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从 ゚∀从銀河鉄道車掌長の帰りを待つようです
57
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 10:54:54 ID:OUAA5tbg0
自分の手を見る。輪郭はぼやけて光の粒になってさらさらと消えていく。
まるで銀河の星屑みたいだ。自分が消えていく。これでわたしは完全に思い出したんだ。生い立ちから、最期まで。
これで、消えるんだ。成仏するんだ。
ノハ∩⊿∩)「ごめんね…こんな終わり方だなんて思わなかった」
('A`)「なんでお前が謝るんだよ」
从 ゚∀从「そうだよ」
ノパ⊿゚)「まーね」
銀河鉄道は楽しかった。そういえばまた普通に足があって歩けていたんだし。
そうと分かればもうちょっと自分の足で歩いて走ることを堪能したのに。足を失ってから願い続けたことだったのに。
ノパ⊿゚)「みんな、元気でね。 わたしみたいな終わり方じゃないといいね」
(゚、゚トソン「ヒートさん」
いつだって優しいトソンさんは言葉を探そうとしている。
でもあんな終わり方を迎えてそれを思い出して消えていくわたしを慰める言葉なんてもうないんじゃないかな。
58
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 10:55:48 ID:OUAA5tbg0
ノパ⊿゚)「今までありがとう」
川 ゚ -゚)「あぁ、ありがとう、ヒート」
今まで何人もの人を見送ってきたクーさんは落ち着いている。
クーさんはきっと自分よりヒートの方が早く自分を取り戻せる、と言っていたけれどその通りになってしまった。
ノパ⊿゚)ノ「じゃあね」
もうみんなの姿が見えなくなる。わたしは真っ白な世界にいる。
わたしはもうすぐ消えるんだ。自分の全てを思い出したから。
でも、こんな終わり方なら思い出さない方が良かった。忘れたままの方が幸せだった。
せっかく忘れたままでいられたのに。思い出さなくていい記憶を失っていられたのに。
それに、もっとみんなと銀河鉄道で旅をしていたかったな。
59
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 12:48:44 ID:46GSU23E0
3 銀河のどこか
60
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 12:50:06 ID:46GSU23E0
銀河鉄道は大きな鉄橋を渡っていた。
眼下には大きな川が流れている。これまで幾つ大きな川を渡ってきただろう。
ボックスシートの向かいにはクーが座っている。反対側にはトソンとハインリッヒ。
ヒートがいつも座っていた窓際の席は空けられている。ヒートが消えてからもう五日ほど経った。
初めて銀河鉄道の乗客が消えたのを見たハインリッヒはショックだったらしく元気がなかった。
確かにヒートの死因は悲惨なものだった。更にヒートは死んだ時の状態ではなかった。
ヒートは事故で両足を失っていたにも関わらず両足を取り戻した状態で銀河鉄道に乗車していた。
銀河鉄道には死ぬ直前の状態で乗っているものだと思われていた、と古参のクーも語っている。
今来ている服装だってそうだ。だからヒートのケースは初めてだと車掌長たるクーですら驚いていた。
例外もありうるのだ。
まぁ死因がどうであれ一緒に銀河鉄道に乗っていたいわば仲間が消えれば誰だって寂しく感じるだろう。
まして一番うるさかったヒートが消えたのだからだいぶ静かになったと言ってもいい。
('A`)「静かだなぁ」
川 ゚ -゚)「そうだね」
もう何度この話をしただろう。
川 ゚ -゚)「やっぱり寂しい?」
('A`)「別に」
61
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 12:50:57 ID:46GSU23E0
大きな鉄橋を渡り終えると車窓の景色は厩舎、工場、住宅街へと移る。
線路はやがて高架になり大きくカーブすると駅が見えてきた。
川 ゚ -゚)「行こうか」
銀河鉄道が駅に着く。
とても広い面積のある駅前広場に出るとペデストリアンデッキが半円を描くように左右に伸びていた。
階段が設けられていてバス乗り場やタクシー乗り場に続いている。
駅前広場はとても綺麗で清潔に感じられた。機能的に設計されている。
ただ、その駅前広場の真新しさには引っかかるものがあった。
駅周辺はビルが多く繁華街である事が見て取れる。駅自体も大きなターミナル駅だ。
それなのに駅前ロータリーはまるで全部作り変えたように真新しい。
ペデストリアンデッキを歩いて駅前広場から進む。すぐ近くには高層ビルや新しいビルが目立つ。
しかし路地に目を向けると栄えているように見える駅前の通りとは景色が異なっていた。
そびえ立つ高層ビルのすぐ隣のエリアは狭い商店がずらっと並んでいた。ここは繊維問屋街らしい。
しかし殆どの店舗が昼間にも関わらずシャッターを閉めている。幾つかのアーケード街があったがどこも同じ状態だ。
繊維問屋街は完全なシャッター街になっていて駅が近いのをいい事に路上駐車の車ばかりが並んでいる。
駅前は新しく造り替えられたらしいのに少し裏路地へ行くとまるで街が死んでいるように思えた。
(゚、゚トソン「駅前は華やかだったのに随分と寂しいところですねえ」
从 ゚∀从「ギャップがすごいな」
62
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 12:52:16 ID:46GSU23E0
そのまま歩くと再びアーケード街に出る。ドン・キホーテと高島屋があってそこが随一の繁華街のようだった。
でも通り沿いにあるドン・キホーテや高島屋から一歩アーケード街に踏み込むとまたシャッターを閉めた店が目立った。
営業をしている店舗も多いがシャッターを閉めている店舗が多い。ビルの解体工事をそこらへんでやっている。
アーケード街の入り口はどこも立派な造りなのにその中は随分と空っぽのように感じる。
(゚、゚トソン「なんだかここも寂れていますねえ」
从 ゚∀从「入り口こそ派手なアーケードなのに尻すぼみだな」
('A`)「なんだっけ、竜頭なんとか」
从 ゚∀从「竜頭蛇尾な」
繁華街の象徴であるはずのアーケード街は老人ばかりだ。歩いているか自転車か乳母車を押している。
川 ゚ -゚)「きっとここは、かつてはもっと栄えていたんだろう。 大きな繁華街だったはずだ」
从 ゚∀从「じゃなきゃあんな立派なアーケードはないわな」
(゚、゚トソン「何らかの理由でここまで衰退したといったところでしょうか」
衰退した街。そう表現するのが確かに正しい。
老人ばかりでまるで若者がいない。ドン・キホーテぐらいにしかいないし、そのドン・キホーテにすらも老人は多い。
しかし俺はその頻繁に車の行き交う大きな交差点の角を陣取るドン・キホーテを見ながら違和感を覚えていた。
ここはドン・キホーテじゃなかった、そう思った。どうしてだろう、ここにあるのは紛れもなくドン・キホーテのはずだ。
63
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 12:53:16 ID:46GSU23E0
川 ゚ -゚)「どうした?」
('A`)「いや…」
(゚、゚トソン「何か引っかかりますか?」
('A`)「いや…うん、そうだな、違和感みたいな」
川 ゚ -゚)「違和感?」
从 ゚∀从「お前それって、思い出しかけてるんじゃないか? ヒートみたいに」
ヒートみたいに、ハインリッヒの言葉で五日ほど前の景色が蘇る。
何もない更地に突如出現した等身大ガンダム。東静岡駅前に展示されていたもので、俺もどうやら当時見に行っていていた。
あれはヒートが過去の記憶を一部取り戻したからだ。現在では更地の場所にかつて等身大ガンダムが立っていた事を思い出した。
そしてその過去はヒートの記憶通り再生された。それがあの等身大ガンダムだ。
('A`)「そうなのかな」
ドン・キホーテ。
オープンして、喜んで行ったような気がする。うちにもドン・キホーテが出来た、そんな風に喜んだ気がする。
何もない廃墟だったのがドン・キホーテになって人が戻ってきた、誰かがそう言っていた気がする。
それはどこのドン・キホーテだった? 廃墟がドン・キホーテになった? 誰がそう言った?
64
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 12:54:03 ID:46GSU23E0
('A`)「えっ」
顔を上げるとドン・キホーテは廃墟になっていた。
店舗はとっくに引き揚げて解体される事もなく建物だけが残っていた。
薄汚れたビルには文字が書かれている。それはいつも通り読み取れない。それなのに俺には分かった。
('A`)「メルサだ…」
MELSA、ドン・キホーテが入る前はメルサだった。
('A`)「ここ…岐阜か」
交差点の方に視線に戻すとカーブした線路を路面電車が走ってきた。
今のドン・キホーテが建つメルサの前、かつての徹明町のカーブを路面電車が走り抜ける。
そうだ、岐阜だ。ここは岐阜だ。岐阜の柳ヶ瀬だ。路面電車が駅から走っていて岐阜で一番の繁華街だった。
从 ゚∀从「おい、急に景色が変わったぞ」
川 ゚ -゚)「ドクオ、お前が思い出したのか」
('A`)「あぁ…」
ヒートの時と一緒だ。何をきっかけにして思い出すか分かったものじゃない。
とりあえずここが岐阜市であり、かつての一番の繁華街の柳ヶ瀬である事、それは思い出せた。
急に線路と共に現れた路面電車は名鉄岐阜市内線だ。道路の渋滞の原因とされ一方的に悪者にされて廃止になった。
邪魔な路面電車が廃止され道路が広くなる事により交通がスムーズになるかと思いきや待っていたのは街そのものの衰退だった。
市民の足だった路面電車がなくなってしまって、街は一気に廃れてしまった。
65
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 12:54:43 ID:46GSU23E0
('A`)「なぁ、あの路面電車に乗れると思うか?」
川 ゚ -゚)「乗れると思うぞ」
アスファルトに緑色のペイントがされただけの徹明町の電停から路面電車に乗る。
車内に入ると無性に懐かしいと感じた。そして小さい頃によく乗ったような気がする。
路面電車が廃止されたのは何年前だっただろうか。まだ子供だっただろうか、もう大人だっただろうか。
それでもメルサがなくなる頃にはとっくに路面電車は消えていたはずだ。
('A`)「時系列がぐちゃぐちゃだな」
路面電車に乗るうちに記憶が少しずつ蘇ってくる。
まだ路面電車が走っていて綺麗になる前の岐阜駅前。
アナログ放送時代には37チャンネルだった岐阜テレビ。
執拗なまでの買物番組に日曜昼のなんでも鑑定団の再放送。
なんでも鑑定団再放送で必ず流れる古今珍品情報流通センターのCM。
一方通行の国道二五六号線と金華山ロープウェーと岐阜城とリス村。
映画を見るために連れて行ってもらった柳津のカラフルタウン岐阜。
記憶が交差する。入り混じる。
まだ島田紳助が司会をやっていたなんでも鑑定団の再放送を見ていたのは父親のはずだ。
それなのに父親の顔がきちんと思い出せない。
66
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 12:55:38 ID:46GSU23E0
路面電車は道路と共に上り坂に差し掛かる。前方には橋が見える。
大きなアーチ橋に路面電車が入ると、ふっと外が暗くなった。
急に夜を迎えた橋の向こうでは何かが光る。
从 ゚∀从「あ、花火だ」
川の向こうに見えたのは花火だ。夜の川に大きな花火が浮かぶ。
次の電停で路面電車を降りて渡ったばかりの橋を戻る。
堤防沿いの道路は交通規制が敷かれて歩行者天国になっていた。
屋台が並び浴衣姿の人が多く歩いている。
(゚、゚トソン「花火大会のようですね」
進めば進むほど人が多くなり歩きづらくなる。花火が大きく見える。
この先に打上場があるらしい。人混みに巻き込まれながらまた大きな橋に出た。
金華橋だ、と思った。人混みに混じって記憶も混じる。
駅前から伸びて長良川に架かる三つの橋。忠節橋と金華橋と長良橋。
誰かとこの金華橋の近くで花火を見た。長良川花火大会の花火を見た。まだ幼い頃に見た。
規制された道路の真ん中を歩ける非日常感。立ち並ぶ屋台とレンタル発電機の駆動音。
リバーシブルレーンの金華橋通り。三人で見た花火。まだ家族が三人だった頃。三人。
一人は父親だ。何故か顔は出てこない。そしてもう一人は、
('A`)「かーちゃんだ…」
どうして忘れていたのだろう。どうして忘れる事が出来たのだろう。
一際大きな花火が打ち上がる。炸裂する花火と遅れて爆発音が響く。
俺は小さい頃からいつも劣等感に悩まされ続けてきた。
小学校では運動が苦手だっただけでノロマ扱いされたしよく馬鹿にされた。
64やPS2みたいなゲーム機だって家にはなかったから誰も家に来なかった。
皆がゲームボーイアドバンスで遊んでいる時もまだゲームボーイカラーだった。
中学校では部活に必ず入らなければいけないくせに運動部しかなかった。
一番運動しなくてもよさそうだと思って卓球部に入っても学年で一番下手なのは明白だった。
顧問は俺の面倒を見ようともしなかったし下級生からは笑われぞんざいな扱いをされた。
高校受験では第一志望の公立に落ちて私立に行く事になった。家からまぁまぁ近かったけどひどい高校だった。
パンフレットでは綺麗な体育館の写真が載っていたけれど新しく綺麗なのは体育館だけで校舎はボロかった。
内申点が26あれば合格出来るとネットに書かれていただけあって通っていた生徒のレベルは案の定のものだった。
陰キャラだった俺は何度かカツアゲされた事があったけど幸いにもイジメのターゲットになる事はならなかった。
高校卒業時に進学する気力はなかったけどろくな就職先もないから専門学校に進学した。
就職率の高さを謳っている学校で自分もいい会社に就職出来ると信じていたけどそれは思い違いだった。
何社何十社受けてもなかなか採用を貰えなかった。早々に内定を得て就活を終え遊ぶ同期が羨ましかった。
67
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 12:58:07 ID:46GSU23E0
俺は正当な評価を受けていない。いつからかそう思う事が多かった。
運動が出来ないだけで、足が遅いだけで、ゲーム機を持っていないだけで。
卓球が下手で下級生にも勝てないだけで、一回きりの試験に失敗しただけで、面接が苦手なだけで。
正当な評価を受けていない。下に見ている。もっと受け入れられたっていいはずだ。認められていいはずだ。
劣等感は強まるばかりだった。どうして自分だけがこんなに苦しい思いをしなければいけないのか。
それに俺は地元が好きではなかった。田舎らしい田舎、岐阜。
名古屋に遊びに行っては都会に憧れた。出来れば東京、最低でも名古屋の企業に就職したかった。
でも受からなかった。後々考えれば当たり前だ。田舎に暮らして専門学校を出ただけでそれほどの資格も持っていない。
東京や名古屋に憧れながらもたった一つの企業からも内定は貰えなかった。時間だけが経過していった。
専門学校進学時に買ってもらったスーツはいつまでも慣れなかった。まさにスーツに着られている感じだった。
ネクタイは一人では上手に結べなかった。朝に家を出る前に結んでもらってから一日触らないよう崩れないよう注意した。
いつまでも内定をくれる企業はなくクラスでも半分ほどが内定を貰ったところで方向転換をせざるを得なかった。
就職出来ないのではどうしようもなく、やむなく地元の企業も受ける事にした。そうして地元の企業からようやく内定を貰った。
一つの企業から内定を貰って、俺は燃え尽きた。就きたい職種でもなかったけどもうスーツも着たくないし履歴書も書きたくなかった。
結局クラスの四分の一は就職出来なくて卒業前に自主退学させられていた。だから就職率が高いんだと気がついた。
68
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 12:58:34 ID:46GSU23E0
俺が内定を貰ったのは地元のスーパー・マーケットだった。地元密着型の名のもとに岐阜県内にしか店舗がない。
だから県内から出る事はない。出来れば東京、最低でも名古屋と意気込んでいたのにこのザマだ。
入社してから半年は研修期間で青果や精肉、レジなど各部門を経験させられた。
次から次へ覚える事がいっぱいで頭がパンクしそうだった。
研修期間が終わるといよいよ店舗へ配属された。仕事は本当にきつかった。
拘束時間が長かった。開店時間に二時間前には行かないといけないし閉店後も仕事は山ほどある。残業がとにかく多い。
思っていた以上に肉体労働で牛乳を乗せた台車は全然動かない。バックヤードは凍えるんじゃないかというぐらい寒い。
店舗の社員数は限られているから人間関係は面倒だった。レジのパートには派閥があるしお局のババアもいた。
お局のババアとなると自分みたいな新入社員よりもよっぽど発言力があってよく指示されていたし嫌味も言われた。
大手なんかではないし給料は大して良くない。残業代もそもそも残業時間があやふやで期待出来なかった。
仕事が終わらないが故の残業は残業時間とはならなかった。それでも閉店後にあっさり帰れる日など存在しなかった。
69
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 12:59:05 ID:46GSU23E0
朝起きて会社に行き帰って寝る生活が続くようになった。寝るために家に帰っているようなものだった。
撮り溜めたアニメを消化する余裕もなかった。周回遅れになって視聴を諦めた作品も多かった。
中学生の頃にマガジンで連載されていた魔法先生ネギま!のアニメを見たのがきっかけだった。
初めて見る深夜アニメでビデオに録画した。他にも深夜アニメがあると知って録画するようになった。
極上生徒会、D.C.S.S、魔法少女リリカルなのはA’s、ローゼンメイデン・トロイメント、灼眼のシャナなど。
その年だけでそれらを見て深夜アニメにハマり順調にその道を進むようになった。
それなのにもう今期アニメを追う余裕などなかった。唯一の趣味ですら楽しむ時間はなかった。
中学生の頃はぼんやりとアニメ関係の仕事に就きたいと思っていた。
声優になってみたいしマンガを描いて自分の作品がアニメ化されれば、と妄想したりした。
でも実際のところ声は普通でぼそぼそとしか喋れないしマンガを描く画力などなかった。
自分は特に何も秀でていなかった。ただただ普通だった。長点を聞かれても見つけるのが難しかった。
スーパー・マーケットの仕事は言ってしまえば特殊な技術などいらない。
ただ計算が最低限出来て肉体労働がある程度出来ればいい。
目立った特技も技術も資格も持ち合わせていない俺にはある意味打ってつけだった。
70
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 12:59:41 ID:46GSU23E0
それでもいつからか、辞めてしまいたいと思うようになった。
朝早くに出勤する時、バックヤードで身体が冷える時、重たい台車を引っ張る時、遅くまで残業する時。
急に休んだバイトの代わりにレジに入る時、休日出勤をした時、家に帰って遅い夕食をとってからすぐ寝ないといけないと気がついた時。
辞めたいという気持ちは日に日に強くなっていた。辞めたい、辞めてしまいたい。でもせっかく入った企業だ。
でも本当は東京や名古屋に出たかった。田舎を出たかった。この会社にいても異動は県内に限られる。
でも転職なんてこのご時世に上手くいくはずがない。たった数年で辞めた人間を雇ってくれる会社なんてない。
それでも少し楽しみな事も出来た。二年目の春にレジのバイトで入ってきた女子高校生に同じ趣味の子がいた。
高校指定の鞄にキュゥべぇのキーホルダーがついているのを彼女の帰り際に見つけた。
それについて話しかけようか三日ほど考えてから思い切って話しかけた。
反応は良いものでまずキュゥべぇの魔法少女まどかマギカについて話し合った。
ちょうど自分が会社に入る間近に放送していたアニメ作品だ。
これほどアニメについて語れる女子がいるなんて、と嬉しくなった。
71
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:00:11 ID:46GSU23E0
彼女は高校二年生で近くの公立高校に通っていた。
中学半ばから深夜アニメを見るようになった。はじめは美男子系アニメから入ったという。
なんでも中二の時に戦国BASARAのアニメを見てどハマりしたらしい。
2009年はけいおん!のアニメが放送されて時代を席巻した年だった。
彼女は見た目こそとても地味だった。髪はあまり艶がなく顔立ちも良いとは言えない。
額にはニキビが出来ていてオシャレ感のない実務的なメガネをかけている。
制服のスカートは規定そのものでいつも白いソックスを履いている。
登下校にも出退勤にも使う自転車には名前が油性ペンで書かれている。
全く好みではなかった。ただ三次元での好みというのは自分でもよく分かっていなかった。
二次元での好みならすぐに挙げられるけどそれは三次元のリアルのものとは違う。
その二次元の好みのキャラクターとは違ったけど彼女の事が気になり始めた。
アニメの話をしていると楽しかった。オタクだという事は職場では秘密にしていたけど彼女には打ち明けた。
体育会系が多いスーパー・マーケットでオタク趣味などまず打ち明ける事は出来ない。
彼女とだけはそういう話が出来た。仕事の合間にアニメの話を出来るのが楽しみになった。
あの作品がいい、あそこの作画がすごい、あの監督はダメだ、あの声優の最新シングルは神だ、色んな話が出来た。
彼女がシフトに入っている日は嬉しく、彼女がシフトに入っていない日はつまらなかった。
72
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:00:41 ID:46GSU23E0
三ヶ月ほどしてからこれは恋なのでは、と気づいた。
恋をするのは初めてではない。中学生の頃に幼馴染みに、高校の頃に同じクラスの女子に。
でもそれを本人にはおろか他人に喋った事がなかった。失恋するのはとても怖かった。
そもそも恋愛感情を抱いたところでどうすればいいのかなど分からなかった。
でももう俺も社会人なんだ、と思った。今までと一緒ではいけない、と感じた。
ネットで色んな情報を収集して散々考えた挙句にアニメショップに誘おうと決意した。
外食はしないので食事に誘おうにも情報不足だしさすがにいきなり食事では敷居が高い。
それに比べてアニメショップなら自然だ。名古屋まで出なくても岐阜駅前にアニメイトもある。
そう決心してからタイミングが合わないと理由をつけて二週間ほどかかってようやく彼女にその話をした。
きっと入社試験の面接の時より緊張していた。声は上擦ったしろくに顔も見れずに足元を見て喋った。
彼女からは空いている日があれば、と言われた。じゃあ空いている日が分かったら教えて、と言って別れた。
73
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:01:18 ID:46GSU23E0
先輩社員からお前あいつの事狙ってんのか、と笑いながら肩を叩かれたのは一週間ほど経ってからだった。
俺はどうして、という思いで上手く答えられなかった。でもアニメショップに行きましょうはねぇよ、と先輩は他の先輩と笑った。
そんな事まで知られている、と唖然とした。どうして知っているんですか、とやっと訊くとお局がべらべら喋ってたよと教えてくれた。
お局とはレジのパートのお局のババアだ。社員にはそのままお局と呼ばれている。でもどうしてお局が。
狼狽えていると先輩が事の顛末を喋り始めた。あの彼女が同じバイトに俺に付きまとわれていると相談したらしい。
彼女が俺に話しかけられているのは何人のバイトに見られていたらしくすぐに話は広まった。
会計客がいない暇な時間は隣のレジとおしゃべりする事は日常茶飯事だ。そうしてバイトからパートに話が行く。
そうしてお局にも届く。パートのおばさんはとにかくおしゃべりで噂好きだしお局のババアはまさにそれらの象徴だ。
そうして社員にもその話が伝わった。俺が彼女に付きまとっている、アニメショップに誘った。
74
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:01:43 ID:46GSU23E0
俺がオタクだという事は隠している事だし彼女だけに打ち明けたのに、裏切られた気分だった。
一緒にアニメショップに行きたくないのなら断ればいいのだし何も他人に話す必要はないのに。
俺は別にそんなにオタクでは、と弁明すると何言ってんだお前見た目から完全にオタクじゃねーかと笑われた。
陰キャラ丸出しだしオタクオーラがやべーよ、アニメ見て萌え〜とか言ってるんだろ、と先輩たちで盛り上がる。
オタクであるという事はしっかり隠してきたつもりだからショックだった。見た目がそんなに悪いんだろうか。
まぁあいつもオタクって感じだよな、暗いし芋っぽいよなぁ、髪なんかボサボサだしな、女子で天パはさすがに親恨むわ〜、と先輩たちは続ける。
彼女の悪口だった。俺はただはぁと愛想笑いをするほかなかった。どうやら失恋らしかった。
仕事での唯一の楽しみがなくなって一気に気持ちが萎えた。辞めたいという気持ちが積もり続けた。
恥ずかしい思いをして先輩たち社員からもパートからもバイトからも笑われている気がした。
彼女とは話さなくなった。彼女は別に変わった様子もなく普段通りだった。自分だけが傷を負っていた。
こんな店にはいたくない、そう強く思った。棚卸しで深夜近くまで帰れなかった日にそれは決意に変わった。
75
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:16:17 ID:bJFYI/gU0
親父には言いづらく、夕食の時にかーちゃんに話した。
仕事終わりでいつも夕食は二十二時近い。毎日かーちゃんが俺のぶんだけ温め直してくれる。
('A`)「俺さ、仕事辞めようと思うんだ」
J( 'ー`)し「あぁ、そう…やっぱり仕事が辛い?」
かーちゃんは朝早く家を出て夜遅く帰ってくる俺を心配していた。
('A`)「身体が持たないよ。 一生このままなんて無理だ」
J( 'ー`)し「でも将来は店長とかチーフになるんでしょう」
('A`)「それでも今と変わらないよ。 スーパーはダメだ、どこもブラックだよ」
J( 'ー`)し「でもドクオ見てると確かにそう思うねぇ」
彼女と気まずくなったから、その話はしなかった。そんな恥ずかしい話は出来ない。
('A`)「とにかく辞めたいんだ。 ちゃんと働くから」
J( 'ー`)し「でもお父さんはいいって言うかしらね…」
76
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:17:25 ID:bJFYI/gU0
我が家のパワー・バランスは当然ながら親父が中心だった。
かーちゃんは親父に逆らう事は出来なかった。親父に歯向かうのを見た事がない。
何でも親父が言えばはいはいと従う。
J( 'ー`)し「日曜日にでも話してみたら?」
('A`)「うん」
気乗りはしなかった。俺は親父が苦手だった。
無愛想だし口数が少ないし家庭に興味を持っているのか怪しいと思っていた。
県内の中小企業で働いていて土曜日にも必ず出勤している。
週一回の休みである日曜日には寝ているか釣りに出かけている。
幼い頃からどこかに連れて行ってもらった記憶があまりない。勿論家族旅行など一度もなかった。
中学生ぐらいの時から元々少なかった会話が殆どなくなった。
今は俺が朝早く夜遅い事も相まって最後にいつ喋ったかですら思い出せない。
日曜日に親父はいつも通りぎふチャンでなんでも鑑定団の再放送を見ていた。
('A`)「あのさ」
(´・_ゝ・`)「ん」
CMの間に話しかけたのにひどく素っ気ない返事に感じられた。
('A`)「俺さ、仕事辞めようと思うんだよね」
77
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:18:23 ID:bJFYI/gU0
ようやく親父が振り返る。
中太りで髪も薄くなってきている。こんなに老けていたっけ、と思った。
(´・_ゝ・`)「なんで」
('A`)「勤務が辛すぎるんだ。 朝は早いし夜は遅い。 身体が持たないんだ」
(´・_ゝ・`)「はじめはみんなそんなもんだろ」
('A`)「幾つになったって変わらないんだ。 スーパーはどこもそうなんだ。 業界がダメなんだよ」
(´・_ゝ・`)「選んだのはお前だろ」
('A`)「だから失敗したんだ。 どこでもいいから内定って思ってたからスーパーでも大丈夫って思った。 けど違ったんだ」
(´・_ゝ・`)「辞めてどうするんだ、転職なんて今は無理だろ」
('A`)「探すよ、バイトしてでも探す。 とにかく今のままじゃダメだ」
(´・_ゝ・`)「無理に決まっているだろ。 馬鹿な事を言うな」
78
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:18:52 ID:bJFYI/gU0
CMが明けて親父はテレビに視線を戻した。話は終わり、という意思表示のようだった。
親父には俺がどれだけ苦しみ悩んでいるか分からないのだ。無関心なのだ。腹ただしく、悔しかった。
どうして一人息子の将来を案じる事が出来ないのか。真剣に考えようとしないのか。
俺は決心した。もう成年なのだし社会人なのだし自分で生き方ぐらい決められる。
翌週辞表を提出した。居心地の悪い職場と別れられる事にとてつもない開放感があった。
アニメショップに行きましょうとからかう先輩たち社員やバイトの女の子に手を出しちゃダメだヨとわざわざ言ってくるお局のババアを見なくても済む。
あれ以来自分から話しかけようともしない根暗の彼女の顔を見なくても済む。
先行きの不安などなく清々しい開放感ばかりが占めていた。
79
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:19:24 ID:bJFYI/gU0
かーちゃんに報告するとじゃあ転職頑張らなきゃね、と発破をかけてくれた。
親父に言うとそうか、とだけ言って中日新聞に視線を戻した。
一人息子の転職という大きなイベントよりスポーツ面の方が大事らしかった。
転職は難しかった。ハローワークなんてところには行きたくなくて転職サイトで探した。
ことごとく書類審査で落ちた。あのスーパー・マーケットには一年半しか勤めていなかったのが大きなマイナスポイントらしかった。
俺は専門学校まで行ったにも関わらず取得した資格がとても少ない。新卒採用時になかなか内定がもらえずにそれは痛感している。
あっという間に失業保険の降りる九十日を過ぎてしまった。焦らなくてもいいんだよとかーちゃんは言ってくれたけどさすがに焦る。
転職活動を続けながらもとりあえず無収入を避けるためにバイトを始めた。自宅マンション近くのサークルKだ。
レジも発注もやっていたし覚えやすいと思った。でもコンビニエンス・ストアとスーパー・マーケットでは勝手が違う。
主婦が大多数を占めるスーパー・マーケットとは違いコンビニエンス・ストアの客層は老若男女に散らばる。
客はひっきりなしに来るし信じられないほどに頭の悪い客も多い。接客業がいかにストレスの溜まる職種かよく分かる。
また仕事を教えるはずの先輩バイトのフィリピン人は要領を得ずこれにもやる気を大いに削がれた。
バイトだしスーパー・マーケットに辞表を出す時とは比べ物もならないほどあっさりと辞めた。
80
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:19:49 ID:bJFYI/gU0
それ以外にも居酒屋やファミリー・レストラン、ファストフード店など飲食店のバイトも試したがどれも長続きしなかった。
飲食店は向いていないと強く思った。特に居酒屋はダメだ。店舗に店長である正社員は一人しかいなくて他はバイトだ。
店長である正社員は自分以外の店長代理を任せられるバイトを育てられないと休みが取れないから必死だった。
一ヶ月以上の連続出勤で情緒不安定になりバイトにとにかく当たり散らした。客の前でも平気でバイトを叱責した。
体育会系ばかりでとても俺がいるところではないと思った。
そうこうしている内にスーパー・マーケットを辞めてあっという間に二年が経っていた。
転職活動をしていると公言しつつもたまに転職サイトを眺めるぐらいだ。まとめサイトを見ていた方がよっぽど楽しい。
自分でも今はフリーターを言われても仕方ないな、という諦めはあった。
81
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:20:41 ID:bJFYI/gU0
そんな頃、急に親父に話があると言われた。土曜日にバイトから帰ってきたところだった。
親父から話しかけてくるだけでも珍しいのに話がある、というのは本当に珍しい事だった。
自分が転職活動をしていると言いつつもフリーターが長い事についてだろうか。
(´・_ゝ・`)「座れ」
リビングには親父とかーちゃんが先に座っていた。
三人で座るなんていつぶりだろう。
(´・_ゝ・`)「離婚する事になった」
座った途端に親父がそう告げた。
('A`)「は…?」
意味が分からなかった。理解出来なかった。頭が追いつかなかった。
かーちゃんは黙って俯いていた。
(;'A`)「え…嘘だろ?」
(´・_ゝ・`)「嘘じゃない。 離婚する」
82
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:21:48 ID:bJFYI/gU0
(;'A`)「な…なんで」
俺が正社員を勝手に辞めたからか?
転職活動をすると言いつつも長くフリーターを続けているからか?
それらで二人の意見が割れて揉めたのか?
幾つも頭に浮かんだ。でも違った。
(´・_ゝ・`)「俺にはもう一つ家庭がある」
(;'A`)「…は?」
本当に意味が分からなかった。
かーちゃんを見るとやはり黙ったまま俯いていた。
(;'A`)「どういう意味だよ?」
(´・_ゝ・`)「そのままだ。 俺にはもう一つ家庭がある。 嫁にしたい女と子供がいる」
(;'A`)「はぁ…?」
(´・_ゝ・`)「見るか」
スマートフォンを差し出された。写真が表示されていた。
親父と知らない女と知らない子供だった。
女は三十代半ばといったところ。子供はまだ幼児だ。
83
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:23:10 ID:bJFYI/gU0
(´・_ゝ・`)「これがもう一つの家庭だ」
それはまさに家族写真らしい家族写真だった。そう認めざるを得なかった。
それに親父は笑っていた。こんな風に笑う人だったか、と思った。
それくらい長い事親父の笑った顔を見ていないと思った。
(´・_ゝ・`)「それでな、俺はこっちを本当の家庭にしようと思う」
('A`)「本当の家庭…?」
(´・_ゝ・`)「分からないか」
親父はスマートフォンをしまった。
(´・_ゝ・`)「母さんとは別れる。 お前は俺の子供ではなくなる。
俺はこの人と結婚する。 この子が俺の子供だ」
この人、と写真の知らない女を指差した。この子、と写真の知らない子供を指差した。
(;'A`)「な…何言ってんだよ」
(´・_ゝ・`)「もう決まった事だ」
(;'A`)「そんな、俺たちはどうなる? 俺とかーちゃんは」
(´・_ゝ・`)「もういい」
もういい。その言葉が重くのしかかった。もういい。
84
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:24:34 ID:bJFYI/gU0
(;'A`)「だって、それは浮気してたって事じゃねーかよ、いつの間に」
(´・_ゝ・`)「毎週土曜日は向こうの家庭で過ごす日でな」
毎週土曜日。土曜日も仕事に出かけていた。
日曜日はなんでも鑑定団の再放送を見るか寝るか釣りに出かけていた。
(;'A`)「い、いつから」
(´・_ゝ・`)「五年ぐらい前だな」
五年、言葉を失う。五年も前から。五年もの間。俺が専門学生の頃から。
(;'A`)「お、おかしいだろ、かーちゃんもなんか言えよ!?」
J( 'ー`)し「そうねぇ」
かーちゃんがようやく顔をあげた。
J( 'ー`)し「もう、どうしようもない、かねぇ」
(;'A`)「なんで諦めてんだよ!?」
(´・_ゝ・`)「母さんとはもう話し合ったんだ。 答えは出ている。 このマンションのローンはきちんと払う」
85
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:26:26 ID:bJFYI/gU0
(;'A`)「そんな…」
かーちゃんはいつだって親父の言う事に従ってきた。言いなりだった。今回だってきっとそうだ。
(;'A`)「それに俺だってまだ二十四だぞ」
(´・_ゝ・`)「もう立派な社会人だろう。 自立するんだな」
(;'A`)「そんな、あまりにも勝手すぎるだろ! 家庭を築いておいて、途中で放り投げるなんて」
はぁ、と大きく親父はため息をついた。心底面倒くさいといった様子で。
(´・_ゝ・`)「失敗だったんだよ」
('A`)「失敗?」
(´・_ゝ・`)「本当は家庭を築くつもりなんてなかったさ」
('A`)「なら今からでも」
(´・_ゝ・`)「違う、ここ、うちだ、この家庭を築くつもりなんてなかった」
('A`)「はぁ…?」
(´・_ゝ・`)「今風に言うとできちゃった婚か、なぁ母さん」
かーちゃんはまた俯いたまま黙っていた。
(´・_ゝ・`)「お前はできちゃった婚で生まれちまったんだよ。 堕ろせって言ったのに母さんそういうところは強情でなぁ」
堕ろせ? 俺を? 俺を堕ろせ?
86
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:27:08 ID:bJFYI/gU0
(´・_ゝ・`)「世間体もあるし仕方なく結婚したんだよ。 今思えば無理にでも堕ろさせれば良かった。 あの頃に戻ってやり直してぇなぁ」
言葉が見つからなかった。浮気をして、俺とかーちゃんを捨てて、これほど堂々としている。
罪悪感というのがまるで感じられない。そして俺はもはや存在意義すら問われている。
(´・_ゝ・`)「あぁ、因みにさっきのあの子、あれは俺の子だ。 あれで決心がついた。 子供ってのはかわいいな」
親父が立ち上がる。話はもう終わりといった顔で長く息を吐いた。
(´・_ゝ・`)「お前には期待してなかったよ」
無愛想だし口数が少ないし家庭に興味を持っているのか怪しいと思っていた。
でも本当に興味がなかった。親父にとってここは本当の家庭ではなかった。ここは社会的な家庭の方で、本当の家庭は写真の向こうにあった。
程なくして親父とかーちゃんの離婚は成立して親父は家を出ていった。
元々それほど物の多い人間ではなくそれほど荷物は減らなかった。
服や釣り具、そして駐車場から親父の通勤用のトヨタ・イプサムがいなくなった。
87
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:28:27 ID:bJFYI/gU0
口座引き落としの自宅マンションのローンはつつがなく支払われた。
それでも一家の大黒柱を失った事には変わりなく家計は一気に苦しくなった。
もっと稼げるバイトにしたかったものの自分に向いている仕事はなかなか見つからなかった。
J( 'ー`)し「ごめんね、こんな事になって」
夕食時にかーちゃんがぽつりとそう言った。
('A`)「かーちゃんが謝る必要はないよ、あいつが悪いんじゃないか」
J( 'ー`)し「でもかーちゃんがしっかりしていればこんな事にはねぇ」
('A`)「全部あいつが身勝手なのが悪いんだ」
J( 'ー`)し「ドクオは優しい子だねぇ」
かーちゃんがパートをしているコメダ珈琲は七時から二十三時まで営業している。
親父はもういないし俺もバイトに出ている事が多いから夕食の準備が必要なくなりかーちゃんは閉店までシフトに入るようになった。
帰ってくるのは二十四時に近い時もある。それでもかーちゃんは疲れた顔もせずに洗濯を始める。
本当は俺もそういうのを手伝うべきなのだろうと思っていたけど自分で料理や掃除や洗濯をした経験はなかった。
88
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:29:10 ID:bJFYI/gU0
それから数ヶ月後に不注意で俺は怪我をした。酒に酔った帰りに電柱を蹴り飛ばして右足を負傷してしまった。
翌日目覚めると右足親指がとても痛い事に気がつき見ると内出血で紫色に変色していた。
バイトを休んでかーちゃんにタクシーで病院に連れて行ってもらった。こういう時に車がないと不便だ。
結果は右足親指の骨折で全治一ヶ月だった。石膏のギプスを作ってもらって包帯をぐるぐるに巻かれた。
松葉杖なしでも歩けるけど仕事は出来ない。
J( 'ー`)し「仕方ないねぇ、仕事は休みなさいね」
('A`)「まぁこの足じゃそうだよな…」
J( 'ー`)し「ゆっくり治しなさいね、無理に動かすと長引いたり変なふうにくっついたりするんだから」
幸いにも今のカラオケ店のバイトは客も店員もパリピでいい加減うんざりしていたので辞めた。
一ヶ月の休養に入る事とした。バイトをとっかえひっかえ、ずっと働いてきたしたまにはゆっくり休むのも悪くないだろう。
まるで学生の頃の夏休みみたいだと思った。
89
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:29:50 ID:bJFYI/gU0
せっかくなのだし、と溜まっていたアニメの消化に取り掛かった。
スーパー・マーケットの正社員時代と比べればある程度は時間に余裕があるものの、今期の視聴作品数は昔と比べると随分と少ない。
それに忙しくて見られなかった時期のアニメ作品の中にも話題になった作品があっていつか見たいと思っていた。
いい機会なのでそれを一気に消化しようと思った。ブルーレイ・ディスクに録画した作品を消化して録画していなかった作品はネットで見た。
ゲームも買ったまま積んでいくばかりだった。それらの消化に取り掛かった。
また朝早くに起きる必要がなくなり就寝時間もずるずると遅くなっていった。典型的な夜型になりつつあった。
とはいえかーちゃんが帰ってくるのは最近ではすっかり二十四時が基本になったしその時間で夕食にすると都合がいい。
昼間は近くのコンビニなどに買いに行った。たまに買い物がしたくなればバスで岐阜駅に出る。名古屋まで出る事もあった。
かーちゃんはパートで出ているので家には自分一人、本当に学生時代の夏休みにようだった。
学生の時と比べると働いているので金があるということだ。食べたい時に好きなものを買った。
起きたい時間に起きて食べたい時間に食べて寝たい時間に寝る。最高の時間だった。
面倒なマニュアルもない。小言しか言わない店長もいない。全く意味のない伝統もない。
ろくに意思疎通も出来ないフィリピン人もいない。体育会系の先輩もいない。
タバコの番号すら言えない馬鹿な客もいない。バイトを怒鳴り散らすブラック社員もいない。
最高だった。ずっとこのままでもいいと思った。
90
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:30:36 ID:bJFYI/gU0
足は一ヶ月ほどで直った。レントゲンを撮るとしっかりとくっついていた。
休む名目はなくなった。でももう朝に起きる事は出来なくなっていたしまだ未プレイのゲームが積まれていた。
もう少し休みたい、と俺は言った。
('A`)「疲れちゃったんだ。 あいつの事とか、職場の事で」
J( 'ー`)し「そう…仕方ないよねぇ、ずっと働いてたもんねぇ」
('A`)「だから、ちょっと休むよ」
J( 'ー`)し「うん、休むといいよ」
人間は楽な方へだらだら堕ちていくものだ。
病院で完治しましたと言われてから更なる休養を決めて一週間が過ぎ、一ヶ月が過ぎ、半年が過ぎた。
休養生活に身体はすっかり慣れていた。四時頃に寝て十四時に起きる。アニメもリアルタイム視聴が可能となった。
気に入った作品は原作を購入した。積んでいたり前々から興味のあったゲーム消化も進んだ。
一年が過ぎるとさすがに貯蓄がなくなってきた。かーちゃんに毎月少しずつ貰うようになった。
一時的援助だと言うとそうだねとかーちゃんは笑った。
91
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:31:08 ID:bJFYI/gU0
しかし自分でも稼ぎたいのは当然である。稼ぐ方法を幾つか思案した。
アニメ作品の感想などで構成されるまとめサイトを作ってはどうかと考えた。いわゆるアフィリエイトサイトだ。
広告収入で稼ぐ事が出来るし俺は元々アニメ作品の感想を回ごとにTwitterにアップするほど几帳面に更新が出来る。
しかしサイト作りは思いの外難しいらし断念せざるを得なかった。プログラミングに関する知識が足りていない事を痛感した。
ゲームのプレイ動画の実況を行う事も視野に入れ、名古屋に出て品定めを行った結果ヘッドセットを購入した。
流行りのゲームで幾つか実況動画を作成編集しニコニコ動画にアップロードした。
しかし再生回数はどれも百すら越える事はなかった。コメントも動画一つにつき二、三件だった。
YouTubeにもアップロードを行ったが再生回数は二、三十ほどだった。一ヶ月ほど続けたが増える様子はなかった。
上手くいかないものだ、と思った。皆俺の事を見ていない。正当に評価していない。
これまでの人生で何度も感じてきた劣等感だ。俺はやはり正当な評価を受けていない。
ゲーム機を持っていないだけで、運動が出来ないだけで、一回きりの試験の得点が良くなかっただけで。
俺は正当な評価を受けていない。不当な扱いを受けている。我慢こそしているものの許しがたい事態ではないだろうか。
92
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:31:36 ID:bJFYI/gU0
俺は恨んだ。正当な評価をしない社会を。正当な評価の出来ない人間たちを。
俺を認めなかった同級生たちを。俺を落とした企業の人事担当者を。俺を笑い者にした先輩社員たちを。
俺を蔑ろにしたレジバイトの彼女を。俺の噂話を喜々として振りまいたパートのお局のババアを。
俺にろくに教える事の出来ないフィリピン人のバイトを。俺に怒鳴り散らしてストレス発散をするブラック社員を。
俺を本当は堕ろしたかったと言い切った親父を。
社会が悪い。俺は社会の被害者だ。
あんまりじゃないか。これまで社会に虐げられてきた。あんまりだ。
出来れば東京、最低でも名古屋に出たいという夢もあった。
好きなアニメ作品に関わるような仕事もしたいという夢もあった。
それなのに俺は社会に虐げられている。圧倒的弱者だ。骨折もして休養せざるを得なくなっている。
俺は被害者だ。
93
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:33:01 ID:bJFYI/gU0
休養期間に入ってから数年が経った。だらだらと過ごしただけなのにあっという間だった。
結局何かをした訳でもない、本当にただアニメを見てゲームをしただけだった。
何かをなす事もなく時間だけが過ぎていった。当然ながら途中で貯金も尽きた。
その話をするといつか返してくれればいいよとかーちゃんは金を貸してくれた。
J( 'ー`)し「ドクオには辛い思いをさせたからねぇ」
また新たに一万円札を手渡しながらかーちゃんは言った。
J( 'ー`)し「私がもう少ししっかりしていればねぇ」
('A`)「しっかりしていても変わらなかっただろ」
俺はプレイ中のゲームがどうにもこうにも攻略出来ず二時間ほど八方塞がりの状態でイライラしていた。
('A`)「かーちゃんは昔からあいつの言いなりだったじゃねーかよ。
あいつもクズだけどかーちゃんが何も言わなかったのがあいつをつけあがらせたんだよ」
J( 'ー`)し「そうかねぇ…」
('A`)「そうだよ」
俺は手元だけを見ていてかーちゃんの顔を見ていなかった。
94
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:33:46 ID:bJFYI/gU0
('A`)「かーちゃんはあいつの奴隷みたいなものだったよ。 捨てられる時も」
返事はなかった。俺は鼻を鳴らした。
('A`)「俺さ、たまに思うんだよ。 なんで俺って生まれてきたんだろうって」
J( 'ー`)し「え…」
('A`)「生まれてきたのに歓迎されなかった訳だろ。 どうして生まれてきたんだろうって思うんだ」
J( 'ー`)し「あの人は仮にそうだったとしても…私は嬉しかったんだよぉ、ドクオが生まれてきてくれて」
('A`)「どうだか」
俺は最後までかーちゃんの顔を見なかった。かーちゃんはどんな顔をしていただろうか。
その時の俺は一万円札の使い道について考えていただけだった。
95
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:34:48 ID:bJFYI/gU0
その次の日、俺はいつもより少し早く十三時ぐらいに目が覚めた。
正確には電話の音で目が覚めてしまった。いつから鳴っているのか、ずっと鳴り続けていた。
固定電話などほぼかーちゃん宛てにしかかかってこない。時折離婚した事を知らずにあいつ宛てにかかってくる。
この時間ではかーちゃんはパートに出ているので当然出ないし俺は電話が嫌いなのでまず出る事はない。
それなのに電話は諦めが悪くずっと鳴っていた。何度もかけ直してきていた。
あまりのしつこさにコードを引っこ抜いてやろうと思ったけど、不気味なものも感じていた。
ここまで執拗にかけてくるというのはよっぽどの用事があるのだろう。
それこそかーちゃんの親戚に何か異常時でもあったか。でもかーちゃんの両親はとっくに亡くなり兄がいるだけだ。
('A`)「めんどくせ…」
誰かが危篤でかーちゃんに電話をかけたけど勤務中はであるため携帯電話はきっとロッカーの中だろう。
繋がらないので家の固定電話にかけてきている、その可能性もあるなと思った。
面倒だな、とつくづく思ったもののあまりにもしつこいので仕方なく出る事にした。
96
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:35:30 ID:bJFYI/gU0
('A`)「もしもし」
あ、もしもし!?と電話の向こうの誰かが半ば怒鳴るように答えた。
かーちゃんのパート先の社員だった。まくし立てるように社員は告げた。
『今日どうされたんですか? 出勤されてないんですけど、欠勤するならそう連絡を下さい』
('A`)「出勤してない?」
『そうですよ、七時からシフトに入っているのに、本当に困りますよ』
('A`)「えっと、ちょっと分かんないです、携帯に連絡してみます」
『こっちからも携帯にかけてるんですけど繋がりませんよ! お願いしますよ』
うるさいなと思いつつ電話を切る。
どうしてかーちゃんは出勤していないんだろう。この自宅マンションからパート先までは自転車で数分と近い。
途中で事故にあったというのも考え辛い。とりあえず電話してみるか、と携帯電話からかーちゃんにかける事にする。
かーちゃんに電話をかける事なんて普段はないので着信履歴にすら残っておらずアドレス帳から呼び出す必要があった。
電話をかける。コール音がする。しかし同時に別の音がする。振動音だ。
振動音。俺は顔を上げた。振動音はかーちゃんの部屋から聞こえた。
('A`)「おいおいマジかよ」
97
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:36:19 ID:bJFYI/gU0
まさか今の時間まで寝過ごしたのか? アホすぎる。もう十三時半だ。
それか携帯電話だけ部屋に忘れただけかもな、と思いつつかーちゃんの部屋のドアを開けた。
かーちゃんは寝間着のまま寝ていた。本当に寝ていた、と思って携帯電話の通話発信をやめた。
こんな時間まで寝過ごすなんてと呆れた。社員さんカンカンだぞ、と起こさなければいけない。
目の前まで来てかーちゃんが布団の中ではなく布団の上で寝ている事に気がついた。
しかも普段と逆側に寝ていて枕が足元にある。なんだかおかしい。
('A`)「かーちゃん」
身体を揺すってみた。それでも起きない。
('A`)「かーちゃんってば」
無理に身体を起こさせた。そして俺は異変に気がついた。
かーちゃんの目は開かれていた。それでも微動だにしない。
口からは泡を吹いたのか布団に垂れていた。
('A`)「は…?」
98
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:36:59 ID:bJFYI/gU0
意味が分からなかった。
何度か揺り動かしてもかーちゃんは起きなかった。
目を開けて泡を吹いたまま動かなかった。
俺はそこでようやく気づいた。寝ているのではない。倒れている。
かーちゃんが倒れている。意識がない。
(;'A`)「え、ええっ、嘘だろ」
救急車、救急車を呼ばないと。
気が動転していて携帯電話を持っているのに固定電話まで走った。
110と119、一瞬迷って119にダイヤルする。火事ですか、救急ですか、と訊かれてかーちゃんが倒れているんですと叫んだ。
七分後には通報を受けた救急車が急行して自宅マンション下に着いた。救急隊員により速やかにかーちゃんは運ばれていく。
俺も救急車に乗った。様々な措置が施されていた。心筋梗塞、と聞こえた。聞いた事はあったけどそのような症状か分からなかった。
倒れてからどれほど時間が経っているのか訊かれたけど分からないと首を振った。
病院に着くと救急救命センター入口と書かれた赤い看板がある部屋にかーちゃんは運ばれていく。
俺は室外の椅子で待つよう言われた。スウェットのまま出てきたので居心地が悪かった。
暫くしてから電話をしなければ、と思った。幸いにもかーちゃんの携帯電話も持ってきていた。
外に出てかーちゃんのガラケー携帯電話を開くとパート先から職場から恐ろしいほどの着信が来ていた。
かけ直すと先程の社員が出た。
('A`)「あ、さっき電話もらった息子ですけど」
99
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:37:39 ID:bJFYI/gU0
『息子さん!? それで本人は!?』
('A`)「あの、それが、倒れていたんです」
『はぁ? 倒れていた?』
('A`)「今病院なんですけど、なんか救急車の人は心筋梗塞だとか言ってました」
『心筋梗塞』
突然社員の声が固くなった。
『分かりました、また何か分かったら連絡を下さい』
('A`)「はぁ…」
電話を切ってから、かーちゃんの親戚にも連絡した方がいいだろうと思った。
両親はもういないけどかーちゃんの兄、フィレンクトさんがかーちゃんの生まれ故郷の旧高富町に住んでいる。
かーちゃんのアドレス帳にはちゃんと連絡先が保存されていた。かーちゃんの携帯電話も持ってきたのは正解だった。
フィレンクトさんは地元で医者をやっている。凄腕らしく有名医者らしい。しかし医者とは思えないほど口が悪くて正直苦手だった。
昼間に出るだろうか、と心配したけど五コールで出た。
100
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:38:24 ID:bJFYI/gU0
『おう、どうした』
('A`)「あ、フィレンクトさん、俺ドクオです」
『ドクオか、あいつの携帯からどうしたんだ』
('A`)「あの、それが、さっきかーちゃんが倒れて」
『倒れた? 今病院か?』
('A`)「はい、病院の救急救命センターってところです」
『症状は? 何で倒れたか分かるか?』
('A`)「救急車の人は、心筋梗塞だとか…」
『心筋梗塞だと!』
フィレンクトさんが叫んだ。
『すぐ行く、病院を教えろ』
病院名を告げるとフィレンクトさんは返事もせず電話を切った。
101
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:39:48 ID:bJFYI/gU0
フィレンクトさんはものの二十分ほどで病院に着いた。車で飛ばしてきたらしい。
数年ぶりに会うものの何の感慨もなかった。
(‘_L’)「経緯を教えろ」
('A`)「えっと、かーちゃんのパート先から電話が来てて、かーちゃんが出勤していないし携帯も繋がらないって」
(‘_L’)「何時だ」
('A`)「十三時過ぎだよ」
(‘_L’)「それで」
('A`)「俺もかーちゃんの携帯にかけてみたんだ。 そしたら部屋からバイブ音が聞こえて、見に行ったらかーちゃんが倒れていた」
(‘_L’)「あいつは何時に出勤する予定だったんだ」
('A`)「えっと、七時開店でいつもは六時半より前に着くようにしている。 五時半ぐらいに起きるらしいから」
(‘_L’)「なに、じゃあ少なくとも六時台に倒れていたんじゃないか! それで発見が十三時だと!?」
ようやく俺は理解する。布団の上で倒れていたのは、かーちゃんは起きてからきっとすぐに倒れたのだ。
102
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:40:49 ID:bJFYI/gU0
(‘_L’)「お前が電話に出たんだな? じゃあお前は今日ずっと家にいたのか」
('A`)「うん…」
(‘_L’)「何してたんだ? 気づかなかったのか?」
('A`)「ずっと寝ていたから…電話がずっと鳴ってたから起きたんだ」
正直に話すとフィレンクトさんは怪訝そうに俺を見た。
(‘_L’)「お前いま何やっとるんだ? スーパーを辞めたとはあいつに聞いたが」
('A`)「えっと、転職で…でも転職がうまいこと決まらないから今は暫定的にフリーターみたいな感じ、かな…」
もう転職サイトを見なくなって何年経っただろう。自覚はあったものの、自分はニートだとは言いたくなかった。
(‘_L’)「ふん、フリーターねぇ」
呆れたようにフィレンクトさんは俺を見た。
かーちゃんが正直に俺の近況について話したらフィレンクトさんに怒られるだろうと思った。
103
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:42:45 ID:bJFYI/gU0
でもその心配は必要なかった。かーちゃんはもう目を覚まさなかった。
死因は心疾患、急性心筋梗塞だった。後々分かったのが過労死だったという事だ。
かーちゃんはここ最近毎日のように七時から二十三時までのシフトに入っていた。
さすがに働きすぎだと同僚から窘められたそうだが構わないのだと聞く耳を持たなかったという。
かーちゃんは二十四時ぐらいに帰ってきてから夕食を作っていた。
夕食後に洗濯機を回してその間に前日に干した洗濯物を取り込み畳んでアイロンをかけていた。
洗濯が終わった洗濯物を干してから風呂に入り眠る。五時半には起きて朝食を作り化粧をして出勤していた。
フィレンクトさんに正直に話すと数発殴られた。かーちゃんはともかくあいつにも殴られた事がなかったのでびっくりした。
話すうちに齟齬があって働いていない事も認めざるを得なかった。
フィレンクトさんが葬儀の手続きをした。
俺はその間どうして良いか分からず帰ってきた自宅マンションで立ち尽くしていた。
(‘_L’)「なんだお前、喪服の準備ぐらいしておけ!」
(;'A`)「も、喪服って…」
(‘_L’)「喪服も分からねーのか! 本当にあいつの旦那はクズだったがお前もどうしようもねえな」
違う、俺はあいつとは違う、そう言いたかった。でも言い返せなかった。
104
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:44:09 ID:bJFYI/gU0
葬儀はあっという間に終わった。ドラマで見るような光景だった。あいつは来なかったし呼ばなかった。
焼香の時に誰もが同情の念をこめて俺を見た。かーちゃんが離婚してあいつに捨てられたのを知っていた。
そして今度は俺一人だけ残される事を憐れんでいた。俺が働いていなかった事までは知らなかった。
火葬場でかーちゃんは焼かれて言われるがまま俺は骨を拾った。骨は脆く木製の大きな箸で慎重に掴まなければならなかった。
骨壷にどんどん骨が収められた。こんな小さな骨壷にかーちゃんの全てが入るのだと思った。
かーちゃんの骨は生まれ故郷の旧高富町の一族の墓に入る事になった。
(‘_L’)「お前はどうするんだ」
全てが終わってから最後にフィレンクトさんは俺を自宅マンションに送り届けた。
(‘_L’)「これからどうするつもりなんだ」
(;'A`)「お、俺は…その…」
(‘_L’)「自分で決めろよ。 お前は本来もう一人前の大人なんだ。 自分の身の振り方ぐらい自分で決めろ」
そう言ってフィレンクトさんは帰っていった。自宅マンションに俺だけが残された。静かだった。
105
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:45:01 ID:bJFYI/gU0
絶望感しかなかった。
あれだけ熱心に見ていたアニメもあれだけ夢中でプレイしたゲームも気にならなかった。
あれほど俺の中に巣食っていた劣等感はどこかに消え失せてしまった。
社会に対する怨みも姿を潜めた。あいつに対する怒りの火も消えてしまっていた。
ただただ絶望感しかなかった。俺のせいだ。ようやく気づいた。俺のせいでかーちゃんは死んだ。
これからどうやって生きていけばいいのだろう。俺は何も出来ない。
寂れた地元を出て出来れば東京最低でも名古屋に住みたいと思っていたのに俺は一人では何も出来ない。
食事も作れないし洗濯も出来ないし掃除も出来ない。何も出来ないのだ。資格だって持ってないし技術もないし家事も出来ない。
ふとかーちゃんとの最後の会話を思い出した。
かーちゃんは昔からあいつの言いなりだったじゃねーかよ。
あいつもクズだけどかーちゃんが何も言わなかったのがあいつをつけあがらせたんだよ。
かーちゃんはあいつの奴隷みたいなものだったよ。 捨てられる時も。
俺さ、たまに思うんだよ。 なんで俺って生まれてきたんだろうって。
生まれてきたのに歓迎されなかった訳だろ。 どうして生まれてきたんだろうって思うんだ。
106
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:46:41 ID:bJFYI/gU0
気がつけば俺は泣いていた。なんであんな事を言ったのだろう。
俺はかーちゃんが憎かった訳じゃあない。俺を正当に評価しない社会が憎かった。俺を捨てたあいつが、親父が憎かった。
かーちゃんはいつも俺を助けてくれていた。そんな当たり前の事は分かっていた。でもかーちゃんがいるのは当然の日常だった。
かーちゃんが食事を作ってくれるのも洗濯してくれるのも掃除してくれるのもお小遣いをくれるのも当たり前でありがたいとは思わなかった。
誕生日や母の日に何かをやった事もない。でももう取り返しがつかない。もう全てが遅い。かーちゃんはもういない。
ただやり場のない怒りをかーちゃんにぶつけてしまった。そのままかーちゃんは死んでしまった。
どうしてあんな事を言ったのだろう。
どうして顔も見なかったのだろう。
どんな顔をしていたのだろう。
あんな事を言いたかったんじゃない。
かーちゃんに会いたい。
かーちゃんに会って謝りたい。
生んでくれてありがとうと言いたい。
自宅マンションの窓を開ける。
ベランダから下を見下ろす。
かーちゃんに会えるだろうか。
俺は、俺はただ、
(;A;)「かーちゃんに、謝りたかっただけなんだ…」
かーちゃんと見た長良川花火大会の花火が涙で霞む。
かーちゃんと行ったメルサ跡地に出来たドン・キホーテが霞む。
かーちゃんに何度も乗せてもらった路面電車が霞む。
(;A;)「俺はただ、かーちゃんに謝りたかった…」
107
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 13:48:02 ID:bJFYI/gU0
身体が消え始めていた。
( A )「悪いな…俺、しょうもないクズだったわ…」
トソン、ハインリッヒ、クー。そしてヒート。
この銀河鉄道での時間は楽しかった。
ハインリッヒめ、お前の俺に対する第一印象は殆ど合っていた訳だ。
川 ゚ -゚)「さようなら、ドクオ」
( A )「あぁ、じゃあな」
三人の姿が見えなくなった。俺は消えていく。
死後の世界の天国か地獄があるかなんて分からない。
俺みたいなクズはきっと天国には行けないだろう。
でもあの銀河鉄道から見えた銀河でかーちゃんに会えたなら。
俺はかーちゃんに謝りたい。銀河のどこかで会えたなら。
108
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 14:01:01 ID:ZNRWjZ6.0
キッっっっつ…
109
:
名無しさん
:2017/08/22(火) 14:22:42 ID:kSqC/Emg0
2人とも救われない…
110
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 14:44:31 ID:5RxNQgt.0
4 銀河の果て
111
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 14:45:18 ID:5RxNQgt.0
(゚、゚トソン「銀河の果てはあるのでしょうか」
いつかクーにそう訊いた事があります。
窓の外いっぱいに銀河が広がっていました。
(゚、゚トソン「線路には必ず終わりがあるものです。 この銀河はどうなのでしょう」
銀河鉄道の線路はまるでどこまでも続いているかのようです。
終着駅などないかのように街から街へ走り続けています。
どのような山や海沿いを走っていても必ず集落があります。人の営みがあります。
どのような場所にもその家々は闇夜に明かりを灯していてこの銀河を構成しているのです。
川 ゚ -゚)「どうだろう。 終わりはあるのかな」
銀河鉄道に長く乗っていたクーですら終着駅というのは見た事がないようでした。
わたしが銀河鉄道に乗り込んだ時にいた人はもうクーだけになりました。
その頃のクーは先代の車掌長からその任を引き継いだばかりでした。
車掌長というのは長い間銀河鉄道に乗っている人が代々受け継いでいるものだそうです。
わたしももう恐らく一ヶ月半ほど乗っていて、クーの車掌長の仕事を手伝ったりする事もありました。
手伝える仕事というのは寝台車のベッドメイキングや掃除など。
もしクーが旅を終えるようならば、わたしが車掌長を引き継ごうとも思っていました。
クーとの付き合いは長く今では友人も同然なのです。
112
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 14:46:00 ID:5RxNQgt.0
今はクーとハインリッヒさん、そしてわたしの三人だけになりました。
ヒートさんが旅を終えた時のハインリッヒさんはとても悲しそうでした。
それでもドクオさんの時にはしっかりと見届けていました。
この銀河鉄道に乗車しているのはみんな何らかの理由で死んだ人で、しかも良くない死に方をしているのです。
不慮の事故であったり、誰かに殺されたり。ドクオさんの場合は強い思い残しを抱いたままの自殺でした。
ハインリッヒさんは銀河鉄道に乗ってから初めて訪れた街で少しばかりの記憶を取り戻しましたがそれきりでした。
クーは未だ何も、と首を振ります。わたしも自分の事で思い出した事はまだありません。
ただ海を見ると何故か懐かしい思いをするのです。わたしは海の近くに住んでいたのでしょうか。
銀河鉄道は減速を始めました。間もなく駅に着くようです。
これで一体いくつの街を訪れたのでしょうか。もう数え切れません。
はじめは今回こそ見つけてやるぞと鼻息荒くホームに降り立ったものでしたが最近はそうでもありません。
銀河鉄道での時間は楽しいものです。ハインリッヒさん、そしてクーと一緒にいられるのなら。
このままでも良いのでは、と思う事もあるのです。
川 ゚ -゚)「さぁ、行こうか」
(゚、゚トソン「はい」
113
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 14:46:51 ID:5RxNQgt.0
降りた駅は二面四線でそれほど大きい駅とは言えませんでした。
駅舎を出るとそれなりの駅前ロータリーがあります。
ビルがいくつか経っていてまだ新しいタワーマンションもありました。
ただ真新しいタワーマンションの先にはずいぶんと寂しい商店街がありました。
またまさしく区画整理再開発の真っ最中といった様子で道路が途中ですっぱりと途切れています。
何もない更地にぽつぽつと新築の一軒家が建てられていてその近くまで舗装されたばかりのアスファルト道路が伸びていました。
駅前は少し寂しい雰囲気ですし少し歩くと再開発の真っ最中でタワーマンションだけが浮いているようでした。
ロータリーの規模を見ても決して単なる地方の駅ではなくそれなりに大きなターミナル駅のような気がします。
せっかくなので再開発が行われているエリアを歩きます。取り壊されている古い建物もあれば新築の家もあります。
広かった新しい道路も最後には古くてきゅっと先をすぼめたように狭くなり、やがて歩道付きのしっかりとした道路に出ました。
川 ゚ -゚)「どっちに行く?」
从 ゚∀从「うーん、あっちかな」
クーが聞いてハインリッヒさんが答えました。
川 ゚ -゚)「どうしてあっちなんだ?」
从 ゚∀从「下り坂だからね」
川 ゚ -゚)「全く」
114
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 14:47:28 ID:5RxNQgt.0
確かに道路は緩やかに下り勾配になっていました。
そのまま進んでいくと脇から線路が合流して道路の中央を走ります。路面電車でしょうか。
そう話していると前方から列車がやって来ました。それは四両編成の普通の列車でした。
普通の列車が道路の真ん中を走っているのです。実に奇妙な光景でした。
お寺の鐘の音のような警笛を慣らしながら四両編成の列車は道路を悠々と走っていきました。
从 ゚∀从「なんだここ、すっげーな…」
また進むと次第に市街地へ入ったようで雑居ビルなどが多くなりました。
アーケード商店街もありましたがそこもずいぶんと寂しいものでした。
道路に面したドラッグ・ストアは閉店してしまったらしく手入れもされず荒れていました。
今度は後ろから四両編成の列車がやって来ました。
わたしたちは歩道を歩いていますが近くて威圧感を覚えます。
自動車用の信号機で律儀に止まり、青になるときちんと発車していきました。
その列車がもう少し先で大きく曲がっていくのが見えました。
ビルも多くなり、また駅があるのかもしれません。
从 ゚∀从「駅だ」
115
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 14:48:07 ID:5RxNQgt.0
その先にあったのはやはり駅でした。
道路の中央を走っていた線路は急に向きを変えて高架の駅舎へ吸い込まれていきます。
歩道橋から高架の駅に入ります。駅の反対側はペデストリアンデッキになっていて、景色が見えました。
駅の先には海が広がっていました。ペデストリアンデッキからはその海がすっかり見渡せました。
川 ゚ -゚)「海だな」
ここはどうやら海沿いの駅のようでした。ペデストリアンデッキの終端から降りて海に向かって歩きます。
海沿いは公園のようになっていました。風が吹き付けて気持ちがいいです。
从 ゚∀从「…なんか海にしては狭くないか?」
ハインリッヒさんがそう漏らしました。確かに、海にしては少し狭い気がします。
左右には山が視界の奥まで広がっています。水平線などは殆ど見えません。
そして右手から白い船がやって来ました。わたしたちのいる右側には船着き場があります。
どうやら遊覧船のようです。日の丸の旗と星条旗がはっきりと見えました。
(゚、゚トソン「あれは…ミシガン」
そう呟いてから、自分でも気がつきました。
116
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 14:49:15 ID:5RxNQgt.0
从 ゚∀从「えっ?」
(゚、゚トソン「ここは…海ではありません」
川 ゚ -゚)「トソン」
クーはもう察したようでした。寂しそうにわたしを見ました。
(゚、゚トソン「ここは、琵琶湖です」
綺麗な夕焼けでした。琵琶湖の湖面にも光の筋が走っていました。
浜大津駅から続くペデストリアンデッキを降りてわたしたちは茜色に染まった琵琶湖を見ていました。
本当に見事な夕焼けでした。遮る雲は一つもなく空気も澄んでいて、夕焼けは琵琶湖や街を染め上げていました。
あまりにも綺麗な夕焼けだったのでわたしはこの夕焼けを忘れる事はないだろうと思いました。
そしてまさかのまさか、本当に忘れる事のない夕焼けになったのです。
爪'ー`)y‐「トソン」
隣で夕焼けを見ていたフォックスさんが妙に真面目な顔でわたしの方を向きました。
(゚、゚トソン「なんでしょう、すっごく綺麗ですね」
爪'ー`)y‐「あぁ、すごく綺麗だ」
(゚、゚トソン「こんな綺麗な夕焼けは初めてです。 また見られるといいですね」
爪'ー`)y‐「あぁ。 これからも君と一緒に見たい」
117
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 14:50:33 ID:5RxNQgt.0
(゚、゚トソン「え?」
爪'ー`)y‐「結婚しよう。 君の事は必ず幸せにしてみせるよ」
(゚、゚トソン「え」
彼の手には箱に入った指輪がありました。
夕焼けに照らされて曲線が艶かしく光りました。
(゚、゚;トソン「え、ほ、本当ですか」
全く心構えが出来ていませんでした。それは明確なプロポーズというやつでした。
(-、-トソン「は、はい、よろしくお願いします」
わたしは深々と頭を下げました。真っ赤に燃える夕焼けがわたしの赤い頬を上手に隠してくれる事を祈りました。
爪'ー`)y‐「そっか、良かった、あぁ良かった」
彼もまた安堵したように深々と息を吐きました。そして、わたしの手を取りました。
(゚、゚トソン「こちらこそ、よろしくお願いします」
後々聞かされたのが、彼はあの場でプロポーズするなどと全く考えていなかったという事でした。
あの時の琵琶湖に浮かぶ夕焼けがあまりにも綺麗だったので咄嗟に踏み切ったのだと語りました。
おかげでわたしはあの夕焼けを忘れる事が出来なくなったのです。
118
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 14:50:59 ID:5RxNQgt.0
わたしとフォックスさんはお付き合いを始めて一年半ほどになります。
友人の紹介で出会いました。あまり異性とのお付き合いの経験がなかったわたしにとって新鮮な経験ばかりでした。
彼はわたしの四つ歳上で京都市内の企業に勤めています。わたしの住む大津市のお隣、草津市に住んでいます。
大津市は県庁所在地のわりには京都に近すぎるという皮肉な理由で現在ではあまり栄えていません。
彼とのデートも京都が殆どでした。どれも楽しい思い出です。
わたしは生まれも育ちも大津市で、勤務先も同じ大津市内にあります。
幼い頃から本を読むのが好きで、そのまま書店に就職しました。
毎日自宅近くに駅がある京阪石山坂本線で職場である書店が入っているパルコまで通っています。
書店の少ない大津市街地において最大規模を誇る書店であり取り扱う数もとても多いのです。
検品、荷解き、陳列、整理、発注、返品、在庫管理、レジ、POP作りと仕事は山ほどあります。
タイトルがどうしても思い出せないお客様と一緒に目当ての本を探したりもします。
荷解きの際には意外と体力勝負なのだと実感させられます。
それでもPOPを作る時などは本を好きだという気持ちを再度確認出来ます。
119
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 14:51:46 ID:5RxNQgt.0
彼と結婚すれば、草津市にある彼の実家に住む事になります。
一度ご挨拶に伺った事があるのですがとても良いご両親でした。
更に草津市からこの京阪石山坂本線沿いにある書店に通う事も充分可能です。
でもわたしの部屋にある膨大な量の文庫本は彼の家に持ち込んでいいものでしょうか。
昔から本屋だと言われ続けてきたわたしの部屋には文庫本が壁一面を覆い尽くしています。
もはや自分でも何冊あるのか分からないのです。とにかくわたしは本を捨てられない性格なのでした。
彼との結婚は嬉しくとも本たちとの決別は耐え難い、などと陳列しながら考えているとお客様に声をかけられました。
( "ゞ)「あ、あのう、て、鉄道雑誌は、どどちらでしょうか」
三十代ほどの男性でした。
(゚、゚トソン「こちらです。 よろしければご案内します」
( "ゞ)「あ、よ、よろしくお願いします、はい」
お客様を鉄道雑誌のコーナーにご案内しました。
鉄道雑誌は幾つもの出版社から出され、内容も新型車両の乗車インプレッションから撮影地紹介、鉄道模型まで多岐にわたります。
(゚、゚トソン「こちらになります」
( "ゞ)「あ、ありがとうございます、はい」
120
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 14:53:19 ID:5RxNQgt.0
そのお客様が再び声をかけられたのはそれから数日後の事でした。
( "ゞ)「あ、あのう、この前は親切に、ど、どうもすみません」
はじめわたしは何の事だか分かりませんでした。
一日に何度もご案内をするのでそれほど印象に残らない方では覚えていなかったのです。
わたしがきょとんとした顔をしていたのでしょう、お客様は慌てて付け加えました。
( "ゞ)「あ、あの、数日前にてっ鉄道雑誌に案内してもらった者です、ええ、はい」
(゚、゚トソン「あぁ、先日の」
ようやくわたしは合点がいきました。
( "ゞ)「こ、ここの書店は鉄道雑誌が多くて、その、いいですね。 こ、ここ、ここの書店は、初めて来ました。
て、鉄道ジャーナル、鉄道ダイヤ情報、鉄道ファンの大手三誌しか置いていないような書店も、結構あります。
ぼくはその、鉄道ピクトリアルのような、とても掘り上げて紹介するような専門的な雑誌も好きなんです」
(゚、゚トソン「先日は初めていらっしゃったのですか」
121
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 14:55:05 ID:5RxNQgt.0
( "ゞ)「は、はい、ぼくは、草津市に住んでいます。 職場は高島市にあってですね、大津駅からその、送迎のバスが出ています。
大津駅の方はあまり書店がありませんので、全体的に寂れていますしね、平和堂もなくなってしまいました。
ぼくはその、鉄道雑誌が好きなものですから、そういえばパルコに紀伊國屋書店があったなと。
とても大きい店舗ですし、鉄道雑誌も多いですし、いいですね」
(゚、゚トソン「草津にお住まいなのですか、わたしの知人も草津に住んでいます」
( "ゞ)「はい、ぼくの最寄り駅は南草津駅なんですか、新快速も停まります。
立命館大学のキャンパスがありますしJRの社員寮もあるんです。
とても発展していますしまだまだこれからも発展する駅です。
だから、草津駅と南草津駅の両方に新快速を停める事に反対意見もありますが、ぼくはそうではないと思います」
(゚、゚トソン「なるほど」
( "ゞ)「南草津駅にも書店はあるんですが自分は京阪が好きで石山坂本線の近くを散歩する事もあります。
ここもそのついでに鉄道雑誌があるかなと思って立ち寄ってみたんです。 鉄道雑誌が多くていいですね。
鉄おもも子供向けではありますがなかなか舐めてはいけないマニアックな雑誌なんですよ。
あとRail Magazineがあるのもいいですね。 WEB版の今日の一枚はよく楽しんで見ています。
鉄道雑誌は同じように見えて結構方向性が違うものなんですよ。
ダイヤ情報、通称DJと言うんですけどね、DJは臨時列車の時刻表などが掲載されています。
鉄道ファンは車両の詳細な記事などが多いです。 新型車両の乗車インプレッションなどが多いです。
鉄道ジャーナルは王道といった感じですね」
122
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 14:56:18 ID:5RxNQgt.0
(゚、゚トソン「お詳しいのですね」
( "ゞ)「い、いえいえ、ぼくはその、鉄道ファンなものですから、鉄道雑誌はよく読みます。
色々な特集が組まれていますし、ローカル線の特集などでは是非その路線を旅してみたいと思います。
新線開業レポートでは建設段階の内部の貴重な写真などもありとても勉強になります。
ぼくは、その、いわゆる撮り鉄というものをやっていますので撮影地紹介なども活用しています」
(゚、゚トソン「撮り鉄さんなのですか」
( "ゞ)「はい、ぼくは京阪が好きなのでよく撮りに行きます。石山坂本線もよく撮りますよ。
石山坂本線はラッピングが多くバリエーションに富んでいるので撮影していて飽きない路線だと思います。
浜大津三井寺間の併用軌道も絵になりますし琵琶湖をバックに雄大な写真を撮るのもいいです。
最近ではけいおんですとか中二病でも恋がしたいですとか響けユーフォニアムのラッピングも走り注目を集めました。
その、じょ、女性ですと、ちはやふるのラッピングが走りました。 実写映画化もされて有名になりましたね。
ぼくはマザーレイク号が好きだったのですが運行を終了してしまいました。 残念です」
その時後ろからあのう、と中年女性のお客様に声をかけられました。
123
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 14:57:26 ID:5RxNQgt.0
( "ゞ)「あ、じゃ、じゃあぼくは、これで」
男性は急に立ち去っていきました。
わたしは自宅マンションの本の山を見てうんうん唸っていました。
大きな本棚には隙間なくびっちりと文庫本が並べられています。
本棚に入らなくなった文庫本はその脇に高く積まれています。
これを嫁ぎ先に持っていくのは明らかに無理な話です。
しかしこれらの本と別れるというのもとても辛い事です。
(゚、゚トソン「お母さん、本は置いていっていい?」
('、`*川「冗談じゃあないよ」
お母さんは半分笑いながら言いました。
フォックスさんからプロポーズを受けた事をお母さんには報告しています。
お父さんには今度フォックスさんが挨拶に来ると伝えたところ何かを覚悟した顔になっていました。
あれからお父さんずっと動揺していのよとお母さんは教えてくれます。
(゚、゚トソン「本との別れは辛くて」
('、`*川「わたしたちは一人娘との別れだというのに本だけ残すとはね」
お母さんはわざと意地悪な言い方をしてまた笑いました。
124
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 14:58:31 ID:5RxNQgt.0
('、`*川「まぁでもあなたがいなくなってもこの部屋はそのまま取っておくつもりだからね」
(゚、゚トソン「ほんとう? じゃあちょくちょく帰ってくる」
('、`*川「お嫁さんはちょくちょく帰ってくるものじゃあないのよ」
(゚、゚トソン「ごもっともです」
お母さんお父さんには申し訳ないのですがこの本の山をこのまま残していけるのなら心置きなく嫁ぐ事が出来るというものです。
('、`*川「それにあなたがいなくなってもこの部屋を使うつもりはないからね」
この自宅マンションには十数年前にお父さんが購入したもので、お父さんとお母さん、わたしの三人が住んでいます。
わたしが嫁いでいくと二人になってしまいます。
(゚、゚トソン「別に物置にでも使ってくれればいいのに」
('、`*川「もう実質的に物置みたいなものじゃないの」
(゚、゚トソン「なんと失礼な」
部屋はとても綺麗に整頓するよう心がけています。
ただ本を捨てられない性格故に、本だけは壁にうず高く積まれているのです。
125
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 14:59:27 ID:5RxNQgt.0
('、`*川「まぁベッドとかもこのままだから、本当に帰ってきたくなったらいつでも帰ってきなさい」
(゚、゚トソン「うん」
この部屋も、数々の文庫本も、全部が思い出です。
そのまま取っておけるのなら、それほど嬉しい事はありません。
わたしが勤務する書店は県内唯一のパルコの中にあり若い人が比較的多かったりします。
若い世代をターゲットに制作された恋愛映画などが公開されてヒットすると原作小説も漏れなく売り上げが伸びます。
時代を席巻する人気俳優の起用が決まると必ずその人気俳優の帯が巻かれて店頭に並べられます。
映像化コーナーと銘打たれた映画化ドラマ化原作小説は店に入って一番はじめの目立つ場所に置かれているのです。
126
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:01:06 ID:5RxNQgt.0
わたしが勤務する書店は県内唯一のパルコの中にあり若い人が比較的多かったりします。
若い世代をターゲットに制作された恋愛映画などが公開されてヒットすると原作小説も漏れなく売り上げが伸びます。
時代を席巻する人気俳優の起用が決まると必ずその人気俳優の帯が巻かれて店頭に並べられます。
映像化コーナーと銘打たれた映画化ドラマ化原作小説は店に入って一番はじめの目立つ場所に置かれているのです。
ぼくは明日、昨日のきみとデートする。はじめ見た時には不思議なタイトルだと思いました。
今店頭に置かれているのは去年冬に映画が公開された作品の原作小説で異例のロングヒットとなっています。
映画は福士蒼汰と小松菜奈の主演で制作されて、今はその二人が表紙となったデザインのものも並んでいます。
お隣の京都が舞台で叡山電鉄や京阪電鉄が登場するなど馴染みやすい作品でこの書店でもたくさん売れています。
既に百万部を越えるミリオンヒットとなり、あまり当たり作品が多くないらしい宝島社文庫では売れ筋商品となっています。
十代や二十代など、若い人が購入層の多くを占めますが中年女性やサラリーマンの方も買われます。
元々この作者は電撃文庫などから本が出ていたライトノベル作家ですが、この作品で知名度が一気に上がりました。
当作品の人気にあやかり作者の過去に電撃文庫から刊行されたライトノベルに加筆改稿しタイトルも変え、
同じ人気イラストレーターにアニメキャラクターではない表紙を書いてもらい発売するとたいへんな売り上げを見せました。
元ライトノベルがデザインを変えてこれほどの売り上げを誇るのは珍しいケースです。
その作者のコーナーの整頓をしている時に「あ、あの」と背後から声をかけられました。
127
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:02:29 ID:5RxNQgt.0
(゚、゚トソン「あぁ、この前の」
( "ゞ)「は、はい」
先日の三十代ほどの男性のお客様でした。
( "ゞ)「あ、あの、な、名前をお伺いしていないと思いまして、ええ」
(゚、゚トソン「わたしのですか? わたしはトソンといいます」
( "ゞ)「と、トソン、あ、すいません、トソンさん、トソンさんというのですか」
(゚、゚トソン「はい」
( "ゞ)「そうですか、あの、ぼくはデルタといいます、えっと、草津市に住んでいます。
最寄り駅は南草津で立命館大学のキャンパスもあり新快速も停まります。 JRの社員寮もあります。
えっと、トソンさんは、どちらにお住まいなのですか」
(゚、゚トソン「わたしは大津市内に住んでいます。 石山坂本線で通勤しています」
( "ゞ)「あっ、そうなんですか、大津市内ですか、石山坂本線ですか。 ここは石場駅が近いですものね。
ぼくも石場駅で降りています。 石山坂本線はラッピング車両が多くて楽しいですね。
ぼくは京阪の本線の方が好きなのですが石山坂本線も好きです。
今日は比叡山坂本ケーブルのラッピングでした。 旧特急色も好きだったのですが終わってしまいました」
(゚、゚トソン「京阪にお詳しいですね」
128
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:03:44 ID:5RxNQgt.0
( "ゞ)「あ、はい、そうなんです、ええ、小さい頃から京阪電車が好きでよく乗りに連れてもらっていました。
本線の方が好きで、特に特急列車が好きです。 昔はテレビカーといってテレビが設置されていたのです。
テレビカーは京阪電車の顔と言っても過言ではないでしょう。 そしてダブルデッカーです。
ダブルデッカーの車両に乗車券だけで乗れるのです。 これは全国でも珍しい例です。
関東などではグリーン車といってダブルデッカーは有料になります。 しかもグリーン料金は高いのです。
そもそも関東の列車はロングシートばかりでクロスシートの車両は極めて少ないのです。
それに比べて関西はクロスシートが多い傾向にあります。 でも関東よりJRと私鉄の競合は激しいものです。
大阪京都間でもJRと阪急、そして京阪が競っています。 速達性ではJRの新快速が群を抜いています。
阪急も速達性において特急で対抗していますが王者たるJRの新快速には叶いません。
京阪はというと速達性ではJRにも阪急にも完全に負けています。
京橋から七条までノンストップの快速特急洛楽も運転されていますが速達性ではやはり劣ります。
京阪が力を入れているのは快適性なのです。 他者では特急料金を取られるような快適な車両に乗車券だけで乗れるのです。
エレガント・サルーンこと8000系やコンフォート・サルーンこと3000系は京阪特急の主力です。
特に8000系の座席は素晴らしいですしダブルデッカーからの景色は格別です」
(゚、゚トソン「8000系という車両があるのですか」
( "ゞ)「あ、はい、あります、えっと」
デルタさんは鞄から携帯電話を取り出しました。ソニー・エリクソン製のいわゆるガラケーと呼ばれるものでした。
わたしもスマートフォンに変える前はソニー・エリクソン製を使っていたので少し懐かしく思いました。
129
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:04:48 ID:5RxNQgt.0
( "ゞ)「えっと、これが8000系です」
デルタさんがその携帯電話で撮ったとおぼしき写真を見せてくれました。
( "ゞ)「こ、これは出町柳駅で折り返しの際に撮影しました。 京阪特急は基本的に本線から鴨東線の終点である出町柳駅まで直通運転を行います。
特急などは出町柳駅に到着すると降客終了後にドア閉扉をして転換クロスシートを転換させます。 そして乗車位置に移動するのです。
出町柳駅は観光客がたいへん多いため降りる客と乗車を待つ客の流れを分ける必要もあったのです。
ですが今年に入って位置移動は廃止されました。 これは位置移動廃止前日に撮影した写真です。
乗車を待つ客の姿も入れて位置移動があった事を残す写真に仕上げました」
(゚、゚トソン「あ、この電車知っています、乗った事がありますよ」
( "ゞ)「本当ですか、8000系は京阪電車、京阪特急の顔ですからね、いい車両です。
今年の夏からはプレミアムカーという車両も連結して走るそうです。 是非乗ってみたいです。
ぼくは京阪中之島線開業の時も当日乗りに行きました。 当時は快速急行を走らせたり期待の大きい路線でした。
今では利用客が伸び悩み普通ばかりになってしまいました。 中之島線は鉄道空白地帯に造られましたが効果はそれほどだったようです。
便利な大阪市営地下鉄との接続があまり良くないという点もあると思います。 大阪市営地下鉄はとても便利ですからね。
本数も多いですし路線も多くネットワークが充実しています。 この先民営化が予定されていますけども」
130
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:05:39 ID:5RxNQgt.0
ミセ*゚ー゚)リ「トソンさん、ちょっと」
同僚のミセリさんが棚の向こうから声をかけました。
( "ゞ)「あ、じゃあ」
とデルタさんは今日も足早に去っていきました。
『ねぇ、仕事の件はやっぱり考え直してくれないのかい?』
電話の向こうでフォックスさんはその話題を持ち出しました。
(゚、゚トソン「考え直さないですよ。 仕事は続けます」
『どうしてそんなに意固地になるかなぁ』
(゚、゚トソン「意固地ではありませんよ」
『意固地じゃあないか、別に仕事を続ける必要はないんだよ』
(゚、゚トソン「必要がなくともわたしが続けたいのです」
131
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:06:25 ID:5RxNQgt.0
フォックスさんはわたしと結婚した後は仕事を辞めても大丈夫だ、とはじめに言いました。
やんわり断っていると辞めた方がいい、続ける必要はない、お嫁さんは辞めるものだよと論調が変わっていきました。
彼はわたしに仕事を続けてほしくないようなのです。そして彼の家、すなわち両親もそう考えているそうです。
『お母さんも仕事は辞めればいいじゃないと言っているんだよ』
(゚、゚トソン「それでもわたしが続けたいのです。 好きな仕事なのですから」
彼の家は由緒正しき家柄で、ご両親もお嫁さんは仕事を辞めて家事に集中すべきという考えを持っているようです。
わたしとしてはこのご時世ですし女性は結婚すれば仕事は辞めるものという価値観は古いと感じます。
これについてはわたしのお母さんも同じ意見ですが自分が主張すべきではない、と言われてしまいました。
『だってお茶会だとか色々あるんだ、仕事をしていたら大変だろう』
(゚、゚トソン「それはお休みの日にお願いしたいと思います」
『全く意固地だなぁ、そんなに書店の仕事がいいものなのかなぁ』
(゚、゚トソン「はい、とても」
132
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:07:28 ID:5RxNQgt.0
何より書店員はとてもやりがいのある仕事ですし、大好きな本に囲まれている幸せな生活なのです。
雑誌は重いですし荷解きは大変です。それでも就きたかった仕事なのです。
それなのに結婚したからといってその仕事をみすみす手放してしまうのはあまりにももったいない事です。
『ぼくは心配だなぁ』
それに彼が辞めさせたがっているのにはもう一つ理由がありました。
彼はとても嫉妬深く、また独占欲が強いのです。お付き合いをさせていただく内にそれを理解しました。
極論ではと思うのですが彼はわたしが自分以外の男性と話しているのすら気に入らないのだそうです。
わたしは書店員ですので多くのお客様に案内をしたり接客をしたりするのですがそれすらも嫌だというのです。
結婚してしまえばあまり外に出してもらえないのでは、という危惧をしているぐらいです。
(-、-トソン「心配は無用ですよ。 ただの書店員ですから」
『そうかい、でも考えておいてくれよ。 ぼくもお母さんもやっぱり辞めてほしいのだから』
(-、゚トソン「はい、一応は」
電話を切り部屋の壁を覆い隠す文庫本の山を眺めました。
この本たちと別れるのも辛いのに、書店すら辞めてしまったらきっと辛いでしょう。
( "ゞ)「あ、とトソンさん、こん、こんにちは」
(゚、゚トソン「デルタさん。 こんにちは」
133
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:08:52 ID:5RxNQgt.0
デルタさんは数日に一度、書店を訪れるようになりました。
わたしの姿を見かけると声をかけていただきます。
( "ゞ)「きょ、今日は、大津駅から歩いて上栄町駅から京津線に乗りました。
浜大津駅までの一駅でしたが、久しぶりの京津線でした。 あの区間は全国的にも珍しい併用軌道です。
路面電車以外の併用軌道では、京津線の他に、江ノ電や熊本電鉄があります。
過去には名鉄犬山線の犬山橋という併用軌道の橋もありましたが今は専用化されてしまいました。
しかし京津線の800系は地下鉄・登山鉄道並の勾配・併用軌道を走るので日本でも唯一の存在です」
(゚、゚トソン「あの区間はやはり全国的に見ても珍しいのですね」
( "ゞ)「はい、はい、珍しいです。 とても珍しいです。
更にあの区間の併用軌道は国道ですので更に珍しいです。 最近は注意喚起のペイントがされて少し景色が変わってしまいました。
大津駅から上栄町駅の方に歩いて併用軌道を浜大津駅まで歩くのも楽しいです。 毎時四本運転されていますので見物出来ます」
(゚、゚トソン「いつも大津駅からいらっしゃるのですか」
( "ゞ)「あ、はい、ぼくの職場は高島市というところにあります。 大津駅から送迎バスが出ているので毎日大津駅まで通勤しています。
ぼくの家の最寄り駅は南草津駅なのでJR琵琶湖線で毎日大津駅まで行きます。 ここに来るのは帰りですね。
大津駅からJR琵琶湖線に乗り膳所駅から京阪石山坂本線に乗り換えるパターンが多いです。
上栄町駅まで歩いて京津線に乗り浜大津駅から石山坂本線に乗るという手法もあります。
帰りは石山坂本線に乗り膳所駅または石山駅でJR琵琶湖線に乗り換えます。
膳所駅はここから近いですが新快速は石山駅にしか停まりませんので石山駅での乗り換えが多いです。
あと南草津駅に新快速が停車する事で草津駅との連続停車となり南草津駅の新快速停車を疑問視する声もありますが全くの的外れなのです。
南草津駅は発展が着実に進み乗降人員も順調に増えました。 二◯十四年には遂に草津駅の乗降人員を越えたのです!
二◯十五年も南草津駅の方が乗降人員が多く、なおかつその差は広がっています。 これからも差は広がるものと思われます。
南草津駅は今や滋賀県の駅で一番乗降人員の多い駅に成長したのです。 新快速停車を疑問視する声は的外れなのが証明されています」
134
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:11:07 ID:5RxNQgt.0
(゚、゚トソン「高島市でどのようなお仕事をされているのですか」
( "ゞ)「あ、えっと、仕事ですか、それはですね、産業廃棄物の回収スタッフです。 事務所が高島市にあるのです。
病院や企業などに収集車で向かい廃棄物を回収します。 それを処理施設や一時置き場のヤードに持っていきます。
収集車は中型車ですので、中型免許がなければいけません」
(゚、゚トソン「中型免許をお持ちなのですか」
( "ゞ)「はい、はい、そうなのです、中型免許を持っているのです。 中型免許がなければいけない仕事なのです。
ぼくは入社後に中型免許を取得しましたが一発で試験をパスしたので社長から褒められました。
お母さんもよくやったと言ってくれました。 中型免許があるからこそ仕事が出来るのです。
普通の人は普通免許しか持っていないようですがぼくは中型免許を取りました」
(゚、゚トソン「すごいですね、わたしは普通免許しか持っていませんしAT限定です」
( "ゞ)「あっそうですか、そうですかAT限定ですか、収集車はMTです、MTで運転をします。
AT限定では運転する事が出来ず採用にもMTが運転出来る方と書かれています。
最近はAT限定で免許を取る方が多いそうですがぼくはMTで普通免許を取りました。
確かに今ではATの車が主流ですがスポーツ・カーなどはMTです。 AT限定では運転出来ません。
MTの運転が出来、かつ、中型免許がぼくの仕事には必要なのです」
135
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:12:15 ID:5RxNQgt.0
(゚、゚トソン「大変なのですか」
( "ゞ)「ええ、はい、産業廃棄物は幾つもあります、廃油、汚泥、廃プラスチック、燃え殻、様々です。
また事業系ゴミも取り扱っています。 店舗、工場、病院、学校などから出る事業系ゴミも回収します。
重い物を運ぶ時は大変ですが中型免許を持っていないと出来ない仕事のため任せられる人は限られています。
自分は十八年勤務しており無遅刻無欠勤で優良社員として社長から表彰されています。
年末年始やお盆、休暇取得日以外は月曜日から金曜日まで、週に二回は土曜日も出勤します。
毎朝最寄りの南草津駅からJR琵琶湖線に乗り大津駅から送迎のバスに乗ります。
十八年間これをきっちり続けています。 辞める人が多いので優秀だと社長から言われています。
会社には学校からの紹介で受けさせていただきました。 お母さんからもよくやっていると言われています。
また収集車で回るので地理にも詳しくなります。 琵琶湖周辺の道路はすっかり記憶しています」
(゚、゚トソン「琵琶湖周辺を走れるのはいいですね、琵琶湖を見ていると落ち着きます」
( "ゞ)「そうですか、琵琶湖はいいですよね、とても大きいし落ち着きます。
鉄道撮影においても琵琶湖はとても魅力的な場所であるといえます。
湖西線や北陸本線で琵琶湖をバックに撮影出来る撮影地は有名です。
石山坂本線でも琵琶湖をバックに撮る事が出来ます。
ぼくも雄大な琵琶湖を背景に入れて撮影する事があります。
車体ばかりの編成写真にならず琵琶湖で撮ったのだと分かるようになるべく背景を多くしています」
136
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:13:20 ID:5RxNQgt.0
ミセ*゚ー゚)リ「トソンさーん」
ミセリさんがわたしに手を振って呼びました。
ミセ*゚ー゚)リ「店長が呼んでるよ〜」
( "ゞ)「あ、じゃあ、ぼくはこれで、はい」
デルタさんは今日は鉄道雑誌コーナーには立ち寄らず店を後にしました。
ミセ*゚ー゚)リ「トソンさん迷惑なら迷惑って言わなきゃいけないんだよ」
あるお昼休憩中にミセリさんが切り出しました。
わたしは何の事か分からずきょとんとしてしまいました。
ミセ*゚ー゚)リ「あの人だよ、最近二日三日に一回は来てトソンに話だけする人」
(゚、゚トソン「あぁ、デルタさん」
ミセ;*゚ー゚)リ「えぇ〜なんで名前知ってるの。 さすがに頻度多いよあの人」
(゚、゚トソン「そうなのでしょうか、常連さんだと思っていました」
137
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:14:39 ID:5RxNQgt.0
ミセ*゚ー゚)リ「はじめは申し訳程度に電車の本買ってたけど最近はトソンさんに話すだけ話して帰っていくよ」
(゚、゚トソン「そうなのですか、鉄道雑誌の場所を訊かれたのを覚えているのですが」
ミセ*゚ー゚)リ「それにトソンさんがシフト休みの日さんざん店内をうろうろして女性店員の顔を見てまわっていないって確認したらさっさと帰っていくんだよ。
渡辺さんって髪縛ったら後ろ姿がトソンさんに似てるって話を前にしたでしょう、渡辺さん一度あの人に間違えられた事があるんだって」
(゚、゚トソン「本当ですか」
ミセ*゚ー゚)リ「うん、急に馴れ馴れしく話しかけられてびっくりして振り向いたらあの人で向こうもびっくりして何か吃って逃げていったって」
(゚、゚トソン「そんな事が」
ミセ*゚ー゚)リ「しかも途中で遮られないと二十分も三十分も話しているでしょう。 あれじゃあトソンさん仕事にならないし営業妨害だよ」
(゚、゚トソン「少し厳しくはありませんか」
ミセ*゚ー゚)リ「厳しくないよ、トソンさんがいい人すぎるんだよ。 トソンさんはこの人はダメって切り捨てられないの、性格めちゃくちゃいいから。
みんなもまたトソンさん付きまとわれてるって言ってるよ」
(゚、゚トソン「付きまとわれている」
138
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:15:30 ID:5RxNQgt.0
そう考えはしませんでした。
最近よくいらっしゃる常連さんとばかり思っていました。
ミセ*゚ー゚)リ「みんなにもあいつが来たら助けてあげてって言ってあるから」
確かにここ最近はミセリさんをはじめ同僚の方々が途中で声をかけていただきます。
デルタさんはいつも話が途切れたりするとそそくさと帰ってしまいます。
(゚、゚トソン「悪気がある方には見えないのですが」
ミセ*゚ー゚)リ「悪気がないからたちが悪いんだよ」
(゚、゚トソン「そういうものなのですか」
ミセ*゚ー゚)リ「とにかくああいうオタクはどうせ訳分かんないんだからてきとうにあしらわなきゃダメ」
(゚、゚トソン「はい」
139
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:16:09 ID:5RxNQgt.0
この職場はミセリさんをはじめ優しい人ばかりです。
それもこの仕事を辞めたくない理由の一因なのでした。
これほど同僚に恵まれているのに、好きな仕事なのに、辞めるなんてやはり考えられないのです。
それから数週間は自然を装いミセリさんをはじめとした同僚の方々が割って入るようになりました。
デルタさんが来店すると目配せをしてわたしに話しかけると電話が来ているなどとわたしを呼び会話を断ち切りました。
また来店が確認させるとバックヤードに一時的に避難するよう指示される事もありました。
さすがにやり過ぎなのでは、と思いましたが誰もこの措置に疑問を口にする人はいませんでした。
こうして数週間が過ぎてデルタさんと会話する回数も著しく落ちました。
しかし、久しぶりにデルタさんと会話をする日は唐突にやって来ました。
ある金曜日、勤務を終えて一人で社員用通用口から出るとデルタさんの姿がありました。
( "ゞ)「あ、ど、どうも、お久しぶりです、はい」
わたしはさすがにびっくりしました。社員用通用口のある裏口も通りに面しているので交通量がありますがもう夜遅くです。
書店の入るテナントビル自体の営業時間が終わっていてひっそりとしていました。
(゚、゚トソン「えっと、どうしたのですか、この時間に」
140
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:17:04 ID:5RxNQgt.0
( "ゞ)「え、えっと、その、たまたま通りかかって、はは、奇遇ですね」
(゚、゚トソン「そうなのですか」
( "ゞ)「あ、お仕事、終わった感じですか?」
(゚、゚トソン「はい、終わったところです」
( "ゞ)「あ、そうですか、そうですか終わったところですか、奇遇ですね、はい」
デルタさんは周囲をきょろきょろと見ていました。
(゚、゚トソン「どうなさいましたか?」
( "ゞ)「い、いえ」
よく見るとデルタさんの後ろには車が停まっていました。
(゚、゚トソン「車でいらっしゃったのですか」
( "ゞ)「え、あ、はい、そうです、あの、今から出かけませんか」
(゚、゚トソン「えっ、今からですか?」
141
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:17:55 ID:5RxNQgt.0
( "ゞ)「は、はい、是非行きましょう、ドライブでも、あ、食事か、なんなら食事でも、どうです」
(゚、゚トソン「えっと、さすがに遅い時間なので」
( "ゞ)「え、いや、是非、是非行きましょう、せっかくですから、是非行きましょう」
デルタさんがわたしの手を取り引っ張りました。
思ったより強い力でわたしは驚きました。
( "ゞ)「どうぞ、ほら、どうぞ、遠慮なさらないで」
言われるがまま引っ張られるように助手席に乗せられました。
デルタさんは運転席に回りキーを差し込みます。
( "ゞ)「いやぁ、良かった、良かったです、行きましょう、はい」
エンジンを起動して発進させました。
後ろを確認せずウインカーも出さなかったのでトラックと接触しそうになりました。
( "ゞ)「全く危ない、危ないな、トラックなんて乱暴者ばかりだ、本当に迷惑だ」
(゚、゚トソン「デルタさん、この車は」
( "ゞ)「あぁ、トヨタ・ラウムです」
142
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:19:00 ID:5RxNQgt.0
(゚、゚トソン「デルタさんの車なのですか」
( "ゞ)「いえ、父の車です。 ぼくは車を所持していないのでこうして父の車を借ります。
ぼくの家は車庫が一台ぶんのスペースしかないためこれ以上は所持出来ません。
父はこの車で通勤していますがぼくはJRと送迎バスで通勤します。
お母さんは買い物は近くのスーパーへ自転車で行きます。
自転車でじゅうぶん行ける範囲のところにスーパーがあるのです」
(゚、゚トソン「どこに行くのですか」
( "ゞ)「ええと、ドライブにでも行きましょう、ええ、最近はあまり会えなかったので」
デルタさんが運転するトヨタ・ラウムは浜大津駅を通り過ぎ国道一六一号線に入りました。
途中で左折すると横目にJRの大津京駅が見えます。
そのまま道路を走り高速道路のようなところへ入りました。
(゚、゚トソン「遠くへ行くのですか」
( "ゞ)「遠くではないですよ。 西大津バイパスと湖西道路を使います。 ぼくの使う送迎バスも通る道です。
湖西道路は比較的料金の高い道路でしたが国と県が買収して無料開放されました。
名神高速道路京都東インターチェンジから続く西大津バイパスと合わせて琵琶湖西側の重要なルートです」
143
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:19:54 ID:5RxNQgt.0
高速道路のような道に入ってからトヨタ・ラウムは一気に加速しました。
片側二車線の区間が終わり対面通行になるまで右側の車線の車線を走り続けました。
暫く走るとインターチェンジを降りて道の駅と書かれた脇道へ入りました。
( "ゞ)「着きました」
道の駅は琵琶湖畔にありました。展望デッキに出ると夜の琵琶湖に浮かぶ琵琶湖大橋が綺麗に見えました。
暗い湖面に琵琶湖大橋の照明が光の柱のように映っています。
日中の琵琶湖大橋を見た事はありましたが夜の琵琶湖大橋は初めてでした。
(゚、゚トソン「綺麗ですね」
( "ゞ)「ええ、とても綺麗なのです、はい」
そのまま暫く展望デッキで琵琶湖大橋を眺めていました。
展望デッキは人気がなく静かでした。琵琶湖大橋を行き来する車の音ばかりが聞こえました。
デルタさんがあまり喋らない、と思いました。見ると、顔を真っ赤にして俯いています。
(゚、゚トソン「どうしたのですか」
( "ゞ)「い、いえ、その」
デルタさんは俯いていた顔をがばっとあげました。
( "ゞ)「あの、ぼ、ぼくと、お、おお付き合い、して、いただけませんどぇ、で、でしょうか」
144
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:21:10 ID:5RxNQgt.0
(゚、゚トソン「え」
急にかしこまった態度でデルタさんは言いました。
(゚、゚トソン「あ…」
あぁ、デルタさんが抱いていた感情はそれなのか、とわたしはようやく気づいたのです。
考えてもいなかったのです。
(-、-トソン「えっと、ごめんなさい」
( "ゞ)「えっ?」
意味が分からない、といった顔でデルタさんは固まりました。
(-、-トソン「ごめんなさい、お付き合いは出来ないです」
( "ゞ)「え、えっ、だ、ダメですか、ダメなのですか、ど、どう、どうしてでしょう、是非、その、お付き合いをと、思ったのですが、はい。
ぼくと、その、トソンさんは合うと思います。 はい、合うと思うのです。 そう思った、というか確信、確信ですね、確信しています。
ええと、ぼくはあまりそのう、恋愛、に疎いものですから、お母さんからもいい加減そういう人を見つけなさいとも言われていました、はい。
トソンさんはとても親切ですし、何より話が合います。 とても良い事です。 きっとお付き合いするべきだと思いました。
お母さんに話したら是非その人がいいと言ってくれました。 なので、ええっと、ええっと、お付き合い、お付き合い出来ればと、是非」
145
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:22:55 ID:5RxNQgt.0
(-、-トソン「申し訳ありません」
( "ゞ)「え、ええ、どうしてでしょう、何故でしょう、ええ、分からないです。 話も合うし、いいと思うのですが。 ううん。
ぼくは中型免許を持っているので産業廃棄物の回収スタッフを任されています。 後輩に教える事もあるのです。
普通免許のMTかつ中型免許を持っていないと就けない仕事です。 MTを運転出来なければいけないのです。
AT限定ではこの仕事には就けません。 ぼくはMTで普通免許を取りましたし中型免許も一発で試験をパスしました。
社長からも一発での試験クリアを褒められたのです。 十八年無遅刻無欠勤という事でも社長から褒められました。
会社の人たちからもさすがだ、と言われました。 回収先の人からもいつもご苦労だと言われます。
そういう仕事に就いているのです。 三十人ほどの会社ですが頑張っています。 えっと、どうしてでしょう」
(゚、゚トソン「申し訳ないのですが、わたしには婚約者がいるのです」
( "ゞ)「婚約者…?」
デルタさんはその言葉を呟き、飲み込むまでに多くの時間を要しました。
呆然とした後、次第に表情は険しくなっていったのです。
( "ゞ)「こ、婚約者、婚約者がいるのですか、ではお付き合いしている人がいるのですか、そういう事ですか。
そういう事ですか、そういう事ですか、ああ、なんていう事だ。 お付き合いしている人がいる、婚約者がいる。
ああ騙された、騙された、ぼくは騙された、騙されたぞ、なんという事だ、騙された! なんという事だ、信じられない」
146
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:23:57 ID:5RxNQgt.0
(゚、゚トソン「デルタさん」
( "ゞ)「最悪です、信じられない、がっかりだ、そんな人だったとは。 お付き合いしている人がいて婚約者がいるだなんて。
ああ裏切られた! 裏切られた、裏切られたぞ。 よくも裏切ったな、畜生! トソンさん、よくも裏切ったな。
返して欲しい、今まで貴方に使ったお金を返して欲しい。 あの紀伊國屋書店で使ったお金、そして京阪線の運賃だ。
あの書店までいつも京阪石山坂本線を使っていた、その運賃を返して欲しい。 無駄だったのだから。
京阪膳所・京阪石山または上栄町・浜大津から石場までは一七◯円だ。 毎回一七◯円往復三四◯円払っているんだ。
近江鉄道バスで大津駅から大津署前までは二一◯円だった。 それらを合算すると大きい額になるぞ」
(゚、゚トソン「デルタさん、落ち着いて下さい」
( "ゞ)「いいや許さない、ダメだ、許さない、ぼくは裏切られたんだ! ああ、また裏切られた。 また裏切られた!
ぼくはいつだって女性に裏切られてきた、あなたもぼくを裏切った! 信じていたのに、最悪だ、なんんという事だ。
いつもいつもみんなぼくを裏切る、いつも! 嘘をついて嘘をついてぼくを裏切るんだ、何度も裏切るんだ。
ああもうたくさんだ、たくさんだ、たくさんだ! 乗ってくれ、車に乗ってくれ」
(゚、゚トソン「あ、あの」
( "ゞ)「乗れと言っているんだ!」
デルタさんが取り出したのは小型のナイフでした。
わたしは驚き身体がすくみました。
ナイフを向けられた経験などなかったのです。
147
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:27:13 ID:5RxNQgt.0
(゚、゚トソン「はい、乗ります、乗りますのでそれを仕舞って下さい」
トヨタ・ラウムに戻り言われた通り助手席に乗りました。
デルタさんも運転席に戻りフロントドアポケットにナイフを置いて車を発進させました。
( "ゞ)「これは護身用ナイフで中学生の頃から絶えず毎日持ち歩いている。 自分の身は自分で守らなければいけない。
横暴なトラックドライバー、頭の悪い取引先、人を下に見ている先輩などにいつかこのナイフを用いる必要があると思う。
ぼくは暴力的な措置に出る事だって出来るのだ。 彼らはそれを知らない。 愚かなので知らないのだ。
彼らはぼくがナイフを持っている事も知らないのだ。 ぼくはナイフを持っている。
このナイフがあれば勝てる。 ナイフとはそういう武器なのだ。
小遣い稼ぎに駐車違反を切る馬鹿な警察官にも勝てる。
もっと違法な無断駐車路上駐車の車があるのに愚かな彼らは楽な方の駐車違反を切る。
自分たちも路上にパトカーを停めておくくせに自分たちの事は棚にあげる。
素知らぬ顔でふてぶてしい態度で駐車違反を切る。 まるで自分たちが神であるかのように振る舞う。
ああ馬鹿ばかりだ。 愚かな人間ばかりだ。 ぼくは苦労ばかりだ。 ああ、不公平だ」
(゚、゚トソン「どこへ向かっているのですか」
( "ゞ)「あなたには反省する必要がある。 人を騙し、裏切った反省をする必要がある。
書店員でありながらあるまじき行為だ。 許されざる行為だ。 ぼくは反省を促したい。 反省すべきだ。
自分の行いを振り返り反省するべきだ。 反省が必要だ」
148
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:28:02 ID:5RxNQgt.0
(゚、゚トソン「わたしは」
( "ゞ)「言い訳なんて聞きたくない! 聞きたくない、喋るな、汚らわしい、ああ汚らわしい、不浄だ、ああ。
無駄口を叩いたら、刺すぞ、刺したら終わりだ、ナイフで刺したら終わりだ。 分かるだろう、ナイフだぞ。
喋ったらナイフで刺す。 きっと刺すぞ。 刺したらもう終わりだ、もう終わりなんだから。 刺すぞ、終わるぞ、ええ」
トヨタ・ラウムは夜の道路を突っ走りました。
先程の道路を進んでいるようで北上すればするほど市街地から離れて車が減っていきました。
わたしは喋る事が出来ず黙っていました。デルタさんはぶつぶつ呟きながら指でハンドルを叩いていました。
やがてずっと走ってきた道路を外れて暗く狭い道路に入りました。そのまま進むと不意に琵琶湖が現れました。
琵琶湖沿いの狭い道を走ると鉄板の高い壁がヘッド・ライトに照らされました。
周囲には民家もなく寂しいところです。デルタさんが車から降りて入り口の鍵を開けました。
重い扉を開けて再び車に乗り込み中へ入ります。
( "ゞ)「降りろ」
命じられるがまま降りるとそこはヤードのようでした。
長机、パイプ椅子、電気ストーブ、アナログテレビ、卓球台、洗濯機、ソファーなどがトヨタ・ラウムのヘッド・ライトに照らされます。
どれも壊れていたり、傷ついていたり、汚れていたりしました。恐らく全部捨てられたものなのです。物の墓場だと感じました。
きっとここは、デルタさんが勤務する会社の廃棄物を置いておくヤードなのでしょう。
149
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:28:50 ID:5RxNQgt.0
(゚、゚トソン「ここは、会社のヤードですか」
( "ゞ)「う、うるさい、関係ないだろう、喋るなと言ったはずだろう」
デルタさんがナイフを向けます。あまりに近くまで向けられたので思わずのけぞりました。
( "ゞ)「怖いだろう、ナイフは怖いだろう、暴力の象徴だからだ。 みんな見くびっているがぼくは暴力の象徴を持っている。
いつだって彼らに制裁を加える事が出来るんだ。 歩け、まっすぐ歩くんだ」
ヤードのすぐ背後には琵琶湖がありました。
置き方がずさんなのか廃棄物の幾つかが斜面を転がって湖面近くまで落ちてしまっていました。
( "ゞ)「そこだ」
デルタさんは仰向けに置かれている長細い金属のようなものを指し示しました。
それは勤務先の書店の更衣室にもあるような業務用のスチールロッカーでした。
汚れているしドアは曲がっていています。
( "ゞ)「入れ」
(゚、゚トソン「えっ」
150
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:29:47 ID:5RxNQgt.0
( "ゞ)「入れ! 命令を聞け、ナイフを持っているのだぞ、言う事を聞け」
(゚、゚トソン「ごめんなさい、ナイフはやめて下さい」
ナイフを背中に向けられたままわたしはスチールロッカーに入りました。
( "ゞ)「そのまま仰向けになれ」
スチールロッカーの内部はそれほど汚れていませんでした。
ちょうど人が一人入れるぐらいのサイズでわたしが入ると頭と天井が五センチほどしかありません。
するとデルタさんは扉を閉め、シリンダー錠の鍵もかけました。
( "ゞ)「まるで棺桶だ。 そこで反省するんだ」
(゚、゚トソン「そんな」
( "ゞ)「反省をするんだ、自分の過ちについて。 お前はぼくを裏切った、裏切ったんだ」
(゚、゚トソン「それは裏切った訳ではありません、そのような話はしていませんでした」
( "ゞ)「言い訳をするな!」
スチールロッカーが何か金属製の棒のようなもので殴られました。
衝撃と音がスチールロッカーに響き渡ります。
思わずわたしは手で耳を塞ぎました。
151
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:31:15 ID:5RxNQgt.0
( "ゞ)「言い訳をするな! 婚約者がいるんだろう、付き合っている相手がいるんだろう!
ぼくはお前に裏切られたんだ、騙されたんだ! 騙しやがって、糞、よくも騙しやがって!
みんなぼくを騙すんだ、みんなぼくを裏切る、お前はそんな事はないと思っていたのに! 思っていたのに!
よくも、よくも騙しやがって、畜生! 絶対に許さないぞ、許さないぞ!」
激昂するごとにデルタさんはスチールロッカーを金属製の棒のようなもので殴りました。
鼓膜が破れるのではと思うほど凄まじい音が響きわたしは必死で耳を塞ぎました。
暫くすると音がやみましたがまだ頭がぐらぐらしていました。
( "ゞ)「そこで反省するんだ。 自分の罪について考えろ」
デルタさんがそう言うと足音が遠のいていきました。
まさか、と思うと重い扉が閉められる音がして、次に車が遠ざかっていく音がしました。
取り残されました。鍵のかかったスチールロッカーの中です。
誰か、と大きな声を出してみましたが何の反応もありません。
音がないのです。民家からのテレビの音、通行人の話し声、車の往来、そういう音が一切ありませんでした。
152
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:31:42 ID:5RxNQgt.0
一人きり、スチールロッカーの中で眠る事も出来ずわたしはぼんやりしていました。
ドアは足元が少し曲がって開いていましたしそれほど息苦しくはありませんでした。
鍵がかかっている扉は押しても押してもびくともしませんでした。
スチールロッカーは人が一人ようやく入れるぐらいの大きさなので体勢を変える事も叶いません。
それに明日も出勤なのです。もしこのままここで一夜を過ごすような事になれば、出勤はとうてい間に合いません。
そしてわたしはフォックスさんの事を思い出しました。今晩も電話をすると彼は言っていました。
わたしの携帯電話は鞄ごとトヨタ・ラウムの助手席に置いたままです。もうそろそろ電話をかけてくる頃でしょうか。
一向に電話に出ないわたしを不審に思ってわたしの家に電話をかけるでしょうか。
あまりにも帰りが遅いのできっとお母さんとお父さんも心配しているはずです。
急な成り行きとはいえ職場の前からトヨタ・ラウムに乗った時にお母さんに連絡しておくべきだったのです。
人気もなく入り口が施錠されているスチールロッカーの中なかでは誰にも助けを呼べません。
誰も気づいてくれないのです。そう思うと急に絶望感が襲ってきました。
いま、わたしをどうにか出来るのはデルタさんしかいないのです。
153
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◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:32:09 ID:5RxNQgt.0
フォックスさんとの電話は週に一、二回でした。
毎日ではまるで高校生のカップルみたいだよ、と彼は笑っていましたが電話のたびに仕事がどうだったとか他愛もない話をたくさんしました。
今は無料通話アプリがあるので通話料金を気にする事なく電話が出来ました。時間を忘れて話してしまう事もありました。
仕事を辞めないのかという会話は億劫でしたが彼との通話は楽しいものだったのです。
あぁ、話がしたい。フォックスさんに会いたい。
スチールロッカーの中でわたしは思いました。
こんな状況なのに。いえ、こんな状況だからこそ、きっと彼に会いたいと思うのです。
154
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◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:33:25 ID:5RxNQgt.0
どこかで重たい音がして目が覚めました。そしてわたしは眠っていた事に気がつきました。
このような環境でも人は眠れるのです。しかしずいぶんと浅い睡眠で、また身体も悲鳴をあげていました。
スチールロッカーの外からは僅かに光が差し込んでいました。朝になったのです。本当に一夜を過ごしてしまったのです。
重たい音の後に、車の音がします。きっとデルタさんです。
(゚、゚トソン「デルタさん、ここから出して下さい」
( "ゞ)「起きていたのですか」
声の主はやはりデルタさんでした。
(゚、゚トソン「わたしは今日も出勤なのです。 それに、両親も心配しています」
( "ゞ)「そんな事はどうでもいいのです。 反省はしたのかですよ」
(゚、゚トソン「反省ですか」
( "ゞ)「だから、その、ぼくと、そのう、付き合う気に、なりましたか?」
155
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:34:30 ID:5RxNQgt.0
(゚、゚トソン「まだそのような事を仰っていたのですか、わたしには婚約者がいるのです。 申し訳ありません。 デルタさんとはお付き合い出来ません」
( "ゞ)「な…」
デルタさんは絶句しました。
(゚、゚トソン「そしてここから出して下さい。 わたしは帰らなければなりません」
( "ゞ)「反省していない…」
(゚、゚トソン「え?」
( "ゞ)「どうして反省していないんだ、どうして一晩もあって反省していないんだ?
人を騙して、裏切っておいて、反省もしない、なんていう事だ、信じられない、ありえない。
どうしてダメなんだ、どうしてダメなんだ、糞、どうしてだ、どうして上手くいかなかった」
(゚、゚トソン「デルタさん」
( "ゞ)「うるさい! うるさい、うるさい…うるさい、畜生、ふざけやがって。
ふざけやがって! お前なんていらない、こっちから願い下げだ。
これほど機会を与えたのに、裏切った反省をするチャンスまで与えたのに。
いらない、もういらない。 いらないよ」
156
:
◆lWV9WxNHV.
:2017/08/22(火) 15:35:32 ID:5RxNQgt.0
スチールロッカーが動きました。砂の上を少しずつ動いています。
デルタさんが押しているのです。次第にスチールロッカーが傾き始めました。
その先にあるものをわたしは思い出しました。
(゚、゚トソン「デルタさん」
( "ゞ)「お前なんていらない」
スチールロッカーは完全に傾きました。一気に加速しました。
斜面を滑り落ちていきます。衝撃が走ったと思うと足元が水に浸かりました。
そのまま水かさが増していきます。沈んでいるのです。琵琶湖にスチールロッカーが沈み始めていました。
沈むと共に急速に水かさが増していきます。足元の曲がった扉から入り込んできます。
足まで浸かり腰まで浸かり胸まで浸かり首まで浸かりました。鍵のかかった扉は押しても開きません。
スチールロッカーは沈んでいきます。水が顎に触れたかと思うと一気に顔を覆いました。
口から鼻から水が入り込んできます。程なくして呼吸が出来なくなり苦しくなります。
もがいても空気は得られず扉は開きませんでした。苦しい。苦しい。
フォックスさん。
船着き場から琵琶湖汽船ミシガンが出港していきました。
まるであの日見たような夕焼けが琵琶湖の上に浮かんでいました。
自分の手を見ると消えつつあります。星屑のように身体は消えてきます。
(゚、゚トソン「これで…終わりですか」
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