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ビアンジュエ・パルファムのようです
1
:
◆y7/jBFQ5SY
:2022/08/13(土) 18:01:33 ID:jQ0Pr1J.0
百物語のようです2022参加作品
.,、
(i,)
|_|
2
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:04:23 ID:jQ0Pr1J.0
―― OuverturE ――
母は所有されていた。
奴隷であるという意味ではない。傅く侍従という訳でもない。
綺羅びやかなドレスに身を包み、美しく、その芳香すらも
人工的に彩られた母は男爵夫人として、
領民から羨望と嫉妬の視線を投げかけられる立場であった。
贅沢な食事をし、典雅な余暇を楽しみ、飢えも渇きも泥に塗れることも知らない、
自由の表象たる神聖貴族。ただそう在るだけで絶大な権威と権力を発する存在。
選ばれし者。けれど――それでも母は、所有されていたのだ。
「なにしてくれてんだてめぇ!」
怒鳴る父。母を足蹴に、父が叫ぶ。
「この瓶一本でお前が何人買えると思ってんだ!」
うずくまった母を、父の巨足が踏みつける。顔以外を。顔だけは傷つけないように。
母を慮ってのことではない。父が気にしているのは、ただ一点。母の価値。
装飾品としてまとう母の、美貌という名の価値を落とさないこと。
3
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:06:00 ID:jQ0Pr1J.0
母はモノだった。所有されるモノ。
精神なき物品とその価値を並べ比較される、数多ある資産の裡のひとつ。
物体。人ではなく。意思は求められず、言葉は求められず、愛すらも必要とされず、
ただその美貌の維持だけが彼女の存在理由。実存に先立つ本質。モノの価値。
そしてそれは、母自身も理解していること。
過ち割った香水瓶。
そのむせ返るような匂いの中心で、モノの彼女は所有者の折檻をただただ無表情に受け入れて。
うつろな瞳は、何かを感じることも、思うことも放棄したその瞳は、
目の前の出来事を視界に入れながらもしかし、何物も捉えていないように見え。
子を産み、経年によってその美貌に陰りを帯び始めた母は、正しく朽ちかけ始めたモノで。
私も同じ。
私もまた、父に所有されていた。
嫁として他家に送り出す商材として、その価値を義務付けられたモノ。
最も適した機会に、最も都合の良き標的へと、美貌という名の価値での
交渉を迫るために用意されたモノ。父という所有者の下から、
見知らぬ誰かの下へとその所有権を委譲されることが決まっているモノ。
動かぬ母。声を上げることを忘れた母。うつろな瞳の、モノの母。
この母の姿は、未来の私の姿。いずれ必ず訪れる、そう遠くない未来の私。
どうしようもないほどに運命づけられた、未来の私。モノの、私。私を持たない、私――。
.
4
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:07:04 ID:jQ0Pr1J.0
一〇余年の歳月が過ぎて今、神の定めた運命が私を導く。
モラリアム家の次男、マタンキ。伯爵家に名を連ねる彼が、私の新たな所有者に決定した。
異例の速さで婚約の儀を取り交わした父は私を連れてほうぼうへ、挨拶回りに精を出す。
モラリアム伯爵の名を、幾度も幾度も口にしながら。
父は私に言った。「トソン、お前は孝行な娘だ。お前のおかげで我が家にも箔が付いた。
あの女にお前を産ませて正解だった。トソン。お前は本当に、孝行な娘だ」。
母は何も言わなかった。年老い、価値を損じた彼女はいつものあのうつろな瞳で、
何を見るでもなく虚空を見つめたまま動かないで。ただ匂いだけが変わらず、
人工的な彩りが取り巻く環境と一体化して、強く、おぞましい悪臭を放って。
きっと今の、私と同じように。今に私も、同じように。
ああ、なんて、嫌な臭い――。
そして、婚儀の式をニ週間後に控えたその日。
我が夫<所有者>となる男が、失踪した。
.
5
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:08:06 ID:jQ0Pr1J.0
―― UnE ――
「やあやあ姉上、香りの都『オドレイユ』にようこそ!」
伸ばされた手を取り、馬車を降りる。
途端、様々な香りが一斉に、鼻孔を過ぎて目の裏までも潜り込んできた。
その雑多な匂いの混沌に、くらりと一瞬目がくらむ。足から力がそのまま抜けて、
支えを失い倒れかける。けれど、倒れはしなかった。
腰をつかまれ、私を支えるその人によって、私は無事に足を下ろせた。
「……ありがとうございます、ミセリさま」
「いやいや姉上、“さま”などと他人行儀な。ボクのことはミセリと気兼ねなく」
「いえ、それは……」
言って私は、眼の前の男性を仰ぎ見る。兄たちに比べ、女性的な相貌。
まだ微かにあどけなさを残しながらも、その目と所作振る舞いには漲る自信が
ありありと溢れ出ていて。こぼれかけた言葉を、伏せる目とともに私は飲み込む。
「長旅、お疲れでしょう。すぐに部屋へと案内致します。ああそれとも、お食事の方を?」
「ミセリさまのお考えの通りに……」
「では、部屋へと案内致しましょう。この街一番のものを用意致しました。
きっと姉上にも満足頂けるはずですよ!」
6
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:08:59 ID:jQ0Pr1J.0
宮殿もかくやといった豪奢な装飾が施された宿はある種の威圧感さえ備えており、
圧迫感に息苦しさを覚える。それは案内された部屋も同じで、
この後何日もの間ここに滞在しなければならないことを思うと気の滅入る思いがした。
「夕食時には迎えを寄越しますので、それまで暫しご休憩を。
明日には街をご案内致しますね!」
嬉々とした様子で話を続ける彼に私は、「よしなに」と返す。
よしなに、よしなに、よしなに。逆らわず、すべてを彼に任せきる。
「ああ、そうです」と、彼がつぶやいた。彼が近づいてきた。彼に引っ張られた。
抱かれた。女性的な容貌に見合わぬ男性を感じさせる濃い匂いが、私を覆う。
「ご安心ください姉上。兄上は必ず、このミセリが見つけ出して差し上げますから」
自信に満ち溢れた声色が、耳元でささやかれる。
きつく、固く、とても敵うことはないと知らしめるような強さに捕らえられた私は、
「よしなに願います」とだけ、かろうじてこぼした。
.
7
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:10:13 ID:jQ0Pr1J.0
『よいかトソン、ミセリ殿の機嫌を取れ。我が家の誠実をお前が示すのだ』
父からの手紙。慌てた様子の悪筆は至極読みづらいものであったが、
その意味するところは明白だった。モラリアム家次男、マタンキ。
彼がこの街『オドレウム』でその消息を絶ってから、既に三月が経過している。
捜索は継続されているものの、その生存は絶望視されていた。
そしてそれは自動的に、私トソンの破談へとつながる。
父にはそれが認められなかった。
“伯爵”の名を利用して新たな取引に手を出していた父にとって、
認められることでは到底なかったのだろう。故に父は様々な工作を駆使し――
その一環として、私をこの街へと送ったのだ。
モラリアム家現当主モララー伯の末子ミセリは、未だ独り身。
“例えマタンキが死亡していようとも、ミセリとの縁談を組めればすべての問題は解決される”。
父はそう考えていた。それも当然のこと。
父にとって大事なのは個人ではなく、そこに付随する価値なのだから。
そしてそれは、私にとっても同じこと。モノに所有者は選べない。
マタンキだとしてもミセリだとしても、そこに変わりはなんらない。
私はただモノとして、所有者の機嫌と企みにこの身を任せることしかできないのだから。
それが決められた、定めというものなのだから――。
.
8
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:10:52 ID:jQ0Pr1J.0
「いかがですか姉上、この街並み! 美しいとは思いませんか」
「はい、華やかに感じます」
「本当に香水店ばかりでしょう? 一説によれば『オドレウム』とは八〇〇年前、
時の教皇が主導して作り上げた街なのだそうです」
「教皇さまが」
「そうです、教皇猊下が。彼はその威光と神聖性を追求していく上で
香りの重要性に着目し、相応しき香りを生み出すよう民に競わせ、
それが現在のこの街の有り様につながっているのだとか」
「それは、悠遠な話でございますね」
「そうでしょうそうでしょう! この『オドレウム』が現在産出する香水量はなんと、
教会圏の六割近くに登るというのだから驚きです」
「まあ」
9
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:11:30 ID:jQ0Pr1J.0
得意気に語り続けるミセリの話に、適時相槌を打ち続ける。
石畳の上を駆ける街馬車のバルーシュで、話者は常に彼一人、聴衆はいつでも私一人。
街と香水に関する蘊蓄が、尽きることなく講義される。
「かように、この『オドレウム』の香水は歴史も品位も格別に優れたものですよ」
「感服いたしました。とても素晴らしいものなのですね」
「ええ、それだからこそ姉上に差し上げたい」
言ってミセリは懐から、ひとつの小瓶を取り出した。
金やダイヤで装飾された、麗しき橙。馬車の揺れに伴って、
半透明なその裡で艶やかな液体が水滴を上げる。
「これ一瓶で大型帆船が三隻は用意できる、よりすぐりの一品です。姉上、どうか」
手をつかまれた。つかんだ手の上に、彼の手が重ねられた。
彼と私の手のその中心に、橙の小瓶が収まる。
10
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:12:05 ID:jQ0Pr1J.0
「ミセリさま、けれどこんな……」
「いいえ、受け取って頂きます」
彼の手が、微かに私のそれを撫でる。
「ですが、このように高価な……」
「一足早い祝いの品と思って。姉上。どうかこのミセリに、
兄夫婦を祝う歓びを賜らせて頂けませんか」
馬車の中で逃げ場なく、彼の身体が私に迫る。
穏やかな物言いで、けれども有無を言わさぬ圧を伴い。
「……謹んで頂戴致します、ミセリさま」
「ああ、ありがとうございます。姉上に受け取って頂き、ミセリは感無量です」
馬車が止まった。先に降りたミセリが、私の下へ回って手を伸ばす。
それを取って、私も降りる。目の前には、巨大で壮麗な建造物。ミセリの話していた場所。
ここが『オドレウム』の、そしてこの管区の中心に位置する教会であるようだった。
.
11
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:12:48 ID:jQ0Pr1J.0
「また貴方ですか。私共が話すことはなにもないと、もう何度も説明したはずですが」
「いいえ、司教猊下。今日は別の用で参りました。姉上、こちらはワカッテマス猊下。
この素晴らしき『オドレウム』の街の、実質的な指導者であられる偉大な御方です」
「過度な煽ては却って不遜です、全く忌々しい。……して、そちらの御婦人は?」
ぎょろりとこぼれだしそうなほどに浮き出た双眸が、私へと向けられる。
私は何も言わない。私が何を言うまでもなく、ミセリが私を紹介する。
兄マタンキと婚約されている、トソン女史であると。
そうしてようやく私は、「御機嫌よう」と頭を下げた。
司教はそのまましばらく検分するように私を見つめていたが、
やがておもむろに胸の前で十字を切ると、神の使徒らしき厳かな声で祈りを捧げる。
「貴方と貴方の伴侶に、神の御慈悲がありますよう」
「お心遣い、痛み入ります」
「そういうわけで司教猊下、ボクは姉上に教会の中を
ご案内したいのですが、ご許可を頂けますか」
「教会の門戸は常に開かれています。ご自由になされば宜しい。ですが――」
12
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:13:33 ID:jQ0Pr1J.0
司教の浮き出た目が、一点を見つめる。私もそちらを見る。
講堂の奥。伽藍に坐した、聖母の像。聖なる息子の下僕となった、母子の形。
「外からいらした方には通例として、聖母像への礼拝を推奨しております。
まずはそちらから始められては如何か」
シスター。司教が張り上げた声を上げると、
前髪を清楚に切りそろえた女性が小走りに駆け寄ってきた。
シスターが「こちらへ」と、朗らかな声で私を誘う。
ミセリを見る。紳士然とした様子で彼が、行動を許可するジェスチャーを取った。
私はうなずき、シスターの後を追って講堂の奥へと進んでいった。
「むずかしいことはありません。聖域に満ちた聖なる気を胸へと吸い込みながら、
神と、メシアと、メシアを抱く聖母さまに祈りを捧げるのです」
そう言って彼女は手本を見せるように跪いて、
目を閉じ、両手を重ね、聖母像へと祈りを捧げ始めた。
私もそれに倣い、跪いて目を閉じ、両手を重ね、祈りを捧げるその真似事を行う。
そして彼女が言っていたように呼吸を意識し、辺りの空気を胸の奥へと吸い込んでいく。
13
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:14:52 ID:jQ0Pr1J.0
私は、熱心な正教徒ではない。増加の一歩をたどる進歩的な人のように積極的に
信仰を否定するつもりもないが、かといって心から神や教会の教えを信じているわけでもない。
産業が振興し、科学が奇跡のうそを次々暴き出していることは、
箱庭に閉じ込められた私の耳にも届いている。
無垢に信じ続けているには、神は余りにもその馬脚を現しすぎた。
それに――それに私はこれまで、神様に救われたと感じたことはない。
そしておそらくは、我が母も。神はいるのかもしれない。
しかし仮に存在したとしても、私は神に、なんらの期待も寄せてはいなかった。
……けれど、なぜだろうか。奇妙な感覚が、全身を包んでいた。
これまで味わったことのない心地。浮き上がった自分が自分を離れて、
あらゆるものを俯瞰的に眺めているような、そんな浮遊感。
一切の重みから解き放たれた、幸福な夢の中のような。
礼儀の一環として礼拝に参加したことは、これまでにも幾度もあった。
しかしこのような感覚を味わったことは一度もない。鼻から息を吸い込む。
清涼な空気――仄かに感じる香りが、胸の内に溜まる。不思議な――
あるいはこれこそが神秘的というのか――気分に、どろどろととろけていくような気がする。
それがなんとも、心地良い。このままずっととろけて、とろけて、私がなくなるまでとろけて――。
夢見心地から、乱暴に引き剥がされた。
.
14
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:15:35 ID:jQ0Pr1J.0
「ワカッテマスゥ!!」
身体が強張る。がなり声。父を、彷彿とさせるような。
それがすぐ側――耳元から聞こえてきた。私は立ち上がっていた。
無理矢理に、力で立ち上がらせられていた。背後には、密着した男。
乱暴に私を拘束し、喉元には――刃物。
「姉上!」
「近づくんじゃねぇ!」
喉元に当てられた刃によって、肉がへこませられたのが判った。
「話ならば聞きましょう。ですからその方を解放しなさい」
「全部知ってんだ、全部知ってんだぞ俺は!」
獣のように荒々しい獣臭が、鼻孔を漂った。
「何を知っていると言うのですか。あなたの要求はなんですか」
「しらばっくれんじゃねえ! 何度も……何度も何度も俺は陳情した! 何度も訴えた!
それを尽く無視してきたのはてめぇらじゃねえか!」
興奮が、体臭を通じて感じられた。
15
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:16:29 ID:jQ0Pr1J.0
「なんのことやら。私の耳には入っていませんね」
「返せって言ってんだよォ!」
「返せ? 我々が、貴方に? 失礼だが、貴方はなにやら誤解されているようだ。
貴方のような身分の者から盗るものなど、我々には存在しませんよ」
「俺の娘を! お前らが! 誘拐したんだろ! それを返せって言ってんだよ!!」
男の怒りが、我が事のように感じ取れた。
「それこそお話にならない。我々は聖職者、聖なる庭の住人です。
そのような神の御意志に反するような真似を、どうして行うことができましょうか」
司教の落ち着き払った声が講堂内を振動させる度、臭いが濃くなるのが判った。
「刃を下ろしなさい。懺悔し、己が罪を悔い改めるのです。
さすれば神は、必ずや貴方をお許しになることでしょう」
そして、判った。この先に起こる運命が。
「うぅ……ちくしょう、ちくしょう……」
この男の所有物として――。
「ちくしょう――!!」
壊されるのが――。
「まっ――」
私の運命――――。
軽い硝子の、割れる音。
.
16
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:17:11 ID:jQ0Pr1J.0
「お怪我はありませんか、マドモアゼル」
緑の薔薇が、胸に一輪。
目を開けて、最初に飛び込んできたのが、この落ち着いた緑の色彩だった。
視線を上げる。人の顔。細く深い切れ長の目に、仄かな口角のカーブ。
まるで彫刻のように奇妙な均整を保った紳士が、私の目の前で膝をついていた。
背後を振り返る。男がいた。私を人質とし、怒りのままに猛り狂っていた男。
あれほどの狂態を晒していた男がどういうわけか、いまは完全に沈黙していた。
「おすわり」
「……あい」
言われて男が、その場に座る。
焦点の合わない視線で虚空を見上げ、口の端からは唾液を垂らして。
まともな様子ではなかった。いったい、何が。彼の直ぐ側には私の喉元に
突きつけられていた刃物と――あれは……砕けた香水の、瓶?
17
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:17:40 ID:jQ0Pr1J.0
「確保!!」
いつの間にか集結していた番兵たちが、怒涛の勢いで私の背後の男に突撃していく。
その勢いは凄まじく、触れたわけでもないのに私は煽られ、体制を崩してしまう。
「おっと」
紳士の手が私をつかみ、引き寄せた。
緑の薔薇のそのすぐ横に、私の頭が押し当てられる。
ひんやりとした紳士の熱に、生の鼓動。仕立ての良い衣服の感触に、そして――匂い。
私は「あ」と、意図せぬ声を漏らしていた。
.
18
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:18:24 ID:jQ0Pr1J.0
―― ※ ――
「ほう、ではアニジャさん。あなたも調香師なのですね」
「ええ。一流と呼ばれる先達には遠く及ばぬ、まだまだ未熟な若輩ですが」
「ご謙遜を。先程の技、あれは見事なものでした。あんな真似ができる者など、
『オドレイユ』広しといえどあなたを置いて他にいないでしょう。
あれはいったいどのような魔術をお使いになったのですか」
「魔術ではありませんよ、ムッシュミセリ。あれはれっきとした、科学です」
言って彼――アニジャと名乗った紳士は、深々とした紫色のぶどう酒に口をつける。
――完璧だと、私は感じた。所作振る舞いのそのすべてが、
余りにも理想的な完璧を体現していると。とても信じられなかった。
このように完璧な人が、まさか平民の出であるだなんて。
19
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:19:30 ID:jQ0Pr1J.0
「ご存知ですか。視覚、聴覚、触覚、味覚――そして嗅覚。
俗に五感と呼ばれる人体の機能において脊椎を経由することなく
直接その信号を脳へ送るのは、ただ嗅覚だけであると言われていることを」
白色テーブルを囲んでいま、私たちは食事を取っている。
私を助けたお礼にと、ミセリが選んだ店で。それは入店するにも限られた資格が
必要となる高級店で、客の側にも厳格な一挙手一投足が求められる場所であった。
それは幼児期からの躾を受け、社交界に揉まれながら身につけていくような困難なもの。
こうした上流社会の作法を、彼――アニジャは完全に理解して、実践していた。
平民出だという、彼が。そんなことが、本当にありえるものだろうか。
「脳の中でも古い脳――理性や思考ではなく、もっと原始的な欲求を司る部位と、
嗅覚は直につながっているのです。故に嗅覚は、本能と最も強く結びついた感覚であると
昨今では考えられているのですよ。深い、深い……イドにも等しい衝動と」
胸に差した緑の一輪。その身に引き寄せられた時に感じた――匂い。
20
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:20:24 ID:jQ0Pr1J.0
「ですから匂いを極めた者は、感情を制御することすら可能になるのです。
臆病な心には戦意を起こし、怒りに呑まれた感情には平穏を呼び込むように――」
「つまり」
吸い込まれるように、見つめてしまう。
「あなたは先程の暴漢を、匂いによって手なづけたということですか?」
「ええその通りですよ、ムッシュ」
「いやはや……あなたの話は大変興味深いな。それに、恐ろしくも思う」
「科学とは神秘を拭い去り、人間が唯の物質であると証明するもの。
恐ろしく感じるのも当然でしょう」
「それですよ、あなたは余りに科学的だ。あなたの話を聞いているとまるで、
高名な教授の講義にでも耳を傾けている気分になる。失礼かもしれませんが、伺わせて頂きたい。
あなたはなぜ、調香師という職に甘んじておられるのか。
あなたのような人であれば、もっと適した仕事があるように思われますが」
「簡単なことですよ」
アニジャ――。
「再現したい香りがあるのです。忘れることのできない、私にとって唯一無二の香りを」
――さま。
21
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:20:54 ID:jQ0Pr1J.0
「ところで」
心臓が、どきりと跳ねた。
彼の目が、その細く深い切れ長の目が、私に向けられて。
「マドモアゼル、お加減でも優れないのかな」
「え」
「せっかくのお食事に、手を付けておられないご様子でしたから」
ばくばくと、心臓が暴れた。ああ私は、なんて愚かな女なのか。
食事も忘れて、彼に見入っていただなんて。まさか勘付かれてはいないだろうけれど、
でも、この真理すら見通してしまいそうな目には、もしかしたら。ああ。
「いえ、その」
どうしたものだろう。どう答えたものだろう。
彼だけでなくミセリまでもが、訝しげな視線を投げかけている。
ああ、私は何をしているのか。このようにはしたない思いを――人のように抱くだなんて。
ああ、ああ。
22
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:21:45 ID:jQ0Pr1J.0
「まだ、ショックが」
言って私は心意の顕となった面を隠すように、顔の前へと手を掲げる。
わざとらしくはないだろうか。児戯に等しい謀略を、見抜かれてはいやしないだろうか。
指の間の隙間から、緑の薔薇の彼を見る。
「それは配慮が至りませんでした。そうですね。
お心尽くしは充分に頂きましたし、本日はこれにて――」
「いえ!」
店の中に、私の声が響き渡った。ウェイターや上品な身なりをした人々の視線が、
非難を帯びて私に刺さる。すぐ隣に座るミセリも、不思議そうな目をしていて。
「……いえ、大丈夫でございます。もう、収まりましたので」
消え入りそうな声で私は、ようやくそれだけ絞り出す。
彼は――アニジャさまは何も言わず、あの仄かに口角の上がった
アルカイックスマイルで私を見つめていた。
私はずっと手を付けていなかった料理へと、視線を落とす。
23
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:23:25 ID:jQ0Pr1J.0
後はミセリとアニジャさまが、二人で会話を続けられていた。
ミセリが先に言ったようにその博識ぶりと佇まいは、一介の調香師とは到底思えなくて。
「そうなのですか。こちらへはいつまで?」
「ニヶ月ほど。我が家へ入られる前の、最後の思い出作りをして頂こうと思いまして」
私へと向けられた彼の問いに、ミセリが答える。
私以上に私の事情を把握しているミセリが、私の意思とは無関係に決められた期限を口にする。
「ああ、そうでしたか。であればマダムとお呼びするべきでしたね」
私が人のモノであることを、暗にミセリが彼へと示す。
彼もそれを汲み取って、私への呼び方を相応しきそれへと変える。
マダム。マダム。ああ、なぜ。なぜこんなにも胸が苦しいのか。
私がモノであることは、定められた運命だというのに。
私もそれを、受け入れていたというのに。どうして私は。どうして――。
「機会があれば私の店へお寄りください。できる限りのもてなしをさせて頂きますので」
「ええ、機会があれば」
食事を終え、店を出て、外に待たせた馬車の前で、私たちは社交辞令の挨拶を交わす。
ミセリが馬車へと乗り込む。「さあ姉上」と、手を差し出してくる。
私はそれをつかもうと手を伸ばして――けれど伸ばしきれず、躊躇って、
中空で指先を漂わせ。アニジャさまへと向き直って。
24
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:24:08 ID:jQ0Pr1J.0
私。ああ、私。
「あの」
許されるならば。
「その」
もう一度、もう一度あなたに。
「私――」
お会い、したく――。
「……いえ、本日は本当に、なんとお礼を言えばよいか」
「よいのですよ、マダム。貴方のような方に何かあっては、国家にとっての損失だ」
ミセリが私を呼ぶ。もう引き延ばせない。会釈をして、彼に背を向ける。
伸ばされたミセリの手を取って、馬車へと乗り込む。御者が馬へと、手綱を振るった。
車輪が回り、動き出す。彼の姿が、アニジャさまの姿が離れていく。小さく、小さく離れていく。
届かない場所へと、本来ありうべき私達との距離へと――。
.
25
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:24:59 ID:jQ0Pr1J.0
―― ※ ――
「姉上、ミセリのためにも外出はお控えくださいね。
姉上の身に何かあればタカラ卿や兄上に顔向けできませんから」
どうかしていた。明らかに、気をおかしくしていた。
私はモラリアムの家に嫁ぐことが決まったモノで、私はもう私のものではない。
立場も、身体も、それに心も。所有されるモノである私に、感情など不要なのだ。
私は何を期待していたのだろう。
あの出会いに、その佇まいに、なんの特別を見出したというのだろう。
そんなものは、ない。ないのだ。私の人生において、特別などというなにがしかは
過去にも未来にも存在しない。存在してはならない。だからもう、彼と会うことはない――
いや、会ってはならないのだ。
アニジャさま。
……ああ、いけない。考えてはいけない。想ってはいけない。
考えるだけで、想うだけで、封じたはずの心が騒ぎ出す。私が私の支配を目論みだす。
これまで感じたことのない情動が、尽きせぬ水の如くに沸き上がってくる。
いけない、いけない。望んではいけない、願ってはいけない。期待してはいけない、いけない――。
26
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:26:03 ID:jQ0Pr1J.0
「トソンさま、お手紙が届いております」
かしこまったボーイが届けてくれた、丁寧に設えられた手紙。
華美には過ぎず、さりとて高貴な気配は損なわず。父からだろうか。
しかし父の意匠にしては、余りに品が良すぎる。
手紙を裏返して私は、控えめに記された差出人の名前を見た。
「あ」
息を、呑んだ。どうして。なぜ。なぜ――あの方から。心臓が早鐘を打つ。
逸る気持ちを抑えて私は、努めて呼吸を整え、手紙に書かれた本文に目を通していく。
『トソンさま、お加減は如何でしょうか』
アニジャさま。アニジャさまだ。アニジャさまからのお手紙だ。
手紙には昨日の食事のお礼と、私の体調を心配する文言が、
彼の印象と合致する流麗な筆致で綴られていた。その文章を、指の腹でなぞっていく。
何度も、何度も、これを書いたあの人そのものをなぞるように、触れていく。
指の先が、燃えるような熱を帯びていく。
『もし迷惑であれば、捨ててしまわれても結構です。
お気に召しませんでしたら、交換にいらしてくださっても構いません。
私の店はルドニツカ通り三番地の――』
気持ちを落ち着かせ、癒やしをもたらす効果のアロマを同封したと、手紙には書かれていた。
私を想って用意してくださった。アニジャさまが、私に。
抑え込もうとしていたものが、吹き出す。
ベッドの上に背中を着けて、ああどうしようもなく、私は転がる。
27
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:26:49 ID:jQ0Pr1J.0
しかしそこで、はたと気づく。手紙の中に書かれていたアロマ。
その姿が、影も形もなかった。送り忘れたのだろうか。まさか、彼に限ってそんなこと。
けれど事実として、彼の贈り物は私の手元に存在していない。これはどういうことだろう。
ちくちくとした痛みに、心が左右へ揺さぶられる。
戸口から、ノックの音が聞こえてきた。
「申し訳ありませんトソンさま、こちらの手違いで別のお客様に渡してしまったようで」
薄っすらと額に汗を浮かばせ、支配人が何度も頭を下げる。
どうやら彼が言うには香水を受け取った客は既に出かけてしまっているそうだ。
帰ってき次第事情を説明するつもりだが、いつ帰ってくるかも判らないのだという。
申し訳無さそうに何度も頭を下げる支配人に、けれど私は責めるつもりなど毛頭なく。
彼の謝罪の言葉も、耳にはほとんど入っていなかった。
その時私は、まったく異なる思案に耽っていた。
.
28
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:27:37 ID:jQ0Pr1J.0
「マドモアゼル、いらしてくださったのですね」
来てしまった。来てしまった。本当に来てしまった。
ミセリにも告げず、一人で本当に来てしまった。震える。収まらない。
いけないことをしているような後ろめたさと、この人を前にした正体不明の
感情とがないまぜとなって、身体の震えがまるで収まることを知らない。
だって、そう、私は来てしまったのだ。
アニジャさまのお店へと、来てしまったのだから。
「……申し訳ありません、アニジャさま」
違う。私は、正当な理由があって来たのだ。
「アニジャさまが送ってくださったアロマですが、
お受け取りすることができず――」
せっかくの好意をすぐに頂戴することができなかったお詫びとして、
作法として、謝意を伝えに来たのだ。私がここに来た理由はそれだけ、
たったそれだけのことに過ぎないのだ。
29
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:28:27 ID:jQ0Pr1J.0
「マドモアゼル――いや、マダムとお呼びすべきでしたか」
マダム、そう、彼が言う。
「気にされることはありませんよ、マダム。
貴方の非など、どこにも存在しないのだから」
マダム、マダム、私に向かって彼が言う。
「それよりもマダム、お加減が優れたのであればそれがなによりです。
マダムの快復されたお姿を拝見できて、私の方こそ救われる思いです」
マダム、マダム、マダム――。
「マダム」
「アニジャさま」
ああ、私は――。
「どうか……どうかマドモアゼルと」
私は、何を言って――。
彼は笑っていた。ミステリアスに。真意の端すら伺えない、けれどもこちらの心は
見透かしているような、不可思議な態度で。昨日に変わらず、胸元に差された緑の薔薇。
その薔薇を中心として漂うような、心をかき乱す芳香。
この匂いだ、この匂い。この匂いが、私を狂わせる。
モノであったはずの私を、私以外の何かに――いや、私自身にしてしまう。
望むことを、願うことを私に強制してしまう。
30
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:29:21 ID:jQ0Pr1J.0
「マドモアゼル、つい先程新作ができたところです。よければお試し頂けませんか」
「……はい、よろこんで」
彼の手が、私の手をつかむ。その目と同じように細く、長く、
繊細な色気を感じさせる細指。果たして私はいま、まともでいられているだろうか。
手首に雫が、垂らされる。彼の指が、浮きでた私の血管をやさしく撫ぜる。
垂らされた雫が、皮膚になじんでいく。
「……素敵な、お店ですね」
私の声はいまきっと、隠しようもなく震えている。
「ありがとうございます。小さな店ですが、弟と二人で建てたものですので」
「弟君が、いらっしゃるのですか」
「私には不釣り合いな、よくできた弟ですよ。
いまは離れたところにいるのですがね」
「いつかお会いしたくございます」
31
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:30:21 ID:jQ0Pr1J.0
彼の指を見ていると、本当に頭がおかしくなりそうで。
だから私は、意図して店内へと視線を向ける。小さな店。
彼が言った通り、店舗はそこまで大きくない。
けれども壁という壁に、棚という棚に色とりどりの
香水瓶が並べられている様は、壮観の一語に相違なかった。
静謐な店内に差し込む陽光が様々な硝子瓶に反射して、
まるで霊験あらたかな聖地のようですらあって。
「……このようにたくさんの香水、きっと管理されるだけでも一苦労なのでしょうね」
「ええ。実を言うとつい先日、唯一の従業員が辞めてしまいまして」
「まあ」
「マドモアゼル」
中指に、薬指に、小指。彼の三本の指が、私の手首を持ち上げる。
その力の流れに沿って、私自身も腕を上げる。鼻を寄せる。
彼の調香した香水を、胸の奥へと吸い溜める。
「……なんて、爽やかな。このような香り、これまで味わったこともございません」
「ありがとうございます。では、これは差し上げましょう。貴方と再会できた幸福の証に」
「そのような」と私は言いかけ、けれど彼の目を見て何も言えなくなってしまう。
ああなぜ、なぜこの人はこんな顔ができるのか。私がこれまで見てきた男たちと、
どうして彼はこんなにも違うのか。私はただただその目に射すくめられ、
自分のものではないような声で「ありがたく」と、彼の手渡す小瓶を受け取った。
.
32
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:31:06 ID:jQ0Pr1J.0
「マドモアゼル、暗くなる前にお帰りなさい」
店に並んだ香水を眺めて、小一時間も経った頃だろうか。
落ちかけた陽を眺めながら、穏やかな声で彼が言った。
「アニジャさま。けれども私、馬車ですから」
「だとしてもですよ」
有無を言わさぬ、彼の口調。
「この街ではいま、厄介な事件が起こっているのです」
彼の口にした、事件。それはおそらく、ミセリが追っているマタンキの――
ひいてはこの街で起きているという、『連続失踪事件』のことだろう。
犯人も、動機も、被害者たちの関連性も不明。
そもそも『事件』という呼称が正しいのかどうかすら、
それすらも定かではないという怪現象だ。
街の中がどことなくぴりぴりしているのも、そのせいだろう。
注意するに越したことはないのは、私にも理解できる。
それでなくとも女性の一人歩きが危険なことくらい、判っている。
――けれど、けれど私は。
33
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:31:46 ID:jQ0Pr1J.0
「表までお送りしましょう。さあ、マドモアゼル」
紳士な彼の、エスコートを受ける。あくまでも紳士的な、彼の振る舞い。
けれど私は別れたくない。次会う口実も作らぬままに、このまま別れてしまいたくない。
だから私は、口走った。
「私では」
考える間もなく、勢い任せに言葉を走らせた。
「辞めてしまわれた方の代わり、私では務まりませんでしょうか」
アニジャさまが初めて、驚かれたような顔をされる。
「あなたのような方にお願いする仕事では――」
「そのようなこと」
アニジャさまの手を、両手に握る。
「生命を救って頂いたのです。きちんとお返しをしなければ、
家の名に傷をつけてしまいます」
熱を込めて、離さぬように。
「アニジャさま、どうか」
どうか。
34
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:32:21 ID:jQ0Pr1J.0
「……思ったよりも、貴方は頑固な方のようだ」
固く握った私の手を、自由な側の彼の手が、労るように解きほぐす。
そして彼は、初めて出会ったあの時のように膝をついて、やわらかに私の手を取って――。
彼の唇が、私の手の甲に、触れた。
「『ビアンジュエ・パルファム』へようこそ、マドモアゼル」
痛烈に、思った。
かつてない欲求に焦がれながら私は、ただただその一事に支配された。
私は――私はこの人のことが、知りたい。
.
35
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:34:06 ID:jQ0Pr1J.0
―― DeuX ――
『ビアンジュエ・パルファム』。
アニジャさまのお店の名前。素敵なお名前。
けれどその由来が、私には判らない。
どういう意味かとお尋ねしても、アニジャさまは笑ってはぐらかされた。
『ビアンジュエ・パルファム』。
そこまで繁盛したお店ではないようだった。
大抵の時間は閑散とし、常連だという方々が時折大量に
買い込まれていくのが主な取引となっているらしかった。
釈然としなかった。だって、アニジャさまの香水は
贔屓目を抜きにしても素晴らしいものばかりで。
なのにどうして、このようにひっそりとした商売を続けられているのか。
アニジャさまに尋ねてみた。「これくらいで丁度よいのです」と、アニジャさまは微笑まれた。
『ビアンジュエ・パルファム』。
商品を陳列した店舗の裏には、香りの基礎となる薬剤の整理された工房が広がっていた。
原材料から匂いを抽出するための蒸留器や、遠心分離機という名の工業的な装置も
そこには並べられていた。危険なものもあるので気をつけてと言われ、
とにかく私はそれらを割らぬよう、細心の注意を払うことを心に決めた。
36
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:35:00 ID:jQ0Pr1J.0
『ビアンジュエ・パルファム』。
私の担当は店番と掃除。といっても、するべきことは殆どない。
お客様がいらっしゃることは稀にしかなく、それらの稀も私ではまず応対できない。
言伝を頂き、それをアニジャさまに伝えるのが精一杯といったところだ。
それに、掃除も。アニジャさまは綺麗好きであられるのか、
それとも精油作りには清潔であることが不可欠なのか、
私が掃除するべき箇所など僅かにも残されてはいなかった。
だから私は、既に綺麗な箇所を更に磨くような、
そのような甲斐なき仕事にしか従事することはできなかった。
けれどそれでも私の心は、かつてない輝きに満ち満ちていた。
原料となる植物などが、船に乗せられ遠い遠い海の向こうから
運ばれてくるだなんて知らなかった。熊のような薔薇の山から、
一粒の涙程度の精油しか抽出できないだなんて知らなかった。
瓶の細工があのように熱く危険な職人の技で行われているだなんて知らなかった。
こんなに小さな香水瓶が、これだけ多くの人を介して完成していただなんて知らなかった。
『ビアンジュエ・パルファム』。アニジャさまのお店。
『ビアンジュエ・パルファム』。華やかな香水香る、秘されし花園。
『ビアンジュエ・パルファム』。私の、新しい居場所。素晴らしき場所。
だけれども。違う、そうじゃない。私が、私が本当に知りたいのは。
.
37
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:36:19 ID:jQ0Pr1J.0
「行ってらっしゃいませ、アニジャさま」
私が任された掃除場は、店舗と工房の一部だけ。
厳命されたわけではないけれど、他の場所には触れぬようやんわりと言い含められていた。
表に置いている以上に危険な薬剤や装置があるからと。
うそではないのかもしれない。でも私は、アニジャさまのことをまだ知らない。
知らないどころか、なにかひとつでも理解している確信を持てていない。
アニジャさまのことが知りたくてここへ来たというのに。
それもミセリには秘密のまま、いつ露見してもおかしくないという状況で。
ミセリはきっと、良い顔をしない。
下女のように働くことも、誰かにこうして仕えることも。ミセリはきっと、許さない。
だから私はなにより早く、彼のことを知らなければならない。
アニジャさまという方のことを、その神秘の底に至るまで、
知り尽くしてしまわなければ収まらない。でなければ私の狂えるこの感情は、
私自身を燃やし尽くしてしまうだろうから。猛る期待に呑み込まれたまま、
二度とは元にもどれないだろうから。
38
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:37:25 ID:jQ0Pr1J.0
工房の奥の、そのまた奥。煉瓦重ねの造りにあって、明らか異様なその扉。
分厚い鋼鉄の、重苦しさを覚えるそれ。これが開けられているところを、私は見たことがなかった。
一度尋ねてはみたものの、店には関係のない場所だと素っ気なく返された。
けれど私は知っている。うっすらと締まりきっていない扉の奥から、
人の話し声が聞こえてきたのを。アニジャさまがそこにいる誰かと、
私と話すときとは異なる声で歓談されていたのを。
知りたい、と、思った。
だから私は、機を待った。アニジャさまが得意先へと向かう、その機会を。
そしていま、機会はここに訪れた。しんと静まる工房に、私の足音が反響する。
いやに大きな音。いつもはこんなに響かないのに。
かつん、こつん、かつん、こつん。後ろを振り返る。
だれもいない。当然だ。この店にはアニジャさまと私以外には働き手はいない。
お客様も、ここまで入ってこられることはない。だからここには、私以外だれもいない。
だというのに、だれかに見られているような気配を感じる。
私の足跡に隠れて、誰かが異なる足音を重ねているように感じる。
39
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:37:58 ID:jQ0Pr1J.0
それでも私は、歩み進んだ。扉の奥の、その奥目指して。
ここにはきっと、アニジャさまの秘密がある。それがなにかは判らないが、
絶対確実になにかある。私の勘が、そう告げている。鋼鉄の扉。
のぶを手に取る。鍵はかかっていない。
いけないことをしている。私はいま、いけないことをしようとしている。
耳の奥が圧迫して、視界が白んで、いまにも倒れそうな心地になる。
それでも、知りたい。アニジャさまを、知りたい。あの方の正体を、私は――。
地面を削る重い音。僅かな隙間から漏れ出た空気が、
圧縮されて、そのまま雪崩れて――。
40
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:38:41 ID:jQ0Pr1J.0
「何をされているのかな、マドモアゼル」
反射的に、手を離した。振り向こうとする。ただその場で、振り向こうと。
そんな単純な動作が、なぜだか異様にぎこちなく。錆びた鉄のようにきしんだ音を立てて、
私はようやく彼に向く。そこにいたのは――アニジャさま。
「わ、たし」
……いやです、私。
「その」
私、これきりで。
「掃除、を」
貴方と、離れたく――。
「マドモアゼル」
伸ばされる、彼の手。その手に怯えるよう不随意に、私の身体は私を無視して強張って。
これでは拙い言い訳すらも、用をなさない空言と知れてしまうというのに。
けれど彼はそれでもなお、あくまで紳士の装いで。
「ついてきて頂けますか」
差し出されたその手に押し付けはなく、ただただ私の応えを待って。
緑の薔薇の微笑みは、崩れることなく私を見つめて。
だから私は彼のその手に、いつかのように我が手を重ねる。
.
41
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:39:41 ID:jQ0Pr1J.0
「ああアニジャさま、お越し頂けるとお教え頂ければこちらから出向きましたのに」
「いいえ、サダコさん。お気遣いは無用です。ギャシャくんは?」
「いつものように、大人しく。ささ、中へ、中へ」
繁華街から離れ、住宅地の中でもどことなく寂れた――
歯に衣着せずに言ってしまえばうらびれた場所。
どこからか得体の知れない腐臭が漂う地の一角に、そのあばら家は建っていた。
中から現れたのは、傷んだ髪を長く伸ばし放題にしている女性。
前面が固まった前髪に覆われたその顔からは表情を読み取ることはむつかしかったものの、
彼女とアニジャさまが旧知であること、そして彼女がアニジャさまを
信頼している様は容易に感じ取られた。
アニジャさまに続き、私も家の中へと足を踏み入れる。
ぎぎぃと、頼りのない音が足元から響く。バランスを崩さぬよう注意を払いながら通りすがり、
この家の家主らしきサダコ女史に会釈をした。彼女からの返事はなかった。
ただ、髪の隙間から覗く彼女のその目が、私を見ていることだけは判った。
妙な熱を感じる視線を背中に受けながら私は、一人で先へと進むアニジャさまの後を足早に追う。
42
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:40:44 ID:jQ0Pr1J.0
「アニジャさま、こちらは?」
辿り着いた先には、少年がいた。大人しく、椅子に座っている少年。
まるで眠っているかのように――あるいは呼吸を停止しているかのように、
みじろぎひとつしない少年――いや、もしかしたら少女だろうか――が、そこに座っていた。
「彼はギャシャくん。私の大切な友人です」
「ギャシャ、さま……?」
「マドモアゼル、彼はまるで死んでいるようでしょう?」
「え。いえ、そんな」
「事実として彼はいま、死の眠りに耽っているのですよ」
「お手を」と、アニジャさまが私の手を誘導する。私は彼に導かれるまま、
眠る少年の手に触れる。温かい。ちゃんと、生きている。アニジャさまの手が、
更に上方へと私の手を誘導する。少年の腕に、肩に、首に、私の手が触れる。
その顔に、どことなく気品を感じさせる少年の中性的なその顔に、私の指先が触れる。
艶やかな肌。押し込んだ指が、皮膚そのものの持つ弾力に弾かれる。
閉じた目元、形の良い小ぶりな鼻、結ばれた唇。それらをゆっくり撫でていく。
人に向かってそうするのではなく、愛らしい人形を愛撫するように。
少年は、まったくの無抵抗だった。むずがるでもなく、一向に目を覚ます気配もない。
本当に、生命を持たぬ死体のように。死体のように、そこに在る。
匂いを発さず、そこに在る。
43
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:41:35 ID:jQ0Pr1J.0
「アニジャさま。彼は、いったい」
あなたはいったい彼を通じて、私に何を示そうとしていらっしゃるのですか。
心の中での私の訴え。その疑問にアニジャさまが答えることはもちろんなく、
彼は手品師が自身に技を披露する時のように持参した荷物を拡げていた。
即ち、調香用具と、無地のハンカチーフと、一個の美術品として完成された香水の小瓶。
アニジャさまが、私に微笑む。微笑んで、ハンカチーフへと少量の香水を垂らし、
なじませたそれを中空でふわりと振った。濃厚な、重量を有した香りが辺りに漂う。
部屋の中に、数万を超える果実の結晶が充満していく。
その行為になんの意味があるのか判らないまま、しかし私は彼の動きに魅せられていた。
手品のような――魔法のような、彼の動きに。
「……アニジャ」
聞き慣れぬ声が、部屋の中央から発せられた。大人のものではない、甲高な声。
まさかと、私は部屋の一点を凝視する。あれほど触れても
なんの反応も示さなかった少年が、目を見開いていた。
「アニジャアニジャアニジャアニジャ」
少年特有の甲高な声で、彼が同じ言葉を繰り返す。
抑揚なく、一定のリズムを刻むような調子で。これは、いったいなにが。
その答えを得るよりも早く、アニジャさまが彼の前に膝をついた。
44
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:42:29 ID:jQ0Pr1J.0
「おはよう、ギャシャくん」
「遅い遅い遅いアニジャ遅い遅い」
無表情のまま少年が、アニジャさまを責める。異様な迫力。
この子はいったい、なんなのか。しかしアニジャさまは
気にする様子もなく、あくまでもあの微笑みを崩さずに。
「今日はまた、ずいぶんとおしゃべりな君だね」
「腹の底がかっかしているかっかだアニジャこのぼくは短気だずいぶんと短気みたいだ」
「おや、この香りは好みでなかったかい」
「判らない判らないけれど冷静な感じはしないしないなアニジャ」
「そうかい、ではこれならどうかな」
言ってアニジャさまは、手元の用具で調香を開始した。
限られた道具を器用に扱い、そしてまた、匂いを染み込ませたハンカチーフを少年の前に振る。
するとあれほどまくし立てていた少年がとつぜん安定感を失い、ふらふらと頭を揺らしだした。
「アニジャ……これはよくない……。朦朧としすぎる……。まぶたを開くのも……一苦労だ……」
「それはすまない。ではこうしてみようか」
少年の求めに応じて、アニジャさまが再び調香を行われる。
今度は先程までよりも時間を掛け、慎重で、真剣な様子が傍から見ていても伺えた。
そして完成させたそれをアニジャさまは、少年の鼻前へと漂わせる。
少年の瞳に、確かな理性が煌めいた。
45
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:43:17 ID:jQ0Pr1J.0
「……うん、冴えている。今日のぼくにぴったりな感じがする」
「それはよかった」
そうして、何かが一段落ついたようであった。
しかし私には、この場で何が行われていたのか判らない。
判ったのはなんの反応も示さなかった少年がいきなり目を覚まし、
その調子を非人間的に可変させたこと。そしてその変化の前には、
必ずアニジャさまの香水が部屋の中に漂ったこと。それくらいのことしか、私には判らなかった。
アニジャさまがいったい何をされているのか。この少年はいったい何者なのか。
そしてなぜ、私をここへ連れてきたのか――。
「アニジャ、この女は」
少年の声で、疑問に支配された私の思考が途切れる。
「彼女はトソンさん。私の店で働いて頂いている方だよ」
「そうか」
46
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:44:02 ID:jQ0Pr1J.0
椅子に座った少年が、私を見上げている
「トソンと言ったな」
椅子に座ったままで少年が、手を差し出してくる。
「アニジャを宜しく頼む。この男はこう見えて、ずいぶんなさびしがりなんだ」
「え? あ、はい」
彼の言葉の意味を理解するより前に、差し出された手を握っていた。
ギャシャという名の、この少年。ずいぶんと大人びた言葉遣いのこの子はいま、
なんと言っていたのだろうか。アニジャさまが、さびしがり?
「ギャシャくん、女性を困らせてはいけないよ」
私と少年の握り合わされた手に、アニジャさまの手が重なる。
「なぜだ」
「今日の君は男性だろう?」
「……言われてみれば、そうかもしれない」
「紳士は淑女に礼を尽くすものだよ」
「そういうものだろうか」
「そういうものだとも」
47
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:44:34 ID:jQ0Pr1J.0
少年の手から、力が抜ける。私の手から、少年の手が離れる。
アニジャさまは受け皿のようにその手を支え、少年は力なくその手を下ろしていく。
「……アニジャ。今日のぼくは、これで終わりか」
「その通りだよギャシャくん。今日は彼女に、君のことを紹介しようと思ってね」
そうして少年は、私達がこの部屋へ入ってきたその時のように目を閉じて。
「おやすみギャシャくん。次はもっと長い時間話せるようにしておこう」
「楽しみに……している……」
部屋の中から、匂いが消えた。
.
48
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:45:29 ID:jQ0Pr1J.0
「ああアニジャさま、ありがとうございました。
ギャシャもきっと、アニジャさまに感謝しているはずでございます」
「いいえサダコさん。これは私が好きでしていることですから。
どうかそのように畏まらないでください」
「いえそんな、とんでもない、とんでもないことで……」
サダコ女史はずいぶんと熱っぽい様子でアニジャさまの手を握り、
中々それを離そうとはしなかった。ありがとうございますと散々に繰り返す彼女。
そこから漂う、匂い。彼女の本心が、漂う。
一〇分も過ぎてからだろうか。ようやく開放されたアニジャさまは、
私を連れて彼女と少年を残した家を離れる。腐臭漂う区画を後にする。
そうして立ち去る私の背には、入った時と同じように射すくめる視線が、
暫くのあいだ突き刺さり続けていた。
.
49
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:46:30 ID:jQ0Pr1J.0
―― ※ ――
「このような場所で申し訳ありません。ですが、味の方は私が保証致します」
お食事。アニジャさまと。海辺の店で。賑やかしく、ごった返して、
荒々し気な歌まで聞こえる。これまで私が、足を踏み入れたことのないような場所。
食卓を隙間なく敷き詰めるかのように並べられた、獲物の原形をそのままに
留めた見知らぬ料理の数々。どのように口をつければ良いのか、まるで判らなかった。
「マドモアゼル、このように」
戸惑う私にアニジャさまが、目の前で実演される。力任せに殻を剥ぎ、頭を千切って、
身をしゃぶる。あるいはそれは、下品としか言いようのない食し方。
けれども私は、私の心臓は、紳士的な振る舞いしかされてこなかったこの方の
意外な野性に際して、きゅうと弱々しい悲鳴を上げるばかりで。
「さあ、貴方も」
見様見真似で、模倣する。油に触れた手の感触に軽い不快感を覚えながら、
見守る彼の前で殻を剥ぎ、頭を千切り……そこだけは手で覆い隠しながら、身に歯を立てた。
口いっぱいに拡がる、海の香り。刺激的な味がした。
50
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:47:11 ID:jQ0Pr1J.0
「あの、アニジャさま。お尋ねしても宜しいでしょうか」
「なんなりと」
「あの少年は、どういう」
羞恥心を些か麻痺させこの海辺の食事に慣れ始めた私は、彼に向かって問いかける。
あの家で起こった出来事、そしてあそこから私に何を教えようとしたのかを。
けれどアニジャさまは、微笑んだまま。
「貴方はどう思われましたか」
「私ですか?」
「ええ、マドモアゼル。貴方がどう思われたか、それを先にお教え頂いても宜しいでしょうか」
「私は……」
質問を返された私は、あの場で起こったことを思い返す。
部屋の中央で、人形のように座っていたギャシャ少年。生物感のない、その有り様。
それが突如として、その様を変えた。アニジャさまが香りを変える度まったく違う態度に、
まったく違う存在のように。同じ身体を共有する、別人のように――。
51
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:48:05 ID:jQ0Pr1J.0
「……このように思うのは失礼なのかも知れませんが、私にはあの少年が、
不可思議な絡繰のように思われました。特定の刺激に反応して、
決まった行動を再現するような、そのような、絡繰に……」
「素晴らしい」
アニジャ様が手を叩く。あるいは気分を害されるかもしれないとすら
思っていた私は彼の反応に、むしろ戸惑いを覚えた。
しかし彼は私の戸惑いを他所に、私の最初の疑問への回答を行っていく。
「彼は確かに人間でありながら、けれど同時に絡繰なのです。
自己同一性を失った、記憶なき絡繰機械」
「自己、同一性?」
「連続する自分を、確かに自分と認識する機能です。彼にはそれがない。
それがない故あのように、静止する以外の行為を行えないでいるのです」
それを人は、病と呼ぶのですがね。そういう彼の顔には、どこか悲しげな影が宿り。
打ち消すように、のどから言葉がついて出る。
「けれど彼は、確かにあなたとお話を」
「あれは香りの記憶なのです」
52
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:48:52 ID:jQ0Pr1J.0
香りの……記憶?
「ご存知ですか、マドモアゼル。香りとは、人の記憶と密接な関わりを持つものなのですよ」
「そう、なのですか?」
「新緑の葉に包まれた時、淹れたての茶に口をつけた時、焔が走る焦げた烟りに呑まれた時。
ふとした瞬間に嗅いだ香りから在りし日の出来事がありありと呼び覚まされる――
そのような経験、貴方にもおありではありませんか」
言われてみれば、そのようなこともあったかもしれない。
けれどそれとこれに、どのような関わりが。続く彼の言葉に、私は耳を傾ける。
「私がギャシャくんに行っているのも、同じことなのです。
同一性を失った彼に、連続性を与える。匂いという刺激を介して、
彼が彼であるための記憶を呼び覚ましているのです。その人格を、一から形成するように」
「そんな、魔法みたいな……」
「けれど現実に、貴方は目撃された。そうでしょう?」
そう言われては、私に返す言葉はなくなる。
事実として私は、その現場に居合わせていたのだから。
53
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:49:45 ID:jQ0Pr1J.0
「ですがマドモアゼル、それはギャシャくんに限った話ではありません」
「え?」
「多かれ少なかれ人というものは、決まった刺激に決まった反応を
反復してしまうという習性を持つ、そのような生き物なのですよ。
物質的に定められた行動のみしか行えないという点で言えば、
人間も機械もさしたる違いなどないのです。歯車が狂えばすぐにも己を保てなくところも、また」
私達も、同じ? あの、少年と? 本当に、そうなのだろうか。疑問に思う。
けれど同時に、何かが深々と突き刺さる。『物質的に定められた行動しか行えない』。
『人間も機械もさしたる違いなどない』。果たして私は――私は?
「ですがそれでは、魂は。神の教えは――」
「まやかしです」
一切の逡巡なく、切り捨てられた。
碌な信仰も抱いていないはずの神を否定されて、しかしなぜだか酷く、それがショックで。
「ああ、誤解しないで頂きたい。それでも私は人間の尊厳を信奉しております。
もしかしたらそれは大多数の人々とは異なる考え方なのかも知れませんが、
これでも私は人間を尊いものだと思っているのですよ。例えば――」
アニジャさまが、自身の胸元に触れた。
「私が貴方に恐れを抱いたように」
緑の薔薇が、ちりりと回った。
54
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:50:31 ID:jQ0Pr1J.0
「……私に?」
「ひとつ、うそをついておりました」
「うそ……ですか?」
「貴方にはオトジャが――弟が遠くにいるとお話しましたが、あれはうそなのです」
薔薇そのものでなく、薔薇を通じて何を視ているかのように、アニジャさまが花弁を撫でる。
「弟は私と一緒に暮らしているのです。貴方が入ろうとした、あの扉の奥に」
「アニジャさま、それは――」
「そしてオトジャは、ギャシャくんと同じ病なのです」
乾いた花が、瑞々しく。
「ギャシャ、さまと?」
「ご覧になった通り、私の香水はまだ不完全。
一時的な覚醒に導くことはできても、その効力が切れればすぐにもまた
死の眠りへと落とさせてしまう。それでは足りない、全く足りない」
生花<せいか>のように、脈打って。
「私はギャシャくんの、そしてオトジャの同一性を
完全なものとする匂いを追い求めているのです」
「もしかして」
私は見つめる。
「アニジャさまは、そのために調香師に――?」
彼が視ているものを、見出すように。
55
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:51:15 ID:jQ0Pr1J.0
「あいつは薔薇が好きなのです。それも緑の、この薔薇が」
彼に良く似た、けれどわずかに幼さを残した顔を想像して。
よく似た二人が、睦まじく談笑されている様を想像して。ああ、そうか。
あの奥の部屋。あそこから漏れ聞こえてきたアニジャさまの声色が
ずいぶん明るく軽妙に感じられたのは、お相手が弟君であったから――。
「アニジャさまは、弟君のことを“あいつ”とお呼びになられるのですね」
「ああ、これはお恥ずかしい」
――女性では、なかったのだ。
「お恥ずかしついでに白状してしまえば、私は貴方を恐れたが故に、
貴方を欺いてしまったのです」
「恐れたから、欺いた?」
「真実を話せば貴方に嫌われてしまうのではないかと、それを恐れて」
『この男はこう見えて、ずいぶんなさびしがりなんだ』。
ギャシャ少年の言葉が脳裏をよぎる。この人が、恐れている。私に嫌われることを。本当に?
心の底を見せないその微笑からは、到底本心を図ることはできない。もしかしたら全部、
私を喜ばせるためのリップサービスかもしれない。でも、けれど――。
56
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:52:01 ID:jQ0Pr1J.0
「アニジャさまは、何色がお好きなのですか」
「マドモアゼル?」
「薔薇の、色」
この質問が意外であったのか、能弁な彼にしては珍しく、思い悩む様子を見せた。
そうしてしばらくのあいだ同じポーズを取り続けていた彼は深い声で、
彼にしては小さな声で、なんだか自信なさげにつぶやいた。
「青を」
青。青の薔薇。深い群青のそれを胸元に差したこの人を思い描く。
ああきっと、きっとそれは、この人によく似合って。
賑やかしい喧騒。刺激的な初めての味。私の知らない世界。
私の知らない世界を知る、彼。彼の世界。彼の大切なもの。
大切なものを想う、心情。彼の、心。心の、匂い。
アニジャさまのことが少しだけ、
ほんの少しではあるけれど私は、
彼を理解できたような気がした。
「マドモアゼル、これをお渡ししておきましょう。意識を失わせる香水です。
護身用として携帯しておくと安心でしょう。くれぐれも、無闇に人に向けてはいけませんよ――」
.
57
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:53:03 ID:jQ0Pr1J.0
―― ※ ――
アニジャさまはすべてをお話になられた訳ではない。それは明白だ。
あの日の彼の言葉にどれだけの真実が含まれているのか、それも定かではない。
都合の良い真実だけを聞かせたと、そのような気がしなくもない。彼は未だ、謎の人。
私にとっての彼は、未だ未知のベールの無効に存在する神秘に他ならず。
けれども私は、以前のような焦りに駆られはしなかった。
彼を知りたいという気持ちが失せた訳ではなくとも、
初めて出会った時に感じたあの焦がれるような気持ちは和やかな思慕へと落ち着きつつある。
彼の側にあるという事実を噛みしめるだけで、穏やかな歓びを抱く己を自覚する。
それにいずれにせよ私という女は、ニヶ月の後にはここを離れなければならない身。
彼への想いに焼かれることこそが過ちであると、今更ながらに振り返れたのだ。
彼と私の香りは一時的に混ざりあったハーモニーを奏でただけで、
遠からず揮発してしまうものであるのだと。それが私の、運命であるのだと。
ただ――ただせめて、いまだけは。
彼の側に在れる幸運に、“私自身の感情”に、素直にこの身を任せていたい。私は切に、そう願う。
そうして彼と出会ってから、三週間の月日が過ぎて。
ミセリに呼び出された。
.
58
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:54:15 ID:jQ0Pr1J.0
「ああ姉上、お美しい。とても良くお似合いです!」
「……ありがとうございます、ミセリさま」
「本当にお美しいです姉上。さあでは、次はこちらなど如何でしょう。
こちらもきっとお似合いになるはずですよ」
ミセリの示したドレスへと、私は黙って着せ替えられる。
二人の侍女が着付けを行い、きつくコルセットを締め付ける。
内蔵が圧迫され、逃げ道を求めて上滑りしたのが判る。着替え終え、ミセリの前にて披露する。
ミセリは変わらず満足そうに、両手を叩いてはしゃいでいた。
私達の他に客はいない。ミセリが店ごと貸し切ってしまったのだそうだ。
私達だけのために開かれた店内でミセリは、あれも良いこれも良いと、
自分のものではなく私を着せ替えさせるための服を次々に見繕ってくる。
ミセリのためだけに開かれたファッション・ショー。既にこれで、ニ〇着はまとっただろうか。
「試着したものはすべて買う。後でホテルまで届けておいてくれ給え」
ミセリの放った号令に店長らしき口ひげを蓄えた男性が、
腰を折り曲げながら喜ばし気な笑みを浮かべていた。その顔に父の面影を見て私は、
優れぬ気分に一層不快な重石を抱く。反してすこぶる上機嫌なミセリは私の腕へと
自らのそれを回して、陽々たる様子で声を発した。
「さあ姉上、次の店へと向かいましょうか!」
そうして私たちは、本日四軒目の服飾店に向かって馬車を走らせた。
.
59
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:55:10 ID:jQ0Pr1J.0
「ミセリさま、マタンキさまは……」
五軒、六軒、七軒と、馬車は『オドレウム』の街を巡る。
「未だ。けれどご安心ください、手がかりは揃ってきていますから」
服飾店だけでなく靴屋、宝飾品店、化粧品店にも巡り。
「私は、お邪魔ではありませんでしょうか。このようにお時間を割かせてしまって……」
その度にミセリは私に試用を求め。
「とんでもない! 姉上がいらっしゃること、それだけで充分励みになるのです」
美しいと褒めそやして。
「ですが、私は本当に何も……」
それら全てを購入し。
「それでよいのですよ。女性の仕事とは貞淑に着飾り、夫の帰りを待ち続ける
以外にないのですから。姉上とて、兄上のことはご心配でしょう?」
陽の目を見るかどうかすら定かでない衣服の山が積み重なり。
「ですが……」
馬車の中には宝石が溢れ。
「それとも」
荷重に耐えかねた馬車馬は荒い息を吐き。
「何か他に、気になることでもお有りなのかな?」
60
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:55:40 ID:jQ0Pr1J.0
「そんな、ことは……」
「さあ、最後はこちらです」
そうして目を血走らせた馬の止まった、その店は――。
「さしたる高級店ではありませんが、主人の腕は
『オドレウム』一だという噂もある程なのですよ」
「ここ、は」
「さあ姉上、エスコート致します」
腕をつかまれる。固く、有無を言わさぬ力で。それはいつも通りのようで、
けれどいつもより荒々しさを感じるようでもあって。
抵抗の欠片もなく私はミセリに引っ張られ、店の中へと入る。
どうしてここへと、言う間もなく。
『ビアンジュエ・パルファム』。アニジャさまの、お店に。
.
61
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:57:08 ID:jQ0Pr1J.0
「これはムッシュミセリ、お久しぶりでございます」
「おや、あなたは確か……アニジャさん、でしたか?」
本来ならば。
「いや、気づきませんでした。そうですか、ここはあなたの店だったのですね。
街での評判を伺って来たのですが――いや、これは驚きだ」
本来ならば今日も、向こうへ立っていたはずだった。
アニジャさまの隣で、この店に働く一従業員として。
ミセリにとつぜん連れ回されたりしなければ。
「ねえ姉上。想像だにしておりませんでしたよね」
「え、ええ。そうですね」
「ムッシュミセリ、本日はどのような?」
アニジャさまはどう思われているだろう。
なんの連絡もなく店を空け、挙げ句にこうして客として来訪してきた女のことを。
緑の薔薇、常なるアルカイックスマイル。彼の態度からは、その心を読み解くことはできない。
ただ、どうか。どうかアニジャさま――。
「姉上に見合った香水を。その魅力を一層際立たせる一品を願いたく」
「畏まりました。ではムッシュ。それに――」
ミセリの前で、私達の関係が露見するようなことだけは――。
62
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:57:58 ID:jQ0Pr1J.0
「マダム」
――アニジャさまはやはり、聡い方で。
「こちらなどは如何ですか」
アニジャさまが棚の中から、銀細工の施された小瓶を引き抜く。
その香水なら、知っている。以前アニジャさまに教えていただいた、
バニラがそのベースとなっている甘さの強調された香りのもの。
その香りをハンカチーフに染み込ませ、アニジャさまがミセリの前でそれを振る。
「ああ確かに、これは良い香りです」
陶酔したような表情で、ミセリがつぶやいた。当然だろう。
だってこれは、アニジャさまの調じられた香水なのだから。
その素敵な香りに参ってしまわない者など、いるはずがない。
表に出さぬまま、私は密かに胸を張る。けれどミセリは陶酔から覚めた途端、
信じられないことを言い放つ。
「しかしこれは、少々魅惑的に過ぎるのでは? これではまるで、男を誘う娼婦のようだ」
あなたに香りの何が判るのか。憤りを覚えつつ、だけれど私は何も言えず。
63
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:59:07 ID:jQ0Pr1J.0
「そういえばご存知ですか。つい先日、不義密通の罪で裁きを受けた男女の話を」
「寡聞にして」
他のものをと指示しつつ、ミセリは自分の話を勝手に続ける。
「貴族の男と街の娘が、逢引していたのですよ。それもはしたないことに、
夫を持つ女の方から誘いをかけたのだと。それが顕になったという話です。
女の方は両の目を潰し両の手の親指と小指を切り落とした上で街から追放され、
男の方は教会からの破門と家名の剥奪を受けたそうです。
この話をアニジャさん、あなたはどう思われますか」
「秩序のためには仕方のない処置であったのではないかと」
「ボクは手ぬるいと感じましたね」
ミセリがちらりとこちらを見た――気がした。
「神の掟にも反したこともありますがそれ以上に、
人としての倫理に悖るとボクは思うのです」
彼の弁舌は留まることなく、加熱していく一方で。
「人は一途であるべきなのですよ。だってそうでしょう、
ボクたちは崇高な魂を有した人間です。唾棄すべき畜生として生まれた訳ではない」
それはまるで通り一遍の世間話を越えた、
何らかの訓告を示しているかのようですらあって。
「自ら畜生へ堕ちた者に、人間的な扱いなど不要。そのような堕落した存在には
野山の獣や海の魚に等しい扱いをするべきであると――
アニジャさん、あなたはそうは思いませんか?」
「仰る通りかと」
「ああよかった、あなたが道理を理解されている方で。ねえ姉上」
警告のようで。
「ねえ?」
64
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 18:59:35 ID:jQ0Pr1J.0
「私」
その場で、立ち上がっていた。
「私、外へ……」
「どうされました姉上。お加減でも?」
「いえ、いえ……なんでもありません。少し、外の空気を吸いたく……」
「では、ボクもご一緒に」
「大丈夫です。ミセリさまには、私に合った香水を、選んで頂ければ――」
返事も聞かず、私の足は動き出していた。不審に思われたかもしれない。
それでも、逃げる他なかった。この場に居続ける胆力など、私にはない。
考えすぎなのだろうか。それともミセリは知っているのだろうか。
知っていて、敢えて泳がせている? けれどなんのために? 理由など思いつかない。
ならやはり、私の考え過ぎか。けれどあの話は、あの男女の話は、
あまりにも私へと向けられたもの過ぎていて。
65
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:00:40 ID:jQ0Pr1J.0
「……ふぅ」
陽の落ちかけた外の空気は存外に涼しく、熱する額をいささか冷やしてくれた。
やはり私の気にし過ぎだろう。ミセリならきっと私の行動を知った瞬間、
外出の禁止を命じてくるはずだ。貴族的な男というのは、みなそういうものだった。
怪しんでいるくらいのことはあるかもしれないが、発覚したわけでは、きっとない。
もしかしたらもう、ここへ来ることはむつかしくなるかもしれない。
ミセリの目が光ればすぐにも、私の小さな自由など消えてなくなるのだから。
部屋から出られぬよう軟禁されるか、父の下へと送り返されるか。
いずれにせよ、いままでのようにはいかなくなる。
それに、そうだ。アニジャさまにだって迷惑がかかるかも。
浮かれた頭では思いもしなかったけれど、私の行動は私だけの責任に留まらないのだ。
私が表に引きずり出されれば、アニジャさまにも好奇は向く。
それでは済まず、神の下での審判を受けることすらありえるやも。
もちろん、私とアニジャさまの間に邪なつながりなど存在しない。それは断じて、神に誓って。
けれどその訴えが、どこまで通じるものか。ミセリはどこまで、追求するか。
想いを断ち切る、時なのかも。
66
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:01:15 ID:jQ0Pr1J.0
「すみません、あなた」
「え?」
気づけば目の前に、女性がいた。妙齢の、私と同じくらいの年頃の女性。
艶やかな肌に、切りそろえられた髪。女の私から見ても可愛らしいと思うような人。
「これを、アニジャさまに」
可愛らしいその女性は仄かに頬を朱に染め、押し付けるように何かを私に手渡し、
そうしてあっという間に走り去っていってしまった。なんだったのだろう。
それに、彼女は誰だったのだろう。どこかで見たような気もするけれど、
はっきりとは思い出せない。走り去り、間もなくその姿を隠した彼女を見届けた私は、
押し付けられた何かに視線を移す。
それは、手紙だった。
畏まった装飾の施された立派な手紙ではなく、薄い桃色に縁取られた差出人と同じく
可愛らしさがその表に現れている手紙。それを見て私は、直感する。
恋文。
.
67
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:02:05 ID:jQ0Pr1J.0
……ああ私は、いったい何を考えているのか。許されるはずがない。
そんなこと、決して許されはずがない。そんなことをすれば先の彼女にも、
アニジャさまにも申し訳が立たない。手紙の中を、改めようだなんて。
そんなことをする権利は誰にも、神にも許されてはいないというのに。
ああしかし、けれどもしかし、私の指は理性とは裏腹に、
封の閉じたこの愛らしい手紙をかりりと掻いて。どうこうするつもりは毛頭ない。
破り捨てるだなんて、そんな姑息な真似はしない。
そんなつもりは本当に、どこにもまったく存在しない。
ただ指が、震える指が、蝋の封をかりかり掻いて。私には関係のないこと――
関係ないことのはずなのに、私はもう、彼から離れるべきなのに、なのに私は止まらない。
かりかりと、かりかりかりと、中身を掘ろうとうごめいて。
だってあなた、私は諦めなければいけないのよ?
封が、開いた。
68
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:02:44 ID:jQ0Pr1J.0
「え」
思わず、声が漏れた。そこに書かれていた、短い文章が目に飛び込んで。
店の中を覗き見る。中ではまだ、ミセリがアニジャさまと話を続けていた。
アニジャさまは変わりなく、紳士に微笑を浮かべていた。
真意の読めぬその顔で、紳士に微笑を浮かべていた。
.
69
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:04:09 ID:jQ0Pr1J.0
―― TroiS ――
「またお会いしましたね」
「はい?」
とつぜん声をかけられたことに訝しんだのか、
箒を携えたシスターが困惑したように眉根を寄せる。
私は彼女の警戒を解くよう努めて穏やかに、
「礼拝の作法をお教えいただいた者です」と説明する。
シスターは少し逡巡した様子を見せ、小首を傾げると同時に
綺麗に切りそろえた前髪をさらりと揺らした。
そうして彼女は得心いったのか、長いまつげをぱぁっと開く。
「あの時の御婦人ですね、大変な事件の。如何ですか、あれから大事ありませんか?」
「ええ、お陰様で」
「それはよかったです。きっと神の思し召しですね」
笑みを咲かせた彼女の顔は、彼女本来の魅力を存分に照らし。
美人というよりは可愛らしいといった容貌の、
女性から見ても愛おしさを覚えてしまうような、その。間違いなかった。
あの時は服装が違うせいですぐには気が付かなかったけれど、彼女だ。
眼の前のこのシスターが、そうだ。
70
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:04:40 ID:jQ0Pr1J.0
「本日はどうされました? 再び礼拝に?」
「いいえシスター。私の用は、あなたに」
「私に?」
「シスター。アニジャさまのお店へは、何用で来られたのですか?」
「アニジャさま?」
「はい、アニジャさまの」
繰り返して、私は問う。問われてシスターはまた再び、考え込む姿勢を取った。
切りそろえられた前髪が揺れる。彼女の答えが返ってくるのを、私は待つ。
「すみません、私にはなんのことか……」
本心から申し訳無さそうに、彼女はいう。無条件で信じたくなるような表情。
少なくとも、うそをついているような匂いはしない。けれど――。
71
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:05:17 ID:jQ0Pr1J.0
「いえ、こちらこそ申し訳ありません。人違いだったようです」
「そう、なのですか?」
「本当に、失礼いたしました」
「そんなことは。何かあればまた、いつでもお声掛けください」
「ありがとうございます」
「はい、では私はこれで」
恭しく会釈をしたシスターが背を向け、手放していた箒を持って、講堂を離れようとする。
その背中に向かって、私は再び声をかけた。
「はい?」
彼女の手にした箒が転がり、講堂に響き渡る。
あの朗らかで愛らしい表情はその顔から消え失せ、目は焦点が合わず、
その口は力なく開かれている。私の仕業によって。私が手にするこの香水によって。
アニジャさまから譲られた、“人の意識を奪う香水”によって。
72
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:05:54 ID:jQ0Pr1J.0
「シスター、聞こえますか。私の声が聞こえますか、シスター」
「……はい」
ワンテンポ遅れて、シスターが返事をする。
あの時のあの男――私を人質に取った、あの男のように。
「私の問いに答えて頂けますか、シスター」
「……はい」
抑揚のない答えが返ってくる。本当に、成功してしまった。
アニジャさまが行ったようにすれば成功するはずだと思ってはいたが、
本当にうまくいってしまった。香水に、アニジャさまの作られる魔法のような香水の力に、
いまさらながら恐れを抱く。けれどいまは、臆して怯む時ではない。
「あの手紙を書いたのは、あなたですか」
「……手紙?」
「アニジャさまに渡してほしいと、あなたが持ってきた手紙です」
「よく覚えて……いません。私ではないと……思います」
「確かですか」
「…………うぅ」
73
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:06:48 ID:jQ0Pr1J.0
シスターがうめき声を上げる。苦しそうに。大丈夫だろうか。
彼女の心は、きちんと正気にもどるのだろうか。不安が増す。
すべて自分の勘違いなのではないかと、自責の想いが芽を出し始める。
――いや違う、きっと聞き方が悪かっただけ。聞き方を変えれば、きっと。
「質問を変えますシスター。あなたはなぜ、あの手紙を渡そうとしたのですか」
「……知らない、知りません。私じゃありません……う、うぅ」
「いいえ、あれはあなたでした。間違いなくあなたです。シスター、よく思い出して」
「うぅ……判らない、知らない……うう」
ついには頭を抑えてシスターは、その場にうずくまってしまった。
どうして、なぜこうなってしまう。アニジャさまの時はもっと素直に言うことを聞いていた。
何がいけないのか、何かが足りていないのか。彼女ではないのか?
あの手紙を書いて、渡してきたのは、彼女じゃなかったのか――?
そこまで考えて、閃く。あの場に来たのはこのシスターだ。それは間違いない、
そこを疑う訳にはいかない。けれどもし、もしそれが、
彼女の意思による行いでなかったとしたら――?
74
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:07:43 ID:jQ0Pr1J.0
「もしかしてあなたは、あれを渡すよう誰かに頼まれたのではないですか」
「……頼まれた?」
「そうです。あなたが書いたものではない手紙を、誰か別の……
あなたのよく知る人に頼まれて持ってきたのではありませんか」
「…………そう、そうです。そうです、そうですそうです。
私頼まれた、頼まれました。私頼まれたんです、頼まれたんだ」
興奮した様子でシスターは、私は頼まれたのだと繰り返している。
正解だ。やはり私の考えは間違っていなかった。あの手紙は間違いなく、
強固な意図を持ってアニジャさまの下へと送られたものだったのだ。
“アニジャさまの謎につながる、絶対的な一事”なのだ。私の直感を、裏付ける。
だから私は、更に踏み込む。もう一歩、もう一歩先へ。私は――。
「では、シスター」
核心へと、一歩を。
「それは、誰に」
「う、ぁ……それは、う、うぅぅ」
一歩を。
「シスター、答えて」
「ぅぅぅぅ…………」
「シスター」
「ぅぅぅぅぅぅぅぅ……………………」
「シスター!」
.
75
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:08:13 ID:jQ0Pr1J.0
「……………………ワカッテマス、さま」
.
76
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:08:49 ID:jQ0Pr1J.0
「何事ですか」
講堂の入り口から、よく通る声が響き渡った。
ぴたりと寄り添う二人の配下を引き連れて、後光とともに現れたその人物は――。
「ワカッテマス……司教、猊下」
「御婦人、声を荒らげていたのはあなたか。いったい何事か」
私のすぐ側には投げ出された箒と、うつろな瞳で天井を見上げるシスター。
これは、どう答えれば良いのだろう。真実をそのまま答えるわけには、当然いかない。
私の行いは、誰に知られるわけにもいかないものだ。特に――この男には。
ワカッテマス。手がかりにつながる、男。
「……司教猊下。その……彼女が急に、倒れられて」
「シスターが?」
ワカッテマスが厳かにこちらへと近づき、シスターの前に座る。
ごつごつと節くれだった指が、意識の朦朧としたシスターを検分する。
まぶたを開き、瞳孔を覗き込む。心臓が、早鐘を打つ。気づかれるはずがない、
気づかれるはずが。自分にとって都合の良い展開を、心の中で祈り通す。
77
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:09:23 ID:jQ0Pr1J.0
「ハインツ、彼女を医務室へ。頭は揺らさぬように」
私の祈りは、どうやら何かに通じたようで。
部下へと指示を送ったワカッテマスはシスターから離れ、
成り行きを見守るように一歩外へと退いた。助かった。安堵がにじむ。
けれどそれでも心臓は、未だ収まる様子を見せず。
私は「では」と言い残し、足早にその場を去ろうとして――。
「待ちなさい」
呼び止められた。ワカッテマス、その人に。
「確かトソン……と言いましたね、トソン女史と」
私は答えず、ただ首肯によって肯定する。
「トソン女史、貴方には伺いたいことがある。付き合って頂きます」
.
78
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:10:18 ID:jQ0Pr1J.0
「甘いものはお嫌いか」
「いえ、けしてそのような……」
「私は好きです。むしろ甘いもの以外、この世に不要だとさえ思っている」
眼の前の光景を眺めながら、それは確かに本心なのだろうと納得する。
ここは彼、『オドレウム』管区教会の長であるワカッテマス司教の執務室。
厳しい彼の様子に相応しく一片の隙も感じられない室内は
強迫的なまでに整頓されており、主の神経質な性向を一層際立たせている。
ただこの卓上が、彼と囲んでいるこの卓の上だけが部屋の雰囲気にそぐわない、
異様な空間となっていた。そこには婦女子の好みそうな色とりどりの洋菓子が、
所狭しと並べられていて。それら色とりどりの洋菓子が次々と、
この両の目を飛び出させた厳格な司教の胃袋へと収められていく。
それはもう、嵐のような勢いで。
「甘いものを食べると癒やされるのです。私の仕事は神経を使いますから」
「そうなの、ですか」
「貴方も、お嫌いでないのなら」
何を聞かれるのかと緊張して入った室内でのこの対応に、私はすっかり意表を突かれ。
彼のペースに乗せられて、切り分けられたショコラケーキに口をつける。
仄かな苦味と、とろけるような甘み。癒されるというのも、判る気がする。
79
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:11:07 ID:jQ0Pr1J.0
「猊下、それで私に話とは……?」
「先日、配下の者から報告を受けました」
洋菓子へと伸ばす手はそのままに、私たちは話を続ける。
「貴方とあの若者が、多くの店を不当に貸し切っていたと」
「ああ、それは」
ミセリが行ったあの、私を着せ替え人形とした。
「貴方方の土地ではどうか知らないが、ここは『オドレウム』。ここにはここの法があるのです。
あのような利己的な行い、どうか謹んで頂きたい」
厳しさを感じさせる彼の物言いとは裏腹に、
その口にはカラフルなマカロンが三個同時に放り込まれて。
「それに聞いたところによれば、貴方とあの男とはずいぶんと親しげな様子であったとか。
貴方は既に婚約を控えた身でしょう。いくら義理の弟が相手とは言え
そのように隙のある態度、如何なものか」
「猊下、しかし私はそのような――」
「私は風紀の話をしているのです。『オドレウム』の民に
悪影響があってからでは遅いのですから。それとも――」
80
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:11:44 ID:jQ0Pr1J.0
垂直に立てられた銀のフォークが、硬いタルトを押しつぶし。
「まさかとは思いますが、彼に特別な感情でも?」
砕き割り。
「いえ、いえ、そのような。そのようなことは、ありませんが――」
「ありませんが?」
「ミセリの方は、もしかしたら――」
少しずつ啄んでいたショコラケーキの最後の切れ端へとフォークを突き刺し、
はたと気づく。このようなことまで、なぜ話して。
「いえ、猊下。どうかお忘れください。私の口から漏らすことではありませんでした」
「いいでしょう。一聖職者として、いまの言葉は私一人の胸に秘めておくこととします」
「痛み入ります」
卓上の洋菓子を一人であらかた片付けようやく満足したのか司教は、
几帳面そうにナプキンで口の汚れを拭っている。
「しかし猊下。なぜこの話、ミセリにではなく私に?」
「あの男とは顔を合わせたくありません」
そして司教は側に仕えた従者を呼び、何事か耳打ちを始めた。
畏まった様子で会釈した従者が、無駄のない動きで部屋から出ていく。
81
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:12:25 ID:jQ0Pr1J.0
「忌々しい若造が……事もあろうにこの私に疑いの目を向けるなど」
「それは、私を人質に取った男が叫んでいたようなことを、でしょうか」
『娘を返せ』。そう叫んでいた、あの男の。
しかし私がそう言うと、ワカッテマスはその飛び出た目でぎょろりと私を睨みつけて。
「あのような世迷い言に耳を貸しては、品位を落としますよ。貴方も、貴方の家の名も」
「いえ、そのような。もちろん信じているわけでは」
「当然です」
廊下から、扉を叩く音が聞こえてきた。司教の合図によって、扉が開く。
そこにいたのは、先程部屋から出ていった従者のようだった。
従者は恭しい様子で私達の前に立ち、熱い湯気の立つティーカップを並べる。
どうやらワカッテマスは、これを淹れるよう従者に指示したらしい。
「どうぞ」と促す司教の言葉に従い、置かれたそれを私は手に取る。口をつける前に、その香りを嗅ぐ。
緊張が、走った。
82
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:13:29 ID:jQ0Pr1J.0
「猊下、この香り」
ワカッテマスが、その飛び出た目で私を観察している。
「この香りは、講堂のものと同じ?」
努めて冷静に、問いかける。
「鋭敏な嗅覚をお持ちのようですな」
「心地良く感じられて。鼻が覚えていたのです」
口をつける。口をつけて、カップを少し傾ける。それだけ。飲みはしない。
飲んでいるように見せかけて、そうして「おいしゅうございます」と、カップを下ろす。
かちんと受け皿が、硬い音を立てる。
「ワカッテマスさま、ひとつだけお聞きしても宜しいでしょうか」
ワカッテマスは、自身の前に置かれた紅茶に口をつけなかった。
じっと私を見つめ、口につける素振りすら見せなかった。
そこに含まれているものがなんであるのか、そして私の身にどのような現象が
起こるのか知っているかのように、じっと、じっと。
83
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:14:20 ID:jQ0Pr1J.0
「アニジャという――調香師の方をご存知ですか?」
「さあ、まったく」
うそだ。
彼の下で働いてきた私には断言できる。
講堂の――そしてこの紅茶に含まれている香りは、
アニジャさまの香水とそのベースを同じくしている。“人の意識を操る、その匂い”が。
『今回は一〇と三ほど確保した。そちらは幾つほど入用か』
アニジャさまへと届けられるはずだった手紙の、その文言。娘を失った男。
ギャシャという少年。同一性。香水。香りの、記憶。
私の中でつながった点と点が、急速に答えを導き出していく。
ワカッテマスが、そしてアニジャさまが何を行っているのか――
彼が本当は、何を目的としているのか。
「今日はごちそうさまでございました。叱責頂いたことはミセリにも必ず伝えますので」
一刻も早く確かめなければならなかった。
彼の行いを、彼の正体を、私は知らねばならなかった。
アニジャさまを私は、知らなければならなかった。
アニジャさまを知り、そして私は――。
.
84
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:15:28 ID:jQ0Pr1J.0
―― ※ ――
あなたと出会った時。私は自分でも理解のできない感情に突き動かされて、あなたを求めた。
燃え上がった感情は制御を無くし、けれど不安定で、故にたやすくぽきりと折れた。
何をどうしたものかまるで判らずただやみくもに、行き当たりばったりに
その時その時の衝動へと身を任せた。迫りくる初めての連続。
圧殺する情報に翻弄されたその迷妄が、結果的に願いに対する私の瞳を盲目にしたのだ。
けれど、いまは違う。
私はいま、正しく私の求めを理解している。
何を求め、そしてその求めを満たすために何を行えばよいのか、そのすべてを理解している。
答えはすべて匂いにあったのだ。あの時の匂いに。胸に差された緑の一輪。彼の胸にて、嗅いだ匂い。
偽らざるその、彼の匂い。何より雄弁に主を語る、匂いの記憶と、その感情。
「行ってらっしゃいませ、アニジャさま」
迷いはなかった。今度はためらわなかった。かつんかつんと響き渡る、私の足音。
それは誰のものでもない、私の足音。恐怖心と後ろめたさが生み出した、
空想上の追跡者などでは決してない。だから私は歩みを進める。工房の奥の、その奥へ。
彼の弟が遁されているという、鋼鉄の扉がその奥に。
85
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:16:26 ID:jQ0Pr1J.0
扉は以前より遥かに軽く、私の細腕でも容易に開けた。
そして私はそのままに、振り返ることなく歩を進める。雰囲気は、手前の工房と変わりなかった。
香水を封じるための瓶に、既に抽出された精油の原液。見たことのない、大仰な機械も存在した。
だがしかし――いや、やはりというべきか。やはり私の考えは当たっていた。
そしてやはり、私の思った通り――ここには誰も、いなかった。
「これは……」
人が日常を暮らす気配など微塵も存在しないその場所を、私は順に検分していく。
そして目についたのが、この区画。棚にずらりと並べられた、同型同色の香水瓶。
それぞれ瓶の下には番号が振られ、左上から右下に掛け、連続して番号が大きくなっている。
そしてそれらはまだ途上であるのか、棚にはまだまだ空いたスペースが用意されていた。
一番番号の大きな瓶を、私は手に取る。瓶に刻印された文様。
中の液体の色に透け、その存在感を浮き立たせたそれ。
緑色の、薔薇一輪。
86
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:17:32 ID:jQ0Pr1J.0
これだと私は確信する。これが私の探していたものだと。握りしめて、店を出る。
次に行く先は決まっている。工房の奥の、その奥の。弟君が眠るという、秘密のその部屋。
そこには誰もいなかった。けれどアニジャさまは、“うそをついてはいなかった”。
『弟は私と一緒に暮らしている』。彼は確かにそう言った。そう言っていたのだから。
「あまりおすすめはしませんがねぇ……」
馬車を走らせてからも御者は頻りに文句を漏らしていた。
私のような女性が一人で向かうところではないと。私を心配しているかのような
言い方をしていたが、どちらかといえば本人が気乗りしていない様子に思えた。
あんな貧民の住まう区画、何を好き好んでいくことがあるのかと。私には、行く理由があった。
アニジャさまと赴いた、いまにも倒壊するのではと危ぶみたくなる家屋。
サダコという女性が家主であった、あの。腐臭漂うあの場所にいま、私はこうして立っている。
傾き隙間を生み、扉としての用を半ば放棄仕掛けている扉を叩く。返事はない。もう一度叩く。
動く気配を感じない。扉を押した。抵抗なく開いた。
足を踏み入れる。ぎぃぎぃと心もとない軋音が、足元で響く。
私はためらわず奥へ、彼のいる部屋へと向かう。果たして彼は、そこにいた。
眠ったように、死んだように椅子に座り続けるその少年――ギャシャ。
同一性を喪った、存在の不確かな生命。
87
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:18:03 ID:jQ0Pr1J.0
「あなたは」
語りかける。当然、返事はない。
いまの彼に、意識はないのだから。
故に私は、準備する。彼の声を聞くための。
アニジャさまがそうしたように、ハンカチーフに匂いを込めて。
「教えてください、小さなあなた」
秘密の部屋から持ち出した。
「薔薇の小瓶に封された」
緑の薔薇の刻印されし。
「あなたの真のお名前を」
彼の“創った”香水を。
「さああなた、どうか応えて――」
記憶<同一性>を――。
.
88
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:18:28 ID:jQ0Pr1J.0
「――――オトジャ」
.
89
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:19:16 ID:jQ0Pr1J.0
―― ※ ――
「なにをされてるんですか!」
……怒鳴り声。女の。線の細い。
「あなた……あなた! なんなんですか!
勝手に入って! 勝手に私の場所に!」
女が女につかみかかる。歪んだ視界。二つの影が混じり合って、境界も曖昧に。
その見た目からはそれが何の誰であるのか判別できない。判らない。だが、そう。これは。
「私はこの子を守らなきゃいけないの! なのにどうして、どうして奪おうとするの!
渡さない、この子は誰にも渡さない!」
サダコ……そう、この匂いは、サダコ。ギャシャという存在に執着し、拘泥し、
人生を捧げてきた女。オレを守ることだけを拠り所としてきた女――いや、それはオレだろうか。
いまのオレと、連続していたものだろうか。頭がはっきりしない。
オレはオレなのか、ボクなのか、あるいはワタシであるのか。それすら未だ、判然としない。
90
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:19:54 ID:jQ0Pr1J.0
「……サダコさまと、おっしゃいましたね」
組み敷かれたもうひとつの小さな影が、ゆっくりと身を動かした。
「あなたはなぜ、その子を守ろうとするのですか?」
小さかった影が屹立し、その実像を顕とする。
「自分の子を守ろうとして何がおかしいと!」
「彼は本当に、あなたの子ですか?」
影が巨大化していく。
「あなたのその気持ちは本当に、あなたから生じたものですか?」
攻めていたはずのサダコの影がむしろ、呑み込まれていく。
「あなたからは、異なる幾つもの匂いが漂っています」
暴力的なほどに純粋で圧倒的な匂いに、サダコの匂いが呑み込まれていく。
「サダコさま――あなたは本当に、サダコさまですか?」
91
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:20:43 ID:jQ0Pr1J.0
女達が二人、他所を向いた。
破裂音。馬のいななき。男の悲鳴。野蛮な匂い、血の匂い。幾つもの、幾つもの。
「なに――」
それは外から訪れた。朽ちた扉を蹴り破り、野蛮な匂いが家の中へと入ってきた。
オレと彼女たちのいるこの部屋へと入ってきた。
「や――」
破裂音。先程のものと、同じ。同時、サダコが吹き飛んだ。
生暖かな鮮血を、砕けた肩から巻き散らかして。
「バカてめぇ、なにしてんだ!」
「うるせえ! 騒がれると面倒だろうが!」
男たちが罵り合う。その手に携えた無機質な装備――ライフル銃の先端から、
熱の靄を上げながら。サダコがうめき声を上げて、這いずりながら逃げようとする。
男の一人が、蹴り上げた。うずくまったサダコから、更に多量の血が流れ出した。
92
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:21:48 ID:jQ0Pr1J.0
「おいどうすんだよ、死んだらまずいんじゃねえのか」
「いや、問題ねえ。捕まえんのはこっちの女だ」
男が女を捕まえる。女が抵抗する。頬を張られた。女の抵抗が止む。
人形のように――“モノ”のように、生命らしさが喪われる。
何も言わずに引きずられるまま、連れ去られようとする。
オレはただその光景を、椅子に座って見続けていた。
元より身体はまともに動かず、不完全な香水では意識の保持もままならない。
間もなくオレ――いやボクか、ワタシか――の時間は停止するだろう。
そうすればそこで何が起ころうと、知覚することすらオレにはできない。助けるも何も、ない。
だがオレは、何も心配などしていなかった。既に嗅ぎ取っていたから。
この家を包囲する、武装した集団の匂いを。眼の前の野蛮な男たちなどとは
比較にならない暴力性の塊である、その匂いを。それに――それにだって、そうだろう。
彼女は“あいつ”と関わった。それは即ち、彼女が必要だから。
ここで彼女を喪うことなど、“あいつ”は絶対に許さない。絶対に。
なあアニジャ、そうだろう?
そうしてオレは、眠りに落ちる。予感を抱いて。
次に目覚める時こそ正しくオレは、“オレ”に生まれているであろうという予感を抱いて――。
.
93
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:22:30 ID:jQ0Pr1J.0
―― ※ ――
「ち、違う、俺たちはただ、金で雇われただけで……」
「へー、そうなんですかー。それで、あなたがたを雇ったのはどこのどなたなんですかー?」
「し、知らねえ……いや、知らない、知りません、何も知らないんです。
仲介が、たくさんあって。直接話したやつも、素性も居場所も判らなくて……」
「へー」
「ほ、本当です、本当なんです! 何でもします、靴だってお舐めします。
だからお願いです、お願い……」
「ふーん」
「殺さないで……」
「いいですよ」
「……え?」
「だから、いいって言ったんですよ」
「え、だって?」
「なに、死にたいの?」
「い、いいえ、いいえ!」
「ならさっさと逃げた方がいいですよ。ボクの気持ちの変わらないうちにね」
「は、はい! ありがとうございます、ありがとうございます!」
「あのですねえ、ボクはさっさと逃げた方がいいって言ったんですよ。
そんな悠長な真似してる余裕、あるのかなあ」
「は、はぃ!!」
94
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:23:51 ID:jQ0Pr1J.0
「まったく、みっともないったらありませんね。
優位に立ってる時だけ居丈高で、ちょっと脅されたらすぐにあれですもん」
「……」
「それにしても……ふふ、すごい逃げ足。あんなに必死になっちゃって」
「……」
「あんな姿を見たら……ねえ?」
「……」
「気が変わってもおかしくないですよね?」
「……」
「見てください、ちゃんと狙った場所に当たりましたよ。案外いい銃を使ってるなー、
あいつら。これも依頼主とやらから支給されたのかな」
「……」
95
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:24:27 ID:jQ0Pr1J.0
「あ、あいつまだ立ちますよ。タフですねー。それじゃあ次は、どこを撃ちますか」
「……」
「ふふ、どうですか。また右足。わざと同じ場所にしてみました。これでどうかな。あいつ、まだ逃げるかな?」
「……」
「すごい、まだ動いてます。下等な生き物ほど生命力に優れているって、
本当かもしれませんね。それじゃあこれで……どうだ!」
「……」
「あはは、見てください! 足が千切れました、ぽーんって飛んでいきましたよ!」
「……」
「さすがにもう、走れないみたいですね。でも念のため、左足も撃っておきましょうか」
「……」
「ついでですから、両腕もやっちゃいますか。……あ、失敗した。
くそー、まだ死なせるつもりはなかったのに」
「……」
「すみません、本当はもっと長くいたぶるつもりだったんですが。
でも、どうですか。少しは気も晴れましたか?」
「……」
「ね、姉上?」
96
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:25:10 ID:jQ0Pr1J.0
ミセリが笑う。鮮血に濡れた顔を歪ませて。その周りには死体の山。私達を襲った暴漢の、
その成れの果て。彼らの中でも、すぐに絶命した者はまだしも運が良かった。
身体の各所が欠損した複数の遺体。これらは死んでから生じたもの――ではない。
生きたままに付けられた、あるいは奪われた傷だ。
この、女の子のような顔をした青年の手によって。
「ああ姉上、お可哀そうに。返事もままならぬほどに恐ろしかったのですね。
けれど大丈夫ですよ姉上、ミセリがここにおります。あなたのミセリがここにいます」
ミセリが私を抱きしめる。彼自身の匂いと血の混じった匂いが
鼻の奥へと滑り込み、頭がくらくらとする。身体が硬直する。
「どうして」
気圧される。
「どうしてここに……?」
「なんだそんなこと。簡単ですよ、姉上」
取り囲む男たちの空気に、気圧される。
「監視させていたからです。朝も、昼も、夕も、夜も。
ボクは姉上のことを監視していました」
97
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:25:50 ID:jQ0Pr1J.0
ミセリが私的に従える、彼直属の部下たちの空気に。
「いつ、から」
「もちろん、姉上がこの街に来たその日からですよ。
ああだからもちろん、姉上があの香水屋の男の下へ通っていたことも
知っています。当然知っています」
その空気は決して、私に対し友好的なものではなく。
「ふふふ……笑いを堪えるのには苦労しました。
だって姉上ってば、あんなにうろたえてしまうのですから。
覚えていますか、ボクがあの店で語った男女のお話」
「不義を、犯した……」
「その通り!」
疑いようもなく、私は肌で感じ取る。
彼らは私の味方ではない。これは――。
「だから姉上、もうおわかりですね?」
私に現実<運命>を突きつけるための――。
「あなたがどれだけ足掻こうと、あなたは『モラリアム』の“モノ”なんですよ」
ああ姉上……あなたにはやはり、その目こそが相応しい。
.
98
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:26:49 ID:jQ0Pr1J.0
部屋が、変わった。この『オドレウム』における私の宿が、別の場所へと変えられた。
そこはこじんまりとしているものの綺麗に片付けられ、掃除も行き届いており、空気も涼やか。
上方に小さく開いた窓からは、空に輝く星々を見上げることもできた。
頑丈な作りで、外敵の侵入を拒み、うちに住む者を固く守ってくれる安心感を備えていた。
そこは、小さな部屋だった。
使われなくなって久しい、人気のない地下牢だった。
父からの手紙が届いた。ただでさえ悪筆な父の文章が興奮そのままに、
解読困難な程度で乱れていた。そこには歓びがしたためられていた。
モララー卿を口説き落としたと。卿はマタンキの行方を諦め、私を嫁として
迎え入れることを決められたと。ミセリの嫁にすると決められたと。
手紙には、そう書かれていた。
私の滞在期間は、大幅に短縮される運びとなった。
三日後の帰郷が、決定された。
.
99
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:27:56 ID:jQ0Pr1J.0
―― QuatrE ――
生命が、宿ったんです。私のお腹に。
相手との間に愛はなかったけれど、けれどもこのお腹の子には愛を抱いて。
こんにちはの日を心待ちに、楽しみに、楽しみに、待っていたんです。
その子は、生まれてきてはくれませんでした。生命を保つことなく、流れてしまいました。
想像できますか、想像できないでしょうね。だってあなたは男の人。
この悲しみは女にしか判りません。判られて堪るものですか、あなたたちなんかに。
私がどれだけ悲しみに打ちひしがれ、いっそのこと生命を立てば解放されると
死に希望を見出し、枯れた木の下で首をくくろうとし、そして――
あの子との出会いが、私をどれだけ救ってくれたか。
愛らしくも弱々しい赤ん坊。小さくか細いその泣き声は、木の下の更に下、
土の中から聞こえてきました。はじめは幻聴かとも思いました。
産んでやることのできなかったあの子が、私を責める声ではないかと。
ああごめんね、ごめんねと、私は狂乱するばかりで、
けれどもどうもその声は、幻というには余りに現実的で。
頭を傾げて、地に耳を付け、その声が本当の声であると、私は確かに理解したのです。
そこからはもう、必死でした。爪が剥げる痛みにも気付かず、必死になってぬかるむ
土を掘り返しました。ただただ一心に、一心にその子を守りたいと――
産みたいと、私は思ったのです。
ギャシャ。愛しい愛しい私の息子。
100
:
名無しさん
:2022/08/13(土) 19:29:11 ID:jQ0Pr1J.0
むつかしいことは判りません。およそ学術というものに、私は縁がありませんでしたから。
ただお医者さまが言うにはギャシャは、まともに育つことができないということでした。
脳の一部が麻痺し、正常な思考能力が働かないのだと。乳児期に呼吸困難へ陥るなど、
著しく酸素が欠乏した場合に起こりうる現象であるとお医者さまは説明されていました。
お医者さまが説明された通りギャシャは言葉を覚えることもなく、
どころか成長するに従って奇妙に静止することが増え、
そしてその時間は日増しに長くなっていきました。どうにかしなければなりませんでした。
けれど、どうしようもありませんでした。私は無学で、裕福な家の生まれでもなく、
お医者さまも手立てはないとさじを投げられて。
私にできることといえば、神に祈りを捧げるくらいで。
来る日も来る日も教会へと通っては、私は神に祈りを捧げました。
どうかギャシャを、私の息子をお助けください。そのためなら何を喪っても構いません。
私はどうなっても構いません。だからどうか、どうか――。
神は、私の願いを聞き届けてくださいました。
救世主。緑の薔薇を、携えた。
それはまるで、魔法そのものでした。彼の用いた香水。
それによって、もはや眠りこそが恒常となっていたギャシャの目に、
生の光が確かに宿ったのですから。例え一時的なものにせよ、それがどれだけ私の歓びとなったか。
それにあの方は、約束してくださいました。必ず、そう必ず、
永遠の意識をこの子に授けてみせると。私はその言葉を信じました。
疑いだなんて、つゆとも抱きませんでした。だってあの方は、救世主なのだから。
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