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工藤遥ブサイクすぎワロタwwwwww
31
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名無し募集中。。。
:2023/06/18(日) 16:29:40
今までと同じ生活はできない
直後の定岡のインタビューも再録しておこう。素直で実直な性格がにじみ出る受け答えになっている。
──現在の肩書は。
「プー太郎かな。はっきり言って失業者です(苦笑)」
──これからはどうする?
「まったく考えていません。ずっと野球一筋の生活でしたからね。2カ月くらいは、何もせず、ゆっくりしたいなと思っています」
──退団のときは、先のことを何も考えていなかったということ?
「みんないろいろ書いてくれたけど(モデル業、タレントなど)、計算はまったくなかったんです。あとのことまで考えて結論を出すのが普通かもしれないけど……」
──巨人が自分を必要でないと知ったのは。
「日にちは覚えてないけど、何人かの関係者に会って、巨人では来年の戦力に入ってないと言われました」
──その時点で退団するか、トレードを受けるか、2つに1つしかなくなったわけだけど。
「正直言って、迷いました。簡単に結論は出ないですからね。野球をやめるのはすごく寂しいし、結論を出すまで何日もかかりました」
──最初から長谷川球団代表と話していたらトレードを受けたかもという話もあるが(最初は管理部長から告げられ、それが不信感につながったとも)。
「う〜ん、そうなっていたかもしれませんね」
──退団するということは月給170万円も捨てることになるが。
「やめるとき、そこまでは考えてなかった。それより気持ちですね。小さいころから巨人にあこがれて、その巨人をやめなきゃいけない悲しみのほうが大きかったです」
──12月までは170万の月給は出るのでしょう。
「それが、任意引退だとダメらしいですね。もうないよと言われました」
──建設中の新居は。
「家を売って、まず借金をなくせ、とアドバイスしてくれる人もいますが、せっかく建てたら、一度は住んでみたいし……」
──生活も変えざるを得ないか。
「今までと同じような生活はできないでしょうね。危機感も必要でしょう。バスに乗ったり、電車に乗ったり。ガソリン代という目先のことではなく、自分の置かれた立場というものを、気持ちの中で植え付けていくためにもね」
──大変なことがたくさんあるが、それでも巨人を退団した真意は。
「自分でもよく分からないんですよ。悔しさもあったし、いろいろなものが交錯して。でも、現実にこうなったのだから、これ以上、悔いみたいなものは残したくありません。自分で出した結論ですから」
ファンあってこそ
──巨人軍って何だったの。
「僕にとっては青春そのものだったと思います」
──巨人での最後のシーンは覚えている?
「覚えていますよ。最終戦の阪神戦。出番の予定はなかったんですけど、8回の一死一塁だったかな。あのとき、やめるつもりは全然なかったけど、いま思えば忘れられないんですよね。ショートゴロのゲッツー。僕らしい終わり方でした。ゲッツーを取るピッチングが僕の持ち味だったから」
──ファンの人たちに何か。
「僕がお礼を言いたいのは、ちょっと臭い話になるかもしれないけど、俺一人でここまで来れたわけじゃないし、ファンの人たちの声援に乗せてもらったというか。勝つことは僕もうれしいんだけど、周りの人がもっと喜んでくれてね。俺はいつもポーズをつけているけど、今だから素直に、俺はファンの人に見守られ、支えられてここまでやってこれたことに感謝したい。そんなことを言うのは、自分自身に対してもちっとも恥ずかしいことじゃないし、ファンに育てられた選手だと思うし、ありがとうの一言です。ファンの人にとっては(僕は)短い野球人生かもしれないけど、自分なりにやりました」
──ファンレターは。
「やめた後は前よりたくさんいただいて、すべて読んでます。半々ですね。トレードでもやってほしいというのと、ご苦労様でしたというのと」
──みんなが注目しているし、みっともないマネはできないね。
「いや、今から僕はみっともないこともやらなきゃいけないと思っているんですよ。こういうやめ方をして、これからも泥はかぶるし、頭を下げることも必要だと思う。みっともない真似でも、胸を張って生きていきたいと思います」
なお、定岡の引退でミソがついた形となった近鉄とのトレードだったが、その後、巨人が淡口憲治と山岡勝を近鉄に放出することで、有田とのトレードが成立した。一方、定岡は選手としての最後のけじめをつけるべく、巨人の了解を得て翌86年春のドジャースのベロビーチキャンプに参加。プロに入って初めてのキャンプを過ごした思い出の地で、ユニフォームに別れを告げた──。
『よみがえる1980年代のプロ野球 1985年編』より
写真=BBM
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名無し募集中。。。
:2023/06/18(日) 18:04:04
プロ野球はみだし録
森昌彦、山倉和博ら不動の司令塔に次々と“刺客”を送り続け…巨人トレード史の一面【プロ野球はみだし録】
2022年11月13日(日) 10:00
原点は最強の黄金時代

V9時代の正捕手・森
2021年シーズン途中に楽天へ移籍したが、巨人が西武でFAとなった炭谷銀仁朗を獲得したのが18年オフ。このとき巨人の正捕手は定まっていなかったが、古くから巨人は自らを支える不動の司令塔に、まるで“刺客”を送り込むかのように、捕手を獲得してきた歴史がある。
原点はV9時代だ。当時の司令塔は森昌彦。のち森祇晶として西武の黄金時代を築いた名将の現役時代だが、トレードには“放出”というネガティブな印象が残っていた時期でもあり、森への“刺客”は新人の捕手だった。「森が故障したときのために」と言っていたのは川上哲治監督。森が初めて出場100試合を突破したのはプロ5年目の1959年で、川上監督の就任は61年、川上監督の勇退と森の現役引退は74年だが、61年からV9を決めた73年までで獲得した捕手は20人を数える。その中には、いわゆる“第2捕手”の候補として獲得したとは考えづらい顔ぶれもいた。
時は流れ、80年代の司令塔は“意外性の男”の異名もあった山倉和博。打撃こそ“意外性”だったが、リードには安定感があって、投手陣から圧倒的な信頼を集めた正捕手だ。巨人は比較的、捕手が手薄だったのも確かだが、山倉への“刺客”は他チームの司令塔クラスといえる捕手で、森のときほど次々にというわけではなかったものの、新人に比べれば戦力として計算できる歴戦の捕手たち。獲得にあたってはトレードになるのだが、基本的には交換の選手、それも実績のある選手をチームから用意しなければならない。これらは独特のブランドを誇る巨人ということもあり、何かとドラマを呼んだ。
山倉が正捕手となったのは80年。巨人がV9以来の日本一に返り咲いたのが81年だ。翌82年のペナントレースが開幕して間もなく、巨人は投手の藤城和明との交換で阪急の第2捕手だった笹本信二を獲得しているが、これは序章。笹本は巨人でも第2捕手として山倉のバックアップとして機能した。本格的な(?)“刺客”は85年オフ。獲得を画策したのは近鉄で梨田昌孝と司令塔の座を分け合っていた有田修三だった。このとき巻き起こったドラマについては、次回に詳しく。
文=犬企画マンホール 写真=BBM
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:
名無し募集中。。。
:2023/06/18(日) 18:05:32
プロ野球はみだし録
森昌彦、山倉和博ら不動の司令塔に次々と“刺客”を送り続け…巨人トレード史の一面【プロ野球はみだし録】
2022年11月13日(日) 10:00
原点は最強の黄金時代

V9時代の正捕手・森
2021年シーズン途中に楽天へ移籍したが、巨人が西武でFAとなった炭谷銀仁朗を獲得したのが18年オフ。このとき巨人の正捕手は定まっていなかったが、古くから巨人は自らを支える不動の司令塔に、まるで“刺客”を送り込むかのように、捕手を獲得してきた歴史がある。
原点はV9時代だ。当時の司令塔は森昌彦。のち森祇晶として西武の黄金時代を築いた名将の現役時代だが、トレードには“放出”というネガティブな印象が残っていた時期でもあり、森への“刺客”は新人の捕手だった。「森が故障したときのために」と言っていたのは川上哲治監督。森が初めて出場100試合を突破したのはプロ5年目の1959年で、川上監督の就任は61年、川上監督の勇退と森の現役引退は74年だが、61年からV9を決めた73年までで獲得した捕手は20人を数える。その中には、いわゆる“第2捕手”の候補として獲得したとは考えづらい顔ぶれもいた。
時は流れ、80年代の司令塔は“意外性の男”の異名もあった山倉和博。打撃こそ“意外性”だったが、リードには安定感があって、投手陣から圧倒的な信頼を集めた正捕手だ。巨人は比較的、捕手が手薄だったのも確かだが、山倉への“刺客”は他チームの司令塔クラスといえる捕手で、森のときほど次々にというわけではなかったものの、新人に比べれば戦力として計算できる歴戦の捕手たち。獲得にあたってはトレードになるのだが、基本的には交換の選手、それも実績のある選手をチームから用意しなければならない。これらは独特のブランドを誇る巨人ということもあり、何かとドラマを呼んだ。
山倉が正捕手となったのは80年。巨人がV9以来の日本一に返り咲いたのが81年だ。翌82年のペナントレースが開幕して間もなく、巨人は投手の藤城和明との交換で阪急の第2捕手だった笹本信二を獲得しているが、これは序章。笹本は巨人でも第2捕手として山倉のバックアップとして機能した。本格的な(?)“刺客”は85年オフ。獲得を画策したのは近鉄で梨田昌孝と司令塔の座を分け合っていた有田修三だった。このとき巻き起こったドラマについては、次回に詳しく。
文=犬企画マンホール 写真=BBM
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名無し募集中。。。
:2023/06/18(日) 18:06:46
プロ野球はみだし録
森昌彦、山倉和博ら不動の司令塔に次々と“刺客”を送り続け…巨人トレード史の一面【プロ野球はみだし録】
2022年11月13日(日) 10:00
原点は最強の黄金時代

V9時代の正捕手・森
2021年シーズン途中に楽天へ移籍したが、巨人が西武でFAとなった炭谷銀仁朗を獲得したのが18年オフ。このとき巨人の正捕手は定まっていなかったが、古くから巨人は自らを支える不動の司令塔に、まるで“刺客”を送り込むかのように、捕手を獲得してきた歴史がある。
原点はV9時代だ。当時の司令塔は森昌彦。のち森祇晶として西武の黄金時代を築いた名将の現役時代だが、トレードには“放出”というネガティブな印象が残っていた時期でもあり、森への“刺客”は新人の捕手だった。「森が故障したときのために」と言っていたのは川上哲治監督。森が初めて出場100試合を突破したのはプロ5年目の1959年で、川上監督の就任は61年、川上監督の勇退と森の現役引退は74年だが、61年からV9を決めた73年までで獲得した捕手は20人を数える。その中には、いわゆる“第2捕手”の候補として獲得したとは考えづらい顔ぶれもいた。
時は流れ、80年代の司令塔は“意外性の男”の異名もあった山倉和博。打撃こそ“意外性”だったが、リードには安定感があって、投手陣から圧倒的な信頼を集めた正捕手だ。巨人は比較的、捕手が手薄だったのも確かだが、山倉への“刺客”は他チームの司令塔クラスといえる捕手で、森のときほど次々にというわけではなかったものの、新人に比べれば戦力として計算できる歴戦の捕手たち。獲得にあたってはトレードになるのだが、基本的には交換の選手、それも実績のある選手をチームから用意しなければならない。これらは独特のブランドを誇る巨人ということもあり、何かとドラマを呼んだ。
山倉が正捕手となったのは80年。巨人がV9以来の日本一に返り咲いたのが81年だ。翌82年のペナントレースが開幕して間もなく、巨人は投手の藤城和明との交換で阪急の第2捕手だった笹本信二を獲得しているが、これは序章。笹本は巨人でも第2捕手として山倉のバックアップとして機能した。本格的な(?)“刺客”は85年オフ。獲得を画策したのは近鉄で梨田昌孝と司令塔の座を分け合っていた有田修三だった。このとき巻き起こったドラマについては、次回に詳しく。
文=犬企画マンホール 写真=BBM
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:
名無し募集中。。。
:2023/06/18(日) 18:11:07
プロ野球はみだし録
森昌彦、山倉和博ら不動の司令塔に次々と“刺客”を送り続け…巨人トレード史の一面【プロ野球はみだし録】
2022年11月13日(日) 10:00
原点は最強の黄金時代

V9時代の正捕手・森
2021年シーズン途中に楽天へ移籍したが、巨人が西武でFAとなった炭谷銀仁朗を獲得したのが18年オフ。このとき巨人の正捕手は定まっていなかったが、古くから巨人は自らを支える不動の司令塔に、まるで“刺客”を送り込むかのように、捕手を獲得してきた歴史がある。
原点はV9時代だ。当時の司令塔は森昌彦。のち森祇晶として西武の黄金時代を築いた名将の現役時代だが、トレードには“放出”というネガティブな印象が残っていた時期でもあり、森への“刺客”は新人の捕手だった。「森が故障したときのために」と言っていたのは川上哲治監督。森が初めて出場100試合を突破したのはプロ5年目の1959年で、川上監督の就任は61年、川上監督の勇退と森の現役引退は74年だが、61年からV9を決めた73年までで獲得した捕手は20人を数える。その中には、いわゆる“第2捕手”の候補として獲得したとは考えづらい顔ぶれもいた。
時は流れ、80年代の司令塔は“意外性の男”の異名もあった山倉和博。打撃こそ“意外性”だったが、リードには安定感があって、投手陣から圧倒的な信頼を集めた正捕手だ。巨人は比較的、捕手が手薄だったのも確かだが、山倉への“刺客”は他チームの司令塔クラスといえる捕手で、森のときほど次々にというわけではなかったものの、新人に比べれば戦力として計算できる歴戦の捕手たち。獲得にあたってはトレードになるのだが、基本的には交換の選手、それも実績のある選手をチームから用意しなければならない。これらは独特のブランドを誇る巨人ということもあり、何かとドラマを呼んだ。
山倉が正捕手となったのは80年。巨人がV9以来の日本一に返り咲いたのが81年だ。翌82年のペナントレースが開幕して間もなく、巨人は投手の藤城和明との交換で阪急の第2捕手だった笹本信二を獲得しているが、これは序章。笹本は巨人でも第2捕手として山倉のバックアップとして機能した。本格的な(?)“刺客”は85年オフ。獲得を画策したのは近鉄で梨田昌孝と司令塔の座を分け合っていた有田修三だった。このとき巻き起こったドラマについては、次回に詳しく。
文=犬企画マンホール 写真=BBM
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名無し募集中。。。
:2023/06/18(日) 18:22:25
プロ野球はみだし録
中尾孝義がトレードで巨人へ。山倉和博はラストイヤーに「球宴は胴上げしながら運んでもらった」【プロ野球はみだし録】
2022年11月17日(木) 10:00
トレードの2人がカムバック賞に

1987年にはMVPに輝いた山倉
V9時代にはアマチュアから次々に有力な捕手を獲得した巨人。彼ら“刺客”におびやかされながらも、司令塔の座を譲らなかったのが森昌彦だった。時は流れ、1980年代の司令塔となった山倉和博も、森ほどではないものの、ポジション争いとは無縁ではなかった。ライバルは、トレードで移籍してきた“刺客”たちだ。
山倉が初めて出場100試合を超えたのは80年で、最後が87年。投手陣から圧倒的な信頼を集めながらも、打撃では“意外性の男”の異名もあった山倉だったが、この87年は打撃も好調で、22本塁打など打撃3部門でキャリアハイとなり、MVPにも輝いた。だが、翌88年からは故障に苦しむように。そのオフ、中日から中尾孝義が移籍してくる。82年にセ・リーグの捕手として初めてMVPとなった中尾だが、星野仙一監督の就任で外野に回り、それでも捕手へのこだわりを捨てきれずにいた。トレードを告げられて涙を流した中尾だったが、巨人への移籍で、ふたたび捕手として活躍することになる。
ただ、中尾の移籍は交換トレード。中日で長く司令塔を担い、外野に回っても打撃に期待されている中尾の獲得のためには、実績のある選手を交換で出す必要があった。白羽の矢が立ったのは2人の投手で、西本聖と加茂川重治。中でも西本は、87年いっぱいで現役を引退した江川卓のエースの座を争い、その87年に中日へ来た落合博満と名勝負を繰り広げるなど歴戦の右腕だ。巨人のフロントには「西本は闘志むきだしで巨人に対してくるはず。中日に出していいのか」という声もあったというが、「ライバルチーム同士でも、こういったトレードが球界の活性化につながる」という藤田元司監督の意向で、西本は中日へ移籍した。
コーチとの確執や江川の引退で闘志を失いかけていた西本は、これで完全に復活。巨人戦5勝を含む20勝で初の最多勝に輝いて、89年のカムバック賞を贈られたのは西本と中尾の2人だった。一方、山倉は出場機会が激減。それでもラストイヤーはファン投票1位で球宴に出場、「胴上げしながら運んでもらったようなもの。一生、忘れません」と振り返っている。
文=犬企画マンホール 写真=BBM
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