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本迹のログ倉庫

103美髯公:2009/11/24(火) 13:12:51
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

439 :もくれん:2008/12/14(日) 22:55:55
梅さん

梅さんを、この掲示板にお誘いしたのは、結果的に「私の間違い」でした。
その、私の間違いについて、深くお詫び申し上げます。
結果的に、梅さんの貴重な時間を使わせてしまったことも、お詫び申し上げます。

「人本仏迹」論の対話そのものは、私の方は終了させていただきたく思います。
梅さんが、「追求」したいことは、書いていただいて結構だと思いますし、
応じる必要のあることは、私も書きますが、最初から申し上げているように
「人本仏迹」論は、100パーセント間違いです。邪義の言葉がお嫌でしたら
「間違い」の言葉を使いますが、「100パーセント間違い」です。

しかし、ひとつだけ、サービスで書かせていただきたく思うことが
あります。
サービスというのは、梅さんが、読もうが読むまいが、これだけは
梅さんのために、書いてあげたいという意味です。
ですから、梅さんが、「読もうが、読むまいが」読んだ結果、「何、意味の無い
ことを書いて」と、がっかりしようが、私としては、何も「期待しない」で
書きますということです。

結果はともあれ、先生のスピーチに、私自身が「ピーン」とくるものが
ありますので。

 ttp://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/internet/1422/1226090096/403

このレス内容は、梅さんにとって、最も切実なことですね。


続く


440 :もくれん:2008/12/15(月) 00:55:22
梅さん

>さぁ、もくれんさんどのように読まれましたか?
>これらは、貴女が読むようにと言われた御書講義の「三大秘法」の部分と
>合わせたら微妙なところもありますが、従来とは明確に「解釈」が
>異なってきていますよね。

>現在もなお日寛師の「戒壇本尊論」に拘ったら、大変おかしなものになることは
>貴女にもご理解いただけると思いますが、いかがですか?
>これが、今からほんの22、3年前には、創価学会教学部の解釈であり
>宗門でいえば700年来の伝統的教義だったのですよ!
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

破門後、宗門とは完全に分かれて、いわゆる「戒壇様」は、創価学会には
存在しないのであるから、「本門戒壇」の文字は無くなって当たり前。
創価学会が仏意仏勅の唯一の団体であるということを、確信できるかどうかが
分岐点。
しかし、破門後数年間は、いろいろな思いの会員の心情を配慮して、先生の
以下のスピーチがある。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ttp://jbbs.livedoor.jp/study/7888/storage/1215745197.html 116・124

大聖人の出世の本懐である一閻浮堤総与の大御本尊が信心の根本で
あることは、これからも少しも変わらない。
日達上人は述べられている。
「大聖人はもう亡くなられております。その魂、その大聖人の御魂が、
この戒壇の大御本尊様である。(中略)あなた方の各仏壇に安置する
ところの御本尊様が、大聖人の御精魂である。
大聖人様即、法身報身応身の三身相即したところの御本尊様でございます。」
(1962年 昭和37年 9月7日 小田原教会での説法 日達上人全集)

各家庭の仏壇に御安置した御本尊は、「大聖人の御魂であり、御本仏の当体である」
と拝すべきなのである。そう信じて唱題するとき、そのまま、その場所で
大御本尊を拝していることになる。

日達上人は「御本尊安置の場所がどこであれ、いちおう義の戒壇と申して
その御本尊に向かって一心に余念無く唱うるところのお題目は即座に
本門戒壇の大御本尊に納まり、南無妙法蓮華経と唱えるその場所即霊山浄土
であり、即身成仏のところであります。1977年11月23日 同前)
と述べられている。

世界のいずこの場所であれ、御本尊を信じて、純真な「信心」の一念で
唱えた題目は、即座に大御本尊に通じていく。
「登山しなければ功徳なない」などというのは、先師の指南に背いた
大邪義である。

第一回 アメリカSGI最高会議  平成5年9月16日

続く

104美髯公:2009/11/24(火) 13:18:10
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

441 :もくれん:2008/12/15(月) 01:10:51
梅さん

>>宗門でいえば700年来の伝統的教義だったのですよ!

これは、随分と宗門も乱れた時代があったらしいですね。
17世日精の「法主絶対論」とか、
日寛上人は、それまでの邪義をすべて破折して、大石寺つまり日興門流を
「御本尊根本」の正義に整えたと

 ttp://jbbs.livedoor.jp/study/7888/storage/1215745197.html  121

日寛上人は広宣流布の実現を、強く願われていた。
「六巻抄」や「文段」の著述も、すべて広布のためであられた。
当時、世間に流布していた一切の邪儀を鋭く破折され、大聖人の
正義を宣揚されたのも、広宣流布を願われたからである

第一回 アメリカSGI最高会議  平成5年9月16日

★ 御本尊根本の正義を教えられた日寛上人

日寛上人は「中興の祖」と仰がれたように、信・行・学にわたって、
「最も優れた法主であられた。

日亨上人は
「六巻抄を中心にして大聖人の御正義を完ぺきに打ち立てられた」と
  (大白蓮華 昭和31年11月号)

日寛上人は、大聖人の「御本尊根本」の正義を強く主張なされた。
このことは、「六巻抄」や「観心本尊抄文段」等で明らかである。

「観心本尊抄文段」には、
「十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、
皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるなし。譬えば百千枝葉同じく
一根に趣くが如し。故にこの本尊の功徳、無量無辺にして広大深遠の
妙用あり。(中略)これ即ち蓮祖(日蓮大聖人)出世の本懐、
本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり」
(文段集 443P)と、述べられている。
一切の諸仏の一切の功徳が、すべて、この御本尊に具わっているのである。
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

700年間一貫して必ずしも、御本尊根本の正しい教義で、きたわけでは
ないらしいですよ。
それに、戦前など「神札」の強要ですよ。


442 :もくれん:2008/12/15(月) 01:47:55
梅さん

>ですからね、沖浦批判についても、邪義だ邪義だとかみつくのではなく
>「もしかして、そのような発想がありうるだろうか」という検証姿勢が
>必要だと思うのです。
>そのための対話がなされることが必要とこそすれ、悪口雑言・非難に
>向かってしまうのは私たちがネット社会の対話に未成熟だからでは
>ありませんか?
>私が貴女と対話しようと思ったのは、貴女にはそれを乗り越える知性が
>おありに違いないと信じたからです。

梅さん、前にも言いましたが、私は沖浦氏と、とことん対話をしてきました。
梅さんこそ、今度こそ、梅さん自身が、沖浦氏と対話をされたらいいと思います。
沖浦氏に単刀直入に「人本仏迹」論の「根拠」を、お尋ねになればいいと思います。

> そのような発想がありうるだろうか」という検証姿勢が

これは、私程度の教学力でも、簡単に「間違い」であると判断できます。
氏の「何が故に人本仏迹論を主張するのかの、心情的背景は、すでに
解りきっています、それも、複数の方たちがです。
これは、日顕宗との、氏なりの「たたかい」の産物です。

 ttp://jbbs.livedoor.jp/study/3764/

前にも紹介しましたが、ここの彼らは誠実に、氏に向き合ってきたのです。
最後の最後まで。

>乗り越える知性

「知性」の次元の話ではなく「信心」それも、何度も言いますが
創価学会とは、何ぞやの次元の話です。

日蓮と同意ならば・・この誓願の姿勢がなければ、無理な話です。
知性で解決できるようなレベルではありません。


443 :もくれん:2008/12/15(月) 01:51:29
梅さん

>現在もなお日寛師の「戒壇本尊論」に拘ったら、大変おかしなものになることは
>貴女にもご理解いただけると思いますが、いかがですか?

こだわっているのは、一体誰なのか?
理解に苦しむ文章です。「戒壇本尊論」とは、何でしょうか?

105美髯公:2009/11/24(火) 13:25:42
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

444 :もくれん:2008/12/15(月) 02:02:33
梅さん
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>そして、この項の最後は、日寛師の観心本尊抄文段を引いて

>『また、「弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟中の究竟、本懐中の本懐なり、
> 既にこれ三大秘法の随一なり、況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」
>(文段集四五二ページ)と示されている』

>と締めくくっています。
>さらに、【本門戒壇の大御本尊】の項目では
>『本門戒壇について』の小項目に

>『・・・事の戒壇とは、本門戒壇の大御本尊が御安置されるところである。
>・・・第六十六世日達上人は戒壇に御安置される根源の法体こそ
>真の事の戒壇であり、本門戒壇の大御本尊の当体及び所在が
>事の戒壇であると御相伝の上から示されている・・・』

>また、同項目の『本門の本尊について』の小項目では

>『本門の本尊とは、弘安二年(一二七九年)十月十二日に御図顕された
>未曾有の大御本尊のことであり、本門戒壇の大ご本尊のことである・・・
>日蓮大聖人の仏法の根本は本門戒壇の大御本尊である』

>さぁ、もくれんさんどのように読まれましたか?
>これらは、貴女が読むようにと言われた御書講義の「三大秘法」の部分と
>合わせたら微妙なところもありますが、従来とは明確に「解釈」が
>異なってきていますよね。

>現在もなお日寛師の「戒壇本尊論」に拘ったら、大変おかしなものになることは
>貴女にもご理解いただけると思いますが、いかがですか?
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こだわっているのは、誰なのかは、ともかくとして、日寛上人は正しいですね。
別に、今でも、正しいですね。
ただ、破門されて「戒壇様」は、我が教団には「存在しない」という事実ですね。

「存在」しなくても、日蓮大聖人の御精神・直結ということが最も大事ですね。

何も、矛盾はないし、「解釈」が変わったのでなく、しいていえば
「戒壇様」は、もう無いよ・・ですよね。
「無くても」何も、学会は「困らない」
日蓮大聖人の「御魂」は、創価学会にこそ「ある」・・
それが「確信」できるかどうか、一切は「信心」です。知性ではありません。

106美髯公:2009/11/25(水) 12:51:51
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

445 :梅:2008/12/15(月) 13:18:23
もくれんさん

>>425
>事実の上で、確実に他者を幸福にしていく実践こそ肝要と思います。
>そういう意味では、「戒壇様本懐論」がどうのこうの、私は全く、関心も興味も
>現時点では、ありません。

この1行目は当然ですので異論ありませんが、次の2行はかなり問題だと
思います。
この「戒壇様本懐論」は沖浦さんの姿勢を理解するためには、必要不可欠の
通過点なんですよ。
関心も興味もなく、貴方は沖浦さんと対話したのですか?
そうであるならば、かみ合った対話ができるわけありませんね。

>その「出世の本懐の《実物》の大御本尊様」に対して「執着」は、持っても
>現実として、致し方なくもあり、すでに、創価学会は、未来向けて
>新たなスタートをしているわけです。

「執着」を持つ必要もなく「致し方なく」と言う必要もない教義解釈が新時代の
要求だと思いませんか?
現実に、大白10月号の報恩抄講義では三大秘法の「本門の戒壇」について
従来とは方向転換されています。
そういうことを踏まえて、私は『教義の解釈や見解・表現は変わりうる』と
申し上げているのです。
昭和61年版仏教哲学大辞典をあげたのは、そういうことを証明する文証と
してあげました。
さらに、私が中学時代に教学任用試験で出題範囲であり、
懸命に勉強した「折伏教典」は、現在には時代遅れの教義解釈があります。
これで学んだ学会員もまだたくさん生きているのです。
私の>>423で投稿した内容と意味を、ご理解いただけてましたか?

>「戒壇様」は、日蓮大聖人の胸中の南無妙法蓮華経を図顕された「曼荼羅」
>そのものですね。
>「教義」は、変わりようがありません。誰にも変えられません。
>今後未来永劫に変わりようがありません。一大秘法・本門の本尊・変わりません

「法」という意味で、貴方の言う「内実」という点では変わらないでしょうね。
しかし、その「法」の解釈や見解・表現という点では変わりうるのです。
学会でも破門前、「戒壇様」は人法一箇の究竟中の究竟である大御本尊とされ
三大秘法の「本門の戒壇」である「事の戒壇」に御安置されるものと
されてきたのですよ。
現在、もしこの通りの解釈を維持するなら、学会には三大秘法の一部が
かけてしまうのです。
そんなことありませんよね!
ですから、大白10月号報恩抄講義では、「本門の戒壇」を
「和合僧としての戒壇」としていると思いませんか?

>創価学会員の立場からすれば、破門し、正本堂を破壊し、日顕宗と呼ぶのが
>創価学会員としては、ノーマルであると思います。
>最終的には、本人の自由ですが、宗門の悪を認識できている学会員は
>必ず、「日顕宗」と言います。

貴方はご自分の使われている言葉の論理がおわかりですか?
貴方は、「本人の自由」だと前提を置きながら、「必ず」日顕宗と呼ぶのが
「ノーマル」な学会員だとしてます。
しかし、このように「ノーマル」である学会員なら、「必ず」日顕宗と呼ぶと
断定されたら、学会員に「本人の自由」はなくなるのですよ。
おわかりですか?
貴方のこの発言は、ひできさんの分析>>435の4,11、15(ラベリング形)に
該当しそうです。

以上、>>425についてです。

107美髯公:2009/11/25(水) 12:57:57
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

446 :梅:2008/12/15(月) 14:02:26
もくれんさん

>>427へのレスです。

>梅さんに「罵られても」逃げたいと思い始めました。

正直さに好感を持てますが、後段にある次の

>ですから、私は「白旗」を、掲げるつもりでいます。
>梅さんに、「人本仏迹論」の誤りを認識させてあげることが、できなかったと。
>そして、私自身は「敗北」のつもりはありません、矛盾するようですが

上記はかなり良心的に受け止めないとイヤミですね。
対話を途中で放棄したら、な〜んだ、で終わりなんですよ。
貴方が言う『実践の中で自然と結論が導き出せるなら』ネットでの
対話なんぞ必要性がないのですよ。
もちろん、沖浦見解を批判する必要も、貴方にとっては「ない」のでは
ありませんか?

>私は、創価学会の公式出版物の記述を「その通り」と受け止めています。
>自分の思索とは、又、次元の違う話であると思います。

1行目、貴方の姿勢ですからご自由です。
2行目、思索をし、ただの引用ではなく自分の言葉で語ることが、
対話では血の通ったものになるのではないですか?
ただの引用ならロボットにすぎません。

>前にも言いましたが、「曼荼羅本尊」と「衆生」の関係は「本迹」を
>使った時点で、つまり「入り口でアウト」です。

ですから、本迹論から対話に入ったのでしょう?
また、最初の入り口で「アウト」だと言うのは、古典的な本迹論から
一歩も前進できなかったのですね?
そうだとすると、撤回を重ねることになりますね。

貴方には本迹論がダメなら、他にも「切り口」はあったのです。
その一つをあげれば「他力本願・自力本願」の民族的もしくは民俗的考察です。
この切り口は、「御書の世界」に糸口がありましたが、
対話を途中でもお終いにしたいようですから
これ以上は申しません。貴方の思索に任せましょう。

>現時点で、梅さんは「人本仏迹」論を「間違い」であると「認識」できない
>あるいは「認識したくない」あるいは「いや正しい」・・
>いずれのスタンスであっても、今は、無理に「結論」を出さなくても
>いいのではないかと思います。

貴方のご意見として受け止めます。

108美髯公:2009/11/25(水) 13:02:05
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

447 :梅:2008/12/15(月) 14:05:41
>>446訂正

貴方が言う『実践の中で自然と結論が導き出せるなら』
       ↓
貴方が言う『実践の中で自然と結論が導き出せる』なら


448 :梅:2008/12/15(月) 14:31:41
もくれんさん

>>428へのレスです。

>人本仏迹論を、梅さんが、本当に信じているのであれば、
>信じているのであれば、信ずる根拠があるはずですね。
>是非、根拠をお聞きしたいですが。

貴方は>>427で結論を出さずともよいと、私にアドバイスなされていますよ。
それに、沖浦見解である「人本仏迹」は本迹論の定義がキチンと前提になければ
いかにそれを論じても、貴方の言う『入り口』で『アウト』なのです。
これまでの批判合戦はそこを明確にせずに終始していますね。

また、私の対話の目的は自説の展開ではなく、本迹を明らかにした上での
沖浦見解の検証する姿勢でした。
それに、今日(15日)の貴方の投稿をざっと読んだ限りでは
貴方は、私との対話の真摯な継続態度に欠けてしまったようです。
したがって、私も貴方の質問に誠実にお答えする対話相手としての義務も
なくなってしまいました。


449 :梅:2008/12/15(月) 14:48:29
もくれんさん

>>439へのレスです。

>梅さんを、この掲示板にお誘いしたのは、結果的に「私の間違い」でした。
>その、私の間違いについて、深くお詫び申し上げます。
>結果的に、梅さんの貴重な時間を使わせてしまったことも、お詫び申し上げます

まぁ、これ以上の謝罪には及びません。
了解いたしました。
私としても、改めて勉強しました。ムダにはなっていません。

>「人本仏迹」論は、100パーセント間違いです。邪義の言葉がお嫌でしたら
>「間違い」の言葉を使いますが、「100パーセント間違い」です。

言い切ってしまいましたねぇ(*^_^*)

この後の貴方のレスは、私への『サービス』なんですね。
『読もうが読むまいが』とおっしゃいますが、読んでしまったので(笑)
読んでて、なんだか分からないところを、私もサービスで指摘しますね。
投稿を次に送りますから、読まなくてもけっこうですよ〜

109美髯公:2009/11/25(水) 13:13:08
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

450 :梅:2008/12/15(月) 15:08:55
もくれんさん

>>440
>破門後、宗門とは完全に分かれて、いわゆる「戒壇様」は、創価学会には
>存在しないのであるから、「本門戒壇」の文字は無くなって当たり前。

すごく飛躍した論理ですねぇ。
貴方の思索として受け止めます。

>大聖人の出世の本懐である一閻浮堤総与の大御本尊が信心の根本で
>あることは、これからも少しも変わらない。

そうです。これは「法華経の智慧」でも「御書の世界」でも書かれています。
そして、その出世の本懐が弘安12年10月12日の
一閻浮堤総与の大御本尊であることも両書は明確に書かれています。
(ただし、その書き方は以前と違い控えめに触れた程度ですね)
「本門戒壇」を外すとかの問題ではないですよ。

>日達上人は述べられている。

三大秘法の「本門の戒壇」を「義」と「事」に立て分けられているのですよ。
当然、日達師の時代では「事の戒壇」に御安置するのは、いわゆる「戒壇様」ですね。

しかし、報恩抄講義ではこのような立て分けは書いてありませんね。
戒壇=和合僧(仏教教団)と捉えているようです。お分かりですよね。


451 :梅:2008/12/15(月) 15:27:33
もくれんさん

>>441
>700年間一貫して必ずしも、御本尊根本の正しい教義で、きたわけでは
>ないらしいですよ。

その通りですね。
しかし、700年変わらぬ「富士の清流」と教えられたことも事実です。
私の初登山は小学生の頃ですが、そんな話を聞いていても良く分かりませんので
総本山の境内を流れる清流を見て、なるほどこのことかと理解しましたね(笑)
今は知りませんが、昔は水量が豊富でまさに清流でした。

ただ、日寛師について言えることは、彼の教学の全ては、
いわゆる「戒壇様」という「大御本尊」の「法」の証明だったわけですね。
これは、現代で考えるとのとは少し違うのです。
江戸時代の徳川封建制度の中で、富士門流が生き延びていくという時代背景が
あるようです。
現代では、私たちの大御本尊は「戒壇様」である必要はないですね。
私自身の人生からは戒壇の大御本尊様ははずせないですが、
教学的には私はそういう理解です。


452 :梅:2008/12/15(月) 16:03:21
もくれんさん

>>442
>これは、私程度の教学力でも、簡単に「間違い」であると判断できます。

確か「入り口」で「アウト」でしたね。
本迹を伝統的・古典的・定型的に言えば、そうなります。
ですが、何度も言っているように、他の見方も出来るのではないか、
これが私の考え方です。
それで>>170は「仮説」を提示し、対話の中で考察しましょうと提案しました。
その上で、人本仏迹論も検証しようとしたはずです。

>梅さんこそ、今度こそ、梅さん自身が沖浦氏と対話をされたらいいと思います。
>沖浦氏に単刀直入に「人本仏迹」論の「根拠」を、お尋ねになればいいと思います。

私は沖浦さんが言わんとしていることは、貴方より深く理解しています。
彼は、本迹を「立場」論で捉えていますね。貴方はお分かりでしたか?
誤解を恐れずにいえば、仏の出世の目的を考えれば、「人本仏迹」も
間違いとはいえなくなるのです。
これは私の見解です。
また、「人本仏迹」について他に適当な言葉があれば、沖浦さんも使わなかったかも
知れません。

「本迹」の言葉に引っかかると、直ぐに邪義といいたくなる気持ちは理解します。
しかし、対話は終わったわけですから、これ以上は申しません。

110美髯公:2009/11/25(水) 13:19:58
      −けんちゃん・ぎかんちゃん(淫尊・旧名)掲示板− 
        もくれんさん&とっくりさんの語らいの部屋

453 :梅:2008/12/15(月) 16:21:57
もくれんさん

>>443
>>現在もなお日寛師の「戒壇本尊論」に拘ったら、大変おかしなものになることは
>>貴女にもご理解いただけると思いますが、いかがですか?

>こだわっているのは、一体誰なのか?

もちろん、拘ったのは私で、それを私なりに乗り越えた上での発言ですよ。

>理解に苦しむ文章です。「戒壇本尊論」とは、何でしょうか?

ええ! 驚いて返す言葉がありません。

『日蓮大聖人の出世の本懐とされる弘安2年10月12日建立の
日蓮正宗総本山大石寺にある本門戒壇の板曼荼羅大御本尊を
通称「戒壇様」とお呼びして一閻浮提総与の「本門の本尊」たる大御本尊とし、
これをめぐる様々な論争を指す』

そういうことですが。


454 :梅:2008/12/15(月) 16:44:12
もくれんさん

>>444
>こだわっているのは、誰なのかは、ともかくとして、日寛上人は正しいですね。
>別に、今でも、正しいですね。

そうですか。
貴方の見解ですから、ご自由です。
しかし、創価学会には日寛師を越える学匠がいづれ現れると思います。

仏法には「時」というのもあるようですから、何十年もずっと先のことでは
ないでしょうね。
それは単数の人間ではなく複数の人間でなされるのかも知れません
(教学部のようにね)
牧口先生の価値論、戸田先生の生命論があって、
日蓮仏法は現代に蘇ったといいます。
宗門と分かれた現代において、当然、これらの視点に立った教学の
見直しがあると思います。
もちろん、これは私の個人的見解です。


455 :梅:2008/12/15(月) 17:08:00
もくれんさん

貴方のレスにすべてお返事しました。
1ヶ月未満で対話が終わるとは思ってもみないことでした。
内心では3月位かなと考えていたからです。

しかし、対話は相手があって成り立ちますから
一方に無理強いをしてもせんないことですね。
特にここはネットですから、スルーされればそれきりです。

リアルでも、一時交流が途絶えていた友人でも
ふとした機会に思い出したように対話することがありますね。

そういうことでもあったら、沖浦板においで下さいませ。
ネットをやめない限り、そこに常駐しています。

ひできさんには、きちんとしたレスを頂きたいところでしたが、
この板を去ればロムもしませんので再度私が要求したご指摘はもうけっこうです。

また、沖浦板で会いましょう。
教学解釈が違うくらいで、いがみ合うのはソンですよ。
お若いのですから、沖浦さんの人生に学ぶというくらいの
大きな気持ちで眺めてみるのも大切かと思います。

粛坊さんはじめここの皆さん、スレを占領しご迷惑をおかけしました。
静かに見守ってくださり、お礼申し上げます。


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