[
板情報
|
カテゴリランキング
]
したらばTOP
■掲示板に戻る■
全部
1-100
最新50
| |
削除要請
70
:
ななくしゃ
:2017/12/24(日) 19:42:36 ID:fqwjHBzY0
descriptive equability
9/18/2017
僕の中ではとてもはっきりしてるんだけど、よく行き過ぎとか言われることがあって、それは対極に常にいるということ。例えば、愛してるならどうして僕を殺してくれないの、とか物心ついたころから定期的に発言してるんだけど、あまりわかってもらえない。
僕にとっては愛されることは殺されること、崇めることは遊ぶこと、ご馳走を友達に作った翌日は独りで100円の冷凍食品を食べたり、良いベッドに高い枕を置いてから床で寝たり、本当に好きなものより少しも要らないものを手に取ってみたり。つまり笑顔で怒っている人っていうのと、同じこと。ああ退屈な人は嫌いだ。それから声が小さくて何言ってるかわからない人も嫌だ。わかってほしいなら、わかってもらえる話し方をなぜしないのか。そもそも、わかってもらう必要がないなら、なぜ黙っていられないのか。みたいに、内省している瞬間の次に、他者の観察とその分析を発言しだす癖なんかに、ぎょっとするそうだ。僕自身も暴れるコンパスみたいな感性のせいで、知識で何かを繰り返し作ったりすることができない。一般に、人は知識の積み重ねに付け加えるとか、書き換える形で、連続して知性を発揮しているように見せかける。再構成の繰り返しにアレンジを加えて、すっかり新しい仕事をしたように見せる。僕はからっぽだから、すぐさま解答の与えられない問いで頭を埋めておかないといけない。再構成なんて終わる課題を頭に置いておいたら、苦しみが循環する音を聞かなきゃいけなくなる。英語のことわざに、男の子は甘やかして育てると後で大変だ、というのがあるんだけど、武器の使い方を仕込んで育てるのもどうかと思う。これは冗談。こういう1つの規則や子育て本に基づいて判断する親は、端的に言って無能だ。だが、無能の再生産は奴隷の平和みたいなもので、幸福である限りは善と呼んでも差し支えないのだろうと思う。なぜまずくないかについて説明を求めたいとしたら、知識や事実が人を助けるとは限らないと僕は思う、とだけ宣言しておこう。
新着レスの表示
名前:
E-mail
(省略可)
:
※書き込む際の注意事項は
こちら
※画像アップローダーは
こちら
(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)
スマートフォン版
掲示板管理者へ連絡
無料レンタル掲示板