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したらば版 阿含宗を視る

183丑三つ時:2014/05/18(日) 00:47:30 ID:O8o8aFLc0
171よりつづく。 こんばんは。

再入会した阿宗は、入会当時の雰囲気とは変わり果てていました。
成就目的であった肝心の千座行は何故かなくなり。
宝塔はもちろん、和讃、経典も加筆変更されていました。

再入会の目的は、当方の業務が内勤となり時間が確保できた事もあり、幼い頃に命を救ってくれた
「目に見えないもの」の存在への感謝と畏怖への確認を求める為でした。
そのためには、何故か解らぬが直感的に千座行が必要と感じたからです。

何のいたずらか、幸いだったのは、教典等の更新を問われなかった事です。
ゆえに以後、「ジュンテイソン千座行法典」で何不自由なく月例祭に出る事となります。
のちのちに手に入れる事になりますが、新教典、座右名鑑など必要ありませんでした。

奇異に思えたのは、教団が色を変え品を代えて「修行」を切売りしている事。信者がその「修行」を金で買っている事。
「修行」を最も大切にしてきた教団と信者が、互いに甘え合って持ちつ持たれつの堕落の構造、情けない既設宗派と
なり果てていた。

それもこれも、千座行成就者が教団の思惑通りにいかず、大量の退会者を出した事による
経営策となった為だろうと思います。
千座行は最低でも成就しなければならない修行者としての修行の一歩である。

べつに阿宗でなくても結構なのですが、
いずれの経典であろうとも、よく構成されていればその経典は、あらゆる修行の末にたどり着いた
釈迦の「瞑想」にはるかに遠くとも多少は近ずくツールとなりえます。

自力善行。釈迦の前に仏(釈迦)なし。釈迦の後に仏(釈迦)なし。
釈迦には、頼るもの、頼むもの、祈るもの、願うもの等ないのは当たり前です。
なぜなら始祖でありトップランナーであるからです。

祈ろうが祈る対象が無い。願おうが願う対象が無い。頼ろうが頼る対象が無い。
つまり釈迦自身そのものが、祈りであり、願いであり,頼りである自力善行の王道と言えるでしょう。

すべてを捨てて出家し、艱難辛苦の末、瞑想にたどりつき悟りに至った釈迦とは比べようも無いが、
他力本願で、ありあまる人生の中で千座行もできず、人生のなかのたった丸一日をさいて読経を試みよう
ともしない者には何も見せてはくれるないでしょう。

つづく


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