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ラトヴイームの守り手だったようです
181
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:13:53 ID:zFxhySAs0
それでもオレは警戒を解くことはせず、男と男の周囲を入念に観察する。
何よりも目に付いたのは、男の腰に備えられた斧。
さして大きなものではなく、大人の男性であれば片手で優に振るえそうに見える。
けれど使い込まれていることが一目で判るその雰囲気からは、
大きさや見た目だけでは測れない、空恐ろしいものが感じられた。
「生ぬるい水と数日前まで新鮮だった乾燥肉さ。口にしたけりゃ好きにやりな」
焚き火の側に置かれている袋。
その袋に視線を向けていると、男がやはりこちらを見ないままにそう言った。
そして男は焚き火をいじるために握っていた細い枝を火の中に放り込むと、
そのまま寝転がってしまった。無防備な格好で、背中を向けて。
よく判らなかった。おそらくあの時、あの二人組の男たちに襲われた時、
「飛び込め」と言ったのはこの無精髭の男だろう。であればあの空間の亀裂、
どのような方法でかは判らないけれど逃げ道を作ってくれたのも、
おそらくはこの男の仕業なのだと思う。
でも、なんのために? その理由が、まるで判らなかった。
この男は、一体、何者なのか。ただ、それよりも――。
182
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:14:19 ID:zFxhySAs0
水と、食料。袋のなかに入っているという、それ。
ここまでずっと感じることのなかった飢えと乾き。
それがいまは、強い衝動となって己自身に訴えかけてきた。
ゆっくりと、近づく。そろそろと、音を立てずに、焚き火の側へ。
男は動かなかった。もう一歩、近づく。男に反応はない。袋を手に取り、開ける。
そこには確かに男の言った通り、乾燥肉と動物の革を用いた水筒が入っていた。
男の方に意識を集中しながら、それらに手を付ける。
肉は、硬かった。本当に硬くて、噛みちぎれないかと思った。
口に入れてからも硬くて硬くて、顎が痛くなる程だった。水も、確かにぬるかった。
水筒のせいかそもそもの水のせいか獣臭のえぐみが気になり、飲んでいると度々むせそうになった。
それをリリは、夢中になって噛み、飲んだ。幾度も噛んで、幾度も飲んだ。
「ごめん、ごめんなさい……」
いつしかオレは、謝っていた。謝りながら噛み、謝りながら飲んでいた。
謝るという意識も、噛むという意識も、飲むという意識もなく、一連の動作を繰り返していた。
ただひたすらに、そうしていた。ごめんなさい、ごめんなさい。そうオレは、謝り続けた。
183
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:14:48 ID:zFxhySAs0
「お前さん」
声。前から。寝転んだ男から。慌ててオレは、目元を拭う。
「察するにお前さん、叡智の蛇に大事なものを獲られたな?」
背中を向けて寝転んだまま、男が話を続ける。叡智の蛇。男はそう言った。
確かアドナも言っていた。識らしめる者であり、同時に呑み込み留まらせる者と。
だから、気をつけなさいと。叡智の蛇――蛇。緑の、瞳。
「いや、詮索する気はないんだ。ただ、おじさんみたいな
人種にとっちゃ出会いは貴重でね。貴重な機会を大切にしておきたいのさ。
で、だ。お前さん、何を獲られたんだい?」
オレは答えない。男は一人で話を続ける。
背中を向けたままで。宙に立てた指で、ふらふら円を描きながら。
「その様子だと……物じゃあないな、人か。大切な人。家族か、兄弟か、それとも――」
指がぴんと、一点に止まった。
「友達か?」
184
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:15:11 ID:zFxhySAs0
――オレは、答えない。
「いやすまないすまない、本当に詮索するつもりはないんだ。
ただひとつ、教えてやった方がいいかと思ってね」
頭を掻きながら男が、上体を起こした。
そして、覗き込むようにして首を回し、こちらの方へと視線を向けた。
「その友達な、生きてるぜ」
言葉にならない、声が漏れた。握りしめた乾燥肉が、ぱきりと乾いた音を立てる。
男が口角を上げた。口の端を上げて笑みを見せ、
無精髭の生えたあごには指を添わせて、言った。
「なあお前さん、おじさんと手を組まないか?」
.
185
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:15:45 ID:zFxhySAs0
腕がない。ボクの腕が。どこにあるの、ボクの腕。
ボクの、ボクの、ボクの腕。
腕がある。知らない腕。
肘から先の破けたところに、皮膚の下から生えた腕。
知らない、知らない、誰かの腕。
だってこんな細くて痩せた、“小指の欠けた”腕だなんて、そんな腕は、ボクのじゃない。
どこ、どこ、ボクの腕。
どこにあるの、ボクの腕。
腕を探して、ボクは駆けた。
薄暗く、埃の積もる邸宅の中を闇雲に、四方八方駆け続けた。
腕はなかった。どこにもなかった。自分の腕などどこにもなく、
自分以外の誰かの腕が、腕のあるべきその場所に、
それが己と主張するかのように脈動していた。
欠けた小指が己を主張し、その主張から耳を塞ぐべく、
拳を握って存在しない小指を隙間に隠した。
186
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:16:27 ID:zFxhySAs0
部屋はあった。部屋はあった。いくつもの部屋はあった。
腕はなかった。見覚えはなかった。見覚えはないけれど、どこに何があるのかは判った。
見知らぬ誰かの邸宅だけれど、そこに息づく気配と生活を知っていた。
「これ、は」
絵があった。絵が飾ってあった。女性の絵。赤子を抱いた女性の絵。
懐かしさなど決してない、懐かしさを覚える女性の。知らない。知っている。
その声、その微笑み、その暖かさ。そして、その――。
187
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:16:58 ID:zFxhySAs0
「あ」
亀裂が走った。絵の中に。絵の中の女性に。絵の中の女性の首に。
亀裂が走った。首から。液体が、流れ出した。絵の中に、赤い、液体が。
女性の皮膚から、血の気が失せていく。土気色に変わっていく。
液体は止めどもなく溢れている。溢れ、溢れて、胸の赤子に降り注いだ。
赤い液体が赤子の頭を、身体を、足を、止めどもなく濡らし続けていく。
止めどもなく、赤く染めていく。目に、口に、流れ込んでいく。
血を含んで赤子が、ふくふくと膨れ上がっていく。生命を、強めていく。
だめだと思った。いけないと思った。
こんなことは間違っていると、正さなければいけないとボクは思った。
けれどボクは、何もしなかった。何をすればいいのか判らなかった。
何かをすることが怖かった。何をするでもなく立ち尽くして、堂々巡りに頭の中を巡らせた。
そうだ、腕を探さなきゃ。こんな腕は違うから。
ボクの知らない女の人をボクは知らない。どうして小指がないの。
どうして懐かしいの。どうして、どうして。
どうして、ぼくは――。
188
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:17:30 ID:zFxhySAs0
「シィ!」
絵画の変化が、止まった。女性の首は斬られていなかった。女性は生きていた。
それは知らない女性だった。首を下げた。腕の中を見た。
生首が、抱きかかえられていた。
「……ショボン、どこにいたの?」
「ずっと側に。お前の最も近い場所に」
ショボンはいう。ショボンの言葉はむつかしい。
何を言っているのかわからない時がたくさんある。
でも、ショボンはボクの友達。大切な友達。
だから、ショボンがそう言うのなら、その通りなのだと思う。
だってショボンは、ボクの友達だから。
「ショボン、腕がないの。ボクの腕がないの。たぶん、ここにはないの。
だからボク、外に行くの。外に行かなきゃいけないの」
ショボンを抱えて、屋敷を走る。道は判っている。知らない場所だけれど、道は知っている。
だから走る。出口に向かって、ボクは走る。扉を開けた。外に出た。
外は、水に囲まれていた。一面が水で、川だった。屋敷の周りを、ぐるりと回った。
どこへ行っても、水しかなかった。水しかなくて、どこにもいけなかった。
腕を探しに行けなかった。それはとても、困ってしまうことだった。
189
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:17:50 ID:zFxhySAs0
「シィ」
ぐるぐるぐるりと屋敷の周りを回りに回って、ボクはそれを発見した。
不揃いに並べられた板の橋が、川の方へと突き出しているのを。
そこに浮かんだ、小さく簡素な木組みの小舟を。
小舟の先端に立つその人を、ボクは見つけた。
「何があっても、私を手放すな」
顔の見えない、渡し守が、見えない顔で、ボクを、見ていた。
.
190
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:18:19 ID:zFxhySAs0
夢を見ました。夢の中の私は、一人の男の子でした。
夢の中の私は、小さく簡素な木組みの小舟に乗っていました。
陽の光がきらきらと水面に反射する光景は心地の良いものでしたけれど、
けれど夢の中の私はそこで、うれしさや楽しさよりも不安や緊張に身を竦めていました。
船を漕いでいるのは、私ではありませんでした。
舟を漕いでいるのは男の人でした。男の人は無言で舟を漕ぎ、
だから私も、何も話せないでいました。聞きたいことはありました。
ずっとずっと、ずっと昔から聞きたいと思っていたことが、私にはありました。
けれど私は、やはりそれを口にすることはできませんでした。
私はただただ自分の手を見つめ、指と指とをこすりあわせ、
右の小指とそこに嵌められたものをさすっていました。
それが、ずっと続きました。
ずっとずっと、無言の時間が続きました。
191
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:18:52 ID:zFxhySAs0
「あ」と、私は声を上げました。
水面から、魚が跳ね飛んだのを目にして。
跳ね飛んだ魚が、水面ぎりぎりを飛ぶ鳥に捕まえられたのを目にして。
時間にして一秒ほどもない、ほんの一瞬の出来事でした。
ほんの一瞬の出来事に私は顔を上げて、飛び去る鳥を目で追いました。
「どこへ行きたい」
舟の先端から、男の人が私の名前を呼びました。
無表情に、淡々とした声色で。男の人が、私のことを見ています。
舟は止まっていました。止まった舟のその先端で、男の人が私の答えを待っていました。
行きたいところ。そう言われて私は再び目を伏せて、てのひらに視線を落としました。
てのひらの、右の小指の、そこに嵌めた指環に視線を向けて。
かさかさとした樹の感触を感じながら。けれど結局、私は何も答えられませんでした。
口を閉じて私は、俯いたまま何も言いませんでした。
192
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:19:12 ID:zFxhySAs0
舟が再び、動きました。
私は何も言いませんでした。何も。
その人が漕ぐ舟に身を任せて、ただただ身体を揺らしていました。
果てなき川の果てに向かって、どこまでも、どこまでも、揺られていました。
どこまでも、どこまでも、どこまでも――。
.
193
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:19:43 ID:zFxhySAs0
「よう、酔いは覚めたかい」
「……あ?」
頭上から投げられた問いかけに、頭がくらくらとした。前後左右もよく判らない。
喉の奥もねじ曲がっている感じがして、すこぶる気持ちが悪い。
「返事を聞くまでもないな」問いかけてきたものと同じ声が、同じく頭上から発せられる。
「ほら飲め」と、口に何かを当てられた。
言われるがままに口を開き、注がれるそれを口にする。獣の臭いがした。
少しずつ、意識がはっきりとし始める。頭上からオレを覗き込む男の顔。
誰だっけ、このおっさん。無造作な無精髭に、わずかに上がった口の端。
ああ、そうだ。乾燥肉の。記憶が蘇っていく。教えてもらった、男の名。
そうだ、確かこいつは、そうだ――フォックス。
194
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:20:21 ID:zFxhySAs0
「疲れもあったんだろうさ。空間の移動は肉体への負担も大きいからな」
そうだ、オレはこいつの、フォックスの提案を受け入れたんだ。
手を組まないかという、その提案を。フォックスは言っていた。
オレの友達――シィ、それにショボンは生きていると。
自分の仕事を手伝ってくれたならシィとショボン、二人を助けだすその手伝いをしてやると。
シィとショボンが生きている。信じがたい発言だった。だってオレは見たのだ。
シィが、ショボンが、あのばかでかい蛇に呑み込まれたのを。
シィ、シィの……腕が、千切れ飛んだ、瞬間を。
無事なはずがなかった。適当なことを言うなと、頭に血が上りもした。
けれど――もし、本当に生きているなら?
断る理由などなかった。
フォックスのいう仕事がなんであろうと、断るなんて選択肢はありえなかった。
もちろん、こいつのことを完全に信用したわけではない。
なにをさせるつもりなのかも判らないし、無精髭は胡散臭いし、
やっぱり全部うそなのかもしれない。オレを利用するだけのつもりなのかもしれない。
それでも、他に宛がないのも事実。
だったら断る理由なんて、あるわけない。
助けられるかもしれない。それが、すべてだった。
195
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:21:05 ID:zFxhySAs0
そうしてオレはフォックスの手を取り、
フォックスがその腰に備えた手斧で切り開いた空間の裂け目へと飛び込み、
あの極彩色の空間を渡って――そうしたら目が回って、気持ち悪くなって、意識を失って――
それで、ここは、どこだ?
「幾何対黄金のイェツィラ――その中心部に位置するティファレトの城塞さ」
「ティファレト……?」
言われ、辺りを見回そうとする――
が、その動きは即座に止められた。
「振り返ることはお勧めしない。自分の影に取り込まれるぜ。
俺たちが目指すのは――あっちだ」
振り返ろうとした動きを止めた大きくごつごつした手がオレの頭に触れたまま、
異なる方向へと首の向きを誘導する。フォックスが示した目指す方向、
目的の場所に視線を向けたオレは、その余りのまばゆさに目を細める。
196
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:21:30 ID:zFxhySAs0
「眩しい……」
「そこは我慢だ。ま、じきに慣れるさ」
強く、目を焼くような光の塊。まるで太陽のようなそれ。
遥か彼方に位置するその光点を中心にオレは、自分がいまいる空間を見回した。
何もなかった。
白い、ただただ白い空間が、ただのひとつの異物もないままに広がっている。
それはとてつもなく広い――ような、気がする。はっきりとは判らない。
目印となるようなものが本当になにひとつ、ここには存在していなかったから。
あの光点がどれだけ離れたところにあるのかも、判然としない。
「お前さんの友達な、あの光の先に囚われてるはずだぜ」
上体を起こす。指先をまぶたにあて、押すようにして閉じる。
一、二……三秒。目を開く。遥か前方の光の点を見据える。
目を細めたがる肉体の反応を御して、しっかと目を見開き、目的の場所を見据える。
立ち上がる。視線はそのままに。
197
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:21:59 ID:zFxhySAs0
「もういいのかい?」
「……あんたの目的地もあの光の点ってことでいいのか」
「ああ、その通りさ」
「なら、行くぞ」
言って、オレは歩き始めた。いまにも走り出してしまいそうな早足で。
背後から、フォックスの小さく笑う声が聞こえた。
.
198
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:22:39 ID:zFxhySAs0
「あのね渡し守さん。ボクね、いろんなところを旅したよ」
深く深くローブを被った渡し守。
深海のように光の届かないその裡には、どのような面貌が秘されているのか伺えない。
ボクはしかし何故だか声を張り上げる気にならず、
機械のように櫂を漕ぎ続ける渡し守に声を潜めて話しかける。
「たくさんの大人の人達に襲われていたリリを助けたんだ。
首だけで川に落とされちゃったアドナも助けた。
子どもの楽園でもみんなの願いを叶えて助けようとしたんだよ」
風はなく、川には波一つなく、ボクの話す声以外に音という音がここにはなかった。
水を掻く櫂すらも波紋を立てることはなく、ただ景色の動きだけが、
時の止まっていないことを証明していて。
199
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:23:06 ID:zFxhySAs0
「でもね、願いはいまも叶ってないの。
ボクの願いは、もっともっと遠くにあるの。だって、だってね――」
伺うように、渡し守を見上げた。
「ボクの願いは――」
ローブの奥の、光の届かないその暗闇を。
「渡し守さんは……無口だね」
200
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:23:35 ID:zFxhySAs0
渡し守さんはなにも言わなかった。ボクも口を閉じた。そうして一切の音が消えた。
景色だけが流れていく。音もなく、ボクらを乗せた小舟が果てなき川を進んでいく。
抱えたものを見た。指と指とをこすりあわせ、右の小指に触れようとして、
存在しないその場所を通り過ぎ、胸にかかえるものを擦った。胸の中のショボンを擦った。
無言の時間が続き、その間ずっと、ずっとずっとボクは、胸の中のショボンを擦り続けていた。
「あ」と、ボクは声を上げた。何かが水中から浮かび上がってきたから。
それは、魚ではなかった。鯨でもなかった。それは、首だった。女性の首。
うつろな瞳、乾いた唇、生気の失せた、女性の面。女性の生首が、ボクを見つめていた。
それは、ひとつではなかった。女性の生首は、次々と浮かび上がってきた。
音のない川を女性の生首が埋め尽くしていく。隙間なく、びっしりと、女性の首が密集する。
それらすべてが、こちらを見ている。音なく進む小舟に掻き分けられながら、
散らされながらもこちらを向く。どこへ行っても、どこまで行っても、こちらを向く。
胸の内のショボンを抱きしめる。
潰れよとばかりに強く、強く。
渡し守さんに、名を呼ばれた。
201
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:24:23 ID:zFxhySAs0
「どこへ行きたい」
「ボク、は」
右手が何かを握っていた。小指を失った右手が何か太く、荒々しい縄を握っていた。
縄はボクの頭上を越えて、上へと伸びて、伸びて、曇天の空のその更に上までも伸びていた。
曇天の空に隠されたものへと、結びついていた。
「ボクは――」
何かを言おうとした。ボクは確かに、何かを言おうとした。
――しかし、ボクは何も言えなかった。何を言い出すこともできなかった。
“いままでと同じように”。
202
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:24:44 ID:zFxhySAs0
渡し守さんが櫂を止め、こちらを向いていた。
深く被ったローブに手を添わせ、暗闇に覆われたその面を顕にした。
顕となったその双眸で、ボクを見下ろしていた。
何も言わずに、ただ、ただ。
そして、渡し守さんが、頭を、垂れた。
――ボクは、縄を、引いた。
空が、裂けた。音が、生まれた。鉄の塊が、落下する。
斜めに設えられた刃を先端として。そして、そのまま、そして。
渡し守さんの、首が――。
.
203
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:25:19 ID:zFxhySAs0
いい加減、おかしくなりそうだった。
歩いても歩いても遠い遠いあの光は大きくも小さくも変わりはしない。
時間も距離感も喪失し、本当に前へ進んでいるのか、自分が歩いていのかも疑わしくなってくる。
光に満たされた白の世界。歩けば歩くほどに、現実感が喪われていく。
「だから」
だからオレは、話し続けた。隣を歩く、この男に。
この白の空間における、オレ以外の唯一の異物に。無精髭のフォックスに。
「なんで一気に行かないんだよ、その斧使ってよ」
フォックスが答える。あの空間の移動はそこまで精緻に行き先を決定できるものではなく、
ともすれば時空の狭間に落ちて二度と元の場所に
もどれなくなってしまうかもしれない代物であると。
なるほどそういうものかと、オレは納得する。納得しかける。
「……いや、ちょっと待て。てめえ説明もなく、そんな危ない道を渡らせやがったのかよ」
「はっはっは!」
「『はっはっは!』……じゃねーよ!」
「はっはっはっ!」
204
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:25:47 ID:zFxhySAs0
フォックスは何であの光点に向かうんだ。お前も果て先を目指してるのか。
そうした問いにフォックスは真面目に答えはせず、あれやこれやとはぐらかしていたが、
それでもオレは構わなかった。こいつが何を目指していようとオレには関係ないし、
何を目指しているのかに関係なく轡を並べて進めていることに間違いはなかったのだから。
悪い男ではないと、オレはそう思うようになっていた。
どこかいい加減で、だらしなく、胡散臭さだけはどうしようもなく漂っているものの、
悪人ではないとオレには感じられた。半信半疑であったこいつの言葉――
シィとショボンの生存も、いまでは真実だと信じられた。
だからオレは、二人のことを話した。
この西の果てのセフィロトで出会った、二人の友だちのことを。
二人の友だちと旅した冒険のことを。
話しながらに振り返り、今更ながらにありえないことの連続だったとしみじみ思う。
現実離れした、おかしな出来事ばかりであったと。
しかし、現実とはなんだろうか。現実。現実の記憶。記憶はまだ、取り戻せていない。
まばらに浮かぶ記憶らしきものに触れることはあっても、それは一瞬の邂逅に過ぎず、
すぐにも手からすり抜けてしまう。痛烈なその、痛みと共に。痛みの伴う過去。記憶。
それに――願い。オレの、願い。
205
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:26:10 ID:zFxhySAs0
「願いがな、あったんだよ」
何に代えても絶対に、叶えなければならない願い。けれど。
「でも、思い出せないんだ。記憶を失ったってことだけじゃなくて、あいつらに……
シィとショボンに会って、あんまり意識することもなくなってたっていうか……」
シィ。天真爛漫で、純真無垢で、
厄介事ばかり起こす面倒な――弟みたいに目の離せない男の子。
「でも、あいつらと別れてさ。別れてすぐはそれどころじゃなかったけど、
あんたと会って、ここを歩いて……そしたらさ、なんか、思い出して」
助けてやるって意気込んで、押して、走って、一緒に逃げている間は、
それで手一杯で余計なことを考える余裕がなかったように思う。
もしかしたらそうして没頭することで、目を背けていたのかもしれない。
大切な――けれど同時に、痛みを伴う何かから、もしかしたら――。
「よく、わかんねーけど……オレ、願いに誠実じゃなかっていうか、なんか、なんかさ……
なにか、大切なもんを、裏切っちまったような気がして……」
……違う。違う違う。なんだオレ、なんでこんな辛気臭い話してんだ。
気恥ずかしくなる。なにか別の話題に切り替えないと。なにかないか、なにか。
あ、と、頭に浮かぶ。そういえばシィのやつは、何かというとこれで遊ぼうとしていたな。
ショボンも含めて、三人で。そう、このお遊戯で、そうだ――。
206
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:26:35 ID:zFxhySAs0
「……しりとりでも、するか」
「お?」
フォックスが、意表を突かれたような表情でこちらを覗き込んできた。
顔が、熱くなった。
「違う、間違えた。なんでもない、気にすんな、忘れろ……忘れろ!」
「いいじゃないか、しりとり。おじさんは楽しそうだと思うがなあ」
「う、うるさい! ばか! こら!」
フォックスがくつくつと押し殺した声で笑う。……あーもー。
こんな子どもっぽい遊びをしようだなんて。それもこれもシィのやつのせいだ。
あいつ、再会した時にはひどいからな、ばかこら。
207
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:26:57 ID:zFxhySAs0
「……おじさんはな、まあそれなりに長い間ここにいるんだ。
だからまあ、お前さんよりはここのことを理解しているつもりだ」
未だに大きさを変えない光点を目指しながら、隣を行くフォックスを見上げる。
「ここは――セフィロトはな、時間も空間もねじ曲がった場所だ。
一万里もかけ離れた二点を折り曲げてひとつに、寸毫の刻を一千の時間に、
千年の先と万年の以前を同時に、良かれ悪しかれあり得ない重ね合わせを実現してしまうって、
そんな常軌を逸した場所だ。だがそんな不可思議なセフィロトにも、ひとつのルールが存在している」
「ルール?」
「願いがなければ訪れることもできないってルール」
「願い……」
「願い。結実し、現実に現すことを至上の命題とする祈り。
……だがな、おじさんは思うんだ。見つめるべきは、願いそのものじゃないってな」
「……どういうことだよ。大事なのは、願いなんだろ?」
「願いも大事さ。だが、見つめるべきは願いそのものじゃなく、なぜその願いを抱くに至ったかだ。
大切なのはそこさ。抱く願いが真実であればそこには必ず、
ある重要な要素がその裏に存在しているはずだ」
「ある、要素?」
「想いだよ」
208
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:28:07 ID:zFxhySAs0
「……想い?」
「どんな願いであろうと、願いだけがひとりでに生じるわけじゃない。
“貧乏で生活が苦しい”から“金がほしい”とか、
“弱くてばかにされる”から“強くなりたい”とか、
願いの裏には願いを生み出す想いが隠れているもんさ。
そして、想いを満たす解法は存外ひとつってわけじゃなかったりもする」
願いの裏の想い。オレの、想い。
オレの想いから生じた……生じていたはずの、願い。
「いいか、願うことが悪いとは言わない。そいつは確かに前へと進む活力になるだろうさ。
だが、願いのための願いはいずれどこかで破綻する。だから、見つめ直してやりな。
こんなとんでもない所に来てまで叶えたいと思ってしまったお前さんの願いの、
その発端となった想いってやつを」
「……見つけ、直せるかな」
「直せるさ。なに、心配することはない。想いは時だって超えるものだからな」
未だに大きさを変えない光点を目指しながら、隣を行くフォックスを見上げる。
フォックスは、オレを見下ろしていた。無精髭に囲まれた口を、
いかにもニヒルとでもいったように歪めて。
……軽く、本当に軽く、
くすっと笑みがこぼれてしまった。
「……似合ってねーぞ、顔に」
「はは、辛辣だな」
「でも――」
209
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:28:33 ID:zFxhySAs0
でも――そこに続く言葉を、オレは素直に口にしようとした。
本当に、素直な心地で。しかしその言葉が声になることはなかった。
オレは足を止め、その場で振り返りかけた。しかしその動きはフォックスによって止められた。
フォックスが片腕で、オレの動きを制御する。
「影が濃くなって来たんだ、光の近くまできた証拠さ」
「でも……!」
聞こえたんだ。確かに、オレの耳に、その呼び声が聞こえたんだ。
あいつの声が、あいつがオレを呼ぶその声が聞こえたんだ。
ほら、今度こそ間違いない。さっきよりもはっきりと、はっきりと聞こえてきた。
リリ、助けてって、シィの声が!
210
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:29:04 ID:zFxhySAs0
「離せよフォックス、シィが、シィがそこに――」
「いない。あれは影の呼び声だ。お前さんを引きずり込むための、ティファレトに仕掛けられた罠さ」
「……だけど」
「さっきも言ったろう? おじさんはそれなりに長くここにいるのさ。
ここの仕組みも理解している。断言してもいい、お前さんの友達は背後にゃいない。
お前さんを待っているのは、あの光の先だ」
「……ん」
気にならない、訳じゃない。すぐにも振り返って確かめたい、そんな気持ちはもちろんある。
でも。オレをつかむ、この腕。この腕の、力強さ。
そこにうそは、ないように感じた。信用できる、気がした。
だからオレは、進む。再び先に、光の下に。
さらに大きくなる呼び声に耳を塞ぎながら、光点に向かって歩く。
未だに大きさを変えない、その光点に向かって――。
211
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:29:32 ID:zFxhySAs0
いや、違う。光点に、違和感。これは……大きく、なっている?
いや、違う。それも違う。これは、距離が縮まっているんだ。近くまで来ているんだ。
光の放つまばゆさは一層強まり、背後から聞こえる声は
ほとんど叫び声となって塞いだ耳を貫通してきたが、けれど、確かに、本当に、
太陽のように遥か彼方と感じられた光が、いまやすぐそこにまで迫っていた。
「もう少しだ、がんばれ」
励ましの声をフォックスが上げる。もう少し、本当に、あともう少し。
終わりの見えなかったゴールに、もう少しで手が届く。
そうした安堵が心の端に浮かんだ瞬間――ふと、気になった。
フォックスは、長い間ここにいると言っていた。でもそれって、おかしくないか。
だってここは――セフィロトは、七日の間しか滞在できないんじゃないのか。
そのための炎の壁なんじゃないのか。
でもフォックスはこの白の空間のことも、
セフィロトのこともオレなんかよりもずっと詳しく知っている様子で。
フォックスは、いったいいつからここにいるんだ。
212
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:29:56 ID:zFxhySAs0
疑問が、足を止めた。フォックスの身体が、オレよりも前にでた。
直後、あれだけ騒がしかった声が一斉に消え去った。静寂――を、破った、声。
シィのものではない。背後から響いた知るはずのない――
しかし、どうしようもなく胸を締め付けてくる、“彼”の、声が。
――どうして見殺しにしやがった。
振り返っていた。考えるよりも先に、声の方へ振り返っていた。
――そこには、少女がいた。めそめそと泣きじゃくる一人の少女。
知らない――知りたくもないやつ。誰だ、お前は。そう、思う。
思うだけで、声はでない。声はでず、身体は硬直し、ただ、少女を見ていた。
めそめそと泣きじゃくる少女を見て、そいつが、涙でぐしゃぐしゃに、
ぐじゃぐじゃになった醜い顔で、醜悪な顔で、憎々しい顔で、殺したくなる顔で、
オレを覗き見、口を開いたのを、見た。そいつが、言った。
ごめんなさい。
.
213
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:30:23 ID:zFxhySAs0
「いやだ、死にたくない、死にたくない!」
「撃て! 撃て! 殺せぇ!」
「腕、腕が……足も……」
「母さん、ぼく、ぼく、母さんのシチュー、残すんじゃなかった……」
「死にたくなければ殺せ! 帰りたければ殺せ! 殺せ、殺せ、殺すんだよぉ!」
「見えない見えない見えない見えない……」
「ああ、神よ……」
……なにが、起こった。どこだ、ここは。
フォックスは。シィは。あの――少女は。
誰もいなかった。側にいるはずの者たちは、誰もここにいなかった。
人はいた。ヘルメットを被った人々。泥だらけの血だらけで、苦しげに喘ぐ人々の群れが。
――銃を抱えた人々の群れが。
214
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:30:46 ID:zFxhySAs0
目の前の人が、立ち上がって銃を構えた。
ヘルメットが割れ、頭が砕け、ぐらりと大きく身体を倒した。思わず、手を伸ばしていた。
そこに、何か棒状の、先端に筒状の黒い物体がいくつもくくりつけられている何かが飛んできた。
それが、破裂した。頭を砕かれ倒れた人の身体が、その爆発によって飛び散った。
散った“それ”が、駆けずり回る人々に踏み散らかされた。
誰も、気に留めてもいないようだった。
気に留める余裕もないようだった。
なんだ、ここは、なんなんだ。オレはただ、見ていた。
何に触れることもできず、まるで幽霊かなにかのようにその場に浮かんで、
ただただそこで巻き起こされる惨状を目にしていた。
それは、まさしく、地獄だった。
人間は容易く千切れ飛ぶ消耗品で、誰もが公平に死と隣合わせの窮地に立たされていた。
みんながみんな生きるために走り、走った直後にその生命を失っていた。
いやだと叫んだ。叫んだはずだった。けれど声はでなかった。オレには声がなかった。
オレは観察する者だった。見たくはなかった。けれど目を逸らすこともできなかった。
だからオレは見た。人が死んでいくところを。銃に撃たれ、手榴弾に吹き飛ばされる、
あまりにも脆い人間の身体を。だからオレは見た。
二つの車輪に備え付けられた、いくつもの銃身が束ねられた化け物みたいな兵器の姿を。
だからオレは見た。回転し、すさまじい轟音と共に無数の弾丸を乱射するその兵器が、
人々を紙切れのように粉砕する様を。だから、オレは――。
.
215
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:31:13 ID:zFxhySAs0
「いかがですか閣下、この威力。本格的にこれを導入すれば、戦争は確実に変わることかと」
場所が、変わった。手入れの行き届いた綺羅びやかな庭に、
それと似つかわしくない人を紙切れのように粉砕したあの兵器。
その兵器の前に立つ二人と、鋼のように背筋を伸ばした同じ表情の人達が数人。
閣下と呼ばれた男が、確かめるように目の前の兵器に手を触れる。
「どれだけ用意できるかね」
「三〇機程度であればいますぐに。二週間ほどお待ちいただければ、更に三〇機ご用意してみせます」
「判った、買おう」
ありがとうございますと、若く背の高い男が頭を下げた。
その直後、屋敷の方から声が響いてきた。
幼く、遠慮のない、あらん限りにのどを震わせた泣き声が。
「赤ん坊か」
「ええ、娘です。先日生まれたばかりでして」
「子は宝だ。君にとっても、国にとっても。
君は商売人だが、この戦争を勝利へ導いた英雄として、後の世に名を残すことだろう。
君の娘も大きくなればきっと、君を誇りに思うはずだ」
「これは、もったいなきお言葉を」
216
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:31:37 ID:zFxhySAs0
二人の男が話している間も、赤ん坊は泣き続けていた。
何が悲しいのか、何が恐ろしいのか、聞く者の神経を逆撫でする悲痛な声で。
悲痛な声が、オレの耳を震わせた。耳を塞いでも、なにをしても、
それはまるで己の裡から轟くかのように、頭と心とを揺さぶった。
そしてオレは、気が付いた。
オレはその、赤ん坊だった。
硬いベッドに寝かされた赤ん坊のオレはこれでもかという程に泣き、泣き、泣き続け、
泣き続けながら大きくなっていった。大きくなってもオレは、泣き続けていた。
声を限りにとはさすがにしなくなったが、めそめそと、しくしくと、
泣かない日はないのではというほどに、泣き通した日々を送っていた。
217
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:32:04 ID:zFxhySAs0
「また泣いているのか」
あの兵器を売っていた若く背の高い――
いや、あの時からいくらか年をとったその男が、オレを睨みつけて言った。
そう言われたオレは身体を縮こまらせ、のどをひくつかせ、
声を抑えようとする努力も虚しくやはり泣いていた。男がため息を吐く。
「いったい何が不満だ。きれいな服を着て、栄養のある食事を摂れて、
これ以上私に何を求めるつもりだ、なあ?」
男はずいぶんと痩せこけていた。
痩せこけ、疲れた顔で、どこか正気を失った目をしていた。
あの、人が簡単に生命を失う場所の、
地獄のような場所で戦っていた人たちと、同じような目をしていた。
「私の何が間違っているというのだ? そうだ、私は間違っていない。
私は祖国のために働いただけだ、働く場所が違っていただけだ。
私は武器を調達し、才のない者が戦場に立って武器を持つ。それの何がいけない。
プロレタリアートどもめ、貴様らの無価値な労働は我々の資本の上に成り立っているとなぜ理解できない。
教養がないからか? それとも元々の知能が違うのか? なあ、どう思う。答えろ、答えなさい」
男がオレを問い詰める。オレは、何も答えなかった。
ひくついたのどは決壊し、抑えていた声は努力も虚しくこぼれだした。
218
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:32:35 ID:zFxhySAs0
「泣くな!」
男の怒声。その声が更に、オレの泣き声を助長する。
男はテーブルを蹴り飛ばし、棚をひっくり返した。それでもオレは、泣いていた。
「私は、私は国に尽くしたのだ。私は英雄なのだ。
私が戦争を長引かせたなどと、断じて、断じて非国民などと――」
男は更に室内を破壊し、何事かと駆けつけてきた従者を押しのけて、部屋の外へと出ていった。
ぶつぶつと、未だ治まらない怒りを何事かつぶやきながら。
その一部始終をオレは、オレの中から見ていた。
何を話すこともせず、ただただ泣き続けるオレの中から見続けていた。
オレはまだ、泣いていた。何が悲しいのか、なぜ泣いているのか、
それすらも判らないままに、オレはいまも泣いていた。泣いたままに、馬車に揺られていた。
それは定期的に通っている教室の帰りで、この帰り道では次にまたこの道を通る時の憂鬱さを思い、
泣きながら馬車に揺られるのが恒例となっていた。
けれどオレは、それにいやだとは言えなかった。それは父の決めたことだったから。
父に逆らうことなど、怖くて出来はしなかった。
だからオレは俯いて、俯いて、ぽたぽたと腿を濡らす涙を見つめて泣いていた。
219
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:32:57 ID:zFxhySAs0
だからオレは、それに気づくのにしばらく時間がかかった。馬車の外。
街の中心に位置する広場の、その脇を通っていた時のこと。
張り上げた声が広場中に広がっているのが聞こえてきた。
普段であれば大きな声など聞こえたら萎縮して、
動くこともままならずに息を潜めて泣いてしまうところだが、
今日は、そしてこの声からは不思議なことに、恐ろしさを感じなかった。
オレはどうしようと迷いながらも、馬車の覆いをちらりと開ける。
そして見た。広場の中に、大勢の子どもが集まっているのを。
そしてその子どもたちが一人残らず、広場の中心を見つめているのを。
けれど、見えたのはそこまでだった。
オレを乗せた馬車はすぐにも広場から離れていってしまい、
その時はまだ、なんだったのだろうという微かな疑問を抱いただけに終わった。
本格的に興味を惹かれたのは、次にこの道を通った時だった。
その日もオレは俯いて泣いていたが、あの張り上げた声が聞こえた途端、
この前のことを思い出した。今度は躊躇わず、覆いを開けた。
220
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:33:21 ID:zFxhySAs0
広場ではこの前と同じように子どもたちが集まり、
真剣な顔で広場の中心に視線を送っていた。
広場の中心。今回は、見ることができた。
そこには一人の男の人と、木組みのなにか、台のようなものが置かれていた。
男の人は台に手をかけながら、張り上げた大きな声で子どもたちに語りかけている。
芝居がかったその様子に、オレは目を離せないでいた。
台の内側にはなにかの絵が描かれているようだったが、遠くてそれが何かは判らなかった。
けれど、胸の沸き立つ思いがした。これが何か判らない。
判らないけども、こんな気持ちは生まれて初めてだった。
もっと間近で、それを見たい、感じたいと思った。
けれど馬車は無情にも、オレを運んで広場から遠ざかっていってしまう。
それからは、教室へ通うのが楽しみになった。
あんなにいやで、悲しくて仕方なかったのに、馬車の中で泣くことはもうなくなっていた。
何度も、何度も、あの広場の前を通って、何度も、何度も、あの光景を眺めた。
何度見ても色褪せることはなく、何度見てもそれは心を浮き立たせた。
それと同時に、ある想いがオレを支配するようになっていった。
馬車からでなく、直にあれを、見たい。“私”もあの場に、行きたい。
221
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:33:47 ID:zFxhySAs0
地図を、用意した。屋敷からあの広場へ行くにはどのルートを通ればいいのか、
頭の中で何度も何度もシミュレートした。シミュレートするだけで、
本当に屋敷から出るつもりはなかった。
そんな勇気はなかったし、自分にそんなことができるとも思えなかった。
父がオレを家から出したがっていないのを、オレはきちんと知っていたから。
けれど、でも、チャンスが訪れたなら。
そう思わなかったかと思えば、うそになる。
チャンスがあれば、行ってみたい。見てみたい。
それは偽らざる本音で、そうした日が来ることをオレは、
密かに待ち望んでいた。……そして、その日は本当に訪れた。
222
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:34:12 ID:zFxhySAs0
長期の間、父が国外に滞在する予定だと聞かされた。
理由は判らないけれど、父はオレを連れて行くつもりはない様子だった。
父という管理者にして支配者が、突如としてオレの前からいなくなることになった。
さらに、小間使として働いていた少女が実家へ帰るという出来事も重なった。
彼女とはほとんどまともに話したこともなかったけれど、
出自が北方の田舎町であることは聞いており、
その私服が街の男の子のくたびれたそれと同じようなものであることをオレは知っていた。
だからオレは、こう持ちかけた。
私のお洋服とあなたのお洋服、交換しませんか、と。
彼女は喜んで応じてくれた。
整ってしまった。
外へ出るための、あの広場へ行くための準備が、本当に整ってしまった。
信じられなかった。夢かと思った。
同時に、恐ろしかった。
いざ外へ出ようという時に、とつぜん父がもどってくるのではないか、
鉢合わせてしまうのではないか、そんな想像をしてしまって。
それはオレにとって、なにより恐ろしい想像だった。
一方でオレはもう、この湧き上がる感情を抑える術を失っていた。
あの人は何を語っていたのだろう。あの台の中には、どんな絵が収められているのだろう。
どうして子どもたちはあんなに真剣に、あの空間に集まっていたのだろう。
想像すればするほどわくわくは止まらなくなる。
父への恐怖と、このわくわく。これら二項を天秤に掛けてオレは――
初めて一人で、家を出た。
223
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:34:37 ID:zFxhySAs0
何度も何度もシミュレートした、広場までの道のり。
頭の中で描いた地図と実際の光景はまるで異なり、早くもオレは迷いそうになる。
けれど、目印となる店や建物が、あらぬ場所へと行きかけるオレを都度都度引き戻してくれた。
漂うパンの香りがお腹に響くハニエル亭。
灯台のビームみたいに行き先を指し示してくれる宝飾店のエメラルド。
父の会社のロゴが描かれた、酷い言葉で落書きされている金星の看板。
ここまでくればもうすぐだった。
もうすぐであの広場に、夢にまでみたあの場所に辿り着く。
このまままっすぐ、まっすぐ走って、あの、大きく分厚い、鉄柵の門を超えれば――。
224
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:35:06 ID:zFxhySAs0
(行くな!)
“私”が、立ち止まった。胸を抑えて、辺りを見回して。
不安そうな顔で、いまにも泣き出しそうになって。
“私”は、目の前の鉄柵と、ここまで来た道とを見比べていた。
心臓が、痛いくらいに拍動していた。けれど――。
(行くな、行くな!)
“オレ”は叫んだ。けれど“私”は震える手で鉄柵に触れた。
まだそれを押すだけの力はこもっていない。
しかしその柵は見た目に反し、軽く押せばそれだけで簡単に開いてしまう。
それを“オレ”は、よく知っている。
ほんの少し、ほんの少し“私”が力をこめればそれだけで、もう――。
出会ってしまう、“彼”に。
225
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:35:26 ID:zFxhySAs0
(行くな……)
“私”の手に、力がこもる。
(ダメだ……)
鉄のこすれる微かな音。
(やめろ……)
開かれた広場の光。
(やめて……)
その、中心に。中心に――。
226
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:35:52 ID:zFxhySAs0
「困ったやつだね、お前さんは」
空間が、裂けた。目の前の。目の前の裂けた空間から、手が伸びてきた。
伸びた手が、“オレ”をつかんだ。つかんで、それで、そのまま、引きずり込んだ。
極彩色の世界を強い力で引っ張られ、引っ張られ、引っ張られてオレは――
気づけば、白の世界に立っていた。
「……フォックス、オレ」
「色々言いたいことはあるだろうが、まずはこいつだ」
フォックス。無精髭の、だらしない、胡散臭い、オレをこの場に引き戻してくれた大人。
そのフォックスが、オレを引き戻したその手に手斧を構え、それの前に相対していた。
フォックスの前にあるもの。それは、光。光の点として、オレたちが追い続けてきたもの。
それがいまはもう、手の届く距離にあった。
227
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:36:19 ID:zFxhySAs0
「これは……冠?」
太陽のように眩く、直視することの憚られる光を生み出していたそれは、
どうやら冠の形をしているようだった。黄金に輝き完璧な対称を実現している、王様のための冠。
眩しくてほとんど読み取れないものの、その冠には何か文字が刻まれていた。
輪を描いて文字が、冠をぐるりと一周している。
この世のものではない。そんな印象を、一目で受けた。
それを、フォックスが、砕いた。
目を焼く光が消え失せる。世界の白が、硝子のように割れ散っていく。
代わりに現れたのは漆黒の黒にほど近い、深い群青の夜闇の世界。
太陽に隠されていた星々と共に、そこに存在していたものが明かされていく。
台座、階段、柱、ここが建物の内部であったことを顕にしていく。
そして、もうひとつの変化。フォックスが、自分の手斧を見ていた。
自分の手斧の、刃の部分を。そこには、文字が浮かんでいた。
なんという文字かは読み取れない。けれどその形はどことなく、
砕かれた冠に刻まれていたものと似ているように見えた。
砕かれた冠に描かれた文字に似ているそれらの文字がフォックスの手斧に浮かび――
やがて、それも止まった。フォックスが手斧を腰にしまった。
228
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:36:40 ID:zFxhySAs0
「これでおじさんの仕事はおしまいだ。協力してくれてありがとさんだ」
言って、フォックスが冠の置かれていた台座から離れようとする。
そしてお前さんの友達はこっちだと、台座よりも更に奥へと進もうとした。
しかしオレはフォックスの後をついていくことはせず、その背中に視線を投げかける。
オレが付いてこないことに気がついたのか、フォックスが疑問を浮かべた顔で振り返った。
「あんた、本当はオレのことなんて必要なかったんじゃないか」
開口一番、オレはフォックスに問いかける。
フォックスはなんのことやらとでも言いたげなジェスチャーを取ったが、構わずオレは話を続けた。
「実際オレは、なにもしていない。どころかあんたの足を引っ張っただけだ。そうだろ」
「なにをなにを。話し相手になってくれただろ?」
「そんなこと」
あの、白い世界。確かに一人でいたら、気が参ってしまうかもしれない。
少なくともオレならそうだ。でも、フォックスは? 想像できなかった。
フォックスはおそらく、オレなんかいなくても一人で踏破するくらい簡単にできたんじゃないか。
オレとは違って。
……翻って、オレがあそこを渡り切るには、フォックスの存在が必要だった。
答えはたぶん、そこにある。オレは、自分でも言い出しづらいことを、切り出した。
229
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:37:18 ID:zFxhySAs0
「なあフォックス……あんたほんとは初めから、
オレを助けてやるつもりで話を持ちかけたんじゃないか」
「言ったはずさ、おじさんにとって出会いは貴重なんだ。
おじさんはそいつを大切にしたかった……それだけさ」
あくまでもおどけた調子でフォックスは言う。当然納得なんてできなかった。
だからオレはフォックスを睨みつけ、無言の圧で抗議を送る。
約束は、相互に協力し合うものだったはずだ。一方的に助けられるばかりだなんて……
そんなことは、耐えられない。そうした感情を、視線に乗せて。
そうした視線を、フォックスは受けていた。
受けて、相対して、それで――困ったように、笑った。
「それに、ま、なんていうかな――お前さんがな、似てたのさ」
「似てた……?」
「ああ、似てた。どことなく、って程度の話に過ぎないが。
お前さんを見てたら思い出しちまった」
思い出しちまったんだ、あいつのこと。
そう言ってフォックスは、虚空を見上げる。目を細めて、そこに見える何かを見つめるように。
「弱っちい泣き虫のくせに頑固で意地っ張りで……
一度言い出したら聞きゃあしなかった、あのバカを――」
230
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:38:01 ID:zFxhySAs0
静かに、穏やかな口調でそう、フォックスは語った。
いつかのどこかを懐かしむような、そんな寂しさの混じった声で。
オレは……オレも、見上げた。フォックスが見上げた先を。
オレにはそこに星しか見えなかったが、
フォックスがそこに何かを見ているのを否定する気はなかった。
「……遠回しに、オレのことバカにしてねーか」
「はっはっは!」
「『はっはっは!』じゃねーよ、ばか」
ばかと言われて、フォックスはさらに高く笑い声を上げた。
その声につられてオレも、ついつい笑ってしまいそうになる。努めて自制し、唇を噛む。
笑ってなんかやるもんか。納得したわけじゃないんだ。騙されたことにオレは腹を立てているんだ。
……けれど、もう。意地を張る気は、失せていた。
そうだ、こんなところで立ち止まっている場合じゃない。
シィが、ショボンが、この先で待っているのだから。だからオレはこいつに付いていくんだ。
決して認めたわけじゃない。認めたわけじゃないんだからな、このばか、こら。
231
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:38:28 ID:zFxhySAs0
それでオレは、どこへ行けばいい。オレは、そう言おうとした。
言えなかった。フォックスが、手斧を構えていた――
構えていると思ったその次の瞬間には、それが振られていた。
悲鳴を上げる間もなかった。手斧はオレの頭に――
オレの頭に触れるか触れないかというすれすれの場所を、通り過ぎていった。
生暖かなものが、後頭部に降り掛かってきた。背後を見た。
巨大な斧を振りかぶった男が、顔面を両断されていた。
フォックスがそれを突いた。顔面の両断された男が、倒れた。
「フォーックス!!」
怒声が、響き渡った。気づけば周りを、大勢の大人の男達に取り囲まれていた。
彼らはそれぞれが物騒な獲物を持ち、身を兜と鎧に包み、そしてなによりも、
強烈な敵意を宿した瞳でこちらを睨みつけている。
中には興奮しすぎているためか、
ふぅふぅと荒い息を吐きながら口の端に泡を立てているものまでいた。
男たちが、威嚇をするように怒声を上げている。明らかに剣呑な空気だった。
こいつらはいったいなんなのか、なぜこんなにも敵意を剥き出しにしているのか。
なにも判らず、どうすればいいかも判らずオレは、後頭部に付着したものに触れ、
手に付着したそれを見つめた。赤く染まったその手が、細かに震えていた。足が、すくんだ。
232
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:39:02 ID:zFxhySAs0
「こいつらは俺の影だ、お前さんにゃあ関係ない」
身体が、宙に浮いた。持ち上げられ、放り投げられていた。
フォックスに。フォックスから、遠のいていく。
遠のくごとに、視界の端が歪んでいく。極彩色に、囲まれていく。
「フォックス!」オレは叫んだ。フォックスは振り返ることなく手を振った。
そして迫る男たちの方を向いたまま、あの飄々とした声で、
届くことを期していない声量で、つぶやいた。
十にも迫る男たちが、フォックス目掛けて一斉に襲いかかった。
「会うんだろ、友達に」
空間が、閉じた。
跳ねた血が、顔にあたった。
.
233
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:39:29 ID:zFxhySAs0
オレが飛ばされた先。そこには鏡があった。水の鏡。
垂直に、どこどこまでも続く壁のように聳えし水鏡。
その先にシィが、ショボンがいると、オレには感じ取れた。
理屈ではなかった。理屈でなく、それが判った。だからオレは、その鏡の前に立った。
鏡の向こうに、“私”が映る。てのひらを見る。赤い、赤い、己の手。
その手をオレは、“私”に伸ばした。力を込めて、“私”を押す。
鏡が歪んだ。鏡の向こうの“私”も歪んだ。
泣きじゃくるように顔を歪め、滲んだ赤が向こうへ達した。
それでもオレは力を緩めず、鏡を、“私”を、押し続けた。
触手のように伸びゆく赤が、鏡のすべてを染め上げた。
甲高な音を立て、赤い鏡が割れ砕ける。
そこにはもう、“私”はいなかった。
“私”のいなくなった鏡の向こうへ手を伸ばし、そうしてオレは、落ちていった。
「助けるんだ」とつぶやきながら身を投げ出して、シィの埋まった穴の底へと落ちていった。
.
234
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:40:06 ID:zFxhySAs0
不公平だ、お前だけが人間扱いされるだなんて。
土の中にいた。深く掘られた土の中。膝を抱えて縮こまって、土の中で座していた。
掘られた土の空間に、止めどもなく降り注ぐこれまた土。
降り注がせているのは一人とも二人ともつかない彼ら。
一つの胴に二つの腕、二つの足に二つの頭。涙を湛えた白塗りメイクのピエロたち。
憎しみの声と共に土を降らせる彼らには、主から付けられた傷跡がいくつもいくつも残っていた。
笑顔のメイクに憎悪の色で、声を合わせて彼らは言った。
不公平だ、お前だけが人間扱いされるだなんて。
雨が降ってきた。土が濡れる。濡れた土が泥になる。泥となった土が、身体を覆う。
身体を覆う土が、身体との境界を喪わせる。溶けた泥は僅かな隙間も生むことなく、
包んだそれを侵食していく。泥と自分が一体化するような感覚を覚える。
泥のように意識のないなにかに変じていくのを感じる。そして、これが死かと、理解する。
そうか、これが、死、と。
235
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:40:33 ID:zFxhySAs0
怖くはなかった。喪われていくこと、無くなっていくことに、恐ろしさはなかった。
肉体に伴う苦痛はあったものの、もうすぐこれからも解放されると思うとむしろ安堵が先に立った。
そう、安堵。安堵だった。自分が無くなることへの安堵。
意識や思考から解き放たれることへの安堵。そして、そしてなによりも――
誰に会わずとも済むということへの、安堵。
もうすぐだった。呼吸は止まり、鼓動も弱まっていた。
自分を手放すその時は、もはや目前に迫っていた。涙がこぼれたのが判った。
悲しくないのに、流れる涙。
それは生物としての自己が振り絞りだした、最後の抵抗だったのかもしれない。
生きたいなどと願う、浅ましい生物的本能の。けれど、それもおしまい。
時が、止まった。生命の時が。後にはもう、音もなく――。
236
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:41:00 ID:zFxhySAs0
――存在しないはずの音が、聞こえた。
雨を伝わり、泥を伝わり、裡に抱えるその物体に、喪われた生命の振動を伝わらせた。
泥が、土が、掻き出される音が聞こえた。まさか。そう思った。
泥が、土が、掻き出される振動が伝わった。うそだ。そう思った。
泥が、土が、掻き出される光が伝わった。そんなはずはない。
だって、そんな。そんなことって。敷き詰められた地上との壁が、取り除かれた。
そして、そして――そしてそこには、“彼”がいた。
237
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:41:29 ID:zFxhySAs0
もーいーかい。
雨は、止んでいた。空には、陽が昇っていた。陽を背にして彼が、そこにいた。
彼が、手を、差し伸べていた。出血し、指と爪との間に泥とも土ともつかない
汚れが詰まったその手を彼は、微笑みながら、差し伸べてくれていた。
――ぼくは、つぶやいていた。「いいの」とか細く、声にもならない微かな声で。
微笑む彼が、こくんとうなずく。涙がこぼれた。まだぼくの裡に残っていた涙が、
こんなにも残っていたのかと思うほどのそれらが、これまで抑え込んできた分まで流れ出した。
滲む空、滲む太陽、滲む彼、滲む彼の、瞳。
滲む世界の中にあって唯一確かなその瞳をまっすぐ見つめ、ぼくはそうして、その手を取った。
差し伸べられた手を取りぼくは、ぼくは彼を、彼のその名を、呼んだのだ。
友達の名を、呼んだのだ――。
.
238
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:41:56 ID:zFxhySAs0
違うよ“リリ”、助けてあげるのはボクの方だ!!
.
239
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:42:28 ID:zFxhySAs0
上下が、反転した。上に向かって落ちる。落ちるオレに、手が差し伸べられる。
救う側の立場から、シィがこちらへ手を差し伸べる。
「違う、オレだ! オレが助けるんだ!」
再び上下が反転する。救う側に回ったオレが、シィの手をつかむ。
シィはいやいやと頭を揺さぶり、更に上下がひっくり返る。
「リリ、リリ、ボクがね、ボクが助けてあげるからね!」
仮面の奥のきらきら輝く星のようなその瞳をいつにも増して輝かせ、
シィがオレの手を握る。「助けなんて求めてない」と、オレは叫んだ。
世界がぐるりと変わっていく。「それじゃぜんぜんあべこべなんだ」と、
シィが叫べば世界が回る。上下も左右も不確かなその空間で、
オレとシィは上昇しているとも下降しているともつかないままに、狂った渦に呑まれ流れた。
渦の渦中で揉まれながらも、オレたちは互いに譲らなかった。
そこに、何かが、飛んできた。主導と共に互いの手を握ろうとする
オレたちのその接点を目掛けるように、意思なきそれは高速で浮かび上がってきた。
オレたちが、小さく、それぞれに、それぞれの、悲鳴を上げた。それは死体だった。
首と胴が切り離され、身体中が穴だらけに破損させられている死体。
その死体が、オレたちの接点を切り離すかのように飛来し、通過していった。
240
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:42:53 ID:zFxhySAs0
「シィ!」
「リリ!」
手が、離れた。離れてしまった。オレたちは互い互いに、手を取らんと手を伸ばす。
しかしオレたちは荒れ狂う渦の流れに流れ流され、
伸ばしたその手の長さ分だけ二人の間は離れていく。
互いの名を呼び、「助ける」と叫ぶオレたちの、その声その想いの分だけ彼我の距離は離されていく。
オレたちはもはや、自力で互いを捉えることなどできなくなっていた。
それでもオレたちは、お互いのことを“助けよう”とした。
「二人とも、私につかまれ!」
上空とも下層ともつかない地点から降りてきたそれが、叫んだ。
それ、生首。ショボン。オレが、ショボンをつかんだ。シィが、ショボンをつかんだ。
ショボンを介し、オレとシィの手がつながった。
抱き寄せるようにして己をショボンに接近させ、ショボンを中心に抱き合った。
そうして一塊となった二人とひとつの生首は、
荒れ狂う渦が収束するその地点までぐるぐるぐるぐる揉まれながら落ちてゆき――。
.
241
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:43:38 ID:zFxhySAs0
「ああ、ったく……いい加減うんざりしてくるね」
だれに聞かせるでもなくそうつぶやいたフォックスは、自嘲するように笑みをこぼした。
傷のないところなど身体にはなく、どこもかしこも痛くて熱い。
なにをこんなに躍起になっているのか、自分でも阿呆らしくなってくる。
だがこれも仕方ない、こいつが俺の性分なのだ。
フォックスはそう、自嘲する。
目の前に広がる屍の光景。一〇〇はやったか、あるいは二〇〇か。
場合によれば五〇〇に届いていてもおかしくはない。斬るも斬ったり屍の山。
だが、それでも足りない。こんなものではまるで足りない。
“願い”を叶える、そのためには。
飛びかかってきた戦士の首を、刎ねた。屍の山に、またひとつ。
いとも容易く喪われる生命。だが、俺を取り囲むこいつらに動揺はない。
親しき仲間が死のうとも、いずれ己が死のうとも、死のその瞬間まで戦うことを止めない者たち。
そうした修羅の生き方を、魂にまで刻み込んだ戦士たち。例えその身を、兵士の分にやつしても。
この愛すべき、大馬鹿野郎どもが。
242
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:44:18 ID:zFxhySAs0
空間を、切り裂いた。
「お前たちの飼い主さまに伝えろ。こいつ<宝冠>を返して欲しくば、
果てなき東まで追ってこい。次代の覇者が誰なのか、その身をもって教えてやると。そして――」
裂けた空間に向かって、跳んだ。
「知れ、そして喧伝せよ。『バチカルの暁光』が悪徳を――!」
フォックスは跳んだ。極彩色のその向こう、終わりと始まりの、その地に向かって。
空間が、閉じた。
.
243
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:45:02 ID:zFxhySAs0
ה
仰向けになっていた。仰向けになって、空を見ていた。
空が高い、高くて青い。清々しく心地の良い風が吹いている。
時間の流れがゆったりとして、切り取られたいまが
永遠に続いているかのような、そんな穏やかな心地がした。
寝転んだまま、隣を見た。ショボンがいた。
ショボンの向こうに、シィがいた。シィがこちらを向いていた。
仮面の奥のきらきらと星のように輝く瞳が、どこかいまは落ち着いた潤いを湛えていた。
「リリ」
「ああ」
二人一緒にショボンを抱え、緑の続くその地に立った。
緩やかな稜線を描く丘が、青の空を背景に佇んでいた。オレたちは、その丘を登る。
そこに力は必要なかった。微弱な風が背中を押す。手をつないで、二人で歩く。
そこには何の障害もありはしなかった。そうしてオレたちは、その樹の前に立った。
丘の上の大樹――ラトヴイームの、その前に。
244
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:45:31 ID:zFxhySAs0
しばらく無言で、その樹を見上げた。そよ風に吹かれ、さわさわと擦れ合う葉の音。
永遠に固定されているようでいて、確かな生を感じさせる瑞々しさ。
目でも耳でも感じ取れない、けれども感じるその呼吸。
なぜだか、涙が溢れそうになる。目元を拭った。
「願い、叶えないのか?」
「……リリは?」
「オレは……」
245
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:45:55 ID:zFxhySAs0
ラトブイームの肌に触れる。ラトヴイームの鼓動を感じた。
不思議なことにそれは、自分自身の鼓動をより一層はっきりと感じさせる。
オレ。オレの、願い。願いの、想い。想いの、過去。
すべてを思い出せた訳では、なかった。
自分が何を願い、その願いを抱くどのような想いを抱くに至ったかの、
そのすべてを思い出せた訳ではなかった。
けれどオレは、過去を見た。少女の過去。“私”の過去。
泣き虫で、弱虫で、臆病者。いつでもなにかに怯えて困って、
だからといって逃げ出すこともできない愚者。
……オレによく似た、いつかのどこかに生きた少女。
オレはあいつを体験した。己のこととして、その感情を追体験して。
あれは、もしかしたら、オレなのかもしれない。
オレの願いは、オレの想いは、あれの中にこそ隠されているのかもしれない。
もう一度あれと重なり、あれの生を辿ればオレは、そこへと辿り着けるのかもしれない。
ラトヴイームの脈動が、“私”を強く感じさせる。
でも、けども――。
“オレ”は、やっぱり、“私”じゃない。
ラトヴイームから、手を離した。
246
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:46:22 ID:zFxhySAs0
「オレは……オレは、いい。それよりもシィ、お前だ。お前は、どうなんだよ」
「ボクは……」
シィの手。シィの手が、ラトヴイームに触れた。喪われたはずの右手で。
異なる人間の腕が生えているかのように、違和感を覚えるその手で。
小指を喪失した、その手で。
「ボクの、願いは……」
シィは、口ごもっていた。仮面の奥でこぼした声が、くぐもったままに聞こえてくる。
その大人しさはオレの見てきたシィの像とはかけ離れ、まるで別の、
別の誰かがシィの姿を象っているかのように感じる。肘から先の右の腕。
小指の欠けた、だれかの腕。
「願いは――」
「シィ、お前の願いは私が知っている」
247
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:46:54 ID:zFxhySAs0
ショボンの声。シィの左腕に抱えられたショボンが、シィを見上げている。
「お前がそれをどれだけ切に願い、故にこそその願いを
封じてしまったその理由を、私は知っている」
シィがショボンを見下ろしていた。静かに、落ち着いた様子で。
しかしその手が、ラトヴイームと触れたその手が震えているのを、
視界の端でオレは見た。
「お前が願いと向き合うためには、時と順序が必要だった。
忘却に堕するでもなく、拒絶に埋没するでもなく、
真正面から己が願いを受け止めるには、絡み合ったお前の過去を紐解く必要があった」
「ショボン、違うよ。ボクは、ボクだよ」
「故に私は導いた。畢竟それがお前を苦しめ追い詰めることになろうとも、
このセフィロトの道を私はお前と共に歩んだ。
なぜならそれは、私にとっての願いでもあるのだから。故にシィよ」
「それ以上はダメだよ。それ以上言ってしまったら、だってボクは、ボクが――」
「いまこそ己と向き合い、交わした約束を果たす時だ。シィ。いや――」
「ボクが、ボクでは――」
「お前の、本当の名は――」
248
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:47:22 ID:zFxhySAs0
「あっははははははは!!」
とつぜん、目の前が炎に包まれた。身体を引く。一歩下がる。
足元に、違和感を覚えた。泥を踏んだような、気色の悪い感覚。
地面を見た。あるべき緑は色を失い、そこには影が広がっていた。
影。首のない、影。ひしめきあう首のない影の群れ。
それらが地面を覆い尽くしていた。足首を、つかまれた。
悲鳴を上げて、もがく。けれど影は、影の手は、
振り払っても振り払ってもオレをつかまえ、泥のような自らの元へと引きずり込もうとする。
逃れる術を探して、手を振り回した。焼ける熱に、手を引っ込めた。
燃え立つ炎、炎の粉。
それは空へと舞い上がって、青きそれを黒の色へと塗りつぶしていく。
世界が火の手に燃えていく。世界の中心が燃えている。
ラトヴイームが、燃えている。
249
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:48:09 ID:zFxhySAs0
「あんな道のりで果て先に辿り着けただなんて、お前ら本気でそう思ったのかい?」
「全くおめでたい奴らだナ。だからお前らここまで来ても、紛い物のままなのサ」
人をばかにした、癇に障る笑い声。間違いようもなかった。
猛る炎に照らされた二つの人影。白塗りの面に、頬まで伸びた赤い紅。
涙を模した三角マークと、二股に分かれたジェスターハット。
見まごうことなき道化師が、そこには二人、立っていた。
互いに向かって片腕伸ばして、手と手の間に、何かを挟んで。
挟まれたそれが、弾ける火の粉に照らされる。
その大きさが、その形が、それの姿が顕となる。
シィの方を、向いた。シィの、胸を見た。
――ショボンが、いなかった。
「やはりそうか。お前たちも、私と同じ――」
「一緒にするなよ生首野郎。アニジャとお前じゃまるで違う」
「オトジャの求めるその願いは、お前なんかのそれとは違う」
樹が、火が、燃え爆ぜる音。空と雲が轟く音。
蠢く影がひしめく水のような濡れた音。それらの混じった音の洪水。
音の洪水に満たされたこの空間において、なおその音は、
遠く小さく離れているはずのその音は、オレの耳の奥を揺らした。
250
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:48:43 ID:zFxhySAs0
少しずつ、少しずつ、わずかに、わずかに、
互いの距離を縮めていく道化師たちの腕と腕。
その間に挟まれたものが歪み、ひしゃげ、
その形が本来のそれから遠ざかれば遠ざかるほどに、
構成するその内側が砕けていけば砕けていくほどに、
隙間を潰していく道化師たちの腕と腕。
挟まれたショボンが潰れれば潰れるほどに。
「お前は結局失敗したのサ」
「後は俺らに任せておきナ」
樹は燃えていた。影はしがみついてきた。シィは固まっていた。道化師は笑っていた。
ショボンは無表情のままだった。何がどうなっているのか判らなかった。
どうしていいのか判らなかった。何かを叫んだ気もするが、なんと叫んだのかは判らなかった。
何を思っていたのかも、何を感じていたのかも判らなかった。
ただ、これだけははっきりしていた。
オレたちは――オレは、間違えてしまったのだ、と。
「シィ。決して、決して私を忘れ――」
――そうして、ショボンが、潰された。
251
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:49:09 ID:zFxhySAs0
「ルール違反に罰則を」
「ペナルティは公平に」
重ね合わさった道化の手から、何かが絶えず滴り落ちている。
それが何かなどとは、考えたくもなかった。
しかし道化師たちは重ねたその手を折り曲げ離し、その接面をこちらにまっすぐ向けてきた。
「似ても似つかぬ誰かの模倣」
「そんな真似事、もうおしまい」
赤と黒のコントラストを見せつけた格好のまま、道化師二人が近づいてくる。
ひしめく影を踏みつけ潰し、火の粉を浴びてやってくる。ぐちゃり、ぐちゃりと影が跳ねる。
道化師二人が近づいてくる。どうすればいいか判らない。
(怖い)
シィは動かない。動かないシィに影が登る。
首のない影がシィの身体を引き込んでいく。埋まりかけたシィ。
埋まりかけたシィの前で、道化師が止まる。そしてその手で、シィに触れる。
赤と黒に塗れた二つのその手で、シィを覆った仮面に触れる。
亀裂が、走った。
252
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:49:33 ID:zFxhySAs0
「虚飾の殻を砕き割り」
「真の己と向き合おう」
交互に重なる道化師の声。その声が響く度に、鉄を溶かして固めただけといった風情の、
シィの面を覆い隠すその仮面に亀裂が走っていく。呪文のように唱えられる道化師の言葉。
巻き起こる音の洪水と同化したそれは、より一層の激しさを加速させ、
そしてそれは来るべき頂点へと達し――一瞬の静寂の下、道化師たちが、声を揃えた。
「さあ、悍ましき自分をいまこそ」
仮面が、割れた。シィの仮面が。隠されていたものが、白日の下に晒される。
そこには、少年の顔が存在していた。少年。赤い線の引かれた少年。
目元から片頬を通り、あごへと向かって引かれた三本の赤い線。
その模様は、どこかで見た覚えのあるものだった。けれど――
けれど、注目すべきは、そこではなかった。だって、これは。この顔は――。
253
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:49:53 ID:zFxhySAs0
「そうだ、お前が――」
「――真の、“ショボン”だ」
ショボン。ショボンだった。
見間違えようもないほどに、完璧にそのまま、ショボンそのものだった(怖い)。
意味が判らなかった。だってショボンは、ついさっきこいつらに。
でも、どう見ても、目の前のこのシィはショボンだった。シィがショボン?
なら、シィは? 仮面の奥から見えた星のようにきらきら輝く瞳。
その瞳はいまや、くすんだ灰に光を失して。
254
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:50:25 ID:zFxhySAs0
「言ったはずだ、ここには何もないと」
声が聞こえた。聞き覚えのない声。どこかで聞いたような気もする声。
声の先には、ローブをまとった何者かが立っていた(怖い)。
全身を覆うローブ。足も、腕も、頭も見えない。
光の吸収を拒むかのように深く濃い暗闇が続くフードの中。
見えない顔。その顔が、フードが、正体不明のその人物自身の手によって、めくられた。
「お前を連れてきたのは、私だと」
赤い、三本の線。目元から頬に、頬からあごへと伝わる紋様。
それは、同じだった。隣で固まったままのシィ――
ショボンに描かれているそれと。血の涙のような、それと。
255
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:50:51 ID:zFxhySAs0
「……父さん」
シィ――ショボンが、つぶやいた。
「生きるべきは、ぼくじゃありませんでした――」
ぷつ、ぷつ、と、赤い玉がローブの男の首に浮いた。
ひとつふたつ、みっつよっつ――数える間もなくいくつもの玉が男の首に浮かび上がり、
隣り合うそれらは結び合って連結し、やがてそれは一本の線となった(怖い、怖い)。
首をぐるりと一周する、赤い線。
その線を基点として、男の身体と首が、ずれた。動いているのは、首の方だった。
ずるずると紅い雫を零して滑る首。なめらかな動きで切断面をなぞったそれは、
ついには支えを失い、影の待つ地へ落下した。
それが、契機となった。
256
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:51:24 ID:zFxhySAs0
首のない影が、シィの――ショボンの肩まで抱きつき、
その頭まで手を伸ばし、己が裡へといよいよ呑んだ。助けなければいけないと思った。
助けるんだ、助ける(怖い)。違う、泣かない。オレは泣かない(怖い、やだ、怖い)。
影たちがまとわりつく。オレは怒っている。怒鳴りつけている(いやだ、怖いよ、怖いよ)。
オレは助けるために来たんだ。助けられるためじゃないんだ(やだ、やだ、やだ、やだ)。
だって、そうじゃなきゃ、そうでなければオレは、何の為に、ここに――。
顔面が、影の手に、つかまれた。
怖い。
引きずられた。引きずり下ろされた。引きずり下ろされ、呑み込まれた。
影の中に、底の底に。光の届かない、影の世界に。なにかをつぶやいた気がする。
怒ったようにも、謝ったようにも思える。そのどちらでもない気がする。
確かめる術は、けれどなかった。もうここには、音もないから。
何も聞こえなかったから。何も。“私”も。何も――。
.
257
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:51:57 ID:zFxhySAs0
クリフォトへようこそ
.
258
:
名無しさん
:2023/06/02(金) 21:52:52 ID:zFxhySAs0
今日はここまで。続きは明日に
259
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 09:31:56 ID:vMXEgZxE0
乙
260
:
◆y7/jBFQ5SY
:2023/06/03(土) 21:47:54 ID:3ISfrQos0
―― סוף ――
「なあお前、泣いてたろ」
.
261
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:48:21 ID:3ISfrQos0
生まれる前から怖かった。いつも怖くて悲しくて、いつでもどこでも泣いてばかりいた。
そうして泣いてばかりいる自分のことが、私はとても、嫌いだった。
泣きたくなくても泣いてしまう、感情任せの自分のことが、とてもとっても嫌だった。
嫌だと思えば思うほどに、私の涙は加速した。
お父様は、私のことが嫌いだった。たぶん。たぶんだけれど、私が泣いてばかりいるから。
お父様はいつでも何かに苛々として、私が泣くとその苛々が、余計に酷くなるそうだった。
泣くなと何度も叱られて、叱られる度に泣き出す私を、お父様はきっと大嫌いなはずだった。
だから私も、余計に私が嫌いだった。
こんな私を好きになってくれる人なんてきっとどこにもいないんだって、
そう思って私はずっと、生きてきた。
でも、彼は、違った。
.
262
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:49:02 ID:3ISfrQos0
ある日、私は見た。
お稽古の帰りの馬車の中から、涙の向こうのその光景を。
広場に集まった子どもたち。ずらりと並んだ真剣な表情。
その表情の向けられた、広場の一点。そこから聞こえる、朗々と張り上げられた迫力のある声。
それが何かは判らなかった。
張り上げられたその声はびっくりするほど大きくて、びりびりと肌の震えるのを感じた。
でも、不思議と怖くはなかった。
どころかもっと、聞きたいと思った。もっともっと、知りたいと思った。
それから私はお稽古から帰る度に、広場で行われるその行事を見続けた。
見れば見るほどに、聞けば聞くほどに私の興味はいやにも増して、
いつしか私は、実際にそこへ行ってみたいと思うようになっていた。
そうは思っても、初めはきっと無理だと思っていた。
けれど父が出張し、街の子たちと同じような服を手に入れ、
状況は私を後押しするように整っていって。もちろん、怖かった。
こんな私が行ってもいいのか。父が知ったらなんと思うか。それに、一人で外へだなんて。
行かない理由はいくつもあった。生きたい理由はひとつだった。
だから私は――行くと決めた。
263
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:49:54 ID:3ISfrQos0
何度も何度もシミュレートして、それでも迷った道を通り、
鉄柵の門を開いて私は、夢にまで見たその場に入る。入った瞬間に、感じた。
馬車の中とは、熱が違う。子どもたちが集まる熱も、喧騒も、
想像していたよりもずっとずっと熱くてすごくて、賑やかだった。
それで、それで――どうすればいいのだろう。
子どもたちは友達同士、思い思いに話をしている。
私は辺りをきょろきょろ見回すばかりで、
誰かに話しかけようだなんてそんなことは考えられない。
はしゃぐ子どもが私にぶつかり、
「あ、ごめんなさ――」と言ったそのすぐ後には、その子の姿は遠くに消えて。
私はせめて邪魔しないようにと縮こまり、広場の端に背中をつける。
264
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:50:25 ID:3ISfrQos0
「はいはいみなさまおまたせっしたー!」
あの声だ! よく張り上げられた、大きな声。馬車の中から、何度も聞いた。
てんでばらばらに散っていた子どもたちが、わっと声の下へと集っていく。
いいのかな、いいのかな。そう思いながら私も、そっと彼らの後についていく。
子どもたちが視線を向けるその先には、木組みで立てられた舞台があった。
三つの扉が大きく開き、木枠の裡が目に入る。そこには紙が、収められていた。
文字と、絵。台を操る男の人が、あの大きく響き渡る声で、紙に描かれた文字を読み上げた。
それはこれから始まる物語の――ひとつの完結した世界に冠された題の名だった。
男の人が、表の紙を横へと引き抜く。隠れた紙が、顕となった。
新しい絵、世界の黎明。絵にあわせて男の人が、気持ちと力をたっぷりに、
大きな声を張り上げる。朗々と、謳うように、物語の内側へと導き誘う。
265
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:50:47 ID:3ISfrQos0
そこには宇宙があった。小さな宇宙。
絵と声と、促されし想像によって成り立つ小さな小さな小宇宙。
けれど確かに存在している、心と魂の描き出す実像。
そこには人がいた。人間がいて、感情があった。
私達と変わりなく生きる人々が、苦しみながら、戦いながら、それでも強く生きていた。
男の子がいた。離れ離れになった友達を探す男の子。
友達を探す旅に出た男の子。見知らぬ土地を渡り歩いて、
騙されたり、事件に巻き込まれたりしながらも、めげずに旅する男の子。
その子の旅の軌跡を思って、私は知らず、応援していた。
心の中で――声にも小さく言葉に出して、旅する男の子を応援していた。
がんばれ、がんばれ、がんばれって。
それで、それで……私は、泣いていた。
その子の苦しみに、その子の悲しみに胸の奥がきゅうと痛くなって。
そして――その子の迎えた結末に、「ああ」と嗚咽を漏らすことしかできなくなって。
私は泣いていた。いつものように泣いていた。
だけどいつもの泣き虫と、今日のそれは違う気がした。こんな涙は、初めてだった。
266
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:51:18 ID:3ISfrQos0
「よーしガキンチョども、お駄賃回収すっから逃げんじゃねーぞ!」
子どもたちが一斉に、ぶうぶうぎゃあぎゃあと騒ぎ出す。
紙芝居の男の人は「うっせーぞ!」とがなりながら、子どもたちの間を回っていった。
そして男の人はバスケットに入れた何かと交換に、子どもたちからお金を受け取っていく。
え、お金、お金? お金、いるの?
そんなものは持ってきていないことを百も承知の上で私は、
お洋服を上から下まで確かめたり、ポケットを裏返したりした。
もちろんそこにはお金なんて、硬貨の一枚だって隠れてはいなかった。
そうこうしているうちに、男の人が私のすぐ側にまでやってくる。
「おらよ、持ってけどろぼー!」と、隣の男の子が叫んだ。私の番が来た。
「おら坊主、出すもんだしな」
男の人が、私を見下ろす。大きい。
お父様も大きいけれど、この人はそれよりもずっと、もっと、大きい。
大きな大きなその人が、私を見下ろしている。
その事実だけでもう、いつもの涙が込み上げてくるのを感じた。
267
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:51:38 ID:3ISfrQos0
「あ、あの、私……」
「あん?」
「わ、私、私……」
声が涙に歪んでいるのが、自分でも感じ取れた。
ごめんなさいって言わなきゃ。ごめんなさい。お金、持ってないんです。
知らなかったんです。ごめんなさい。頭の中で、口にするべき言葉を整理する。
けれど口は、のどは、頭のようにやさしくなくて。
結局私は、私、私と繰り返すことしかできなくなって。
その時だった。私の背後から、にゅっとその手が伸びてきたのは。
268
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:52:12 ID:3ISfrQos0
「ほらよ、これでいいだろ親父」
からん、と、小銭がバスケットに放り込まれた。肩の後ろから、顔が出てきた。
男の子の顔。知らない子。その子はにひっと、私に笑いかけてきた。
わけが分からず私は涙を湛えたままに、小さくその場で会釈する。
「なんだ、お前の連れかよ。だったらいらねーよ、息子にやった小遣い回収する親があるか」
「とっとけとっとけ、どうせ今月も金欠だろーが」
「なんだこのやろ、親に向かって生意気な」
「へっ、説教なら帰ってから聞いてやらぁ。ほら、行こうぜ!」
「え、あの、はい……え?」
手を、つかまれた。と思ったら、引っ張られた。
男の子が走り出していた。強い力で、私を握って。
走るの? 付いて行った方がいいの?
疑問を浮かべるも答えのでないまま、抵抗することなく私は彼に付いていく。
「日が落ちる前には帰ってこいよ! 今日はおめぇーが飯当番だかんな!」
「わぁーってるよ!」
269
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:52:40 ID:3ISfrQos0
あっという間に広場を出て、街の中をあちこち走り回って、
いつしか私は、見たこともないその場所に出た。太陽の光を反射してきらきら輝く水の流れ。
本で読んだことがある。たぶん、きっと、これが川というものだ。
これが、川、川なんだ。なんだか……なんだか、すごい。
「ほい、お前のぶん」
川のすぐ側に男の子が座り、何かを私に手渡してきた。
それはあの紙芝居の男の人が、お金と交換して子どもたちに渡していたもの。
薄茶色の円形の物体で、とても軽く、表面は硬い。
これがいったいなんなのか、私にはよく判らない。
悟られないように、男の子を覗き見る。男の子は、その円形の物体をかじっていた。
ぱきっと、硬いものの割れる音が響く。食べるものなのかしら。おいしいのかな。
そんなことを思いながら男の子を見ていると、
視線に気づいたのか男の子が私のことを見上げた。慌てて視線を逸らす。
「食べねーの?」
「あ、はい……いただき、ます?」
270
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:53:22 ID:3ISfrQos0
そう言って私は、けれどすぐには口をつけなかった。
私だけ立ってるの、おかしいかな。直に座って、いいのかな。怒られないかな。
男の子は、川を見ながらぱきぱきと、手元のそれをかじっている。
伺うようにそっと、彼の隣に腰を下ろした。彼は何も言わなかった。
だから私はそのまま、手渡された薄茶色で円形のそれを、
彼がそうしているようにかじってみる。
もそもそした、不思議な食感だった。
舌がぴりぴりする味で、おいしいというよりも、おもしろい。
「うまいだろ」と、彼が尋ねてきた。私は慌ててうなずいた。
うなずいてぱきぱきと、彼がそうするように手元のそれをかじった。
ぱきぱき、ぱきぱき。きらきらと輝く川の前で、私達の鳴らす軽い音が響き渡った。
271
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:54:05 ID:3ISfrQos0
「なあお前、泣いてたろ」
すっかり手元のそれ――たぶん、お菓子?――を食べ終わって、
ゆらゆら揺れる川の流れを見ていた時のこと。前置きなく、彼がそう言ってきた。
怒られる――! 瞬間的にそう思って私は、身体の芯まで凍りつく。
「あ、わ、私……」
「あん?」
「ごめ、ごめんな、ごめんな、さい……私、私なにもわかんなくて、だから、だから……」
「なに謝ってんだ?」
しかし彼は、心底不思議そうにしながら私の顔を覗き見ていた。
その顔には、お父様が私に向けていたような肌に突き刺さるような痛みはない。
……どうして?
272
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:54:32 ID:3ISfrQos0
「怒って……ないんですか?」
「なんで怒るんだ?」
なんで、怒らないの? だってお父様は、私に泣くなって。
私が泣くと、苛々するって。だからあなたも、私を怒ろうと思っていたんじゃないの?
あなたは、違うの? 私のそんな考えを他所にして、彼は身を乗り出して顔を近づけてくる。
その距離の近さに、思わず私は首を丸めてしまう。
「聞かせろよ。今日の紙芝居、どう思った?」
「か、紙芝居……ですか?」
「そうだよ、見たろ?」
「は、はい、ごめんなさい……」
「だからなんで謝んだって。それと敬語もいらねーよ。むずがいーし」
「わ、わかりました……」
「ましたー?」
「あ、えと……わ、わかり……わかった、です」
「……んー、まあいいか。で? 紙芝居、どう思った? 聞かせてくれよ」
「あ、あの……あの、ね……」
273
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:54:58 ID:3ISfrQos0
目を光らせて私を見つめる彼に、私は少しずつ、少しずつ語っていった。
紙芝居。友達を探して旅をする、男の子の物語。
こんなことを言ったら怒られるかもしれない。
そんなことを話したら嫌がられるかもしれない。
そう思いながら私は言葉を選び選び、慎重に思ったこと、感じたことを彼に話した。
彼は怒りも嫌がりもしなかった。
うんうんと都度都度うなづいて、それでそれでと度々先を促して。
だから私も段々と、言葉の限りを払っていった。
自分が思ったことを、感じたことを、
可能な限り間違いなく伝えられるよう、自分の内側を探りに探って語っていった。
私がどんなに好き勝手話しても、彼は私を拒絶しなかった。
拒絶せずに、話の下手な私の話を聞いてくれた。うれしそうに、聞いてくれた。
彼は私を、拒絶しないでくれた。
274
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:55:19 ID:3ISfrQos0
それで、全部、話し終わった。彼は変わらず、私を見ていた。
私はなんだか恥ずかしくなる。視線を下げる。
川の光はいまはもう、夕の赤を映していた。私の顔も、同じくらいに赤かったかもしれない。
「オレ、プギャー。お前は?」
「り、リリ……」
「リリ!」
手を、取られた。両手で握られた。ぶんぶんと、ぶんぶんと上下に振られた。
男の子の、力強さで。
「また来いよ!」
それだけ言い残して彼――プギャーくんは、その場から一気に駆け去っていった。
すごい、足、早いなあ。私はそう思いながら彼の姿が見えなくなるまで見届けて、
それから手元を、夕焼けに染まるてのひらを見つめた。
彼の手のぬくもりが、まだそこに残っている気がした。
.
275
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:55:47 ID:3ISfrQos0
プギャーくんと会うようになった。
約束したわけではないけれど毎週の決まった曜日に私は紙芝居を見に行き、
それからプギャーくんにお話の感想を聞いてもらう。これが恒例の流れとなっていた。
プギャーくんはやっぱりうんうんと私の話を、満足そうに聞いてくれた。
私はそれに、自分で驚いていた。私ってこんなふうに話すことができたんだって、驚いた。
プギャーくんと一緒にいると、初めてのことがたくさんだった。
知らないお菓子を食べた。紙芝居にも触らせてもらった。彼の持つナイフも見せてもらった。
危ないよと私は怯えたけれど、プギャーくんはそれを巧みに操ってみせた。
リンゴの皮を剥いてみせたり、絵を描くためのペンを削ったりして。
「使いようだよ」と、プギャーくんは言っていた。
にっと、口の端を上げたいたずらな笑みを浮かべて。
私と同じくらいの年のはずなのに、プギャーくんはとても大人だった。
そんな彼を私はすごいと思ったし、同時に私は、
なんにも知らない自分のことが恥ずかしくなった。
だからかもしれない。私はいつしか、こう思うようになっていた。
私もなにか、お返ししたいって。
276
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:56:45 ID:3ISfrQos0
「すげー! なんだこれうめー!」
「よ、よかった……お口にあって……」
私の部屋には、私の為のお金がいくらかあった。
それはお稽古に関わる道具を揃えるためであったり、
新しいお洋服を設えるために用意されたお金ではあったけれど、
大半が手つかずのまま放置されていることを私は知っていた。
それでもこれまでは一人で外出なんて考えてこなかったから、
そのお金に手を付けることもなかった。でも、いまは違う。
私はいま外に出て、プギャーくんと会っている。
どうすればそれが叶うのか判らないけども、
私も、私だって、プギャーくんの喜ぶことをしてあげたい。
初めて会ったあの日。プギャーくんはもそもそしたあの薄茶色のお菓子を食べていた。
お菓子を食べるの、好きなのかな。お菓子をあげたら、喜んでくれるかな。
277
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:57:13 ID:3ISfrQos0
家の近所のお菓子屋さん。
入ったことはないけれど、パーティに出されたことがあるから味は知っている。
それはとてもおいしかった――気がする。たぶん。私は、そう感じた。
プギャーくんには、どうかしら。おいしいって、言ってくれるかな。
渡す時にはひどく緊張した。だって私がおいしいって思ったものでも、
プギャーくんにはあわないかもしれないから。おいしくない、いやだって思われて、
それで嫌われたりしちゃったら……それは、とても、泣いてしまいそうになることだったから。
でもプギャーくんは、おいしいって、うめーって言って食べてくれた。
たくさん、食べてもらった。お菓子だけでなく、他のお店にも一緒に行った。
プギャーくんは食べるのが好きみたいだった。
うめーうめーって、たくさんたくさん食べてくれた。
うれしいって、思った。プギャーくんが喜んでくれている。
それがたまらなくうれしくてうれしくて、やっぱり私は泣きそうだった。
278
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:57:35 ID:3ISfrQos0
「金で友達買って、恥ずかしくねえのかよ」
プギャーくんと会うためにいつもの
路地裏を小走りしていたその時、数人の男の子たちに道を塞がれた。
男の子たちはにやにやとした笑みを浮かべて私のことを取り囲み、手や肘でつついてくる。
怖くて、震えて、何も言えずにうつむく私に男の子たちは、持ってるものを出せと命令してくる。
持ってるもの? なんのこと?
男の子たちの言葉の意味が判らずまごまごしていたら、男の子の一人が言った。
金だよ金、金を出せって。金? お金? そう言われてもパニックを起こしていた私は
お金という言葉と懐のそれとを結びつけることができず、何もできずに固まってしまう。
男の子の一人が、壁を蹴った。壁を蹴って彼は、こう言った。
「金で友達買って、恥ずかしくねえのかよ」。すぐには、飲み込めなかった。
彼が発した、言葉の意味を。金で、買う? 友達を? 誰が誰を、買っているの?
……私? 私が、誰を? ……プギャー、くんを?
違うよ。私、そんなこと、してないよ。そう、反論しようとした。けれど、声はでなかった。
なんで、どうして。プギャーくんをお金で買ってるなんて、私、そんなつもり、ない。
私はプギャーくんに喜んでもらいたくて、ただ、それだけで。
でも、でも……他の人には、そう見えるの?
お金でプギャーくんと友達にしてもらってるって、そう、見えてしまうの?
もしかして、みんな、そう思ってしまうの?
プギャーくんは、プギャーくんも……本当は、みんなみたいに?
279
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:58:09 ID:3ISfrQos0
「ひゃーっひゃっひゃっひゃ!」
高らかな笑い声が、路地裏で反響した。男の子たちがなんだなんだと辺りを見回す。
しかし男の子たちがその声の正体を見つけ出すよりも先に、何かが彼らの足元で弾けた。
「く、くっさ! なんだこれ!」
男の子たちが弾けたそこから飛び退き、遠巻きにそれを観察する。
そこには薄いゴムの塊と、濁った色の水たまりが生じていた。
そしてその水たまりからは、なんとも形容しがたい嫌な匂いが立ち上っている。
男の子たちが「てめぇ」とか「この野郎」とか怒鳴っている。
その怒鳴る男の子の洋服で、再び何かが弾けて散った。
「汚水爆弾じゃい! くらえくらえーい!」
水を包んだゴムの塊が、いくつもいくつも降り注いできた。
男の子たちは先程までの威勢もどこへやら、悲鳴を上げて逃げ惑い、
「かーちゃーん!」と叫んだりしながら散り散りに去っていった。
「ひゃーっひゃっひゃっひゃ、おととい来やがれってんだ!」
上空から、勝利を宣言する声が聞こえてくる。その声は、屋根の上から響いていた。
屋根の上の声の主が、滑るようにして壁を伝い、私の前まで降りてくる。
目の前のその人。それは、やっぱり、思っていた通りに――プギャーくんだった。
280
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:58:38 ID:3ISfrQos0
「なんだ、ひっかぶっちまったか?」
心配そうな表情で、プギャーくんが私の顔を覗き込む。私は……私は、泣いていた。
違うの、そうじゃないの。そう言おうとして、だけどそれらは声にならず、
ただただ私は泣いていた。「お金、お金」と繰り返しながら、私はただただ泣いていた。
手を、握られた。
「来いよ、いいとこ連れてったる」
いつかのように手を握られて、引っ張られて、私は彼に付いていった。
右へ左へ曲がり曲がって、街の外れの山にまで。山を登って私と彼は、
黒々とした闇の続くそれの前まで――ぼろぼろに寂れたトンネルの前に立っていた。
プギャーくんから、古ぼけたランタンを押し付けられた。
281
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:59:09 ID:3ISfrQos0
「いいから来いよ、すげーんだって」
閉鎖されて久しい山中トンネル。
散らばった瓦礫を当たり前のように払って彼は、
光の種すらない暗闇へと足を踏み入れていく。
危ないよと、私は思う。子どもだけでこんなところに入るなんて、
絶対にいけないことだよって。けれど私は、思いを言葉にはしなかった。
だから私はおっかなびっくり、すえた臭いの漂う暗闇のトンネルへと踏み込んでいく。
弱々しくて心許ない、いまにも消えてしまいそうな古ぼけたランタンの火を頼りとして。
かすかな明かりに照らされたトンネルの内部は壁も天井もないような有様で、
当然そこはもう道なんて呼べるような道ではなく、大きな瓦礫の上を登ったり、
逆にくぐったりしながら私は、先へ先へと軽快に進む彼の後を追っていった。
待って、待って、お願い待ってと私は思う。
置いていかないで、一人にしないでと私は思う。けれど私は、思いを言葉にしなかった。
それを言葉にするだけの勇気を、私は持ち合わせてはいなかった。
282
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 21:59:44 ID:3ISfrQos0
だから私は先へ先へと軽快に進む彼の背を、無言のままに追い続けた。
ただひたすらに、他の何にも目をくれず、ただただ彼を追い続けた。
それで――ランタンを落としてしまった。
本当の暗闇に、視界と皮膚とが包まれる。何も見えない、感じない。
彼の存在を感じられない。怖かった。暗闇に包まれた状況そのものよりも、
在るはずのものを感じられないことが怖かった。
在るかどうか定かでないものに思いを巡らせてしまうことが怖かった。
このまま置いていかれてしまうのではないかって、
怖くて怖くて仕方がなかった。涙が溢れてくるくらいに。
――やっぱり私、嫌われているんじゃないかって。
283
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:00:04 ID:3ISfrQos0
「手ぇ、放すなよ」
声が聞こえた。手を握られた。姿は見えない。けれど、存在は感じた。
見えない手のその先が、私を引っ張った。私はそのまま、引っ張られるに任せた。
彼が私を呼んだ。私も彼を呼んだ。彼が私を呼んだ。私もまた、彼を呼んだ。
自分がいまどこをどのように動いているのかも判然としないまま、
けれどもわずかな恐れも抱かずに私は、先を進む力に身を任せた。
そうしてそれが、どれだけ続いたことだろうか。遠く、光が見えた。
暗く長いトンネルの、出口を示す光が。一層の力で、先を行く手が私を引っ張る。
握るその手に力を込めて、私も後についていく。走って、走って、一緒に走って。
そうして私たちは、辿り着いた。
そうして、そうして、辿り着いたその先には、光差すその先には――。
284
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:00:29 ID:3ISfrQos0
「……わぁ」
見渡す限りの緑の世界が、目の前に広がっていた。
おとぎ話に出てくるような、光り溢れる神様の楽園。そんな言葉が、自然と浮かぶ。
私たちが暮らす山のすぐ側にこんな素敵な場所があっただなんて。
その余りにも現実離れした光景に私は見惚れ、しばらくそのまま言葉を失った。
「とっておきの秘密基地さ」
へへっと鼻の下をこすりながら、プギャーくんが自慢げに腰を反る。
それからプギャーくんはこっちだと言って、再び私を引っ張り出す。
晴れやかな青の空を背景に頂く、緩やかな稜線を描く緑の丘。
その丘を私たちは、ゆっくりゆっくり、噛みしめるようにして登っていく。
なんだか、どきどきした。
あのトンネルで感じた怖さが残っているのか、この光景に対する感激なのか、
それともそれらとも違う、あるいはそれら全部をひっくるめたなにかなのか。
その正体は判らないけれど、とにかく私はどきどきしていた。
そしてそれは、決していやなどきどきではなかった。
285
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:01:10 ID:3ISfrQos0
「なあお前、ケテルの使徒王物語って知ってる?」
丘の天辺には小さな、本当に小さな小屋があった。
張り合わされた板は不揃いで、全体的にどこか歪んでいる、手作り感満載な小屋。
それは到底、人が住めるようなものには見えなかった。
家を建てようとしてこれを作られたら、殆どの人が怒り出すかもしれない。そんな印象を抱いた。
でも私は、この歪んだ小屋を見て、一目でいいなと思った。
その不揃いさが、楽しんで作ったといった風情が、これを作った人の、
その人柄を反映しているみたいで。「オレが作ったんだ」と、プギャーくんは言った。
やっぱりって、私は思った。
プギャーくんが小屋の前に座った。私もその隣に座る。
するとプギャーくんが、藪から棒に聞いてきたのだ。ケテルの使徒王物語を知ってるかって。
おとぎ話の、英雄譚。絵本にもなっているそのお話を、私はもちろん知っていた。
でも、私の知っているお話が本当に正しいものなのか。
間違っていなかったとしても実はまだ聞いたことのない、もっと詳しい話もあるのではないか。
そう考えると、知っているとは答えられなかった。
それに……プギャーくんがあんまり、きらきらと期待するような目で私を見つめるものだから。
だから私は知らないよって、うそとも言えないうそをつく。
なんだなんだよしゃーねーなーと、プギャーくんはうれしそうに頭をかいた。
286
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:01:39 ID:3ISfrQos0
ケテルの使徒王さま。戦乱の世をひとつにまとめ、平和な世界を築いた伝説上の王様。
嘘か真かはともかくも、いまはいくつにも分かたれた私たちが暮らす国々の、
その礎を築いた偉大なる祖王とされる方。
その王様の物語を、プギャーくんは話して聞かせてくれた。
情感たっぷりに、時には謳うように。
その話し方にはどこか、紙芝居をする彼のお父さんの面影もあって。
たった一人の聴衆に向けて開かれたそのお芝居を私は、間近の特等席で聞き続けた。
「……あん? 使徒王さまはどうしてセフィロトに向かったかだって?
ああそれはな、それはだな――」
プギャーくんが口を閉ざし、感無量に手を叩いた私は、良かった、本当に良かったと、
ちょっと照れくさそうにしている話し手の彼に直接伝える。
それから私は溢れる言葉を抑えようともせず、思いつくままに感じたそれらを述べていった。
それはプギャーくんの話し方そのものについてだったり、物語そのものについてだったり。
そうした言葉の奔流の一環の中で私は、ほんの気なしに、聞いだのだ。
使徒王さまは、どうして王様を辞めてセフィロトに向かったんだろうね、と。
するとプギャーくんはなにやら考え込むようなポーズを取って、
それから自作の小屋に上半身を突っ込み、
もぞもぞとなにやら動いたかと思えば、紙の束を取り出した。
287
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:02:26 ID:3ISfrQos0
「なあこれ、これ見てみろ」
そこには絵が描かれていた。幻想的な街や、幻想的な自然の描かれた絵。
星の川、光の冠、見たこともない大きな鯨。迫力と勢いと、なによりも情念を
そのままキャンバスにぶつけたかのようないくつもの絵。
「プギャーくんが描いたの?」と私が問いかけると、彼は自慢げな笑みを浮かべた。
「お前さ、泣いちゃいけないって思ってんだろ」
ケテルの使徒王物語を描いた絵だとは、すぐに判った。
これは星の飛沫の流れるアッシャーで、これは使徒王さまが神様から授かった宝冠。
それにこれはきっと、黄水晶の王鯨アドナ。一枚一枚、穴が空くくらいにじっと見ていく。
どれもどの絵も、絵だけに収まらない、本当にここに在るかのような存在感が確かにあって。
「泣いたらみんなを、いらいらさせちゃうから……」
「んなこたねーよ」
288
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:03:21 ID:3ISfrQos0
けれど描かれた絵は四枚ほどで、あとは描きかけのもの、
まったく白紙のもので、むしろそちらの方が圧倒的に多かった。
「お前の涙は、お前だけが持ってるもんだろ」
こいつを完成させるのがオレの夢で、“願い”なんだとプギャーくんはいった。
「だってよ、お前だけなんだぜ。親父の紙芝居見て、あんなふうに泣いてたやつ。
他の誰にもできないことを、お前だけがしてたんだ。それってすげーことじゃんか」
「……すごい?」
「ああ、すげー。だから、お前だって思ったんだ。お前とならってさ」
でも、プギャーくんはこうも言った。使徒王がなにを願ってセフィロトへと向かったのか、
果て先にある光とはなんのことなのか。どんなに考えても、オレにはそれがわからなかったと。
だけどよと、プギャーくんは付け加える。
289
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:03:44 ID:3ISfrQos0
「わからんもんは話せもせんし、描けもせん。だからよ、正直お手上げだったんだ。
適当にでっちあげて台無しにもしたくねーし、こいつぁーお蔵入りかねーって。
……でもな、お前と会って、泣いてるお前を見て、思ったんだよ。
もしかしたら……もしかしたらだけど」
プギャーくんは、言った。
「もしかしてお前となら、使徒王物語を完結に導けるんじゃないかって」
プギャーくんはそう、言ってくれた。
「……まーよ、もしダメだったとしてもそれはそれでいいんだ。
だってオレ、お前のこと好きだしな!」
プギャーくんは私に、そう言ってくれたのだ。
「お、見たことない表情! デッサンさせれ!」
「……や、やー」
「なんだよ、なんで隠すんだバカコラー!」
「やー……」
泣いてばかりいたこんな私に、プギャーくんは、そう――。
.
290
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:04:17 ID:3ISfrQos0
プギャーくんは、やさしい人。
嫌なことや悲しいことに傷ついた日は、黙って側にいてくれる。
プギャーくんは、お茶目さん。
いたずらするのが大好きで、街の大人やお父さんによく叱られている。
プギャーくんは、照れ屋なの。
絵を描いてるところを見つめると、なんだよって口をとがらせそっぽを向いちゃう。
プギャーくんは、手先が器用。
欲しいものは買ったりしないで、特別なものを自分で自由に造ってしまうの。
プギャーくんは、ばかこらって言うのが口癖。
やさしい時にも、お茶目な時にも、照れてる時にも、造った時にも、
なんでもかんでもばかこらって付け足してる。
他にも、たくさん、プギャーくん。
プギャーくんは、プギャーくんは、プギャーくんはね――。
.
291
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:04:50 ID:3ISfrQos0
プギャーくんと、離れたくない。
.
292
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:05:20 ID:3ISfrQos0
「お、お、お、お前たちが先に奪ったんだ! だから俺は取り返すだけだ!
お、俺は悪くないんだ! 俺は、俺は!!」
そう言って彼は、深緑の瓶を勢いよく煽った。
口の端から茶色い液体を溢れ零して、それが顎から首に、
首から服の襟にまで伝わっているけどもそんなこと、彼はまるで気にもしない様子で。
やがて彼はその震える手で酒瓶をひっくり返し、
口の側を空いた片手に押し付けたり、片目で底を覗き見たりしていたけども、
とつぜん「クソ、クソ!」と悪態を吐きながらその酒瓶を壁に向かって投げつけた。
割れ散ったガラス片が、私の顔にまで飛んでくる。
猿ぐつわ越しに悲鳴を上げた私を、彼が睨んだ。
「い、い、いいか、動くなよ! にげ、逃げ出したら、
逃げ出したら、ただじゃ済まさねえからな!」
彼はそう言い、部屋を出ていく。
扉の向こうからがちゃがちゃと鍵を掛けるのに手間取っている気配と、
「おんぼろが」と苛立たしげに呻く彼の声が聞こえた。
それも、やがて、途絶えた。声も音も、なくなった。
私は――私はそれで、動かなかった。手も足も荒い縄に縛られ、
椅子に固定された私に、動くことなどできなかった。
いや、たぶん。たぶんそんなふうに拘束されていなかったとしても、私はたぶん動かなかった。
声を殺し、息を潜めてじっとじっと、そこに留まり続けていただろう。
だって私は、私だから。私はだって、こんなにも情けのない私なのだから――。
.
293
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:05:45 ID:3ISfrQos0
あれから。プギャーくんに秘密基地へと案内してもらったあの日から。
私たちは多くの時間を共有してきた。紙芝居を見て、一緒においしいものを食べ歩いて、
こんなふうにしたらどうかな、こういうのはどうかなって、
プギャーくんが絵を描くのを見守って、使徒王さまの紙芝居について意見を交換したりして。
「もしかしたらね、私、思うのだけど」
こんな時間があるなんて、私は知らなかった。
「使徒王さまって、きっと、たくさんの、 たくさんのお別れをしてきたんだよね?
つらくて、悲しい、たくさんのお別れを」
痛いも怖いも不安もない。こんな時間があるだなんて。
「だからね、使徒王さまはセフィロトにね、会いに行ったってこと……
ないかな。大切な、その、誰かに」
暖かくて、安らいで、幸福な――こんな、かけがえのない時間が。
「いまはもう会えない、大切な人に――」
私はこの時間が、この幸せな時間がずっと続くと思っていた。
ずっと続くといいなって、そう思っていた。プギャーくんの隣で、そう思っていた。
これからもずっとずっと、ずっとずぅっと、同じ時間を過ごすんだって。
プギャーくんと、私と、同じ時間を――。
.
294
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:06:10 ID:3ISfrQos0
「なんて、なんて浅ましいことをしてくれたんだお前は!!」
お父様が帰ってこられた。すべてを理解し、そのすべてに目を血走らせるほどに激高した上で。
私は私なりに自分の行いを隠してきたつもりだったけれど、それは所詮子供の浅知恵で、
大人たちはみんな、私のことなんてお見通しのようだった。
一人で紙芝居を見に行ったこと、外で買い食いしていたこと、男の子と二人で一緒にいたこと。
それらは全部、私の知らない私を知る人達の目によって監視されていた。
好奇と噂という名の檻の中で。
お父様が何を許せず、何にお怒りになっているのか。それは判るようで判らなかった。
けれど、重要なのは私の理解なんかじゃ決してない。お父様を怒らせてしまった。
それがすべてで、それが、恐怖だった。私にとって神にも等しいお父様の怒りを買ってしまった。
それが、すべてだった。
295
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:06:39 ID:3ISfrQos0
「お前は修道院に送る! 成人するまで帰ってこなくてよろしい!」
あらゆる物事は私の手の届かない頭上で決定され、私は街を離れなければならなくなった。
一度も着たことの洋服や一度も使ったことのない日用品などが、
私とは無関係のところでまとめられていく。
変わりつつある状況を私はただ、見ていた。
手を出そうなどとは思わなかった。怖くて。それに、悲しくて。
軟禁されて、外に出られなくて、私は泣いてばかりいた。
プギャーくんに会いたかった。
プギャーくん、プギャーくん、プギャーくんと、私は繰り返した。
言葉は虚しく空を回った。それでも私は繰り返した。
プギャーくん、プギャーくん、プギャーくん。
もしかしたらそれは私にとっての精一杯の抵抗で、
あるいは彼に向けた贖罪であったのかもしれない。
こんなに苦しんでいるんですという無意味で無価値な、
自己嫌悪と自己憐憫の入り混じった形だけのポーズ。
誰かに見つけてもらうことを期待した、浅ましく他力本願な訴え。
当然そんなものに、現実を変える力なんてあるはずもなく。
296
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:07:04 ID:3ISfrQos0
そして、その日。私は馬車に乗せられた。遠く遥かな修道院へと向かう場所に。
私は抵抗しなかった。心の中でプギャーくんと繰り返す、それ以外の抵抗を。
鞭を打たれた馬が歩を進め、車輪がからからと回りだす。
石畳に舗装された道を、かたこと揺れながら馬車が進む。
プギャーくんに会いたい。私はそう思う。
プギャーくんと一緒にいたい。私はそう思う。
プギャーくんと離れたくない。私はそう思う。
プギャーくんと、離れたくない。
297
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:07:33 ID:3ISfrQos0
声が聞こえた。朗々と張り上げられた、迫力のある声。外を見ないでも判った。
馬車が、私が、いまどこにいるのか。この近くでいま、何が行われているのかを。
その熱気を、固唾をのんで一点に集中する子どもたちのすがたを、私は見ぬままに感じ取れた。
これまでそこで起こったこと、そして――そこで出会った人のことを思った。
このままでいいのと、私の中の何かが訴えた。
このまま彼に会わないまま、遠い遠いどこか
知らない場所に送られて、本当にそれでいいのかって。
いいはずがなかった。紙芝居の主人公たちも、そうだった。
動かないことに後悔して、だから動いて、動いて、願いに向かったのだ。
あの子も、あの子も、あの子も。
……私、だって。
298
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:07:58 ID:3ISfrQos0
飛び出した。馬車から。何も考えずに――なんて言えるほどまっさらではなかったけれど、
怖かったけれど、お父様に怒られることを想像してしまったけれど、それでも私は飛び出していた。
それで私は広場に――は、向かわなかった。そっちではない気がした。
プギャーくんがもし私を待ってくれているなら、私と会ってくれるなら、そこではない気がした。
だから私は、走り出した。山に向かって。街の西の――私たちの“セフィロト”に向かって。
プギャーくん、プギャーくん、プギャーくん。
私は繰り返す。走りながら繰り返す。私は動いている。
止まらないで動いて、願いに向かって走っている。
プギャーくん、プギャーくん、プギャーくん。
会いたい、会いたい、あなたに会いたい。
そう願いながらも私はちゃんと、願うだけでなく進んでる。
街を駆け抜け、山を登って、私は彼に近づいている。
299
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:08:18 ID:3ISfrQos0
トンネルの前までやってきた。
心臓は破裂しそうで、顔は熱いを通り越してひりひりとした痛みを感じたけれど、
でも、あとちょっとだった。あとちょっとだと思えば、
あとちょっとで会えると思えば、こんな痛みなんてへいちゃらだった。
明かりも何もなかったけれど、でも、きっと身体が覚えてる。
彼と通ったこの道を、私は絶対覚えてる。だから私は手ぶらのままに、
楽園へと続くトンネルへ入ろうとした。腕を、つかまれた。プギャーくん?
振り返った。
知らない男の人が、そこにいた。胸ぐらをつかまれ、頬を叩かれた。
.
300
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:08:47 ID:3ISfrQos0
「お、お、お、お前たちが先に奪ったんだ! だから俺は取り返すだけだ!
お、俺は悪くないんだ! 俺は、俺は!!」
どもる彼は口から泡を飛ばしながら、怒鳴り声で私に様々な言葉をぶつけてきた。
俺たちはあの戦争で戦ったんだ。国のため、正義のために戦ったんだ。
クリスマスまでには帰れるはずの戦いだった。簡単に勝てるはずだった。
それをお前らが、お前ら商売人が儲けるために武器を、
見たことも聞いたこともない兵器をばらまいたから戦争はどんどんどんどん長引いた。
長引いて、みんな死んだ。肉屋のアランも、学生だったニコラも、みんな死んだ。
ガキの頃から一緒だったレナルドも死んだ。俺だって、俺だってこんなになっちまった。
全部、全部、お前らのせいで。
なのにお前らはのうのうと暮らしている。
戦ってないくせに、戦争にも行っていないくせに、いいもんを食って、
いい服を着て、いい暮らしをしている。戦ってもいないのに。
なんの苦労もしてないくせに、俺らの屍の上で幸せそうに暮らしてやがる。
こんなの不公平だ。この国は、俺たちの国は、
自由と公平の革命によって生まれ変わったはずなのに。
だからこれは、革命なんだ。俺の、俺による、俺のための革命。
奪われたものを取り戻す、資本家どもに対する革命。
お前たちが奪ったものを、俺がこの手で奪い返すための。
だからこれは正義の革命で、悪いのはお前たちで、俺は悪くないんだ。
俺は、俺は、お、お、お、俺、俺、俺は、俺は。
301
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:09:13 ID:3ISfrQos0
手に持った酒瓶を煽り煽り、彼は私に話し続けた。
私たちがどんなに卑劣で、醜悪で、度し難い存在であるのかを、
手と足とを拘束し、口を抑え、固く椅子に縛り付けた私に向かって訴え続けていた。
そしていつしか部屋の中の酒が尽きたのか、
古ぼけ錆びた扉に鍵をかけて、部屋の外へと出ていったのだ。
私は、誘拐されたらしかった。なんのために、どんな目的で。
おそらくは先程までの訴えに関係する何かを叶えるためなのだろうと、
そこまではなんとなく判った。けれど肝心の、彼の訴え続けていた言葉を私は、
何も理解できていなかった。それどころではなかった。
あの山で、トンネルの前で頬を叩かれて以降、
私の中にはショックと”怖い”以外の何物も消え去ってしまっていたから。
どうしよう、どうなるの。怖いのは嫌だよ。怖いのは怖いよ。どうして怒っているの。
私が何かしたの。私が臆病だから? 私が泣き虫だからですか?
いやだ、怒らないで。怖いことしないで。こんなところにいたくない。
逃げたい。でも怖い。逃げるのも怖い。動くのも怖い。
息をするのも、心臓が動くのも、生きるのも、全部、全部――。
怖い、怖いよ。誰か助けて。誰か、誰か――。
プギャーくん――。
302
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:09:52 ID:3ISfrQos0
「リリ!」
初めは、なんだか判らなかった。
名前を呼ばれたことも、誰が私を呼んだのかも。
だから私は怖くって、止まった呼吸をさらにぎゅっと固めて止めて。
でも、二回目に。もう一度、呼ばれた時に。うそだって、私は思った。
だってこんなところに彼が、彼がいるはずなんかないって。
彼を求める私の頭が、都合よく彼の声を響かせているだけなんだって。でも、違った。
彼の手が、縛られた私の手に触れた。
「なあリリ、オレ、わかったんだよ。お前と会えなくなって、わかったんだ」
視界の端に、ナイフの煌めきが映った。彼がいつも持ち歩いているナイフ。
りんごの皮とか、絵を描くためのペンを器用に削る彼のナイフ。
そのナイフが私の手元へと、私の手首を縛る戒めへとするりと潜り込んでいく。
「お前が来なくなって、正直むかついた。むしゃくしゃした。
意味わかんねーって親父の菓子を貪り食って、ぶん殴られたりもした。
だってお前、あんまりいきなりなんだもんよ。
だから秘密基地で、お前のこと散々にバカコラって怒ったりもした。
でも、でもよ。違ったんだよ、そうじゃねーんだよ」
303
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:10:17 ID:3ISfrQos0
ぎゅうぎゅうに締め付けられて麻痺しかけていた手首に、
留まっていた血液がどっと送られていく。次いでナイフは、足へと向かう。
右足、左足と、私の身体が椅子から解き放たれていく。
「オレ、寂しかったんだよ。お前と一緒にいるのが楽しかったから、
とつぜんいなくなられてショックだったんだよ。
オレは楽しかったのに、お前は違ったのかよって。
それに、それに、絵だって白紙のままなんだ。
描けないんだ、描きたいんだ、一緒に。お前と、紙芝居、完成させたいんだよ。
だから、だから、あー……あーもー!」
そして、猿ぐつわが外されて。
自由になった私は立ち上がって、振り返って彼を、
わずかに顔を赤らめている彼を――プギャーくんを、目の前に捉えて。
「オレにはお前が必要なんだよバカコラ!」
304
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:10:40 ID:3ISfrQos0
「な、な、なんだ、なにしてやがる!」
扉の向こうから、怒声が轟いた。プギャーくんがこっちだと、背後の壁へと身軽に飛ぶ。
そこには小さな窓が、プギャーくんや私のような子どもが
ぎりぎり通れる程度の小さな小さな窓が開いていた。
プギャーくんはその窓へと身体を通し、一度向こうへ抜け出てから反転し、
窓から部屋へと上半身だけで乗り出した。
「来い、リリ!」
ぐぅっと目一杯といった様子で、彼が私に手を伸ばす。彼の手。
大好きなプギャーくんの手。ずっとずっと、ずっとずぅっと会いたかったその人の。
私はその手を見つめる。その手を見つめる私の背後では、
もはや言葉にもなっていない怒りの悲鳴と、がちゃがちゃと扉を揺さぶる音、
乱暴に鍵をいじる音とが重ね合わさった騒音を立てていた。
305
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:11:05 ID:3ISfrQos0
「リリ!」
プギャーくんが私を呼ぶ。私を必要だと言ってくれたプギャーくんが。
うれしい(怖い)。私もだ。私も一緒にいたい(怖い、怖い)。ううん、いる。
これからも一緒にいる。プギャーくんの紙芝居を、私も一緒に作る(いやだ、やめて)。
だから動いて。お願い動いて私の腕。差し伸べられたプギャーくんの大好きなその手を、
私のその手でぎゅっとつかんで(お父様が怒ってる。扉の向こうで怒ってる)。
だから動いて私の足。前に進んで地面を蹴って、
プギャーくんのもとまで飛び上がって(やだ、やだ、やだ、やだ、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい)。
ほら、動いて(怖い、怖いの)。お願い動いて(怖くて身体が動かないの)。
泣いてなんかいないで。涙を拭って(見つかることが、怒らせてしまうことが怖いの)。
プギャーくんが呼んでるから(逆らうことが怖いの。動くことが怖いの)。
プギャーくんが待ってるから(怖いことが……怖いの)。プギャーくんが――。
306
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:11:46 ID:3ISfrQos0
怖い。
扉が、開いた。男の人が、いた。それを構えて、立っていた。
それは、お父様が、売っていた――。
最後に見たのは、砕けたナイフ。
無数の破片が、宙へと散って。きらきら輝き、それはなんだか、幻想的で。
とっても、とっても、きらきら、綺麗で。
とっても、とっても、とっても、綺麗で――。
.
307
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:12:14 ID:3ISfrQos0
プギャーくんは、やさしい人。
嫌なことや悲しいことに傷ついた日は、黙って側にいてくれる。
プギャーくんは、お茶目さん。
いたずらするのが大好きで、街の大人やお父さんによく叱られている。
プギャーくんは、照れ屋なの。
絵を描いてるところを見つめると、なんだよって口をとがらせそっぽを向いちゃう。
プギャーくんは、手先が器用。
欲しいものは買ったりしないで、特別なものを自分で自由に造ってしまうの。
プギャーくんは、ばかこらって言うのが口癖。
やさしい時にも、お茶目な時にも、照れてる時にも、造った時にも、なんでもかんでもばかこらって付け足してる。
他にも、たくさん、プギャーくん。
プギャーくんは、プギャーくんは、プギャーくんはね ――。
.
308
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:12:40 ID:3ISfrQos0
プギャーくんは、もういない。
.
309
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:13:15 ID:3ISfrQos0
「ごめんなさい……」
なにが。なにがプギャーくんを奪ったのだろう。
恨み言ばかりをこぼし、怒りに任せて凶弾を放ったあの男の人のせいだろうか。
銃を売ることで財を成し、様々な人の恨みを買ったお父様のせいだろうか。
それとも私なんかに何かを見出し、危険を顧みずに助けにまで
来てくれたプギャーくん自身のせいだろうか。
違う。違う、違う、ぜんぜん違う。それらは原因の一旦であって、根本的な真実ではない。
プギャーくんを奪ったもの。その原因は、その真実は、たったひとつの事象に説明できる。
プギャーくんを奪ったもの、プギャーくんを奪った元凶とは――。
私だ。
310
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:13:42 ID:3ISfrQos0
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
怖い怖いと泣きじゃくるばかりで、ただの一歩も動くことのできなかった臆病者。
下劣で、醜悪で、最低で、臆病で、泣き虫な、私だ。私がプギャーくんを奪ったのだ。
私がプギャーくんを死なせたのだ。私がプギャーくんを殺したのだ。
逃げ出す勇気すら振り絞れなかった私が、彼の生命を奪ったのだ。
もしも。もしも私が私でなかったら。
もしも私が短気で、乱暴者で、反抗的で、誰の助けも必要としないくらい強い女の子だったなら。
プギャーくんはきっと、死んだりなんかしなかった。
もしも私が絶対に泣くことのない女の子だったなら。
プギャーくんは絶対に、私を見つけ出すこともなかった。
もしも私が、私でなかったら。
.
311
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:14:27 ID:3ISfrQos0
……そうだ、思い出した。私は――いや、“オレ”は。“オレ”は、“リリ”だ。
短気で、乱暴者で、反抗的で、誰の助けも必要としないくらい強い、
“オレ”が、“リリ”だ。そうだ、思い出した。全部思い出した。
“オレ”の、“リリ”の、願いは。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
少女がすすり泣いていた。
果てしなく続く暗闇の空間に座り込み、めそめそめそめそ泣いていた。
めそめそめそめそめそめそめそめそめそめそ泣きながら、
ごめんなさいごめんなさいと浅ましい贖罪のポーズをこれ見よがしに披露していた。
赦してなどやるものか。誰がお前を赦してなど。
.
312
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:14:55 ID:3ISfrQos0
“オレ”は少女に歩み寄る。手には凶器を、彼の砕けたナイフを持って。
プギャーくんは言っていた。なんでも使いようだと。その通りだった。
プギャーくんは正しかった。この凶器の使い道は、刺して、裂いて、殺す。
やっぱりそれが、正しかった。“オレ”の願いを形にする、これが正しい形だった。
“私”を殺す。その発生の以前より“私”の存在を抹消し、
彼と“リリ”の出会う現実をなかったことにする。それが、“オレ”の、願い。
“私”より分かたれた“私”を絶対に赦さない“私”――“オレ”の、唯一つの願い。
醜悪に泣き続ける、臆病者の前に立つ。
313
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:15:28 ID:3ISfrQos0
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「赦さない」
涙で醜い“私”の胸ぐらをつかむ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「絶対に赦さない」
彼のナイフを振り上げる。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「例え誰もがお前を赦そうと」
心臓の拍動するその胸目掛け。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「例えプギャーくんが赦そうとも」
凶刃を、彼のナイフを。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
「“オレ”だけは絶対、“私”を赦してなんかやらない」
ナイフを――。
.
314
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:16:08 ID:3ISfrQos0
どうして。
「……だって」
どうして、できない。
「だってそれでも、プギャーくんは言ってくれたんだ」
こんなにも赦せないのに。
「“私”のことを、好きだって」
こんなにも憎いのに。
「“私”のことが、必要だって」
いなくなれって思ってるのに。
「“私”のことが嫌いだ。大嫌いだ。でも、でも……
プギャーくんの大切な“私”を奪うなんて――」
覚えてさえいなければ、思い出しさえしなければ。
「そんなの、いやだ、いやだよぉ……」
彼と出会いさえ、しなければ。
「オレ、どうしたら……」
315
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:16:34 ID:3ISfrQos0
「いいんだよ」
“私”が、言った。
涙に濡れたその顔、その手。“私”のその手が、“オレ”のその手をやさしく包む。
やさしく、けれど存外に力のこもった“私”の手は、
ナイフをつかんだ“オレ”の手を緩やかに誘導し、そして――。
「“私”も“私”を赦せないもの」
その先端を、己に向けた。
316
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:17:01 ID:3ISfrQos0
「……やめろ」
「ごめんなさい」
ナイフの先端が、“私”の胸に触れる。
「やめろ、やめろ」
「ごめんなさい、ごめんなさい」
じわりと服に、血が滲みる。
「やめろ、やめろ、やめろ」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
肉を裂いて侵入していく感覚が、てのひらへと伝わってくる。
317
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:17:24 ID:3ISfrQos0
いやだ。なんでいやなんだ。これが“オレ”の願いだったはずだ。
こいつを殺して、こいつの存在を抹消して、
プギャーくんに“私”と出会わない人生を生きてもらう。
それが“私”の、“オレ”の願いだったはずだ。なのになんでだ。
なんでこんなに嫌なんだ。なんでこんなに――怖いんだ。
ごめんなさいと“私”がいう。そのごめんなさいは、何に対する謝罪なんだ。
“オレ”に対してか。プギャーくんに対してか。
それともお前自身、誰に向ければいいのか判らないのか。
肉が裂けていく。心臓の拍動が、とくんとくんが、
刃の刃先から“オレ”の脳まで一直線にリンクする。
もう数ミリ、髪の毛ほどもない距離を直進すれば、“私”は終わる。
プギャーくんが好きだと言ってくれた、“私”が。ごめんなさいと、“私”が言った。
“オレ”は、叫んだ。
318
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:17:47 ID:3ISfrQos0
「……なん、だ?」
絵が、浮かんでいた。暗闇の空間に、見知らぬ絵が。
――いや、違う。見知らぬ絵だなんて、そんなのはうそだ。
これは、この絵は――プギャーくんの。空中の絵が切り替わっていく。
始まりから始まって、終わりへと向かって。
プギャーくんの描いた、プギャーくんと一緒に考えた絵が――
ケテルの使徒王物語が暗闇に上演される。
どの絵も、どの絵も、どの絵も知っていた。
成長が、旅立ちが、冒険がそこには描かれていた。
出会いが、別れが、戦いがそこには描かれていた。
どの場面も、どの場面も、どの場面も“リリ”は知っていた。
物語がどのように展開し、使徒王さまがどのような足跡を辿り、
そして最後に何者と戦うのか、“リリ”は知っていた。その、最後の敵の名は――。
な、に。
切り替わった絵。
最終決戦を描いたその絵へとスライドした瞬間、周囲の暗闇が激しく歪んだ。
目の前の“私”も、“オレ”も、歪んでいく。自分を保つことができなくなる。
その絵――『果てなき東のクリフォト』の絵を中心にすべてが、
すべてが一変し、そして、“オレ”たちは――。
.
319
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:18:28 ID:3ISfrQos0
「儚い野心も、これで終いか……」
「ああ、その通りだバチカルの暁光。いや――」
そう言って私は“敵”の目の前に、アドナから授かった水晶剣を突きつける。
「独冠王」
「はは、ずいぶんと大仰な異名をもらっちまったな」
クリフォトの大樹を背にした男は茶化すように軽口を叩き、
けれども満身創痍のその身体をよろめかせて痛みにうめいていた。
……同情は、しない。やつの周囲に転がる無数の死体。
これらはすべて、この男が生み出した光景なのだから。
クリフォトの化身、悪徳の主たる独冠王の。
「どうした、やれよ」
口の端から血を滴らせ、独冠王が不敵に笑う。
嘲り、挑発するような態度。神と王と人の敵。生きとし生ける者の反逆者。
この男を滅すること。それこそが私に課せられた天命であり、
恒久平和を実現するためになくてはならない一事である。
だから私は、この男を殺さなければならない。
他の誰でもない、使徒王<すべての人の模範にして規範>である、私が。
だが。
320
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:18:58 ID:3ISfrQos0
「……いやだ」
独冠王が私を見ている。
先程までのへらへらした態度ではなく、怒ったような顔をして。
でも、いやだ。だって、だって。だってだってだって……。
「どうして……どうして君なんだ。君じゃなくてもよかったじゃないか。
他にもっと……もつと他に、誰でもよかったじゃないか」
「俺以外の誰にできたさ」
「だとしても!」
だって君は、君と私は――。
「だとしても君は、君は敵じゃない! ケテルに下ることを不満に思う民を、
兵を、争いの種を、それを摘み取るために戦っただけじゃないか。
“すべての人の共通の敵”となることで、その敵意を一身に受けることで
人々の心をまとめようと、ただ君はそうしただけじゃないか!」
あの貧しい村で支え合った――。
「これ以上奪われなくったって、いいじゃないか……」
たった一人の、幼馴染じゃないか……。
321
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:19:38 ID:3ISfrQos0
「……三二〇〇と一人」
「え?」
「この戦いで、俺が奪った生命の数だよ」
そう言って彼は、彼の獲物の手斧を掲げる。
血と油に塗れた、大勢の生命を奪った凶器。彼の悪徳の、その証明。
「判るか、俺はそれだけの未来と願いを奪ったんだ。
奪われたんじゃない、奪ったんだよこの俺が。大罪人だよ、まったくな。
だからよ、俺一人が願いを抱くなんて赦されるわけがない。
――いや、赦せねぇんだ、俺自身が」
真剣な眼差し。真剣な、声。私は知っていた。彼のこうした態度を。
彼がこうした態度を取った時の、彼の決意がどれだけ固いものであるのかを。
私が何を言ったって、彼が聞き入れることはないという事実を。
322
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:20:10 ID:3ISfrQos0
「君は馬鹿だ、大馬鹿だ……」
「お前ほどじゃないさ」
さあ、と、彼が促した。判っている。彼は独冠王で、私は使徒王だから。
これが必然であり、これが必要なことだと、私は既に判っている。
剣を、構え直した。それでいいと、彼がうなずいた。
私は、私は――彼の心の臓を、誤ることなく貫いた。
323
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:20:42 ID:3ISfrQos0
「相変わらず泣き虫だな、トソンはよ……」
飛び散った彼の血が、背後の大樹に降りかかる。
クリフォトの大樹。知恵を司ると謂われるその樹に。
「約束する……誓う。私はこの大樹に誓う」
頭を、肩を密着させるように彼へと、心臓の止まった彼へともたれて、私は言う。
彼に向かって、私に向かって、私は誓う。
「この地に、人の世に、世界に平和を実現したその時には、必ず君に会いに行く。
君を独りになんてしない。どんなに時間がかかろうとも、どんなに争いが続こうとも、
絶対不変の恒久平和を実現して、君の下へ会いに行く。
セフィロトを越えた果て先で、必ず君と会ってみせる。だから、だから――」
永遠の誓いを、約束する。
「だからお願い、待っててフォックス――」
遠い、遠い、果てなき“願い”を――。
……それを、“オレ”は。
.
324
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:21:11 ID:3ISfrQos0
「なんでだよ……」
オレが、つぶやいた。つぶやいたその声は、オレの声ではなかった。
先程まですぐ側で聞き続けていた声――オレは、使徒王の中にいた。
使徒王の身体を借りてオレは、一部始終を見続けていた。
伝説の物語が辿った真実を、オレは、その中心にいた存在の内側から知った。知ってしまった。
「なんでだよ、なんでだよ! だってこんなの……こんなのあんまりじゃねーか!」
オレは叫んだ、吠えた、喚き散らした。だってこんなことって、あんまりひどすぎる。
どうして一緒にいられない。どうして殺し殺されなきゃならない。二人がいったい何をした。
何がそんなに悪かった。みんなのために走った二人の結末がこれだなんて、こんなの、こんなの……
悲しすぎるじゃないか。
オレは泣かない。泣いたりなんかしない。絶対に涙なんか流さない。
でも、でも……使徒王は、トソンは、泣いてたじゃないか。いまも、泣いてるじゃないか。
涙がこぼれた。呻くような声が、のどから溢れた。
密着した彼の、フォックスの身体を揺らしながら。
ひっくひっくと、泣きじゃくった。そうしたら――。
325
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:21:36 ID:3ISfrQos0
「……もしかしてリリ、お前さんか?」
二度と開かないはずのフォックスの目が、開いた。
「驚きだな、お前さんとはよっぽど深い縁があるらしい」
「フォックスあんた、生きて……!」
「ああ」
無精髭のフォックスが、いつものように笑った。
「そいつはちょっとばかし、語弊があるな」
直後に、炎が燃え上がった。
燃え上がった炎はフォックスの身体を包み込み、末端からその肉体を灰へと変換していく。
炎の壁。七日の限りの、タイムリミット。炎はオレの――
使徒王の身体も同様に呑み込み、さらにその火勢を増していく。
「燃えて<死んで>また、やり直すのさ」
326
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:22:10 ID:3ISfrQos0
腕が、足が、喪われていく。
彼を構成するものが、使徒王を構成するものが、生命以前の形まで還元されていく。
「俺たちは願いに囚われているんだよ。
願いが叶うまで何度でも灰になり、何度でもこのセフィロトの道を繰り返す。
例え何百年かかろうと、何千年かかろうと、願いが叶うその時まで永遠に――
俺は悪徳の王で在り続ける」
涙が蒸発する。止めどなく溢れる涙のすべてが、炎に呑まれて消滅していく。
「なんだよ……あんたの願いって、なんなんだよ!」
「あいつの願い<恒久平和>が叶うこと」
327
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:22:36 ID:3ISfrQos0
もはや完全な灰と化した腕を、それでもフォックスはオレ<使徒王>へと伸ばし、
その手でオレ<使徒王>の頬へと触れた。
「なあリリ、終わっちゃいないんだ。使徒王物語は、まだ終わっちゃいない」
「フォックス……」
「物語はな、いまもお前さんたちに続いている。未来を生きるお前たちに」
「フォックスぅ……」
「些細なことで構わないさ。俺たちの時代<切り結ぶことでしか拓けなかった世界>では
為し得なかった何かを、どうか次代へつないでくれ。
いまここを生きる、お前さんだけのやり方で。……そして、そうだ、それからな」
……そして、彼も我も、ついには燃え尽き――。
「俺たちの築いた明日で、どうかどうか、幸せに――」
.
328
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:22:57 ID:3ISfrQos0
少女がいた。呆然とした顔の少女。
胸を赤く、薔薇のように染めた少女が、吐息すら感じるすぐ目の前に座っていた。
我が手を、彼女の胸に当てる。赤く濡れたその胸に。心臓は、まだ拍動していた。
彼女はまだ――“私”はまだ、生きていた。“私”が、嗚咽を漏らし始めた。
「……泣くなよ」
だってと“私”が反論する。
だってだってと、駄々っ子みたいに。
「泣く……泣くな。泣くなって言ってるだろ」
あなただってと“私”が反論する。
あなただって泣いていると、有り得ないことを“私”がのたまう。
「な、泣い……泣いたって、泣いたってどうにもならないだろ!
泣いてたってなにも、なにも変わらないんだ! だから泣くな、泣くなよ……」
オレは泣かない。泣いたりなんかしない。だからこれは涙じゃない。
だからこれは嗚咽じゃない。オレは“私”を赦さない。オレは“私”を受け入れない。
だって、だって、だって。だってだってだってだって――。
「泣くな、よぉ……」
オレまで同じじゃ、同じことを繰り返しちゃう――。
329
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:23:24 ID:3ISfrQos0
「泣いてもいいっつっただろうが、このバカコラ」
.
330
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:23:48 ID:3ISfrQos0
声。二人の“リリ”が、反応する。二人の“リリ”が、同じ場所に視線を向ける。
暗闇の続く、果てしのない空間。そこには誰もいなかった。ただ、ひとつ。
暗闇以外のものがひとつ、そこに存在していた。それが地面に刺さっていた。
フォックスの手斧が、地面に刺さっていた。
涙が溢れ出してきた。オレは、泣いていた。疑いようもなくオレはいま、泣いていた。
手を握られた。泣いている“私”に、手を握られた。オレはそれを――握り返した。
強く、強く、固く、ひとつになってしまうくらいに。
空中に浮かぶプギャーくんの絵。そこにはいま、白紙のキャンバスが表れている。
かつて辿り着くことのできなかった、プギャーくんが期待してくれた、
“リリ”なら導けると信じてもらえた使徒王物語の完結。
未だ未完の、可能性の狭間に揺蕩ったままの、それ。
“オレ”は、“私”は、それに触れた。
“リリ”は二人で白いキャンバス<未来>に触れ、そして、そして――。
.
331
:
名無しさん
:2023/06/03(土) 22:24:19 ID:3ISfrQos0
今日はここまで。明日で最後です
332
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 10:54:13 ID:EX/omY3w0
乙です
333
:
◆y7/jBFQ5SY
:2023/06/04(日) 20:22:42 ID:esi.ifqo0
ו
ぼくは人間じゃない。
ぼくを見た人の反応は、大別して三つに分かれる。
嫌悪を顕とするか、過剰なまでに怯えるか、
自分を進歩的人間であるとアピールするための道具として扱うか。
表れる態度にいくらかの差異があるとはいえ、
根っこのところで彼らの意識は共通していたと言える。
それはぼくのことを、同類と見なしていないという視点。
別の何かと捉えている点について、彼らの意識は共通しているといえた。
そしてそれは、余りにも正しい見方だった。
ぼくは、不浄の存在だった。不浄の存在であることを、生まれてすぐに刻まれた。
目元から顎にかけて、片頬に引かれた三本線。赤三本の入れ墨。それは、ぼくの身分を表すもの。
いずれは処刑人となることを定められた、処刑人の子であることを表す印。
そう、ぼくはいずれ処刑人になる存在。それがすべて。ぼくという――
ショボンという人間未満の生き物における、すべて。
334
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:23:05 ID:esi.ifqo0
間違っていると思ったことはなかった。
ぼくが処刑人の子として生まれたことも、みんながぼくを穢れたものとして見ることも。
事実としてぼくは、穢れていたのだから。おそらくは生まれ出るよりもずっと前、
魂が形作られたその時からすでに、もう。
だから彼らの罵倒や投石も、甘んじて受け入れるべきだと思った。
先に彼らを攻撃したのは、彼らの視界に入ったぼくの方なのだから。
加害者はいつだって、ぼくの方であるのだから。
ただ、みんなを不快にしてしまうことは忍びなかった。
ぼくと関わった者は穢れ、不幸になってしまうと、ぼく自身がそう信じていた。
だからぼくは、可能な限り誰とも関わらないようにしていた。
誰にも迷惑をかけずに、ひっそりと穴蔵の奥に閉じこもる。
それがぼくにできる、人間未満であるぼくにできる
唯一の社会奉仕であると、ぼくはそう信じていた。
それがずっと続くと思っていた。父と同じように処刑人となり、蔑まれ、憎まれ、
恐れられながら命を奪って穢れ続けていくのだと、
その生が終演を迎えるその時まで穢れ続けていくだけだと、
それが、それだけがぼくの人生であると、ぼくはそう思っていた。
彼と出会う、その時までは。
.
335
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:23:35 ID:esi.ifqo0
「はは、どうです! おもしろいでしょう!」
振るわれた鞭が、道化の顔を強か打った。白塗りのメイクを施されたその顔が痛みに歪む。
しかし歪んだのは、鞭を打たれた道化ではなかった。
同じ格好に同じメイクの、同じ顔をした道化。
痛みに息を吐いたのは、打たれた方とは別の道化だった。
エティエンヌ卿が、道化を再び打った。
やはり道化は、打たれたのとは異なる方が痛みに呻いた。
道化は二人いた。二人でありながら、一つだった。
一つの胴に二つの腕、二つの足に二つの頭。同じ顔をした双子のピエロ。
鞭で打たれる彼らを、貴族たちが囲み見る。
好事家として有名なエティエンヌ卿が、新たに手に入れた奇妙なおもちゃを。
ある者は眉をひそめて、ある者は好奇に口を歪ませて、
誰一人としてそれを止めることはしないまま、打たれるピエロを観察していた。
336
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:24:11 ID:esi.ifqo0
ぼくも、そうだった。ぼくも、それに父も。
エティエンヌ卿が主催したパーティに招かれたぼくらは、
断ることもできないままにこの場へ赴き、こうして彼のお披露目会に出席させられている。
周りの貴族たちはもちろんのこと、ぼくたちの来訪を歓迎してはくれなかった。
嫌悪と好奇の視線を隠さず、ひそひそと当てつけるような言葉をささやきあっていた。
おそらくはこれも、エティエンヌ卿の企みのひとつなのだろう。
王に仕える処刑人であるぼくらを所有することなど、子爵であるエティエンヌ卿には叶わない。
自分のものとして披露することはできない。
けれど主催するパーティに呼びつけ、我が物のように見せつけることならば、可能だ。
エティエンヌ卿はぼくたちも数に含めた上で、悪趣味な余興を開きたかったのだ。
つまりいま、ぼくたちは同じなのだと言えた。ぼくと、あの、道化師たちとは。
ぼくと同じく、人間未満の扱いを受けている彼らと。でも、だから、なんだというのか。
ぼくには何もできなかった。鞭で打たれる彼らに対し、人間未満のぼくには、なにも。
ピエロの二人と、目があった。ぼくは……目を逸らした。
会場が、にわかにざわめき出した。
337
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:24:37 ID:esi.ifqo0
「おお、これは公爵閣下! まさかお出で下さるとは!」
百万都市の。王系傍流の。ラトヴイームの。貴族たちのささやき声が聞こえてくる。
そのささやき声の中心をすらりと背の高い、けれどどこか顔色の悪い男性と――
その男性と同じように身なりの良い衣装をまとった少年が、並んで歩いていく。
ささやく貴族の壁を割るようにして歩き、ぼくの前を通り過ぎようとした、その時。
少年の方が、ぼくの存在に気がついた。こちらに気づいた彼は――にこっと、ぼくに、微笑んだ。
これまで見たことのないような、自然な笑みで。
よく判らない感情が走った。
無意識に頬の赤線を、てのひらで隠そうとしていた。
「ご子息も遊んでみますかな?」
エティエンヌ卿が少年に、自身で振るったその鞭を差し出す。
少年はその鞭を受け取り、二人で一つのピエロに向かう。ピエロたちが、怯えるように後ずさる。
後ずさるピエロの前まで、少年が赴く。そして少年は――鞭を置き、ピエロたちを抱きしめた。
338
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:24:57 ID:esi.ifqo0
「痛かったね、怖かったね」
二人のピエロは呆気にとられた顔をしていた。
そしてそれはピエロたちだけでなく、ここにいる誰もが同じように。
ただその少年と、おそらくはその少年の父である公爵閣下を除いて。
少年が、抱きしめるのをやめてピエロから離れた。
「エティエンヌ卿、どうしてこんなひどいことをなさるのですか?」
その声には、問い詰めるような響きはなかった。
純粋に、ただ純粋に、判らないものへ問いかけているといった、そんな風情で。
しかし問いかけられたエティエンヌ卿は見るからに狼狽えた様子で、
きょろきょろと視線をあちらこちらへと向けている。
「大人になれば理解できますよ、小さな紳士」
「そうでしょうか。ぼくにはそうは思えませんが」
「であればあなたは、大人になれますまい」
339
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:25:19 ID:esi.ifqo0
もういいでしょうと、エティエンヌ卿が手を叩いた。
彼の使用人たちが命令に従い山のような料理を次々運び出し、
入れ替わるようにしてピエロたちが広場から引っ込められていった。
エティエンヌ卿が場の注目を集めるように、掲げた両手を打ち鳴らす。
「さあみなさま、余興は終いです。後は思い思いに!」
そこから、特に代わり映えのしない、極々当たり前のパーティへと切り替わった。
それはつまり、ぼくたちがいる理由もなくなったということ。父もそれは理解していた。
名を呼ばれたぼくは、小さく「はい」と返事する。
ここにいても、良いことはなにもない。ぼくにとっても、みんなにとっても。
だからぼくは足早な父に続き、足早にこの場から出ていこうとした。
340
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:25:40 ID:esi.ifqo0
「待って」
まだ声変わり前の子どもの声が、ぼくを呼び止めた。振り返る。
そこには、さっきの少年がいた。ピエロたちを抱きしめ、まるで……
まるで人間のように労っていた、あの。
「君は?」
少年が尋ねてくる。真っすぐな瞳を――星のようにきらきらと輝く瞳をこちらに向けて。
ぼくは――父を見上げた。何も言わず、ただ、そうした。
父も何も言わず、ただ、小さく、うなずいた。
「……ショボン、です。閣下」
「閣下だなんて」
そう言って、少年は破顔する。
そしてそれから、それから少年は信じられないことに、ぼくの前へと手を差し出してきた。
まるで握手を、求めているかのように。
341
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:26:02 ID:esi.ifqo0
「ボクはシィ、シィといいます。よろしくね、ショボンくん」
瞳が、ぼくを見る。星のような瞳が。差し出された手が、もどらない。引っ込まない。
握手。本当に、そうなのだろうか。そんな求めを、これまで受けたことはなかった。
本当に、ぼくが、それをするのか。
頬に、触れていた。片頬に。赤三本の、処刑人であることを証明するその線に。
しばらく、ぼくは、そうしていた。けれど――
シィと名乗ったその少年は、微笑んだままにぼくを見ていて。
手を、握った。人の、体温。人間の。久しく感じることもなかった。
それが、ぎゅうっと、強まった。「よろしくね」と、シィが再び繰り返した。
ぼくは小さく、「はい」と返した。じわりと広がる熱を感じながら、ぼくは彼と、握手した。
.
342
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:26:24 ID:esi.ifqo0
「もーいーかい!」
戸惑っていた。ぼくは戸惑っていた。彼の――シィの行動に、ぼくは困惑していた。
木々の影に身を隠していたぼくを発見した彼が、「みーつけた!」とぼくに触れる。
「次はショボンくんの番だよ」と言って彼は、木々の間を走っていく。
ぼくは言われた通り手頃な木へと頭を伏せて、遅めのリズムでカウントする。
いーち、にーい、さーん……十まで数え終え、
そしてぼくは、どもりながらも声を上げた。「もーいーかい」。
コンタクトを取ってきたのは、シィの方からだった。
エティエンヌ卿のパーティで見た時とは異なる平民の子のような
動きやすそうな格好をしてきた彼は、ある日とつぜんぼくの家へと訪ねてきた。
ぼくの、そして父の家は街外れの森林の中へと人目から隠れるように建てられており、
来客などは滅多になく、況やぼくへの客だなんてこれが初めてのことだった。
343
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:26:53 ID:esi.ifqo0
「ショボンくん、ボクと遊んでくれませんか?」
彼の真意が判らなかった。身分の違う彼の命令に逆らえるはずもなく、
ぼくは彼の“お遊び”に付き合った。付き合っているあいだ中ずっと、疑問が頭を支配していた。
彼はぼくに、何を求めているのか。ぼくといることによって有益な何かが、彼にあるのだろうか。
何もないわけはない。
何もないのにぼくなんかを連れまわす理由など、あるわけがない。
企みがあるならば、それでも構わなかった。
使うだけ使って、捨ててくれればそれでよかった。
利用する理由がなくなれば、いずれは離れていってくれる。そう考えれば、安心できた。
けれど……けれど。彼の、瞳。きらきらと星のように輝く瞳。
その瞳からは、僅かな裏も見て取れず。
まっすぐぼくを、ぼくに付随する何かではなく、ぼく自身を見つめていて。
だから、不安だった。彼がぼくに何を求めているのか判らなくて、不安だった。
この関係が、この状況がいつまで続くものか判らなくて。
判らないまま、不安なままに、ぼくは彼に従った。彼に従って、遊んでいた。
何週間も、何ヶ月も、一緒になって遊んでいた。
344
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:27:16 ID:esi.ifqo0
父は、余計なことを言わない人だった。
あらゆる物事を黙々とこなし、自らの職務についても一切語ろうとしない。
規律のために己を定め、それを遵守するために自らを動かしている。
そのような印象を抱く、正確で、無比で、近寄ることの躊躇われる人だった。
その父が、顔を腫らしていた。驚くべきことではなかった。
ぼくたち親子が暴力の標的にされるのは、そう珍しい事でもなかったから。
謂れなき――いや、“不快にさせてしまった”という謂れのある
暴力によって負った傷だろうと、その時ぼくは、日常の一シーンとして
その出来事を処理しようとしていた。けれど、今回は、事情が違った。
「息子を使って公爵家に取り入ろうなどと」
風の噂が耳に入った。父が怪我を負った理由。
公衆の面前で侮辱され、家畜のように鞭打たれたその理由。
それはすべて、ぼくの行いに責があったらしい。浅ましくもシィと同じ時を過ごしたぼくに。
ぼくはぼくの行いによって、父を傷つけてしまった。迷惑を、かけてしまった。
今回も、また。
345
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:27:38 ID:esi.ifqo0
「父さん、ぼく……」
父と囲んだ静かな食卓。
いつもは無言で食べ始め、無言で食べ終えるだけのその儀式の最中、ぼくはそう、切り出した。
ぼくのせいで父さんに迷惑をかけてしまいました。申し訳有りません。
これからはこのようなことがないようにします。彼に付き合うことも、もうやめます。
申し訳有りませんでした、父さん。申し訳有りませんでした。
ぼくはそう、確かにそう言うつもりだった。真実それは、本心だった。
けれど、言えなかった。黙々と機械のように食事を口に運ぶ父を見ていると、
それだけでぼくはもう、何も言えなくなってしまった。
それでもぼくは謝ろうと、言葉にならない声で呻く。――すると父が、スプーンを置いた。
「いい」
一言。静かに、しかしきっぱりとした口調で、父はそう言った。
そしてそれ以上、父は何も言わなかった。
傷のことについても、ぼくとシィのことについても、何も言わなかった。
何も言わずにスプーンをつかみ直し、また機械のような食事を開始した。
だからぼくも、それ以上何も言えなかった。
ただ「はい」と小さく返事をし、後はいつもどおりの、無言。
346
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:28:06 ID:esi.ifqo0
ぼくは人を不幸にする。
シィは不思議な少年だった。
憎むでも、恐れるのでもなく、ましてや自分の価値を上げるためにぼくを使うのでもなく、
そのどれでもない、ぼくの知らない動機を元に、ぼくと一緒にいようとしていた。
きらきら輝く瞳を向けて、まっすぐぼくを見つめていた。
彼は純粋だった。純粋で、一片の穢れもない、太陽の化身だった。
数ヶ月ものあいだ一緒にいて、ぼくは確信した。彼には裏などない。企みなどない。
彼はただ、彼なのだ。そう成ろうとしているのでもなく、そう偽るわけでもなく、
ただただ彼は、彼なのだ。シィという一個の存在として、ここにいるのだ。
ここにいて――ぼく<ショボン>の前に、現れるのだ。
だからこそ。
347
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:28:34 ID:esi.ifqo0
「なぜ、ですか」
だからこそ、このままにはしておけなかった。
「なぜ、ぼくなのですか」
だからこそ、終わらせなければならなかった。
「あなたはなぜ、ぼくと、遊ぶのですか」
だからこそ、ぼくは――。
「一目見た時にね、思ったんだ。君とならって。
……ううん、違う。それも違うや」
切り揃えられた前髪を左右に揺らして、シィがいう。
「きっともっとね、もっともっと、もっともっと単純に――」
いつものようにぼくを見て、いつものように微笑んで、当たり前のようにシィがいう。
「ボクはね、きっと、こう思ったんだよ」
シィという太陽が、ぼくにいう。
「君と友達になりたいって」
348
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:29:07 ID:esi.ifqo0
友達。
信じられないという思いと、やっぱりと得心する気持ち。
かつて感じたことのないような胸の締め付けられる心地と、
過去に感じた以上の足元がとつぜん喪われるような感覚。
相反する感情が、瞬時にぼくのうちを駆け巡った。
友達。ぼくが。シィの――。
――ダメだ、そんなの。
ダメだ、ダメだよ。君とぼくとは、まったく違う。
身分も、生き方も、存在の次元もまるで違う。なにもかもが違うんだ。
ぼくと一緒にいたらいつかは必ず、避けようのない迷惑が君にも及ぶ。
不浄なぼくの落ちない穢れが、無垢な君にも移ってしまう。
このまま君がぼくといたら、ぼくは、ぼくはきっと――。
ぼくはきっと、君を不幸にしてしまう。
349
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:29:43 ID:esi.ifqo0
彼の迷惑にはなりたくなかった。彼の不幸にだけはなりたくなかった。
けれどもぼくは、それを告げるだけの勇気も言葉も持ち合わせてはいなかった。
いなくならなければならないのに、どういなくなればいいのか判らなかった。
だからぼくは、そのままの関係を続けた。
森林の中を一緒に遊んで、一緒にかくれんぼをして――誰かに後頭部を、殴られた。
350
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:30:10 ID:esi.ifqo0
「不公平だ、お前だけが人間扱いされるだなんて」
気づくと、土の中にいた。深く掘られた土の中。
膝を抱えて縮こまって、土の中で座していた。土の上には、いつかの彼ら。
一つの胴に二つの腕、二つの足に二つの頭。涙を湛えた白塗りメイクのピエロたち。
身体中を傷だらけに、人間未満と打たれた彼ら。穢れたぼくと、同じように。
土が降る。掘られた土の空間に、塊となった土が降り注ぐ。
不快なぼくを覆い隠すように、光を遮り土が降る。
必然だと思った。だって、彼らの言うとおりだ。ぼくは人間じゃない。
人間でないものが人間扱いされるわけにはいかない。人間でないのだから。
人間未満なのだから。人間でないものが人間と関わってはいけない。
人間でないものが人間の中で生きていてはいけない。
結論は、いつだって明快だった。
生きているから、いけないんだ。
生きているから、苦しいんだ。
生きているから、嫌な思いをさせてしまうんだ。
いなくなれば――死んでしまえば、すべては解消されるのだ。
351
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:30:42 ID:esi.ifqo0
怖くはなかった。喪われていくこと、無くなっていくことに、恐ろしさはなかった。
死ぬことは怖くなかった。怖かったのは、不快にさせてしまうこと、不幸にさせてしまうこと。
ぼくはずっと、それだけが怖かった。なにも持たないぼくにできるせめてもの善行が、
これ以上の迷惑をかけないことであると信じていたから。
雨が降ってきた。土が濡れる。濡れた土が泥になる。泥となった土が、身体を覆う。
身体を覆う土が、身体との境界を喪わせる。溶けた泥は僅かな隙間も生むことなく、
包んだそれを侵食していく。泥と自分が一体化するような感覚を覚える。
泥のように意識のないなにかに変じていくのを感じる。
そして、これが死かと、理解する。
そうか、これが、死、と。
352
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:31:07 ID:esi.ifqo0
呼吸は止まり、鼓動も弱まっていた。父のことが、わずかに頭をよぎった。
ぼくが死んで、父は何を思うだろうか。父の暮らしに、何か変わりはあるだろうか。
想像できなかった。きっと父は変わらず正確で、無比で、機械のような生活を続けることだろう。
ぼくがいなくなってもきっと、悲しみはしないだろう。
そう思うと、心の安らぐのを感じた。
涙がこぼれたのが判った。悲しくないのに、流れる涙。
それは生物としての自己が振り絞りだした、最後の抵抗だったのかもしれない。
生きたいなどと願う、浅ましい生物的本能の。
あるいは、あるいはそう――彼を、シィを巻き込む前に逝けることへの喜びか。
あの太陽の輝きを、ぼくという人間未満によって穢さないで済んだことへの。
353
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:31:43 ID:esi.ifqo0
ぼくのことなど、すぐに忘れてほしかった。
この生命が尽きた瞬間に、まさにその瞬間に、ぼくの存在など
頭の片隅にも残さず消し去ってもらいたかった。
彼のこれからに、わずかな陰りも残しては欲しくなかった。
それがぼくの、願いだった。
止まった時で、抱いた願い。
生命の時が、終わりを迎えようとしていた。何も見えない、何も感じない。
これでいい。生まれて初めて垣間見る、死する静寂との邂逅。
後にはもう、音もなく――。
.
354
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:32:11 ID:esi.ifqo0
――存在しないはずの音が、聞こえた。
雨を伝わり、泥を伝わり、裡に抱えるその物体に、喪われた生命の振動を伝わらせた。
泥が、土が、掻き出される音が聞こえた。まさか。そう思った。
泥が、土が、掻き出される振動が伝わった。うそだ。そう思った。
泥が、土が、掻き出される光が伝わった。そんなはずはない。
だって、そんな。そんなことって。敷き詰められた地上との壁が、取り除かれた。
そして、そして――そしてそこには、“シィ”がいた。
355
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:32:48 ID:esi.ifqo0
雨は、止んでいた。空には、陽が昇っていた。陽を背にして彼が、そこにいた。
彼が、手を、差し伸べていた。出血し、指と爪との間に泥とも土ともつかない
汚れが詰まったその手を彼は、微笑みながら、差し伸べてくれていた。
どうしてなんだと、ぼくは思う。そんなにも汚れて、血まで流して、
どうしてぼくのことなんか。こんなこと、ぼくは望んでいない。
ぼくの願いは、君の幸せだ。君が君らしく生きることだ。
だから、ダメだ、ダメなんだよ。ぼくは君を不幸にしてしまう。
決まっているんだ、そういうものなんだ、逃れることはできないんだ、
生まれることを自分で選べないように!
……それなのに、それなのに君は、どうして。
涙がこぼれた。まだぼくの裡に残っていた涙が、こんなにも残っていたのかと思うほどのそれらが、
これまで抑え込んできた分まで流れ出した。その涙が、ぼく自身に教えてくれた。
ああぼくは、ぼくの中の彼は、
こんなにも、こんなにも、大きく――。
356
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:33:21 ID:esi.ifqo0
もーいーかい。
――君と友達になりたい。シィはそう言っていた。
なら、ぼくは? ぼくは、どう思っている。
考えるまでもなかった。ぼくは、つぶやいていた。
「いいの」とか細く、声にもならない微かな声で。
微笑む彼が、こくんとうなずく。
涙が更に、溢れ出した。滲む空、滲む太陽、滲む彼、滲む彼の、瞳。
滲む世界の中にあって唯一確かなその瞳を、きらきらと星のように輝く彼の瞳をまっすぐ見つめ、
ぼくはそうして、その手を取った。差し伸べられた手を取りぼくは、
ぼくは彼を、彼のその名を、呼んだのだ。友達の名を、呼んだのだ。
シィという名を、呼んだのだ。
.
357
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:33:53 ID:esi.ifqo0
しりとり。山崩し。1・2・3の太陽。
二人で遊べる遊びを探して、ぼくらはいつでも二人で遊んだ。
他にもたくさんの、たくさんの遊びを探したり、時には自分たちで考案したりもして、
同じ時間を、同じ気持ちを共有した。
けれどもぼくはやっぱり、なによりもかくれんぼが好きだった。
もーいーかいと、彼が言う。木々の木陰に身を隠す。すぐに見つかる。
いつものことだった。ぼくは見つけるのは得意だけれど、隠れるのは下手だった。
だからいつも、ぼくはすぐに見つかった。彼はすぐに、ぼくを見つけてくれた。
それがとても、うれしかった。
だからぼくは何度も、何度も何度も隠れては、何度も何度も見つけてもらった。
358
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:34:19 ID:esi.ifqo0
「ショボンは本当にあったと思う?」
シィは物語も好きだった。
絵本に伝記、大人が読むような分厚くてむつかしそうな小説も、シィは好んでよく読んだ。
中でもシィは、『ケテルの使徒王物語』をこよなく愛していた。
本を読まないでも諳んじることができるくらいにシィは、使徒王の物語を熟読していた。
だからぼくも、それを読んだ。
彼が好きなものを、彼が心惹かれるものを、ぼくも知りたかったから。
そうしてぼくらには共通の話題がひとつ増えた。
ぼくたちは戯れによく、こんな話をして過ごした。
使徒王さまが旅したところって、どんな場所だったんだろう。
359
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:34:42 ID:esi.ifqo0
『星の飛沫の流れしアッシャー』はきっと、小さな星の欠片が川や海に漂っているんだよ。
触ったらどんな感じなのかな。ぱちぱちって弾けたりしたら楽しいね。
『幾何対黄金のイェツィラ』は?
何もかもが左右対称で、全部が全部整っているっていうのはどうかな。
もしかしたら何かが対称なんじゃなくて、右も左もないくらいに見渡す限りの
真っ白が広がっている世界なのかもしれないね。
それじゃあクリフォト、使徒王さまが最後に戦った『果てなき東のクリフォト』はどうだろう。
おどろおどろしくて、いつも曇って、悪魔たちがいるような場所だったりするのかな。
そうなのかもしれない。でもね、ボクはこうも思うんだ。
クリフォトはとても悪い場所だけれど、でも本当は、本当はみんな、その根は同じ――。
360
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:35:05 ID:esi.ifqo0
たくさんの話をした。たくさんの想像をして、たくさんの世界を思い描いた。
幻想的で、綺麗で、現実的ではない話。現実とはかけ離れた、現実よりも素敵な世界の話。
夢の中の、夢のようなお話。存在しない、空想の。
けれどシィは、ぼくにこう聞いたのだ。本当にあったと思うって。
ありえないと思った。だってこれはただのおとぎ話で、空想はただの空想に過ぎないから。
だからぼくは、そんなものは存在しないんだよと思った。そんな素敵な世界はと。
――以前のぼくであれば、そう思っていたはずだった。
ぼくはもう、知っていたから。
奇跡が起こることを、奇跡が現に存在することを、ぼくはもう知っていたから。
だから、疑いなんて微塵もなかった。空想は、夢は、実在する。
アッシャーも、イェツィラも、クリフォトも――セフィロトも、
本当に実在しているって、信じている。嘘偽りなく、ぼくはそう、答えた。
「ショボンならそう言ってくれると思ってた」とシィは、輝く瞳で微笑んだ。
361
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:35:31 ID:esi.ifqo0
「あのね、見てほしいものがあるの」
そう言ったシィに手を取られたぼくは、彼の案内の下、街の西の山を登っていた。
その山は公爵家――即ちシィの家が管理する領地であり、
一般の者が立ち入れば処罰の対象となるという場所であったため、
当然ぼくも足を踏み入れたことはなかった。
山道は思っていたよりもずっと緩やかなもので、
静やかな周りの景色を眺めながら歩くことができた。
山を登っているあいだもぼくはシィといつものようにおしゃべりをして、
けれどもシィはどこへ向かっているのかについてだけは「内緒」と笑って教えてはくれなかった。
ぼくもあえて聞き出すことはせず、手をつなぐ彼に付いていった。
362
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:35:53 ID:esi.ifqo0
やがてぼくらは、山の中腹にぽっかりと開いた大きなトンネルの前へと辿り着く。
トンネルの前には兵隊らしき人物が二人、携えた長槍を交差させて入り口を塞いでいた。
その二人組に、シィが近づいていった。シィが何事か、二人に話す。
しかし二人組は明らかに難色を示したような顔をして、そして時折、
視線をぼくへと向けていた。ぼくを、赤線の引かれたぼくの片頬を見て、
嫌悪の表情を顕にしていた。それと気づかれないように、わずかに俯く。
それでも二人は最終的に、交差させた長槍を引いた。
再び手をつなぎ直したぼくらは二人の兵隊の間を通って、トンネルへと入っていく。
突き刺さる視線を背中に感じながら。
363
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:36:14 ID:esi.ifqo0
「本当はね、勝手に入っちゃダメなんだ。でもどうしても、
ショボンにはどうしてもね、一緒に来てほしかったから」
ささやき声すら反響するトンネルの中で、ぼくに向かってシィが言う。
頑強に積まれ、固められた煉瓦の道。等間隔に明かりの灯された一直線のその道を、
ぼくたちは歩き続けた。長い長い、トンネル道。
「もうすぐだよ」と、シィがささやく。
その言葉通り、進む先の方角から薄暗いトンネルの中へと、まばゆい光が差し込んでいた。
あの先で、シィはぼくに何を見てほしいのだろう。
シィはもう少し、もう少しと、興奮している様子を見せていた。
興奮する彼の手を、ぎゅっと握った。
――トンネルを抜けた。
364
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:36:38 ID:esi.ifqo0
「……わぁ」
見渡す限りの緑の世界が、目の前に広がっていた。
おとぎ話に出てくるような、光り溢れる神様の楽園。そんな言葉が、自然と浮かぶ。
ぼくたちが暮らす山のすぐ側にこんな素敵な場所があっただなんて。
その余りにも現実離れした光景にぼくは見惚れ、しばらくそのまま言葉を失った。
「見て」
シィが指差した。ある一点を。けれど彼が指を差すまでもなく、ぼくはそれを見ていた。
目に入らないはずがない、その姿。大木。天を貫くような、威容を誇る。
「あれが、ラトヴイーム。使徒王さまが持ち帰った、クリフォトの樹」
使徒王さまの? 会話を進めながらぼくたちは、ラトヴイームの下へと歩む。
さわさわとそよぐ葉々の木陰へと入る。
365
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:36:59 ID:esi.ifqo0
「本物なのかはわからない。もしかしたら、そうしたおとぎ話を利用しただけの
真っ赤なにせものかもしれない。でもね、ボクたちは信じてきたの。
この樹は本当に使徒王さまが持ち帰ったもので、使徒王さまの誓いが宿った
大切なものなんだって。そう信じて、ボクたち一族はこの樹を守ってきたの」
世界でたった一本だけの、孤独に聳えるこの巨木を。
そう言ってシィは、聳えるその樹に手を触れた。
「ボクたちはね、ラトヴイームの守り手なんだ」
使徒王の誓い。ラトヴイームに向けて誓われたそれがどのようなものであったのか。
神へ至るためであるとも、世界の理を守るためであるとも言われるけれど、
それらの真偽は曖昧で、今を持っても定かでない。
けれどこの樹に誓ったことは、誓いに込められた想いは間違いなく
存在していたはずだと、はっきりシィは、そう言って。
366
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:37:22 ID:esi.ifqo0
「あのね、ショボン。お願いがね、あるんだ。君にしか頼めない、ボクから君へのお願い」
シィがぼくを見る。その瞳で。きらきらと星のように輝く瞳で。
「ボクはね、セフィロトへ行ってみたい。西の果てのセフィロトの、
その果て先に何があるのか見てみたい。使徒王さまがそこに何を願っていたのか、
ボクたちの守ってきたものの答えが、一体どんなものなのか。ボクはね、それが知りたい。
知りたいんだ。だから、だからね、だからねショボン――」
ぼくを見つけてくれた、その瞳で。
「ボクと一緒に、願いを見つけてくれませんか」
.
367
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:38:00 ID:esi.ifqo0
ラトヴイームの樹の肌を、ほんの少しだけ頂戴する。
ごつごつとして固く、けれど存外伸び縮みして丈夫なその木の皮を、輪っかの形に丸めていく。
丸めて、丸めて――簡素な、本当にただそれだけの指環を造る。
ぼくは、それを造る。シィも、同じように、造る。
「あのねショボン。ボクね、怖かったんだ」
造った指環をぼくたちは、お互いの小指に交換した。
シィの左の小指に、ぼくの右の小指に、それぞれの指環が嵌められる。
指輪を嵌めた互いの小指を、沿わせて重ね、結んでつなぐ。
指環を通じてつながったぼくらは、今度はその樹に――ラトヴイームに向き直る。
「お父様が病に伏せられて、領地を継がなきゃいけないって話になって。
そしたらなんだか周りに誰もいない、一人ぼっちになってしまった気がして」
大きく、高く、孤独に聳えるラトヴイーム。
互いの小指を結んだまま、ぼくらはその樹に手を触れる。
その樹に脈づく想いの鼓動が、ぼくらを通じて循環する。
368
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:38:28 ID:esi.ifqo0
どくどくどくと、生命の流れる音が聞こえる。
どくどくどくと、生命の流れる音が伝わる。
どくどくどくと、生命の流れる音がぼくとシィをつないでいく。
「誰かに側にいて欲しかったんだ。もしかしたら誰でもよかったのかもしれない。
この不安を共有してくれる誰かなら。……でも、いまは違う。
だってボクの手を握ってくれたのはショボン、他ならぬ君だったのだから」
ぼくたちはいま、ひとつだった。ひとつであり、異なる存在でもあった。
異なる存在でもあるぼくたちは声を揃えて、誓いを言葉にする。
同じ言葉を、同じ早さで、口にする。同じ時の中で、同じ想いを共有する。
そうして、ぼくたちは誓った。
二人だけの約束を、目の前の巨木に向けて誓い合った。
「君はそうは思わないかも知れないけれど、でも、これはほんとの気持ち。
ボクが君を助けたんじゃない、君がボクを助けてくれたんだって。だからね――」
二人で果て先に行こうと、二人だけの約束をぼくたちは交わした。
369
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:38:53 ID:esi.ifqo0
「友達になってくれてありがとう――ショボン」
.
370
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:39:21 ID:esi.ifqo0
シィがぼくを見る。シィがぼくに話しかける。シィがぼくの隣にいる。
それらのすべてが形容しがたい安寧そのものとなって、思わずぼくは泣いてしまいそうになった。
こんなにも暖かく、こんなにも穏やかな時間が存在する奇跡に、ぼくは泣いてしまいそうだった。
きらきらと星のように輝くその瞳が、ただそれだけが、
ただそれだけを、ぼくは見続けていたいと思った。
ずっと、ずっと。ずっと、ずっと。そう願っていた。
シィは言った。ぼくに向かって言ってくれた。
友達になってくれてありがとうと、他ならぬシィが、他ならぬぼくに向けて言ってくれた。
ぼくはその瞬間の幸福を、ずっとずうっと、噛み締めていた。
どんな時にも、何が起ころうとも、ずっとずうっと、いつまでも、それを噛み締め生きてきた。
ずっと、ずうっと。ずっと、ずうっと。ずっと、ずうっと。ずっと、ずうっと――。
.
371
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:39:50 ID:esi.ifqo0
「だがしかし、そんな彼をお前は殺した!!!!」
.
372
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:40:24 ID:esi.ifqo0
聴衆が騒ぐ。暴徒が猛る。めちゃくちゃに投げられた火炎が人を燃やし、
家を燃やし、街を、国を、国家を燃やす。それでも怒りは治まらない。
治まる機会はとうに失した。もはやもう、すべてを燃やし尽くす以外に手立てはなく。
揃えた声の御旗の下に、彼らは権威を簒奪する。
独冠王の名の下に! 独冠王の名の下に!
それは、古の英雄。王権の象徴たる宝冠の主に戦いを挑み、
敗れはすれどもその誇り高き志を最後まで捨てることのなかった偉大なる先達の名。
神の使徒を人へと堕し、一度はその冠を簒奪した真なる自由の体現者。
独冠王――またの名を、バチカルの暁光。
王は人なり、神ならず。人には法を、法の罰を。
国捨て民捨て逃げたる王に、王たる資格はもはやなし。
頭を下げさせその首落とし、頭上の冠取り戻せ。
我らが頭上へ取り戻せ。人民が頂へ取り戻せ。
王政打破の時代の開拓。破壊の後に起こる再生。
人民の人民による人民のための暴力。まさしくこれこそ――革命だった。
そして、王の首が、落とされた。
373
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:40:54 ID:esi.ifqo0
正義は為された。いまや既に、国家と時代は我らがもの。
遍く地上の人民は、己を王とし己に仕える。等しき無謬の公平が、遍く者へと降り注ぐ。
声を上げよ、称える声を。神ならざるとも我ら地上に満ち満ちた、真なる人の体現を。
人なる道の権能を。歌い叫べよ歓びを。国家の舵は、我らがその手に還元された。
我ら民へと返された。新しき時代が、人なる時代が、さあ、いまこそ訪れたのだ――!
「そうサ、ここから先は」
「地獄の一途」
最初にそれを求刑されたのは、一人の男だった。
かつて男は王に仕え、欲も野心も抱かず、己に定められた職務を忠実に、勤勉に務めてきた。
彼を恐れる者、彼を嫌悪する者、彼を目する者は数あれど、彼
の不実を糾弾する者はただの一人もいなかった。そしてそれこそ、罪だった。
忠実であり、勤勉で在り続けた彼は、新しき民のための法によってその死を求刑される。
罪状は――王の下で、罪なき多くの者の首を刎ねたこと。男は、処刑人だった。
――男はぼくの、父だった。
374
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:41:30 ID:esi.ifqo0
「父君の首を刎ねるのだ。それが君の役割、正しさというものだろう」
ぼくはそのとき一二を越えたばかりで、任官するにはまだまだ早すぎる年齢であった。
けれども処刑人を処刑するのであれば、別の処刑人を用立てなければならないのも自明の理で。
だから法が、その問題を解決した。新しき時代の人民は年齢を問わず、
公に奉仕する義務を持つ。そう定められた、法によって。
「君よ、公に尽くし給え」
法と正義の代弁者。
眼鏡を掛けた革命の英雄が、鉄のようにぼくへと告げる。
処刑人の剣。
首を刎ねることだけを目的として作られた、先端が丸みを帯びた特殊な剣。
この剣を用いて罪人の首を一刀のもとに切り落とす。
この技術を習得していることが、かつては一人前の処刑人としての証だった。
だが、いまは違う。首を切り落とすのにもはや、技術など必要ではなかった。
技術を肩代わりする機械が、すでに作り出されていたのだから。
わずか一二の子どもであろうと容易く刑を執行できる機械が――
断頭台<ギロチン>がすでに、存在していたのだから。
375
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:41:58 ID:esi.ifqo0
観衆が、広場を埋め尽くしている。ぼくはそれを、壇上から見下ろしている。
無機質な鉄の仮面のその裡から、ひしめく人民の群れを見下ろしている。
ぼくはあの中の一人ではない。あれは人、人間なのだから。
ぼくは人間ではない。身にまとったローブも、顔面を覆い隠す仮面も、
ぼくが人でないことを物語るその証。処刑人という、不浄の穢れの証明なのだから。
故にぼくは、彼らのうちの一人ではない。
そしてそれは、また彼も。
鉄柵の門が、開かれる。官吏に拘束された男が両脇を抱えられた状態で、
群れる人の裡を引きずられていく。割れる人垣。飛び交う罵声に悪罵に罵倒。
そこに真意などありはせず、ただただ人は熱狂に酔う。燃える革命の火の熱が、
まだまだ足りぬと悪を求める。その集約に向けて、その終焉に向けて、
罪持つ悪を舞台へ送る。――父の首が、それを刎ねる機械と合一した。
やれ、やれ、やれ。熱狂する民衆が声を揃えて火炎を吐く。
執行者に向けて。懲罰を代行する人ならざる人間未満に向けて。
――ぼくに向かって、人が“願う”。やれ、斬れ、殺せ。
正義の殺人をその手に犯せ。お前の父を、お前が殺せ。
376
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:42:19 ID:esi.ifqo0
……いやだ。
父は、余計なことを言わない人だった。
あらゆる物事を黙々とこなし、自らの職務についても一切語ろうとしない。
規律のために己を定め、それを遵守するために自らを動かしている。
そのような印象を抱く、正確で、無比で、近寄ることの躊躇われる人だった。
父を愛しているかと問われれば、答えに窮した。
父を恐れているかと問われれば、うなずかざるを得なかった。
それでも、憎んでいたわけではなかった。嫌いなわけはなかった。
父を尊敬していた。父のように頑健で、揺らぐことのない存在になりたいと憧れてもいた。
父と話したいこともあった。聞きたいこともあった。聞いておかなければならないこともあった。
こんな結末、望んだことなど一度もなかった。
火が燃える。熱狂の火が、人民の火が、ぼくの足元を焼き焦がす。
逃げられない。父もぼくも、猛る焔から逃れる術などもはやない。
やらなければならない。執行しなければ、この火は治まらない。
どこどこまで猛り狂うか、どこの誰にも判らない。
でも……でも、それでも殺したくなどない。
父を、殺したくなど、殺したくなど――。
殺したくなど、なかったのに。
377
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:42:51 ID:esi.ifqo0
「死にたいのか!」
誰かが叫んだ、その声に。
反応したのは、頭でなく。
身体が、そう、反射した。
――歓声が、沸き上がった。
耳が割れる、目が割れる。砕けた世界の、砕けた舞台。
そこに転がる、一つの生首。裁きを下したその証明。
ぼくを通じて正義を為した、公義を掲げる人民の。
彼らが為した、無垢なる殺人。ぼくが犯した、始まりの――。
378
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:43:25 ID:esi.ifqo0
「そうだ、ここが始まり」
「お前が背負う、罪の始まり」
悪は、裁かれた。だから、次の悪が必要だった。
次に選ばれたのは、でっぷりとした腹の大きな金貸しの男。
罪状は、革命政権への寄付に応じず私腹を肥やしたこと。
開かれた鉄柵の門から、男が壇上へと連れてこられる。
抵抗する男が、官吏に無理やり拘束される。
「人殺し」。男がぼくに、訴えた。
違う。ぼくは殺したくなんかない。
できることならばこんなところからすぐにも離れて、
なにもかも投げ捨てて逃げ出したい。
あなたのことも、だれのことも、ぼくは殺したくなんかない。
それに、あれは事故だった、事故だったんだ。殺すつもりなんてなかった。
本当は殺したくなんかなかった。殺したくなんか、殺したいわけなんか、ないのに……。
379
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:43:54 ID:esi.ifqo0
「けれどお前は、もう殺した」
「なのにこいつは見逃すのか」
ささやく声が、左右から。あれは事故だった、事故……だったんだ。
でも、でも……。人々が、平等を謳う。人々が、公正を叫ぶ。
それこそが唯一、唯一この場に求められているもの。
ぼくは、父を、殺した。
だったら。だったらもう、後戻り、なんて――。
手が震える。歯と歯が打ち合わされる。喉の奥が、目の奥が乾いて張り付く。
それでもぼくは、それでもぼくは今度こそ――
自らの意思によって、その縄を引いた。
生首が転がり、歓声が沸いた。
380
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:44:18 ID:esi.ifqo0
「ああ素晴らしきかな」
「人民政治」
「誰もが等しく平等で」
「誰の生命も等しく軽い」
貴族という搾取者であった罪。宗教を通じ誤った価値観を植え付けた罪。
乞食として国家の気品を損ねた罪。製造努力を惜しみ配給を滞らせた罪。
いい加減な仕事で建造物に瑕疵を及ぼした罪。
道化の立場に胡座をかいて革命を嘲弄した罪。
老いを理由に国家への奉仕を怠った罪。
若きを理由に放蕩に堕落した罪。
夜泣きによって人民の安眠を侵害した罪。
若者は若者であることで、
老人は老人であることで、
幼子は幼子であることで死罪を言い渡された。
男であることも、女であることも罪とされた。
死を逃れられる者はいなかった。
政権の中枢にいたとしても汚職を指摘されれば翌日にも処刑された。
ぼくに処刑を命じた者も、独裁を理由に処刑された。
日に一人二人であった処刑の数は一ヶ月後には五人にまで増え、
その数は一〇、二〇と際限なく膨れ上がっていった。
ぼくの刎ねた首の数は、際限なく膨れ上がっていった。
381
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:44:45 ID:esi.ifqo0
「みんなが望んだ、これが地獄だ」
「みんなで堕ちれば、怖くないよナ」
王という悪を打ち倒せば、生活は改善されると人々は信じていた。
そうではないと現実に突きつけられた。まだ悪がいるからと、人々は異なる敵を探し出した。
どれだけ殺しても、生活は悪化していくばかりだった。
王政復古を求める者も目立ち始めた。奴らが国家の秩序を乱しているのだと誰かが叫んだ。
悪はそこにいた。人は更に死んだ。ぼくが殺した。
一人ひとり、ぼくがその首を刎ねていった。
国から逃げようとする者も現れた。身を隠し、騒動が治まるのを待つ者も現れた。
等しく彼らも罪人だった。官吏の職務に、彼らの捜索が追加された。
官吏の数も足りてはいなかった。だからぼくも、彼らを探すように命じられた。
382
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:45:19 ID:esi.ifqo0
「懐かしいナ、懐かしいだろかくれんぼ」
「お前はそうだ、見つけるのが得意だったナ?」
そう、二人の言うとおりだ。双子の道化師の言うとおりだ。
ぼくは見つけるのが得意だった。隠れるのは下手でも、見つけるのは得意だった。
人の隠れようとする心理を、ぼくは誰より熟知していたから。
だからぼくは、だれよりも多くの罪人を見つけた。
絶望に顔を歪ませる老婆を、怒り狂って抵抗する男性を、
無言のまま子を抱きしめる母親を見つけた。
ぼくはなにをやっているのだろうと思った。
ぼくはなぜ、彼らの居所を暴いているのだろうと。
いまだってぼくは、これだけ殺めておいてもなおぼくは、
縄を引くその手の震えを止められないでいるというのに。
なのにぼくは、なぜ、なぜ。
383
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:45:41 ID:esi.ifqo0
「何を悩むふりをする」
「自分の心を騙せはしないゼ」
……そうだ、そうだ。ぼくはすでに答えを得ていた。
ぼくはもう、人を殺した。多くの多くの、本当に多くの人を殺してしまった。
だのにいまここで彼らを見逃すということは、この目の前の彼らがぼくの
殺してきた数多の人々よりも価値があったと、そう判じてしまうことに他ならない。
人間未満のぼくが、手前勝手に生死の価値を選り分けるなど。
すべてぼくの殺めた人は、誰もがぼくより価値ある人だ。
その価値を、その優劣を決めてよいような相手などただの一人たりとて存在しない。
だからぼくは、見つけて殺す。公平に、公正に、自らの職務をただただ機械のように繰り返す。
正義のために、社会のために、国家のために――みんなのために。
384
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:46:15 ID:esi.ifqo0
「おいおい、格好つけるのも大概にしろよ」
「違うだろ? お前が殺す本当の理由は――」
……そんなことはない。ぼくは、みんなのために。それだけのために。
「なあショボン、お前は死にたくないんだろう?」
「なあショボン、お前は死ぬのが怖いんだろう?」
……違う、違う。ぼくはずっと、死んでもいいと思っていたんだ。
ずっと、ずっと、死んでみんなの迷惑にならなくなれればって。
「ああそうだ、そうだともサ」
「シィに会うまでのお前はな」
…………それ、は。
「オレらはちゃんと知ってるぞ。何がお前を変えたのか」
「オレらはちゃんと知ってるぞ。お前が何を求めているか」
……………………違う。違う、違う、違う。
「死んで会えなくなるのが」
「シィに会えなくなるのが」
「なあショボン、お前はずっと、ずっとずうっと、怖かったんだろ?」
385
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:46:41 ID:esi.ifqo0
違う、ぼくは、ぼくはただ、みんなのために……
みんなの“願い”を、叶えるために……。
「そうかいそうかい、それでもいいサ」
「それならそれと、証明してくれ」
真昼の太陽が、地上に墜ちた。星一つなき暗黒の空。
熱狂と叫喚の炎が皮膚と瞳を焦がす中で、赤火に呑まれた光が鉄柵の門をくぐる。
首を落とした影たちが、明けに集う虫が如くに朽ちたその手を踊らせ伸ばす。
かすめた影の一つ一つが、墜ちたる星の表皮を剥がす。星が、星の瞳が。
386
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:47:10 ID:esi.ifqo0
うそだ。
噂は耳にしていた。我先にと国外へ逃亡していった貴族たちの中にあって、
いまなお混迷するこの国に留まり続けている奇矯な人物がいると。
若くして亡くなった父の領地を受け継ぎ、
しかしその大半を解放することで革命の余波を受けて困窮する人々の受け皿となり、
多くの人の飢えと痛みと心の傷とを癒やしている者がいると。
その者は誠実であり、勤勉であり、何よりも他者への奉仕者であった。
故に彼は貴族という出自でありながらその首を切断されることなく、
国家を成立させる人民の一人として多くの者に認められていた。
だが――だが、だが、だが。
彼は何よりも、何よりも償い難い大きな過ちを犯していた。
この地に生きるすべての者が顔をしかめ、嫌悪し、唾棄するに至るまでの罪。
その罪が、彼の罪状が、鉄火の広場となったこの地に集う人民すべての耳へと届く。
387
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:47:41 ID:esi.ifqo0
罪状は――処刑人と、懇意にしていたこと。
.
388
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:48:10 ID:esi.ifqo0
「処刑人と談じた不浄人!」「処刑人と遊じた極悪人!」「処刑人と誓じた破廉恥漢!」。
半狂乱の罵声が萎れた太陽へとぶつけられる。ぼくのその人へとぶつけられる。
ぼくのその人が引きずられ、舞台の上へと上げられる。処刑人たるぼくの領域へと、
最も似つかわしくないぼくのその人が上げられる。変わらぬ瞳の、その輝き。星。
シィ。
ぼくは――ぼくはずっと、願っていた。
この地獄の中にあってそれだけが、ただそれだけがぼくの希望であり、願いだった。
シィと再会することが、彼との約束を果たすことが、ぼくの希望であり、願いであり――
心の拠り所だった。
そうだ。ぼくはずっと、ずっとずうっと、ずっとずうっと、彼を心に生きてきたのだ。
ぼくを友達だと言ってくれた彼を、その瞬間の幸福を噛み締め、この地獄を耐えてきたのだ。
いつかこの地獄を抜け出たならばその時こそ、その時こそこの幸福の続きを彼と送る。
それだけがぼくの願いだったのだ。
それなのに、なんだ、これは?
ぼくがいったい――シィがいったい、何をした?
389
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:48:49 ID:esi.ifqo0
「これだけの“願い”を奪い続けて」
「どうして自分は無事だと思った」
人民が声を揃える。
すでに首を落とされた者が、いつか首を落とされる者が、声を揃えて訴える。
殺せ殺せと訴え叫ぶ。
……いやだ。これだけは、この処刑だけはいやだ、無理だ、できない、
耐えられない、赦して、頼むから、お願い、お願いします、
謝りますから、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい――。
「いいや、そいつは聞けないナ」
「これはお前の罪なのだから」
身体をつかまれた。双子の道化に――
一つの胴に二つの頭が生えた二人の道化に、まぶたを開かれ、突き出される。
「見ろ聞け感じろ大合唱の人民を!」
「お前が願った、みんなの“願い”を!」
声を揃える人民。声を揃える人民の訴え。殺せという訴え。
その訴えが、その声が、奇妙に和合し変化する。
馴染みのある、幾度も聞いた、幾度も幾度も心待ちにしたその言葉が、
なにより恐れる響きに変じて、五感のすべてを捕らえて潰す。
390
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:49:18 ID:esi.ifqo0
もーいーかい! もーいーかい! もーいーかい!
首が落ちていく。歓声を上げ、熱狂に酔う者たちの首が、
未だ無事であった者たちの首が次々と落ちていく。
誰彼の別なく公平に、無差別に、人の首が落ちていく。
もーいーかい、もーいーかいと、生者のぼくへと訴えかける。
生きるべきは、ぼくじゃなかった。
ぼくは、死ぬべきだった。死んで奉仕するべきだった。
誰かを不幸にする前に、死んで終わりにするべきだった。
けれどぼくは、生きた。生き延びてしまった。
浅ましくもおぞましく、幸福な夢に焦がれ祈った。
人間未満の畜生が、身の程知らずに祈り願った。
その結果が、このおびただしい生首の河原。
赦されるはずがないと、芯からぼくは理解した。
すべてはぼくの“願い”から出でた地獄なのだと、ようやくぼくは理解した。
そしてそうか、そうなのか。
死にたくないと願ったぼくへの、そうかこれが――“罰”なのか。
391
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:49:45 ID:esi.ifqo0
声が聞こえた。断頭台から、人民の生贄として捧げられた
断頭台と合一した彼から、声が聞こえた。叫ぶ広場のもーいーかい。
破れた耳に音はなく、伝わるものも伝わりはせず。
故にこれが夢か現か、ぼくには一向判らなかった。
夢であろうと現であろうと、そこに差異など感じなかった。
やわらかくあたたかく、うつくしくすら感じるその理で――彼が言った、その言葉に。
原初の響きでさよなら告げる、彼の残したその言葉に。
392
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:50:16 ID:esi.ifqo0
もーいーかい
.
393
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:50:41 ID:esi.ifqo0
「よかったナ、“願い”叶って」
燃える。ラトヴイームが燃える。暴徒たちの手によって。
革命のかざす火の手によって。王権の象徴たる悪しき大樹が、公義の炎に焼き尽くされる。
ラトヴイームが、燃え尽きる。永代に守られ続けたラトヴイームが、完全に、焼失する。
みんなは、正しかった。正しいみんなの、願いを叶えた。だからぼくも正しかった。
ぼくの行いは、ぼくの殺人は、公平で平等で平和な社会のために、必要なことだった。
誰かが代行しなければならない、必要な痛みだった。必要な、犠牲だった。
……ねえ、そうだよね?
「二年と経たずに崩壊した」
「革命政権だったのに?」
394
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:51:04 ID:esi.ifqo0
「あれは地獄の時代だった」「一部の狂気に踊らされたのだ」
「人が人を、かように残酷に殺めるなど」「そうだ、間違いだった」「革命は間違いだった」
「革命は批判すべき汚点だ」「革命は絶対に認めるべきではない歴史の汚点なのだ」
「我々は絶対に」「絶対に絶対に」「暴力による正当化を認めはしない」
「我らは彼らを」「赦さない」
……ふひっ。
395
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:51:45 ID:esi.ifqo0
「そうだ、お前は正しくすらない」
「お前は無為に人を殺し、親を殺し」
「唯一の友をも殺したのだ」
「それがお前の罪だ」
革命を批判する者がいる。その者たちの首が落ちる。ぼくの手により落とされる。
それを願う誰かがいるから。誰かの願いを叶えることは、唯一罪を贖う手だから。
そうしてぼくは、罪を重ねる。
「そしてこれは罰だ。“お前自身が願った”罰」
「贖われることのない永劫の罰」
「罪滅ぼしで罪を重ねる、お前が望んだお前の罰」
「お前に課せられた知恵<クリフォト>の罰」
396
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:52:14 ID:esi.ifqo0
繰り返す。繰り返す、繰り返す。贖わえることのない贖罪を繰り返す。
苦しかった。苦しく、けれど足りなかった。もっと苦しまなければならなかった。
二度と幸福など望まぬように、二度と“願い”など抱かぬように、
ぼくはもっと苦しまなければならなかった。
ぼくには“願い”を抱く資格などないと、魂の奥底へと刻み込むために。
存在しない指の先が、燃えた。
397
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:52:42 ID:esi.ifqo0
「セフィロトの七日をお前は既に七度だろうか、七度に七度を掛けた数だろうか」
「燃えてお前は繰り返した。炎の壁に呑まれ焼かれて、罪業の旅を繰り返した」
「だが、足りない。まだまだ足りない。まだまだまだまだまだまだまだまだ」
「さらなる七を、さらなる七にさらなる七を、さらなる七に七と七とを」
まだ足りない。さらに七を、七に七を、繰り返しては苦しまなければ。
存在しない指の先から、火の手が伸びる。小指から薬指へ、中指へ、
てのひらへと、炎の壁が時限を報せる。その手を彼らがつかむ。
双子の道化がぼくをつかむ。二人で一つのその肉体に、ぼくの身体がつながっていく。
彼らは共にぼくと燃えて、溶け合い混ざって、崩れゆく。
果てなき東で、果てることなく。彼らの発したその声に、ぼくは己を忘却し――。
398
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:53:10 ID:esi.ifqo0
ダメだ!
.
399
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:53:41 ID:esi.ifqo0
白紙のキャンバスをくぐった先で、オレは然とそれを見た。人生を。
つらく、悲しく、余りにも残酷な苦しみに満ちた人生をオレは――“オレと私”は、共に見た。
オレの想像など及びもしない、私では表現することも
敵わない痛ましきその人生を、オレと私は見続けた。
シィの――ショボンの生きた時代を。
「……リリ? どうしてこんなところにいるの?」
オレはいま、立っている。鉄柵の門を越え、オレの時代とは異なる広場にオレは立っている。
山のように折り重なった生首の死骸が、
首の道が連なる場所<ショボンの世界>に、オレは立っている。
「ダメだよ、時間がないんだ。こんなところにいちゃあ、ダメだ」
壇上のショボンが力なさげに声を出す。
その身体はもはや切り落とした首の影の群れと同化しかけ、
彼を彼たらしめるものも曖昧に、それらをまとめて炎に包まれようとしている。
だのにショボンはそんななりで、心からの心配を投げかけてくる。
「そうだ、ぼくが助けてあげるから。だから心配しないで。君のことだけでも、助けるから――」
400
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:54:11 ID:esi.ifqo0
「ばかこらぁ!!」
足を、踏み出した。
「オレがお前に頼んだか。ここから出してと一度でも頼んだか」
足元に、罪悪の感触が広がる。彼の感じてきたそれの、万分の一の感触が。
「なんでお前はそうなんだよ、助ける助ける助けるって、他人のことばっかりで」
こんなものには耐えられない。人が耐えられる痛みじゃない。
「まずは自分を見てくれよ。自分がどれだけぼろぼろなのかちゃんと知ってくれよ!」
一人では。
「だってお前、傷だらけなんだぞ。全身どこも、傷だからなんだぞ!」
だから、言うんだ。
「そんなの、見てられるわけないじゃないか……お前を見ているとオレは……」
言えなかったことを。
「だからオレは、オレは――」
言わなければならなかったことを。
「オレは……オレは、オレは、オレはぁ――!」
401
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:54:43 ID:esi.ifqo0
勇気を。
「助けてほしいさ!」
絞れ。
402
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:55:13 ID:esi.ifqo0
「そうだ、助けてほしい! オレは助けてほしい! オレはオレだけじゃ生きられない!
オレ一人じゃなんにもできない! フォックスとの! プギャーくんとの約束を叶えられない!
あんたの! 手を! 借りなきゃ! オレは! 幸せに! なれない!
でも! でも! でも!! それは!! こんなやり方でじゃ!! ない!!!!」
涙が溢れる。涙に滲む。止めるな。否定するな。
これもオレだ――これも私だ。オレが私を、否定するな――!
「友達が苦しんで……誰が喜ぶんだよぉ……!」
手を伸ばす。ショボンに。罪悪の炎に包まれるショボンに。
「ちゃんと考えてくれよ、お前のシィがほんとは何を思っていたのか――」
泥の中へと埋められたショボンに。
「お前のシィが、どうしてお前に手を差し出したのか――」
シィを求めるショボンに。
「どうしてお前を、見つけたか――!」
……ショボンが、手を――。
403
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:55:44 ID:esi.ifqo0
「そうは」
「いかない」
影が、生首が、一斉に集まった。ショボンを中心として。ショボンが呑まれる。
ショボンが隠される。うねる波の勢いに弾き飛ばされ、ショボンの側から離される。
その間も影は、首は、ひとつに集い、巨大な一個を形成し、やがてそれは確かな姿に、
鱗持つ生命の形へと変じた。それは、蛇の、姿をしていた。
ショボンが蛇に、呑み込まれた。
404
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:56:10 ID:esi.ifqo0
「返せ、ショボンを返せよ!」
蛇に向かって走っていった。全力で、不安も恐れも振り切って。
けれどどういうわけか、蛇のところへ辿り着けない。
走れども走れども蛇との距離は縮まらず、視界の中の蛇の姿は全身を捉えた巨躯のまま。
「オレらの願いは、こいつの願い」
「願いのために、オレらは在る」
瞳が光る。蛇の瞳が。緑の瞳のその中に、小さく人の、姿が見えた。
左右の瞳のそれぞれに、見知ったピエロの首が在る。
ピエロが動くその度に、蛇の口から声が轟く。
「オレらは呑み込み留める者。故に願いに留まらせる」
「オレらは識らしめ拓く者。故にお前に識らしめよう」
「なにを――」
と、言いかけたオレの身体に異変が起こった。それは足元から始まった。
火。炎。始まりの場所で聞かされた、七日を限りとしたセフィロトの壁。
あのおっさんを、フォックスを焼いた、焼いた後に再生し、再び繰り返すことを強要する、あの。
それが、いま、オレの身にも。
……だが、しかし。その炎はけれど、どこか様子がおかしく。
405
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:56:44 ID:esi.ifqo0
「おめでとう、お前は願いの枷から解放された」
「おめでとう、お前はセフィロトから解放された」
炎は、赤くなかった。赤ではなく白く、白色に発光していた。光り輝いていた。
その火はオレを焼きながらも一切の熱を感じさせず、むしろ暖かな安らぎをすら感じさせる。
「どういうことだ」と問うより前に、オレは答えに思い至った。
オレの願い、ここへ来た願い――私を殺すという、あの願い。
オレはもう、あの願いに拘泥してはいなかった。ショボンが、シィが、フォックスが――
フォックスが聞かせてくれたあの声が、オレに教えてくれたから。
私でいいと、教えてくれたから。
でも――。
406
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:57:13 ID:esi.ifqo0
「炎の導にお前は目覚め、お前の現世にもどるだろう」
「願いの墓場のセフィロトを、二度とは訪れもしないだろう」
でも、いまじゃない。まだ早い。まだ消える訳にはいかない。
だってまだ、ショボンがいまもそのままなんだ。
このままではこれからも、ショボンが繰り返してしまうんだ。
あの地獄の体験を。あの苦しみの人生を。そんなことオレは、オレには――。
炎が巡る。オレを祝福する白い炎が。
それは留まることを知らず、とぐろを巻いてオレの身体を昇っていく。
足も、胴も、肩までも、すでにオレの身体は消えかけている。
「さらばだ此方の惑い人、お前にとっての善き再誕を」
「さらばだ彼方の惑い人、お前にとっての善き終焉を」
もはや音も光もなくなって。蛇の声も居場所も感じることはできなくて。
だから、もう、他にはなかった。意識と無意識の狭間でオレは、やぶれかぶれに“それ”を投げた。
届け、届けと祈りを込めて。届け、届けと想いを込めて――。
そしてオレが、焼失する。
.
407
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:57:46 ID:esi.ifqo0
ז
堕ちる。蛇の内側を、ぼくは堕ちる。
炎に包まれ、半ば消失したままに、この永遠をぼくは堕ち続ける。
四方で無数に降り注ぐ、ぼくの落とした生首たちと共に。女性の顔の、生首と共に。
女性。女性の面。女性の面が並んでいる。おびただしい数の女性の面が、生首となって降り注ぐ。
天より注ぎ、等の速度でぼくを囲う生首たち。生首たちが、ぼくを見る。同じ顔でぼくを見る。
死した骸の生首が、それでもぼくを視線で詰る。
万の言葉に等しき遺志で、ぼくの肺腑を切り裂き刻む。
――母の相貌。ぼくの犯した、原初の罪咎。
リリの言葉。リリの言葉が、頭を巡る。涙とともに訴えた、彼女の想いが頭を揺らす。
彼女は言っていた。ぼくの考えもしないことを言っていた。
それはとても、とても大事なことのように思えた。
いまここを生きるぼくにとって、何よりも見つめ直さなければならないことであると――。
けれど、ぼくはすでに燃えている。
呑み込む蛇と同化しかけ、朦朧とする自己は無量の断片へと砕かれ割られ。
ぼくはぼくを、失い忘れ――。
408
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:58:37 ID:esi.ifqo0
「そうだ、それでいいのだ」
「それだけがお前の願いだ」
ぼくを取り込み、彼らがいう。
「お前は再び生まれ変わり」
「お前は再び地獄を彷徨う」
ぼくの中の、彼らがいう。
「幾度も幾度も友を殺して」
「幾度も幾度も友を模倣し」
ぼくの行いを、物語る。
「己に己の罪を暴かれ」
「己を仇する罰に溺れる」
ぼくの心を、代弁する。
「不変に留まる罰への堕落が」
「安楽伴う自己懲罰が」
ぼくの――願いを。
「お前の願った」
「お前の願い」
……ぼくは、いった。
堕ち続けて、いいのかな。
「いいんだよ」
「いいんだよ」
409
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:59:12 ID:esi.ifqo0
……ああ、そうか。ようやく判った、君たちの正体が。
君たちがなぜ、ぼくを苦しめてきたのか。そうか、そうか、そういうことか。
だったらぼくに、君たちに逆らう理由はない。だって君たちは――ぼくの心の、鏡なのだから。
火が、全身を包んだ。目をつむる。まぶたの裏の赫灼。
開いた時にはぼくはぼくを忘却し、彼の――シィの真似事をしていることだろう。
何も知らぬ無垢なる一人となりて、そうして、また、苦しみの旅へ――。
410
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 20:59:46 ID:esi.ifqo0
本当に、それでよいのか。
.
411
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:00:10 ID:esi.ifqo0
目を開いた。蛇の腑の裡、焔の赤。
いまにも消え失せそうな我が身――の前に、落ちるもの。
刃が。回って、浮いていた。これは――。
リリの、ナイフ。
412
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:00:56 ID:esi.ifqo0
本当の、願いを――!
聞こえた、それ。リリの声。リリの声に、己が呼び覚まされる。
彼女の言葉が、彼女の想いが自身の裡を駆け巡る。
彼女が何を言おうとしたか、ぼくに何を訴えたのか、それらが瞬時に浸透する。
そして、確信した。
自分に足りなかったものは、幾度も繰り返してきたぼくの旅に
足りなかったものは、これであったのだと。
彼女のナイフ――彼女との出会いが、足りていなかったのだと。
これが最後の、鍵なのだと。
回る剣に、手を伸ばす。
413
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:01:32 ID:esi.ifqo0
「ひとつの願いは」
「反する願いを焼き殺す」
伸びかけた手が、止まった。
「それを手にしてしまえば」
「お前は罪業の安らぎを失うだろう」
「そしてその先にあるのは」
「逃れ得ぬ苦しみ」
「生という名の」
「地獄」
「それでもお前は」
「己を焦がす剣を拾うか」
落ち行く母の首と共に、二人の道化がぼくを見る。
白塗りの面に、頬まで伸びた赤い紅。涙を模した三角マークと、
二股に分かれたジェスターハット。おどけた姿の道化師たちは、嘲る様子はまるでなく。
414
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:01:58 ID:esi.ifqo0
「ぼくは――」
固く真剣に、ぼくを見て。
「ぼくはずっと、勘違いしていた」
それを見て、ぼくは余計に確信する。
「彼が悲しいとぼくも悲しい。彼が苦しいとぼくも苦しい。ぼくはそれを知っていた。
だから彼には幸せでいてほしかった。彼が幸せであることが、ぼくにとっても幸せだった。
彼の安らぎになれることが、ぼくにとっての歓びだった。でも――」
かつてぼくを憎んだ彼ら。
「ぼくが悲しいことが、ぼくが苦しいことが彼を苦しめていただなんて――
彼を不幸せにしていただなんてそんなこと、ぼくは一度も考えたことはなかった」
ぼくを憎んだ彼らの似姿。
「ぼくは多くの人の生命を奪った。赦されないことをした。
だから償い続けるしか、苦しむしかないと思っていた。唯一それが、ぼくにできることなんだって。
でも、でも、ぼくが本当に大切な人を想うのであれば――」
ぼくを罰する、敵意の象徴。
415
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:02:30 ID:esi.ifqo0
「ぼく自身が幸せにならなければならなかったんだ」
セフィロトに写した、罰を求める心の反映。
「そのためにぼくは――」
二つの願いの、裡の一つの。
「本当の願いを、取り戻さなければならない」
それを、いま、捨てる。
416
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:03:03 ID:esi.ifqo0
ナイフを、取った。リリのナイフを。リリのナイフが、ぼくのまとう炎を吸い込む。
螺旋を描き、回る炎の剣となりて、小指なきぼくのてのひらへと収まった。
それを、ぼくは、挿す。何もない、目の前の空間に向かって。
空間が割れる。割れた空間を、切り開く。縦に大きく、大きく、大きく。
役目を終えた炎の剣が、塵となって消えていく。
後に残るは、開いた空間。その内側へ、ぼくは両手を差し込んだ。
そこにあるものを、そこにあると確信しているものを取り戻すために。
――本当の願いを、思い出すために。
417
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:03:27 ID:esi.ifqo0
「言っただろう、私はいると」
遠きその場の、それをつかんだ。それを、引きずり出す。
長い、長い、長い、道のりを。ずっと、ずっと、ずっと、共に在り続けた、“友人”を。
彷徨うぼくと同じ顔をした、導き続けたぼく自身を。
「ずっと側に。お前の最も近い場所に」
ショボン――ショボンと呼んだ生首。
生きるべきはシィであり、首を落とされるべきはショボンであるという
ぼくの幻想を投影した対象――“切り落としたぼくの小指”。
“指環を嵌めた、願いそのもの”。
418
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:03:56 ID:esi.ifqo0
「……ごめん、遅くなった」
「謝る相手は、私ではない」
「うん……そうだね。でも、言わせて。君にも――叡智の蛇の、二人にも」
抱きしめた“ショボン<契りを結んだ小指>”を中心に、世界の光景が変わっていく。
蛇を構成する影が消え去り、外の世界が現れていく。
「ここまで導いてくれて、ありがとう」
道化師たちが、薄れていた。
曖昧にぼやけたその姿はぼくが投影した元のイメージとはかけ離れ、
ぼく自身であるようにも、セフィロトに元々存在する何かのようにも見える。
その何かが、雑音混じりに語りかけた。
「忘れるな、罪悪感はいつでもお前の背後にいると」
「我らが消え去ることはなく、終生背負い続けると」
「うん、判ってる」
「ならば」
「よい」
419
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:04:18 ID:esi.ifqo0
「ショボン」
胸の内の、ぼくがつぶやく。
ぼくであってぼくでない、本来の姿にもどりつつあるぼくの一部が。
共に旅した時と同じく、変わらぬトーンで、こういった。
「――約束を、どうか」
「……うん!」
そして遂にぼくたちは、一人のショボンへ統合し――。
.
420
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:04:51 ID:esi.ifqo0
ח
「長い、本当に長い旅をしてきました」
音のない波。揺らぐ表に飛沫を上げて、小舟が白い線を描く。
「星の飛沫の流れしアッシャーにも行きました。
幾何対黄金のイェツィラにも。
果てなき東のクリフォトも旅したんです」
シィと一緒に空想した、使徒王さまが旅した場所。
星の川、対の世界、そして悪徳の――己と向き合う、クリフォトの地。
誰の心にも潜在する、知恵<善悪>なる罪を映し出す。
「一人ではとても越えられない旅でした。アドナが、叡智の蛇が、“ショボン”が――
それにリリがいなければ、ここへ来ることは叶いませんでした。……それに、もう一人」
そのクリフォトを越えたこの場所を、ぼくは知らない。
おとぎ話にも、伝記にも記載のなかった不明の場所。
「蛇の中を落ちるぼくに、誰かが呼びかけてくれたんです。
あの声がなければ、いまのぼくはありません」
不明の場所で、渡し守が櫂を漕ぐ。
「あれは、父さんですよね」
421
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:05:12 ID:esi.ifqo0
渡し守は答えない。それでもぼくは、話を続ける。
「みんなのおかげで鋭利に尖った最果てへの道を通ることができたのです。
西の果てのセフィロトの、その果ての最果てにまで。けれど――」
かつて恐れたその人へ。
「けれどそれでもぼくの願いは、いまも叶わぬままなのです」
かつて尊じた、その人へ。
「父さん」
その死のときまで聞くことのできなかった問いを、我が父へ。
「どうして母さんの首を刎ねたのですか」
確認することが恐ろしく、目を背け続けたその問いを。
確認するまでもなく、判りきっていたその答えを。
422
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:05:42 ID:esi.ifqo0
「ぼくを、死なせないためですよね」
母は、罪を犯した。それが何の罪かは判らない。
それは斬首に値する罪で、けれどもそれは、多分な猶予を与えられた罪でもあった。
逃げようと思えば、逃げられたはずだった。父と母、二人だけであれば。
しかし、二人の間には子どもがいた。
まだまだ幼い、ようやく歩き始めたばかりの子どもが。
一粒種の息子であるこのぼく、ショボンが。
ぼくを捨てて二人で逃げるか。母の処刑を断り、家族三人首を落とすか。あるいは――。
そうしてぼくは生き残り、母は、父の手に掛かって、死んだ。
423
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:06:15 ID:esi.ifqo0
「……父さんは、無口ですね」
ぼくは父が恐ろしかった。
父がぼくをどう思っているのか、憎んでいるのか、疎んでいるのか、それすらも判らなくて。
父は何も言わなかったから。だからぼくはいつも、父に怯えていた。
父と向き合うことを、避けていた。
でも。
「ぼくは……ぼくは、話すのが好きです。話すのが、好きになりました。
だってそれは、相手がいなきゃできないことだから。相手がいることは、幸せだから。
彼がそれを、教えてくれたから……。だから……だからぼくは、願いを叶えないといけないんです。
……いえ。叶え、たいんです」
いまだからこそ、思う。もしかしたら、逆だったのかも知れないと。
ぼくの痛みが友人を苦しめているとは知らなかったように。
もしかしたら父の方こそ、ぼくのことを――。
「約束の、願いを」
424
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:06:39 ID:esi.ifqo0
「ショボン」
小舟を中心に、波紋が立つ。
「どこへ行きたい」
どこへ行きたい。いつかも聞かれた、父の問い。てのひらに視線を落とす。
指を見る。いまは確かに存在する、喪われていた右の小指。
小指に嵌めた、ラトヴイームの誓いの指環。かさかさとした、樹の感触。
口を閉じ、何を答えることもできなかったあの時。答えがなかったわけではなかった。
答え<願い>はもう、決まっていたのだ。あの時から、変わらずに。
ぼくは、答えた。
425
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:07:03 ID:esi.ifqo0
「シィに、会いたい」
.
426
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:07:32 ID:esi.ifqo0
小舟が、音一つない表の上で静止した。
「――お前の母を、殺めた時」
その中でその声が、父の声だけが、世界を渡る。
「お前の母に会いたいと、私は願った。だがそれが赦されるはずのない願いであると、
私はそうも理解していた。故に私は職務に殉じた。神の代理人である王に従い、
王の剣として国家への奉仕に心血を注いだ。我が王の首を自ら刎ねた、あの時でさえも」
初めてかも、しれなかった。
父の声を、こうして聞くのは。父とこうして、相対するのは。
「私は処刑具だった。父にそう教わったように。父が父の父にそう教わってきたように。
故に私も、同じ道をお前に教えた。お前をここへ連れてきたのは、他ならぬ私であるのだから。
だが……私の道は、ここで途切れている。この先を、願う者の道を、私は知らない。だから――」
父がこうして、ぼくを見るのは。
427
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:07:59 ID:esi.ifqo0
「ここから先は、お前の道だ」
ぼくの前へと差し出された櫂。使い古され、いまにも折れてしまいそうな。
それをぼくは、受け取った。直後――父の身体が、炎に燃えた。
白く、眩く、輝くような炎に。燃える父が、口を開いた。
けれども父は何も言わず、口を閉じ、まぶたを閉じて、焼かれるままに身を任せた。
そして――そうして、父の姿は、そこから消えた。
父は、何も言わなかった。最後まで父は、無口であった。
父の立っていた場所に、立つ。父の立っていた場所で、櫂を表に突き入れる。
そしてぼくは、漕ぎ出した。西の果ての、その果て先へと。
父の先へと、漕ぎ出した――。
.
428
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:08:36 ID:esi.ifqo0
ט
舟を漕ぐ。
手探りに探り出す航路。汎ゆる物事が未知であり、羅針盤などあるはずもなく。
すべては己の裁量と、願いを抱く気持ちの強さに。
そう、願い。願いと、約束。
二人で交わした、二人だけの約束。ラトヴイームを、通じた誓い。
シィはぼくを探すだろう。泥の底から、沈むぼくを見つけたように。
どれだけぼくが隠れようとも、彼は探し続けるだろう。
それがどれだけ掛かろうとも、それが例え永遠に等しかろうとも、シィはぼくを探すだろう。
シィは必ず、いまもぼくを探してる。
シィを助けられるのはきっと、ぼくだけだ。
ぼくを探すシィを助けられるのは。
そしてシィを想うぼくを助けてくれるのもまた、シィだけ。
助けることと助けられることはきっと、同じなのだと思う。
幸せも不幸せも、共有し分かち合うものなのだから。
そのために備えられた声であり、言葉であり、心なのだから。
ぼくらは人間なのだから。
.
429
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:09:11 ID:esi.ifqo0
舟を漕ぐ。果てなき道を探り探りに、けれども櫂は止めずに進む。
やがてぼくは――私は年老い、父の死んだ年もとうに過ぎ、潰れた目には何も映らず、
櫂持つその手も皺に塗れた。己を支える力を失い、膝をついて倒れかけた。
それでも私は漕いだ。
漕いで。
漕いで。
漕いで。
彼の下へ。
果て先へ。
彼の待つ果て先へ。
430
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:09:43 ID:esi.ifqo0
いつからか、音が聞こえなくなった。
感覚が失せ、己が立っているのか横たわっているのかも判らなくなった。
それでも私は漕いだ。櫂を動かす感覚が、水を掻く感覚が伝わらなくなった。
それでも私は漕いだ。生きているのか死んでいるのか、それすらも判らなくなった。
それでも私は漕いだ。右の小指の指環だけは、確かにそこに在ったから。だから、私は、漕いだ。
そして――遥か彼方に、何かが見えた。
光を失した瞼の裏に、映るはずのないそれらの光が。
三重光輝の楕円の輪。きらきらと星のように輝く、その――。
漕ぐ。漕いでいるのか判らなくとも、漕ぐ。光が近づく。
光の輪へと少しずつ、少しずつ、けれど着実に、近づいていく。
そして私はそれを――第一の輪を、くぐる。
声が、聞こえた。
.
431
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:10:08 ID:esi.ifqo0
喪われた視界が、音が、甦った。
皺は消え去り、力がもどり、私がぼくへと還っていく。
いつかのぼくらのあの頃へ、彼と生きたあの頃へ。第二の輪を、くぐる。
声が、聞こえた。
.
432
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:10:47 ID:esi.ifqo0
初めに言葉があった。言葉は光と共にあり、言葉は光であった。
己を灯す、小さな光。彼と我とをつなぎて結び、そこに在ると教え報せる。
言葉があった。ぼくたちの間にはいつも、言葉があった。彼はいつでも、言葉とあった。
故にぼくも――ぼくらの結びも、また、言葉。
最後の輪を、くぐった。
声が、聞こえた――。
――声を、返した。
.
433
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:11:16 ID:esi.ifqo0
もーいーよ
.
434
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:11:44 ID:esi.ifqo0
―― אור ――
――なぜあの男を処刑台に送ってくださらなかったのですか。
.
435
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:12:14 ID:esi.ifqo0
「ええ、そうです。これが創始者ショボンの、その墓になります」
街外れの森林。木漏れ日の差し込むその場所に、並び建てられたいくつもの墓石。
居並ぶそれらとさしたる違いもなく、その墓は葉々の影に佇んでいた。ショボン。
かつて処刑人として数多の生命を奪い、後に医師として多くの生命を救った男。
そして――『ホーム』を創始した、歴史上の人物。
「生前彼は、こう言っていたそうです。誰一人、一人にはさせたくない、と」
革命の時代。いまを生きる私にとっては、ただの記録に過ぎない過去の出来事。
けれど当時を生きた彼らにとっては、現実として直面した凄惨な出来事。
私の垣間見た、あの光景。
三二〇〇と一人。ショボンが殺めた、人の数。
436
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:12:44 ID:esi.ifqo0
「そこには大変な困難があったと伝わっています。
彼に恨みを持つ者の手によって、両目を潰されたとも」
二年足らずの間に奪われたにしては、余りにも多すぎるその生命。
けれど被害を受けたのは処刑された人だけでなく、大切な人を奪われてしまった人たちも。
家族、恋人、あるいは、友人。失意のまま残されてしまった人々。
父を、母を殺され、行き場を失った子どもたち。
ショボンの『ホーム』は、そうした行き場を失った人たちの
居場所となるために設立されたのだと聞いている。
生前、盲目となった彼の目は、保護した少年に奪われたのだとも。
彼の殺めた罪人の、その息子に奪われたのだと。
「処刑人であった彼は、やはり簡単には受け入れてもらえなかった。
時代が変わろうとも、すぐには変えられないものもある。
彼への嫌悪や、侮蔑や――それに、恨みも」
彼は受け入れられなかった。受け入れられないままそれでも、光を失ってなお、
彼は立ち止まらなかった。晩年は重い病を患い、四肢の麻痺に苦しめられたそうであるが、
それでもその死の間際まで彼は『ホーム』に、孤独な人を助ける仕事に尽力し続けていたと聞く。
六〇回目の誕生日を一ヶ月後に控えたその時まで。
そしてその死の後にまで、心無い言葉をぶつける人は存在していたと。
437
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:13:07 ID:esi.ifqo0
「ショボンが人を殺めたこと、それは事実です。 それ自体を肯定することは、
やはりできないのかもしれない。時代の犠牲などと、軽々しく片付けてはならない問題であると。
ですがあの革命が、後の世に大きな影響をもたらしたこともまた事実。
あの革命がなければ人はその生まれや家から逃れられず、
ショボンが処刑人を辞すこともできなかった訳ですから」
その生の終わりまで他者の苦しみを拭い去り、その幸せを後押ししようとし続けたショボン。
彼はそれで、何を得たのだろうか。
「すべて正しき行いなどありはせず、また同時に、拾うべきものの
何一つない事象も存在しないのかもしれません。我々にできるのはそれをどう受け取り、
何を残していくか――。停滞したままでは、何が変わることもないのですから」
私は彼に、何を――。
「彼の建てた『ホーム』の、私もその恩恵を受けた一人ですから」
438
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:13:36 ID:esi.ifqo0
「せーんせー!」
愛くるしい声をした女の子が、すぐ側の屋敷――彼らの『ホーム』から頭を出した。
声と同じく可愛らしい、清潔そうな衣服を身にまとった女の子だ。
「ギコとフサが、またけんかー!」
女の子が、私を案内してくれた男性に向かって叫ぶ。
男性も女の子に向かってすぐ行くと声を張り上げた。その後に彼は、私の方へと向き直る。
「代議士。あなたがいま苦境に立たされていることは存じております。しかし――」
彼の目が、目の前の墓へと向けられた。
「ショボンの理念を継ぐ者として、私はあなたを応援します」
催促を繰り返す女の子が響いていた。彼は会釈をし、屋敷の方へともどっていく。
そうして墓場には私だけが残される。私と、目の前の、墓。ショボンの。
樹環をあしらったレリーフの刻まれた。
「……ショボン」
そのレリーフに、触れる。
439
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:14:06 ID:esi.ifqo0
「覚えていますか、ショボン。リリです。あなたと一緒にセフィロトを旅した、あのリリ」
しばらくそうして、墓石に触れる。硬い、無機質な感触。
いくら待っても、墓から返事が訪れるはずもなく。
「……本当に、亡くなっているのですね」
当たり前のことを、私は口にする。
その当たり前の響きが、不可思議に感じられる。
「いまも信じられません。あんな大冒険をしたあなたが、一〇〇年も昔の人だなんて」
思い描くショボンはいつだって、子どもの姿であるのだから。
「私は……リリは覚えています。一日だって忘れたことはありませんでした。
だってあれは夢や幻ではなく、現実に起こった出来事でしたもの」
一緒に旅したショボンであり、シィなのだから。
440
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:14:42 ID:esi.ifqo0
「ねえショボン、あなたはすごいですね。
あそこをもどってからもずっと、戦い続けていたんですね」
声が聞こえた。風に乗って。だってギコが、だってフサが。
泣いて、怒って、のびのびと感情を顕にする、そんな声が。
「本当はね、もっと早く会いに来るつもりだったんです。
あなたがあれからどうなったか、心配、だったから。でも……」
先生を呼びに来た女の子の愛らしい声が。他にも響き渡る、何人もの声が。
「……でも、そんな心配、いらなかったかな」
かつて彼が生まれ、育ち、暮らした屋敷から。
「お前のせいでずいぶんやきもきさせられたんだからな、ばかこら!
……なーんて」
それらの声に、私は耳を済ませた。彼が興し、彼が育んだ声。
彼の残した誰かの幸せ。それは紛れもなく素晴らしいことで、
彼は紛れもなく生きていて、その意思は紛れもなく受け継がれていて。でも……。
屋敷から響く声を聞いて、聞いて――自分の声を出すまでに、
ずいぶんと長い時間がかかった。かすれる声を震わせて、墓石の彼に、私は尋ねる。
「ねえショボン。あなたは願いを――あなたが望んだ本当の願いを叶えられたのですか?」
441
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:15:07 ID:esi.ifqo0
――墓石は、やはり応えることはなく。
「私……私もね、私なりにがんばったんです。がんばった、つもりです」
あの後。セフィロトの旅を終え、現実に目を覚ました後。
父の差し向けた警官隊によって私は無事に保護され、
あの人は――私を誘拐し、プギャーくんを殺したパトリックは捕まった。
私は修道院に送られることもなく、咎められることもなかった。
おそらくは父も、それどころではなかったのだと思う。
あんなに取り乱した父を見たのは、初めてのことだったから。
パトリックについての議論は法廷を越え、国家的ニュースとして取り沙汰された。
それはこの裁判が、ある大きな争点を巡る論戦に発展していたから。
その争点とは――この男を死刑にするべきか、否か。
一〇〇年前の革命の反省からかこの国ではもう数十年もの間、
死刑という罰を判決に用いては来なかった。法が人を殺めるということに、
この国の司法は慎重になっていたのだ。
けれどそれは死刑の廃止を、条文として死刑の廃止を明文化しているわけではない。
悪質な犯罪に対する選択肢として、死刑という可能性は常に残されたままとされていた。
442
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:15:28 ID:esi.ifqo0
身代金を目的とした児童誘拐、及び児童殺害。
後に発覚した、三件の誘拐未遂。剣水晶勲章を授与された、元軍人が犯した罪。
そのセンセーショナルなニュースは国中を駆け巡り、
世論はむしろ死刑求刑論者の方が優勢であった。その船頭に立っていたのは他ならぬ父であり、
父は署名活動を行うほど熱心に、パトリックの死刑を訴えた。
秩序と安寧を維持するには、
悪を排除する他にない――殺す他に、ないのだと。
――私の想いは、父とは違った。
443
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:15:55 ID:esi.ifqo0
「あの人のこと、赦せたわけじゃないんです。それはやっぱり、できなくて。
でも、だけどでも……死なせてしまうのは、違うって。
それは、させたく、ないって……」
フォックスのこと、ショボンのこと。頭に浮かんだ、セフィロトでの光景。
殺す他になかった時代。殺したい訳では、なかった人たち。
彼らとの出会いを、その想いを、すべて咀嚼できたわけではない。
けれども私は、とにかくそれらを無駄にしたくなかった。
二人の痛みを、苦しみを――犠牲を無駄に、したくなかった。
444
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:16:17 ID:esi.ifqo0
私は訴えた。彼を殺さないでくださいと。
殺す以外の方法で罪を償わせてあげてくださいと。
手当たり次第に、声を上げられるところすべてで声を上げて。
あの広場で、紙芝居が開かれ、一〇〇年の昔には見世物としての処刑が行われていた、あの広場で。
多くの人から罵倒され、父からも強く非難された。それでも私は訴え続けた。
すると次第に、私の言葉に耳を傾けてくれる人が現れ始めた。
初めはぱらぱらと数人の人が、次には支援すると舞台を用意してくれる人が、
やがては地方紙に載り、全国紙にも取り上げられ、大々的に報道された。
気づかぬうちに私は死刑廃止論者の旗手として、時の人となっていた。
そしてパトリックは――無期懲役を言い渡された。
445
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:16:39 ID:esi.ifqo0
「それで私ね、いま、代議士なんて呼ばれてるんです。びっくりしてしまいますよね。
自分でもそう思います。あんなに口下手で泣き虫だった私が先生なんて
呼ばれる立場になるだなんて、あの頃からは絶対に、想像つきませんもの。でもね――」
二〇年。セフィロトから目覚め、あの広場で初めて人の前に立った時から二〇年。
人前に出ることに怯えていた私はいまや、それを自らの職務としている。
政治家として、フォックスやショボンが願った世界を作り出そうと尽力してきた。
もちろんそれは一筋縄ではいかない道のりだったけれど、幸いなことに理解者には恵まれた。
こんな私を支援し、応援し、その背中を後押ししてくれる人を私は得た。
だから私はこれで間違っていないと思っていた。
これが私にできる、“白紙のキャンバスに色を塗る”方法であると、そう信じて。
けれど――。
446
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:17:09 ID:esi.ifqo0
「パトリックがね、殺してしまったんです。仮出所中に、また、子どもを」
奪われた人生を取り返したかった。
逮捕されたパトリックは取り調べた刑事に向かって、そう供述したらしい。
この発言は、この国に生きる人々すべての怒りを買った。
二〇年の間に固まりかけていた死刑制度の廃止案は白紙に戻され、
今度こそパトリックを殺すべきだと人々は沸き立った。
彼らの怒りはパトリックだけに留まらず、当時の人々にも向けられた。
即ち死刑に反対し、パトリックという悪魔を野に放つその片棒を担いだ人々へ。
そしてその怒りは当然の帰結として、当時の世論を牽引したその火付け人に対しても向けられて。
私、リリに対しても。
447
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:17:35 ID:esi.ifqo0
「責められるのはね、やっぱりつらいです。二〇年経っても私はやっぱり、弱虫なリリだから。
だから、とても、つらい。つらくて、苦しい。
でも、本当につらかったのは。何より心に来たのは――」
目を閉じると、思い出す。その人は、怒ってはいなかった。泣いてすらいなかった。
ただ無表情に、あらゆる感情が抜け落ちてしまったかのように、ぼうっとした顔で私を見ていた。
ぼうっとした顔でその人は、責めるでもなく、咎めるでもなくその人は――
殺された男の子のお母さんは、ただただ私に問いかけてきた。
――なぜあの男を処刑台に送ってくださらなかったのですか。
「……私ね、判らなくなってしまったんです。本当にこれで良かったのか。
私がしてきたこと、正しかったのか。もしかしたら、もしかしたらだけど私――」
私は何も答えられなかった。かつてのように。
二〇年前の、叱る父の前でなにを言うこともできずに泣きじゃくっていた子どもの頃のように。
私は何も、答えられなかった。私には、私には彼女の問いに応えるだけの確信が、答えが――。
「私、間違っちゃったのかなあって……」
なかった。
448
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:17:59 ID:esi.ifqo0
「……ごめんなさい、暗い話をしてしまって。大丈夫です。
私、がんばりますから。最後まで、がんばりますから」
立ち上がる。がんばるために。何をかは判らない。でも、そうする。
そうしなければ、ならないから。みんなのために、そうしなければ。
償う、ためにも。
「話を聞いてくれてありがとう、ショボン。また、来ますね」
そう言ってからもしばらく私は、ショボンの墓の前で立ち尽くしていた。
差し込んでいた陽光はすでに朱に染まり、地平の彼方へいまにも落ちんとしている。
風が吹いた。葉々のそよぎが、墓に刻まれたレリーフに朱の色を落とした。
私はそこから目を逸らすようにして、ショボンの墓に背を向ける。
そして一歩、一歩、歩を進める。明日がもう、そこまで迫っているのを感じながら。
私は一人で、行く――はずだった。
何かの割れる、音が聞こえた。
449
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:18:21 ID:esi.ifqo0
振り返る。ショボンの墓。変わらずそこに、鎮座した。
――いや、違和感があった。何かが違っていた。
墓の一部が、一点が、先程までと違っていた。
朱に染まったレリーフ。墓に刻まれた樹環。その中心が、割れていた。
縦に走った亀裂。それは小さな、塵のように小さな小さな
亀裂であったけれど、私はそこから目を離せなかった。
まさか――まさか、まさか。
頭に浮かぶ想像を否定しながら、けれども身体は動いていた。
私は再びショボンの墓の前に立ち、彼の墓へと、刻まれたレリーフへと、
樹環のその中心へと指を伸ばしていた。
混乱する頭を他所に、静かに、けれど確かな意思でその場所へと向かい、
そして私はその亀裂に――極彩色のその場所に、触れた。
光が、視界を覆った――。
.
450
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:18:47 ID:esi.ifqo0
「――私」
声が、幼かった。手も小さく、身体も軽く、見える視界も非常に低い。
胸に触れる。鼓動を感じる。とくとくと鳴らされる、生命の律動。
これは、私だ。あの頃の私。幼く、小心で、泣き虫であった頃の私。
彼――と、過ごしていた、あの頃の。
いや、それよりも。
周囲を見回す。見覚えのある光景。
現実として見たことのある、現実でも見たことのある、その場所、その風景。
間違いなかった。未熟な魂を映し出す、願いへと続く心の反映――。
西の果ての、セフィロト。
451
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:19:12 ID:esi.ifqo0
目の前には、暗い穴が開いていた。
暗い、どこまでも続く暗い穴が。
山をくり抜くような形で。
山中トンネル。整然と、整えられた。
私の時代のものではない。これは、過去のもの。
一〇〇年前のもの。彼らの生きた時代のもの。大樹の聳える、あの時代の。
胸に当てたその手が、鼓動の早まりを然と認める。
452
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:19:38 ID:esi.ifqo0
確かめなければ。
心臓が、痛いほど胸を打ち付ける。呼吸が浅くなる。
この暗闇の先にあるもの――あるか、どうか、未だ不鮮明なものを思って。
……怖い。確かめる、ことが。彼の旅の結末を。私の行いの、その結果を。
確かめることが、怖い。でも、いかなければ。だっていかなければ、私は、もう、どこにも――。
足を、踏み入れた。
衣擦れの音すら反響する光なき暗黒。その中を、私は歩き続けた。
道は真っすぐ、迷いはしない。ただただ私は、歩くだけ。
一歩一歩、一歩一歩、足の裏に伝わる感触を確かめながら、光の出口を目指して進む。
453
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:20:00 ID:esi.ifqo0
ふいに、声が聞こえた。
暗闇の裡から、小さく小さくささやく声が。
何を言っているかは聞き取れない。
聞き取れないけれど、それが心地の良いものでないことは感じる。
心地の良くないそれが、私に向けられたものであることは感じる。
けれども私はそれらを無視し、更に先へと歩を進めた。
次第に声が大きくなった。
ささやき声は罵声となり、間違えようもなくそれらは私を批難していた。
私の弱さを、私の無知を、私の過ちを彼らは批難していた。
心臓の痛みが強まった。呼吸が浅く、苦しくなった。
それでも私はそれらを無視し、更に先へと歩を進めた。
呼び声が聞こえた。
全身に緊張が走った。姿は見えない。けれど、そこにいるのが誰かは判る。
その人が、再び私を呼んだ。なぜお前はこんなにも勝手なのだと、悲しむような声で。
その人は――父は、私を叱った。足が止まりかけた。
止まりかけた足に力を込め、私は更に歩を進めた。
454
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:20:28 ID:esi.ifqo0
「あっ」
足が、止まった。人を、感じて。姿は見えない。
ただ、そこにいるのを、感じて。それが誰かを、察知して。
「あ、わた、わた、し……」
呼吸が止まる。舌が回らず、言葉がうまく発せなくなる。
何かを言わなければならない。でも、なにを。
私には、答えがなかった。
この人に返す答えが、確信が、私にはなかった。
だから私は何も、この人に何も言えずに――。
“彼女”が、口を開いた。
455
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:20:53 ID:esi.ifqo0
――なぜあの男を処刑台に送ってくださらなかったのですか。
.
456
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:21:18 ID:esi.ifqo0
足が、下がっていた。後ろに。その下がった足が、燃えた。
炎の壁が、迫っていた。赤い、炎が。それでも私は、前へと踏み出せなかった。
このままではいけない、なにか言わなきゃ、なんとかしなきゃと思いながらも、
自分が自分を離れたように、身体は指一つ自由にならず。
炎が昇る。私を焼いて。それでも私は動けない。
怒る父を前にした時のように。パトリックに誘拐された時のように。
彼に……助けに来てくれた彼に、来いと呼ばれた時のように。恐れる私は、動けない。
何も成長していない私は。あの頃のままの私は。臆病で弱虫で、泣き虫な私は。
そうして私は、炎に包まれ――。
.
457
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:21:40 ID:esi.ifqo0
手を、握られた。
炎のゆらぎのその向こう、暗闇に同化したその誰か。
影も形も見えないその子。私と同じ、小さな小さな女の子。
私と、同じ。
その子のその手が、私のその手をぎゅうと握った。
握られ私も、ぎゅうと返した。
身体が、動いた。
458
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:22:12 ID:esi.ifqo0
「……ごめんなさい」
前へと足を、踏み出した。
「これから私が何をしようとあなたにとっては手遅れで、
きっと心を晴らすことはできないのかもしれない……」
炎が身体から、遠ざかる。
「自己満足なのかもしれない。償うことなんてできないのかもしれない。
喪われたものは、二度とはもどってこないのだから……でも」
炎を払いて歩く。前へ、前へ。
「でも、ここで何もしなかったらこれまでのことが、この、事件のことが、
本当に意味のないことになってしまう。それだけは耐えられない、赦せないから――だから!」
握った手の先のこの子と共に。
「いまのままでは曖昧な答えを確かなものとするために、どうか、どうか私を――」
“彼女”の、目の前へ――。
「果て先へ、行かせてください」
.
459
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:22:43 ID:esi.ifqo0
――光が、差し込んだ。暗闇を割って。トンネルの出口。
“彼女”を越えて、出口に向かって歩く、歩く。そうして抜けた、その先には――
見渡す限りの、緑の世界。おとぎ話に、出てくるような。楽園。光り溢れる神様の。
そんな言葉が、自然と浮かぶ。そして――。
そしてその先には――聳える大樹の、ラトヴイーム。
手を握る。強く強く握りしめる。隣のその子と、同じくらいの強さの力で。
握って私は、私たちは、ラトヴイームの聳える丘を登っていった。確かめるために。
「あ」
彼の、彼らの――。
「あぁ……」
物語の――。
「ああ――!」
結末を。
.
460
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:23:16 ID:esi.ifqo0
(*-ー-)(-ω-`)
.
461
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:23:46 ID:esi.ifqo0
――会えたんだ。会えたんだ、会えたんだ!
ラトヴイームの大樹を背にして、二人の少年が並んでいる。
並んで座ったその二人は、穏やかな寝顔を互いに寄せて、指を結んで眠っていた。
誓いの指環を、重ね合わせて。
涙が止まらなかった。子どもの姿で、子どものように、子どものままの私は泣いた。
手の先にいる隣のその子も、私と同じように泣いていた。
二人でえんえん泣きながら、並んで座る少年たちを、私と彼女は見続けた。
泣いて、泣いて、泣きながら、こんなに泣いたのはいつぶりだろうと私は思った。
もうずっと、本当に長いこと、涙を流していなかった気がした。
泣いてもいいと言われた私。けれども私は、いつしか泣くのを封印していた。
泣いてもいいと、私は思えた。
二人のために泣いていいと、私は思った。
泣いた自分を、泣いた自分が、赦していた――。
.
462
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:24:23 ID:esi.ifqo0
気づけば、墓の前にいた。ショボンの墓。樹環のレリーフの刻まれた。
そこには当然亀裂などなく、触れてもなにも起こりはしない。
きっとそれで、よいのだと思う。
目元が涙に濡れていた。指先でそれを拭う。
拭ったその手を、胸へと当てる。手を、つなぐようにして。
確かにそこに存在した、私の中のもう一人の“オレ”と手をつなぐようにして。
――手をつないで私は、密やかに誓いの言葉をささやいた。
行こう――“リリ”。
.
463
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:24:52 ID:esi.ifqo0
強くて、弱くて、優しくて、怖がりな、いまここを生きる、罪深いあなたへ――
.
464
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:25:18 ID:esi.ifqo0
י
バチカルのハインリッヒ・リリ・オーンズ。享年八二歳。
その生涯は決して、恵まれたものとは言えなかった。
第二パトリック事件の後、求心力を失った彼女は落選、
政界での立ち位置を失うも慈善家としての活動を始める。
それは急進する資本主義社会の煽りを食らって生活に
困窮する人々を支援するためのものだったが、しかし時代は激動の世紀。
帝国主義の限界を露呈した至上二度目の世界大戦に、東西を二分した冷戦が連続して起こる時代。
後ろ盾を持たない彼女の活動はすぐにも頓挫することとなる。
465
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:25:51 ID:esi.ifqo0
「もしかしたらあなたはいま、失意の底にいるのかもしれません。
自らの弱さを憎み、自らの犯した罪を悔いているのかもしれません」
それでも彼女は私財をなげうち、自らの活動を推進させた。
脇目を振らず、身を削って。そうした彼女の活動に対する理解者はむしろ少数であり、
余りにも理想主義的であるとして批判に晒されることも少なくはなかった。
彼女の庇護対象に前科者が含まれていたことも、そうした世論に拍車を掛けた。
「人から離れ、暗闇に閉じこもり、たった一人で自らを責めているのかもしれません。
自分には助けを求める資格などないと、そう信じ込んで」
それらの批判に、彼女は反論しなかった。反論も、自身を正当化することもなかった。
彼女は生前、こう語っていた。自分は多くの間違いを犯している。
けれど間違いでない何かも行っている。それは私には判らない。
だからあなたに、みなさんに、受け取ってほしい。
次代に残すべき何かを、みなさんに見つけ出して欲しい。そのように、彼女は語っていた。
466
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:26:31 ID:esi.ifqo0
「私には、あなたの罪を肩代わりすることはできない。
あなたの悩みを解決し、あなたの代わりを生きることはできない。
……けれど、あなたの声を聞くことならできる。その手を握ることなら、できる」
そうして彼女はその死の時まで、歩みを止めることをしなかった。
名誉や名声とは無縁のままに、彼女は息を引き取った。
しかし、それから二〇年後。
冷戦が終結し、国家と国家、人と人との融和が国際社会における課題とされる時代。
彼女の思想や行いが、表舞台に取り沙汰される。
467
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:26:58 ID:esi.ifqo0
「一人で苦しみ、一人であることに苦しむあなたを、一人にさせないことならできる。
泣き虫で臆病で、逃げてばかりだった私だけれど、そうできるだけの社会を、
実現したいと思うから。実現して、みせるから。だから、だから――」
彼女の構築したシステムを取り入れそれは、
超国家主義的な機能を持って国際的に運用されていった。
時と共にそれは生物のようにその形を変化させ、
あるいは彼女の想定とは異なる姿へと変じていたかもしれない。
それでも彼女の言葉は理念の一部として書き残され、
揺らぐことのない憲章の一文として語り継がれた。彼女のその、呼び名と共に。
「だからどうか、過去から未来へつながるあなたに――」
結び重なる二つの樹環。肌見放さず身につけていた、生前の彼女を象徴するバッジの絵柄。
人を孤独から救い、守り続けたハインリッヒ・リリ・オーンズ。人は彼女を、こう呼んだ。
.
468
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:27:25 ID:esi.ifqo0
「“助けて”と言えるだけの、勇気を――!」
ラトヴイームの守り手と――――。
.
469
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:27:50 ID:esi.ifqo0
.
470
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:28:14 ID:esi.ifqo0
.
471
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:28:42 ID:esi.ifqo0
.
472
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:29:15 ID:esi.ifqo0
待ちくたびれてたんだからな、バカコラ
.
473
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:29:47 ID:esi.ifqo0
יא
ラトヴイームの守り手だったようです おわり
.
474
:
◆y7/jBFQ5SY
:2023/06/04(日) 21:30:39 ID:esi.ifqo0
ラトヴイームの守り手だったようですはこれにて完結となります
ここまでお読みいただきありがとうございました
475
:
名無しさん
:2023/06/04(日) 21:39:59 ID:X/eWGKL60
おつでした〜〜〜〜!!!
もう一度読み返します!!!
476
:
名無しさん
:2023/06/05(月) 17:21:38 ID:lolRxdYY0
乙乙乙
477
:
名無しさん
:2023/06/05(月) 20:02:20 ID:lyVEcv1s0
乙
今までとちょっと違う雰囲気
まだ感想を書くほど飲み込めてないけど、さすがの読み応え面白かった
じっくり読み直すよ
478
:
名無しさん
:2023/06/05(月) 20:05:21 ID:gdA6SAIM0
乙!
479
:
名無しさん
:2023/06/11(日) 07:08:27 ID:7BYA6zd20
>>1
全然読み込み足りてなくて理解度いいとこ50%なんですが、気付いたら支援曲作ってました
お納めください
約束の果て先
https://piapro.jp/t/wZw9
480
:
名無しさん
:2023/06/11(日) 19:44:32 ID:7BYA6zd20
>>1
>>93-95
のボイスピ朗読も作ったので併せてどぞん
https://www.nicovideo.jp/watch/sm42341500
481
:
◆y7/jBFQ5SY
:2023/06/12(月) 22:07:34 ID:ZvLFhCL60
>>479-480
素敵な曲に朗読!
聴いていて作中の彼や彼女に思いを馳せて、うるっとしてしまいました。本当にありがとう
482
:
名無しさん
:2023/06/19(月) 15:58:46 ID:4rZgjzWc0
なんでAAがないんだ?とか、あまりにも台詞と上辺だけ付けられたみたいなAAの名前の上滑り感がキツくて100レス読んで一旦最後まで飛んできたとこ
なんか仕掛けがありそうだな
読み通してみるわ
483
:
名無しさん
:2023/07/15(土) 06:39:29 ID:BCb4oUpY0
乙乙
とんでもなく残酷ととんでもなく綺麗が入り混じっていて胸が苦しくなりました。
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