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ターン・アウトのようです

1名無しさん:2024/08/09(金) 23:05:17 ID:VVCaPoWc0



 芽名駅を9時37分に発。普通列車兄石行き。終点までは約50分。
 そこから風雲行きへ、乗り換え時間は4分だからモタモタしないこと。3駅で目的地に着く。
 往復分の運賃1400円分が交通系ICに入っていることは、さっき券売機で確認した。

 ……手書きのメモをポケットに戻す。うん、多分、あまりにも対処不能なことは起こらないだろう。今夜、本当の意味でカエレナイとか。多分。

 ホームに茂名行きの下り列車が入ってくる。大丈夫、今日乗るのはこれじゃない。
 車両の窓越しに見える人々。彼らは、おれのまだ行ったことの無い先に、住んでいるとか、何かしらの縁を持っているのか。
 乗降が始まり、車内の空席は埋まりつつある。兄石方面から来た乗客は、誰がそうなのかもう区別がつかなくなった。
 発車を見送る。

2名無しさん:2024/08/09(金) 23:05:57 ID:VVCaPoWc0

 静かだ。曇りがちな午前の陽ざしと一様に吹く風ばかり。
 振り返れば目線の高さより少し低くに、遠くの人家の屋根などによって、揺らいだ地平線が引かれている。はっきりと、視野よりも長く。

 線の下半分は鈍めの色相で彩られた街並み。対して上半分は空色1色の濃淡から成る。地平線に被さるように青の連峰。空は地上と同じだけ視界を占める。
 ここのホームはちょっとした展望台だ。

 現金は余計に持ってきたし、携帯電話も一応ある。
 ペットボトルは2本、道中で買ってきた。烏龍茶と甘い乳酸菌飲料。
 現地の地図は用意し損ねた。今朝になって支度を始めたおれが悪い。

 昨日情報サイトで見た風雲の案内図は、結局ほとんど覚えていないけれど……小さな集落とのこと、それに観光地なんだし、看板くらいは出ているか。
 配布のパンフレットでも見つかればなおありがたい。
 ああ、確か風雲の終電は21時台だったか。そう長居するつもりもないけれど、1時間に1本の路線だし気を付けないとなあ……。

3名無しさん:2024/08/09(金) 23:06:32 ID:VVCaPoWc0

 駅のスピーカーから、列車の接近案内が聞こえてくる。
 ああ、それにしても。
 平日のど真ん中。普段は寝ている時間に、馴染みの駅のホームで、バイトに行くのとは逆の便を待ちながらこう、生活とかけ離れた予定を組み立てているというのは。
 ずいぶんとらしくないことをしている、が、もう少し浮足立つような気分になれても良いんじゃなかろうか。

 ただバイトの休みの日に、以前から何となく気になっていた神社に足を運んでみようかと思った。それだけのこと。
 今日おれは、果たすべき役割も、特別必要な能力も何も求められない。自由だ。冒険だ。
 ……そうか。

( ^ν^)「冒険だ」

 ぼそりと、しかし自分には響くように呟いてみる。そう思うだろう、と問う。
 改札から離れた屋根もない位置に、他の利用客の姿は遠い。もう少しだけはっきりと。

( ^ν^)「冒険に行くぞ」

 自分の内側、眼球、喉元、心臓の表面、胃の中と順に意識する。どこか漣でも立ってはいないかと。
 期待に。好奇心に。あるいは悲しみでも、この際怒りや憎しみであっても……。

4名無しさん:2024/08/09(金) 23:07:09 ID:VVCaPoWc0

 列車は定刻通りにやって来た。
 ただおれは、平静の呼吸と曲がった背骨を再確認したに終わった。

 2両編成と気づいたので改札側へ少し戻る。
 ホームに入り停止する列車。そのドアスイッチが緑色に光る。スイッチに近づく前に降車客によってドアが開かれた。途端にホームは無数の足音と楽しげな喧騒に包まれる。おれは無心で降車の波が途絶える時を待ち、そして乗り込む。いつもと反対向き、上り列車。

 そういえば今日、ショルダーバッグに大学の講義の参考書は無い。
 敢えてアパートの机に置いてきたのだった。

5名無しさん:2024/08/09(金) 23:07:51 ID:VVCaPoWc0



 車内はまだ存外に混んでいた。
 空席が近くに4、5はあるが人のすぐ隣に座る気にはなれない。運転席付近の壁に背を預ける。

 ジャケットのポケットをまさぐってウォークマンとイヤホンを取り出しかけ、やめた。
 それじゃやっていることが、いつもと同じだ。せっかく非日常の中に入ったというのに。いや、そもそも。

 おれは旅行なんてしている場合じゃない。
 不要な出費はあまりしたくない。電車賃なんて手元に物が残らないものだし、これから現地で何も買わずでは、わざわざ行く意味が薄れる。
 交通費別であと、使いすぎて5千円か。しかしそれでも袋ラーメンがひと月分手に入る。それだけの価値が今日得られるだろうか。
 風雲には価値がある。あちら側を疑っているのではない。おれだ。すべての問題は。

6名無しさん:2024/08/09(金) 23:08:25 ID:VVCaPoWc0

 それに。旅行はいわば“ご褒美”だ。映画、ゲーム、喫食、洒落た服、そういう類のもの。
 日々頑張って成長して成果を上げて、そういうふうに過ごしている、その……、立派な、人物が、楽しみや安らぎのために取る行為だ。

 おれはそこまで達していない。順番がおかしい。覚えなきゃならない、自分なりに考えて意見を出せるようにならなきゃいけない。……失った分と、積み重ねることなく来た分を。

 休学している期間を使って、貯金づくりと勉強に充てる。おかしいところのない予定のはずだった。
 前者は――実際にはどうしたって十分には達しえないが――進んではいる。
 だが。この、大学に戻りたいという望みはきっと本物のはずなのに。
 日々を机に向かって漠然と過ごし、自分で立てた計画すら毎回無駄にして、そのくせしっかり寝坊しているようなうちは、きっと……。

7名無しさん:2024/08/09(金) 23:08:55 ID:VVCaPoWc0

 列車は走行と停車を繰り返している。つつがなく。
 首を捻ると窓の外、住宅もまばらな中にちょうどこちらを向いた看板が流れていく。茂名何とか大学、と読めた。
 今一度正面を意識すれば、車内のほとんどを占めているのは、おれとそう変わらない年齢に見える私服の人々だった。
 車内放送は次の停車駅を告げる。

 ああ、そうか。この時間、都市部を背に進む列車にしては妙に混んでいると思ったんだ。
 この彼らは芽名でおれが目を逸らした青年たちと同じ。

 八東子駅に到着するとほとんど全員が立ち上がり、連なって降りていった。そろそろ2限か。彼ら、年下だ。
 車内に残ったのは5人程度、おれの他はご老人ばかり。
 おれはどうして今、焦りを感じていないのだろう。
 ……先は長い。空いたボックス席に移動する。

8名無しさん:2024/08/09(金) 23:09:35 ID:VVCaPoWc0

 尻をつくと背中がずるりと滑り落ちた。ため息が漏れる。
 馬鹿みたいだ。それにまた腰が痛くなっては堪らない。
 腰掛け直してショルダーバッグを下ろし、抱くように膝に乗せる。窓枠は頬杖をつくのにちょうどいい。
 すると県が誇る八閑平野、地平線いっぱいにまで広がる水田地帯を、真横から眺める形になった。

 県の旧国名を持つこの平坦な地形は日本地図でも十分表現できるほど広い。
 そして町になっている以外、大部分が水稲栽培用に開墾されているそうだ。大学入学直後の頃、何かの講義で聞いた。
 遠くを山々が取り囲み、冬の積雪と隣県から流れ込む日谷川が、この下流域に清浄な水と肥沃な大地を届けている。自然と人の手が作った広大な水田の、ほんの一部。

 座席の反対側の窓は八東子の住宅街を写している。比較的起伏が激しい場所だ。小規模の畑がいくつか。
 列車の走行音が一時的に響くものに変わり、川を越えていく。車両用の橋のさらに向こうには水門が。
 線路はしばらく海岸線に沿って南下し、いずれ内陸側に少し折れ、乗り換え駅からまた海岸を目指す形だった。海は見えてきそうに無いか。視線を戻す。

9名無しさん:2024/08/09(金) 23:10:14 ID:VVCaPoWc0

(  ^ν)(稲はまだ小さいな。水面が一体となって空を丸ごと映している)

 芽名と茂名の往復ばかりしていて、水田など目にするのは久しぶりだ。
 いや、芽名であっても少し足を延ばせばあったか。あのショッピングモールの周りとか、そうだったはず。
 しかし、もう植え付けが済んでいるのか。そういえば今いつなんだろう。最近妙に暑い気がしていたけれど。

(  ^ν)(……6月)

 ウォークマンで確認する。そうか、6月に入っていたのか……。
 確かに桜が終わっていた覚えはあるが。アルバイトのシフトを見る時、当然気にしているはずだというのに。
 そして今、この日付をすぐに忘れてしまう予感が何となくある。しかし職場には無断欠勤も遅刻もせずに済んでいる。問題は……ないのか?

(  ^ν)(問題あると、捉えるべきでは)

 それはなぜか? ……なぜなんだろう。
 ただ、濃霧の向こうへ手を伸ばしているような、何かに手が触れても触れられないままでも怖ろしい、そういう心地がする。

10名無しさん:2024/08/09(金) 23:10:52 ID:VVCaPoWc0

 列車は加速している。

(  ^ν)''(……?)

 いつの間にか水田地帯の内部を走行していた。加速する。

 エンジンは急き、車輪が弾けるかのようだ。振動音の大きさといったらない。
 列車はトップスピードを保つ。

(; ν )(どうしたんだ、急にっ)

 おろおろと辺りを見回す。しかし轟音の中には車内放送も他の乗車客の声も一切ない。浮き上がりそうになっているのはおれの小心だけだ。

 落ち着け。加速と減速が十分できるくらい駅の間に距離があるというだけだろう。民家も遠い。これなら線路も真っ直ぐ引きやすい。

11名無しさん:2024/08/09(金) 23:11:21 ID:VVCaPoWc0

 近景が溶け落ちる。回転が線路を轢き潰す。すべてを無感動に呑み込む巨大な運命が想起されて、頭を離れない。列車はただ、ひた走るのみ。

(;l!!  )(早く次の駅に着いてくれ……)

 今すぐは無理だ。ぼんやりと水田の中を通過していくものとばかり思っていた。
 乗り慣れてなどいなかったんだ。以前読んだ、穏やかそうな顔の牛も蝿を叩き殺す尾を持つという話を思い出す。
 自分の内に、漠然とした不安感などではなく差し迫った危機意識が湧きたっていることに、加えてその対象がこんな些事であることに、乾いた笑いでも起こりそうで、全くそんな余裕が無い。
 待ちわびた車内放送はチチイシと告げる。隣の市、佐須賀に入ったようだ。

 浅く息をつく。こっそりと視線を上げてみれば、海岸のあるはずの方向、広がる水田の先に、青葉色の山々が姿を現していた。

12名無しさん:2024/08/09(金) 23:12:33 ID:VVCaPoWc0



 兄石駅は3本の路線が接する点に位置する。
 乗換案内というものを、おれはこの県に越して以来初めてまともに聞いたかもしれない。
 姉石、阿蘇、風雲。その先も海沿いの町々を繋ぎ、隣の県へと継いでいくらしい。

 兄石の住民に愛されているのか、それとも内陸の主要都市・渋澤からの流れが多いのか。ここでは利用客の人数も顔ぶれもずいぶんと変わっていた。
 休暇らしいグループがいくつか。あちらの若い女性3人組はハイキングの格好だ。ご老人はざっと20人は居て、威勢のいいお喋り声があちこちから聞こえている。そして。

 ピンクのエプロンを付けた壮年女性らが引率する、幼児たち。跨線橋を1列になって降りているところを、階段の逆側を通って追い越す。
 見覚えのある紅白帽が歩行に合わせ、危なげもなく浮き沈みしていた。

 階段そばの車両を利用する、そう踏んで同車するのを回避した。
 こちらの乗車客の外交的さを見るに、隣の車両ではさぞ持てはやされていることだろう。本人たちの意向とは無関係に。

13名無しさん:2024/08/09(金) 23:13:15 ID:VVCaPoWc0

 列車の速度は緩やかだった。辺りの山々を迂回しながら進む路線なのだろう、おれは時折り遠心力に強く揺られた。
 数年ぶりに、山というものが迫ってくる。




 降りた先にまさか改札も無いとは思わなかった。が、これはおれが鉄道事情を知らないというだけだろう。
 先に出口に並んだ人をまねてICを所定らしい位置にタップすると、機械は耳になじんだ反応音を返してきた。

 降車客の列に付いて行きそうになり、はっとして駅舎内に留まる。出たところでどちらに向かえばいいかわからないのだった。
 待合室は温かみのある雰囲気で、広い床面がコンクリート製な以外は古民家風。意外と新しく見える。
 辺りには小規模のコンビニ、駅年表のパネルとスタンプ台、待合のベンチの傍に印刷物用のラックがあった。

14名無しさん:2024/08/09(金) 23:13:45 ID:VVCaPoWc0

 近所の温泉宿の広告や住民向けのイベント案内に交じって、地図らしきものが2種。手に取る。
 1枚は風雲の観光地や店を概観するもの。風雲神社は大きく載っている。柔らかなタッチの水彩画調、昨日ホームページで見た地図と同じだ。
 もう1枚は風雲山公園の見取り図。紅葉の名所と聞き覚えがある。ありがたく頂いていこう。

 舎内では先程の幼児一行が点呼を取っている。それに50代くらいの……男女がこちらを向いている。目的はおれと同じか。
 続きを見るのは駅前広場内の無料の足湯とやらに向かってからにする。

 開け放たれた引き戸。ようこそふううんへ、と書かれた横断幕を潜り抜ける。
 淡い日光が目に届く。その下、低い連山に抱かれた素朴な街並みが現れた。由緒ある村の入り口……そこにおれは立ったらしい。
 時刻は11時少し前。しっとりとした冷涼な風が吹いている。風雲駅は瓦屋根の、小さな可愛らしい木造駅舎だった。

15名無しさん:2024/08/09(金) 23:14:48 ID:VVCaPoWc0



 駅前は見渡すほど広く、ゆえに余計に閑散として見える。
 正面の駐車場にはマイクロバス1台、乗用車は10台も無い。祭日や紅葉シーズンには見違えるのだろうか。

 駅を出て、駐車場の外周を左回り。案内図に従って歩けば、よく剪定された植木の影から東屋が顔を出す。
 ちょろちょろという音。僅かに見える湯気。他に利用客は来ていないようだ。
 辛子色の幟がはためいている。やはり勝手に浸かっていいらしい。

( ^ν^)「おじゃまします……」

 正方形の湯舟、その水面よりやや高く座席が取り囲んでいる。綺麗なタイル張り。なるほど、風呂だ。
 公衆浴場なら身体を洗ってから入るのがマナーだが、足湯の場合はどうなのだろう。
 柱に注意事項が貼り出されているのを見つけてじっと読む。
 脚以外浸かるな。タオルなど入れるな。飲酒飲食禁止。土足はそこまで。タオルの販売は駅舎内。1本110円。
 足湯のことは昨日から知っていたので、タオルは持ってきている。つまりは……このまま入っていい。

16名無しさん:2024/08/09(金) 23:15:19 ID:VVCaPoWc0

 玄関ではない場所で靴を脱ぐというだけだが、どうもぎくしゃくした。
 立ったまま靴下を引っ張り脱いだところで、湯舟の座席に着いて裾を捲り上げてから行えばよかったことに思い当たる。
 こういう鈍さはいつものことだが、受け入れようと思えそうにはない。
 脱いだ靴下を革靴に突っ込む、半ば無意識に取ったこの動きをいつどこで覚えたのだろうか。
 なるべく静かに、湯舟に脚を入れた。

( ^ν^)(あったかい)

 正直、脚ばかり入れても仕方ないのではないかと思っていた。が、ふくらはぎの内側まで温まるというのは、じんわりと解されるように心地いいものだと知る。
 アパートに湯船はあるが湯を張ったことは無い。シャワーは好きだが今更そう感じるということは、これらは案外違うものなのかもしれない。

( -ν-)(茂名駅前にも置いてくれないかな……100円くらいなら出してもいい……)

 年末年始の勤務の頃、ふくらはぎが強張って、こんなものかと揉んでみたら痛みまで出てきたことを思い出す。
 血栓がどうとかで揉むべきではない部位だと情報を得たのはその後だった。

17名無しさん:2024/08/09(金) 23:15:54 ID:VVCaPoWc0

 東屋を吹き抜ける山風と温泉の混ざった匂いがする。日陰の水面は湯気を纏い揺らめき続ける。
 いつまでも浸かっていてしまいそうだ。駅で貰ってきた地図を広げる。

 これのような、固有名詞の散在する媒体は苦手だ。より正確には、苦手になった。
 初見の単語は特に目が滑る。言葉と意味がなぜか紐づけしにくい。情報を吟味しているうちに、何を見たのか忘れている。そして何を探していたのかを。
 今時計を気にしてはいけない。
 再度整理をする。

 ……神社まで往復するだけなら3、40分で済んでしまう。
 小さな山村だ。標高500m級の風雲山をはじめ、周囲は山と森林に半ば閉ざされている。

 風雲神社は山の麓。駅前通りの2本隣を直進すれば目印ともなる鳥居が見える。
 駅前のほうを行っても敷地に当たるので、迷うことはなさそうだ。拝殿のほかに宝物殿、相撲場、神楽殿、摂社と末社など。
 他には、観光案内所と風雲山公園、野鳥の森、苺農園、登山道とロープウェイ、歴史資料館が主要か。
 道の駅や展望台、吊り橋、海水浴場などもあるが、これは車が無いと厳しい。

 店の類は温泉宿、土産物屋、甘味処、食事処、カフェ、バー、居酒屋等々。食べ物は苺、焼き団子、おでん、イカと魚。
 お社や巨木がいくつか、店舗や民家と同居するように存在している。
 右上の空きスペースで、雛人形に似たキャラクターが微笑んでいる。いもじゃちゃん。苺モチーフの髪飾りを付けている。

18名無しさん:2024/08/09(金) 23:16:37 ID:VVCaPoWc0

 昨日同じ地図を見た時よりずっと、内容が頭に入る。ただ2度目だからか、実感が湧いてきたのか。
 読み取ったことが失われるのを恐れて、こめかみを押さえながら考える。

 づ^ν^)(神社と公園と山の上にさえ行ければ、とりあえずそれでいい。資料館は覚えられる気がしないから今回はパス。野鳥の森は方向が合わない。余裕があればだ。
     苺が名産……農園は近いしまだ収穫期らしいけど……想像がつかないな。多分行かない。
     観光案内所。地図はもう貰ったし、今情報を増やすことはないか)

 3つ折りのリーフレットのおもて面にモデルコースが紹介されていて、どの順で回るのかも決めなければならないことに気づく。
 どうしよう。まずは……、各地の分布から考えるにまず公園か神社だろうか。どっちにすればいいんだろう。1か所の滞在時間は……、メインに先に向かうべきか?
 いやロープウェイの終業時刻も、待て、最初に。……どう考えれば。

 分布からしてルートはいくつだ、体力のいる場所……、そうだ店も見て回るなら、だからまずはルートの候補を。
 スポットを並び替えればいい、4の階乗……いやそんなに候補は無いだろう。公園ってどこだっけ、ああ、地図のここだ、どこまで考えたっけ、えっ、と……。つまり……?

(; ν )、(……)

 ゆるゆると頭を振る。

(;-ν-)(……ここはこのモデルコースに倣おう。神社、ロープウェイ、店、公園の順で)

19名無しさん:2024/08/09(金) 23:17:17 ID:VVCaPoWc0

 昼食のことは気にしなくても良いように、バッグに総菜パンを入れていた。
 こういう用意をあまり悩まずにできたのは、バイトに行くときの習慣のためでしかないのだろうな、と思う。
 ともかく。店に入りやすそうであれば、その時に。山の上に売店とフードコートがあるらしい。そこで食べるのもそれらしいか。
 良かった、大体決まった。

 泉水のためか脚の表面がぬるぬるしている。どういう作用なのかは知らない。水道水ではこうはならないということだけ。
 柱には注意事項以外にも書かれている。語らいの湯。一つの足湯を皆で囲んで、のんびりと和やかに疲れを癒してください。

 ダイニングテーブルや囲炉裏のようなものか。ぐいと背伸びして、深呼吸。そのまま手をタイルの座席の縁に。
 東屋の天井裏の梁。軒先。連なった雲。隙間から覗く青空。植木の松や桜の生きた緑色。小さな和風駅舎。通りのずっと先に、地元住民と思しきグループの人影。
 音を立てないように、湯の中でそっと脚をばたつかせる。

20名無しさん:2024/08/09(金) 23:18:04 ID:VVCaPoWc0

【出てくる地名等一覧】

茂名市(もなし):
 茂名(もな)(*1)・芽名(がな)(*2)・八東子(はっとうし)・円耳(えんに)
佐須賀市(さすがし):
 父石(ちちいし)・兄石(あにいし)(*3)・渋澤(しぶさわ)・姉石(あねいし)・阿蘇(あそ)・風雲(ふううん)(*4)

八閑平野(はっかんへいや)・日谷川(にちやがわ)

*1) 県内の主要都市のひとつ。バイト先の最寄
*2) 大学とアパートがあるところ
*3) 乗換駅
*4) 神社と紅葉で有名な山村。目的地

21 ◆MOZDWCQkWA:2024/08/09(金) 23:20:20 ID:VVCaPoWc0
今回はここまで。短編です。
書き上げてから投下したかったのですが、進捗6割でMPが枯渇してきたのでちょいと先行させてください。この範囲はもう推敲しなくていいはず。たぶん。

実際は地域によっては交通系ICの非対応駅がかなりあるみたいです。“風雲駅”にはさて導入されているのかというところですが、描写の簡略化としてご了承ください。

22名無しさん:2024/08/10(土) 15:06:50 ID:PFGHDYOU0
乙乙!旅気分満載でwktk
駅前に足湯あるの最高だね
地名に拘りあるのも楽しい。

23名無しさん:2024/08/11(日) 22:48:33 ID:U7VlXELs0



 駅前通りに戻る。歩道は白に近い石模様のブロックが整然と敷き詰められていた。
 これはありがたい。複数色のモザイクパターンなどをじっと見ながら歩いたりすると、脳の中を指先でかき回されるような薄気味悪さに悩まされることになる。
 とはいえそれも、過去のことになりつつあるのだけれど……。

( ^ν^)(せっかく来たんだ。今日は意識的に前を向こう)

 2車線道路の両側には街路樹と草花。葉は茂り風に擦れて音を立て、花弁は白や赤紫に染まって群れている。
 街路灯は低く、灯篭を模した品のあるデザインで、どことなく庭園を歩いているような感じがする。

24名無しさん:2024/08/11(日) 22:49:45 ID:U7VlXELs0

 通り沿いは旅館やレストラン。模様付きのガラス窓を備えていたりレンガ風の外壁だったりと洒落ていて、おっとりとした村の雰囲気によく馴染みつつも、古めかしいとか田舎っぽいとかいうようではない。
 エントランスを開け放して、店主と常連客と思しき2人が気さくに会話している様子が散見された。

 見通しのいい村だ。建物の間が広く空いていて各々庭を作っているし、3階建て以上のものはほとんど無い。山に向かって緩い上り坂となっているせいでもあるのだろう。

 ぽっかりと空いた芝生の土地の上に、不動産屋のような建物が現れた。屋外に貸し自転車が並んでいる。ここが観光案内所か。
 交差点に背の高い看板が設置されている。行き先が5つばかり書かれ、それぞれは別々の方向を指している。
 ここで……左折。

25名無しさん:2024/08/11(日) 22:51:00 ID:U7VlXELs0

 メイン街道から1本逸れると、途端に周囲の植物が野性味を帯びてきた。
 負けじというように幟があちこちに立っている。寿司とか、うどんとか。食事処の通りだ。
 これらは観光客相手というだけでなく、地元住民にもかなり利用されていそうな店構えに見える。
 昼食には早すぎない時間だ。人の姿もぽつぽつと。女性3人組とすれ違う。あの服装は駅で見かけたような、覚え違いのような。

 暖簾の掛かっている純和風の民家、そのショーウィンドウには刺身定食や海鮮丼が入っている。
 おれは歩を緩めることも無く通り過ぎてしまった。……きっといいものを出しているんだろうな、とは思う。
 そういえば個人経営の飲食店など、自分では喫茶店と大学周辺の飲み屋くらいにしか入ったことが無かったかもしれない。

 旅行が冒険だというなら今はいい機会だろうけれど。臆する気持ちがどうしても強いうえ、入店や食事するイメージにいまひとつ現実味がない。
 食品サンプルのイクラがきらきらしていて、値札を気にすることはできなかった。

26名無しさん:2024/08/11(日) 22:51:46 ID:U7VlXELs0

 道はすでに観光地らしからぬありふれた装飾に変わっていたが、繁茂しつつある夏草に包まれて、神社にあるような朱い橋が架かっていた。
 かなり短いそれの中央まで来て覗いてみると、鋭く深いV字の谷が走っているのが分かる。
 黒色の大岩で保護されたのり面。底部には砂礫の堆積。
 流れる水はごく細い。上流へ向かって視線を沿わせていくと、淡い陽光に照らされた夏草と暗がりを作る樹木。自然に生えたのであろう無秩序なそれらの先は、霧がかった連山。
 あの一帯に降った雨がここを通るのか。

 茂名周辺は日谷川の河口に当たり、おれは普段の列車通勤でその川を、5秒か10秒たっぷり使って跨いでいる。
 コンクリートで護岸の施されたあの広く穏やかな水面と、目の前の今にも途切れそうな水流がおれの中で関連付けられるのには、いくらか時間が費やされた。

 背後に顔を向けると、川は住宅と雑木林との曖昧な境界の中へ流れ込んで行っている。ほとんど先を見通せない。
 橋の傍には野生の夏草に交じって、花束のような……スーパーの園芸コーナーで見かけるような花が何種かまとまって咲いている。
 白いフリル付きの小花を連ねた穂。ふわりと地面を覆う黄色の群れ。すうと伸びた花柄に大ぶりの円形の桃色。他に青や橙のものも。
 あれらは誰かが何かを思って植えたものなのかもしれない。

27名無しさん:2024/08/11(日) 22:52:16 ID:U7VlXELs0

 歴史ある村の一般家屋も特に古くは無いのだなあと呑気に歩いていたところで、脚が止まる。
 住宅地に入るというのはおかしいじゃないか。
 少し前に最後の右折をしたはずだが、両脇に現れるのは店や旅館でなければならない。

(  ν^)(……やったな)

 ここで引き返すのも地図を取り出すのも、何となく嫌だ。誰へともなくごまかすように歩みを再開する。

 本来右折するべき道を見逃し、今1本隣を歩いているなら。
 なぜ道を見逃したのか、という発想がじわりと広がって、おれはこめかみを揉む。
 脳内に単純な空間パズルが組みあがり、グチャグチャに崩れ、また組みあがる。その隙に思考を走らせる。
 そこまで時間はかからなかった。次に交差点に入ったら右折すれば、合流できる。

28名無しさん:2024/08/11(日) 22:52:51 ID:U7VlXELs0

 答えは出たが、頭の中心に絡みつく血だまりのような熱が残った。しばらく消えないだろう。深呼吸しても頭を振っても薄まらないこれは、割と最近の悩みだ。

 休学する以前までは少し違っていた。はず。
 “以前の俺”への手掛かり、気が向いたときにしか書かない日記帳に残していたこと。未だ読み返せないままでいるが、そこには、確か……。
 ……ずっと眠いし頭が痛くて日差しも電灯も苛立たしいとか……目が覚めても指1本動かさないまま起きるべき理由をひたすら自らに言い聞かせているとか……講義の説明がせいぜい単語1つしか拾えなくて残りの部分は谷底に落ちていってしまったように取り戻せそうにないとか……。

 アスファルトの灰色。規則的な振動。
 ……心臓の底にタールのようなものが溜まっている感触がいつもあって時々脊髄を伝って上がってきては脳を侵すとか……腐ったリンパ液が骨の表面や関節を冷やして回っているみたいだとか……ガソリンが逆流してきて真っ黒に燃え上がる水車小屋にでもなった気分だとか……。

29名無しさん:2024/08/11(日) 22:53:24 ID:U7VlXELs0

 軽く目を瞑り、瞬き。結構きちんと出てくるものだ。
 体感として覚えているものも無くはない。だがほとんど、それらが自分自身に起きた事だという感覚が無い。

 2年前の4月だ。時期からして、休学がきっかけだったのだろうと思う。掻き消えるように、自分を構成する一切がこの手から離れてしまった。
 あれから、楽にはなった。へらへらと笑えるようになった。それだけだ。
 本当に失われてしまったわけではない感じはしている。擦りガラスの扉のような隔たりの先、叩いても呼び掛けても開かないがそこに。まだ……。

 道端に若いエノコログサが、風に盛んに揺れている。
 中学から高校にかけてのたった1年半、一緒に暮らした猫との出来事が、海の向こうのネットニュースと同列に、遠く感じられた。

 おれの望みは果たされ、本来の道へと戻ってきた。平日の穏やかな賑わいの先に、赤い鳥居が見える。

30 ◆MOZDWCQkWA:2024/08/11(日) 22:54:07 ID:U7VlXELs0
>>22
乙ありがとう。

短いですがここまで。
次回は幾らか日数を頂くことになると思います。

31名無しさん:2024/08/12(月) 21:03:59 ID:a5lEKa5c0
おつ

32名無しさん:2024/08/13(火) 00:03:29 ID:in/wbfEc0
乙乙
確かに観光地の飲食店は一人で入るの勇気いるよね

33名無しさん:2024/08/13(火) 00:05:02 ID:AlZvviSo0

リアルで丁寧な描写好きだ わくわく

34名無しさん:2024/08/21(水) 02:09:27 ID:Hio3d9VE0
すげー文章うまい
言葉選びもお洒落で知的に感じます


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