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考察★地震データを見守る/異常震域・深発地震◆合同避難所
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朝日新聞連載 人・脈・記/大地に聞く
:2012/11/14(水) 19:02:33 HOST:SDDfb-02p2-243.ppp11.odn.ad.jp
【ニッポン人・脈・記:大地に聞く6 「変わり者」に世界が注目】朝日新聞夕刊 2012/11/06 東京3版1面
1960年5月、南米チリ沖で世界の観測史上最大の地震が起きた。マグニチュード9.5。
この地震による津波は22時間あまり後に三陸海岸などを襲い、日本でも142人が犠牲になった。
当時、旧建設省の土木研究所にいた首藤伸夫(しゅとうのぶお・77)は現地に入り、
被害を調べた。岩手県釜石市の両石湾岸で、壊れた家を片づけているおばあさんがいた。
「大変でしたね」。声をかけると、意外な言葉が返ってきた。「こんなのたいした
津波じゃないよ」。
1896(明治29)年の明治三陸地震や、1933(昭和8)年の昭和三陸地震の津波に比べれば
まだまだ規模が小さいという。
日本は高度経済成長のただなかだった。すぐに津波対策の事業が始まり、各地に防潮堤が
つくられた。首藤は中央大学に移り、7年後に対策は一段落した。
68年5月の十勝沖地震では防潮堤が役に立ち、被害は最小限に抑えられた。これで、
構造物を設ければ津波は防げるという考え方が一般的になる。津波対策の研究者はテーマを
海岸の浸食などに変え、津波から離れていった。
しかし、首藤はおばあさんの言葉が忘れられない。〈こんなのたいした津波じゃないよ〉。
過去の津波の記録を調べたら、確かにすごい。対策をもっと考えねば。地震学者から
「津波をまだやっている馬鹿がいる」と言われながらも研究を続けた。
****
東北大学に転じて6年後の83年、日本海中部地震が起きる。死者104人のうち100人が津波の
犠牲者だった。「変わり者」扱いされてきた津波研究者が世界から注目されるようになった。
津波を解析するプログラムを開発した。地震の規模などから津波の大きさが予測できる。
どこの国の研究者にも無償で提供した。条件が三つある。営利に使わない、成果を発表
する時は開発チーム名を明記する。三つ目は問題が起きたら相談する。失敗も含めて
自分たちのノウハウのすべてを伝え、問題が解決するまで支えようと考えた。
地震は毎日起きているが、津波はめったにない。津波が起きれば、交通手段が確保され、
救援活動の妨げにならない限り、研究者は被災地に向かう。内外を問わない。
現地では、建物に残った水の跡や木にひっかかった漂流物で津波の高さを推しはかる。
全体像を知るために、津波が低かったところも調べる。研究者が少ないから、手分けして
データを集める。
行方不明者の捜索が続く生々しい被災地で、犠牲者を見つけることだってある。
首藤は振り返る。「生活環境が悪いところにも学生を送り込んだ。人生観が変わった、と
言う学生が何人もいた」
****
首藤のもとで学び、研究室を継いだ東北大教授今村文彦(いまむらふみひこ・51)は、
東日本大震災の被災地に入ったとき、「我々が住んでいる東北だとは思いたくなかった」という。
海外も含めて調査経験は豊富にある。でも、日ごろから相談を受けてきた地元は
格別だった。佐藤さんの家がないとか、あの小学校まで浸水しているとか、一瞬で
具体的なイメージがわいた。
高台の指定避難場所に津波が押し寄せた地域もある。そこに避難していた人たちが
たくさんいたと聞き、浸水予測図を作った責任を感じた。
「がれきと言うのは、本当につらいですね。一つ一つが家庭にあったアルバムであり、
柱であった。がれきと言うのは抵抗があります」
津波の脅威を後世にしっかり伝えるために、爪痕が残る建物や船舶、車両をできるだけ
保存したいと思う。それらが身近な人を亡くした被災者のつらい記憶を呼び覚ます
ことも理解できる。「ただ、保存活動は今やらないと、痕跡はますますなくなってしまう」。
時間との闘いが始まっている。
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