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●・・・@・・・●サイコパス●・・・@・・・●

144Guest:2017/10/03(火) 15:57:11 ID:???
聖霊降臨後第15主日(A年) 2017年9月17日


マタイによる福音書第18章21〜35節





相手の身になって生きること。自分のことよりも、まず、相手の気持ちを理解しようと志すことが、イエス・キリストが弟子たちに伝えようとした真実の生き方です。イエスは、とくにペトロに対して、徹底的に寛大に生きるように勧めています。


たいていの場合、怒りは、自分の都合によるものです。私たちは、自分が相手から受けた仕打ちに対して怒りを感じるわけです。自分の立場が邪魔されたときに、人間は怒ります。


パウロは、「生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです」と述べています。洗礼を受けたキリスト者は、もはや主イエス・キリストとの深い信頼関係において新たに生かされています。ですから、主との関わりを土台にして、私たちは生きているのです。


キリスト者として生きているときに、私たちは、もはや主に属する者として、ここにいるのですから、私的な御都合主義が入り込む余地はないはずです。自分の都合を中心にして生きるような、あさましさは、すでに終わっており、新たな歩みに入ってしまっているからです。怒りが生じる余地がないわけです。


それでも、私たちは自分の立場を守ろうとして、相手を攻撃し、相手をゆるしません。どうして、そうなるかと言えば、自分にこだわる姿勢は、常に努力して修正してゆかないと直せないからです。


自分が、御父である神の深い愛情を福音朗読箇所の黙想にもとづいて御子イエスをとおして実感している場合、私たちは他者に対しても寛大にふるまうことができるようになります。しかし、自分だけで動いてしまうと、とたんに自分のことしか眼中にはなくなります。ちょうど、イエスのたとえ話に登場する「心のせまい家来」のようなものです。主人の前では借金を返す期日を延ばすように土下座しますが、ゆるされたとたんに、自分よりも弱い立場に追いやられている相手から負債分を取り戻そうとします。相手の身になって考えるだけの度量の広さがない状態で、目先の正義をふりかざそうとするわけです。

http://nskk.org/osaka/church/sakai/index.htm/zhu_rino_fu_yin.html




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