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ビアンジュエ・パルファムのようです
1
:
◆y7/jBFQ5SY
:2022/08/13(土) 18:01:33 ID:jQ0Pr1J.0
百物語のようです2022参加作品
.,、
(i,)
|_|
106
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:36:09 ID:jQ0Pr1J.0
「――これがボクの望み。どうです、他愛ないものでしょ?
誰しもが持ちうる美への欲求ですよ」
気のおけない友人と接するように、ボクは彼へと話しかける。
ボクの言葉に、彼が何かを言いたそうにする。
「ああ、待って。もう少し」
彼の言葉を遮って、ボクはベッドへと押し付けた鼻で思い切りその残り香を嗅ぐ。
ここはつい先日まで姉上が使っていた部屋で、これはつい先日まで姉上が
眠っていたベッドだ。あえて掃除をせぬよう言い含めておいたおかげで、
彼女の香りは消えることなく残っている。その染み付いた痕跡を独り占めするように、
肺の中へと吸い入れていく。はあ、姉上……匂いまでもが美しい。
その間も彼は何事かボクへと訴えようとしていて、待ってと命じたのに
言うことを聞かないその声はすこぶる耳障りで。だからボクは部下に命じてもう一度、
彼の指へと金槌を下ろさせる。猿轡をした口の奥から、のどが千切れんばかりの絶叫が轟いた。
「うん、さすがは最上級のスイートだ。防音設備も完璧。安心して叫びましょうか」
どうぞとボクは彼へと促す。けれど彼はふぅふぅと、荒い息を吐くばかりで。
やれやれ、天邪鬼な人だこと。部下に預けた金槌受け取り、彼の頭をこつこつ叩いて。
「それで、なんでしたっけ。そうそう、司教猊下でしたね。
いやでも、いまさらそんなに畏まることもないかな。ボクとあなたの仲ですもの、
ワカッテマスでいいですよね。ねえ、ワカッテマス?」
107
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:37:26 ID:jQ0Pr1J.0
これが『オドレウム』の統治者だったなどと信じられないくらいに変貌したワカッテマスが、
それでも両のギョロ目でボクを睨む。憎悪と憤怒に血管が破れてしまいそうな眼力で。
「そんなに嫌な顔しないでくださいよ、傷つくなぁ。
奥歯まで見せてくれた仲じゃないですか。まあボクのは見せませんけど」
そう言ってボクは、彼に“見せてもらった”奥歯を投げ返す。
拘束された彼は避けることすらできず、額でそれを受け止めた。
額に生じた小さな傷からつつりと細い、朱い筋が垂れていく。
「あのですね、ワカッテマス。ボクはあなたと対立するつもりはなかったんですよ。
ボクとしては兄が見つからない方がありがたかったし、そういう意味では
あなたがたに感謝したいくらいだったんです。兄をさらってくれてね。
……おや、意外でしたか? 侮りすぎですよ、それくらいの調べは当然ついてます」
放蕩で知られている兄のことだ。どうせいらぬ好奇心を働かせ、
開いてはならぬ箱の底へと首を突っ込んだのだろう。とうの昔に消され、
魚の餌にでもされたものとボクは思っている。ざまあみろ、だ。
「それで、ボクが告発するとでも思ったんですか? とんだ見当違いだ。
立場上捜索を指揮する振りはしてきたものの、あなたの不利益になることはしないと
それとなくサインは送ってきたはずなのに。ボクへの猜疑心で、
あなたのその大きな目は曇ってしまった。挙げ句、よりにもよって姉上を襲うだなんて――」
ボクの姉上を所有しようとした、その罰だ。
どいつもこいつも、ボクの姉上に手を出そうとしたやつは罰を受けるべきなんだ。
「先走りましたね、ワカッテマス。あなたが手を出しさえしなければボクは、
姉上を連れて穏便に帰るつもりだったんですよ。ボクは愛する人を手にし、
あなたはここで王様を続けられた。それが最善だったんです。でも、それももう手遅れだ」
だからボクは、決して許さない。ワカッテマス――。
「ボクのモノに手を出して、ただで済むと思うなよ」
.
108
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:38:41 ID:jQ0Pr1J.0
絶叫、金槌を下ろすと同時。持ち上げると血と共に、砕けた彼の爪が付着していた。
その様子を見せつけるように彼の前で振っていると、粘ついた粘液とともに
爪も床へと落ちていった。爪の剥がれた指はひしゃげて人の形を失い、それはもう、
見るも無惨に痛々しかった。なんて可哀想なワカッテマス。
だからボクは、努めてやさしく語りかけてやる。
「ねえワカッテマス。ボクはもう、調べ尽くしてあるんですよ。
あなたが何のために誘拐なんて行為に手を出していたのかも、
誘拐された不運な人々がどこへ送られていったのかも」
意思力などでは抗しきれない反射運動によって、
彼の目からは眼球うるおす涙が溢れ続けている。
「聖職者というものは大変ですね。妻帯も許されず、俗と交わることも認められず、
人を買うなど以ての外。けれど誰もが聖人君子な訳じゃない。
当然ですよね、人の性は欲だもの」
血の付着した金槌で、右からその涙を拭ってやる。
「許されぬことだと判っていても、自分だけの“モノ”を欲しがる輩はうようよいる。
さりとて市井の奴隷商など信用ならない。そいつがふと口を滑らした瞬間、
それは身の破滅を意味するのだから」
金槌の朱と混じった右目の涙は、まるで血涙のような体裁を表して。
「“モノ”は欲しい、けれど信用できる売り手以外と取引する危険も冒したくない。
ああどこかに、リスクなく望みを叶えてくれる者はいないものか」
その様がなんとも、どうにも不自然に見えて。
109
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:40:00 ID:jQ0Pr1J.0
「ねえワカッテマス、ここがあなたの出発点でしょ?
露見すれば互いの破滅を導く、謂わば共犯者という関係を構築することで
その信用を勝ち取ることに成功した。地方の有力者から中央の枢機卿に至るまで
独自のパイプを築き上げていった。どうですか? ボクの推論、当たってますよね?」
だからボクは、彼の目元を砕いてやる。痛みにうめくワカッテマスの左目から、
紅い雫が垂れ落ちる。うん、これでいい。これで綺麗な左右対称だ。
「御返事ありがとう、ワカッテマス。野心家の生臭坊主。
取るに足らない助祭だったあなたが異例の速度で司祭となり、司教に選ばれたのも、
あなたの努力の賜物ですね。行く行くは大司教――いやいや教皇の地位だって
夢じゃなかったかもしれない。あなたと――あなたの協力者が手を結び続けていれば」
金槌の裏、扁平にすぼんだ側を彼の頬に当てる。
「調香師、アニジャ。あなたの協力者」
そして勢い、振り下ろす。彼の頬が裂ける。その口を覆っていた猿轡と共に。
「だからワカッテマス、そろそろ話してくださいよ。あの男が何者なのか。
どういうわけか、あの男については調べても調べても碌な情報が出てこないんです。
なぜあなたの事業に加担していたのか……その目的だけじゃない。
この街へはいつ訪れたのか、出身は何処なのか、親は存命なのか? 伴侶は?
兄弟は? それすらも判らない。“まるでそんな人物、この世に存在していないかのように”」
110
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:41:04 ID:jQ0Pr1J.0
まったく不思議なこともあるものですと、ボクは彼に同意を求める。
どうせお前が隠蔽したんだろうと、言外に含めながら。荒い呼吸を繰り返し、
明らかに疲弊しきった様子のワカッテマス。しかしさすがは司教にまで上り詰めた男。
その胆力は大したもので、なおもその目にはボクへの敵意が失せることなく宿っていた。
「……知って、どうするというのです」
「決まってる」
その目に向かって、ボクは笑む。
「あの男のすべてを奪い、辱め、衆目に晒した上で公開処刑に掛ける。
そしてその様を、姉上に観劇して頂く。そうしてボクはそっと、姉上にささやくのです。
あなたのせいで彼は、あのような目にあってしまったのですよって……」
起こりうる未来をそこに見出し、歓喜に頬を緩ませる。
「ああきっと……きっときっと姉上の瞳は、
これまでにない美しさで彩られることでしょう……!」
ボクの姉上、ボクのトソン。ボクのモノが、目の前に。
「……不可能だ」
陶酔するボクの気持ちへ冷水をかけるような、嘲る声で彼がつぶやく。
怒りや嘆きであれば、いくら向けられようと構わない。が、上から目線は気に入らないな。
彼のまだ無傷の指に、金槌を振り下ろす。
しかし彼は驚くことに、歯を食いしばってうめきを堪えた。
この執念、いったいどこから沸いてくるのか。こいつはなぜ頑なに、
アニジャとかいう男について口をつぐむのか。
あのような平民風情に、何を義理立てする必要があるというのか。
111
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:42:25 ID:jQ0Pr1J.0
「……判りました」
扉の前に立つ部下に、指示を出す。
部下が扉を開き、別の部下が別室から、ナプキンに包んだそれを持って入室してくる。
「あなたがあんまり頑固なものだから、ある人物の“手”を借りることにしました」
入室してきたそいつに、ワカッテマスの前に座るよう目配せする。そして――。
「なにもかも調べたと言ったでしょう? サダコという頭のいかれた女性の
話が切欠ではありますが、ちゃんと裏付けも取っています。いくつものバイパスを
通じて援助金を送り続けていたってことも聞いてますよ。罪滅ぼしのつもりかな?
野心のために子捨てた男が、いまさら何をと思ってしまいますがね。
なんにせよ、可哀想なことです。まだまだ小さな、未来に夢見る少年だというのに」
ナプキンに包んだものの中身を、ワカッテマスの眼の前へと晒させた。
そこに収められていた小さな、肌色の、それを。
「あなたの息子の指ですよ。目を逸らさず、我が子の成長を
きちんと見てあげてくださいね、おとうさん?」
ワカッテマスの両目が、それを凝視する。
「どうです、話してくれる気になりました?
もしその気にならないというのならいいですよ、あの子の指ならまだ九本も残っていますから。
ああ、足も含めれば更に一〇本もあるのかな。交渉の時間はたっぷり取れそうですね」
そしてそこから目を逸らすように、視線が落ちる。影が差す。俯いて、肩を震わせる。
さて、どのような狂態を晒すのか。これは見物だと、彼の一挙一動を観察し、観察し、
観察していると、途端――ワカッテマスが、笑い出した。
112
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:43:07 ID:jQ0Pr1J.0
「何がおかしいんです……?」
「ふは、ふはは……何がおかしい? 何がだと?
お笑いだ! これが笑わずにいられようか!」
その笑い声は、神経を逆なでにするほどきりきりと頭に響いて。
「私の息子を捕らえた? まさか! あの男がそのような真似を許すはずがない!
アレはあの男が必要とした素体、お前たちなどに渡すはずがないでしょうに!」
前触れなく頬を張られたかのような衝撃が、
司教へと上り詰めた男の底力がそこには溢れていて。
「まだ判りませんか、お前たちはかつがれたのですよ!
お前たちが捕まえたのは“私の子では決してない”!
お前たちはあの男に敵わない! その証拠を!
いま! 私が! 説教してやります! さあ、だから告白なさい!」
その迫力に、ボクは、つい――。
「お前たちが捕らえた少年とやらの名をさあ、告白なさい! さあ! さあ! さあ!!」
その名を、つぶやく。
ビロード、と。
.
113
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:43:44 ID:jQ0Pr1J.0
―― ※ ――
大人しくしていた。石の壁に囲まれたこの牢の中で私は身動ぎせず、大人しくしていた。
大人しく、その機が訪れるのを待ち続けていた。ミセリに閉じ込められ、
三日後に帰郷することの決められた私には、常に二人一組の監視が付けられていた。
彼らは執務に忠実に無駄な会話をすることもなく、私を見張り続ける。
下手な行動を取ればすぐにも取り押さえられることは目に見えていた。
だから私は待ち続けたのだ。一日二日と、私に逃げ出す気などないと
その心へ植え付けるために、貞淑な婦女子を演じ続けてきたのだ。そして、三日目。
いつ迎えの馬車が訪れてもおかしくない、その日。登板を任されたその二人の見張りはぽつぽつと、
他愛のない会話に興じ始めていた。そこには明確に、油断があった。
114
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:44:45 ID:jQ0Pr1J.0
「もし、お二方……」
私の呼びかけで、監視の二人に緊張が走る。
「そのままで結構です。そのままで結構ですので、
私の願いをお耳に挟んではいただけないでしょうか」
訝しむ気配が、匂いに乗って伝わってくる。
「私、大変なことを思い出してしまいました。
大切なものを宿に忘れてしまったのです。ミセリさまからの、頂きものを」
ミセリの名前に、彼らが反応を示す。
「それは小さな小さな小瓶です。香水瓶。橙色の、とても芳しい香りの」
指先で描いた小さな小瓶の小ささに、二人がぎゅうと凝視する。
「私はそれを、身にまとっていきたいのです。ミセリさまから頂いた、その香りを。
モラリアム家、そしてミセリさまへの反省と、心からの恭順を示すためにも……」
胸の前で、両手を組んで。
「だからどうか、お二人に慈悲の心がお有りなら。
どうか私の忠誠を汲み取っては頂けませんでしょうか」
懇願の姿勢を、全霊に演じて。
「この哀れな女に、どうか御慈悲を……」
115
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:45:30 ID:jQ0Pr1J.0
明らかに、二人は戸惑う様子を見せていた。私には聞こえぬよう小さな声で耳打ち合い、
私の言葉に思案を巡らせている。私はそれを、祈りの形で見上げ続ける。
祈りを捧げているのは、本心からに。
「他言は無用に願います」
感情を抑制した低い声で、監視が言った。そして彼はもう一人の監視に目配せすると、
目に見える範囲から去っていく。よく響く足音が次第、上方へと消えていく。いなくなった。
うまくいった。条件は整った。私は胸を抑え、確認する。大丈夫、問題ない。
「トソン様、どうされたか」
立ち上がる。立ち上がって歩く。壁の隅に向かって。
「用がなければみだりに歩きまわらないで頂きたい、トソン様」
石の壁、ごつごつと硬いその壁に手を触れ伝って。
平坦の少ない起伏だらけの壁の中にあって、比較的に平らなその場所を目指して。
監視が私に呼びかける。私はその声を無視し、目的の場所へ行く。たどり着く。ここでいい。
ここでならばおそらく、“少々の怪我”で済む。私は両の手をその壁の側に付け、そして――。
116
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:46:32 ID:jQ0Pr1J.0
「トソン様!」
壁に頭を、叩きつけた。強烈な振動に、くらりと意識が途絶えかける。
だめ。まだ、耐えて。もう一度叩きつける。もう一度、もう一度、もう一度――。
「なに――」
顔色を変えて、監視が牢へと駆け込んでくる。――よかった、目算通り。
彼ら監視の仕事は私を逃さないこと。けれどそれは表向き。
監視たちが本当に任された仕事はおそらく、私の安全を確保することなのだと私は考えたのだ。
私の身体は私のモノではない。いずれはミセリが所有するモノ。
だから彼らが最も危惧していたのは脱走ではなく、私から私への加害行為、
私が私を殺めようとすることのはず。自殺をさせないために彼らは、
常に私を取り押さえられる二人一組でいたのだと、私はそう、考えたのだ。
けれど彼らは、警戒を怠った。この三日に渡る、大人しい私の態度に騙されて。
そしていま私を取り押さえようとしているのは、ただ一人。当然、力では敵わない。
けれど私は、持っている。胸に秘めたこの力を――
アニジャさまから頂いたこの香水を、持っている。
117
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:47:13 ID:jQ0Pr1J.0
「を――――」
一吹き。振り返りざまに、浴びせた。
屈強な肉体の監視が、重量を感じさせる音を立てて倒れる。
うつろな目をして、私の血が染み付いた壁へと視線を向けている。
この様子であれば、しばらくは意識を取り戻すこともないだろう。
牢の扉は開いていた。もはや私を阻むものはなかった。
通路の構造は三日の間に、監視たちの足音が教えてくれた。出口はそこにあった。
陽の光が差していた。
光に包まれた私は自由を許され、
望みを叶えに行くことが、私にはできた。
緑の薔薇へ向かうことが、私にはできた。
『ビアンジュエ・パルファム』へ向かうことが、私にはできた。
私の意思に従うことが、私にはできた。
.
118
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:48:39 ID:jQ0Pr1J.0
―― ※ ――
匂いとは不思議なものだ。
危険を察知させ、嫌悪を呼び起こし、食欲を増進させ、
種を選別し、そして――果てには愛をも喚起する。
鋭敏な受容体を備えていれば脳内の神経伝達によって起こる
他者の感情すら嗅覚に嗅ぎ分け、その者が何を思っているのか、
何を求め何を恐れているのか、如何な生を送ってきたのかすらも理解ができる。
匂いが判ればその者の、性のすべてが自ずと判る。
記憶と結びつき、本能と結びつき、人格と結びつく匂いという名の魔法の科学。
それらは彼我を超越し、我と彼とを結び行く。匂いに惹かれた相手とは、
遺伝の求めと同位に等しい。原始に根ざした欲動が、必要なのだと叫ぶのだ。
何に変えてもあれ得よと、何を捨ててもあれ得よと――。
匂いとは不思議なもの。果てしなきもの。しかしそれは、神秘に非ず。
なぜならこれら匂いこそ、人間存在が本質故に。生命の本質は匂いにありて、
故にこそ人はその死を超克し、不滅の存在へと至り得るのだ。
愛する者と永遠に、神代の永遠を生きられるのだ。正しくそれは光輝の歓喜。
神秘などと陳腐な言葉で、言い表せられるものでは決してない。
なあオトジャ、そうだろう?
――どうやら彼女が来たようだ。薔薇の香りに誘われた、薄羽閃く幻花の蝶が。
彼女なりの答えを持って、彼女自身の決意を抱いて。なればこそ、礼儀を持って迎えよう。
彼女の香りに相応しく、緑の薔薇を胸に携え。
手に汗握る終焉<フィナーレ>は、もはや息呑むそのすぐ先だ。
故にオトジャよ覚悟せよ、今こそお前を貰いに行くぞ。
何に変えても取りに行く、何を捨てても起こしに行くぞ――。
.
119
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:49:50 ID:jQ0Pr1J.0
―― ※ ――
「――ではマドモアゼル、お教え下さい。何を見て、何を知り、何を感じて、
そして貴方が何処へ辿り着いたのかを――」
……きっかけは、あの手紙です。前髪を切りそろえた
愛らしいシスターの渡してきた手紙。『幾つほど入用か』と問いかけていた手紙。
直感いたしました。これは例の、連続失踪事件に係わる手紙なのではないかと。
秘されたあなたの正体が、ここに明らかになるのではないかと。
追求しないという選択肢はありませんでした。知りたいという衝動に
突き動かされた私にはもう、行動する以外の選択などありえなかったのです。
だから私は、手紙の足跡を追いました。手紙の差し出し主が誰であるのか、
その背後に潜んだ黒幕が本当は誰なのか、私は調べていきました。
そして私はアニジャさま、あなたとワカッテマス司教に
つながりがあることを突き止めたのです。講堂に漂う、香りによって。
あなたとワカッテマス司教は共謀して誘拐行為を繰り返している。
私はそう、確信いたしました。ワカッテマス司教がなぜそのような行為に手を染めていたのか、
それは判りません。興味もありません。だって私が知りたいのはアニジャさま、
あなたのことだけなのですから。あなたのような紳士がなぜ、このような行いに
手を出していたのか。私が知りたいのは、それだけなのですから。
120
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:51:00 ID:jQ0Pr1J.0
見当はついていました。だってヒントは、あなた自身が
幾つも幾つも与えてくださっていたのですもの。匂いの哲学。自我を持たない少年。
記憶を伴う香水。同一性の科学。これらはすべて、あなたから教えて頂いたことです。
すべて。そう、それは――オトジャさまのことも。
弟君の話をする時だけでした、あなたの声色が変わったのは。
“あいつ”という、親しい呼び方をされていたのは弟君に対してだけでした。
なによりも、その匂いの変化。完璧に自分を律されていたあなたから
唯一感情の片鱗を嗅ぎ取れたのが、弟君についての話を伺った時だけ――。
あなたはきっと、弟君だけが大切なのでしょうね。
あなたの行動はすべて、弟君に係わることだけだったのでしょう。
それはもちろん、司教と共謀した誘拐行為にしても。あなたには人を誘拐し、
人という“物質”を利用しなければならない必要があった。弟君のために。
いまは死の眠りに耽っておられるという弟君のために、必要だった。
突飛な考えかもしれません。けれど私には、これこそが正解であるという確信がありました。
それ以外にはありえないという、揺るぎのない確信が。アニジャさま――
“あなたは人間を、香りの原料としていたのですね。オトジャさまの匂いを再現するために”。
.
121
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:52:20 ID:jQ0Pr1J.0
「……もし、貴方の言葉が真実だとして。マドモアゼル、貴方はどうしますか?」
……。
「倫理に従い糾弾しますか? 悪逆非道な人さらいを、正義の官憲へと突き出しますか?」
……母は、父の所有物でした。
奴隷であるという意味ではありません。傅く侍従という訳でもありません。
綺羅びやかなドレスに身を包み、美しく、その芳香すらも
人工的に彩られた母は男爵夫人として、領民から羨望と嫉妬の視線を投げかけられる立場の人間でした。
けれど――それでも母は、所有されていたのです。
産業振興に振り落とされて没落したかつての名家が、母の生家でした。
その領地も殆どを失い、返すあてのない借金を膨らませ、羽振りの良い商人たちに
頭を下げることでなんとか食いつなぐような有様であったと聞いています。
ただ貴族である、高貴な存在であるという誇りだけを拠り所にして生きてきたのだと。
けれどその誇りも、金に変えて買われます。
父は商人でした。時流に乗った商売で大きな成功を収めた、成り上がりの商人。
金を得て、易々と崩壊し得ない事業をいくつも手掛けるようになった彼が
次に求めたのは社交の力――地位でした。彼は爵位を金で買い、男爵の身分を得たのです。
爵位と共に、母をも買って。その日から母は、父の“モノ”となりました。
モノの母から生まれた私も、母同様にモノでした。
父の扱う商品と、資産として所有する絵画と、権威を知らしめるための装飾品と――
そうした数多の物質とその価値を比べられるだけのただのモノ、それが私。
父がさらなる地位を得るための足がかりとして、いずれ売りさばかれることの
決められた商品<モノ>のひとつ。
122
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:54:38 ID:jQ0Pr1J.0
抗おうなどと思ったことはありません。私の未来は母にある。
それが私の常識で、当たり前の人生観でしたから。諦めていましたから。
ですからマタンキさまの下へ嫁ぐと決まった時も、来るべき時が来たと、
そのようにしか思わなかったのです。でも――。
「けれど貴方は、ここ<『オドレウム』>へ来た」
この三日の間、私は考え続けました。私の周りにいた男たちとあなたと、
いったい何が違うのかと。あなただけがなぜこんなにも、私を狂わせてしまうのかと。
匂いなのですね。あなたに抱かれた初めのあの時、私はあなたに惹かれてしまった。
“私の中の本能が、否応なしにあなたを求めた”。そしてあなたも、私のことが必要だった。
アニジャさま……初めから、そうだったのでしょう?
すべてはいまこの時、私の心があなたの色へと染まりきったこの時を、
あなたは待ち続けていたのでしょう? そのためにこの劇を、
一人の女を揺さぶり惑わす舞台劇を仕組まれたのでしょう?
あの手紙にした所で、あのように私の手元へ届くなどできすぎていました。
落ち着きかけていた私の心を掻き立てるため、あれもあなたが企図したシーンなのでしょう?
あなたに悩み、あなたに焦がれ、あなたを知るよう私の心を知らず知らずに誘導して、
あなたのことしか考えられなようにしてきたのでしょう?
ああアニジャさま……あなたはなんてひどい人。なんてなんて……こわい人。
123
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:55:17 ID:jQ0Pr1J.0
「ならば貴方は、どうなさる」
アニジャさま……ああアニジャさま、あなたは本当におそろしい。
もしいまあなたに背を向け帰って、それで私に何が残されるでしょう。
何もありません。何もないのです。心の欠片すら、もはやそこには。
何も知らず、知りたいとも思えない男に所有される未来しかないのです。
嫌な臭いの、男たち<この世界>に。
仮にミセリがいなくなろうと、別の男に貰われるだけ。何も変わりはしません。変わらない。
私の未来は母なのだから。なれば私はこの焦がれを、この想いを抱く今だけに留まりたい。
今だけの永遠で、愛しき匂いに包まれ絶えたい。だからアニジャさま、私のアニジャさま――――。
.
124
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:55:49 ID:jQ0Pr1J.0
私はあなたに、所有されたい。
.
125
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:56:26 ID:jQ0Pr1J.0
「……マドモアゼル、あなたは最高の“素材”に仕上がった」
ああ、アニジャさま……。
「さあこちらへ。オトジャの下へ、案内しましょう――――」
.
126
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:57:15 ID:jQ0Pr1J.0
―― ※ ――
「ビロード? ビロード? ビロード!? だれですかそいつは!
私の血を継ぐ者の名はギャシャ、ギャシャです! ビロードなどという名ではない!!」
ワカッテマス、お前は大変聡明な子だ。将来は神の使徒として、
一角の人物となることでしょう。よくよく真面目に励みなさい。
「いや、いやいややはりビロードかもしれませんね? ギャシャだという思い込みこそ、
操られた私の生み出した妄念かもしれぬのだから! 真のことは誰にも判らぬのです、
誰にも、人ならざる者にしか!」
よくぞ試験に合格しました、ワカッテマス。さすがは私の子です。
いいでしょう、ひとつ願いを言ってみなさい。……あの店のものを食べてみたい、ですか?
お前は本当に甘党ですね。
「まだ判りませんか、防げぬのですよ!
矢や弾は避けられても、目に見えぬ匂いからは逃れられぬ!」
なに言ってるのさワカッテマスくん、おいしい思いをしたくないやつがいるわけないだろ。
どうせ君も、一枚噛みたかっただけなんだろう?
「匂い! そうすべては匂いなのです!
匂いが人を支配し、匂いが人を狂わせる!」
ねえ、どうしてそんな顔するの。あなたの子なのよ。あなたと私の、二人の子なのよ。
そんな顔、しないでよ。そんな目で、見ないでよ。
127
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:58:07 ID:jQ0Pr1J.0
「同一性の破綻! 自己の崩壊! 己を己とする確たる記憶への冒涜!」
ご安心を、私は貴方の味方です。私の手を取って下さるなら
返り咲く機会は用意致しますよ――猊下。
「どこまでが私であり、どこからが私でないのか! いいや、本当に私はここに残っているのか!」
なあ知ってるか、あの噂。ワカッテマスのやつが人身売買に関与してるって。
噂を耳にした司教様が、近く調査に乗り出されるって――。
「眼の前の者が本当に私の知る者であるのか! 私の知る者と同一であるのか!」
卑しい生まれの孤児の小僧が、私にこのような真似をしてただで済むと――
な、なんだ貴様ら、やめろ、やめろぉ――!
「人が変わるのです、人を変えてしまうのです!
あの男はそれを容易く行ってしまう!」
教皇庁はこの者を司教とし、『オドレウム』管区の長に着くことを任命する。
急死した前任者に代わり、神の僕として正しく振る舞うように。
「悪魔! 正に悪魔だ! あの男こそが神に仇なす悪魔そのものだったのだ!」
ご就任おめでとうございます司教猊下。敬愛する猊下の躍進、私共にとっても大変喜ばしく……
は? 敵対していたはずではないのか、ですか? 私が?
滅相もありません、私は猊下の忠実な僕にございますれば――。
128
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:58:45 ID:jQ0Pr1J.0
「甘言に惑わされ、その手を取った瞬間に我が手から、
大切なものがこぼれ落ちてしまうのだ!」
司教猊下、我々をお導く下さい。司教猊下、我々をお使い下さい。
司教猊下、我々を下さい。下さい、司教猊下。司教猊下、司教猊下、司教猊下――。
「容易く人が変わり得るなら、いったい何を信じられるか――」
ワカッテマス。
「虚無の裡の暗闇で、いったい何を頼ればよいのか――」
お前は変わってしまったな。
「ねえ、サー・ミセリ。あなたもそう思いませんか」
――神父様。
「あなたの大切なモノは本当に、あなたのモノだと言い切れますか」
変わってしまったのは、あなたがたではありませんか――。
「お前の愛する姉上は、本当に今も“姉上”ですか――?」
.
129
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:59:36 ID:jQ0Pr1J.0
―― ※ ――
この日、この時、この瞬間。
至福に満ちたこの瞬間のために、私はこれまでを生きてきた。
至福に満ちたこの感情を、永遠の裡へと封じ込めるために。
永遠の裡の香りと化して、アニジャさまに所有して頂くために。
衣の一枚も纏うことなく、私は装置の前に立つ。
私を永久へ留めるための、小さな小さな凍れる世界。
息も心も魂も、匂いまでをも封じる世界。私はここで、私を終える。
私を終えて、“彼”になる。ギャシャくん。部屋の中央にて、自我なく椅子に腰掛ける彼。
佇む彼に纏われて、今宵私は二人でひとつの“彼”となる。
「アニジャさま」
彼のための、“彼<薔薇>”となる。
「次に会う時、私はオトジャさまなのですね」
「ええ、マドモアゼル。次に会う時、貴方はオトジャだ」
130
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:59:58 ID:jQ0Pr1J.0
「離さないでくださいね」
「離すものですか」
「忘れないでくださいね」
「忘れるものですか」
「捨てないでくださいね」
「捨てるものですか」
「いなくならないでくださいね」
「いなくなるものですか」
131
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 20:01:11 ID:jQ0Pr1J.0
歓び。彼のモノになるという、歓び。恐怖など、欠片もなかった。
ひどくて、こわくて、おそろしくて――故にこそ魅力的な彼。
例え私自身に興味がなくとも、彼に選ばれたという事実が私の胸を至上に包んだ。
そして私は極寒へ、裸足の足を踏み入れた。
寒くはなかった。痛みもない。ただ感覚が、感覚だけが、急速に私から離れていく。
白に覆われ視界は狭まり、熱も音も消失していく。白い暗闇に落ちていく。
生命の停止が迫りつつあるのを、いやにはっきりと残る意識で感じ取る。
死を間近にした時、人はこれまでの生を整理するかのように記憶を遡ると聞いたことがある。
楽しかった思い出、悲しい思い出。親しかった人々、愛する者、思い出すこともできなくなった
在りし日の記憶と対面するものと、そのように聞いていた。
私には何もなかった。楽しかった思い出も、悲しい思い出も、親しい人々も、愛する者も、
何も思い浮かびはしなかった。父の姿も、母の姿もなかった。
後悔も罪悪感も、私には存在しなかった。
ただ薔薇だけが、現実として存在する緑の薔薇の一輪だけが、私の目にするすべてであった。
それだけでよかった。それさえあれば、幸せだった。それさえあれば、穏やかだった。
それさえあれば、救われた。それさえあれば。それさえあれば――――――――。
薔薇が、散った。
.
132
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 20:02:07 ID:jQ0Pr1J.0
「姉上」
冷気が薄れていく。視界が開けていく。音がもどり、寒さと痛みが蘇る。
しゅうしゅうと私を囲む世界から空気が抜け、止まった時が稼働を始める。
外界と途絶するために固く閉じられていた扉がぎちぎちと音を立て、
強引に捻じ曲げられていく。内と外とがつながってしまう。
「ダメじゃないですか姉上、あなたはボクのモノなんだから。
モノが一人で出歩くなんてそんなおかしなこと、許されるはずがないでしょう?」
ミセリ、どうして。乾いた唇からは声がでない。ミセリにつかまれる。
引っ張り出される。生暖かな空気が、私を急速に解凍していく。
表皮に留まらず、のどの奥から肺の中まで激痛が走る。
不必要な生の機構が私を強く刺激する。痛い。ミセリにつかまれた腕が、痛い。
「姉上がいけないんですからね? なにもかも姉上のわがままが招いたことなんです。
だからほら、見て下さい姉上。姉上ほら――」
顔をつかまれた。ねじられた。ぱきぱきと、割れる音が首に響いた。
白に掛かった視界の膜が、ぱきぱき割れて剥がれていった。
眼の前の光景を、有限の現実へと映し出していった。現実に、映し出されていたのは――。
「あなたの勝手が起こした悲劇ですよ」
緑の薔薇の、散った花弁。
.
133
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 20:03:04 ID:jQ0Pr1J.0
「なにが悪魔ですか、あのイカレ司教。撃てば死ぬんです、それがなんであったって。
そうですよ、邪魔するやつは殺してしまえばいい。みんなみんな、殺しちゃえばいいんだ。
ふふ、ふふふ……」
代わりに咲いた、朱い華。
「ぃ」
倒れ動かぬその人の。
「ぃ、や」
胸にて咲いた、血色の華――。
「ああ姉上……これでもう、ボクたちを邪魔する者はいなくなりましたね」
ミセリが耳元でささやく。触れてくる。抱かれる。拘束される。
私をモノだと伝えてくる。彼の携えたライフル銃の先端が、
冷えた皮膚に張り付いてくる。ミセリと共に、張り付いてくる。
いや、いやだ、こんなのいやだ。私はもう、あなたを知った。
あなたを知った私はもう、かつての私にもどれない。あなたが私を狂わせたんです。
あなたが私に望ませたんです。一度望みとまみえては、二度とは過去へと帰れないんです。
アニジャさま。私、もう、母のようにはなれません。
あなた以外のモノにはなれない――!
だから起きてくださいアニジャさま。だってあなたは言ったはずです。
離れないと、忘れないと、捨てないと、いなくならないと。
確かにそう、約束を交わしてくださった。そうではありませんか。
なのにこれでは……こんなのあんまりです。
だから起きてくださいアニジャさま、起きて、お願い、起きて――。
血色の華が、ぐにゃりと歪んだ。
134
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 20:04:08 ID:jQ0Pr1J.0
「こいつ、まだ生きて――」
轟音。同時、破砕音。アニジャさまの手に、拳銃。
撃たれたのは、私――ではない。ミセリ――でもない。それがなにか、目視はできない。
けれど、判った。“匂い”で、判った。
「なん、これ――」
私に張り付いていたミセリが力を失い、倒れていく。空虚な瞳、自我のない顔をして。
アニジャさまの、香水。意識を飛ばす、匂いを発する。
そしてそれは例外なく、私の意識へも作用を始め――。
「――――」
けれど私は、落ちなかった。あの人の、私を所有するあの人の、私を呼ぶ声が聞こえたから。
私はあの人のモノ。あの人に使われて、あの人の希望に応え、あの人に愛されるモノ。
こんな香水よりも、私のほうが、あの人のモノだ。だったら、落ちない。落ちるわけがない。
だってあの人にとっては私の方が、こんな香水よりも価値がある。
だから私は這っていく。感覚のない足をずりずり引きずり、腕の力で這っていく。
アニジャさまへと這っていく。アニジャさまへと、アニジャさまへと。漂う彼の香りへと。
ああこの匂い、この匂いです。この匂いを嗅いだ瞬間、私はあなたのモノと化したのです。
逃れることなどできなかったのです。だからもっと、もっとあなたを、あなたの匂いを――。
135
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 20:04:55 ID:jQ0Pr1J.0
「――――」
アニジャさまに触れる。アニジャさまに重なる。アニジャさまを嗅ぎ取る。
アニジャさま、ここに来ました。あなたのトソンが這ってきました。なんですか。
私は何をすればいいのですか。私はあなたの何になれますか。
声にならない問いかけを、心の匂いに飛ばして問う。
アニジャさまは、笑っていた。いつものように微笑を浮かべていた。
微笑を浮かべて、それを手に持ち、私の前で、煌めかせた。
散った緑の薔薇の茎、鋭利に尖って、刃物みたいな。
それが、アニジャさまの首に、ささった。アニジャさまが、刺した。刺して、裂いた。
血が、吹き出た。びゅうびゅうと、びゅうびゅうと、止め処なく吹き出した。
それらすべてが降り注いだ。むせ返るようなその匂いが、私の鼻へと降り注いだ。
アニジャさまは笑っていた。いつものように微笑を浮かべていた。
鮮血の薔薇が、微笑を浮かべて、ささやいた――――。
.
136
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 20:05:24 ID:jQ0Pr1J.0
オレの匂いを忘れるな――――オトジャ。
.
137
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 20:06:52 ID:jQ0Pr1J.0
―― LafiN ――
葬儀は盛大に開かれた。ワカッテマスの証言が決定打となり、兄マタンキは失踪ではなく
死亡したのだと公に認められることとなった。民を守るために邪教へ挑んだ末の、尊い犠牲――
まるで神話の英雄かのような扱いはボクの知る兄の像とは一ミリも重なることなく、葬儀の間、
彼を称える言葉の数々にボクは、笑いを堪えるのに苦心しなければならなかった。
ワカッテマスは死亡した。捕らえられ、裁きを受けるその前に、獄中でその生命を絶ったらしい。
自責の念に耐えかねたのか、狂った末の凶行なのかは判らない。しかしその死には不審な点が多く、
一部ではワカッテマスの自白を危惧した“お偉方”が
トカゲの尻尾を切ったのではないかという噂もある。
いずれにせよ、その死の真相を暴くことにさしたる益はない。彼は死に、この世を去った。
死者は蘇らない。それこそが真理なのだから。彼らは死に、ボクは生きている。
ボクと姉上は生きている。それ以上に重要なことなど、ありはしないのだから。
あの日、あの調香師の家へと踏み込んだ日。
あの男の魔術によって意識を奪われたボクは、その目を覚ました瞬間ずいぶんと肝を冷やした。
あの男の傍らにもたれる姉上の、その鮮血にまみれた姿を目撃して。
あの男の死に、生命を絶ってしまったのではないかと思って。
実際は、杞憂に過ぎなかった。その血は姉上のものではなく、
姉上はあの調香師の血を浴びているだけだった。何を思ったのかあの男は、
自分で自分の首を掻き切って果てたらしい。そこにどのような意味があったのかは
もはや知る由もないが、やつの死は姉上に大きな影響を与えた。うつろな目をした姉上。
姉上の意識は、どんなに待ってももどってこなかった。
なんてことだ、これこそ理想の姿じゃないか。
138
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 20:08:24 ID:jQ0Pr1J.0
物言わずただただその形容を留め続けるためだけに存在する一個の芸術。
これこそがボクの求めていたモノだ。真なる母の複製像。
彼女はついに人間を捨てた、永遠の美そのものとなったのだ――!
父は難色を示していた。モラリアムの家へと入れるには、彼女の状態は相応しくないと。
頑迷な、美を解しない老人の戯言だ。お前にはやはり、母を所有する資格などなかった。
ボクはこの頭の固い老人を説き伏せ、彼女を迎える理を説いた。
兄嫁となるはずだった彼女の献身、『オドレウム』での活躍、そして、
ボクらの間に生じた絆について。美談を好み不義を憎む領民に、彼女を娶るか放逐するか、
どちらが支持されるかを凝り固まった父の頭に説き伏せ続けた。少しばかりはグラスの中に、
素直になれる魔法の粉を入れもした。その甲斐あって最後には、父も理解を示してくれた。
順風満帆とはこのことである。なにもかもがボクの望みを後押ししてくれていた。
ささやかな望み。姉上を――トソンをボクのモノとして永遠に所有し続けるという望み。
姉上との婚儀の日取りも決まり、ボクは毎日彼女を抱きしめ、その耳元でささやき続けた。
待ち遠しい、あなたがボクのモノであると披露目できるその日が待ち遠しくて仕方ない、と。
ニヶ月が一ヶ月に、一ヶ月が一週間に。遅々として進まない時間はもどかしく、
しかしそのもどかしさにすら興奮を覚え、ああ早く、ああ早くと唱えながらボクは
その日を待って、待って、待ち続けて――そして、婚儀の日取りを三日後に控えたその日のこと。
姉上が、失踪した。
.
139
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 20:08:54 ID:jQ0Pr1J.0
―― ※ ――
「ああすみません、痛かったですよね。でもそんなに時間は掛けませんから。すぐに済ませます」
「なんで、こんなこと……」
「申し訳ないとは思っているんです。でもどうしても、匂いを集めなくてはならなくて」
「違う、ボクが言っているのはそんなことじゃない……ボクはあなたが、どうしてあなたが……」
「そうですよね、なんでオレがこんなことをって、オレ自身も思います。
それもこれも、全部あいつのせいです」
「あなたは――姉上は“トソン”でしょう!」
「オレは“オトジャ”ですよ。トソンなんて人は知らないです」
140
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 20:10:16 ID:jQ0Pr1J.0
心からよく判らないといった困惑顔で、“彼女”が答えた。
彼女――姉上であり、トソンであり、意識をなくしたボクのモノであるはずの彼女が、
どういうわけか“オトジャ”という名を自称する、“彼女”が。
姉上が失踪した後、ボクはすぐに捜索隊を結成し、ほうぼうにその捜索網を拡げた。
意識をなくしていたはずではないのか、あれは全部演技だったのか、そんなにボクが嫌なのか、
女の細脚で逃げ切れるものか、逃がすものか、絶対に逃さない、捕まえてやる、
捕まえて、二度と逃げ出せぬよう今度は足の腱を切ってやる。
様々な思考が高速で巡るが、それらはすべて後へと回す。
なにより優先すべきは、手がかりを探し出すことだった。地道に、足取りを追って。
捜索は難航した。父はやはり嫁に迎え入れるべきではなかったと激怒していた。
ボクの立場も危うくなり、動かせる部下の数も減った。それでもボクは諦めきれなかった。
だって彼女は、ボクのモノなのだから。
探して、探して、探し続けた。探し続けて、探し続けて――彼女の失踪より、一年後。
ボクはある噂を耳にする。とある街で、連続失踪事件が起きているという噂。
まるでかつての、『オドレウム』のように。
確信があった訳ではない。他にすがれる情報がなかっただけ。
それでもボクは一縷の望みを駆けてその街へと向かい――そうしていま、
追い求めた“彼女”に拘束されている。生命の熱と共に、体内を巡る血を
徐々に徐々にと減らしていきながら。管の先のボトルへと、ボクの生命<血液>を吸い取られながら。
141
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 20:10:59 ID:jQ0Pr1J.0
「ギャシャくん、どうだい」
見覚えのあるガキ――記憶よりも些か成長しているそのガキが“彼女”に促され、
ボトルに溜まったボクの血へとその鼻を近づける。
「……臭い」
「そうか、やっぱり」
ボクを前にし、事もなげに二人は言い放つ。ふざけるなよと、声を上げようとする。
しかし血を抜かれた身体は舌の奥から乾き行き、怒りすらも血液と共に流れ出していく。
それでも身体を振って抵抗を表すと、その様子に“彼女”が気づいた。
「そう落胆しないでください、あなたの匂いも何かに使えるかもしれませんから。
だからもうしばらく、このまま辛抱していてくださいね」
そう言って“彼女”は、ボクの血へと鼻を近づける。
直後、“彼女”はなにやら眉根を寄せて、自分の胸とボクのことを交互に見返した。
「もしかして」と、“彼女”がつぶやく。つぶやいて彼女は、胸の内側から何かを取り出す。
取り出したものを、ボクの前へと突きつけてくる。それは――。
142
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 20:11:40 ID:jQ0Pr1J.0
「これ、あなたの物じゃありませんか」
ボクが姉上にプレゼントした、橙色の――。
「よかった、持ち主が見つかって。
オレには必要ないものですから、あなたが持っていってください」
そう言って“彼女”はボクの目の前に橙の小瓶を置く。
女性的な細やかさに欠ける、男性的な動作で。動きだけではなかった。
言葉遣いも、纏う気配も、その顔つきまでもが記憶と違った。
まるで本当に、別人へと変わってしまったかのように。
その様を見てボクは、あの男のことを思い出す。
魔術のような香水を扱う、正体不明の調香師。あの男のことを思い出し、そして、思い浮かんだ。
恐ろしい疑問が、思い浮かんでしまった。
あの男は……あの男は本当に、“初めからアニジャという生き物だったのか”――?
『あの男こそが神に仇なす悪魔そのものだったのだ!』
いつか誰かが放った言葉。いまやもう、それが誰の言葉であったかすら思い出せず。
143
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 20:12:11 ID:jQ0Pr1J.0
「まったく、あいつが怠けるせいでまた人様に迷惑を掛けてしまった。
あいつは昔っからそうだ、格好つけてばかりでやることなすこといい加減。
尻拭いする側の身にもなってほしい。なあギャシャくん、ギャシャくんもそう思うよな?」
「うん、そう思う」
「ギャシャくんだって、早くアニジャになりたいよな?」
「うん、なりたい」
「ならギャシャくん、そろそろ行こうか。長居していると怪しまれてしまうからな」
「……ん」
「ギャシャくん?」
「…………」
「そうか、そろそろおねむの時間だね」
「…………ん」
「よし」
144
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 20:12:58 ID:jQ0Pr1J.0
眠たげに目を細めるガキを、“彼女”が抱えあげる。
姿勢が変わり、影に隠され目立たなかった胸元が強調され、
そこに携えられたものへと自然、視線が吸い込まれる。
薔薇の華。“群青色の、青い薔薇”。
「なあアニジャ、いい加減出てこいよ」
それがボクの、最後に目にした光景で。
「ギャシャくんだって、待ちくたびれて退屈してるぞ」
ボクの聞いた、最後の声で。
「だからなあ、ビアンジュエ・パルファム<流石香水>のアニジャ――」
最後に嗅いだ、“彼女<彼>”の匂いで――。
.
145
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 20:13:23 ID:jQ0Pr1J.0
早く目覚めて、オレを所有してくれよ
.
146
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 20:13:49 ID:jQ0Pr1J.0
(
)
i フッ
|_|
147
:
名無しさん
:2022/08/14(日) 08:26:39 ID:t7LcQPBY0
乙乙乙乙乙
148
:
名無しさん
:2022/08/16(火) 22:05:56 ID:YbXhRtQ60
乙乙
ビアンジュエ・パルファム行ってみたい…
149
:
名無しさん
:2022/08/20(土) 00:42:54 ID:yfwLAWAc0
おつ!
150
:
名無しさん
:2022/08/20(土) 19:06:32 ID:7vvfbSc60
乙!
お洒落で好き。ミセリが一番怖い
151
:
名無しさん
:2022/08/21(日) 00:52:27 ID:/cfcANwg0
いいハッピーエンドだった
中身は双子の兄弟なのに、外見はお姉さん(弟)とショタ(兄)なのエモい
めちゃくちゃ好き
152
:
名無しさん
:2022/08/21(日) 11:57:52 ID:V/46LD8U0
最高!
153
:
名無しさん
:2022/08/21(日) 17:17:41 ID:B.fg7szA0
すごく揺さぶられた
乙
154
:
名無しさん
:2022/08/27(土) 16:37:38 ID:k7MDuCWc0
乙
155
:
名無しさん
:2023/03/07(火) 19:39:10 ID:NwO7iJ5w0
今更ながら読んだ、良いな
乙
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