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雑談

484本当にあった怖い名無し@転載は禁止:2016/05/26(木) 02:39:39 ID:HITexA3s0
それが叶っても、叶わなくても、悟りにも涅槃にも執着し過ぎる事がなく、偏り過ぎる事が無く、中道を行き
修行でこれに近づいた時、その修行者(菩薩)は知的にも精神的にも肉体的にも悟り、より一層心の乱れる事のない、涅槃寂静といった、澱みもなく、波もなく、静かな精神状態に入る。

苦行ばかりに偏っては悟る事ができないと理解した釈迦の教え。

というお話ですね。

また、イスラム教ではラマダンといった習慣があります。
これは習慣というよりも、修行に近いと考えた方がよろしいと思われます。

断食をして、食べ物や飲み物の有り難味を知り、貧しい者の気持ちを理解しましょう。忘れないようにしましょう。こんなに苦しいね?だから貧しい人を助けましょうという、コーランを主体とした教えです。そういう定期的な習慣です。

キリストも断食をしてその最中に、悪魔に誘惑されて打ち勝った記録が新約に記載されていますが
キリスト教の信者にはそのような教えはあまり反映されいません。この古事がクリスチャンに習慣付いて居れば、いろいろと歴史は変わっていたかもしれません。

この古事の悪魔というのは欲であったと定義し解釈すれば
いろいろ話のつじつまが合います。

485本当にあった怖い名無し@転載は禁止:2016/05/26(木) 02:47:12 ID:HITexA3s0
仏教にも瞑想から中国道教に影響されて、瞑想が座禅という形になりましたが
同じように、穀断ちや水断ちをして行う習慣があります。

そして、そこから考えられる事を知能を働かせて、そして体と精神を持って知るという修行を、お釈迦様もしてきました。
お釈迦様の場合は、結局はそういった苦行ばかりに捉われていると、逆に真理を得る妨げになる。という事で、餓死寸前になってから、これはよろしくない。苦行ばかりでは真理に到達できないと、中道の道を選びました。

苦しいばかりでは、苦しい苦しいという事ばかりしか、人は悟れないと、理解したのかもしれません。

私自身は、入院した時、一定期間流動食で、まったく食べ物が食べられませんでしたが
そこから開放された時のおかゆが、本当に感激するほどおいしかった事を、よく覚えています。

それも、自我が常に変化している事から感じ方が変わっている証拠なのです。
悟りを得るには、知識を頭に入れるだけでなく、こういった体感も必要なのです。

486本当にあった怖い名無し@転載は禁止:2016/05/26(木) 02:52:28 ID:HITexA3s0
諸法無我

バラモン教では自我の説明をこうしています。

「梵我一如です」
梵とは梵天の事でブラフマンとも言い、宇宙を指します。または大きな我、大我とも言います。
我とは自我の事でアートマンとも言い、小さい我、小我とも言います。

これは同一(一如)である。という考え方がバラモン教の教えでした。
そして自我は永続し、転生を繰り返すという教えです。
その自我にはあらやしき&まなやしきというデータベースが付いており、そこに自分のカルマ(業)が蓄積されていくという考え方です。

釈迦は固定され永続する自我などは無いと説明し、それを諸法無我と言います。
人は生まれて自我を持ち始めてから、その自我さえも諸行無常で常に変化し続け、喜怒哀楽を感じる感覚さえも変化していきます。喜怒哀楽を感じるのは自我なので、自我が常にわかっていくから感じ方も変わっていく、固定された自我など存在し得ない、自我も生じては変化しつづけ、変化を遂げ終わったら消滅する諸行無常であるという教えです。

睡眠不足だと眠気を感じます。
十分に寝た後では満足し、常に自我は変化し続けるもの、子供の頃の自我は菓子を落とせば悲劇ですが、大人になれば菓子を落としたところでどうって事もないほどに、自我は少しづつ変化し続けているのです。
永遠の悲しみなんて存在しません、時間ともに軽減します。永遠の幸福も存在しません。時間ともに薄れます。

よって、固定されて変化をまったくしない自我など、そんなものは無いのだ。という教えです。

487本当にあった怖い名無し@転載は禁止:2019/06/16(日) 18:23:00 ID:Zz/SaLBQ0
てす


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