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ビアンジュエ・パルファムのようです

55名無しさん:2022/08/13(土) 18:51:15 ID:jQ0Pr1J.0
「あいつは薔薇が好きなのです。それも緑の、この薔薇が」

彼に良く似た、けれどわずかに幼さを残した顔を想像して。
よく似た二人が、睦まじく談笑されている様を想像して。ああ、そうか。
あの奥の部屋。あそこから漏れ聞こえてきたアニジャさまの声色が
ずいぶん明るく軽妙に感じられたのは、お相手が弟君であったから――。

「アニジャさまは、弟君のことを“あいつ”とお呼びになられるのですね」

「ああ、これはお恥ずかしい」

――女性では、なかったのだ。

「お恥ずかしついでに白状してしまえば、私は貴方を恐れたが故に、
 貴方を欺いてしまったのです」

「恐れたから、欺いた?」

「真実を話せば貴方に嫌われてしまうのではないかと、それを恐れて」

『この男はこう見えて、ずいぶんなさびしがりなんだ』。
ギャシャ少年の言葉が脳裏をよぎる。この人が、恐れている。私に嫌われることを。本当に?
心の底を見せないその微笑からは、到底本心を図ることはできない。もしかしたら全部、
私を喜ばせるためのリップサービスかもしれない。でも、けれど――。

56名無しさん:2022/08/13(土) 18:52:01 ID:jQ0Pr1J.0
「アニジャさまは、何色がお好きなのですか」

「マドモアゼル?」

「薔薇の、色」

この質問が意外であったのか、能弁な彼にしては珍しく、思い悩む様子を見せた。
そうしてしばらくのあいだ同じポーズを取り続けていた彼は深い声で、
彼にしては小さな声で、なんだか自信なさげにつぶやいた。

「青を」

青。青の薔薇。深い群青のそれを胸元に差したこの人を思い描く。
ああきっと、きっとそれは、この人によく似合って。

賑やかしい喧騒。刺激的な初めての味。私の知らない世界。
私の知らない世界を知る、彼。彼の世界。彼の大切なもの。
大切なものを想う、心情。彼の、心。心の、匂い。

アニジャさまのことが少しだけ、
ほんの少しではあるけれど私は、
彼を理解できたような気がした。



「マドモアゼル、これをお渡ししておきましょう。意識を失わせる香水です。
 護身用として携帯しておくと安心でしょう。くれぐれも、無闇に人に向けてはいけませんよ――」


.

57名無しさん:2022/08/13(土) 18:53:03 ID:jQ0Pr1J.0
     ―― ※ ――



アニジャさまはすべてをお話になられた訳ではない。それは明白だ。
あの日の彼の言葉にどれだけの真実が含まれているのか、それも定かではない。
都合の良い真実だけを聞かせたと、そのような気がしなくもない。彼は未だ、謎の人。
私にとっての彼は、未だ未知のベールの無効に存在する神秘に他ならず。

けれども私は、以前のような焦りに駆られはしなかった。
彼を知りたいという気持ちが失せた訳ではなくとも、
初めて出会った時に感じたあの焦がれるような気持ちは和やかな思慕へと落ち着きつつある。
彼の側にあるという事実を噛みしめるだけで、穏やかな歓びを抱く己を自覚する。

それにいずれにせよ私という女は、ニヶ月の後にはここを離れなければならない身。
彼への想いに焼かれることこそが過ちであると、今更ながらに振り返れたのだ。
彼と私の香りは一時的に混ざりあったハーモニーを奏でただけで、
遠からず揮発してしまうものであるのだと。それが私の、運命であるのだと。

ただ――ただせめて、いまだけは。
彼の側に在れる幸運に、“私自身の感情”に、素直にこの身を任せていたい。私は切に、そう願う。

そうして彼と出会ってから、三週間の月日が過ぎて。
ミセリに呼び出された。


.

58名無しさん:2022/08/13(土) 18:54:15 ID:jQ0Pr1J.0



「ああ姉上、お美しい。とても良くお似合いです!」

「……ありがとうございます、ミセリさま」

「本当にお美しいです姉上。さあでは、次はこちらなど如何でしょう。
 こちらもきっとお似合いになるはずですよ」

ミセリの示したドレスへと、私は黙って着せ替えられる。
二人の侍女が着付けを行い、きつくコルセットを締め付ける。
内蔵が圧迫され、逃げ道を求めて上滑りしたのが判る。着替え終え、ミセリの前にて披露する。
ミセリは変わらず満足そうに、両手を叩いてはしゃいでいた。

私達の他に客はいない。ミセリが店ごと貸し切ってしまったのだそうだ。
私達だけのために開かれた店内でミセリは、あれも良いこれも良いと、
自分のものではなく私を着せ替えさせるための服を次々に見繕ってくる。
ミセリのためだけに開かれたファッション・ショー。既にこれで、ニ〇着はまとっただろうか。

「試着したものはすべて買う。後でホテルまで届けておいてくれ給え」

ミセリの放った号令に店長らしき口ひげを蓄えた男性が、
腰を折り曲げながら喜ばし気な笑みを浮かべていた。その顔に父の面影を見て私は、
優れぬ気分に一層不快な重石を抱く。反してすこぶる上機嫌なミセリは私の腕へと
自らのそれを回して、陽々たる様子で声を発した。

「さあ姉上、次の店へと向かいましょうか!」

そうして私たちは、本日四軒目の服飾店に向かって馬車を走らせた。


.

59名無しさん:2022/08/13(土) 18:55:10 ID:jQ0Pr1J.0



「ミセリさま、マタンキさまは……」

五軒、六軒、七軒と、馬車は『オドレウム』の街を巡る。

「未だ。けれどご安心ください、手がかりは揃ってきていますから」

服飾店だけでなく靴屋、宝飾品店、化粧品店にも巡り。

「私は、お邪魔ではありませんでしょうか。このようにお時間を割かせてしまって……」

その度にミセリは私に試用を求め。

「とんでもない! 姉上がいらっしゃること、それだけで充分励みになるのです」

美しいと褒めそやして。

「ですが、私は本当に何も……」

それら全てを購入し。

「それでよいのですよ。女性の仕事とは貞淑に着飾り、夫の帰りを待ち続ける
 以外にないのですから。姉上とて、兄上のことはご心配でしょう?」

陽の目を見るかどうかすら定かでない衣服の山が積み重なり。

「ですが……」

馬車の中には宝石が溢れ。

「それとも」

荷重に耐えかねた馬車馬は荒い息を吐き。

「何か他に、気になることでもお有りなのかな?」

60名無しさん:2022/08/13(土) 18:55:40 ID:jQ0Pr1J.0
「そんな、ことは……」

「さあ、最後はこちらです」

そうして目を血走らせた馬の止まった、その店は――。

「さしたる高級店ではありませんが、主人の腕は
 『オドレウム』一だという噂もある程なのですよ」

「ここ、は」

「さあ姉上、エスコート致します」

腕をつかまれる。固く、有無を言わさぬ力で。それはいつも通りのようで、
けれどいつもより荒々しさを感じるようでもあって。
抵抗の欠片もなく私はミセリに引っ張られ、店の中へと入る。
どうしてここへと、言う間もなく。

『ビアンジュエ・パルファム』。アニジャさまの、お店に。


.

61名無しさん:2022/08/13(土) 18:57:08 ID:jQ0Pr1J.0



「これはムッシュミセリ、お久しぶりでございます」

「おや、あなたは確か……アニジャさん、でしたか?」

本来ならば。

「いや、気づきませんでした。そうですか、ここはあなたの店だったのですね。
 街での評判を伺って来たのですが――いや、これは驚きだ」

本来ならば今日も、向こうへ立っていたはずだった。
アニジャさまの隣で、この店に働く一従業員として。
ミセリにとつぜん連れ回されたりしなければ。

「ねえ姉上。想像だにしておりませんでしたよね」

「え、ええ。そうですね」

「ムッシュミセリ、本日はどのような?」

アニジャさまはどう思われているだろう。
なんの連絡もなく店を空け、挙げ句にこうして客として来訪してきた女のことを。
緑の薔薇、常なるアルカイックスマイル。彼の態度からは、その心を読み解くことはできない。
ただ、どうか。どうかアニジャさま――。

「姉上に見合った香水を。その魅力を一層際立たせる一品を願いたく」

「畏まりました。ではムッシュ。それに――」

ミセリの前で、私達の関係が露見するようなことだけは――。

62名無しさん:2022/08/13(土) 18:57:58 ID:jQ0Pr1J.0
「マダム」

――アニジャさまはやはり、聡い方で。

「こちらなどは如何ですか」

アニジャさまが棚の中から、銀細工の施された小瓶を引き抜く。
その香水なら、知っている。以前アニジャさまに教えていただいた、
バニラがそのベースとなっている甘さの強調された香りのもの。
その香りをハンカチーフに染み込ませ、アニジャさまがミセリの前でそれを振る。

「ああ確かに、これは良い香りです」

陶酔したような表情で、ミセリがつぶやいた。当然だろう。
だってこれは、アニジャさまの調じられた香水なのだから。
その素敵な香りに参ってしまわない者など、いるはずがない。
表に出さぬまま、私は密かに胸を張る。けれどミセリは陶酔から覚めた途端、
信じられないことを言い放つ。

「しかしこれは、少々魅惑的に過ぎるのでは? これではまるで、男を誘う娼婦のようだ」

あなたに香りの何が判るのか。憤りを覚えつつ、だけれど私は何も言えず。

63名無しさん:2022/08/13(土) 18:59:07 ID:jQ0Pr1J.0
「そういえばご存知ですか。つい先日、不義密通の罪で裁きを受けた男女の話を」

「寡聞にして」

他のものをと指示しつつ、ミセリは自分の話を勝手に続ける。

「貴族の男と街の娘が、逢引していたのですよ。それもはしたないことに、
 夫を持つ女の方から誘いをかけたのだと。それが顕になったという話です。
 女の方は両の目を潰し両の手の親指と小指を切り落とした上で街から追放され、
 男の方は教会からの破門と家名の剥奪を受けたそうです。
 この話をアニジャさん、あなたはどう思われますか」

「秩序のためには仕方のない処置であったのではないかと」

「ボクは手ぬるいと感じましたね」

ミセリがちらりとこちらを見た――気がした。

「神の掟にも反したこともありますがそれ以上に、
 人としての倫理に悖るとボクは思うのです」

彼の弁舌は留まることなく、加熱していく一方で。

「人は一途であるべきなのですよ。だってそうでしょう、
 ボクたちは崇高な魂を有した人間です。唾棄すべき畜生として生まれた訳ではない」

それはまるで通り一遍の世間話を越えた、
何らかの訓告を示しているかのようですらあって。

「自ら畜生へ堕ちた者に、人間的な扱いなど不要。そのような堕落した存在には
 野山の獣や海の魚に等しい扱いをするべきであると――
 アニジャさん、あなたはそうは思いませんか?」

「仰る通りかと」

「ああよかった、あなたが道理を理解されている方で。ねえ姉上」

警告のようで。

「ねえ?」

64名無しさん:2022/08/13(土) 18:59:35 ID:jQ0Pr1J.0
「私」

その場で、立ち上がっていた。

「私、外へ……」

「どうされました姉上。お加減でも?」

「いえ、いえ……なんでもありません。少し、外の空気を吸いたく……」

「では、ボクもご一緒に」

「大丈夫です。ミセリさまには、私に合った香水を、選んで頂ければ――」

返事も聞かず、私の足は動き出していた。不審に思われたかもしれない。
それでも、逃げる他なかった。この場に居続ける胆力など、私にはない。
考えすぎなのだろうか。それともミセリは知っているのだろうか。

知っていて、敢えて泳がせている? けれどなんのために? 理由など思いつかない。
ならやはり、私の考え過ぎか。けれどあの話は、あの男女の話は、
あまりにも私へと向けられたもの過ぎていて。

65名無しさん:2022/08/13(土) 19:00:40 ID:jQ0Pr1J.0
「……ふぅ」

陽の落ちかけた外の空気は存外に涼しく、熱する額をいささか冷やしてくれた。
やはり私の気にし過ぎだろう。ミセリならきっと私の行動を知った瞬間、
外出の禁止を命じてくるはずだ。貴族的な男というのは、みなそういうものだった。
怪しんでいるくらいのことはあるかもしれないが、発覚したわけでは、きっとない。

もしかしたらもう、ここへ来ることはむつかしくなるかもしれない。
ミセリの目が光ればすぐにも、私の小さな自由など消えてなくなるのだから。
部屋から出られぬよう軟禁されるか、父の下へと送り返されるか。
いずれにせよ、いままでのようにはいかなくなる。

それに、そうだ。アニジャさまにだって迷惑がかかるかも。
浮かれた頭では思いもしなかったけれど、私の行動は私だけの責任に留まらないのだ。
私が表に引きずり出されれば、アニジャさまにも好奇は向く。
それでは済まず、神の下での審判を受けることすらありえるやも。

もちろん、私とアニジャさまの間に邪なつながりなど存在しない。それは断じて、神に誓って。
けれどその訴えが、どこまで通じるものか。ミセリはどこまで、追求するか。

想いを断ち切る、時なのかも。

66名無しさん:2022/08/13(土) 19:01:15 ID:jQ0Pr1J.0
「すみません、あなた」

「え?」

気づけば目の前に、女性がいた。妙齢の、私と同じくらいの年頃の女性。
艶やかな肌に、切りそろえられた髪。女の私から見ても可愛らしいと思うような人。

「これを、アニジャさまに」

可愛らしいその女性は仄かに頬を朱に染め、押し付けるように何かを私に手渡し、
そうしてあっという間に走り去っていってしまった。なんだったのだろう。
それに、彼女は誰だったのだろう。どこかで見たような気もするけれど、
はっきりとは思い出せない。走り去り、間もなくその姿を隠した彼女を見届けた私は、
押し付けられた何かに視線を移す。

それは、手紙だった。
畏まった装飾の施された立派な手紙ではなく、薄い桃色に縁取られた差出人と同じく
可愛らしさがその表に現れている手紙。それを見て私は、直感する。


恋文。

.

67名無しさん:2022/08/13(土) 19:02:05 ID:jQ0Pr1J.0
……ああ私は、いったい何を考えているのか。許されるはずがない。
そんなこと、決して許されはずがない。そんなことをすれば先の彼女にも、
アニジャさまにも申し訳が立たない。手紙の中を、改めようだなんて。
そんなことをする権利は誰にも、神にも許されてはいないというのに。

ああしかし、けれどもしかし、私の指は理性とは裏腹に、
封の閉じたこの愛らしい手紙をかりりと掻いて。どうこうするつもりは毛頭ない。
破り捨てるだなんて、そんな姑息な真似はしない。
そんなつもりは本当に、どこにもまったく存在しない。

ただ指が、震える指が、蝋の封をかりかり掻いて。私には関係のないこと――
関係ないことのはずなのに、私はもう、彼から離れるべきなのに、なのに私は止まらない。
かりかりと、かりかりかりと、中身を掘ろうとうごめいて。

だってあなた、私は諦めなければいけないのよ?

封が、開いた。

68名無しさん:2022/08/13(土) 19:02:44 ID:jQ0Pr1J.0
「え」

思わず、声が漏れた。そこに書かれていた、短い文章が目に飛び込んで。
店の中を覗き見る。中ではまだ、ミセリがアニジャさまと話を続けていた。
アニジャさまは変わりなく、紳士に微笑を浮かべていた。
真意の読めぬその顔で、紳士に微笑を浮かべていた。


.

69名無しさん:2022/08/13(土) 19:04:09 ID:jQ0Pr1J.0
     ―― TroiS ――



「またお会いしましたね」

「はい?」

とつぜん声をかけられたことに訝しんだのか、
箒を携えたシスターが困惑したように眉根を寄せる。
私は彼女の警戒を解くよう努めて穏やかに、
「礼拝の作法をお教えいただいた者です」と説明する。

シスターは少し逡巡した様子を見せ、小首を傾げると同時に
綺麗に切りそろえた前髪をさらりと揺らした。
そうして彼女は得心いったのか、長いまつげをぱぁっと開く。

「あの時の御婦人ですね、大変な事件の。如何ですか、あれから大事ありませんか?」

「ええ、お陰様で」

「それはよかったです。きっと神の思し召しですね」

笑みを咲かせた彼女の顔は、彼女本来の魅力を存分に照らし。
美人というよりは可愛らしいといった容貌の、
女性から見ても愛おしさを覚えてしまうような、その。間違いなかった。
あの時は服装が違うせいですぐには気が付かなかったけれど、彼女だ。
眼の前のこのシスターが、そうだ。

70名無しさん:2022/08/13(土) 19:04:40 ID:jQ0Pr1J.0
「本日はどうされました? 再び礼拝に?」

「いいえシスター。私の用は、あなたに」

「私に?」

「シスター。アニジャさまのお店へは、何用で来られたのですか?」

「アニジャさま?」

「はい、アニジャさまの」

繰り返して、私は問う。問われてシスターはまた再び、考え込む姿勢を取った。
切りそろえられた前髪が揺れる。彼女の答えが返ってくるのを、私は待つ。

「すみません、私にはなんのことか……」

本心から申し訳無さそうに、彼女はいう。無条件で信じたくなるような表情。
少なくとも、うそをついているような匂いはしない。けれど――。

71名無しさん:2022/08/13(土) 19:05:17 ID:jQ0Pr1J.0
「いえ、こちらこそ申し訳ありません。人違いだったようです」

「そう、なのですか?」

「本当に、失礼いたしました」

「そんなことは。何かあればまた、いつでもお声掛けください」

「ありがとうございます」

「はい、では私はこれで」

恭しく会釈をしたシスターが背を向け、手放していた箒を持って、講堂を離れようとする。
その背中に向かって、私は再び声をかけた。

「はい?」

彼女の手にした箒が転がり、講堂に響き渡る。
あの朗らかで愛らしい表情はその顔から消え失せ、目は焦点が合わず、
その口は力なく開かれている。私の仕業によって。私が手にするこの香水によって。
アニジャさまから譲られた、“人の意識を奪う香水”によって。

72名無しさん:2022/08/13(土) 19:05:54 ID:jQ0Pr1J.0
「シスター、聞こえますか。私の声が聞こえますか、シスター」

「……はい」

ワンテンポ遅れて、シスターが返事をする。
あの時のあの男――私を人質に取った、あの男のように。

「私の問いに答えて頂けますか、シスター」

「……はい」

抑揚のない答えが返ってくる。本当に、成功してしまった。
アニジャさまが行ったようにすれば成功するはずだと思ってはいたが、
本当にうまくいってしまった。香水に、アニジャさまの作られる魔法のような香水の力に、
いまさらながら恐れを抱く。けれどいまは、臆して怯む時ではない。

「あの手紙を書いたのは、あなたですか」

「……手紙?」

「アニジャさまに渡してほしいと、あなたが持ってきた手紙です」

「よく覚えて……いません。私ではないと……思います」

「確かですか」

「…………うぅ」

73名無しさん:2022/08/13(土) 19:06:48 ID:jQ0Pr1J.0
シスターがうめき声を上げる。苦しそうに。大丈夫だろうか。
彼女の心は、きちんと正気にもどるのだろうか。不安が増す。
すべて自分の勘違いなのではないかと、自責の想いが芽を出し始める。
――いや違う、きっと聞き方が悪かっただけ。聞き方を変えれば、きっと。

「質問を変えますシスター。あなたはなぜ、あの手紙を渡そうとしたのですか」

「……知らない、知りません。私じゃありません……う、うぅ」

「いいえ、あれはあなたでした。間違いなくあなたです。シスター、よく思い出して」

「うぅ……判らない、知らない……うう」

ついには頭を抑えてシスターは、その場にうずくまってしまった。
どうして、なぜこうなってしまう。アニジャさまの時はもっと素直に言うことを聞いていた。
何がいけないのか、何かが足りていないのか。彼女ではないのか?
あの手紙を書いて、渡してきたのは、彼女じゃなかったのか――?

そこまで考えて、閃く。あの場に来たのはこのシスターだ。それは間違いない、
そこを疑う訳にはいかない。けれどもし、もしそれが、
彼女の意思による行いでなかったとしたら――?

74名無しさん:2022/08/13(土) 19:07:43 ID:jQ0Pr1J.0
「もしかしてあなたは、あれを渡すよう誰かに頼まれたのではないですか」

「……頼まれた?」

「そうです。あなたが書いたものではない手紙を、誰か別の……
あなたのよく知る人に頼まれて持ってきたのではありませんか」

「…………そう、そうです。そうです、そうですそうです。
 私頼まれた、頼まれました。私頼まれたんです、頼まれたんだ」

興奮した様子でシスターは、私は頼まれたのだと繰り返している。
正解だ。やはり私の考えは間違っていなかった。あの手紙は間違いなく、
強固な意図を持ってアニジャさまの下へと送られたものだったのだ。
“アニジャさまの謎につながる、絶対的な一事”なのだ。私の直感を、裏付ける。
だから私は、更に踏み込む。もう一歩、もう一歩先へ。私は――。

「では、シスター」

核心へと、一歩を。

「それは、誰に」

「う、ぁ……それは、う、うぅぅ」

一歩を。

「シスター、答えて」

「ぅぅぅぅ…………」

「シスター」

「ぅぅぅぅぅぅぅぅ……………………」

「シスター!」
.

75名無しさん:2022/08/13(土) 19:08:13 ID:jQ0Pr1J.0


「……………………ワカッテマス、さま」

.

76名無しさん:2022/08/13(土) 19:08:49 ID:jQ0Pr1J.0
「何事ですか」

講堂の入り口から、よく通る声が響き渡った。
ぴたりと寄り添う二人の配下を引き連れて、後光とともに現れたその人物は――。

「ワカッテマス……司教、猊下」

「御婦人、声を荒らげていたのはあなたか。いったい何事か」

私のすぐ側には投げ出された箒と、うつろな瞳で天井を見上げるシスター。
これは、どう答えれば良いのだろう。真実をそのまま答えるわけには、当然いかない。
私の行いは、誰に知られるわけにもいかないものだ。特に――この男には。

ワカッテマス。手がかりにつながる、男。

「……司教猊下。その……彼女が急に、倒れられて」

「シスターが?」

ワカッテマスが厳かにこちらへと近づき、シスターの前に座る。
ごつごつと節くれだった指が、意識の朦朧としたシスターを検分する。
まぶたを開き、瞳孔を覗き込む。心臓が、早鐘を打つ。気づかれるはずがない、
気づかれるはずが。自分にとって都合の良い展開を、心の中で祈り通す。

77名無しさん:2022/08/13(土) 19:09:23 ID:jQ0Pr1J.0
「ハインツ、彼女を医務室へ。頭は揺らさぬように」

私の祈りは、どうやら何かに通じたようで。
部下へと指示を送ったワカッテマスはシスターから離れ、
成り行きを見守るように一歩外へと退いた。助かった。安堵がにじむ。
けれどそれでも心臓は、未だ収まる様子を見せず。
私は「では」と言い残し、足早にその場を去ろうとして――。

「待ちなさい」

呼び止められた。ワカッテマス、その人に。

「確かトソン……と言いましたね、トソン女史と」

私は答えず、ただ首肯によって肯定する。

「トソン女史、貴方には伺いたいことがある。付き合って頂きます」


.

78名無しさん:2022/08/13(土) 19:10:18 ID:jQ0Pr1J.0



「甘いものはお嫌いか」

「いえ、けしてそのような……」

「私は好きです。むしろ甘いもの以外、この世に不要だとさえ思っている」

眼の前の光景を眺めながら、それは確かに本心なのだろうと納得する。
ここは彼、『オドレウム』管区教会の長であるワカッテマス司教の執務室。
厳しい彼の様子に相応しく一片の隙も感じられない室内は
強迫的なまでに整頓されており、主の神経質な性向を一層際立たせている。

ただこの卓上が、彼と囲んでいるこの卓の上だけが部屋の雰囲気にそぐわない、
異様な空間となっていた。そこには婦女子の好みそうな色とりどりの洋菓子が、
所狭しと並べられていて。それら色とりどりの洋菓子が次々と、
この両の目を飛び出させた厳格な司教の胃袋へと収められていく。
それはもう、嵐のような勢いで。

「甘いものを食べると癒やされるのです。私の仕事は神経を使いますから」

「そうなの、ですか」

「貴方も、お嫌いでないのなら」

何を聞かれるのかと緊張して入った室内でのこの対応に、私はすっかり意表を突かれ。
彼のペースに乗せられて、切り分けられたショコラケーキに口をつける。
仄かな苦味と、とろけるような甘み。癒されるというのも、判る気がする。

79名無しさん:2022/08/13(土) 19:11:07 ID:jQ0Pr1J.0
「猊下、それで私に話とは……?」

「先日、配下の者から報告を受けました」

洋菓子へと伸ばす手はそのままに、私たちは話を続ける。

「貴方とあの若者が、多くの店を不当に貸し切っていたと」

「ああ、それは」

ミセリが行ったあの、私を着せ替え人形とした。

「貴方方の土地ではどうか知らないが、ここは『オドレウム』。ここにはここの法があるのです。
 あのような利己的な行い、どうか謹んで頂きたい」

厳しさを感じさせる彼の物言いとは裏腹に、
その口にはカラフルなマカロンが三個同時に放り込まれて。

「それに聞いたところによれば、貴方とあの男とはずいぶんと親しげな様子であったとか。
 貴方は既に婚約を控えた身でしょう。いくら義理の弟が相手とは言え
 そのように隙のある態度、如何なものか」

「猊下、しかし私はそのような――」

「私は風紀の話をしているのです。『オドレウム』の民に
 悪影響があってからでは遅いのですから。それとも――」

80名無しさん:2022/08/13(土) 19:11:44 ID:jQ0Pr1J.0
垂直に立てられた銀のフォークが、硬いタルトを押しつぶし。

「まさかとは思いますが、彼に特別な感情でも?」

砕き割り。

「いえ、いえ、そのような。そのようなことは、ありませんが――」

「ありませんが?」

「ミセリの方は、もしかしたら――」

少しずつ啄んでいたショコラケーキの最後の切れ端へとフォークを突き刺し、
はたと気づく。このようなことまで、なぜ話して。

「いえ、猊下。どうかお忘れください。私の口から漏らすことではありませんでした」

「いいでしょう。一聖職者として、いまの言葉は私一人の胸に秘めておくこととします」

「痛み入ります」

卓上の洋菓子を一人であらかた片付けようやく満足したのか司教は、
几帳面そうにナプキンで口の汚れを拭っている。

「しかし猊下。なぜこの話、ミセリにではなく私に?」

「あの男とは顔を合わせたくありません」

そして司教は側に仕えた従者を呼び、何事か耳打ちを始めた。
畏まった様子で会釈した従者が、無駄のない動きで部屋から出ていく。

81名無しさん:2022/08/13(土) 19:12:25 ID:jQ0Pr1J.0
「忌々しい若造が……事もあろうにこの私に疑いの目を向けるなど」

「それは、私を人質に取った男が叫んでいたようなことを、でしょうか」

『娘を返せ』。そう叫んでいた、あの男の。
しかし私がそう言うと、ワカッテマスはその飛び出た目でぎょろりと私を睨みつけて。

「あのような世迷い言に耳を貸しては、品位を落としますよ。貴方も、貴方の家の名も」

「いえ、そのような。もちろん信じているわけでは」

「当然です」

廊下から、扉を叩く音が聞こえてきた。司教の合図によって、扉が開く。
そこにいたのは、先程部屋から出ていった従者のようだった。
従者は恭しい様子で私達の前に立ち、熱い湯気の立つティーカップを並べる。
どうやらワカッテマスは、これを淹れるよう従者に指示したらしい。

「どうぞ」と促す司教の言葉に従い、置かれたそれを私は手に取る。口をつける前に、その香りを嗅ぐ。

緊張が、走った。

82名無しさん:2022/08/13(土) 19:13:29 ID:jQ0Pr1J.0
「猊下、この香り」

ワカッテマスが、その飛び出た目で私を観察している。

「この香りは、講堂のものと同じ?」

努めて冷静に、問いかける。

「鋭敏な嗅覚をお持ちのようですな」

「心地良く感じられて。鼻が覚えていたのです」

口をつける。口をつけて、カップを少し傾ける。それだけ。飲みはしない。
飲んでいるように見せかけて、そうして「おいしゅうございます」と、カップを下ろす。
かちんと受け皿が、硬い音を立てる。

「ワカッテマスさま、ひとつだけお聞きしても宜しいでしょうか」

ワカッテマスは、自身の前に置かれた紅茶に口をつけなかった。
じっと私を見つめ、口につける素振りすら見せなかった。
そこに含まれているものがなんであるのか、そして私の身にどのような現象が
起こるのか知っているかのように、じっと、じっと。

83名無しさん:2022/08/13(土) 19:14:20 ID:jQ0Pr1J.0
「アニジャという――調香師の方をご存知ですか?」

「さあ、まったく」

うそだ。

彼の下で働いてきた私には断言できる。
講堂の――そしてこの紅茶に含まれている香りは、
アニジャさまの香水とそのベースを同じくしている。“人の意識を操る、その匂い”が。

『今回は一〇と三ほど確保した。そちらは幾つほど入用か』

アニジャさまへと届けられるはずだった手紙の、その文言。娘を失った男。
ギャシャという少年。同一性。香水。香りの、記憶。

私の中でつながった点と点が、急速に答えを導き出していく。
ワカッテマスが、そしてアニジャさまが何を行っているのか――
彼が本当は、何を目的としているのか。

「今日はごちそうさまでございました。叱責頂いたことはミセリにも必ず伝えますので」

一刻も早く確かめなければならなかった。
彼の行いを、彼の正体を、私は知らねばならなかった。
アニジャさまを私は、知らなければならなかった。

アニジャさまを知り、そして私は――。


.

84名無しさん:2022/08/13(土) 19:15:28 ID:jQ0Pr1J.0
     ―― ※ ――



あなたと出会った時。私は自分でも理解のできない感情に突き動かされて、あなたを求めた。
燃え上がった感情は制御を無くし、けれど不安定で、故にたやすくぽきりと折れた。
何をどうしたものかまるで判らずただやみくもに、行き当たりばったりに
その時その時の衝動へと身を任せた。迫りくる初めての連続。
圧殺する情報に翻弄されたその迷妄が、結果的に願いに対する私の瞳を盲目にしたのだ。

けれど、いまは違う。

私はいま、正しく私の求めを理解している。
何を求め、そしてその求めを満たすために何を行えばよいのか、そのすべてを理解している。
答えはすべて匂いにあったのだ。あの時の匂いに。胸に差された緑の一輪。彼の胸にて、嗅いだ匂い。
偽らざるその、彼の匂い。何より雄弁に主を語る、匂いの記憶と、その感情。

「行ってらっしゃいませ、アニジャさま」

迷いはなかった。今度はためらわなかった。かつんかつんと響き渡る、私の足音。
それは誰のものでもない、私の足音。恐怖心と後ろめたさが生み出した、
空想上の追跡者などでは決してない。だから私は歩みを進める。工房の奥の、その奥へ。
彼の弟が遁されているという、鋼鉄の扉がその奥に。

85名無しさん:2022/08/13(土) 19:16:26 ID:jQ0Pr1J.0
扉は以前より遥かに軽く、私の細腕でも容易に開けた。
そして私はそのままに、振り返ることなく歩を進める。雰囲気は、手前の工房と変わりなかった。
香水を封じるための瓶に、既に抽出された精油の原液。見たことのない、大仰な機械も存在した。
だがしかし――いや、やはりというべきか。やはり私の考えは当たっていた。

そしてやはり、私の思った通り――ここには誰も、いなかった。

「これは……」

人が日常を暮らす気配など微塵も存在しないその場所を、私は順に検分していく。
そして目についたのが、この区画。棚にずらりと並べられた、同型同色の香水瓶。
それぞれ瓶の下には番号が振られ、左上から右下に掛け、連続して番号が大きくなっている。
そしてそれらはまだ途上であるのか、棚にはまだまだ空いたスペースが用意されていた。

一番番号の大きな瓶を、私は手に取る。瓶に刻印された文様。
中の液体の色に透け、その存在感を浮き立たせたそれ。

緑色の、薔薇一輪。

86名無しさん:2022/08/13(土) 19:17:32 ID:jQ0Pr1J.0
これだと私は確信する。これが私の探していたものだと。握りしめて、店を出る。
次に行く先は決まっている。工房の奥の、その奥の。弟君が眠るという、秘密のその部屋。
そこには誰もいなかった。けれどアニジャさまは、“うそをついてはいなかった”。
『弟は私と一緒に暮らしている』。彼は確かにそう言った。そう言っていたのだから。

「あまりおすすめはしませんがねぇ……」

馬車を走らせてからも御者は頻りに文句を漏らしていた。
私のような女性が一人で向かうところではないと。私を心配しているかのような
言い方をしていたが、どちらかといえば本人が気乗りしていない様子に思えた。
あんな貧民の住まう区画、何を好き好んでいくことがあるのかと。私には、行く理由があった。

アニジャさまと赴いた、いまにも倒壊するのではと危ぶみたくなる家屋。
サダコという女性が家主であった、あの。腐臭漂うあの場所にいま、私はこうして立っている。
傾き隙間を生み、扉としての用を半ば放棄仕掛けている扉を叩く。返事はない。もう一度叩く。
動く気配を感じない。扉を押した。抵抗なく開いた。

足を踏み入れる。ぎぃぎぃと心もとない軋音が、足元で響く。
私はためらわず奥へ、彼のいる部屋へと向かう。果たして彼は、そこにいた。
眠ったように、死んだように椅子に座り続けるその少年――ギャシャ。
同一性を喪った、存在の不確かな生命。

87名無しさん:2022/08/13(土) 19:18:03 ID:jQ0Pr1J.0
「あなたは」

語りかける。当然、返事はない。
いまの彼に、意識はないのだから。
故に私は、準備する。彼の声を聞くための。
アニジャさまがそうしたように、ハンカチーフに匂いを込めて。

「教えてください、小さなあなた」

秘密の部屋から持ち出した。

「薔薇の小瓶に封された」

緑の薔薇の刻印されし。

「あなたの真のお名前を」

彼の“創った”香水を。

「さああなた、どうか応えて――」

記憶<同一性>を――。

.

88名無しさん:2022/08/13(土) 19:18:28 ID:jQ0Pr1J.0



「――――オトジャ」


.

89名無しさん:2022/08/13(土) 19:19:16 ID:jQ0Pr1J.0
     ―― ※ ――



「なにをされてるんですか!」

……怒鳴り声。女の。線の細い。

「あなた……あなた! なんなんですか!
 勝手に入って! 勝手に私の場所に!」

女が女につかみかかる。歪んだ視界。二つの影が混じり合って、境界も曖昧に。
その見た目からはそれが何の誰であるのか判別できない。判らない。だが、そう。これは。

「私はこの子を守らなきゃいけないの! なのにどうして、どうして奪おうとするの!
 渡さない、この子は誰にも渡さない!」

サダコ……そう、この匂いは、サダコ。ギャシャという存在に執着し、拘泥し、
人生を捧げてきた女。オレを守ることだけを拠り所としてきた女――いや、それはオレだろうか。
いまのオレと、連続していたものだろうか。頭がはっきりしない。
オレはオレなのか、ボクなのか、あるいはワタシであるのか。それすら未だ、判然としない。

90名無しさん:2022/08/13(土) 19:19:54 ID:jQ0Pr1J.0
「……サダコさまと、おっしゃいましたね」

組み敷かれたもうひとつの小さな影が、ゆっくりと身を動かした。

「あなたはなぜ、その子を守ろうとするのですか?」

小さかった影が屹立し、その実像を顕とする。

「自分の子を守ろうとして何がおかしいと!」

「彼は本当に、あなたの子ですか?」

影が巨大化していく。

「あなたのその気持ちは本当に、あなたから生じたものですか?」

攻めていたはずのサダコの影がむしろ、呑み込まれていく。

「あなたからは、異なる幾つもの匂いが漂っています」

暴力的なほどに純粋で圧倒的な匂いに、サダコの匂いが呑み込まれていく。

「サダコさま――あなたは本当に、サダコさまですか?」

91名無しさん:2022/08/13(土) 19:20:43 ID:jQ0Pr1J.0
女達が二人、他所を向いた。
破裂音。馬のいななき。男の悲鳴。野蛮な匂い、血の匂い。幾つもの、幾つもの。

「なに――」

それは外から訪れた。朽ちた扉を蹴り破り、野蛮な匂いが家の中へと入ってきた。
オレと彼女たちのいるこの部屋へと入ってきた。

「や――」

破裂音。先程のものと、同じ。同時、サダコが吹き飛んだ。
生暖かな鮮血を、砕けた肩から巻き散らかして。

「バカてめぇ、なにしてんだ!」

「うるせえ! 騒がれると面倒だろうが!」

男たちが罵り合う。その手に携えた無機質な装備――ライフル銃の先端から、
熱の靄を上げながら。サダコがうめき声を上げて、這いずりながら逃げようとする。
男の一人が、蹴り上げた。うずくまったサダコから、更に多量の血が流れ出した。

92名無しさん:2022/08/13(土) 19:21:48 ID:jQ0Pr1J.0
「おいどうすんだよ、死んだらまずいんじゃねえのか」

「いや、問題ねえ。捕まえんのはこっちの女だ」

男が女を捕まえる。女が抵抗する。頬を張られた。女の抵抗が止む。
人形のように――“モノ”のように、生命らしさが喪われる。
何も言わずに引きずられるまま、連れ去られようとする。

オレはただその光景を、椅子に座って見続けていた。
元より身体はまともに動かず、不完全な香水では意識の保持もままならない。
間もなくオレ――いやボクか、ワタシか――の時間は停止するだろう。
そうすればそこで何が起ころうと、知覚することすらオレにはできない。助けるも何も、ない。

だがオレは、何も心配などしていなかった。既に嗅ぎ取っていたから。
この家を包囲する、武装した集団の匂いを。眼の前の野蛮な男たちなどとは
比較にならない暴力性の塊である、その匂いを。それに――それにだって、そうだろう。
彼女は“あいつ”と関わった。それは即ち、彼女が必要だから。
ここで彼女を喪うことなど、“あいつ”は絶対に許さない。絶対に。

なあアニジャ、そうだろう?

そうしてオレは、眠りに落ちる。予感を抱いて。
次に目覚める時こそ正しくオレは、“オレ”に生まれているであろうという予感を抱いて――。


.

93名無しさん:2022/08/13(土) 19:22:30 ID:jQ0Pr1J.0
     ―― ※ ――



「ち、違う、俺たちはただ、金で雇われただけで……」

「へー、そうなんですかー。それで、あなたがたを雇ったのはどこのどなたなんですかー?」

「し、知らねえ……いや、知らない、知りません、何も知らないんです。
 仲介が、たくさんあって。直接話したやつも、素性も居場所も判らなくて……」

「へー」

「ほ、本当です、本当なんです! 何でもします、靴だってお舐めします。
 だからお願いです、お願い……」

「ふーん」

「殺さないで……」

「いいですよ」

「……え?」

「だから、いいって言ったんですよ」

「え、だって?」

「なに、死にたいの?」

「い、いいえ、いいえ!」

「ならさっさと逃げた方がいいですよ。ボクの気持ちの変わらないうちにね」

「は、はい! ありがとうございます、ありがとうございます!」

「あのですねえ、ボクはさっさと逃げた方がいいって言ったんですよ。
 そんな悠長な真似してる余裕、あるのかなあ」

「は、はぃ!!」

94名無しさん:2022/08/13(土) 19:23:51 ID:jQ0Pr1J.0
「まったく、みっともないったらありませんね。
 優位に立ってる時だけ居丈高で、ちょっと脅されたらすぐにあれですもん」

「……」

「それにしても……ふふ、すごい逃げ足。あんなに必死になっちゃって」

「……」

「あんな姿を見たら……ねえ?」

「……」

「気が変わってもおかしくないですよね?」

「……」

「見てください、ちゃんと狙った場所に当たりましたよ。案外いい銃を使ってるなー、
 あいつら。これも依頼主とやらから支給されたのかな」

「……」

95名無しさん:2022/08/13(土) 19:24:27 ID:jQ0Pr1J.0
「あ、あいつまだ立ちますよ。タフですねー。それじゃあ次は、どこを撃ちますか」

「……」

「ふふ、どうですか。また右足。わざと同じ場所にしてみました。これでどうかな。あいつ、まだ逃げるかな?」

「……」

「すごい、まだ動いてます。下等な生き物ほど生命力に優れているって、
 本当かもしれませんね。それじゃあこれで……どうだ!」

「……」

「あはは、見てください! 足が千切れました、ぽーんって飛んでいきましたよ!」

「……」

「さすがにもう、走れないみたいですね。でも念のため、左足も撃っておきましょうか」

「……」

「ついでですから、両腕もやっちゃいますか。……あ、失敗した。
 くそー、まだ死なせるつもりはなかったのに」

「……」

「すみません、本当はもっと長くいたぶるつもりだったんですが。
 でも、どうですか。少しは気も晴れましたか?」

「……」

「ね、姉上?」

96名無しさん:2022/08/13(土) 19:25:10 ID:jQ0Pr1J.0
ミセリが笑う。鮮血に濡れた顔を歪ませて。その周りには死体の山。私達を襲った暴漢の、
その成れの果て。彼らの中でも、すぐに絶命した者はまだしも運が良かった。
身体の各所が欠損した複数の遺体。これらは死んでから生じたもの――ではない。
生きたままに付けられた、あるいは奪われた傷だ。
この、女の子のような顔をした青年の手によって。

「ああ姉上、お可哀そうに。返事もままならぬほどに恐ろしかったのですね。
 けれど大丈夫ですよ姉上、ミセリがここにおります。あなたのミセリがここにいます」

ミセリが私を抱きしめる。彼自身の匂いと血の混じった匂いが
鼻の奥へと滑り込み、頭がくらくらとする。身体が硬直する。

「どうして」

気圧される。

「どうしてここに……?」

「なんだそんなこと。簡単ですよ、姉上」

取り囲む男たちの空気に、気圧される。

「監視させていたからです。朝も、昼も、夕も、夜も。
 ボクは姉上のことを監視していました」

97名無しさん:2022/08/13(土) 19:25:50 ID:jQ0Pr1J.0
ミセリが私的に従える、彼直属の部下たちの空気に。

「いつ、から」

「もちろん、姉上がこの街に来たその日からですよ。
 ああだからもちろん、姉上があの香水屋の男の下へ通っていたことも
 知っています。当然知っています」

その空気は決して、私に対し友好的なものではなく。

「ふふふ……笑いを堪えるのには苦労しました。
 だって姉上ってば、あんなにうろたえてしまうのですから。
 覚えていますか、ボクがあの店で語った男女のお話」

「不義を、犯した……」

「その通り!」

疑いようもなく、私は肌で感じ取る。
彼らは私の味方ではない。これは――。

「だから姉上、もうおわかりですね?」

私に現実<運命>を突きつけるための――。

「あなたがどれだけ足掻こうと、あなたは『モラリアム』の“モノ”なんですよ」


 
ああ姉上……あなたにはやはり、その目こそが相応しい。


.

98名無しさん:2022/08/13(土) 19:26:49 ID:jQ0Pr1J.0



部屋が、変わった。この『オドレウム』における私の宿が、別の場所へと変えられた。
そこはこじんまりとしているものの綺麗に片付けられ、掃除も行き届いており、空気も涼やか。
上方に小さく開いた窓からは、空に輝く星々を見上げることもできた。
頑丈な作りで、外敵の侵入を拒み、うちに住む者を固く守ってくれる安心感を備えていた。

そこは、小さな部屋だった。
使われなくなって久しい、人気のない地下牢だった。

父からの手紙が届いた。ただでさえ悪筆な父の文章が興奮そのままに、
解読困難な程度で乱れていた。そこには歓びがしたためられていた。
モララー卿を口説き落としたと。卿はマタンキの行方を諦め、私を嫁として
迎え入れることを決められたと。ミセリの嫁にすると決められたと。
手紙には、そう書かれていた。

私の滞在期間は、大幅に短縮される運びとなった。
三日後の帰郷が、決定された。


.

99名無しさん:2022/08/13(土) 19:27:56 ID:jQ0Pr1J.0
     ―― QuatrE ――



生命が、宿ったんです。私のお腹に。
相手との間に愛はなかったけれど、けれどもこのお腹の子には愛を抱いて。
こんにちはの日を心待ちに、楽しみに、楽しみに、待っていたんです。
その子は、生まれてきてはくれませんでした。生命を保つことなく、流れてしまいました。

想像できますか、想像できないでしょうね。だってあなたは男の人。
この悲しみは女にしか判りません。判られて堪るものですか、あなたたちなんかに。
私がどれだけ悲しみに打ちひしがれ、いっそのこと生命を立てば解放されると
死に希望を見出し、枯れた木の下で首をくくろうとし、そして――
あの子との出会いが、私をどれだけ救ってくれたか。

愛らしくも弱々しい赤ん坊。小さくか細いその泣き声は、木の下の更に下、
土の中から聞こえてきました。はじめは幻聴かとも思いました。
産んでやることのできなかったあの子が、私を責める声ではないかと。
ああごめんね、ごめんねと、私は狂乱するばかりで、
けれどもどうもその声は、幻というには余りに現実的で。

頭を傾げて、地に耳を付け、その声が本当の声であると、私は確かに理解したのです。
そこからはもう、必死でした。爪が剥げる痛みにも気付かず、必死になってぬかるむ
土を掘り返しました。ただただ一心に、一心にその子を守りたいと――
産みたいと、私は思ったのです。

ギャシャ。愛しい愛しい私の息子。

100名無しさん:2022/08/13(土) 19:29:11 ID:jQ0Pr1J.0
むつかしいことは判りません。およそ学術というものに、私は縁がありませんでしたから。
ただお医者さまが言うにはギャシャは、まともに育つことができないということでした。
脳の一部が麻痺し、正常な思考能力が働かないのだと。乳児期に呼吸困難へ陥るなど、
著しく酸素が欠乏した場合に起こりうる現象であるとお医者さまは説明されていました。

お医者さまが説明された通りギャシャは言葉を覚えることもなく、
どころか成長するに従って奇妙に静止することが増え、
そしてその時間は日増しに長くなっていきました。どうにかしなければなりませんでした。
けれど、どうしようもありませんでした。私は無学で、裕福な家の生まれでもなく、
お医者さまも手立てはないとさじを投げられて。

私にできることといえば、神に祈りを捧げるくらいで。
来る日も来る日も教会へと通っては、私は神に祈りを捧げました。
どうかギャシャを、私の息子をお助けください。そのためなら何を喪っても構いません。
私はどうなっても構いません。だからどうか、どうか――。
神は、私の願いを聞き届けてくださいました。

救世主。緑の薔薇を、携えた。

それはまるで、魔法そのものでした。彼の用いた香水。
それによって、もはや眠りこそが恒常となっていたギャシャの目に、
生の光が確かに宿ったのですから。例え一時的なものにせよ、それがどれだけ私の歓びとなったか。

それにあの方は、約束してくださいました。必ず、そう必ず、
永遠の意識をこの子に授けてみせると。私はその言葉を信じました。
疑いだなんて、つゆとも抱きませんでした。だってあの方は、救世主なのだから。

101名無しさん:2022/08/13(土) 19:30:44 ID:jQ0Pr1J.0
そうして私は息子と共に、来るべき永遠の日を待ち続けてきたのです。
あの方の起こす奇跡が、真の永遠となるその日を。一切の疑問を抱くことなく、
その神にも等しき御業を待ち望み続けてきたのです。
それが私の希望であり、生き方であると信じて。

……なのに、なぜ。

あの女が訪れ、あの恐ろしい武器に撃たれ。
私はなぜ、息子を置いて逃げようとしたのでしょう。
息子だけが私の希望、私の愛であったはずなのに。
私はなぜ、ああ私はどうして――どうしてあんなにも息子を愛しいと思っていたのでしょう。
だっておかしいではありませんか。何もかもがでたらめです。

だって私は、“男の人と関係を持ったことすらないんですよ”。

なのにどうして子を宿したなどと、私は思いこんでいたのでしょう。
存在しないはずの腹の子を、どうして流すことなどできましょう。私ではない、誰かの記憶。
だけどそれを覚えているんです。私ではない誰かが男性と関係を持って、
それを私は覚えてるんです我が事として。 ねえいったい、これはどういうことなのでしょう。

あの女は言いました。あなたは本当にサダコですかと。
私はサダコです、サダコのはずです。貧民窟に生まれ、食うや食わずやで生きてきた、
それが私です。あんなに下品に華やかに、男どもへと媚びを売って生きてきたのは私ではない。

ああけれど、どっちが本当の私なの?
真実と思う貧しい暮らしこそ、妄想にまみれたまやかしなの?

102名無しさん:2022/08/13(土) 19:31:20 ID:jQ0Pr1J.0
やめてください、やめてください。
落ち着いています、おかしくなどはありません、私は正気です、正気ですともそうですとも。

そうですそうです、だから私は覚えています。
正気な私は確かにそれを覚えています、しっかとこの頭で覚えています。

私達の子を、私のギャシャを葬ると決め、枯木の下へと埋めたのはあの人です。
あの人、あの人――『オドレウム』の長、ワカッテマスです!



有意義な話をありがとう、サダコさん。
あなたの想いはこのミセリが、決して無駄には致しませんよ。


.

103名無しさん:2022/08/13(土) 19:32:33 ID:jQ0Pr1J.0
     ―― ※ ――



母は美しい人だった。美しく、儚く、そして不自由な人。
常に視線を足元へと落とし、死ぬまでに一度として微笑む姿を見せなかった人。

「また、男児」。ボクを産んだ時、母はそうつぶやいたらしい。
ボクを含めて母の産んだ子はすべて男児で、厳然と存在する性差の常として
母の立場はボクら息子たちよりも明確に下へと置かれていた。

まだ一人で用を足すことのできないボクへも母は、
まるで下女のように畏まった言葉を使い、反発することを忘れてボクらに付き従い続けた。
母の目は、いつも死んだように光を喪っていた。

そんな母を、ボクは愛していた。なぜなら母は、美しかったから。
その光のない瞳が、世界でなにより美しい宝石であったから。だからボクは、母を愛した。

しかし母は、ボクのモノではない。母の所有者はあくまでも父で、
ボクたちは父の息子としてそのおこぼれに預かれていたに過ぎない。
本当の意味で母を自由にできるのは、父しかいなかった。
生かすも、殺すも、飾り立てるも、すべては父の裁量に委ねられていた。
死後、我がモラリアムの墓へと収められた後までも。

104名無しさん:2022/08/13(土) 19:33:50 ID:jQ0Pr1J.0
ボクはいつも求めていた。ボクだけの母を。ボクだけのあの美しき瞳を。
しかし世の女というものは大概が醜く、それは高貴な血を有するはずの
王侯貴族たちですら変わりなく。社交場へと足繁く通おうと、
足を踏み外して庶民の盛り場へと赴こうと、ボクの眼鏡に適う女性はいなかった。
母はどこにもいなかった。

母とは唯一無二の幻であったのかもしれない。ボクはもう既に、諦めかけていた。
母という存在は、この世に二つと無い奇跡であったのだと。奇跡は起こり得ないゆえの
奇跡であり、あの昏き瞬きを目にすることはこの生涯においてもはや二度とないのだと。
ボクはそのように、諦めていた――諦めていたのだ、あの時までは。

姉上。

ボクは運命を、神を呪った。二度とは目にすることの叶わぬ奇跡と断じた存在と、
どうしてこのような形で再会させたのだと。姉上は、ボクに紹介された時にはもう、
姉上となることが決まっていた。どこで見つけたのか兄マタンキが既に、
姉上を自らのモノとする契約を交わしてしまっていたのだ。

この人がボクのモノにならないという現実。
それがボクをどれだけ苦しめ、絶望させたことか。なぜボクではなく兄上なのか、
愚鈍で知恵足らずのマタンキなのか。彼女はボクのモノになるべき人なのに。
彼女の美しさを真に理解できるのは、ボクを置いていないはずなのに。

煩悶し、懊悩し、しかし裁定者である父に歯向かえばボクは家に残ることすらできない。
それは即ち、姉上を覗き見る機会すら喪われるということ。
父のおこぼれによって母を眺めたように、兄のおこぼれによって姉上を眺める。
それだけが唯一、ボクに残された最後の慰安なのだと思われた。
そうではなかった。転機は、すぐに訪れた。

兄マタンキが、失踪した。神は存在したのだ。

105名無しさん:2022/08/13(土) 19:34:51 ID:jQ0Pr1J.0
兄の捜索には、ボク自ら志願した。これはチャンスだった。
兄がこのまま行方をくらまし、その消息を絶つのならばそれもいい。
穏当に、兄上と姉上の婚約解消を打診するまでだ。

しかしもし生きて、その姿を現そうとしたならば――殺してしまえばいいのだ。
誰かに発見されるよりも先に、このボクの手で。そしてボクは、姉上を所有する。
今度こそ、ボクだけのモノにする。ボクだけのモノに。

だからあの男――アニジャという調香師は、非常に目障りな存在だった。
姉上があの男に惹かれていることなど、一目で判った。判らないはずがないのだ。
なぜって、あの目に光が宿っていたのだから。姉上のもっとも美しい箇所が、
邪な光に濁っていたのだから。故に始めは、あの男を排除することも考えた。

けれどボクは、考えを改めることにした。
ボクは、姉上を自由にさせてみることに決めた。

姉上がボクを何とも思っていないことなど、百も承知だ。
しかし、それでいいのだ。そうでなければならないのだ。
あの目に光が宿ることなど、あってはならないのだ。だから、そう。
ボクは姉上のその目が爛々と輝くその日を待った。

爛々と、希望のきらめきでその輝きが最高潮に達したその時――
あなたの希望が叶うことはありえないのだと剥奪する。

手の届きかけた希望を奪われた者の目に、光が宿ることは二度とない。

そうだ。そのとき姉上は――トソンは本当の意味で、ボクの母となるのだ。

106名無しさん:2022/08/13(土) 19:36:09 ID:jQ0Pr1J.0
「――これがボクの望み。どうです、他愛ないものでしょ?
 誰しもが持ちうる美への欲求ですよ」

気のおけない友人と接するように、ボクは彼へと話しかける。
ボクの言葉に、彼が何かを言いたそうにする。

「ああ、待って。もう少し」

彼の言葉を遮って、ボクはベッドへと押し付けた鼻で思い切りその残り香を嗅ぐ。
ここはつい先日まで姉上が使っていた部屋で、これはつい先日まで姉上が
眠っていたベッドだ。あえて掃除をせぬよう言い含めておいたおかげで、
彼女の香りは消えることなく残っている。その染み付いた痕跡を独り占めするように、
肺の中へと吸い入れていく。はあ、姉上……匂いまでもが美しい。

その間も彼は何事かボクへと訴えようとしていて、待ってと命じたのに
言うことを聞かないその声はすこぶる耳障りで。だからボクは部下に命じてもう一度、
彼の指へと金槌を下ろさせる。猿轡をした口の奥から、のどが千切れんばかりの絶叫が轟いた。

「うん、さすがは最上級のスイートだ。防音設備も完璧。安心して叫びましょうか」

どうぞとボクは彼へと促す。けれど彼はふぅふぅと、荒い息を吐くばかりで。
やれやれ、天邪鬼な人だこと。部下に預けた金槌受け取り、彼の頭をこつこつ叩いて。

「それで、なんでしたっけ。そうそう、司教猊下でしたね。
 いやでも、いまさらそんなに畏まることもないかな。ボクとあなたの仲ですもの、
 ワカッテマスでいいですよね。ねえ、ワカッテマス?」

107名無しさん:2022/08/13(土) 19:37:26 ID:jQ0Pr1J.0
これが『オドレウム』の統治者だったなどと信じられないくらいに変貌したワカッテマスが、
それでも両のギョロ目でボクを睨む。憎悪と憤怒に血管が破れてしまいそうな眼力で。

「そんなに嫌な顔しないでくださいよ、傷つくなぁ。
 奥歯まで見せてくれた仲じゃないですか。まあボクのは見せませんけど」

そう言ってボクは、彼に“見せてもらった”奥歯を投げ返す。
拘束された彼は避けることすらできず、額でそれを受け止めた。
額に生じた小さな傷からつつりと細い、朱い筋が垂れていく。

「あのですね、ワカッテマス。ボクはあなたと対立するつもりはなかったんですよ。
 ボクとしては兄が見つからない方がありがたかったし、そういう意味では
 あなたがたに感謝したいくらいだったんです。兄をさらってくれてね。
 ……おや、意外でしたか? 侮りすぎですよ、それくらいの調べは当然ついてます」

放蕩で知られている兄のことだ。どうせいらぬ好奇心を働かせ、
開いてはならぬ箱の底へと首を突っ込んだのだろう。とうの昔に消され、
魚の餌にでもされたものとボクは思っている。ざまあみろ、だ。

「それで、ボクが告発するとでも思ったんですか? とんだ見当違いだ。
 立場上捜索を指揮する振りはしてきたものの、あなたの不利益になることはしないと
 それとなくサインは送ってきたはずなのに。ボクへの猜疑心で、
 あなたのその大きな目は曇ってしまった。挙げ句、よりにもよって姉上を襲うだなんて――」

ボクの姉上を所有しようとした、その罰だ。
どいつもこいつも、ボクの姉上に手を出そうとしたやつは罰を受けるべきなんだ。

「先走りましたね、ワカッテマス。あなたが手を出しさえしなければボクは、
 姉上を連れて穏便に帰るつもりだったんですよ。ボクは愛する人を手にし、
 あなたはここで王様を続けられた。それが最善だったんです。でも、それももう手遅れだ」

だからボクは、決して許さない。ワカッテマス――。


「ボクのモノに手を出して、ただで済むと思うなよ」

.

108名無しさん:2022/08/13(土) 19:38:41 ID:jQ0Pr1J.0
絶叫、金槌を下ろすと同時。持ち上げると血と共に、砕けた彼の爪が付着していた。
その様子を見せつけるように彼の前で振っていると、粘ついた粘液とともに
爪も床へと落ちていった。爪の剥がれた指はひしゃげて人の形を失い、それはもう、
見るも無惨に痛々しかった。なんて可哀想なワカッテマス。
だからボクは、努めてやさしく語りかけてやる。

「ねえワカッテマス。ボクはもう、調べ尽くしてあるんですよ。
 あなたが何のために誘拐なんて行為に手を出していたのかも、
 誘拐された不運な人々がどこへ送られていったのかも」

意思力などでは抗しきれない反射運動によって、
彼の目からは眼球うるおす涙が溢れ続けている。

「聖職者というものは大変ですね。妻帯も許されず、俗と交わることも認められず、
 人を買うなど以ての外。けれど誰もが聖人君子な訳じゃない。
 当然ですよね、人の性は欲だもの」

血の付着した金槌で、右からその涙を拭ってやる。

「許されぬことだと判っていても、自分だけの“モノ”を欲しがる輩はうようよいる。
 さりとて市井の奴隷商など信用ならない。そいつがふと口を滑らした瞬間、
 それは身の破滅を意味するのだから」

金槌の朱と混じった右目の涙は、まるで血涙のような体裁を表して。

「“モノ”は欲しい、けれど信用できる売り手以外と取引する危険も冒したくない。
 ああどこかに、リスクなく望みを叶えてくれる者はいないものか」

その様がなんとも、どうにも不自然に見えて。

109名無しさん:2022/08/13(土) 19:40:00 ID:jQ0Pr1J.0
「ねえワカッテマス、ここがあなたの出発点でしょ?
 露見すれば互いの破滅を導く、謂わば共犯者という関係を構築することで
 その信用を勝ち取ることに成功した。地方の有力者から中央の枢機卿に至るまで
 独自のパイプを築き上げていった。どうですか? ボクの推論、当たってますよね?」

だからボクは、彼の目元を砕いてやる。痛みにうめくワカッテマスの左目から、
紅い雫が垂れ落ちる。うん、これでいい。これで綺麗な左右対称だ。

「御返事ありがとう、ワカッテマス。野心家の生臭坊主。
 取るに足らない助祭だったあなたが異例の速度で司祭となり、司教に選ばれたのも、
 あなたの努力の賜物ですね。行く行くは大司教――いやいや教皇の地位だって
 夢じゃなかったかもしれない。あなたと――あなたの協力者が手を結び続けていれば」

金槌の裏、扁平にすぼんだ側を彼の頬に当てる。

「調香師、アニジャ。あなたの協力者」

そして勢い、振り下ろす。彼の頬が裂ける。その口を覆っていた猿轡と共に。

「だからワカッテマス、そろそろ話してくださいよ。あの男が何者なのか。
 どういうわけか、あの男については調べても調べても碌な情報が出てこないんです。
 なぜあなたの事業に加担していたのか……その目的だけじゃない。
 この街へはいつ訪れたのか、出身は何処なのか、親は存命なのか? 伴侶は?
 兄弟は? それすらも判らない。“まるでそんな人物、この世に存在していないかのように”」

110名無しさん:2022/08/13(土) 19:41:04 ID:jQ0Pr1J.0
まったく不思議なこともあるものですと、ボクは彼に同意を求める。
どうせお前が隠蔽したんだろうと、言外に含めながら。荒い呼吸を繰り返し、
明らかに疲弊しきった様子のワカッテマス。しかしさすがは司教にまで上り詰めた男。
その胆力は大したもので、なおもその目にはボクへの敵意が失せることなく宿っていた。

「……知って、どうするというのです」

「決まってる」

その目に向かって、ボクは笑む。

「あの男のすべてを奪い、辱め、衆目に晒した上で公開処刑に掛ける。
 そしてその様を、姉上に観劇して頂く。そうしてボクはそっと、姉上にささやくのです。
 あなたのせいで彼は、あのような目にあってしまったのですよって……」

起こりうる未来をそこに見出し、歓喜に頬を緩ませる。

「ああきっと……きっときっと姉上の瞳は、
 これまでにない美しさで彩られることでしょう……!」

ボクの姉上、ボクのトソン。ボクのモノが、目の前に。

「……不可能だ」

陶酔するボクの気持ちへ冷水をかけるような、嘲る声で彼がつぶやく。
怒りや嘆きであれば、いくら向けられようと構わない。が、上から目線は気に入らないな。
彼のまだ無傷の指に、金槌を振り下ろす。

しかし彼は驚くことに、歯を食いしばってうめきを堪えた。
この執念、いったいどこから沸いてくるのか。こいつはなぜ頑なに、
アニジャとかいう男について口をつぐむのか。
あのような平民風情に、何を義理立てする必要があるというのか。

111名無しさん:2022/08/13(土) 19:42:25 ID:jQ0Pr1J.0
「……判りました」

扉の前に立つ部下に、指示を出す。
部下が扉を開き、別の部下が別室から、ナプキンに包んだそれを持って入室してくる。

「あなたがあんまり頑固なものだから、ある人物の“手”を借りることにしました」

入室してきたそいつに、ワカッテマスの前に座るよう目配せする。そして――。

「なにもかも調べたと言ったでしょう? サダコという頭のいかれた女性の
 話が切欠ではありますが、ちゃんと裏付けも取っています。いくつものバイパスを
 通じて援助金を送り続けていたってことも聞いてますよ。罪滅ぼしのつもりかな?
 野心のために子捨てた男が、いまさら何をと思ってしまいますがね。
 なんにせよ、可哀想なことです。まだまだ小さな、未来に夢見る少年だというのに」

ナプキンに包んだものの中身を、ワカッテマスの眼の前へと晒させた。
そこに収められていた小さな、肌色の、それを。

「あなたの息子の指ですよ。目を逸らさず、我が子の成長を
 きちんと見てあげてくださいね、おとうさん?」

ワカッテマスの両目が、それを凝視する。

「どうです、話してくれる気になりました?
 もしその気にならないというのならいいですよ、あの子の指ならまだ九本も残っていますから。
 ああ、足も含めれば更に一〇本もあるのかな。交渉の時間はたっぷり取れそうですね」

そしてそこから目を逸らすように、視線が落ちる。影が差す。俯いて、肩を震わせる。
さて、どのような狂態を晒すのか。これは見物だと、彼の一挙一動を観察し、観察し、
観察していると、途端――ワカッテマスが、笑い出した。

112名無しさん:2022/08/13(土) 19:43:07 ID:jQ0Pr1J.0
「何がおかしいんです……?」

「ふは、ふはは……何がおかしい? 何がだと?
 お笑いだ! これが笑わずにいられようか!」

その笑い声は、神経を逆なでにするほどきりきりと頭に響いて。

「私の息子を捕らえた? まさか! あの男がそのような真似を許すはずがない!
 アレはあの男が必要とした素体、お前たちなどに渡すはずがないでしょうに!」

前触れなく頬を張られたかのような衝撃が、
司教へと上り詰めた男の底力がそこには溢れていて。

「まだ判りませんか、お前たちはかつがれたのですよ!
 お前たちが捕まえたのは“私の子では決してない”!
 お前たちはあの男に敵わない! その証拠を!
 いま! 私が! 説教してやります! さあ、だから告白なさい!」

その迫力に、ボクは、つい――。

「お前たちが捕らえた少年とやらの名をさあ、告白なさい! さあ! さあ! さあ!!」

その名を、つぶやく。


ビロード、と。


.

113名無しさん:2022/08/13(土) 19:43:44 ID:jQ0Pr1J.0
     ―― ※ ――



大人しくしていた。石の壁に囲まれたこの牢の中で私は身動ぎせず、大人しくしていた。
大人しく、その機が訪れるのを待ち続けていた。ミセリに閉じ込められ、
三日後に帰郷することの決められた私には、常に二人一組の監視が付けられていた。
彼らは執務に忠実に無駄な会話をすることもなく、私を見張り続ける。
下手な行動を取ればすぐにも取り押さえられることは目に見えていた。

だから私は待ち続けたのだ。一日二日と、私に逃げ出す気などないと
その心へ植え付けるために、貞淑な婦女子を演じ続けてきたのだ。そして、三日目。
いつ迎えの馬車が訪れてもおかしくない、その日。登板を任されたその二人の見張りはぽつぽつと、
他愛のない会話に興じ始めていた。そこには明確に、油断があった。

114名無しさん:2022/08/13(土) 19:44:45 ID:jQ0Pr1J.0
「もし、お二方……」

私の呼びかけで、監視の二人に緊張が走る。

「そのままで結構です。そのままで結構ですので、
私の願いをお耳に挟んではいただけないでしょうか」

訝しむ気配が、匂いに乗って伝わってくる。

「私、大変なことを思い出してしまいました。
 大切なものを宿に忘れてしまったのです。ミセリさまからの、頂きものを」

ミセリの名前に、彼らが反応を示す。

「それは小さな小さな小瓶です。香水瓶。橙色の、とても芳しい香りの」

指先で描いた小さな小瓶の小ささに、二人がぎゅうと凝視する。

「私はそれを、身にまとっていきたいのです。ミセリさまから頂いた、その香りを。
 モラリアム家、そしてミセリさまへの反省と、心からの恭順を示すためにも……」

胸の前で、両手を組んで。

「だからどうか、お二人に慈悲の心がお有りなら。
 どうか私の忠誠を汲み取っては頂けませんでしょうか」

懇願の姿勢を、全霊に演じて。

「この哀れな女に、どうか御慈悲を……」

115名無しさん:2022/08/13(土) 19:45:30 ID:jQ0Pr1J.0
明らかに、二人は戸惑う様子を見せていた。私には聞こえぬよう小さな声で耳打ち合い、
私の言葉に思案を巡らせている。私はそれを、祈りの形で見上げ続ける。
祈りを捧げているのは、本心からに。

「他言は無用に願います」

感情を抑制した低い声で、監視が言った。そして彼はもう一人の監視に目配せすると、
目に見える範囲から去っていく。よく響く足音が次第、上方へと消えていく。いなくなった。
うまくいった。条件は整った。私は胸を抑え、確認する。大丈夫、問題ない。

「トソン様、どうされたか」

立ち上がる。立ち上がって歩く。壁の隅に向かって。

「用がなければみだりに歩きまわらないで頂きたい、トソン様」

石の壁、ごつごつと硬いその壁に手を触れ伝って。
平坦の少ない起伏だらけの壁の中にあって、比較的に平らなその場所を目指して。
監視が私に呼びかける。私はその声を無視し、目的の場所へ行く。たどり着く。ここでいい。
ここでならばおそらく、“少々の怪我”で済む。私は両の手をその壁の側に付け、そして――。

116名無しさん:2022/08/13(土) 19:46:32 ID:jQ0Pr1J.0
「トソン様!」

壁に頭を、叩きつけた。強烈な振動に、くらりと意識が途絶えかける。
だめ。まだ、耐えて。もう一度叩きつける。もう一度、もう一度、もう一度――。

「なに――」

顔色を変えて、監視が牢へと駆け込んでくる。――よかった、目算通り。
彼ら監視の仕事は私を逃さないこと。けれどそれは表向き。
監視たちが本当に任された仕事はおそらく、私の安全を確保することなのだと私は考えたのだ。

私の身体は私のモノではない。いずれはミセリが所有するモノ。
だから彼らが最も危惧していたのは脱走ではなく、私から私への加害行為、
私が私を殺めようとすることのはず。自殺をさせないために彼らは、
常に私を取り押さえられる二人一組でいたのだと、私はそう、考えたのだ。

けれど彼らは、警戒を怠った。この三日に渡る、大人しい私の態度に騙されて。
そしていま私を取り押さえようとしているのは、ただ一人。当然、力では敵わない。
けれど私は、持っている。胸に秘めたこの力を――
アニジャさまから頂いたこの香水を、持っている。

117名無しさん:2022/08/13(土) 19:47:13 ID:jQ0Pr1J.0
「を――――」

一吹き。振り返りざまに、浴びせた。
屈強な肉体の監視が、重量を感じさせる音を立てて倒れる。
うつろな目をして、私の血が染み付いた壁へと視線を向けている。
この様子であれば、しばらくは意識を取り戻すこともないだろう。

牢の扉は開いていた。もはや私を阻むものはなかった。
通路の構造は三日の間に、監視たちの足音が教えてくれた。出口はそこにあった。

陽の光が差していた。
光に包まれた私は自由を許され、
望みを叶えに行くことが、私にはできた。
緑の薔薇へ向かうことが、私にはできた。
『ビアンジュエ・パルファム』へ向かうことが、私にはできた。

私の意思に従うことが、私にはできた。


.

118名無しさん:2022/08/13(土) 19:48:39 ID:jQ0Pr1J.0
     ―― ※ ――



匂いとは不思議なものだ。
危険を察知させ、嫌悪を呼び起こし、食欲を増進させ、
種を選別し、そして――果てには愛をも喚起する。

鋭敏な受容体を備えていれば脳内の神経伝達によって起こる
他者の感情すら嗅覚に嗅ぎ分け、その者が何を思っているのか、
何を求め何を恐れているのか、如何な生を送ってきたのかすらも理解ができる。
匂いが判ればその者の、性のすべてが自ずと判る。

記憶と結びつき、本能と結びつき、人格と結びつく匂いという名の魔法の科学。
それらは彼我を超越し、我と彼とを結び行く。匂いに惹かれた相手とは、
遺伝の求めと同位に等しい。原始に根ざした欲動が、必要なのだと叫ぶのだ。
何に変えてもあれ得よと、何を捨ててもあれ得よと――。

匂いとは不思議なもの。果てしなきもの。しかしそれは、神秘に非ず。
なぜならこれら匂いこそ、人間存在が本質故に。生命の本質は匂いにありて、
故にこそ人はその死を超克し、不滅の存在へと至り得るのだ。
愛する者と永遠に、神代の永遠を生きられるのだ。正しくそれは光輝の歓喜。
神秘などと陳腐な言葉で、言い表せられるものでは決してない。

なあオトジャ、そうだろう?

――どうやら彼女が来たようだ。薔薇の香りに誘われた、薄羽閃く幻花の蝶が。
彼女なりの答えを持って、彼女自身の決意を抱いて。なればこそ、礼儀を持って迎えよう。
彼女の香りに相応しく、緑の薔薇を胸に携え。
手に汗握る終焉<フィナーレ>は、もはや息呑むそのすぐ先だ。

故にオトジャよ覚悟せよ、今こそお前を貰いに行くぞ。
何に変えても取りに行く、何を捨てても起こしに行くぞ――。


.

119名無しさん:2022/08/13(土) 19:49:50 ID:jQ0Pr1J.0
     ―― ※ ――



「――ではマドモアゼル、お教え下さい。何を見て、何を知り、何を感じて、
 そして貴方が何処へ辿り着いたのかを――」

……きっかけは、あの手紙です。前髪を切りそろえた
愛らしいシスターの渡してきた手紙。『幾つほど入用か』と問いかけていた手紙。
直感いたしました。これは例の、連続失踪事件に係わる手紙なのではないかと。
秘されたあなたの正体が、ここに明らかになるのではないかと。

追求しないという選択肢はありませんでした。知りたいという衝動に
突き動かされた私にはもう、行動する以外の選択などありえなかったのです。
だから私は、手紙の足跡を追いました。手紙の差し出し主が誰であるのか、
その背後に潜んだ黒幕が本当は誰なのか、私は調べていきました。

そして私はアニジャさま、あなたとワカッテマス司教に
つながりがあることを突き止めたのです。講堂に漂う、香りによって。

あなたとワカッテマス司教は共謀して誘拐行為を繰り返している。
私はそう、確信いたしました。ワカッテマス司教がなぜそのような行為に手を染めていたのか、
それは判りません。興味もありません。だって私が知りたいのはアニジャさま、
あなたのことだけなのですから。あなたのような紳士がなぜ、このような行いに
手を出していたのか。私が知りたいのは、それだけなのですから。

120名無しさん:2022/08/13(土) 19:51:00 ID:jQ0Pr1J.0
見当はついていました。だってヒントは、あなた自身が
幾つも幾つも与えてくださっていたのですもの。匂いの哲学。自我を持たない少年。
記憶を伴う香水。同一性の科学。これらはすべて、あなたから教えて頂いたことです。
すべて。そう、それは――オトジャさまのことも。

弟君の話をする時だけでした、あなたの声色が変わったのは。
“あいつ”という、親しい呼び方をされていたのは弟君に対してだけでした。
なによりも、その匂いの変化。完璧に自分を律されていたあなたから
唯一感情の片鱗を嗅ぎ取れたのが、弟君についての話を伺った時だけ――。

あなたはきっと、弟君だけが大切なのでしょうね。
あなたの行動はすべて、弟君に係わることだけだったのでしょう。
それはもちろん、司教と共謀した誘拐行為にしても。あなたには人を誘拐し、
人という“物質”を利用しなければならない必要があった。弟君のために。
いまは死の眠りに耽っておられるという弟君のために、必要だった。

突飛な考えかもしれません。けれど私には、これこそが正解であるという確信がありました。
それ以外にはありえないという、揺るぎのない確信が。アニジャさま――


“あなたは人間を、香りの原料としていたのですね。オトジャさまの匂いを再現するために”。

.

121名無しさん:2022/08/13(土) 19:52:20 ID:jQ0Pr1J.0
「……もし、貴方の言葉が真実だとして。マドモアゼル、貴方はどうしますか?」

……。

「倫理に従い糾弾しますか? 悪逆非道な人さらいを、正義の官憲へと突き出しますか?」

……母は、父の所有物でした。
奴隷であるという意味ではありません。傅く侍従という訳でもありません。
綺羅びやかなドレスに身を包み、美しく、その芳香すらも
人工的に彩られた母は男爵夫人として、領民から羨望と嫉妬の視線を投げかけられる立場の人間でした。
けれど――それでも母は、所有されていたのです。

産業振興に振り落とされて没落したかつての名家が、母の生家でした。
その領地も殆どを失い、返すあてのない借金を膨らませ、羽振りの良い商人たちに
頭を下げることでなんとか食いつなぐような有様であったと聞いています。
ただ貴族である、高貴な存在であるという誇りだけを拠り所にして生きてきたのだと。
けれどその誇りも、金に変えて買われます。

父は商人でした。時流に乗った商売で大きな成功を収めた、成り上がりの商人。
金を得て、易々と崩壊し得ない事業をいくつも手掛けるようになった彼が
次に求めたのは社交の力――地位でした。彼は爵位を金で買い、男爵の身分を得たのです。
爵位と共に、母をも買って。その日から母は、父の“モノ”となりました。

モノの母から生まれた私も、母同様にモノでした。
父の扱う商品と、資産として所有する絵画と、権威を知らしめるための装飾品と――
そうした数多の物質とその価値を比べられるだけのただのモノ、それが私。
父がさらなる地位を得るための足がかりとして、いずれ売りさばかれることの
決められた商品<モノ>のひとつ。

122名無しさん:2022/08/13(土) 19:54:38 ID:jQ0Pr1J.0
抗おうなどと思ったことはありません。私の未来は母にある。
それが私の常識で、当たり前の人生観でしたから。諦めていましたから。
ですからマタンキさまの下へ嫁ぐと決まった時も、来るべき時が来たと、
そのようにしか思わなかったのです。でも――。

「けれど貴方は、ここ<『オドレウム』>へ来た」

この三日の間、私は考え続けました。私の周りにいた男たちとあなたと、
いったい何が違うのかと。あなただけがなぜこんなにも、私を狂わせてしまうのかと。
匂いなのですね。あなたに抱かれた初めのあの時、私はあなたに惹かれてしまった。
“私の中の本能が、否応なしにあなたを求めた”。そしてあなたも、私のことが必要だった。

アニジャさま……初めから、そうだったのでしょう?
すべてはいまこの時、私の心があなたの色へと染まりきったこの時を、
あなたは待ち続けていたのでしょう? そのためにこの劇を、
一人の女を揺さぶり惑わす舞台劇を仕組まれたのでしょう?

あの手紙にした所で、あのように私の手元へ届くなどできすぎていました。
落ち着きかけていた私の心を掻き立てるため、あれもあなたが企図したシーンなのでしょう?
あなたに悩み、あなたに焦がれ、あなたを知るよう私の心を知らず知らずに誘導して、
あなたのことしか考えられなようにしてきたのでしょう?

ああアニジャさま……あなたはなんてひどい人。なんてなんて……こわい人。

123名無しさん:2022/08/13(土) 19:55:17 ID:jQ0Pr1J.0
「ならば貴方は、どうなさる」

アニジャさま……ああアニジャさま、あなたは本当におそろしい。
もしいまあなたに背を向け帰って、それで私に何が残されるでしょう。
何もありません。何もないのです。心の欠片すら、もはやそこには。
何も知らず、知りたいとも思えない男に所有される未来しかないのです。
嫌な臭いの、男たち<この世界>に。

仮にミセリがいなくなろうと、別の男に貰われるだけ。何も変わりはしません。変わらない。
私の未来は母なのだから。なれば私はこの焦がれを、この想いを抱く今だけに留まりたい。
今だけの永遠で、愛しき匂いに包まれ絶えたい。だからアニジャさま、私のアニジャさま――――。

.

124名無しさん:2022/08/13(土) 19:55:49 ID:jQ0Pr1J.0



私はあなたに、所有されたい。


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125名無しさん:2022/08/13(土) 19:56:26 ID:jQ0Pr1J.0
「……マドモアゼル、あなたは最高の“素材”に仕上がった」

ああ、アニジャさま……。

「さあこちらへ。オトジャの下へ、案内しましょう――――」


.

126名無しさん:2022/08/13(土) 19:57:15 ID:jQ0Pr1J.0
     ―― ※ ――



「ビロード? ビロード? ビロード!? だれですかそいつは!
 私の血を継ぐ者の名はギャシャ、ギャシャです! ビロードなどという名ではない!!」

ワカッテマス、お前は大変聡明な子だ。将来は神の使徒として、
一角の人物となることでしょう。よくよく真面目に励みなさい。

「いや、いやいややはりビロードかもしれませんね? ギャシャだという思い込みこそ、
 操られた私の生み出した妄念かもしれぬのだから! 真のことは誰にも判らぬのです、
 誰にも、人ならざる者にしか!」

よくぞ試験に合格しました、ワカッテマス。さすがは私の子です。
いいでしょう、ひとつ願いを言ってみなさい。……あの店のものを食べてみたい、ですか?
お前は本当に甘党ですね。

「まだ判りませんか、防げぬのですよ!
 矢や弾は避けられても、目に見えぬ匂いからは逃れられぬ!」

なに言ってるのさワカッテマスくん、おいしい思いをしたくないやつがいるわけないだろ。
どうせ君も、一枚噛みたかっただけなんだろう?

「匂い! そうすべては匂いなのです!
 匂いが人を支配し、匂いが人を狂わせる!」

ねえ、どうしてそんな顔するの。あなたの子なのよ。あなたと私の、二人の子なのよ。
そんな顔、しないでよ。そんな目で、見ないでよ。

127名無しさん:2022/08/13(土) 19:58:07 ID:jQ0Pr1J.0
「同一性の破綻! 自己の崩壊! 己を己とする確たる記憶への冒涜!」

ご安心を、私は貴方の味方です。私の手を取って下さるなら
返り咲く機会は用意致しますよ――猊下。

「どこまでが私であり、どこからが私でないのか! いいや、本当に私はここに残っているのか!」

なあ知ってるか、あの噂。ワカッテマスのやつが人身売買に関与してるって。
噂を耳にした司教様が、近く調査に乗り出されるって――。

「眼の前の者が本当に私の知る者であるのか! 私の知る者と同一であるのか!」

卑しい生まれの孤児の小僧が、私にこのような真似をしてただで済むと――
な、なんだ貴様ら、やめろ、やめろぉ――!

「人が変わるのです、人を変えてしまうのです!
 あの男はそれを容易く行ってしまう!」

教皇庁はこの者を司教とし、『オドレウム』管区の長に着くことを任命する。
急死した前任者に代わり、神の僕として正しく振る舞うように。

「悪魔! 正に悪魔だ! あの男こそが神に仇なす悪魔そのものだったのだ!」

ご就任おめでとうございます司教猊下。敬愛する猊下の躍進、私共にとっても大変喜ばしく……
は? 敵対していたはずではないのか、ですか? 私が?
滅相もありません、私は猊下の忠実な僕にございますれば――。

128名無しさん:2022/08/13(土) 19:58:45 ID:jQ0Pr1J.0
「甘言に惑わされ、その手を取った瞬間に我が手から、
 大切なものがこぼれ落ちてしまうのだ!」

司教猊下、我々をお導く下さい。司教猊下、我々をお使い下さい。
司教猊下、我々を下さい。下さい、司教猊下。司教猊下、司教猊下、司教猊下――。

「容易く人が変わり得るなら、いったい何を信じられるか――」

ワカッテマス。

「虚無の裡の暗闇で、いったい何を頼ればよいのか――」

お前は変わってしまったな。

「ねえ、サー・ミセリ。あなたもそう思いませんか」

――神父様。

「あなたの大切なモノは本当に、あなたのモノだと言い切れますか」

変わってしまったのは、あなたがたではありませんか――。

「お前の愛する姉上は、本当に今も“姉上”ですか――?」


.

129名無しさん:2022/08/13(土) 19:59:36 ID:jQ0Pr1J.0
     ―― ※ ――



この日、この時、この瞬間。
至福に満ちたこの瞬間のために、私はこれまでを生きてきた。
至福に満ちたこの感情を、永遠の裡へと封じ込めるために。
永遠の裡の香りと化して、アニジャさまに所有して頂くために。

衣の一枚も纏うことなく、私は装置の前に立つ。
私を永久へ留めるための、小さな小さな凍れる世界。
息も心も魂も、匂いまでをも封じる世界。私はここで、私を終える。
私を終えて、“彼”になる。ギャシャくん。部屋の中央にて、自我なく椅子に腰掛ける彼。
佇む彼に纏われて、今宵私は二人でひとつの“彼”となる。

「アニジャさま」

彼のための、“彼<薔薇>”となる。

「次に会う時、私はオトジャさまなのですね」

「ええ、マドモアゼル。次に会う時、貴方はオトジャだ」

130名無しさん:2022/08/13(土) 19:59:58 ID:jQ0Pr1J.0
「離さないでくださいね」

「離すものですか」

「忘れないでくださいね」

「忘れるものですか」

「捨てないでくださいね」

「捨てるものですか」

「いなくならないでくださいね」

「いなくなるものですか」

131名無しさん:2022/08/13(土) 20:01:11 ID:jQ0Pr1J.0
歓び。彼のモノになるという、歓び。恐怖など、欠片もなかった。
ひどくて、こわくて、おそろしくて――故にこそ魅力的な彼。
例え私自身に興味がなくとも、彼に選ばれたという事実が私の胸を至上に包んだ。
そして私は極寒へ、裸足の足を踏み入れた。

寒くはなかった。痛みもない。ただ感覚が、感覚だけが、急速に私から離れていく。
白に覆われ視界は狭まり、熱も音も消失していく。白い暗闇に落ちていく。
生命の停止が迫りつつあるのを、いやにはっきりと残る意識で感じ取る。

死を間近にした時、人はこれまでの生を整理するかのように記憶を遡ると聞いたことがある。
楽しかった思い出、悲しい思い出。親しかった人々、愛する者、思い出すこともできなくなった
在りし日の記憶と対面するものと、そのように聞いていた。

私には何もなかった。楽しかった思い出も、悲しい思い出も、親しい人々も、愛する者も、
何も思い浮かびはしなかった。父の姿も、母の姿もなかった。
後悔も罪悪感も、私には存在しなかった。

ただ薔薇だけが、現実として存在する緑の薔薇の一輪だけが、私の目にするすべてであった。
それだけでよかった。それさえあれば、幸せだった。それさえあれば、穏やかだった。
それさえあれば、救われた。それさえあれば。それさえあれば――――――――。


薔薇が、散った。

.

132名無しさん:2022/08/13(土) 20:02:07 ID:jQ0Pr1J.0

「姉上」

冷気が薄れていく。視界が開けていく。音がもどり、寒さと痛みが蘇る。
しゅうしゅうと私を囲む世界から空気が抜け、止まった時が稼働を始める。
外界と途絶するために固く閉じられていた扉がぎちぎちと音を立て、
強引に捻じ曲げられていく。内と外とがつながってしまう。

「ダメじゃないですか姉上、あなたはボクのモノなんだから。
 モノが一人で出歩くなんてそんなおかしなこと、許されるはずがないでしょう?」

ミセリ、どうして。乾いた唇からは声がでない。ミセリにつかまれる。
引っ張り出される。生暖かな空気が、私を急速に解凍していく。
表皮に留まらず、のどの奥から肺の中まで激痛が走る。
不必要な生の機構が私を強く刺激する。痛い。ミセリにつかまれた腕が、痛い。

「姉上がいけないんですからね? なにもかも姉上のわがままが招いたことなんです。
 だからほら、見て下さい姉上。姉上ほら――」

顔をつかまれた。ねじられた。ぱきぱきと、割れる音が首に響いた。
白に掛かった視界の膜が、ぱきぱき割れて剥がれていった。
眼の前の光景を、有限の現実へと映し出していった。現実に、映し出されていたのは――。

「あなたの勝手が起こした悲劇ですよ」


緑の薔薇の、散った花弁。

.

133名無しさん:2022/08/13(土) 20:03:04 ID:jQ0Pr1J.0
「なにが悪魔ですか、あのイカレ司教。撃てば死ぬんです、それがなんであったって。
 そうですよ、邪魔するやつは殺してしまえばいい。みんなみんな、殺しちゃえばいいんだ。
 ふふ、ふふふ……」

代わりに咲いた、朱い華。

「ぃ」

倒れ動かぬその人の。

「ぃ、や」

胸にて咲いた、血色の華――。

「ああ姉上……これでもう、ボクたちを邪魔する者はいなくなりましたね」

ミセリが耳元でささやく。触れてくる。抱かれる。拘束される。
私をモノだと伝えてくる。彼の携えたライフル銃の先端が、
冷えた皮膚に張り付いてくる。ミセリと共に、張り付いてくる。

いや、いやだ、こんなのいやだ。私はもう、あなたを知った。
あなたを知った私はもう、かつての私にもどれない。あなたが私を狂わせたんです。
あなたが私に望ませたんです。一度望みとまみえては、二度とは過去へと帰れないんです。

アニジャさま。私、もう、母のようにはなれません。
あなた以外のモノにはなれない――!

だから起きてくださいアニジャさま。だってあなたは言ったはずです。
離れないと、忘れないと、捨てないと、いなくならないと。
確かにそう、約束を交わしてくださった。そうではありませんか。
なのにこれでは……こんなのあんまりです。
だから起きてくださいアニジャさま、起きて、お願い、起きて――。

血色の華が、ぐにゃりと歪んだ。

134名無しさん:2022/08/13(土) 20:04:08 ID:jQ0Pr1J.0
「こいつ、まだ生きて――」

轟音。同時、破砕音。アニジャさまの手に、拳銃。
撃たれたのは、私――ではない。ミセリ――でもない。それがなにか、目視はできない。
けれど、判った。“匂い”で、判った。

「なん、これ――」

私に張り付いていたミセリが力を失い、倒れていく。空虚な瞳、自我のない顔をして。
アニジャさまの、香水。意識を飛ばす、匂いを発する。
そしてそれは例外なく、私の意識へも作用を始め――。

「――――」

けれど私は、落ちなかった。あの人の、私を所有するあの人の、私を呼ぶ声が聞こえたから。
私はあの人のモノ。あの人に使われて、あの人の希望に応え、あの人に愛されるモノ。
こんな香水よりも、私のほうが、あの人のモノだ。だったら、落ちない。落ちるわけがない。
だってあの人にとっては私の方が、こんな香水よりも価値がある。

だから私は這っていく。感覚のない足をずりずり引きずり、腕の力で這っていく。
アニジャさまへと這っていく。アニジャさまへと、アニジャさまへと。漂う彼の香りへと。
ああこの匂い、この匂いです。この匂いを嗅いだ瞬間、私はあなたのモノと化したのです。
逃れることなどできなかったのです。だからもっと、もっとあなたを、あなたの匂いを――。

135名無しさん:2022/08/13(土) 20:04:55 ID:jQ0Pr1J.0
「――――」

アニジャさまに触れる。アニジャさまに重なる。アニジャさまを嗅ぎ取る。
アニジャさま、ここに来ました。あなたのトソンが這ってきました。なんですか。
私は何をすればいいのですか。私はあなたの何になれますか。
声にならない問いかけを、心の匂いに飛ばして問う。

アニジャさまは、笑っていた。いつものように微笑を浮かべていた。
微笑を浮かべて、それを手に持ち、私の前で、煌めかせた。

散った緑の薔薇の茎、鋭利に尖って、刃物みたいな。

それが、アニジャさまの首に、ささった。アニジャさまが、刺した。刺して、裂いた。

血が、吹き出た。びゅうびゅうと、びゅうびゅうと、止め処なく吹き出した。

それらすべてが降り注いだ。むせ返るようなその匂いが、私の鼻へと降り注いだ。

アニジャさまは笑っていた。いつものように微笑を浮かべていた。

鮮血の薔薇が、微笑を浮かべて、ささやいた――――。


.

136名無しさん:2022/08/13(土) 20:05:24 ID:jQ0Pr1J.0




オレの匂いを忘れるな――――オトジャ。



.

137名無しさん:2022/08/13(土) 20:06:52 ID:jQ0Pr1J.0
     ―― LafiN ――



葬儀は盛大に開かれた。ワカッテマスの証言が決定打となり、兄マタンキは失踪ではなく
死亡したのだと公に認められることとなった。民を守るために邪教へ挑んだ末の、尊い犠牲――
まるで神話の英雄かのような扱いはボクの知る兄の像とは一ミリも重なることなく、葬儀の間、
彼を称える言葉の数々にボクは、笑いを堪えるのに苦心しなければならなかった。

ワカッテマスは死亡した。捕らえられ、裁きを受けるその前に、獄中でその生命を絶ったらしい。
自責の念に耐えかねたのか、狂った末の凶行なのかは判らない。しかしその死には不審な点が多く、
一部ではワカッテマスの自白を危惧した“お偉方”が
トカゲの尻尾を切ったのではないかという噂もある。

いずれにせよ、その死の真相を暴くことにさしたる益はない。彼は死に、この世を去った。
死者は蘇らない。それこそが真理なのだから。彼らは死に、ボクは生きている。
ボクと姉上は生きている。それ以上に重要なことなど、ありはしないのだから。

あの日、あの調香師の家へと踏み込んだ日。
あの男の魔術によって意識を奪われたボクは、その目を覚ました瞬間ずいぶんと肝を冷やした。
あの男の傍らにもたれる姉上の、その鮮血にまみれた姿を目撃して。
あの男の死に、生命を絶ってしまったのではないかと思って。

実際は、杞憂に過ぎなかった。その血は姉上のものではなく、
姉上はあの調香師の血を浴びているだけだった。何を思ったのかあの男は、
自分で自分の首を掻き切って果てたらしい。そこにどのような意味があったのかは
もはや知る由もないが、やつの死は姉上に大きな影響を与えた。うつろな目をした姉上。
姉上の意識は、どんなに待ってももどってこなかった。

なんてことだ、これこそ理想の姿じゃないか。

138名無しさん:2022/08/13(土) 20:08:24 ID:jQ0Pr1J.0
物言わずただただその形容を留め続けるためだけに存在する一個の芸術。
これこそがボクの求めていたモノだ。真なる母の複製像。
彼女はついに人間を捨てた、永遠の美そのものとなったのだ――!

父は難色を示していた。モラリアムの家へと入れるには、彼女の状態は相応しくないと。
頑迷な、美を解しない老人の戯言だ。お前にはやはり、母を所有する資格などなかった。
ボクはこの頭の固い老人を説き伏せ、彼女を迎える理を説いた。

兄嫁となるはずだった彼女の献身、『オドレウム』での活躍、そして、
ボクらの間に生じた絆について。美談を好み不義を憎む領民に、彼女を娶るか放逐するか、
どちらが支持されるかを凝り固まった父の頭に説き伏せ続けた。少しばかりはグラスの中に、
素直になれる魔法の粉を入れもした。その甲斐あって最後には、父も理解を示してくれた。

順風満帆とはこのことである。なにもかもがボクの望みを後押ししてくれていた。
ささやかな望み。姉上を――トソンをボクのモノとして永遠に所有し続けるという望み。
姉上との婚儀の日取りも決まり、ボクは毎日彼女を抱きしめ、その耳元でささやき続けた。
待ち遠しい、あなたがボクのモノであると披露目できるその日が待ち遠しくて仕方ない、と。

ニヶ月が一ヶ月に、一ヶ月が一週間に。遅々として進まない時間はもどかしく、
しかしそのもどかしさにすら興奮を覚え、ああ早く、ああ早くと唱えながらボクは
その日を待って、待って、待ち続けて――そして、婚儀の日取りを三日後に控えたその日のこと。


姉上が、失踪した。


.

139名無しさん:2022/08/13(土) 20:08:54 ID:jQ0Pr1J.0
     ―― ※ ――



「ああすみません、痛かったですよね。でもそんなに時間は掛けませんから。すぐに済ませます」

「なんで、こんなこと……」

「申し訳ないとは思っているんです。でもどうしても、匂いを集めなくてはならなくて」

「違う、ボクが言っているのはそんなことじゃない……ボクはあなたが、どうしてあなたが……」

「そうですよね、なんでオレがこんなことをって、オレ自身も思います。
 それもこれも、全部あいつのせいです」

「あなたは――姉上は“トソン”でしょう!」

「オレは“オトジャ”ですよ。トソンなんて人は知らないです」

140名無しさん:2022/08/13(土) 20:10:16 ID:jQ0Pr1J.0
心からよく判らないといった困惑顔で、“彼女”が答えた。
彼女――姉上であり、トソンであり、意識をなくしたボクのモノであるはずの彼女が、
どういうわけか“オトジャ”という名を自称する、“彼女”が。

姉上が失踪した後、ボクはすぐに捜索隊を結成し、ほうぼうにその捜索網を拡げた。
意識をなくしていたはずではないのか、あれは全部演技だったのか、そんなにボクが嫌なのか、
女の細脚で逃げ切れるものか、逃がすものか、絶対に逃さない、捕まえてやる、
捕まえて、二度と逃げ出せぬよう今度は足の腱を切ってやる。

様々な思考が高速で巡るが、それらはすべて後へと回す。
なにより優先すべきは、手がかりを探し出すことだった。地道に、足取りを追って。
捜索は難航した。父はやはり嫁に迎え入れるべきではなかったと激怒していた。
ボクの立場も危うくなり、動かせる部下の数も減った。それでもボクは諦めきれなかった。
だって彼女は、ボクのモノなのだから。

探して、探して、探し続けた。探し続けて、探し続けて――彼女の失踪より、一年後。
ボクはある噂を耳にする。とある街で、連続失踪事件が起きているという噂。
まるでかつての、『オドレウム』のように。

確信があった訳ではない。他にすがれる情報がなかっただけ。
それでもボクは一縷の望みを駆けてその街へと向かい――そうしていま、
追い求めた“彼女”に拘束されている。生命の熱と共に、体内を巡る血を
徐々に徐々にと減らしていきながら。管の先のボトルへと、ボクの生命<血液>を吸い取られながら。

141名無しさん:2022/08/13(土) 20:10:59 ID:jQ0Pr1J.0
「ギャシャくん、どうだい」

見覚えのあるガキ――記憶よりも些か成長しているそのガキが“彼女”に促され、
ボトルに溜まったボクの血へとその鼻を近づける。

「……臭い」

「そうか、やっぱり」

ボクを前にし、事もなげに二人は言い放つ。ふざけるなよと、声を上げようとする。
しかし血を抜かれた身体は舌の奥から乾き行き、怒りすらも血液と共に流れ出していく。
それでも身体を振って抵抗を表すと、その様子に“彼女”が気づいた。

「そう落胆しないでください、あなたの匂いも何かに使えるかもしれませんから。
 だからもうしばらく、このまま辛抱していてくださいね」

そう言って“彼女”は、ボクの血へと鼻を近づける。
直後、“彼女”はなにやら眉根を寄せて、自分の胸とボクのことを交互に見返した。
「もしかして」と、“彼女”がつぶやく。つぶやいて彼女は、胸の内側から何かを取り出す。
取り出したものを、ボクの前へと突きつけてくる。それは――。

142名無しさん:2022/08/13(土) 20:11:40 ID:jQ0Pr1J.0
「これ、あなたの物じゃありませんか」

ボクが姉上にプレゼントした、橙色の――。

「よかった、持ち主が見つかって。
 オレには必要ないものですから、あなたが持っていってください」

そう言って“彼女”はボクの目の前に橙の小瓶を置く。
女性的な細やかさに欠ける、男性的な動作で。動きだけではなかった。
言葉遣いも、纏う気配も、その顔つきまでもが記憶と違った。
まるで本当に、別人へと変わってしまったかのように。

その様を見てボクは、あの男のことを思い出す。
魔術のような香水を扱う、正体不明の調香師。あの男のことを思い出し、そして、思い浮かんだ。
恐ろしい疑問が、思い浮かんでしまった。


あの男は……あの男は本当に、“初めからアニジャという生き物だったのか”――?


『あの男こそが神に仇なす悪魔そのものだったのだ!』

いつか誰かが放った言葉。いまやもう、それが誰の言葉であったかすら思い出せず。

143名無しさん:2022/08/13(土) 20:12:11 ID:jQ0Pr1J.0
「まったく、あいつが怠けるせいでまた人様に迷惑を掛けてしまった。
 あいつは昔っからそうだ、格好つけてばかりでやることなすこといい加減。
 尻拭いする側の身にもなってほしい。なあギャシャくん、ギャシャくんもそう思うよな?」

「うん、そう思う」

「ギャシャくんだって、早くアニジャになりたいよな?」

「うん、なりたい」

「ならギャシャくん、そろそろ行こうか。長居していると怪しまれてしまうからな」

「……ん」

「ギャシャくん?」

「…………」

「そうか、そろそろおねむの時間だね」

「…………ん」

「よし」

144名無しさん:2022/08/13(土) 20:12:58 ID:jQ0Pr1J.0
眠たげに目を細めるガキを、“彼女”が抱えあげる。
姿勢が変わり、影に隠され目立たなかった胸元が強調され、
そこに携えられたものへと自然、視線が吸い込まれる。

薔薇の華。“群青色の、青い薔薇”。

「なあアニジャ、いい加減出てこいよ」

それがボクの、最後に目にした光景で。

「ギャシャくんだって、待ちくたびれて退屈してるぞ」

ボクの聞いた、最後の声で。

「だからなあ、ビアンジュエ・パルファム<流石香水>のアニジャ――」

最後に嗅いだ、“彼女<彼>”の匂いで――。




.

145名無しさん:2022/08/13(土) 20:13:23 ID:jQ0Pr1J.0










          早く目覚めて、オレを所有してくれよ









.

146名無しさん:2022/08/13(土) 20:13:49 ID:jQ0Pr1J.0


  (
   )
  i  フッ
  |_|

147名無しさん:2022/08/14(日) 08:26:39 ID:t7LcQPBY0
乙乙乙乙乙

148名無しさん:2022/08/16(火) 22:05:56 ID:YbXhRtQ60
乙乙
ビアンジュエ・パルファム行ってみたい…

149名無しさん:2022/08/20(土) 00:42:54 ID:yfwLAWAc0
おつ!

150名無しさん:2022/08/20(土) 19:06:32 ID:7vvfbSc60
乙!
お洒落で好き。ミセリが一番怖い

151名無しさん:2022/08/21(日) 00:52:27 ID:/cfcANwg0
いいハッピーエンドだった
中身は双子の兄弟なのに、外見はお姉さん(弟)とショタ(兄)なのエモい
めちゃくちゃ好き

152名無しさん:2022/08/21(日) 11:57:52 ID:V/46LD8U0
最高!

153名無しさん:2022/08/21(日) 17:17:41 ID:B.fg7szA0
すごく揺さぶられた


154名無しさん:2022/08/27(土) 16:37:38 ID:k7MDuCWc0



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