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イマージュについて
2
:
名無しさん
:2025/05/07(水) 10:35:11
ベルクソンの主要な研究課題である〈物質〉と〈精神〉の関係を、観念論や実在論(おそらく唯物論も含まれるであろう)そして、二元論を超えて考究しようとした書が『物質と記憶』であって、四つの主著の中でも、理論的な意味で、中心を占めていると言えよう。 「私の身体」は、ベルクソン的理論的な考究のための竈であり、レトルトである。
彼の方法は、発生に遡ることとすでに私は書いた。彼のあらゆる哲学的な研究は、対立に先立つ分岐点に立つことをモットーとしている。精神と物質の二元論的な対立を、その分岐以前の始原に遡る。
イマージュもまた、精神と物質という明晰な領土分けに先立つ概念である。ベルクソンも指摘するように、私たち生活人は、哲学者のように常に精神と物質に分別して決着をつけて考えている訳ではない。イマージュの観点は、常識人の観点でもあるのだ。まず、私たちは、行動するための利便のために物質の性質を研究し、その精神作用として考究するのであって、考えることが面白いからではない。少なくても、人間の知性は、実践的な行動のために、長い年月をかけて開発された能力であろう。
ベルクソンは、こんなことも書いている。
「イマージュは知覚されることなく存在することができる。イマージュは、表象されることなく現存することができる」邦訳三五頁
ここでベルクソンは、知覚対象が失われても、心の中に心像としてイマージュが残るとか、コトバで表されなくてもイマージュは残るなどと言っているのでもないと思われる。そうではなく、彼は、イマージュが、はっきりとした知覚の前に漠然とした世界の反映、つまり、辞書的な意味で、鏡像的な性格を持つことを強調しているのではないか。さらにイマージュの語源には〈動き〉の意味があって、揺れていて定かでないものの含意がある。彼の哲学が〈不動のもの〉ではなく〈動くもの〉に基礎を置くことを忘れてはなるまい。物理世界の正確な反映である純粋知覚は、個々の人間の具体的な知覚を超えており〈物質〉と〈精神〉の橋渡し的役割を果たすべき概念なのであろう。
しかし、私は疑っている。イマージュは哲学的な考究のためにベルクソンが仕組んだ布石的な概念であって、「純粋知覚」と同様に、現実的には存在しない幻ではないかと。
例えば、知覚は必ず記憶によって歪められている。過去の記憶や体験と切り離された知覚は存在しない。イマージュもまた、「漠然とした」ものであれ、見えるからには、記憶と無縁ではない。「純粋記憶」や「純粋持続」の「純粋」にも同様の匂いがする。ベルクソンの「純粋」という用語には、すべて〈イデア=理想〉の匂いがする。
ただ、この布石の理論的な意味は大きい。それこそ、ベルクソン哲学の要石だと私は考えている。次回は、なぜ、そうした布石が必要なのかを考えたい。
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