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( ^ν^)『グッドラック!』のようです
51
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 19:47:59 ID:GyVjF5BM0
ふとした瞬間に、俺は感情の表出方法を忘れているのではなく出せなくなっているのではないか、
そういう風態に変貌してしまったのではないか、と感じる時がある。
別に犠牲的な役回りに徹してきたせいで、それらの負荷になるべく鈍感であろうと思っていたわけじゃない。
単純な話として、だ。飽くまで単純、至極分かりやすい悩みというか、思考というか、所謂二義的な動静だ。
ヒールは居なかった。シューは寝ていた。汚れた皿が数枚、台所の流しに放置されている。
水が貼られておらず、こべりついた汚れが糞便じみた色を呈している。
鍋の中は空っぽになっていた。しかし喜ばしくはなかった。
何故か。生ゴミ用の黒いビニール袋に全てぶち撒けられていたからだ。
雨がより一層強烈さを増している。窓を叩く夕立の音はいつ止むのか。
すっかり冷め切って、表面が滑稽に罅割れている。
茶褐色の色も相まって、俺は晩年のお袋が大腿骨頸部骨折治療後、自宅療養になってから悩まされた譫妄の弄便を連想した。
若干燻る残滓の芳香と汚穢の幻臭が雑多に混じる。
眠い。とても眠い。腹が減った。喉も乾く。水が飲みたい。何も無い。今日も何も無い。あるのは、あるのは、何も、何も無い。何も無い。
.
52
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 19:50:16 ID:GyVjF5BM0
結局今日もいつも通りの日常で、慣れ親しんだ家族からの対応を俺はしっかり受容して、それが意図する本懐に耳を傾ける態度を騙った。
万事は望みに沿った成行を経ず、どこまでも淡々と呆気なく続く。
似た記憶がかなり前から存在する。
反抗期、畑仕事に嫌気が指して、言葉足らずな母親が不器用な腕と頭で作ってくれた肉じゃがを、不貞腐の俺は皿ごと床に叩き付けた。
季節の境目で気候の不安定な時節、妙に暑く気怠い日差しが背中に打ち込まれていた午後の事。厭な思い出。
皆んなが今よりも少しだけ若かった頃、くるうが高校生で、ヒールは中学生だったか。
学業もクラスメイト達との親睦も自分に対しての煩悶も、日常的な出来事の殆どが上手く熟せないと、確かヒールは怒鳴っていた。
何をしても嫌われる、無視される、頑張っても意味が無い、逃げたい、どうして助けてくれないの。
そんないじましい態度で哀哭していたっけ。
極力真面目に応答していたんだが、俺は内心過去の自分を眺めている気分だった。
往年の幼少期、自分にヒールと同じ程度の自由時間が与えられていれば、きっと似た様な懊悩を抱えるだろう、と。
そんな冷笑的な態度が滲み出てしまっていたのかもしれない。
その昔日のこと。
俺が仕事から帰宅後、リビングでシューが蕭条と啜り泣いていた。
ヒールが癇癪を起こして頭を叩かれたらしい。機嫌直しに作った料理も目の前でゴミ箱に捨てられた、と。
あの頃の俺は、梨の礫のヒールを叱ったのだろうか。
娘の今後が心配で怒ったのか、シューを蔑ろにされて激昂したのか。
或いは今と同様か。
今の俺は思量したまま、何も自決、行動出来ずにいる。
ヒールを最低だと短絡的に判断してそのままの勢いで叱れれば、それが最善だったのかも知れない。
時間が無いので、俺は仕事に戻る。
踵の擦り減った革靴が妙に滑った。次の料理は肉が良い。今度はなるべく日持ちする物を作ろう。
※※※※※
.
53
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:10:07 ID:GyVjF5BM0
※※※※※※
( ^ν^)「おい、起きてるか」
lw´‐ _‐ノv「寝てる」
( ^ν^)「起きてるな」
確認してから枕元の小振りな電燈を静かに灯し、極力シューの神経を刺激しない言葉使いと態度を示す。
今朝のように感情を昂らせる言動は病に侵された心理に良くない旨を、かなり以前から担当医より告げられていた。
自嘲ながら今更それを思い出した。寝室は嫌味な程に静まり返っている。
( ^ν^)「今日、俺昼飯忘れたんだ」
lw´‐ _‐ノv「そうだったの?」
( ^ν^)「そうなんだよ」
案の定予想通りの展開だったが、俺はそれを決して望んでなどいない、いなかった。
どうか神様、と差し伸べられたことすら無い、信じてすらいない存在に頼み込むほど切に祈り尽くした願望は、
相変わらず無何有の郷には届いていないようだ。
.
54
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:12:28 ID:GyVjF5BM0
信奉は疾うの昔に捨てている。
不必要な忍耐力も、シューの不在証明書も、どちらも全く望んでいなかったのに。
( ^ν^)「くるうがさ、わざわざ職場まで届けてくれたんだ」
lw´‐ _‐ノv「へえ、あの子が」
くるうの話題が出る度に、それに対するシューの言葉へ刺を感じるようになったのは、
たぶんずっと、それこそくるうが生まれたばかりの頃からかも知れない。
この感じている刺だか針だか判別付かないむず痒さを抱いてしまっている俺自身に責任があり、不穏な共振を責任転嫁しているだけかも知れないが。
或いは俺もシューも、似た者同士の鴛鴦夫婦なのか。
( ^ν^)「びしょびしょだったよ。俄雨にさらわれたみたいに」
lw´‐ _‐ノv「それはまた、随分と迷惑かけたね」
( ^ν^)「嬉しかったさ」
どうだか、と囁き声。
静謐を齎す雨音は声の出所がシューである事実を殊更責め立てるみたいに明瞭だった。
乱高下する雨も嫌いだ。
まだ煩瑣な雑音を轟かせている秋雨の方がマシだ。
隣で眠っているシューに若かりし日の面影を重ねようと齷齪しているが、とどのつまり諦めてしまった。
アイロニーを醸し出す声色に、おずおずと反駁を翻してみる。
.
55
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:14:23 ID:GyVjF5BM0
( ^ν^)「どうだかって、そんな言い方、無いだろ」
lw´‐ _‐ノv「なんでよ」
( ^ν^)「あの子、お前に頼まれたって言ってたぞ」
この手の会話は避けるべきだと勝手に判断し、当初の頃は常々意識して、ぎくしゃくと不自然な会話を続けていた気がする。
自身の記憶力低下を再び蘇らせて自罰的な思考の坩堝に陥り、
自己嫌悪と自己否定に依って病状をより一層進行させてしまうかも知れん、と心配していたからだ。
その慮りが浮浪している内に肥大することなく萎んで、結句一般化してしまうまで大した時間は掛からなかった。
シューがにべもなく毒突いて見せる姿から、俺は途方も無い寂寞を宿されている。
lw´‐ _‐ノv「高が酔っ払いの譫言でしょ。それともあなたは、私が呆けているとでも?」
( ^ν^)「くるうは少し遅れているだけで、嘘は付けない。お前も知ってるだろ」
lw´‐ _‐ノv「下らない」
無慈悲なその態度を狭小だと笑えれば、シューの口から出た煙も冗談として捉えられたんだろうか。
俺は大事な娘を一言で断ずるシューに与するべきだったのか。
.
56
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:17:26 ID:GyVjF5BM0
いや、そんな必要は無い。笑ったところで神経を逆撫でするだけだと経験則から判明している。
昔ならばそれでも俺は笑っていたろうけれど、無遠慮な判断が悪化の一助になってしまうのは余りにも忍びない。
無為自然を抱擁してくれた頃のシューは、既に得度していると見做しても過言では無いけれど、此処にもシューは確りと横たわっている。
飲み下した卑しい混迷の心を存外に放り出す。
恒例の二重思考はSF小説で学んだ。
( ^ν^)「お前、大事な家族を下らないなんて、もう二度と言うな。
だいたいあの子はお前が頼んだから、あんなに苦労して来てくれたんだ。あんなに、あんなに濡れそぼって」
lw´#‐ _‐ノv「何回だって言ってやる! 下らない下らないくだらないくだらない! あなたは結局、自分が可愛いだけよ!
迷惑だったくせに感謝してるふりして、それで正直者の私を妬んでる! くだらないわ!」
( ^ν^)「お前、お前、話をすり替えるな。今話してるのは、お前がくるうに頼み事をしたってことだ。俺のことなんて訊いてない」
好ましくない状況に瀕している。やはり会話が噛み合わなくなってきた。
いや、噛み合わなくなって久しいはずなんだから、今更それを論いに憂わしむべきじゃないだろう。
結局こうなることは目に見えていた。
元々俺はシューと違って頭の作りが優れていないんだから、浅い思慮程度で誤魔化せるわけがなかったんだ。
.
57
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:18:51 ID:GyVjF5BM0
( ^ν^)「…ごめんな、うるさく言っちまって」
lw´#‐ _‐ノv「ふん!」
( ^ν^)
そうか、そうだよな。うん、そりゃそうだ。そうなるべくしてそうなったんだ。
お前はお前だし、シューはシューだからな。
当たり前過ぎて咽ぶ涙が無い。
( ^ν^)「ちょっと、電話掛けてくる。少しだけ待っててくれ」
lw´#‐ _‐ノv「はあ? 何、唐突に」
( ^ν^)「ちょっと、な」
急激に陽性症状が悪化している、と独断に基づいた判断を下して、俺は明日かかりつけ医を受診する覚悟を抱く。
突発的に感情が昂り性格や発言が情緒不安定がちになる旨は予め事前説明されていたし、
それらに係う合併症リスクやら必要になるかも知れない検査事項やらが長々とプリントアウトされた用紙も大量に押し付けられていた。
何か不安な事が御座いましたら御連絡下さい。検診後にそれとなく付け加えられた文言が浮上する。
.
58
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:21:32 ID:GyVjF5BM0
( ^ν^)】「もしもし、ロマちゃん? 悪いなこんな夜遅くに」
( ФωФ)】「…良いよ、別に。昼のこともあったし」
杉浦は良い奴だ。そもそもの根が優しくて物腰が柔らかい、年齢を感じさせない軽妙なフットワークの偉丈夫だ。
広い肩幅と恰幅の良い筋肉質なところがややとっつき辛くもあるが、守りたいものを守れる体格には憧れる部分がある。
昔から成績とは別種の明晰さを携えた闊達な男で、シューと知り合えたのも一重に杉浦がコンパへと誘ってくれたお陰だった。
家族のことを気兼ねなく相談できる数少ない同僚、もとい友人。
( ^ν^)】「シューがさ、良くないんだ。急で悪いんだが、明日少し遅れる。十四時には間に合うようにするから」
( ФωФ)】「良くないって…どういう事だよ。掻い摘んで説明しろ」
( ^ν^)】「物忘れが悪化してる」
(; ФωФ)】「……」
居心地の悪い空気だったが、それを生じさせてしまったのは他でもない俺自身だ。
杉浦には心底申し訳無いと、心の内で繰り返し繰り返し頭を下げつつ謝罪する。
口を衝いて出さないよう気を配っているのは、全く杉浦に非がないにも拘らず、どこか胸を痛める想いをさせない為だ。
口癖みたいに謝ってたら被る重みが変質して、単なるその場凌ぎの文句になってしまう。
申し訳御座いませんほど、薄っぺらい謝辞は無い。
.
59
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:22:35 ID:qc4K4Ms60
( ^ν^)】「季節の節目からか、情動も不安定なんだ。一旦診て貰おうと思ってな」
(;十ω十)】「むぅ、なるほど」
( ^ν^)】「だから悪いんだけど、盛岡さんに上手いこと伝えといてくんねえかな」
盛岡さんは頭が随分と禿げ上がってしまい、それに伴って融通が効かなくなった上司だ。
仕事は速いは頭は回るは指導は上手いは、社内でも鶏群の一鶴に抜きん出て優秀だった。
老いは平等且つ残酷に神経を蝕む。人は変わるものだ。
その結果が観測する他人にどう写ろうと関係無く、しかし淡々と、呆気ないまでも様変わりする。
皮肉屋で、お気に入りの部下だけ贔屓する勝手気ままな性格だったが、あの人からはこの業界で食い繋ぐ為のノウハウを学んだ。
生き抜く為の知識をくれた恩師だった。
溺愛していた妻に先立たれてから、まるで坂道を転げ落ちる小石みたいに、加速度的な速さで病んでしまった人。
.
60
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:24:54 ID:GyVjF5BM0
( ФωФ)】「事情は分かった。あの人には俺から適当に言っておくよ。だから気兼ね無く行ってきてくれ」
( ^ν^)】「恩に着る。今度の会合は俺が出すよ」
( ФωФ)】「…ゆっくりで良い、とは言えないけど、程々にな。娘さんたちの事もあるだろうし」
可能であればヒールにも付いて来てもらいたい、というより意地でもあいつには同伴してもらわなければならない。
カレーの事を怒っているから無理矢理引き摺り出そうという魂胆があるんじゃなく、自身の母親が抱える悩みをあいつにも理解してもらう為だ。
話を聴いて、事態の深刻さを真摯に捉えて、ヒールが今何を出来るか考えて欲しいんだ。
同い年の連中が就職して自分で自分の面倒を見れている中、居心地の良いあなぐらで寝そべっている自己を省みて欲しかった。
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61
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:25:59 ID:GyVjF5BM0
シューを引き合いに出して、もしくは利用する形でヒールを触発している下卑た思考にうんざりするが、綺麗事ばかりじゃ始まらない。
ヒールは蝶よ花よと過保護に育て過ぎた。
逆にくるうには長女だからと負担を掛け過ぎた。
逆説的にバランスが良い育て方だったわけだ、阿呆が。
( ^ν^)】「今度、家に遊びに来い。美味いメシを奢ってやるよ」
( ФωФ)】「阿保抜かせ。何で俺がお前に奢られなけりゃならないんだ。
そういう気概はいつ必要になるか分からないんだから、家の為に備えておけ」
( ^ν^)】「…すまねえな、ありがとよ」
電話を切って寝室に戻ると、シューは空虚な顔貌を天井に向けて、鼻に物でも詰まったみたいな大鼾きをかいていた。
照明を消す。目蓋を閉ざす。
裏に残る熾火の薫香が、夜の底に重く落ちた。
今日もまた、昨日と違わない一日が終わる。
※※※※※※
.
62
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:28:25 ID:GyVjF5BM0
※※※※※※※
高等学校の友人が亡くなったらしい。その訃報が届いた。還暦を迎えず命を断ったのだから、夭折だろう。
そこまで明るい性格でも、また暗い性格でもなかった気がする。詳しい性質を覚えている程、仲が良かったわけでもない。
理由はどうあれ、日夜人は勝手に生き死にする。
望もうが望むまいが人死は出る。
彼には妻子が居たらしい。また両親も健在だった。
夢現のまま夭折したと風の噂に聴いたが、誰とも知らない誰かに問うと、
部落の会合で夜更け過ぎまで酒を呑み、翌朝河川敷にて青く伸び切って居たそうな。
迎えを寄越そうにも妻はとっくに眠っている深夜、この程度なら大丈夫だろうと高を括ったのか、或いは迷惑をかけたくなかったのか、
自転車を漕いでえっちらおっちらと帰途に着く。
酔歩でゆらゆらと街灯の少ない畦道を彼は往く。帰路には高い橋が架けてあった。深夜の川は極寒だっただろう。白い息の出る冬の彼誰だっただろう。
.
63
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:30:02 ID:GyVjF5BM0
そいつは俺と同じく、もしもの時に備えて生命保険を多額に拵えて居たらしいから、
未亡人とその二人娘も、夫婦の両親も同様、その後に待つ金の工面は安泰らしかった。
金銭で人は育ち愛情で内側を培う。
副次的な健康がありふれて居てこそ生活の質は高まるものだ。
それを疑わざるをえなくなった瞬間、一つの人生が痩せ枯れる。
彼はきっと幸福者だったに違いない。
死者を盛んに囃立てるべきではないが、正直その話を聴いて、彼は俺にとっての綺羅星へと変わった。
きっと、俺が詳しく知るべきでない程に光っていたと思う、そんな他人の死。
俺も彼のようになれるだろうか?
種類や行末は違えども、シューやくるうやヒールも同じように、十全に納得した人生を全う出来るだろうか?
人は結局のところ自分を通さないと物事を考えられない。何か他人を想い煩う中で、主語たる我の所在が必須になる。
自身の存在を証明すると同時に他人の存在を証明している。
.
64
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:34:14 ID:GyVjF5BM0
寂しい煩い事だと常々意識するよ、浅薄な膜を通過した後じゃないと他人を刻み付けれないんだから。
しかし生死を起点に思考すると安心するんだ。俺にも誰かと共通する身の置き場があると実感出来るから。
病も同じだ。所詮は生涯の伴侶たる人生が、自己を人生足らしめるのに必要な要素の一つなんだ。
普遍的な共通事項に準拠していると安らげる。ここに居ても良いと許されたみたいに。
安い感動と共感、興奮は無償で得られる。
対価を支払わずとも、まるでそこにあるのが当たり前のように、無垢な精神には純粋な幸が灯る。
凋落した精神には失意の不幸が灯る。
代償的に身を削って、蓄積した期待を裏切られ続ける。
自死が意図的か否かを判別する材料は、とどのつまり晦の河の中、あの寒々しい月が映る水面の下にしか無いだろう。
無常の風が噂していた妄言はもう一つあった。幸福な彼の妻は親友の妾だったこと。
亡くなった彼はその軽妙な親友の紹介で妻子を設けたが、彼の不在時その妻は、その親友と遊び歩いていた。
飽くまで妄想、そんな不幸な男が黄泉路を歩いていたかも知れないという、根も葉もない人言。
次の料理は、やはり日持ちするのが良いな。そっちの方が、今に即している。
※※※※※※※
.
65
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:35:31 ID:GyVjF5BM0
※※※※※※※※
( ^ν^)「おい、話がある。そのままで良いから聴け」
川*` ゥ´)「……」
今日は朝の時間が多めに取れる為、忙しなく思考を働かせる必要も、喉に掻っ込むように食事を摂る必要も無い。
雨は止んでも相変わらずの曇空、テレビで気が散らぬようにそっと電源を落とす。
こそこそと隠れて話すべき議題では無いと判断したので、食卓を囲む席にはシューとくるうが各自座っている。
シューはかなり具合が良くないらしく、いや、昨日の調子が良過ぎた為の幅寄せに陥っているんだろう。
色の薄い瞳は虚な形で手元に向かっている。いつも通り、魂が入って居なかった。
くるうは未だに眠気が覚めないのか、頭を傾斜した姿のまま、シューと同じ眼をしている。
肌にのしかかる粘着質な湿度だ。八割は優に越すだろう。
.
66
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:36:29 ID:GyVjF5BM0
( ^ν^)「今日、内藤総合病院の外来を受診する。お母さんを診てもらうんだ。だからお前も来い」
川*` ゥ´)「嫌だ」
ぴしゃりと確然言い放たれる声質は嗄れた老人のようにガサついていて、
その上これがヒールの物だと信じられない程までに、薄気味悪い調戯がへばり付いていた。
斜視気味の小さな黒目が下品な趣向に瞬いている。下から上を睨み付けるときに使う干涸らびた視線だった。
俺の事を嫌う理由ならそれとなく察せられるが、ヒールが母を疎う根拠の所在が理解出来無い。
若しくは別に具体的な理由が無くとも嫌えるくらい、その存在が邪魔なんだろうか。
それとも俺と一緒に行くのが単純に嫌なのか。
.
67
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:39:34 ID:GyVjF5BM0
( ^ν^)「お前も家族なんだから、しっかりと知るべきだ。お母さんが、今どういう状態なのかについて。
それとも俺がいるから行きたくないのか?」
川*` ゥ´)「知らねえよそんなの。面倒臭い、勝手に行け」
( ^ν^)「知らねえって、お前」
言って良い事と悪い事があるぞ、俺は確かに二の句をそう繋げようと決心していたはずだ。
ならばどうして、たったそれだけの言葉が口から出ない。
ハッキリと言わなければ、伝えなければいけない趣旨なのに、どうしてこの口は俺の心からの文言を吐こうとしないのか。
意識が混同しているのか、或いは俺もとち狂ってしまったのか、それとも単なる歳なのか。
違う、断じて違う。誰も狂ってなどいない。俺はヒールが擲つ次の声を待っているんだ。
そこに一体どんな感情が込められているのか、それが明るい事を根拠も自信も無く期待して、焦って縺れた舌をそのままに留めているんだ。
そんなの簡単に予想が付くだろうに、と誰かが笑う。
.
68
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:42:01 ID:GyVjF5BM0
川*` ゥ´)「テメーが家に居ない間、私もくるうも、ずっとずっとお母さんを見てきた。
お母さんがお母さんじゃ無くなって行くのを、じっと堪えてきた。
何もしてないクセに、何も見ようとしてないクセに、分かった気になってんじゃねえ。不快なんだよ」
( ^ν^)「何適当なこと言ってんだ。お父さんだって、お前やくるうを大切に思うのと同じくらい、お母さんの事を想ってきたんだ。
どんなに変わり果てようと、お母さんはお母さんだろ? お前もそう思うんなら」
川*#` ゥ´)「それが間違いだって言ってんだよ! よく見ろ、コイツを! テーブルをじっと見ているだけの、中身の無い贅肉の塊を!
これのどこが"お母さん"だ!? あんただって、もうとっくの昔に気付いてんだろ!!」
隣に座るシューを見る。
毎日毎日満腹中枢が破綻してるんじゃないかと訝しむ程大量の米を平らげているせいで、昔日の細っそりとした姿の片鱗でさえ残っていない。
開き切っていない、視野の狭そうな、それでいて広大無辺な叡智の知悉が溢れ出していた、その両眼。
炊き立ての米粒みたいにふっくらとした、愛らしい薄桃色に彩られた、その唇。
燦々と降り注ぐ太陽をその身に宿したかの如く、艶やかで指通りの良い、その黒髪。
.
69
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:43:33 ID:GyVjF5BM0
俺はシューほど綺麗な人に出会ったことがない。女がその装飾を無くしてゆくと、どうしてこんなにも美しく見えるのだろう。
昔読んだ詩集ではそう書かれていた。
空疎なこの人から、それだけの永遠を感じられるだろうか?
突き詰めて考えてみても、果たして俺はわからなかった。
くるうは何かにじっと耐えるように、耳を閉ざしている。
( ^ν^)「それ以上お母さんを傷付けるような事を言うな。反応に乏しいだけで、ちゃんとお前の声は届いているんだからな。
それに、そんだけお母さんのことが大事なのに、どうしてお前は一緒に来てくれないんだ?
お母さんのために出来ることを、俺もお前たちと一緒に考えたいんだよ」
川*#` ゥ´)「なんで一緒に来ないか、だと?! お母さんのために出来ることを、一緒に考えたい、だと?!
ふざけんなよ、ふざけるな! テメーに、一体何が分かんだよ!
日がな一日わけわかんねー事しか言わなくなった親の面倒見る気持ちが、テメーなんかに分かってたまるか!!」
( ^ν^)「確かに、俺はお前の気持ちがわからないのかも知れない。働いているから、みんなと話したくても話せないから。
だけどな、そういうお前は、お前は一日中家から出ないで、一体何をしてるんだ?
仕事もせずに駄菓子ばっか食べて、一体お前は何を生み出してるんだ?」
.
70
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:44:37 ID:GyVjF5BM0
川*#` ゥ´)「家の全部を賄ってんだよ! 誰も家事をしないから、くるうに任せたって何にも出来やしない!
掃除も、飯も、オムツ交換も、洗濯も、全部私がやってんだ! 何にも知らないクセに! 何にも分からないクセに…!」
鼻息荒く捲し立てるヒールを、俺はどこか達観した静かな面持ちで眺めていた。
なんでか知らないが、ヒールが放つ鬱憤と憤怒の数々が、不可思議な程に薄寒く感じてしまう。
端的に纏めて告白するなら、説得力が無かった。
恐らくヒールの言葉を全く信用出来無いでいるからだろう。
この目で確と、くるうが家事を熟している場面はまじまじと見た事は無かった。
だがそれならヒールも同様。予てから頼んでいる相手はくるうだった。
いつからこんな生活が始まってしまったのかなんてのは、定かじゃない。病の始まりは明確に出来ない。
.
71
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:46:05 ID:GyVjF5BM0
ヒールの声に耳を傾けていると、俺はこの事態ですら予定調和なんじゃないかと疑問を抱いてしまう。
最初から、この雑然とした談論風発を待っていたんじゃないか。
そんな違和感を覚えられる程に、頭も心も冷め切っていた。
シューは心ここに在らず、細めた視線と半開きの口で俯いている。
くるうは辛抱堪らんと云った具合に、力一杯両掌を耳に押し付けて、平たい顔に乗った腫れぼったい瞼を弱々しく引き結んでいる。
厭だな、厭だ。手痛いはずの返答なのに、俺は全く懲りていない。
( ^ν^)「くるうだって、一人で俺の職場に来れるくらい、しっかりしてるんだ。家事くらい任せられる。
それに、家の事を思うなら、お前にはもっと別のやり方があるだろ?
街で着れない服を買い込んで、月一で髪の毛染めて、お前はこの先どう生きて行くつもりだ?」
川*#` ゥ´)「私は私の好きなように生きたいんだよ! やりたいことがあるんだよ! そのためにっ! 今までっ! ずっと独りで頑張ってきたんだ!
全く助けてくれもしない、何一つ恵んでくれない。そんなやつが、偉そうなことを言うな!!」
.
72
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:47:33 ID:GyVjF5BM0
( ^ν^)「お前は…ヒールは、何がしたいんだ。その、やりたいことの為の努力と、たった数時間の連き添いの、どっちが大事なんだ」
よっぽど久しぶり会話したこともあったのか、俺はヒールとの間に途方も無く長い、遠い距離感を覚えてしまった。
俺の理解が及ぶ範疇からは、まるでその輪郭を掴めやしない。
純粋馬鹿が可愛いと褒め称えられていた頃のこの子は、もう大分昔に消え去ってしまっていただろうと頭の中じゃ分かっていたが、
いざそれを目の当たりにすると、今日日までの教育方法に向かって後悔の浪が去来する。
ヒールの姿も、くるうの姿も、今となっては影も形も無くなっていた。
在りし日の追憶ばかりが、寂しそうに漂流している。
ヒールからの返答はそれきり音沙汰無かった。というのも、不意にシューが奇声を発したからだ。
そして、それに共鳴するみたいなくるうの金切り声が響いたからだ。
今の今まで耐え忍んでいた箍が外れて、嫌忌の叫びが家中を占めている。
ヒールは重い身体を引き摺りながら、力強く陳腐な足音を鳴らして自室に閉じ籠って行った。
百舌鳥と鴉のハミングが聴こえる、長閑な囀りの朝。ここは寒すぎる。
※※※※※※※※
.
73
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:48:54 ID:GyVjF5BM0
※※※※※※※※※
音の透き通った静かな午後だった。
遠い日射がほんのりと香る、鼻のむず痒くなるような低い気温。
昼時と夕暮れのちょうど真ん中辺りに陣取っている、はっきりしない時間帯。
賑々しさに追いやられる必要も、侘しさの往来を怯えて心構える必要もない。
変わらない毎日には欠かせない、儚い砌に彩られた海浜公園。
あの頃住んでた場所に程近い、深い海辺の瀬戸際だ。
川*` ゥ´)「にゃー、にゃー」
lw´‐ _‐ノv「にゃー、にゃー」
目に収まる程度の空を居心地悪そうに旋回する海猫。
輪っか状にくるくると廻り続けて、至極退屈極まりないみたいに風と遊んでいる。
二人は狭苦しく飛び交う海猫たちからでさえ、逍遙遊を摘み取っているんだろう。
くるうも来ればよかったのに、意味の無い散歩に現を抜かすことよりも、波の立たない木目調の六畳一間で暇を肥やしていたいらしかった。
.
74
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:50:39 ID:GyVjF5BM0
( ^ν^)「猫じゃないんだから、にゃーにゃー言っても寄り付かないぞ」
lw´‐ _‐ノv「お父さんは夢がないねー」
川*` ゥ´)「ねー」
のほほんと残酷なことを放ちやがるシューとヒールだが、柔らかい二人の調子へ心を傾けていると、
言の持つ不穏で仄暗い気質は瞬く間に晴天へと様変わりする。
平気を強いる恩着せがましい音が齎す転回とはまるきり違った、愛おしい清涼が充ち満ちていた。
焦ったい動悸を抑えるのに苦労する。抑えなくても良かったかもしれない。
必ずしも意味が無ければいけない道理は無いと思ってるから、くるうも一緒に連れてきたかった。
( ^ν^)「なんだよ、二人して」
川*` ゥ´)「お父さんもにゃーにゃー鳴いてみろよー。楽しいぞー」
lw´‐ _‐ノv「そうだぞー、楽しいぞー。ぱおーん」
子供ってやつは、どうしてこんなにも母親って存在が大好きで堪らないんだろう。
母親ってやつは、どうしてこんなにも子供って存在が大好きで堪らないんだろう。
父親だってここにいるぞ。拙い嫉妬でじりじりと身を焦がしているぞ。
共感でしか出産の痛みを感じられないのがあまりにももどかしいのと同じように、お父さんは少し離れたところからでしか家族を見れないんだ。
寂しいぞ、哀しいんだぞー、ぱおん。
.
75
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:51:58 ID:GyVjF5BM0
冬場が魅せる鈍い午後の明かりは、どんなに荒んだ人の心だって溶かし消してしまうほど暖かいのだから、
成績の伸び悩みにささくれだっているヒールとくるうの二人を一緒に連れてきたかった。
海際の民は総じて気象の粗さを目の敵にされて距離を置かれ勝ちな性分だけれど、
白い泡の放物線が行き交うこの情景を見て、どうして荒野を想像出来るだろうか。
悠久なる山川草木を眺めるちっぽけな生き物さえ、まあるく包み込む翡翠色の海原を臨んで、どうして残忍になれるだろうか。
どこにでもあるありふれた安寧に、人は在るべきだ。
変わらず二人はにゃーにゃー鳴いている。
ここにいないくるうは、誰よりも一際目立って鳴いていた。
そんな像が浮かぶ。
( ^ν^)「実際、集られたら困るだろ」
川*` ゥ´)「真似するのがイイのー」
lw´‐ _‐ノv「手が届かないから良いんだよ」
てんでバラバラだ。各々思い思いに微睡ながら実利の無い時間の浪費を満喫している。
そういう時間が本来一等貴重だと、俺は結婚してから漸く理解した。
.
76
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:53:10 ID:GyVjF5BM0
それをヒールは生まれつき備えているもんだから、天賦の才ってのは偉大だと感じるんだ。
こんな時間がずっと続けば良い、と想起して、やっぱり偶にの方が良いな、と切り替える。
毎日遊惰を呑んでいたら人は衰退の一途を辿ってしまうから。
( ^ν^)「それ、何か意味でもあるのか?」
川*` ゥ´)「別にー」
lw´‐ _‐ノv「大して面白くはないよー」
至って平気な調子で、シューもヒールも声を合わせる。含みのありそうな微笑で口角が釣り上がっている。
もしかしたら何か理解できない深浅の屁理屈を念頭に置いているかもしれないけれど、追求するのは野暮ってものだろう。
意味を求めることほど虚しい所業はない。合理性を第一に日々を凌ぐ生活には慣れて欲しくない。
しかし空虚な時間は湯水のように過ぎ去るもの。それもまた真理だから価値がある。
暗い部屋で独り机に向かうくるうを思う。
群れを逸れた海猫を思春期真っ只中のヒールが見ている。
シューは普遍に物憂げな薄目から、甘酸の光を流している。
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77
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:54:57 ID:GyVjF5BM0
lw´‐ _‐ノv「意味意味訊く癖して、お父さんは全然応えてくんないよねー」
( ^ν^)「えぇ?」
川*` ゥ´)「そーだそーだ。適当な理由で散歩誘うのに、なーんも言ってくんねーの!」
くるうもヒールもお母さんが大好きで仕方が無いからか、予ての考え方自体が類似しているのか、よく同調して俺に詰め寄る。
右手に握るヒールの掌も左手に握るシューの掌も、ぽかぽかしてたり凍みていたりとちぐはぐなのに、
纏わり漂う縹緻の黒髪は、色濃く遺伝が受け継がれているようだ。
深く深く、ぬくぬくと潜り込んで行く問いかけを掘り起こそうとする自問を意識した。
明滅するそいつこそが自我の骨子を一身に担う、疑心の正体だった。
今が幸福であれば幸福であるほど、不幸への疑いは常理彷徨くものだ。
葛折りにくっきり織り込まれた背反が痩せ衰え枯れ行く最中にあると認めてしまうと、その正体が形骸的な嘘だと気付くのに遅れてしまう。
なだらかな道が黄泉比良坂への往路と疑念を抱いたその瞬間、夢は終わるんだ。
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78
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:57:52 ID:GyVjF5BM0
どうか目覚めさせるな。陰々滅々は燈の中にひた隠して、暗晦こそが常住と気付けさせないでくれ。
幸せの山が高ければ高いほど、不幸の谷はどこまでもどこまでも深いから。
懊悩の消失を勘違いしたが最期だ。尽く安寧は力尽きる。時として無常なまでに、その平和は地に落ちる。
闃とした汀優りの中空に、黒白のはっきりした鳥が鳴いていた。
間延びした声の割には、妙に凛々しい横顔だった。
( ^ν^)「ヒールはさ、」
川*` ゥ´)「にゅ?」
lw´‐ _‐ノv「にゅにゅ?」
のほほんと間の抜けた音を発して、脚を止める。
二人の柔な掌から伝わる人肌の温もりを強く意識した。
矢庭に名前を呼ばれたからか、頭の上にクエスチョンマークを浮かべて首を傾けているヒール。
そんな娘を真似するシューの瞳が、俺を隔てて交錯している。
( ^ν^)「ヒールは、将来の夢とか、あるか」
川*;` ゥ´)「え、何急に」
lw´‐ _‐ノv「はわわ」
予想通りと言うと些か語弊があるが、概ね分かりきっていた返答だった。
怪訝な視線を猜疑に染めて、沁みいるほどに冷淡な声色が届いてくる。
居心地の悪さを安易に抱かせない所以は、伝播する体温に胡乱な調べが介在していなかったからだろう。
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79
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:58:49 ID:GyVjF5BM0
( ^ν^)「あと二年? 三年? かすれば、ヒールだって高校生だ。だからさ、何か、やりたいこととかあるか?」
川*;` ゥ´)「いきなりンなこと言われてもなー…う〜ん」
lw´‐ _‐ノv「無ければ無くてもいいのよ。まだまだ先は長いんだもの」
悠長な空気の中で一人だけ焦っていても滑稽に映るだけだし、特段切羽詰まった問いでもない。
何れにせよ自ら取捨選択せざるを得ない状況は、そう遠くない未来に聳え立つ。
そこで惑わないように、前々から準備をしていてもらいたかったんだ。
気が早いかもしれないけれど、やっぱり心配なんだよ。
どんなにしっかりして見える奴だって、人生という名の長い道に迷うことがあるから。
方今如何に瑩然と輝いて見えたって、将来の展望へ脚を踏み出せば、一寸先は闇なんだ。ヒールもくるうも、道を踏み違えないで欲しいんだよ。
シューは白波の海沿いを、ヒールは青い芝原を、ただゆくゆくと歩いている。変哲な程に静かな暮れ前だった。
.
80
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 22:59:46 ID:GyVjF5BM0
川*;` ゥ´)「うーん、うーん」
( ^ν^)「あー、別に急かしてんじゃないからさ」
lw´‐ _‐ノv「そーそー。結局、ヒールもくるうも、何歳になっても、お父さんとお母さんの子どもだからね」
不意な質問故に考え込んでしまっているらしい。
元々知的好奇心や探究心の旺盛な子だ、無理もない。
でも最近は考えても考えても、結局行き着く先ってのは今の自分自身だろう。
中学生は内省の年頃だから、内なる独創性の奔放さを存分に満喫して、時に迷うのも特徴だ。
目を瞑って少し考えるヒールと手を繋ぎ、離さないよう包み込む。
海の青とはまた違った趣きの青が背後に広がっていた。
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81
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:01:07 ID:GyVjF5BM0
川*;` ゥ´)「やりたい事なんて、別に何もないんだけどなぁ…」
( ^ν^)「やっぱり、そうだよな。お父さんもヒールくらいの年頃じゃ、将来なんて何も考えてなかったよ」
lw´‐ _‐ノv「いつまでも今が続くと思ってたね」
阿吽の呼吸で二の句を継ぐシューが妙に感慨深く浅い首肯をしていた。その仕草が不意に俺と重なり合う。
長年連れ添った夫婦であるのは違いないからか、最近は物腰や立ち振る舞いが意図せず重なる機会が多い。
愛しい人と外的、内的問わず混じり合っている自覚が持てるのは、存外悪くない。
素直に良いと思うのは恥ずかしいんだけれども、本能は寧ろ良いと全力で叫んでいる。
俺とシューが生きた証明であるヒールから、自身達と近しいのを感じられるのは心地良い、と同時に危うい。
くるうにも同様の質問をすれば、きっと同じ回答をしたかもしれなかった。
それだけが、ほんの少しだけ恐ろしかったんだ。
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82
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:02:20 ID:GyVjF5BM0
川*;` ゥ´)「夢か……夢、ねー…」
( ^ν^)「職業に限った話じゃないぞ」
lw´‐ _‐ノv「小学生の頃とか、宇宙飛行士になりたいって言ってたのにねー」
校内の学級文庫にまとめられた、約四百字詰めの原稿用紙に書き殴られた将来の夢。
くるうは保育園の先生で、ヒールは宇宙飛行士だったか。
二人とも淡々とした文体で夢を語っていたんだが、どうにも違和感というか、疑念というか、
文字上の虚像と目の前の二人の姿が合致しなくて焦った記憶がある。
爛漫なくるうがです・ます調を使っている時点で変な感覚に陥ったし、ヒールの夢が何の縁も所縁も無い宇宙飛行士だったのにも驚いた。
あれって先生たちが議題でも用意して生徒に書かせているのかね。
もしかしたら、最初からある程度丁寧に敷設された書体に則って文字に落とし込まれているのかもしれないな。
そう考えると、子供たちが一生懸命書いたと思われるその文庫本も、なんだか虚しい香りがする。
それでも結局、楽しみながら読ませて貰ったわけなんだが。
背を屈めてヒールの頭頂部を覗き込むシューの髪から、柑橘系の涼やかな、甘くほの苦い匂いを感じる。
黄玉の仄かな黄色い漣が、汐風に乗って俺を包んでいた。
爽やかな飛沫だった。
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83
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:04:09 ID:GyVjF5BM0
川*` ゥ´)「なんかー…結局よくわかんないけど、家族が居ればいいかなぁ」
lw´‐ _‐ノv「普通が一番?」
( ^ν^)「おうおう、それで上等だよ」
どうして俺はこんなことを言ってしまったんだろうか。
当たり前ほどありがたくて貴重なものなど無いというのに、
それを得る為の努力が、労力が、熱が必要だということを無視して、無責任に任せてしまったのか。
後悔先に立たずなんてふざけた真理ほど、人を惑わす理屈は無い。
普遍的な変わらないものを得られるのは、本当に一握りの、馬鹿と天才だけなのに。
普通と平凡は絶対的に異なる。ありふれた心と身体の平和ほど得難いんだ。
安全圏に居座っていられるのは全て他人から賜ったもののお陰なのに、どうしてそれを自分の能力故だと言い切れる。
俺は一体いつから、凡庸な人間に普通が宿っていると勘違いした?
努力と我慢に同等の価値があると思い込んでいた?
その間違った屁理屈を押し付けた結果がこの為体なのに、俺はこれから先も、ずっとこんな退屈で平穏な日々が続くと確信していた。
今も尚、SFも超能力も殺人事件も起きなければ、平々凡々と月並みに暮らして行けると思っている。
白く泡立つ蒼黒い海を見下ろし、自然から仮借した人工芝を想起する。
母なる海が飲み込んだ亡骸の数を俺は知らない。この地に埋まる膏血を俺は知らない。
今日の夕飯は焼豚を作ろう。太く荒い麻縄で味を留めよう。そう決めた。
※※※※※※※※※
.
84
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:05:30 ID:GyVjF5BM0
※※※※※※※※※※
ζ(゚、゚*ζ「そんで、どうなったのさ」
何がだ。俺に何を求めてんだ。お前の望むものなんて、お前の夫が全部分け与えてくれるだろ。
愛情と金銭と健康と一緒に、努力で勝ち取った安穏を齎してくれるだろ。
何にも無い俺にお前は何を求めてんだ。
胸のぽっかり穴が空いた出来損ないの人形を、これ以上どれほども痛めつけるつもりだ。
俺のこの疼痛を止める頭痛薬でも用意してくれるのか?
そんなわけないよな、何故ならお前が俺を引き止めてたんじゃなくて、俺がお前を無理矢理言いくるめて引き止まらせていたんだから。
阿呆を肆にして、お前の疼きは治ったか?
これから先の未来、ただ醜く立ち枯れて行くだけの癖に、自分と同じく養分の貧弱な腐葉土から、これ以上何を吸い上げるつもりだ。
.
85
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:06:25 ID:GyVjF5BM0
ζ(゚、゚*ζ「人聞きの悪いこと、言わないでおくれよ。八つ当たりなんて虚しいだけだよ」
お前は、デレはまたそうやって自分の優位性を示そうとする。
遣る瀬無い鬱勃を、酩酊めいて明け透けに暴露する輩を上から眺めて、ニヤニヤと下卑た笑いを溢しやがる。
趣味は人間観察と感情移入だ、とでも宣言するつもりか。
そんな下賤な内情を誇る奴に正常な人間は居ないぞ。
ζ(゚、゚*ζ「何焦ってんのさ。あんたの嫁、そんなに良くなかったのかい?」
お前は一体いつの話をしてるんだ。
昨日のことか、先月のことか。それとも何年も前の、外来受診のことでも指してるつもりか。
その所在を明らかにするのはお門違いも甚だしいだろうが、追求せずにはいられねえよ。
分からないんだから、分からないことは訊くしかないだろ。
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86
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:09:21 ID:GyVjF5BM0
他力本願だと笑えばいい。
自信に満ち溢れている確固とした確信を持てるお前と違って、俺は劣悪塗れの自我を藪医者以上に信用出来ない。
ζ(゚、゚*ζ「いい歳こいて泣き言かい。だらしないったらありゃしないね」
褒めて欲しいくらいだよ。どうしようもなく救えない、他人の差し伸べる有情の腕すら払い退けて来たんだ。
得体の知れない自身と同様か、或いはそれ以上に説明出来ない他者の存在ほど、信用ならないものなんてないだろ。
少なくとも、今までなんとかして日々を凌いできた俺には、他人の気持ちは分からない。
体温並みに冷めた微温湯に浸かって、その熱に肌を焼かれていた俺の気持ちなんて物もお前が知る筈ないし、
俺だって自分の感情が判別付けられないから言葉にも表せない。
いくつになっても精魂は不変なんだ。
所詮は三つ子の魂百までだ。たったそれだけのことで、一生の結末が決定されるんだ。
ζ(゚、゚*ζ「今度は責任転嫁かい。天国の親が泣いてるよ」
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87
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:11:34 ID:GyVjF5BM0
五月蝿えな、お前如きが俺の両親を代弁するんじゃねえよ。
確かに最期を看取ったのはお前だったかも知れないが、ホスピスで終末期病棟に勤務してんだから、そんなの見慣れたもんだろう。
他人の生死に係う職場なんだから、人が亡くなる間際に見せる下らないドラマなんてものは、お前はどうせとっくの昔に見飽きてるだろ。
人の衰弱する変遷に慣れている奴が俺に説教するのか。
病に侵されゆっくりと凋落して行く、どこにでもある家庭の状態を見聞きして、
非協力的でも愛しい家族を守ろうと木偶の坊を演じている俺をお前が責め立てるのか。
馬鹿馬鹿しいな。巫山戯るのも大概にしろ。
ζ(゚、゚*ζ「情け無いね、心身共に至って健康的なのに」
心身共に至って健康的、だと? そんなの当たり前じゃねえか。
俺が何も知らないフリして自力で自分を騙して、全部忘れた心持ちで仕事と家事をこなして、
そうして生活せざるを得ないんだから、健康なのは当たり前だろうが。
.
88
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:13:48 ID:GyVjF5BM0
健やかな毎日を送るのは俺にとっての義務だ。生きる上での最低限のマナーだ。それを守れないで所帯なんて持つべきじゃ無い。
自分が抱える低い悩みに押し潰されて弱って行くか、若しくは拙い精神疾患でも患って働けなくなったら、一体誰がこの家を支えるって言うんだ?
元々全部俺におんぶに抱っこで日常を過ごしている家族が、唐突に社会的な助成金だけで生活しろと言われたって、駄目なのは目に見えてるだろ。
ζ(゚、゚*ζ「押し付けがましいねぇ。あんたが妻と娘に向けてんのは、そんな義理的な感情だけなのかい?」
責任を持つべきだって話だ。
人は結局総じて分かり合えない。だからこそ、生きてる中で一番濃密な関係の家族を大切にするべきだって俺は言ってるんだ。
はっきり言って、俺は家族から労をねぎらう声掛けなんてものは期待していない。
給料稼ぐのはごく当たり前のことだし、幸せの享受も自由な生活も、ありふれた常識と同等と思うべきだと考えてる。
.
89
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:17:06 ID:GyVjF5BM0
だが俺だって人間だ。
表面的で薄っぺらく見える部分が大半だろうが、無口で無愛想だろうとしっかり頭回転させて生きてんだ。感情の無い機械じゃねえ。
家族でも恋人でも友人ですら無いお前に、全くの他人に鬱憤を吐露するくらい、許してくれよ。
滑稽な人間ドラマを臨終で演じて悲劇の主人公ぶる患者家族の所作くらい、そんな人の内情なんてもん、お前は立ち会いまくっているだろうが。
ζ(゚、゚*ζ「何のメリットも無いのに、どうしてあんたの愚痴を聞かなきゃなんないのさ。私の質問に全く答えないし」
んなもん見りゃわかんだろ。俺の姿が正しく体現してるじゃねえか。
何も変わって無い、何もだ。
お前の旦那から処方された薬剤が受診するたびに増えていってるだけだ。
自己管理の出来ない、食欲の暴走や運動習慣の欠如を補遺する高血圧治療薬薬やら軟膏やら精神安定剤やらのカラフルな薬が多くなってるだけだ。
嫁も嫁なら旦那も旦那だ。ふざけた野郎共がよ。
国内で症例の少ない疾患だからってシューとくるうをモルモットにして、検査費や開発段階の医療品の無償化を餌にして、
それで得たレポートを種に医学界での称賛を狙ってるせせこましい守銭奴夫婦が。
.
90
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:20:29 ID:GyVjF5BM0
結局人なんてもんは自分の利益しか頭に無い。
心理的葛藤やら良心の呵責やらと云った雑多な虚飾を施しているが、突き詰めて考えればその心理が著す正体なんざ損得勘定だ。
人にしてもらいたいことは進んでしろ。自分がされて厭なことを人にするな。
自身を中心に据えて、金であったり名誉であったり、或いは理解や愛情を授かろうとする。
承認欲求を得て恍惚と悦に入るのを目的に、情けは人の為ならずを唱える輩ばかりだ。
舐めたスローガンを掲げて、今度は俺から何を啜るつもりだ?
もう何にも残ってねえぞ。私財も私情も、恥も外聞も擲った後だ。
俺はもう眠りたい。雑多な煩悶を喰らい過ぎて食傷気味なんだ。胃アトニーで吐きそうなんだ。
ζ(゚、゚*ζ「あんたは、またそうやって逃げるのか」
は?
.
91
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:21:42 ID:GyVjF5BM0
ζ(゚、゚*ζ「勢いで愚痴愚痴抜かすクセに、疲れて面倒になったらすぐ逃げる。本当に下らないのはあんただよ」
なら教えてくれ。俺は一体いつ逃げたんだ?
感情を押し殺す内に劣情と劣等感が沁み込んで、唯一無二の精根に取って代わられた俺が、いつ、誰から遁走してるって?
社会か、盛岡か、自我か、杉浦か、理性か、内藤か、懊悩か、お前か、苦難か、俺か。
ζ(゚、゚*ζ「分かってんなら、他人の口から言わそうとするんじゃないよ」
家族か、くるうか、病理か、ヒールか、現身か、シューか。
そうか。
そうか。
.
92
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:23:06 ID:GyVjF5BM0
ζ(゚、゚*ζ「あんたみたいに最低な奴は、一生自分の馬鹿に気付かず、ひたすらのうのうと生きてりゃいい。
自力で自分の馬鹿に気付けない奴なんて、一生涯、幸せになんて為れやしない」
五月蝿えな。いや、五月蝿えか?
それが正しいからか。正に正鵠を射る言葉だから、五月蝿えのか。そうか。そうだよな。いや、そうだろうか?
だがもう、どっちでもいいか。
諭されたみたいで腹が立つが、少しだけ足掻いてみるよ。
何れにせよ、時間は有り余るほど限りなく広がっているからな。結論なんて分からないが、正直予想が的中するだろうことくらいは分かっている。
だが、お前の言いなりになんて断じて成らない。
自問自答に青々しさを埋めて草してみるとも。咎める奴がいたところで、畢竟自我の形骸以外有り得ない。
俺を咎めるのは俺だけだ。
( ^ν^)『雨が降っていた。ひどく温くて粘っこい。湿度が高い。腐った匂いが充満している。
果実だ、柑橘系の橙黄だったそれが、見るも無残に黝然としている。光色だった淋漓は、まるで不仁の痼りでも固まったみたいに間抜けていた。
濃厚に濁るそれのずっと奥の方に、俺は懐かしい香気の彩を見出していた。色づく遠さにさらわれた、旧い愛惜の影だった。』
※※※※※※※※※※
.
93
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:25:07 ID:GyVjF5BM0
※※※※※※※※※※※
嫌忌を通り越した無表情供が溢れ返っていた。
溺れないように手を取り合おうにも、落ち着き処の無い羞愧の状がそれを咎める。
薄緑色したリノリウムの薄情な廊下と、擦過傷防止用に誂えられたスポンジで覆われた曲がり角。
閉塞感を抱かせない為なのか、一階から五階まで吹き抜けになっている。
無駄に大きく嵌め込まれた一面の窓は、大衆監視の元に彷徨く檻の中で暮らす畜生を彷彿とさせる程度に露骨だ。
白衣の医者や看護師の代わりに医療事務職が忙しなく足音を響かせている。
鈍い響きしか残らないのは、安心するようにと塗色された床が音を吸収しているのか、又は役目を失うまでに靴底が擦り減っているのか。
適当に履いてる内に執念い貧乏性が祟って、このコインローファーにも妙な愛着心が湧いてしまっている。
そういえば海外だと、死骸を棺に入れる際、両瞼をコインで蓋するんだったか。
地獄の沙汰も金次第らしく、川を渡るのにすら金が要るらしい。
踵の丸く擦り減った革靴を眺めて、滑らないようにと軽く祈る。
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94
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:26:27 ID:GyVjF5BM0
だが果たして誰が滑るのを危惧しているのか。
その対象は、今のところ自分では無いと思う。その内わかればいい。結局わからなくても困らない。三年峠で転んじまえばいい。
( ^ω^)「一通り診てみましたが、然して変化はありませんね。処方分も滞りなく服薬できてるみたいですし、現状経過観察でしょう」
( ^ν^)「そうですか」
内藤自身が専門の医者に診断されるべきなんじゃないか、然るべき科を受診するべきじゃないか、
と思わせる程の大兵肥満が能天気な笑みを貼り付けている。
あからさまな造り笑顔もここまでくれば本物と大差無いだろう顔貌と、何故か常に荒々しい息遣いが俺の神経を逆撫でする。
五体満足で、恵まれ過ぎるのも困り物なくらいに朗らかな表情だが、
それすらも自分を権威付けているみたいに聴こえる、プライドの高そうな上擦りの調子を放っていた。
.
95
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:27:14 ID:GyVjF5BM0
あいも変わらずいけすかない、空かした態度の野郎だった。
他人が内藤と会話した時どんなものを感じ取るのかは、何となく分かる。理解力と知悉の晴れ渡った、自律出来ている大人像だろう。
人が小指ほどに見える程高所の五階、中央エントランスを眺望出来る透明の柵に背を擡げ、妙に寛いでいる内藤が笑っている。
( ^ω^)「…だるいな敬語。タメでいい?」
( ^ν^)「お構いなく」
波打つ脂肪が語調を変える。
不快なまでに太々しい、自らの地位を鼻に掛けた横柄さだ。
内藤の飾らない本性を知っているからこそ、俺はこいつが気に入らないんだろう。
正しくデレの旦那に相応しい。豚に真珠、猫に小判って奴だ。
若しくは単純な、蓼食う虫供の乳捏ねくりあいか。どっちでもいいが、考えて気分の良くなる議題じゃない。
階下に位置する障害者用の大きなトイレから、二人組の膨よかな女性が出てきた。
シューとくるうだ。二人とも寝巻きみたいなグレーのスウェット上下を身に着けて、周囲の人間と同様の能面前とした面構えを晒している。
.
96
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:28:06 ID:GyVjF5BM0
( ^ω^)「二人とも、国内じゃ殆ど例を見ない症候だ。遺伝との関連も不明。謎々みたいな病だよ」
( ^ν^)「そうですか」
まるで他人の不幸は蜜の味とでもいうかのように、下劣且つ低俗な容貌だ。
こんな奴に生命の手綱を託す人間が後を絶たないなど、誰が想像出来ようか。
内藤は所謂名医とかいう奴らしく、その内自叙伝でも出版して小遣い稼ぎもしたいらしい。
未だこの年齢で今後の展望に期待を持てているだけでも、こいつは十二分に恵まれているってのに、より上を目指したいらしい。
人の欲望とは甚だ恐ろしいもので、客観的に見て当人が如何に順風満帆な人生を送っていようとも、
得られれば得られるほど、渇望は何処までも果てしないらしい。
内藤は、そんな人間の性を余す処なく体現している奴で、自分の利益になると分かるや否や他人を無闇に引き込もうとする。
その相手にとってのメリットを遮二無二説明して納得させ、自らの望みの為の礎とする行為を厭わない。良心の呵責など有りもしない。
.
97
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:28:56 ID:GyVjF5BM0
( ^ω^)「そういや、もう一人の娘さんはどうなんだ? 元気か?」
( ^ν^)「元気ですよ」
ヒールは結局来てくれなかった。
連れて来ようとする固い意志ですら、激励の言葉ですら、あいつは梃子でも動こうとしなかった。
やりたいことがあるのなら構わないのではないか、その為に今を精一杯努力して生きているのなら別に良いのではないか。
そんな有体の文言が頭に残る。
結局は、自身の不甲斐なさを誤魔化す為に出た文章だ。
反射的に自身の責任を転付して、無理矢理にでも連れて来れなかった理由を、後から諄々と言い訳しているに過ぎない。
俺の脳裏には俺しかいないのだから、誰かに批判され弾劾の的になる心配も、又は自罰的な罪業妄想に陥る恐れも、無い。
.
98
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:30:16 ID:GyVjF5BM0
今日のシューとくるうは、そもそも基盤の人格自体が宿っているのかすら怪しいから、取り立てて意識しなくとも問題ないだろう。
高圧的な小人から命令されて苦しみ喘いでいるとして、残念だが助け舟を出すのは不可能だ。
図らずとも救いがあるとするのなら、公共の面前で今朝のような叫喚の声を挙げていない旨だろう。
( ^ω^)「ふーん。なんか、怪しい兆候でも見えたら教えろよ。場合によっちゃ、無料で検査出来るから」
( ^ν^)「どうも」
分かりやすく皮肉を言う奴だ。徹底的にいけすかない。こんな野郎に家族の命が握られていると思うと吐き気がする。
そんなこいつへの嫌悪感以上に、俺は無力な自分への虚無感ばかりが堆積する。
内藤の娘は高校生だったか。金の掛かるエスカレート式の名門校に通っている、才色兼備な女の子だった気がする。
三人揃って仲睦まじくショッピングでもしていたんだろう場面に出会して、偶然その容姿を拝顔したことがある。
若い頃のデレに瓜二つで、内藤の冷笑的な瞳の色を受け継いでいる、こいつ同様のいけすかない子供だった。
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99
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:32:03 ID:GyVjF5BM0
( ^ω^)「…あー、あと、国内じゃあまり見ないが、海外だと臨床段階までテストされてる新薬、処方しといたから。
今のところ顕著な副作用も出てないっぽいし、安心して飲め」
( ^ν^)「はい」
嘘臭い笑顔だ。会話をさっさと打ち切って自宅に帰りたい。
シューやくるうと意思の疎通は出来なくとも、二人を安全に家へと送り返すのも俺の仕事だ。そして実際の業務も、その後に待っている。
新薬の件については二年ほど以前から説明されていた。
その時点じゃまだ実験段階までしか進んでいない物で、なんだか難しくてよく分からないテストを最近通過した、とか聴いた。
整ったら持ってきてやると話していた。
その頃の俺は、将に藁にも縋る思いだったから、切羽詰まった心持ちで内藤に処方を依頼してしまったんだっけ。
よくよく鑑みれば分かり易い話だ。こいつは最初から自分の利益を最優先に考えていたんだから。
突然前例の極めて少ない難病だと診断された家族が、まともな精神状態で受け答えが出来るなど通常考え辛い。
その点を悪どく利用されて、同意書にサインを書いてしまったわけだ。
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100
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:32:43 ID:GyVjF5BM0
世の中は無情だ。利用する者とされる者しかいない。
両者の力関係が逆転することなんて、絶対的に有り得ない。
( ^ω^)「じゃあ、俺はこれで」
( ^ν^)「はい」
ありがたくもないのにありがとうなんて、社交辞令ですら言いたくない。
それが苦手な存在であればあるほど、拒絶感が強まる。
通路の奥から戻ってきたシューとくるうへ愛想良さげに会釈して、内藤はご自慢の丸い身体を持ち上げる。
上品そうに薄汚れた白衣の襟を正し、威厳を示すみたいに大股で帰って行く。
最初から最後まで一貫した恵比寿顔だったが、去り行く奴の瞳には、掃き溜めみたいな嘲りが混じっていた。
.
101
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:33:30 ID:GyVjF5BM0
無表情の観衆を押し除けてシューとくるうが帰ってくる。
中々容体は優れないらしく、シューは土気た顔色だった。
くるうは幾分か正気を取り戻したらしく、比較的今朝よりは話の通じそうな血色だった。
lw´‐ _‐ノv「あ〜…」
川 ゚ 々゚)「帰ろ」
( ^ν^)
行き着く終着駅がそう遠くない未来に起こりそうな不穏を感じつつも、きっと寛解と悪化を延々起伏し続ける日々が続くんだろう。
人に於いて、結局不健康が祟って死に至るケースというものは、今のご時世そうそう無い。
生が権利から義務に移り変わりつつあろうとも、人が前向きに夭折出来る世の中ではない。
ここに溢れ返る人を見ると、俺はいつもそう感じるよ。
ほら、隣人のお顔を拝見してみろ。無表情が入れ替わったって、別に違和感無いだろ?
帰りにスーパーへ寄ろう。焼豚を作るんだ。太く荒い麻縄で締め上げて、作り置きの飯を作ろう。もうじき冬だ。もうじき、もうじき。
柑橘系の香気が吹いた、気がした。
※※※※※※※※※※※
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102
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:37:53 ID:GyVjF5BM0
※※※※※※※※※※※※
重度の知的障害があったところで、当人にとってはそれが平時だ。
奇妙で不可思議な言動に面食らい、精神の所在が不確定だと思われがちではあるが、生きている以上成長以外の選択肢は無い。
微弱ながらも人は前に進んでいる。日進月歩どころか後退も伴いつつ、精神遅滞があろうとも人は大人になる。
これが極めて厄介な物で、安易に社会人と同じだ、とは言い難い。
彼らは情動の舵取りが上手く熟せずに社会から爪弾きされ、その責任を感じることなく八つ当たりで代償する。
本人は外敵からの攻撃に反撃でもしたつもりになっているから、思い込みの暴走で鬱憤や遺憾を外側へと解き放つ。
だが悲しい哉、原因が内的な、且つ根本的な魂に起因している以上、いくらそれを外に撒き散らしたところで満足出来ない。
子供が子供のまま大人になるというのは非常に面倒臭い。
変に狡賢くなり、衒学的な虚言で地位を確立しようとするからだ。
足りない能を補う要素を努力や勉励、誠意から捻り出すのではなく、常に近道を模索する。
そうして連中は嘘で塗り固めた矮小な地位の確立で、自律している人間性を演じる。
勘違いした同族の他人がそれを評価して、主格は嘘を取り込み真実だと勘違いする。
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103
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:38:03 ID:GyVjF5BM0
※※※※※※※※※※※※
重度の知的障害があったところで、当人にとってはそれが平時だ。
奇妙で不可思議な言動に面食らい、精神の所在が不確定だと思われがちではあるが、生きている以上成長以外の選択肢は無い。
微弱ながらも人は前に進んでいる。日進月歩どころか後退も伴いつつ、精神遅滞があろうとも人は大人になる。
これが極めて厄介な物で、安易に社会人と同じだ、とは言い難い。
彼らは情動の舵取りが上手く熟せずに社会から爪弾きされ、その責任を感じることなく八つ当たりで代償する。
本人は外敵からの攻撃に反撃でもしたつもりになっているから、思い込みの暴走で鬱憤や遺憾を外側へと解き放つ。
だが悲しい哉、原因が内的な、且つ根本的な魂に起因している以上、いくらそれを外に撒き散らしたところで満足出来ない。
子供が子供のまま大人になるというのは非常に面倒臭い。
変に狡賢くなり、衒学的な虚言で地位を確立しようとするからだ。
足りない能を補う要素を努力や勉励、誠意から捻り出すのではなく、常に近道を模索する。
そうして連中は嘘で塗り固めた矮小な地位の確立で、自律している人間性を演じる。
勘違いした同族の他人がそれを評価して、主格は嘘を取り込み真実だと勘違いする。
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104
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:39:20 ID:GyVjF5BM0
ここで問題が起きるわけだが、嘘を真実に摺り替えた当事者はその事実を忘れてしまう。
自分の想像が生んだ思い込みこそが唯一無二の真実だと疑わなくなる。
そうして勢いに飲み込まれ、或いは周囲を巻き込んで行く内に、結局その責任が取れなくなる程ど壺に嵌まり込んで行く。
救えないのは、これを巻き起こした当事者にその自覚が全く無いことだ。
正解のルートを順当に辿っているつもりが、その薔薇道は第三者的に見れば滑稽な後ろ歩きに過ぎない。
注意喚起を悪口と捉え、相手の言葉に耳を貸さず躁的に罵倒を繰り返す。
反駁されればお得意の逃げ口上である障害者の身分を呈し、安直な同情に端を発する恩寵を賜る。
他人の盲目的な庇護愛を自身の才能故だと思い込む内、生まれ持っての遅滞を個性だと売り込み自画自賛に溺れるんだ。
成長とは必ずしも望ましいものとは限らない。
擁護的な称賛の声を浴びて自己肯定感をぶくぶくと太らせた、肥大化した無能の自意識に金銭的価値を付与する人間も多く目にしてきた。
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105
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:40:16 ID:GyVjF5BM0
狭い世界に暮らす愚者が盲に世間を批判している。
その姿に人が集る所以は、安くて滑稽な諧謔性を笑いの種にする為だ。
共感的態度と好意的な意見が孕む内情は、その実愚かしく舞い狂う珍奇なダンスへの期待に過ぎない。
俺もシューも、元来の性格は決して良くは無いんだ。
二人して幼少期、知的障害で身体のデカい生き物に嬲られていた経験があるから、そもそも障害持ち全体に対して良い印象を抱けない。
それが例え我が子であっても、と若い頃は思っていた。
何れ本人が不幸になり、それに巻き込む形で他人を陥れる存在になるだろう、とシューは生まれた我が子を抱きながら話していた。
こんなんじゃ母親失格だ、未熟者の私に親になる資格なんて無い。そんなよく聴く文言が、シューの口から出るとは思いもしなかった。
人の心は常ならず。感情の波は季節や時分と関係無く訪れて、その人そのものを蝕んで行く。
思い返せばあの頃から、現在の傾向に結び付く何某かが在ったのかもしれない。
あの頃は兎にも角にも仕事三昧で、稀に舞い込む休日は身体も精神も抜け殻みたいに動かせなくなっていた。
職場と寝床の往復を今以上に余裕の無い状態で続けていたせいで、身体の不調すら無意識的に咎められる程だったが、
それでも健気な妻子を思えば頑張れていたんだ。
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106
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:41:45 ID:GyVjF5BM0
時期尚早だったに違いないが、この選択を後悔したことは一度も無い。
格好つけて宣言してみたが、つまりは悔いた記憶を覚えていないだけだ。
世間の荒波や引っ越しや流行病の落ち着き始めた安定の時期、結婚して家を建てて子どもを設けて、ここまでは全部順調だったんだ。
シューが身篭って腹を大きく膨らませて行く内に、育児情報誌や子育てグッズが日増しに山を成していった。
あいつが積み重なるそれらを四六時中読み耽っていたのは、俺が不甲斐なかったせいもあるだろうが、不安が大部分を占めていたんだろう。
睡眠不足が身体に障るからと夜中は十分に会話が出来ていなかったし、話せたとしてもその議題が結論に達する事はほぼ無かった。
障害について語り明かしたのも、ちょうどその時だったな。
障害者に対しては決して良い印象を抱き難いが、全員が全員頓狂で不埒な連中だとは微塵も思っていない。
統括的に人を区分して彼らの性格を断定する程、偏屈者のつもりはない。
意思の疎通だって可能だし心優しい人もとい純粋な人が多いんだろうということは、色んな記事やエッセイなどから読み取っている。
大人になってから直接的にやり取りしたことなんてほぼ無いが、障害の有無に拘らず頭のおかしな輩はごまんといる。
障害持ちの彼らだけが、総じて変だと断じるのは不可能だ。
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107
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:43:04 ID:qc4K4Ms60
そもそも人は少なからず、他人とずれた意識を持っている。
常識も倫理観も定義こそ大々的に理解はされているが、その範囲がどこからどこまで含むのかについては人それぞれだ。
自分にとっての当たり前が人にとっての当たり前に成り得ないことなんて、何にも考えずとも生きてさえいれば、自然と分かるだろう。
子どもの頃の俺やシューは、この融通の効かない性格のせいで、そんな人間に自分の考えている正常な意識を押し付けていた。
思い返しても別に反省なんてしていない。接し方を間違ったと捉えている。
誰しも自身の信じる神が冒涜されれば気分を害するものだ。
口煩く相手の信奉する真理をがなり立てられたところで、例えそれが如何に高尚且つ崇高な節義だとしても、
俺にとっても相手にとっても、所詮は馬の耳に念仏だ。
心を広く開けなければいけない。
相手の言葉に耳を傾けて、どんなにそれが馬鹿馬鹿しくて筋の通っていない羅列であろうと、同調的態度で傾聴するべきだ。
真理ほど理由無く納得が得られる概念も少ないが、それを体現出来る人間も同様に少ない。
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108
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:43:57 ID:GyVjF5BM0
そうしていく内に、面倒事を上手く捌けるようになる。
逐一心無い言葉を間に受けて傷だらけになり凋落した所で、誰もお前を助けてくれない。
順次若年の瘧が落ちるのと並列して、自身に害を与える他者の文言を右から左へと流せるようになる。それが平時になる。
人は誰しも自分とは異なる意識を持っているとは言ったが、障害が個性へと鞍替えされつつある昨今では、
単に診断されていないだけの片端者も数多にいる事だろう。
はっきり目に見えて不然を露わにしている人間の方が少ないが、会話してみればそれらの嫌いが存じているとそれとなく察せられるはずだ。
人格障害、発達障害、症候群、恐怖症、性格特徴、発育遅滞など、固有名詞も含めればその類型は数限り無い。
だが別に、その有無で相手への評価が変わるとは一概には言えない。印象こそ、変化するかもしれないが。
真っ当に生きてきて、一度も狂わないでいられる人間なんて、いやしない。
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109
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:44:38 ID:GyVjF5BM0
( ^ν^)「くるうは何か、やりたい事とかあるのか」
川 ゚ 々゚)「何も」
会話に場所を設ける程度の重い議題を提示するつもりがないからか、
ふとした瞬間に出した疑問が実は重要なものだったんじゃ、と発言してから回想する機会が多い。
だからといって訂正しようにも、俺自身が気になって疑問を投げ掛けているのだから、結局行きずりで続行せざるを得ない。
居心地が悪いわけではないが、病院からの帰路で後部座席にシューが眠っている以上、声量や話題内容を意識するなと言う方が無理があるだろう。
時間は有限だ。有効的に活用すべきだ。それが分かっているからこそ、使い方に迷うんだ。この逡巡こそが無駄であるにも拘らず。
暗いトンネルを潜り抜けて、いつ見上げても曇っている天が視界に入る。
空を除いた周囲の環境は噎せ返るほどの深緑で、凹凸の激しい山道が差し出すこの彩りほど、不安を煽られる色も少ないだろう。
遠方から眺めるだけなら心安らぐ色相らしいが、その渦中に埋もれる者からすれば、心地良さなど皆目見当も付かない。
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110
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:45:30 ID:GyVjF5BM0
( ^ν^)「何も、はないだろ。何か、何でもいいから、こうなりたいとかも無いのか?」
川 ゚ 々゚)「別に」
意思の疎通は滞りないが、最近のくるうは何事に対しても関心が薄く、加えて素面だと極め付けに愛想が悪い。
我がままで強情な気質こそ生まれてこの方不変なんだが、いい加減に何もしないでも生きていけるという勘違いを修正して欲しかった。
育て方を間違えたんだろう。姉だからと我慢させ過ぎて、その幅寄せが現状に結び付いているのだろう。
或いは幼少期に頭を強くぶつけた事案が起因して、脳機能の何処かしらが余計に破綻してしまっているのかもしれない。
シューは一生帰ってこない。既に遠くへ飛んで行ってしまっている。
俺だっていつ身体を壊すか分からないんだ。演技でも虚言でも何でもいいから、くるうにもそろそろ現実を見据えてもらいたい。
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111
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:46:22 ID:GyVjF5BM0
未だにヒールへ何も期待せず、くるうにばかり社交性を求めてしまっているのは、
甘かやして育てた次女のヒールよりも、生まれ付き知的障害の或る長女のくるうが一家を担うべきだと考えているからだろうか。
それとも習慣的にくるうへ家事を任せているから、そのままの成り行きで任に抜擢しているんだろうか。
考える時間が無いから、と何事も時間のせいにして、惰性で日常を凌ぐ自身を省みれない。
無責任だと罵られても仕方が無いが、この歳で自立を果たせていない娘たちには、なるべくその趣旨は言われたくないな。
前の車が妙に遅くて胃がむかむかする。求めていないフラストレーションが徐々に溜まって行く。
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112
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:47:09 ID:GyVjF5BM0
( ^ν^)「お父さんもお母さんも、いつまでも元気に、とは行かないんだ。そう遠くない未来かもしれないんだよ」
川 ゚ 々゚)「その時になったら考える。くるう頭イイし」
馬鹿と天才は紙一重というが、くるうの自賛する賢さが指すのは冗談の類とはまた別の、芯から確信している自信だった。
所在無さげに賢しらな顔つきをしているが、そこに深い随想の欠片は見出せない。
子細らしく細めた瞳が何を含蓄しているのか、若しくは虚像を写しているに過ぎないのか。
俺が問い掛けている質問は、くるうの頭脳に関わる事柄じゃない。
いつ来るか不明の、ともすると明日にでも訪れるかもしれない不安に、くるうはどうやって備えるつもりかを訊いていた。
その時やらいつかやらと来るべきタイミングを悄然と待ち構えているだけでは、不意に襲い掛かる受難をやり過ごすことは難しいだろう。
.
113
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:48:01 ID:GyVjF5BM0
変化は決まって唐突だ。
今この瞬間、疲労のせいで隘路に事故を起こさないとも限らない。
俺が急に首が回らない程の希死念慮でも湧き立たせ、道沿いの叢林へと突っ込まないとも限らない。
いや、そんなことするわけないだろ。愛しい家族が乗っているんだ。
何を考えているんだ俺は。
( ^ν^)「頭がいいからこそ、予め考えておいてもいいんじゃないか。頭使っても損は無いだろ?」
川 ゚ 々゚)「やなことなんて考えたくない」
ご尤もだ。俺もそう思う。可能なら嫌なことなんて全く考えたくない。
その気持ちは十分に理解出来るし、諸手を挙げて賛同しよう。
やはりくるうは俺とシューの子どもだ。考え方からして昔の自分たちにそっくりだ。
些か気掛かりなのは、今このご時世、この年齢に於いても幼年の俺と同じ思考回路だというところだ。
.
114
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:49:11 ID:GyVjF5BM0
気に食わない事態は後回しにして今を乗り切るための亡失へと逃避する。
努めても解決しない疑問は時間の彼方に押し潰して、この現状を齎す長い悩みを只管暇に消費する。
何もしないで良い理由ばかり矢鱈とでっち上げるのが上手だ。
逃げ口上に長けているからこそ、いざという時まで焦りによる行動を表出しない。若しくは、出来無い。
期限は恒例の言い訳で霞ませて、果てしなく続くと思わせる短い生を消費しているんだ。
どうしてこんな考え方しかできないんだろうか。
ストレスのせいか。又は内藤のアイロニーにでも中てられたか。
法定速度より十キロ程鈍間な前車にも、重く伸し掛かる鬱蒼とした樹海にも、一向に晴れない鈍色模様にも、もうそろうんざりしてきたところだ。
海は何処に行った。
蒼く潮水薫り、清涼な檸檬の飛沫が上がる、あの包み込むような母なる海は、みんなは、何処に消えた。
ここにいるじゃないか。
くるうは助手席に、シューは後部座席に、ヒールは自宅の小部屋に、確かにいるじゃないか。
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115
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:49:50 ID:GyVjF5BM0
( ^ν^)「嫌なことだとしても、だ。もう大人なんだから、逃げてるばかりじゃ始まらないぞ」
川 ゚ 々゚)「ヒールちゃんがお父さんに怒鳴った理由、くるうも解るよ」
小さい子を優しく諭すように穏やかな声色を心掛けたつもりだが、大根役者の猫撫で声程度じゃくるうには届いてくれないらしい。
聞き手に徹していた揺り戻しでも返すかのように、ちぐはぐと歪に育った成人女性が淡く放言する。
不気味なまでも無表情な遠い視線は、若干狼狽えていた俺など委細構わず漫ろに述懐してゆく。
川 ゚ 々゚)「お父さんは褒めてくれない。いつも独り善がり。ありがとうの一言も、言ってくれない」
( ^ν^)「は?」
どういう意味だろうか。
感謝の言葉も態度も、しっかりと伝えてきたつもりだったが、くるうにとっては足りなかったということだろうか。
.
116
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:50:47 ID:GyVjF5BM0
人は褒められないと気力が失せるらしい。
自分はこんなにも必死に、血反吐を吐きながら努力しているというのに、頑張っているというのに、どうしてこの人は自分を褒めてくれないんだろう。
もっと工夫が必要なのか。ここはやはりこうするべきなのか。
次はこうしよう、次はこうしよう。そうすれば認めてもらえる、そうに違いない。しかし念願の果される次は来ない。
遣る瀬無い鬱憂だけがゆっくりと器を満たしてゆき、艱難辛苦を飲まされている内に生気が減退するらしい。
意気消沈や葛藤程度で止まれば救いがあるが、それが病の木片と成り、嘉賞の言の欠如から精神を冒されてしまうらしい。
病は気からって言葉がある。
俺の言葉は、気遣いは、ヒールやくるうには及ばなかったということか。
それとも俺は本当に、何もかもを放てていなかったのか。
言ったつもりになっていただけだったのか。
川 ゚ 々゚)「お父さん、いっつも自分のことばっか。今のくるうを通して、一体誰を見ているの? ねえ、くるうはくるうだよ、どうしてこっちを見てくれないの?」
言葉が出なかった。言い訳だ。出せなかった。驚いたからに違いないが、それが理由ではない。
何故、どうしてこんなにも虚しいんだ? どうしてこんなにも、何も無いんだ?
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117
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:51:46 ID:GyVjF5BM0
俺は誰を眺めていたのか。
苦しみ喘ぐ我が子を他所に息せき切って、現状の直視に怯えていたのか。
なんで、どうして、いや、分かり切ったことか。
この深山幽谷は余りにも暗過ぎる。
厭味な天を鎧う林冠ですら心を紛らわしてくれない。寧ろ褻にも晴れにも存ずる無能だけが助長される。
余りにも予想出来た展開だ。
事実を迂遠にし過ぎている自覚を、改めて認めたに過ぎない。
しかしその論旨を示唆出来るほど、俺は成熟した精神の持ち主じゃなかった。
頭が割れるように痛む。
矜恃にも満たない頭痛のプライドが自己憐憫を誇張している。そうして惑っていると、不意に携帯電話の通知音が鳴った。
恐らく仕事場からだろうそれを横目に入れると、気味の悪い文章が添付されていた。
『今日はもう来なくて良い』
盛岡からだった。その言葉ほど、絶望する文言は金輪際存在しない、そう思い込もうとする。
だが俺が本来絶望していたのは、もっと根本的な自己への諦観だった。
くるうは隣に座っている。俺は事故を起こさぬように、とくるうを見遣ることは無かった。
瀏々と寂寞の風が吹いている。無常の風が吹き込んでいる。
料理用には些か長く強すぎる縄の使い道を考えることにした。
※※※※※※※※※※※※
.
118
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:52:39 ID:GyVjF5BM0
※※※※※※※※※※※※※
大抵こういう議題は論じ尽くされている。
必ずしも全ての人が通る道とは言い難いが、少なからず直面する可能性がある以上、頭の片隅に不安の一欠片が在っても不思議じゃないと思う。
突飛な発想に羽を生やして、その持論を結論まで持って行こうとする人も、敢えてでも面倒でも考えないで放る人も、等しく存在する事だろう。
俺のケースは自己嫌悪と他者嫌悪が引き起こした哀れな一例だ。
切っ掛けこそ、筐底に秘して見ない振りをしていた疾患の発露だったが。
不治の病を患うと、似たような症状を抱える患者家族同士で傷を見せ合い舐め合う会合に誘われる場合が多い。
自分一人だけが辛いわけじゃなくて、近しい悩みを抱えながらも気丈に振る舞っている人を見て、
自分も暗く考え過ぎずに頑張ろうと感じられれば、若しくは勘違い出来れば、
きっともう少しだけまともな代替案を出せていたんだろう、と悔いている面もある。
気紛れで何度か参加した経験があるが、あそこに通い詰めてしまうと、俺は駄目になると確信した。
似たような人間と話し合っても問題は解決しないし、自分たちの方が彼ら家族より幾分マシだと誇ってしまうからだ。
逆も然り、大事な家族を見下され、優越感の踏み台にされるのが耐えられなかった。
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119
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:53:34 ID:GyVjF5BM0
彼らはそれすら清濁併せ呑んでいたんだろう。
朗らかにニコニコしていた瞳の奥は座っていたから。
病の進行を間に受けている人よりも、どうにかしてそれに抗っている人の方が多かった気がする。
不屈の精神と称するには余りある、怨念じみた大熱が篭っていて気味が悪かった。
海外の新薬開発機構が作成した薬剤が効くとか、新しく学会で発表された検査事項分類が役立つとか、誰々さんが試した健康法で一時寛解したとか、
口を開けば目的不明の知識が飛び交う場所だった。
俺みたいな考えの持ち主も少なくなかったな。
こんなところに来たら終わりだ、と呟く厭世家達は、縄で首を括られた飼い犬のように家族へ従順な態度を振る舞っていて。
それでいいのか、あなた達は。
諦観でも達観でもない自己破壊的な不始末で首を垂れ、敷衍するだけの今を延命して、それでいいのか。
言ったところで意味が無いし、俺の顔だってそいつらと大差無いんだ。同族嫌悪ほど虚しく愚かしい行為も無いだろう。
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120
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:54:24 ID:GyVjF5BM0
あそこには幸福があった。
冷めない熱で叶わない望みに手を伸ばす人と、それを論い嘲弄する事で自我の優位性を保っている人。
両者の共通項は夢を見続けている点だ。
甘美な情熱と憂鬱に骨の髄まで浸されて、濃厚な泥水に惑溺していた。
とても楽しそうな雰囲気だったよ。和気藹々と賑わっていたとも。
もしかしたらの奇跡は絶対に起こり得ないにも拘らず、しかしその神秘性へ盲目的に縋り付いてしまうのは、
心の置き所があり得ない空想にしか存在しないからだ。
その生き方が楽だと分かってはいた。しかし是認出来なかったんだ。
幸福とは何ぞや、幸せの在処はどこぞや。
彼らと同様に同類を見下せと、愛しかった家族を蔑ろにしろと、それこそが唯一の救済だと、そう言いたいのか。
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121
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:55:15 ID:GyVjF5BM0
学生の頃、何科か忘れてしまったが、生死や幸不幸などの拮抗関係を考える単位があった。
人を食ったような下卑たナルシズムの貼り付く中年女性の教師が、
人と切っても切れない仲にあるそれらを衒い、考えたことの無い生徒たちを嘲笑していたっけ。
漠然とした不安を根詰めて思考したところで人の価値は変わらない。
より熱心に思考する人間の方が高尚だと断じる選民思想ほど、下賤な論理も少ないだろう。
考えなくて済むのなら、病だの不幸だの死だのは、考えるべきじゃない。
俺は退屈と平凡からですら自殺を仄めかせるお前たちが羨ましいよ。
内的因子が外的因子に優っている幸せな沈思が妬ましい。
外に目を向けて考えろ。マージナルマンは心の中にだけ住まわせろよ。
なぁ、なぁ…頼むよ…。
希望を殺せ。
※※※※※※※※※※※※※
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122
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:55:58 ID:GyVjF5BM0
※※※※※※※※※※※※※※
何と喜ばしいことだろう。何と嬉しいことだろう。
薬が効いたのか、シューの容態が快復しつつある。
昨日なんて米を四合も炊いて平らげた。
会話だって滞りなく、恣意的な思考回路も取り戻していた。
激しく憤る数も減った。舌を垂らし痴愚になることも滅多に無い。
万事順調、順風満帆なあの頃が帰ってきたかのようだ。
共に拖泥帯水へと沈み込み、寄り添い続けた功が実ったんだ。きっとそうだ。そう思いたかったんだ。
盛岡は何年も前から業務成績の一向に上昇しない俺への扱いに四苦八苦していたらしい。
杉浦という第三者を通じての連絡だったのを良い事に、気遣いの形を象った休職の手筈を進めたと聴く。
事態が飲み込めない以上直接本社へ出勤した際休めと言われ、後ほど詳細を杉浦から伝えられた。
.
123
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:56:58 ID:GyVjF5BM0
頭が硬くなったのでは無く、単に俺が厄介者認定されていただけだった。
休職中は勿論給料など出ない。福利厚生も手当も無い。
霙混じりの雑音も、いつの間にか淅瀝たる牡丹雪へと様変わりしていた。
ヒールが終に自室から出てきてくれた。
烈火の如く真っ赤な髪色に染め上げて、非現実的な服装を肥やしに肥やした肉に乗せ、漸く準備が整ったと豪語している。
何を成すつもりかは皆目見当が付かないけれども、ただ暇を潰して食料を消費するだけの日々から脱却してくれるのなら、それだけでも十分だ。
身体を締め上げている麻縄じみた付属品は単なる服飾の一部のようで、最近の流行を汲んでいるつもりなんだろう。
現状を見据えて今後の経緯を予想出来る様になれたのは、とても喜ばしいことだ。俺はきっと純粋に嬉しかったのだろう。
夜学に通う金を稼ぐ為、派遣会社に登録して、これから紹介先の面接に行くそうだ。
服装の指定無しと記載されていたから、自分らしい格好で訪ねるべきだと考えたんだと。
うんうん、何事も経験だ。一家の代表として是非応援しよう。頑張る娘の背中を押そう。
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124
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:57:54 ID:GyVjF5BM0
太陽が空の頂上へと昇りきった時間帯に目覚める毎日。
雨戸の締め切った暗い万年床で、時を告げるのは街並の音。
一週間以上こんな生活が続いたことなど、生まれてこの方あっただろうか。
三日に一回程度の頻度で、杉浦が仕事終わりに様子を見に来てくれた。丁度繁忙期が経過したらしい。
時々やや豪華な惣菜を貰ったりもした。有り難すぎてこいつに足を向けては寝られない。無貸与の借金を日々重複させ続けている気分だ。
そして今日も俺は、何をすれば良いんだ。しかし、迷うが答えは明白だ。家族ともっと話すべきだ。
分かっているのに身体も頭も働かない。あんなにも希っていた機会が齎されたというのに、どうして気力が湧き立たない。
時間が数限りなくあると勘違いしているからか。
いつでも実現可能な状態になったから、面倒事を後回しにしているのか。
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125
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:58:28 ID:GyVjF5BM0
しんしんと降り積もる雪の気配を感じる。
痛い程の静謐が窓硝子に爪を立てていた。
くるうも近々働き始めるらしい。
指示されたことはしっかりこなすし物分かりの良い子だから、あとは愛想さえ身に付けられれば大丈夫だろう。
近くのコンビニで採用された旨をシューを通じて聴いた、と思う。
人手が足りていなかったから、どんな時間帯でも対応出来る近所の人なら大歓迎だと。
扱き使われるのが目に見えているが、辛くなったらすぐに逃げて相談して欲しい。
今度こそしっかり話を聴いて、なるべく上手く言葉を選ぶよう気をつけるから。
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126
:
名無しさん
:2020/10/28(水) 23:59:16 ID:GyVjF5BM0
lw´‐ _‐ノv「わたしは、もう、ここにはいられない。あなたの目に入るわたしは、あなたの求めるわたしになりえない」
( ^ν^)「何?」
ヒールもくるうも、ここにいない。
遠い日が寒々しく滑り込むリビングで、寝惚け眼のお前が脈打つ。
築何年だったか忘れてしまったが、たぶんくるうと同い年のこの家も、去年ローンが払い終わった。
度重なる風雨に晒されて、鼠色じみた煤汚れの目立つ外壁は、ふと手を突いて触覚を試すと、ざらざらと歳衰えた趣きを醸してくる。
足取りが重い。俺も随分、歳を重ねてしまった。指先すらも動かし辛い。
今日は雪がだいぶ積もった。世界から音が消えたみたいに、しんと静まり返っている。
lw´‐ _‐ノv「もう、わかったんだ。これが最期な気がするから、今のうちに、今のうちに、しっかり伝えないとって」
( ^ν^)「そうかい」
.
127
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:00:06 ID:gDv24fb.0
俺の言葉は少ない方がいい。
お前が中心になっているからこそ、余計な口出しは不要だ。
何よりも、過日のお前がここにいるように思えるから。
例えそれが最期だとしても。例えこの一瞬が、瞬く間に覚めてしまう夢幻の一刹那だとしても。
何れにせよ、やがて人は居なくなる。だからこの一瞬に、お前は全身全霊をこめているんだろう。
深々と意識を冷やす外気が背中に当たる。この風はお前をさらってゆくのか、それとも発電機関の余熱を安らげてくれているのか。
lw´‐ _‐ノv「なんと、言えばいいんだろうか。どんな言葉を用いれば、しっかり大切なことを、かんちがいなく言えるんだろうか」
( ^ν^)「そのまんまで上等だよ」
真っ白い大地と、真っ白い空だった。
もう何年も、この真っ白い世界で溺れ続けていたような気がする。
白を通り越し青を通り越し、溶け残った断片は淡彩の檸檬色だった。
.
128
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:01:06 ID:gDv24fb.0
きっと今日もどこかで子どもが生まれている。
生命の躍動に感涙して、咽ぶ二人が改めて家族になる。
生物の死に絶えた閑散の中で、果実のお前が繁吹いている。
無常の風か、極楽の余り風か。しかし季節は冬だった。
瞬きをゆっくりと三度、のちに静かな深呼吸。柑橘類の香気。
lw´‐ _‐ノv「あなたは変わらず接してくれる。たった二人のときだけは、わたしもあなたも、あのころにもどれるの」
( ^ν^)「お前に、寄せているだけだよ」
悲願は果たされたか、あるいはもしかして、いや、やっぱり俺はお前が羨ましかった。
思い返せば最近は、お前お前と誰何してばかりで、お前の実体を見ようともしてなかったな。
淡い陽だまりに彩られ、瞑目して想いを巡らすその仕草にも、久しく出会っていなかった。
部屋に明かりが入る程、隅の家族写真は翳りゆく。
若かりし日の四人の姿が影に埋もれる。
.
129
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:02:08 ID:gDv24fb.0
lw´‐ _‐ノv「苦労をかけたね」
( ^ν^)「そんなことない」
お前こそ全てだから。使い古された文句で申し訳ない。
lw´‐ _‐ノv「たくさん迷惑かけたよ」
( ^ν^)「何言ってんだ」
俺には余りにも過ぎた日々だったよ。上手く口が回らなくて、ごめん。
lw´‐ _‐ノv「悪かった、本当に」
( ^ν^)「それは俺の台詞だ」
寧ろ俺が、山程お前に世話になった。幾ら感謝してもし足りない。
lw´‐ _‐ノv「…ごめんね、全部」
( ^ν^)「…」
頼むから、この記憶だけでも残してくれ。なんでもするから、忘れさせないでくれ。
.
130
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:04:13 ID:gDv24fb.0
lw´‐ _‐ノv「でもね、わたしは楽しかったよ」
( ^ν^)
俺も、楽しかったよ。大変だったけれど、最高の人生だ。
lw´‐ _‐ノv「くるうやヒールと出会えて、わたしは本当に、幸せでした」
( ν )
俺だって、そうだ。何十年にも渡る苦痛よりも、お前たちと出会えた一瞬を愛している。
lw´‐ _‐ノv「あなたと過ごせて、わたしは世界で一番幸せだった。あなたが、ニュッさんが、わたしの全てだった」
:( ν ):
それでも、それでもお前は、シューは、行ってしまうのか。
lw´‐ _‐ノv「ありがとう、ありがとう、ニュッさん。…さようなら」
:( ;ν;):「…あ、あ」
それきり、シューの機関は止まってしまった。縄のねじれる音がした。
シューの黄色の残り香が、穏やかな冬の日差しにとどまっている。
そんなありふれた奇跡が起こればよかったのに。
※※※※※※※※※※※※※※
.
131
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:05:39 ID:gDv24fb.0
※※※※※※※※※※※※※※※
清浄に掃き清められた、澄んだ空気の夜だった。
川 ゚ 々゚)「くるうね、最近怖い夢を見るの。お母さんにね、高いところから突き落とされんの」
lw´‐ _‐ノv「え」
光色の一切が失せた黝然の瞳で、くるうは何の気なしに話していた。俺はそれを笑って聴き流している。
しかしシューには、たったそれだけの言からですら、深い楔が刺さっていた。
思い返せばあの数日、たった数日で、それまで綺麗に均されていた家の庭が、底冷えする泥沼と化してしまったのかもしれない。
( ^ν^)「ヒールは学校どうだ?」
川*` ゥ´)「別に」
.
132
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:06:36 ID:GaunGq2Q0
病と言うのは暗々裏に進行する。必ずしもその姿を露わにして、あからさまな狂態を晒すとも限らない。
万事は取り分けて、俺が知ってようと知らずまいと、説得力が有ろうと無かろうと、時間のような不気味さで歩を進める。
病巣の原因が分かれば苦労はしない、か。
だがそう思い込もうとしても、因果が分かったところで、きっともう取り返しが付かない段階に達していたんだ。
( ^ν^)「そういえばお前、先週の日曜日、どこに行ってたんだ? 妙に帰りが遅くて心配してたんだぞ」
lw´‐ _‐ノv「ああ、えっとね、その日は杉浦さんにご馳走になって、それで遅くなったの」
どうにも具合が悪そうに俯く老成途上のお前から、不意に湧き立つ後ろめたさを覚える。
その正体が自身とデレの関係に起因しているのに、甲斐性無しの被害妄想が勢い付いて、暴れ出しつつあった。
雨の細波が清冽に場の空気を濁す、無辺際に桜の咲き染める初春の宵。
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133
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:07:40 ID:gDv24fb.0
それから雨が嫌いになった。
いじらしい嫉妬を隠すように、杉浦が本来持つ平素の気立てを好印象で束ねていった。例えあいつの本心が、真実優しさで出来ていようと。
あれきり全部変わってしまった。
死に絶えた四季が腐敗臭を彷徨かせている。
冷めた視座で自分を笑うように、夜の底へと沈み込む。
人の衝動性に説得力が見出せないのと同様、尽く世の無状はじっとりと人を掴んで離さない。
瑞々しい香りが漂う。糞便の幻臭が漂う。廉価な香料でさえ、値千万の価値を持っていた。その筈だった。
自己の回天が済んだ今、残り香は所詮、憧憬の虚しさ。喉が乾く。肉を焼き焦がすほどの熱を持った、喉が渇く。
腹が減った。酷く腹が減っていた。
中身が空っぽになったみたいに身体が軽く、しかも吐くほど腹が減っていた。
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134
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:09:03 ID:gDv24fb.0
柔らかい水に包み込まれている。
怒鳴り声に乗る赤児じみた叫喚は、自分のどうしようもなく頭の悪い所を誤魔化すように、ただ只管荒れていた。
その出所からは、馥郁とした香辛料のスパイシーな香りが漂う。
陶酔境の鴇色が、濡れそぼって近づいて来る。
えらく危なっかしい酔歩の持ち主は頬を染めつつ、それが偽らぬ素性と告げていた。
あの日の唐草模様は何を盗んだ。
混じり気の無かった純白が、平和の象徴を象っている。
どうしても、お前は遠くに行ってしまう。
こちらで借りた附属品の一切を失せているのに、何故そんなにも綺麗なんだろうか。
言葉を解する花が立つ。
一際輝く瞳の奥は果てし無く、人跡未踏のそれは無量に広がる清かの極地。
お前はそこから何を見る?
なのに、どうして、ここはこんなにも真黒い。
どうしてこんなにも、暗く、鬱悒く、寒いんだ。
.
135
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:10:24 ID:gDv24fb.0
折角だから最期くらい、飛び切り素晴らしい夢現を見せたかったのに。
明るくて、晴れ渡るような、さめざめと涙を流して、優しくて、喜ばしくて、素敵で。
例えそれが、いつか必ず覚める妄語に過ぎないにせよ。
例えそれが、無い心を全力で働かせた、幼稚な戯言に過ぎなくとも。
別離が無性に恐ろしい。乖離がただただ悍しい。
俺に見せるな、俺に聞かせるな。
今ですら慌てふためくほどの圧倒的な人の悪意で、底知れない怨嗟で、俺を怯えさせる全ての声を、耐えられないほどの絶望の病を、
頼むからあいつに、あの子たちに、与えてやらないでくれ。
心を蝕む呪詛に中てられた末路を俺は体験した。
淵源の見当たらない、只管理不尽な、唐突で曖昧模糊とした今日までの日々を。
明日も明後日も、寝ても覚めても終わらない無限の輪廻の連鎖を。
だからお前たちは、それを掻い摘んで気付いてくれ。
いつになっても構わないが、早いに越した事はない。
.
136
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:11:43 ID:gDv24fb.0
自我の悩みは何れにせよ消える。
それまで耐えるにしても、自分の限界は知っておくべきだ。
暗晦の夜長が明けたとしても、帳の隙間から覗く星宿に感動しても、循環する四季の天然に身を焦がしても、夕去に延びる冥々の陰影を書き殴っても、
少なくとも、今はまだまだ続く。
壊れた物は治らない。欠落品は直らない。人は快復しない。
お前たちの悩みが何処に在るのか、俺は分からなかった。
もっと話しておけば良かった。
これだけ無為自然と、もしも無意味で在るにせよ、抒情出来ているのだから。
意味の無いことが好きだよ。だから会話が大好きだ。
心が通じ合うことも、共通する理解が繋がることも、決して無いから。
好きな行為には、相反する嫌いな感情が同量付加される。
好きで在れば好きで在るほど嫌いで、嫌いで在れば嫌いで在るほど好き。
感情が雑多に混ざり合ってこそ、人間らしい。
一つの対象に一つの意識しか向けられないなんて、そもそも大前提として有り得ない。
お前たちが大好きだよ。
世界で一番、この命を擲ってでも守りたい、大切な大切な家族だ。
.
137
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:12:40 ID:gDv24fb.0
そんなことをわざわざ口に出してまで、まるで確認するみたいに話す必要、無いだろ。
態度からでも心情は伝わるものだ。家族だからな。
水沢腹堅晩冬の時期。
随分と身体が重たく感じる。芯の芯から冷え切ってゆくみたいに。
唐突だが、あれは偽薬に過ぎないことくらい、分かっていた。
毒味がてら舐めてみると、ただの氷砂糖の結晶だった。
甘かった。どうしようもなく、甘ったるかった。
もうだいぶ、本当に途方も無く長く感じる時間が経っていた。
この薄茶い装丁も、きっと不本意な用途を押し付けられた、と思っていた事だろう。
無能の集積なんて不名誉の烙印を押されてしまうんだから。
何番線か不明の、家族の居ないホームに、独りで立つ。
半身が上手く動かせない。寒波に手が悴んで、指先が全く微動だにしない。
しかし不随意に、寒さを紛らすように、或いは固まる自分を震えで鼓舞するように、足先だけが振戦している。
.
138
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:14:07 ID:gDv24fb.0
どうして今更なんて、そんな野暮なことを疑問視しないでくれ。
変わらない日々に順応する為の仮面を付けていた、なんて格好つけるつもりはない。
お父さんはさ、疲れているんだ。
なるべくそれを表に出さないようにしているけれど、もう駄目なんだ。
彼方を見据えると、朝焼けに青褪めた対岸線が透けている。
眩い許りの太陽が視界をぼやかして、そこにいつかのトパーズが見える。
黄玉色は、確かにそこで飛沫を上げた。
硬くて脆い、檸檬のような儚さに、俺はいつかの微睡を思い返す。
あの廉価な香気。限りなく愛おしい、もうここにはいないお前のもの。
お前達に会えて良かった。本当に良かった。
しかし、何が良いんだろうか。いや、きっと何でも良いんだろう。
運命も因果も、夢も憧れも、きっと全部叶わない。叶わないのなら、せめて不在の明日に希望を託そう。
踵に軽く体重を乗せる。丸く擦り減った靴底のコインローファー。
皺が幾星霜にも寄る甲の切れ込み、そこへなけなしの硬貨を嵌めた。
それでは、幸運を。
グッドバイ。
.
139
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:14:49 ID:gDv24fb.0
( ^ν^)『グッドラック!』のようです
【終】
.
140
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:15:21 ID:gDv24fb.0
E.
( 十ω十)「『これを読んでいると言うことは、恐らくもう俺はこの世にはいないだろう』」
( ФωФ)「…莫迦」
あいつは首を括っていた。
度重なる負担に耐えかねて、耐えかねて、誰に相談するでも無く、全てをこの虚しい手帳に記していた。
ほんの数ヶ月、又はあいつにとっては、たった二、三日でのこと。
盛岡さんはこいつの訃報を聴いて、心底後悔していた。
本意が休養のつもりだったのか、除け者にする為だったのか、その実態は分からない。
あいつは、それでも確かに生きていた。
脊椎に傷を負って、不随の身体を引き摺りながら、それでも確かに生きていた。
老々介護のように互いで互いを支え合っていたように見えたが、奥さんの一時寛解は、やはり幻であったようだ。
.
141
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:16:06 ID:gDv24fb.0
あの日、唐突に休まされるようになってから、私はほぼ毎日こいつの家を訪ねた。
奥さん…シューさんとは産後、夫とどうすれば共に子育て出来るのかについてのアドバイスを訊かれた時以来だったが、
件の人物も、悲しいまでに変わってしまっていた。
薄情ですまない。
しかし私とシューさんとの間に、お前が危惧していたような関係は全く持って無かったよ。
lw´‐ _‐ノv「あ〜…」
(;十ω十)「…」
もはや意思の疎通は不可能。
内藤医師も、命に別状は無いと仰られていたが、緩和ケアを考えるべきとも話していたか。
.
142
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:16:54 ID:gDv24fb.0
彼らとも一度見えたが、一家揃って身勝手な方々だった。
葬式でほくそ笑む輩など初めて見たものだから、私はついその胸倉を掴み上げて、路傍に摘み出してしまったが、
その程度だが、お前は少しでも満足してくれたか。
川* ゚ 々゚)「あ〜…」
川*` ゥ´)「……」
( 十ω十)「…」
余白で偽ったとしても、何の実りもないだろうに。
酒乱の長女は日々酩酊していて、既に言葉も通じなくなっている。
自堕落な次女は日がな一日中、食料と惰眠と暇を貪っている。
お前の意思は掻い摘んで伝えたが、何の変化も起こらなかった。
お前が言わないで欲しいと記載していた出来事は省いて、その意図をお前の経験と同時に伝えたが、三人に変化は無かった。
.
143
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:18:52 ID:gDv24fb.0
( 十ω十)「……」
私はお前が作り上げた家の庭を土足で踏み荒らしたくなどない。
お前が今まで全力で生きてきたその結晶を、私の突発的な怒りで亡き者になどしたくない。
だから私は何も言わない。
義務でも責でも何でもない一人の友人として、お前の大切な物を、極力干渉することなく、出来るだけ守って行く心づもりだ。
lw´゚ _゚ノv「米ぇ!!」
川# ゚ 々゚)「うるさい!!」
川*#` ゥ´)「…ッチ」
( 十ω十)「……」
お前はこれを耐えてきたのか。それとも受け入れてきたのか。
この、何処までも淡々と続く、何処にでもありふれた人の営みを。
生と言う名の不治の病を患い、その自我を全面的に肯定している人々を。
.
144
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:19:45 ID:gDv24fb.0
愛おしい面影の残る血を分けた家族を見て、日々変化する異常を鉄扉の心で受容し、それらを盲に認めてきたのか。
lw´゚ _゚ノv「米ぇ!! 米ぇ!! 米持ってこい!!」
川# ゚ 々゚)「さっき食べたでしょっ!! 何回も言わせないで!! うるさいの!!」
川*#` ゥ´)「…ウッッザ」
( ФωФ)「……」
ここは墓場だ。
魂の抜けた空虚な人形が、土に埋れず死体を遊ばせている、暗晦のモルグだ。
お前が見ようとしていた清涼の海は、天然の自然は、一度でも見失ったらそこで終わりなんだ。
私はここに来て、やっとその木片を垣間見えた。
.
145
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:21:07 ID:gDv24fb.0
お前の部屋は、お前の家族が捨てるのを面倒臭がったゴミ袋が所狭しと敷き詰められていた。
お前が作り置きしていた料理の一切も、お前が大事にしていた小説の一切も、全てが分別無く綯交ぜに腐敗臭を漂わせていた。
しかしあの夥しい量は…お前は生きていた時から、そこに押し込められていたのか。
( ФωФ)「…なあ、ニュッさん」
あの、二月の良く晴れた日。
異常の始めと終わりにだけしか拝めなかった、朝焼けの燻る日。
貧困に喘ぎ売り払ってしまった車の代わりに、これから用いたであろう電車のホーム。
あの日見た唐草模様の弁当箱は、そこにそのまま放置されていた。
踵の擦り減った靴を滑らせ、そのまま転がり落ちたお前を思う。
無数に鏤められたお前の一端であるローファー。そのサドル。
冥銭が五円玉というのは、あまりにも悲しすぎるだろう。
( ФωФ)「なあ、ニュッ…」
返事は無かった。無常の風が、桜の花弁を吹かせている。
春が来た。
【了】
.
146
:
◆MSKEobRqzo
:2020/10/29(木) 00:23:20 ID:gDv24fb.0
以上です
読み辛い文章で大変申し訳ございませんでした
147
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:26:32 ID:3TPMEVsQ0
otsu
148
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 00:26:57 ID:3TPMEVsQ0
otsu
149
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 04:48:12 ID:DM4tVtQY0
おつでした!
150
:
名無しさん
:2020/10/29(木) 21:20:39 ID:F650Wdb.0
おつ
なんかもう絶望しかなんだかもう
どうしようもないなぁ
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