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【在特会福岡】山口県護国神社に異常な抗議をした小郡教会に電話

134名無しさん:2014/09/16(火) 09:20:03 ID:tmGWZZEM
●弘仁新羅の乱
弘仁十一年(820年)2月13日、遠江・駿河両国に移配した新羅人在留民700人が党をなして反乱を起こし、人民を殺害して奥舎を焼いた。
両国では兵士を動員して攻撃したが、制圧する事ができなかった。賊は伊豆国の穀物を盗み、船に乗って海上に出た。 しかし、相模・武蔵等七国の援兵が動員され追討した結果、全員が降服した。帰化人には口分田と当面の生活費が与えられたが、かれらはおそらく博多などに土着して本国と違法な交易を目論んでおり、それを見透かされ東国に移されたことを逆恨みしたものと推定される。 
●延喜の新羅の賊
天健金草神社の社伝には、延喜六年(906年)七月十三日、隠岐国の坤方より猛風が吹き、天健金草神の託宣があった。 「新羅の賊船が北海にあり、我、彼の賊を追退せんがため大風を吹かせた」その後、帆柱等が流れ着き、神威の大きさを知らしめた。と伝えられている。
●康応の外寇
「高麗史」、「高麗史節要」によれば1389年2月、戦艦300艘による対馬侵攻が行われ、朴葳を司令官として、金宗衍、崔七夕、朴子安が従った。日本船300艘と沿岸の建物を焼き尽くし、捕らえられていた者100余人を救出した。帰国後は昌王名義で賞賛されている。なお、捕虜にした倭寇はいなかった。これを理由に、留守中の敵陣をただ焼き討ちして来ただけではないのか、と周囲から批判も受けている。


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