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仏教大学講座講義集に学ぶ 【 日蓮大聖人と法華経 】
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:
美髯公
◆zkpDymnu/M
:2016/05/20(金) 22:13:33
更に「開目抄」には、次の如き重要な一文がある。
「華厳乃至般若・大日経等は二乗作仏を隠すのみならず久遠実成を説きかくさせ給へり、此等の経経に二つの失あり、一には行布を存するが故に仍お未だ権を
開せずとて迹門の一念三千をかくせり、二には始成を言うが故に尚未だ迹を発せずとて本門の久遠をかくせり、此等の二つの大法は一代の綱骨・一切経の
心髄なり、迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失・一つを脱れたり、しかりと・いえども・いまだ発迹顕本せざれば・まことの一念三千も
あらはれず二乗作仏も定まらず、水中の月を見るがごとし・根なし草の波の上に浮かべるににたり、本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、
四教の果をやぶれば四教の因やぶれぬ、爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此れ即ち本因本果の法門なり、九界も無始の
仏界に具し仏界も無始の九界に備わりて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」(P.197 ⑩)
かなり長くなったが、重大な思想内容が織り込まれているので、あえて引用させて頂いた。ほぼ「十法界事」に於けるテ-マと重なる内容であるが、本文の
後半部分の展開は、日蓮大聖人の末法独一本門の独創性を示して余す所がない。「本門にいたりて始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる、四教の果をやぶれば
四教の因やぶれぬ」との文は、先の「十法界事」の“始覚の十界互具”であっては何故に、日蓮大聖人の所謂“真実の十界互具”にならないかという、
その理由を簡潔に述べられている。迹門の始成正覚の仏は、爾前の蔵・通・別・円の四教を説いた仏と同じ始成の仏果である。それ故、本門寿量品に於いて、
始覚を発って久遠の本果を開顕したと言う事は、四教の仏の果を打ち破り、否定した事になる。四教の仏果が否定された事は、同時にその仏果を得る為の、
九界の修行因(仏因)を破った事になる。それ故、次に「爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶつて本門の十界の因果をとき顕す、此れ即ち本因本果の法門なり」
と述べられたのである。
九界を因とし、仏界を果とする十界の因果は、爾前・迹門に於いては、無常始覚の故に否定された。本門寿量品に於いては、無始常住の九界の因と無始常住の
仏界の果との因果を説き顕わしたのである。「十法界事」における「本有の十界互具」を、ここではこの様に表現されたのである。
また、“本因本果の法門”とは、始成の仏果と九界の仏因とは異なり、仏界も九界も共に本有常住の因果である事を示されている。先に述べた時間論の視点で
言えば、始覚の現在時間では因と果が異時にならざるを得ない所を、久遠本有常住の超時間によって、倶時ならしめるのが本因本果の法門といえよう。
この様にして超時間、永遠性によって成立する因果倶時とは、久遠仏の生命の不可思議性に他ならない。
40
:
美髯公
◆zkpDymnu/M
:2016/05/22(日) 21:03:23
それ故に、更に「九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界に備わりて・真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし」と述べられたのである。無始本有の
因の九界は、無始本有の果の仏界に具わり、無始本有の仏界は無始本有の因の九界に備わってこそ、真実の十界互具・百界千如・一念三千になるとの仰せで
あり、正に久遠仏の十界互具の生命そのものなのである。ここを日寛上人の思想によって読む時、久遠元初の自受用報身如来の生命になり、同時に南無妙
法蓮華経の一法になる事は言うまでもない。「当体義抄」に於いて「至理は名無し聖人理に観じて万物に名を付けくる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り
之を名けて妙法蓮華経と為す此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり」(P.513 ④)
この中で、因果倶時・不思議の一法である南無妙法蓮華経を修行する者が、「仏因・仏果・同時に之を得る」と言われている点が、重要である様に思う。
仏因(九界)も仏果(仏界)も因果倶時で、法で言えば南無妙法蓮華経の妙法そのものであり、人で言えば久遠元初の自受用報身如来の生命そのものであるが
故に、その妙法を修行する、すなわち妙法を唱えれば唱うる主体の生命が妙法則久遠元初の生命となると言う事である。
ここで整理をかねて、今一度之までの論述を振り返ってみると、迹門では九界の衆生に始覚の仏界を具すと、理的に九界即仏界の十界互具が説かれた。
本門寿量品の発迹顕本、久遠実成開顕によって始覚の仏界が否定された事になり、その必然の結果として、能具の九界の衆生(因)も否定された。こうして、
迹門の九界即仏界を否定し去った後に、今度は本有常住の仏界に本有常住の九界を具足する、常住の仏界即九界が成り立ってくる。もちろん、常住の九界即
仏界も、成立するのは当然である。これすなわち、久遠仏の生命そのものの相貌である。更に文底観心から言えば、久遠元初自受用報身如来即日蓮大聖人の
御生命そのものであり、同時に南無妙法蓮華経の一法となる。この人法一箇の当体を、日蓮大聖人は御本尊として図顕され、「末代幼稚の頸にかけさしめ給う」
たのである。この御本尊に妙法と唱うれば、唱うる者の生命に南無妙法蓮華経即久遠元初仏の、常住の仏界即九界、九界即仏界の大生命が感応妙で涌現して
くるのである。その時、無始の九界に仏界を具し、無始の仏界に九界を具す、真実の十界互具・百界千如・一念三千の当体として蘇生する。
さて、南無妙法蓮華経即久遠元初仏の生命こそ、宇宙と生命の根源であり、人間を含めた宇宙森羅万象を貫いて躍動する力用に他ならない。宇宙と生命の
根源についての最初の日蓮大聖人の悟りが、法華経と天台の一念三千説を媒介にしつつ、深化発展し法華経迹門を超えて遂に、法華本門寿量品の文底に南無妙
法蓮華経即久遠元初仏の大生命を樹立されるに及んで、その究極の境地に達せられたのである。そして、究極の悟りの境地を御本尊として図顕され、三大秘法
具足の一閻浮提の大仏法が、ここに打ち立てられた。
本稿は、ひとまずここで打ち切りたい。
残る今一つの重書“観心本尊抄”の検討、並びに妙法の題目についても、まだまだ考察すべき事柄が多いが、それらについては、後日を期したい。
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