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こっそり雑談&つぶやきスレ

596φ(..):2020/09/16(水) 17:55:46
https://twitter.com/369_kendall/status/1305946939045769218?s=20


@369_kendall

菅の父は、中国にふっかけた戦争で手に入れた満州の国策会社の南満州鉄道の官僚で、町議も務めるほどの富農。周りは中高卒で諦めるのに、富農の跡継ぎを拒否して東京の私大に。母と姉二人は高校教師だから逆に恵まれすぎ。


「菅義偉氏は苦労人」というイメージは本当か?(古谷経衡) - Yahoo!ニュース
news.yahoo.co.jp

午前4:09 · 2020年9月16日


 菅義偉氏の父・菅和三郎は秋田県雄勝町(現・湯沢市)の町議会議員を菅氏の中学校卒業頃から連続で4期務め、同時にいちご栽培で成功し、1959年(菅氏が10歳のころ)には地元組合の長となって以後51年間、独自のいちごブランドを育てる。2010年に死去すると、旭日単光章を叙勲されたほど成功した地元の名士である。


・菅義偉氏の父、和三郎の成功

 菅義偉氏の父・和三郎は23歳のころ、当時国策として推進された「満蒙開拓」の掛け声に呼応し、地元秋田・雄勝から満州に渡った。太平洋戦争開戦前夜のおおむね1940年ごろと推定される。満鉄(南満州鉄道)の入社試験に合格したためで、「広い官舎に住み、中国人の家政婦を雇って裕福な暮らしができた」(森)で、家族を内地から呼び寄せるなどして手厚い待遇であった。


 ここにある「臨月の妻タツさん」が宿していたのは菅義偉氏ではなく菅氏の姉である。菅義偉氏は、和三郎が故郷の秋田・雄勝に引き上げをした1946年6月から約2年半後の1948年12月に生まれている。よって菅氏自身は、この壮絶な戦争体験を経験していない。


 戦後、秋田・雄勝の郷里に戻った和三郎は、高い商品価値を持ついちご栽培に目をつけ成功する。1959年には地元のいちご出荷組合の会長となり、「和三郎さんの秋ノ宮いちごの組合は、いちごだけで年に三億円の売上げがあったほどでした」(森)とまでになった。


 また和三郎はいちご栽培の傍ら、地元秋田県雄勝町の町議会議員に立候補し、当選する。これは菅義偉氏が中学を卒業して湯沢高校1年になった時で、1964年である。和三郎は町議としてこの後連続4期(16年)を務めた。


 という。つまり菅義偉氏の少年・青年時代を通じて、菅一家はすでに「地元の名士」として認知されており、町議会議員をやりながらいちご栽培でも成功していたことになる。


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