意図であり目的なのだから、カネのことなど、端から眼中にはないのだ。
万が一にも、端金に目が眩んで筆を曲げるなんて貧乏くさいことをすれば、それは恥ずべき本末転倒でしかなく、「カネなら本職で稼げばいい。文章書きは、徹底的に誇り高きアマチュアリズムでいく」というのが、私の考え方なのであった。

そして、そんな私には、「noteの多くのクリエイター」が気持ち悪く感じられた。
とにかく「読者に媚びまくり」「自分を売り込む」こと(つまり、風俗店の看板にも似たこと)を恥ずかしいとも思わないその感覚が、見ているだけでこっちが恥ずかしくなる、という感じだったのだ。

だが、本書『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』を読んで、そうした「今どきの気持ち悪さ」がどのようなところに由来するものなのかが分かり、かなりの部分で腑に落ちたのである。

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本書著者の佐々木チワワは、大学で社会学を学ぶ現役大学生だが、15歳の頃から「歌舞伎町」に出入りしており、現在は、そのホームベースとも呼べる「歌舞伎町」の文化を研究し発信している。また、そうした記事が編集者の目に止まって雑誌連載、そして第一著作となる本書の刊行となったそうだ。
つまり、著者自身が「歌舞伎町界隈に生息する、今どきの若者」の一人だったのだが、それがそのまま「研究者」を兼ねる存在となった「二重性」の人だと言えるだろう。

「ぴえん」というのは、歌舞伎町界隈に集まる「今どきの少女たち」に流行している言葉で、ちょっと前に流行った「卍」と同様の流行語だが、その意味するところは、例によって幅広く流動的である。
Wikipediaには、基本的な意味として、

『ぴえんは、泣いているさまを表す擬態語。泣き声の「ぴえーん」を省略し、SNS上やメールなどのやり取りで「(涙)」の意味でより汎用性の高い言葉として使われる。悲しい時にも嬉しい時にも使用され、深刻さは伴わない。目を潤ませた絵文字(Pleading Face〈訴えかける顔〉、?)とともに用いられることが多い。』

などと説明されているが、ここでも『汎用性の高い言葉』とされているとおりで、この言葉をつかう若者たちの気分次第で、その意味するところは、かなりの幅を持つにいたっている。

だが、それでもごくごく大雑把に言うならば「ちょっと情けなくてヤバイ(すごい)」みたいな感じだろうか。
基本的には、肯定的な意味の言葉ではないのだが、否定的というわけでもなく、あまり積極的・肯定的でないところに価値を見出しているというニュアンスがあるようだ。

ともあれ、この言葉の意味については、本書を当たってもらうとして、私にとっては、この言葉自体は、それまでの「若者流行語」と同様に、ふーん、こんなのが流行っているのか、というほどの意味しかなかった。
ところが、そんな、歌舞伎町に集まる「ぴえん」な少女たちの行動として注目されるのが、「ホストクラブのホストへの推し」だというところで、私との接点が出てきたのである。

こちらは多くの人も知るとおりで、「推し」というのは、自分が他者に「(これはすごいよ、素晴らしいよ、と)推薦する」対象、あるいはその「推薦的バックアップ」行為の、双方を指している。
平たく言えば、その推薦称揚対象としての「推し」と、それにカネを遣う(投資)行為が「推し」なのだ。

最近で「推し」の対象と言えば、まず「アイドル」ということになるだろう。だが、ネットとスマホの普及にともない、「推し」のアイドルのコンサートに行ったりCDを買ったりするだけではなく、同じCDを何十枚も買ったり、関連商品をすべて買ったりと、要はその過剰な「金銭的投資」において、自身のファンとしての「ステータス」を誇示する行動が、近年の「推し」の世界では広がっており、「見えない気持ちではなく、見える金銭的投資」というのが、もはや恥ずかしいものではなくなっているのである。

そして、歌舞伎町の「ぴえん」の少女たちは、その「推し」の対象をホストクラブのホストに求め、ホストに貢ぐために売春までもして、もはや「貢ぐためだけに生きている」ような者も少なくない、というのである。

さらに、これは貢がれるホストの方も同じで、ホストは客を見持ちよく飲ませてナンボという「接客業」と言うよりも、自分にカネを貢いでくれるファン(フォロワー)をどれだけ作れるかで、その「存在価値」が決まる、というようなふうになってきているのだそうだ。
要は、ホストが「神」であり、客の方が「奴隷的信者」といったような関係さえ発生しているのである。

「カネを貢ぐことで、特別扱いをされて、自分の価値を確認する客」と「多くのカネを貢がせて、カネを稼げる者(フォロワーの多い者)こそが勝者であると考えるホスト」。
両者は、そうした自分に満足し、そのような生き方に疑問を感じることもなく、そうした価値観の中で、喜んだ苦しんだりしながら生きているのである。

 ○ ○ ○

一方、私はと言うと、彼らの世界とは、およそ真逆の価値観に生きていると言えるだろう。
そもそも、酒は飲めても、自分では進んでは飲まないから、飲み屋だの風俗店だのには、昔からトント縁がない。そんなものにカネを使うのは馬鹿らしいとしか思えないからだ。

また、私は昔から「興味本位で、誰もがやることをやる」ということはなかった。
例えばタバコも、ふざけて一度くらいは、親のそれをふかしたことはあっても、タバコを吸いたいとは一度も思わなかった。なぜなら「煙を吸って、どうするのだ。体に悪いに決まっているし、それにカネをかけるなんて、どう考えても馬鹿のすることだ」と、かなり早い時期から考えていた。

このように、私は「自分の価値観」というものを、かなり早い時期からハッキリと持っていたのだが、こうした私の根底にあるのは「他人と同じことはしたくない。人の真似はしたくない」という、「個性」崇拝である。
「俺は、俺でしかない、オンリーワンとしての価値ある人間になりたい」と思っていたから、安直に人真似をして「粗製濫造の複製品」になる気など毛頭なかった。流行歌の歌詞に慰められるまでもなく、私は、特定ジャンルにおける「ナンバーワン」ではなく、真の「オンリーワン」になりたかったのである。

だから、流行しているものについても、自分の「美意識」に照らして「これは面白い」「これは下らない」と判断した上で取捨選択してきた。
つまり、流行には、基本的に「懐疑的かつ警戒的」であり、流行っているという理由だけで飛びつくようなことはなかったし、それに価値を認めても、それは「世間のフィルター」を通しての評価ではなく、あくまでも「私個人のフイルター」を通した上での評価であって、その場合それは、すでに「私のもの」であり、「他人のそれとは違うもの」だったのである。

そして、私は、そんな自分を、特に「個性的」だとは思っていなかった。むしろ「これといった、誇るべき個性」が無いからこそ、世間に流されて「その他大勢」にはなりたくないと、常に考えてきたのである。

40歳くらいの頃だったか、高校3年時クラス会があった。卒業の翌年に開かれて以来の、二度目の同窓会である。
同窓会役員が、やる気のないやつだったので、そんな具合だったのだが、私自身は、高校生当時から、二人の親友以外には、ほとんど付き合いもなければ興味もなかったので、同窓会がなくてもぜんぜん平気だった。そもそも、その親友たちであっても、めったに連絡など取らなかったのである。
私は基本的に、「群れ」るのが嫌いで、祝祭などの「大騒ぎ」や「非日常」が好きではなかった。それは「逃げ=現実逃避」だと感じられていたのであろう。

ただ、20年も経てば「みんなどうなっているのだろう」という興味があって参加したのだが、端的にいって「つまらないオジサンオバサン」ばかりにしか見えず、うんざりしてしまった。
私の友人というのは、基本的に、選りすぐりの「濃い」人間ばかりなので、会話も普通に「濃い」。ありきたりの話題をありきたり話すなんて退屈なことはしなかったので、同窓会は、退屈きわまりなくて、つまらなかったのだ。

しかし、この同窓会でも収穫はあった。担任だった先生に「あの頃の私は、どんな子供でした?」と質問して「あんたはね、何って言うか、どーんとかまえてたわね」みたいな回答をもらえたことだ(こんな質問をする者も、めったにいないだろうが)。
自分としては「普通のオタクな男子高校生」のつもりだったから、「太々しい」なんて自覚など毛頭なかったのだが、たぶん、徹底したマイペース、(勉強も含めて)興味のないことには見向きもしないといったところが、そういう印象を与えたのではないかと、それなりに納得できた。一一やはり「栴檀は双葉より芳し」だったということであろう(笑)。

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で、そんな私からすると「他人に貢ぎ、そのおかげでチヤホヤされたって、そんなもの偽物なんだから、無意味だろう」としか思えないし、一方「カネなんか、欲しいものがそこそこ買える程度に稼げればいいのであって、カネを稼ぐために、すべての生活をそれに傾注するような生き方は、本末転倒だろう」とした思えない。そもそも「人間、カネだけでは幸せになれない」と本気で思っている(例えば、カネで本は買えても、読書する「時間」は買えないし、「読解力」も買えない)。

例えば、宇宙へ行った前澤友作なんかを見ていても「この殊更な幸せアピールは、満たされない人特有のものだな」という感想しか持てない。人間、本当に満たされれば、ことさら他人の前に出て、自分の存在価値をアピールするなんてことはしないと思うからだ。

つまり、私にすれば「ぴえんの少女たち」も、客に貢がせて大金を稼ぐ「ナンバーワンホスト」も、宇宙まで行ってバトミントンをする前澤友作も、同じように「寂しい人」に見えるのだ。
「なんでそんなに、他人からの承認が欲しいの? 自己承認できないの?」と。

人間、いかに他人から見下されようと馬鹿にされようと、自分が本気で満足していたら、それで完全に「幸せ」なのである。他人から、見下されているんじゃないかとか、馬鹿にされているんじゃないかなんて、殊更に気にするから、不幸になる。
他人の評価が気にならなければ、おかれた状況がどんなに過酷なものだろうと、人間は主観的には幸せなのだし、幸せとは、そもそも主観的なものなのである。

しかし、人は、どうしても「他人の目」を気にしてしまう。それは当然だろう。いくら「自分さえ幸せだと思えば幸せだ」などと言っても、まともな人間には、自分を客観視する能力があり、それがあるから生きてもいけるのだから、完全な自己満足は、主観的には幸せであろうが、それだけで生きていくことはできないのである。

つまり、幸せに生きるためには「適切な客観性を保持しつつ、自身を肯定できるメンタルの強度」が必要だということになるのだが、この両立というのが、なかなかうまくいかない。そのために、「客観的幸せ」を求めてひたすら「他人からの承認」を求め「地位やカネ」を追求して追い立てられるような人生を生きたり、逆に、主観的な幸せを求めて「宗教」や「薬物」に走って身を滅ぼす人もいる。

なんで、もう少し「普通」に「適度」に「バランスよく」やれないのかと思ってしまうのだが、結局のところ、その原因は、およそ選択不能な、「親ガチャ」的「生育環境」の問題に帰着してしまうようだ。
つまり、幼い頃に親からの愛情を十分に受けられず、基本的な「自己肯定感」を育めなかった人は、いくつになっても根本的な「不安感」を抱えているがために、他者からの「目に見える承認」を求め続けてしまうのである。

実際「ぴえん」の少女たちには、そうした「家庭環境に問題がある」子が多いし、「稼ぎやフォロワー数」がアイデンティティだといった感じの「ホスト」たちも、似たような問題を抱えている者が多いようなのだ。
つまり、彼女・彼らは、「共依存」関係にある、と言えるのかもしれない。

彼女・彼らにしろ、前澤友作のような「走り続ける社会的成功者」しろ、彼らに欠落しているのは「そこそこで満足する」という感覚である。
「そこまでやらなくても、すでにもう十分、幸せじゃないか」とか「あんまり頑張りすぎてもシンドイだけだし、楽しむ暇がないのでは意味がない」なんてことを、彼女・彼らは考えられないようだ。そういうのは「負け組の妥協」としか映らないのであろうし、そういう側面も確かにあるのだろうが、しかし「そこまで頑張るのは、やっぱりビョーキだよ」としか、私には思えないのである。

私が「宗教」や「哲学」を研究する中で到達した人生観とは、これまでにも何度か書いているとおり「この宇宙には、もともと意味はない。もともと善も悪もなく、美醜もない。ただ、生物として発生し、生き残っていく中で、その必要性から主観的な価値観が形成されただけである。しかしまた、そのような状況依存的な価値観や美意識だとは言え、それを持ってしまった以上は、その価値観において、美しいと感じる価値観に生きるのが、最も幸せという意味で、最も正しいのではないか」といったものである。

例えば「他人の幸せのために苦労をする」というのは、究極的には無意味だけれど、少なくとも自分自身には「満足」がある。さらにその満足とは「苦労という苦痛」を対価として支払っても余りある喜びであり、単なる「快感」などではないのだ。単なる「快感」は、「不快感」によって、容易に打ち消されるが、もともと「快感」ではなく「苦痛」を求める中での「喜び」は、そう簡単には打ち消せない強度を持っているからで、だからこそ人は「理想のため」「信仰のため」のために、死ねるのである。

私は、このような「幸福観」を持つ人間なので、だから「承認願望の強い人」というのは、あらかじめ「不幸になることの決まった人」としか思えない。要は「食べても食べても腹が膨れない、餓鬼地獄」に生きているようなものなのだ。

だから「なんで、そこまで求める」と思ってしまうのだが、しかし、それが「生育環境」によって「あらかじめ設定されていたもの(強迫的衝動)」なのだとすれば、それはもう救いようのない不幸としか言いようがないので、なんとも残念な気持ちになってしまう。
「そんなに頑張らなくてもいいんだよ」と諭してあげることで、その人が幸せになれるのなら、私は、喜んでそう言ってあげるのだが、どうやら、ことはそんなに簡単ではないようなのだ。結局のところ、彼女・彼らは「わかっちゃいるけど、止められない」という、言わば「呪われた人々」だからである。

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このように考えてくると、「note」において、ひたすら読者に媚びることで「承認」を求める人も、「私はこんなに役に立ちますよ」とアピールして「承認」を得ようとする人も、結局は、前澤友作に似ているとも言えるし、「ぴえんの少女たち」や「ホスト」たちと同じような、不幸な人たちだとしか思えない。

勝手に「不幸な人」呼ばわりするなというご意見も多かろうが、私にはそう感じられるからそう書いているだけで、何もそれが「客観的事実」だなどとまでは言わない。
だが、私のこの立論に「なるほど」と思う人もいるだろうから、参考までに書いているだけなので、「自分は違う(該当しない)」と思う人は、私のこの立論を無視すればいいだけの話なのである。

そんなわけで、話は「noteの人々」に止まらず、最近、私が話題にした「TikTokerけんごと、そのファン(支持者)」も同じだと言えよう。
要は、けんごのファンは、「推し」であるけんごのファンであることによって「安心」を得ているからこそ、けんごへの批判は、何が何でも許せないのである。

つまり、けんごとは、ファンたちのとっての「貢ぐべき、推しホスト」みたいなものなのだ。
具体的な金銭関係はなくても、本書にも書かれているとおり、歌舞伎町のホストの価値観である「ファン(フォロワー)を増やしてナンボ」というのと同様の価値観で、けんごは生きているのであり、ファンは、そんなけんごが「ナンバーワン」になることで、間接的に、社会に「承認」されていると感じられるのである。

言うまでもなく、これは「SFマガジン〈幻の絶版本〉特集中止問題」などで扱った、「SFプロトタイパー」でSF作家の樋口恭介や、そのファン、あるいは、広く「SFファン」や「本格ミステリファン」の問題にも通じる話であろう。

私は「SFマガジン〈幻の絶版本〉特集中止問題」を扱った記事の中で、「西野亮廣のオンラインサロン」などに見られる「新宗教」的な性格が、樋口恭介の価値観にも通じるところがある、と指摘した。
要は「夢を見させる推しホストと、その客であるぴえんの少女」あるいは「教祖とその信者」的な関係が、「西野亮廣のオンラインサロン」だけではなく、西野と同様「クラフトファンディングで制作資金を募るクリエーターとその支援者」はもとより「樋口恭介とその周辺のSFファン」や「TikTokerけんごとその支持者」にも当てはまる。
そして、そこに止まらず、そもそも「SF読み」であること「本格ミステリマニア」であることに、アイデンティティを賭けているような「マニア」たちも、基本的には「アイドル推しのファン」と、何の違いもないのではないか、と思うのだ。

要は、「ある特定の(ごく狭い対象としての)何か」を「特別なもの(選ばれて優れたもの)」だと信じ、それに執着することで、自分までもが「その価値がわかる、特別な人間」であると信じようとするような人たちだ。

だが、普通に考えて、この世界には「ありとあらゆる種類の価値」と「価値観」があって、「これは一番すばらしい」などと考えるのは、いかにも愚かなことだ。

普通にものを見ることができるのなら、嫌でも「いろんな価値の存在」に気付かざるを得ず、それに気づくならば、多様多数の価値の比較検証なしに「これが一番すばらしい」などと言えないのは自明であろう。
なのに、それが言えてしまう、分かりやすい「視野狭窄」は、その人が、他の価値から目をそらし続ける「あらかじめ自信のない人間」である証拠としか、考えられないのではないだろうか。

つまり、私が常々「気持ち悪い」と感じるものに共通するのは、その「承認願望の強さ」であり、さらには、それを生み出している「自信(自己肯定感)の無さ」であり、つまりは「本質的な救われなさ」なのである。

今や、右を向いても左を見ても、「世間から承認される」ことだけを願って、必死になっている人たちばかりである。
これは前述のとおり、インターネットとスマホの普及の問題が大きいのだろう。
知らないでもいい情報を知り、知りたくもない情報を知り、比較したくもないのに、比較し比較されてしまうといった状況によって、人々は駆り立てられ追い立てられているのではないだろうか。「世界の片隅で、平々凡々と生きる」ということが許されない、一種の「監視地獄」である。

この状況から降りられれば、かなりの部分、幸せになれると思うのだが、それがなかなかそうはいかない世界になってしまっているのだったら、多少なりともそうした世界の外部にいる「勝ち誇った負け犬=負け犬呼ばわりを恥じない勝者」の私にできることは、何もないということになるのだろうか。

「お前になんか言われたくない」というのは、よくわかる。だが、私は、言いたいのである。
相手にどう思われようが「あなたに、少しでも幸せになってほしいのだがなあ」と言わずにはいられないのだ。

今どきの「満たされない人々」の姿が、本書では「ホストと、押しホストに貢ぐぴえんの少女たち」というかたちで、見事に形象化され、「日本の象徴」にすらなり得ているのではないか。

だからこそ、「歌舞伎町の最先端文化」になんて興味がないよという人にも、ぜひ本書を読んでほしい。
ここには、今の日本の縮図があり、そしてそれは、決して他人事ではないからなのだ。



(2021年12月31日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

2985:2022/01/12(水) 22:33:15
ゴジラの海・ウルトラの星 一一書評:『ユリイカ 2021年10月号 特集◎円谷英二 特撮の映画史・生誕120年』
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 ゴジラの海・ウルトラの星

 書評:『ユリイカ 2021年10月号 特集◎円谷英二 特撮の映画史・生誕120年』(青土社)

 初出:2022年1月4日「note記事」

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『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明が監督を務めた『シン・ゴジラ』が公開され大ヒットしたのは、2016年のことだ。あれから、すでに6年。
一昨年公開予定だった、同じく庵野秀明監督作品『シン・ウルトラマン』の公開が、コロナ禍のために今年(2022年)にずれ込んだせいで、今年は『シン・ウルトラマン』に加えて、同じく庵野が監督を務めた『シン・仮面ライダー』も公開される(予定だ)。一一これで庵野秀明は「日本の三大特撮作品」を制覇したことになる。これはもう偉業と言っても過言ではないだろう。

さて、この「日本の三大特撮作品」のうち2作品、「ゴジラ」と「ウルトラマン」を創ったのが「円谷英二だ」と言っても、ひとまずは良いだろう。
「ひとまずは」というのは、「ゴジラ」にしろ「ウルトラマン」にしろ、円谷英二が一人で作った作品でもなければ、もとよりデザインしたわけでもないからだ。

ゴジラ映画の一作目である『ゴジラ』では、円谷英二の肩書きは「特殊技術(特技監督)」で、監督は本多猪四郎であった。また、『ゴジラ』のモチーフを大筋で決めたのはプロデューサーの田中友幸であり、この三者に小説家の香山滋が加わって、ゴジラはかたちを為していったと良いだろう。
ちなみに、ゴジラの「造形」は、複数スタッフによるものであり、そのため「デザイナー」という肩書きの人物は存在しなかった。

一方、『ウルトラQ』に始まる「ウルトラ」シリーズについては、円谷英二は最初から「監修」という肩書きであった。テレビシリーズであり、各話の担当監督が現場での制作を進めていたため、英二は統括的に作品のチェックをするという立場であったが、かなり細かくリテイクを出していたようだ。今なら「総監督」と呼ばれたのかもしれない。
もちろん、ウルトラマンの造形デザインは、成田亨である。

このように、「ゴジラ」や「ウルトラマン」を「円谷英二が作った(創った)」という表現は、あまり正確なものとは言えない。より正確に言うなら、円谷英二は、「ゴジラ」については「ゴジラという架空の生物に、命を吹き込んだ」という感じだし、「ウルトラマン」ついては「円谷英二ひきいる円谷プロが作った(創った)」ということになるのではないだろうか。

つまり、私たちが「円谷英二が、ゴジラやウルトラマンを創った」とか「ゴジラやウルトラマンを創ったのは、円谷英二である」などと言う場合には、円谷英二は「ゴジラ」や「ウルトラマン」を作った人々を「代表」し、さらに「象徴」する存在として語られているのであり、一人の(個人としての)「映画人」あるいは「クリエーター」として語られているのではない、と言えるだろう。
つまり、私たちは多くの場合、円谷英二を「特撮の神様」として、なかば神話化されたかたちでイメージしているのである。

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本誌『ユリイカ』2021年10月号「特集◎円谷英二 特撮の映画史・生誕120年」は、円谷英二という「人間(個人)」であり「クリエーター」を、記事執筆者それぞれの角度から、多角的に追った「個人」特集だと言えるだろう。
つまり、今回の記事の多くは、「特撮の神様」である円谷英二を紹介するものではなく、円谷が「特撮の神様」になるまでの「人間の軌跡」と、なってからの「人間の軌跡」を描いたものだと言えよう。

円谷英二その人を「研究」すれば、自ずと見えてくるのは「一人の人間」としての円谷英二であり、「特撮の神様」という側面を論じるにしても、それは「一人の人間」が「神様」とまで崇められるに至った、その「非凡な功績」を紹介し讃えるものであって、「特撮の神様」という「神話」を、そのまま「事実」として伝えるものにはなっていない。
だから、勉強にはなるし、円谷英二の「偉大さ」を改めて確認することもできる反面、「夢は夢であった」という一抹の寂しさも禁じ得なかった。

例えば、庵野秀明という「クリエーター」であり「個人」を研究した場合、そこには「非凡な才能を持ちながらも、創作の苦しみのたうつ、人間らしい弱さ」が見えて、そこにドラマティックな「人間的魅力」を感じることができる。

しかし、円谷英二の場合は「カメラマン」出身であり「どう見せるか」にこだわり続けた人で、必ずしも「一つの世界を丸ごと作り上げる」という意味での「作家」ではなかったようだ。
どこまでも「効果的に魅力的な絵」を撮るために努力し続けた「映像作家」であり「映像職人」であって、「作品世界の創造」そのものにおいて、庵野秀明のように悩んだという形跡は窺われない。あくまでも「面白い映像世界」をクリエイトしたかったのであって、「世界」を作るための「映像」ではなかった。

一一こう書くと誤解されやすいだろうが、要は、円谷英二は「作品世界」を「より効果的かつ魅力的に見せる」ために「絵を創った」からといって、それで「作品世界が主で、映像は従」だったということではない、という話だ。

たしかに「作品作り」においては、「作品世界」が主であり、それをいかに効果的に表現するかという観点から、円谷は「絵を創った」のだが、しかし、そもそも円谷は「魅力的な絵」を必要としないような作品には興味がなかったはずだ。円谷は、カメラマンとして普通映画を撮っていた時にも(映画以外の映像作品でも)「どのように見せるのが効果的か」ということを考え、その点であらゆる撮影技術の開発に余念がなかったのであり、それが後年の「特撮」へと発展していくのであって、決して映画作品の「作品世界」そのものを、丸ごとどうこうしたかったわけではないのである。そして、そうした意味では、円谷英二は、最初から、限定的に「絵の人」だったのだ。

したがって、円谷英二には「映像における技術的方法論を追求した職人」という性格が色濃く、その点で「(総合的な)作家」性の強い庵野秀明とは性格を異にしており、庵野のような「悩み方」はしなかった。円谷英二が悩んだとしても、それはもっと具体的で技術的な側面における悩みだったのである。「予算が少なくて、思うような絵が撮れない」といった悩みまで含めてだ。

だから、本特集号を読んで、円谷英二という「人」を知ることはできたが、正直「夢」を覚まされた(冷まされた)という感じがないでもない。
しかし、それでも円谷英二は、「作品」を通して「夢」を与えてくれた人なのだから、当人までが「夢の存在」である必要はないだろう。また、円谷自身、自分が「神」になろうとか「夢の存在」になろうなどと考えはしなかったはずだ。

彼はただ、自分の「美意識」に愚直に生きた人なのだろう。その熱意が「作品」にこもって、見る者をその「夢幻郷」へと誘い込み、勢い余って円谷本人まで、果心居士のごとき「夢」見の対象とさせるに至ったのである。

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さて、昨今の「ウルトラマン」や「仮面ライダー」のテレビシリーズを視ていて物足りないのは、どこまで行っても、それらの作品は「子供向け」であり、「大人が自分の美意識の全てをかけて撮っている」とはとうてい思えない、堅実なルーチンに堕しているように感じられる点だ。

たしかに、この商業主義の時代に「テレビシリーズ」を撮り続けるというのは極めて大変なことであり、数多くの縛りがあってのことなのだろうとは思う。それに、個々の作品には、それなりの「苦労」や「工夫」や「心意気」を感じる部分もあって、一概に否定する気はないのだけれど、しかし、今のままで良いとも思わない。

どうして、本来アニメ畑の人であった庵野秀明が「日本の三大特撮作品」を制覇する、などという「屈辱的」なことになってしまったのか。どうして、外から才能を招かなければ、現状を変えることができなかったのか。
中にいるからこその「縛り」が、きっとあったのだろうとは思う。しかし、庵野秀明という「黒船」の来襲があったればこそ、日本の「特撮」界は、変わるための契機を得た、とも言えるのではないだろうか。

もちろん、庵野秀明の『シン・ウルトラマン』『シン・仮面ライダー』には期待しているが、そこに止まるのではなく、庵野と同様「円谷英二が見せてくれた夢」を引き継ぐ才能が、特撮関係者の中からも陸続と産まれてくることを期待したい。
きっと、これまでにも、生まれ損ない潰れていった才能はいたはずだと、私は思う。だから、そうした才能が芽を吹かせ得る環境が、特撮の世界にも生まれてほしいのだ。

無論、そのためには、ゴジラの海やウルトラの星からやってきたような「小手先の才能だけではない才能」の登場が必要だとしてもである。
私は、大人になった今でもまだ、「人間の壁」を突き破ってくる、異形の姿を目の当たりにしたいのだ。



(2022年1月4日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

2986:2022/01/12(水) 22:34:36
言葉のおろそかな〈文筆業者たち〉:綾辻行人・知念実希人の事例 一一書評:古田徹也『いつもの言葉を哲学する』
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 言葉のおろそかな〈文筆業者たち〉:綾辻行人・知念実希人の事例

 書評:古田徹也『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)

 初出:2022年1月6日「note記事」

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私はしばしば皮肉として、「読める読者なら」とか「文学の世界では」という表現を使う。

「読める読者」とは、「音読なり黙読なりで、文章を読むことができる(だけ)」の「読者」のことではない。「読める読者」の、「読める」とは「その言葉の意味するところを、ニュアンスまで読み取れる」ということを意味し、「読者」の方は、それ以前の「行為としての読む」をする主体、を意味している。
つまり「読める読者」とは、その言葉や文章を書いた、あるいは発した者が「意図したところ」をおおむね正しく「読み取れる」読者のことであり、決して、単に、その言葉を、音読なり黙読なりできる(形式的になぞるだけ)の者を指しているのではない。

こうしたことは、ここまで馬鹿丁寧に説明するまでもなく、「読める読者」にとっては、あまりにも分かりきったことなのだが、その「当たり前」のことのできる読者が、いったいどれだけいるのかというと、現実は、かなり心もとないものなのである。

例えば、私が皮肉で「あなたは、読めない読者だな」と言ったとすると、その「読めない読者」は、「そんなことはない。その言葉の意味は、こうでしょう」と「字づら」について語ったりする。「私はその言葉、現に読むことができますよ」と、切り返しの皮肉ででもあるつもりなのか、「ほら、読んだ」とばかりに「音読(字づらをなぞることを)」して見せたりするのだ。一一これが「読めない読者」。私の言う「馬鹿」である。

くり返すが、こんなことは「読める読者」には説明するまでもないことなのだが、このように懇切丁寧に説明しても、「読めない読者」には、やはり理解してもらえない。なぜなら、その人は「読めない読者=ニュアンスの読み取れない読者=頭を使わない読者」だからである。

だから、私はそういう「読めない読者」に対する皮肉として「それは、文学の世界で言うところの、読める、ということではないんですよ」と言ってみる。つまり、その人は「文学の世界」の住人ではなく、「読解力=意味を読み取る」というのが当たり前ではない、「文章読み上げ機能つき計算機」の世界、つまり「知能を持たない」に等しい世界の住人でしかない、という皮肉を差し向けるのだ。
だが無論、「読めない読者」には、こんな高度な皮肉など「理解できない」。ただし「ニュアンス」だけは伝わるから、それで十分なのである。

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本書著者は、言語哲学でも有名なヴィトゲンシュタインの研究者だが、本書の内容はタイトルどおりで、「日常的な言葉」の問題を、ごく真っ当に懇切丁寧に検討したものである。

これも、言うまでもないことだが、『哲学する』とは、「ごく真っ当に懇切丁寧に検討」するということであって、「ジャーゴンを使って、小難しい議論めいたことをすること」が「哲学」なのではない。
例えば、「読めない読者」とは何か、という問いに対して、「音読や黙読ができない読者」であるとか「字づらの意味も取れない読者」である、といった説明で満足はせず、「読めない読者」という言葉が孕んでいる「皮肉」のニュアンスを、正しく読み取ろうとするような行為を、「哲学」すると言う。

この説明が難しければ、別のたとえをしてみよう。
「愛する」とは何かという問題について、「好きになる」とか「大切に思う」という回答は、間違いではないけれど、「愛する」を「哲学」したことにはならない。
「愛する」を「哲学」するとは、その言い換えである「好きになる」とは、そもそもどういう意味か、「大切に思う」とはどういうことなのか、あるいは、なぜ「好きになる」のか、なぜ「大切に思う」のか、といったふうに、単なる「言葉の置き換え」に満足するのではなく、徹底した「言葉の置き換え」によって「そうした多様な言葉たちの間」から浮上してくる意味、より深い次元での意味を、見出そうとする作業なのだ。

だが、こういう作業は、一般には「面倒くさい(だけ)」とか「無意味」とまで思われがちだ。
「好きは好きでいいじゃない。嫌いは嫌いでいいじゃない。面白いは面白いでいいじゃない。どうして、そんな小理屈をこねて、利口ぶる必要があるの」という反発は、ごく常識的な「俗情」だ。

どうして、こうした「反発」が返って来やすいのかと言えば、それは「哲学者ぶろう」として、無意味に難解な言葉を弄するだけの「哲学できない人」が少なくなく、おのずとそうした人は目に立つので、「哲学」に興味のない人、あるいは「哲学」ができないが故に「哲学コンプレックスを抱えている人」は、「哲学」を、そういう「無意味に難解な言葉を弄するだけ」の行為だと、敵意を持って誤解しているからである。

しかし、その結果は、多くの人は「言葉を吟味する」ということをしなくなってしまった。
「字づらの意味」だけで十分だ、と考えるようになり、さらには「字づらの意味」すら必要なく、ただ、形式的な記号の交換としての「コミュニケーション」さえ取っていればそれでいい、ということになってしまっている。
「言葉」に「意味」を必要としなくなっている人たちによる、「内容のないコミュニケーション」が行われ、むしろ「内容のないコミュニケーション」だからこそ「楽だし、安心だ」などと考えられてしまう事態に、すでに立ち至ってしまっているのだ。

言うまでもなく、これは極めて危険な兆候である。
だからこそ本書著者は『いつもの言葉を哲学する』必要を認め、それを実践して見せたのが、本書なのだと言えよう。

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本書第二章「規格化とお約束に抗して」の第5節「「批判」なき社会で起こる「炎上」」の、「「炎上」という言葉ですべてを塗りつぶす前に」という見出しのところで、著者は次のように論じている。

『 同調と攻撃の間の中間領域が確保されにくく、「批判」という言葉が本来含んでいた「内容の吟味」、「物事に対する批評や判断」、「良し悪しや可否をめぐる議論と評価」といったものがおろそかになりがちな現状は、「炎上」という言葉の現在の用法にも通じているように思われる。
「炎上」はいま、各種のメディアで発信された誰か(特に有名人や公人)の言動に対して、ネット上で非難や誹謗中傷が殺到することを指す言葉ともなっている。問題は、当該の言動が筋の通ったものや正当なものであろうとも、逆に、筋の通らないものや不当なものであろうとも、どれも等し並みに「炎上」と呼ばれる、ということだ。ある差別を告発する勇気ある発言をターゲットに、差別主義者たちが罵詈雑言を集中させることも「炎上」と呼ばれるし、とても看過できないひどい差別発言に対して、その問題を指摘する真っ当な声が多く寄せられることも、同様に「炎上」と呼ばれる。そして、何であれ炎上してフォロワーが増えて良かった、チャンネルの登録者数やオンラインサロンの会員が増えて良かった、ということも平然と言われたりする。そこでは、火の手の大きさや、それに伴う熱量の多さが、物事の真偽や正否や善悪にとって代わってしまっている。
 マスメディアで頻繁に用いられている「賛否の声が上がっている」という類いの常套句も、問題になっている事柄の内容をさしあたり度外視して、熱量の上昇のみに言及できる便利な言葉だ。どちらかの道理に明らかに分がある場合にも、また、賛否どちらかの声の方が圧倒的に優勢である場合にも、「賛否の声が……」と表現しておけば、旗色を鮮明にせずに済むし、自分の言葉に責任をもつ必要もなくなる、というわけだ。
「炎上している」とか「賛否の声が上がっている」といった言葉によって物事をひとまとめにしてしまうのではなく、具体的な内容を「批判」する行為が、メディアでもそれ以外の場でも、もっと広範になされる必要がある。そして繰り返すならば、それは必ずしも否定的な行為だとは限らない。賛意を示すのであれ、あるいは難点を指摘するのであれ、人々がともに問題を整理し、吟味し理解を深め合っている場こそ、本来の意味で「批判」が行われている、建設的な議論の場なのである。』(P130〜137)

例えば、先日来、再々採り上げている「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」による炎上事件も、この類いの話だと言えるだろう。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n404160e52e3c


この問題を採り上げた、上の記事「豊崎由美の〈正直さ〉を断然支持する。:飯田一史の「俗情との結託」をメッタ斬り!」にも書いたとおり、たしかに豊崎由美の「言いっ放し」的な批判にも問題はあるけれど、それに対してなされた「有象無象による批判」というのは、まさに「読めない読者」たちによる「字づらの批判」でしかない。
そして、これは何も「無名の有象無象」たちだけの話ではなくて、例えば、ミステリ作家の綾辻行人は、

『小説を読んだ。面白かった。それをみんなに伝えたい。TikTokで紹介した。興味を持って多くの若い人が読んでくれた。……出版界の損得の問題とは別に、これってとても素敵なことだと思うのですね。(2021-12-11 19:01:22)』

『若いころに読んで面白かった本は一生、心に残るものです。大人になってたくさんの本を読んで「物知り」になってからの読書とは、まるで鮮度が違う貴重な体験でしょ。そのきっかけが、同じ若い読者の視線で語られたTikTokの動画であることの、どこがいけないのかしら。……などと。(2021-12-11 19:08:19)』

まさしく「などと」いう、いかにも「何も考えていないポピュリスト」らしいツイートをしている。
『大人になってたくさんの本を読んで「物知り」になっ』たおかげで「より深い読書の喜びを知った人」にコンプレックスでもあるらしい「子供のまま=非・幼形成熟」の綾辻は、豊崎の「文学の今」をめぐる危機意識が、まったく理解できないのだ。

これは、綾辻行人という小説家自身が、単純に「読めない読者」の一人である、ということに他ならない。
つまり、綾辻としては「面白いものを面白いと言って、何が悪いの?」ということなのだが、この人は「面白いとは、どういうことなのか?」「面白い作品とは、どういうものなのか?」ということを、ろくに「考えたことがない」ということなのだ。

綾辻行人が「面白い」と思う作品を「つまらない」と思う読者もいるし、逆に綾辻行人が読もうともしない本を読んで、豊崎由美が「面白い」という場合なども当然想定され、そのような場合の「意味」も、当然吟味されてしかるべきなのだが、「向こう三軒両隣」に視野の限定された綾辻は、おのずと「面白いものは面白いでしょ」止まりなのである。
そして「売れっ子作家には、そうした自己中心的に呑気な横着さが許される」と、無自覚にも、そう思い込んでいるのだ。だから、適切に「他者」を想定できないのである(例えば、裕福なオリンピック参加選手が、オリンピック開催でコロナ死する人のことを気にしないのと同じである)

私が前記の記事で書いたとおり、「子供舌」でもわかるような「駄菓子のようなエンタメ小説」もあるけれども、「子供舌」では味わいきれない「繊細高度な小説」も、事実として存在するのであり、そうしたものの存在は、「流行りのTikTok」によって、にわかに注目され「理解」されるような、そんな「お易いもの」ではない(たとえば、筒井康隆の『残像に口紅を』は、にわかに売れたが、「理解」されたわけではない)。
だが、それが、綾辻行人という(昔で言う「勝ち組」の)「通俗小説家」には、まるっきり分からないのである。「売れる→理解された→正しい」という「幅のない一直線思考」なのだ。

他に、この件で豊崎由美を批判した作家に、綾辻行人が、その近作『硝子の塔の殺人』に推薦文を寄せた、ミステリ作家の知念実希人もいて、

『批評には最大限の敬意を払います。
しかし、読書の楽しさを試行錯誤しながら、無償で若い世代に伝えて下さっていた若者に対し、
いきなりプロの書評家が、彼が一生懸命語ってきた小説への愛を『杜撰』と切り捨て、心を傷つけて活動停止に追い込んだことを理解できるわけがありません。(午後0:32 ? 2021年12月12日)』

「などと」ツイートしているが、この『医師家系四代目』(https://career-lab.m3.com/categories/case/series/case/articles/62)の「人気作家」は『芥川賞を受賞した台湾の作家・李琴峰に対し、医師でミステリ作家の知念実希人が差別的発言をして謝罪するという事件が9月初旬に起こった。知念の謝罪を李が受け入れて和解が成立』(https://news.yahoo.co.jp/articles/48e4c7c404d144cb472014054660860587346d24)したとかの件で、話題になったばかりの、ネトウヨ「ミステリ作家」である。

下手をすれば作家生命にも関わる大騒ぎになったから、やむなく謝罪したも同然の(人権派弁護士の懲戒要求を日弁連に大量送付し、逆に提訴された途端に謝罪したネトウヨを想起させる)知念が、綾辻行人と同様に、けんごなどのTikTokerに褒めてもらう側の「エンタメ作家」として、豊崎由美をこのように批判したというのは、いかにも「読めない読者=物を考えていない人」らしくて、納得しやすいところだろう。

知念の場合、よくもまあ、自分のことを棚に上げて言えたものだと思うが、こういう「読めない読者」には、豊崎が「何を危惧し、何を批判したかったのか」なんてことを読む取る能力などカケラもないし、そういう人でも「エンタメ・ミステリ」なら、純粋に「技巧」の問題として書ける、ということなのであろう(要は、今どきのミステリは「売れてなんぼ」「ウケてなんぼ」なのだ。ミステリ作家には社会的責任なんて、あんまり無い、のであろう)。

ともあれ「売れっ子の、プロの小説家」にしてこれなのだから、その読者が、こうした「エンタメ小説家の小説」だけを読んで、加齢とともに「読める読者」になる、なんてことは、論理的にあり得ない。
それどころか「甘い駄菓子」ばかり食べていた読者は、虫歯で歯がボロボロになって、「咀嚼能力」すら失ってしまうのである。

そしてその結果が、先日書いた「一億総〈ぴえん〉化日本」における、それに見合った読書界、ということになろう。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n6fb42b796fcc

もう、この日本では、「読める読者」は絶滅危惧種であり、「読める読者」を育むことのできる「歯ごたえのある小説(文学)」に陽のあたる機会など、ほとんどない。だからこそ、豊崎由美のような書評家でも「焦った」のである。

しかしながら、ナチス政権下のドイツで「ヒトラーなんか賛嘆しているやつは馬鹿だ!」なんて、本当のことを言ってしまっては、袋叩きになるのは当然で、それこそ知念実希人ではないが「職業ライター生命の危機」とならざるを得ない。
また、だからこそ豊崎の方も、心にもない、形式的な「謝罪めいたこと」をツイートしたのであろうが、これが今の日本の「エンタメ読書界」の現実である。

いつも引用するシオドア・スタージョンの『SFの90パーセントはクズである。──ただし、あらゆるものの90パーセントはクズである』ではないが、小説読者の90パーセントは「読めない読者」であり、「小説出版の世界で食っている人」など、所詮は「読めない読者」に食わせてもらっているも同然なのだから、その「頭の悪い人々」に「あなたは頭が悪い」なんて「頭の悪い」ことを言うのではなく、(大森望のように)適当に煽てながら、本音を読まれないようにしつつ、読者を「教導」していくしかないのである。それが嫌なら、「馬鹿」に食わせてもらうような仕事などしないことだ。

事ほど左様に、「読める読者」は、この「終わっている世界」と、どう付き合っていくかを考えなくてはならない。
綾辻行人や知念実希人のように、「読めない読者」であり、かつ「成功者」は、何も考えなくても生きていけるだろうが、「読める読者」は「駄作を駄作」「駄菓子を駄菓子」「馬鹿を馬鹿」「醜いものは醜い」と、嫌でも読み分けてしまうのだから、その現実と否応なく格闘しなければならない。

無論、ナチスに加担した多くのドイツ国民のように、造作もなく大勢に順応することのできる者は、恥知らずにそうするだろうが、それがみっともない行為だと「読めてしまう読者」の場合は、この「終わっている世界」との距離を測りながら、際どく乗り切っていくしかないのである。

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『いつもの言葉を哲学する』という場合に、この「いつもの言葉」が、おおかた「ロクでもないもの」にしかなっていない現状(例えば「エンタメ読書界の現状」)に、私たちは生きている。だからこそ、そんな「無内容かつロクでもない言葉」の奔流に、無自覚に巻き込まれて、感染しないように、「哲学する=言葉を吟味する」しかないのであろう。
すでに周囲は、ゾンビに囲まれているとしてもだ。

少なくとも私個人は、金輪際「脳の活動が止まったゾンビ」など、なりたくない。
だから「哲学」するのである。


『 今日の世のありさまは、ずっと昔、宗教が生まれかけたころのことを思い出させる。現代の社会は面白いほどに原始社会に似ているということじゃよ。たとえば民主主義の政府には同じような権力の集中がある。上部とコネがあると称する君たちの仲間の一部には支配階級にのし上がろうとする者もいるだろうがね。君たちは大昔と同じように、ありふれた名前や、平凡な血統に神秘的なたわごとをくっつけて偉人、傑人をつくり出す。性の問題では君たちの女も大昔同様に尊敬されすぎ、都合のいい神聖の檻の中にとじこめられ、重要な問題は男性の手ににぎられてしまう。君たちは節食やビタミンを崇拝して原始時代の食物のタブーに逆戻りさえしている」
 プロメテウスは、エラリイがガタガタふるえている夜明けの冷気も感じない様子でつづけた。
「しかし、もっとも興味ある類似点は君たちの周囲にたいする反応のしかただ。個人でなく、群衆が思考の単位だ。そして、昨夜の不幸な出来事で実証されたように、群衆の思考力はきわめて低い次元のものだ。君たちは無知でいっぱいだ、無知はひどい恐怖を生む。君たちはほとんどあらゆるものを恐れているが、いちばん恐れているのは現在の問題に直接向いあうことだ。だから、すぐに伝統という高い魔法の壁の中により集まって、指導者たちが神秘を勝手に操作するのを許すことになる。指導者は君たちと未知の恐怖の間に立つわけじゃ。
 しかし、ときには権力の司祭たちが君たちの信頼を裏切ることがある。君たちは突然、未知のものと直接、顔を合わせなければならなくなる。君たちが救済と幸運をもたらしてくれると頼りにしている指導者、生と死の不可思議から君たちをまもってくれる者は、もはや君たちと恐るべき暗黒の間に立っていない。周囲をかこんでいた魔法の壁は崩れ落ち、君たちは奈落のふちに取りのこされて立ちすくむ。
 そういう状態にあるときに、ただ一つのヒステリックな声が、ただ一つのおろかなタブーの叫び声が、何万もの人びとを震えあがらせ、逃げ出させたとしても何の不思議があろうか?」』
 (エラリー・クイーン『九尾の猫』』



(2022年1月6日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

2987:2022/01/12(水) 22:35:37
時代の子たる折口信夫の〈悲恋〉一一書評:加藤守雄『わが師 折口信夫』
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 時代の子たる折口信夫の〈悲恋〉

 書評:加藤守雄『わが師 折口信夫』(朝日文庫)

 初出:2022年1月7日「note記事」

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折口信夫は「〈情〉の人」であると、私は以前のレビューに書いた。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/nddcf77ffa224

これは間違いない事実であると思う。
しかし、「情が濃い」というのも良し悪しで、「情が濃い」からこそ「可愛さ余って憎さ百倍」という、私自身まったく他人事ではないことにもなってしまう。すなわち、「情が濃い」から、人並み以上に、可愛がりもすれば憎みもする。「常識の範囲」を逸脱する。

折口信夫の弟子であった加藤守雄により書かれたこの「自伝」は、折口の「情の濃さ」が災いした物語だと言えるだろう。ただ、「可愛さ余って憎さ百倍」というわけではなく、「残酷な片恋の物語」であり、まるで『源氏物語』の描く「六条御息所」を地でいく、あまりに哀れな、折口の「悲恋物語」なのである。

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周知のとおり、折口信夫は同性愛者であった。だから、彼の弟子になるということは、折口の同性愛の対象となりかねないということでもあった。無論、折口が、見境もなく弟子たちに手をつけたとか、お稚児さん候補を弟子にしたとかいうことではないのだけれども、人間、誰でもそうであるように、同じ内容の人間なら、見かけの良い方を選ぶだろう。これを、いわゆる「ルッキズム」だとは言えないはずだ。

そして、女性を生理的に嫌悪した「観念的に潔癖症」な折口は、生涯独身であったし、決して実生活において器用な人ではなかったから、身の回りの世話を弟子にさせることが多く、弟子を同居させもしたのである。
その結果、同居の弟子は、折口の同性愛の対象となる。また、そうなることがどうしても嫌な弟子なら、そもそも折口と同居までしようとはしなかっただろうし、同性愛に嫌悪を覚えるような人なら、そもそも、折口の弟子にはならなかっただろう。

まして、当時の「弟子」とは「親を捨ててでも、師に尽くす」というような「全身全霊の帰依」めいたものが求められた。そこまでして初めて、「師の学問」の真髄を継承することができるのだと、そういう、今で言う「精神主義」が、当たり前に生き残っていた時代であった。
だからこそ、折口の弟子になった段階で、すでに事情を知る「周囲」からは、その弟子は「折口のお稚児さん」だと見られても仕方がなかったし、そのくらいの覚悟がなくて、カリスマ的な学者であった折口信夫の弟子になど、なれる道理もなかったのである。

したがって、同居の弟子になることを受け入れた、若き著者が、やがて折口にキスを迫られるシーンで、その「思いもかけぬ展開」に衝撃を受ける、という「描写」はいささか「カマトト」ぶっていて、疑わしいと感じられた。
そのくらいの展開は、最初から予想されたことではなかったのか、と思うのだが、著者は、そのような認識はなかったし、だから深く傷ついた、というような書き方をしている。

無論、折口と加藤(本書著者)の「どちらが悪い」のかと言えば、もちろん折口の方である。
折口の加藤にしたことは、今で言うなら「セクハラ」「パワハラ」「アカハラ」の合わせ技であり、要は「学問上の地位を利用して、性的な嫌がらせをした」ということになるから、言い訳の余地など、まったく無い。

しかし、加藤の方に「尊敬する有名学者の折口先生なんだから、迫られるくらいのことが多少はあっても、是非とも特別な弟子になりたい」という思惑や下心がまったく無かったのかといえば、客観的には、極めて「疑わしい」のである。

加藤は、折口が彼を一方的に寵愛し、望んでもいないのに、就職の世話をし仕事上の便宜を図り、彼を引き立てることで囲い込もうとした、というような書き方をしている。
たしかに折口は、そのようなことをしたのだろう。だが、そうなることだって、加藤は最初から半ば予想できていたのではなかったか。

加藤がこの「自伝」を書いた時点で、折口信夫はすでに故人である。
なのに、このようなスキャンダラスな内容を含むものを、一方的に公にするというのは、「死人に口なし」で、あまりにアンフェアではないか。

無論、加藤は、折口を心から尊敬していたと書いているし、それでも同性愛を迫られることは耐え難かったから「逃げた」と書いているが、ことは「内面の問題」なのだから、これが当時の加藤の「本音」そのものであるという保証など、どこにもない。
実際のところ、加藤は上手に折口の懐に入り込んで、首尾よく良い仕事を世話してもらったのだが、思った以上に、折口が本気で鬱陶しかったから、やっぱり「割りに合わないや」と逃げ出した、という蓋然性だって十分にある。

本書にも登場する兄弟子たちは、加藤のこの自伝刊行について、どのような反応を示したのだろう。
私はそのあたりに詳らかではないが、普通なら、加藤を「恩を仇で返した、心ない恩師誹謗者」として断罪したことだろう。

だが、折口と加藤の場合、兄弟子たちは「こうなることが、あらかじめわかっていながら」、あえて加藤を「人身御供」として「神」に捧げたも同然なのだから、その「後ろめたさ」から、加藤がこのような自伝を書いたところで、表立って非難することは出来なかったはずだ。
そんなことをすれば「あなたがたは、こうなることがわかっていながら、そのあたりの事情を口に緘したまま、私を先生の下へ送り出したのではなかったのか。私を先生の犠牲にする気で、そうしたのではなかったのか」と反論されるのは目に見えているからで、そう言われた場合「こんなことになるとは、想像もしなかった」などという白々しい言い訳が、事情を知る、折口信夫周辺の学会で通用しないことも、明らかだったからである。

 ○ ○ ○

そんなわけで、憐れなのは折口信夫である。

好きで同性愛者になったわけではないのだし、周囲も、折口が同性愛者であることを知っていて、それでも進んで近づいていった人たちである。
無論、折口の同性愛者の部分に近づいたのではなく、学者としての部分で近づいたというのは間違いないにしても、最低限「折口の同性愛に、一定の理解がある」人間として近づいたはずなのだ。
だから、折口の方だって「もしかしたら、私の愛を理解してくれるかもしれない」と期待したというのも、わからない心理ではないし、まして「魅力的な弟子」が目の前にいれば「性的な欲望」と、それに伴う「恋愛妄想」が駆動してしまうというのも、「脳科学」的に見て、致し方のないところであろう。「恋愛感情」や「性欲」というのは、自然本能であり、理性だけで完全にコントロールすることは不可能なのである。

それでも、異性愛であれ、同性愛であれ、相手のいることなのだから、相手の意思確認は必要であり、相手が拒絶するのなら、それ以上、無理強いするようなことは許されないし、事実、折口は加藤に、それ以上は迫っていない。最初に迫って拒絶された後は、師と弟子という距離で付き合おうと努力したのである。

だが、好きな相手と同居しておれば、そうした理性のブレーキが、いつまでも続くわけがない、というのも知れた話であろう。折口にしてみれば「あの時は、初めてのことだったから驚いたのであろうが、そろそろ私の気持ちをわかってくれて、受け入れてくれるのではないだろうか。そうでなければ、あの後も、今のようにずっと同居をしてくれるわけがない。きっと、憎からず思ってくれているはずだ。あの時は、世間の常識に反した同性愛に、恐れをなしただけだったのではなかったか」などと考えても、まったく不思議ではない。おおよそ「恋する者の心理」というのは、しばしばこのように「ご都合主義的」なのである。

じっさい折口信夫は、加藤が同居する前から、一部の弟子との肉体関係のあった実践的同性愛者なのだから、「お手つき」になるのをいったんは断ったとしても、折口の気持ちが変わらないということくらいは、大人ならわかるはず。それでも、ズルズルと同居を続けたのは、加藤の側にも非があるとは言えまいか。
どうしても嫌なら、出ていけば済むことだったのに、先生に頼まれると断れないとかなんとか、自身の「優柔不断な態度」を自己正当化して、全責任を、故人である折口に押し付けるというのは、あまりにも卑怯なのではないか。

だからこそ、私は本書著者・加藤の「言い分」を、とうてい鵜呑みにはできないのである。
アガサ・クリスティーの『アクロイド殺し』ではないが、本書は一種の『折口信夫殺し』なのではないかと疑うのだ。

 ○ ○ ○

折口信夫の時代とは違い、現在では「性的マイノリティー」に対する偏見は、かなりのところ是正されていると言えるのかもしれない。
しかし、それは「偏見はいけない」という良識が広まったというだけで、すべての人が「両性愛者」になったというわけではない。

ということは、同性愛者を、同性愛者であるという理由だけで忌避したり差別したりはしないけれども、だからと言って「同性愛の対象として見ることを許してくれる」というわけではないだろう。
本来ならば「同性愛の対象として見ること」自体は、その同性愛者の勝手なのだから、許すも許さないもないことで、ことが実際の「個人的な交際関係」を求められた段階で「それは、私の性的志向には合いませんから、そういう意味での交際はお断りします」というかたちになるべきであろうし、そうならなければならない。

しかし、現実の問題としては、「私は同性愛者を差別しませんよ。それは彼らの自由ですから」などという人の中にも、自分が「同性愛の対象として見られる」ことに「嫌悪」を覚える人は少なくないだろうし、「そのような目で見る」こと自体が「気持ち悪い」とか「セクハラだ」などという人も、決して少なくはないのではないだろうか。
つまり、「LGBTQ」への差別が社会的に批判されることで、「性的マイノリティー」への「偏見」は相対的に薄れたと言っても、やはり「生理的嫌悪」という部分では、大きな違いはないのである。

この、加藤守雄による『わが師 折口信夫』を読んでも、やはり折口信夫は「可哀想な異形」にしか見えない。

たしかに折口にも、自分の「学問的地位」に甘えて、それを利用した部分があるし、それは批判されてしかるべき部分ではあろうが、しかし、その時代背景を考えれば、折口のような態度も、ある程度はやむを得なかった、まさに「時代的な制約」だったのではないだろうか。

結局は、折口信夫ほどの「天才肌の学者」であり「非凡な知性」を持った人であっても、「性愛」という「脳科学的本能」には勝てなかった。勝てなかったが故に、その「感情」に振り回されたあげく、つらい思いをし、恥をかき、辱められることになってしまったのである。

もしも、折口信夫が「性的に淡白」であり「情に薄い個人主義者」であったなら、彼は、このように苦しみ、辱められることもなかっただろう。

だが、彼の「非凡な情の濃さ」が、彼の「非凡な学問」を支え、その抗いがたい「呪力」となっていたことも事実であろうから、「歴史にifはない」というのは、残念ながら、そのとおりなのであろう。


ともあれ、本書全体に漂う「偉大な折口信夫に、一方的に愛された私」という「ナルシシズム」が、私には気になってならない。
加藤が折口から「逃げた」のだって、それは追いかけられることを確信しての「その愛を確かめるためのポーズ」という部分があったのではないか。
だからこそ、折口が死んでしまい、決して追いかけては来ないことが確定すると、いつしかその「寂しさ」から、「追いかけられる私」という物語を、これ見よがしに公にしなければ、気が済まなかったということではないのか。

折口が同性愛者であったことは、周囲の者には周知の事実であり、そうした事実は、いずれ公になるだろうけれど、その個人的な部分を、「愛された私」という物語に仕立てて、いわば「折口信夫の愛」を独占するというのは、あまりに欲深く、思いやりに欠けるのではないか。
そこまでしたいのなら、生前に、折口の思いに応えるべきであったし、それをしなかったのなら、その個人的な思い出は、墓場まで持っていくべきだったと、私は非難を込めて、そう考えざるを得ないのである。



(2022年1月7日)

 ○ ○ ○

https://note.com/nenkandokusyojin/

2988伊殻木祝詞:2022/01/29(土) 16:19:58
しれっと登場 ( ̄▽ ̄)
 しかし、すぐに撤退します……。
 現状、少し立て込んでいて眺めの文章を書く余裕がありませんです。申し訳ない……。
 取り敢えず生きてはいるので(一度も感染していない保証はない。まぁ大丈夫だと思うしかないw)、ご報告に来ました。
 閣下も、どうかご自愛くださいませ……。

2989:2022/02/06(日) 18:34:41
生きていた!(≧∇≦)
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★ 伊殻木祝詞さま
> しれっと登場 ( ̄▽ ̄)

お書き込み、ありがとうございます。お元気そうで安心いたしました。

ご投稿に気づくのが遅れてしまい、大変失礼いたしました。
今後、お書き込みをいただいた際は、こちらまでメールをいただければ幸いでございます。もちろん、他の要件でも結構でございます。

>  しかし、すぐに撤退します……。
>  現状、少し立て込んでいて眺めの文章を書く余裕がありませんです。申し訳ない……。

いえいえ、皆様、それぞれにご用事もございましょう。私のような暇人の方が珍しいのでございます。
ともあれ、別に長い文章である必要はございませんから、今回のように短いものでも遠慮なくご投稿ください。別に「論じ」なくてもいいのでございますよ(笑)。

>  取り敢えず生きてはいるので(一度も感染していない保証はない。まぁ大丈夫だと思うしかないw)、ご報告に来ました。

私自身、年末も年始も無いに等しい人間でございますが、その頃にも連絡がございませんと、つい「もしかして…」と考えてしまいます。「伊殻木祝詞、孤独死す」の図でございますよ(笑)。

>  閣下も、どうかご自愛くださいませ……。

ありがとうございます。うちの会社でも、当人や家族が感染して自宅待機を余儀なくされるものがポツポツ出てきており、その分の仕事のしわ寄せがどうしてもあって、私もつい「休みたいなあ」などと思うのですが、やはりコロナに罹ってしまうと何かと面倒ですし、もう若くもないので、このまま切り抜けたいと思っております。
なんとか、今年中に片付いてくれればいいのですが、私の退職は来年ですので、もしかすると最後まで祟られるかもしれませんね。

ともあれ、伊殻木さまも、くれぐれもご自愛ください。何事も健康あってのものだねでございますから。


またのお出でをお待ちしております。

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https://note.com/nenkandokusyojin/

2990:2022/02/23(水) 21:50:09
〈届かないもの〉への欲望 一一書評:宮澤ひしを『苦楽外』
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 〈届かないもの〉への欲望

 書評:宮澤ひしを『苦楽外』(KADOKAWA)

 初出:2022年1月11日「note記事」

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『幻想世界へと迷い込む、牧歌的かつ危険なファンタジー。』
『「シームレスな現実ー幻想ー回想を自由回遊する快楽。」』
『山本直樹 推薦』

本書帯の前面には、以上の惹句が刷られている。
『山本直樹 推薦』は別にして、前に二つは完全に「好み」のパターンだったので、初めての作家だったが書店で見つけて即買いした。

で、結果から言うと、たしかに帯にあるとおりの内容で、ちょっとマーティン・スコセッシ監督の『シャッター アイランド』を思わせる、夢と現実の交錯する謎めいた物語ではあったのだけれど、残念ながら、私の期待したような「幻惑感」は無く、その意味で期待ハズレだった。

たしかに絵は上手い。だが、どこか根本的なところで、この作家には「心地よく秘密めいた異世界」そのものに惹かれる心性が無いように思う。
この物語に描かれた異世界は、あくまでも「物語の舞台」として、その「必要性」から技巧的に構築された、これ見よがしな「異空間」であって、著者の「好み」から出たものではないようなのだ。

もちろん私は、本作に無い物ねだりをしているのだろうとは思う。私にとって、本作が期待はずれだったからといって、必ずしも本作が、不出来な作品だとは言えない。しかしまた、傑作ではないというのも、ほぼ間違いのないところだと思う。

ともあれ、単なる自分の「見込ちがい」で作品を貶すというのは、ありがちなことではあれ、フェアとは言えないので、この作品が「何を描こうとしたのか」について、可能なかぎり検討してみたい。

(※ ?以下は、本作のネタばらしが含まれますので、未読の方はご注意ください)

本作は、サラリーマンらしきの青年が、出勤のバスで寝込んでしまい、終点の「見知らぬ海辺の町」に降り立つところから始まる。そこは携帯電話すらつながらない場所であった。

青年は、浜辺で釣りをしている少年と知り合い、立ち話をしている時に、うっかり浜に打ち上げられた毒クラゲに刺され、少年の家である、季節はずれの民宿で、簡単な治療を受ける。そしてそのまま、そこに逗留するになることになる。
結果として会社を無断欠勤をしてしまった青年は、もともと都会の生活に倦み疲れていたので、このまま仕事を辞めてもいいと、この民宿でしばらく逗留することにしたのだ。
そして、その日から青年は、昔の記憶と現在とが渾然一体になった、不思議な夢を見ることになる。

種明かし的に書いてしまうと、青年がたどり着いた海辺の町とは、都会の生活に疲れた青年が無意識に求めていた「原風景」的な田舎町だ。
一方、そこで出会った少年カズキは、都会に出ることを夢見ているのだが、この海辺の町と少年の存在は、決して現実のものではなく、青年の願望が構築した、夢と現実の狭間の、どちらともつかぬ世界だと言えるだろう。
カズキの家では、いっこうに家族が姿を見せないのだが、青年はそのことを訝しむでもなく受け入れ、少年の方も、当初こそ、普通の田舎の少年であるかのようだったが、徐々に怪しげなふるまいを見せ始める。

この少年カズキが、いわゆる「普通の田舎の少年」ではないというのは、少年が浜辺で読んでいた文庫本が、江戸川乱歩の『孤島の鬼』であることで、予示されている。『孤島の鬼』は、同性愛を扱った猟奇的な作品だから、「素朴な田舎の少年」が読むには、いささか不似合いな作品なのだ(このあたりで、男性名っぽい作者は、じつはBLマンガを描いたことのある、女性作家ではないかと疑われる)。

やがてカズキは、その予示どおり、眠っている青年にキスをしようとして、今はまだ早いと思いとどまるなど、怪しげな様子を見せる。
一方、青年の方は、海にまつわる夢を見続け、やがてその夢は、封印していた、海にかかわる「過去の事故」へとたどり着く。子供の頃、家族で水族館に行く約束が、姉の急病によって中止になり、落胆していた彼を見かねた近所のお兄ちゃん「入間くん」が、自転車で彼を海へと連れて出してくれたのだが、そこで入間くんは、彼を喜ばせようと、浜にいたウミガメを捕まえようとして、事故死してしまうのである。
つまり、青年にとって海は、憧れの場所でもあれば、死の臭いのする思い出したくない場所でもあったのだ。

青年が、このように夢の中で過去の真実に近づいたのを見すましたように、カズキは寝ている青年の下着を取り去り、上から馬乗りになって青年を強姦して、青年の精を吸い取ろうとする。青年は抗おうとするが、金縛りになったように身動きができない。そして、青年の精を吸収したカズキは、青年へと成長変貌してゆき、一方、青年の方は子供(少年)へと退行してしまう。

青年に変貌したカズキは、自身がクラゲの化身である「苦楽外」だと名乗り、大人になったことで、青年の代わりに、自分が憧れの都会に出て行ったしまう。一方、元青年の少年は、青年の頃の記憶を失ったかのように(さらに言うと、苦楽の外に立った子供に戻ったかのように)、もとから民宿に住んでいた少年として、そこで暮らし始める。

最後は、都会に出たカズキ青年が、うっかりバスでうたた寝をしてしまい、ひさしぶりに終点の町に戻ってきて、元青年の少年と再会するが、カズキは、多少都会の生活に疲れてはいても、その生活に満足しており、すでに二人目の子供もできると、元青年の少年に告げて、都会へと帰っていく。
その別れ際、カズキは、元青年の少年に「じゃあ元気で、子供の頃のおれ」と言うのだが、その言葉を聞いて少し驚いた様子の、元青年の少年は「東京に出ちゃうと忘れちゃうのか、自分が苦楽外(だれ)だったのかも」と独り言ちる。

以上のように、この物語は、私が理解した範囲で言うと、あまり合理的な物語ではない。
もちろん、幻想譚なのだから、不思議なことが起こるのは当然なのだが、語られていることに「なるほど」という合理性が感じられず、言って見れば「不条理な幻想譚」だと言えるだろう。

「なぜ、過去のつらい記憶を封印していた青年は、不思議な海辺の町へとたどり着き、そこでクラゲの化身の少年と入れ替わったのか? この入れ替わりは、彼にとって、どのような意味を持つのか?」。
一方「青年から精気を吸収して大人にになり、憧れの都会に出て行ったクラゲの化身である苦楽外のカズキは、どうして過去の記憶を忘れてしまったのか?」そして「そもそも、青年とカズキは、どのていど同一人物なのか、それともまったくの別人なのか?」。
一一こうした私の疑問に、スッキリとした説明が与えられるような描き方にはなっていないようなのだ。

これは、単に私が読めていないだけなのか、それとも、もともと明確な説明の成立しない「不条理譚」なのか?

 ○ ○ ○

さて、本書には、この長編の他に、書き下ろし19ページの短編「新人」が収められている。
こちらは、長編「苦楽外」のノスタルジックな幻想譚とはうってかわっての「近未来SF」だ。

荷物の積み下ろし作業に従事している、あまり仕事熱心ではない青年のところへ、彼の仕事を補佐するための「新人」として、AIを搭載したロボットがやってくる。
ロボットは、何とかして青年の仕事の役に立とうとするのだが、青年はロボットの登場自体が気に入らない様子で、ロボットが、自分がいかに青年の役に立つ存在であるかを説明しようとし、青年に歩み寄ろうとすればするほど、青年は苛立ちを募らせ、最後はロボットをぶち壊してしまう。そんなお話である。

この話も、青年のロボットに対する苛立ちに、はっきりした説明はない。
ロボットの方は、自分は青年の「仕事を奪いに来たのではない」、青年の「働く権利は保障されており、自分はただ、青年と共に働きたいだけなのだ」と説明するのだが、青年はそうしたロボットの「真っ当さ」に苛立ちを募らせて、最後はロボットをぶち壊して黙らせるのである。

 ○ ○ ○

この、作業員の青年の「不条理」とも言える感情を、合理的な説明もないままに描いた短編「新人」を、長編「苦楽外」と合わせて考えれば、結局のところ作者は、「理に落ちる」作品は描きたくないのではないか、と感じられる。
「理屈」ではなく、もっと「捉えようのない感情」をこそ、作者は描きたいのだ。だから、こんな「わかったような、わからないような」作品、そうした意味での「不条理」な作品を描くのではないだろうか。

そう考えれば、作者の描きたいものが、何となく見えてくるようにも思う。
それは「〈手の届かないもの=捉えきれないもの〉への欲望」なのではないだろうか。

単に、都会に疲れたから田舎に憧れるとか、田舎の生活に飽きて都会に憧れるとか、過去の暗い記憶から逃避するとか、それを再発見することで自分を取り戻すとか、仕事にやりがいを求めるとか、仕事から逃れたいとか、そんな「わかりやすい解答」を欲しているのではなく、それらの欲望が渾然一体となった混乱の中で、自分自身、何を求めているのかとよくわからないままに、何かを求めている自分。もはやそんな自分とは何者であるのかすら、よくわからなくなっている自分。

作者は、そんな「不安定な実存」を描いているのではないだろうか。

昔読んで、あまり惹かれなかった山本直樹が推薦しているところからしても、作者は、理の勝った私とは、まったくタイプの違った人間なのであろう。
ともあれ、スッキリした説明ができる人がいれば、ぜひ聞かせてもらいたいと思う。



(2022年1月11日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

2991:2022/02/23(水) 21:52:14
宮本顕治著『日本革命の展望』における〈暴力革命〉の位置付け 一一書評;宮本顕治『日本革命の展望 綱領問題報告論文集』
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 宮本顕治著『日本革命の展望』における〈暴力革命〉の位置付け

 書評;宮本顕治『日本革命の展望 綱領問題報告論文集』上下(新日本新書)

 初出:2022年1月11日「note記事」

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志位和夫委員長がひきいる現在の「日本共産党」は、「暴力革命論」を明確に否定している。しかし、多くの論者はそれを「嘘」だと指摘して「日本共産党は、今も暴力革命論を捨てていない」と言う。
一一いったい、どちらが真実なのだろうか?

これは、日本の政治に興味のある多くの人が、多かれ少なかれ抱えている「疑問」なのだが、それを日本共産党の文献にあたって確認した人は、そう多くないはずだ。
テレビなどで「共産党は、今も暴力革命論を捨てていない」と明言して、共産党を批判している人でさえ、そういう人も少なくなさそうである。

しかし、今回、この問題について論じた、宮本顕治『日本革命の展望 綱領問題報告論文集』を読んだところ、この疑問に対する答えは、意外にも、あっさりと解消した。
この本は、日本共産党の「暴力革命論」保持の事実を示す根拠文献だと、警察さえ認めている「権威ある本」である。

戦後長らく日本共産党の書記長だった宮本は、本書で明確に「平和路線一本に限定して、自らの手を縛るのは、非現実的であり愚かな選択だ。可能なかぎり平和的な方法での民主的な自由主義革命を行うべきだが、しかし、現体制が、体制の本質的転換を迫られれば、手段を選ばず革命潰しの挙に出るというのは、すでに歴史の証明した事実なのだから、私たちは平和路線を推す進めながらも、いざ、現体制が暴力的な革命潰しに出てくれば、それに力を持って抵抗することを怖れてはならない」という趣旨のことを語っているのだ。

つまり「平和路線」を推し進めていくが、「敵の出方」に寄れば、それへの実力行使による抵抗反撃も辞さない、ということである。これが、世に言う「敵の出方論」である。

見てのとおり、宮本の意見は、しごく「常識的なリアリズム」に立脚した意見だと言えるだろう。
ここでの宮本の意見は、1961年に制定された所謂「61年綱領」の意義を説明するものであり、「暴力革命しかあり得ない」とした「51年綱領」との違いを明確にする一方、「51年綱領」における失敗の反動から、共産党内部にさえ湧き上がっていた「平和革命(一本槍)路線」の楽観主義を批判するものでもあったと言えよう。要は、日本の自民党政府を完全に牛耳ている「アメリカ帝国主義」を甘く見てはいけない、という趣旨のものであった。

したがって、この「61年綱領」が現在も生きている状態をして「共産党は、暴力革命を捨てていない。すなわち、日本共産党の真の狙いは暴力革命であって、平和革命論はお為ごかしの建前だ」とする批判は、共産党側の見解に接するの労を惜しむだろう多くの人たちに対する、意図的な欺瞞であり、政治的なプロパガンダでしかない。

先般の、ミャンマーでの軍隊による民主政治潰しを見ても明らかなとおり、「軍隊や警察」といった「統治のための暴力装置」を握っている権力者は、自分たちの立場が危うくならない範囲でなら「民主化」も認めるけれど、自分たちの権益が犯されたり、現体制そのものが本質的に転換されるような「革命」に対しては、手段をえらばずに潰しにかかるというのが、古今東西を問わない現実なのである。
たとえば、私は無論、読者であるあなたが「権力者の側」であったなら、きっとそうするはずだが、いかがだろうか?

つまり、いざとなれば「暴力をつかってでも、民主的な社会主義革命を潰しにかかる現体制」に対して「暴力的な抵抗」を捨てないというのは、ごく当たり前の話でしかない。

あなたが「平和主義=非暴力主義」者であったとしても、刃物を持った狂人が、あなたの恋人や子供にいきなり襲いかかってきたら、あなたはそれを「力づく」でも止めようとはしないだろうか?
それともあなたは「平和主義者=非暴力主義者」として、まさに襲いかかってきている暴漢に対して、「口だけ」の説得を試みて、恋人や子供などと共に、むざむざ殺される覚悟なのだろうか?
仮に、あなたの掌の中に拳銃があり、それを使えば目の前の凶行を止めることができたとして、それでも「平和主義者=非暴力主義者」であるあなたは、暴力は絶対にいけないことだからと、その拳銃を使わずに、「口だけ」の説得を試みるのだろうか?

だとすれば、あなたは確かに「言行一致」で立派な人だと言えるのかもしれないが、その一方、あなたは「刃物を持った狂人」以上に「狂っている」ということにも、なるのではないだろうか。

したがって、民主主義革命を行い、次に社会主義革命を行なって、平等な民主社会の実現を目指す共産党としては、民主主義革命の段階から「平和主義一本槍」でいく、などという「眠たい議論」を選べないのは、当然であろう。

しかし、戦後の「東西冷戦」下で、アメリカ帝国主義の側に組み込まれた日本は、西側(資本主義=帝国主義・側)に与する国家として、アメリカのバックアップの下、急激な経済発展を遂げて、いわば「このままでも悪くないよなあ」という雰囲気が強く支配し始めていたのであり、それは共産党内部においてすら同様だった。
つまり「資本主義体制もそんなに悪くはないじゃない。実際、我々は裕福で幸せな生活を取り戻したわけだし」と感じている共産党員からは「世界的な平和運動を進めるべきではあるけれども、もはや日本はアメリカから、なかば独り立ちしたも同然で、そこまでアメリカを目の敵にして恐れる必要などないんじゃないか。アメリカだって、もう日本に一目置いているはずだから、我々は、対アメリカ帝国主義よりも、反核半軍縮などの国際的な平和運動と、国内的な独占資本との戦いを優先すべきではないか」という意見が出てきていたのである。

共産党の「61年綱領」は、「51年綱領」の「暴力革命あるのみ」路線を否定しつつも、しかし、こうした「(アメリカ帝国主義の怖さをなめた)平和路線」の「平和ボケ」を牽制するものであった。「平和路線でいくが、敵の出方のよっては、暴力的な抵抗反撃も辞さない」というのは、そういう意味なのである。

したがって、現在の志位委員長が「平和路線でいく。暴力革命は捨てた」と主張しているのは、まったく正しいし、どこにも「嘘」はない。
志位委員長は「積極的暴力主義など採らないが、敵が暴力行為に出れば、正当防衛としての暴力を選ぶことなら、当然、辞さない」と考えているのであり、これは私たちが「正当防衛は、悪しき暴力ではない(正当な暴力行使である)」と考えているのと、何ら変わらない「常識的」議論に過ぎないのである。

したがって「共産党は、暴力革命を捨てていない。すなわち、日本共産党の真の狙いは暴力革命であって、平和革命論はお為ごかしの建前だ」とする批判は、現体制から多くの受益のある「現体制派」による意図的な欺瞞であり、政治的なプロパガンダでしかない。あるいは、そのプロパガンダを真に受けて、その口真似をしているだけの「無知な人」でしかないのである。

 ○ ○ ○

このように、共産党が、今も維持している「61年綱領」の語るところは、決して「恐るべき暴力革命論」などではない。それは、「現体制側」による「印象操作」でしかないのだ。

現在の私たちは「アメリカ帝国主義と、それと結んだ日本の独占資本」などというと「時代錯誤で極端な考え方」だという印象を受けるだろう。
しかし、「61年綱領」が制定された当時、日本共産党の内部にすらあった「世界的な平和運動を進めるべきではあるけれども、もはや日本はアメリカから、なかば独り立ちも同然で、そこまでアメリカを目の敵にして恐れる必要などないんじゃないか。アメリカだって、もう日本に一目置いているはずだから、我々は、対アメリカ帝国主義よりも、国際的な平和運動と、国内的な独占資本との戦いを優先すべきではないか」といった「楽観論」が、大きな間違いであったことを、「その後の歴史」に学んだ、今の日本人なら、たしかに知っているはずで、その主な事例は、次の二つである。

(1)バブル経済の崩壊
(2)民主党政権の崩壊

(1)について。
世界的な経済不況が吹き荒れる中で、日本だけは好景気を謳歌していた。それは「バブル経済期」であり、当時、日本の経済力は、アメリカを抜いて世界一となり、日本人は「世界一豊かな国」の国民として、いわば「天狗」になっていた。
近年では、中国人が日本の不動産などを買い占めたりすることを苦々しく思っている日本人だが、バブルの頃の日本人は、アメリカの有名企業を買収するなど、カネにあかして、その『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(社会学者エズラ・ヴォーゲルによる1979年の著書)ぶりを臆することなく、傍若無人なまでに繰り広げていたのであり、アメリカ国内では、日本車に圧されて売れなくなったアメリカ自動車会社の労働者が、日本車をハンマーで叩き壊すといったパフォーマンスを繰り広げて、日本への憎悪を、目に見える形で示していた。
当然、アメリカ政府は、日本に対して「経済摩擦」の改善を求めていたが、儲かって儲かって、すっかり天狗になっていた「金満日本」の政府が、そうした好ましい状況に歯止めをかけることはできなかった。
その結果、アメリカ政府はついに「プラザ合意」を発動させて、日本の経済活動に介入し、ついにバブルを崩壊させたのである。

一一つまり、アメリカが本気になれば、日本の経済的優位など、いつでも転覆できるということであり、しょせん日本は、アメリカには逆らえない「属国」に過ぎなかった、ということなのだ。まさに日本は、戦後ずっと「アメリカ帝国主義」に組み込まれたまま、だったのである。
そして、そうした事実は、今も「世界水準」に遠く及ばない、不平等な「日米地位協定」の現実にも明らかであり、だからこそ「検疫を経ずに、自由に入国できる米軍」基地から、コロナウィルスのオミクロン株が急拡大したりもしているのだ。

「アメリカ帝国主義」下に組み込まれた「属国」。一一それが日本であり、1961年当時、「アメリカ帝国主義を甘く見てはいけない。それは少しも弱体化してなどいない」という警鐘を鳴らし続けた「61年綱領」の主張は、完全に正しかったのである。

(2)について。
長年続いた自民党政権が転覆して「民主党」政権が誕生したのは、自民党政権が、国民をおき去りにして「身内の派閥政治」に明け暮れたからであり、それにうんざりした国民は、「民主党」の清新な政治に期待を寄せた。

しかし、沖縄の「辺野古基地移設問題」で、沖縄県民の民意を受けた鳩山由紀夫首相が「最低でも県外」と発言し、「できれば国外」への移設を目指したものの、自民党政権下で構築された官僚システムの抵抗と、何より「アメリカ政府」の無視と反撃にあって、その無力をさらけ出し、あえなく方針転換した、というのは記憶に新しいところだろう。
これが意味するのは、無論「今も日本は、アメリカ帝国主義下に組み込まれている属国であり、国民の意思よりもアメリカ政府の意向が優先される」という現実である。

結局のところ「民主党政権」は、「61年綱領」の頃に「平和主義革命路線」を主張した共産党員と同様の「現実を知らない、甘ちゃん」だったからこそ、アメリカの「虎の尾」を踏んで、あえなく崩壊させられたのである。
言うまでもないことだが、「民主党政権の崩壊」は、アメリカ政府の介入に対し、物理的に抵抗する「力」を何も持たず、ただ「民主主義的平和主義」という「理想」しか持たなかったせいである。「刃物を持った暴漢を、口だけで説得しようとして、あえなく刺し殺された」のが、「民主党政権」だったのだ。

 ○ ○ ○

このようなわけで、日本共産党に今も生きている「61年綱領」の「敵の出方論」は、まったく正しい。
「暴力を保持する現体制」を本質的に否定して、まったく新しい政治体制を築こうとする「政治革命」においては、「平和主義一本槍」などというものは、まさに「自殺行為」でしかないのだから、「対抗暴力」を担保しておくというのは、私たち「正常人」の「常識」に沿った考え方であり、異論の出るところではないのである。

だから「共産党は、暴力革命を捨てていない。すなわち、日本共産党の真の狙いは暴力革命であって、平和革命論はお為ごかしの建前だ」などという、ためにする批判を真に受けている人は、是非とも本書『日本革命の展望』を読んでほしい。

共産党批判者である、元外交官の佐藤優が「共産党にとっては、読まれたくない本だから、現在は絶版になっている」と主張する本書は、古本ならば、いくらでも出回っており、Amazonなどでの購入も容易に可能だし、いろんな版型で刊行され何度も増刷された、共産党の「基本的理論書」であるため、古本価格も決して高くはなく、今の新刊本程度の価格でしかない。

私が読んだ新書版も、上下巻合わせて450ページほどの本なので、京極夏彦の「妖怪シリーズ」などよりはよほど薄く、硬い文章ではあれ、内容的にも決して難しいわけではないから、「知的怠惰」に犯されていない、「日本共産党」批判者および懐疑者を自認する人なら、是非とも本書を読むべきであり、読む義務があるとさえ言っても良いだろう。
ともあれ、私のこの解説文を読んでからなら、本書『日本革命の展望』など、容易に理解できると保証しておこう。

 ○ ○ ○

さて、以上は、日本共産党が、今も「暴力革命を、拒絶否定しているわけではない」という事実についての説明であり、それは当然の選択でしかない、という趣旨の解説であった。
しかし、だからと言って、私は、日本共産党が掲げる「社会主義革命」に「問題がない」とか「完全に正しい」などと言っているのではない。
そうではなく、むしろそれは「絵に描いた餅でしかない」と考えている。
どういうことなのか、説明しておこう。

前記の「61年綱領」が制定された当時、すでにソ連共産党書記長フリシチョフによる「スターリン批判」なされていたとは言え、まさにそうだからこそ日本共産党は、自浄能力のある「ソ連共産党」が語るところの「理想」を、きわめてナイーブに信じ、それに基づいて「アメリカ帝国主義と、それにつき従う日本の独占資本(とその政府)」と戦うことで、理想社会の実現が可能だと信じ、「社会主義国家」の樹立を目指していた。

たしかに、「アメリカ帝国主義」とそれにつき従う「日本の独占資本(とその政府)」が、非難され、転覆なり改善なりされるべきものだというのは、事実である。だが、そうした悪しき体制を転覆した後の「理想的政治形態」とは、果たして「ソビエト共産党」の示したようなもので良かったのであろうか?

のちに日本共産党は、「そうではなかった」という「不都合な現実」の数々を知らされ、見せつけられることになり、否応なく、方針転換せざるを得なくなる。

本書の中でも「同志」と呼ばれているフリシチョフが、1956年に行った、独裁政治批判としての「スターリン批判」によって示された「ソ連共産党」の健全性は、しかし、フリシチョフの失脚と、その後を襲ったブレジネフによって、再び独裁政治へとねじまげられ、もはやソ連は「赤い帝国主義国家」としか呼びようのないものとなってしまい、日本共産党は「国際共産主義運動」路線を、捨てざるを得なくなった。
つまり「61年綱領」当時は、まだ実例として存在していた「理想の共産主義国家」は、今やどこにも存在せず、「理想は理想でしかなくなってしまった」のだ。

だから、現在の日本共産党が保持している「61年綱領」の理想に従って、「アメリカ帝国主義」と「日本の独占資本」の支配から日本を解放し、さらに「社会主義」革命を成功させたとしても、そこで実現した「平等な共産主義社会」が、額面どおりのものとして機能しうるという「現実的保証」など、どこにもないのである。

たしかにうまく言えば、そうなるかも知れないけれど、そのように万事うまくいった先例など、実際のところ、ないに等しい。
まして日本は、今でも経済大国だから、アメリカは無論、ロシヤや中国だって、放っておいてなどくれない。「自分たちはこれで満足している」というだけでは済まされず、おのずと強国からの政治的介入を受けざるを得ない。そんな状況下において、仮に、日本で共産主義社会が成立したとしても、それが「国内的理想どおりに存続運営される可能性」など、ほとんど無いに等しいのではないだろうか。

つまり、私は、日本における「理想主義的な社会主義革命」の実現などということは、現実的ではないと考えている。
したがって、共産党の「61年綱領」の正しさも、「アメリカ帝国主義と日本の独占資本による支配は、改められべきだ」という主張においては「完全に正しい」と考えはしても、だからこそ「社会主義革命に進むべきだ」とは考えない。

私にとっての「社会主義」や「共産主義」の「理想」は、「人間の度し難い現実」を「牽制する」ためのものではあり得ても、「人間の度し難い現実」を、根本的に「改革」できるものだとは思わないからである。

したがって、「社会主義」や「共産主義」の「理想」には、基本的に賛同するし、「共産党の暴力革命論」などといったことをあげつらう「現体制(権力)の走狗」を批判しはするけれども、「社会主義や共産主義の理想」を「完全無欠なもの」あるいは「実現し得るもの」として「信仰する」つもりはない。

私は、どこまでも「無神論者」なのである。




(2022年1月11日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

2992:2022/02/23(水) 21:58:59
〈書痴〉という聖なるもの 一一書評:山田英生編『書痴まんが』
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 〈書痴〉という聖なるもの

 書評:山田英生編『書痴まんが』(ちくま文庫)

 初出:2022年1月12日「note記事」

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Amazonカスタマーレビューで、レビュアー「直いい親父」氏が「純粋に書痴に関する作品が少ないのでは・・・??!」と題して書かれているとおりである。(https://www.amazon.co.jp/dp/4480437967
まったく適切な評価であり、かつ短文でもあるので、全文引用して紹介させていただこう。


『 純粋に書痴に関する作品が少ないのでは・・・??!

 あとがきにもありますが、書物や書痴に関しての本は、フローベルを始め、けっこう出版されています。
 アンソロジーで特筆すべきは、紀田順一郎の2冊があげられると思います。
 漫画に関しては、筑摩文庫では「ビブリオ漫画文庫」に続き本書は2冊目になります。
 全15編の作品が収録されています。
 純粋に書痴に関する作品は、フローベルの作品を下敷きにした「愛書狂」くらいじゃないですかね?!
 後は本に関するファンタジー系統の作品が多いように思います。
 また、貸本、戦後の漫画創世記に作品も多いと思います。
 諸星さんに関しては、「栞と紙魚子シリズー」でもっと良い作品があるように思いますが・・・?』

「書痴」というのは、要は「書物への偏愛に狂った痴れ者」あるいは「書物への偏愛に狂った痴れ者状態」を指す言葉であり、普通に「本好き」「愛書家」「読書家」「作家」「(熱心な)出版関係者」を指す言葉ではない。

「好き」という当たり前の感情を逸脱して、「狂い」「痴れて」いなければ「書痴」とは言わない。
例えば、欲しい本を手に入れるために、散財して家財産を失うとか、人を殺すとか、文字どおり「気が狂う」といった状態か、それに近い「非常」の状態に達している者でなければ、「書痴」という表現は、大げさに過ぎよう。

たしかに、普通はあまり使わない言葉であり、人の目を惹くため、マーケティング的な意味合いでのネーミングなのだろうが、そういう「功利的=世俗的」な態度ほど「書痴」から遠いものもないのである。つまり、こんなことでは「書痴(処置)なし」なのだ(失礼)。

 ○ ○ ○

したがって、本書に「書痴」を期待してはならない。
あくまでも、普通に「本好き」「愛書家」「読書家」「作家」「(熱心な)出版関係者」にかかわるマンガ作品集だと考えて読むべきで、その分には、バラエティーに富んでおり、よほど熱心なマンガ読者でないかぎり今時は接する機会もないであろう古い作品も収録されているので、勉強にもなるだろう。

ちなみに、私は「書痴」や「愛書狂」ではない。「愛書家」であり「ビブリオマニア」くらいまでなら該当するだろうが、「書痴」や「愛書狂」と呼ばれるほどの、「豪の者」ではあり得ない。

無論、私はここで「書痴」や「愛書狂」を見下しているのではなく、彼らを「突き抜けた稀種」として「特別扱い」にしているのである。
じっさい、「愛書家」や「ビブリオマニア」なら、世の中に掃いて捨てるほど存在するが、同じ「愛書家」や「ビブリオマニア」をして「狂気」を感じさせるほどの、突き抜けた「愛書家」や「ビブリオマニア」というのは、当然のことながら、めったにいない。
しかし、そういう境地に達していてこそ、「書痴=書物の痴れ者」「愛書狂=書物愛に狂った者」と呼ぶに値するのではないだろうか。

愛書家で知られる、フランス文学者で作家の鹿島茂の著書に『子供より古書が大事と思いたい』というタイトルのエッセイ集があるけれども、「書痴」か否かは、まさここがポイントなのだ。
つまり「子供より古書が大事」と思える者こそが「書痴」であり、そこまで行きたくても行けない「常識」が残っており、「痴れていない」のが「愛書家」や「ビブリオマニア」だと言えよう。

鹿島自身は、「書痴」の境地に憧れを感じつつ、しかし、そこまでは振り切ってしまえない自分に、一種の「物足りなさ」や「寂しさ」や「情けなさ」や「諦観」を感じているのだ。
言い換えれば、鹿島にとっての「書痴」とは、一種の「超越者」であり「悟りを開いた者(覚者)」であり、ある種の「憧れ」を持って鑽仰されるべき存在なのである。

一方、本書に登場する(作中の)人々は、たしかに「魅力的な人たち」であり、その意味で、おおむね「共感できる人たち」である。そして、そんな彼らを描いているからこそ、本書所収の作品は、いずれもそれなりに「愛書家」や「ビブリオマニア」の共感を呼ぶだろう。その意味で、それなりに「面白い」はずである。

しかし「書痴」という言葉にこだわりを持つような人間にとっては、本書所収作品に描かれた人は、所詮は「共感」可能な「人間=同類」でしかない。
だが「書痴」は、そうしたところから逸脱した存在であり、言ってみれば「アウトサイダー」なのである。

所詮は、無難に社会生活を営んでいる私たちとは違う境地に突き抜けてしまった人たちが「アウトサイダーとしての書痴」であり、私たち「本好き」が、「書痴」というものに惹かれる時、私たちはそれ(書痴)に「共感」したいのではなく、共感し得ない「圧倒的な存在」の前に「慄き」たいのだ。
言うなれば、私たちは、宗教学者ルードルフ・オットーが言ったところの『聖なるもの』としての「書痴」という存在に接する「非日常体験」をしたいのである。

だからこそ、その意味で本書は、決定的に「物足りない」のだ。


(2022年1月12日)

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2993:2022/02/23(水) 22:03:17
ゾンビからミイラへ:〈言葉〉を失った者たち 一一書評:國分功一郎・千葉雅也『言語が消滅する前に』
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 ゾンビからミイラへ:〈言葉〉を失った者たち


 書評:國分功一郎・千葉雅也『言語が消滅する前に 「人間らしさ」をいかに取り戻すか?』(幻冬舎新書)

 初出:2022年1月15日「note記事」

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「言葉」が失われはじめている。一一これは、ものを考える習慣のある人間には、もはや自明な現状認識であり、本書著者(対談者)の國分と千葉は、大学で哲学を教えながら、近年こうした危機意識につのらせている。

例えば、私が最近、レビューで採り上げた、ヴィトゲンシュタインの研究者である古田徹也の『いつもの言葉を哲学する』も、言葉が粗雑に扱われて、誤った形式化(形骸化)を経て、その意味を失いつつある現状に対する危機意識によって、書かれたものだと言って良いだろう。

私は、この古田書のレビューにおいて、最近の「炎上」事案として話題になった「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」問題を取り上げて、ミステリ作家の綾辻行人と知念実希人を批判した。

知念の方は、見るからに「ネトウヨ」丸出しで、「ネトウヨ」が共感できるくらいにお粗末な作家だから、ここで論ずる価値もないのだが、長年売れっ子ミステリ作家の看板を張ってきた綾辻行人の場合は、知念などより数段上手に「大衆迎合」的でもあれば「時局迎合」的でもあって、言うなれば「俗情との結託」によって人気を保ってきた人らしく、言っていることは、一見「穏当」なのだが、だからこそ、その「無自覚」なまでの「思考停止=言語消失」は、根深い問題を孕んでいると言わざるを得ない。
平たく言えば、綾辻行人ファンや知念実希人ファンに代表される「普通の読者」には、「綾辻行人的問題」が、まったく見えないのである。

だから、ここでは國分功一郎と千葉雅也の問題意識に沿って、綾辻行人が体現している「言葉の喪失=思考停止=ぴえん化」の問題について、再論してみたいと思う。

 ○ ○ ○

國分功一郎が本書でも中心的に扱うのは、彼の代表作と言っても良い『中動態の世界 意志と責任の考古学』で扱った「中動態」の問題である。
「中動態」とは、文法用語で、

『インド・ヨーロッパ語族の態のひとつ。能動態とは人称語尾によって区別される。中動態と受動態は形態の上で区別されないことが多い。中動態がよく残っている言語にサンスクリット、古代ギリシア語、アナトリア語派などがある。
中動相・中間態などとも呼ぶ。サンスクリット文法では反射態(reflexive)と呼ぶことが多い。』(Wikipedia「中動態」)

といったもので、今は「能動態と受動態」の二極に吸収されて失われた等しい、中間的な文法形式だと言えよう。

大雑把に言えば、國分は前記『中動態の世界 意志と責任の考古学』において、この現代では失われたに等しい「中動態」的なあり方を再考することで、より正確な世界認識が回復できるのではないか、との問題提起をしている。
「する=能動態」「された=受動態」という二極の「どちらか」ではなく、あり方としての、その中間形式である。

わかりやすい例で言うと、本書で國分は「教える」「教そわる」に対して、「勉強している」を対置してみせる。
「勉強」というのは、対談相手である千葉雅也の『勉強の哲学』を受けてのものだが、「教える」「教わる」は、いずれにしろ「すでに斯くある」状態だが、そうではなく、未確定で現在進行形である「勉強している」という「中動態」的なあり方の中にこそ、ものを考える人間の基本的なあり方としての「自律」があるのではないか、という問題提起なのだ。

一方に、何でも知っている「先生」がいて、もう一方に、まだほとんど空っぽな「学生」がいて、そこには「教える」側と「教わる」側の二極しかない、というのが「能動態と受動態」的な二極世界。
しかし、本当の発展性というのは、この中間の「勉強している」にあり、先生の方は「教える」こと(「教える」ために「勉強しつづける」も含めて)の中で「勉強」し、生徒の方は「教わる」ことの中で「勉強」する。つまり両者ともに「勉強している」という「中動態」的な過程の中に生きているのであり、そこでの彼らは、二極的関係性の中で「完結し硬直して、限定されて」はいないのである。

つまり、千葉雅也の言う「勉強の哲学」とは、決定的な解答(受動的完結)を回避して、それからそれへと学び続け、考え続けることの中に見出されるものとしての「生きた哲学」を、提案しているのだと言えるだろう。

対談者二人の問題意識は、このように「言葉」が硬直せずに、どんどん深められていく、豊かになっていく「生きた言葉」であることを目指しているのだが、残念ながら、今の日本における言葉の現状は、これの真逆を行くものでしかない。

綾辻行人は、「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」問題について、

『小説を読んだ。面白かった。それをみんなに伝えたい。TikTokで紹介した。興味を持って多くの若い人が読んでくれた。……出版界の損得の問題とは別に、これってとても素敵なことだと思うのですね。(2021-12-11 19:01:22)』

『若いころに読んで面白かった本は一生、心に残るものです。大人になってたくさんの本を読んで「物知り」になってからの読書とは、まるで鮮度が違う貴重な体験でしょ。そのきっかけが、同じ若い読者の視線で語られたTikTokの動画であることの、どこがいけないのかしら。……などと。(2021-12-11 19:08:19)』

と、「名指し」を避けながら、豊崎を批判するツイートをした。
そして私は、この「いかにも綾辻行人らしい身振り」に嫌悪を感じて、前記のレビューで、次のように批判した。

『まさしく「などと」いう、いかにも「何も考えていないポピュリスト」らしいツイートをしている。
『大人になってたくさんの本を読んで「物知り」になっ』たおかげで「より深い読書の喜びを知った人」にコンプレックスでもあるらしい「子供のまま=非・幼形成熟」の綾辻は、豊崎の「文学の今」をめぐる危機意識が、まったく理解できないのだ。

これは、綾辻行人という小説家自身が、単純に「読めない読者」の一人である、ということに他ならない。
つまり、綾辻としては「面白いものを面白いと言って、何が悪いの?」ということなのだが、この人は「面白いとは、どういうことなのか?」「面白い作品とは、どういうものなのか?」といったことを、ろくに「考えたことがない」のである。

綾辻行人が「面白い」と思う作品を「つまらない」と思う読者もいるし、逆に綾辻行人が読もうともしない本を読んで、豊崎由美が「面白い」という場合なども当然想定され、そのような場合の「意味」も、当然吟味されてしかるべきなのだが、「向こう三軒両隣」に視野の限定された綾辻は、おのずと「面白いものは面白いでしょ」止まりなのである。
そして「売れっ子作家には、そうした自己中心的に呑気な横着さが許される」と、無自覚にも、そう思い込んでいるのだ。だから、適切に「他者」を想定できないのである(例えば、裕福なオリンピック参加選手が、オリンピック開催でコロナ死する人のことを気にしないのと同じである)』

私がここで、綾辻行人の言葉の、何を問題にしているのかと言えば、綾辻がすっかり「真理を悟っている=意味が確定している」つもりになっている点である。

綾辻はここで『出版界の損得の問題とは別に、これってとても素敵なことだと思うのですね。』と、いかにも自分が「金銭的に無欲」であり、「若い読者の喜び」をもっぱら重視しているかのように語っており、事実、本人は、そのつもりなのだろう。
自身の経験として、若い頃に読んで大感動したミステリ作品を、「大人の読者」から「あんなパズル小説が楽しめるのは、若いうちだけだよ」などと心ないことを言われたのを根に持って、意地でも「若い頃」のようであることに「無邪気に」固執した結果、綾辻は『大人になってたくさんの本を読んで「物知り」』になることを拒絶しておれば、それで「大人」にならずに済み、それで自分はいつまでも「鮮度」の高い、みずみずしい感性を保った「若者」でいられているつもり、なのである。

だが、それが幼稚な勘違いであることなど、少し「ものを考える人間」には、自明な話であろう。その自明な話がわからないのは、綾辻行人が「ものを考えることを拒絶した人間」であり、そのことで「若いままでいられる」と勘違いした、グロテスクな「フリークス」の一人だからである。

豊崎由美が「けんご批判」で問題にしたのは、「文学業界の金銭的損得問題」などではなく「文学的価値の存続=知性の存続」の問題であることは、「読める読者」には自明なことだろう。
だが、前記レビューで私が「読めない読者の一人」と呼んだ綾辻行人には、この程度のことすら読み取れずに「大人の考えることなんて、どうせ銭儲けのことくらいでしょ」と、いささか薄気味の悪い「若者ぶり」で『出版界の損得の問題』だと決めつけているのである。

こうした「決めつけ」は、『大人になってたくさんの本を読んで「物知り」になってからの読書とは、まるで鮮度が違う貴重な体験でしょ。』という言い草の、わざわざ括弧でくくって見せた「物知り」という言葉に見え透いている。
要は、綾辻は、「物知り」になることは「大人」になることであり、「大人になること」は「みずみずしい感性を失う」ことだと、そう考えているのだ。

だが、言うまでもなく「何もしなければ、そのままでいられる=余計なことを知らなければ、子供のままでいられる」というのは、幼稚極まりない発想だ。

綾辻と親しいミステリ作家の竹本健治は、実名ミステリ『ウロボロスの基礎論』の中で、そこに登場させた綾辻行人について、作中人物である小野不由美(綾辻の妻)に、

『先程、かつてのように無邪気に書けなくなったと言いましたが、それでもやはり無邪気さというのは綾辻くんの作風の大きな特質だと思いますね。それについては彼自身も、無邪気でありたいという言葉を何度か表明していたようですが。いや、それは作風に限らず、彼のキャラクターそのものからにじみ出るものでしょう。綾辻君はデビュー後たちまち絶大な人気を得て、後続部隊のための大きな道を拓き、結果として新本格ムーブメントを大成功に導いたわけですが、彼があそこまで人びとに熱く受け入れられた秘密の一端は、そこにこそあると思うんです。いや、それは単に彼の無邪気さが好感を持たれたということではないですね。彼のキャラクターは人びとが潜在的に抱いていた童子幻想、つまり、特異な能力を持ったあどけない子供が突然どこからともなく現れて、世の中をがらりと変えてくれるという願望に、ぴったりはまりこんだのではないかと思うんですよ。』(P658〜659)

と語らせていたし、別のところでは「ネオテニー(幼形成熟)」という言葉も使っていたが、実際に、ある時期「無邪気でありたい」と語っていた綾辻は、こうした言葉を「願望充足的」に真に受けてしまい、自分は「子供心を忘れない、特別な人間」だと思い込んでしまったのではないか。自分だけは、このままで「老けない」と、無邪気に信じ込んだのである。一一無論、外見は別にしてだ。

しかし、「何もしなければ、そのままでいられる」というほど、現実は甘くない。

綾辻行人を、前記のように(作中で)評した竹本健治でさえ、しばしば「自分はすでに、『匣の中の失楽』を書いた頃の自分ではない」という趣旨のことを語り、「人間の細胞は、6年ほどですべて入れ替わる」という学説を紹介したりもしている。つまり『行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず』(鴨長明『方丈記』)いうわけである。

言うまでもないことなのだが、人間(万物)は「そのまま」でいようとしても、そうではいられないし、「見かけを保つ」だけでも大変な努力が必要だというのは、美容の問題ひとつとっても、明らかな事実だろう。しかし、この程度のことが、「童子」のつもりの綾辻行人にはわからないのだ。

そしてこの問題は、無論「頭の中」についても同じである。
「みずみずしい感性」というものは、放っておいて保てるものではない、というのは、当たり前の話だ。

綾辻行人の場合、自分は「特別」だとでも思っているから、「物知り」なだけで「本質的な知性・みずみずしい感受性に欠ける大人」になんかならない、とでも自惚れているのだろうが、当たり前の人間にとって「みずみずしい感性」というのは、自分を磨き鍛え高める中で、やっとのこと、実現できるか出来ないかといった、困難事なのである。

『  自分の感受性ぐらい  茨木のり子

  ぱさぱさに乾いてゆく心を
  ひとのせいにはするな
  みずから水やりを怠っておいて

  気難しくなってきたのを
  友人のせいにはするな
  しなやかさを失ったのはどちらなのか

  苛立つのを
  近親のせいにするな
  なにもかも下手だったのはわたくし

  初心消えかかるのを
  暮らしのせいにはするな
  そもそもが ひよわな志にすぎなかった


  駄目なことの一切を
  時代のせいにはするな
  わずかに光る尊厳の放棄


  自分の感受性ぐらい
  自分で守れ
  ばかものよ      』


この詩を引用すると、「読めない読者」からは、「気難し」いのも「苛立つ」のも、おまえの方ではないかと言われそうだが、茨木のり子がこの歌で語っているのは、気難しくなるなとか苛立つな、ということではない。
茨木が言いたいのは「自ずと老い枯れていく感性を、みずみずしく保つには、自分の努力しかない」ということなのだ。だからこそ、茨木は「老い枯れていくままに流されがちな、怠惰な自分」に「苛立ち」、自分を叱咤しているのである。

ともあれ、「みずみずしくある」というのは、「変わらないように、何もしないでいる」ということではない。
そうではなく「自分への水やりを絶やさない=努力し続ける」ということなのである。そして、この「自己における現在進行形」こそが「中動態」であり「勉強の哲学」なのだ。

 ○ ○ ○

常に学び、自分への水やりを絶やさない不断の努力があってこそ、人は艶やかな花を咲かし続けることできるのであって、「一切の変化を拒絶して、そのままに止ろうとする」不自然な努力とは、レーニンや金日成「防腐処理された遺体」のようなものでしかない。そんなものは「すでに死んでいる」し、少しも「美しくはない」のである。一一それでも、盲信的な「賛嘆者」は、一定数いるにしてもだ。

「言葉が失われる」とは、すなわち「大脳新皮質の機能停止」であり「ゾンビ」化だと言っても良いだろう。
私は、前記のレビューの最後を、次のように書いた。

『『いつもの言葉を哲学する』という場合に、この「いつもの言葉」が、おおかた「ロクでもないもの」にしかなっていない現状(例えば「エンタメ読書界の現状」)に、私たちは生きている。だからこそ、そんな「無内容かつロクでもない言葉」の奔流に、無自覚に巻き込まれて、感染しないように、「哲学する=言葉を吟味する」しかないのであろう。
すでに周囲は、ゾンビに囲まれているとしてもだ。

少なくとも私個人は、金輪際「脳の活動が止まったゾンビ」になど、なりたくない。
だから「哲学」するのである。』

「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」の問題は、「物知らず」の綾辻行人やその読者には、想像もつかないことだろうが、古田徹也の『いつもの言葉を哲学する』の問題意識とも、國分功一郎の『中動態の世界』の意識とも、千葉雅也の『勉強の哲学』の問題意識とも、そして私の危機意識とも、その根を同じくするものなのだ。

私たちの世界から「言葉=水」が枯れかけているのであり、ゾンビたちはやがてミイラとなって、動くことさえ出来なくなってしまうかもしれないのである。


(2022年1月15日)

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2994:2022/02/23(水) 22:05:06
落合博満の〈たった一人の真の理解者〉一一書評:ねじめ正一『落合博満論』
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 落合博満の〈たった一人の真の理解者〉

 書評:ねじめ正一『落合博満論』(集英社新書)

 初出:2022年1月16日「note記事」

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野球ファンではない私が本書を読むことにしたのは、世評高い、鈴木忠平著『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』を読んだからである。

ではなぜ、この『嫌われた監督』を読んだのか。それは、同書について論じたレビュー「もう一つの〈野球狂の詩〉」を読んでいただくこととして、ともかく、世評どおりに同書に感心し、落合博満という男に興味を持った私は、それで満足するのではなく、別の視点からの落合博満論を読んでみたいと思った。一面的な評価というのは、褒めでも貶しでも、つまらないと思うからだ。
著者の「見方」に、ありがたく共感して満足するのではなく、あれこれ付き合わせて、自分の「見方=解釈」を得ないと満足できない。それで本書を手に取った、という次第である。

もっとも私は、野球ファンではないから、もともと落合博満に詳しいわけではない。ただ、同時代人として、落合が「オレ流」で、自分の生き方を通した結果、野球界はもとより、世間からもおおむね「嫌われ者」であったことくらいは知っていた。「オレ流」で我が道を行く落合が、「空気を読んで」「右向け右」の日本人世間から総スカンを食らったというのは、野球に興味がなくても、当時の「空気」として、十分に伝わってきたのである。

だからこそ、落合に肯定的な『嫌われた監督』の後に、さらに、同じく落合に肯定的な本書を読むことに、問題はなかった。もともと、否定的な評価が圧倒的多数なところに出てきた少数意見なのだから、その少数意見の中のバリエーションを確認したかったのである。

評判の著者の書いていることに共感し、それに満足して、「私も同意見だった」みたいなことを考える人というのは、その凡庸さにおいて、おおむね実は「体制順応派」であり、その意味で「反オレ流」に過ぎない。だから、落合に共感するというのなら、そう簡単に「今の権威」を鵜呑みに、それに与してはいけないのである。

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さて、本書だが、全体的には「落合に関する、ゆるいエッセイ集」という感じである。いくつかの対談や、過去のエッセイなども組み込んで再構成したもので、「長編エッセイ」と呼ぶほどの構築性はない。無論「評論」などと呼べるものでもなく、落合ファンとしての思い込みや主観や気持ちを優先した書き物である。

著者の落合評価は、前述の『嫌われた監督』の著者・鈴木忠平のそれと、大きな違いはなかった。
「落合は、馴れ合わない」「落合は、小さなものの側の人間である」「落合は、とにかく、よく見ている人である」といった具合だ。

ただ、『嫌われた監督』に書かれていなかった部分として私が注目したのが、落合博満の「長嶋茂雄」評価である。本書著者のねじめ正一も、熱心な長嶋ファンであったから、そこは見逃さなかったのだろう。

落合は、長嶋茂雄に憧れて野球を志した人なのだそうだ。そしてそれはプロになってからも変わらなかった。
落合のように「オレ流」で個性的な人なら、当たり前に長嶋茂雄ファンというのは、ちょっと似合わない感じもするし、プロになった頃には、長嶋がどうした、くらいのことを考えていても良さそうなものなのだが、実際にはそうではなかった。落合は、子供の頃の気持ちのまま、長嶋茂雄に憧れ、敬愛し続けていたのである。

ただし、落合は「監督としての長嶋茂雄」を、評価してはいなかった。
長嶋監督は「お客さんを楽しませるために、選手はすべての試合に全力で取り組むのが当然だ」という考えの持ち主だった。
だが、落合は違った。落合は「選手を休ませるのも監督の仕事」だと考えていたので、長嶋の考え方は、監督のものとしては「間違い」だと評価していた。しかしまた、その間違い方は、いかにも長嶋茂雄らしくて、落合はその間違い方に「敬愛を持って納得していた」のである。一一つまり、長嶋茂雄は、監督をやらせてはいけない、特別な人だったのである。

この「監督」観の違いは、たぶん、長嶋が「天才」であり、そのことに十分自覚的でなかったがゆえに、つい、人にも同じことを求めてしまった、という誤りだったのではないか。
一方、落合は、「プロ野球選手」に「ただの人」を見ていたからこそ、厳しい部分は徹底的に厳しくとも、限界のある人間というものに対するいたわりを、見失うことはなかったのであろう。

ともあれ、落合は、長嶋監督が、監督としてはダメだと客観的に評価しながらも、しかし敬愛の念は変わりなかったからこそ、乞われて長嶋巨人に移籍した時には「優勝請負人」として「長嶋監督を胴上げする」ためだけに、自分の持てるもののすべてを、長嶋に捧げたのである。そして、その目的を見事に達成して見せたのだ。

つまり、私が本書の「落合博満における長嶋茂雄」を面白いと思ったのは、落合が「客観的かつ冷徹」であり「オレ流」でありながらも、その一方、自分が愛するものには、その身を捧げることも厭わない「情の人」でもある、という点の発見にあった。

その意味では、本書所収の、女優・冨士眞奈美との対談で、富士が紹介している、落合夫人の、落合を全身で守ろうとするその献身ぶりと情の濃さにおいて、この夫婦は、見かけこそ「無口でぶっきらぼうな夫と、にぎやかで派手な嫁」という具合に正反対には見えても、本質的なところでは、やはり「似た者夫婦」だったのであろうと思う。

『嫌われた監督』の方を読んでいると、落合博満という人も魅力をよく伝えているとは思うものの、やはり彼に人生に、ある種の「不遇の影」を見ないではいられなかったのだが、本書を読むと、やはり「この嫁さんがいるだけで、落合は幸せ者なんだ」と、嬉しく思えた。

きっと、真の理解者なら「たった一人いるだけで十分」なのである。


(2022年1月16日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

2995:2022/02/23(水) 22:06:39
たとえば〈文学〉とは、こういうものだ。 一一書評:スティーヴン ミルハウザー『イン・ザ・ペニー・アーケード』
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 たとえば〈文学〉とは、こういうものだ。

 書評:スティーヴン ミルハウザー『イン・ザ・ペニー・アーケード』(白水Uブックス)

 初出:2022年1月19日「note記事」

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先日、本書と同じ「白水Uブックス」の「海外小説の誘惑」シリーズに収められている、アラン・ベネット『やんごとなき読者』を読んで、とても面白かったので「そう言えば、ここのところ海外現代文学を読んでいないなあ」と思い、昔、買っておきながら読めなかった本書を、古本で再入手して読んだ。そして感じたのは、その退屈さも面白さもひっくるめて「文学だなあ…」ということだった。

日本のエンタメ小説と決定的に違うのは、読んでいる最中はけっこう退屈だったりもするのだが、読み終わった後に「絵」が残る、という点である。いつの間にか一つの絵が、心に刻みつけられているのだ。
エンタメ小説のように、読んだら忘れるとか、忘れはしないまでも、その作品のイメージは「ファイルに閉じこまれる」といった感じではない。否応なく、その作品を象徴する「絵」が、刻み込まれているのだ。

そして、本書『イン・ザ・ペニー・アーケード』などは、その典型的な作品だと言えるだろう。
本書によって刻み込まれた、その「暗い絵」は、何度も夢の中に出てきていて不思議はないのだけれど、それがあまりに自然な「夢の中の風景」なので、目覚めた後は思い出せないのではないだろうか。その意味では、私はその夢を、本書を読む前から何度も見ており、それを、本書の中に見出したのかもしれない。

本書や作者については、柴田元幸の「訳者あとがき」があまりにも的確で素晴らしく、何も付け加えることがないので、少々長くなるが、引用させていただこう。

『 小さな町の薄暗い博物館の一室で、一人の少年がぼんやり展示物を眺めている。少年は退屈している。館内に並ぶ平凡な陳列品に飽き飽きしている。少年は苛立っている。僕が見たいのはこんな物じゃない。僕がいたいのはこんな所じゃない。
 と、突然、目の前にある、一見何の変哲もない一枚の絵の中の風景が動き出す。少年の人差し指ほどの大きさの人々がにわかに仕事に精を出し、馬車は道を進み、犬たちは野山を走る。少年は驚愕に目をみはる。倦怠の底にまどろんでいた少年の精神が一挙に眼をさます……
 スティーヴン・ミルハウザーはひとつの原風景にくり返し立ち戻る作家である。その原風景とは、具体的なディテールを備えた一個の情景というよりも、むしろあるひとつの同じ思いに貫かれた、それぞれ異なった細部をもついくつもの情景を生む源泉のようなものである。
 たとえばそれが、いま挙げたような情景となって現れるのである。
  (中略)
(略)もちろんそれは、ミルハウザーが楽天的で能天気なロマンチストだということではない。さらなる美、さらなる驚異の探求の果てには天国の無限の輝きが待ち受けているといったような呑気な話ではない。彼がつくり出す芸術家たちの究極には、常にどこか暗い影がさしている。高揚の背後に激しい焦燥感が見え隠れしている。「落ち着かない」(restless)「苛立った」(irritated)「憑かれた」(possessed)といった言葉を、ミルハウザーはくり返し使う。これらの言葉が暗示するように、彼は、そういった探求をひとつの病、おそらくはついに癒されることのない病として描く。たとえば「イン・ザ・ペニー・アーケード」の主人公の少年も、「僕がかつて憧れたものたち、忘れていたものたちがひしめき合う、失われたペニー・アーケード」を求めて、現実のペニー・アーケードを空しくさまよう。彼らが本当に求めているものは、つねに、すでに、失われている。だがいうまでもなく、あらかじめ敗北を運命づけられているからこそ、病はいっそう甘美なのである。
 (中略)
(略)アメリカ文学を代表する(※ ギャッツビーやエイハブ、あるいはサトペンなどの)ヒーローたちを捉えているのは、〈いま・ここ〉に対する絶対的な不満である。エイハブやサトペンの神話的スケールはかならずしも共有しないけれども、ミルハウザーの登場人物もまたこれと同じ不満に憑かれている。現代文学の本流から外れているとしても、むしろまさにそのことによって、ミルハウザーは、より大きな伝統を確実に継承しているのである。』(P251〜254)

本書の収録作品は、

・ アウグスト・エッシェンブルク
・ 太陽に抗議をする
・ ソリすべりパーティー
・ 湖畔の一日
・ 雪人間
・ インザペニーアーケード
・ 東方の国

となっているが、やはり圧巻は、巻頭の中編「アウグスト・エッシェンブルク」であろう。
「訳者あとがき」に書かれたミルハウザーの特徴が、この作品には出揃っているからであり、他の短編や掌編は、そうしたミルハウザーの本質を、側面から証拠立てる、多彩な切断面の数々だと言えるかもしれない。それらは、「アウグスト・エッシェンブルク」の暗い世界から発して、現代に赴いたり、東方の幻想的な世界に赴いたりするのだけれども、その根っこは必ず「アウグスト・エッシェンブルク」の暗い世界につながっている。一一そんな感じなのだ。

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だが、以上のような「解説」だけでは、所詮は柴田元幸よる「訳者あとがき」の屋上に屋根を架するだけにしかならないので、以下は、個人的に惹かれた部分について書いておこう。

『「でも僕とつき合うには(※ ?君は)純粋すぎる、そういうことか? 僕の不潔な金で手を汚すには純粋すぎるっていうのか? もう一つ言わせてもらおう。君は友人としても失格だぜ。何か君の趣味に合わないことが出てきたとたん、もはや友情もおしまい。君は信頼のならん人間だよ。君にはどこが冷たいところがあるんだ……」。彼は立ち上がった。「君はそうやって一人で乙に澄まして……」。うんざりした気持ちでアウグストは顔を上げた。と、憎悪の念をみなぎらせた眼差しでハウゼンシュタインがじっと自分を睨みつけているのが目に入った。僕はこの男をそれほどまでに傷つけてしまったのだろうか? アウグストは骨の髄まで疲れを感じた。』
 (P98「アウグスト・エッシェンブルク」より)

自動人形師としてのアウグストの才能をいち早く見出し、彼に作品発表の場としての「自動人形劇場」を提供して、事業としても成功させた、世慣れた青年才子ハウゼンシュタイン。
しかし、見世物はやがて世間に飽きられるので、ハウゼンシュタインは世間の低俗な嗜好に迎合しようとして、アウグストに妥協を求める。だが、アウグストの興味は、世間や生活といったところにはなかったので、彼は頑としてハウゼンシュタインの申し入れを拒絶する。そのときのハウゼンシュタインの言葉が、これである。

ハウゼンシュタインというのは、面白いキャラクターだ。彼も人形師としての才能を持っていたが、それがアウグストには遠く及ばない「偽物としての二流」でしかないという自覚が、彼にはある。だから、彼はアウグストに対して、憧れに発する友情と同時に、アウグストを世俗の塵芥の中に引き摺り込みたいというサディスティックな欲望も抱えている。そんな、引き裂かれて「人間的」なハウゼンシュタインに、アウグストは、基本的に「興味がない」のだ。だから、ハウゼンシュタインにとってのアウグストは、無邪気に残酷極まりない、けれども憎みきれない、離れられない存在ともなっている。

で、私にはアウグストに似たところがある。それは「興味がない」ことには「興味がない」から、そんなことには、まったく「気を使わない」というところだ。

これは、私が「冷たい」ということではないと思う。ただ「興味がない」ことに対して「興味があるふりをする」というのは、その「興味がない」対象に対して失礼だし、そもそも時間の無駄だとしか思えない。だから、お互いに納得できるところでだけ付き合えばいいじゃないという態度になってしまうのだが、多くの人は「付き合い」に「情」のようなものを求め、それを当然のごとく纏つかせるため、私のような割り切った考え方は「冷たい」ということになるし、しばしば意図せずに人を傷つけてしまうことになる。

意図的に人を傷つけるのなら、それは覚悟の上だけれども、意図せずに、いつの間にか人を傷つけていたとしたら、それは極めて残念なことであり、なんでこうなるんだというような気分にもなるだろう。
上の場面で『僕はこの男をそれほどまでに傷つけてしまったのだろうか? アウグストは骨の髄まで疲れを感じた。』というのは、そういう意味であり、アウグストはハウゼンシュタインを傷つけたことを残念に思っているのではなく、「そんな気はなかったのに」と、思いもよらない結果に、やり場のなさを感じているのである。
しかし、問題の本質は、アウグストには「そんな気がない」というところなのだ。

これは私の「宗教批判」とも通じる問題だろう。
私にしてみれば「神なんかいないのは自明でしょう。なら、神はいないと認めて、いないなりに正しく生きる方策を考えるというのが、筋でしょう」ということなのだが、実際のところ「信仰」を持つ人は、そんな「理屈」で信仰を持ったり持たなかったりするのではない。そうではなく、否応なく信仰を持ってしまうのだ。そしてそれは、ハウゼンシュタインにとっての「生きるためのカネ」のようなものなのだ。

私だって、多くの人にとって、そんな「カネ」が必要だというのは、理解している。しかし、それが「つまらないもの」であるとも思っているから、人には「それはつまらないものだと認めた上で、それとうまく付き合えばいいじゃない」というようなことを要求しているわけだが、人々には、そういう「割り切り」方が出来ず、私の言い方は「理屈」でしかなくて「冷たく」、そして、人を「傷つける」ものと響いてしまい、ときに私は、それを知って、徒労感にため息をつきたくなるのである。「そんなつもりはないのに…」と。


(2022年1月18日)

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2996:2022/02/23(水) 22:08:11
戦後を生きた〈凛とした女〉たち 一一書評:中央公論新社編『少女たちの戦争』
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 戦後を生きた〈凛とした女〉たち

 書評:中央公論新社編『少女たちの戦争』(中央公論新社)

 初出:2022年1月21日「note記事」

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強く強くオススメしたい、真に「精華集」と呼ぶに値する1冊だ。

『【太平洋戦争開戦80年企画】
「サヨナラ」も言えぬまま別れた若き兵士との一瞬の邂逅、防空壕で友と感想を語り合った吉屋信子の少女小説、東京大空襲の翌日に食べたヤケッパチの〈最後の昼餐〉……戦時にも疎開や空襲以外の日々の営みがあり、青春があった。
太平洋戦争開戦時20歳未満、妻でも母でもなく〈少女〉だった27人の女性たちが見つめた、戦時下の日常。すぐれた書き手による随筆を精選したオリジナル・アンソロジー。 』

とのことで、企画としてはそんなに目新しいものだとは思えない。しかし、書き手が素晴らしい。

瀬戸内寂聴 、石井好子 、近藤富枝 、佐藤愛子 、橋田壽賀子 、杉本苑子 、武田百合子 、河野多惠子 、茨木のり子 、石牟礼道子 、森崎和江 、馬場あき子 、田辺聖子 、津村節子 、須賀敦子 、竹西寛子 、新川和江 、向田邦子 、青木 玉 、林 京子 、澤地久枝 、大庭みな子 、有吉佐和子 、黒柳徹子 、吉田知子 、中村メイコ 、佐野洋子

私は女性作家の本をあまり読まないのだが、それはたぶん女性作家の作品には、私好みの「強靭さ」「過剰さ」といったものが、あまり期待できないと感じていたからだろう。私の好みというのは、わかりやすく「マッチョ」だったのである。

しかし、長年、文学に親しんできた者として、このアンソロジーに収録された書き手たちの名前はいろんなところで目にしているし、皆それぞれに一本筋の通った人だという印象があって、女性だからと甘く見たら、きっと痛い目に遭わされるだろうと、そんな認識を持って、一定の距離を保ってきたように思う。

昨年(2021年)暮れ、書店の平台でたまたま本書を見かけ、こうの史代のカバーイラストに惹かれて手に取り、カバー背面に刷られた27人の執筆者名を見て、これは、これまで読んだことのなかった女性作家たちの文章に触れるのに最適な本だと直感して、迷わず購入した。そして、その結果は、期待以上のものであった。

まず何より、すべての文章が素晴らしい。
普通、アンソロジーというものは、10作収録されていたら、そのうちの2、3作に惹かれれば、まずまず買った値打ちがあったという感じなのだが、本書に収められた27本のエッセイは、本当に、すべて素晴らしいのだ。

一流の人たちの仕事の中から「戦争という稀有の体験」を綴った文章を採ったのだから、どれも素晴らしくて当然だと言われるかもしれないが、アンソロジーを愛好する読者なら、実際のところ、そう理屈どおりにはいかないことの少なくないのを、知っているはずだ。
なぜ、傑作ぞろいであるはずのアンソロジーでありながら、しばしば楽しめた作品が集中のいくつかだけ、などということになりがちなのか。その理由のひとつは、読み手の「幅の狭さ」ということなのであろう。

このアンソロジーだって、若い頃に読んでいたら、きっとここまで関心しなかっただろうし、その凄みを感じ得なかっただろう。
しかし、いつまでも子供のような私でも、それなりに齢を重ねて、世の中のあれやこれやを見聞きし、悲喜こもごもを体験してきたからこそ、それぞれの文章の行間に秘められた「語られざる思い」を、ある程度は読み取れるようになったのではないだろうか。

私はこれまで、男性的な「重厚」な作品の中から、効率的に「濃い中身」を求めてきたけれど、やっと女性作家的な「抑えた筆致の中に秘められた思い」や、その「強さ」というものを、少しは読み取れるようになったのではないか。また、そう感じられてことが、とても嬉しかった。

本書巻末には、編者による次のような、紹介文が添えられている。

『??この本について

『少女たちの戦争』は、一九四一(昭和十六)年十二月八日の太平洋戦争開戦時に、満二十歳未満だった女性によるエッセイを著者の生年順に収録したものです。全二十七名のうち最年長は、一九二二(大正十一)年五月生まれの瀬戸内寂聴さんで当時十九歳、最年少は三八(昭和十三)年六月生まれの佐野洋子さんで三歳です。一九三一年九月に満州事変があり、三七年七月には日中戦争が始まり、四五(昭和二十)年八月十五日まで、十五年間戦争が続きました。彼女たちが物心ついたときにはすでに日本は政治家にありました。
 非常時が日常となった日々のなかで、幼少期・青春期を送った彼女たちは何を思い、どう過ごしたのか。ここに収められた文書は必ずしも戦争をテーマにしたものばかりではありません。むしろ従来の戦争の記憶からはこぼれ落ちてしまいそうな、戦時下の何気ない日常が垣間見えるものを選んでいます。
 少女たちには、少女たちの戦争があり、日常がありました。〈男たちの戦争〉から最も遠く、弱く小さき者の声に耳を傾けていただきたいと思います。

 中央公論新社編集部 』(P221)

このように、編者の意図としては『戦時下の何気ない日常が垣間見えるもの』『少女たちの戦争』『弱く小さき者の声』を伝えたい、ということだったのがわかる。

しかし私は、そんなふうには読まなかった。
私は、本書のそれぞれに、「戦争体験」そのものよりも、「戦争体験を抱きしめて、戦後の日本を生きぬいてきた女たちの、凛とした美しさ」を読み取って感動した。
そこには確かに「男たちの戦争」とはまた違った、戦後における、女たちの「戦争の記憶との戦い」があり、その戦いを生きぬいてきた人間の、静かな強さが、その文体に表れていたのである。

今の私には「持てるものの全てをふりしぼり、なりふり構わずに、時代と戦わなければ負ける」という気持ちがあって、彼女たちのような美しく抑制された文章を書くことはできない。「今は、そんな時ではない」という気持ちが抑えられないのだ。
だが、あと20年くらいやりたい放題をやった後でなら、このように美しく抑制された文章を書けるようになりたいとは思う。それは無論、技術的な問題ではなく、自分のすべき最低限のことはやりきったという余裕の上に立った、静かな文章でありたいのだ。

ともあれ、本書を多くの人に読んでほしい。これを読まないのは、読書人生の損失だ。

本当なら、本書を、中学高校の「国語」の副読本にでもしてほしいところだが、しかし、その年代では、まだこれらの文章を味わうことは難しいだろう。しかしまた、これだけの文章なのだから、その時はわからなくても、心の何処かに生き続けて、その人の人生に少なからぬ影響を与えるのではないかと、そんな気がしないでもない。

ともあれ、ここには間違いなく、誇るべき「日本の、強く優しく美しい心」がある。


(2022年1月21日)

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2997:2022/02/23(水) 22:09:52
神ではなく〈人〉としての、エラリー・クイーン 一一書評:飯城勇三『エラリー・クイーン完全ガイド』
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 神ではなく〈人〉としての、エラリー・クイーン

 書評:飯城勇三『エラリー・クイーン完全ガイド』(星海社新書)

 初出:2022年1月22日「note記事」

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本格ミステリーを代表する作家の筆頭に挙げられるのが、エラリー・クイーンである。
少なくとも、日本においてはそうであり、その日本における不動の地位の礎を築いた一人が、本書著者の飯城勇三であるというのは、業界筋においては異論の出るところではないはずだ。

事実、今日の日本におけるエラリー・クイーンの特権的な地位を、一般認識の場で確定したと言えるであろう「新本格ミステリ」の作家たち、その中でもエラリー・クイーンの影響を隠さない、新本格第一世代の作家の中には、作家になる以前に、飯城勇三の主催する「エラリー・クイーン・ファンクラブ(EQFC)」の会員であった者もいる。

また、新本格第一世代前後のミステリマニアの場合、本格ミステリの二大巨頭として、エラリー・クイーンと並べて、ジョン・ディクスン・カーの名をあげる者も少なくなかった(例えば、二階堂黎人)が、今日、エラリー・クイーンの一人勝ちに近い印象があるのは、新本格第一世代の作家たちの働きというよりも、ファンダムにおける飯城勇三の「理論的活動」の影響だと言っても、決して過言ではないだろう。
クイーンを論ずる人は多いのに、カーを論ずる人が少ないのは、カーが論じにくい作家であったと言うよりも、クイーンの場合、飯城勇三の過去の仕事によって、理論的な議論の下地ができていたからなのである。

このように、皮肉でもなんでもなく、ほとんど「日本におけるエラリー・クイーン教の教祖」と呼んでいいほど、クイーンの紹介に長年取り組んできた飯城勇三が、いまだに本書のような入門書を書くというその情熱は、まったく持って尋常一様なものではない。
これだけの長きにわたり、クイーンについて書いていれば、嫌でもパターン化が起きてしまって、書くものに情熱が感じられないといったことになるのは、ほとんど避け難いところだろう。だが、飯城勇三の場合、エラリー・クイーンを語る筆に込めた熱量が、四半世紀を軽く超えても下がらないというのだから、まさに怪物だと言ってもいいくらいである。
したがって私は、飯城の書いたものの、内容や出来不出来を議論する以前に、この枯渇しない熱量に敬服しないではいられないのだ。

今日、エラリー・クイーンファンの多くは、エラリー・クイーンという、すでに完成した「権威」を担いで回っているだけだが、飯城勇三の場合は、一人の「本格ミステリ作家」であったエラリー・クイーンを、その豪腕で「本格ミステリの神」という「権威」にまで担ぎ上げたのだから、同じ「ファン」とは言え、両者の大きな違いは、正しく認識されなければならないのではないだろうか。

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さて、本書だが、私の場合、本書のようなガイドブックは、滅多に読まない。というのも、作品を読む前にそういうものを読んでしまうと、読みがそちらに引っ張られてしまう蓋然性が高いので、なるべく真っ新な目で作品を読めるよう、ガイドブックの類は意識して避けているのである。

そんなわけで、若い頃なら、このような本は読まなかった。エラリー・クイーンを読みたいのなら、作品の内容にまで踏み込んだガイドブックなど読まなくても、読むべき代表作くらい、ちょっと調べれば簡単にわかることだからだ。
しかし、自分の年齢と読書における守備範囲の広さを勘案し、自分にとっての「本格ミステリ」あるいは「エラリー・クイーン」の重要度を考えれば、すでにその代表作の多くは読んでいるので、いまさら残りの作品にまで手をのばす蓋然性は低い。
クイーンに限らず、本格ミステリ作家のめぼしい作品は「全部読みたい」という気持ちはあっても、すでにそれが不可能であることを、嫌でも意識しなければならない年齢になってきた。だから「もう、残りの作品については、このガイドブックで、最低限に知識を得るに止めよう」と考え、本書を手に取ったのである。

だが、本書を読んだ結果として、やはり、新たに興味の開かれるところがあった。それは、作者エラリー・クイーンの「宗教(信仰)問題」である。

かつても「後期クイーン的問題」には興味を持ち、そこから柄谷行人を読んだり、不完全性定理に関する入門書を読んだりしたし、この問題の背景として無視できない「宗教問題」にも興味は持った。
しかし、当時の私は、「宗教問題」自体に、それほど突っ込んだ興味を持っていたわけではなかったし、ましてや「宗教」を研究していたわけでもなかったから、「操りの問題は、神と人間の関係に絡んでくるんだろうな」というくらいの認識はあっても、それ以上に突っ込んで考察することはしなかったのである。

しかし、素人なりに「宗教」問題に取り組み、特に「キリスト教」を研究して、神父や牧師と議論できるくらいの知識と経験を持った今なら、エラリー・クイーンの「宗教問題」について、飯城勇三や新本格ミステリ作家のように「本格ミステリ」の側からではなく、「宗教」の側から、より深いアプローチができるのではないか、と考えた。

昨年(2021年)読んだ、飯城勇三の長編評論『数学者と哲学者の密室 天城一と笠井潔、そして探偵と密室と社会』のレビューで、私は、飯城勇三に関する思い出話として、次のように書いた。

『飯城の評論文については、SRの会の会誌「SRマンスリー」に載ったものや、その後だいぶ経ってからの単発同人誌『天城一研究』などで、いくつかは読んでいるが、当時の私の興味を惹くことはあまりなかった。
当時も、飯城の評論は「アナロジー」を駆使したユニークなもので、たしか、これもご一緒した同人誌『新世紀エヴァンゲリオン研究』だったかに「エラリー・クイーン作品と『新世紀エヴァンゲリオン』の類似性」を論じた文章を投じているのを見て「本当に器用な人だな」と感心したり呆れたりした記憶がある。

つまり、私にとっての飯城勇三という評論家は、「ユニークかつ有能な評論家」ではあるけれど、当時すでに私の方向性となっていた「人間の内面」の問題を扱う「文芸批評」や「社会批評」「思想哲学」といったところには踏み込まない、「オタク評論家」だとして、あまり興味を持たず、目にしても読まないことが多かったのだ。』

このとおり、本書『エラリー・クイーン完全ガイド』を読むまで、私は、飯城勇三が「エヴァンゲリオンとエラリー・クイーンを結びつけたのは、少々強引なアナロジー思考によるもの」だと思っていた。
ところが、本書にはこのあたりの事情を紹介する、「エヴァンゲリオン」と題した次のようなミニコラムがあった。


『 今年完結したアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の最初のTVシリーズ(1995〜96年)を観た時、私は『十日間の不思議』との類似点が多いので驚きました。シリーズはその後も続き、変わった点もありますが、面白い指摘だと思うので、TVシリーズとの類似点を記しておきましょう。
 何と言っても、登場人物の設定と配置がそっくりです。精神を病み、父の支配から逃れられないハワードは碇シンジ。ハワードの母親にして恋人のサリーは綾波レイ。すべての計画者ディートリッヒは碇ゲンドウ。その脇にいつもいるが目立たないウルファートは冬月。ハワードの保護者であり、何者かに操られている感じを抱くエラリーはミサト。
 さらに『エヴァ』は「使徒(聖書から採っている)を一体ずつ倒していく」というプロットも『十日間』とよく似ています。『エヴァ』のファンの方は、ぜひ『十日間』を読んでみてください。
 また、シンジがエヴァのパイロットやめようとして加持に諭されるシーンは、『九尾の猫』のラストシーンと同じ。TVシリーズ最終回は、クイーンの『孤独の島』のラスト(人類の一員に加わったことを感じている主人公のまわりに町中の人々が集まって祝福し、さらに作者も祝福して終わる)とよく似ています。こちらも比較して、時空を超えたシンクロを味わってみませんか?』(P125)

つまり、飯城勇三のよる「エラリー・クイーン作品と『新世紀エヴァンゲリオン』の類似性」を論じた文章は、それほど突飛でもなければ牽強付会なものでもなく、クイーン作品を細部まで記憶しておればこそ可能だった、ユニークな「類似性」の発見だったわけである。

ともあれ、飯城勇三が「エラリー・クイーンから宗教問題を扱った」のだとすれば、私は「宗教問題からエラリー・クイーン」を扱うことも可能なのではないだろうか。

エヴァマニアによって詳しく分析された、『新世紀エヴァンゲリオン』と「ユダヤ神秘主義」との関連の方は、それをさらに犀利に分析した大瀧啓裕(H・P・ラヴクラフト、フィリップ・K・ディック、コリン・ウィルソンなどの翻訳などで知られる翻訳家で、神秘学に詳しい)の『エヴァンゲリオンの夢 使徒進化論の幻影』などには及ばずとも、「ユダヤ・キリスト教とエラリー・クイーン」の方なら、付け加えることのできる部分が、まだ私にも残されているのではないかと思うのだ。
それに、日本の方が、本場アメリカよりも、エラリー・クイーンの研究が進んでいるのだとすれば、作家エラリー・クイーンの「宗教」の問題は、アメリカでもさほど進んではいないはずだと思えば、やりがいもある。

ユダヤ系アメリカ人である、エラリー・クイーンが「ユダヤ教とキリスト教の間」で、アイデンティティの問題に直面せざるを得なかったというのは、容易に推察できるところで、だとすれば、エラリー・クイーンが「本格ミステリ」という極めて「自己完結性が強く、帰属性の高い文学」形式を選んだという事実は、そのまま「宗教」の問題と考えることだって可能なのである。

本書を読むことで、私は「宗教」という側面から、「人間エラリー・クイーン」に興味を持つことができた。
したがって今後、未読作品を穴埋め的に読むようなことはしないけれど、昔とは違った観点から、エラリー・クイーンの作品を再読することならあるだろう。ひとまず、近いうちに『十日間の不思議』を、新訳で読んでみるつもりである。

本書によって、私にとってのエラリー・クイーンは、「本格ミステリの神様」ではなく、「人間」として、初めて立ち上がってきたのである。


(2022年1月22日)

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2998:2022/02/23(水) 22:11:18
〈象る力〉と飛浩隆の変容 一一書評;飛浩隆『象られた力』
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 〈象る力〉と飛浩隆の変容

 書評;飛浩隆『象られた力』(ハヤカワ文庫)

 初出:2022年1月24日「note記事」

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本書は、『グラン・ヴァカンス 廃園の天使』(2006年刊)で「復活」を遂げるまで、その寡作さゆえに「伝説の作家」と化していた飛浩隆の、「復活」以前の作品を収めた、いわば「初期作品集」である。
収録作は、中編の「ディオ」、長めの短編の「呪界のほとり」と「夜と泥の」の2篇、そして表題作の長編「象られた力」だ。

「象られた力」では、突然消滅した惑星「百合洋」で発達した独自の図形言語が、惑星消滅の鍵となるのだが、この「図形言語」こそが、まさに「象られた力」つまり「形を与えられた力」そのものだった。

言うまでもなく、飛浩隆という作家にとっては、「言葉」こそが「象られた力」であり、「言霊」などというオカルトめいたものを持ち出すまでもなく、「言葉」は、物事を動かす「力」に相違ない。ただ、飛浩隆の場合、言葉の「造形力」という側面に、フィティッシュなまでにこだわる作家であるからこそ、普通の意味での「言葉使い師」(神林長平)であるに止まらず、「言葉による、具象の造形家」とでもいった個性を持った小説家だと言えよう。

さて、私はこれまで、やや変則的に『自生の夢』『零號琴』『ポリフォニック・イリュージョン 飛浩隆初期作品集』『SFにさよならをいう方法 飛浩隆評論随筆集』そして本作品集『象られた力』という順に飛作品を読んできたのだが、本作品集に感じたのは、今回の収録に当たってかなり加筆されたらしい「象られた力」が、いかにも(最近の)飛浩隆らしい作品であるのに対し、その前の3作は、意外に「当たり前に面白いSF」だということであった。

最近の作品は「作られた世界」について問題意識が前面に出ているけれど、「ディオ」「呪界のほとり」「夜と泥の」の3作は、その点へのこだわりは今ほどではなく、むしろ当たり前に「作られた世界」についての「謎解き」興味が前面に出ていて、例えば(SFファンではなく)ミステリファンでも、それなりに楽しめる作品になっているのではないかと、少々意外の感にとらわれたのである。

もちろん、作家が自分の「より本質的な部分」を掘り下げ深めていくというのは当然であり、基本的には好ましいことだと言えよう。それが飛浩隆の場合、本人の好むと好まざるとにかかわらず、より「マニアック」な方向性であり、読者を限定することになりかねないものだとしてもだ。

ただ、飛浩隆のこうした方向性が、専業作家になったがゆえの先鋭化であったとすれば、それは悪い意味での「アマチュアリズムの喪失」という側面を含むものとも考えられるから、用心すべき点ではあるかもしれない。

と言うのも、ミステリの世界で「言葉の呪力」を語る作家として名高い京極夏彦的に言うならば、言葉は「憑き物」であり、人を破滅させる力も持っているから、「言葉」の使用にあたっては、「言葉」は使っても、「言葉」に憑かれて使われないようにしなければならない、という側面もあると思うのだ。つまり「ミイラ取りがミイラ」になりがちなように、「言葉を駆使する言葉使い師が、いつの間にやら、言葉に操られて、我を失っている」と言ったことだって、往々にあると思うし、そうした事例は、先日のSF作家・樋口恭介による「SFマガジン〈幻の絶版本〉特集」中止問題といった、ごく身近な事例にも、生々しく見られることだからである。「言葉」は、「滑る」に止まらず、「暴走する」のだ。

こうした「言葉の呪い」から逃れるには、どうしたらい良いだろうか。
その、一つの答えとして、私が推奨したいのは、良い意味での「アマチュアリズム」の保持である。

マニアというのは、しばしば「業界用語という言葉の権威」に憑かれているだけ、といった人が少なくない。
例えば、飛浩隆を評するのに「伝説の作家」などという、プロの解説者や評論家に与えられた言葉(レッテル)をおうむ返し繰りに返すだけで、何事か語ったような気になる人も少なくなく、自分の言葉で飛浩隆を語れる人が少ないというのは、飛のSF界における人気のわりには、例えば「Amazonカスタマーレビュー」に、長めのレビューを投じる人が、片手に収まるという状況にも窺うことができよう。

同様に、そうした「型に嵌った形容=言葉」の「沼」に、どっぷり嵌ってしまった場合、そうした言葉どもに纏いつかれて、自由を失い、溺れてしまう(=思考停止・視野狭窄)といったことだってあるのではないだろうか。

そうした観点から、私は「業界という沼」にどっぷりと浸からない、「いくつかの他の世界」を保持している「アマチュアリズム」の軽快さというのは、「作家」のためにも悪くはないと思うのだ。
無論、SF界の中で「権威」と化すのも悪くはないが、「言葉の桎梏」に捕らわれたのでは、「言葉の造形師」たる飛浩隆の名が泣くのではないか。

京極夏彦の描いた主人公・中禅寺秋彦は「言葉は呪」であると言い、「憑き物落とし」とは「言葉による言説の解体(脱構築)」であることを示して見せたのだが、飛浩隆にも、そうした方向があっても良いのではと、この好ましい「初期作品集」を読みながら、そんなことを考えた次第である。


(2022年1月24日)

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2999:2022/02/23(水) 22:13:27
さびしい〈ムレの時代〉一一書評:石田光規『「人それぞれ」がさみしい ――「やさしく・冷たい」人間関係を考える』
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 さびしい〈ムレの時代〉

 書評:石田光規『「人それぞれ」がさみしい ――「やさしく・冷たい」人間関係を考える』(ちくまプリマー新書)

 初出:2022年1月25日「note記事」

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「人それぞれ」という言葉がよく口にされ、妙に物わかり良い「個性尊重=個人尊重」の時代であるはずにも関わらず、わが国の現実は、あいかわらず「無難に右へ倣え」である。

こんな状態では、とうてい「個性尊重=個人尊重」などとは言えず、私はしばしば、顔の見えない「非個性的な群(例えば、ネトウヨなど)」に対し「お前ら、『ムーミン』に出てくるニョロニョロみたいな群棲動物か」などという悪罵を投げつけたりしている。

そんなわけで、昨今よく口にされる「人それぞれ」というのは、実際には「個性尊重=個人尊重」を意味しはしない。おおよそ「私は私で勝手にやるから、あなたはあなたで勝手にやってください。私のことには口出ししないでね」というほどの意味で、基本的に「他者の個性の尊重」という意味合いはない。
ただ「自分が尊重されたいだけ」であり、「その限りにおいて、交換条件的に、あなたの言動も尊重して、干渉しないことにしましょう」というほどのことだ。だから、この「人それぞれ」という言葉には、「思いやりが無く」「うそ寒い」印象があるのだ。

本書のタイトル『「人それぞれ」がさみしい』というのも、おおむねそういうことで、我が国において昨今頻用される「人それぞれ」という言葉の「人」というのは、ほとんど「私」のことでしかなく、「他人=他者」のことではない。「他者」に積極的かつ肯定的に働きかける「個性尊重」つまり「あなたはそれで良いのだ=私や他のみんなに合わせなくても、全然かまわない」というようなニュアンスは、まったく無い。そうではなく、まるで真逆に「私に干渉するな」という、消極的な「守りの姿勢」なのである。だから、結果としては「さみしい」関係にしかならない。

サブタイトルにある「「やさしく・冷たい」人間関係」という「矛盾」も、本当は、その「やさしさ」が、自己防衛のための「やさしさ」、つまり「他者へと向いていない、偽のやさしさ」でしかないからこそ、実際には「冷たい」ものでしかなくなってしまうのである。

 ○ ○ ○

以下は、本書の流れに沿って、著者の意見を引用しつつ、補足的に私の「実践」について語ることにする。

(1)『多少自分の意見をまげても、友人と争うのは避けたい』(P45)

(2)『「人それぞれ」という言葉が発せられると、それ以上に話を掘り下げるのは難しくなります。討論の事例も同じです。「人それぞれ」という言葉が発せられると、あまり議論は深まっていきません。
「人それぞれ」という言葉には、一見すると、相手を受け入れているような雰囲気があります。しかし、この言葉は、一度発せられると、互いに踏み込んでよい領域を区切ってしまいます。それに加え、それぞれが選択したことの結果を、自己責任に回収させる性質もあります。
 主義・信条を率直に表明できる「個を尊重する社会」を目指した私たちは、いつの間にか、それぞれの人たちを不透明な膜で仕切った「人それぞれの社会」をつくりあげてしまいました。「人それぞれ」の横行する社会で、対立や批判をも含んだ強靭な関係や、共感をともなう関係をつくることは難しいでしょう。
 このような状況は、友人といると却って疲れてしまう、という皮肉な結果をもたらします。先ほどあげた「青少年研究会」の調査では、「友達といるよりひとりで一人が落ち着く」という質問への回答も求めています。この質問に「よくある」「ときどきある」と答えた人は、二〇〇二年の四六%から、二〇一二年には七一・七%にまで上がりました。今や友人関係は、「気の置けない」ものではなく、「人それぞれ」の優しさに包まれた気遣いの関係に転じたのです。』(P50〜51)

これは、現代の日本人として、誰もが実感できることだと思う。たしかに、一見したところでは、みんな「優しく」なった。上司、先輩、先生であろうと、頭から人の意見を否定する、なんてことはなくなった。
しかし、それは「パワハラ」になるのを恐れるだけであったり、そもそも「嫌われ者になりたくない」だけで、「嫌われてでも、言うべきことは言う」という、人間関係における責任感が失われただけだろう。要は「自由放任による責任回避」である。

皆がそのようにして「我が身可愛さ」のゆえに「優しい人」「物分かりのいい人」を演じるのだが、実際のところ、他人や社会のことなど気にはしておらず、要は、我が身可愛さの「保身と人気取り」でしかないから、自ずと、そんな空疎な人間関係には「虚しさ」だけがつのって、疲れてしまうのだ。

(3)『高まる孤立の不安』(P51)

(4)『しかし同じ調査で、「友達と連絡を取っていないと不安」と答えた人は、なんと八四・六%もいます。つまり、若い人たちは、「友達といるより一人が落ち着く」にもかかわらず、「友達と連絡を取っていないと不安」と考えているわけです。
 この結果には、「人それぞれの社会」で形成される友人関係への不安と疲労の色合いがにじみ出ています。互いに傷つけないよう、あるいは、場を乱さないよう配慮する関係性は、高度なコミニケーション技術を要するため疲れます。だからこそ、多くの若者は、「友達といるより一人が落ち着く」と考えます。
 しかし、その一方、人と人を強固に結びつけてきた接着剤は弱まり、友人関係とはいっても、切り離される不安がつきまといます。だからこそ、人びとは、関係から切り離されないよう、高度なコミニケーション技術を駆使してでも、「友達と連絡をとって」いるのです。』(P53〜54)

先日私は、佐々木チワワ著『「ぴえん」という病 SNS世代の消費と承認』のレビュー「一億総〈ぴえん〉化した日本」に、次のように書いた。

『40歳くらいの頃だったか、高校3年時クラス会があった。卒業の翌年に開かれて以来の、二度目の同窓会である。
同窓会役員が、やる気のないやつだったので、そんな具合だったのだが、私自身は、高校生当時から、二人の親友以外には、ほとんど付き合いもなければ興味もなかったので、同窓会がなくてもぜんぜん平気だった。そもそも、その親友たちであっても、めったに連絡など取らなかったのである。』

要は、連絡なんか取らなくても、彼ら(親友)とは「今でも繋がっている」という自信や安心感があるから、わざわざ「ご機嫌伺い」なんかはしなかった、ということである。
ところが、今日の友人関係というのは、これの真逆なのだ。

(5)『寂しい日本人』(P54)

あまりにも古い議論だが、今でも「本気で(腹を割って)議論することすらできない日本人」という、こうした評価は生きているだろう。いや、統計的に見ても、日本人が「寂しい」人間関係しか持てていないというのは明らかなのだ。

(6)『ケンカしてしまうと友情が修復できない』(P59)

あえて言ってしまえば、「友情コジキ」「友達コジキ」であり、結果として「追えば逃げる」の典型である。

こうなってしまうのは、無論「個の確立」がなされていないからであり、そうなるのは「ぴえん」たちと同様、生育環境的に仕方のない部分もあって同情に値するのだが、しかし、同情しているだけでは、何も改善されないだろう。
体力がなければ、体力をつけるしかないし、体力がつけられないのなら、他の部分で強くなるしかない。なにしろ「冷たい人間関係」であり「他人には干渉しない」「自己責任」の国なのだから、弱いままでは、死の中に放置されるだけなのである。

(7)『 つまり、親友のよさや友情の素晴らしさを訴えかける記事が増えたのです。これらの記事では、人間性のなかから、批判、愚痴、ねたみ、利己性、あきらめ、放棄などの暗い部分を抽出・除去した、「無菌化された友情」の物語が展開されています。
 新聞は、世論を作り出すと同時に、世相を色濃く反映しています。この点を考慮すると、二〇〇〇年代以降の「友情の物語」を題材とした記事の増加は、人びとが「友情の物語」を望んでいる事実を表している、と言えます。』(P61〜62)

今も昔も若い人は「本音と建前」の区別がつかない。しかし、昔なら、十代も半ばになれば、その「欺瞞」に気づいて「大人はずるい」と批判し始めるのだが、今の大人は、もっと巧妙だから、若者は「本音と建前」の使い分けに気づかないまま社会に放り出されて、「隠された本音社会」の中で、あくまでも教え込まれた「建前」を生きようとして苦しむのである。

(8)『不平等を見過ごす冷たい社会』(P84)

自分のことで精一杯の「心の貧しい」人たちは、他の「貧しい」人たちの「当たり前に恵まれた部分」を妬んで、自分と同じ位置にまで引きずり下ろし、同じ苦しみを味わわせようとしてしまいがちだ。

それこそが「平等」だというのが、「在日特権は許さない」などと「ゆがんだ被害者意識」を振り回していた「在特会」だが、多くの「心の貧しい人」たちも、本質的には、こうした「ネトウヨ的な心性」を、多かれ少なかれ共有している。

(9)『 現状に息苦しさを覚える私たちは、「昔はもっと大らかだった」、「昔はもっと豪快な人がいた」などと言って、「人それぞれ」ではない社会の気楽さを懐かしみます。「生きづらさ」は、現代社会を象徴するキーワードのひとつになっています。その背後には、キャンセルや迷惑センサーをちらつかせて、萎縮によって人びとを統制しようとするシステムの存在がほの見えます。
 かつて私たちは、農村社会を集団的体質の残る息苦しい社会とみなし、批判の対象に据えました。現代社会は、人びとを統制する方法がキャンセルや迷惑センサーに転じただけで、集団的体質そのものは変わりません。このような社会で「生きづらさ」を感じるのは、むしろ必然と言えます。以上のような状況を勘案すると、日本社会の集団的体質は未だに健在だと思わせられます。』(P126〜127)

「キャンセル」とは、要は「相手にしない」「無視する」「村八分にする」といったことであり、「迷惑センサー」とは「マスク警察」などに見られる「偏狭な倫理観を、他人にまで強要する人たちの感覚」のことだ。

(10)『身近に「異質な他者」がいない社会』(P159)

これは、例えば先日の「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」に対する、豊崎由美バッシングがその典型だろう。けんごのような「お子様向けレビュアー」など、いくら人気があっても「そんなものは認めない」という「少数意見」を、「お子様世間」は決して認めないのだ。
要は、批評家が「駄作は駄作だ」と言うことを許さないのである。なぜなら、その駄作を駄作とわからない自分も、駄作だと言われているに等しいからである。

しかし、事実、その読者自身が「駄作」とまでは言わなくても、「未熟」極まりない「お子様」ではないのか。「お子様」が、「お客様は神様です」で、建前だけの「大人」扱いをされて、勘違いしているだけではないのか。そんな「未熟な大人」が、「正当に評価」されたことをして「傷つけられた!」と被害者ヅラの自己防衛によって、「未熟なままでいたいだけ」ではないのか。

(11)『 ここまで、「人それぞれの社会」はどのような性質をもち、また、そこでは、どういった問題が生じたのかみてきました。
 さて、本書には、「人それぞれの社会」をテーマとしていること以外に、もうひとつの共通点があります。皆さんお気づきでしょうか。
 共通しているのは、いずれの章でも、「自分とは異なる、あるいは、批判的な意見をもった他者の存在感がうすい」ということです。本章では、「自分とは異なる、あるいは、批判的な意見を持った他者」を「異質な者」、このような人びとの「存在感がうすい」ことを「異質な他者の不在」と表現します。』(P159)

「異質な者」一一これが私である。
もちろん、私は、それを意識的に、範を示さんとしてやっている。

「それもわかるけど、こうじゃないの?」などという、当たり前に「腰の退けた(予防線を張った)」物言いではなく、「それは間違いだよ。なぜならば、これこれこうだからだ。反論できる?」という言い方をして、挑発的に「思考を促している」のである。

(12)『 このように書くと、「いやいやその意見は極端すぎる、自由にしつつも頑健さを保証する道はあるはずだ」という意見が聞こえてきそうです。しかし、私は自らの考えが極端だとは思いません。
 識者と呼ばれる人たちは、必死になって対話や相互理解の重要性を訴えています。しかし、現実の社会は、呼びかけとはほど遠い状況にあります。
 個人レベルでいうと、人は「それぞれ」の殻に閉じこもり、おたがいに深く関わろうとしません。孤立や孤立死も問題になっています。社会レベルでは、分断や対立の火種が広がっており、格差も拡大しています。
 私は、相互理解をうながす深い対話は、つながりの頑強さの保証とセットでなければ実現し得ない、と考えています。「『それぞれ』人の意向には配慮しましょう。でも、時には深く話しましょう」などというムシのいい言葉で、人が集まるとは思えません。
「人それぞれ」や多様性を重視する論者は、「人それぞれ」や多様性という考え方じたいに、対話を阻害する作用があることも意識するべきでしょう。自主性と個の尊重ばかりに目を向けるのではなく、社会としてつながりに頑強さをいかに取り込むか。そのことをもっとしっかり議論すべきだと私は思います。』(P178〜179)

まったく同感である。
「自分で戦わなければ、相手の好きにされてしまう」「声のデカイ奴が勝つ」「頭の悪い多数派がゴリ押しをする」ということになるのが、残念ながら、この社会の、一面の真実なのだ。いつでも「他人が何とかしてくれる」などと思っていたら、いいように排除されるだけなのである。

だから、戦わなければならない。そして、傷つき苦しむ中で、自分を鍛えていくしかない。
この私だって、そうだったし、今もその最中だから「本を読んで、自分を鍛えている」のである。娯楽小説ばかりを読んで、現実逃避しているような甘ちゃんが、私の相手にもならないのは、理の当然なのだ。

これは、「作家」だ「小説家」だ「知識人」だなどといっても、まったく同じである。
彼らは「作品の中という安全圏」においてだけ「ご立派」だが、そこから一歩外に出て、「平等の対論」の場に立つことなどできない。「先生」として「下駄を履かせてもらい」「相手が手加減してくれる」ような場でないと、怖くて出てこられない者が大半なのだ。その伸びきった「ピノキオの鼻」をへし折られるのが、怖くて仕方ないのである。

(13)『 迷惑をかけないよう、あるいは、場の空気を乱さないよう自らを律することのできる人は、たしかに立派です。しかし、それと同時に、おたがいに迷惑をかけつつも、それを笑って受け容れられるつながりも同じくらい大事だと思いますし、私は、後者のほうに居心地のよさを感じます。
 このようなつながりは、おたがいが相手の持つ異質さを受け容れることをによって初めて得られるものです。
 私たちは豊かになったからこそ、「一人」になるだけでなく、相手の前にあえてとどまり、「ただつき合う」ということをもっと意識した方がよい。そこから得られる多様性もあるのではないかと考えています。』(P186)

シンプルな言い方をすれば、いつだって「生きることは戦い」(出崎統監督『家なき子』)なのだ。
ただ、そうした真剣な戦いの中でこそ、真の友情だって生まれるのである。「百円ショップの友情(=イイね)」なんかを買い占めようとするのは、もうやめようではないか。
よほどのバカでなければ、いずれその虚しさに、気づかざるを得ないのだから。


(2022年1月25日)

 ○ ○ ○

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3000:2022/02/23(水) 22:15:48
共感し得ない主人公としての〈あなた〉を描く:けんご小説紹介には紹介できない小説 一一書評:遠野遥『破局』
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 共感し得ない主人公としての〈あなた〉を描く:けんご小説紹介には紹介できない小説

 書評:遠野遥『破局』(河出書房新社)

 初出:2022年1月26日「note記事」

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「第163回 芥川賞受賞作」である。本作は間違いなく「純文学」だ。どこが「純文学」なのかと言えば、読者を「楽しませない」ところであり、「頭を使えない読者」には、到底ついていけない作品だからである。

本作の「面白さ」は、一人称の語り手である主人公「私」が、とうてい共感し得ない「変な奴」であるにも関わらず、本作を読んでいる読者も含めた「今どきの若者」の「ある一面」を、見事に象徴して見せている点だ。

当然、そんなものが「当人」たちに喜ばれるばずもない。本作の「面白さ」とは、「興味深さ」を意味するのであり、自分の理解できることにしか興味を持てないような「視野の限定された」それでいて「その自覚もない」ような読者には、到底「楽しめるような代物ではない」のである。だから「純文学」なのだ。

 ○ ○ ○

本作の主人公は、とても「真面目」な青年である。「真面目」ではあるのだが、たしかに「変」なのだ。何が「変」なのかと言えば、「バランス感覚」というものが、およそ欠如している点だ。

例えば、こんな具合である。

『 近頃、私たちには時間がなかった。麻衣子は政治塾に通い、時々父親のつてで知り合ったという議員の手伝いもしていた。何年か社会人経験を積んだ後は、自分もどこかの議員に立候補するつもりだという。大学の講義やゼミも手を抜いている様子はなく、最近は就職活動も始め、私の相手をしている暇はいよいよなさそうだった。最後にセックスをしたのは、一ヶ月以上前だったか。付き合っているのだから、私は麻衣子ともっとセックスをしたい。本当なら毎日したいけれど、勉強もしたいから、二日に一度くらいが適当だろうか。しかし麻衣子がしたくないなら、無理にセックスすることはできない。無理にセックスしようとすれば、それは強姦で、私は犯罪者として法の裁きを受けるだろう。それに、私は麻衣子の彼氏だ。麻衣子の嫌がることはできない。麻衣子が目標に向かって頑張っているのなら、それを応援するのが私の役目だろう。』(P35〜36)


見事な「描写」である。この一説で、主人公の人柄であり、その「特異性」が見事に描出されている。
ミステリなどでよくあるような、わけのわからない妄想や被害者意識にとり憑かれている(「ウヘヘ…」といった感じの)人物とか、わかりやすく独善的な世界観にとらわれている人物とか、そういった「紋切り型」の「サイコ」ではなく、世間の「良識」を語らせつつ、その「偏向=変さ」を的確に描いている。

彼の言うことは、まったく「お説ごもっとも」であり、決して間違っているわけではない。しかし、「理屈としては、そうだけど、君の本音はそうではないだろう?」と問えば、彼ならきっと「いや、これが俺の本音です」と答えるだろう。
実際、上の部分は主人公の「心内語」であり、「口頭」での主語は「俺」なのに、「心内語」の主語が「私」という、無自覚な不自然さも含めて、そこに「意識的な嘘」はあり得ないのである。。

しかし、「だからこそ変」なのだ。
普通の人間なら「何が正しいことなのかを、頭ではわかっていても、感情がそれを否定する」といったことが、往往にしてある。つまり、「葛藤」である。それが、この主人公にはない。実質的に「内的な葛藤が無い」のである。
だから「変」であり、どこか「ロボットの心内語」めいた、フラットな印象なのだ。本人は「葛藤」しているつもりでも、そこには、形式的な葛藤はあっても、感情的な葛藤がない。

例えば、上の引用部分を「普通の人間」風に書き換えてみれば、こんな具合になるだろう。

「 近頃、俺たちには時間がなかった。麻衣子は政治塾に通い、時々父親のつてで知り合ったという議員の手伝いもしていた。何年か社会人経験を積んだ後は、自分もどこかの議員に立候補するつもりだという。大学の講義やゼミも手を抜いている様子はなく、最近は就職活動も始め、俺の相手をしている暇はいよいよなさそうだった。たしかに麻衣子は頑張っていると思う。それは否定しないし、喜ばしいことだと思う。でも、……俺としては、やっぱり寂しい。麻衣子が俺を軽んじているとは思わない。思いたくもないが、もう少し、俺のために時間を取ってくれてもいいのではないか。彼氏である俺と、もっと一緒にいたいと思うのが、普通の彼女なんじゃないのか。麻衣子は、本当に俺を愛しているのだろうか。それとも、形ばかりの便利な彼氏に過ぎないのだろうか。最後にセックスをしたのは、一ヶ月以上前だったか。付き合っているのだから、正直、俺は麻衣子ともっとセックスをしたい。本当なら毎日したい。もちろん、勉強もしなくてはならず、毎日セックスばかりしているわけにもいかないが、でも、若い恋人同士なんだから、二日に一度くらい、しても当然で、したくなるのが自然なのではないだろうか。でも、麻衣子がしたくないなら、無理にセックスすることはできない。無理にセックスしようとすれば、それは法律的には強姦であり、麻衣子の気持ち次第では、俺は犯罪者として法の裁きを受けることになるかもしれない。そんなことはないと信じたいけど、今の麻衣子を見てると、ちょっと不安になってしまう。いずれにしろ、俺は麻衣子の彼氏だ。麻衣子の嫌がることはしたくない。麻衣子が目標に向かって頑張っているのなら、それを応援するのが俺の役目だろうと思う。でも……」

と、こんな感じだろうか。ずいぶん「人間らしく」なったはずで、読み比べれば、主人公による「原文」の異常さが、際立つはずである。

 ○ ○ ○

しかしながら、この主人公の「変さ=異常さ」は、ある意味では「今どきの若者の真面目さ」を極端化したものでしかなく、これと似たような人など、いくらでも実在するし、それでいて、この主人公と同様、その自覚がないようだ。

こうした「歪んだ(本気の)正論」というのは、例えば、こんな具合である。

『結局、人を傷つけたってことなんだから、謝罪すべきだろ』

とこれは、記憶で書いているのだが、どういったシチュエーションで発せられた言葉かというと、先般、炎上事件として話題になった「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」事件で、豊崎由美のツイッターアカウントに寄せられた、けんご支持者による豊崎批判コメントのひとつだ。
ちなみにこの人物は、自分が豊崎由美を「傷つけ」ようとしていることに、完全に「無自覚」である。

豊崎由美は、けんごについて、

『正直な気持ちを書きます。わたしはTikTokみたいなもんで本を紹介して、そんな杜撰な紹介で本が売れたからって、だからどうしたとしか思いませんね。そんなのは一時の嵐。一時の嵐に翻弄されるのは馬鹿馬鹿しくないですか?
あの人、書評書けるんですか?』
(豊崎由美、午後10:58 ? 2021年12月9日?Twitter for Android)

とツイートした。これに対して、けんごは、次のように応答した。

『書けません。僕はただの読書好きです。

書けないですが、多くの方にこの素敵な一冊を知ってもらいたいという気持ちは誰にも負けないくらい強いです。

読書をしたことがない方が僕の紹介を観て「この作品、最高でした」「小説って面白いですね」と言ってくれることがどれだけ幸せなことか知ってますか?

 (午前1:18・2021年12月11日)』


『TikTokの投稿をお休みさせていただきます。各方面で様々な企画等控えているのに、本当に申し訳ないです。

僕はTikTokを仕事にしてません。PR動画を1本もあげたことないです。純粋楽しかったのですが、これからは楽しめそうにありません。

動画も含めて、Instagramでの小説紹介は続けていきます。
 (午前8:49・2021年12月10日)』


見てのとおり、本当か嘘かは別にして、「純粋な」カマトトのけんごは、豊崎由美の「心ない言葉=適切な評価」に傷つけられたと自己申告しており、けんごの支持者は、それを「真に受けて」、豊崎由美を「加害者」認定し、「加害者=悪=謝罪すべき」と考えて、上のツイートを「匿名」で行ったということだ。
無論、同レベルの豊崎批判者は山のようにいて、だからこそ、こんな幼稚な批判でも「バッシング」を構成し、一定の影響力を行使することができたのである。

で、問題は、この「事実はどうあれ、人を傷つけた者が悪い。悪いことを行った方が謝罪するべき」という、実にわかりやすい「子供の論理」である。

上に「再現」して紹介した豊崎批判のツイートを放ったのは、もしかすると(けんご曰く)『読書をしたことがない』ような未成年の「子供」かもしれない。だが、似たようなツイートは山ほどあったので、20代、30代は当たり前で、下手をすると「還暦」を過ぎたような人でも、似たようなコメントをしていた蓋然性は十分にある。
なにしろ事実として、還暦を過ぎたミステリ作家の綾辻行人が、豊崎を「名指し」しないで、けんごを支持する豊崎批判のツイートをしていたのだから、「子供の論理」を弄するに、年齢は関係がないようだ。

ともあれ、綾辻行人のような高齢者は、あくまでも例外だと思いたいが、そんな綾辻世代の人たちよりも、下手をすると、その「孫の世代」である、今どきの(本物の)若者たちの中に「理由はどうあれ、やっちゃいけないことは、絶対にやっちゃいけない」という「変に真面目=硬直した思考」の持ち主が増えているのではないかという疑いが、28歳で本作『破局』を書いた、遠野遥にも共有されているようだ。「真面目だけど、どこか変な奴が増えている」という危機意識が遠野にあって、本作を書いたのではなかろうか。

ともあれ「事実はどうあれ、人を傷つけた者が悪い。悪いことを行った方が謝罪するべき」とか「理由はどうあれ、やっちゃいけないことは、絶対にやっちゃいけない」「(いつでも)1+1=2」などというロジックは、つまらない「本格ミステリ」でなら通用しても、「文学」では通用しない。文学においては、人間の心理は「単純ではない(形式論理では済まない)」からで、

『付き合っているのだから、私は麻衣子ともっとセックスをしたい。本当なら毎日したいけれど、勉強もしたいから、二日に一度くらいが適当だろうか。しかし麻衣子がしたくないなら、無理にセックスすることはできない。無理にセックスしようとすれば、それは強姦で、私は犯罪者として法の裁きを受けるだろう。』

などと考えてしまうような「シンプルなロジック」は、「異常」なものとして提示されるしかないのである。

一一と、こう書いても、たぶん「事実はどうあれ、人を傷つけた者が悪い。悪いことを行った方が謝罪するべき」とか「理由はどうあれ、やっちゃいけないことは、絶対にやっちゃいけない」「(いつでも)1+1=2」などと考える単細胞な人には、私が何を問題にしているのかが、きっと理解できないだろう。だから、先の「豊崎批判者」のツイートを例題として、その「問題点」を解説しておこう。

「事実はどうあれ、人を傷つけた者が悪い。悪いことを行った方が謝罪するべき」

というのが「豊崎由美批判者」の主張だが、例えば「ナイフを持って襲いかかってきた襲撃者から、もみ合いの中でナイフを奪い、逆に襲撃者を傷つけてしまった」という場合、「被害者」は襲撃者の方となり、悪いのは(加害者は)、襲撃者を傷つけた被襲撃者の方だ、ということになるのだろうか? 現に「加害した者」となった被襲撃者の方が、結果的に「害を被った者」となった襲撃者に対し、「謝罪」して、罰せられるべきなのだろうか? 一一無論、そんなことはない。

もちろん、場合によっては「過剰防衛」が問われる場合もあるのだが、ナイフを持って襲いかかってきた襲撃者から我が身を守るためのもみ合いの中で、結果としてやむなく襲撃者を傷つけたのなら、それは「正当防衛」であり、当たり前に、襲われた方が「被害者」であり、襲った方が「加害者」となる。仮に、加害者の方が、結果として死んだとしても、である。

では、けんごの「小説紹介」は、「加害行為」だろうか。無論、そうではない。単に「レベルは低いが、大衆ウケした小説紹介」に過ぎない。
では、豊崎由美の「けんご批判」は、「加害行為」なのだろうか。無論こちらも「加害行為」ではない。単なる「批評」である。「駄作は駄作」「駄評論家は駄評論家」「書けない奴を書けない奴」と評したに過ぎない。

つまり、もしも自分自身が「批評の対象」となるのが嫌なのなら(その覚悟が無いのなら)、「社会に対して影響力を行使」しようなどとしてはならない、ということなのだ。

「社会的発言(行為)」には、それ相応の「責任」が伴い、おのずとそれは評価され、支持してくれる人もいれば、批判してくる人もいて当然。
それが「大前提」なのだから、「発言責任」者として、そうした「批判」を受け止められないのであれば、最初から仲間内で(影響の少ない範囲で)「小説紹介」をしていればいいだけであり、それならば「その(大きな)影響力に見合った、レビューが書けるのか」などと問われることもないのである。
要は「ウケれば(フォロワーさえ増えれば)何でも良い」というわけではない、ということなのだ。

そんなわけで、「書評家・豊崎由美による、TikTokerけんご批判」事件の「本質」とは、「プロの書評家である豊崎由美が、けんごに(プロの)言論人としての、責任とその自覚を問うた」ということなのだ。
だからこそ、けんごの方は『僕はTikTokを仕事にしてません。PR動画を1本もあげたことないです。純粋楽しかった』だけだと、その「発言責任」の引き受けを拒否し、「誤魔化して逃げた」のである。

言うまでもないことだが、けんごは「アマチュア」として「小説紹介」や「動画投稿」をやっているのではない。目的は「フォロワーを増やし」「有名になって」「皆にチヤホヤされ」「金も稼ぐ」ことで、それは『各方面で様々な企画等控えている』という言葉にも明らかだ。
けんごが、この『様々な企画』を、奇特にも、すべて「無報酬」やっているというのならば、「アマチュア」と認めてやってもいい。私も、紀伊国屋書店などで現に目にした「けんご大賞」なるものも、すべて「無報酬」で、無料で「名前を使ってもらい」やってもらっているというのなら、立派に「アマチュア」であろう。だが、決してそうではないはずだ。(一一違うかい、けんごさん?)

 ○ ○ ○

というわけで、自分の好きなけんごが、わざとらしい三文芝居で「傷ついて見せた」ら、それをそのまま「鵜呑み」にして、けんごを「傷つけた」豊崎由美を「事実はどうあれ、人を傷つけた者が悪い。悪いことを行った方が謝罪するべき」などと責める、けんごファンというのは、端的に本書『破局』の主人公と同質の「単細胞人間」でしかない。

しかし、なぜ、今どきの若者に、こうした「破局シンドローム」を見ることができるのだろうか?

無論、昔から、こういう人間は存在した。しかし、問題は、そんな「単細胞人間=ロボット人間」が増えている、と感じられる現状である。

多くの人の間でこのような「問題意識」が共有されるのは、事実として、そういう人間が増えているからかもしれないし、あるいは、昔は「バカ扱いにされるので、表には出てこなかった」ような人が「バカにバカと言っちゃいけません」という世間の「正論」に押されて、自覚を欠いたまま前面に出てくるようになった、ということなのかもしれない。

あるいは、日本社会における「建前」主義が、外圧によって強化された結果、多くの若者が「建前を建前」と気づけないままに、社会に出てきた結果なのかもしれない。

私は、石田光規著『「人それぞれ」がさみしい ――「やさしく・冷たい」人間関係を考える』のレビュー「さびしい〈ムレの時代〉」で、次のように書いた。

『今も昔も若い人は「本音と建前」の区別がつかない。しかし、昔なら、十代も半ばになれば、その「欺瞞」に気づいて「大人はずるい」と批判し始めるのだが、今の大人は、もっと巧妙だから、若者は「本音と建前」の使い分けに気づかないまま社会に放り出されて、「隠された本音社会」の中で、あくまでも教え込まれた「建前」を生きようとして苦しむのである。』

そう。若者は「建前」だけを教えられ「それさえ守っておれば、あなたは正しく生きられ、人から非難されることもなく、幸せに生きられる」などと「嘘っぱちの保証」を信じて世に出てきたため、その「建前」が万能ではあり得ない複雑な現実の中で、やがてその「矛盾」に苦しむことになる。

そして、自分が教えられてきた「建前=紋切り型の正論」が「絶対的な正義」などではないと気づくまでの間は、件の「豊崎由美批判者」のような「単細胞な正論」を、不用意に振り回したりするのだろう。
だが、そんなものがいつまでも通用するほど、世の中は甘くなく、早晩、彼あるいは彼女は、正当に「バカ」扱いにされて批判され、屈辱に塗れることになるのである。

しかし、そのような「適切な屈辱」を与えられることで、彼あるいは彼女が「大人の思考」を適切に身につけられれば、本作『破局』の主人公のような「破局」を迎えなくても済むだろう。
本作の主人公の最後の姿は、「フランケンシュタインの怪物」にも似た、まさに「憐れまれるべき狂人」ともいうべきものだが、そんな彼を作ったのは、間違いなく「建前」しか教えなかった、無責任な大人たちなのである。

 ○ ○ ○

ともあれ、本書の価値がわからず「楽しめない」という「正論を吐く、未熟な読者」の多くは、まさに本書主人公の「似姿」だと言ってよいだろう。彼らは、こんな風に言うはずだ。

「小説家というのは、読者を楽しませるために小説を書き、それを売っている食べているのだから、作品の狙いがどんなものであろうと、ジャンルが何であろうと、結果として読者を楽しませることができなかったのなら、その小説は無価値であり、それを書いた作家は批判されてしかるべきである」

「お説ごもっとも」なのだが、例えば、こういう「単細胞読者」は、私が「しかし、ドストエフスキーを持ってしても、犬猫を感動させることはできないよ」という「真理」を語っても、納得してくれないだろう。その場合の彼らの理屈(反論)は「私たちは人間で、犬猫ではない」。

無論、そんなことはわかっている。私の持論は「犬猫は犬猫でしかあり得ないが、人間の場合、神に等しい人もいれば、犬猫以下の者も大勢いる。人間というのは、そういう可能性の幅において秀でた生き物なのである」というものなのだ。
ただし、無論この理屈も「犬猫以下の知性しか持たない人間」には理解できないだろう。私としては、理解する努力をして欲しいのだが、それができないところが「犬猫以下」なのである。

というわけで、本作『破局』は、「今のアクチュアリティ」を描いた作品であるから、今読まれるべきであり、10年後にはその価値を失っている蓋然性は十分にある。
ただし、「今のためにだけある作品」であっても、ぜんぜん問題はない。いずれにしろ、人類は永遠に生きるわけではなく、永遠に残る作品など皆無だからである。


(2022年1月26日)

 ○ ○ ○

https://note.com/nenkandokusyojin/

3001:2022/02/23(水) 22:17:44
アンソロジストの深き思惑:大森望・樋口恭介・清涼院流水 一一書評:大森望編『ベストSF2021』
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 アンソロジストの深き思惑:大森望・樋口恭介・清涼院流水

 書評:大森望編『ベストSF2021』(竹書房文庫)

 初出:2022年1月30日「note記事」


『ベストSF2021』と聞いて、読者はこの本に、どんな作品が蒐められているとか考えるだろうか?

普通の人なら「2021年に発表された短編SF小説の中で、もっとも優れた作品が集められている、精選作品集」だと考えるだろう。だが、それでは間違い。本作品集には「国内作品」限定である。一一というのは、冗談。

しかし、真面目な話、冒頭に掲げた「問い」の答として「2021年に国内で発表された短編SF小説の中で、もっとも優れた作品が集められている、精選作品集」という答でも、正解にはならない。
なぜなら、その「優れた作品」というのは、「誰にとっての、どう優れた作品」なのかについて、そこではほとんど何も考えられてはいないからであり、そこに重大は「見落とし」があるからだ。

言うまでもないことだが、本書『ベストSF2021』において、収録作品の「優劣(良し悪し)」判断をするのは、基本的には、編者である、大森望である。
しかし、これも厳密には正しくない。と言うのも、大森が「編集後記」で「編集者の意向で、収録作品が若干変わった」という趣旨の報告をしているからだ。

『本書のラインナップが確定したのは二〇二一年五月末。最初はもう少し内輪向け(SFファン向け)の路線でまとめていたところ、竹書房編集部の水上志郎氏から、「それは前巻の序で宣言した《ベストSF》の基本方針(一年間のベスト短編を十本前後選ぶ)に反するのではないか」という趣旨の鋭いツッコミをいただき、いやまあ、それを承知のうえで軌道修正したんだけど……と思ったものの、「(SFファンとしての)予備知識がなくても、なぜこれがここに入っているのかが読んでわかる作品でかためてほしい」という要望はなるほどもっともだと考えた結果、いくつかの作品を入れ替えて、最終的にごらんのとおりの収録作が決定した。こうしてみると、たしかにこの方がよかったし、『ベストSF2021』のタイトルに恥じない陣容になったと思う。初心に返れと諭してくれた水上氏にあらためて感謝したい。』(P446〜447、「編集後記」より)

ここで注目すべきは、編集者の要求は『ベストSF2021』というタイトルからすれば、しごく真っ当であり、私たちがイメージする『ベストSF2021』に近い、という点であろう。
言い換えれば、大森望が前巻で自ら示した編集方針を、わざわざ「マニア向け」に軌道修正しようとしたところに、私たちは注目すべきなのだ。一一なぜ、わざわざ読者を減らすことにもなりかねない「マニア向け」でいこうと、大森は考えたのであろうか。

その答は、たぶん「その方が、結果として売れる」と大森が判断したからではないだろうか。
そう考えていいだろうヒントは、大森望による本書「序」文にある。

『 新たな日本SF短編年間ベストアンソロジー《ベストSF》シリーズの第二巻となる『ベストSF2021』をお届けする。二〇二〇年(月号・奥付に準拠)に日本語で発表された新作の中から、「これがこの年のベストSFだ」と編者が勝手に考える短編十一編を収録している。
 なによりも、本書は?SF?という概念の開発と拡張を目的として制作された一一というのはウソですが(元ネタは樋口恭介編のアンソロジー『異常論文』の巻頭言、結果的に、SFという概念の開発と拡張がなされていることは、おそらく否定できない事実である。
 実際、作品を選んだ時点から半年以上経ったいま、あらためて収録作を読み返してみると、作品のジャンル的な幅の広さに驚かされる。
 エッセイのように始まりエッセイのように終わる(ただし、真ん中がエッセイかどうかはよくわからない)円城塔「この小説の誕生」でスタートし、?異常論文?ブームの火付け役となった柴田勝家の記念碑的異常論文「クランツマンの秘仏」を経て、ある論文(学会発表)を核とする柞刈湯葉「人間たちの話」が、地球外生命探査について(あるいは小説とは何かについて)根源的な疑問をつきつける。』(P6〜7)

ここからわかるのは、大森が「異常論文」ブームの最中において、この「序」を書いている、という事実であり、本書が編まれたのは、ネット上において、SFマニアの間で、「異常論文」が徐々に注目され始め、盛り上がりを見せていった時期だと見て、大筋で間違いではないだろう点である(『SFマガジン』異常論文特集は、2021年6月号。刊行は同年4月24日)。

樋口恭介編の文庫版『異常論文』(2021年10月19日刊)所収の、小川哲の短編「SF作家の倒し方」の中で、パロディー的にではあれ、樋口が『大森望率いる裏SF作家界』の有力な若手として描かれているとおりで、大森望と樋口恭介はSF業界内で近しい間柄であり、事実、小川哲らと共に『世界SF作家会議』(単行本:2021年4月24日刊)にも参加している仲である。だから、この時期、大森と樋口は、「異常論文」という潮流を盛り上げる側として「共闘していた」と考えられるわけだ。

したがって、大森が本書の中に、樋口恭介に近い「異常論文」関係者や、自分が目をつけている若手作家の作品を、意識的に集めようとしたというのは、ほぼ間違いのないところであろう。
その意味で「アンソロジー=精選作品集」というのは、「一般的読者」にとってのそれではなく、「編者」にとって「好ましい」と考えられる「方向性を持った作品」の中からのそれであった、ということなのだ。

大森は、ネット上で「異常論文」で盛り上がっていたコアなSFマニアたちを喜ばせるような作家や作品、さらには勢いのある若手メンバーを本書にも集めて、側面支援の形で、「異常論文」的なものを含む日本SFの最新潮流を、樋口恭介らと共に作り上げようと考えたのではないか。その企みのせいで、仮に本書が一般的な意味での「年間ベストSFアンソロジー」にはならなかったとしてもである。
その証拠に大森は、本アンソロジーの選定基準について『「これがこの年のベストSFだ」と編者が勝手に考える短編』だと、周到に予防線も張っている。他の人がどう思うかは知らないが、私は「これがこの年のベストSFだ」と勝手に考えてますんで悪しからず、という意味である。

しかし、竹書房の編集者は、そうした意味での「SFマニア」でもなければ「ムーブメント作り」に加担する気もなく、当たり前に「SFマニアではない人が読んでも楽しめる、一般的に優れた作品を集めて、読者の裾野を広げたい」と考えて、「普通にベスト作品を選んでくださいよ」と、大森に注文をつけたのであろう。
大森としても、自らが前巻で掲げた「基本方針」を勝手に変更して、自分たちの「戦略」に竹書房を巻き込むのは、ある意味では契約違反の独走とも言えるので、そこはある程度の妥協した結果、本書のような内容になった、ということなのではないか。
実際、作品が収録されているわけでもない「樋口恭介」の名が、本書では何度もあがっていて、本書における「異常論文」ムーブメントの影は、とうてい否定し難いものなのである。

 ○ ○ ○

私は、樋口恭介の文庫版『異常論文』や、明らかに大森望が中心となって開催され単行本化された『世界SF作家会議』を、「仲間内の馴れ合いぶりが気持ち悪い」との趣旨で批判した。

特に、樋口恭介については、『異常論文』だけではなく、「SFプロトタイピング」を紹介した『未来は予測するものではなく創造するものである 一一考える自由を取り戻すための〈SF思考〉』や『現代思想 2021年10月臨時増刊号 総特集◎小松左京 生誕九〇年/没後一〇年』などでの態度も批判したし、その後に発生した「SFマガジン〈幻の絶版本〉特集中止問題」についても「それ、言わんこっちゃない」という感じで批判した。

だが、大森望個人については、ほとんど批判しなかった。一一なぜか。
それは、私が大森望の「新本格ミステリ」ブーム当時の活動を見ており、また、当時一度だけ酒席をご一緒したこともあって、大森の人柄を、おおむね肯定的に評価していたからだ。

無論、これは大森と「面識があったから、私の筆が鈍った」ということではない。
私は、面識がある作家であろうと、批判すべきと考えれば、まったく容赦はしない。一一というのは、笠井潔や綾辻行人などの実例でも明らかだろうし、これは個人的な友人であっても同じである。
私に論破されるのが嫌なら、私の友人ではいられなくて、おのずと遠のいていくことになる、とそのくらいに、私は相手を選ばず、仮借のない「議論」や「批判」をしてきたし、それがアマチュアであれプロであれ「言論人(文筆家)としての倫理(公正さ)」だと考えているからだ。

さて、ここまでは、言わば「前置き」。私がこのレビューで書こうと考えたのは、アンソロジスト大森望についての評価だ。
前々から、ぼんやりとしか捉えていなかった評価を、本書を読んで、かなりクリアに整理することができたと思えたので、ここでは、本書の収録作品ではなく、編者である大森望の方を批評しようと、考えたのである。

 ○ ○ ○

大森望という「読者」は、端的に言って「変なもの・好き」(「変な、物好き」ではない)なのではないかと思う。もちろん、オーソドックスな活劇SFなどもお好きなようだが、その一方で「目新しいもの」「前例のないもの」「変わったもの」が大好きで、そうした新人の「可能性」を高く評価する傾向があるようだ(その端的な実例が、酉島伝法)。

これは、「SF冬の時代」に、大森が「新本格ミステリ」に接近して、解説を書いたり、推薦文を書いたりしていた当時、大森の作品評価が、およそ「オーソドックスな本格ミステリ=スタイリッシュな本格ミステリ」からは、大きくズレていたことからも窺えた。

当時、「新本格ミステリ」ブームの渦中にあった私は、初期の「メフィスト賞」受賞作品なども読んでいたが、この玉石混交の公募新人賞は、その玉石混交のゆえに「大きな可能性を秘めた賞」だったと言えるだろう。
実際、この賞からデビューして、人気作家に育っていった者は少なくないのだが、そうした受賞作の中で、おおよそ「正統派」に近い受賞作に対して推薦文を書くのは、「新本格」の生みの親である島田荘司とか、「メフィスト賞」以前の初期「新本格」作家である綾辻行人、北村薫、有栖川有栖、山口雅也といった面々であったのに対し、ちょっと「キワモノ」っぽい受賞作に推薦文を書くのは、「変格ミステリ作家」である竹本健治やSF系の大森望で、この二人が推薦文を寄せたのが、かの伝説的な「問題作」、清涼院流水の『コズミック』であった。

そんなわけで、当時はまだ、一応の「本格ミステリ」ファンであった私は、竹本健治の大ファンではあったものの、新人作家の推薦者としては、竹本と大森望は「信用できない推薦者」だと評価していた。
「なんで、あんな変なものばかり推薦するのか。無論、変でも面白ければ良いし、よく出来ていればいいのだけれど、単に変なだけで、単純に未熟不出来な作品ではないか」と、彼らが推薦する作品の多くを、否定的に評価していたのである(それでも、一般的なミステリファンよりは、よほど好意的ではあった)。

しかし、今になって思うと、竹本健治や大森望は「オーソドックスに完成された作家や作品」を評価するに吝かではないけれど、しかし、それよりも「未完成でも、新しい地平を開いてくれる作家を世に出したい」という気持ちが強かったのではないかだろうか。要は、推薦作そのものの出来ではなく、その作家の「将来性」と「可能性」に期待したのである。

もちろん、そんな「未熟未完成な作品」を、さも傑作ででもあるかのように推薦された一般読者の方は、いい迷惑でしかなく、推薦者が批判されるのも当然のことなのだが、竹本や大森は、読者に一時的な犠牲を強いてでも、その可能性に投資してもらおうとしたのであろう。「そのくらいのこと」なら、やる(実験主義的な)人たちなのである。

例えば、二人の推薦でデビューした清涼院流水は、デビュー後、ミステリ界でバッシングを受け、二人の推薦者も、公言はされないものの「趣味が悪い」という評価を「新本格ミステリ作家」たちからも受けていたことだろう(そもそも、清涼院の「京都大学ミステリ研究会」の先輩である綾辻行人たちも、清涼院をまったく評価していなかった)。当時としては、清涼院流水の受賞やデビューは、明らかに「間違いだ」という評価だったのである。

ところが、その「正統派本格ミステリ」から大いにズレた清涼院流水の作品は、「ミステリマニア」とまでは言えない若い世代の読者からは一定の評価を得たし、のちに人気作家に成長する西尾維新、舞城王太郎、佐藤友哉といった「メフィスト賞」作家たちは、清涼院流水へのリスペクトを惜しまなかった。

そして、清涼院流水がいつしかミステリ界から姿を消したのと揆を一にするかのように、この三人の有力作家もミステリ界から去っていったことを考えると、清涼院流水がいなかったなら、この三人も、もしかすると作家デビューしていなかった蓋然性だって、無くはないのである。

つまり、清涼飲料水のデビューが発したメッセージとは「本格ミステリは、必ずしも、謎と論理の精緻なパズル小説でなくても良いんだよ。名探偵が事件を解決する、キャラクター小説でもかまわないんだ。要は、面白ければなんでもアリなんだ」というものだったのではないだろうか。
そして、こうした「ユルさ」が、西尾維新、舞城王太郎、佐藤友哉といった、「従来の本格ミステリ」べったりではなかった作家たちを、「メフィスト賞」へと導いたのではなかったろうか。

このように考えると、結果的には、清涼院流水自体は小説家として大成しなかったとしても、彼をデビューさせたことの意味は、とてつもなく大きかったと言えるだろう。
もしも、当時の「講談社・文芸第三出版部」の宇山日出臣以下の編集者(太田克史など)が、「新本格ミステリ第1世代」の作家たちのように「ゴリゴリのミステリマニア」で、清涼院流水的な「逸脱」や「偏向」を許容し得ない人たちであったなら、西尾維新、舞城王太郎、佐藤友哉といった「本格ミステリ」という枠を超えた才能や、「メフィスト賞」というユニークな賞を、歴史に遺すことだってできなかったはずである。
そして、こうした意味合いにおいて、竹本健治や大森望は、「新本格ミステリ」あるいは「ミステリ」という枠を超えて、文学の世界に大きな貢献を果たしたと言えるのだ。

だからこそ、大森望が、本書『ベストSF2021』において、オーソドックスな意味での「年間ベスト作品」を選ばず、権威ある「大家」や「人気作家」の中に、「若手の意欲作」を紛れ込ませて、「新しい潮流」に加担した、その編集方針の「狙い」も、おのずと理解できる。
要は、大森は「現時点でのベスト作品」ではなく「新しい潮流を生み出す可能性を秘めた作品」を出来るだけ多く収録することで、SFマニアたちに「(大森望の考える)目指すべき最前線」を示し、意図的に煽ることで、その流れを「加速」しようとしたのである。

無論、前述のとおり、こうした「先行投資」的な作品選びに、知らずに投資させられる一般読者は、たまったものではなく、なかば詐欺みたいなものなのだが、大森からすれば、こんな高い文庫本(税込1650円)を買うのは、どうせマニアが大半だろうし、そうしたマニアは、「最先端」に加担するのを、むしろ喜びとする「エリート指向」の持ち主たちなのだから、「マニア向け」に特化したところで、売り上げが極端に下がるわけではない、一一くらいの読みはあったはずだ。
しかしまた、こうした「自分の趣味」に都合の良い「読み」を、そうした趣味を共有しない編集者に、おおっぴらに押しつけるわけにはいかず、理解を求めるというわけにもいかなかった、ということだったのであろう。

で、どうして私が、「身内に甘い」大森望を批判しないのかといえば、それは、このように、彼の「党派作り」的な動きが、よくある「文壇政治」とは一線を画して、「趣味の実現」を目指すもののように感じられるからだ。
そもそも大森が、笠井潔のように「文壇政治」的に「党派」を作ろうとするような人物ならば、「新本格ミステリ」時代にだって、「新本格ミステリ」主流の神経を逆なでするような作家ばかりを、わざわざ後押しするようなことはしなかったはず(だし、笠井潔にだって擦り寄ったはず)だからである。

つまり、大森望のような「変なもの・好き」は、基本的には「保守的(形式重視の伝統主義)」な「本格ミステリ」業界には合わず、時代に応じて「前衛」が登場しては形式的な拡張と更新のなされてきた文学ジャンルとしての「SF」の方が、やはりその性向にも合致していた、ということなのであろう(ここで「形式的な拡張と更新」と評するのは、文学とはもともと「なんでもあり」であり、その意味では「本質的な拡張や更新」など存在し得ないからである。つまり、すべては不易流行である)。

現在では「特殊設定ミステリ」なども歓迎されるようになり、以前に比べればずいぶんと「寛容になった」かのように見える本格ミステリ界とは言え、「本格ミステリ」の世界は「謎と(形式)論理」という一線だけは、決して譲らない。
それに対し「SF」というのは、競って「前例のないビジョン」の提示を求めるジャンルであるからこそ、大森望の「党派作り」は、「文壇政治」ではなく「SF更新運動」としての意味を、正当に持ちうるのである。

したがって私は、大森望について「身内に甘い」と苦言を呈しながらも、その「意図や目指す方向」自体は否定しない。私は樋口恭介が大嫌いだけれども、彼が結果として「SF更新運動」の駒として活躍すること自体は否定しない。

私自身、「勘違いに生意気」と評して良いだろう清涼院流水の人も作品も嫌いだったが、しかし、清涼院流水が体現する「逸脱」を排除しようとした「新本格ミステリ第1期」作家たちの「エリート主義」を批判して清涼院を擁護したように、大森望(や東浩紀)が樋口恭介を「SF界の清涼院流水」としてプッシュしようとすることに、不満はないのである。

「ゲンロンカフェ」での鼎談(2021年11月10日開催、私は3日前の2022年1月27日に録画を視聴)で東浩紀が、樋口恭介に「もっとイキれ(本性を出せ)」を要求していたように、私も、樋口に同じことを求めたい。どうせ「イキったガキ」なのなら、小賢しく保身になど走らず、ツッパリ切れ、と言いたい。
無論、それで樋口恭介が潰れても、私としてはぜんぜん惜しくない。樋口が「SF界の捨て石」になってくれたなら、その時はきっと、私は心からの哀悼の意と感謝を捧げるはずである。

だから、まだまだ「清涼院流水の域」に達していない小粒な樋口恭介には、単なる「イキったガキ」に終わることなく、本物の「大馬鹿者」になり「馬鹿力」を発揮して、SF界を更新して欲しい。その場合「SFプロトタイピングなんて、子供騙しのヌルいことなど言ってる暇はないぞ」ということなのだ。

そして大森望も、樋口恭介に、大筋で同様の期待をしているはずである。だからこそ私は、大森望を批判しないのだ。


(2022年1月30日)

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3002:2022/02/23(水) 22:22:12
〈普通の人〉の生きづらさ:孤独のスペクトラ 一一書評:模造クリスタル『スペクトラルウィザード』全2巻
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 〈普通の人〉の生きづらさ:孤独のスペクトラ

 書評:模造クリスタル『スペクトラルウィザード』全2巻(イースト・プレス)

 初出:2022年2月2日「note記事」


私の場合、読書は活字本が中心で、あまりマンガは読まないから、この作家の名も、友人のオススメがあって、初めて耳にした。
ずいぶんヘンテコなペンネームだし、タイトルからすると「ファンタジーもの」みたいなので、私の好みではないのではとも思ったのだが、まあ、大長編でもなさそうだし、ブックオフ・オンラインに安く出てたので、試しに読んでみようかと購読することにした。

第1巻にあたる『スペクトラルウィザード』の冒頭で、いきなり、ぎゅっとハートを掴まれてしまった。

黒っぽいゴシックファッションに身を包んだ少女が、家具のほとんどない、がらんとしたアパートらしき畳敷きの一室に帰宅するシーンだ。

部屋は薄暗く、帰宅した少女の表情は、それ以上に暗い。
怒っているわけではない。眉根を寄せた少女の表情は、まるで生きるのに疲れてしまった人のような、ある種の諦観に満ちたものだ。
部屋の真ん中には、黒っぽいちゃぶ台がポツンと置かれており、少女はその上に、コンビニで買ってきたカップラーメンなどの入ったレジ袋を、放るようにして置く。
簡単な食事を終えた少女は、そのままの格好で、畳の上に横になっている。
やはり、一人暮らしのようだ。そして、と心の中で、ポツリと漏らす。

「ぬいぐるみでも ほしいな…」

クマの出来損ないのようなぬいぐるみと踊っている、自分の姿を思い浮かべる。

「そうすれば毎日楽しくて…私も少しは元気が出るかも…」

そう考える。

この、なんとも侘しいシーンに、私は胸が締めつけられるような思いがした。
この少女を何とかして幸せにしてやることができないものかという、差し迫った衝動だ。
無論、作中人物の人生を、読者でしかない私にどうできるわけもないのだが、湧き上がった感情は、理屈を超えているのである。

翌日、少女はぬいぐるみを買いにデパートに出かける。

「近年まれに見る いい考えだな…」
「わが孤独な心は 救いを求めているのだ…」
「魂の伴侶を見つけるぞ…」

少女は、おもちゃ売り場で売られていた、流行りのぬいぐるみを見つける。

「これにするか…」

ズールーラビットという商品名で、ウサギもどきの変なぬいぐるみだ。色は何種類もある。

「色は そうだな…」

たまたま、水色のズールーラビットと目が合ってしまい、

「目が合ってしまったではないか…水色ちゃん」
「お前にしよう」
「運命の出会いだな…」

水色ちゃんをレジへ持っていくと、店員が「ギフト用にお包みしましょうか?」と問うた。「え?」と思わぬ問いにたじろいで、つい「そ…そうだな。たのもうか…」と答えると、店員は「お名前は?」とギフトの宛名を尋ねた。
それに答えて名乗った名前が、

「スペクトラルウィザード」

店員は、その名前にたじろいだ。「スペ? スペ…」
少女は繰り返す。
「スペクトラルウィザード カタカナだ」

 ○ ○ ○

この紹介では、少々鬱っぽい少女魔術師が主人公の「ギャグ漫画」ではないか、という印象を受けた方も少なくないと思う。実際、絵柄的には、頭の大きな4頭身の可愛いキャラクターで、ギャグ漫画向きだし、登場人物の行動ややり取りにはギャグ漫画っぽい部分も多々あるのだが、お話自体はいたってシリアスで、「魔術を使う超能力者と人類との抗争」を描いた作品である。

主人公の少女スペクトラルウィザード(愛称スペクトラ)は、魔術師の一人であり、身体を無実体化(ゴースト化)させて、壁抜けをしたり、銃で撃たれても弾丸が通り抜けるだけで傷を負うこともない、といった超能力を持っている。魔術師は、魔術を使う特別な才能を持って生まれ、それを訓練によって開花させる種族なのだ。

当初、地球には、普通の人間と魔術師の種族が共存していたのだが、魔術師たちはその生き方として「魔術」を極める「純粋魔術」の探求に重きを置いていた。つまり、魔術は実用であるよりも、自分たちのアイデンティティを保証するものだった。
だが、「純粋魔術」の探求において、地球を滅ぼすほどの力を秘めたものが開発されだすと、魔術師たちにそれを使う意図がなくても、普通人の方は落ち着いてもいられず、結局は、魔術師たちをテロリスト認定し、科学兵器を装備した「騎士団」を組織して、魔術師たちを狩り出したり、時に殺害したりし始めた。
一方、そんな人間たちと、真正面からことを構える気のない、生き残りの穏健な魔術師たちは、追われる身となって、人間社会の片隅に身を隠しながらの逃亡生活を続けることになった。スペクトラも、そんな魔術師の一人だったのである。

第1巻では、スペクトラは、魔術師を追う騎士団の少女ミサキと、敵対的ではあるものの、なぜか友人に近い関係であり、ミサキを電話で呼び座して、水色ちゃんを見せびらかしたりする。きっと、他に友人がいないので、自分を追っているミサキを友達扱いにしているのだろう。

そんなある日、スペクトラは、ある魔術師の遺した、世界を破滅させる力を持った魔道書の複製データを、騎士団が保管していると知る。スペクトラは、騎士団による魔道書の悪用を防ごうと、データを破壊するため騎士団のサーバへと赴き、ミサキと対決することになる。
ゴースト化能力によって、スペクトラはミサキとの戦いに勝ったかに見えたが、ミサキに水色ちゃんを、人質ならぬ「ぬいぐるみ質」に取られ、降参し、敗北を認める。

このあと、スペクトラのかつて友人知人だった個性的な少女魔術師たちが次々と登場することで、物語が動き出すが、相変わらず、半分ギャグ漫画のようなノリである。
だが、第2巻にあたる『スペクトラルウィザード 最強の魔法をめぐる冒険』に入ると、物語は長編的な展開を見せ、やがて物語は、切ないラストを迎えることになる。

もともと、主人公からして、鬱っぽくて暗いとはいうものの、まさかこんな終幕を迎えるなんてと、多くの読者はショックを受けた。そして、できればこの悲しいラストをひっくり返す続編が描かれないものかという儚い希望を「Amazonカスタマーレビュー」で語るレビュアーも少なくなかった。

本書は、このように「鬱系のギャグ漫画」かと思って読んでいたら、いつの間にか本格的な冒険マンガへとずれ込んで行き、最後は、近来まれに見るほどのつらいラストを迎える作品になっている。
本作を読み終えた読者は、決して「ああ、面白かった」とはならず、ズーンと重いものを腹のなかに置いていかれたまま、それでも物語の力に圧倒された事実を否定できない自分を持て余すことになる。

 ○ ○ ○

このマンガの、一体どこが、これほど読者を胸を打つのだろうか。

少なくとも、ストーリーそのものではない。ストーリー自体は、それほど目新しくもないものだと言ってもいいだろう。
では、悲劇的なラストが、読者の心に響くのかというと、それだけではない。こうした悲劇的なラストを持つ作品も、決して珍しいものではないから、そこがポイントではないのだ。一一では何がこの作品の特異性であり、力なのか。

それは多分、主人公の「主人公らしからぬ性格」である。

最初に紹介したように、主人公のスペクトラは「鬱」めいた、疲れ切った孤独な少女である。
スペクトラは、ぬいぐるみの水色ちゃんに、向かって独り語りをする。昔は「今よりずっと元気」で「生活も生き生きしていた」のだが「最近はどうにも体が重くて力が出ない」と語り、そして「元気だったあの頃に」「戻りたい…」と。

しかし、どうして彼女がこうなってしまったのか、その説明はなされず、彼女自身、その原因がわかっているのか否かも定かではない。とにかく今の彼女は、疲れ切っており、希望のない孤独な生活を送っているのだ。

しかしまた彼女は、そんな現状にあっても、基本的には真面目な常識人であり、真っ当な頼み事や要望を断ることができず、そのために、望まぬ事件に巻き込まれていってしまう。
断る元気もないということもあるのだろうが、彼女は、友達に頼まれると嫌とは言えない「弱い性格のお人好し」なのだ。そして、その結果、悲劇的なラストを迎えてしまう。彼女は、特殊な能力を持つとは言え、こんなにも弱く、ごく普通の、孤独な少女であったのに。

私が思うに、この作品の、感情に食い入ってくるような「非凡な魅力」とは、前記のとおり、このような、主人公の「主人公らしからぬ性格」にあると思う。

作品世界は、典型的な冒険ファンタジーの世界であり、彼女の周囲の人物は、いかにもマンガ的に個性的なキャラクターを持っているというのに、主人公のスペクトラだけは、なぜか、つまり理由もなく「疲れた人間」であり、描かれた世界の世界観から浮いて、一人だけ奇妙に「リアル」なのだ。

本来このような物語世界にいるべき存在ではないのに、この世界に置き去りにされてしまった、というような独特の疎外感が、彼女にはある。
そしてそれが、普通の物語にはない、奇妙に切実な感情を読者に喚起させるのだ。まるで、読者自身が、現実の世界の中で、スペクトラ同様の乖離感を感じて生きているような錯覚を覚えさせて、なんとも言えず、わだかまったような、つらい感情を喚起するのである。一一これは一体、何なのであろうか。

私はこの感覚が、ある種の「私小説」に感じられるものと同質なのではないかと思った。
主人公は頑張って生きているのだが、どうしても空回りをして、うまく生きていくことができない。そんな主人公のつらさをリアルに描いた「私小説」的作品に漂う、ある種の「やるせなさ」や「孤独」、あるいは「乖離的な絶望感」。

なぜ、作者である模造クリスタルが、このような作品を描いたのか、描くのか、それはわからない。
ただ一つ言えることは、こうした主人公の感覚や性格設定が、作者には避けられないものだということだ。いくら、物語らしい物語を作り、それらしいキャラクターを周囲に配しても、やはり主人公は、こうでなければ感情移入できないといった切実さ。
そして思えば、作者の「模造クリスタル」というペンネームも、なんとも自己否定的なものではないか。

先日読んだ、言語哲学者・古田徹也の著書『いつもの言葉を哲学する』(朝日新書)に、「かわいい」という言葉の語源に関する記述があった。

『「かわゆい」が変化した語である「かわいい」は、元々は「顔映ゆし(※ かはゆし)」、つまり、顔が赤らむ、見るに忍びない、といった意味の言葉に由来し、中世以前は、小さい者や弱い者を不憫に思う心境を表す言葉として用いられていた。それが中世後半に至ると、同じく小さい者や弱い者に対する情愛の念や愛らしいと思う気持ちを示すようになり、次第にこの種の意味合いが優勢になっていく。そして、近世の後半以降は「不憫」の意味が次第に消失し、専ら「愛らしい」という類いの意味で用いられるようになった(日本国語大辞典 第二版)。「かわいい」は、いまや世界各国で通用することになったが、そうした国際語としての「カワイイ(※ 外国語表記は省略)」も小さなものの愛らしさのみを表す言葉として流通していると言えるだろう。
 ただ、「かわいい」がいまは表立った仕方では「かわいそう」とか「不憫」といった意味で用いられることはないとしても、やはり、「かわいい」と「かわいそう」は深いところで結びついているように思われる。つまり、私たちが子どもを「かわいい」と思うとき、そこには、子どもを単に愛らしく感じるだけではなく、子どもを憐れみ、胸を痛め、後ろめたく感じる、苦い感覚が入り交じっているのではないだろうか。』(P58)

私を含め、多くの読者が、この物語、あるいはスペクトラに感じるものとは、これではないだろうか。
つまり「かわいい」と深いところで繋がった「かわいそう」や「不憫」の情であり、スペクトラを『憐れみ』、彼女の弱々しさに『胸を痛め、後ろめたく感じる、苦い感覚が入り交じった』複雑な感情。

私は柄にもなく「かわいい」ものが好きな人間だが、その裏には、この世界に絶望的なほど存在する、「弱く」「かわいそう」な存在に対する、このような感情があるように思える。
そして、それを直視することの辛さゆえに、日頃はそれを、単なる「かわいい」で覆い隠して生きているのだが、模造クリスタルは、そんな「かわいい」という覆いを、剥がした世界を描いてしまう、異能の作家なのかもしれない。


(2022年2月2日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

3003:2022/02/23(水) 22:45:19
書物における「データ還元主義」の錯誤
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 書物における「データ還元主義」の錯誤

 初出:2021年1月27日「note記事」

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先日、友人と交わした「LINE」でのやり取りをご紹介する。それ自体は、ごく短いものだ。

友人が送ってきた、記事リンク「"玉袋筋太郎、「古本の売り時」騒動で持論 「大手では買わないようにしている」ワケ"」に関して、「ブツとしての本」好きの立場から、「本は中身だ」という立場について、批判的に語り合ったものである。

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(2022年1月22日収録)


https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2022/01/21/kiji/20220121s00041000579000c.html


SmartNewsで記事を開く "玉袋筋太郎、「古本の売り時」騒動で持論 「大手では買わないようにしている」ワケ" https://share.smartnews.com/385KV
Webで読むなら https://share.smartnews.com/aiwhz

『 玉袋筋太郎、「古本の売り時」騒動で持論 「大手では買わないようにしている」ワケ
  [ 2022年1月21日 22:25 ]

 お笑いコンビ「浅草キッド」の玉袋筋太郎(54)が21日放送のTOKYO MX「バラいろダンディ」(月〜金曜後9・00)に出演し、大手の古本販売店に苦言を呈す場面があった。

 番組では、17日放送のNHK「あさイチ」の「知ってます?いまどきリユース」というコーナーについて取り上げた。そこでは、家具や家電、本や洋服などを中古品店やフリマアプリで高く売るテクニックや、不用品をうまく手放す方法などを紹介していた。

 この番組の内容を受けてか、同日に作家の水野良氏はツイッターで「NHKの朝の番組で小説や漫画の『売り時』なるものを『解説』していて怒りを覚えた。消費者にとってのお得情報かもしれないが、作家と出版社にとっては最悪の利益妨害を推奨していたからだ」と、持論を展開。この投稿に様々な意見が寄せられている。

 この件について、玉袋は「俺は大手の古本屋とかでは買わないようにしてるのよ。大手はさ、買い叩くじゃない。作品の価値とかなく100円とか10円とかでさ」と苦言を呈す。「いくら新しくても、売れた本だけとかさ。昔からあった古本屋さんとかの『プレミア本』とみたいなものは無くなっちゃったよね」と、話していた。』


友人「売り時ねぇ。。。」

私「売れてる本を早く買って、すぐに読んで、即売れば、高く引き取ってもらえる、って理屈でしょうね。
そうなると、作家は、ますます新刊を買ってもらいにくくなる。すぐにブックオフとかに並ぶんだから。」

友人「ですね。いま、そうなってます。新古書店は高値買取りセールとかでベストセラーを買ってます。」

私「すぐに手放していいような、何の愛着も湧かないような本は、そもそも読む価値もない。」

友人「そうなんですがねえ\(//∇//)\」
友人「永遠という幻影を夢見させてくれないとねぇ。。。」

私「昔の人は言いました。「損して得とれ」」
私「時間潰しに本を読む段階で、その人の人生ののものが無駄。」

友人「いまはなんでもデータに還元できると思ってるから」
友人「だから装幀とか紙質とか函とか帯が意味が出てくるとおもうのです。」

私「そうですね。
でも、それ(※ データ還元主義)は「お前自身がデータに過ぎないってことだよ」ってことなんですがね。」
私「身体性を欠いたら、人間は生きている意味がない。本だって同じ。」

友人「御意(^^)」

私「同じ遺伝子を持つ人間を、複製して作ったら、古い方のオリジナルはいらない、ということになる。「あなたは最早存在価値のないゴミです」となる。」

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ここでは、友人との気の置けないやり取りゆえの気楽さから、冗談めかして、やや極端な議論を展開しているが、基本的には、私の本音である。

無論、私だって「本は中身が大切」だと考えている。だが、いわばそれは「当たり前の話」であり「大前提」でしかない。つまり、本とは「中身が面白く」かつ「ブツとしての魅力を持つ」べきだし、読書家は「そこまで楽しめる感性」の涵養が、本の未来のためにも望ましい、ということだ。
言い換えれば、「美しい本」の魅力がわからない者は、「読書好き」ではあっても「本好き」ではないし、「本の味方」でもない、ということである。

私たちは、このやり取りの中で「データ還元主義」と「身体性の重視」という議論をしている。
例えば、人間を「心身二元論=霊肉二元論」的に捉えて、「心=霊」が主であり「身=肉」は従だとするような「精神主義=霊性主義」的な考え方は間違っており、それらは人間の実存というものを、あまりにも観念的に捉えすぎている。

そして、そうした「観念的な錯誤」と同様、本についても「テキスト(中身)」と「書籍(形態)」を分けて考えるのは、便宜的には必要なことではあれ、一定の「錯誤的な見落とし」を伴うものだということを、ここで示唆している。
つまり、同じ「テキスト」であっても、「器=形態」が変われば、「味わい」も変わる、という当たり前な話の再確認だ。

比較的わかりやすい例をひとつ紹介しておこう。それは「絵と額縁」の関係である。
どんなに素晴らしい絵(中身)であっても、合わない額縁に収められていたら台無しだ。また、額縁のない絵というのは、その世界観が完結しきらない不完全性を伴う。
一方、絵(作品)に合った額縁に収められると、絵は、額縁の無かった時には発し得なかった魅力を輝かせて、額縁の無い「絵そのもの」に倍する魅力を発しはじめる。つまり「絵と額縁」は、一体のものなのである。
一一そしてこれは、絵画愛好家には、常識に類する「事実」なのだ。

また、しごく俗っぽい例を挙げれば、「馬子にも衣装」という事実がある。
例えば、「顔貌」としては「どこにでもいるお爺さん」であっても、「ローマ法王の衣装」を身につけて、それらしく澄ましていれば、多くの人は、彼を「ありがたい法王さま」のように誤認するだろう。衣装によって彼は、偽物のオーラを(見る者の「偏見」として)発しはじめるのである。

つまり、「中身」が優れていればいるほど、それを収める「器」は相応に立派なものあるべきであり、そうでないものは、それ相応の「器」でかまわない、ということである。

そしてさらに言えば、「貧相な器」で十分な「中身=テキスト」などは、最初から読む価値はなく、そもそもそこでは「器」を問題にする必要もない。重要なのは、「優れた作品=中身」には「優れた器」が与えられるべきだ、ということなのである。

しかし、現実としては、「優れた中身に貧相な装い」「粗末な中身に不相応に豪華な装い」といった「不整合」が、世にはあふれている。だからこそ、そんな時に必要なのは、「器」に惑わされない「目利き」の力なのだ。
例えば「今は〈異常論文〉というのが流行っているよ」などと「電通文学」的に宣伝されると、「原発安全神話」と同様に、すっかりそれに乗せられてしまうというのではなく、「器」に惑わされないで「中身」を冷徹に評価できる、例外的な目の必要性である。

そして、「中身」に対する適切な評価ができれば、おのずと「優れた中身に貧相な装い」「お粗末な中身に不相応に豪華な装い」という「不整合」状況が歓迎すべきものではないと感じられるし、「優れた中身に相応に優れた装いを」あるいは「お粗末な中身にそれなりの装いを」ということにもなるだろう。
これは、「美の擁護者」ならば、当然の要求ではないだろうか。

そんなわけで、私は「中身」と「器」は切り離して考えるべきではない、と考える。「中身」に価値があればこそ、なおさらそれは、優れた「器」を盛られてしかるべきなのだ。

だから、「本は中身だ」などという、わかりきったことを、さも「ひとかどの読み手」ぶって言うような人は、実のところ「中身は無いが、言うことだけは一人前」と「不整合的存在=見掛け倒し=頭の空っぽな饒舌」でしかないのである。

「人間」でも「本」でも、頭の悪い「データ還元主義」を採用すると、まずは「身体性」を損ない、ついには「データ」そのものを見失うだろう。その意味で、「器」は決して軽んじてはならないものなのである。

ここでの友人とのやりとりには、以上のような意味合いが込められている。


(2022年1月27日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

3004:2022/02/23(水) 22:48:29
この平凡な現実:「小川哲×樋口恭介×東浩紀「『異常論文』から考える批評の可能性 SF作家、哲学と遭遇する」」を視聴する。
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 この平凡な現実:「小川哲×樋口恭介×東浩紀「『異常論文』から考える批評の可能性 ──SF作家、哲学と遭遇する」」を視聴する。

 初出:2022年2月5日「note記事」

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結論から書いておくと、この鼎談で語られていることは、実に平凡である。

・「小川哲×樋口恭介×東浩紀「『異常論文』から考える批評の可能性 ──SF作家、哲学と遭遇する」」
https://genron-cafe.jp/event/20211110/

面白くないとは言わないが、その面白さは、三人の「人柄」やら「人間性」が窺えたという点にあって、特別に面白い話や深い話が聞けたわけではない。

酒の入った三人が、それぞれの「意図」を持って、自らの人間性の一部を世間(視聴者)に晒し、視聴者としては、そうした「公式の場では普通は見られない、人間らしい部分」を見られたような気になって「面白い」ということであるし、録画に残っているライブコメントも、大筋でそういう部分を楽しんでいるようだった。日頃見られない「作り込まれていない、生な部分」に接することができたという、ある種の「特権的な体験」をしているという満足を、ライブの視聴者は感じていたのであろう。
しかしながら、こうした鑑賞者たちの受け取り方は、いかにも浅いと思う。

この鼎談では、かなり早い段階から飲酒が始まるのだが、当初、樋口恭介だけは「酒に飲まれるので、奥さんから飲むなと言われている」と固辞するが、座長である東浩紀がしきりに、樋口に飲ませようとする。
小川は、樋口に近いと言うか、「友人」関係にあると認めているSF作家だが、自分は酒を飲んでも大丈夫だと言って飲酒し、側面から東を支援する。

なぜ、東がしきりに、樋口に酒を飲ませようとするのかというと、それは樋口の応答が、いかにも「公式見解」的に無難なものであり、東が期待する「本音」の部分を出さないからである。
そのため東は当初「どうしたの、樋口くん。いつもの感じじゃないじゃない」みたいなことを言い、樋口の方は「いや、僕は意外といつもは、こんな感じですよ」みたいな言葉を返し、鼎談は、ひととおりのやりとりが交わされるものの、まるで「書店イベント」でのそれのように、フックに欠け盛り上がりに欠けるものとなっていた。
(※ ちなみに、本稿内の「」で括った鼎談者による発言は、もっぱら私の記憶による大筋の再現である。内容的な、間違いがあれば、ご指摘願いたい)

その後、ライブを視聴していた樋口恭介の奥さんから、樋口に電話が入り「飲酒OK」の許可が下りた。
東や小川の危惧したとおり、樋口がその身を鎧ったまま、保身的に「無難な公式見解」ばかりを口にしていたのでは、イベントが盛り上がりを欠いて失敗に終わるし、その敗戦責任者として樋口の評価も下がってしまうと、奥さんもそう危惧して、飲酒OKサインを出したようだ。

奥さんからOKが出た途端、樋口恭介は飲酒を始めるのだが、そのピッチは三人のうち最も早い。これはもう、いかにも危うい酒飲みぶりだ。要は、奥さんが止めなければ、自制などできないダメ人間であることが、容易に窺えたのである。

案の定、樋口はどんどん「単なる酔っ払い」と化してゆき、他の二人のやりとりを無視した不規則発言で、悪い意味でのクロストークを頻発させる。人がしゃべっているときに、いきなり何事かを喚きはじめて、視聴者は発言の内容が聞き取れなくなってしまうのである。

しかし、これは東浩紀の望んだ展開だ。
東は最初から「いつもの樋口くんじゃないね」「ツイッターの樋口くんとは違う」「もっと、いつもの感じでやってほしいな」といったことを繰り返し、「このままではつまらないよ」といったことまで言う。だからこそ、樋口の奥さんも「まずい」と思って電話までしてきて、樋口の禁を解いてしまったのだ。

 ○ ○ ○

私がこの鼎談の存在を知ったのは、つい最近のことだ。Googleの検索欄を表示した時に表示されるネットニュースに、この鼎談を紹介する記事が出ていたのだ。

それは、東浩紀が主催する「ゲンロン」のメンバーである、若手作家・名倉編(※ 名前である)による、

・異常と批評の奇妙な邂逅──小川哲×樋口恭介×東浩紀「『異常論文』から考える批評の可能性 ──SF作家、哲学と遭遇する」イベントレポート
https://www.genron-alpha.com/article20220125_01/

である(2022/01/25)。

この記事だけを読むと、鼎談タイトルに恥じない、何やら難しくも深い議論がなされたかのように見えるが、実際の内容で言えば、そうした議論は、全編9時間にわたる大鼎談のうち、酒が入るまでに交わされた、最初の2、3時間のものでしかない。

しかし、この鼎談の真価であり面白さは、東浩紀が鼎談後半で「6時間かかって、やっと樋口くんの本音が聞けるようになった」といった趣旨の発言をしているとおりで、樋口恭介が、完全な「酔っ払い」状態になった後にこそ存しており、名倉編がレポートにまとめたような内容は、実際のところ、この鼎談の「タテマエ」部分でしかないのである。

例えば、「異常論文」という名称の意味についての、名倉のまとめはこうだ。

『つまり異常論文は「小説でありかつ論文でもある」ような、双方の重なる作品を指すのではない。この定義を聞いた小川は、それはむしろ小説や論文といった既存の言葉では定義されてこなかった名前のない領域に与えられた名前なのではないかと応答した。樋口もこれに同意し、「異常論文」は批評にもまた近いジャンルでもあると付け加える。』

要は、これまで適切な名称が与えられなかったがために、見落とされがちだったユニークな作品に「新しい名称」を与えることで新奇さに訴えて、人々の目を惹こうとした、ということだ。

しかし、いまさら言うまでもないことなのだが、もともと「文学は何でもあり」である。
これは、まともに文学を読んできた者には常識に類する話でしかないが、小説は読んでも、「文学とは何か」を考えたことのない多くの人にとっては、「文学」とは「文学だと(権威から)名指されたもの」のことでしかなく、そこからはみ出してしまうものは「文学」だと認知されず、「見えない存在」と化してしまいがちである。

しかし、このような視野狭窄ほど「非文学的」な態度もなかろう。権威ある存在から「これは文学ですよ。だから安心して読みなさい。きっと面白いはずですから」などという「保証」を与えられないと、自分でひとりでは読むものも決められないような読者とは、そもそも「文学」とは無縁の衆生でしかないからである。

だが現実には、「SFファン」であれ「本格ミステリファン」であれ、その「わかりやすい肩書き」にアイデンティを委ねて安住しているような者に、「文学」そのものを考えてみる姿勢などないのは当然だろう。彼らは、権威に保証されたものを追認することで、安心を得ているだけの読者なのだ。

一方「文学」とは、形式的な保証を与えない、むしろそれを脱構築し、ズラしながら展開していくものなのだから、そうしたものと、「特定ジャンル」ファンやマニアとの折り合いが悪いのは、むしろ理の当然なのである。

例えば、今回「異常論文」と呼ばれたものの、所詮はひと昔前に「前衛文学」「実験小説」「ポストモダン小説」などと呼ばれたものでしかない。
しかし、そうしたものは「(わかりやすく)定義されないもの(し得ないもの)」であるがゆえに、「安心できる小説」を読んで「安心」を得たい読者、読んで「よし、私はこの作品の素晴らしさが理解できたぞ。私は優れた読者なんだ」と自己肯定がしたいだけの読者には、当然のことながら喜ばれない。
こうした作品を読んだ者の多くは、それをこれまでの「読みのパターン」に落とし込めず、「何がやりたいのかわからない」「何が面白いのかわからない」となり、「わからない私は、能力が低いのではないか」という不安にかられることになってしまうからである(そしてしばしば、感情的な否認に走る)。

したがって、「前衛文学」「実験小説」「ポストモダン小説」といったものは、一部のコアな文学ファンにしか読まれない。「一読でわからない作品」だからこそ「挑み甲斐もある」と、そんな風に感じる、ややマゾヒスティックで打たれ強い読者だけが、こうした作品を喜んだのだ。

つまり、こうした作品は「読まれなかった」というわけではない。読む読者を、好むと好まざるとにかかわらず、選んでしまっただけなのだ。
誰もがこうした作品の存在を知らなかったわけではなし、その存在価値を認めなかったわけでもない。ただ、「多数の読者」を得る「商品」としての価値を、獲得し得なかっただけなのである。

そんなわけで、「異常論文」というキャッチーな名称が読者に保証するのは「どうせ異常なんだから、あなたが理解できないのも当然なのだ。ただ、その異常ぶりを楽しめれば、それが理解したということなのだ」といったことだった。
そのおかげで、これまでは「前衛文学」「実験小説」「ポストモダン小説」といったものを敬遠していたSFファンも「安心」して、「面白がって見せた」というわけである。「私は異常論文が、理解できる」と。

名倉は、「異常論文」という「ネットミーム」由来の造語の反響について、次のように書いている。

『ネットミームから生まれた『異常論文』は、刊行されるとSFやアカデミズムの外まで届く大きな反響を呼び、スタニスワフ・レムの訳者である沼野充義からも激賞されたという。』

これは、一種の「ハッタリ」である。
『SFやアカデミズムの外まで届く大きな反響』などと言っているが、そんな「反響」について語っているのは、「異常論文」関係者に限定されており、昔の言葉で言えば、これは「自己喧伝」であり「提灯持ち」であり「(営業的)プロパガンダ」でしかない。
要は、狭い業界内であろうと、ちょっと反響があったなら、それを何倍にも増幅して、大声で「流行っている! 流行っている!」と連呼すれば、世間の狭い田舎者が「流行りもの」に飛びついてくる、という仕掛け(友釣り)だ。

さて、このように書くと、私が「悪意」を持って、ことさら「扱き下ろしている」かのように受け取られるのだろうが、そうではない。
例えば、樋口恭介自身も「SFプロトタイパー」を名乗って喧伝し、ちょっとした「ブーム」になっているらしい「SFプロトタイピング」について、この鼎談の中で、東浩紀は「所詮は、薄っぺらな新しいもの好きブームの焼き直し」ではないかという趣旨のことを語っているし、小川哲にいたっては、酒が入る前は「まったく興味がない」と言い、酒が入ってからは「詐欺みたいなものだと思っている」とまで言っているのだ。
これが「SFプロトタイピング」に近いところにいて、しかし、自分はそれに関わっていない人の「醒めた見方」であり「本音の評価」なのである。

さらに小川哲は「異常論文」についても、「特に新しいもだとは思っていないけれども、こうした新しい器を作ってもらうことで、これまで作品発表の場が与えられなかった作家や作品の受け皿になるというのは、単純に良いことだと思う」という、実に正直な「職業小説家の都合」を語っている。一一「レッテルを貼り変えるだけで、売れる商品になるのなら、それは職業作家として有難いことだ」という、身も蓋もない話だ。

事ほど左様に「異常論文」などというものは、「文学」読者には、何ら「新しい」ものではない。
それを過剰に喜ぶのは「盆地の中に安住して、視野の限定されていることにも気づいていなかった、文学的田舎者」の読者でしかないのである。
そもそも『スタニスワフ・レムの訳者である沼野充義』に激賞されたからといって、それがどれほど「広範な評価」を保証するものだと言うのか。
沼野の名がここで挙げられるのは、彼が「レムの翻訳者」であり、レムが「SFマニアの、いまどきの偶像」(原語からの新訳刊行中)だからでしかなく、『SFやアカデミズムの外まで届く大きな反響』と言うのなら、普通の読書家が知っているような「有名人」の名を50人くらい列挙して見せろ、という話でしかない。つまり、所詮は「田舎」で語られる「都会でも大ブーム」言説でしかないのである。

このように、名倉が「レポート」で仰々しく報告しているようなことは、大した内実を持つものではない。ただ、「ゲンロン」のメンバーとして、この鼎談の価値を喧伝したいがための「営業トーク」でしかないのである。

そんなわけで、名倉がピックアップしている、鼎談での他の話題に関しても、いちいち解説する価値はない。本稿読者は、安心して「そんな大層なものではなかったのか」と思ってもらって結構。
前述したとおり、「見世物」としては面白いし、視聴料が千数百円なら安い。ただ、それに9時間を費やすのは、やはり時間の無駄だと、読書家である私は評価する。なぜなら、その隙に、もっと中身のある本が読めるからだ。

 ○ ○ ○

この鼎談で、私が唯一「面白い」と感じた話題は「ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス=political Correctness=PC)」つまり「社会の特定のグループのメンバーに 不快感や不利益を与えないように意図された言語、政策、対策を表す言葉であり、人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない中立的な表現や用語を用いることを指す。政治的妥当性とも言われる。」(Wikipedia「ポリティカル・コレクトネス」)と「批評」をめぐる問題だ。

しかし、これも難しい議論がなされているわけではない。要は「なにかというと、言葉尻を捉えては叩いてくるので、下手なことが言えず、言論が萎縮してしまう」という、ありふれた「問題提起=不満表明=愚痴」の類いでしかない。

東浩紀は、現実的問題として、ポリコレが、悪い意味での「アイデンティティ・ポリティックス=アイデンティティ政治」になってしまっている、とおおむね正しく指摘している。「ポリコレ」の「負の部分」である。

『ジェンダー、人種、民族、性的指向、障害などの特定のアイデンティティマイノリティーに基づく集団の利益を代弁して行う政治活動。外部の多数派には分からない特定の集団独自のアイデンティティ−の数が増える一方、集団の垣根を超えた見解・感情が共有が急速に失われている。国内外の左派はマルクス主義や社会民主主義の限界が明らかになる中で、新たな主義としてアイデンティティ政治を受け入れた。これ自体は必要な一方で、格差是正のやり方を考えることよりもエリート内での議論に関心が向かった。そのため、古くからあるマジョリティー抱える問題、アメリカならば白人労働者層の貧困の問題からは注意が逸れ、理性的な対話を脅かしかねないようになった。
アファーマティブ・アクション(積極的優遇措置)はアイデンティティ政治がアイデンティティマイノリティーから社会的不公正とされているモノを是正するために推進された法的改正の一つである。一定の成果を上げているが、逆差別やマジョリティの弱視無視・皺寄せが起きていることへの批判の声も存在する。』(Wikipedia「アイデンティティ政治」)

簡単に言えば「党派権益政治」である。
自分たちの「マイノリティー性」を強調し、「弱き強者=裏返しの特権階級」として「ヘゲモニー」を握り、権益を確保しようとするような、「公正さ(フェアネス)」や「他者への思いやり」を欠いた、身も蓋もない「我利我利亡者」的な考え方であり態度が、「ポリティカル・コレクトネス」という建前の下に横行して、「議論」が成立しなくなっている、という悪しき現実。

たしかにこれは重大かつ喫緊の問題であり、何よりも「言いたい放題」なほどに「自由」を重視する、リベラルの一人である私としても、こうした問題を看過するわけにはいかない。私自身「弱者の味方」を自負しているからこそ、「弱者の味方」という立場にドロを塗るような、誤った「ポリティカル・コレクトネス」は、とうてい容認できないのである。

しかしながら、「ポリティカル・コレクトネス」の「問題」は、「ポリティカル・コレクトネス」自体を批判否定して、無くしてしまえばすれば良い、というような簡単な問題ではない。言うまでもなく、「ポリコレ」は、「必要」な「弱者への配慮」であるからこそ、その「濫用」が問題なのである。
そして、この「ポリティカル・コレクトネス」の必要性と、その弱点としての「アイデンティティ・ポリティックス」の問題は、どちらか一方を採れば良いということではないからこそ難しい。逆に言えば、難しい問題を難しい問題のままに、バランスを取りながら取り組まねばならない問題である、という点に難しさがある。

ところが、東浩紀の場合は「プロの言論人」の「保身」の問題として、「ポリコレ」批判をしているようにしか見えない。要は「営業がしにくくて困る」といった程度の問題意識でしかなく、本気で「ポリコレ」の二面性問題に取り組む気構えが見られないまま、わかりやすい不満だけを口にしているのである。

これも「酒が入っているから」言えた「本音」なのかもしれないが、しかし、誰にも判定し得ない「本物の弱者」にとっては死活問題である「ポリコレ」について、所詮は「物書き業者に対する営業妨害」といった程度の問題意識で、迂闊に「ポリコレ」を攻撃するというのは、言論人としては「不見識」であると言うほかないだろう。

「ただのおっさん」の意見としては「気持ちはわかる」のだが、東浩紀は「ただのおっさん」として発言しているのではない。「言論人(批評家)の東浩紀」として発言しているのだから、これは、いくら「酒が入っているから」という「アリバイ工作」をしたって、許されることではないのだ。
それに、東自身(小川もそうだが)「酔ったからと言って、(後で記憶が飛ぶことはあっても)心にもないデタラメを言うことはない」と自信満々に語っているのだから、「酒を飲んだ上での放言」ということにはできず、おのずと「公的な発言」としての「有責性」を引き受けないわけにはいかないのである。

したがって、この鼎談で語られた「ポリティカル・コレクトネス」あるいは「アイデンティティ・ポリティックス」の問題は、切実な「社会問題」として考えなければならない難問であり、その意味で興味深くはあったものの、東を中心とした鼎談者の「ポリコレは問題だよね」レベルの議論は「まったく下らない」ものでしかなかった、と言えるのである。

 ○ ○ ○


そんなわけで「鼎談の中身」自体は、特段なにもないに等しかった。だが、最初に書いたとおり、三人の「人柄」やら「人間性」が窺えたという点でなら、「エンタメ」として大変面白かった、とも評価しえよう。その意味でなら、視聴する価値はあった。

だが、その部分を楽しんだ「東浩紀ファン」「ゲンロンファン」などの、大半の視聴者は、本当の意味での、三人の「人柄」やら「人間性」を楽しんだ、というわけではない。

なぜなら、酔っ払って、ほぼ自己コントロールを失った樋口恭介は別にして、東浩紀と小川哲は、前述のとおり「酒が入っていた」とは言え、自己コントロールを失ってはおらず、所詮は、視聴者に対して「見せたい自分」を「演技」的に見せていたに過ぎないからである。
したがって「酒が入ったから、本音が出て、素の人間性を窺わせ始めた(から面白い)」などと思って、この「鼎談」を視ていた者は、東浩紀と小川哲に、まんまと手玉に取られた、ということなのである。

では、具体的に、東と小川は、自身をどのように「プロデュース」していたのであろうか。

東の場合は、樋口恭介に厳しい注文をつけながらも、最終的には樋口の「可能性」を信頼して評価し、その後押しをする「懐の深い大人」一一を演じたのだと言えよう。

一方、小川の方は「困ったちゃん」である樋口を、それでも「友人」として愛し、その愛のゆえに「否定すべきことは否定し、言うべきことは言って」軌道修正させながら、樋口の成功を願っている「頭のいい、ものの見えた、それでいて本質的に優しい人」一一を、馬鹿な樋口をダシにして、演じ切ったのだ。
そもそも小川は、樋口とは違い、東の設えた舞台の上で、自身を「見せる」ことに慣れた人なのである。

この「読み」もまた「悪意」が籠っていると評価する人が大勢いるだろう。だが「世の中はそんなに甘くない」ということをもう少し骨身に刻んだ方が、身のためである。

「人前」で、見るからに「(面倒見の)いい人」だからといって、その人が本当にそういう人であるかなど、まったく当てにならないというのは、「まともな社会人」なら経験的に知っていなくてはならないことだ。

例えば、上司先輩が「優しくなった」のは、その人が「優しくなった」のではなく「パワハラ」が問題視されるようになったので、保身のために「優しい人」を演じるようになっただけ、という蓋然性が高い。この場合、その上司先輩は、あなたのことを思って「優しくなった」のではなく、自分の「保身=利益」のために、あなたをダシに使って「優しい人」を演じているに過ぎない。

この程度のことは、当たり前の問題意識と「人を見る目」があれば、誰にでもわかることだ。そもそも人間は、そう簡単に変わるものではなく、変わったとすれば、変わらざるを得ないように「環境」が変わった、に過ぎないのである。

また「見るからに、親切そうで優しい人」だからといって、いちいち信用するようなら、あなたは特殊詐欺のいい「カモ」であること間違いなしだ。今は大丈夫でも、もう少しボケたら、詐欺被害に遭うこと間違いなしと、私のこの言葉を肝に銘じておくべきだろう。

事ほど左様に、最初から「公開」することを前提とした「ゲンロンカフェ」における鼎談なのだから、よほどの「馬鹿」か、よほどの「酔っ払い」でもないかぎり、自分の「素の顔」をそのまま見せたりはせず、多少とも、世間に褒めてもらえるような人間を演ずるだろうというのは、当たり前に推測できることなのである。それを、そんなことすら疑いもしないのなら、それはよほど「ボケている」と言うべきなのだ。

実際、前記のように、東浩紀も小川哲も「酒を飲んでも、飲まれることはなく、自分の言っていることは、ちゃんと理解しており、自己コントロールできる」と言っているのだから、それが「素の顔」であるわけがない。
事実、動画を見ればわかるとおり、酒が入ってから語られる「本音」も、「ゲンロン視聴者」の顰蹙を買うようなことは決して言わず、前述の「ポリコレ批判」のように、「ゲンロン視聴者」が喜ぶような「本音」を選んで語っているにすぎない。要は「我々は、メタレベルに立ってるが、ツイッター・リベラルの奴らは、自分たちの正当性のアピールしか眼中にない、多様な他者を思いやれない二次元思考の人間だ」という、視聴者の「エリート意識」と「仲間意識」をくすぐるだけの、実質的には「身内褒め」に過ぎない。

東浩紀は、今どきの「ポリコレ」に問題があると言いながら、では、言論人として体を張って「悪しきポリコレ」と戦うのかというと、そうではない。「馬鹿を相手にするのは、やるだけ無駄」とばかりの捨て台詞を「ゲンロン視聴者」向けに語った上で、自分たちの「閉鎖空間」に自己監禁すると言い、それが「ゲンロン」という場所だ、と言うのである。

したがって「ゲンロン」というのは、「戦いの場」ではなく、基本的には「避難場所」であり「安心して陰口の叩ける場」でしかないのであり、これは言わば、自己監禁の「ひきこもり」戦略なのである。

ともあれ、この鼎談での東浩紀と小川哲の「身振り」が、所詮は「お見物衆」の前での、樋口恭介をダシにした「泣かせのお芝居」でしかないというのは、例えば「アイドルの世界」を少しでも知っている人には明白であろう。
文筆家であるにも関わらず、わざわざ自分の姿をモニター上に晒して、それで日銭を稼ごうとか、売名しようとかする者が、何も考えずに「素の自分」を晒すわけなどない。彼らはすでに「舞台の上の、プロの演者」だからである。


『「どういう関係性でいきましょうか、私たち」
 初めまして、に続いて梅染真凜が私に投げかけた言葉は、単刀直入を通り越して失礼なほど、急ぎ足かつ土足で踏み込んでくるような内容だった。
 (中略)
 返事できないでいると、おかっぱ髪の少女は畳みかけてくる。
「プランの一つ目はオーソドックスな『敵対から尊敬へ』というものです。まず私は努力を否定し効率的に人気を稼ごうとして、愛星さんの保守的なやり方に異を唱え、私たちは険悪なムードになりますが、やがてあなたのひたむきな姿勢にほだされて、徐々に尊敬の念を向けるようになっていく」
「ちょっとちょっと、待ちなさい」
「ご不満なら一段階捻りましょうか。最初私は愛星さんにおべっかを使ってすり寄っていきますが、腹の底では旧世代呼ばわりして見下している。そのことが露見して私は本性をむき出しにしますが、あなたのパフォーマンスにプライドを叩き折られ改心する。つまり私がまずヒールを務めるというものです。単純な仲良し営業やケンカップル営業では飽きられるのも早いですが、段階を踏んでストーリーを作れば長持ちするかと」
「そういう話をしてる訳じゃなくて」
 (中略)
「ちょっと初めから説明しなさいよ」
「愛星さんがグループでデビューされた明治時代と違って、最近ではユニット結成前から物語を織り込んだ関係性を用意するのが常識です。成功確率が高いのは先ほどあげた二つのテンプレですよ」
 (中略)
「設定とか言うのをやめなさい。それになんでもかんでも劇的なヤラセを組み込もうとするのはやめて。あなたと話していると本当のことが全部嘘になっちゃうから」
「演出と言ってください。それも、人気を獲得するための正当な手段としての。これまで演出ゼロなありのままのキャラでやってきた訳ではないでしょう。アイドルとして自分を長生きさせたくないんですか?」』
(大森望編『ベストSF2021』所収、伴名練「全てのアイドルが老いない世界」より、P242〜246)

「メタレベルに立つ能力」とやらがカケラでもあれば、「アイドルの世界」において、この程度の「演出」が現に為されていることくらいは、容易に想像がつくはずだ。
そして今どきは、「評論家」だ「小説家」だと言っても、それはまさに「アイドル=偶像」であって、その「権威という幻想」を読者に与えて喜ばせる、芸人の端くれなのだ。
ましてや、わざわざ「新しい放送プラットフォーム」である「シラス」まで作って、そこで自分たちを売り込んでいる東浩紀やそのお仲間(小川哲を含む)が、「アイドル=偶像」を目指していないわけなどないのである。

したがって、この鼎談においても、東が視聴者に売り込もうと狙っていたのは、「面白い物語」であって「批評的な中身」ではない。後者はあくまでも「ネタ」であって、そこが眼目ではない。「批評」の世界も、今や「資本主義リアリズム」に毒されて、そんな「ベタ」な話(批評は中身だ)では済まないのである。
(なお、この鼎談で東浩紀は「資本に取り込まれなかったがゆえに、批評家として生き残っているのは自分だけ」みたいなことを言っているが、東が今でも目立って活躍しているのは、若手批評家たちに『ゲンロン』誌や「ゲンロンカフェ」などの露出の場を提供しているからで、筆一本だったなら、ここまで周囲から持ち上げてはもらえず、他と地味な批評家たちと、大差などなかったはずである)

ところで、この鼎談の中で、『異常論文』への寄稿者の一人である伴名練への言及は、小川による「驚いたことに、伴名練はSFしか読まないで、自分の文学世界を構築してきた人だ」と紹介する箇所だけである。

だからこそ、伴名練は「SF小説アンソロジー」の編者として、適任でもあれば有能でもあるわけで、その意味では、ここで小川は、伴名練を「文学的教養を欠いたSFオタク」だと言っているのではない。一一と、そう好意的に解することもできるが、普通に読めば「文学的教養を欠いたSFオタク」と取られてしまうであろう、これはいかにも片手落ちな紹介であった。

しかし、私に言わせれば、「文学的教養を欠いたSFオタク」であろうと、伴名練は、現実に対する鋭い洞察力を持った作家である。

樋口恭介編の文庫版『異常論文』を、私が批判的に論じた際も、このアンソロジーの中で『異常論文』の問題性を、鋭く洞察し得たのは、伴名練の短編小説「解説 一一最後のレナディアン語通訳」と、その後にくる神林長平の本書解説「なぜいま私は解説(これ)を書いているのか」の2本だけだと指摘して、伴名作品を引用紹介した。


『『 レナディアン語の評価が、「言語SFを得意とする作家の創造した魅力的な架空言語」から滑り落ち「監禁言語」「犯罪者の言語」といったものに固まるのは、中国語によってAが自身の性的被害を語り始めてからのことである。
 レナディアン語とは、レナディアン人であるAにとって、「アル(=榊)が神であり父であり母であり恋人である」と予め定義された支配のための言語だったのである。
 異常な多義性を持っているのは、Aにとっての、発話によるコミニケーションと、自身が受けている性虐待とを認識上で混同させ、その境界線を心理的にも溶解させるためだった。
 語彙や文法が変わっていくのは、言語という意思表示のための道具が榊が司っていることを誇示し、榊に従わねば意思疎通さえ不可能という状態を作って、洗脳を強化するためのものだった。』(P666)

『「榊は、言葉は剣であるべきではないと語りました。綿のように無数の対象を包み込むものでなくてはならないと教えました。
 けれど私は、言葉は時に剣でなくてはならないと思います。安らぎと恐怖、快楽と苦痛、親切と悪意、事実と解釈、愛と支配、あなたと私、それを言葉が切り離すことができると知った時に、私は本当にこの世界に生まれたのだと感じます。もし剣と呼ぶのが危ういのならば、暗闇の中に浮かぶ光だと思います。
 たとえば夜の道で人の足元を照らし、行く先を示す暖かな街灯の光のような」(A)
 (原文は中国語、生田志穂訳)』(P676)

どうであろう。
榊美澄というSF作家は、本アンソロジーの編者である樋口恭介同様に、悪い意味で「レトリック巧者」だったのではないだろうか。』(拙論「真説・異常論文」より)


つまり、私はここで、伴名練の当該短編の中で悪しき「監禁作家」として描かれているカリスマ作家の榊美澄を、「樋口恭介の似姿」と見ることが十分に可能だ、と指摘したのだが、今回ここで注目すべきは、もちろん「監禁」という言葉である。

本稿において、すでに指摘しているとおり、東浩紀の「ポリコレ」に対する身振りは、まさに「自己監禁」であり、他者から一方的な「倫理的非難」を浴びない、心地よく安全な場所(仲間内の島宇宙)への「ひきこもり」だったわけだが、伴名練が描いた「監禁作家の榊美澄」もまた、まったく同じ身振りを示した作家だったのだ。

なお、このことについて、名倉編の鼎談レポートには、こう書かれている。

『 小川は(※ 「東浩紀と倒し方」としては)ウェブでの炎上を仕掛けることが有効ではないか考えたが、東はこれを否定する。炎上はこれまで何度も経験しており、対処もできるためだ。一方、樋口がひねり出したのは「監禁」という方法だったが、それが現実的にむずかしいのは言うまでもないだろう。これらを受けて東自身の口から語られた「東浩紀の倒し方」はじつにシンプルなものだった。曰く。それは東と対話をしないことである。』

しかし東浩紀には、樋口恭介の「監禁」という手法を否定して、「自分は戦える」などと言う資格があるのか?
無論、そんなものはない。東浩紀が戦える相手とは、せいぜい「ネトウヨ」や一本調子の「ツイッター・リベラル」レベルの有象無象で、相手にしなければ済む程度の相手に限定され、決して「ポリコレ知識人」と正面切って(カネにもならない)バトルができる、というわけではないからである。

そもそも東浩紀は、この鼎談でも、酔っ払って大口を叩き始めた樋口恭介を、ちょっとカマして縮み上がらせる、なんてこと外連味たっぷりにして見せていたけれど、東がそれをできるのは、明らかに、自分より「社会的地位(業界的影響力)が低い(格下)」とか「年下」であるとかに限られ、「社会的地位が高い」「年長者」について「不満」を口にするときは、その当の本人のいないところで「泣き言」のように語って周囲の同情を惹く、といった程度のことしかできない。

これは柄谷行人や浅田彰は無論、昔、笠井潔が先輩ヅラで擦り寄ってきたときにも、取り込まれまいとして逃げ腰にはなったけれど、決して、笠井を正面から批判して「だから、貴方とは組めない」と言ったわけではない。「泣き」の入った「正論」で、笠井を拒絶しただけなのである。
(ちなみにこの時、笠井潔は、東浩紀の正論を、言論人として「市場のヤスリに掛かっていない」脆弱なものだといったようなかたちで否定していたはずだが、今ではすっかり、東の方が「市場のヤスリ」を掛ける側に変貌している。一一『動物化する世界の中で 全共闘以後の日本、ポストモダン以降の批評』)

そんなわけで、私が言いたいのは、伴名練の「洞察力」はすごい、ということだ。

樋口恭介編『異常論文』所収の短編小説「解説 一一最後のレナディアン語通訳」にしろ、大森望編『ベストSF2021』所収の短編小説「全てのアイドルが老いない世界」にしろ、ごく身近にある「リアルな問題」を、「小説」の中で説得的に描き、剔抉してみせるのだから、その「社会派に見えない社会派」ぶりは、「読めない読者」には評価不能であるにしろ、もう少し評価されるべきだと私は、そのように強く訴えたいのである。

まして、伴名練は、小川哲の言を信用するならば「SFしか読んでこなかった人」なのに、ここまで「人間」を洞察できるというのなら、それは、これが伴名練の本質的な才能であり、だからこそ彼は、ことさらに深刻ぶった書き方をせずとも、読者を感動させる、「人間が描ける」作家なのであろう、ということにもなる。

私みたいな嫌われ者に褒められても、迷惑なだけかもしれないが、伴名練の実力と人気は、私が誉めたくらいでは揺るがないと信じるので、読者は、私の評価など気にせずに、伴名練の描く「人間」たちを味わっていただきたい。伴名練は、決して「単なるエンタメ作家」ではないということが、必ずや感じ取れるはずである。

 ○ ○ ○

繰り返しになるが、結論としては、小川哲・樋口恭介・東浩紀による鼎談「『異常論文』から考える批評の可能性──SF作家、哲学と遭遇する」」は、「平凡な現実」の再演でしかなかった。

それは「会社の飲み会」でもよく見かける光景の変奏でしかなく、「人気商売の世界=アイドルの世界」では当たり前に演じられる「きれいごとの三文芝居」でしかなかった、ということだ。

そうした意味で、東浩紀と小川哲の演技力は、なかなかのものであり、それなりに評価に値するものだとは言え、まとも酔っ払ってしまい、「イキったヘタレ」の本性を衆目に晒すことになった樋口恭介には、心から同情する。
結局のところ、東と小川という年長者二人に良いように利用され、「道化役」を演じさせられて、多くの人に「これが樋口恭介の本性か」と見下されることになっただけなのだから。

そして、そうした意味では、私なんかより、東浩紀や小川哲の方が、よほど残酷な「樋口恭介批判者」だったと言えるのではないだろうか。

まあ、千円ちょっとで9時間も楽しめるのだから、暇な方は、私の書いていることが事実かどうかを確かめるためにも、ぜひ、この鼎談の録画をご覧あれ。
しかしまた「中身が無いのなら、千円ももったいない」という方は、youtubeでの再放送をお待ちいただければと思う。

「刮目せよ! 春の到来せる日本SF界隈の現実がここにある」という「煽り文句」を、私からも適当に捧げておきたい。


(2022年2月5日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

3005:2022/02/23(水) 22:50:20
いじめにおける〈日本的な労働環境要因〉一一書評:坂倉昇平『大人のいじめ』
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 いじめにおける〈日本的な労働環境要因〉

 書評:坂倉昇平『大人のいじめ』(講談社現代新書)

 初出:2022年2月10日「note記事」

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本書著者は、労働問題を扱うNPO法人「POSSE」の理事を務める人物である。つまり、労働問題の専門家だ。

では、その「労働問題の専門家」が、どうして「いじめ」という、一見「畑違い」にも思える問題についての本を書いたのか。それは、殊に日本の場合、「大人のいじめ」に関しては、労働環境の問題が大きく影響しているからである。
つまり、「子供のいじめ」がしばしば「教育環境」や「学校における教育現場環境」から生まれてくるように、「大人のいじめ」においても「職場環境」あるいは「労働環境」が、無視し得ない大きな発生要因となっているのだ。

本書著者が示した労働問題という視座から、私なりに本書の「大人のいじめ」論を整理してみると、大筋で次のようなものになる。

(1)「自発的」な労働管理システムとしてのいじめ
(2)長時間労働の「ガス抜き」としてのいじめ
(3)対抗的な労働者に対するいじめ

次に、上記のような「いじめ」を生む、日本の労働現場の状況として、次の2点が大前提となる。

(A)企業の側に「労働条件の改善をしたくない」という本音の思惑がある
(B)労働者の側に「自分が苦労をしておれば、他人にも同じ苦しみを味わってもらわなければ、不公平だ」という「足の引っ張り合い体質」がある(逆に、西欧の場合は「蹴落とし合い体質」が強い)。

そして、この(A)と(B)が重なったところに、最初に示した(1)〜(3)が、おのずと発生する、というわけである。

以上の説明で、大筋はご理解いただけたであろうが、以下に簡単に説明を加えておこう。

(1)について。
要は、理由がどうあれ「仕事ができない人間(男並みではない女性、障害者、仕事の遅い人、家庭の事情で皆と同じように働けない人など)」をいじめて、無理にでも仕事をさせたり、追い出したりするということだ。
これは(B)によって、労働者が「自発的」にやってくれることだから、企業側はアリバイとしての「いじめはいけませんよ」くらいの建前を語っておき、あとは労働者に勝手にやらせておくのである。そのため、このいじめは、企業が「公式には禁止」していても、無くならないことになる。そして、企業は「よく働く社員だけ」を「低賃金」で雇うことができるというわけである。

(2)について。
これも、長時間労働によって溜まったストレスを、(B)によって、労働者が勝手に仲間内で「ガス抜き」をしながら働いてくれるので、労働者の「福利厚生」などに配慮する必要がなくなり、企業側には好都合。
言い換えれば、長時間労働の職場は、おのずといじめも多い、ということになる。

(3)について。
企業側は、「労働組合員」に代表される、企業に「物言う労働者」に対するいじめを、黙認する。
では、どうして「物言わない労働者」たちは、労働条件の改善運動をしてくれる組合員や「物を言う労働者」をいじめるのだろうか?
それは、会社にアイデンティティを委ねきって一体化した「会社人間」であったり、「労使強調の、和をもって貴しとなす」といった体質が、日本人労働者にはありがちだからだろう。
ネット右翼などがそうであるように、自分が「弱者として権力者から虐げられている」という現実の直視が苦しいために、逆に権力の側と心理的に同一化して、「権力者目線(会社目線)」となり、強くなったという勘違いによって、安心を得ようとするのだ。

また、組合員が組合活動に時間を取られていると、「サボっている」「あいつだけ楽をしている」といった「妬み」が出てくる。これも、いかにも日本人らしい「隣の芝は青い」でしかない。
たしかに、御用組合のように、会社と結託することで「労働者の権利ために闘うこと」をサボるのが仕事のような社内組合も多いだろうが、そんな「組合員は(会社の仕事を)サボっている」というのが問題なのではなく、「組合が組合の仕事をしていない」というところが問題でなのあり、組合員を十把一絡げにして敵視するのは、レッテルに欺かれた、いかにも愚かな見当違いでしかない。

そして、このようなあれこれが重なった結果、とにかく「毛色の変わった奴」は「不愉快」だという、日本人らしい「盲目的な感情」が発動して「出る杭は打たれる」という状況になり、いわば自分の首を自分で締めることによって、さらに職場は息苦しくなっていくのだ。

 ○ ○ ○

総論として、日本の職場におけるいじめというのは「悪しき労働環境に対する、見当はずれのはけ口」という側面を持っているが、こうしたいじめが最も多いのは「保育・介護」の職場だという。
これは、端的に言えば、給料が安く、それでいて過重な労働が強いられる職場だということだ。つまり、一人だけやる気を出してもいじめられるし、やる気がなくてもいじめられる。要は、どちらにしろ、その職場の空気を読んで、それに合わせられないかぎり、いじめの対象として「和を乱す存在」だと認定されてしまうということである。

同様に、日本の職場では、障害者に対するいじめも目に見えて増えているのだが、もはやその理由の説明は不要であろう。

 ○ ○ ○

では、こうした理不尽ないじめに対して、労働者はどう対処すればいいのであろうか?
無論、答えは、「いじめる側に回る」か、「いじめられる側になる」か、「いじめと闘う」か、の三者択一である。

「あなたならどうする?」と問われて、「いじめる側に回る」と答える人など、無論多くはないだろうが、日本人の特性である「和を以て貴しとなす」「空気を読む」「長いもののは巻かれろ」といったことからすれば、実際のところ、多くの人は、「いじめる側に回る」でしかあり得ない。

「いや、私はいじめには加担しない」という人も、良くて「傍観者」でしかなく、実質的には「いじめの黙認者」であり、その意味では「共犯者」に近いと言えよう。
子供のいじめの問題では、しばしば「見て見ぬふり」こそが問題となっていて、「声をあげよう」とか「大人に助けを求めよう」といったことが教えられるが、これは大人の場合だって同じはずなのだ。
だが、むしろ子供よりも大人の方が、これをしないことが多い。理由は、子供と同じく「告げ口をすると、今度は自分がいじめの標的にされるかもしれない」と怖れるからだ。

先の問いに対し「いじめられる側になる」と答える人は、まずいないだろう。わざわざ職場でいじめられたい人などいないからだ。
しかし、前述のように「いじめる側に回る」こともせず「黙認する」こともしないのだとすれば、それはおのずと「いじめと闘う」側に回るしかない。そしてその意味で、あえて「いじめられる側になる」、言い換えれば「いじめられる側に立つ」ということになるだろう。
したがって、いじめの問題においては「責任を問われない、中立的立場」というのは、ありえないのだ。「いじめる側に回る」つもりがないのであれば、おのずと「いじめと闘う」しかない、ということになるのである。


『 平穏無事に働きたいだけなのに、なぜ自ら事を荒立て、波風を立てるようなことを勧められなければならないのか。会社に自分の名前を明かさないで救済してもらえる手立てではないのか一一。これらは、筆者がいじめ・ハラスメントの労働相談に受けるときに、よく向けられる言葉だ。
 本書を読んで、同じような疑問を抱いた方もいるかもしれない。望ましい法制度や対策を、行政や政治家、会社に提言してくれるのではないのかと期待していた読者もいるかもしれない。
 だが、本書が提示する「対策」は、労働者による権利の行使である。
 不平を口にせず、求められるままに忠実に勤務していれば、誰かがいじめを取り締り、安定した働き方を用意してくれるのだろうか。いずれ国や会社がなんとかしてくれると他人任せにしてきた結果が、この現状なのではないだろうか。』
(P257「おわりに」より)

つまり、いじめの問題を解決するには、まず当人が動くしかない、ということである。

自分が動かなくても、『行政や政治家、会社』が、その窮状を察して、動いてくれるはずだ、いや動くのが仕事だろう、と考えたくなる気持ちはよくわかるが、それはあまりにも考えが甘い。

力のある者は、自分のためにその力を使うことはしても、他人の面倒までは見きれない。しかし、他人の面倒も、見なければならないところに追い込まれれば、嫌々ながらではあれ動くだろう。
だから、私たち弱者は、『行政や政治家、会社』を動かすためのアクションを、まず自分の方から起こさなければならないのである。

このように書くと『平穏無事に働きたいだけなのに、なぜ自ら事を荒立て、波風を立てるようなことを勧められなければならないのか。』と思う人が多いのだろうが、それで済まないからこそ、このように勧めるしかないのである。

無論、あなた自身が「いじめる側」であったり「黙認する共犯者」であったりするのであれば、こういう面倒なことはしなくて済むだろう。
だが、不本意にもあなたが「いじめられる側」に置かれた場合、闘わないのならば、それはおのずと、いじめを甘受するしかなく、心や体を病んで仕事ができなくなったり、不本意にも職場を去ったり、自殺したいと考えるようなことにもなるだろう。その場合、もはやあなたには、選択の余地などないのである。
つまり、むざむざ殺されるか、立ち向かうか、の二者択一なのだ。

私たち大人は、子供に対し「いじめはいけない」「いじめを見たら、止めなくてはいけない。それが無理なら、大人に助けを求めよう」などということを、なかば「当然の正義」として教えているだろう。だが、その当の大人が、じつはそれをまったく実行できてはおらず、実際には、目の前のいじめに加担し、あるいは黙認しており、それを都合よく、意識の外へ追いやって「幸い、私の周囲には、いじめがない。でも、あれば闘う」などと、お目出度いことを考えているのである。

本書には、ここまで厳しいことは書かれていないが、実際のところ「闘わなければ、いじめる側になるしかない」からこそ、本書では「具体的な闘い方」を教えているのだ。

だから、本書に教えを乞う必要のない人というのは、現にいま、本書が教える現実的な仕方で闘っている人たちだけである。それ以外の人は、多かれ少なかれ、いじめを黙認しており、その事実を意識の外に追いやっているのだと自覚すべきであり、一一無論、私だってその一人なのだ。

いま、私たちはちょうど、映画『マトリックス』第1作で、「不思議の国」の導き手であるモーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)から、「青い薬」と「赤い薬」の、どちらを飲むかと選択を迫られている、主人公ネオ(キアヌ・リーブス)と同じ立場に立たされていると言えるだろう。

『これは最後のチャンスだ。先に進めば、もう戻れない。青い薬を飲めば、お話は終わる。君はベッドで目を覚ます。好きなようにすればいい。赤い薬を飲めば、君は不思議の国にとどまり、私がウサギの穴の奥底を見せてあげよう』

「君はどちらを選ぶ?」

もちろん、売れ行きは圧倒的に「青い薬」の方なのだろうが、この選択には、あなたの「人としての尊厳」が賭けられているのだ。


(2022年2月10日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

3006:2022/02/23(水) 22:51:55
ホントに騒々しい〈ポルターガイスト〉:ラファティのカトリック性 一一書評:R.A.ラファティー『とうもろこし倉の幽霊』
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 ホントに騒々しい〈ポルターガイスト〉:ラファティのカトリック性

 書評:R.A.ラファティー『とうもろこし倉の幽霊』(早川書房)

 初出:2022年2月11日「note記事」

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昨年刊行された、ハヤカワ文庫の「ラファティ・ベスト・コレクション」(全2冊)に続いて、私にとっては3冊目となった、ラファティの新刊短編集である。

一口にラファティ作品と言っても、これが意外に作風に幅があって、好きでなければ、非常に読みにくいと感じられるだろう作品もあれば、比較的読みやすく、その意味で「普通」の「奇妙な味の小説」もある。要は、けっこう文体を変えてくる作家なのだ。
無論、その上で「一貫した個性」があり、そこが「ラファティらしさ」ということになるのだが、それはどういうところなのだろうか。

私は、前記「ラファティ・ベスト・コレクション」(全2冊)のレビューを「愛嬌のある〈ホラ吹き怪獣〉:R・A・ラファティについて」と題したが、ここで言わんとしたのは、要はラファティは「ユーモアがある」「悪戯っ子のようである」「庶民的である」「威張らない」「にぎやかだが、一面、淋しさや孤独感のようなものをにじませる」「SFというジャンルには収まりきらない作家である」といったことだった。

無論、これは何も私だけが言っていることではなく、ラファティファンの多くが認めるところなのではないだろうか。
ただ、ラファティの作品発表の場がSF小説誌に偏っており、その発表媒体に合わせて、SF的なガジェットを使って書かれた作品が少なくなかったため、当初は「SF作家」として読まれざるを得なかった、ということなのだと思う。

だが、ラファティをSFファンだけに読ませておくのはいかにも勿体ないことだし、実際のところ、ラファティはSFの世界でも「変わり種」作家の一人であって、決してメインストリームを歩む作家だとは評価されていないだろう。
言い換えれば、SF界においてだって、ラファティは評価の分かれる、あるいは好悪の分かれる作家なのではないか。個性的な小説家としては認めても「この人は、もともとSF作家と呼ぶべき作家ではないのではないか」というSFファンも、決して少なくないはずだ。
そして、その評価は、たぶん間違ってはいない。ラファティは、「純然たるSF作家」なのではなく、「SF作家でもある作家」なのではないだろうか。

したがって、私としては、ラファティはもっと多くの人に読まれ、その上で個人的に「合う・合わない」が判断されるべきだと思う。まず、広く読まれた上で、評価されなければ、ラファティにとっては無論、読書家一般にとっても、勿体ないことだと思うのだ。

どちらにしろ、ラファティという作家は、極めて個性的であるために、読者によって「好みの分かれる作家」であり、結果として「読者を選ぶ作家」なのだ。そんなラファティの強烈な個性が、ある人には「中毒性」を持つのに対し、別の人には「なんだか騒々しくて、よくわからない小説」という感じで忌避されるのではないだろうか。
喩えて言うなら、落ち着きのない悪戯っ子を「子供らしくて可愛い」と思う人と、「子供はうるさくてかなわない」と思う人の違いだと言えよう。どちらも、間違ってはおらず、あくまでも「趣味の違い」なのである。

そんなわけで、私としてはラファティを「SF作家」と呼ぶのではなく「変な小説を書く作家」くらいに呼びたい。本当は、広義の「幻想小説家」と呼びたいのだが、この呼称にはこれで「マイナー」なイメージが付いていて、読者を限定してしまうから、残念ながら適切だとは思えない。
したがって、前回に続き、ラファティの個性を比喩的に伝えるなら「ホントに騒々しい〈ポルターガイスト〉」ということになる。

「ポルターガイスト」というのはもともと、家具をガタガタいわせたり、ラップ音立てたりする「騒々しい霊」という意味なのだが、ラファティはただの「ポルターガイスト」ではなく「ホントに騒々しい〈ポルターガイスト〉」なのだ。
だから、滅多にいないという意味では面白いし、うるさいのが苦手な人には、きっとダメだろう、ということなのである。

 ○ ○ ○

ちなみに、本書所収の短編「さあ、恐れなく炎の中に歩み入ろう」における「神学的知識」から窺えるとおり、ラファティはクリスチャンであり、本書翻訳者によると「カトリック信徒」なのだそうだ。
そして、そう言われてみると、ラファティはいかにもカトリックらしい「匂い」がする。

と言うのも、前記のとおり、ラファティには「庶民的である」「威張らない」「にぎやかだが、一面、淋しさや孤独感のようなものをにじませる」といった個性があり、これはいわゆるピューリタン(プロテスタント)的な「知的で禁欲的な狷介孤高」とは、真逆な個性だと言えるからだ。

2015年に刊行された、プロテスタント神学者の森本あんりの『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』は、トランプ旋風に象徴されるアメリカの「反知性主義」というものが、どういうところから、どのように生まれてきたものであったを紹介しており、ここで紹介される「反知性主義」というのは、決して「頭が悪いこと万歳」主義ではなく、言うなれば「小理屈が嫌い」「知的エリート嫌い」「上から目線嫌い」「気取った奴が嫌い」といったものなのだ。

アメリカはもともと、信仰の自由を求めてメイフラワー号で新天地に移住した、イギリスのピューリタン(清教徒)である「ピルグリム・ファーザーズ」に発する国ということになっている。
で、この「ピューリタン(清教徒)」というのは、その名のとおり「清く正しく美しい論理感を掲げた、教養あるプロテスタント」であり、そうした「近代理想主義」的な信仰が、イギリスでは「反教会的」でもあれば「原理主義的」でもあると危険視され、迫害を受けたため、信仰の自由を求めて新大陸に移住した、というわけだ。

つまり、アメリカ合衆国のキリスト教は、もともとはプロテスタント的な知的エリートが中心であったのだが、その後の「開拓時代のアメリカ」の庶民には、こうした「知的で堅苦しい信仰」はだんだん忌避され始め、やがて「理屈よりも信仰心。知解よりも神がかり」の熱狂的な巡回説教師たちによる「反知性主義」的なプロテスタント(今でいう「ペンテコステ」派)が、アメリカでは主流となっていくのである。

それに対し、移民のよって遅れてアメリカに持ち込まれた「カトリック」というのは、その伝統主義において、アメリカではマイナーな存在ではあったけれど、「ピューリタン」ほど「知性主義のエリート主義」でもなければ、ゴスペルを歌って盛り上がるといった熱狂的な「ペンテコステ」派的な「反知性主義」でもなく、その間を行く、伝統主義的であるがゆえに「落ち着いた神信仰」を持ったものだったと言えるだろう。

もちろん、「カトリック」も上の方に行くと、悪しき伝統主義や権威主義が渦巻いていて、決して「プロテスタント」の「極端さ」を見下せるような立場ではないのだが、少なくとも「庶民におけるカトリック信仰」は、極端に走らない「素朴の美徳」を持っていたと言えるのである。

で、ラファティの作品には、こうした「庶民派カトリック」の美徳が、たしかに息づいている。

本書の表題作は「とうもろこし倉の幽霊」で、要は「幽霊話」なのだが、カトリックの正統神学では、無論「幽霊」の存在など認めていない。
人間は死んだら、土の中で「最後の審判」の時まで眠り続け、魂はその体の中にあって、魂だけが地上をウロウロしたりはしないのだ。一部例外的に、死んですぐに「肉体ごと」天に(神の座の横に)上げられたりする人もいるようだが、基本は地下で寝て待つのである。
したがって「幽霊」なんてものは、存在しない。カトリック信仰で存在するのは「三位一体の神(父と子と聖霊)」と「天使」と「(堕天使としての)悪魔」と「人間」と「その他の生物」であり、「幽霊」なんてものの存在は認められていないのである。

だが、庶民の信仰というものは、それほど正統神学に忠実ではないし、堅苦しいものではないので、民間伝承的な「幽霊」だの「怪物」だのも、当たり前に信じられたりしている。
そして、カトリックは、そうしたものにも意外に寛容である。なにしろ「聖人」などという「半神半人」めいたものを、後付けで認めてしまうくらいなのだから(日本の神道や仏教だって、その融通無碍さにおいては大差はない)。

で、ラファティの「カトリック信仰」というのも、こういう「庶民派カトリック」的なものであって、「バチカン的正統信仰」的なものではない、と言えるだろう。彼の信仰は、「ローマ教会=ローマ法王庁=バチカン」的な「唯一正統」を掲げる「権威主義的な信仰」ではなく、もっと「庶民的」な、「土着化したカトリック信仰」なのである。

そして、ラファティの「SF」が、どこか「SFらしくない」のは、この「庶民派カトリック」的な性格にあると見て、まず間違いないだろう。
と言うのも、「正統派SF」というのは、おおむね「近代主義」における「科学信仰」の筋から出てきた、きわめて「プロテスタント」的な性格のものであり、その意味で「庶民派カトリック」的な「土着性」や「庶民性」が薄く、当たり前のように「コスモポリタン」的であり「反地上的」なのだ。

だが、「庶民派カトリック」であるラファティには、そうしたものとはハッキリと違った「土の匂い」がする。だからこそ「SFっぽくない」のであり、どこか「ラテンアメリカの文学」と共通するものを感じさせるのだ。

そんなわけで、ラファティを「ラテンアメリカの文学」の中においてみると、実にしっくりくるのではないか、というのが私のラファティ観であり、したがって、そうした「世界の文学」を読んでいる読者に、是非ともオススメしたいのだが、さていかがなものであろうか?


(2022年2月11日)

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https://note.com/nenkandokusyojin/

3007:2022/02/23(水) 22:53:32
〈ルッキズム〉と美醜判断の根源性 一一書評・『現代思想 2021年11月号[特集]ルッキズムを考える』
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 〈ルッキズム〉と美醜判断の根源性

 書評・『現代思想 2021年11月号[特集]ルッキズムを考える』(青土社)

 初出:2022年2月12日「note記事」

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「ルッキズム」とは、要は「見た目(外見)差別」のことだ。
日本人の記憶に新しいところでは、「東京オリンピック2020」開閉幕式で「タレントの渡辺直美をブタに変身させるような演出案が検討されていた(https://www.chunichi.co.jp/article/219745)」と報じられ、当該演出家が辞任するという騒動があった。この場合は、ルッキズムの一種である「肥満者差別」ということになる。

言うまでもないことだが、本人の責めに帰することにできない身体的特徴において、人を差別することはできない。つまり「人を外見で差別してはいけない」ということに一一なりそうなのだが、ことはそれほど簡単ではない。

例えば、ここにスタイルの良い人と肥満の人が並んでいたとして、スタイルの良い人に「あなたはスタイルが良いねえ」と言い、肥満の人には何も言わなかった場合、これは「差別」なのか、それとも「差別」には当たらないのか。

少なくとも、私がその肥満の人だったら(事実、私は肥満体だ)、あまり良い気がしないというのは間違いない。「それを言うんなら、俺のいないところで言えよ」くらいのことは考えるだろう。口には出さないとしても、である。

しかし、人前でおおっぴらに言えないようなことを陰で言うというのは、人品(品位)の問題であったり、倫理的な問題であったりする、ということにもなりそうだから、やはりそこには「ルッキズム」の問題があるようにも思える。

しかしまた、「ある特定の人を、不愉快にする表現だから」と言って、その言葉を「公私ともに使ってはいけない非倫理的な表現」だとするのは、行き過ぎの感を否めない。いわゆる「言葉狩り」にもなろうし、何よりも「表現の自由」を「著しく制限する」ことにもなろう。

つまり、「ある特定の人を、不愉快にする表現」というのは、それを言われた当人には間違いなく「不愉快」ではあろうが、だからと言って「不愉快なものは、すべて禁止」すれば良いのだろうか。無論、そうではない。

例えば、「非難」「批判」「批評」といった行為は、社会の健全性を保つには是非とも必要なものなのだが、「非難」「批判」「批評」をされた(差し向けられた)当人は、確実に「不愉快」であろう。だが、だからと言って、「非難」「批判」「批評」を禁止するわけにはいかない。
そもそも「非難」「批判」「批評」する人は、「非難」「批判」「批評」される人が「不愉快にさせられて当然」なことをやっているのだから、その「問題点=他者を不愉快にさせている事実」を指摘認識させられ、その結果として「不愉快」にさせられるのは「当然(自業自得)だ」と考えて、「非難」「批判」「批評」をしているのである。
したがってここで問題になるのは、「非難」「批判」「批評」をするための「正当な理由」の有無ということになるのだが、これが難しい。「価値判断」というものは、絶対的なものではないからである。

実際、ひと昔前は「肥満は悪」に近い認識があった。要は「健康に良くない」「見苦しい=他人の目に迷惑=自分も恥ずかしい」「一般に動きが鈍く、仕事にも差し障る=人に迷惑をかける」「自己管理ができていない=だらしない・無責任」といったことがあると考えられたからだ。

しかし「黒人差別反対運動」において「肌の色による差別」に疑義が呈せられ、その意味で「見かけのよる差別」は「偏見=社会的に構成された、偏った価値観」によるものでしかなく「黒い肌が醜い=白い肌が美しい」とする価値観を「客観的に正当化し得る論拠はない」とされ、世間の多くもこれに納得したから、「肌の色による差別」は「倫理的に許されないもの」だと認識されるようになった。
だとすれば、当然「太っていて、何が悪い」ということにもなったわけである。

この意見に対して「いや、肌の色は、持って生まれたもので、当人の罪ではないが、肥満は当人のせいだろう」と反論する人もあるだろう。しかし、この反論に再反論するのは、きわめて簡単である。
例えば「私の家系は、明らかに肥満体質である。したがって、私の肥満体質は遺伝的なものであり、私の責任とは言えない」、あるいは「私の置かれた社会環境が、私に肥満に陥る生活を強いたのであり、その意味で私個人の責任とは言えない」等といったことになるからだ。

言うまでもなく「細い方が美しい」というのは、社会的に構成された「ひとつの価値観」でしかない。したがって、太っているのは「見苦しい=他人の目に迷惑=自分も恥ずかしい」というのは、誤った認識だということになる。
そして「一般に動きが鈍く、仕事にも差し障る」「自己管理ができていない=だらしない・無責任」といった点も、ある種の「遺伝的な障害者に対する差別」や「社会における階層差別」といったことになるであろう。
一一このようにして、「肥満者差別」は正当化し得ないものになったのだ。

だが、例えば「遺伝的な障害」は、本人の責任ではないから、本人を責めを負わせることはできず、不利益を負わせることもできないとすると、例えば「遺伝的な問題性格者」はどうだろか?

「親ゆずりの無鉄砲」(夏目漱石『坊ちゃん』)だとか「親ゆずりの短気」「親ゆずりの鈍感」「親ゆずりの共感性欠如」とかいったことだ。
これらは、犯罪につながりやすい傾向性を持っており、現に犯罪を結果することもあるだろう。だが、その場合「親ゆずり」の「遺伝的性格」だから「当人の責は問えない」ということには、ならないだろう。事実として、そんな「判決」など聞いたことがなく、「生まれ持った性格」のコントロールについては、当人に責めが負わされているのである(生まれた後の「生育環境」は考慮されるとしても)。

では、「生まれ持った外見」なら、どうなのか?
「生まれ持った性格」は本人の責任だが、「生まれ持った外見」は本人の責任ではない、ということで「筋が通る」のだろうか。これで、誰もが納得するのだろうか?
無論、これでは論理的一貫性を欠いていて、納得しろというのは無理な話である。

つまり、「差別」の問題というのは、「抽象原理的な正しさ」と「現実問題としての対処必要性」との間に「ギャップ」が存在していて、私たちは、その「バランス」を取りながら、その場その場をしのいでいるに過ぎないのである。それが現実なのだ。だから、「どこにも問題が起こらない、完全に正しい原則」というのは、まず間違いなく、存在しないと考えていいだろう。
しかしまた、そんなものは「存在しない」としても、「存在しないから、どうでもいい」ということにはならず、常に「近似値的な正しさ」を求めながら、私たちは「現実問題」に対処していくしかないのである。

そして、これは「ルッキズム」についても同じなのだ。
実際、「ルッキズム」と一口で言っても、その範囲はいくらでも拡大していく。

『 現代社会においては、広い意味での「見た目に関する差別(appearance discrimination)」が「ルッキズム」と総称されている。ルッキズムの中には、美醜の社会的通念にもとづく差別、肌の色・身長・体格などの身体的特徴についての差別、当該社会において一般的ではない服装に対する差別など、さまざまなかたちの差別が含まれる。年齢や障害の有無も、それらが外見から判断されがちである以上はルッキズムと無縁ではない。』
 (P226、鈴木崇志「現れる他者との向き合い方」より。出典註記略)

「見た目」というのは、単なる「物理的差異」の問題ではない。「物理的差異に対する価値づけ」の問題であるから難しい。
要は「頭の中」の問題であり、「思考」あるいは「感覚」の問題であるからこそ、「それは間違いだ」と評価される以前に、常にすでにそれは「為されているもの」なので、その「為されたもの」を無かったことにはできないし、たいがいは「為さないでいる」「為さないようにする」というようなこと(理性によるコントロール)は、きわめて困難なのである。

しかし、だからと言って「仕方がない」では済まされない。

同様に、本誌の特集記事を読んで「スッキリした解答が与えられない」と注文をつけているだけでは、ダメなのだ。その読者が、ダメだということである。

本誌今号の特集タイトルが「ルッキズム」ではなく「ルッキズムを考える」となっているのは、今のところ「ルッキズム」の(丸ごとの)解決など、とうてい不可能だと認識されているからで、だから「考えなければならない」ということなのだ。
そして、その難問について「考えるべき主体」とは、特集原稿執筆者たちだけではなく、今号を読んだ読者を含む、すべての人なのである。

さて、あなたは「ルッキズム」を定義し、その解決案を提示できるだろうか?

無論、「不可能だ」とか「出来っこない。考えるだけ無駄だ」などというのは、解答になっていないし、社会人としての責めを果たしていない。一一そういうことになるのである。


(2022年2月12日)

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3008:2022/02/23(水) 22:57:53
また、つまらぬものを斬ってしまった…。:ネトウヨ「照ZO」さんの憤死
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 また、つまらぬものを斬ってしまった…。:ネトウヨ「照ZO」さんの憤死

 初出:2022年2月13日「note記事」

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昨日(2022年2月12日)ひさしぶりに、飛んで火にいる冬の虫ケラたるネトウヨから、私の記事にコメントがあったので、相手になってあげました。

小森田秋夫『日本学術会議会員の任命拒否 何が問題か』(花伝社)のレビュー「愚かな王と〈賢い道化〉:日本学術会議論」のコメント欄です。

ネトウヨというのは、自民党という「勝ち馬に乗るしかない負け犬」政党の支持者だからこそ、「日本学術会議問題」では、日本学術会議を誹謗したがるのでしょうが、もちろん、それだけではなく、彼らのカリスマ・安倍晋三がそうであったように、なにより彼らには「知的コンプレックス(劣等感)」があるからこそ、社会的に認められた「知識人」が嫌いなのです。
またそれでいて、百田尚樹とか櫻井よしことかいった、エセ保守雑誌『諸君!』『正論』『HANADA』などに登場するような「三流知識人」は好きなんですよね。雑誌自体は読まない人が大半でも。

さて、今回コメントをくれた「照ZO」さんは、自己紹介文で、自身を「ネトウヨ」だと認めています。

『今や完全なるnote民ですなwww ドーモ!ネトウヨですwww #最近オカルト話出来て無いすね #因みに反カルトです #オカルトからオの字を取り外す様な行為や言動や思考や思想は許さない派 #Twitter時代から誰もブロックしない事をポリシーとしてます #反ポリコレ #反リベラル』

(※ 「照ZO」のトップページ画像)

とこんな感じですが、わざわざ名乗るまでもなく、どこから見ても典型的な「ネトウヨ」です。

アイコンは、有名なホモ漫画のキャラクターとチェ・ゲバラの有名な画像をかけ合わせたもの。もちろん、どこかからの拝借でしょうが、これはネトウヨ特有の「同性愛者差別」と「反左翼」を表したもの(あるいは、露呈したもの)でしょう。

紹介文に、やたらと「www」と「草」を生やすのも、高齢者ネトウヨの特徴。私と同世代か、もしかすると年上かもしれません。
下にご紹介したコメント欄でのやり取りでも「年齢」について突っ込んでみましたが「無回答」。やっぱり、高齢者なんですね。下手な嘘をついて、墓穴を掘りたくなかったんでしょう。
ものの本によると、カネにもならないのに、今も活動的なネトウヨというのは「2チャンネル」(現在は「5チャンネル」)の時代から活動している、他に芸のない高齢者が多いそうです。

この自己紹介文によると「照ZO」さんは『オカルト』がお好きなようですね。さもありなんで、ネトウヨというのは「被害者意識」が強いので、「オカルト」や「陰謀論」に惹かれやすい。
トランプ前大統領を支持する「Qアノン」も、「ゲーム設定の陰謀論」好きという、知的レベルが低くく、それなのに政治参加によるエンパワーメントを求める、世間の狭いオタクです。

ちなみに、「照ZO」さんは『反カルト』だと主張していますが、これは「ネトウヨ」が「カルトの一種」と言って良いくらいに近いものだからこそ、ことさらに、そう言わなければ気が済まないといったところ(近親憎悪)でしょう。要は「目くそ鼻くそを嗤う」というやつです。
そもそも『オカルトからオの字を取り外す様な行為や言動や思考や思想は許さない派』も何も、ネトウヨであるご自分がそれそのものなのに、否定さえすれば、他人もそう思ってくれると考えているところが、いかにも自己相対化のできない、頭の悪さの証。

『Twitter時代から誰もブロックしない事をポリシーとしてます』というのも、馬鹿丸出しですね。そもそも、自分が他人に絡んでブロックされ、それで「勝った」とか思っている、幼稚な人間ではないかぎり、こんな馬鹿なこと、わざわざ公言したりはしません。もう(たぶん)六十代か七十代なのに、頭の中は「小学生」並み。しかも、ボケて退化したのではなく、小学生レベルから進歩成長しなかった人だということです。

『#反ポリコレ #反リベラル』これも、わかりやすく「ネトウヨ」ですが、言うまでもなく「ポリコレ」の意義など知らず、とにかく「弱者・少数者を思いやって、言葉づかいに気をつけよう」とうるさく言われるのが嫌だという、幼稚な反発から、知ったかぶりで『反ポリコレ』とか言っているだけ。喩えて言えば、親からうるさく「勉強しなさい」と言われた子供が、「勉強だけが人生かよ!」とか反論して見せるのと同レベル。それで当人は、賢いつもりなのです。

当然「反リベラル」と言っても、実質的に「リベラル」と「左翼」の区別もついていないでしょうし、そう言われたら、慌てて「WIKIpedia」を検索して、知ったかぶりをするのが関の山でしょう。知的に幼稚で、気の散りやすいネトウヨには、物事を根本から考えてみるということができないのです。
自覚はないでしょうが、一種の知的障害かもしれませんので、専門医への相談をお薦めしたいと思います。

このように、ネトウヨというのは「知ったかぶり」で「賢ぶって」見せるのですが、本質的には、自分が「頭が悪くて、これといって取り柄のない凡人」であることを知っていますし、実生活ではパッとしない人たちなんですね。だからこそ、ネット上では、やたらに「www」などと「草」を生やして、「余裕があるフリ」を誇示するのです。

しかし、「賢いフリ」は出来ても、自分が「賢いという証明」は、(能力が無いから)絶対にできない。
ネトウヨの言説がどれも似たり寄ったりなのは、彼ら個人には思考能力がなく(弱く)、その点で個性もないから、仲間内での「エコーチャンバー」による低レベルで偏狭な言説を、自分の意見だと思い込んで、オウムのように語るしかないからです。

そんなわけで、典型的な高齢者ネトウヨ「照ZO」さんとのやり取りは、前記のとおり、拙レビュー「愚かな王と〈賢い道化〉:日本学術会議論」のコメント欄でご覧いただけますが、記録として、下にも画像で収録しておきましたので、どうぞ、ご笑読ください。

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(※ コメント欄画像)

(2022年2月13日)

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3009:2022/02/23(水) 22:59:38
寄る辺なき〈世界の縁〉に立つ:『ビーンク&ロサ』論 一一書評:模造クリスタル『ビーンク&ロサ』
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 寄る辺なき〈世界の縁〉に立つ:『ビーンク&ロサ』論

 書評:模造クリスタル『ビーンク&ロサ』(イーストプレス)

 初出:2022年2月14日「note記事」

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『スペクトラルウィザード』に続いて、模造クリスタルの第1著作たる『ビーンク&ロサ』を読んだ。
この作家は、絵柄の可愛らしさに似ず、とても「文学的」だ。ここで言う「文学的」とは、「内面性の重視」ということである。

したがって、『スペクトラルウィザード』(の、特に第2巻「最強の魔法をめぐる冒険」)にあったような「物語らしい物語」を本作に求めると、見当違いの期待はずれに終わってしまうだろう。
と言うのも、『スペクトラルウィザード』のレビューでも指摘したことだが、『スペクトラルウィザード』であれ本作であれ、模造クリスタルの主人公たちは、その物語の「設定」世界からは「浮いた存在」であり、その物語世界においては、ある意味で「模造主人公」なのである(つまり、物語世界の方が「模造世界」だとも言えるのだが、要は、どちらを基準とするか、でしかない)。

そして、こうした特徴が(実際の制作時期は詳らかではないものの)第1著作である本作にはとてもよく出ており、本作における「物語的設定世界」たる「人類対怪人」の物語は、主人公たるビーンクとロサにとっては、ほとんどどうでもいいような「背景」と化している。

したがって、その後の『スペクトラルウィザード』において、第1巻では「物語性」が薄かったのに、第2巻で大きく物語が動き出したのは、作者がファンの要請に従って、意識的に物語性を強めたのだと理解していいだろう。言い換えれば、著者・模造クリスタルの本領は、実のところ、そうした「物語らしい物語」性にではなく、むしろ、他の登場人物たちが当たり前に生きている「物語世界」に安住できない、「主人公たちの孤独」の側にあると見るべきなのではないだろうか。

このような観点からすると、本作の「背景世界」が「背景のための背景」として、どうにも緊張感を欠いている理由が、素直に理解できる。
基本的に、そうした「背景世界」の方に住んでいる登場人物たちは、主人公たちとは「違う世界の住人」であり、主人公たちの孤独を癒すことが、どうしてもできない存在なのだ。また、そうだからこそ、主人公たちの孤独は、あまりにも生々しく、救いのないものとして、読者の胸を抉るのであろう。

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本作で、私にとって最も印象的だったのは、少年ビーンクが、怪人仲間との仕事の打ち合わせに行くために、同居人である年下の少女ロサと一緒に、電車で出かけるエピソードだ。
行く先を知るビーンクにロサがついていったところ、結局、目的の駅にはたどり着かず、終点の駅に行き着いてしまう。家を出るまでは、やけに自信満々だったビーングだが、そうした自信あり気なそぶりが、もともと鬱ぎみのビーンクには不似合いであったから、この結果は、ロサにとっては予感的中で「やっぱり」という感じだったろう。

終点駅に降り立ったビーンクは、自分のダメさにすっかり落ち込んでしまい、ホームのベンチに座り、「もう家には帰れん…」「ここに骨をうずめる…」などと言って、頭を抱えてしまう。
しかし、そうしていても埒はあかないし、打ち合わせ場所にいけないので、ロサは「反対の電車に乗るのです、ビーンク」「恥ずかしがらずに駅員にも聞くのです」「ここが目的地でない以上、引き返す以外、道はありません」と、ごく真っ当な助言をして励まし、ビーンクもなんとかベンチから腰を上げ、反対の電車に乗って、目的地に向かうことになる。一一いわば、それだけのエピソードだ。

ここには、物語らしい物語はない。ただ、ビーンクの世界に対する「恐れと不安」の深さだけが伝わってくる。彼にとって電車は、単なる「目的地までの移動手段」なのではなく、「自分の意思にかかわりなく、自分をどこかへと無理矢理に運び去る暴力的な機械」なのだ。

無論、ビーンクだって、頭(理性)では、電車が「目的地までの移動手段」でしかなく、小学生だって平気で乗りこなせるものでしかないことくらいはわかっている。
だが、理屈ではそうでも、彼には電車が「自分の意思にかかわりなく、自分をどこかへと無理矢理に運び去る暴力的な機械」のような「脅威」に感じられ、それに連れ去られていった場所は「二度と戻れぬ放擲の地」のようにしか感じられない。だから彼は、その実感に即して「もう家には帰れん…」「ここに骨をうずめる…」など口走ってしまうのだ。
彼が駅員に、目的地の駅を尋ねることさえできないのは、駅員が「不気味な鉄道の一部」として、よそよそしい存在だと感じられているからだろう。

しかし、そんなビーンクの実感が、ロサにはどうしても理解できない。ただ、ロサはなんとかしてビーンクを助けたいし、しっかりしてほしい。頑張ってほしい。誰よりもビーンク自身のためにである。だから、彼女は、懸命にビーンクを励ましながら、現実的な助言を与え、ビーンクを見守り続けるのである。

しかしながら、そんなロサの思いは、ビーンクには届き切らない。たしかにビーンクも、ロサが自分のために厳しいことを言ってくれているのだということを理解してはいる。しかし、彼の住む「恐れと不安に満ちた世界」を、ロサが理解していないことも知っている。その意味で、ロサはどこまで行っても「別の世界の住人」でしかないのだ。

つまり、ロサのビーンクに対する「こちらの世界に引き戻すことで救いたい」という心からの愛情は、虚しく空転している。それは、ビーンクの世界には届いていないのだ。そして、ロサ自身そのことを薄々感じている。だからこそ、物語の終盤で、


『ビーンクはこの春から(※ 怪人の)新人の研修があるので(※ ロサと二人で暮らしていた、廃キャンピングカーのある)ゴミ山を離れることに
 私(※ ロサ)はひとり ここに残るわけにもいかないので(※ 怪人の仲間である)シャドウクロールの実家に預けられることになりました』(P232)

となり、ロサはビーンクを見送った後、シャドウクロールの実家へ行き、シャドウクロールの両親に、実の娘が帰ってきたかのように、温かく迎え入れられる。
与えられた私室に入った途端、ロサがこれまでずっと付けていた、羊のツノの羊のツノのカチューシャを外すカットは印象的だ。それは、「親」がわりが与えられて、もはや自分が「しっかり者」の「ビーンクの保護者」である必要がなくなったことの、寂しい自覚の表れのように見える。

ロサとシャドウクレールの両親が、夕食のためにリビングでテーブルを囲んでいると、テレビに「怪人たちの大移動」というニュースが流れた。ロサはその報道映像にビーンクの姿を見かけて、思わず「あ、今… ビーンクがうつった…」と小さく漏らす。
それを聞いたシャドウクロールの父親が「え…誰?」と聞きかえすと、ロサは、こんなふうに、その思いを語るともなく語るのだ。


『ビーンクっていうのは…
 なんか…毎日花に水をやったりしているような人で…

 数字とカタカナの区別もつかない…

 私のお兄さん…

 もう二度と会えない…

 たぶん私は捨てられちゃったんだ…』(P245)

そう言って、涙ぐむ。

ビーングといる時は、しっかり者で、頼りないビーングに腹を立ててでもいるかのように口うるさく叱咤していたロサが、ビーンクと離れた途端に「寄る辺ない孤独な少女」になってしまう。
そして、研修に行っただけのはずなのに、つまり、いずれは再開できるはずに、なぜか自分はビーンクに捨てられたのだと感じ、もう二度と会えないのだと感じている。一一これはどうしたことなのだろうか。

結局のところこれは、ロサのビーンクに対する愛情が、どこまで行っても届いていなかったことを、彼女自身が痛いほど感じていたということだろう。
「私がビーンクを必要だと思うほどには、ビーンクは私を必要とはしていない。ビーンクにとっては、別に私でなくてもかまわないのだ」一一そんなふうに感じており、その感情に蓋をしていたからこそ、実際にビーンクから引き離されてしまうと、「ああ、やっぱり、こうなった。もうおしまいなんだ」と感じたのではないだろうか。
そして、この感じ方は、目的地に着けず、終点駅に降り立ったビーンクの絶望と、同種のものなのではないか。

同じような「恐怖と不安」。たぶんビーンクは「一人で置いてけぼりにされたような、孤独と不安」、そしてロサは「置いてけぼりにされそうな、孤独と不安」を抱えていたのではないか。
だからこそ、ロサはビーンクに惹かれ、ビーンクの力になることで一緒に居られると、そう思ったのではないか。だが、その表には出せないロサの孤独を、ビーンクはついに理解することはできなかった。彼はすでに「一人の世界」に生きていたからである。

二人の住んでいる世界は、似てはいるけれども、結局は違っていた。別物だった。
だから、ロサは、ビーンクに「置いていかれた=捨てられた」と感じたのではないだろうか。

実は、私も幼い頃、ビーンクと似たような経験をしたことがある。
小学校の中学年くらいだった頃、私は小児性慢性中耳炎のため、電車で一駅の隣町にある耳鼻科医院に通っていた。幼い頃から親に連れられて何度も通っていたので、その頃には一人で電車に乗って通ったのだ。
しかしある時、帰りに電車を乗り誤り、急行列車に乗ってしまった。
いつものように、自分の住む町の駅に停まると思っていたら、電車はそのまま駅を通り過ぎてしまい、私は半ばパニックになった。自分の駅よりの先の方向には、一人で電車に乗って行ったことがなかったからだ。降りるべき駅を越え、さらに見知った沿線の町が通り過ぎてゆき、やがて知らない街に入っていく。早く降りたい。早く降りて、引き返したいと焦っているのだが、電車はいくつもの駅を素通りして、進んでいく。「いったい、どこまで連れていかれるのだろう」。一一この時の、あまりにも強烈な「寄る辺ない不安感」があったからこそ、私はビーンクの気持ちが、いくらかは理解できたのだと思う。

降りるべき駅を通過し、見知った街並みが流れていくのを車窓から見たとき、その町並みは、どこか私によそよそしかった。私を助けてはくれなかった。あるいは、受け入れを拒否されてしまった。一一そんな感じだっただろうか。

この時の私の感じたものにしろ、ビーンクやロサが感じた「寄る辺なさ」にしろ、それは所詮「実体のないもの」でしかないとは言えるだろう。だが、そうした理解では、この「寄る辺なさ」を解消することはできない。それはなぜか。

もしかすると、この「寄る辺なさ」こそが、この世界の「実相」であり、私たちが日常的に感じている「安定した世界」とは、もしかすると「生きるために設定された、心理的な虚構世界」なのかもしれない。そんな不安が残るからだ。
ハイデガーが「私たちは通常、日常の中に「頽落」した状態に生きている。真の世界に直面することを避けて、手垢にまみれた繭の中で生きている」といったようなことを言ってはいなかったか。

このハイデガー理解は、まったくの間違いかもしれないが、しかし、いずれにしろ私たちの見ている「日常」が、いかに「幻想としての安定感」に支えられたものでしかないかというのは、事故や災害などの突発的な悲劇経験を考えれば、あながち「考えすぎの誤認」とも言えないだろう。

つまり、すべての人は、実のところ、ビーンクとロサ同様に、個々別々の世界に住んでいながら、同じ「一つの世界」に住んでいるという「幻想」を持つことで生きている。この「日常」がそのまま続くという「幻想」の中で安住している。
しかし、そうした「幻想」構成能力を失った時、私たちはこの「世界」を、「背景世界」のようなものとして、よそよそしく感じるのではないか。そして、その時に感じたものの方が、むしろ「むき出しの現実世界」に近いのではないか。

ビーンクとロサが感じている「寄る辺なさ」の闇は、あまりにも深く、その意味で恐ろしい。
私たちは、できればその「深淵」を覗き込みたくはない。

けれども、その縁に立っているビーンクとロサを救うには、やはり一度は、自分もその現実の縁に立たねばならないのではないだろうか。


(2022年2月14日)

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3010:2022/02/23(水) 23:02:02
薄暗くも懐かしい〈異界〉の入り口:藤田新策の世界 一一書評:『藤田新策作品集 STORIES』
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 薄暗くも懐かしい〈異界〉の入り口:藤田新策の世界


 書評:『藤田新策作品集 STORIES』(玄光社)

 初出:2022年2月15日「note記事」

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『 藤田新策さんの絵は物語であり、幻想世界である。
  観た者の想像を何処までも掻き立てる。
  唯一無二の作品でありながら、
  これほど小説と相性のいい画家はいない。

           ゲームクリエーター
                小島秀夫  』


帯に剃られた推薦文である。
この推薦文のポイントは、「物語」「幻想世界」「想像を掻き立てる」「唯一無二」「小説と相性がいい」ということになる。

画家自身の「まえがき」では、特に「物語」という点が強調されている。現代の日本では「物」ではなく「物語」が求められている、と。
そして画家は、本書に収められた「装画」を描くにあたって、原作を読み込み、その世界を想像しながら、その『物語世界を表現するように心がけています。』としている。

また、書き下ろしエッセイ「スティーブン・キング」では、キング作品の舞台たるアメリカの田舎町を描くにあたっての基本姿勢を、次のように語っている。

『 キング作品は地方のスモール・タウンを舞台にしたものがほとんどなのですが、これをイメージするのに18歳まで暮らしていた静岡で見た風景や得た体験と記憶が大いに役立ちました。
(中略)
資料を見て描くことも出来るかもしれませんが、空気感や水に浸かったとき足から感じる冷たさ等、体験から得た感覚と記憶にまさるものはありません。』

つまり、画家が装画を描くにあたって大切にしているのは、小説の「作品世界」であり「物語」であると同時に、自身の「体験」に裏付けられた「空気」や「感覚」といった、「個人的な実感」だったのだ。

だからこそ、藤田新策の絵は、藤田の個性を反映した「唯一無二」の作品でありながら、しかし、どんな作品とも無理なく溶け合うことができるのであろう。無理に作品世界に合わせようとすれば、逆に「似せきれなかった」部分に、読者は違和感を覚えるが、藤田の描く世界は「普遍的な実感」に支えられているから、作り物に対する違和感といったものとは無縁であり得たのである。

藤田の絵の魅力は、そこから入っていく世界が、「スティーブン・キングの世界」でもなければ「江戸川乱歩の世界」でもない点にあろう。
誰某の「作家固有の世界」ではなく、普遍的な「読者のために開かれた異界」であり、「薄暗くも懐かしい、秘密めいた場所」の「入り口」なのである。


(2022年2月15日)

 ○ ○ ○

https://note.com/nenkandokusyojin/

3011オロカメン:2022/03/01(火) 16:18:09
◆レビュー.《模造クリスタル『模造クリスタル作品集・スターイーター』》
 アレクセイさん、こんっちゃーーーっす!\(^o^)/
 オロカメンでございます(´ω`)

 今年に入ってから何気なく読んだ澤田直『新・サルトル講義』がけっこう面白かったのでこれに乗じて一気にサルトルの本も読んじゃおうかといつも通りにサルトル解説本を4〜5冊ほど読んでから前期サルトル思想の主著『存在と無』を読み始めたら全三巻あるうちの1巻目読むだけで半月以上かかってしまって今年も読書冊数が大幅に減りそうな予感が今からしているオロカメンでございます……(;´Д`)

 さて、それはそうとアレクセイさんからメールでお知らせ頂いた模造クリスタル先生の新刊!『模造クリスタル作品集・スターイーター』、ぼくもゲットして読みましたよ!
 もぞクリ先生の本は近くの書店では扱ってないのでご連絡頂かなかったら危うく見逃してる所でした……(^^;)アブナイアブナイ

 で、今回はその模造クリスタル先生のマンガ短編集『スターイーター』のレビューを書かせて頂きました!
 アレクセイさんもnoteのほうで既にレビューを上げてらっしゃいますが、こちらのほうでは僭越ながらぼくのほうのレビューを先に書きこませて頂きますよ♪

 ってな事でさっそく以下ご笑覧いただきますと幸いですm(_ _)m

※ちなみに、今回も本作の内容についてある程度のネタバレがありますので、模造クリスタル『模造クリスタル作品集・スターイーター』をお読みになっていない方は、その点をご了承のうえご覧になって頂ければと思いますm(_ _)m

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 ぼくは本書『模造クリスタル作品集・スターイーター』を読んで、しばらくのあいだこの作品をどう評価するべきなのか考えあぐねていた。

 ぼくはこれまで模造クリスタルを『スペクトラルウィザード』シリーズや『ビーンク&ロサ』のように「悲劇を描く作家」だと思っていたので、本書のように明確に「ハッピーエンド」とも「バッドエンド」とも悲劇とも喜劇ともつかない話ばかりが来たというのはなかなか意外だったのだ。

 この作品集は『スペクトラルウィザード』の胸の内をひっかき回してくるような感性の物語とも違えば、『ビーンク&ロサ』の人を食ったような寓話や挿話の数々を入れてくる挑発的なスタイルとも違っている。

 本書収録の『カウルドロンバブル毒物店』や『ネムルテインの冒険』を見ると一見、ごく普通のファンタジー作品のようにも思える。
 しかし、最近マンガ業界にもアニメ業界にもあふれかえって飽和状態になってしまっている安易なファンタジーRPGパロディ作品とは確実に違う、このざわざわとした読後感は何だろうというのがぼくの中での大きな「謎」で、それを解決しない事には本作の評価というのは下せないと思ったのである。

 この謎を解く重要なキーとなったのは本書の3つめ短編『ザークのダンジョン』であった。

 ぼくがこの短編集の中で最も好きな一コマで、ヒリヒリとするような、悲しみとも痛みとも不安ともつかない、途方に暮れてしまうような寄る辺なき感覚を覚えたのがP.201の最初のコマだった。

 「驚くべきことに地上では本は大して役に立たない紙切れだった」

 『ザークのダンジョン』で主人公「グウナ」は、人から「ザーク」と呼ばれる地下に住むアリのモンスターの少女だった。

 グウナはずっと地下ダンジョンで生活しており、彼女の好きな本の中に出てくる地表の世界に憧れを募らせていた。

 そんなある日、グウナはダンジョンに迷い込んできた人間の冒険者から地表への地図を貰い、それを頼りにして遂に地表に出るのである。
 彼女が初めて地表に出た時の一コマは非常に印象的だ。

 ――「空だ!上に何もない!」

 地表に出たとたん、コマの枠線は消え去ってしまう。
 ここには、今まで彼女の行動を制約していた壁も天井もない、どこまでも広がる空間があったのだ。
 だが、枠線を失ってしまったコマは、どこかふわふわとしていて、まるで夢の中のように掴み処のないような、不安定な感じがしないでもない。

 彼女は地下から一生懸命持ってきた数冊の本を地表へ上げる。

 するとしばらくして、彼女は自分が一生懸命に持ってきたこれらの本が、地表では全く価値のないものだと知る事となる。

 「驚くべきことに地上では本は大して役に立たない紙切れだった」

 いまいち表情の読み取れないザークだが、その時のグウナは呆然としているようでもあった。
 そこからの彼女の内面は推測するよりない、が……。

 グウナにとって本とは、自分に夢と希望を与えてくれる「使用価値」があり、それを物とも交換できる貨幣的な価値も備わる「交換価値」もある、特別な価値を持つものであった。

 グウナにとって本は、自分の生活の中心となって存在している特別なものだったのだ。
 グウナが数冊の本を大事に抱え、一生懸命地表にまで持ってきたのは、それが地表でも同じように「特別な価値」があると信じていたからだった。

 だが、彼女が自分の人生の中で最も特別な価値を感じていた本は、地表では「紙切れ」でしかなかった。

 希望をもって訪れた地で最初に気づいたのは、今まで自分が重要だと思っていた物の価値を根底から否定されたという現実だったのである。

 その事を知った彼女は何をしただろうか?

 本の世界に書いてあった森だ!小川だ!草原だ!と心躍らせて広大なる世界に足を踏み出す……となれば、ごくごく普通の少年マンガ的なストーリーで、間違いなく「ハッピーエンド」と呼べる終わり方になっていただろう。
 そのように「書を捨て街へ出よう」だったならば、まだ希望の残る終わり方だったかもしれない。

 だが、彼女はいったん自分の好きな本の世界に戻るのである。

 グウナは自分の持ってきた本の一冊を手に取り「ああ……これは私が一番好きな本。小川を超えて緑の森に向かう少年の物語だ……」と独白する。
 グウナのすぐ目の前には、彼女があこがれた現実の小川や森が広がっているのに、その目の前で彼女は森へ向かって冒険する「物語」の世界に没頭するのである。

 ぼくは、このグウナの「弱々しさ」をひしひしと感じて、悲しくて仕方なくなるのだ。

 本が地表では「紙切れ」でしかなかった事を知ったこの時のグウナは、この急激な価値の転換に、自分の感情や思考がついていけずにキャパオーバーになってしまっているように見える。

 全くの未知の価値観が支配する世界。自分が急に一人ぼっちになってしまったかのような心細さ。この寄る辺なき不安感。

 グウナが現実の小川や森を前にして「小川を超えて緑の森に向かう少年の物語」に戻ったのは、かつての自分の安住の地であった「ダンジョンの世界の価値観」に戻って心を落ち着かせようとしたのではないだろうか。

 例えるならば、全く価値観も言語も違った外国に一人で移住してきた少女が、心細くなって故郷の日本で大好きだったマンガを読み返して心を落ち着かせようとするような感覚に似ているかもしれない。

 安住の地を去り、新しい生活に身を投じようとする時の気持ちというものは「わくわくする」とも「不安だ」とも言える両義的な感覚だと言えるのかもしれない。

 これは、安定的な生活や安定的な関係性に訪れる変化には付いて回る両義性ではないかと思う。

 例えば、「卒業」などはそういったものの代表例だろう。
 学園生活という安定的な生活サイクルが終了するという事は、自分を縛っていた決まりが無くなって生活を一新できる「解放感」を意味しているポジティブなものであると同時に、それまで仲良くしてきた仲間や慣れ親しんできた校舎やいつも楽しみにしていた年間行事との「別れ」を意味しているネガティブなものでもある。
 「卒業」によって人は一つ成長を遂げるかもしれないが、それによって何かしら「喪失」しているものもあるのである。

 「安定的な人間の関係性」「安定的な日常サイクル」「安定的な仕事」……これらに訪れる変化というものは、いずれも成長と喪失が隣り合わせで、不安とワクワク感がないまぜとなった複雑な感情を喚起させる。

 本書の4つの物語には、こういった「安定的な関係性に訪れる変化」によって、登場人物たちは何かを「喪失」する……という特徴がないだろうか?
 ……これは、本書だけでなく『スペクトラルウィザード』シリーズや『ビーンク&ロサ』にも同様にみられる構造であった。

 という事でぼくは今回、本書『模造クリスタル作品集・スターイーター』の4つの短編の構造を《「安定的な関係性に訪れる変化」によって何かを「喪失」する物語》であるという視点で読み解いてみようと思ったわけである。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

◆『カウルドロンバブル毒物店』

 この短編では二段階の「安定的な関係性に訪れる変化」が発生する。

 最初の変化は「ゴーレムの召喚」である。
 閑古鳥のなく店の状況を変えるために、このお手伝いゴーレム「インゴット」は召喚される。

 この段階で訪れる変化には、店の主人・ウェザリンの生活を活性化させる事が期待されるワクワク感を伴っていた。
 だが、この期待は「役立たずのゴーレム」によって挫折させられる。
 これによって失われたものは、ウェザリンの静かなお店でお菓子を食べるだけの静的で閉塞的な生活である。

 そして二段階目の「安定的な関係性に訪れる変化」は、インゴットの消失と再召喚である。
 これによって失われたものは、インゴットの記憶であった。

 しかし、インゴットがいったん消失し、その記憶がなくなってしまってからウェザリンが気づいた事は、あのゴーレムとのドタバタした日常は「静かなお店でお菓子を食べるだけの静かな生活が失われてしまった」のではなく、その実、そのドタバタした毎日も新たなる掛け替えのない「安定的な関係性」だったという事だった。

 この2回の「安定的な関係性に訪れる変化」は、いずれも「インゴットの召喚」によって訪れているのである。

 この短編で反復される「安定的な関係性に訪れる変化=インゴットの召喚」では、一段階目と二段階目で、いずれもウェザリンが違った受け止め方をするのが印象深いし、そこに作者の描きたかったものがあったのではないかとも思う。

 一段階目では「ワクワク感とその失望」があった。
 二段階目では喪失感を抱くが、その喪失感によってウェザリンがインゴットの存在を大切なものだと実感するのである。

 ウェザリンはインゴットとの関係を再構築するために、記憶を失う前にインゴットに言った「あんたとは話が合いそうね…」という言葉を、ラストにもう一度つぶやくのである。

 因みに、ぼく的には「あーあ、私は一生懸命やってるのにどうしてうまくいかないのかしら」と嘆くウェザリンは、仲間のために一生懸命に頑張っているのにどんどんと自らが不幸になっていく事に嘆く『スペクトラルウィザード』の魔女・スペクトラと同じ遺伝子を持ったキャラクターなのだと感じる。
 グランマから仕事の事を尋ねられ「なんだかいろいろあって自信なくしちゃった。昔は好きだったのに今ではよくわからないみたいな……」というウェザリンの嘆きは、昔は「今よりずっと元気」で「生活も生き生きしていた」のだが「最近はどうにも体が重くて力が出ない」というスペクトラの嘆きと同じテーマを生きているキャラクターなのだろうと思う。
 この共通性は、やはり模造クリスタルにおける好みが反映されているのであろう。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

◆『スターイーター』

 本作はぼく的には最も「模造クリスタルらしい作品」だと思った一編である。

 ナイーブで傷つきやすい内面を持った少女。
 可愛らしい見た目なのに目に光はなく、世の中の全てが彼女を傷つけるようでもある。
 世間や世の中といったものからの乖離感。
 寄る辺なき孤独感。
 「普通の人」からは否応なく浮いてしまう、この人生の行き辛さ。
 ――そういった彼女の悲しみというのは、やはり『スペクトラルウィザード』や『ビーンク&ロサ』にも共通する特徴でもあると思う

 彼女は物語の冒頭から既に葛藤を始めている。
 「私は変わるの……」と決意し、その決意も数瞬後には「やっぱり無理なの……」と挫けてしまいそうになる。
 彼女は水無月さんという知り合いと(おそらく初めて)会う事で「変わる」事が出来ると考えている。しかし、水無月さんから「会うなんてやっぱりできないよ……」と断りの電話が来て、その決意は結局挫折に終わる。

 きりんちゃんは落ち込みながらも「これでよかったの……これでまた何もかももとどおりなの……」と独白する。

 本編における「安定的な関係性/安定的な状況」というのは、きりんちゃんが自分の殻に引きこもり、根暗な自分のまま「変わらないでいる」という事なのである。

 そんなきりんちゃんにおける「安定的な関係性」に訪れる変化というのは不安ちゃんという友人が出来たという事であった。
 それは、たまたま知り合いになったアイドル・アリカちゃんから言われた「落ち込んでいる時にこそ他の落ち込んでいる人をはげましなさい」という助言に従った、小さな一歩であった。

 しかし、それによって彼女の根暗な性格は変わらなかった、が、確実に彼女の「安定的な関係性」は変化を起こしていたのである。

 ガミガミ言ってはくるが、不安ちゃんは確実に、きりんちゃんに声をかけて話してくれるようになった。
 彼女は内心、はげまそうと声をかけてくれたきりんちゃんに感謝していたのである(その証拠に、のちに彼女はきりんちゃんに「はげましてくれたお礼」としておまじないをかける事となる)。

 彼女はすぐに諦め、気落ちしてしまうが、彼女が「変わろう」と思って行った小さな行動は、何かしらの変化を起こしていた。

 そんな彼女の少しずつの「変化」によって、最終的に「喪失」したものは何だったのか?

 彼女は友達の不安ちゃんとお別れする事となる。

 月橋きりんちゃんにとって「安定的な関係性に訪れる変化」とは、勇気を出して明るく振舞い、落ち込んでいる人を励ます事であった。それによって得たものは「不安ちゃん」という友人であった。

 ただし、新たに友人を得るという事は、その友人を失う可能性をも得る事でもあったのだ。
 きりんちゃんが最終的に「喪失」したものは、その「不安ちゃん」だった。

 逆に、不安ちゃんにとっても「安定的な関係性に訪れる変化」というものはあった。
 それは魔女の才能を開花させ、人里を離れて暮らす事である。
 不安ちゃんは人里を離れて暮らす事によって「人から嫌われる事」が減って、彼女の感じる「寒さ」から解放される。
 それによって「喪失」したものは友人であった「きりんちゃん」であった。

 不安ちゃんは「人から嫌われる/人からの悪意を感じる」機会をなくすために人付き合いを絶つことにする。
 きりんちゃんは、友人ができる事で初めて友人から嫌われる可能性も友人とお別れする可能性も出てくるのだと知る。

 不安ちゃんにとっての「変化」は、人から離れる事で「人から嫌われる可能性」を避ける事であった。
 きりんちゃんにとっての「変化」は、人に近づく事で「人から嫌われる可能性」をも自らに引き受ける事になるという事であった。

 こうして見てみると、彼女二人の「変化」は、表裏一体の関係にあったようにも思える。

 学校でのきりんちゃんは、また再び根暗な一人ぼっちの女の子に戻ってしまったようである。
 だが、その「喪失」は必ずしもネガティブなものばかりではなかったと思う。
 きりんちゃんの元から「友人」は去ってしまったが「友情」はその手元に残るのだから。

 「おちこんだときにはほかの人をはげましなさい。それでもおちこんだときはスターイーターがあなたをはげます」



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

◆『ネムルテインの冒険』

 所々に詩が入ったり、「やみくも谷」や「嘆きの地底湖」などどこか象徴的とも思えるような地名が出てきたり、と何かを象徴しているかのような寓意的な話なので、何か深い意味があるのではないかと勘繰りたくなるような話である。

 だが、ぼくが思うに本作は本書の中で最もシンプルな構造の話なのではないかと思うのだ。

 これまで説明してきた3篇の短編は全て《「安定的な関係性に訪れる変化」によって登場人物たちが何かを「喪失」する物語》であったのに対して、本作は「安定的な関係性に訪れる変化」を拒絶する物語なのである。

 本作で「安定的な関係性に訪れる変化」を拒絶しているのは龍のネムルテインである。
 本書の表紙の絵を見ても、本作の「主人公」となるべき焦点が当たっているキャラクターは「勇者サグテ」ではなく、龍のネムルテインである事は明白である。

 彼女はサグテに懐いて「どこまでも行こう!二人で地球の反対側まで!」と、いつまでもどこまでも冒険がしたいと希望するのである。

 彼女のこの思いはやや一方的で、しばしばサグテの思いも無視して暴走する。
 それどころか、サグテの健康が思わしくなくなったとしても、「サグテとの冒険」が続けられるのならばそんな事はあまり気にならないとさえ思っているふしが見られるほどなのである。

 サグテはこの冒険の目的はグレーワイバーン・キリの救出だと言うが、ネムルテインはそれを不満に思うのである。
 「ねえその子が見つかったらさ、私との冒険はどうなるの」と彼女は明確な不満を漏らすのだ。

 普通の冒険は、何かの目的を達するための手段であるにすぎない。
 だがネムルテインにとって冒険は、それ自体が目的になってしまっているのである。何故冒険するのか、冒険するために冒険するのである。言わば冒険する事が自己目的化してしまっているのがネムルテインというキャラクターであった。

 彼女のこの不満は「サグテの冒険の目的」が達する――キリとの再会のシーンで爆発する。
 彼女はサグテが救出したワイバーン・キリに襲い掛かるのである。

 キリはすぐに「なるほど。連れてきたんじゃないのね。この荒地で……あなたの最も恐れたものに出会ったというわけね……」とネムルテインの意図に気づいて反撃し、彼女を制圧する。

 ネムルテインは「どうして私が冒険しちゃいけないの……?これじゃ……これじゃ私の冒険が終わっちゃう……」と嘆く。

 ネムルテインが望んだものは、永遠に終わらない「安定的な関係性」だったのである。
 永遠にゴールにつかない冒険。
 心躍るような冒険が、未来永劫延々と続く、冒険のための冒険。

 ネムルテインは「安定的な関係性に訪れる変化」によって何かしら「喪失」するものがあると分かっていたのだ。だから、彼女はその「喪失」を拒絶したのである。

 果たして、彼女の努力によって再びサグテとの冒険は続けられる事となり、物語はラストを迎える事となる。
 彼女はサグテとこの後も永遠に冒険を続けられるだろうか?
 それは、おそらくありえないのではないか。
 「永遠に変わらない状況」「永遠に変化しない生活」「永遠に変わらない関係性」というものは、現実的にはどこにも存在しない。
 無理にでも続けようとすれば、恐らくそれは「破綻」という形で悲劇的な終わり方を迎えてしまうだろう。

 だからこそ人は皆、人生の節々ですっぱりと「卒業」という事で自らの変化を迫られて生きざるをえないのである。ウェザリンも、きりんちゃんも、グウナも。

 「卒業」とは、両義的な価値のある節目なのだと言えるだろう。
 ポジティブな変化だとも言えるし、ネガティブな変化だとも言える。
 その節々で、人々は何かしらを「失って」きたのである。

 本書のラストを、このような「永遠に変わらない状況」「永遠に変化しない生活」「永遠に変わらない関係性」を夢見る主人公の物語で締めくくるというのは、非常に印象的に思える。

 このために、ぼくにはこの作品のラストの締めくくり方には「ハッピーエンド」とも「バッドエンド」ともつかない、妙にざわざわした奇妙な読後感を抱いたものである。
 この一編のために、ぼくはこの作品集の評価を決めあぐねていたと言っても過言ではない。

 しかし、ぼくは模造クリスタルの作品を読んでいてしばしば感じられるこういったざわざわした感覚が好きである。



◆<結論>◆
  編集者に提案されたアイデアや原作があるような商業出版ではなく、基本的には「自分の好む世界観/物語/テーマ」を選択できる個人誌というスタイルで描かれてきた模造クリスタルの物語世界において、このように《「安定的な関係性に訪れる変化」によって、登場人物たちが何かを「喪失」する》というモティーフが反復されるのは意図的であれ、無意識的であれ、何かしら作者の心理傾向が表れていると言って良いだろう。

 このモティーフは本書だけでなく『スペクトラルウィザード』シリーズや『ビーンク&ロサ』にも共通する構造なのである。

 ――つまり、そこに模造クリスタル個人が執着しているものがあるのではないか。

 模造クリスタルは「安定的な関係性に訪れる変化」というものに何かしら感性が働き、そこに自分なりのテーマ性を置いている作家なのではないかと思うのである。

 上にも書いたように「安定的な人間の関係性」「安定的な日常サイクル」「安定的な仕事」といったものに訪れる変化というものには、いずれも成長と喪失が隣り合わせで、不安とワクワク感がないまぜとなった複雑な感情を喚起させる。

 そして、これらは誰の人生にも何らかの節目に訪れる機会だと言えるだろう。

 「卒業」する自分がこれからどうなってしまうのだろうか?

 ある人はそれにワクワク感を抱き、希望を胸にし、無限の可能性を見るだろう。
 またある人は、自由過ぎる選択肢の中で途方に暮れ、不安定な状況に投げ出される不安におびえ、仲間たちとの別れに胸を痛めるだろう。

 だが、どちらにしても彼らは、何かを「喪失」しているのだ――というのが、模造クリスタルの作品群の深層に横たわっている感覚なのかもしれない。

 新しくて、開放的で、希望に満ちた卒業、だが、それは反面、怖くて、不安で、そして悲しくて仕方がない変化なのだ。

3012:2022/03/04(金) 13:16:32
『模造クリスタル作品集・スターイーター』をめぐって
.

★ オロカメンさま
> ◆レビュー.《模造クリスタル『模造クリスタル作品集・スターイーター』》

いつもお書き込み、ありがとうございます。

オロカメンさまも、お元気そうで何よりでございます。
読書も、健康あっての物種でございますから、くれぐれもコロナの感染予防にはご配慮下さいまし。コロナで死ななくても、まだまともに治療が受けられない状態が続きそうでございますから。

>  今年に入ってから何気なく読んだ澤田直『新・サルトル講義』がけっこう面白かったのでこれに乗じて一気にサルトルの本も読んじゃおうかといつも通りにサルトル解説本を4〜5冊ほど読んでから前期サルトル思想の主著『存在と無』を読み始めたら全三巻あるうちの1巻目読むだけで半月以上かかってしまって今年も読書冊数が大幅に減りそうな予感が今からしているオロカメンでございます……(;´Д`)

そうでございますか。私も、サルトルはしんどそうなので、ずっと敬遠しておりますが、ジュネには興味がありますので、ジュネの作品とサルトルの『聖ジュネ』だけは買ってあります。ただし、どれも読んではおりません(汗)。

>  さて、それはそうとアレクセイさんからメールでお知らせ頂いた模造クリスタル先生の新刊!『模造クリスタル作品集・スターイーター』、ぼくもゲットして読みましたよ!
 もぞクリ先生の本は近くの書店では扱ってないのでご連絡頂かなかったら危うく見逃してる所でした……(^^;)アブナイアブナイ

私も紀伊国屋書店の梅田本店に買いに行ったのですが、ざっと見ても見つからず、店員に探してもらいました。きっと部数が少なく、平台や面陳はなしで、棚に何冊か挿してあった程度だったのでございましょう。もう、すでに売り切れている可能性も十分ございますね。

未読の『深き淀みのヘドロさん』(KADOKAWA・全2巻)も、第2巻が品切れ状態であり、ブックオフ・オンライン、アマゾン中古、まんだらけのいずれも、在庫がございませんでした。
KADOKAWAだと、売れないとなかなか増刷はしないし、特にこのタイトルでは熱心なファンしか買わないでしょうから、なかなか中古市場に出ないのかもしれませんね。もしかすると、第2巻だけ、初めてkindleで読むことになるかもしれません…。

>  で、今回はその模造クリスタル先生のマンガ短編集『スターイーター』のレビューを書かせて頂きました!
>  アレクセイさんもnoteのほうで既にレビューを上げてらっしゃいますが、こちらのほうでは僭越ながらぼくのほうのレビューを先に書きこませて頂きますよ♪

ええ、「note」にアップした、私の『スターイーター』のレビューも、近々こちらに転載の予定でございますが、ひとまず、下にリンクを貼っておきたいと存じます。

他の皆様には、オロカメンさまのレビューと読み比べていただき、視点と個性の違いを感じていただければと存じます。

>  ってな事でさっそく以下ご笑覧いただきますと幸いですm(_ _)m

> ※ちなみに、今回も本作の内容についてある程度のネタバレがありますので、模造クリスタル『模造クリスタル作品集・スターイーター』をお読みになっていない方は、その点をご了承のうえご覧になって頂ければと思いますm(_ _)m


>  本書収録の『カウルドロンバブル毒物店』や『ネムルテインの冒険』を見ると一見、ごく普通のファンタジー作品のようにも思える。
>  しかし、最近マンガ業界にもアニメ業界にもあふれかえって飽和状態になってしまっている安易なファンタジーRPGパロディ作品とは確実に違う、このざわざわとした読後感は何だろうというのがぼくの中での大きな「謎」で、それを解決しない事には本作の評価というのは下せないと思ったのである。

>  この謎を解く重要なキーとなったのは本書の3つめ短編『ザークのダンジョン』であった。

オロカメンさまのレビューでまず感心したのは、私が触れられなかった「ザークのダンジョン」に注目し、憧れの地上にたどり着き、そこで自分が思っていたようには本が大切にされていないことを知った時のグウナの反応を、詳細に分析している点でございました。
正直、私はグウナの反応がいまひとつピンと来なかったのでございますが、オロカメンさまの分析は、たいへん説得力のあるものだと存じます。

そして、こうした視点から個々の作品の分析した上で、オロカメンさまは全体的な評価を、次のように語っておられます。

>  「安定的な人間の関係性」「安定的な日常サイクル」「安定的な仕事」……これらに訪れる変化というものは、いずれも成長と喪失が隣り合わせで、不安とワクワク感がないまぜとなった複雑な感情を喚起させる。

>  本書の4つの物語には、こういった「安定的な関係性に訪れる変化」によって、登場人物たちは何かを「喪失」する……という特徴がないだろうか?
>  ……これは、本書だけでなく『スペクトラルウィザード』シリーズや『ビーンク&ロサ』にも同様にみられる構造であった。

>  という事でぼくは今回、本書『模造クリスタル作品集・スターイーター』の4つの短編の構造を《「安定的な関係性に訪れる変化」によって何かを「喪失」する物語》であるという視点で読み解いてみようと思ったわけである。

《「安定的な関係性に訪れる変化」によって何かを「喪失」する物語》であるという評価も、適切なものだと存じます。
そして、オロカメンさまは、ここに、作者である模造クリスタルの世界観や個性を見出したわけであり、それは全く正しい評価だと存じます。

ただ、私の模造クリスタル評価、特に今回の作品集『スターイーター』の対する評価の、ニュアンスの違いは、たぶん私の場合は、「そこから先」を強調しているからではないか、と思いました。

つまり、「安定的な関係性に訪れる変化」によって何かを「喪失」し、しかし、何かを喪失する経験において、新たな関係性を築く勇気を得ることを学んだのではないか。いや、模造クリスタルは、そのように「考えようと望んでいる」のではないかと私は感じ、その方向性を支持するレビューを書いたのだと存じます。

・ 自己憐憫ではなく:模造クリスタルの魅力
  一一書評『スターイーター 模造クリスタル作品集』
 (https://note.com/nenkandokusyojin/n/nbae3e40dac4a

私が、このレビュー最後を、

> もちろん、困難な旅ではあろうけれど、励ましあいながら「まよえるひとの みちしるべに… 」。

> 一一作者は、そう呼びけている。

としたのは、私にとっては、模造クリスタルが「どういう作家か」ではなく、「何を望んでいるのか」ということが重要であり、それが肯定的なものであるのならば、及ばずながら、それを支援したい、ということだったのでございます。


ともあれ、多くの方に、模造クリスタルという稀有な作家の作品を知ってもらい、読んでもらいたいと存じますし、その上で、私やオロカメンさまのレビューを読んでいただければと期待いたしております。


それでは、本日はこれにして失礼いたします。


.

https://note.com/nenkandokusyojin/

3013伊殻木祝詞:2022/03/06(日) 21:39:35
どうしましょう?
 teacup.byGMOのサービスが終わるようですね。
 今後どうしましょう?

3014:2022/03/07(月) 19:25:39
申し訳ありませんが、閉鎖を決めました。ご理解ください。
.

★ 伊殻木祝詞さま
> どうしましょう?

>  teacup.byGMOのサービスが終わるようですね。
>  今後どうしましょう?

次の記事「電子掲示板「アレクセイの花園」が本年8月1日で、二十余年の歴史に幕を閉じます。(1)」に詳しく記しましたとおり、掲示板のサービス停止に合わせて、ここ「アレクセイの花園」を閉鎖することにいたしました。どうぞ、ご理解くださいまし。

こちらを閉じましても、「note」の方や、個人的におつきあいを継続していただければ幸いと存じます。
前回、リンクを貼っておきましたメルアドの方へ、ぜひご連絡くださいまし。


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https://note.com/nenkandokusyojin/

3015:2022/03/07(月) 19:27:59
電子掲示板「アレクセイの花園」が本年8月1日で、二十年余の歴史に幕を閉じます。(1)
2001年1月1日に開設した、私(田中幸一・アレクセイ・年間読書人)の電子掲示板(BBS)「アレクセイの花園」を、本年8月1日をもって閉鎖することにしました。

私としても、急な話なのですが、運営会社「teacup.byGMO」の事業撤退により、本年(2022年)8月1日13:00をもって「サービス終了」になるという告知が、先日(2022年3月4日)夕刻、いきなり掲示板のトップに貼り付けられるかたちで、なされたからです。

長年愛用してきた掲示板ですので、もちろん愛着も思い出もたくさんありますから、新たに掲示板を借りて継続するという選択肢だってないわけではありません。
ですが、この先、掲示板を積極的に活用する機会もないでしょうし、なにより今年は私自身が還暦で、来年春には定年退職するというこの年、偶然にもこうした通知が届いたことに、何やら運命的なものを感じ、その意味で「切りが良い」かも知れないなと思ったので、この機会に、利用期限いっぱいをもって、「アレクセイの花園」を閉鎖することを決断した、というわけです。

前記のとおり、今のところ「本年8月1日13:00」までは利用するつもりですが、実際のところ、きっちりその日まで利用できるかどうかは定かではありませんので、それまでに、突然「利用停止」になっていたら、どうぞご勘弁ください。
まあ、そのあたりの事情については、現在の主たる活動場所である「note」の方でご報告いたしますので、そちらをご確認いただければと思います。

・ 年間読書人の「note」(https://note.com/nenkandokusyojin/

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「アレクセイの花園」は、元々は、江戸川乱歩研究家である中相作氏が、自身のウェブサイト「名張人外境」の掲示板に、頻繁に書き込みをしていた私のために、別に立ててくれた掲示板で、「アレクセイの花園」というのも、中氏の命名です。

当時すでに私は「論争家」でしたから、「名張人外境」の掲示板に書き込まれた、いろんな方の意見について、例によって忌憚のない感想や反論を書き込みました。そして、それが喧々囂々の議論・論争に発展することも珍しくなかった。
さらに、私の文章は、とにかく「理詰めで長い」ものでしたし、考えたことは、ぜんぶ書かないと気が済まない。また、批判や反論にあたっては「十分に根拠を示さなければならない」と当時から考えていましたから、その分、どうしても長くなってしまう。さらに、私の批判反論の仕方は、しばしば「逐語的」になされたので、どうしても文章が長く長くなってしまったのです。一一で、のちに付いたあだ名が「塗り壁」。

これは、その最初の(第1期)「アレクセイの花園」が「黒地で白文字」という表示形式になっており、しかも当時の私はネット馴れしておらず、書籍の版面同様の、ほとんど改行のない長い文章を書いていたので、その見た目が、まるで「闇夜に、白い塗り壁」状態だったせいです。

当時(2000年代初頭)はまだ、レンタル掲示板というものさえあまり普及しておらず、個々がCGIソースを書いて、それをサーバにアップするというかたち(このあたりは今でもよくわかってないので、間違っているかもしれません)が主流でしたから、そんなことなど到底できない私は、自分の掲示板を与えられて、純粋に大喜びしたのでした。

私が「名張人外境」の掲示板に、煙たがられるほどの書き込みをしたのは、それ以前だと、紙媒体の「同人誌」に原稿を書いたり個人誌を作るくらいしかなく、文章が読者の手に届くまでに様々な手間と時間がかかって、「好きなだけ書く」などということは、到底できなかったからです。

今日まで、倦まず弛まず、途切れることなく文章を書いてきたことからも明らかなとおり、私は書く場所さえ与えられれば、いくらでも書けるような人間でしたし、まして当時は若かったので、半日以上パソコンに向かいっぱなしで文章を書くなんてことも、ぜんぜん平気でした。私にとってのネットは、読むものではなく、読ませるものであり、そんな私にとっては、量的な制限がかからないネット掲示板は、まさに「自由な遊び場」でした。だから、誰にも遠慮することなく書ける、私の名を冠した掲示板を与えられ、本当にうれしかったのです。

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ただ、掲示板を与えてくれた中氏としては、たぶん、下手な「掲示板荒らし」も斯くやというくらいの頻度と量の書き込みをしてくる私の扱いに手を焼いたあげく、「別に掲示板を作って、そこで(隔離的に)遊ばせておいた方が、話が早い」と考えての措置だったのだろうと、今は思います。

なにしろ、中氏が管理人の掲示板なのに、書き込みの回数や量が、最も多いのも私なら、悪目立ちであろうがなんであろうが、とにかく一番目立っていたのも私でしたから、なんとかしたくなっても不思議ではない。
しかし私は、当たり前に書き込みをし、人の意見に積極的に感想を言い、時に批判もするという、ある意味では非常に真っ当な「意見交換」をしていただけで、決して掲示板を「荒らす」意図などなかったから、中氏としても「出禁」にする口実がなく、困ってしまったのでしょう。

ですから、もしかすると「黒字に白文字表記」という表示形式も、「座敷牢」的なイメージが中氏にはあったのかも知れませんし、「アレクセイの花園」というネーミング自体「そこで勝手に、おめでたく遊んでいなさい」という含意があったのかも知れない(当時すでに、「花園」という言葉を否定的に使う用法があったかどうかは、よくわかりません)。
しかし、その意図がどうあれ、私は自分専用の掲示板を与えられたのがうれしくて、それ以降は、この第1期「アレクセイの花園」が、私の活動拠点となったのでした。

それから数年後、どういう理由だったか忘れましたが、とにかく中氏から、一方的に掲示板閉鎖の通知を受けました。
当然、この最初の「アレクセイの花園」に大変な愛着を持っていた私は、中氏の決定に激しく抵抗したものの、技術的な裏付けをまったく持たない私は、最終的には自分でレンタル掲示板を借りるという選択をせざるを得ませんでした。
当時のレンタル掲示板は、無料であるかわりにデザインのパッとしないものが多く、一度の書き込みに字数制限があるなどの難点も多く、私としては使い勝手の良い、慣れた掲示板で「できれば、このままずっと」と願っていたのですが、そうもいかなくなったのでした。

ちなみに、掲示板の移行に伴い、それまでのログの扱いで、中氏と一悶着あったのですが、これも両者の認識と技術の隔たりによって、解決しないまま、失われてしまいました。
現在のteacup.byGMO有料掲示板のログが、2005年からしかない理由はよくわかりません。teacupの無料掲示板から有料掲示板に乗り換える際に、データの移行ができなかったためだったかも知れません。
一一とにかく、昔の細かいことは、すっかり忘れてしまいましたし、確認のためにわざわざ昔のログを読み返そうとも思いません。今現在でも、読みたい本が山ほどあり、読めば書きたいこともあるので、昔のログなど読んでいる暇はないからです。

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時代はすぐに、「電子掲示板と自作ホームページ」から「ブログ」へと変わり、さらには「ミクシイ」や「Twitter」などの「SNS」の時代へと変わっていきました。

「レンタルブログ」は、試してはみたものの、気に入ったものに出会えなかったため利用はせず、「アレクセイの花園」を中心に活動していた私でしたが、やがて、時代の流れに応じ、主たる活動の場所を移行させざるを得ませんでした。
技術的なことに興味がないため、ネットでの表現形式に関して極めて保守的な私が、「アレクセイの花園」から出て、最初に試してみたのは、当時、世間で評判の「ミクシイ」。そしてその次が「Twitter」でした。「Twitter」は「短文」ということがネックとなって、長らく意識的に無視してきたのです。
ともあれ、時代遅れにともなって閑散としてきた「アレクセイの花園」に比べ、動きの激しく、刺激的なそれらへと、徐々に活動の中心は移ってゆき、「アレクセイの花園」は、年末年始の書き込み以外は、ほとんど更新が止まっているといった時期が10年ほど(これも「だいたい」表記)も続いたと思います。

話は前後しますが、「アレクセイの花園」では、かなり早い時期から頻繁に「荒らし」との喧嘩をしました。私は、大雑把に言えば「左翼リベラル」ですので、そうした意見の気に入らない人たちが、「掲示板荒らし」に来たのです。
当時の掲示板は「投稿即反映」だったので、望まない書き込みが、掲示板上にどんどん反映されました。「ネトウヨの巣窟」と呼ばれることもある、今の「yahoo!ニュースのコメント欄」をイメージしてもらえば良いかと思います。あれが、個人の掲示板において、「荒らし=炎上」目的でなされたわけです。

ちなみに当時はまだ、かの右派ヘイト団体「在特会」も存在していなかったし、「ネット右翼」という言葉も一般化していなければ、その略称としての「ネトウヨ」という言葉もなかったので、匿名で「掲示板荒らし」をする彼らは、もっぱら「掲示板荒らし」あるいは「荒らし」と呼ばれ、当時はそれが通常の名称でした。

で、私は、新たに進出した「ミクシイ」や「Twitter」でも、同様の人たちと喧嘩を繰り返すようになります。
なぜ「議論」ではなく「喧嘩」なのかと言えば、それは「ネトウヨ」には、「政治的意図」はあっても「意見交換」や「議論」の意図がなかったので、「無視(スルー)」するのでなければ、「喧嘩」するしかなかったからです。

したがって、喧嘩が目的で「ミクシイ」や「Twitter」を始めたわけではないものの、さんざ「アレクセイの花園」を荒らされて恨み骨髄の私でしたから、「ミクシイ」や「Twitter」などでも、彼らの舐めた言動が視野に入ってくると、直接私には関係のないことでもあって、放っておくことができなかったのです。

しかし、「個人の掲示板」と「SNS」との違いは、「SNS」には企業としての運営管理者がいたことでした。
そのため、「ネトウヨ」と徹底的に喧嘩した私は、やがてネトウヨたちからうるさがられ、逆に組織的な「管理者通報」を繰り返されて、アカウントの停止に追い込まれました。
もちろん、管理者からは何度か事前警告も受けたのですが、私はこれに「反論と質問」を返しました。無論、それに対するまともな応答などはなく、結局は、当事者のやりとりの内容を問おうとはしない、「ことなかれ主義」の管理を承服できなかったので、ある時期からは意識的に、アカウント停止になるまで徹底的にやったのでした。

そんなわけで、「ミクシイ」と「Twitter」では、2度ずつアカウント停止となって、現在はどちらもそのまま。
最初のアカウント停止による「再登録の停止」は、何年かして、いつの間にか解除されていたので、再登録して利用し、どちらも、ほとんど前回と同じ成り行きで、2度目のアカウント停止となりました。
利用を再開するときは「ネトウヨと喧嘩したって時間の無駄なので、今度はやめておこう」と考えはしたのですが、結局「好きなことを書くのを自制するより、好きに書いてアカウントを強制的に止められる方が、まだ納得できる」と、前述のとおり、開き直るようになっていったからです。

「ミクシイ」と「Twitter」のアカウントが凍結されて、しばらくはあまり文章を書かず、もっぱら読書に励んでいましたが、ある時「Amazonのカスタマレビューなら、読んでくれる人も多いのではないか」と気づいて、それ以降は、もっぱら「Amazonカスタマーレビュー」を利用するようになりました。

「Amazonカスタマーレビュー」に書くようになった理由がこのようなものであったため、他のレビュアーとは違い、私の書くレビューは、「評論」や「エッセイ」を意図したものになりました。Amazonが期待する、「本の紹介」や「感想」ではなく、その本を読んで「考えたこと」を書いたのです。

したがって、つまらない本については「なぜつまらないのか」を論じ、内容の「ひどい本」には「なぜ、どのようにひどいのか」を論じて、決して「面白かった・くだらなかった」といった「感想」では済ませなかった。だからこそ、著者の支持者には嫌がられ、ネトウヨからは管理者へ「削除要請」のなされるレビューになったのです。

そんなわけで、ここでも、私が求めるような「言論の自由」はありませんでした。
なにしろ、所詮、大企業が金儲けのためにやっている「サービス」なので、「言論の自由」を守ろうとか、道義的に筋を通そうなどという気持ちなどまったく無く、ただ「タテマエ」としての綺麗事があるだけ。私が「こちらがテキストを無償で提供し、そちらはそれを掲載するかわりに無料で商用利用するという、これは対等の契約関係だ」という私の理屈など、聞く耳を持つ相手ではありません。
つまり、もっともらしい「利用規約」はあっても、それは、運営者の都合で「利用者の権利を制約するため」にだけ設けられたものなので、「規約に反した書き込みなので、掲載できません」といった通知はあっても、「どの部分がどう規約違反になるのか」という説明などまったく無くて、言わば、管理者の一方的な決めつけで、すべては「片づけられた」のでした。

無論、こうした「弾圧」に対しても、私は可能なかぎりの抵抗をしました。しかし、最後は力づくで「利用停止」にされるというのも、経験上よく知っていたので、そろそろやばいかなと感じはじめた昨年6月に、Amazonにアップしたレビューのデータの移行先として、その頃にその存在を知った、人気のSNS「note」の利用を決めました。
そして、逐次、データ移行作業を行なっていたところ、昨年10月15日に突然「Amazonカスタマーレビュー」がすべて削除され、1週間以上遅れて利用停止の通知があったのでした。

過去に「アレクセイの花園」で「ログを失う」という経験して以来、ログはすべて採ってあったので、Amazon上のレビューが削除されても、データの移行に問題はありません。
そんなわけで、「Amazonカスタマーレビュー」の利用停止以降は、「note」への書き下ろし書評のアップと併せて、Amazonレビューの転載を進め、9割がた転載は済んだ、というのが現況です。

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これまでの、20数年のネット経験により、私は「掲示板」や「SNS」などが、いきなり利用停止になるという経験を、何度もしてきました。そして、そこで出会った人たちとの繋がりも、その瞬間にほとんどが消滅しました。
こんな経験は、一度だってしたことのない人の方が多いでしょうし、私も当初は、その不測の事態に相応のショックを受けましたが、懲りずに同様の経験を繰り返すことで、やがて「今あるものも、いずれは消えて無くなる」という事実を、実感として学ぶことができました。

人間というものは、「今の日常」が「この先もずっと続く」ように、何となく感じているものです。
理屈では、1時間後に車に跳ねられて死ぬかもしれないし、数ヶ月後に災害や急病で死ぬかもしれない。自分が死ぬかもしれないし、家族や友達が死んでいなくなるかもしれないと、そう頭ではわかっていても、いま目の前にあるものが、ある瞬間に、突然消えてなくなってしまうとは、なかなか思いにくいもので、なんとなく「このまま、ずっと続く」ような錯覚に捉われているのです。そしてたぶん、そうした錯覚があるからこそ、人は日々を安穏として暮らせるのでしょう。

もちろん、これは私だって大筋では同じで、自分が、数時間後に死ぬかもしれないなどと、本気で思って生きているわけではありません。日蓮が言った『臨終只今にあり』という言葉は知っていても、それはあくまでも「その気持ちで、今を大切に生きる」という「心がけの言葉」でしかなく、文字どおりに受け止めているわけではない。

しかし、私の場合は、ほとんどの人が経験したことのないであろう「大切なものが、ある日突然消え失せる」という経験を、幸いなことに、いきなり「身近な人間を失う」という経験ではないかたちで、経験することができました。そのせいか、大好きな父を失った時も、子供の頃に想像したほどのショックは受けず、死に顔を見ているのに、なんとなく「いなくなっただけ」「長らく会っていないだけ」という感じが今もします。
むかし親しくしていて、ずっと連絡を取っていなかった年長の友人も、年齢的にすでに亡くなっているはずですが、わざわざそれを確認する気もありません。今更わざわざ連絡をとる気もないので「もう死んでるはずだけど、なんとなく生きてるような感じ」で済ませているし、それでかまわないと思っているのです。

そして、こうしたことは、今は生きている母にも近い将来に起こることだし、下手をすると私自身だって、どうなるかわからない。そんなふうに考えることに、抵抗がなくなりました。
まあ、こんなだからこそ、結婚したら、子供ができたら「成り行き任せで、勝手に死ぬ訳にはいかない」ということにもなって、「それは大変だな」と感じるようになりました。そこまで責任は持てない、などと先回りして考えるようになったのです。
死ぬときは、人に迷惑をかけないで、ただ消えていくように死にたい。そのためには、わが身ひとつ以上の責任は負えないと、そんな感じになったのです。

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しかし、そんな私にとっても、特別に愛着ある「アレクセイの花園」だからこそ、文章を書く気力が衰えて、なんとなく放置している間に私が死んでそのまんま、というような、うやむやな終わり方にはしたくないと思いました。
すでに数年来、動きがないに等しく、ログ置き場状態になってもいたのだから、この機会に「アレクセイの花園」にケジメをつけて、きれいに「完結」させようと、今回の閉鎖を決めました。

現在でも、ときどき書き込みに来てくださる方が2名いらっしゃいますし、この奇特なお二方(オロカメンさん、伊殻木祝詞さん)には申し訳ない気もするのですが、お二人だけなら、今後は個人的にメールやLAINのやり取りをすればいいと、それで許していただくことにしました。

現在と同様、かつて「アレクセイの花園」でも、私は多くの方と議論し論争し、「ネット右翼」とその前身である「掲示板荒らし」とも、数え切れない喧嘩をしてきました。
無論、そればかりではなく、楽しいやりとりも数多くさせていただきしましたが、申し訳ないことに、そっちの方が、むしろ印象に残っていないというのは、私の性分の故とお許しいただきたいと思っています。

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残すところは、半年弱。
まずは、掲示板に残っているログを、すべて回収する作業を進めなければなりません。
原稿としてのログ(テキストデータ)は採っていますが、ゲストの書き込みデータや、掲示板に反映された「日時」の記録などはありませんので、やはり、掲示板画面から直接ログを採取する必要があるのです。

そんな過去のログを採って保管しても、自分自身、読み返すこともないのだし、ましてや他人様が読む機会もなく、残しても意味がないのはわかっていますが、まあ、これは私の記録癖の故なのでしょう。
中学生の頃、戦車のプラモデル作りに凝ったのですが、その頃作った模型の「説明書」を今もぜんぶ残してあるとか、アニメファン時代に買っていた『アニメージュ』誌を、創刊号から購入をやめた200号まで、揃えて今でも仕舞い込んであるとか、それが私に性分なのですね。そう言えば、『アニメージュ』も「切りの良いところで止めた」のでした。

「三つ子の魂、百まで」ということなのでしょう。


(2022年3月7日)


(※ なお、この記事については、「アレクセイの花園」閉鎖まで、随時、追加の予定です。)




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