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('A`)続きのないアルバムを眺めていたようです
1
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 01:31:38 ID:Ao16Zizw0
ラノブンピック参加
使用イラスト No.68
2
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 01:32:20 ID:Ao16Zizw0
き車は星のうみをおよいでいました。かぞえきれないほどの星たちは、いまにもおちてきそうなほどちかくて、きらきらかがやいています。
車しょうさんがききます。
「それでは ほんとうに おあずかりして よろしいですか」
ぼくはうなずきました。まよいはありません。
「それでは」
車しょうさんが手を出すとまぶしい光が出てきました。そしてぼくのとなりにもう一人のぼくがいました。
「それでは たしかに おあずかり しました」
なん十、なん百の光のつぶでできたそれは、やはりぼくなのです。
「おまちしています いつまでも あなたがあずけたものを ひつようとする そのひまで」
車しょうさんが言う。
「あなたが あずけたものを むかえにくる そのひまで」
3
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 01:32:52 ID:Ao16Zizw0
我が国で安楽死制度が始まったのは数年前の事だ。
安楽死が認められるのは認知症の症状がある程度進んだ者に限られる。
更に自分でその意志を示し、サインをする必要がある。
認知症になった者が全てを忘れてしまう前に自ら死を選ぶ事が出来る、というものだ。
政府が打ち出したこの案に野党は回避出来ない年金問題からの逃げである、人権団体からは国による自殺の幇助だと大バッシングが起きた。
しかしテレビやインターネット、様々なメディア媒体が実施したアンケートの多くで賛成が過半数を取ったのである。
とりわけ認知症の家族、更には認知症の本人まで賛成が多かった事が政府の方針を後押しした。
自分の事を、愛する者を、分からなくなってでも生きる事が幸せなのか。
逃れられないのならば他の誰でもない自分が自分であるうちに人生を終える事の方が幸せではないのか。
人間の死を人間が扱って良いのか。医師による殺人ではないのか。逼迫する医療費問題の一つの解決策ではないか。
いくつもの活発な議論がなされ、成熟した安楽死法案は無事に成立した。
数年が経ち、適用されて安楽死を迎えた者が百人を突破した。
テレビ画面に映るニュースではそのような事を伝えていた。
いつもと同じ、自分には関係のないニュース。殆どのニュースが自分とは無関係のものだ。
どこかの県の殺人事件も、大臣の裏金問題も、中東の戦争も、全て同じ関係のないニュースだ。
そう思っていた。
4
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 01:33:35 ID:Ao16Zizw0
母親から電話がかかってきた。母親から電話どころかメールが来る事すら珍しい。
話したい事があるから家に帰ってきてほしい、と言い出した。父親は既に他界しており実家には母親一人が住んでいる。
実家は地方の寂れた街にあって俺の住む首都からは新幹線と特急列車、更に普通列車を乗り継ぐ必要がある。
とにかく遠い。年末年始ですら帰省するのが億劫で、もう数年ほど帰っていない。
俺はあの寂れた故郷の街が、古びた家が、それほど好きではなかった。
いや、何よりも、母親があまり好きではなかった。きっと嫌いではない。好きではないのだ。
幼い頃は母親が好きだったような気がする。けれどいつからか、母親が好きではなくなった。
そんな母親が、話がある、帰ってきてほしい、などと言う。
この電話で言えばいいではないか、と言うと大事な話だから、と返される。
冗談ではない。ただの話とやらのために高額な金と時間を要するなんて馬鹿馬鹿しい。日帰りは億劫で休日を二日間潰す必要がある。
忙しい、帰るつもりはない、とにかく電話で言えばいい、と突っぱねた。母親はじゃあ、と切り出す。
だったら最初から言えばいいじゃないか。舌打ちしそうになる。
('A`)「それで、話って?」
ええとね、と母親が話し始める。まるで思い出すかのように。
『お母さんね、安楽死を申し込もうと思うのよ』
5
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 01:34:55 ID:Ao16Zizw0
('A`)続きのないアルバムを眺めていたようです
6
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 01:35:55 ID:Ao16Zizw0
翌日になって、母親の姉、伯母から着信が来た。
もしお母さんに何かあったら、そんな理由でもう何年も前に連絡先を交換していた。
スマートフォンの着信画面に表示される伯母のフルネームは何だか見知らぬ人間のように感じられた。
『もしもし、ドクオ君?』
('A`)「はい、お久しぶりです」
伯母は俺の実家の隣の市に住んでいる。子供は出来ず夫婦だけの二人暮らしだ。
『あの子に訊いたんだけど、あの話したんだってね』
('A`)「はい、聞きました。 なんだか現実味がないけれど」
『直接の方がいいって言ったんだけどね。 こっちには戻って来られそうにない?』
('A`)「一応、予定を見てみようと思います。 あの」
『なに?』
('A`)「母親は本気なんですか?」
『うん。 もう何週間も前から相談されててね』
('A`)「そんなに症状が進んでいるんですか?」
『進んでいる、とずっと見てきた私は言い切れるわね。 でも、だからこそ』
いったん伯母はそこで区切った。
『ドクオ君に直接会って確かめてもらいたいの』
まるで責められている気分だった。それは不条理だった。
7
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 01:37:04 ID:Ao16Zizw0
('A`)「近いうちに帰れたら帰ろうと思います。 でも仕事もあるので、予定が調整出来たらですけど」
『今週末だとか、すぐには難しいの?』
死んだ訳でもないのに忌引休暇は発生しない。仕事以外に用事がない訳でもない。
首都とあの田舎の街では文化すら違うのだろうか。
('A`)「とりあえず、また」
電話を切って、ベッドに座る。首都にいくらでもある単身向けアパート。
あの街とはまるで遠い、この住み慣れたアパートは随分と居心地がいい。
乗り換えアプリを立ち上げて最寄り駅から地元へのルートを検索する。
片道で所要時間六時間弱、運賃と特急料金を合わせると一万五千円ほど。
('A`)「マジか…」
母親が認知症になっていた事など、知らなかった。
当たり前だ。もう何年も帰っていないしメールどころか電話のやり取りもしていなかった。
急に言われても、と思う。だけど知る由もなかったのだから、仕方がない。
やはり一度帰るしかないだろう。諦めと共にスマートフォンをベッドに放る。
目を瞑る。考える。母親が死ぬ。安楽死をする。
想像すらしなかった。まるで別世界のものだったニュースが自分のものになる。
そして今からですら想像出来ない。まるで現実味がない。
人は必ず死ぬ。誰しも終わりが待っている。
そんな事は分かっているはずなのに。
二週間経ってようやく帰る目処がついた。
母親にメールをするも返信がない。自分で呼び出しておいて、と腹が立ったが不意に気がついた。
今度は伯母にメールを送る。すると暫くして着信があった。
8
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 01:37:47 ID:Ao16Zizw0
『あの子から聞いているわ。 返事するように言っておいたのだけれど』
忘れてしまったのだ。息子にメールを返す事すら。
伯母に帰郷する日程を伝えて通話を切った。
はじめのうちは、故郷を恋しく思う日もあった。実家に帰る道中は心地よいものだった。
それがいつからか、苦痛となった。あまりにも遠い故郷、長すぎる道のり。
半年、一年と実家に帰る頻度は減っていった。いつの間にか最後に帰ったのは何年前だったか思い出せなくなっていた。
もはや自分にとって居心地が良いのは思い出の領域から脱せなくなった実家ではなく住み慣れた首都のアパートだ。
新幹線と特急列車、更に普通列車を乗り継ぐ。新幹線から特急列車への乗り換え駅は山間にあって、駅以外は本当に何もない。
その次の特急列車から普通列車に乗り換える駅もお手本のような地方都市の駅だ。
駅前に僅かばかりの見栄っ張りな大通りがあるだけですぐに民家ばかりになる。
それでもこの一帯ではこれこそが一番の都会だ。休みの日にはこの都市へ遊びに出かける。
こんな地方で生涯を終えるなんて耐え難い事だった。
保育園、小学校、中学校、高校、勤め先と地元の狭いコミュニティだけで一生を過ごす。
それはとても虚しい事に思えて仕方がなかった。
普通列車を降りて駅を出るとやはり首都と比べて空気がひんやりしている。
駅前のロータリーにはスズキ・スペーシアが停まっていて伯母が顔を出した。
( ‘∀‘)「疲れたでしょう」
('A`)「遠かったです」
夫婦二人が買い物に行くのならばじゅうぶんな軽自動車だった。
数年ぶりの故郷は少しずつ街並みに変化があった。閉店した店があって、オープンしたコンビニがあって。
何かがなくなって建て売りの家が並んでいた。そこに何があったかはもう思い出せない。
十数分で実家に着いた。一台ぶんの車庫には母親のトヨタ・ヴィッツが停まっていない。
伯母はそのまま車庫に車を停める。
9
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 01:49:25 ID:Ao16Zizw0
('A`)「車、手放したんですか」
( ‘∀‘)「認知症になったからね。 何か事故を起こしてからでは遅いし」
もしかすると母親が交通事故を起こして俺に連絡が来る未来があったのかもしれない。
それはとても恐ろしい事だった。仕事中にそんな電話が警察から掛かってきて、今すぐに帰らなければならない。
そんな悪夢が起こらなくて良かった。
それと同時に、この車社会である田舎で自分の車を失うというのはどういう事であるのか、考えざるを得なかった。
若者は就職したらまず自分の車を買う。老人も買い物のために足腰が弱くなっても車を手放さない。
車を失うというのは、足を失う事だ。地方において、生活基盤を失う事だ。
母親はもう運転が出来ない。認知症ならば仕方がない事なのに、空の車庫を見るまで思いつかなかった。
( ‘∀‘)「ただいまー」
伯母が先に入る。玄関はこんなに古臭かっただろうか、と一瞬立ちすくんでしまう。
( ‘∀‘)「ドクオ君、帰ってきたよ」
奥で伯母の声が聞こえる。靴を脱いで上がる。すぐにリビングがある。
お気に入りの座椅子に母親は座っていた。
('A`)「…ただいま」
母親は俺を見た。暫くして伯母を見る。
( ‘∀‘)「ほら、ドクオ君」
母親は手元の何かを見る。アルバムだ。
J( 'ー`)し「あぁ」
息が漏れる。
J( 'ー`)し「あぁ、ドクオ、おかえり。 遠かったでしょう、疲れたね」
10
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 01:51:33 ID:Ao16Zizw0
('A`)「あぁ、遠かったね。 疲れたよ」
J( 'ー`)し「何か作ろう。 何がいいかな」
( ‘∀‘)「いいよ、私が作るから」
J( 'ー`)し「ううん、私も作るよ」
( ‘∀‘)「そう?」
母親と伯母が台所に消える。
鞄を置いてソファーに座ってテレビの電源を投入する。相変わらず放送局が少ない。NHK二局と民放二局だけだ。
リビングには物心ついた時からあるアンティークの置き時計があって、俺が子供の頃にアニメを撮り溜めていたビデオテープがある。
マッサージ機があって、父親の土産の木彫りの熊があって、もう車に乗らないのにいつも車検を任せていた近所の自動車販売店のカレンダーがある。
実家は過去の思い出が詰まっている。とっくに過ぎ去ったはずの過去が鮮やかに再生される。
('A`)「…そうか」
母親は自分を見てすぐに思い出せなかった。手元のアルバムのようなものを見て思い出した。
もう、息子が分からない程にまで、認知症が進行しているのだ。
ふと何かが視界に入る。正方形の何かが液晶テレビの横に貼られている。近づいてみる。
『見ない時は電源を落とす』
それは付箋だった。ボールペンで書かれている。母親の書く字ではない。恐らく伯母のものだ。
部屋をよく見てみるとそれはいくつもあった。リビングではなく家じゅうにそれはあった。
電話機には『セールスには分からないと答える』。トイレには『使ったら流す』。玄関には『免許証は返上、車は処分した』。
( ‘∀‘)「あぁ、それね。 そうやって書いておけば、忘れてしまった時にすぐ思い出せるから」
('A`)「あ、あぁ、なるほど」
( ‘∀‘)「別にそこに書いてある事を全部忘れてしまった訳じゃあないの。 でももし忘れてしまった時の保険みたいなものかな」
('A`)「はぁ」
どうして帰郷すると食事を作ってもらうというセオリーがあるのだろう、と思いもした。
早く本題に入ってほしいとすら思った。現状を説明してほしい、と。
11
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 01:52:40 ID:Ao16Zizw0
J( 'ー`)し「ドクオ、お茶入れたからね」
母親が湯呑を持ってくる。それは主に客人用に使われているものだ。
いつもは俺が使っていたマグカップをまだきちんと残していて、帰省するたびにそれにお茶を淹れていた。
客人用の湯呑を自分が使うのは初めてだ。
伯母はそんな事までは知らない。
もうきっと、自分が言い出さない限りはあのマグカップが使われる日は来ないのだろう。
台所で母親と伯母が料理をしている声が漏れ伝わってくる。
伯母が何かを指示して母親がそれに従っている。
母親も伯母も料理が上手だった。それはよく覚えている。
J( 'ー`)し「おまたせ、出来たよ」
間もなく肉じゃがが運ばれてくる。
俺は肉じゃがが好きだった。特に母親の作るみりんと砂糖多めの甘めの味付けの肉じゃがが好物だった。
それを母親も覚えていて帰省するたびに肉じゃがを作っていた気がする。帰るたびに肉じゃがなので飽き飽きしていたのは事実だった。
しかし、一口食べて、これは伯母が作ったのだと納得する。味付けがとても一般的だ。黄金比とでも言うべきか、ごく一般的で優秀な肉じゃがだった。
ただ甘めの味付けの、自分が好物だった肉じゃがではなかった。
同じ家で育った姉妹でも、結婚して別々に暮らしてからの時間の方が当然長い。
二人とも同じ祖母に料理を学んだとしても、次第に違うものへと進化していく。
どこからか、二人の作る肉じゃがは姉妹だとしても違うものになっていたはずだった。
そしてこの肉じゃがは母親ではなく、伯母が作ったものだった。
そうか、と俺はまた納得する。
もう母親は料理を忘れ始めているのだ。
あの毎回毎回帰省するたびに食べさせられたやたらと甘い肉じゃがを食べる機会はもう来ないのだ。
J( 'ー`)し「ドクオは昔から肉じゃがが好きだったからねぇ」
それは覚えているのか、と口に出そうになる。
('A`)「そうだね」
( ‘∀‘)「ドクオ君もいいお嫁さんをもらえればいいんだけどねぇ」
J( 'ー`)し「そうだねぇ」
いっとき帰省するたびに結婚はと言っていた母親も、今は言わない。
地元で生きる道を選んだ同級生たちの名前を挙げて○○君が結婚した、△△ちゃんが子供を生んだと話していたのに今は話題にしない。
今となっては、母親がそれを覚えているのかも分からない。
12
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 01:54:04 ID:Ao16Zizw0
( ‘∀‘)「じゃあ、話を始めようか」
J( 'ー`)し「そうね」
母親が頷いて、神妙な顔つきになる。
( ‘∀‘)「私が説明するわね」
伯母が改まって切り出した。
( ‘∀‘)「この子が患っているのは、アルツハイマー型認知症。 良い言い方ではないけれど、一般的ではある」
アルツハイマー。認知症。どちらも聞いた事はある。けれど聞いた事のある、という範疇を超えるものではない。
現実的ではないのだ。テレビかスマートフォンの向こう側の言葉だ。
( ‘∀‘)「例えば友達との約束を忘れる。 機器の操作方法を忘れる。 そういう些細な事から始まる」
伯母は続ける。
( ‘∀‘)「次第に友達を忘れる。 機器の存在を忘れる。 家族を忘れる。 そして、自分を忘れる」
母親は黙って聞いている。
('A`)「その」
俺はようやく口を開く。
聞きたかった事を。
('A`)「母親は、どのぐらいなんですか」
( ‘∀‘)「うん」
伯母が頷く。
( ‘∀‘)「まだきちんと自分の事を覚えている。 私の事も覚えている。 けれど機器の使い方は忘れ始めている。
お茶を淹れようとしても電気ポットにお湯が入っていなければ意味がないのだけれど、水を入れておくという事を思い出せない時があるぐらい」
そして、と続ける。
( ‘∀‘)「私の事は覚えている。 けれど友達の記憶は失われつつある。 ドクオ君も例外ではなく」
13
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 01:55:51 ID:Ao16Zizw0
伯母に責めるニュアンスはない。圧倒的なまでに事実だからだ。
隣の市に住む伯母は距離的に当然ながら近い。母親に症状が現れてから、きっと多くの時間を費やしてきたはずだ。
そして同じこの地方に住む母親の友達を忘れてしまう以上に、遠く離れた首都に住む俺の事を忘れてしまっても不思議ではない。
物理的な距離。この恐ろしいまでの田舎と首都の、絶対的な距離。乗り換えの多い距離。心理的な距離。
年末年始ですら帰らず年賀状どころかメールのやり取りの一つもない息子との距離。
母親が一瞬でも俺の事を思い出せなかったのは勿論ショックであった。
だけどそれは、これまでこの遠すぎる田舎と、母親と距離を取っていた自分への取り返しのつかない罰というか、それこそ単純な結果のような気がした。
諦念に近い。諦め。
それを受け入れてしまおうとしていた。だって、どうしようもない。
それぐらいは知っている。アルツハイマー型認知症に対して可能なのは進行を遅らせる事だけだ。
現実は一発逆転の少年漫画のようにはいかない。
母親の病気は治らない。
消えてなくなる大団円は存在しない。
全員が納得するハッピー・エンドはありえない。
J( 'ー`)し「だからね、ドクオ」
母親が切り出す。
J( 'ー`)し「お母さんはね、自分が自分でいるうちに眠りたいの。 自分の事を自分だと分かるうちに。 お姉ちゃんの事をお姉ちゃんだと分かるうちに」
そして、
J( 'ー`)し「ドクオの事を、ドクオだと分かるうちに」
そんな事も分からなくなったら、生きている意味ない。そう母親は笑う。
J( 'ー`)し「自我を保てなくなったらそれはもう人としての終わりなんだって、ずっと思っていたから」
母親は介護士だ。そのような老人を何人も、何十年も見ている。
そのような老人が自己を失っていくのを、人形のようになってしまうのを、死んでいくのを、見届けている。
J( 'ー`)し「私がそうなったら、というのは考えていたの。 ずっと。 だから迷いもない。 後悔だってきっとない。 私は私のままでいたい」
私は私のままでいたい。自己が保てるうちに。自分が自分であるうちに。自分という存在を自分で左右出来るうちに。
他人に自分という存在を委ねてしまわないうちに。
安楽死制度適用の条件は一定以上の認知症の進行と、本人の意思表示とサインだ。
自分が自分であるうちでなければならない。
J( 'ー`)し「だから安楽死を選ぼうと思うの。 もしドクオが反対するならしない。 ドクオが賛成なら、申し込むわ」
14
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 01:57:03 ID:Ao16Zizw0
( ‘∀‘)「ゆっくり考えてほしいの。 急に呼び出されて、そんな事を突きつけられて、困るかもしれない。 けれどそれは仕方がないわ。 答えが出なくても」
('A`)「それは」
( ‘∀‘)「答えが出なくても、仕方ないわ。 そんなの、すぐ結論を出せる事じゃあない。 当たり前よ。 でも、この子の進行は確実に進んでいる」
J( 'ー`)し「今日は泊まっていくでしょう。 あ、ドクオ、お風呂入ってきなさい」
( ‘∀‘)「まだ沸かしていないでしょう」
J( 'ー`)し「あ、そうか、えっと」
( ‘∀‘)「私が沸かすわ」
伯母が風呂を沸かしに行くと母親はリビングをうろつき始める。
('A`)「どうしたの」
J( 'ー`)し「あぁ、お布団出そうと思ってねぇ」
('A`)「布団ならそこの引き戸だろう」
J( 'ー`)し「あ、あぁ、そうだったね」
( ‘∀‘)「あぁ、布団なら出すよ」
伯母によって客人用の布団が敷かれていく。母親は見ているだけで、伯母がてきぱきと進めていった。
母親は手持ち無沙汰といった感じで傍らに立っていた。そんな姿を見たのは初めてだった。
女手一つで家庭を切り盛りしていた母親のそのような姿を見た事は、一度もなかった。
久しぶりに入る実家の風呂はとにかく古かった。
玉石のような床は冷たくて壁は経年劣化で歪み天井の隅は黒いカビが生えている。
幼い頃に母親と入った浴槽はとても大きく感じられたのに今となっては足を伸ばせないほどに古い。
水圧の弱いシャワーがいかに不便なのかは実家を出てから実感した。
風呂を出ると洗濯機が回っている事に気がついた。
もう二十一時を過ぎている。いくら田舎でも洗濯機を回すような時間ではない。
しかも脱衣かごに入れた自分の衣服がなくなっていて、洗濯機の中にあるのは明白だった。
当然ながら明日までに乾くはずがない。
('A`)「なんで洗濯しちゃったの?」
リビングに戻って母親に訊いた。理解出来ず純粋に訊いただけだった。
15
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 01:59:43 ID:Ao16Zizw0
J( 'ー`)し「ドクオが帰るまでに洗濯しておこうと思ってねぇ」
('A`)「明日帰るまでには乾かないだろ」
J( 'ー`)し「でも、ドクオが帰るまでに」
('A`)「だから、乾かないって」
同じ言葉を繰り返す母親にイライラさせられる。
( ‘∀‘)「なになに、洗濯しちゃったの」
('A`)「明日帰る時には乾いてないですよね」
( ‘∀‘)「そうだねぇ、ごめんね、私が見てなかったから」
J( 'ー`)し「知らない知らない!」
突然母親が叫んでリビングを出ていった。
( ‘∀‘)「どうしたの、どこ行くの」
玄関で母親は靴を履こうとしていた。肩は震えている。こんなに小さかっただろうか。
( ‘∀‘)「ねぇどうしたの」
J( 'ー`)し「知らない知らない! 何も知らない! みんなで馬鹿にすればいい!」
( ‘∀‘)「こんな時間に出たら危ないよ、戻ろう」
J( 'ー`)し「知らない! 触らないで!」
伯母が手を差し伸べるもそれを払い落とす。
( ‘∀‘)「だめだよ、危ないよ」
J( 'ー`)し「やめて! 触らないで!」
なおも手を差し伸べる伯母の身体を母親が叩く。
しかし力はない。ほどなくして伯母に抱きかかえられる。
16
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:00:45 ID:Ao16Zizw0
( ‘∀‘)「戻ろう、ね、戻ろう」
J( ;ー;)し「う、うぅ」
泣いていた。
母親が泣いていた。
J( ;ー;)し「う」
伯母に肩を抱きかかえられて母親が立ち上がる。靴は殆ど履けていなかった。
( ‘∀‘)「ごめんね、今日は落ち着いていた方だったのだけれど」
予定より遅い時間になって伯母はスズキ・スペーシアに乗って隣の市に帰っていった。
伯母には子供がいなくとも夫との生活がある。家庭がある。
実の妹とはいえ母親の面倒を見るのはその時間を切り崩すという事だ。
母親があれほど怒りの感情を見せたのは初めてだった。嬉しい、悲しいという感情表現は人並みであるものの怒りという感情は殆ど見せない人だった。
叩かれた事はおろか、声を荒げて怒られた記憶すらない。そんな母親があれほど怒りを露わにして、実の姉に手を上げた。
母親が母親でない気がした。母親という容れ物に入った別の誰かのような気がした。
久しぶりに布団から見上げるかつて俺の部屋だった天井は、居心地の悪いものだった。
かつての自室に私物は殆どない。持っていったか、あらかた処分してしまった。
不退転の決意とかそんなものではなく、ただ単純にこの田舎に、この実家に、この家庭に、戻るつもりはなかった。
戻ってくる、帰ってくる場所ではないと思っていた。
二十年近くを過ごしたはずの空間なのに、どこかよそよそしい。もうここは俺の場所ではない。
それは自分が選んだ道であるし、後悔など一つもない。
結論などとうに出ていた。
母親がそう望むなら、反対する必要はない。
現実的に、首都に住む自分が今更仕事を捨ててこの田舎に戻れるはずがない。
いくら育ててくれた肉親とはいえ、今から認知症というゴールのない底なし沼に足を踏み入れようとしている母親の面倒を最後まで見る事など出来ない。
もう自分には自分の人生がある。自分には自分の生活がある。それはこの田舎から、この実家から、母親から、分岐したものだ。
もう戻る事はない。合流する事もない。別々の道を歩んでいくしかない。
伯母にずっと任せる訳にはいかない。そして他でもない、母親自身がそう望んでいるのだ。
自分の人生を自分で片付けようとしている。他人に押し付けず、他人に委ねず、他人に放らず、自分で幕を引こうとしている。
それを止めるという選択肢は、ない。
17
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:01:45 ID:Ao16Zizw0
常夜灯も落としてしまって部屋には完全な暗闇が訪れたはずだった。
けれど目は慣れてしまって、汚れた天井が映し出される。
自分は、非情なのだろうか。
他でもない母親が、悪意のある言い方をするならば自殺を選ぼうとしようとしているのに、止めもしない。
だけど、けれど、仕方がない。仕方がないのだ。
だって母親が好きではない。
母親が好きではない。決して、嫌いではない。
俺はこの感情が不思議だった。いつからか、俺はそうなっていた。
なんだかんだ言いながら男は母親が好きだ。女性にだって母親代わりの母性を求める。
母親と軋轢があった訳でも、母親と大きな喧嘩をした訳でもない。母親に進路を反対された訳でも、母親に人生を強制された訳でもない。
それでも、母親がどうしてか好きではないのだ。好きではなかったのだ。それは揺るがなく、迷いがなく、覆しようがなく、否定しようがない。
ただただ事実なのだ。どうしようもない事実。事実は重い。事実は強い。
俺は、母親が好きではなかった。
夜が明けて、決心は強固なものになっていた。
トイレに立ち寄ってリビングへ向かう。母親はもう起きていた。
('A`)「おはよう」
母親が振り返る。怪訝そうに。
一瞬のうちに俺は理解する。
('A`)「そうか」
つい言葉が漏れた。
('A`)「俺だよ、ドクオ」
母親は瞬きをして、傍らにあった何かを手に取った。
アルバムだ。昨日も持っていたはずだ。
J( 'ー`)し「あ、あぁ、ドクオ、おはよう、ドクオ」
('A`)「うん」
J( 'ー`)し「朝ごはん作ろうねぇ」
18
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:03:30 ID:Ao16Zizw0
朝のワイドショーはいつも母親が見ていたものとは違う。
けれど朝食は昔と同じように感じられた。もしかしたらメモは台所にもあるのかもしれない。
箸や茶碗はやはり客人用だ。もう俺が使っていたものは奥の方に追いやられて忘却されているか、捨てられてしまっているのかもしれない。
J( 'ー`)し「ねぇ」
('A`)「何?」
朝食を食べ終えたところで、母親が席を立った。
J( 'ー`)し「写真、撮ろうよ」
('A`)「あぁ…」
写真。
父親は、カメラマンだった。
趣味が高じてカメラマンになったものの、言ってしまえば売れないカメラマンだった。そんな父親と母親がどうして結婚したのか。
そこには昼時間帯のメロドラマにも劣らないラブ・ストーリーが存在したのかもしれないけれど俺には興味がなかった。
ともかく父親は売れないカメラマンだった。そして母親はそんな父親の影響を受けて一眼レフで写真を撮るという趣味があった。
その腕前がどうであったか自分には評価出来ないし社会的に評価されるような日も訪れる事はなかった。
母親は自宅の玄関で一年に一度、一眼レフで俺の写真を撮った。それは写真撮影の趣味の一環であったし、我が子の成長記録でもあった。
中学生になってから俺はそれを鬱陶しく思っていた。誰だってそうだろう。年頃の男子が母親に写真を撮られて喜ぶはずがない。
当然ながら俺が家を出てからは毎年の写真はいったん途絶えた。しかし穴埋めと言わんばかりに帰省するたびに母親は写真撮影を求めた。
それが帰省を億劫に感じせた一因であるのは疑う余地もない。そしてもう何年も帰っていなかったので、その分写真は撮られていなかった。
('A`)「まぁ、いいけど」
それはこの後切り出す結論を考慮したものだった。
もしかすると、この毎年恒例であった行事はこれが最後になるのかもしれない。
J( 'ー`)し「じゃあ撮るね」
玄関の前に立つ。
いつかの笑顔だった幼年時代のように。
いつかの不貞腐れた少年時代のように。
いつかの仏頂面だった青年時代のように。
今の母親に撮影出来るのか、と思ったものの母親は脇を固めて自然にフォーカスを合わせてシャッターを切った。
それはこれまでのスムーズな動作に変わりなかった。まだ現役だと言わんばかりに。
19
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:05:01 ID:Ao16Zizw0
J( 'ー`)し「うん、撮れたよ」
('A`)「うん」
自分はどんな顔をしていただろう。
写真を撮る時、いつも母親は笑ってだとかお決まりの台詞を言わなかった。ただありのままの俺を撮った。
まるでその瞬間から俺だけを切り取ってしまうように、いつも厳かにシャッターは切られた。
どんな写真だったのだろう。しかし母親は液晶モニターを確認しても俺には見せなかったし俺自身も催促はしなかった。
照れくさいし、面倒。写真撮影に対する思いは十代の頃からちっとも変わっていない。
暫くして伯母がスズキ・スペーシアでやってきた。
('A`)「安楽死についてだけど」
( ‘∀‘)「うん、聞かせて。 ねぇ」
J( 'ー`)し「うん、そうだねぇ」
母親と伯母、どちらを見ればいいのだろう。
面接が苦手だと相談した時に面接官のネクタイの結び目を見れば良いのだと教わった事を思い出した。
('A`)「俺は賛成する」
もしかして止めてほしいのだろうか、と不意に思った。
息子に、生きてほしいと、懇願してほしいのだろうか。
( ‘∀‘)「本当に、それでいいのね」
伯母が念を押す。
('A`)「あぁ」
俺は頷く。
J( 'ー`)し「そう」
うんうん、と母親が頷く。
J( 'ー`)し「ありがとう、ドクオ」
あぁ、杞憂だったのだ。母親は何度も頷いている。
J( 'ー`)し「ドクオに賛成してもらえて、良かった。 私の気持ちを尊重してくれて嬉しいよ」
20
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:14:27 ID:Ao16Zizw0
('A`)「自分が自分じゃあなくなるって、考えたらすごく怖い事だと思う。 だから自分が自分であるうちに、っていうのは分かる」
J( 'ー`)し「うん」
('A`)「だからそういう選択を出来たのは、偉いと思うよ」
J( 'ー`)し「嬉しいねぇ」
( ‘∀‘)「じゃあ確認だけど、後悔はないんだね、二人とも」
J( 'ー`)し「ないよぉ」
('A`)「あぁ」
( ‘∀‘)「分かった。 私は貴方達の決断を尊重します。 手続きを進めるわ」
J( 'ー`)し「ありがとうねぇ」
( ‘∀‘)「安楽死に申請して審査が行われて適用されて、実際にその日が訪れるまで数ヶ月はかかるらしいの。 詳しい事が分かったら連絡するわ」
('A`)「分かりました」
J( 'ー`)し「ドクオ」
('A`)「何?」
J( 'ー`)し「ありがとうねぇ」
数ヶ月後に、伯母から母親の安楽死が認められたと連絡が来た。
安楽死の日程も決まったという。俺は上司に相談して休暇をもらう事になった。
正直に母親が認知症で安楽死制度が適用されると告げると上司はとても驚いていた。身近な適用例は初めてだという。
有給休暇であるものの、安楽死が実行された日からは忌引休暇になる。会社としても初めての例となるらしかった。
21
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:15:34 ID:Ao16Zizw0
母親の安楽死が決まり、普段ではありえないけれど仕事中に母親の事を考えるようになった。
どうして母親が好きではないのだろう。
母親は、別に悪い母親ではなかった。
虐待どころか躾が厳しかった記憶もない。優しく、働き者で、父親が亡くなった後も女手一つで俺を育てた。
いつだって母親は働いていた。幼い頃から母親はいつも働いていた印象が強い。
それなのにどうして母親が好きではないのだろう。
俺はドライだと言われる事があるものの薄情者ではない。至って普通のはずだ。
ただ母親だけがどうにも好きになれないのだ。子供の頃は好きだったはずなのに。
どこからか、いつの間にか、好きではなくなってしまった。どうしようもなく。
それは思春期特有の母親への照れくささだとかそういう類のものとは別だ。
どうしてか、どうしても、母親が好きではない。
死んでしまえ、などとは思わないものの、死なないでくれ、とまでは思えない。
自分がおかしいのだろうか。親不孝者なのだろうか。
仕事もあるので安楽死の前日に帰る事になった。
きっと普通の人間ならば一週間前に帰省して最後の時間を一緒に過ごしたりするのだろう。
母親の意向で葬儀も行わない事になった。とにかく母親は迷惑をかけたくないのだと伯母が言う。
安楽死には金がかかる。安楽死が認められるまでの調査費から始まり実際に安楽死を終えるまで相当な費用が発生するらしい。
決して多くの蓄えを持つ訳ではない母親にとって恐らく安楽死を終えるところまででぎりぎりなのだろう。
22
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:16:17 ID:Ao16Zizw0
本当に自分の母親が大事ならば、大切ならば、好きならば、最後の思い出を作ったりするのだろう。
最後に旅行に行き、最後に思い出の場所を巡り、最後に美味しいものを食べるのだろう。
人生最後ならば、自分だってそうしたいと思うだろう。けれど母親に対してそういう感情は生まれなかった。
母親の方も何も望まず、伯母曰く身の回りの処理を進めているとの事だった。
近所や参加している地域のクラブに挨拶を済ませて、家の処分も手続きを行っているらしい。
あの田舎の実家は、母親がいなければ当然住む者はいない。自分があの田舎に帰る事もなくなる。
俺が実家に帰らず忙しく仕事をこなしている間に、滞りなく安楽死の準備が進められていた。
本当に母親は死ぬのだろうか、と不意に考えさせられるほど静かな時間だった。
遠く離れた首都に住む俺には時折伯母から経過報告のようなメールが送られるのみだった。
現実感はなかった。だけど母親が自己を失い始めている姿は、脳裏にすぐ思い浮かべる事が出来た。
自分が自己を失おうとする時、果たして自分は自ら死を選ぶ事が出来るだろうか。
人間は恐らく誰しも少なからず破滅衝動を抱えて生きている。限りなくゼロに近くとも、僅かにそれを保持している。
残された家族が、払い終えていないローンが、叶えていない夢が、それを引き留めるのだろう。
でも配偶者どころか恋人もおらず、具体的な目標どころかぼんやりと抱く夢すらも持たない自分は、どうだろうか。
自分が自分でなくなってしまう前に、自ら死を選べるだろうか。
そんなもの、すぐ答えを出せる者はいないだろう。その時その時で価値観も違う。置かれた状況も違う。財力も、社会的地位も違う。
母親は今この状況でその答えを選んだ。それは一つの揺るがない事実であるし、間違いなく訪れる未来だ。
正解か不正解であったかは評価出来ないし今後もすべきではない。本人が決めた道なのだから。
そう思ってしまう自分は、やはり薄情なのだろうか? 人の心を持たない、冷たい人間なのだろうか?
新幹線と特急列車、そして普通列車。最寄り駅で降りてから、これが最後の帰省になると気がついた。
きっと、母親もおらず実家もない地元には、もう帰らないだろう。ここは生まれ故郷であり、地元であり、もう自分には必要のない街になる。
初対面の人間に出身地を訊かれ、○○県だと答えるも、もうそこに帰る事はない。帰る場所がないのだから。
実家に母親を一人残すというのは、そういう事だ。母親が亡くなればもう実家は維持出来ない。
地元は生まれ故郷でありながらもう帰る場所ではなくなるのだ。
23
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:17:27 ID:Ao16Zizw0
スズキ・スペーシアがきちんと普通列車の到着時間に合わせて駅前ロータリーに待機している。
('A`)「本当にお世話になります」
( ‘∀‘)「いいのよ、そんな」
数ヶ月ぶりだというのに、伯母はいっそう老けた気がした。
認知症の進む母親の代わりに、身の回りの処理に奔走していたはずだ。気疲れして当然だと言える。
伯母に対しての感謝は言い切れない。それは本来であれば自分の仕事であるはずだ。遠く離れた首都に住むという大義名分だけで免除されている。
圧倒的な距離と所要時間で、首都とこの地元は同じ国であるのにまるで別世界のように感じる。
伯母は殆ど不満を漏らさない。きっと抱えているだろうが、母親が伯母にとって他ならぬ妹だからこれほどしっかりしているのだろう。
確かに伯母の印象は責任感が強くてしっかり者だった。
何を話せばいいのか分からなかった。明日母親が死ぬ。
それについての感想だろうか。今日までの謝意か。今後についての打ち合わせだろうか。
どれも薄っぺらな気がした。遠く離れた首都に住む自分にとっては、この一連の出来事が、悪い冗談のように感じる時もあった。
出来の悪いフィクションのように思える時があった。テレビの向こうの遠い国の戦争で何人が死んだかのニュースとの違いを見出だせない時すらあった。
( ‘∀‘)「最後に何か美味しいもの食べようかって訊いても、あの子何もいらないって言うのよ」
('A`)「母親らしい気がします」
( ‘∀‘)「私はもう何もいらないって、そう言うのよね」
実家に着く。見慣れた戸建て、玄関、三和土、進むたびにこれで最後なのだと実感する。
母親はリビングにいた。声をかけるとぼんやりとこちらを振り返る。
( ‘∀‘)「ドクオ君だよ」
J( 'ー`)し「ドクオ…」
手元を探る。また、あのアルバムだ。
J( 'ー`)し「あぁ…ドクオ」
こんなに小さかっただろうか、と思った。
元々小柄であったものの、これほど小さかっただろうか。これほど小さな人間だっただろうか。
J( 'ー`)し「よく来たねぇ」
24
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:19:12 ID:Ao16Zizw0
母親が時間をかけて向き直る。
J( 'ー`)し「ありがとうねぇ、帰って来てくれたんだねぇ」
('A`)「そりゃあ、勿論」
J( 'ー`)し「嬉しいよぉ」
('A`)「もう、明日なんだしさ」
J( 'ー`)し「明日…」
( ‘∀‘)「明日、あの日でしょう」
J( 'ー`)し「あぁ…あぁ、そうだねぇ、もう明日だ」
実家は片付いていた。不要なものが殆どない。
まるで引越し前のようだった。
( ‘∀‘)「今は、落ち着いているね。 しっかりしているし」
('A`)「そうですか」
( ‘∀‘)「あとね、この子が最後に行きたい場所があるって、はっきりしている時に書いてくれたの」
('A`)「行きたい場所」
遠いのだろうか、と身構えてしまった。
( ‘∀‘)「これなんだけど」
('A`)「あぁ…」
踏切。
喫茶店。
公園。
メモに書かれていたのはどれも近所だった。
('A`)「これなら歩いていけますけど」
( ‘∀‘)「良かった、私じゃあこれだけだと何か分からなくて」
('A`)「まぁ、そうですよね」
確かに、これは俺と母親しか知らない。本当に近所ばかりだ。
25
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:20:38 ID:Ao16Zizw0
( ‘∀‘)「私は家にいるわ。 きっと、親子で水入らずの方が良いものね」
('A`)「そうですか…。 じゃあ、行こうか」
J( 'ー`)し「うん」
母親がゆっくりと身体を起こす。
('A`)「行ってきます」
( ‘∀‘)「行ってらっしゃい」
どうしたものか。
メモに書かれた場所はどれも近所だがそれほど印象的な場所ではない。
人生最後の日の前に訪れたい場所だとも思えない。伯母が聞き取った時点でもう母親の記憶力は他の何かと混濁していたのではないだろうか。
('A`)「じゃあ、順番に行こうか」
J( 'ー`)し「うん、ドクオの好きなようにしていいよぉ」
幹線道路沿いと比べると近所はそれほど変化がない。ただ純粋に年月が経って古い街並みが歳をとっている。
('A`)「本当にここでいいの?」
J( 'ー`)し「うん」
一つ目の場所に着く。踏切だ。
電化すらされていない単線のローカル路線。自分が乗ってきた列車を含めて一日僅か九往復。
首都に住み始めて驚いたのがものの数分ごとに列車が来る事だ。そして数分ごとに来る列車に利用客は駆け込む。
もう無理だと思ったところから更に人が乗り込み身体が軋む通勤ラッシュよりも、その事実がショックだった。
あの田舎と首都では流れている時間は平等でも同じ価値ではないという事を強く思い知らされた。
セイコー製の腕時計の秒針は寸分の狂いなく進むのに、その一秒の価値は大いに異なる。
J( 'ー`)し「列車、来ないねぇ」
('A`)「列車が見たいのか?」
J( 'ー`)し「うん」
急に子供じみた事を、と思いかけたところでやはり幼児退行の傾向があるのでは、と思い当たった。
数ヶ月ぶりに会う母親の認知症の進行具合を俺はそれほど知らない。
('A`)「時間を調べるよ」
J( 'ー`)し「そうかい」
スマートフォンの乗り換えアプリで最寄り駅の発車時刻を調べる。たった九行。
あと十数分で自分が乗ってきた下り列車が長い休憩を終えて上り列車として発車する。
('A`)「あと十数分で、一本来るよ」
26
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:21:53 ID:Ao16Zizw0
J( 'ー`)し「そうかい」
('A`)「待つの?」
J( 'ー`)し「うん」
踏切は県道に設けられたもので交通量が多い。
きちんと一時停止していく車や、徐行するものの完全には停まらない車、殆ど減速すらしない車など様々だ。
ようやく踏切の警報音が鳴り始める。遠くから気動車の音が聞こえる。
J( 'ー`)し「どっちから来るだろうね」
('A`)「上りだからこっちからだよ」
踏切に列車進行方向指示器がないのでどちらから列車が来るのかはすぐには分からない。
そうだった。
幼い時も、そうだった。この近所の踏切に列車をよく見に来たのだ。
本数が少ないのできっと母親が列車の通過時間を逆算して家を出ていたのだろう。
警報音が鳴り、遮断器が降りて、どちらから列車が来るか期待しながら左右を見渡したものだ。
やがて単行の列車が唸り声を上げながら通り過ぎていく。幼い頃と映像が重なる。
あの頃の記憶を連れ去るように列車が見えなくなる。
警報音が止み、遮断器が上がって、待たされていた車たちが通っていく。
J( 'ー`)し「行っちゃったねぇ」
('A`)「あぁ」
J( 'ー`)し「行こうかぁ」
('A`)「あぁ」
次は喫茶店だった。県道沿いの小ぢんまりとした喫茶店で、駐車場だけは無駄に広い。
向かいはコンビニエンス・ストアの居抜き物件に入るクリーニング店だ。
店内に入ると、コーヒー豆の香ばしい匂いが出迎える。そして、記憶が蘇ってくる。
('A`)「懐かしいな」
とうに忘れたと思っていた記憶も、奥底に眠っていただけだったりする。
圧縮したファイルを解凍するように、記憶に色がついて蘇る。
('A`)「何にしようかな」
27
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:23:29 ID:Ao16Zizw0
メニューを開くと古い喫茶店らしくサイフォンで淹れたコーヒーが名物だと書かれていた。
コーヒーにこだわる訳ではないものの、ボトルタイプの缶コーヒーをいつも飲んでいる。
仕事の合間などにコーヒーショップに立ち寄るものも好きだ。
J( 'ー`)し「ドクオは、メロンソーダが好きだったよねぇ」
('A`)「それは、子供だったからな」
J( 'ー`)し「メロンソーダ、頼みなよ」
('A`)「いや、いいよ。 そんな歳でもないし」
J( 'ー`)し「メロンソーダ、いいと思うけど」
('A`)「甘いもの、そんなに好きじゃないんだ」
J( 'ー`)し「そう…」
('A`)「…分かったよ」
母親が注文したコーヒーの香りが恨めしかった。
メロンソーダなど、いつぶりだろう。
鮮やかなネオングリーンに、たっぷり盛られたアイスクリーム、可愛らしいチェリー。
一口飲んだ感想は予想された甘さ、だった。王道たるメロンソーダだ。
そしてまた懐かしい、と思わされた。
この喫茶店にも幼い頃に何度か連れてきてもらった。
お目当てはまさにこのメロンソーダだった。あまり甘いものが食べられなかった裕福ではない家庭環境において、このメロンソーダこそご馳走だった。
甘いメロンソーダ、冷たいアイスクリーム、最後に食べるとっておきのチェリー。蘇る。記憶が、感情が、蘇る。
このメロンソーダを飲んでいる時間は、幸福だった。とてもとても幸福だった。
幼少期の、かけがえのない、幸福な時間。幸福な記憶。
それはここにあった。
ここにはあった。
メロンソーダに残されていた。
J( 'ー`)し「メロンソーダ、おいしいかい?」
('A`)「…あぁ」
いつから、その幸福な時間はなくなってしまったのだろう。
いつから、メロンソーダを飲まなくなってしまったのだろう。
いつから、甘いものが好きではなくなってしまったのだろう。
こんなにも幸福だったのに。
28
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:25:00 ID:Ao16Zizw0
('A`)「久しぶりに飲んだけどおいしいね」
J( 'ー`)し「良かったねぇ」
そうだった。母親はいつもコーヒーを飲みながら、メロンソーダを飲む俺を眺めていた。
俺はこの喫茶店に連れてきてもらうのが楽しみだった。お気に入りのメロンソーダを飲むのが楽しみだった。
甘くて、おいしくて、メロンソーダが本当に好きだった。どうして、好きではなくなってしまったのだろう。
J( 'ー`)し「おいしかったねぇ」
('A`)「そうだね」
喫茶店を出る。最後は公園だ。
本当にただの近所の散歩だ。人生の最後にこれで良いのか、とやはり思ってしまう。
線路沿いの公園は小ぶりなもので、遊具もシーソーとブランコしかない。
午後の遅い時間であったものの、子供の姿はなかった。犬の散歩をする老人が横切っていくぐらいだ。
そもそも山間の田舎らしく少子化の波に抗えず、子供の数は減っているはずだ。
J( 'ー`)し「ブランコ、乗ろうか」
('A`)「ブランコか」
ブランコも当然ながら子供の頃以来だ。
二人で並んでブランコに座った。
静かな時間が流れていた。幹線道路から離れて車の音も殆どしない。
公園の横の線路も暫く列車は来ない。ゆっくりと陽が公園の向こうに沈んでいく。
二人の影が長くなっていく。
29
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:26:03 ID:Ao16Zizw0
J( 'ー`)し「陽、暮れちゃうね」
('A`)「あぁ」
雲ひとつない空を夕陽が染める。
これは母親が見る最後の夕陽だ。
J( 'ー`)し「綺麗な夕陽だねぇ」
('A`)「そうだね」
夕陽を見ると寂しくなる。一日が終わってしまうからか、夜が訪れるからか、幼い頃の俺は夕焼けがどうしても寂しかった。
('A`)「ここも、懐かしい」
この公園にはよく来た。
よく来て、一人で遊んだ。
夕陽が寂しかった。
日が暮れてしまうと母親が迎えに来た。
いつもそうだった。
日が暮れてから、母親が迎えに来るまでの時間が、どうしても不安だった。寂しかった。
こんな感情を思い出すのは、本当に久しぶりだ。どこに置いてきてしまっていたのだろう。
('A`)「本当に、どこに置いてきたんだろう」
あまりにも懐かしい感情に触れて、もはや新鮮にすら感じられた。
こんな感情が、自分にもあったのだ。
こんな感情が、自分にも、
('A`)「あの頃、寂しかったんだ…」
ぽつりと漏れたそれは紛れもなく本音だった。
J( 'ー`)し「そうだよねぇ、ごめんねぇ」
('A`)「いや、いいんだよ。 遠い昔の事だよ」
日が暮れる。沈んでしまう。太陽が沈んでしまった後の、まだ明るい空。
間もなく明るさを失う空。
30
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:28:34 ID:Ao16Zizw0
('A`)「そろそろ帰ろう」
J( 'ー`)し「うん」
('A`)「遅くなると伯母さんが心配するよ」
J( 'ー`)し「ドクオ」
('A`)「何?」
J( 'ー`)し「本当に、ごめんねぇ」
J( 'ー`)し「写真、撮りたいの」
( ‘∀‘)「写真?」
翌朝、最後の朝だ。母親にとっての最後の朝。六十年の人生の、最後の朝。
('A`)「写真はもういいだろう」
J( 'ー`)し「ううん、撮りたいの」
( ‘∀‘)「写真って?」
('A`)「その、いつも帰省すると玄関先で写真を撮っていたんです、俺の」
( ‘∀‘)「あぁ、ドクオ君の」
もう撮っても仕方ないじゃないか、と思いはした。
毎回毎回帰省のたびに撮影しているけれど、もうその必要も機会もない。
しかし最後ならば自由にさせるべきだとも思えた。
( ‘∀‘)「じゃあ撮ろうか。 一緒じゃなくていいの?」
J( 'ー`)し「ううん、ドクオだけでいいの」
玄関に立つ。母親が一眼レフを構える。
帰省のたびに行われてうんざりしていたこの儀式も、これで最後だ。
31
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:29:55 ID:Ao16Zizw0
('A`)「どうした?」
ファインダーを覗き込んだまま母親はまごまごしている。
すぐに合点がいく。もう操作方法が分からないのだ。
('A`)「伯母さん、代わりに撮ってもらっていいですか?」
( ‘∀‘)「え、でも私そんなカメラ使った事ないよ」
('A`)「オートフォーカスがあるので勝手にピントは合わせてくれますよ」
( ‘∀‘)「じゃあ」
J( 'ー`)し「お願い」
母親が伯母に一眼レフを渡す。
('A`)「撮る時は脇を締めて、シャッターボタンを半押しすればピントが合います。 更に押し込めば撮影されるので」
( ‘∀‘)「ここで見ればいいのね…あ、じゃあ撮るね」
完全に初心者の伯母が撮った一枚はオートフォーカスでピントはくっきり合っていたものの力が入りすぎて右に傾いていた。
それでも母親は満足そうにその一枚を眺めていた。
J( 'ー`)し「現像したいわ」
( ‘∀‘)「じゃあ写真屋さんに寄る?」
('A`)「いや、今はコンビニでもプリント出来るので大丈夫ですよ」
( ‘∀‘)「あら、そうなの」
いよいよ家を出る。殆ど物は処分してしまって、殺風景ですらある。
母親は鞄を一つだけ持つ。最後の、人生を終えに向かう際の荷物。何が入っているのだろう。
J( 'ー`)し「お世話になりました」
家に向かって深々と頭を下げる。
俺にとっては二十年ほどを過ごしたこの実家も、母親にとっては四十年近く住んだ家だ。
母親が去れば家主を失いこの家は処分される。
( ‘∀‘)「行こうか」
32
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:31:12 ID:Ao16Zizw0
伯母のスズキ・スペーシアに乗って家を出る。
近所や市内の友達にはもう挨拶を済ませてあって、車はさっさと街を走っていく。
高速道路に乗ってしまう前に、コンビニで写真をプリントする。
母親の代わりに写真をプリントして母親に渡すと大事そうに受け取った。
今はこの山間の街まで高速道路が伸びている。
高速道路に乗ってしまうとすぐ街を出てしまう。もう戻る事はない街が過ぎ去っていく。
安楽死を執り行う病院は隣の県にある。伯母が運転する車で、一時間余りの旅路だ。
母親は後部座席に座り、俺は助手席に座った。最後ぐらい隣に座るべきなのかもしれないが、何を話せば良いのか分からなかった。
J( 'ー`)し「いい天気だねぇ」
高速道路は海沿いを走る。打ちつける波の上には澄み渡った青空がある。
晴天が少なくいつもぐずついた天気で有名なこの地方では、昨日に引き続き珍しいほどの晴天だ。
('A`)「死ぬのってさ、怖くないの」
不意に口にした疑問は、心の中で留めておくべきだったかもしれないとすぐに後悔した。
母親は後部座席にアルバムを広げていた。あのいつものアルバムだ。
どうやらスティックタイプの糊で先程プリントした写真を貼っているようだった。
今更、そんなものが必要なのだろうか。もうアルバムを見る事すら出来なくなるのに。
J( 'ー`)し「怖いよぉ」
でも、と続ける。
J( 'ー`)し「自分が自分じゃなくなってしまう事の方がね、怖いの。 ドクオをドクオだと分からなくなってしまう事の方が、よっぽど怖い」
だからね、
J( 'ー`)し「自分が自分だって分かる今のうちに、ドクオがドクオだって分かる今のうちに、幸せなまま死にたいの」
('A`)「分かった」
やめてくれ、死なないでくれ、生きてくれ、そう懇願する者はいるのだろう。
母親の意思を尊重する、それは建前だ。確かにそれは本当の気持ちなのだけれど、やはり建前だ。
そうしてもらうのが、一番だからだ。
33
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:31:47 ID:Ao16Zizw0
伯母にこれ以上面倒はかけられない。
自分が地元に生活基盤を戻す事は出来ない。
回復などあり得ず母親を施設に入れてもいずれは忘れてしまう。
だから、今、自意識がきちんと残っているうちに。
そして何より、母親が死ぬ事を、仕方がないと諦めている自分がいる。
だって、アルツハイマー型認知症に特効薬など存在しない。
いずれは忘れてしまう。いつかは失ってしまう。
だから、仕方ないじゃないか。
J( 'ー`)し「ありがとうねぇ」
自分がそういう状況に置かれて、その判断が出来るだろうか。
例えば病気で視力を失ってしまったら。
例えば事故で手足を失ってしまったら。
例えば難病で身体が動かなくなってしまったら。
それでも生きたいと願うのだろう。絶望的な状況に置かれても生きたいと願うのだろう。
じわじわと首を締められるように徐々に自己を失ってしまう状況で、自ら死を選ぶ事が出来るだろうか。
それが国に認められた権利だとして、選択する事が出来るだろうか。
だから母親が下したその判断を尊重するべきだ。
最後のドライブは高速道路を降りて、目的地の大学病院に着いて終わる。
受付窓口で名前と要件を、まるで一般外来のように告げる。すぐに他の来院者とは違う部屋に通される。
初めて来る病院。母親が安楽死する病院。大きな大学病院であるものの、ここで母親が死ぬという実感は全くわかない。
34
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:32:47 ID:Ao16Zizw0
個室に通されて暫くすると担当する医師が訪れる。
この医師が母親を安楽死に導く。けれどこの医師の顔も名前もずっと覚えている事など出来ないだろう。
医師は安楽死に関する再度の説明と最終段階となる意思確認を行う。母親は穏やかな様子で頷く。
最後の書類にサインをする。書けるのだろうか、と思ったものの、伯母と一緒に一字ずつ声に出して名前を書いた。
ボールペンで書かれた弱々しい文字。しかしはっきりと生命と意思を感じられる文字。
人生において何度も書いた名前。最後に死ぬために書いた名前。
これで安楽死法案に則り安楽死が成立する。
間もなく、母親が死ぬ。
心の準備が出来ていたかといえば、出来ていなかった。
日々の仕事に忙殺されて、そして何より、面倒な母親に関する事柄をあまり考えないようにしていた。
決められていた日時がやってきて、仕方なく地元に戻ってきたぐらいだ。
あまりにも事務的に進んでいく。勿論あらかじめ説明と打ち合わせを繰り返して今日があるのだ。
自分はただ当日にやってきたに過ぎない。当事者でありながら当事者である事から逃げ続けてきたからだ。
残された時間はこれほどに少なかったのだ。
医師から容器が母親へ手渡される。容器には死に至る薬品が溶かされた液体が入っている。
これを本人が自分の意志で飲み干す事で安楽死が遂行される。殆ど苦しみはなく眠るように死んでいくのだという。
そこで伯母がたまらず泣き出した。
( ;∀;)「ごめんね…気持ちの整理をしてきたつもりだったけれど、やっぱり、辛くて、寂しくて…」
J( 'ー`)し「ありがとうね…本当に、本当に、世話になったからね…」
手を握ってあげて下さい、と医師が言う。
俺と伯母で、母親の手を握る。
35
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:34:14 ID:Ao16Zizw0
J( 'ー`)し「お姉ちゃん、今までありがとう。 最後まで本当に迷惑をかけたね」
( ;∀;)「いいの、いいのよ。 こちらこそ、ありがとう」
J( 'ー`)し「ドクオ、もういくね。 元気でね」
('A`)「あぁ」
何と声をかければ良かったのだろう。これから死ぬ母親に何と声をかければ正解だったのだろう。
('A`)「今までありがとう」
J( 'ー`)し「うん」
満足したように母親が微笑む。
J( 'ー`)し「じゃあ、飲むね」
それが最後の言葉だった。母親は躊躇わずに容器に満たされた液体を飲み干した。
静かな空間だった。伯母の嗚咽だけが聞こえる。俺はただ眺めていた。
母親は眠るように目を閉じる。苦しむ事もなく、安らかな顔で、そして自分の事をきちんと認識したまま。
暫く時間が経って医師から安楽死の完了が告げられる。伯母がわっと泣き出す。俺はまだ温かい母親の手を握ったままだった。
時間をかけて整理された母親の遺品は本当に少なかった。
残された遺品の殆どは伯母に預けた。きっと取りに行く事もないだろうと確信もしていた。
単身向けアパートに母親の遺品を置いておくスペースはない。置いておこうとも思わない。
母親が大事にしていた一眼レフも受け取る事は断った。一眼レフなど日常で使う事もない。
ずっと実家と連絡も取らず一人で生きてきた自分にとって急に生活スペースにそのようなものを入れる気にはなれなかった。
仏壇を置く訳でもなく、写真に花を飾る訳でもない。まして俺の記憶の中の中年の母親と最後に見た老人の母親では乖離がある。
母親の写真を置こうとも思わなかった。一人暮らしのアパートに亡くなった母親の写真など置かないだろう。
唯一手元にあるのは母親が最後の日まで持っていたアルバムだった。これぐらいならかさばらない。
伯母も勝手に見るのは悪いから、と中身を確認せず渡してきた。アルバムなどどこかくすぐったい気がして、未だに開いてもいない。
36
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:38:06 ID:Ao16Zizw0
俺の生活は首都で仕事に忙殺される元の日々に戻った。はじめは母親の安楽死に同情される事が多かったものの、それもすぐになくなった。
そもそも実家と殆ど連絡を取っていなかったので、元の生活に戻るのは早かった。これまで確かに母親は生きてきたが自分の生活の中にはいなかった。
だから母親の死を経ても、特に自分の生活に変わりようはなかった。
もうきっと、あの地元に戻る事はないのだろう。実家も処分される。母親もいない。
あれほど長い時間を過ごしたあの地元はもう自分の場所ではなくなる。
自分が帰る場所ではないのだ。
目を覚ますとそこは駅だった。ベンチに座っていたようだ。
周囲を見渡して気がつく。ここは地元の駅だ。単行の気動車しか来ないようなローカル線の駅。
駅には自分しかいない。他の客どころか駅員の姿もない。駅の外は夜で、静まり返っていた。何の音もしない。
次第に意識がはっきりしていくうちにこれは夢なのだと理解し始めていた。
夢なのに意識がはっきりするというのは妙でもある。しかしもうこの地元の駅に戻る事はないのだ。
俺はチノパンにシャツといういつもの格好だった。しかし鞄を持っていないどころか携帯電話すらポケットに入っていない。
途方に暮れてベンチに座っていると、遠くから音が聞こえる。それは徐々に近づいてくる。音のする方を見ると光が見えた。
眩い光が暗闇を切り裂いてやってくる。それは汽車だった。ゆっくりとホームに滑り込んできてそれは停車した。
まるで非現実的な光景だった。ローカル線とはいえもう汽車など走ってはいない。やはり夢なのだ。
汽車には客車も連結されている。そこから誰かが降りてくる。制服を来ているその人物はどうやら車掌のようだ。
https://res.cloudinary.com/boonnovel2020/image/upload/v1588208782/68_c5cn2s.jpg
| ^o^ |「おまちして おりました」
('A`)「えっ」
車掌は頭を下げる。
| ^o^ |「どうぞ ごじょうしゃ ください」
37
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:39:39 ID:Ao16Zizw0
言われるがまま、客車に乗り込む。
座席は乗客で殆ど埋まっていた。しかし姿は見えるのに一人として顔が見えない。やはりこれは夢なのだと再認識する。
どうしたものか、と思案しているうちに車掌が出発合図を送り汽車が発車する。ゆっくりと、しかし力強く汽車は駅を発車する。
| ^o^ |「こちらへ どうぞ」
駅を出てから車掌やって来て、座席を示す。ここに座れという意味なのだろう。
( )「…」
座席の窓側には先客がいた。小学生ほどの子供だ。やはり顔は見えない。
機嫌が悪いのか外の方を向いてこちらを見ようともしない。
若干の居心地の悪さを感じながら座席に座る。
| ^o^ |「ずっと おまちして おりました」
('A`)「俺を?」
車掌は俺の傍らに立つ。車掌の顔は見えるものの、表情は変わらない。
| ^o^ |「はい。 ながらく おまちして おりました」
自分には覚えがない、そう言おうとして何故か懐かしい気分になっている事に気がついた。
揺れる客車、古びた座席、表情の変わらない車掌。いつか、この列車に乗った事がある。急にそんな気がしてきた。
| ^o^ |「では いきましょう」
車掌が高らかに告げる。
| ^o^ |「にじゅうよねんまえに」
列車は夜を走る。星屑のような集落があって、星雲のような街並みがあって、月を照らす水面がある。
やがて水平線が明るくなる。朝日が顔を出して次第に空が明るくなる。集落が、街並みが、水面が、線路が、列車が明るく照らされる。
しかしそれは朝日ではなく夕焼けだと分かる。眩い光は同じようでありながらまるで違う。それは希望に満ち溢れていない。
どこか物悲しく、寂しい。それは夕焼けだ。間もなく訪れる夜。山の向こうへ沈んでいく間近の最後の煌めき。燃えるような太陽。
沈んでしまった後の僅かなトワイライト。夜が支配してしまうまでの猶予の時間。やがて世界を包み込む夜。
38
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:40:51 ID:Ao16Zizw0
そこは夕方の公園だった。俺が座っていたのは汽車の木製の座席ではなくブランコだった。
近くには線路があって、みんな帰ってしまって他には誰もいない、日没間近の公園。ここはあの、地元の公園だ。
しかし公園の様子は現在と少し異なる。昔の公園だ。自分が子供だった頃の公園だった。まだ自分が、幼かった頃の、
(;A;)「え…」
いつの間にか涙が流れていた。慌てて涙を拭う。
確かに夕焼けは寂しいものだけどどうして涙が出るのだろう。このブランコが母親と最後に乗ったものだからだろうか。
最後に母親と乗ったブランコ。最後に母親が見た夕焼け。
自分はいつも公園にいた。
いつもブランコに乗っていた。
夕焼けが寂しかった。
みんなが帰ってしまう。一人になる。
夕陽が沈んで、暗くなって、夜がやってくる。
寂しかった。
一人が寂しかった。
母親が迎えに来るまで、寂しかった。
母親はいつも働いていた。
毎日働いていた。
父親は売れないカメラマンだった。
ずっと仕事で家にいなかったのに稼ぎは少なかった。
少ない父親の稼ぎを補うために母親はいつも働いていた。
母親は記憶の中でいつだって働いていた。
父親は俺が幼い頃に事故で死んでしまったので、記憶にはあまり残っていない。
形見とも言える一眼レフを母親はずっと大事にしていた。
そして父親が死んだあとも母親は生活のために働き続けた。
ずっと働いていた母親。
自分は一人だった。いつも一人だった。毎日一人だった。
友達と遊んでいても、日没前にはみんな帰ってしまう。最後には自分だけが残される。
公園に一人。自分だけ一人。夕焼けが照らす。夜が迫る。寂しかった。ずっと、ずっと、寂しかった。
39
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:41:47 ID:Ao16Zizw0
(;A;)「寂しかった…」
寂しかったのだ。母親はいつも働いていて、家にいなかった。公園に遊びに来ても最後には一人になってしまう。
母親がずっと働いている者などいなかった。みんなの母親は家でご飯を作って待っていて、時間になればみんな帰っていく。
公園に取り残された自分は一人でブランコに座りながら夕焼けを眺める。夜を連れてくる夕焼けが恨めしかった。
一人で過ごす夕焼けに照らされる公園が本当に寂しかった。早く母親に迎えに来てほしかった。
母親の迎えを待つ時間が長かった。幼い自分には永遠にも感じられる時間だった。
毎日、毎日、一人で待つその時間はまるで永遠のようで耐え難いものだった。
寂しかった。苦痛だった。
だからそれを、手放した。
(;A;)「そうか…俺は…」
そこは元の列車の中だった。
外には夕焼けが追いかけてくる。
車掌がすぐそばに立っていた。
| ^o^ |「はい ずっと おあずかり していました」
俺は預けたのだ。一時的に。寂しくならないように。
| ^o^ |「おかあさん を すきだという きもちを」
(;A;)「あぁ…」
母親を愛おしいという気持ち。
子供の頃なら誰でも持っているもの。それを俺はこの銀河鉄道で預けた。
夕暮れの公園で一人、母親を待つ時間は、子供の頃の自分にとって耐え難いものだった。
だから、手放した。一時的に預けた。寂しくならないように。辛い思いをしなくて済むように。
俺は八歳だった。八歳の子供に、毎日母親が帰ってくるのを待つ時間は本当に恐ろしく長いものだった。
ようやく合点がいく。どうして自分が母親を好きになれなかったのか。母親を愛おしいと思えなかったのか。
母親を愛おしいという気持ちを、この銀河鉄道に預けたからだ。そしてそのまま時間が経ってしまった。
母親を愛おしいという気持ちが抜け落ちたまま俺は育った。母親が好きではないまま育ってしまった。
寂しかったが故に。
耐え難かったが故に。
俺は預けた。
預けてしまった。
そしてそのまま時間が経ってしまった。
40
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:42:53 ID:Ao16Zizw0
| ^o^ |「あなたに おかえし いたします」
車掌が視線を向ける。隣の座る小学生ぐらいの子供。
今なら分かる。八歳の時の自分だ。この銀河鉄道に母親を愛おしいという気持ちを預けた時の自分。
母親が好きだった頃の自分。
( )「…おそいよ」
(;A;)「ごめん…忘れていたんだ、ずっと…」
忘れていた。ずっと忘れていた。俺は母親が好きだった。他の人と同じように、母親が好きだった。
| ^o^ |「おかえし いたします」
八歳の頃の俺が拡散するように光の粒になる。それは何十、何百もの光の粒になる。
それが一つ、自分に吸い寄せられて、合流する。自分の中に入ってくる。
あぁ、それは自分がこの銀河鉄道に預けた母親を愛おしいという気持ちの一部だ。
母親が好きだった記憶の一つだ。
毎日フルタイムのパートで働いていた母親を夕暮れの公園で一人、待った。
同じぐらいの子供は夕食時が近づくと一人、また一人と家に帰っていった。いつも最後には自分一人が残された。
日没が過ぎて、水銀灯が暗闇を照らす頃に、母親が迎えに来る。
それまでの時間が苦痛だった。寂しかった。
また一つ、光の粒が吸収される。
娯楽のない田舎で喫茶店に連れて行ってもらうのが楽しみだった。
大好きなメロンソーダをいつも注文していた。鮮やかなネオングリーンに、たっぷり盛られたアイスクリーム、可愛らしいチェリー。
甘くて冷たくて綺麗だったメロンソーダ。喫茶店に行けばいつも注文していたし母親は俺が美味しそうにそれを飲むのを嬉しそうに眺めていた。
また一つ。
列車が好きだった自分に合わせて、よく踏切まで一緒に見に行った。
何十分も待ってやってきた単行の気動車に手を振った。運転士に警笛を鳴らしてもらえばすぐに隣の母親に報告していた。
たったそれだけの事がとても嬉しくて、幸せな時間だった。
また一つ。また一つ。
その光の粒が母親を愛おしいという気持ちだ。母親に愛されていた記憶だ。
41
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:44:03 ID:Ao16Zizw0
みりんと砂糖多めの甘めの味付けの肉じゃが。子供の頃から母親の作る肉じゃがが一番好きだった。
定番のカレーよりも好きだった。自分がねだればいつだって作ってくれた。
母親を愛おしいという気持ち。母親に愛されていた記憶。何十何百もの光の粒となって流れ込む。
忘れていた、封印されていた、預けていた記憶で溢れ返る。
カレーを作っていたのに肉じゃがが食べたいと駄々をこねるとすぐに肉じゃがを作ってくれた。
風邪を引いて熱を出した日はパートを休んで付きっきりで看病してくれた。
苺とたっぷりの砂糖を漬け込んで自家製ジャムを作ってくれた。
テストで満点を取った事を母親に報告すると喜んでくれた。
補助輪が取れるまで自転車の練習に付き合ってくれた。
寒い冬でも毎週土曜日には運動靴を洗ってくれた。
擦りむいた膝を消毒して絆創膏を貼ってくれた。
夜になって出した体操服を洗濯してくれた。
お気に入りの本を眠るまで読んでくれた。
宿題の漢字ドリルを一緒に見てくれた。
運動会で母親が弁当を作ってくれた。
働く車の本を買ってきてくれた。
背中をさする優しい手。
頭を撫でる優しい手。
覚えている。その温もりを。
思い出した。その温度を。
いつだって母親の愛情があった。いつだって母親が好きだった。
母親の事が、大好きだった。
(;A;)「お…俺は…」
| ^o^ |「おかえし いたしました」
完全に日が暮れる。そこは太陽の沈んでしまった夜。寂しい夜。寂しい闇。
月も星もなく等間隔に蛍光灯で照らされている闇。それは隧道だった。
列車はトンネルを走っていた。ゆっくりと、それでも確実に制動がかかり減速していく。
不意に暗闇が途切れて明るい場所に出る。そこはタイル張りの地下鉄の駅だった。
帰ってきたのだ。あの地元から。
ここは首都にあるアパートの最寄りの地下鉄の駅だ。
| ^o^ |「ごじょうしゃ ありがとうございました」
42
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:44:53 ID:Ao16Zizw0
車掌に促されて列車を降りる。
まだ乗っていたかった。ここにはあの地元の、母親の名残がある気がした。
| ^o^ |「それでは あおいするときがあれば またいつか」
しかし戻れない。もうあの地元に戻る事はない。俺の生活基盤はこの首都にある。
それは他ならぬ自分が決めた事だ。
列車は汽車だというのに地下鉄の駅を発車していく。大量に吐かれた蒸気がプラットホームを覆い尽くす。
視界が、意識が、奪われていく。
あぁ、覚醒するのだ。
夢が終わる。夢の世界が、夢の物語が、終わる。まだそこにいたかった。夢の中ならば、夢の中ならば、叶う事も、手が届く事も、
母親との記憶に触れる事も、
目に入ったのは見慣れた天井だった。身体を起こす。覚醒していく。
首都の単身向けアパート。地元ではない。実家ではない。住み慣れてしまった遠く離れたアパートの一室だ。
夢を見ていた。とても幸福な、残酷な、夢を見ていた。
涙が流れている事に気がついた。起きてからか寝ている時からなのかは分からない。
しかし失われていた、預けていたものが、自分の中に取り戻された事は明白だった。
ふと、あの甘い味付けの肉じゃがが食べたいと思った。そしてそれが永遠に失われたのだと気がつき、
(;A;)「あぁ…」
絶望だった。
もう母親はこの世にいない。自分を愛してくれた、自分が大好きだった母親はこの世にいない。
母親に会いたかった。大好きだったと、大好きだったのだと、言いたかった。
いつまでも生きていてほしかった。変わってしまっても、自分を忘れてしまっても、俺を忘れてしまっても、生きていてほしかった。
生きていれば、生きてさえいれば、また会える。また話が出来る。
もうそれは叶わない。もう二度とそれは叶わない。
43
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:45:44 ID:Ao16Zizw0
母親に会いたかった。けれど遺影も遺骨も何もかも伯母に預けてしまった。
一人暮らしの部屋には非必要であると、全て預けてしまった。半ば手放す形で、それを預けるという形で放棄してしまった。
母親の写真すらこの部屋にはない。記憶の中の若い頃の母親が、ぼやけていく。時間の経過と共に記憶は劣化して朧げになる。
母親に会いたかった。もう全てが遅いのに、会いたくて仕方がなかった。
アルバムだ。アルバム。母親の遺品で、唯一受け取り持ち帰ったもの。
伯母は悪いからと見ていないと言っていたし、自分も興味が持てず開いてもいない。
母親が最後に持っていたもの。そのアルバムを開いて俺を思い出していた。
カラーボックスの中に放ったアルバムを手に取る。
古いフォト・アルバム。
題名のないフォト・アルバム。
母親の面影を求めてアルバムを開く。
しかしそこに母親の姿はなかった。
アルバムには俺の写真だけが貼られていた。
一年に一度、玄関で母親が撮った写真。売れないカメラマンだった父親の影響で、一眼レフで毎年撮られた写真。
写真の横には母親がコメントを書いている。我が子の成長を見届ける母親の記録。
母親がいかに俺を見ていたか、いかに俺に愛情を注いでいたか、はっきりと感じ取れる。
八歳までの俺は笑っていた。そして九歳の俺から、笑顔が消えていく。
母親を愛おしいという気持ちを預けた後の自分。母親が好きではなくなった後の自分。
一年に一度のその儀式は鬱陶しいものだった。年頃になれば尚更だ。
中学生、高校生になるにつれ、カメラに目線すら合わせようとしなくなる。
十八歳の俺はそっぽを向いて全く目線を合わせていない。
それでも、それでも母親のコメントは我が子の成長を喜ぶものだ。
44
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:46:43 ID:Ao16Zizw0
ずっと母親は俺を見ていた。俺が母親を見なくなっても、母親は俺を見ていた。
ずっと、ずっと母親は俺を見ていた。俺が見なくなっても。
家を出て、あまり実家に帰らなくなって、一年に一度という頻度も守られなくなる。
そして、母親が安楽死を希望していると聞かされて帰ったあの日の写真。
認知症の進行が進んでいるとは思えないほどに、写真はきちんと撮影されていた。
三脚を使わずともきちんと脇を締めて撮影された写真は水平で、ぴったりフォーカスが合い、面倒だという表情の自分を切り取っていた。
コメントの文字は乱れている。文字を忘れ始めていたのだろう。
『これは誰だろう? ドクオだ 私の大事な息子だ
どうして分からなくなってしまうのだろう 大切な、大切な息子だというのに
分からなくなる 分からなくなりたくない 忘れたくない 覚えていたい 怖い
覚えていたまま眠りたい 忘れてしまわないように』
そこにあるのは母親の悲鳴だった。大切なものを忘れてしまう恐怖。
穏やかな口調で自らの安楽死を語った母親の、偽らざる本心がありありと残っていた。
そして自分が母親に冷たく当たっても、面倒くさがり実家に帰省すらしなくなっても、大切だと思っていてくれた事を思い知らされる。
地元と首都、恐ろしいほどの距離が出来ても、別々に生きていても、母親にとってたった一人の息子だった。俺にとって、たった一人の母親だった。
ずっと、ずっと大切にしていたのに。
そして母親はこのアルバムを持ち歩いていた。俺が連絡を受けて帰った時も、このアルバムで思い出していた。
今なら分かる。息子の事を忘れてしまうのが怖かったから。このアルバムを持ち歩いて、いつだって俺の事を思い出せるようにしていたのだ。
幼少期の頃からの写真とコメントが紡がれたこのアルバムを見れば、いつだって自分の息子を認識出来る。忘れてしまっても思い出せる。
45
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:48:41 ID:Ao16Zizw0
アルバムをめくる。
そして、最後の日。
最後の日の朝に撮った写真。安楽死を行う県外の大学病院へ向かう車中で貼り付けられた写真。
代理で初心者の伯母が撮った写真は、オートフォーカスで撮影されているもののシャッターボタンを押す際に力が入りすぎて傾いている。
その後にコメントはあった。しかし、乱れている。
大学病院へ向かう車中で書かれたコメント。母親の最後のコメント。
平仮名のようだが何と書いてあるか、すぐには分からない。
平仮名が六字。一字ごとに文字を追う。
位置が妙にばらつきながら書かれたその六文字を読取る。
('A`)「た く に し い な…?」
その六文字の意味は分からなかった。
頭の中で変換する事も出来ない。何らかの法則性も見つからない。
暫く考えても何も思いつかない。
やはり、もう文字を忘れてしまったのだろうか。
他の何かの文字と混濁していたのだろうか。
何にせよ、母親が最後に書いたコメントを解読すら出来ないのは残念だった。
六文字。一体、何を書きたかったのだろう。
('A`)「いや…」
確かに後部座席は揺れていた、確かにもう文字を忘れつつあった。
しかし、母親は最後の安楽死に同意するサインを伯母と共に一字ごとに口にしながらではあるが、書けていた。
書けていたのだ。
意味のないはずがない。
46
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 02:52:10 ID:Ao16Zizw0
そして気づく。まるで平仮名の『く』の字のように、それはセオリー通り左から書かれたのではなく、上から書かれているのだ。
なぐり書きのようなその六文字は弧を描くように、書いたのだ。
上から読むと、
し
に
た
く
な
い
し
に
た
く
な
い
('A`)「え…?」
あとは白紙だけだった。
そこで時間は止まっていた。
貼られる写真も、紡がれる文章も、語られる物語も、もうそこにはない。
俺はただ呆然と、いつまでも、
('A`)続きのないアルバムを眺めていたようです
47
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 03:45:01 ID:nrdQxf.U0
たなくにしい
48
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 05:35:23 ID:X9nCdgHA0
しんど……。おつ
49
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 07:05:16 ID:3E3QsjLw0
otsu
50
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 13:25:02 ID:ImRZNy/60
ラストが本当に、ドクオと同じく放り出されたように続きが無いのが辛い。乙
51
:
名無しさん
:2020/05/05(火) 14:16:54 ID:E.3gfJvg0
乙
52
:
◆S/V.fhvKrE
:2020/05/07(木) 00:17:50 ID:QhbyxL4Y0
【投下期間終了のお知らせ】
主催より業務連絡です。
只今をもって、こちらの作品の投下を締め切ります。
このレス以降に続きを書いた場合
◆投票開始前の場合:遅刻作品扱い(全票が半分)
◆投票期間中の場合:失格(全票が0点)
となるのでご注意ください。
(投票期間後に続きを投下するのは、問題ありません)
53
:
名無しさん
:2020/05/11(月) 00:06:28 ID:4P5j2cnM0
胸が痛すぎて寝れねえよ
54
:
名無しさん
:2020/05/16(土) 13:54:28 ID:gwizk7yM0
つらい
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