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龍谷大の松尾宣昭先生はなかなかよいね。

2名無しさん:2013/11/28(木) 10:39:21
ttp://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1012394865

  
Q:宮崎哲弥は自分は仏教者だから霊魂の存在も輪廻転生も認めないと言っていますが
これらを否定する仏教ってあるんですか?

  
A:簡単に言えば次のとおりです。
インドにおいては古代においても現代においても輪廻自体は自明の理です。
そしてその輪廻の主体となるものは永遠不変の実体を持つ「我(アートマン)」
と呼ばれる霊的存在です。
しかしそのようなインド社会において釈尊は、我は我執より生じるものであって、
それ自体には実体はないとし、「無我(アナートマン)」を説きました。
ですから霊魂を否定するというより、実体を持たないというほうが正確です。
輪廻の主体が実体を持たないわけですから、輪廻自体も実体のないものということになります。
     
しかし輪廻を説く教典等が存在するのはどういうことかといえば、
この点についてインド哲学・仏教学の権威である故中村元先生は
大略次のように述べておられます。
輪廻を自明の理であると考える民衆教化のためには、一応これを承認した、つまり、
「仏教は人間の心の奥にあるエゴイズム、元々人間にある我執にとれわれないようになれ
ということを教えることが第一の目的であるために、その手段としてこのようなこと
(=輪廻)を言った」ということです。その上で、輪廻を
「リジッドな(厳格な)物理的な法則のように考えることはできませんが、
人間の拠るべき道筋ということでは認められる」と述べておられます。
(中村元『「老いと死」を語る』)
     
しかし輪廻が自明の理であるインド社会においては、
この無我という思想はなかなか受け入れられませんでした。
インドというところは何かと論争好きな人が多く、他の立場から
「仏教は虚無論である」と批判され、仏教者は虚無論者と呼ばれていました。
そのような中でこの批判に対処するために、
「いや、仏教には仏教独特の輪廻がある」という主張がなされたわけですが、
その中の一つが上の方がおっしゃる唯識学派における阿頼耶識が輪廻の主体であるという説です。
これはいってみれば論争しているうちに相手方の論に巻き込まれたようなところがあるのですが、
精緻な論ではあります。
    
ともかくインド流の輪廻はインドにおける特有の思想であって、
であるがゆえに仏教においても輪廻が説かれたわけです。
もしも(そんなことはありえないかもしれませんが)釈尊が輪廻の思想がないところに
お生まれになったのであれば、おそらく仏教は輪廻を説く必要性はなかったのではないかと思います。


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