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疑惑の教学レポート(出所不明の怪文書)

1怪文書:2015/06/01(月) 00:37:06
教学部レポートについて
投稿者:沖浦克治 投稿日:2015年 4月21日(火)16時44分53秒 返信・引用
あのレポートでさかんに池田先生の御意向が云々とあります。

 ですが、池田先生は戒壇本尊を広めるおつもりは全くございません。

 以下は、カソリックの指導者の言葉です。

 その折、私は「究極に求められるものはなんでしょうか」と
質問しました。
 恐らく「板曼荼羅の御本尊」と答えられると思っておりましたが、
 しかし、名誉会長は「久遠元初の法です」と答えられたのです。

 このことから、名誉会長が、永遠の根源を求めておられ、
 板曼荼羅に、偏狭にこだわっておられないことに、非常に感動し、
 創価学会の普遍性と、発展の因を見たおもいでした。
 以来、学会への協力を決意し、今日にいたっております。
 〜引用終わり〜

 戒壇本尊崇拝は、偶像崇拝に過ぎません。
 それは仏法ではないのです。

 寛師は、大聖人の出世の御本懐を戒壇本尊図顕、と言う些事にすり替えました。

 その邪義を正当化するために、六大秘法を考え出した。

 習い損ない故ですね。

 戒壇本尊と言う限定された存在を、本門の本尊で一大秘法の当体とすることは、戒定慧の三学から見ると矛盾だらけです。

 虚空不動定は本門の本尊ですが、衆生己心の妙法である南無妙法蓮華経。
 曼荼羅ではないのです。

 曼荼羅はそれを写し取ったもの。
 御書にあります。

 『爰に日蓮いかなる不思議にてや候らん竜樹天親等天台妙楽等だにも顕し給はざる大曼荼羅を末法二百余年の比はじめて法華弘通のはたじるしとして顕し奉るなり、是全く日蓮が自作にあらず多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎ(摺形木)たる本尊なり、』
 (日女御前御返事)

 釈迦は、法華経で虚空に荘厳な宝塔を建てましたが、本当にそういうものが3000年前のインドで虚空に出現する道理がありません。
 高さが何万キロの建築物が虚空に浮かぶなら、今頃私共はアンドロメダ星雲辺りに遊んでいるでしょう。

 実際には、一切衆生の命の素晴らしさを、宝塔として表現した。
 御書にあります。

 『今阿仏上人の一身は地水火風空の五大なり、此の五大は題目の五字なり、然れば阿仏房さながら宝塔宝塔さながら阿仏房此れより外の才覚無益なり、聞信戒定進捨慚の七宝を以てかざりたる宝塔なり、多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへばさにては候はず我が身を供養し給う我が身又三身即一の本覚の如来なり、かく信じ給いて南無妙法蓮華経と唱え給へ、ここさながら宝塔の住処なり、経に云く「法華経を説くこと有らん処は我が此の宝塔其の前に涌現す」とはこれなり、』
 (阿仏房御書)

 大聖人はこれを写し取られ、一幅のお曼荼羅として図顕なさいました。
 御本仏たる由縁です。

 この御本尊に、一切衆生が南無妙法蓮華経を唱える時、本門の題目として現実生活に現れ、虚空不動慧となるのです。

 題目は一切の智慧の源泉です。

 そして、唱える私共のいる場所が、虚空不動戒で本門の戒壇となります。
 更に一歩深く考察すると、

 私共の命が南無妙法蓮華経であって、本門の題目であってそのまま本門の本尊です。
 南無妙法蓮華経と言う命を、異なる側面から見ると題目と本尊になります。

 その題目と本尊を入れている身体が、宝器と言って本門の戒壇です。
 ですので、創価思想では、本門の戒壇とは、生命活動の場です。

 寛師の邪義である、戒壇本尊本懐に執着すると、こういう事は理解すら出来ません。
 あれは天動説、創価思想は地動説。

 根底が異なる発想なんです。


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