したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |
レス数が1スレッドの最大レス数(1000件)を超えています。残念ながら投稿することができません。

ネガティブなレスをコピペするスレ

487('A`)@板開設10周年:2019/07/26(金) 21:15:27 ID:51HvuRgU0
絶望の地と化した故郷
 保見死刑囚の育った金峰の集落には「オキへ出る」という言葉がある。オキとは集落を離れ、「町」へ出て行くことを指すのだ。付近の集落の者がこう話したことがあった。
「オキへ出て行った者は、郷里を捨てた者。都会でいい思いをして戻ってきたからといって、山の中でずっと耐えてきた者の気持ちなどわからん」
 そんな言葉もまた、素直なものだろう。進学、就職というかたちで、金峰の集落から皆、オキへ出て行った。その中で、故郷に残り、過疎地となり日本全土の発展からは置き去りにされ、不便さに耐えてきたという意識が、留まり続けた者の心にはある。
 それはともすれば、オキに出て“楽”をしている者たちの“犠牲”になったという意識につながりえないだろうか。それが同じ郷里の者でありながらも、一度オキに出て行って戻ってきた者に対する、どこか素直には受け止めきれない、気持ちのねじれ、付き合いのゆがみにつながってはいまいか。
 保見死刑囚が辿った人生の顛末は、経済成長の果てが生んだ地域格差の、極めつけの悲劇であるようにも思えてならない。
 彼が比較的、心を赦したと思しき知人の1人は、声を潜めて「保見死刑囚に差し入れてやってくれ」と言って、ある時、1冊の般若心経を私に託した。その知人もまた、若い頃に集落の外で働き、理由があって帰郷した。いわゆるUターン住民の1人だった。私との会話で彼は、「殺された者の名前を聞いて、ああ、やっぱりな、やっぱりやられたか、と思ったよ、正直」と振り返った。
「俺みたいにあくまでも下手下手に出て、要はゴマすって生き続けるしかねーんだよ、こういうところでは。ここじゃあ、人間関係は上か下かしかねーんだから。『あなたがいなければ』、『あなたがいてこそ』って、声を掛けなきゃ。でも、そこまでやったって、向こうが挨拶を返してくるかどうかはわかんねえ。その時の向こうさん次第だ。でも、とにかく向こうが気づく前に、こっちからゴマすって、挨拶をしなけりゃダメなんだ。保見はそれができないから、嫌われたんだよ。ゲートボール場とかでも言われてたんだよ。いろいろ噂して。だから、殺された者を見てね、ああ、やっぱりな、と思ったわけよ」
 保見死刑囚は“妄想”に駆られて、見境なく無差別殺人を犯したかのようなイメージが流布している。だが実際の被害者は、冷静に“選別”されていたことが分かる。イジメに加担しなかった家は素通りされ、被害に遭っていない。
 私が保見死刑囚の自宅を管理するため、金峰を訪れていた時のことだ。あの般若心経の知人と再会すると、彼は「俺だって、犬2匹、殺られたからな……」。
 そして不穏な言葉も口にした。「俺もよ、いつ手縄がかかることになっちことをしかねないか、わかんねえからな。俺だって、明日は保見死刑囚と同じになっちまうかしれねえからな」
 18年、拘置所にいた保見死刑囚のもとに、彼がかつて住んでいた神奈川県川崎市に住む少年から1通の手紙が届いた。
 差し出し人は何と11歳。まだ小学生だった。授業で戦後の集団就職を学ぶ中で保見死刑囚の存在を知り、手紙を送ったのだった。保見死刑囚は「金の卵」ともてはやされた集団就職世代の1人だった。
《高度経済成長を支えて、今ある豊かさを創った保見さんのようなひとが、なぜ故郷に戻って悲しい想いをしなければならないのかわかりません》
 少年はそう保見死刑囚に問いかけた。保見死刑囚はこう返信した。
「私は、故郷を捨てた者とされてしまったということです。それに気づい時に、早く村を出るべきだった」
 夏休みを利用し、少年は広島の拘置所を訪れ、保見死刑囚と面会も果たした。11歳の少年に向かって、彼は次のような“助言”をしたという。
「(もしイジメに遭ったら)逃げろ。逃げるんだよ。それが勇気なんだよ。逃げることは恥ずかしいことじゃない。逃げる勇気が大事なんだよ。君はいい目をしている。立派に生きるんだよ」
 しかし、保見死刑囚は逃げなかった。そして今、彼は獄中にいる。家計を助けるために集団就職で都市圏に出た世代が、懐かしきふるさとに戻った時、「故郷を捨てた者」と見なされて、謀反者さながらに扱われてしまう。それに気づいた瞬間、保見死刑囚にとってふるさとは絶望の地となったのかもしれない。
次ページは:山梨県で始まる「移住コンシェルジュ」




掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板