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おへそ
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名無し募集中。。。
:2023/03/17(金) 11:42:54
中日移籍1年目の89年、20勝を挙げた西本
いざ、「打倒江川」から「打倒巨人」へ。西本はライバル江川不在の心の空白を、自分を出した巨人を見返すという新たな目標へと切り替えた。闘将・星野仙一は、87年の開幕戦で自チームの落合博満に対して、臆することなくシュートで内角を抉り、3本の内野ゴロに抑えた西本の気迫を買っていた。巨人ではワガママと揶揄されたキャンプでの自己流調整も中日では許可される。そして、なにより“一匹狼”と呼ばれた西本自身にも変化があった。選手会長の宇野勝から「ニシやん、明日のゴルフ、参加するんやろ」とゴルフに誘われたら気分よく付き合い、巨人時代はまったくやらなかった麻雀もチームに溶け込むために覚えた。「チームに入っていくためにどうしようか考えてる時期に、向こうから来てくれたんで、助かった」と西本は新しい同僚たちに感謝。自身が変われば、周囲も変わる。試合中のベンチでは若い選手が「ニシさんを見殺しにするな」と声を出していた。32歳で体験する名古屋での単身赴任生活で、野球人生のリスタートを切ることに成功する。
ボロボロになるまでユニフォームを着て
89年シーズンの西本は久々にローテの中心で投げ続けた。7月には5連勝で月間MVPを受賞。7月14日、地元ナゴヤ球場の大洋戦で通算136勝目となる10勝目を挙げると、「いい区切りになった。江川さんが引退してからはひとつの夢だったからね」と怪物投手の通算135勝超えを素直に喜んだ。その頃、野球評論家の江川は念願のニューヨーク旅行を実現させ、メトロポリタン美術館を見て回る充電生活中だ。何を優先させて生きるのか、そこに正解はない。人生いろいろである。
「巨人時代はコンディション作りでいまいち、うまくいかないところがあった。18勝を挙げた時(81年)より、いまの方が充実してますね」なんて笑う中日の西本の快進撃は続き、移籍初年度に対巨人戦5勝をマーク。自身初の20勝を記録し、斎藤雅樹(巨人)と最多勝のタイトルを分け合い、トレード相手の中尾孝義とともにカムバック賞にも選ばれた。巨人ではあくまで大黒柱の江川を追う二番手だった右腕が、いわば15年目で初めて「エース」と認められたシーズンでもあった。『週刊宝石』89年12月21日号で対談した小柳ルミ子とは、「他人になんと言われようと、最後はそういう人が勝つんですよ。やっぱり、一生懸命コツコツとやってる人が。私も西本さんと同じですよ。私は、かなりプロ意識が強いほうですから、いまの芸能界では……、早い話がはみ出し者ですね」なんてニシとルミ子が意気投合。契約更改では年俸4400万円から、ほぼ倍増の推定8500万円でサインした。まさに33歳にして実現させた「逆転野球人生」である。

93年はオリックスのユニフォームを着た
その後、移籍2年目の90年も11勝を挙げるが、91年には椎間板ヘルニアを患い引退の危機に。だが、35歳の西本はロサンゼルスへ飛び、失敗したら車椅子生活というリスクの高い手術を受けての復帰を選択するのだ。中日からオリックスを経て、最後は恩師の長嶋監督が指揮を執る巨人へテスト入団。文字通りボロボロになるまでユニフォームを着続け、94年限りで現役生活に別れを告げた。
20年間にも渡った完全燃焼のプロ生活。それはわずか9年で余力を残して去ったライバル江川卓に対する、男の意地のようにも見えた。なお、西本聖の通算165勝は、ドラフト外入団では史上最多である。
文=中溝康隆
週刊ベースボール オンライン
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